カテゴリ:邦画( 164 )

 岸谷五朗が格好いい。でも、よくわからないところも多かったです。
d0151584_21413858.png

DDさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。 

 崔洋一監督は『クイール』という盲導犬ものを撮っているので、『犬、走る』というタイトルを知ったときには犬のお話かと思いましたが、違いました。崔監督の作品は『月はどっちに出ている』と『血と骨』しか観ていないのですが、どちらも在日の外国人の生き様を中核に据えた作品でしたね。本作もまた、在日の中国人、韓国人が入り乱れる映画でした。

 韓国うんぬん、中国うんぬん、在日うんぬん、という話にはいろいろ思うところもあるのですが、最近はどうも、韓国嫌い、中国嫌い、という言説をネットで見るのに少し辟易しています。いや、言説ならばいいのですが、ただの罵言に過ぎないものがそこかしこで湧いていますからね。うん、その辺については、書きたいこともあるんですけどね。
 まあ、そんな話は置いておきますか。。
 さて、『犬、走る』です。

 岸谷五朗、大杉漣が主演で、岸谷は刑事、大杉はどうもよくわからない立ち位置ですが、情報屋みたいなもんらしいです。二人を軸に、歌舞伎町の裏稼業の様子などがいろいろと描かれていきます。
d0151584_21424813.jpg

 結論から言うと、どうもぼくにはよくわからないところが多かったのですね。もう少し説明してほしいなと思うところも正直ありました。いわゆる裏の世界みたいなもんに詳しい人にはぴんとくるようなのも多かったのでしょうけれど、ぼくには何のことやら、どうしてそうなるのやら、というのもあって、入り込むのに難儀した部分も多いです。
d0151584_2143039.jpg

よかったところで言うと、岸谷五朗ははまり役だったように思います。「不良の刑事」というのがいちばん似合う俳優の一人ではないでしょうか。やさぐれた雰囲気で、違法な行為もなんでもやったるでな感じがあり、韓国映画なんかに出てみても結構はまるんじゃないですかね。『夜明けの街で』っていう映画が公開中らしいのですが、予告編やポスターの感じからして、使い方が違うように見受けます。この人はこの『犬、走る』みたいな、ノワール系が最も似合うはずなのです。崔監督は韓国映画も撮っているらしいですし、ぜひ起用してほしいと思いますね。

 岸谷五朗が出てくると映画の温度が上がります。焼き付くのはなんといっても、「シャブを売る外国人を摘発」からの~「押収したシャブを部下の香川照之と打つ」→「ハイになりながら歌舞伎町の路上で若者をぼこぼこ」→「あげくにぼったくりバーでレイプして店内を破壊」。このくだりは絶品でした。もうむちゃくちゃですからね。このノリは最近の日本映画では観ることができません。なにしろ主人公の刑事がシャブを打ってレイプするわけですから、こんなのを公開したら真面目な人たちに怒られてしまいます。
d0151584_21432057.jpg

d0151584_21434214.jpg

 でも、だからこそ岸谷五朗が輝いているのです。90年代の薄暗い画面と非常によくマッチしていました。HIPHOPを随所でかますのも90年代的な古くささとしていいですね。こと日本映画において、HIPHOPは90年代的映像ととても相性がいい。宇多丸さんは「日本語ラップやヒップホップを格好いいものとして描く日本映画」について難を示していましたが、それが古さと結びついたら「だささ」として昇華する。男の髪型にしても、センター分けでその分けた前髪がもっさりしているというあのだささ。ああ、90年代だなあというのに満ちていました。おわかりかと思いますが、ここでいう「だささ」は肯定語です。
d0151584_21435373.jpg

 一方、大杉漣はというと、うーむ、この大杉漣がいいという声もネットであるんですけど、ぼくには大杉漣じゃないよなあという気がして仕方ありませんでした。大杉は岸谷に頭が上がらないような、弱気なキャラクターとして出てくるんですけど、存在感がありすぎるんです、個人的な感じ方ですけどね。もっと弱っちそうな人のほうがいいと思えてならず、観ながらどうもノイズになりました。だって大杉漣は岸谷五朗よりも十歳以上も上ですし、背だって高いし、それなのにあんな浪人生みたいな格好をしているのがどうも合わない。それとあの変なSMのシーンもよくわからない。岸谷のシャブ打ちバー破壊はキャラに合っているなあと思って楽しかったけれど、大杉のSMシーンは何なのでしょう。あれを入れた意図がぼくにはわからないんです。この映画において、彼の性格を描写する場面たり得ているかというと、ぼくにはどうもそうは思えないというか、うん、よくわからないんです。教えてほしい側の人間です。
d0151584_2144417.jpg

 冨樫真演ずる中国人娼婦の死で物語が大きく動くんですけど、ここもぼくにはよくわからなかった。すっごい唐突に死ぬ、というか死んでいるんです、あの人が。あれね、冨樫真がどんなことをやっていたのかもうひとつよくわからないんですよ。一応台詞で説明されますよ、ヤクザに目をつけられるようなことをやったってのも言われているし。でも、そーんなに存在感がないというか、ああ、この人が殺されちゃった、えらいこっちゃ感が実に乏しい。簡単に言うと、死体としてのほうが活躍してしまっている。死体をあちこち引きずり回すことになるんですけど、そっちのほうが出番としてはむしろ長いっていうね。それだとどうも、もっと序盤で、大きな役割を担ってもらわなくちゃいけないと思ったんです。岸谷五朗にしても大杉漣にしても、冨樫真を弔う精神がなさ過ぎる。ただの邪魔な死体扱いですからね。それでいいのかよ、と思わされる。いや、それならそれでいいけどさ、でも、死者をそういう風に扱って、最後にあの展開来られても、ぐっとは来ないよと思うんです。
d0151584_21443962.jpg

d0151584_2144482.jpg

 それと、これまたよくわからなかったのは、最後の「防弾チョッキ、着てないのか」ですよ。え、なんで大杉が防弾チョッキを着ていると思ったんですか? ネット上の解説で、岸谷と大杉がヤクザ摘発のために一芝居打ったのだ、みたいに書かれていたんですけど、え、どこでわかるのそれ? ぼくが聞き逃したんですかね? だってその直前のシーンで、大杉はヤクザに脅されていたんですよ散々。そこから説明無しであの新宿東口大疾走に行くんですよ。どうして岸谷は大杉が防弾チョッキを装備していると思ったんでしょうか。
d0151584_21445990.jpg

 それに、だったら、その伏線をどこかに入れておくべきでしょう。いざってときは防弾チョッキが役に立つぞ、みたいなことをどこかで大杉に吹き込むなどして置くべきでしょう。そう、それがないんですって。クライマックスまでのどこかでね、大杉漣が、「防弾チョッキを着ておくと安心だ」と思えるシーンが必要なんです。そうしないと観客を導けないですよ。それがあって初めて、「おい、おまえ着てないのかよ」になるんですよ。いっくらでもあったはずですよ。岸谷と二人でヤクザの事務所に乗り込むくだりが前の段階であるんだし、そのあたりで岸谷に確認させたっていい。着てるな、よし、みたいなやりとりがひとつでもあればぜんぜん違っていた。それがないのに、あれで何か驚きを演出みたいな風に持って行かれたって、それは無い話ですよ。「だってあれ、蒸れるし……」って、着たことないじゃん大杉漣!
d0151584_2145883.jpg

 と、延々書きながら少しだけ不安です。「あったじゃん、そういうシーン」と言われたら終わりです。あの空き地で岸谷が着ているのがわかるのは違いますよ。あれを持ち出さないでくださいよ。あの展開より前で、という話です。いや、あの風俗の短いシーンで、もしかしたら岸谷に大杉から電話がかかっていたのかも、あの電話はそういうことだったのかも。もしもそうだとするなら、そこは絶対カットしちゃ駄目だって。あれが最後のチャンスだったのに、伏線を張るためのさ。

 韓国、中国の人々の生き様みたいなもんももうひとつよくわからなかったです。冒頭にあの部屋で拉致されていた人たちの話も、わかる人には何のことかわかるんでしょうけれど、もう少しでいいから説明してくれないかなあと思いました。それはおまえの知識不足だって言われるかも知れないけど、ああいうことにまつわる知識は、まっとうに生きていくうえでは入ってこないものなんですよ、そこで知識不足を責められても困りますよ。韓国、中国の人の生き様ってことでいうと、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』がすごくよくて、あの映画だとあの人たちの目線もわかった。でも、この映画ではわかりませんからねえ。自国から出稼ぎに来た人々の人生っていうのが、この映画では何もわからない。モチーフとして利用されているだけに思えた。

 岸谷五朗を軸とした映画の風合い自体はいい。そこはとてもよかったと思います。ただ、細かい部分でよくわからないところがあって、あるいはぼくにはこの映画を正当に評ずることができないのかもしれません。だからむしろ、教えてほしいことが多いですね。自分にはこの映画の良さが大いにわかったぞ、という人、大募集です。
[PR]
シリーズ通して、楽しませようという心意気に溢れていますね。
d0151584_875846.jpg

9月に観た平成版1作目が凄く良かったので2の『レギオン襲来』も観て、この3まで観てみました。2を観たときはぼくの鑑賞コンディションが悪かったせいもあり、あまり感じ入ることができなかったですね。永島敏行の暑苦しい感じも好みではなかったのですね。では、3はどうなのでしょう。

 3では2で出てこなかった中山忍が復帰し、「シノブリン再来」は嬉しかったです。2の水野美紀とは違う、シノブリンの「部下のOLっぽい感じ」、ぼかあ、好きだなあ。
 のっけからあほ丸出しですけれども、本作のメインとなるのは前田亜季のお姉さん、前田愛です。前回の記事で、ぼくたちはもっと前田亜季を愛でていくべきだという突然の主張を展開したぼくですが、ではお姉さんの前田愛はどうなのかというと、ふむ、個人的には少年っぽさが強くて妹ほど萌えられぬのですね。少女成分があと数パーセント濃くなっていればなあと思ってしまいますね。ふむ。
d0151584_885060.jpg

d0151584_885994.jpg

 それにしても前々回に池上季実子を「季実子様」と呼び出し、大場久美子を愛で、その次の記事で前田亜季を絶賛し、そうかと思えば前田愛をよしとせずにシノブリンのOLらしさが好きだなどとまたも言い出すという、もはやどうしようもない人みたいな調子が続いていますが、愛想を尽かすなら尽かせってんだ馬鹿野郎。いいのっ、このブログはそういうブログなのっ!

