カテゴリ:邦画( 164 )

女子供向けではないホラーとしてお薦めします。
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悲哀よりも何よりも、ただひたすら辛気くさいんだ。
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凝縮されていないがゆえに、せっかくの熱が逃げまくっている。
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ばかばかしさの果てまでも。
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ロメロゾンビの終焉、ということについて前回触れましたけれど、正確には終焉というよりも、「完全なベタ化」というほうがいいのかもしれません。つまり、出てきて怖い存在ではもはやあり得ず、それをいかに遊ぶかのほうに時代は動いているわけですね。『ショーン・オブ・ザ・デッド』によってそれを感じましたし、『ゾンビランド』もそう。あとは『デッドライジング』なんかはぼこぼこにされる存在になり果てている感もある。各種ゲームでは銃器でばんばん撃ち殺すだけの存在という色合いが強くなってきて、おいしいところはモンスター的なボスキャラに持って行かれたりしている。こうなってくると、「完全なベタ」であるロメロゾンビはそれをいかに調理するかという素材になっていまして、本作ではもうとうとうウンコまみれになってしまいました。
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 副題が「TOILET OF THE DEAD」の本作では下ネタが前回です。ウンコだのオナラだのが大好きな小学生あたりがよろこびそうな話ですね。ただ、いざ児童に見せればトラウマ映画化する可能性が高いので、親御様は配慮が必要であります。
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 筋立てとしてはゾンビものの定番です。山奥に出かけた若者たちがゾンビに襲われるというのが骨格。でも、そのゾンビはくみ取り式の便所の中から出てきたりするため、糞まみれになっているのです。彼らは寄生虫にとりつかれているのですが、寄生虫はなぜか尻から姿を現すのであり、ゾンビたちは尻を向けて襲ってきたりするのです。AVはスカトロ畑の出身たる、井口昇監督ならではのゾンビものであります。
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こう書いていくとなんと下品なのかしらと眉をひそめられそうですが、一方ではアイドル映画という側面もあって、主演の中村有沙の好演が光ります。『片腕マシンガール』の八代みなせもそうでしたが、井口監督は実はアイドル映画の優れた作り手であるなあと思いますね。とても可愛く撮れています。AVというのはある意味アイドル映画みたいなものですから、彼の本業と言えるのかもしれません。で、本作では本当にこの中村有沙さんが頑張ったなあと思いますね。正直、十八かそこらの可愛い女の子であれば拒否したくなるであろう場面もあるんですが、ぜんぜん逃げていないのです。とても偉い。何の必然もなく胸を晒しているんです。ぼくはその心意気に胸を打たれます。
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 これはAV女優を愛でるのと通じているんです。やっぱり、世間的には日陰の存在になるんですよ。で、広告だの何だのできらきらしている女優やらモデルやらのほうが憧れの眼で見られるわけじゃないですか。でも、違うよねと。彼女たちのほうがもっと晒すもん晒してぶつかってるよねと。
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 本作の中村有沙もそうです。世間的にはね、決して本作は大衆の支持を得るようなもんじゃないというか、言ってみりゃきわもんの部類ですよ。そりゃあオシャレなドラマだの純愛映画だのに出ているほうがずっと綺麗でウケもいいでしょうよ。でも、それが何だと。こういう映画で裸体を晒し、必然もなく片方の乳首を晒しながら戦い、あまつさえオナラでぶっ飛ぶような被写体となっている。その姿に打たれますよ。現在二十歳かそこらの彼女が今後どういう芸能活動をしていくか知らないし、その先で本作があるいは黒歴史的な扱いを受けることがあるかもしれない。冗談じゃないよ。これは一級のアイドル映画ですぜ旦那。
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 アイドル×ゾンビ映画の本作ですが、クライマックスではゾンビはやはり役目を終えてしまい、エイリアン映画になります。これはゾンビの発想としては別段目新しくはないですね。ゾンビをゾンビたらしめているのは寄生虫で、その寄生虫には親玉がいてそいつがボスとして立ちはだかるというわけです。で、寄生虫は戦隊ヒーローものに出てくる敵みたいになります。フェアに言えば正直な話、CGがすごいというわけでもなく、ああ、今の日本のこの規模の映画だとこれくらいのクオリティだよな、ううむ、というもんだったりはするのですが、有沙ちゃんがすごく頑張っているのでそれはもういいです。それにハリウッド的なやりかたでやっても太刀打ちは難しいのだから、そこはわりきって「変な表現で攻めてやる」という心意気を感じます。
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最後に敵として立ちはだかるのは優希という人で、この子と有沙ちゃんのキャットファイトもまた見物です。アイドル映画の醍醐味のひとつに、このキャットファイトというのがありますね。ここがきっちりつくられていると観ていて面白い。『バトルロワイアル』の灯台もいわばそういうことです。イメージだのなんだのがあるし実現が難しいものではあるんですけど、そろそろネタ切れ感が出てきているAKBなどは、キャットファイトイベントを仕掛けてみると面白いかもしれません。
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他の役者の人、特に女優の人たちはなんというか、ひとつたがを外したなと思いますね。そこがとてもいいと思う。映画の中ではそれこそオナラをしまくるんです、ぶーぶー。あとは和式便器にまたがってお尻を晒したりね。そんなのって、女性としてはやっぱり嫌な部分じゃないですか。ある意味、性的な場面を演ずるよりも嫌なところがあると思うんです。でもそこを受け入れて演じきっていますからね。中村有沙ちゃんにいたっては、最後オナラのロケット噴射で空を飛ぶんです。昔の少年ギャグマンガみたいなことになります。こういうね、馬鹿すぎて誰も実写ではやろうとしなかったようなことを真っ向からやっているところ、そしてそれに挑む女優の様というのはとても感動的なものがあります。『片腕マシンガール』が「なんでもありの果てまでも」ならばこちらは「ばかばかしさの果てまでも」。こういうものは応援しなくてはいけません。
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 ウンコだのオナラだのそんなの嫌だな、若い女性がそんなのをしている姿は観たくもないなと思われるかもしれませんが、誰もが避けてきた部分に挑む様は感動的なのです。園子温監督が持つ魔法とはまた違う、井口昇マジックを、またも見せて頂きました。
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ショットガンの出てくる映画は、ショットガンに頼る癖がある。
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気づけば二ヶ月以上放置しておりました。近頃は映画をほとんど観ない日々を送っているのでございます。映画とのふれあいを強いて挙げれば、『バトルロワイアル』を繰り返し観て、なんて完璧な映画なんだろうとつくづく思い直す、というくらいのものなのでございます。パクリ疑惑が醸された『ハンガーゲーム』などを観て、これはとんだ駄作だと飛び上がったりしたくらいなのでございます。あとは近頃ゾンビものを観ようと思っているので、誰か教えてください。

