カテゴリ:邦画( 164 )

この映画が語る深い部分に、ぼくは立ち入りようがないですね。
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やまださんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 阪神大震災から十五年後の一日、神戸の街で偶然出会った二人の男女のお話です。お話、というよりも、夜歩きの様子、というほうが合っているのでしょうか。当時の記憶を物語りながら、追悼集会の開かれる場所まで歩いていきます。もとはNHKのドラマだったのですが、反響の大きさから再編集して映画化したそうです。

 阪神大震災の頃、「こども」であったぼくですが、実家は関西地方でもなく、遠景としての記憶しかないのが正直なところです。昨年の大地震でも身内に被害もなく、その辺のことを当事者的に物語ることはぼくにはできません。なので、ちょっと書き方が難しいですね。
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 主人公は森山未來と佐藤江梨子で、彼らは実際に被災体験があるらしいですね。劇中では別の人物として出てくるので、その辺の虚実に違和感を覚えるところも最初はありましたが、まあそこにこだわる意味は無かろうということで、気にならなくなりました。全編ハンディで照明も弱めで、生っぽい感じはよく作用していたと思います。これをがっつりドラマ仕立てにしていたら虚構感が際だっていたでしょうし、ドキュメンタリックな語りがうまくはまっていました。長回しも効果的です。

 実在感があってよかったですね。二人の対照的な感じと、ああ、おるおる、こういうのはおるなあ、という実在感。森山未來は現実的というかシニカルというか、あまり感情を表立って出さないタイプの男を好演しており、佐藤江梨子は佐藤江梨子で、ある意味では佐藤江梨子のままのところもあるのですが、こういうやつはいるなあ、と思うに十分でございました。随所随所のちょっとした会話だったり何なりが効いていますね。
ところで、佐藤江梨子は子ども時代、神戸で長く暮らしていたそうですが、あの神戸弁というのはネイティブの方からするとどうなんでしょう。ぼくはネイティブでも何でもないですが、テレビなどで聞き慣れている関西弁よりも標準語っぽいイントネーションが随所に入り交じっている気がして、ちょっと変な感じもしました。いや、それを悪いというのではなくて、むしろぼくはそこがよいのだと思えた。十五年ぶりに帰ってきた神戸、という設定で、神戸の感じが抜けて東京っぽくなっているんだなあと思えて、そこは実在感に繋がったのです。
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 居酒屋シーンがあるんですが、秀逸なくだりがありますね。震災の時に、震災に乗じてというかなんというか、まあ普段では考えられない高値で商売をするやつがいたという話になります。焼き芋を一本二千円で売っていたとかね、これは他のところでも聞いたことのある話です。で、佐藤江梨子は「今でも許せない」みたいになるんですけど、そこで森山未來がかわしてくる。「それは需要と供給の関係上仕方のないことだ」っていうんですね。ある意味でナイーブなところですが、この映画は切り込んでくる。森山未來は親父がそれで儲けたという自分自身の話をするんですが、それで一挙に関係が崩れる。大きなぶつかりを序盤でかましてきたのはこの脚本全体で見ると、とても効果的でした。それが後々の語りを引き出すフックにもなっています。
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 全編を通して、実際の過去の映像を持ち出す場面は一カ所を除いてほとんどなく、あくまで語りで伝えていく。そこは作り手の良心的なところというか、鋭いところであります。この映画において実際の映像は要らない。ただ、記憶を物語ることで、想像させるのがよいのですね。いろんな昔話を二人が語るのですが、それを映像化した瞬間にフィクション性が際だってしまう。だから、絶対にそれはしない。劇中、佐藤江梨子がある人物のもとに出向く場面でも、その家の中は一切映さない。フィクションの領分をわきまえているように思えました。普通の劇映画では、回想シーンがはまされるのが常で、それが効果を果たす映画ももちろん多いわけですが、こうした虚実の入り交じるような映画においては、回想シーンは要らない。おっさんと喋るシーンも要らない。それをすると二人のつくりだす空気は一瞬で壊れる。実に正しい判断だと思います。 
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 この映画から震災にまつわるような話を引き出すことは、ぼくには難しいですね。当事者ではないぼくが何を言っても、というところがあるし、それは去年の地震にしてもそうです。
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 津田寛治が森山の勤める会社の上司だか先輩だかで出てくるんですけど、あの人はぜんぜん震災のことを他人事として受け止めている。神戸には何の思い入れもなく、建築の仕事も震災の記憶なしに語る。二人に感情移入したり、当事者として記憶を持っている人からすると、あの津田寛治は嫌な役に思えるでしょうけれど、この映画をナイーブにしすぎないという点では重要な重しだったとも思います。 ぼくたちは何かにつけて鈍感にならざるを得ない。妙な敏感さで寄り添うことは多かれ少なかれ欺瞞であるほかない。この映画は人間関係のバランス感覚が非常にいいと思いました。
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 象徴的な場面があります。佐藤江梨子が、震災で亡くした友達の家の近くまで来て、行こうかどうしようかと半泣きで悩む。森山は簡単に、「行ったらええやん」と言う。それに対して佐藤が「他人事だからって!」とわめくと、森山は冷静に「まあ、他人事だからね」とこれまた簡単に言います。これは面白いと思った。森山もまた震災当事者であるのに、震災にまつわることであっても、他人事だと受け流す。今日たまたま出会った相手だ。他人事だ。このあたりの距離感。この辺が実在感を高めてきますね。この二人はもう出会わないんじゃないか、と思わせるところもいい。この種の映画が持つ領分のわきまえ、それをしっかりと持っているように見受けました。
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三者の立ち位置を用意しているのは脚本設計上の大きな美点です。震災の記憶を強く語る佐藤江梨子、被災したけれどちょっと引いている目線の森山未來、震災の実体験を持たない津田寛治。この三層をつくったのは作り手の大変優れたところでしょう。
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 この映画を観て、何かがわかったような気にはぼくはなれないですね。どう感じたと問われても非常に難しいです。歯切れのいいことは何も言えませんし、ぜひお薦めしますという類のもんでもないんです。去年、震災があったことも鑑みて、なんとも言いようがないというのが正直なところです。うん、今回については、この映画はこうじゃ、と言えぬままに、逃げるようにして終わらせていただければと思います。
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アップがしつこい。男のケツも映せないならセックスシーンなんて撮っちゃいけない。
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小野さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 実はこの作品は原作小説を過去に取り上げています。当ブログで唯一の小説評で、そのときに、小説評はこらかなりしんどいなあと思ってやらないことにしたんです。やりたいとも思いつつ、映画と比べてどうもしっくりくるやり方が見つからないんですね。なので、今後も映画一本で、ああ、あとは恵比寿マスカッツ関連で(ぼくはいつまでも言うぞ)、続けて参りたいと思います。

で、大まかなところはそのときの評で書いたことで事足りるところもあるんですが、まあ、とりあえず書き出してみましょう。

妻夫木聡と深津絵里の逃避行劇がメインです。妻夫木は出会い系サイトで知り合った満島ひかりを殺してしまい、捜査の手が自分に伸びていることを知ります。深津絵里とは満島と同じく、過去に出会い系で知り合った仲なのですが、偶然そのタイミングで再会を果たし、哀しき逃避行が始まる始まる、という案配なのであります。

 正直な話、「大企業協賛系」映画というのはあまり期待しても仕方のないところもありまして、まあ卒のない二時間ドラマを観せていただければそれで結構、という部分もあるわけでして、だからこそたとえば「こんな不遇な役に妻夫木、深津の美男美女コンビは合わない」などと言いたくはないのですが、言いたくないと言ってあげているこのぼくに、どうしてこの映画はこういうことをするんでしょう。
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 まずはよくないと思ったところを挙げていきます。別にこの映画に限りませんが、顔のアップが多すぎるんです。宇田丸さんは「ラストの顔のアップがカタルシス」みたいなことを言っていてぼくは首をかしげるのですが、この映画はむしろ引きの画を多用すべきでしょう。どうやら「地方の閉塞感」みたいなことを褒め言葉にあげている人がいるんですが、いやいや、もっとそういうのを感じさせる映画はあるし、むしろこの映画はその美点を積極的に殺してしまっている。

 舞台は佐賀県とか長崎県とかその辺なのですが、地方の寂寥を映し出すなら、もっと引きの画で撮る必要があるでしょう。ああ、これは寂しい場所だなあ、と感じさせてこそ、出会い系にすがり何かを求める人々の悲しさが出るんです。この映画に描かれている地方は寂しくない。いや、満足に描かれてすらいない。なぜか。役者の顔のアップばかり撮っているからだ!
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 引きの画で撮ったほうが、絶対寂しく映るはずなんです。そのことで、ああ、こいつらはちっぽけだなあ、と思う。そのちっぽけさが彼らを引き立てる。ちっぽけなやつらが、ちっぽけなやつらなりに見いだしたちっぽけな答えのその無様さ。その無様さによってこちらに訴えかけられるものがある。ところがこの映画はやたらと妻夫木、深津のアップ、アップ、アップ。違うでしょう。部屋に二人でいるときは引いて撮らなきゃ。深津が一人でケーキを食ってるシーンもそう。背中から撮らなきゃいけない。全体を通して、人物に寄りすぎている。全体を通して、もっと引くべきです。イカの目を映している場合じゃないんだよ。

 演出はいいところもあるんですけど、悪目立ちします。悪いところは書いておかないと気が済まないというたちの悪い性分なもんで、先に書きます。
 たとえば妻夫木と深津が初めてラブホテルに入るシーン。ここで妻夫木が深津に金を渡します。深津は受け取る気がないのですが、妻夫木は出会い系のクセみたいなもんで、渡してしまうんです。ここね、その渡した金をアップで映すんです。で、二人が映る構図をその後に映す。違う。これは逆だ。まずは妻夫木が深津に金を渡すカットを引いて撮るべきです。その行為が、行為性が、妻夫木演ずる男の悲しさ、不器用さ、二人の間の気まずい時間を描き出すはずで、紙幣のアップはその後に挟み込めばいい、二秒くらいね。それで余韻を残せばいい。こういうわかりやすさ重視演出のところが、映画じゃなくてドラマなんですね。最初はまあええやないかと思っていたんですが、やっぱり目についてしまいます。
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 あとはまあ、セックスシーンですねえ。高橋ヨシキさんがテレビ番組で『八日目の蝉』を評したとき、「乳首を死守したいなら映画女優になるな」という名言を放ったのですが、それを借りて言うなら、「男のケツも映せねえならセックスシーンなんか撮るな」です。
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 いいです、仕方ないんです。深津絵里さんや事務所が乳首を死守したいならそれでいい。そこにこだわったりはしない。ただ、妻夫木のケツは映せ! と言うと、にわかにゲイ疑惑が浮上しそうですが、そうではありません。正常位でケツを映すことによって、セックスのピストン運動がちゃんと映るのです。そしてその行為の野蛮さ、無様さが際だち、悲しさも含めた二人の交わりに味わいが生まれる。韓国映画はそういうことをちゃんと知っている。ところがこちらはそれさえもしない。日本映画では女優が乳首を死守するだけではなく、男優がケツを死守します。それで結局また顔のアップアップアップ。だったらセックスシーンなんか撮らなきゃいいのに。深津絵里・カヴァードウィズ赤いシーツは、ださすぎる。
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ことほどさように演出的不備が目立ちます。音楽も過剰でした。ここ一番で流せばいいのに、やたらとしっとり音楽を使いますね。過剰にカットを割るのも気になる。まさしく空気をカットしている場面が見受けられる。本当にわかりやすい親切設計。

