ANA国内線【PR】

カテゴリ:洋画

  • 『英国王のスピーチ』 トム・フーパー 2010
    [ 2012-05-23 22:00 ]
  • 『情婦』 ビリー・ワイルダー 1957
    [ 2012-05-19 22:00 ]
  • 『隣の家の少女』 グレゴリー・M・ウィルソン 2007
    [ 2012-05-18 22:00 ]
  • 『シン・シティ』 ロバート・ロドリゲス フランク・ミラー クエンティン・タランティーノ  2005
    [ 2012-05-17 22:00 ]
  • 『ミルク』 ガス・ヴァン・サント 2008
    [ 2012-05-09 22:00 ]
  • 『アメリカン・ヒストリーX』 トニー・ケイ 1998
    [ 2012-05-08 22:00 ]
  • 『告発』 マーク・ロッコ 1995
    [ 2012-05-07 22:00 ]
  • 『セブンス・コンチネント』 ミヒャエル・ハネケ 1989
    [ 2012-05-03 22:00 ]
  • 『変態村』 ファブリス・ドゥ・ヴェルツ 2004
    [ 2012-04-30 22:00 ]
  • 『唇を閉ざせ』 ギヨーム・カネ 2006
    [ 2012-04-29 22:00 ]
彼は彼だけにできる仕事を果たしたのです。

もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 アカデミー賞作品ですね。わりと賛否が分かれているのでしょうか。英国王の史実に基づくものですが、歴史的事実に違いがあるんじゃないかなんてことも言われているようですし、英国王室という題材が題材だけに脚色にも気を遣うところがあったのでしょう。時は第二次世界大戦前、というきわめて政治的に不安定な時期を舞台にしており、それがゆえに評価が分かれる部分もあるようです。

 イギリス史や英国王室史に明るくないので、その辺のアレへの深い言及はまったくできぬのですけれども、まあ行きましょう。主人公はコリン・ファース演じるイギリス王ジョージ6世、劇中では即位する前の時期から描かれます。彼は吃音症を抱えていて、大事なスピーチの席でもうまく声が出せない有様。それをなんとかするのじゃい、というような話と、王位継承時のあれこれが描かれています。

映画の時代は1930年代後半、戦争前夜のきな臭い頃合いですが、政治的な話は後半までほとんど出てきません。ジョージ6世が王としてスピーチをちゃんとできるのかどうか、に焦点が当てられています。

 これはこの映画の作りとしては正しいと思います。というのも、王にとってスピーチはとても重要な行為だからです。裏を返すと、外国との政治的な駆け引きに王は参加できない。それは当然首相をはじめとする政治家の仕事であって、王が口出しすることではないわけです。「君臨すれども統治せず」なわけです。

 ではなぜ王室が重要なのかと言えば、それは国家の権威の象徴、国家の伝統を代表するものとして大切なわけで、求められるのは威厳です。だからこそ、スピーチがとても重要になる。特にテレビもなく、ラジオしかない時代ですから、その存在を国民に示すうえではある意味今以上にスピーチが大事。劇中でもヒトラーが出てきますが、彼がドイツ国民から支持された大きな要因として、彼が演説の名手だったことが挙げられるわけです。実際の政治に携わることができず、それでいて国家の権威を示すべき立場にある王としては、スピーチの正否は死活問題だったのですね。

 映画では第二次世界大戦の開始に際し、国民を勇気づけるスピーチを放送するところがクライマックスになります。で、スピーチがうまくいってよかったね、ということで話が終わる。宇多丸さんの評のリスナーメールでは、ここを怒っている人もいるようです。今から戦争が始まるってのに、そんなのんきな結論でいいのか、ということのようです。

 うーん、そこはどうなんだろう、うーん。
 じゃああのときの彼に何ができたのかってことですけど、王には政治的権限なんかほとんどないに等しいわけでしょう? あのとき反戦のメッセージを放っていればよかったのか? 彼の立場ではそれはできなかったでしょう。ナチスやファシスト党のような勢力がばきばき出てきているときに、反戦を訴えたってしょうがない状況があったわけで、その中で彼に尽くせるベストはもはや、スピーチを立派に遂げる、そうしてイギリスの人々を勇気づけることしかなかったんじゃないかと思うんです。それは人々を戦争に駆り立てる行為だ、というかもしれないけど、じゃあどうするんだって。ナチスみたいなとんでもないやつらが明らかに脅威的になっていて、協定結んでも破ってきて、形式上は軍の最高司令官だとしても実質は何もできない王に、何ができたのか。それでも反戦メッセージを訴える? 言うのはたやすいけれど、そんなこと言い出して国に混乱が起きている間に攻め込まれて殺されるぜ?  フランスだけで南北からのファシズム勢力を迎え撃たせればよかったの? イギリスがいたってフランスは占領されちゃったわけで、交戦しないのにも無理があったでしょう。ジョージ6世についての細かい話はそんなに知らないけれど、彼は彼のベストを尽くしたんじゃないのでしょうか。それは今振り返れば異論はあるかも知れないけれど、そのときその時代のその立場の人間じゃないんだから、わからないって。