 ああ嘘です。ちょいと情緒不安定が炸裂しただけです。読んでくれている方には感謝しているのです。感謝しているからお金をください。

 はい、本当にいい加減にします。
 さて、『ガメラ3』ですが、前田愛がガメラの敵となるイリスの封印を解きはなってしまい、とんでもないことになってしまいます。物語に厚みを持たせた点としては、彼女がガメラによって家族を殺された記憶を持っている、というところです。考えてみるに、これは特大ヒーローものが隠し続けてきた点ですね。ウルトラマンに踏みつぶされた人だっているに違いない、というものの見方は大変興味深いです。『エヴァ』の庵野秀明がメイキングビデオを担当しており、関わっているようなのですが、エヴァでもありましたね。トウジがシンジを恨みに思う、という展開。こういうのは、ヒーローの非ヒーロー面を照射する視点として面白い。そこを中軸に据えた、という設定には妙を感じます。
d0151584_8102558.jpg

 改めて思うこととしては、いかにも「フィルムらしい」90年代の画はいいなあ、というのがありますね。最近の映画、特に邦画について思うのですが、デジタルビデオカメラで撮りすぎているせいで、闇を使えなくなっているように感じます。カメラ技術には何の知識もないので深い話はちいともできませんけれども、昔の映画のよさはひとつに、闇や陰、影を十分に活かしているところがありますね。最近の邦画の多くに対して積極的に観ていく気にあまりなれない、という要因のひとつは、画が明るすぎて薄っぺらくなり、闇や陰が活かせていないのが予告編の段階でわかるからです。夜9時台のテレビドラマじゃないんだから、と言いたくなるものもたくさんありますね。VHSならではのよさってあるじゃないですか、フィルムならではのよさってのは当然にあるわけです。『ガメラ』平成版一作目はそれがフルに活かされていました。夕暮れを活かし、陰影を際だたせていた。それが画の全体にほの暗さをいつでも醸していた。

 本作もその味わいは活かされているのですけれども、1のようなキラーショットが減じていたのはいささか残念でもありました。イリスに体液を吸われ尽くして一瞬でミイラになる仲間由紀恵などが出てくるのですが、これも1で数多く観られたキラーショットに比べれば弱い。1よりもお金が出た分、特撮のレベルも上がり、ガジェットも多用できるようになったのでしょうが、1の頃のようなやったるで精神は少し弱まっていたんじゃないかと思ってしまいました。
d0151584_893195.jpg

d0151584_894010.jpg

 それでも、ギャオスの渋谷襲撃シーンは圧巻でありました。平成シリーズを通して特技監督を務めている樋口真嗣の本領が否応なく発揮されているのであり、渋谷がどえらいことになっているのがビューティフルでした。これね、街が破壊されるのを褒めるなんて、おまえは311をもう忘れたのかと言われるかもしれないけど、そういうことじゃないんだよ。映画の凄いシーンってのは、凄いもんは凄いんだから、仕方ないんだ。現実と切り離そうぜ。現実と映画を混同するのはよそうぜ。
d0151584_894944.jpg

d0151584_895877.jpg

 シリーズを通して、街が破壊される場面を街の目線でしっかり撮っているのが頼もしく、今回の渋谷破壊シーンでは容赦がない。ガメラの恐怖もばっちりです。願わくばもっと容赦なくしてもよかったとも思うけれど、そうすると規制が入るから仕方ないところなのでしょう。
d0151584_8103667.jpg

 気になった点としては、山崎千里がどうも安い、ということです。危険な香りのする謎の女みたいな立ち位置ですが、どうも安い。バーゲンのにおいがする。それと手塚とおるが無駄に気色が悪い。あのキャラを置いた理由がよくわからないところです。手塚とおるの気色悪さはテレビドラマの『ケイゾク』が印象深いのですが、本作ではなんか、思わせぶりなだけで結局はいてもいなくてもそんなに関係ないんじゃないかみたいなキャラクターで、ちょっと意図がわかりかねました。
d0151584_8104657.jpg

 あとは、これはもう、世代的な問題なのですかねえ。
 イリスの造形がね、ちょっと狙いすぎというか、格好つけすぎている感がしてしまったんです。ぼくね、ウルトラマンにせよ仮面ライダーにせよ、平成版みたいなのは駄目なんです。かっこよろしなー、と思ってしまう。本作のイリスは平成版ヒーローものに出てくるような造形なんです。ギャオスはそうじゃなかったし、レギオンもそうじゃなかった。昭和の職人がつくってるでー感があった。でも、1999ですからね、1999の小学生をターゲットに考えるなら、あの造形は受け入れるほかないのでしょう。ギャオスみたいな、古き良き怪獣像はそこにはありませんでした。うん、でもこれはきっと、世代的問題。
d0151584_8105931.jpg

 世代的問題ってことでいうと、小山優という人が演じた少年です。前田愛を守る男子の位置なのですが、少年誌っぽいというか、これまた変にヒーローっぽい。前田愛との恋ともつかぬ恋みたいなのを放り込まれたので、ガメラを観たいぼくとしては、いささかどうでもよかったりする。個人的な考えでは、せっかくガメラを憎む少女として前田愛を出したのだから、そっち方面でもっと膨らませてもよかったんじゃないかとも思う。イリスを育てるくだりみたいなのをもっと哀しくまがまがしく描いたほうが熱くなったんじゃないでしょうか。しかし映画ではわりと早い段階でイリスと前田愛が離ればなれになるため、両者の繋がりが少し弱い。邪悪なものに恋してしまった前田愛、でいいのに。そうすれば彼女の葛藤がもっと強くできたのに、その振れ幅がない。それで山崎千里の謎の行動なんかを見せられても。
d0151584_8111297.jpg


 ラストはよかった。あのラストはいい。格好いい。いいのだけど、その直前、ガメラと通じ合うみたいな瞬間は要らない、とぼくは思った。2でね、「ガメラは地球の守り神だ。だから場合によっては、人間の敵になるかもしれないぞ」みたいなことを言っているのだから、なまじ人間ごときと通じ合う必要はないのです。人間を守る、みたいなのは要らないニュアンスだと思ったのです。通じ合ったとしても、1の藤谷文子みたいに、あくまで控えめにしていればいいのです。孤独な英雄ガメラ、だから格好いいってぼくは思っているのです。だからこそ2で、「ガメラを援護しろ」という展開になったとき、おおおおおおおおおお、と感動を覚えたのです。そして、今回も。そんなぼくからすると、硬派なつくりの平成版ガメラにしては、ちょっと安心させるほうに寄っちゃったんじゃないかと思いました。うん、前田愛にまつわる振れ幅がどうもなあ、というのがあります。
d0151584_814090.jpg

 平成版ガメラって、結構どれが好きか分かれるみたいですね。それはつまり、どれも高い水準をキープした良いシリーズだということです。ぼくは1が好きですね。2も3も十分に見応えがある。今後、こんな風な怪獣映画は日本で生まれるでしょうか。うーむ、うーむ、うーむ。311があったし、できたとしてもずっとずっと先のことになってしまうでしょう。うーむ。
[PR]
1ほどのラッシュはなく、残念。前田亜季のかわいさがいちばんの収穫。
d0151584_62690.jpg

『HOUSE』を観たらふと『学校の怪談』を観たくなり、1は既に観ているので2。
観ながら思い出しましたが、2も映画館で観た記憶があります。ああ、なんかこのシーン覚えているな、と脳裡をくすぐられる感覚がありました。

 ただ、強く焼き付いていたのは断然1のほうだったのですね。2は序盤のほう、もののけが出てこない段階のシーンのほうを覚えていた。つまり、2には1ほどのキラーショットを感知しなかったのが当時のぼくで、なるほど今観てみてもこれは1に比べるとちょいと劣るかなという印象です。

1も2もそうなのですが、これはホラー映画ではありません。ジャンルわけするならば、モンスターパニック映画と呼ぶほうが適切でしょう。子供が怪異に巻き込まれても、殺されたりすることはないし、過激な表現もありません。お化け屋敷を楽しむ感覚で観るべき映画と言えます。

 前作の舞台は街の中の学校。新校舎に対比される木造の旧校舎が舞台でしたが、本作では田舎が舞台。東京から塾の合宿でやってきた子供たちと、地元の子供が、肝試しの最中に学校に迷い込んでしまい、きゃあきゃあ、という筋立てです。
d0151584_624493.jpg

d0151584_63448.jpg

前作のお化け屋敷に比べるとパワーダウンしている感が否めません。そう考えるとやっぱり1はなかなか詰め込みがしっかりしていたなあと思います。学校の怪談に出てくるようなモンスターを連射して、くまひげさんをボスの位置に据えて、中盤からは怪異のラッシュがありました。2はややその辺が間延びしている印象がありましたね。いちばんわかりやすいのが西田尚美と米倉斉加年のシーンで、彼らは結局学校に入りもせず、別段物語に絡んでいない。一応保護者的に出てきただけで、あれを省いてもうちょっと密度を高めることが可能だったように思えてしまいます。
d0151584_63234.jpg

d0151584_633634.jpg

 結構ギャグ路線が強いんですね。それはそれで楽しいんだけれど、1のようなキラーショットや、子供たちがパニックに巻き込まれる快楽は乏しい。もっといろいろネタがありそうなんですけどね、1で結構おいしいのを使っちゃったのかなあと残念でした。岸田今日子の使い方にしても、しょぼしょぼーんでしたね。1のくまひげさんみたいなスターにならなかった。
d0151584_634747.jpg