 さて、物語的な面はどうかというと、要するにこれは男女の逃避行劇です。アメリカンニューシネマ、ANCで何度も描かれた話ですから、ある意味すごく挑戦的なんです、過去にいくらでも名作があるのでね(まあANCにあった「反抗」の要素がないので、余計に弱いんですが)。で、ANCは荒野やアメリカの風景をふんだんに描くわけですが、まあそれをする気も本作にはないとして、気にかかるのは二人の間に悦びが見いだされない点ですね。
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 やっぱり、この二人でいる時間の尊さの描写って必要なんです。自分の人生は満たされないものではあるけれど、この二人でいる時間は幸せだなあ、と思わせる描写。それが乏しいんです。些細なことでいいんですよ。いやむしろ些細なことのほうがいい。些細なことなのに思い切り笑ったり、暗い気持ちでいたはずなのにふとしたことが可笑しくて笑いが止まらなくなったり、子供じみた遊びに興じたり、何でもいい。それが二人の時間を支えるはず。こいつらはちっぽけで、すごくちっぽけな幸せを重んじている。その様が逆説的に尊く、感動的に映る。そういうことがあり得た。それが実際はどうか。あのどうしようもないセックスシーンと、足湯と、ラストの朝日がせいぜい。時間的制約からバックボーンを十分に描けないなら、二人の間の細やかなやりとりを固めなきゃいけないのに、始終暗い影。それじゃあ、ねえ? 深津に背景がないので、なんならラストの首締めを効果的にするなら、自殺願望か何かを持っているような役どころにしてもよかったんじゃないか、とちょっと考えました。自殺願望、あるいは自暴自棄な色をちょっと入れておくと、ラストはもうちょい厚くなった気もするんですが、うむ、まあ、それはあくまで思いつきです。
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 いいな、と思ったところも書いておかねばなりません。よかったのは満島ひかりと岡田将生の車中のシーン、それと樹木希林です。車中のやりとりってのは撮れる構図が限られるのですが、だからこそ余計な演出が入らずにすんでいた。二人のやりとりはいいです、嫌な感じがよく出ていました。それと樹木希林の力はすばらしい。この映画を支えました。ちょっと他に類を見ないお方です。少なくとも樹木希林が出ている限りはおかしなことにはなりませんでした。漢方薬売りが原作同様、結局記号的にしか描かれないのは残念でしたが。
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 映画から何かを読み取りたい、学び取りたい、と思って観るようにしているんですが、反面教師的な事柄ばかりが浮かんでしまいましたね。で、宇田丸さんも言及していたんですが、原作の時点で既にテーマ的な掘り下げが足りないんじゃないか、というのは同意するところです。悪人とはどういうもんなんだ、一面的な見方ではその人を語り得ない、とかその辺のもろもろはねえ、この原作や映画からあらためて教わるまでもない、というか、この作品だけが放てるものとしては弱いんですね。ラスト、妻夫木が逮捕されてから深津に「やっぱりあの人は悪人なんですよねえ」と呟かせ、観客に問いかけようという魂胆なのでありましょうが、悪人譚っていう分野としては、弱いです。町田康の『告白』とかを読んだほうがいいです。それと、そういう映画はここでいくらも紹介してきましたし。

 言いたいことはわかる。でも、言いたいことを掘り下げるための周辺が足りていない。 だからこちらとしては、学びじろが乏しい。演出もださい。

 酷評してしまいましたが、小野さんはお気に召さなかった作品ということで一応安心して書かせてもらいました。好きになりたいと思って観たのですが、ちょっと無理でした。
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今ぼくのいる場所が、探してたのと違っても。
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 黒澤明を取り上げるのは実に久しぶりのことで、しばらく観ずにいました。黒澤作品は初期と晩期は『姿三四郎』と『八月の狂騒曲』くらいであまり観ていないのですけれども、有名どころは大体観ています。『醜聞』から『乱』までのいわば円熟期のものは観ているのですが、その中で唯一観ていないのが『デルス・ウザーラ』で、これがぜんぜんレンタルできません。東宝が関わっていないのが大きいのでしょう。アマゾンでも出品者が高値をつけている状態です。ちなみに中でも好きな作品は『羅生門』、『どですかでん』、『乱』といったところです。『七人の侍』や『蜘蛛巣城』や『生きる』がすばらしいなんてことは、ぼくなどが言う必要はありますまい。

さて、黒澤明が大活躍した50年代、60年代の中でなぜかずっと観ずにいた『赤ひげ』です。なぜかこの作品を観ようという気にならなかったのですね。医者の話というのがどうもぴんと来なくて、後回しにし続けていたわけなのですが、いざ観てみるとこれは黒澤作品の中でもかなり好きな部類でした。黒澤作品で好きなのは? と訊かれたときの回答のひとつにしたいと思います。
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 舞台は江戸時代の小石川養生所、ここは無料の医療施設で、徳川吉宗が行った享保の改革の際に設置されました。主人公は若い医師を演ずる加山雄三と、「赤ひげ」と呼ばれる所長の三船敏郎です。養生所にやってきた加山雄三は最初、「こんなところに勤めるのは嫌だ、自分はもっと高い地位につくために今まで勉強してきたんだぞ」とすねてしまうのですが、そこで過ごす日々の中で、次第に考えを改めていくのであります。
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 三時間ある映画なのですが、ほとんど飽くことなく観終えました。そして、黒澤作品で涙したのはこれが初めてかも知れません。これは泣けました。もともとは山本周五郎の連作短編が原作で、いろいろなエピソードが入っているのですが、それぞれ見せ方がうまいんですね。もちろん原作から落とされた要素というのもあるんでしょうけど、原作にはない話が後半を担っていたりして、この後半の「おとよ」の話でぼかあ泣いたね、うむ。
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 時代劇、というとどうしてもチャンバラ、侍を連想しがちだと思うし、それもまた黒澤明の功績あるところなのでしょうけれど、こういうチャンバラの出てこない昔の話って、『どん底』とかもそうですけど、「うわあ、えらい時代やあ」感が強く出ますね。特に医者の話だと、病人がそりゃあ出てくるわけで、うわあ、この時代はきつかったやろなあ、というのも随所にあります。侍が刀を振り回す話だと、格好良さに見せ場が持って行かれがちだと思うんです、殺陣の見事さとかね。でも、この手の話はむしろ、限定された状況の中で、それでも生きていく人たちの生き様みたいなもんが胸にしみるのでありますね。
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 冒頭の部分で既にぼくは持って行かれていたのですね。小石川養生所は無料だから、貧民たちがたくさんやってくるわけです。で、待合室みたいな場所でぎっちぎちになってただ、待っている。何もせずに、じっと待っている。今でも途上国ならばある光景なのでしょうけれど、江戸時代の医療レベルを考えればねえ、もうどうしようもないことは今よりも多かったはずですしね。で、今みたいに患者様扱いされることもなく、医者が「こんなくさいやつら」みたいなことを平気で言うわけです。なんやねんこの状況、というのがまず描かれて、それでぐいっと引き込まれました。
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  加山雄三が最初すねているんですが、そこから自分の無力さとか弱さとかを知って、だんだんと周囲に溶け込んでいく流れが素敵です。なんて言うのでしょう、そういうことって、あるよね。たとえばこの四月にね、受験で志望校に落ちて、第二志望、第三志望の学校に行ったって人もいるのでしょう。就職もそうでしょう。既に大人でも、そういう過去をお持ちの人もいるわけです。でも、今思えばそこが自分にとって尊い場所だったっていう経験はあるでしょうしね。その意味でこの話には人生がございますね、うむ。
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 医者の話だから暗い場面ばかりかというとそうでもなくて、たとえば三船敏郎がごろつきどもを打ちのめすシーンもあり、サービスも用意しています。しかし三船は医者でありまして、自分で相手の骨を折っておきながら、「医者が骨を折るなんて! こういう乱暴はよくない!」と怒ったように言ったりして、笑ってしまいます。

細かいところの良さを言い出すとめちゃ長くなりそうなので、ここはやっぱり後半の「おとよ」のくだりを話しておくべきでしょう。おとよは宿場の遊女屋に住まわされていた少女なのですが、まあ性的サービスをするには幼い年であり、なおかつ虐待をうけているような状況で、見かねた三船、加山が彼女を引き取ります。しかし、おとよはその悲しい境遇から心を病んでいるような有様で、加山はなんとか彼女をまともにしてやりたいと苦闘するのです。
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 ぼくはみんなに愛されているような子供が出てくると嫌になるのですが、反面、こいつぜんぜん大事にされていなかったんだなあ、というようなのが出てくると大変弱いですね。中盤でも、根岸明美演ずる貧しい女性と、その子供たちが出てくるのですが、悲しいやつらが出てくるともうちょっと、くうっ、となります。
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構成としていいなあと思うのは、加山がかつて自分が養生所に来たときのことを悔やむ場面と、このおとよが心を開いていくくだりを絡ませているところですね。ここでがががっと揺さぶってきます。おとよの出てくるシーンはどこもいいです。

おとよがね、少しずつ打ち解けていくんですけど、養生所で働く周りのおばさんたちとはどうもうまく行っていなくて、「なんだい無愛想な子だよ」みたいに扱われているんです。で、あるとき炊事場に泥棒少年が現れて大騒ぎになるんですが、おとよはそれを見て見ぬふりするんです。すると当然おばさんたちは「泥棒が入っているのにそしらぬふりかいこの子は」となるわけですが、その後ですね、その後におばさんの一人がある状況に遭遇し、号泣することになるんですが、そのくだりなどは絶品でした。
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 やっぱりね、「悲しい目にあったやつだけがわかってやれること」ってのがあるんですね。何かを断罪したりレッテルを貼って決めつけたりすることはたやすいし気持ちのいいことかもしれないけれど、違うだろうって。そいつにはそいつにしかない事情ってのがあるんだろうって。おとよが少年を見逃したときに大体展開がわかって、ばっちりその通りだったので、これまた、くうっ、でした。