 王は前線に出るわけでもなく、安全地帯にいるというかもしれないけど、そんなことはないでしょう。国家の威信を背負う立場です。政治家みたいにやめれば済むわけじゃないし、いや、やめることは形式上できたかも知れないけど、父が死んで、その後即位した兄貴が変なやめ方しちゃってるから自分まで立て続けになんて絶対できない。そいつだけが背負っているもんってのがあるわけで、安全地帯でも何でもない。ある意味、最前線です。彼は彼なりに、国家の威信を守るっていう仕事を果たした。その後の戦争うんぬんとは別の話です。

 もちろんこのときの状況は日本とは無縁ではないし、だから日本人としてこの映画のスピーチにいい評価を与えるのはいかがなものか的なこともわかるんですけど、じゃあ三国同盟を結んだナチスドイツの側に立った映画ならいいのかっていうとそんなわけもないし、むしろこれはどちらの立場でどうのではなく、国家の威信を守らんとして、自分にできることをやり遂げようとした人の話として観たほうが、実りがあるんじゃないですかね。そのとき、吃音症の克服は個人レベルの小さなものではなくなります。死活問題たるスピーチの前に立ちはだかる、大きな大きなものなんです。そういう立場のことを考えることなんて日頃ないわけで、この映画を観た甲斐もあるというものです。国家というものを大事に思う人ほど、この映画の意義は感じられるんじゃないでしょうかね。単に吃音症を克服した感動話だって観るのは、いくら感動したとしても矮小化しすぎでしょう。


 言語療法士を演じたジェフリー・ラッシュとの掛け合いのテンポよく、飽かずに観られました。実際の細かいところには違いもあるようなんですが、この映画で彼が免許も資格も何もない男として出てきたのはいい対比になりました。彼は第一次世界大戦で、今で言うPTSDを発症した兵士たちの治療に努めた過去があるという話をして、ここなどは権威あるが経験のない王と、権威は何もないが経験のある男のコンビという対照的な関係があってよい。ヘレナ・ボナム・カーターの存在感もちょうどいい。

 なんか戦争がらみの拙い議論を展開してしまい、聡明な方から叱責を受けそうで怖々しているところもあるのですが、ぼくはこの映画はよいと思いました。映画自体のレビウにしては映画からそれすぎている感もあるやもしれないのですが、映画自体よりもそこから膨らませられることを考えることに今のぼくの力点はございまして、まあアカデミー賞ですしレビウはそこかしこにあるでしょうし、ご勘弁願いたく存じます。
有名な傑作ですから、語ることがありません。未見の人は読まないように。

bang_x3よりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。


 原題『Witness for the Prosecution』
「アガサ・クリスティー原作、ビリー・ワイルダー監督の傑作法廷ミステリー」というその一文だけでもうこの映画は済ませてもいいような気もするのですが、そうもいかぬので書き散らしていきましょう、知る人ぞ知る名画、『情婦』です。

 オチが有名な映画というと、たとえば「ここは地球だったのか!」であるとか、「実はあの人が幽霊だったのか!」とかが最も有名なところで、個人的に好きなのは「真ん中の死体が犯人だったなんて!」とか「すべては過去の映像だったのか!」あたりですが(さて、何の映画でしょう)、本作もそこはまったく引けを取らないですね。だから、難しいですね、これを語れというのはどうも、うーん、やっぱりまだ観ていない人には多少気を遣いたいんですけどねえ、いや、でも、リクエストいただいたbang_x3さんはご覧になっているのでしょうし、もうばらしていきますね。観ていない人は読まない方がいいです。本作に関してはそういう風に言っておきます。はい、もう、ぼくは知らない。すぐ下の行で結末を書きますよ。細かい流れとかもあまりちゃんと書かないから、観てからじゃないと何を話しているのかわからないですよ。




  