 本作のスターということで言うなら、これは前田亜季です。前田亜季がとても可愛いです。迷い込んだ普通の女の子として出てくるのですが、どうせなら彼女の登場シーンをもっと増やしてほしかったですね。彼女を中心に据えてくれれば、ああ、どうなっちゃうんだろう、はらはら、というのがもっと高まったはずなのですが、わりと脇役です。登場シーンが多いのは竹中夏海という人ですが、この子は川平慈英に似ています。川平慈英に似ている少女が走り回ってもそんなに楽しくないのです。中盤は前田亜季不足に悩まされながら観ることになりました(あほ)。
d0151584_64168.jpg

 しかし考えてみるに、前田亜季という人はそんなにフィーチャーされないですね。子役時代は『天才てれびくん』に出たり『さんま大先生』に出たりしていたようですが、大人になってからはバラエティに出ることはほぼ無くなっています。それは女優として大変真っ当であるなあと思うわけですが、じゃあ女優としてたとえば蒼井優や宮崎あおいのようにもてはやされるかというとそうでもなく、なんというか、もうちょい皆さん、彼女を愛でようではありませんか。そういえばCMのイメージもないですね。ウィキでチェキしてみると、どうやら90年代にはたくさん出ていたようですが、ここ10年ほどは数えるほどしか出ていないようです。ふうむ、本人の意向もあるのかもしれません。単純なオファーの問題でしょうか。その辺は知りませんけれども、ほいほいとCMに出て行く「女優」とはやはり違うのであります。バラエティにもCMにも出ない女優を大事にしなくてはなりません。それでこそ女優なのであります。にわかになぜだか前田亜季熱が高まりつつあるので、そのうち『最終兵器彼女』でも観てこましたろかい、という気分です。
d0151584_641026.jpg

 映画に戻ります。
 本作に足りないものは、ラッシュです。次から次へと迫り来るもののけラッシュがないんです。一個ネタを出したらしばらく休み、その後また出して休み、という感じになってしまい、勢いがつかないのです。いいネタは1で結構使ったきらいもあるから仕方ないのですが、人面犬の置き位置ももったいない。あれはずっと校舎内に置いて、マスコット的に使えばよかったのに。それと、いちばん大きなもののけが、これまたくまひげさんに比べたら弱いんですねえ。何であの変な人形にしたのか、あれには何の伏線もなかったから、観ていても思い入れられない。最後はそれなりにどどんがどんとなっていくんですけれど、中盤でのおばけに満腹感がないため、え、もうクライマックスなのかい、今回のコースはメイン料理が弱いなあと思ってしまいます。
d0151584_642069.jpg

 字面で観ると酷評しているように読めますね。実のところ、そこまで厳しく言う気はないのです。要するにぼくとしてはもうちょっと前田亜季を出してほしかっただけと言えばそうなのですけれども、いざ書き出すとこういう調子の捉え方になります。なまじ1に惚れているだけにね。土台子供向けのお化け屋敷映画ですから、本当はそこまでうるさく言う必要はなくて、それなりに笑って楽しめばいいんです。だから別にこれはこれでよいのです。ただ、1には及ばないというのは確かです。

 3はおそらく観たことがないのですが、『ガメラ』の金子修介監督で、前田亜季も出るようですね。だったらチェックしなくてはなりません。今日はこれまでです。
 ひひひひひ。
[PR]
神々しいまでの季実子様。飛んでるアイドル映画として絶品なり。
d0151584_6535065.jpg

大林宣彦、商業映画デビュー作です。先月に観た『さびしんぼう』がよかったので観てみましたら、これまた面白い作品でありました。なおかつ、アイドル映画としても大変に素晴らしいものであるのでした。

『さびしんぼう』では富田靖子が輝いていたわけですが、『HOUSE』における池上季実子はそのさらに上を行くというか、もう本当に観ているだけでめろめろです。めろめろ。
d0151584_6543662.jpg

d0151584_6593522.jpg

 彼女を含めて七人の女子が出てくる映画で、ウィキによると「ハウスガールズ」なる宣伝ユニットを組み、「かなり人気が出た」そうです。でもまあ正直、池上季実子がずば抜けているというか、映画を観ていてももう周りと違うんです。一人だけ位が違う。公開当時の彼女は18歳ですが、こんなのが学校にいたら、同じクラスにいたら、もう、逆に学校に行けません。あまりにも眩しすぎて目をやられる恐れがあるし、なまじ多感な時期の妄念に駆られなどしたら授業中に発情、お縄頂戴になること請け合いであります。ラストにね、ストーリー展開とは不調和な、アイドルのイメージビデオのシーンみたいなのがちょっと流れるんですけれど、あんなものを見せられたらこちとらはめろめろになるしかないじゃないか! 
d0151584_6551368.jpg

d0151584_6552540.jpg

 大林監督のアイドル映画手腕というのはデビュー作でもはや最高潮の域に達していたと言えましょう。最近の映画監督はあまりアイドル映画で評価を受ける人がいないようですね。アイドル映画たり得るような作品はおそらくいっぱいあるだろうし、被写体も溢れんばかりにいるはずなのに、どうしたことでしょう。今、アイドル映画を撮れるとなったらその監督は引く手あまたに違いないのですが。

 映画はと言うと、CF出身の監督らしい、試みに満ちた一本でありました。80年代ならばまだしも、これを70年代にやっているのはすごいですね。蛮勇の連続です。映像効果が積み重ねられており、地味な日本映画の中にあって傑出した作品とも言えましょう。今でこそね、それこそ同じCF出身の中島哲也監督みたいな映画を撮る人はいますけれど、当時にこういうことをやるっていうのは勇気があるなあと思います。それが馬鹿馬鹿しさに振れている点もいいし、細かい部分にも気が利いています。冷蔵庫を開けると「イヤン」という声がするとかね。お笑い風味もしっかり効いている。
d0151584_6555715.jpg
 
d0151584_6561595.jpg

 季実子様演ずる「オシャレ」(この映画では『太陽にほえろ!』よろしく、登場人物にあだ名がついています)のおばちゃまのお屋敷に行くことになるのですが、そこで待ち受けていたのは南田洋子扮する不思議なおばちゃまと、おぞましい怪異の数々なのでした。
d0151584_6563671.jpg

 怖い映画といえば怖い映画なんですよ、何しろ少女たちが次々に失踪し、惨殺されるわけですからね。でも、ホラーに寄りすぎて表現の幅を狭めることなく、もっと訳のわからないものにしてやろうという野蛮さに満ちている。変な映画、として成立している。
d0151584_6564542.jpg

d0151584_6565699.jpg

d0151584_65787.jpg

 これを少女限定の物語にしたのは実にいいですね。ここに男が入っては駄目だろうなと思います。少女たちが振り回されている様は大変に愉快なのであります。季実子様が図抜けているのですが、大場久美子の適度な可愛さがこれまたよいです。普通の子なんです、言っちゃえば。でも、普通の子の可愛さが季実子様と対比されていて、彼女が同じクラスにいたら普通に嬉しいです。スタイルの感じも現在に通じるんじゃないですかね。うん、適度に可愛いです。「ファンタ」というニックネームの等身大っぽさが、前田亜季っぽくていいです(何を言うとんねん)。いや、でも、これは『バトルロワイアル』における前田亜季の、適度な可愛さに通じるものがありました。今思うにあの映画でも栗山千明や柴咲コウなどのとんがり美女が活躍していましたが、その一方で「守られるべきヒロイン」として前田亜季を置いたのは、きわめて素晴らしいキャスティングバランスだったのです。
d0151584_6572312.jpg

d0151584_6573391.jpg

 他の五人について言うと、「クンフー」の位置にはもうちょいきれいめの子がいるとさらによかったと思います。あのキャラはたとえば『ハルヒ』における鶴屋さん的な、あるいは『セーラームーン』におけるジュピター的な置き位置なので、ここにさらなる美女キャラがいたらアイドル映画としてもう一段レベルアップでした。「スウィート」はよかったです。当時であの風合いを出しているのは慧眼です。結構キャラわけがはっきりしていてわかりやすいです。

 でも、他の三人はちょっとです。70年代当時としては知らないけれど、今観るに明確なおぶすさんもこれいるわけです。これが全員美女だったらぼくは何も言わなかったでしょうに、むむ。しかし、これまあどこまでを制御していたのかわからないけれど、おぶすさんはおぶすさんなりのインパクトを持ってやられていきますからね。ああ、これはおぶすさんでこそおかしけれ、と思う場面もあったりして、作り手のすごさをその辺にも感じる。

ホラー演出として、今観てもいいなと思えるものも多かったですね。これだけいろいろやっているからこそ勢いがつくというのもあって、クライマックスの赤い水の洪水は迫力がありました。あの中を翻弄されていく大場久美子=ファンタには季実子様とは違う萌えが確かに宿っているのでありました。
d0151584_6575070.jpg

d0151584_658024.jpg

 この映画について瑕疵を問う気にはあまりならないです。むしろ攻めているところを賞賛したくなります。だって、そりゃ褒めますよ、だって、だって、なんたって、季実子様のパイオツが拝めるのですから!(もうちょい上品な言い方せえ)