『4分間のピアニスト』のときに書いたことともちょっと関連するんですけど、たとえば犯罪者に対する、こういうものの言い方ってありますね。
「幼少の頃にひどい目にあって、それで世間に恨みを感じて犯行に及んだっていうけど、でもそんな体験をしてもまともに生きている人だっているんだ。許されないことだ」みたいな言い方。うん、確かにそうなんです。辛いことがあっても立ち直って、公正に生きている人はいっぱいいる。でも、そいつにしかない事情ってのはやっぱりあるんです。抽象的な言い方だけれど、同じ星空を見たときに、星の輝きに魅せられるやつもいれば、その星々の間に広がる闇のほうが焼き付くやつだっているわけです。
 はっきりと明言しておきますが、ぼくは何も犯罪の加害者をむやみに擁護するつもりはありません。人としてやってはならないことはそりゃあありますし、その分の裁きはしっかりと受けるべきでしょう。しかし、メディアに流れる犯罪事件について、細かい事情も知らずに断罪するような真似はしたくないし、するべきではないと言いたいわけです。「過熱報道で無辜の人を断罪するマスゴミめ」みたいなことを一方で言いつつも、真偽不明のネット情報、週刊誌ゴシップに飛びつく奴があふれかえっているような昨今は、特に。

話を映画に戻す戻す。
 注文をつけるなら、おとよの口調がちょっと上品すぎますね。もっと下品でもいいし、なんなら訛っていてもいいはずなのに、妙にしっかり喋りすぎていて、これは残念です。あと、中盤で死にゆく人がいるのですが、この人の回想のくだりが長いです。なにしろ回想の中の人物がそれまた回想してその回想シーンが流れたりするので、これは文法的にちょっとどうやねん、というのはありました。

 気になったのはそれくらいです。最後もいいんですよ、「死んだほうが幸せだった」なんてことを医者の話なのに持ち出してきて、でもそれにうまい答えが見つからずにいる、というのは、いいもやもやです。
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 まだまだ書けることはいくらでもありまして、序盤に出てくる危ない女性の話も書きたいし、終始格好いい三船敏郎についても書きたいのですが、まあご覧になっていただければぼくなどがこれ以上述べる必要はありますまい。はい、お薦めであります。
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原作からの大胆な改変は吉と出ていると思います。
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久々に新作を取り上げる本ブログ。ねたばれがんがん。
 前作の『恋の罪』をうかつにもスルーしてしまったのでその辺の話はできぬのですけれども、『ヒミズ』については原作漫画にも唸らされるものがあり、これは早めに駆けつけておきたいよね、というわけで池袋HUMAXシネマズ。

さて、ふうむ、長くなるか短くなるかもわからずどのあたりから話し始めればいいのか迷っているのですけれども、設定をざっくりいうと、「いわゆる普通の」生活を営めずにいる十五歳の少年を主人公とした、彼の生き方を巡るお話、とまずは言えましょう。ボート屋を家業としている彼の家は両親がまともな教育を与えることをほとんど放棄しており、彼自身もまた学校に普通に通うような暮らしに順応できずにいます。 主人公の住田少年を演ずるのは染谷将太、彼に惹かれる少女茶沢を演ずるのは二階堂ふみです。二階堂ふみは沖縄出身で、「南の島の宮崎あおい」みたいな人ですね。

 原作は四巻あるのですが、その中身を二時間強で描ききるのは難しい、というわけで、この住田と茶沢の話に絞って綴られていくことになります。原作と大きく異なる点がいくつも散見されるわけですが、それらはおおよそ有効に改変されていたとぼくは思いました。土台、あの漫画のトーンで映画をつくるのは難しい。はっきり言って暗いお話なのです。だからそのままやれば下手なナイーブさに走りかねないし、荒涼感やら内面的うんぬんに絡め取られる。そこを思い切り舵を切り、面白い映画になっていました。

 演出としてわかりやすく引っかかってくるのは二階堂ふみのパワフルさです。原作ではもっと物静かな、シニカルな風情の少女なのですが、映画ではライトノベルよろしく、染谷将太に猛烈アタックを掛けます。うん、ラノベっぽいなあという感じを最初受けました。ラノベの一般的手法として、「静かに暮らしたいんだよ俺は」的な少年のもとにパワフルな少女が押しかけてきて引っかき回すというのがあるのですが、それに近しいものを最初感じた。『シガテラ』にせよ『わにとかげぎす』にせよ、古屋実の作品では女性側からアタックを掛けてくるのですが、本作はそこでまずどーんと押してきます。おいおい大丈夫か、と思って見始めたのですけれども、途中からそのテンションがこの映画の熱量を確かに高めていると気づく。原作にはないやりとりも加味されていて、ああ、これは原作に見られるような冷静なコミュニケーションからは大きく飛ぶのだね、とわかって、わくわくしました。

 二階堂ふみの演技はとにかくパワフルパワフル。なおかつ主役二名の間で交わされるやりとりには、幾度も暴力が挿入される。そこで本作が、ラノベ的な甘え合いとはまったくもって異質なものであると気づかされる。二人は語りを通し、暴力を通してぶつかりあい、わかりあう。これは第二の、『愛のむきだし』なのでした。

 パンフレットで佐藤忠男氏が書いていることで、はあなるほどその通りと膝を打ったのは次の箇所。
「日本人には周囲を気にして言うべきことも言わないで暗示ですますという傾向が強い。この映画の会話は、だからこそ逆に、普通なら言わずにすますことを声を大にして言う」 この点は原作から大いに改変されているところでした。主人公二人以外でも、そうした演出がかなり前面に押し出されています。

 たとえば光石研演ずる父親がそうで、彼は原作に輪を掛けて最悪の男です。あれ、こんなにひどい父親だっけ、と記憶を探ってしまうくらいに光石研が最悪。なにしろ息子に向かって、「早く死んでくれよ」「おまえなんか本当に要らねえんだ」としつこくしつこく言うのです。原作では数ページしか出てこず、ろくに会話もしない父親の像がかように増幅されている。他方、これまた原作にはなかった茶沢の家族も場面も挿入される。黒沢あすか演ずる茶沢の母親は、なんと娘の死を渇望して首つり台をつくるという有様です。園子温は『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』で壊れた家族を描いていますが、そのような最悪の背景を持ち出すことで、主役二名の造形をより立体的にして見せているのです。

演技テンションが高い本作においてバイプレイヤーとして光るのは、まあ誰もいいのですけれども、やっぱり窪塚洋介を語らずにはおれません。窪塚洋介には本当にわくわくさせられるというか、この人の放つ躍動感とか攻撃力というか、他の役者とは明らかに異質なものを感じます。渡辺哲を引き連れて泥棒に入るシーンがあるんですが、ここはすごくぞくぞくしました。「脱! 原! 発!」などと叫んであんな跳び蹴りをかませる役者は、日本には他にいないのではないでしょうか。『凶気の桜』とかにしてもそうですけど、ああ、この人はちょっとおかしいところあるんかなあ、と思わせるくらいの役者は観ていて気持ちがよい。今後も是非園子温作品に出ていってほしいです。

 本作は暴力表現において、過去の園作品の中でも最も充実していたのではないでしょうか。映倫区分はPG-12なんですけれども、乗ってる韓国映画みたいな泥臭さや乱暴さがありました。その点ははっきりと原作超えしていると言っていいのではないでしょうか。なおかつ、その話で言うと、この映画ではまあ、キチガイな人たちというのも出てくるんですね。キチガイといえば白石晃士ですが、彼にも匹敵するようなぞくぞくするキチガイが出てきました。彼らの場合、人物背景がまるで読めないんです。ただ、彼らのような存在は確かにこの国にいっぱいおろう、という実在感があり、迫力で言うと『冷たい熱帯魚』のでんでんより怖い。で、染谷将太がそれこそ『気狂いピエロ』のジャン=ポール・ベルモントみたく顔にペンキを塗りたくり、包丁を紙袋に入れて街を彷徨する。原作だとわりとこまめに住田少年の内面が語られるんですが、語らないところは語らずにおくこの映画では、彼が何をしでかすのかわからないという緊張感が高められます。

 他にもいいところはいっぱいありましたので全部語るわけにもいかないのですが(たとえば謎の魔物が出てこないことなどについては他の人にお任せします)、一方ちょっとどうなのや、というのが終盤でした。わりと平和に着地するというか、しっとりしてしまう節があります。主人公二人が寝そべりながら未来を語るなどしていく場面は原作にもあるのですが、場面場面で狂い咲き、時として愛をぶちまけていた二人が語るには、いささか退屈なやりとりだったように見受けました。原作とは違うトーンで攻めまくっていた本作が、終盤の肝心な場面で原作通りに静かに語り合うというのはなんだか、戸惑いを感じた。これね、でね、終わり方が原作と真逆なんです。それはそれは真逆。だったらもういっそのこと、あれだって絶叫しながらやってよかったんじゃないかなあと感じるのです。熱量を持続させながらやってきた本作の最後の語りがあれだと、ちょっとしょぼんとしちゃうんじゃないかしら、というのが個人的な感じ方です。

 本作は3・11を受けて大幅に内容が変わったようなのですが、あの終わり方はそれ以前から設計されていたんでしょうかね。ラストのラストで、「がんばれ!」を連呼しながら走るんですけど、そこの前で一回しんみりしているのでねえ。「がんばれ!」で終わる、うん、うーん。うん、いや、でも、ここはちょっと判断保留というか、もう少し時間をおいて考えておきたいところです。それと、どうなんだろうと思うのは、あの肯定的な終わり方をするならば、せめて茶沢さんにもう少し優しくしたってもええんちゃうんけ、というのもあるんです。茶沢さんに支えられっぱなしなんです。最後も「住田がんばれ!」と一方的でしょう? もうくさくなってもかまわないから、「茶沢がんばれ!」があってもええんちゃうかなあと、ふと思いました。住田は自首するかもしれないとして、茶沢は茶沢であのあとどうしていくねん、ということですから。

いやあまだまだ語りきれぬこと多しですが、いろいろ詰め込んであるし、人の語りも読みたくなるし、ちょっと整理しきれていないというのも含め、存分な熱量を感じる作品でありました。お薦めであります。

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白石晃士流ジョーカー、炸裂。
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 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 どうも年末年始は映画を観る気持ちが弱まっております。なんだかなぜだか映画を観る気にならないのであります。そんなわけで更新頻度が高まるまでは今しばらくお待ちいただければと思うのですけれども、まあこんなブログでありましても更新を待ってくれる方がいるのであろう、来たときに「更新されてないや」と思われるのは少し哀しい、というわけで、去年に書いておいた記事をひとつ上げておきます。年明け一発目を飾るには少し、というかかなり問題があるんじゃないかね、もっとみんながハッピーな気持ちになれるファミリー向けな作品などでご機嫌を伺ったらどうかね、というためらいもあるのですが、年明け一発目に白石晃士のエネルギッシュな怪作を取り上げるのも悪くは無かろうというわけで、『超・悪人』です。先に申し上げておきますが、まだ正月気分で惚けていたい場合は、そんな気分が抜けてからお読みいただければと思います。