 簡単に言うと、「おまえ、やってたんかい!」ですね。
これは実にいい線をついています。法廷ものではもうこれ以上簡潔なオチをつけることはできないでしょう。ミステリーのフーダニットものだと、よくあるのが「善意の案内人が実は犯人」とか「探偵の依頼人が実は犯人」とか「信じていた人物が犯人」とか「犯人はヤス」とかがあるわけですけど(あれ?)、本作はその王道をばちっと決めている一方で、観る者の意識をそこには向けない、という惚れ惚れするテクニックでかわしてくるわけです。

 原作を未読なので映画の話になるわけですが、映画では弁護士のチャールズ・ロートンが主な視点を担うので、観客は無意識に彼を応援するわけです。なんとか依頼人の無実をはらしてやりたいと思う弁護士に移入し、どうやって裁判に勝つか、という目線になってしまう。アル中という設定で、真面目ばりばりでもない太っちょですから、自然と愛らしいキャラクターとして受け入れてしまい、それが自然と、タイロン・パワーを信じることにもなってしまう。持って行き方が大変に巧い。

物語の常道の逆を行く、というのも大きいですね。やっているはずがない、と自然に思ってしまうし、またそう思いたいという観客の心理がある。タイロン・パワーはそこを二重で破ってくるわけですね。「本当はやってたのか」「そうなんだよ、この妻と組んで、一芝居打ったってわけさ」「愛する夫のためですもの」からの、「でもさ、俺、おまえのこともだましてるんだよね」「えっ!」です。勝つのが到底無理だろうというところからひっくり返して、それがさらにさらに、ですから、気持ちのいいこと請け合いです。

 今の時代ではもう通用しないような話なのでしょうが、くどくどしいこともなく、観客の興味をずっと持続させ、裁判も二転三転する。これはもうぼくがこれ以上褒める必要がないです。あまり書くことがないと言ってもいいでしょう。どうしようかな。逆にこの映画の悪いところを考えてみても、なんかどうでもいいようなことしか思いつかないし。

 みんながいいと言っている映画なので、もうぼくは言うことがないんですね。評価の分かれる作品ならやりようもあるし、メッセージのある作品ならそこを読み取ろうと思うのですがそこを突くタイプでもなさそうだし、法律うんぬんについてはまるきり門外漢だし。言うなれば、「評するまでもない。傑作だ」というところです。bang_x3さん、ぼくはいったい何を語ればいいのでしょうかっ(訊いちゃったよおい)。
 はい、普通にお薦めいたしまする。
表面的な怖さはあるけれど、内面を揺らせる怖さは何もなかったです。

軍平さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『The Girl Next Door』
 1950年代に実際にあった事件をもとに、ジャック・ケッチャムが原作を書いており、その映画化であります。長い原作を90分に収めるとこんな感じになってしまうのだなあ、というもんがあります。

 隣の家の少女が虐待を受けている、という少年の目線からの話なんですが、前半は不穏感が漂い、母親の強権的な感じ悪さもよく、なかなかよいのではないか、と思ったのですが、ちょっとしょぼしょぼん、としてしまったように思います。

 隣の家の少女には妹もいて、二人して縁戚から引き取られたような立場で、もともとの家の男子たちや母親からはどうも疎まれている、あるいは男子たちには性の対象に見えてしまう、というところの危うさもあるわけですけれども、描写それ自体で言うと、どうも各人の内面が軽んじられている節が強く、わるもんはわるもんにしか見えず、それじゃあちょっと単純じゃないか、という風に思いました。

 思春期の男子が抱える危うさ、というのはこの映画でもっと描かれるべきだと思うんですが、それがないんですね。もったいない。そして、虐待に荷担している子供らの逡巡みたいなもんもほとんどない。この映画の構造は簡単で、要はあの母親の怖さに頼っているんです。母親の嫌な感じは確かによく出ていました。でも、深みはない。母親はこれじゃあ単に嫌な奴です。いや、この母親はこの母親で何か辛い過去があって、それでああやって歪んでしまったのだな、とは思うし、ぼくはそこでなんとかあの母親の弁護士になりたいわけですが、これじゃあ彼女の抱えるもんがわからない。嫌な感じは絶品! うん、それはわかった。問題はその奥でしょうということです。そこを観たいのに、何もないんです。野村芳太郎の『鬼畜』を観ましょう。