 ええい、好感度が下がろうが何だろうが本音で書いてやるんだ。もともと好感度なんてないんだからいいんだ。この映画の季実子様はね、公開当時18歳ですけれども、たとえ短いカットとはいえ、ぼくらの味方であるあのおぱーいを露わにしているのです。それだけでももうこの映画はいいのです。さすが季実子様です。別に出さなくてもいいシーンなのに、おぱーいを見せてくれているのです。大林監督のスケベ精神を賞賛してやみません。
d0151584_658934.jpg

 アイドルを綺麗に映して、そのうえおぱーいまで映したとなれば、もうそれでいいじゃないですか。何を文句を垂れることがありましょう。最近の女優もアイドルもアイドル映画制作者もぜひ見習っていただきたい。特に必然性もなくおぱーいを出していただきたい(何を言うとんねん2)。

 これまでの記事の中でも最も品のない、気色の悪い部類の文章になりまして、ただでさえゼロであるところの女性読者支持層をあらためて失うに至り、その点に幾分の反省はあるのですけれども、「飛んでるアイドル映画」の傑作を薦めるに当たっては、品格などは忘れてやるのであります。観てみるとよいでしょう。
[PR]
相手のことなどまるでわかっていない、という不可避の前提。大筋に細部に妙技。
d0151584_7112860.jpg


もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ポスターの印象で映画の内容をなんとなく予想してしまう人も多いのではないでしょうか。かく言うぼくもそうで、きっと「同棲中のカップルのところに女の妹が入ってきて、むにゃむにゃした三角関係が織りなされ、あるいは修羅場的な何事か」が行われるのであろうと思っていたわけですが、それが裏切られました。事前に思っていたイメージと違う内容が来ると、展開が読めなくてわくわくしますね。

 主軸となるのは高岡蒼甫と田畑智子のカップル、そして小野恵令奈演ずる田畑智子の妹です。小野恵令奈という人は元AKBだそうですね。きっと今後の日本映画、あるいは芝居産業全般で、元AKBとかが増えていくことでしょう。
d0151584_7121070.jpg

d0151584_7122490.jpg

 基本設定は予想していたとおりで、高岡と田畑のもとに小野がやってきて、高岡の気持ちがふらふらしてしまうというものです。この高岡蒼甫のアホっぷりがいいわけですね。確かにこのようなやつはいる、という実在感。いい年こいて、後輩に先輩面したがって、ちょっとため口を聞かれるのにも敏感。ため口聞かれるくらいの存在でしかない自分、という自覚については鈍感。舞台がこれまた田舎で、彼は釣具屋の店員をしているのですが、小さな場所で生きてきたやつなんだなあというのがよくわかります。
d0151584_7124155.jpg

d0151584_713588.jpg

 田畑智子と彼はいわば倦怠期を迎えているような状態なのですが、この映画のいいのはひとつに、この田畑智子がそんなに可愛い彼女に思えないところです。少なくともぼくにはそうだった。小野が出てくることでね、彼女の保護者的な立ち位置をある程度強制されるがゆえに、ちょっと小うるさいキャラクターみたいに見えてくるわけです。途中、彼女が高岡にキスをねだるシーンがあるんですが、ここなどもね、鬱陶しいなあという風に見えてきます。女性からすると違うかもわかりませんが、男目線で行くと、高岡が小野に気持ちが移行していく様子が上手だなあと感じさせます。
d0151584_7132668.jpg

 田畑がキスをねだってね、高岡は言われたからするよ的な、ほとんど義務的、事務的にやるんです。で、違うでしょとなる。この場面の男の正解はおそらく、キスをして、そのままキスをやめずにもたれかかり、女のほうが少ししつこいと感じてしまうくらいまでやめない、です。相手が求めていることをまるで感知できない、感知しようとしないという、倦怠期描写の弾ける場面です。で、実にまっとうなことに、確かに田畑にキスしたいとは思えないようにできているのです。
d0151584_7133956.jpg

小野恵令奈という人は初めて観ましたが、顔立ちも適切であるとして、あの鼻づまりの眠たい人みたいな喋り方がいいんですね。しゃきしゃきしている田畑と好対照で、ああ、これは高岡が田畑と付き合っているときに得られずにいた刺激をしっかり与えうるな、と思わされる。倦怠期を迎えたときにあれに来られたらねえ、そりゃそれなりにほえほえになるのも頷けます。で、この高岡は「先輩面したい人間」ですからね、ああいうのに惹かれるわけですよ。人生の先輩としていろいろ威張りたくなるし、常にリードしていたいわけです。この人物設定はこれまた細かいところが効いています。
d0151584_7135273.jpg

 このあとの展開は観ていない人にはばらしたくありませんが、ええいままよといつものペースで書いていきます。
d0151584_714963.jpg

 小野が中盤からぜんぜん出てこなくなるのは意外で、面白く感じた。ああ、出さないんだ、と。なるほど、高岡と田畑の話で造形するのだなと。この田畑智子がストーカーみたいになっちゃうわけですけど、いい台詞を吐きますね。高岡の家に無断で入ったことを矢沢心に話すときに「アメリみたいじゃない?」って。くわ、なるほど、このような精神構造なのか! とひとつ勉強になります。で、ああ、緩やかに壊れるってのはこういうことなのかもしれないとも思いますね。だって、もう一緒にいるのは嫌だ、出て行くって言って出て行って、自宅不在のときに家の中が片付けられていて、喜ぶわけないですからね。「あいつめ、まったく世話焼きなんだからもう、可愛いやつめ」とはならないですからね。その辺のことは無視してしまう、相手の感情がどうなるかは別として、自分の中で沸騰する愛情を相手に吐き出さずにはいられなくなる、その姿がまるで映画の主人公のようですらあると錯覚する。この心理の動きはよく描かれているなあと思ったんです。この監督がホラーを撮ったら面白いと思いますね。
d0151584_7142341.jpg

d0151584_7143682.jpg

高岡が家に投石されたり車に傷つけられたりする犯人が田畑じゃないのは、すぐにわかりました。車の傷の段階で違うと思いました。田畑の迫り方は攻撃的じゃないですからね、彼女は終始自傷的、依存的だったので、あれは別人の犯行だ、そうなると彼しかいないなとはすぐに思った。あれもね、いい設定ですね。自分がまったく気にかけていない相手から復讐されるというのは怖いです。この映画全体を貫くものとして、「自分はこう思っている。でも、相手はそうは思っていない」あるいは「自分はなんとも思っていない。でも、相手は別の感じ方をしている」というのがあります。人間関係の齟齬ってのはつまりそこなのでしょう。

 ぼくたちには相手のことなどまるでわかっていないのだ、という当たり前の前提を突きつけてくる。映画というのは複数の視点をなしますから、観客はある程度客観視できる。でも、劇中の人物には当然複数の視点など持てない。でも、その差異を通して、ぼくたち自身の姿を照らす。映画という形式の基本がしっかり用いられていました。
d0151584_7145271.jpg

d0151584_715384.jpg

 そこがこの映画のひとつの特徴ですね。そこはかなり意識的にやっています。冒頭、矢沢心の怪しい会社の話を聞いてから喫茶店を出たとき、宇野祥平(『オカルト』の怪演が素晴らしかった)のカップルが高岡の車を見送るシーン、高岡が風呂から出たときの床、矢沢と彼女の上司が高岡たちのマンションを出たあとの会話の一瞬。これらはどれも、ぼくたちが日頃生きていて、制御しきれない部分です。でも、そこで自分の残したにおいを嗅ぐ相手がいる。彼らがどう思うかはまるでわからない。こういうのを見ると、人間関係の映画として適切だなあと思う。そして、たとえ主人公たちがどんなに悩もうとも、そんなことは誰も気にしていないということまでわからされる。他人は、他人の見方で他人の感じ方をしている。

 小野のところに高岡が行っちゃう痛さってのはこれまたいいですねえ。そこまでの電話の様子もあるし、田畑とのこともあるんだから、絶対行っちゃ駄目なのに、行ってしまうあの馬鹿さ。で、そこでぜんぜんうまく行かない感じ。あれはまことに無様です。で、そんなときに田畑が輝いて見える。自分の心が折れそうなときに、既に心折れた田畑のことがわかってくる。うむ、素晴らしい。そのどうしようもなさを含めて、素晴らしい。
d0151584_7151883.jpg

d0151584_7152812.jpg

 時間がぜんぜん気にならなかった。反面、え、これで終わる? という戸惑いもありました。もうちょっと見せてくれてよかった。あのあとどう着地するんだというのは見たかったですね。でも、うん、開いて終わりっていうのもわかるから、難しいところです。あれでよりを戻しても戻さなくても、どっちで描いても違うなと思ったかもしれないし。ぐずぐずするくらいならあそこでぱしっと終わるのもありなのか、うむ、わかりました。時間的にサイズ的に、真っ当な長さです。
d0151584_7154084.jpg

 大筋に細部に、設計の妙を感じる作品です。ポスターが印象を裏切り、観客に適度な驚きを与えるという部分の設計も含め、とてもよい映画だと思います。
[PR]
母と子の話の、ある面での真実なのでしょう。
d0151584_5462550.jpg

久々に観る大林宣彦。これまでに観たのが『時をかける少女』『天国にいちばん近い島』『理由』だけなのですが、それらを観るにあまり好きな監督ではないなあと思って遠ざけていました。世に名高いカルト映画『時をかける少女』がねえ、ぼくには良さがわからんのですわ。細田守のアニメ版はねえ、内容どうこう以前に、あのオリジナルでいうところの深町にあたる少年、あの声、喋り方がどうにも。あれが耳障りで受け付けず、クライマックスをほとんど覚えていないくらいです。最近のリメイク版はだからぜんぜんノーチェックなのです。