『グロテスク』についてはここで何度も名前を挙げていますが、あの映画が本当に危険なのは見た目の残虐さではないんじゃないか、と最近考えました。『グロテスク』は変態男に付き合いたてのカップルが拉致され、拷問される映画で、その過激なゴア描写にどうしても意識が集中してしまうのですが、その単純な映画構造の裏面に、ぼくたちの認識を揺るがすような仕掛けが施されているのです。

 結論を先に言うならば、「あの変態男こそが観客自身である」ということです。実にアクロバティックかつ、挑発的かつ、危険に満ちた設定なのです。説明します。
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 大迫茂生演ずる変態男は川連廣明と長澤つぐみのカップルを路上で襲撃し、密室で磔にします。なぜそんなことを、という問いに対して、彼は言う。「感動させてほしい」と。生の感動、愛の感動を見せてほしい。二人のうちにそれを見いだすことができたなら、生きて帰すと約束する。彼はそう宣言して、数々の残虐な行為を開始します。

 このとき、観客にとって変態男は「他者」です。日常的感覚、社会的道徳の範囲で言えば、彼に感情移入できるわけがないし、拉致拷問して「感動」などと嘯くのは頭がおかしい。
 ただ、その一方で、観客は映画の進展に期待を抱いてしまう。そして、映画でひどい目に遭うのを観て、「感動」を得ようとしている自分たちに気づくことになる。
 そんなことはないって? ゼロ年代半ばに思いを馳せましょう。
 『グロテスク』はゼロ年代の日本映画の一面を、実に過激に、まっすぐに切り取っています。
  『世界の中心で愛を叫ぶ』を筆頭にして難病、死にオチの純愛映画が流行し、『恋空』を代表とするケータイ小説的な悲劇のジェットコースターが流行った。感動感動という言葉が嫌というほどメディアを駆け巡った。あれらに涙した観客がいるとするなら、その人々は『グロテスク』の変態男と同じことを求めていると言ってもいい。換言すれば、あの変態男は、死に至る受難の最中に「感動」があると信じ込む観客自身だとも言えます。
 
 なんとアクロバティックなことでしょう。観客が本当の意味で感情移入しているのは、あのカップルのどちらでもあり得ない。あの変態男でしかない。映画に「純愛」だの「感動」だのを求めている人間は、変態男と知らずのうちに同期するのです。90年代にはハネケの『ファニー・ゲーム』がありましたが、あれよりも遙かに鮮烈な皮肉です。

『グロテスク』に惹かれながら、この構造に気づかずにいた自分の不明を強く恥じ入るところです。読者の方から記事にコメントをいただいて気づくことができました。大変感謝しております。この映画はゼロ年代の純愛と感動を巻き込んでぶち殺す、最凶の恋愛映画ということができます。「泣ける純愛映画みたいなのを観たいんだよねー」という方に、ぜひお薦めしましょう。そして、もしも観た後で文句を言われたら、「何を言っているの? あなたの観たいものが、克明に描かれていたじゃない」と言ってあげればいいのです(ただしその場合、二度と映画の話をしてもらえなくなりますが)。

前置きが長くなりました。今回は『グロテスク』の監督が撮った『超・悪人』を取り上げます。そして、本作もまた、『グロテスク』同様に、認識を揺らしてくる映画でした。
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『超・悪人』の主人公は連続強姦殺人男です。『オカルト』でも狂人を演じた宇野祥平が演じていますが、あのときとはまったく異なる演技で、サングラスをしているのもあって途中まで気づきませんでした。

 映画は全編がハンディカム撮影で、白石晃士が得意とするモキュメンタリースタイルです。冒頭は十分以上に及ぶワンカットの長回し。描かれるのは、男が女性の部屋で住人の女性をレイプ殺人する様子です。
 去年、『レイク・マンゴー』を評したとき、「現代はネットの普及によって、以前よりもモキュメンタリーが困難な時代を迎えているのではないか」と書きましたが、白石晃士の作品はぼくの認識の甘さを教えてくれます。本作はニコ生的な、素人の生々しい自分語りをなぞっているのです。今後のモキュメンタリーの路線はこのような方面で花開くのではないかと思います。
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『グロテスク』はまだあの非日常的空間と劇映画的演出で毒素が中和されていた感がありますが、本作はそういうものがありません。あるのは日常的風景だけです。だからこそ、冒頭のレイプ場面は生々しくて、これは女性が観たら強い強い強い嫌悪を覚えることでしょう。本作を女性が観たらどう感じるのかは、とても知りたいところです。

前半でぼくは持って行かれたんですけれど、白石がうまいのは、このレイプの場面を長回しで撮ってショックを与えて引き込んだ後で、ふっと現実の、日常の場面に落とすところです。それもまあ言ってみれば気持ちのよくはない、けれど十分に今もこの街中で起こっているであろうコミュニケーション風景を切り取ること。レイプシーンの次の場面で描かれるのは、メイド喫茶を盗撮しているところです。ここの描き方はすばらしいというか、うん、面白い。ここには、フェイクだとは思えない現実味があります。
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 撮り方自体は視野の狭い、ハンディカムの定点撮影なんですが、ウエイトレスと男とのやりとりはものすごく面白い。ああ、こういうことはある、間違いなく日常で起こっている、と思わせる。ぼくは実はこのメイド喫茶のシーンがいちばん好きかもしれません。
 そしてこのシーンでは、男の「ジョーカー性」があらわになります。「ジョーカー性」とはつまり、「常識的で道徳的で正しいと信じる我々の自己像を、悪人が正直に照射してぶちこわす性質」のことですが、あるきわめて身体的な指摘が、彼をただの殺人レイプ魔として突き放すことを許さなくなります。それは別に、「彼が正しい」という種類のものではない。ただ、「我々が正しい」という基盤が狂わされる、ということです。あんなにも日常にありふれているであろうと思える場面で、そこを描き出すというのは、すごいの一言です。白石晃士って、正当に評価されていないと思います。
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『オカルト』『ノロイ』『バチアタリ・暴力人間』などがそうであったように、本作でも監督の白石晃士自身が登場人物として出てきます。清瀬やえこという人と一緒になって、この男を取材しに行きます。このくだりの長回しも没入を促すうえで大いに作用しています。監督と清瀬という二人の人物がレイプ魔に接触することで、物語は駆動します。
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 白石監督の面白さを一言で言うなら、「狂人」の描き方です。監督はその辺の取材やなんかをたぶんすごく行っていると思います。彼の描き出す狂人は、他の監督の手つきよりもはるかにリアルというか、ああ、狂人ってこういうものだな、と思わされる。
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 今回の男で言うと、怒りの沸点がものすんごく低いというか、瞬間的に怒り出すんです。 それまでにこやかだったのに、ちょっと言葉を間違えただけで一秒後にぶん殴ってくる。 これはねえ、怖いですよ。本当に地雷原を歩いているようなものですから。

 やっぱりね、狂っている人ってのは、調節弁が働かない人なんでしょうね。ためらいがないというか、こうだろうと思ったらもう、途中の細かいこととかは何も見えなくなる。こんなことしたら相手はこう思うだろうから、とかそういうのがないんです。でも、だからこそ、狂人というのはこちらの認識を揺らしてくるんです。近代という「狂気の歴史」の中で、常識から逸脱するものを檻に閉じ込め、それを狂気と呼ぶようになった。しかし、常識などというものはたかだか「社会的な、なんとなくの合意」に過ぎない。ジョーカー的な狂人はそういうものを信じない。ゆえにときとしてこちらの欺瞞を有り体もなく告発する。
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この映画の殺人レイプ魔が、ただの暴力的で破壊的な人間だったら、単に突き放して観られると思うんです。『バチアタリ・暴力人間』の二人組にはその色合いが強すぎたようにも思うし、AVのレイプものを観てもただ不快でしかないのは、ただ単純に嫌なものでしかないからです。でも、『超・悪人』は異なる。狂っているとか、壊れているとかいうのがどういうことなのか、今一度考えるように仕向けてくる。
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 本作でも終盤、実にアクロバティックな展開が起きる。男を徹頭徹尾嫌悪して観ていると、あの終盤はレイプ魔肯定的ファンタジーという不快なものにしか見えないかもしれない。というか、「普通に観れば」そういうものに見える。

 ただ、ぼくにはそうは思えなかった。これが映画の怖いところです。
『時計仕掛けのオレンジ』だって、最悪なレイプ魔アレックスが人間性を喪失したとき、どうしようもない気持ちになったりしたでしょう。悪人が処罰されてハッピー、ではなかったはずです。この映画はそれを裏返している。悪人が愛を成就して不快、だけでは収まらない。これは何なのだろう、ということを考えているのですが、はあ、そろそろ疲れました。続きはまたの機会にしようと思います。女性がどう観るのか、が気になるところではありますね。
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善悪の地盤が端から壊れている、絆と生き方をめぐる人生譚。
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 間を開けつつ各作を観ておりまして、近頃に『完結篇』を観ました。まあ映画ブログたるもの名作はひとつでも多く取り上げておいたほうがよかろうっつうことで、『仁義なき戦い』。