 この母親と子どもたちには別々の動機がある。子どもたちは劇中、エロ本を見たり覗こうとしてみたり、体を触りたがったりするわけで、その辺の行為それ自体は描かれる。ただ、それが記号的な行為に過ぎなくなっている。至極残念です。男子たちが寝室に集っているシーンで、「女性の裸体を初めて見た」という話をする。だったら、なぜその瞬間の怖じ気と興奮を描かない? 彼らの表情や目線に間を割かない? そこを描くことで、思春期の彼らが抱えるより危ないもんがあぶりだされたはずなのに。

 虐待描写の嫌さ、というのは、一個の映画としては十分成立しているものだったと思います。だから、この虐待描写は本当に陰惨たるもんだ、と思う人がいてもおかしくはない。でも、こういう表現は今の時代、本当に難しいと思います。なにしろ、ぼくたちは既に、ネットなどを通していろいろなものを見て、いろいろなものを知っている。実際の凄惨な事件から想像する怖さ、実際の虐待事件の画像から想像する怖さ、そういうものを知っていると、この映画の虐待描写を褒めることはできません。こんなもんじゃねえだろ、と思わされる実際の出来事は、既に世の中に溢れている。それを忘れてこの映画の虐待描写に怯えるほど、もう若くはないのです。

 で、主人公の少年にしても、この映画の描き方だと、「早く警察に行って匿名の通報をしろ」と言いたくなってしまう。警察に言いたいけど言えない、両親に言いたいけど言えない、そういう要素がないんです。その辺の逡巡が描かれていない。父親と話すときでもそぶりを見せず、「暴力は駄目だぞ」みたいなことを言われてそれきりの始末。


 この映画はもっとここをこうすれば、というのがわりと多くあります。そしてそこを膨らませることで(あるいは変えることで)、もっと実りあるものになる。そこから読み取れるものもきっとある。でも、それらを捨象してしまっているがために、単に胸くその悪いものになっています。じゃあちゃんと胸くそ悪いならそれはそれでいいのに、そうでもない。この映画で何を映したかったの? 何を語りたかったの? と素朴に疑問です。表面的な怖さはある。だけど、内面を揺らせるような怖さは何一つ感じられなかった。うーん、これは本当、描写の問題です。90分しかないからしょうがない、という風には言えるんですけど、もっと長くていいから、もっと各種の描写を掘り下げてほしい、と思わずにはいられない作品でございました。 
格好いいのはわかった。それで、何なのでしょう?

ロキタさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 今年には2もつくられるとのことですが、もともとアメコミにはてんで関心のないぼくとしてはスルーだった本作です。うーん、これはちょっと困りました。

 ぼくはこのブログを続ける中で、自分の映画の見方が確実に変わってきているなというのを感じております。最近はそれがやや極端にもなっていて、要するに「娯楽的に面白いかどうかは、二の次」ということです。極言すれば、娯楽的に面白いかどうかなどどうでもいい。いや、さすがにそれは言い過ぎかとも思うのですが、ぼくにとっていい映画とはつまり、語りがいのある映画、語ることで見えてくるものがありそうな映画、ということなのです。だって、娯楽作品として面白いかどうかなんて、結局個人の感じ方ですからね。説得してどうなるもんでもないし、そこを語ることの意味があまり見えなくなった。そういうのは、他の皆さんにお任せしたいというのが正直なところです。などと言いつつ、かわいらしい女優などが出てきたらどうせきゃっきゃ言うのですけれども。

 さて、『シン・シティ』ですが、アメコミ原作で、モノクロの中にパートカラーをふんだんに配合しているのが画的な特徴です。これなあ、これはもう好みの問題だろうからなあ。これこれこういう理由で駄目なのだ、とかそういうことでもないんですねえ。

 メイキングやインタビューなどを観ると、監督のロドリゲスやタランティーノが、「この画は最高にクールだぜ!」みたいな感じで喋っているのであり、まあアメコミの雰囲気を保持する上ではパートカラーとモノクロの多用によって奥行きをあえて欠落させ、人物をマテリアルに際だたせるというのは効果的な手法であろうとは思うのでして、それが「なるほど超クールだぜ!」と思う人には何の文句もないのですけれど、そのクールでヴィヴィッドな表現ゆえに薄さが際だち、あれだけの技巧を凝らしながらも黒澤明が『天国と地獄』で見せた一瞬のパートカラーの鮮やかさ、強さには及ばぬとも思うのであって、結局のところは「お好きな人はどうぞ」というくらいしか言うことがないのです。

 映像で冒険したり、いろんな表現を試みるのはどんどんやってほしいと思います。そういう中からびっくりするようなもんが生まれてくるのだろうし、その意味でこの映画はがんがん攻めているとは思うので、本当、お好きな人はどうぞ、です。