 ところで、『バトルロワイアル』がえらいのはその作品中に、サービス精神が溢れかえっている点でございます。あの辟易するほどの長さを誇る原作から、映画にとって何が必要で何が不要かを適切に選別し、抽出している。構成もかなり几帳面にできていて、様々な地獄巡りを楽しめる。栗山千明のシーンと、女子たちの灯台のシーンはくりぬきで観られます。限られた上映時間内で、あのようなシーンをあの辺でぶちこむというのも、構成の妙が光っております。ぜひとも再見をお薦めする次第なのでございます。
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 さて、ほしたら近頃のんはどうかいのう、ということで、似たようなテイストも香っている『悪の教典』でございます。原作を楽しんだので、なるほどここはこう切るか、こう編集するかとあれこれ考えながら観てみたのでございます。『海猿』のヒーロー伊藤英明にサイコパスを演じさせるあたり、三池監督はやはり悪趣味で良いなあと思ったのであります。

 伊藤英明扮する高校教師・蓮見が、担当するクラスの生徒の大虐殺に踏み切る話です。映画的に言うと、どう転んでもそこが見せ場になるわけですね。そこさえオッケーならこの映画はもうオッケーなのです。上下巻ある長い原作では蓮見の過去や人間性であるとか、それぞれの生徒の背景や内面などがたくさん描かれますが、それをすべて入れ込むのは無理。だとするならこの映画ではクライマックスの虐殺がいかに描かれるかが勝負になってきます。

 その話は後でするとして、前半から中盤に至る日常描写はどうかといえば、高校生の描き方などはちょうどいい案配であったなあと思います。
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 二階堂ふみがますます宮崎あおいに見える本作ですが、彼女のちょっとべたっとした声色などはとてもいい感じであります。この作品の醸すちょいと暗い雰囲気によく合っている。友人のちょっと声が低い女子もいいですね。あの子のあの感じはなんだか、すっげえちょうどいい。『ヒミズ』コンビの染谷将太の小生意気な感じも存分に発揮されており、原作と違ってほとんど出番のない養護教諭役、小島聖のうさんくさい感じなども、この作品のテイストに合っている。
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 学校描写、生徒描写の場合、リアルかどうかなんてことよりも、その映画のトーンにどれだけ合致しているかが大事だなと思いますね。ちゃんとその枠の中に収まった振る舞いができているか。そこを考えずに今時の高校生像みたいなもんに寄り添おうとすると駄目なんでしょうけれど、この作品の場合はトーンと人物の温度がちゃんと合っているし、その点には何の文句もないわけであります。生徒たちがどこかAKBくさいところなども、ある意味とても正しい。蓮見と肉体関係になる女子生徒などは、昔のアイドルみたいな顔でこれはこれでよろしい。

 作品が進んでいく中で、いくつかの事件が勃発します。蓮見の正体に触れるような人が死んだり、厄介者が排除されたりするわけですね。この辺はねえ、うん、ちょっと難しいところがありますね。気に掛かるのは、殺される人たちに、「端からの負け役くささ」が漲っているところです。文句を言いに来る父親とかね。こいつら殺されるんだろうなあ、ああ、やっぱりやられたなあというのがね、盛り上がりのための段取りくさい。映画的にはクライマックスがあって、そこに向かうまでの盛り上がりが必須になるわけですが、その過程でちょっと段取り化している。いざ殺すところもささっと終わらせてしまったり、見せなかったり。こいつ生き延びるのかな、どうなのかな、うわ、やられちゃった、というドライブがないので、一方向的になるんですね。
 
これがこの映画の最大の弱点である気がします。
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第三幕としての時間はたっぷり取ってあります。四十分くらいありますから。
でも、その間伊藤英明が徹頭徹尾余裕の攻めなんですね。ここがもったいないところなんです。一方向的になる。クライマックスも半ば段取り的になっている。
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山田孝之扮する教師は原作の二人の人物を足して二で割ったような感じなんですが、原作ではそれなりに格闘するんです。これってとても大事なことです。別に原作との異同なんてどうだっていい。純粋に映画としての話です。やはり、伊藤英明はどこかで一度は追い込まれるべきなんです。そうすることで、映画に波が生まれるんです。その波が興奮を生み出す。ところがこの映画では彼が着々と殺していくことになる。 なんであれだけの尺をとって、山田孝之をあっさり殺したのか。ここにこの映画の弱点すべてが集約されている気がします。
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複数視点化するこのシークエンスをテンポ良く移動しているし、あの校外に出た女子生徒のように、「最期の台詞を言い終えられないまま死ぬ」なんてところも小気味よい。でも、でも、いやあ、難しいのですねつくづく。この種のクライマックスはひとつ選択をミスっただけで高く上がっていたボルテージが下がる。あの東大を目指している少年がそうですよ。あの場面であんな台詞のやりとりを入れると、熱が逃げてしまう。それに、これがどうにもわからないんですけれど、(あ、ネタバレをしますよ。というかもうしまくっているけれど)
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 どうしてあの「生存者二名いました」の前の段階で、二階堂ふみたちが生き残っているとわかるようにしてしまったのか。あれ、原作だとちょっと曖昧なまま勢いで読ませてしまうみたいなところがあるんですが、映画ならばあの警察のシーンで初めて明かせばよかった。そうしないと観客の思考が伊藤英明の思考を追い抜いてしまうんです。あれは後でネタをばらすようにしてよかったはずなのに。
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 この映画に限ったことではないですが、「ショットガンの出てくる映画はショットガンの銃声に頼る」という癖をどうしても持っていて、それと格闘する必要があるのですね。 ショットガンは確かに映画を盛り上げる最高の道具の一つだし、であるがゆえにそれなりにクライマックスは楽しめる。けれど、けれど、けれど。
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 この映画のもうひとつの弱点は、野蛮さに欠けるところです。
 野蛮じゃない。だから、シーンが焼き付かない。あれだけの凶行を並べながらそれは致命的です。どうも理に落ちてしまう。そうかと思えば二階堂ふみの目にCGを入れたり余計なことをする。そうじゃない。この手の映画に大事なのは、焼き付くような一瞬です。
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 それが漲っているのがたとえば『バトルロワイアル』の全シーンであり、たとえば『プライベート・ライアン』の序盤であり、たとえば幾多のゾンビ映画であり、たとえば『リング』のテレビから出てくる貞子であり、たとえば『悪魔のいけにえ』における朝焼けのレザーフェイスなのです。何かひとつあればもうこの映画は何だってよかったのに!