 注:今回の記事はいつも通り、いつも以上に話がだらだらくねくねしています。ご注意ください。

しかしまあ二年以内に五作を続けて公開っていう勢いは、今の日本映画界では考えられぬハイスピードであります。1960年代から70年代にかけての日本映画は年に二作、三作を公開するシリーズものがばんばんつくられていたのですね。東宝で言えば怪獣もののほか『若大将』『クレージーキャッツ』、大映で言えば『座頭市』『兵隊やくざ』、松竹なら『男はつらいよ』。東映はシリーズもの華やかなりし時代を迎えており、『仁義なき戦い』のほか、高倉健主演の『日本侠客伝』『網走番外地』を筆頭に任侠ものが大量につくられ、菅原文太の『トラック野郎』もありつつ、ぼくの大好きな『女囚さそり』も公開。枚挙に暇ないとはまさにこのこととも言うべきシリーズ文化で、これでもごく一部に過ぎないのですから、いやあこの頃に映画を観まくった人というのは、もう本当に観まくったんだろうなあと思いますね。もちろん洋画もあるわけで、プログラムピクチャーの時代でもあって、二本立て三本立てが当たり前と来て、今よりも人と映画の距離が近かったのかなあと思います。DVD世代のぼくとしては、圧倒されるばかりの時代であります。
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『仁義なき戦い』がそれまでのヤクザ映画と違うのは、それまでのヤクザ映画が任侠(= 弱きを助け強気を挫く)的側面を有していたのに対して、暴力団組織同士の抗争を全面に描いたことであると言われます。本シリーズは「ヤクザ映画」というよりもむしろ、「政治映画」のニュアンスが非常に強いというか、いや、「政局映画」という言い方が伝わりよいのかもしれません。何々組の誰々を味方につければ何々組を圧倒できるぞ、いやしかしそうなると何々組の誰々が力を持って分が悪い、ここはひとつ別の何々組と示し合わせて、いやいやそうなるとこちらとしてはメンツが立たない、ここはやっぱり・・・・・・というきわめて政治的な出来事が繰り返されていくのであります。そこへ来てヤクザの世界とあって、血気盛んな若い衆が勝手に行動してお偉方の思惑がおかしくなったりしてぐちゃぐちゃになったりして、向こうにこっちの誰それを殺されたので大人しくしてはおれぬから復讐をするべきだと思うんだよね、というか復讐をしなかった場合向こうはこちらをなめてくるわけでそれは輪をかけてむかつくよねとても、殺しに行くよねこの流れだったら、的なことで血で血を洗う。ゼイウォッシュブラッド・ウィズブラッド。ゼアウィルビーブラッド。
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ちょいとぼおっとしていたりすると、あれ、これは誰と誰がどういう関係なのだっけ、というのがわからなくなったりするので、1回ちゃんと把握した上で2周目に入るとより面白く感じるかもしれません。ただ、名作と言われる本作でありますが、この映画が大好きである、この映画を悪く言うなんて信じられない、という人はたとえば、同じ役者が役を変えて別の作品で出てくる、ということについてはどう考えているのかは気になるところです。松方弘樹は1,4,5作目で出てきますが、毎回違う人物になってしまいます。北大路欣也は2作目の主役級の人物として登場し、壮絶な死を遂げるのですが、5作目ではぜんぜん別の組の幹部として出てきます。他にも、あれ、この役は前は違う役者だったぞ、というのもあって、その辺がもうひとつ大河性をなくしている感はあるように思うのですが、どうなのでしょう。公開当時の観客の人々は気にならなかったのでしょうか。「俺は2作目が大好きなんだよ、あの北大路欣也の役がねえ」と思っていたら5作目でぜんぜん違う人になっているのはいいのでしょうか。北大路欣也は北大路欣也で、「いやあ、ぼかあ2作目で死んだので」と断ったりはしなかったのでしょうか、その辺はいろいろと気になります。
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 そんな中にあって光るのは主役の菅原文太はもちろんのこと、山守という実に老獪な親分を演ずる金子信雄です。この人は5作すべてに出ていて、一貫して山守なので安心です。広能はもともと復員兵なのですが、山守組員に代わって殺人を行い、刑務所で出会った梅宮辰夫演ずる若杉と出会い、その後山守と盃を交わして極道の世界に入るのです。その後山守のために働いたり裏切られたりというドラマが広がっていくわけです。
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 五部作を見終えて思うこととしては、役者の変転、再登板なども鑑みるに、ひとつの貫徹した大河ドラマとしてはそれほど収まりがよくない、というのはあります。『完結篇』というからにはやっぱり、広能と山守の因縁に何か蹴りがついたりするとぴしっと締まったようにも思うのですが、そういうことではないようです。『完結篇』といっても、その後の『新・仁義なき戦い』もありますし、終わりは終わりで、「戦いは終わらないのであった」的なことになるし、この辺は実在の人物の手記から始まった実録ものの話でもあるから、映画的、物語的な完結性は持たぬのでしょう。
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 ヤクザものといえばこの前年、1972年にはあの『ゴッドファーザー』がありますね。あの3部作はもう、マイケル・コルレオーネの話じゃないですか。もともと堅気だったマイケルが跡目を継いで、そこからどう生きていくかっていう大河ドラマなのですが、『仁義なき戦い』は広能の話としての収まりはあれほどにはよくない一方、広がりも見いだしにくいところがあります。彼はあくまで一勢力で、それ以上の上位意志が方々で働いている、という構図があるため、混沌としています。『完結篇』ではもうほとんど刑務所にいて、出てきてからも何もしていないですね。

 ただ、物語的な収まりや起承転結のようなものが明確でないことが、映画的によろしくない、ということではぜんぜんありません。それであればこれほどまでに語り継がれ、愛される映画シリーズになるわけはないのです。
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『仁義なき戦い』が面白いのはひとつに、この映画においては、「善なるものは端からない」ということです。まさしく「仁義なき戦い」なのです。なにしろ題材はヤクザ同士のシマ争い、メンツ争い、シノギの削り合い、だまし合いばかし合いそして殺し合い。そこには初っぱなから最後まで、勧善懲悪は皆無です。これは実際の戦争に通ずる、きわめてメタフォリカルな構図です。

 話はそれますが、東映は1971年にあの『仮面ライダー』を放映開始しています。仮面ライダーとは何か。平成版はおくとして、こと昭和版のライダーシリーズというのは、善と悪というきわめてわかりやすい図式を用いたヒーローものなのです。
 ウルトラマンシリーズ、あるいはゴジラシリーズとは大きく異なります。ヒーローものを一緒くたで考えていると気づきにくいかもしれませんが、ウルトラシリーズは善と悪の話ではない。むろん、「地球を侵略する悪い宇宙人をウルトラマンがやっつける」的構図はいくつも見られはするものの、多くの話において、果たして人間は善か? 宇宙人や怪獣は悪と言えるのか? と問いかけるものがあります。

 『機動戦士ガンダム』はこのような「非・善悪図式」を採用しています。ジオン公国は地球に対して戦争を起こしますが、その大義は、「地球連邦からの完全な独立」。はっきりとした戦争行為で、どちらが悪と一概に言い切れるものではない。作中では残虐な殺人行為や過激な壊滅計画を行うなどして悪辣な印象をもって描かれますが、そこにあるのは「悪」ではない。戦争による作戦行為です。
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 物語において、善と悪の図式が採用されることがままありますが、そもそも我々の社会において、悪とは何か? 「倒されるべきわかりやすい悪」などというものがあるのなら、既に淘汰されていてしかるべきなのではないか? 我々は何かを「悪」と規定することで、自分たちの足場を保持、あるいは構築したいだけなのではないか?

 既得権益は悪だ、私利私欲をむさぼる政治家は悪だ。
 なるほど、ならば速やかに排除すればいい、しかしできない。
 なぜか? 
 彼らが権力を持っているからか? 
 しかし政治家とてただ一人の人間に過ぎず、彼が独り荒野で権力を叫んでも意味はない。 彼の持つ権力を支える人間や、そのシステムの存在があるんじゃないか。
 そうしたことを突き詰めたときに見えてくるのはつまり、「我々は何に支えられているのか」ということです。

 まだまだ話はそれますが、今年を表す漢字として、「絆」が選ばれました。絆、なるほど、それはいい言葉に思えます。とりわけ被災した地域の人々にとって、絆というのはとても尊いものに思えたことでしょう。絆は「善きもの」であると言えましょう。しかし、既得権益やら私利私欲の政治家やらの持つものもまた「絆」と言えるのです。何々さんには世話になったから手厚くしてやれ、選挙の際は是非に応援してやれ、というのも絆。記者クラブ同士仲良くやろうぜ、というのもまた絆。絆を尊ぶ人間が、他者の絆を糾弾するのはおかしな話と言えます。絆というと聖なるつながりに見えますが、何事も聖性だけに目を向けようとは虫がいい。その絆から離れたものにとって見れば、打ち砕くべきものに見えてくる。そしてぼくたち自身だって、絆にただ乗りすることで現在の生活を保てている。税金で私腹を肥やすな、税金の無駄遣いをして増税とはなんたることだと怒りながら、日本がアフリカの諸国よりもずっと贅沢な生活環境を維持できているというこの国民的既得権益には何も言わない。ぼくたちだって既にうまい汁を十分に吸っている。
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『仁義なき戦い』は暴力団の話ですが、暴力団はいわば「絆」の最たるものでもありましょう。疑似家族的な共同体を形成し、規律と連帯のもとに寄り集まっているのです。先の話で言えば、暴力団は「悪」と一般的には言えるのでしょうが、はて果たして簡単にそう言い切れるのか? 
 とりわけ戦後の混乱期において、共同体がぐちゃぐちゃで、法的信頼もずたずたの最中で、暴力団に入ることで救われる人間というのが確かにいたわけです。あるいはその暴力団の存在ゆえに救われた人々もまたいたのでしょうし、今だっていくらでもいるのでしょう。そうでなければこんなにも長い歴史を持つわけがない。今年にはあの大物芸人が、「暴力団とのつながりは駄目だ!」と言って引退して、だけれどその後もいろいろ報道が出たりして、ぼくたちはそれを笑って眺めたりしているけれど、あの後、何か変わったのか?
 彼はいわば捨て身で「暴力団とのつながりはアウトなんだ!」というメッセージを発したけれど、誰かそれをきちんと受け取ったのか? 芸能界の図式は変わったのか? あの後たとえ一件でも、暴力団とのつながりが明るみに出た芸能事務所や芸能人があるか? 結局は彼を揶揄して終了? 彼だけが特殊なケースで芸能感は真っ白? マジで信じられる? それじゃああまりにも実りがないと思うけれど、やっぱり暴力団に支えられている人はいっぱいいるなあと思えるわけです。

『仁義なき戦い』とはこれすなわち、善と悪の崩壊した状況の中での、絆をめぐる話とも言えるのです。そして一見、物語的な簡潔さを帯びないつくりであるこの作品は、そうであるからこそ、ぼくたちの社会の写し絵たり得る。終わりの見えないこの話、綺麗な勧善懲悪も起承転結もないこの話は、ぼくたちの人生の進行とも同じです。『仁義なき戦い』には人生がある、というのはあまりにもおおげさですが、人々が熱狂するのはひとえに、そうした延々の流転があるからだと思うのです。

 思いつきで書いているのでいつも通りいつも以上にだらだらしました。個人的にいちばん好きなのは4作目の『頂上作戦』。3作目で絡まりきった混沌がついに爆発したような4作目の熱量に惹かれました。初見の際には、ある程度構図を頭に入れたうえで観るのがお薦めと言えます。
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観ていてうんざりするのが正しい見方。
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松竹のDVD発売で、トラウマ映画の名作としてイチ押しとなっている作品です。宇多丸さんが「怖くていまだに観られない」とまで言っていて、ネットでも怖いど怖いどと名高くて、どんなもんじゃーいと思って、『震える舌』。

渡瀬恒彦、十朱幸代が主演で、お話はというと彼ら夫婦の娘が破傷風にかかってしまう様子を描いたものです。原作は作家の三木卓という人が書いていて、彼の実体験がベースになっているそうです。
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 序盤を除きほぼ全編が病院の中で進行し、なおかつ娘への光刺激を防ぐためにと真っ暗な病室の中がメインの場所になるので、とてもとても狭苦しく、閉塞した感じがずうっと漂っています。意識をなくした娘の病状の悪化、治療、回復が断続的に繰り返され、夫婦が看病疲れしていく様が描かれるばかりの映画です。
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 怖いど怖いどというのを聞いていたので、心構えができており、そこまで震えるようなことはなかったのですが、確かにこれを子供の頃に覚悟もなく観たなら、ああ、トラウマになるのかもしれぬなあというインパクトは随所にありました。