 ぼくには合わないな、というのが、ラストの一場面に凝縮されています。
 ブルース・ウィリスが自殺するんですけど、そのワンカットを、なんというのですかね、シルエット風というか、モノトーンの切り絵みたいな感じで表すんです。ああ、これだなとぼくは思いました。結局この映画では、ブルース・ウィリスが生きようが死のうが、ジェシカ・アルバを救おうがどうなろうが二の次なんです。スタイリッシュなビジュアルとして見せるのが最初にあって、その中にいる人々がどうなろうが映画をスタイリッシュかつクールに見せるためのコマに過ぎない。ぼくはそういうものに興味がない。

 いや、簡単に言うと、趣味の合わないファッションをずーっと薦められている感じなんです。このシャツ超いけてるよね、このジャケットマジ格好いいよね、てかこの靴とかマジやばくね? とずーっと言われているけど、いやあ、趣味が合わないなあ、としか思えない感じ。で、外見が格好いいのはわかったけど、そろそろ実のある話しない? と言いたくなるんですが、え? でもほら、俺むずかしー話とかちょー苦手な人じゃん? てか踊ってたほうが楽しくね? あ、あの娘ちょー胸でかくね? え、マジいい女じゃね? 普通に。みたいな。うわあ、ノリが合わねえ、という。

 だから、ノリがあった人はそれでいいんじゃないでしょうか。それとも、この映画だからこそ、あの表現だからこそ語れるものが何かあったのか。ぼくの読解力ではそこが見て取れなかった。その意味では惨敗。監督が三人いて、アメコミ原作のオムニバスで、画のクールさに力入れて、で、何が語られたのか? ぼくにはわからなかったんです。教えてください。この映画については、本当に何もわからなかった。あの色にもきっと意味があるのでしょう。それが見えない。いや、意味なんかなくて、単に格好いい色だからとか言うんだったら、もう本当にどうでもいい。ぼくの知識ではあの色をあのように配置した意味がわからない。

 どうも、馬が合わない作品でございました。どうも申し訳ありません。
同性愛を考えるよい入り口となりましょう。

もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回は人種差別にまつわる映画でしたが、奇しくも今度は同性愛差別のお話です。
 タイトルの「ミルク」とは、実在したサンフランシスコの市政委員、ハーヴィー・ミルク(1930-1978)のことです。彼は自らがゲイであることを公表し、同性愛者の人権運動に尽力した人物なのです。同性愛者の人権に関しては、ウィキペディアのLGBT史年表やLGBTにまつわる権利などの記述が充実しているので、そちらを参照してもらえばよいでしょう(LGBTと言われて何のことかわからない人は調べるのがよいでしょう)。

 同性愛差別は人種差別、民族差別とはまた違う切り口が必要となる問題です。それはやはり、トピックそのものが「性愛」というナイーブな部分に重なっているからであり、なかなか語りにくい、語られにくい、というのがあるわけですね。真っ向から語るとまたえらく大変になりそうなので、映画に言及しつつ進みましょう。

サンフランシスコという場所は当時のアメリカでもゲイの集まりやすい地区であったらしく、ミルクはそこでカメラ屋を営むことにします。次第に広がり、盛り上がっていくゲイ・コミュニティの一方で、ゲイに対して差別的な警官の取り締まりなどに遭遇し、政治的に声を上げねばならぬと思い立ったのです。映画では彼がサンフランスシスコに来てから暗殺されるまでの数年間を描いており、実際の1970年代の風景がところどころに挟み込まれます。

 ただ、表立って声を上げると、その分軋轢を生むのが世の習いです。それまではひっそりとしていたからいいものの、そんなに堂々とされちゃあ困るんだ、という人たちも出てくるわけですね。同性愛者の権利を認めるか否かをめぐって、政治的なぶつかりが生まれていくのです。