 そんなわけで遠ざかっていたのですが、尾道三部作最終作『さびしんぼう』。一作目の『転校生』がツタヤには置いていなくていまだ未見なり。

 前半部は尾美としのりと友人二名の高校生の日常がメインです。尾美としのりという人は、ぼくがイメージする80年代男子の中心にいるような顔つきです。ザ・80年代男子という感じがするんです。あの髪型とか、むっくりした輪郭とかね。ちょっと「腹立つ古くささ」もあって、友人たちの演技もなんだか金八先生みたいだったんです。映画というよりドラマみたいな、うん、本当に当時の金八みたいなノリ。これはきついなーと思いながら観ていました。
d0151584_6502751.jpg

d0151584_6504386.jpg

 学園コメディみたいなノリで進んで、ギャグも正直もう、時代的にきつい。うわぜんぜん面白くないわ、このシーンのこのくだり絶対要らんわと思うのがいくつもあって、途中で観るのをやめようかと思ったくらいでした。やっぱり大林宣彦は合わないなあと。
d0151584_6505432.jpg

 が、しかし、これがね、後半は巻き返してきますね。これは巻き返されました。変なギャグも封印して、演技の風合いも良くなった。これは難しいところですね、前半あれだけやったからよく見えたのかとも思うし、序盤から後半の感じで行って短くまとめたらよかったんちゃうんかとも思うし。だからあれです、1986年放送の『ZZガンダム』と似ています。『Z』の重みを消すためというのがあったみたいだけど、あれも序盤クールはギャグばっかりで半ばどうでもいい。でも、後半はシリーズ屈指の熱さを見せる。あれが二時間の中で行われた感じです(わかる人は少なかろう)。

 じゃあどうして後半そんなに巻き返せたのか、というに、これはもう富田靖子のとびきりの可愛らしさあってのことです。富田靖子がねえ、もうむっちゃ可愛いですね。富田靖子のアイドル映画として観るなら、後半は完璧に近いのではないでしょうか。アイドル映画というのは思うに、被写体となるアイドルが可愛く映されていさえすれば60点くらいは確保できるのです。演出も前半とはがらりと変わって、しっとりした感じになったりして、前半は腹立たしかった尾美としのりにも乗っていけたのです。
d0151584_6511784.jpg

d0151584_656680.jpg

d0151584_6514076.jpg

d0151584_6515426.jpg

 富田靖子礼賛を続けるならば、この映画では二種類の彼女が拝めます。「うわっ、ふたつ入ってるやんけっ」です。この二つともがまた美味しいのです。黒ごまと梅の二種類です(別に何でもいいけど)。これがまた嫌みのない、ぶりぶり感のない控えめ演技でよろしい。それでいて「~だよっ」という語尾の用い方が絶品であり(可愛い語尾感というのは女子が持つ武器です。女子の皆さん、覚えておきましょう)、笑みのふにゃっと感が柔らかくてキュートであり、『時かけ』の原田知世よりもぼくは断然こちらを推すのであります。
d0151584_652756.jpg

d0151584_6522024.jpg

 富田靖子の自転車が壊れてしまい、それを見つけた尾美としのりが手伝って帰るのですが、もうあんなのはもう、あんなのはもう、です(何なのだ)。高校生の頃なんてね、そんなもんね、そんなのなかったよぼかあ。ぼかあ雨の日も風の日も、一人できこきこ自転車をこいで行き帰りしてね、時折二人乗りしている同年代とすれ違ったりしたなら、けっ、畜生、羨ましくなんかないぞ、羨ましくなんかあるもんか、羨ましいと思ったら負けだ、ん、何だおまえら、羨ましがってると思ってんのか、ああ羨ましいさ! 羨ましいね馬鹿野郎、羨ましくないと思ったら大間違いだぞ! 覚えてやがれ! だったんですけれども(可哀相な子だったんだね)、そんなのじゃないんだね。きっと、ぼくはきっと、相手の壊れた自転車を引っ張って、一緒に歩きたかったんだね。なんていうか、ああ、いいなあと素朴に思えましたね。富田靖子の壊れた自転車を引っ張って帰り道に付き合えるなら、ぼくはいくらでも時をかけたいね。かけぬけすぎて戦乱の世に突っ込むのも厭わないね。
d0151584_6542830.jpg

映画のレビウとはとても言えない妄言が一段落したところで、再び話を戻しますが、富田靖子の清純パターンと、コメディエンヌパターンが出てきて、これがいい対比になっていました。やっぱり最初からがんがん彼女を出してもよかった気もするのですが、ではどうして二人出てくるんだと言うに、これがなかなか厄介で、なぜならコメディエンヌパターンのほうは、なんと尾美としのりの母親を演ずる藤田弓子の、若かりし頃であるという設定だからです。

 この映画がよくわからないのはここです。若い頃の母親が息子の前に現れるんです。なんで出てきたんだ、というのも少々ねじれています。母親は高校生の頃にいわば「思い出の恋」をしたらしくて、息子の尾美としのりにもその相手の名前をつけています。で、息子の前に、まるで彼に恋をしているかのような愛らしさを持って登場してくるわけです。
d0151584_655882.jpg

 さあ、ぼくにはよくわからないのです。この構造の意味が。
「男の子はいくつになっても母親に恋をしているものだ」というのが出てくるんですね。「父と子の話」の一方に立つ物語造形、「母と子の話」。母と子の幼児的一体性を阻むものとしての父がいて、子は母との一体性を失い、また抑圧的な父との関係を個として見いだすことで大人になっていく。っていうような、エディプス・コンプレックス。この話では父は弱くしか機能しません。母が前面に来る。他人との恋を通じて母への恋を失っていくのかと思いきや、母への恋も保たれる。母の若い分身が消えた後で、ラスト、「もう彼女に会いたいとは思わない。そうじゃないと大人になれない」と言います。でも、確実に彼の中には、母への恋が保たれている(普通の高校生が「若い頃のおかあさんも美人だね」なんて言わない。言ったらそれはマザコンでしょう。映画ではそうは描かれませんが)。
 
d0151584_6545286.jpg

 だから、この映画では、母を捨てたり忘れたりするのではなく、母への恋を鮮烈な記憶として宿した上で、それでも他人に恋をして大人になっていくのだという形式を採用していて、その意味では世のお母様がご覧になっても誠に安心な映画と言えます。母と子が切り離される、一体化願望とは完全に決別する、そんなことはねえだろ、というわけです。母が子供に思い出の相手の名をつけるのもそのひとつで、悪く取ればマザコン的、息子溺愛的映画とも言えるのですが、「男はみんなマザコンだ」的な考え方もあるのであって、頑固にマザコン否定をする映画とは別の側面を、確かに切り取っているのではないかなとも思います。

母親ということでいえば、ぼくの母親は劇中に出てくる藤田弓子と樹木希林を足して二で割ったような顔をしているので、この二人が共演したときはなんだか妙な気分になりました。そんなぼくからすると樹木希林の跡を継ぐのは藤田弓子じゃないかと前々から思っていたのであって、この二人が同じ画面にいたのは面白く、話が話だけに少しくらくらしたのでした。これまでに観た大林作品の中ではいちばんはまりました。個人的には、お薦めですね。
d0151584_6552174.jpg

d0151584_6584870.jpg

[PR]
「陽」のポップアイコン。それでいてほろりと泣かせる。
d0151584_0234774.jpg

「有名すぎて逆に観ていなかった」シリーズ。ちゃんと観るのは初めて、というわけで、一作目を観てみました。

 東京の東側、いわゆる下町とされる地区というのは、考えてみるに東京を代表するスターを生み出してきた場所です。映画で言えば寅さん、漫画で言えば両さん、芸人で言えばビートたけし。地域密着型から全国へ上り詰めた東京の代表格、それはこの三人を置いて他になく、彼らがすべて下町から出てきたというのは面白い話です。若い世代に対して「東京の街と言えば?」と尋ねりゃ渋谷だ新宿だと名前が挙がるでしょうし、もっと上の世代になれば銀座や赤坂六本木という「ワングレード上の都会」を言うかも知れませんが、そういう場所とはまったく別の文化を育ててきた下町には、やはり独特の、味わい深い風合いが宿っているのでしょう。
d0151584_0243030.jpg

d0151584_0244158.jpg

 寅さんがどういう人物造形なのか、これまではぼんやりしたイメージしかなかったんですけど、なるほどこれはなかなかに強烈なキャラクターですね。大笑いして観ました。そして、ああこれは確かに、ポップアイコンになるだけのエネルギーがあるなあと感じ入った次第です。
d0151584_025789.jpg

 シリーズを全部観ている人からすると違うと言われそうですが、寅さんは徹底した「陽」なんですね。人の懐にどんどん入り込んでいくし、いつでも冗談を忘れない。裏を返すと、人の内面に土足で上がり込むし、空気が読めない。これねえ、人にそれなりに気を遣いながら生きている普通の人間からすると、すかっとするんですね。これが寅さんの愛された大きな理由なのだと思います。どんなときもぜーんぜん悪気というものがなくて、子供みたいな人です。これは確かに人気になりますね。倍賞智恵子扮するさくらがこれまた性格のいい妹で、おそらく公開当時劇場に駆けつけた貴兄は、時代に大きく先駆けた「妹萌え」を感知したのでありましょう。
d0151584_0253695.jpg