 総じて言うに、細部はおおむねよく配慮されているのですが、一番盛り上がるべきところで大事なものが決定的に欠けていた、という印象です。既に古い話ですが、AKBの人がこの映画を嫌いですと仰っていたそうです。しかし、大丈夫です。嫌わせてくれるほどのものではございません。人のこと嫌いになるってのは、それなりの覚悟しろってことだからな。
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ぴんとこなければそれはそれで幸福。
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最新作を除いて、ここしばらくの園作品はずっと観ていたのですが、一本だけ観ないでいた作品です。特に理由はないのですが。

 いざ観てみるとゼロ年代の、『自殺サークル』『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』などの系譜にある作品だなあとつくづく思いました。いわゆるひとつの園ワールドが真っ当に体現されているなあと思うのでした。

 神楽坂恵演ずる貞淑な妻が娼婦へと変化していく話、というのが主軸です。富樫真演ずる娼婦(昼は大学教授)が、彼女を陰の世界へと引きずりこみます。一方、女性が被害者である猟奇殺人事件が起こっており、それを捜査する刑事として水野美紀がいます。この三者の動きで話が紡がれていくわけです。
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 リアリティは度外視、熱量で押す。というのが園子温のひとつの形です。園子温と増村保造の類似についてここで何度か述べていますが、どちらにも他の日本映画とは異質な、演劇的な空間があります。だからまず言っておくべきは、本作をしてリアリティうんぬんというのは、とても間違った見方であるということです。ぼくは園監督の作品を観ると、「マジック」という言葉が似合う監督であるなあとよく思うのですが、ひとつのマジカルな世界をつくりあげて、そこにどろどろとしたものをぶちこむのが彼の得意技だとぼくは捉えています。
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 その点について、ひとつの明確なサインをぼくは感知しましたね、ええ。
 というのはね、主人公の神楽坂恵。彼女は園監督の妻でもあるわけですが、他の多くの役者に比べて、演技が拙いところがある。序盤、ああ、やっぱりそうだ、なんで監督は妻であるこの女優にだけ、マジックを掛けられないんだろう、と思えてならなかった。
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 ところがある箇所で、ぼくはちょっと見方を変えることになります。
 彼女は潔癖的に厳格な夫と生活しているのですが、あるときパートを始めて外の世界に触れます。そしてAVにも触れます。そういう一連の中で、彼女は家の姿見の前で全裸になるのです。
 ここが面白い。彼女はパートであるスーパーの売り子のフレーズを、全裸のままで連呼し続けるのです。で、それがちょっと長いんです。これをぽんと放り込んでくる。このシーンがひとつの大きな契機です。この映画はこの変なトーンで行くからね、よろしくね、という宣言です。この場面で乗れないと、この映画に乗れないと思います。そういう意味では親切設計でもあります。

これね、うん、よくね、自分を解放する、みたいな言い方ってあるじゃあないですか。自分を解放してやりたいことをやろう、みたいなポジティブな言葉って、あるじゃあないですか。でもね、それとはちょっと違うんです。うーん、ここは書き方が難しいですね。
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 劇中、「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズが繰り返されます。田村隆一という詩人の『帰途』という詩の一節がくどいほどに繰り返される。これほど繰り返されるならば、ここにこの映画の主題のひとつがあるのは明白です。
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 などと言いつつ、ぼくは詩の読解にかけては大変不得手でありますゆえ、正しい読み解きには自信がないわけですが、ぼくなりに考えたのは、「言葉」というものがもたらす認識の拘束性です。富樫真も、彼女に感染した神楽坂恵も、この詩を何度となく繰り返す。それがヒントです。

 言葉とは何か。それは事物を認識するための道具です。同時に、人間はその事物に意味付けを行い、あるいは印象付けを行います。そしてもうひとつ、言葉の役割は、誰かとコミュニケーションをする際の道具であります。言葉をいっぱい覚えることによってぼくたちは様々なものを認識できるし、様々な形でコミュニケーションを行えるのです。

 しかし他方、言葉は認識を拘束してしまうものでもあります。ぼくたちは言葉に認識を拘束されることによって、その外側を見なくなる。言葉が通じることを当然と思って、言葉が通じないものに触れるのをやめてしまう。あえて乱暴なものいいをするなら、言葉というのは、ぼくたちを社会の内側に閉じ込めるものでもある。ぼくたちの認識は言葉によって広がりますが、一方言葉によって拘束されているわけです。 
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 言葉なんか覚えるんじゃなかった、と繰り返すこと。すなわち、言葉の呪縛から解かれようとすること。これを富樫真にせよ神楽坂恵にせよ希求しているわけです。ではなぜ言葉の呪縛から逃れようとするのか。言葉が自分と自分の認識を、社会の内側に閉じ込めるものであるからです。ではなぜ社会の内側に閉じ込められることを嫌がるのか。
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 劇中ではわかりやすい設定がなされていますね。神楽坂の場合は厳格な夫、富樫の場合はほとんどきちがいみたいな母親。これがひとつの重しになります。観客に対してわかりやすい設定と言えます。今までの自分を縛り付けていたものの象徴から逃れることと、社会から逃れることが通じます(すみません、もっと詳しく書けばいいのですが、すっげえ面倒くさいんです)。

 誤解されないようにしたいのですが、「社会の内側へ閉じ込められることを嫌う」というのは、たとえば尾崎豊的な「社会への反抗」ではない。社会への反抗は、既存の社会への反発に過ぎない。この映画が言っているのは「脱社会」のほうです。劇中とラスト、「ゴミを捨てに行った主婦が遠くへ行ってしまう」という話が出てくるのはそのことです。