日本では表立って同性愛差別をするということはないものの、そこは持ち前の「空気」の文化で、公言することもしない傾向が強いんじゃないかと思います。ただ、同性愛を差別することはないものの、じゃあ同性婚を認めているかと言えばこれは別で、欧米の国々は軒並み法律を整備しているのに反し、なかなか議論が進んでいない様子です。これについては地域差を見てみると結構違いがあって、先進国とされる国では同性結婚を認めるか、ないしはパートナーシップ法やシビル・ユニオン法(婚姻とは同等ではないものの、それに付随する権利の一部または大部分を認める法律)があるのに対し、東欧、中南米、アフリカ、アジアは認めている国のほうが断然少ない。まあ途上国の場合は、それ以外に定めるべき法律があったり、あるいはイスラム圏では教えとしてそもそもアウトというのもあるため、同性愛は成熟社会で問題にされること、という性質があるのかもしれません。
 日本でなぜ認められていないのか、まあいろいろな理由があるのでしょうが、最も大きなもののひとつには憲法の問題があるのでしょう。憲法では婚姻について「両性の」合意が必要なものとしているので、同性婚を認めるとなるとここに引っかかります。日本では過去一度も憲法改正は行われていませんので、ここからひっくり返すのは難しいのでしょう。正式な婚姻ではないパートナーシップ法の導入が現実的ですが、議論はあまり進んでいないようです。

一方、アメリカという国はいちいち決めなくちゃいけないんですね。これはアメリカが共同体であるというより、組織体としての性質が強いというのが大きな要因でありましょう。移民が多く、人種も様々。であるとするなら、生き方に関わることは逐一人々の意見を聞いて決める必要がある。だから人々はそのたびに自分の思想を明確にする必要に迫られます。「あなたは同性愛の権利を認める? 認めない?」という問いに真っ向から晒される。そうしたことを繰り返して、自分が組織体の一員であることを国民が意識する。その最たるものが大統領制です。日本にはない作法であります。

長々と映画とそれたようなことを書いているようですが、この映画を観るにあたっては、その辺のことを考えておきたいものなのであります。

映画の中では、ショーン・ペン演ずるミルクの近辺よりも、政治的な戦いの様子がメインで描かれますね。同性愛者の差別の現場よりも、実際のニュース映像などを交え、同性愛を認めない政治家や有名人の声が対立軸として明確に描かれる。だから、生のやりとりそれ自体から考える種類の映画とは違います。ゲイを特殊なものとして感じさせないつくりがなされているのですね。

ぼくは彼を追ったドキュメンタリーについては未見で、どういう人なのか細かいところはわからないんですけど、わりと簡単に性的な交渉を持っちゃう感じがしますね、あれはいいんでしょうか、ああいう人だったんでしょうか。最初に出会って長く暮らす相手もすれ違いざまのナンパだし、途中では明らかに葉っぱか何かをやっている感じの若者を連れ込んですぐにやっちゃいます。特に後半の場合は、既に身の回りにも支援者がわりといる状況で、相手がいないってわけでもなかろうに、すぐにやっちゃう。これ、異性愛の映画だったら、なんじゃこいつは、と思われそうです。映画全体が、「同性愛だっておかしな人たちじゃないんだ」という方向に進んでいる反面で、「それにしても軽いなおい」という印象を観客に抱かせてしまいそうですが、どうなんでしょうか。あれは映画的に、ちょっと危ない場面にも見えるんですが、何か他の意味があるのかなあ。

 ただ、でも、同性愛は異性愛に比べれば、迫害されているのもあって、近しい者に親密さを増すというのはあるんでしょうかね。ゆっくりと慎重に愛を深めるとかいうんじゃなくて、お互いがそうだとわかったらもうオープンに、やることやっちゃえ、みたいな部分もあるんでしょうか。うーん、でもまあそれは人それぞれなのだろうし、うーん。

実際のニュース映像が挟み込まれるのですが、アメリカは本当にはっきりとものを言いますね。イエスかノーかのお国柄なんてことも言われますが、堂々と「同性愛は害悪!」みたいなことを言うでしょう。今でも「進化論は嘘!」とか言っている人もいるわけですから、なるほどこれはある程度ちゃんとルール決めしないと国がえらいことになるなあ、と思わされます。

 結局、同性愛がなぜ嫌われるのかっていうと、前回の記事で語ったことでもあるし、劇中でも出てくるけど、それまで抱いていた価値観を揺るがされるからなんですね。人の認識は楽をしたがるものだし、これはよいもの、悪いものと決めておくほうが苦労がない。なので、男は女と、女は男と、それ以外は認めません! と言い切ったほうが絶対に楽で、社会的にもそのほうがややこしくなくてよい、という主張があるわけです。宗教的な理由もそこに足されるわけですね。ミルクを殺した政治家にしても、自分の生活がうまくいかないってこともあるんでしょうが、それまでの価値観を粉々にされたというのがあったのでしょう。