 彼が実際にいたらそれなりに困りますよ。社会常識に欠ける部分が大いにあるし。妹さくらがお見合いに行くのですが、そのときはもう最悪なんです。最悪すぎて笑うんですけど、一方でさくらが可哀想にすらなってくる。これはえらい男がやってきたもんだ、と思うのが普通ですわね。「絶対あかんやんこいつ」と思われても仕方ないです。
d0151584_0254685.jpg

d0151584_0255772.jpg

d0151584_026910.jpg

 でもね、でも、観ていて思うのは、この寅さんは絶対に義理を守ってくれる人だろうな、と思えるんですね。金を貸してくれというかもしれないけど、死んでも返すぞと言ってくれそうだし、実際に死んでも返してくれそうなんです。ここです。ここがひとつの大きな分かれ目ですね。いや、そもそも金を貸してくれなんて寅さんは言わないぞ、というファンの方もおられるでしょうが、ぼくの見方としては、「金は借りたがるけれど絶対に返す人」なんです。これね、こいつは返してくれないかもなと思わせるキャラクターだったら最悪ですよ。空気は読めないしがさつだし下品だし。でも、最後の最後でこの人は絶対に人を裏切らないんじゃないかと思える。だから好きになれるんです。『兵隊やくざ』の勝新太郎にもちょっと近い気がしました。
d0151584_0263140.jpg

役者同士の絡みで面白いのは、前田吟です。前田吟は真面目を画に描いたような工場の工員なんですが、彼と寅さんが船の中でぶつかるシーンは絶品です。前田吟は倍賞智恵子に惚れているんですが、寅さんは「大学も出ていないやつに妹はやれるか」と怒ります。このくだりが面白い。前田吟はこんな風なことを言って反論します。
「お兄さん、ぼくは大学を出ていないが、あなたもそうですよね。じゃあもしもあなたが誰かに惚れたとして、その相手にお兄さんがいて、『大学も出ていないやつに妹はやれない』と、こうあなたに言ったとしたら、あなたは諦めるんですか」
 こう問うたときの寅さんの返しが面白い。「うわ、ぜんぜん会話できない!」と前田吟は思ったことでしょう。
d0151584_0264460.jpg

d0151584_0265265.jpg

 前田吟演ずる博がいいですねえ。ほろりとさせます。寅さんがさくらについていい加減なことを言って、博は勇み足を踏んでしまうんですが、このときの、なんていうかな、純朴な青年が本気で打ち明けることっていうのが、泣かせるんです。これは『トラック野郎 御意見無用』において、湯原昌幸が夏純子に思いを打ち明ける場面同様に、目頭を熱くさせるんです。大の男が恥じらいながら、でもその恥じらいを必死でかみ殺して、言わなきゃならないことを、言わずにはおられないことを絞り出すように言うときのあの熱さ。 こういうのは日本映画で、もうほとんど死滅しているんじゃないですかね、どうなんでしょうね。たとえそうでもナイーブさを前に出してしまうことでしょうね。あるいは変にイケメンできらきらしていたりするんでしょうね。若さと爽やかさが弾けて、ぴかぴかしているんでしょうね。けっ、馬鹿野郎。おまえらにあの熱さがわかってたまるかってんだ。おまえらはJポップを聴きながら渋谷や下北をうろうろしていればいいんだ! 原宿辺りでクレープの角に頭をぶつけて死にやがれ!

ふう。
d0151584_02761.jpg

d0151584_0271398.jpg

 にわかに興奮しすぎたので引き戻すと、これはトラック野郎の菅原文太と同じところで、誰に対してもご陽気でがさつな寅さんが、惚れた女の前ではかしこまってしまうというあれですね。で、これがまた哀しいところで、惚れた女である光本幸子のところに勇んで行ったときの、あの無様さ。釣りに行こうと言って出かけたときの、あの格好悪さ。うん、あれもね、痛いおっさんですよ正直。ええ年こいてなんちゅう格好しとんねん、というのがあのくだりでびきんと来る。でもね、どうですか、ぼくたちはきっとどこかで、ああいう寅さんみたいな、痛いおっさんを愛しているんじゃないのかね。君、そこんところどうなのかね。ぼかあ好きだね。立派で常識もわきまえて仕事もしっかりやって将来のこともきちんと設計する大人がそりゃ、そりゃあいいだろうさ。でもさ、心のどこかで、ああいう痛いおっさんでありたいという思いも、あるんじゃないのかね。ええ? どうなんだねそこのところ。自分はそんな風にはまったく思わないって? けっ、なんだいなんだい。そんなやつに寅さんの良さがわかってたまるかってんだ畜生。ドトールでエスプレッソなんとかでも飲んで経済誌読んでろ馬鹿野郎。
d0151584_0272187.jpg

 なんとも変なレビウになりましたが、まあそういうね、そういう映画ですよ(どういう映画だ)。なるほどこれは折に触れ、観進めていきたい作品です。いまさらぼくが薦める必要などなさそうな名作なわけですが、観ていない人は是非、というところです。
[PR]
見せたいものがはっきりしている、キラーショットもふんだんな快作。
d0151584_214315.jpg

 前回取り上げた『ゴジラvsビオランテ』が平成版ゴジラの一作目でしたので、平成版ガメラの一作目もついでに観てみようと思いました。ガメラの映画はこれまで観たことがなかったので、いろいろと驚かされること多く、始めに言っておくならば、ぼくは断然『ガメラ』押しです。昭和シリーズ含め、他のを観たらまた別かもしれないですけれど。

 この映画が偉いのは、ガメラ、そしてその敵となるギャオスが出てくるまでの予兆を、非常にうまく描いているところです。これは幽霊映画とも通じますね。予兆、登場、アタック。この三段階を踏まえるとき、まずは予兆が大事になる。ここをどうするか。特撮技術や戦闘シーンとはまったく違う演出が要求されるわけですが、この映画で優れているのはひとえに、「キラーショット」をうまく取り入れているところです。

「キラーショット」というのは、ぼくが今思いつきでつくった造語です。キラーコンテンツ、キラーチューンという言葉がありますが、この映画には観客の脳裏に残像を焼き付けるような、優れたキラーショットが数多くありました。これは「ガメラまだ出てこないのー?」という子供のだだこねを抑制する効果があります。なぜなら、キラーショットには観客をびびらせる力があり、子供の口をあんぐりさせてしまう力があるからです。

どういうショットなのかは映画の筋を追いつつ話していきましょう。メインの視点人物となるのは、海上保安庁の伊原剛志と鳥類学者の中山忍です。中山忍は今であれば「美人過ぎる鳥類学者」としてもてはやされることでしょう。「クリアクリーン」のCMの人というイメージしかなかったのですが、この人のアイドルっぽい溌剌とした振る舞い、松たか子っぽいしゃきしゃきした演技が映画と非常によくマッチしていました。中山美穂の妹なのですね。中山美穂ほどの人気はなかったようですが、ぼくは中山忍押しです。これからどこかで「あの頃のミポリンは~」などという会話に花が咲いたら、「妹のほうが可愛かったぞ! シノブリンのほうが素敵だぞ!」と言いましょう(シノブリンなんて呼ばれていないきっと)。
d0151584_2154016.jpg

 で、このシノブリンが怪獣に襲われた島に調査に行くのですが、そこで怪獣のものと思しきペレット(未消化物の塊)を見つけます。そこにキラーショットがありました。自分の尊敬する先生が無残な死を遂げたのだとわかるショット。ホラー演出がわりとあります。
d0151584_2155634.jpg

 怪獣映画でありながらホラー演出が結構効いていますね。夕焼けのシーンを多用して、画面全体の色調を暗く抑え、鮮やかな画に見せながら、怪獣の急襲を描く。ぼくが感動したもうひとつのキラーショットは犬のくだりです。犬がギャオスにさらわれるとき、犬の鎖がぐーっ、ぱちん、と弾ける。これでさらわれたことをわからせる。子供の頃に観ていたら鮮烈に焼き付いたのではないかと思わせるショットです。今述べた両者に通ずることとして、観客の想像力に訴えかけるという美点があります。特撮ものならそれこそいくらでもビジュアル的に描けるんじゃないかとも思う一方で、子供向けなのでそこまで過激な描写も御法度。ゆえに、想像力に訴えかけることで、その残酷さを映し出す。これはたとえば殺人鬼がやってきて、凶器を振り下ろすのを見せるのとは違う。どう違うのかは面倒くさいから省略。
d0151584_2182474.jpg

 怪獣の造形自体はね、正直、着ぐるみ感が強いですよ。前回のゴジラは90年のものですが、あれよりも着ぐるみ感が強くて、むしろ昭和期ばりばりのウルトラシリーズかとも思うくらい。ウルトラシリーズのデラックス版くらいの感じで、リアルかと言われればぜんぜんです。でも、そんなことはどうでもいいと思えるくらいに見せ方がうまいし、キラーショットもきちんと仕込んでいる。エヴァの庵野秀明監督は後にこのシリーズに携わるようですが、エヴァと似ているのもいくつかありますね。関係ないかもしれないけど、女子高生の制服の造形は、色さえ違えばもうエヴァの学校の制服ですし。キラーショットで言えば、ギャオスが崩壊した東京タワーの上で休む場面。あの辺って、なんとなく初号機がバルディエルを倒した後の静けさに似ていませんか? ここでも夕焼けが綺麗に活きていますねえ。
d0151584_218469.jpg

 やっぱりね、子供を飽きさせない工夫というか、子供をいかにハラハラドキドキさせるかってことに主眼を置いてほしいと思うんです、怪獣映画の場合。そのことをきちんとわきまえた上で、大人が観てもすごいな、となったら理想的だと思うんです。その勝負にしっかり勝利している。実際に子供が襲われるシーンがあったりとか、街中で人々が逃げ惑うシーンもちゃんと組み入れている。前回取り上げた『ゴジラvsビオランテ』はそこがアホみたいにないがしろでした。そこがあってこその怪獣の脅威なんじゃねえの? ということです。