 ではなぜ人は「脱社会化」を求めるのか、という話になりますが、それはちょっと、今のぼくには荷が重すぎるので、各々で考えてもらうほうがいいでしょう。生活が嫌になったとか、退屈だとか、そういう簡単な解釈で済むならたやすいのですが、それだけではない。「意味に還元されない世界への触知」とか「情動」とかの方面の話になってきます。それはあまりにも面倒くさいので、ここでこれ以上広げるのやめます。っていうか、ぼくにもそんなに手持ちがないし。
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 社会学者の宮台真司が「自分にとって映画は娯楽ではなく、アート。ではアートとは何か。それに触れる前と触れた後では、身の回りの世界を同じようには捉えられなくなるものだ」というようなことを言っていて、その感覚はよくわかる。彼が園子温を激賞するのもよくわかります。なんだか、感覚をぶらされるところがあるのです。だからこれを、娯楽映画を観る構えで観ようとすると(たくさんの映画を観ている人は時として見方が凝り固まっているものです)、ちょっと見方を間違えるんじゃないかと思います。

 とはいえ、ぼくとしても大いに賛美できない部分もあるにはあります。富樫真と神楽坂恵が大学のキャンパスでごちょごちょ話すところとか、水野美紀が廃屋で雨に打たれる妄想をするようなところは、やや映画の手つきに酔っているな、と思えてしまいます。

 あとはちょっと、中途半端にカットを切りすぎているようにも思いました。カットを切るのか切らないのか、その辺のこだわりがもうひとつぼくには見えなかった。たとえば神楽坂恵が富樫真と邂逅し、彼女を追って歩き回るシーンなどは、カットを切らずに長回しで追ったほうが、別の世界に足を踏み入れていく様を、実在感をもって描けたのでないか。それと、あのクライマックス。富樫が狂ったようにセックスするシーン。そしてピンクのボールをひょろっちい男が投げるあの場面。あれはもっと高速でカットを切ってもいいんじゃないかと思いました。観客の認識をぶらすには少し遅いように思えた。それこそペキンパー的な高速カットで追ったほうが、もっと訳がわからなくなったのに。

手つきに酔ったり、なまじうまくなったりすると、狂気とは離れてしまう。この映画にはもっともっともっと野蛮さがあればよかったのに、というのは残念なところです。かつての『うつしみ』みたいな野蛮さです。この映画に大事なのは野蛮さ。それがもうひとつ足りなかったという印象はあります。だから後半はちょっと、だれてもいた。
 
しかし総じて、最近の園子温作品の中では少なくなっていた、「狂い」を前に押し出そうとした作品として、面白く観ました。園子温はあまり観ていないけどビデオ屋で借りてみるか、という場合は、これと『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』、あるいは『ハザード』あたりと一緒に借りて、立て続けに観てみるとよいのではないでしょうか。
 
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この映画はこういう風に観る。あるいは、ぼくたちと社会との関係について。
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昨年、ネット上で概して評判がよくなかった印象のある作品。ナイトウミノワさんがぼろくそに書いていたのが印象に残っていて、じゃあ観なくていいかなあと思っていたら、宮台真司が監督とのトークショーで肯定的な評価をしていたのを知って、うむ、こういう評価の分かれる作品は大好物だぞ、というわけで、『RIVER』。

 2008年の秋葉原通り魔事件をもとに着想したという映画です。主人公はその事件で恋人を亡くしたという設定の女性で、彼女が秋葉原の街をとぼとぼと歩く長回しの場面から幕を開けます。
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 といっても、事件のことについてはほとんど触れられないんですね。だから海外の人とかには何のことかわからないと思います。劇中では「あの事件」的なことでしか言及されず、事件の様子なども何も描かれず、観ている側の了解に委ねられている。

 悪く言えば、「あの事件のことを何も描いていないじゃないか」とこうなる。ただ、ぼくがそこで気になった点として、「あまりにもあの事件のことを描かなすぎている」というのがあります。この映画では本当にあの事件のことが何一つ描かれていない。ここまでやっていると、これは意図的な選択じゃないかと思うんですね。
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「実際の事件に誠実に向き合っていないんじゃないか」的な意見もわかるんですが、ぼくはそこで立ち止まる。じゃあ、事件に誠実に向き合う、あるいはそれを映画化する、それは一体どのような作法で果たされるべきなのか。ぼくにはよくわからなくなります。

 実際の事件をもとにした映画というのはたくさんありますね。たとえばわりと記憶に新しいところだと園子温監督の『冷たい熱帯魚』。あれは実際の愛犬家連続殺人事件をもとにしているわけですけど、あれはどうなのか? 細かい取材はしたかもしれないし、よくできている映画かもしれない。でも、そういう問題なのか? ぼくを含めあの映画を観た多くの人間は、「でんでんサイコー」的な感想を抱いた。でもちょっと待てよと。あれは本当の連続殺人犯がモデルだぞと。それをもとにした映画キャラクターに「最高!」って何だよと。それこそ実際の被害にあった人、遺族の人は、世間が「でんでんのあの殺人鬼はすごい迫力だね!」なんて言う言葉に、いい気持ちが絶対しないだろうと。それってどうなの? という問題がどうしても気になってくる。

 そう、土台事件と関わり合いのない人間が、誠実に向き合うとか綺麗事を言っても、たかが知れている話です。取材を綿密に行った、だから何だという話です。被害者に寄り添う? どのみち綺麗事。実際の事件をエンターテインメントに! マジで言ってるのか?
だったら、あえてその事件には深く触れない作法があり得てもいい。それはそれで事件に関する向き合い方の一つだろうと思ったのです。

 だって、所詮そうじゃないですか? ぼくたちは世間の痛ましい事件を見知るたびに心痛めたり何なりを繰り返す。でも、そのニュースが終わったらいつしか忘れて、自分の楽しみにうつつを抜かしている。街の風景は見事にその様を映し出している。ぼくたちは所詮、そういう存在です。であるならば、「ほんのいっとき誠実に向き合う」ことはそれもまた欺瞞かもしれない。であるならば、触れられぬものには触れない、しかしその周縁にたたずんで見えるものはきちんと見よう、というあり方もあっていいはずです。