 前回の人種差別ものもそうですが、この辺の話はそう易々とまとまりがつかないですね。うまいことこの映画の美点であるとか、映画内の話にまとめたいとも思うけれど、どうしても実世界の状況なんかについても触れたくなるし、それを始めるともうだらだらと収拾がつかなくなるし。まだぜんぜん語りきっていないんですけど、これ以上書くといよいよ長くなりそうなので、ひとまずこの辺にさせてもらいます。

 うまく語れるときとそうでないときがあるので、これでいいのだろうかと考えてしまうことが多いです。なので、リクエストしてくれた方もそれ以外の方でも、あの映画のあの場面はどう思った? あの場面について触れてくれよ、と個別に言ってもらうのもぜんぜんありです。しばらくすると細かい部分については忘れてしまうでしょうから、気になった場合はお早めにどうぞ、今日はこれまで。
ダイレクトなメッセージを放つ、真っ当な反人種差別映画だと思います。

砂ぼうずさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

観終えてからしばらく、どういう方向で行こうかなあと書きあぐねて、差別というものについてぼんやりと考えていました。日本は人種差別についてはほとんどない国だと思うんです。というより、白人のコミュニティや黒人のコミュニティというものがそもそも(ぼくの知る限りでは)ほぼないので、人種間の軋轢自体が表立っては来ない。民族差別は多少あるのでしょうね。実際の人間関係はどうかわからないけれど、ネット上の言葉を見れば、日本には民族差別の感情が存在していると言わなくてはならない、残念ですが。

 ただ、自分に引きつけて考えてみたときに、まあぼくは少なくとも自分の意識する限りにおいて、民族差別意識も人種差別意識もないのですが、差別意識自体がないかというと、そこはどうなんだろうと思いますね。たとえば美人な女性とそうでない女性の間に、まったく差を感じないかと言えば、それは違います。この感覚は差別なんですかね?

 もちろん、その種の言説を日常で放つようなことはしないし、接する際の態度にも一応違いはないし、自分が傷つけられた記憶があるから人を傷つけることは絶対にしませんけれども、美人な女性を見たときの脳波と、そうでない女性を見たときの脳波には間違いなく違いが出ているわけです。態度に違いはない、などと書きましたが、愚かしく若かりし頃などには、たとえば飲み会などで、可愛い女の子ばかりに話しかけて、そうでない子には目もくれないということをやってしまいましたもの。
「だからおまえはもてないんだ」
 む! 誰だおまえは! なんだと! 畜生、その通りだからぐうの音も出ない!
 ぎゃふん!

 ええと、耳の奥に響く幻聴を無視して話を続けますと、あのー、人はね、これはもう、顔で区別してしまいますね、これは差別ということと同じではないかも知れないけれど、まったく別のものだとも言い切れないと思うんですね。で、じゃあ、なんでぼくたちは顔で人を区別してしまうのか?

これからは私見ですゆえ、何の学術的裏付けも知らぬゆえ、どこかで吹聴して馬鹿にされても知りませんが、まあちょいとした論を展開しましょう。
 なぜ人は顔にこだわるのか、についてです。
 
 人間は進化の過程で、個体識別の機能を発達させたわけです。いろいろなものを食べるようになったり、道具を使ったりするようになると、必然的に個体識別能力が要求されるわけですね。で、互いの姿形をも識別するわけですが、人間の場合動物界で唯一、衣服をまとうようになった。他の動物ならば毛並みが立派だとか、背中の模様が鮮やかだとかで識別できるけれど、人間の場合その道は絶たれて、顔で互いを区別するようになったのです。で、それでもまだ、体のたくましさとか、女性で言えば乳房の大きさとか、体つきで区別する部分もあったわけですが、だんだんと社会や文化が成熟してくるにつれ、動物的なたくましさだけが価値を担うことは少なくなっていった。日本でも時代によっては、顔のよしあしよりも、いかに巧く和歌が詠めるかのほうが大事だなんて文化もあった。そういう変遷を経る中で現代、対面コミュニケーションでは身だしなみのよさとかそういうものを抱えつつ、顔で個体識別をはかるのが最も簡単な方法だということになったわけですね。

 で、なぜ顔のよしあしを感じるのか、ですけれども、個体を識別するだけでは脳に負担がかかってしまうからだと思うんです。生存戦略上、何が自分にとって価値があるのかないのか、脳は決める必要がある。栄養のある木の実と毒のある木の実を判別しなくてはならない。脳にできるだけ負担を掛けずに、迅速に生存戦略上の価値判断を果たすためには、外見で識別した後、価値のあるなしを即座に決めるのが合理的なんですね。つまり、ぼくたちは好むと好まざるとに関わらず、無意識に美醜の判断を取ってしまう。