 トラウマ映画、という概念が町山さんの本で広まって、いろんな人が自分の観た作品を語ったりしているようですが、ぼくはというと実はあまりそういうのがないんです。唯一あるのがすんごいぼんやりした記憶で、もしかしたら前回取り上げた『この子の七つのお祝いに』のものだったかもしれませんが、どうも違うような気もするのであり、いまだに確証がありません。トラウマというほどでもないし。

 トラウマ映画があるのは羨ましいなと思います。子供の頃に、映画というメディアに対する畏怖の念みたいなもんをインストールされるわけですから、そういうのがある人はいいなあと感じます。映画じゃないのならあるんですけどね、今ふと思い出したのがテレビアニメ『21エモン』の「ゼロ次元の恐怖」という回です。お年寄りが「社会における役立たず」として処理され、何もない空間に吸い込まれていくシーンがトラウマです。あと、本なのですが、講談社KK文庫の『学校の怪談』が怖くて読めなかった。話うんぬんよりも、挿絵がものすごく不気味だったんです。漫画とかでも思い出していけばありますね。『コミックボンボン』が好きだったのですが、あれのデラックス号に掲載されていた怪談漫画とかが怖かった。ふむ、ふむ、でも、映画は思い出せないなあ。悔しいなあ。
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 戻ります。
 この映画の怖さのひとつは、娘の描き方とあの子役の雰囲気でもあるのですね。
 若命真裕子という子役なのですが、この子が可愛くない。いわゆるひとつの「可愛い小さな女の子」というのではないんです。存在として大変に弱々しい。この映画の脚本が面白いのは(原作は知りません)、序盤からすぐにこの子を病気にかからせてしまうところですね。健康体だった少女が罹患する、というのではなく、もう最初の段階からおかしくなっている。だから観ている側には、この子を愛する時間を与えられないんです。この子の幸福な瞬間を見ていないし、笑顔を観ていない。ああ、可愛い子供であるなあという風に思えない。だから、難病の話なのに、哀れさとか幼気さとか切なさとかは前に出てこなくて、「恐怖」が植え付けられるのです。ゼロ年代には難病ものや余命ものが日本映画で流行したりしましたが、あれは元気だった彼や彼女が病気に陥って、哀れや哀れ、ああ生きることの感動ぞ、というつくりですが、これはそうじゃない。生きていることの感動とかそんなのはない。ただ、うわあ、えらいことになった、怖いなあと観客は傍観し続けるしかないのです。
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 そう、この映画にはいわば、「傍観させられることの恐怖」があるのです。
 映画においては多くの場合、主人公をはじめとした登場人物に感情移入をして観ていく構成が取られます。ベッドでのたうつ少女を救う話、というのならいわずもがな、あの『エクソシスト』がありますが、あれだって悪魔払いを頑張るカラス神父に移入できる。

 この映画はどうか。
 確かに夫婦に移入することはできる。でも、彼らはカラス神父と違って、何もできない。ただ発作が起こらぬようにと見守ることしかできない。なおかつ、この映画の場合はこの娘を可愛く思えるような構成は取られておらず、ゆえに夫婦と一緒になって娘を心配する気持ちになりづらい。いや、実際に子供を持つ親の立場になれば別なのかもしれませんが、少なくともぼくには、なんとか助かってくれ、元気になってくれと励ます気持ちでこの映画を観ることができなかった。ただ、傍観させられ続けた。
 
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 悪いニュアンスで言っていると思うならそれは誤解です。むしろ、この映画は、所詮傍観者に過ぎない観客に対して、積極的に傍観的立場を強いるつくりを取っている。ゆえに、観客にはひときわの無力感がもたらされ、あの狭く暗い病室の雰囲気と相まって、疲弊感を与えるのです。そしてその疲弊感によって観客は夫婦の疲弊感とシンクロし、いつの間にか映画の中に取り込まれてしまうのです。ぼくたちは傍観するしかない。そのことを二重でたたき込まれ、恐怖する。この映画の享受の仕方は、他の映画ではあまりできないことです。 
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劇中ほとんど寝たきりの娘ですが、ちょっとした刺激で発作を起こしてしまいます。そのとき舌を噛んで口が血まみれになる。こういうシーンも身体への言及として演出効果をもたらしています。それでいて、彼女とは一切意思の疎通が図れない。観客は彼女を愛せない。可哀想と思えない。ただ、怖く映ってくる。『エクソシスト』はまだいい。あの映画はオカルト的な部分が非現実性を与えてくれるから、まだ映画的な出来事として処理できる。でも、この映画にはそれすらない。

役者でいうと、主演の二人はもちろん、中野良子という女優の小児科医がいいですね。 めちゃくちゃお上品なのです。差し障りがありそうな言い方ですが、「皇族じゃないか」と思うくらいにお上品です。現代においてはほとんどリアリティを持たないくらいのお上品さですから、そこも必見であります。疲弊していく夫婦の姿と対比される冷静さによって、より夫婦の困憊ぶりが引き立つわけです。

 結末について述べますぞ。知りたくない人はそろそろ去ってくれろ。
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 最後はまあね、ちゃんと回復しなきゃまあ救いがなさすぎますものね。これでもし死んで終わっていたらもう、トラウマ映画過ぎて復刻されないかもしれませんものね。落ち着くべきところに落ち着いてよかったなあ、です。回復したときにも、ぼくは「ああ、よくぞ回復した、よかったよかった」というより、「やっとこれで終わってくれるのだなあ」という安堵のほうが強かったですね。あの疲労感はもういやだよ、と思わせるだけの中盤があります。ただ、渡瀬恒彦がジュースを買って突っ走るシーンはほろっときました。転んで缶ジュースが転げてしまうのを必死で拾うシーンなんかは、なんというかね、これは子供を持つお父さんならば泣いてしまうのではないですかね。

 中盤はもう繰り返し繰り返しですからね。そのたびに悪くなるし。だから物語としての抑揚はないんです。音楽で言うと、いやなリズムが繰り返されて、ショック音が時々鳴ってびびらされるから、おいおい、もうなんとかしてくれよ、というばかりの気持ちになるのです。だからこの映画の成り立たせ方というのは、かなり特殊だと思います。人によっては、もしかしたら、「ずうっと病院の中で闘病と看病の様子が描かれるだけで退屈だ」と思うかもしれない。でも、それがこの映画なのです。うんざりしてなんぼ、なのです。これをエンターテインメント的に仕立てると、この味は出ない。観て、途中でうんざりすることこそ、この映画の正しい見方といえるのではないでしょうか。


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増村保造の最後の映画ですが、増村保造的な映画ではないと思いました。
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松竹のかつての作品が新たにDVD化されていて、そのひとつとして推されていたのが本作です。ツタヤで発見するまで増村保造の映画だとは認識しておらず、およよこれはと思い借りてきました。本作は角川映画で、増村が監督を務めた最後の映画です。

 既に亡くなった日本の監督で、誰が一番好きかといわれればまずぼくはこの人の名前を挙げます。『巨人と玩具』に撃たれ、『盲獣』に撃ち抜かれたものです。時間は90分程度の短いものが多いのですが、その中にぎゅぎゅぎゅっと詰め込んで勢いで持って行く力や、イタリアのネオ・リアリスモの監督たちに学んだ独特の画づくりが、他の邦画とは異質な「増村映画」というジャンルを作り出しているようにも思います。などといいつつ、まだぼくは半分も観ていないのですが。

増村保造の演出というのは、現代までのテレビドラマにも大きな影響を与えたのではないでしょうか。大映の監督だった彼は70年代にはドラマの演出も数多く務めていますし、映画の台詞のやりとりなども映画的な間よりもテレビドラマ的なテンポを重視しているように思えるのです。『清作の妻』を観たときにそれを強く感じ、『卍』や『兵隊やくざ』などを観ていてもやはり「間よりもテンポ」という姿勢が強くあるように思いました。その最たる例が1959年の『巨人と玩具』、あれはとてつもなく「早い話」でした。観たことがない人は是非観てみましょう。「うむ、早い」と思うでしょう。作家の阿部和重は『巨人と玩具』をして「史上最速の映画」と言っています。あそこまで早いともうドラマ的やりとりをも超越しているわけですが、監督自身はこの映画の批評が芳しくなかった当時に、「俺は十年早すぎた」と言ったそうです。十年どころではなかったのかもしれません。
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 テレビドラマ的、と書きましたが、物語進行テンポややりとりについては、あるいはハリウッドの昔のスクリューボールコメディに近しいのかもしれません。現代の市民生活を描いたコメディ『最高殊勲夫人』などは、「1958年の日本映画」としてはかなり異質なのではないかと思いますが、いかがでしょう。むしろ洋画的風合いさえ香ってきます。
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 洋画的風合い、ということで言うなら、彼以上にいわゆる「モダン」な雰囲気をもたらす邦画監督をぼくは知りません。いびつな空間を描き出した『盲獣』の場面設計にせよ、『でんきくらげ』『しびれくらげ』における渥美マリの振る舞いにせよ、ああ、モダンであるなあ、と感じ入ります。
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 彼が描き出したものは、日本映画やテレビドラマを前進させたのではないかと思うのです。50年代から既にいくつもの映画を監督していた彼が70年代のテレビドラマで演出を務めたというのも、映画産業が斜陽化し、テレビドラマが人々を魅了するようになったことと関係があるように思うのです。モダンな雰囲気を持ち、他の監督にはないテンポで話を進められる増村はドラマというメディアと非常に相性がよかったわけで、やはり彼はどんどん先へ先へ行こうとしていたのでしょう。東宝のような大作映画や東映のようなシリーズ映画とはまったく別の路線で、彼は日本の映画、ドラマを引っ張り続けていたのではないでしょうか。
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さて、前置きが長くなりましたが『この子の七つのお祝いに』。
 タイトルからは内容が読めず、パッケージからするとホラーテイストかと思いきや、むしろまじめなサスペンス路線でした。殺人事件が起こり、新聞記者がその犯人、真相を突き止めようと走り回るお話です。

 長々と増村保造の話を述べましたが、1970年代までの増村映画のような魅力があるかと言われれば、その点は減じておりました。60年代までのパワフルさは映画にはなかったし、「時代が増村に追いついてしまった」感というのはあったように思います。当時には既に同じ角川映画で、カットスピードが早く外連味のある市川崑の金田一シリーズがあったし、一方では大林宣彦のような「変な映画」を撮る人も出てきていた。ATGでも長谷川和彦の『青春の殺人者』みたいな破壊力のあるものがどんと出てきた。増村はそこにきて、むしろまじめで見やすいサスペンス映画を撮っていたのでした。これを増村保造の映画だと知らなければ、おそらくまったく気づかずにいたでしょう。