 この主人公は恋人が好きだった街、恋人が死んだ街である秋葉原を彷徨する。何をどうしたらいいのかわからないままにさまよう。その中でいろいろなものに触れていく。ただ、どれを取っても自分の求めているものではないと知らされ続ける。世間は「おまえの傷なんて知らないよ」とばかりに動いている。だからこそ冒頭の長回しの最中、「街を作品にしているの」的な女性は彼女の傷に触れた瞬間、大いに戸惑い、寄り添うのをやめてしまう。
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登場する人物や場所にもそれなりの意味があるように思いました。メイド喫茶の様子を見てぼくは、「ああ、ここは幼稚園プレイを楽しむ場所なのだな」と思い至ったのですが、あれは現実の街を流離する彼女が触れる場所として、面白いと思いました。それと、なんか優しげな甘い歌を歌ってやがるな、というストリートミュージシャンの女性。その女性と主人公が川辺で話をする場面があるんですが、ここは笑ってしまった。なんてお花畑なことをだらだら喋っているんだろうって。そう、この映画では、自分がどう進むべきかわからずにいる主人公が、いつまでも現実に触れられずにいる様を、街の様子を通して描いているのです。彼女は現実に触れながら、「これは現実じゃないだろう、これも現実ではないだろう」という気がしてしまう。あるいは、現実自体がかなりしょぼくれたものであることを知らされてしまう(田口トモロヲの役はその象徴でもある)。
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そうやっている中に一人の青年に彼女は出会う。そして彼の故郷が震災の被災地であることを知らされる。これをきっかけに、彼女は彷徨から醒めることになります。
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秋葉原の事件をもとにして、被災地に話が行くなんて、何の関係があるのか。
 答えはひとつ。何の関係もありません。あるいはこう言える。何の関係もあるはずがない。ただ、何も関係がないがゆえに、この映画は成立し得る。

 秋葉原事件と震災に何の関係があるんだ、という問いは、映画を観る者に対して「あなたと映画の主人公に何の関係があるの? 何の関係もないのに何であなたは涙を流したりするの?」と問うのに似ています。そう、言われればその通り。まるで関係ない。にもかかわらず、ぼくたちは映画の中の人物に自分を重ね合わせたりする。

結局のところ、ぼくたちの人生など、自分とは本来無関係であるはずの数々のものに紡がれていくものです。目を閉ざし耳を閉ざし心を閉ざし生きていれば触れずにいられるもの、そのいくつかに、ぼくたちはいい意味でも悪い意味でも、人生を狂わされる。

この映画において、主人公は震災や被災者家族の青年と触れることによってのみ、自分の輪郭を規定できたんです。もう一度言いますが、そこには何の物語的必然もない。ですが、人生において物語的必然などあるわけがない。震災を利用している? はい、この映画は確かに震災を利用している。ですが、果たしてそれは責められるべきことなのか? だったら尋ねますが、貴方は自分の生において、自分と無関係なものを「利用」したことが、ただの一度もないのでしょうか? まさかとは思いますが、残忍な事件をもとにした映画を、娯楽として愉しんだことはないのでしょうね?

 意地悪なトーンになってしまいました。言いたいのはこういうことです。ぼくたちは自分と無関係なものの脅威にさらされ、自分と無関係なものに興味を惹かれ、自分と無関係なものによって日々を送っている。であるならば、その対象が何であっても、そこに前向きな道を見いだすことは、責められるべきではないのです。殺人事件の被害者が震災によって道を見いだすなんてあり得ない? なぜそう言える? 不条理な出来事によって傷をつくった人間が、不条理な出来事によって道を見いだすことは、何もおかしな話ではない。
この映画のモチーフの二つが無関係であることを、ぼくたちに責める資格はない。

 映画は手ぶれが多くて、被災地の場面ではとりわけそれがひどくなって酔いそうにすらなるんですけど、あれはあれで効果を生み出すためのものだろうという気もします。ただ淡々と、カメラをうまく動かしていたら、青年を客体として映すことになりすぎる。ひどく静かな光景の一方で、あの手ぶれが感情のぶれを演出するための方法だとしたなら、安易ではありますが演出的な意図はわかります。
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 序盤に比して後半、終盤は要らない台詞も多かったので、その辺はいまひとつ練れていなかったのかなあとも思いますね。ラストで主人公の女性が台詞を吐くのですが、あれは要らなかったと思います。路地の鏡に映って、「これが現実なの!」というのもくさすぎるんですが、まあ主題を伝えるためなんでしょう。それがわからない観客のための配慮なのでしょう。そこだけ浮き上がっているので、やりすぎかなとは思うのですが。

 事件や震災、というものをどう見るか、向き合うかによっても見方の分かれる作品なんじゃないかと思います。ただ、当事者でもないのならば、「真っ当に向き合う」みたいな考えがどこまでも戯れ言であるというのは、心得ておきたいものであります。
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壮大ではあるけれど、設定や演出が追いついていないのです。
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『戦国自衛隊』が面白かったので、同じ大作角川映画ということで観てみました。キャストも千葉真一、夏八木勲、渡瀬恒彦など、あの映画の主役たちがこぞって出演しています。本作の主役は草刈正雄です。 
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 小松左京原作で、『日本沈没』などがそうであったように、これまた極端で壮大なスケールのお話です。世界的にウイルスが流行し、ほとんどの人類が死滅してしまうのです。残されたのは極寒地域、南極の人たちだけで、彼ら南極部隊の運命やいかに、ということなのです。
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 世界が破滅する話というのは、たとえば巨大隕石が衝突したり、大規模地殻変動が起こったりなどという設定で語られたりしますが、ウイルスが最もリアリティのある題材じゃないかと思います。本作では生物兵器が漏洩したことで感染が始まるんですが、これなどもその種のテロが危惧される昨今において、現実味のある話と言えるのではないでしょうか。テロやウイルス、感染とは違うけれど、放射能の問題とも通じている部分があります。
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 世界の破滅、というテーマは冷戦時代、核競争の時代においてやはりある程度にリアルなものであったのでしょう。本作でも米ソのミサイルが大きな脅威として位置づけられており、それがウイルスと相まって世界を終局へ追い込んでいってしまうのです。

本作はそうした点で、王道を行っている作品と言えます。病原体と戦争は、大量死を招く二大要因として歴史上不動の位置を占めているわけですから、誰が観てもわかりやすい内容なのです。