『ゴジラvsビオランテ』が比較しやすいのでさせてもらうと、あれと同じく、超能力的な役割としての少女が出てきますね。あの映画ではそれもないがしろ。ゴジラと共鳴して倒れるって、かあ、なんざそら。『ガメラ』でも似たようなくだりがありますが、そこにもちゃんとキラーショットを仕込むんです。ほんの一瞬だけれど、ちゃんと焼き付くように仕向ける。それがあるとないでは大違い。ちなみに、ガメラと通じ合うこの少女は藤谷文子。知っている人は知っているんでしょうけれど、なんと彼女はあの人の娘なのです。知らなかったのでびっくりしました。え、誰の娘なの? という人は自分で調べてみましょう。
d0151584_219366.jpg

 平成版ガメラは出来がよい、というのはなんとなく目に耳にしていたところです。なるほど、よくわかりました。怪獣映画の勘どころを抑えた快作です。ガメラって大映製作なんですね。怪獣と言えばゴジラ、映画会社と言えば東宝というのに対抗し、6億円くらいで「なにくそ!」と思いながらつくられたであろうこの作品にはやはり、それなりのものがはっきりとこもっています。
d0151584_2191913.jpg

d0151584_2193255.jpg

d0151584_2194672.jpg


 あ、しかし、一点ほどもの申さねばならないところもあります。というのも、この映画にぜんぜん限らないんですけれど、テレビのニュースを映すときに、実際のアナウンサーを使うんです(これは本作にも携わった日テレがすっごくよくやる手です)。これをするのはお手軽なんですよ。アナウンサー役の俳優に練習させる必要もないし、リアルなものに映るし。でもね、それをされると、ぼくは冷めてしまいます。だって、現実じゃないんですから。それに、実際の出来事を明確に伝えてなんぼのアナウンサー、報道に携わる人間が、ありもしない虚構の出来事について伝えるのって、ありなんですかね? ぼくはそこらへんで、妙に真面目になってしまう。この映画にぜんぜん限らないけれど、出てくるたびに「現実ぶってんじゃねえよ」と思うんです。今まで全部自分たちでその虚構世界を構築してきたのに、そこだけ現実を利用させてもらうみたいなのって、嫌いなんです。まあ、子供向けってことでこの映画はばっちりできているから、この映画に関してはこれ以上あれこれ言いませんけれども。
d0151584_2195756.jpg
 総じて、面白い映画だと思いました。お薦めです。
[PR]
誰に、何を見せたい映画なのか。
d0151584_0274091.jpg

 igufotoさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 長らくこのブログを続けていますが、ゴジラは一度も取り上げていませんでした。ゴジラシリーズは幼い頃に観たきりで、ずっと遠ざかっていましたね。ぼくはウルトラマンや仮面ライダーに魅せられたくちで、ゴジラは正直なところそれほど思い入れがありません。『ビオランテ』は劇場に観に行った覚えがありますが、ワンショットが脳裏に焼き付いていただけで、内容は本当に何も覚えていなかった。で、今にして観るに「そりゃウルトラマンや仮面ライダー、戦隊ヒーローのほうに行くわ」とも思いますね。これは子供を結構無視したつくりというか、子供にはちょいとハードルが高いです。

 だって、最初のほうなんか、英語ばりばりで字幕で進んでいくんですよ。で、話している内容はというと遺伝子がどうのとか細胞がどうのとか、そんなのです。子供に対しての甘やかし感ゼロで進みますね。当時も今もそうでしょうけれど、子供はきっとお父さんやお母さんに、「ねえ、ゴジラはー? いつ出てくるのー?」とたまらず尋ねたのではないでしょうか。もしかすると当時のぼくも言っていたかもしれません。冒頭こそゴジラで始まるにせよ、その後はずっと、おっさん同士の遺伝子とか細胞とか核とかに関する議論だったりしますからね。
d0151584_1425670.jpg

d0151584_1431162.jpg

d0151584_1432617.jpg

 今のぼくが観ても、途中で思いましたね。ゴジラぜんぜん出てこないなあって。折々に、第一種警戒体制、第二種警戒体制という字幕が入って、だんだんと盛り立てていこうとはしていたんです。でも、そんなの子供はよくわからないですよ。うーん、それともこれはおっさん向け、昔からゴジラを愛でてきたおっさんたちに向けた映画だったんでしょうかね。それにしては設定がずさんだし、どっちを向いているのかよくわからないというのがあります。大人向けだとすると設定がずさん、子供向けだとするとサービスが足りず、なおかつ親切心に乏しい。中学生くらいがターゲットなのでしょうかね。それより下だときついんじゃないかと思います。
d0151584_1441160.jpg

 あれね、第一種警戒体制とかそういうのもありはありですけど、引っ張りの工夫をするならば、ゴジラの鼓動みたいなのを入れ込んでいくとよかったと思うんです。場面転換ごとに、脈絡がなくていいから、どくん、どくん、みたいな音だけのカットを入れてみるとかね。それがだんだん大きくなっていくなんてのもあるでしょうし、もしくは体の断片を随所で映していくなんて方法もあるでしょう。あるいは「このままだとあと何日で目覚めてしまうぞ!」みたいにして、あの『愛のむきだし』における「奇跡まであと○日」のようなカウントダウンを用いてもいい。今観ると、いろいろと改善案が思いついてしまいます。警戒体制なんてのはあくまでおっさん側、自衛隊側の準備の話ですからね。あわわ、ゴジラが来ちゃうぞ、大変だぞと肌身に感じる引っ張りが弱かった気がします。「警戒体制」という単語の意味が、第一、第二の危機的状況の違いがちゃんとわかるくらいの知能が、観客側に要求されていますから、怪獣の話だ、面白そうだと無邪気に思うと、置いてけぼりにされてしまうでしょう。

 うん、子供心のわくわく、はらはらどきどきみたいなもんは、わりとないがしろにされている映画だと思うんです。自衛隊側の、対ゴジラ戦闘機みたいなのがあるんですが、これが造形的に面白くない。いや、現実の自衛隊がつくったら、ああいう戦闘機になるのかもしれない。でも、外連味がないというか、真面目やなあと思いますね。そこはちょっと嘘ついて、いろいろと外面にくっつけてもいいんじゃないかなあ。なんかね、端からゴジラに勝てる気がしないような戦闘機なんです。あれは見かけ倒しでも、見かけを重視してほしかったです。ここもよくわからないんですね。大人は観ながら、映画の展開とかもある程度わかるわけだから、勝てないってことがわかって観ているでしょう。子供は子供で、あんなつまらない見かけのやつじゃあゴジラには勝てないんじゃないかと思ってしまうでしょう。これも、誰に見せたいのかなあ、です。嘘でも、ゴジラをやっつけられるんじゃないかって思わせてほしいんです、そこはもう、嘘でいいから。
d0151584_1444238.jpg

d0151584_1445666.jpg

 ビオランテというのは、科学者がゴジラの細胞を利用してつくった植物の怪獣です。もともとは怪獣にするつもりはなくて、なんか突然変異的な感じでそうなっちゃったんですね。このビオランテのショットだけ覚えていたんですけど、あんまりビオランテが前面に出てこないんですね。基本的にはゴジラと自衛隊の戦いです。ビオランテは悪者ではありません。最終的には、破壊者ゴジラをやっつけてくれます。この辺の妙味というのはありますね。見た目はかなり醜悪ではあるんだけれど、細胞の中に沢口靖子が入っていて(なんちゅう説明だ。でもまあそういうことです)、ゴジラを倒してくれる側なんです。
d0151584_1451330.jpg

d0151584_1452660.jpg

d0151584_1453955.jpg

 最後にやっつけるくだりは結構無理矢理感もあるというか、えらい遠い距離をやってきたものやな、というのはありますが、そこはある程度笑わなくちゃいけないのでしょう。ただ、せっかく中盤で一回がっつりゴジラと絡んだのだから、その細胞が張り付いていたとかにしてもよさそうですけれどね。で、せっかく植物なのだから、ゴジラが突き進む過程でその体から芽を出して、巻き付いていくみたいなのでもよかったはずです。自衛隊が四苦八苦している間に、おい、よく見てみろ、ゴジラの体が変だぞ、植物が生えているみたいだ、とかね。そうすれば沢口靖子のゴジラを引き留めている感がもっと出たのに。そんなのがあると植物の旨味が出たのに。ビオランテを出さずともビオランテが出ている感が出たのに。
d0151584_1462192.jpg

d0151584_1463554.jpg

 それをもう、えらい遠い距離があったはずなのにいきなり出てくるんです。脈絡なく。映画が残り十五分くらいしかないし、そろそろビオランテ出さなきゃって感じで出てきました。それともあれですかね、根っこを伸ばしたみたいなことなんでしょうか。じゃあなんで本体までついてくるんだということにもなりますので、詳しくつつくとわりと早い段階でおかしくなっちゃいます。植物怪獣ならではの工夫みたいなもんが乏しくて、そこは怪獣としては残念です。
d0151584_147016.jpg

d0151584_1471671.jpg

うん、大人向けにしては細かい部分の練り込みがないんですねえ。子供向けにしてはサービスが乏しい。峰岸徹が自衛隊員として出てきて、ゴジラと対峙するシーンがあります。ここは町山さんが「男の夢だ」と賞賛していたんですけれど、何しろ峰岸徹の演技がくさいです。これはくさい。ハリウッド映画に憧れたのでしょうか。この一年後に公開される『ターミネーター2』のシュワルツィは「アスタラビスタ、ベイビー」と格好良く決めているんですけれど、峰岸徹はくさい。もっと寡黙な仕事人みたいなキャラクターだったら入れ込んで観られたし、あの最期も熱かったんですが、ちょいちょいださいことを言うのです。ここがT-800との大きな違いでした。おっさんの登場人物なんておっさんを熱くさせてなんぼなのに、くさい。
d0151584_1473034.jpg