さて、ここからはわりと内容に踏みいりますゆえ、そのおつもりで。
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 冒頭は岸田今日子と娘の貧しい生活に幕を開けます。岸田は別れた夫に捨てられた恨みから、娘に「大きくなったら父親に復讐せよ」と言い聞かせます。

 そして、まあ舞台は変わり、殺人事件だのなんだのがいろいろと起こりまして、調査だ調査だとなるのですが、このあたりの展開がねえ、ぼくは個人的には面白みを覚えないところではありました。
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 というか、ぼくは基本的に、ひとつの事件の真相を追いかけるタイプの話が退屈になってしまうのです。小説などでも、事件が起きて捜査をして、でもそれがなかなか進まないとか、そういうのが出てくると投げ出したくなるのです。本作は最初の方にかましもあるんですけど、そこからがわりと普通のドラマみたいで、白熱するテンポもない。
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 岩下志麻が出てくるんですけど、彼女がキーパーソンなのはそのネームバリューからも丸わかりで話がじれったい。もう岩下志麻が絶対怪しいってわかっちゃうわけです。でも、話はなかなかそこにたどりつかず、後々になってから、「えっ、あの人が!」的になってしまうので、うわあこれは観ている方は追い越しちゃうよ、と思うのです。この映画は増村映画としては長尺で1時間50分以上あるのですが、うむ、長かった。
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 じゃあその背景がたとえば『砂の器』みたいな風に広がるのかというとそこまででもなく、「岸田今日子力」と「岩下志麻力」でなんとかしているきらいが強い。中盤で杉浦直樹が殺されてしまうのですが、こっちはこっちで「杉浦直樹」力がそんなに強くないという。子役はかわいらしいですが、演技自体は「お母さん」を連呼するだけで工夫がない。増村保造はこのテンポで人物の背景や立体像を描いてきた人じゃないんです、おそらく。この映画はそれこそ『砂の器』の野村芳太郎監督とかの系列だと思うんです。

お話の真相自体はというと、ふむ、まあ、岩下志麻は可哀想ではあるけれども、というかですねえ。おかしな母親に刷り込みをうけると実に辛い生き方を強いられるなあと思いますが、そこにもうちょっと力点を置いてもいいんじゃないかなあこの話。占い師のどうたらとかはどうでもいいっちゃどうでもいい。
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 岩下志麻のあの役の過去というのは、確かに辛いものがあるんです。自分の母親に刷り込まれたことを実行した=自分の人生を犠牲にしてでも業を背負った、にもかかわらず、岸田今日子は自分の実の母親ではなく、むしろ自分の人生をその最初で狂わせてしまった人間だった。話としては、未見で未読で恐縮ですが、最近の『八日目の蝉』などよりも遙かに辛い、自分が信じてきたものが完全に粉々になってしまうという恐ろしい話なんです。
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 ただ、それを「実はそういう真相だったのだ!」で推そうとするくらいだったら、端からそれなりに提示しておいたほうがよかったんじゃないですかね。もしくはもっともっとそこに熱量を込めなくちゃいけなかった。調査したりなんなりってことに時間を割くよりも、『砂の器』的な過去の悲劇にもっと力点を置くほうが絶対に映画のパワーとしては強くなったと思うんです。そのほうが岩下志麻の怪演により悲劇性がこもったと思うんです。途中まで、単に彼女は刷り込みの業にとりつかれていただけに見えますからね。そこについては、観客の知識が登場人物の認識を追い越してもいいと思うんです。

 で、これはあくまで物語的効果の話ですが、岩下志麻にあの父親を殺させたほうがいいんじゃないか。そのうえで真相がわかれば、これはもっとえげつなく悲劇性のある話になった。業に翻弄される人間としての像がよりくっきりとした。

 そういった点で、増村映画の弱点が浮き出る映画でもありました。勢いがないときの彼の作品は、物語的な強度それ自体が弱々しくなってしまうことがあります。『痴人の愛』『卍』あたりでその辺が色濃く出ていた。彼の大きな業績を抜きにしてこの映画単体に感じたのは以上のようなことであります。
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古さに抵抗を感じる必要のない、今観ても十分に楽しめる時代劇コメディです。
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井上Luwakさんにお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

 1950年以前の映画というのは何を観ればよいのやら、というのがわからずにわりと遠ざかっているため、山中貞雄という監督についても知りませんでした。その生涯を見るにまさしく「夭折した天才」であるようですね。初監督は22歳、監督として活動したのは5年間で作品数は26作。日中戦争に徴兵され、出征した先の中国で亡くなったときは28歳。当時は今よりもずっと制作ペースが速かったらしく、20代のうちから年間に4作も5作も撮る監督は他にも多かったようですが、それにしても20代で作品をがんがん撮って、それで戦争に徴兵されて死んでいったというのは、なんというか、なんというか、なんというか。

 で、現存する作品は本作とあと2つ、計3作品しかないそうです。あとのものもぜひ観てみたいと思います。非常に楽しめる作品でありました。

 時代劇の人物にてんで疎いぼくは、丹下左膳についてもよく知りませず、歌舞伎とかそういうもっと古い時代からの存在なのかなと思いこんでいたのですが、1927年に林不忘という作家が書いた新聞連載小説が初出らしく、しかも当初は主人公でもなかったそうです。片腕で隻眼、しかし刀の腕はめっぽう強いというキャラクターが受け、映画化したいという要望が殺到、人気シリーズになったということです。今で言うと、スピンオフ企画が大ヒット、みたいなことなのでしょう。

 ただ、この映画自体は、原作者サイドから抗議を受けたそうです。もともとのキャラクターや話と違う、ということのようです。その辺についてぼくには何もわからないのですが、この映画だけを切り取れば、非常に愉快なコメディであったと思います。

 コメディとしてとてもよくできているなあと思いました。
 70年以上前の作品とありながら、脚本的な面白さもテンポも十分に耐久しています。 現代の下手なコメディを観るくらいであればずっとこちらのほうが面白いです。掛け合いのよさとかギャグの構成とか、今観てもちゃんと面白い。これはすごいことだと思います。

 見た目はただの安い壺にしか見えない、本当は百万両の価値がある壺。これをつなぎとして主に三者の動きが織りなされます。複線構造を取っていて飽きさせないつくりです。
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「安い壺だと思って渡しちゃったらなんと大変な価値があったのだ!」 
 というわけでそれを取り戻そうとする藩主。

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「こんな汚い壺をもらったってしょうがないじゃないか、売っちゃえ売っちゃえ。
 え、何?すごい価値のある壺なの? 駄目だ、やっぱり売っちゃ駄目! え、もう売っちゃったの? ちょっと、早く探さないと!」 
 というわけでそれを捜しに行くのは婿養子になって別の家に住んでいた次男坊。

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 丹下左膳はその話にはしばらく絡みません。彼は射的屋の居候なのですが、店に来た悪たれとのいざこざで一人の男が殺されてしまいます。その男には息子がおり、みなしごになったその子供の面倒を見ることになります。その息子が抱えていたのがなんと百万両の壺。しかし当の息子も丹下左膳もそんなことは知るよしもなく、はてさて話はどうなっていくのやら、とこういうわけです。物騒なことも起こりますが、むしろコメディ部分が色濃くて、落語みたいな面白さもありますね。落語好きな人も楽しめると思います。
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 小さなお話で、だらだらする場面は一切無くて、「古い映画だから」と抵抗感を抱く必要はないと言えます。丹下左膳を演じる大河内傳次郎もコミカルで、喜代三という人の演じた女将の感じもこれまた観ていて非常にいい。ちょいとほろりとしました。女将は丹下左膳の連れてきたみなしごの男の子に対して、きつく当たるんです。でも、その直後で実はとても可愛がっているのがわかる。このあたりの緩急の付け方は、粋だなあと思いました。男の子がやってきたときに、「あたしは子供が大嫌いなんだよ」「どうするんだい、一日だって泊めておくわけにはいかないよ」みたいに言うんです。でも、次のシーンで、「あの子が来てからもう一ヶ月経つね」となって、無事に住まわせてもらえているのがわかる。また別の場面、男の子が「竹馬がほしい」と言うと、「怪我したらいけない。買ってやらないよ」と言うんですけど、すぐ直後の場面では一緒に竹馬で遊んでいたりするんです。表面では厳しいことばかり言っているんですけどね、ちゃんと寺子屋に通わせてやろうとしていたり、いなくなったら慌てて捜しに出ようとしたり、ああ、ちゃんと大事にしてやろうとしているんだなあとわかる。なんか、とてもほろりと来ました。ツンデレなるものよりも、ずっと小粋であるなあと思いました。
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丹下左膳のキャラクターが、思っていたものと違って面白く感じました。下町のおっさん風味が強くて、喜劇にそぐうものでした。夜道で敵を倒す場面も粋です。大河内傳次郎は何を言っているのかよくわからないところもあるんですけど、逆にそれが「おっさんが喋っている感」を強めていて愉快。
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 子役の使い方もあっさりしていていいですねえ。これね、今にも通じ得る作品だから、リメイクしても形になると思うんですよ。してご覧なさいな。子役の健気さみたいなもんを出しますぜどうせ。それで舞台挨拶とかして現場の雰囲気とかをママとマネージャーが教えた通りに話させるんだぜどうせ。それで映宣で19時台の番組に出て料理とか食うんだぜどうせ。そんなきらいはつゆほどもないという、当時の「あくまで大人が主役だ。子供は脇役なのだ」感がいいですね。
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 壺捜しに出る藩主の次男坊のコメディアンぶりもいいんです。70年以上前のものですからね、笑いの形としては今となれば「ベタ」なんでしょうけれど、その「ベタ」なるものが「ベタ」になる以前のものであって、ああ、こういう笑いがあってこそ現代の笑いができあがってきたのだなあと感服し、とても素直に楽しめました。いつもは後ろに控えている奥さんに頭が上がらないとかね、道場の門下生の手前、自分の弱さがばれないように慌てたりとかね、コメディの要素の定番ですけど、それをくどさゼロで簡潔にぴしっとやっているのは、これはもう昔の映画の醍醐味です。

 こういう潔いコメディっていうのは、日本映画ではもうあまり観られなくなってしまったように思いますが、どうなのでしょう。単にぼくが観ていないだけで、いっぱいあるのかもしれませんね。印象として、一人の監督が年に何本も撮っているような昔の状況のほうが、変にこねくり回したりするよりもあっけらかんとしたコメディが撮れるのかもしれません。あるいは今は喜劇の伝統って、もはや舞台のほうにのみ受け継がれているのでしょうかね。昔のコメディ映画精神を今も通じさせているのは、映画ではなくて舞台なのかもしれないなあと思います。やりとりやテンポのみの素朴な面白さという点では、映像技巧に寄らない舞台のほうが、確かに受け継ぎやすいのでしょう。