 映画としては当時高く評価されたのでしょうかね。今観ると、うーむ、これはいろいろと詰めなくちゃいけないところがあったんじゃなかろうか、ああ、さすがに資金の及ばぬところがあったのだな、というのが散見されて、入り込めぬところも多かったです。
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大変な感染状況だというのに、医者がマスクをしていないのはなぜなのでしょう、というのもあります。大統領も戒厳令下の自衛隊もしていない。その辺が緩いんです。必死で防備しまくっている。けれど防げない、という感じがしないのです。
 街の人たちや行政側があまりにもあまりにも無策なのもいただけません。なんでもいいと思うんです。たとえば、どれくらい効果があるのかもわからないままに消毒薬が街中に散布されている、とかね。街中が消毒薬で不気味な色になっている、みたいなね。そういう様子を描き出せば、より混乱が説得力を持てたはずなのです。南極ロケに多額がかかったそうですが、そこよりも他の部分にお金を費やすべきだったのではないかと思います。
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あと、これは予算制約上やむを得なかったのでしょうけれど、世界中の都市で人が大量死している、というのを、街の遠景と字幕で済ませる、というのはちょっとしょうもないです。あそこはもっとニュース映像っぽくしてかまびすしく見せたりとか(そういうシーンはありましたがあくまで序盤だけでした)、もしくはせっかくアメリカ大統領執務室を用意したんだから、そこが飛び交う情報と鳴り止まない電話でしっちゃかめっちゃかになっているとか、なんでもいいからもっと「どえらい感」が必要だった。そのうえで、何万人死亡なんて字幕を乗っけずに、ただ街の死んだ風景を映したほうが、混乱と寂寥の落差が出てきたはずです。うん、何万人死亡、みたいなのをあの字幕で表すよりもっと方法があったんじゃないかと思ってしまいます。
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 もちろんこれは三十年以上前の日本映画。ですので、その後洗練を経てきたハリウッド映画などを基準に物語るのはあれですけれど、やはり今観るとそういう穴がぼこぼこ見つかってくるわけなのですね。

 そうした演出の部分はおくとしても、地震のくだりがありえないタイミングの良さで、興ざめします。いちいち説明するのはおっくうなのですが、ある重要な場面で、もうご都合主義的としか言いようのないタイミングで地震が起きるのです。草刈正雄を一人にするためにいちばん手っ取り早いんですけど、もう少し脚本を詰めるなりなんなりは絶対必要だったでしょう。なんであんなことを。
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 日本や南極やアメリカやといろんな場面に話を向けて、海外ロケもふんだんにやって、世界規模の話だというところでまあ観られるのですけれど、基本的なところの穴が多すぎるのでちょっと辛いです。うん、重点が分散していたんですね。草刈正雄とオリビア・ハッセーの物語を作る段取りなら、最初の多岐川裕美のくだりはばっさり切って、日本の混乱は別の切り口で見せることができたし、渡瀬恒彦も結局よくわからないことになりました。原作があっての話でしょうけど、そこは思い切れなかったのでしょうか、うーむ。夏八木勲と千葉真一に至ってはせっかく出てきたのにほぼ何もせずにフェード・アウトです。
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 テーマの壮大さはすごいんです。戦争と病原体によるカタストロフ、というのはいい。でも、それを支えるだけの強度が物語自体になかった、設定も演出も随所ゆるゆるだった。だからかなりの竜頭蛇尾映画という風に見えてしまうんですね。今これを観る意義、というのは、ぼくにはあまり感じられなかったのでありました。もったいなさを強く感じる映画でございました。
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おなかいっぱいにしてやるぞ、という作り手の心意気に感動。
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「あぁ、それ観てなかったんだ」シリーズ。リメイクもされている有名作品ですが、観ておりませんでした。

 原作小説やリメイク版はまったく触っていないので、その辺との比較をしつつ話を進めるような真っ当な真似はできぬのですが、これは大変面白く観ました。映画を観ながら久々に、おおう、わあ、と声を上げる体験をしたのでした。

 活劇として大変よくできていると思いました。黒澤をはじめとする戦国活劇に敬意を払いつつ、自衛隊という存在を映画に落とし込む。日本で戦争映画といえばやはり太平洋戦争ものになりますし、そうでなくても自衛隊の敵は大怪獣だったりするわけで、そのどちらでもないこの見せ方はシュールさと相まって実に映画として面白かった。時代考証うんぬんは正確ではないところも多々あるようですけれどもね、うん、そこはこの映画ではつついてもあまり実りがないんじゃないですかね、うむうむ。
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 千葉真一率いる20余名の自衛隊の部隊が、戦車やヘリ、船もろとも戦国時代にタイムスリップしてしまいます。これは映画のかなり早い段階からそうなるのでして、現代での平和な日常みたいなもんとかは省かれます。ぼくはせっかちなので、このような早々とした展開は好きですね。『バトル・ロワイアル』が好きなのは、もう冒頭からまがまがしさばりばりで行くところ。変なアイドリングをだらだらせずに、さっさと戦国時代の武将の一団と接触します。武将は後の上杉謙信、長尾影虎で、夏八木勲が演じています。
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 見せたいものが非常にはっきりしているのがとてもいいです。とにかくサービス精神に溢れている。敵からの急襲を受けたり、仲間割れが起きたり、ある軍勢に荷担して敵をやっつけたり、やってほしいことを全部やってくれています。おなかいっぱいにして帰らせてやるぞ、という作り手の意気込みが感動的なのであります。
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 部隊の中で、渡瀬恒彦がリーダー千葉真一に反目しています。どうやら過去に何かあったらしく、原作では語られているのでしょうが、映画では台詞でちょいと説明があるくらいで回想などもありません。もしかすると原作ファンには不評かもしれなくて、「あの過去を描かないと二人の確執が引き立たない!」的なことがあるかもしれないけれど、原作を知らぬ立場で言うなら、ぜんぜん問題ないです。この映画は『バトル・ロワイアル』に似ています。あれもこれも、いきなり不条理な場所に放り込まれて命を狙われる羽目になっているのです。で、大事なのはその空間での活劇のほうで、過去のごちょごちょは要らないのです。変に背景を造型して現実味を持たせようとすると、土台非現実的なこの物語がゆらゆらしてしまいかねない。だったら火薬も血糊もなんでもござれで、ばしばしやってくれてよいのです。もちろん背景の意味合いとかを読み取りたくもあるけれど、そこに重点を置くと今度は映画の濃度が低下しかねないのです。
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 で、その渡瀬が千葉のもとから勝手に抜け出し、俺たちの好きにやるぜと言って、その時代の女性を誘拐してレイプするなど好き放題やり始めます。これは自衛隊の協力をほとんど仰げなかったのが吉と出ているように思います。もしもこの映画が自衛隊からたくさん協力してもらっていたら、あんな風に自衛隊員を悪く描くことはできなかったのではないですかね。そこの思い切りがよい。いいこちゃん映画になっていない。