d0151584_1474277.jpg

 うん、つっこみどころはいっぱいありますよね。これね、子供向けならいいんです。子供向けならつっこみどころなんてぼくはほとんど無視します。でも、そうは見えないですからね。ラストが象徴的で、三田村邦彦と田中好子の会話です。「ベッドでゆっくり眠りたいな」「あたしもついていくわ。ずっとね」みたいなね。大人向けならもっといろいろと固めなきゃ駄目でしょうし、それを補ってあまりある勢いや熱さはすみません、感じられなかった。90年の作品ですが、80年代には子供も大人も熱狂させるアメリカ映画がぼこすかつくられました。ゴジラという脅威から、結局はビオランテなるきわめて偶発的なものによって守られてしまった日本。今回も自衛隊だけでは結局どうにもならなかったであろう日本。今昔併せ見て、少し哀しくなったりもします。幼すぎて記憶に焼き付いておらず、思い入れマジックでオールオッケーとはなりませんでした。うん、思い入れマジックによって評価される一品じゃないですかね。諸手を挙げて賞賛できるのは、かのすぎやまこういちの音楽。ゴジラのテーマのアレンジが大変に小気味よかったところ。それと幼稚園児が絵を一斉に上げたあの一瞬。うん、それくらいかなあというところです。あの一瞬だけは、素晴らしかったのに。
[PR]
青春時代が持つ名状しがたい何かが、確かに描かれている。 
d0151584_1018972.jpg

 橋口亮輔監督作は『ハッシュ』『ぐるりのこと』しか観ていないのですが、商業映画デビューしてからはずいぶんと寡作な監督のようですね。自主映画はたくさん撮っていたらしいのですが、この映画の後に撮っているのは今述べた二作だけ。非常にいい映画を撮る監督だと思います。

 高校生の話です。『ハッシュ』『ぐるりのこと』がそうであるように、大事件が起こる類のものではなく、登場人物同士の日常の関わり合いから味わいが生まれてきます。

 主人公の岡田義徳がゲイの少年で、友人の草野康太に密かに思いを寄せている。このことが冒頭すぐにわかるようになっています。観客に対して、まずそこを露わにする。そしてそれ以降の機微をじっくりと描いていくという形です。
d0151584_114240.jpg

d0151584_1141972.jpg

 クラスメイトの描き方が秀逸でした。彼ら二人を中心軸に、そこに積極的に関わっていくのがあの2000年代音楽界の寵児、浜崎あゆみ(ちなみに当時は「浜﨑」あゆみ)です。このねえ、浜崎あゆみが素晴らしいですね。まずぼくは彼女を大いに賞賛したい。彼女がまだ歌手デビウする前で、そういえばこの年には『未成年』にも出ていて、良質な異物感を醸していました。使い方を間違えるとあれだったんでしょうけれど、この頃の浜崎あゆみはいいです。是非実際に観てほしいところです。
d0151584_1143638.jpg

 彼女が岡田義徳に思いを寄せていくんですけれど、その辺りの描き方、演じ方もいいんです。うまく周囲に溶け込めない、溶け込もうとも思っていない、しかし心を開いた人間に対しては無上の笑顔を見せる。時として自分の道を突き進みすぎる。そういった動きが大変によく活写されている。
d0151584_1145128.jpg

 この映画の美点として、監督が得意とする長回しがやはりしっかりと効果を上げているところです。高校生映画、学生映画を撮るときはかくあるべし、と見せつけられた思いです。これは学生ものに限らないですけれど、あくまで印象として、近頃の日本映画は無駄に表情芝居をさせすぎる。無駄にカットを割って台詞の一つ一つを制御しすぎる。だから噴飯ものに繋がりやすいんです。確かに、それはわかりやすい。表情で登場人物の気持ちを描くのは映画的にやりやすいし、その顔を大写しにして台詞を言わせれば誰にでもはっきりと伝わる。しかし、それは実は日常風景と大きく離れたことでもありますよね。なぜなら我々の生活の中では、それほど表情の一つ一つに注意を払わないし、ましてはっきりと台詞みたいな言葉を喋ったりはしない。ドラマならそれでいいんですよ、ドラマはわかりやすいものだから。しかし、こと映画、それも学生の日常を活写するとなれば、そんな方法ではあまりうまく行かない。長回しはそのことを教えます。彼らの油断した表情、自然な振る舞い、そこに見えるほころびこそ、実在感に繋がるのです。
d0151584_1151296.jpg

d0151584_1152664.jpg

 休み時間の風景が豊かでした。ああ、こんな感じだったなあというのがいくつもある。これは多少の世代的記憶でもあるかもしれません。95年にはまだぼくは高校生ではありませんでしたが、この頃って、誰もケータイを持っていない。ぼくが高校生の頃はケータイは普及していたけれど、それでも休み時間にいじくっているやつというのはほとんどいなかった。今みたいにアプリもほとんどないし、ゲームみたいなのもおそらくほとんどなかったですから。そういう風景。その中で起きる微妙なやりとりの数々。茶髪のやつもいない。それでいて80年代ほどの古さはない。当時高校生だったなんて人は観てみるといいんじゃないでしょうか。こういう感じだったなあというのが、かなりあると思いますよ。
d0151584_1154768.jpg

d0151584_1192332.jpg

 中でもいいのは三番手の男子として出てくる山口耕史。彼の立ち振る舞いや風合いはとても90年代的だったと思います。ぼくのイメージする90年代的スタイルって何かって言うと、いちばんわかりやすいのはボキャブラ天国に出ていた若手芸人なんです。youtubeで観てみたら、わあ、最高に90年代的だと思えた。あのだささ。当時は何の違和感もなかったのに、今観てみると素晴らしく、ださい。90年代がだんだんいい感じで古びてきたと思います。主演の二人はね、スポットが当たっているし、細かい心の動きも描かれるわけですよ。でも、山口少年はそれほどに描かれない。その中で映画を盛り上げてくれました。ああ、彼のようなやつは確かにいた、と思える。
d0151584_1163797.jpg

d0151584_1165139.jpg

d0151584_117416.jpg

 役者一人一人を賛美したい気分ですが、高田久実という人がこれまたいいです。お嬢様というか、ああ、ちゃんと育てられているな、とわかります。周りはお嬢様でも何でもないんですよ、いけすかない糞みたいな女もいっぱいいます。その中で、どうして君はそこまで清楚で正しくいられるのだい、と思わされる。精神年齢が周りと違う感じ。ちゃんと幸せになってほしいと思える感じ。そして、ああいう子も確かにいた。
d0151584_1173164.jpg

 主演の二人もいいんですけど、脇を固める役者たちが本当にいい働きをしています。浜崎あゆみがクソ女と対峙するときの緊張感は実にいい(あのクソ女のクソ女ぶりもあれはあれでいい)。ここでもカットを割らず、表情芝居をさせず、というのを厳守している。しつこいようですが、本作に出てくる浜崎あゆみはほぼ全編にわたって言うことなしです。歌手になったのがもったいないくらいです。

 余談ですが、たまーにこういうことがありますね。Jポップ歌手が役者として意外なはたらきを見せるとき。覚えているのは『濱マイク』ドラマ版の中島美嘉。あれもいいんです。やっぱり、人気歌手になる人にはそれなりの華があるわけで、うまい使い方をすると映画の中で映える。  
d0151584_1174679.jpg

シナリオ的な良さで言うと、浜崎あゆみの生活をあまり描いていないところです。彼女は援助交際をしているとか、中学の頃に強姦されたとか噂され、本人からその一部が語られるところもある。ただ、その場面が実際に描かれることは一切ない。これは大事。これは映画的誘惑に打ち勝っている。だって、映画なら描けちゃうじゃないですか。彼女が援助交際しているシーンはいくらでも描けるし、明示しようがある。そうすれば万人に伝わる。でも、それだとこの映画はここまでよくはならない。観客に想像させるわけです。そして、結局のところぼくたちには他人のそんなところまでは見ることはできないよ、ということを伝えている。そのうえでどう向き合うんだ、ということを伝える。

 実在感を十分に生み出しながら、それでいてシナリオもまとまっている。テンポもある。なんとない日常の話ではない。同性愛の出てくる学生の話で言えば、1990年に中原俊監督が撮った『櫻の園』がありますね。あのとき感じた感動にも似ている。あれとセットで観てみるといいと思いますよ。ちょうど男女で対比されるし、同性愛の話ばかりに寄っているわけではぜんぜんないし。あれが好きならこれも好きでしょう。これが好きならあれも好きになれるでしょう。→→『櫻の園』レビウ

 どちらにも通じて言えることとして、いわゆる青春時代が持つ、名状しがたい何かをとてもよく描いている、ということです。溌剌でもないし、もやもやして鬱屈しすぎているわけでもない。それなりにドラマティックなことはあったし、しかしそれほどにドラマティックだったわけでもない。けれどやっぱりドラマティックな一瞬は確かにあった。 
 これを高校生が観てもしょうがないですからやめておきましょう。あなたは普通に高校に通っていればそれでいいのです。でも、高校時代を遠い過去と捉えるようになったなら、何事かを感じられると思う。それが何なのか、ぼくにははっきりとはわからないのだけれど、洋画では味わえない日本映画特有の味わいを、堪能させていただきました。
d0151584_1181437.jpg

d0151584_118288.jpg

[PR]
←menu