 音楽の使い方も独特で、ああ、いいものであるなあと惚れ惚れしながら観ていました。この作品について今、文句をつけたりなんだりってことはなーんにもないと思いますね。70年以上の時を耐久して今観ても面白いと思わせるなんて、すごいことです。これが面白くないと言う人には「お若いのう」と申し上げましょう。
 素直に楽しめる逸品でございました。
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 細部のよさは十二分。人によっていろいろな感じ方をするだろうな、と積極的に思える映画です。 
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OSTさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 以前取り上げた『さんかく』と同じ監督の作品です。フィルモグラフィを観ると『なま夏』という作品がデビウらしいのですが、そこで我らが蒼井そらを主役に置いているのが活かしていますね。『なま夏』もチェックしておこうと思います。

『机のなかみ』というタイトルですが、これはどういうことなのかぼくにはよくわからないです。監督インタビューなどを探せばどこかに答えはありそうだし、あるいは何か別の作品のパロディっぽい題名なのでしょうかね。わかんないっす。
 映画はと言うと、あべこうじ演ずる家庭教師と鈴木美生演ずる女子高生が主人公で、あべがやってきてから大学受験の日を迎えるまでの様子が中心となって描かれます。
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まず前半で映画の視点を担うのはあべこうじです。コントではなく一人喋りでR-1を制した彼ですが、なぜかあまり人気バラエティには出ていない印象です。どうして今のテレビで人気が出ないのか、とかを考え出すと長くなるのでやめておきますが、本作でもバラエティのような軽いノリの男として登場します。家庭教師なのですが、鈴木美生の可愛さにほえほえになり、勉強よりも仲良くなることにばかり気がいくようなやつなのです。
彼には同棲中の彼女がいるのですが、鈴木美生に気持ちが持って行かれるんですね。この辺は『さんかく』と同じです。
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 宇多丸さん風にいうと「主人公を好きになれない問題」が出てきました。
 あべこうじ自身の演技にはなんらの違和感もなくよかったのですが、いかんせんキャラクターとしてぼくはこの主人公の男が嫌いです。家庭教師が生徒の女子高生を好きになる、性的対象として見てしまう、というのは別にいいんですよ。というより、それはまあわかりますわ。「女子高生なんてガキじゃねえか」と思うくらいにはオトナになったし、街できゃぴきゃぴしていたりしたら「ふん、ガキめらめ」とは思います。しかしですよ、精神的、知能的にはガキであったとしても、肉体的にはねえ、そりゃねえ、そりゃまあ、その。

 今日も今日とて好感度の低下を感じつつ進みますが、だからあべこうじのいやらしい目線とかはいいんですよ別に。でもね、この主人公は職務をちゃんとやるぞという姿勢に問題がありすぎる。そこが嫌なんです。端からもう、女として見ていますからね。もちろん時間的な面もあるし、肝心の部分を前に出して描きたいのはわかるんですけど、一応さ、観ている側としてはさ、こいつの葛藤とかを共有したいわけですよ。生徒なのにそんな対象として見てしまうことへの内的葛藤みたいなもんを感じられなくて、鈴木美生が可哀相に思えましたよ。ぼくだったらもっとちゃんと教えてやるのに!
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 この男はリスペクトがないんです。彼女のお父さんは娘思いのオヤジなのです。で、夕食をともにするシーンがあるんですけど、あろうことかこのあべこうじはお父さんを無視して彼女とわいわい喋ることばかりに気がいっている。誰からお金をもらっているのかね、誰が雇い主なのだね、ということがわからない社会人には何の用事もないです。

 もちろん性格描写の上で必要なのはわかるけれど、そこはもうちょい、気のもつれというか、ためらいみたいなもんがないと、ちょっと感情を入れ込めないです。『さんかく』では「なんか、ちょっと、惹かれちゃうんだよなあ」というためらいがあって、そこからのほえほえだったからいいんです。それがないんです。

 ここからは展開を結構ばらしますので、そのつもりで。

 で、大学受験に鈴木美生は落ちてしまうんですね。このくだりのあべこうじは最悪の男です。落ちて放心状態の教え子をもう完全に性的対象として扱うんです。いや、うん、いや、そこはね、うん、わからんではないというと語弊があるんですけど、そういう「人間的な過ち」そのものを悪くは言いませんというか、ちょっと難しいんですけど、そういう風になってしまうあいつの気持ちもね、汲み取れないことはないです。100パーセント否定して、「あり得ない!」と叫ぶほどの短絡性は持ちません。文脈次第によってはあり得る振る舞い、と言えます。ただ、その文脈としては弱いんです。ここも内的葛藤が問題になるんですね。あべこうじが真面目な家庭教師で、でも気持ちがぐらついちゃって最終的にああしてしまう、だったら、ぼくは真逆の印象を持つでしょう。男の愚かさを感じてやまないでしょう。でも、このあべこうじには葛藤がなさ過ぎる。倫理が足りていない。最初はぜんぜんそんな気はなかったのに……という落差がないわけですから、これは観ていてもはらはらが生まれません。
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 まあ、あの彼女に魅力を感じないのはわかりますけれどね、もうそこはそういう風に仕向けられていますし。あの彼女、踊子ありという人は面白いですねえ。あの人が喋るたびにぼくは笑いました。バナナマン日村みたいな髪型で、なんでそんな喋り方なのだというがさつな感じなんです。あれは面白い。でね、関係性としても対比的で、喫茶店のシーン。あべこうじが鈴木美生を喫茶店に連れて行ったときは、奥の席に座らせているようなんです。でも、踊子ありと行くときは彼女を手前の席に座らせている。ここでもなんか、彼女はえらいぞんざいに扱われているな、でもそういう扱いに抵抗がないようだな、と思えて、なんかキャラクターが見えてくるというか、面白いんです。あれが年取ったら最悪のばばあになるでしょうねえ。軽犯罪は平気で犯しそうです。
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 先に役者の話を終えてしまうと、鈴木美生も面白いというか、角度によってずいぶんと可愛さがまちまちな感じの人ですね。映画公開時は二十歳を超えていたようですが、驚きました。十分に女子高生で、中学生と言われても違和感がないかも知れません。見え方によっては我らが恵比寿マスカッツの希志あいの様に似ていて可愛らしいのですが、正面から見ると意外にラルクのハイドみたいな顔をしていてあれ? だったり。斜めの角度が映える「角度美人」でした。キャラクター自体はもう、宮崎駿アニメの主人公みたいで、『耳をすませば』の実写化なんかをしたら合いそうだなとも思え、あるいは人との接し方なんかは『まどかマギカ』のまどか的でもありました。うん、まどかっぽいキャラだったと思いますね。友だちとのトークの感じが、まどかとさやかっぽかったです。
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 映画の後半はこの鈴木美生の話になります。映画の急な反転にはびっくりしましたね。

 前半では一切の背景を欠いていた彼女ですが、その分の種明かしみたいなもんが後半でいろいろ出てきて、つくりとしては面白かったです。「彼女がいる人を好きになる」の台詞の意味とかね。複数の人間は互いに互いの背景を有している、という当たり前の事実が映画で語られると、信頼が置けます。一方向だけで捉えないやり方がぼくは好きなので。

 机の上のあのペンの使い方もね、面白かった。あれはサービスショットにもなるし、登場人物の人には見せない陰の部分が活かされていていい。ああいうのを放り込まれると、ぼくたちの日常的なものの見え方にも揺らぎが生じるじゃないですか。自分にとってはこれはただのペンであると、This is a penだと。でも、そうじゃない可能性も見えてくる。これは『さんかく』にも見られた、「我々は互いのことをわかり得ない」というテーマの凝縮体とも言えます。

 映画の細かい部分で言うと、シーンの入り方が面白いのもありました。友だちとの屋上シーン、バスのシーン。あの友だち、清浦夏実の台詞で、「創作ダンス考えてないんだー」とか「左胸のほうがでかいんだよねー」とか言うのがあって、あれはねえ、多くの映画では切るんですよ。別の入り方をするんです。意味のある台詞からはじめがちです。でも、この映画ではそうじゃなくて、日常の一こまを切り取った風によく見せている。だからもっと長回しを多用してもいいのに、とも思いました。カラオケのビールのくだりの長回しはせっかくいいのに、わりとカットを切りがちだから長回しが全体を通してはそんなに活きない。
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 ひとつわからないのは、この話はケータイがぜんぜん出てこないですね。2006年段階では高校生はケータイを使いまくっていたでしょうし、教室の風景として置いておいてもよかったのになあとは思います。それこそあの好きな同級生の男子にも持たせておいていいし、ちょっとしたカットでいじらせてみたりしたら、鈴木美生との距離感にももうちょい深みが出たのではないかとも思います。デートの時も、ちょっとケータイをいじらせてみて、あれ、これはなんか、どうなん? あの友だちとの関係って、どうなってんの? みたいなじらしが入るともう一個深くなった。一瞬でいいのでね。それをしないので、中盤はわりとベタなデートになったなあとも思うんです。

 結構長くなりましたね。
 そろそろ終盤の話まで行きましょう。どう着地させるんだと思って観ていましたが、登場人物二人、あるいは三人による大号泣がクライマックス。五分くらい、びゃあびゃあ泣いていました。これは……ちょっと。ちょっとぼくは興が冷めたというか、そんなに泣きを押さんでもええのに、とは感じました。あそこまでやられると、ずっと入り込んでいた人間でないと引いてしまうんじゃないですかね。
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 個人的な「泣き」への感じ方ですけど、ぼくね、「アピール泣き」のにおいがすると引いてしまうんです。冷めてしまうというか。泣きたくない、泣きたくないけど泣かずにはいられない、というのならいいんですけど、なんか、ちょっと「甘え」入ってない? と思うと、急に気持ちが凍る。たとえばこの映画で、あの人物二人が陰でこっそりと大号泣していたりしたらまた別なんですよ。人には涙を見せないぞ、でも泣いてしまうんだ、というのがあると、その涙は本物だなあと思えるんです。でも、ちょっとさあ、涙に武器としてのニュアンスあるやん、そこがゼロではないやん。アピールメインではないとは思うよ、でも、正直に言いなよ、ちょっとアピールも入ってるよね、と思ってしまう。
 ここは大いにぼくの人間性の問題と言えそうです。ぼくは「男の涙」には弱いんですけれど、「女の涙」は、それがちょっと武器たりえてるやん、と思ってしまうのです。
 なおかつ、あべこうじにいくら泣かれてもそこはもうどうしようもないです。

 まだまだ語り足りないことがあります。オヤジと風呂に入っているくだりなんかも掘り下げたらいろいろ言えそうです。いろいろ語らせたくなる映画ですね。惜しむらくはあの大号泣ですが、じゃあどうすれば正解だったかというと、まだまだこれも考えてみたい。

 映画としての強さでいうと、個人としては橋口亮輔作品のようなものが期待できつつもそこにあるものがない、とも思えた。何をどう感じていいのかわからない映画とも言えました。細部の妙技は『さんかく』同様に効いていますが、個人的に合うところも合わないところも両方入った映画でした。
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