 やっぱりですね、たくさんの人間が不条理で危険な状況に置かれたとなれば、闇の部分というか、負の側面というか、そういうのをきちっと描いてほしいわけですね。そんな品行方正にやれないだろう、ひどいことを始める奴も出てくるだろう、という部分があることで、人間がよく描かれるわけです。その点で渡瀬は素敵なヒールでした。そしてこの映画はドンパチ活劇と見えながら、最後には暗い部分をちゃんと描く。あっぱれです。
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 重火器や戦車を要する自衛隊と、戦国の軍隊との戦い。
 ここはとても白熱するものがあって、日本映画でも屈指なのではないかと思います。非常に贅沢に描かれていると思いました。で、攻めと引きのバランスもいいんです。自衛隊側が手榴弾や機関銃で一斉に掃射したかと思いきや、今度は数で圧倒的に勝る敵方に押されたり、そうかと思えば戦車で突き進んだりして、ところが敵は敵で燃えさかる炎を積んだ荷車をぶつけて必死に応戦。互いが全力でぶつかりあっている様子が真摯に描かれております。武田信玄の軍と戦うくだりは活劇的快楽が十二分です。
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 別の映画を引くなら、『ブラックホーク・ダウン』もちょっと連想したんですね。あれもすごい映画でしたが、あれと似ているところがあるんです。というのは、不条理な中で目的もわからずにただ戦い続けるほかない、というのがあるんです。千葉真一は夏八木勲と仲良くなって、互いの戦功を約束しあってうんぬんみたいなのがあるにはあるけど、他の連中は非現実的な状況におかれて、ただ仲間同士が手を取り合って、何が目的なんだかわからないままに目の前の敵を倒すことにのみ全力を尽くしている。
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 活劇的な魅力が大きいのでそちらに持って行かれるけれど、ふと思うわけです。何のために戦っているんだ? というね。一応の理屈はつけられるんですよ。自分たちが天下を取って歴史を改変したら、その歴史の異常によって再び時空間に異変が生じ、帰れるんじゃないか、みたいなね。でも、そんなの気休めの理屈っぽくしか響かない。だから何のための戦いなのか、よくわからない。
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 話はそれますが、『ブラックホーク・ダウン』なんかもその辺に感じ入りました。あれはソマリア内戦におけるPKOの介入を描いていますが、平和をもたらすために来たはずなのに、現地人は自分たちを見るや即座に殺しに来る。そんな中で目的がわからなくなる。はて、いったい何のために戦っているんだ? というね。お国のためとか家族を守るためとかそんな大義もない。ただ、戦わないと命を落とすから戦う。戦争の中で起こる意味の消失。その辺の不条理感も、映画に濃さをもたらしているように思います。
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 本筋とは関係ない、ちょっとした部分もぼくは好きでした。夜這いをするシーンとかね。ああいう、戦士としてではない、生身の男としての下卑た部分をちゃんと描いているのは信頼できる。それと、一切喋らない女性と隊員との恋ですね。あの辺はなんだか強引に持って行った感もあるんですけど、そんな中で女性に一切喋らせないのはよかった。あれね、喋らせるとあの展開の変さが気づかれちゃうんです。一切喋らせないことで、なんか最後まで雰囲気で持って行けちゃうんですね。あの辺は今の映画が見習ってよいところじゃないでしょうか。雰囲気でごまかしきった感があります。ごまかしきったので、いいです。
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 最後もいいですねえ。
 千葉真一がね、自衛隊のあり方に疑問を投げるようなシーンがあるんです。もとの時代に行ってもどうせ戦うことなんかないんだ、この時代だからこそ戦いに生きることができるんだ、みたいな。戦争に憑かれた男に成りはてるんです。でも、生き残った隊員が苦しそうに言うんです。「俺は嫌だっ。女房や子供がいるあの昭和の時代に戻りたいっ。あの平和な時代が大好きだっ」みたいなことを言うんです。これね、なんら修辞のない率直な思いとして、いいなと思うんです。「平和な時代が大好きだっ」っていうのが、なんか、すごく響いたんです。

 途中途中、現代の風景が挟まったりするんですが、それもくどくどしくなく、短く効果的に入っていました。現代の風景で、お祭りみたいなシーンで、戦国時代の戦いの様子を催しでやっていますみたいな場面があって、なんだかちょっと鳥肌が立つような、言いしれぬ気分になったりしたんです。劇中でも、敵の軍を見ながら隊員がぼそっと、「あの中に自分のご先祖がいたりするのかなあ」とか言ったりする。押しの演出一辺倒ではぜんぜんなく、ふっと引く瞬間を作り出す。なかなかの芸当であるなあと感じ入りました。

演出で引っかかったのは一点。音楽ですね。なぜだか妙に甘い音楽を流すんです。あれはあの時代としてはありだったんでしょうかね。今観ると、「なんでこの状況で英語の歌やねん」と言いたくなるところもあり、奇異な感じでした。まあ、それはそれでカルト映画的な要素になっているとも言えるのですけれども、

 とても見応えのある傑作でした。未見の方にはぜひにぜひにと申し上げましょう。
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わかろうとすることを諦めずに、しかしわかった気にはならぬように。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 リクエストいただいたものは、自分でレンタルしようとは思わなかったであろう作品が多く、大変刺激になります。自分では幅を取って選んでいるつもりでも、やはり無意識に似たようなものを選んだりしてしまうわけで、名前も知らなかったような作品を観られるのは実にありがたいことであります。ゴールデン・ウィークが終わり、今までより若干ペースが落ちてしまうであろうことをお許し願いたいのですが、今後も残りのリクエスト作を取り上げていくのであります。

 本ブログは旧作がメインでありますが、皆様もまた、ほう、そのような映画があるのか、と思ってもらえば幸いでございます。あるいは、観なくてもいいかと思っていたがそんなに言うなら観てやろう、と思われるのも嬉しいことでございます。映画情報と言うと雑誌などはもとより、ツイッターのTLももっぱら新作のことに溢れているのでありましょうから、ぼくは皆様の助言を受けつつ、古い傑作を掘り起こしてゆければと思うのであります。

 さて、『切腹』です。昨年に三池崇史監督によりリメイクされたようですが、例によって観ておりません。三池監督と言えば『十三人の刺客』のリメイクが傑作として記憶に新しいのですが、『切腹』のリメイクは果たしてもとの作品を超えられたのでありましょうか。いやはや、これを超えるのはなかなかに難しいのではと思わされる、すごい作品でありました。主演の仲代達也は生涯の出演作で一番好きだと答えているらしく、ウィキによると小林監督も「自作のうちで最も密度が高い」とおっしゃったそうです。

 仲代達也演ずる浪人が、井伊家の江戸屋敷を訪ねるところから始まります。彼は仕官していた御家が取りつぶしになり、ろくに職にも就けぬので、生き恥晒すよりいっそ武士として潔く切腹したい、しかし武士としての誇りを守りたいし、その辺の名もなき場所で死ぬのも情けないものがあるから、なにとぞ御当家の敷地を貸してほしい、とこんなことを言い出します。
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 しかし三國連太郎演ずる家老は、「死ぬ気もないのにそんなことを言って、こっちの同情を買うとかして、金をもらおうとか思ってるやつが結構いるんだよね」というようなことを言い、「そういえばこの前も、そんな風なやつがいたんだよね」と、仲代より前に屋敷に来た、一人の若者の話を始めます。このように、「切腹志願」にやってくる武士というのが、実際の歴史の中でも多発していたそうです。さて、仲代はいかなる思いを持って、この屋敷にやってきたのでありましょうか。
 
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 本作の特徴として、展開がどうなるのか読めぬところの面白み、というのが強うございます。ゆえに、未見の方は読む前に観ていただくことを、推奨するものでございます。ここからは観た人向けに語りますね。リクエスト作ということもありますしね。
 
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 ここの語り方は抜群にうまい、というか、ぼくは作り手の術中にもろにはまりました。
 もうぼくはこの時点で持って行かれていたのです。くわあ。
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仲代が凛としたたたずまいで座し、三國は「よからんやつが多いのよ」と話す。そして、彼の話に登場する石浜明がいるわけですが、ここでぼくは笑ってしまったのです。というのも、ぼくは石浜明演ずる若者=「金目当ての不届きもん」という三國の誘導にまんまと乗せられていたために、石浜が無思慮な道化者のように思え、毅然とした屋敷の武士たちとの態度の落差、あるいは仲代との落差が滑稽で間抜けに思え、彼が腹を切るに至るまでの間、「うわあ、やっちゃったなあこいつはぁ」と、軽々しい気持ちで観ておったのです。「やくざをなめてた若者」みたいに捉えておったのです。そこから、見事にひっくり返されました。おまえこそ思慮が狭い! と仲代達也にしかりつけられた思いであり、はっとしたのでありました。
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 仲代が「介錯は誰それにお願いしたい」と言って、あれ? その人いないの? おかしいねえ、となっていく様などは、ミステリ的快楽もあるのですね。そして三國が怒って「やってしまえ!」となって一触即発、それに対して「まあ待て! 話を聞きやがれ!」と仲代。ふうと落ち着いて話し出して回想。緊張と緩和のつくりとしても実に美しい。白州の上で切腹刀を前にして話すこの状況それ自体が緊迫的でもあり、構図、構成がすばらしい。

で、仲代と石浜の過去が語り出されるわけじゃないですか。くわあ、そんな事情があったのか、と思わずにはおられなかったです。ぼくは序盤で、石浜を軽んじて笑っていた。だからこそ、彼の背景を知ったときに、もうこの話をどうしたって見届けずにはおれぬという気持ちになったわけです。
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 語りとして非常に秀逸だと思うのは、石浜が切腹したくないと言い出したとき、「一両日待ってくれ、必ず戻ってくるから待ってくれ」と言うところ。あれを観たときぼくは、「びびってしまったのだな。そして戻ってくると言いつつも戻ってこないという魂胆なのだな。なんだか情けなくて可笑しい姿であるな」と、井伊家目線を共有してしまっていた。ところが、仲代はそこを喝破する。「武士が一両日待ってくれと言うからには、何かよほどの理由があってのことだろう、それをくみ取ってやろうともしないとは!」と。
 もうひとつありますね。あの竹光のところです。あれを観てぼくは「端から死ぬ気のないような、半端ものの武士なのだな」と思ってしまった。しかし、実際はぜんぜん違っていた。この伏線と種明かしはミステリ的である一方、普通のミステリでもなかなかお目にかかれない、実に哀しくも含蓄のあるものでありました。
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 本作は、うかつにも井伊家目線に立って観ていた者を、殴りつけてくる。こうした映画は最近いくつも観ていて、要は「人にはそれぞれ事情があるんだ」ということで、ぼくはそういう学びを得ていたはずなのに、まんまと井伊家目線に立っていた。ああ、もう、本当にぼくは粗忽者であります。仲代の話だと思い込むあまりに、石浜のことをちゃんと考えていなかったのです。
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 ぼくたちは何かにつけて人の人生を評して、ああすればいいのに、こうすればよかったのに、普通に考えたらそんなことあり得ない、普通の感覚ならこうするはずだ、みたいなことを言うけれど、それはやっぱ、遠くから観ている無責任な立場なんですね。この映画では仲代と三國の重々しくも白熱するやりとりが交わされるけれど、仲代の言葉がもう、本当に突き刺さってくる。ぼくたちはついつい、わかった気になる。いや、それを言い出せば今この瞬間のぼくとて同じこと。しかし、「わかった気になってんじゃねえよ」という心得は、常に誰しもに必要なものであろうと、感じ入るのであります。多くのメディアはぼくたちをわかった気にさせる。そして日常の中においてもまた、何かをわかったようにして振る舞う。そのほうが楽だからです。でも、わかってはいないのでしょう。ぼくがわかっている「本当のこと」など、果たして十指に及ぶのでしょうか? そういう風に、認識をぐらつかせます。
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そして本作では、潔く誇り高い武士像というものにも強い疑いを投げかけます。こういうことは歴史上、おそらくものすごくたくさんあったんでしょうね。今、偉人だとされているような人だったり偉業とされる出来事であったりしても、本当のところどうなのかわからない。美談とされる出来事もまた、嘘で塗り固められているのかもしれない。特に昔などは、武家が発表したらもうそれは事実として記録されてしまうわけだから、時が過ぎれば歴史の中に消えていくばかりで、「本当のこと」に触れることは永久にできない。
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 むろん、本当のことがわからないと言って、何も決められないというのでは歴史も社会も関係も成り立たない。ぼくたちはとりあえずひとつひとつのことに対して、「それが本当のことだ」という認識の印鑑を押すしかない。でも、その多くは結局、「そういうことにする」という認識上の処理にしか過ぎない。そしていつしか、「認識の印鑑」それ自体は誤謬のないものだと思い込む。数々の誤謬に晒されながらも、愚鈍にも。そして気づけば「客観的」などと言いつのる。
 であるとするならばぼくたちが取るべき認識の作法は、「わかろうとすることを諦めずに、しかしわかった気にはならない」という、とても不安定なものなのでありましょう。
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『切腹』は物語的な面においても、そこで語られることの語られ方においても、すばらしい作品であると思います。
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