 で、これを社会にまで広げてみます。どういう顔が美しいとされるかは文化ごとに違いがあるとしても、美しい顔というのは大体決まっていて、そう認められた人がモデルやアイドルになるわけです。これも脳が楽をするための判断でしょう。何が美しいと感じるのかばらばらであっては、自分をよく見せようとするうえでも判断に迷うわけです。また、何を美しいと感じるのか、自分一人で決めるよりも、多数の合意があったほうが判断しやすい。皆がうまそうに食べている木の実はうまいのだろう、と認識がしやすくなる。自分で判断しなくていいのはいちばん楽です。

 そんなわけで、人は顔にこだわるんじゃないでしょうかね、うむ。
 

 いい加減映画の話をしろ、ということですが、差別は今述べたようなこととすごく密接に関連していると思うんです。要するに、ぼくたちは何かで価値判断しないとやっていられない。そしてその極端な表れが人種差別なんですね。差別を撤廃する、というのは法律や制度としては可能でも、文化や個人の感覚のせいで難しいわけです。ぼくたちの中には個体識別機能が基盤として存在していて、無意識に価値判断を行うようにできている。わかりやすく言うなら、大多数の人間は差別感情の種を脳に埋め込んだまま生まれてくる。そして経済や社会の土壌は、いくらでもそれを発芽しうるようにできている。育て方や天候の具合で、いくらでも生長するんです。だから差別は仕方がない、などということではありませんが、差別を他人事として考えるのは、差別と自分とを不当に切り離す行為であると言いたいのであります。ぼくたちの中にある差別の種をどう発芽させないようにするか、自分事として引きつけながらどう社会的に芽を摘むかが大事であって、差別はよくない! ではどうにもならないってことですね。差別は知性の欠如と恐怖心が大きな原因であろうと思うのですが、これを社会的に除去するには教育と経済の不均衡是正が必要なので、差別撲滅だけを訴えることに実効性はあまりないんじゃないかと思います。いや、あまりないっていう言い方は良くないですね。社会運動は実を結んだりしているわけだし。うーん、うーん、もうそろそろやめておきましょうか。

 さて、ここからやっと本当に映画の話です。 
本作はエドワード・ノートン演ずるネオナチの男が黒人を殺し、刑務所の中で改心して戻ってくるまでの様子と、彼の影響でネオナチになった弟の話が二つの主軸を担います。

映画全体にひりひりした感じがつきまとい、緊張感が保たれたまま劇が進んでいくのはとてもよかったと思います。差別自体がよくないことなので、よかったという言い方は多分に語弊があるのですが、まあ見せ方として優れているということです。

 ノートンは現在の場面ではかつての思想を捨てたよき人として現れ、回想場面ではごりごりの差別主義者として登場する。これを交互に織りなすことによって、映画には強い張りが生まれます。そしてこれは、差別が制度上はなくなった今でも差別は残っているのだという、実世界の現状とシンクロしますね。これがね、時系列順に、ノートンがだんだんと差別をしなくなっていく様子だけを描いていたら、どこかしら欺瞞性が感じられたと思うんですけど、この構成にしたことで観客は差別を現在進行形のものとしても受け止めることができる。秀逸な作りだと思います。テンポもいい。

 彼が差別主義者になったのはもともと、父の黒人不信の教えと、父を黒人に殺されたという出来事が直接的な理由として描かれます。教育と体験。そして、そこから翻るに至ったのは、刑務所での黒人との交友体験、そして自分と同じ白人からの暴行によるものです。
ノートン自身は体験によって、弟のエドワード・ファーロングは兄からの伝達=教育によって、自分の思想を改めるに至ります。


 教育と体験が差別感情を左右する、という構成については、やや平凡なものを感じてしまいます。そんなのは日本でも既にあったことですしね。鬼畜米英を憎めと教育されてきたけれど、いざ戦争が終わって会ってみたら意外とアメリカ人はいい人じゃないか、みたいなことはあったわけで、だからこそここまでアメリカ文化が広まったわけでしょう。そして、人種的対立を経てここまでやってきたアメリカでの考えにしては、いささか物足りないものを感じるのも事実です。あの国はもっと深い思索を経てきたと思うんですが、ぼくにはそこまで読み取れませんでした。

 もっとも、そうは言いつつも、教育と体験以外に人の心を改めるものはないのだ、という強い結論に至ったというのなら別です。そしてこの映画はその両面を見据えて設計されているとも思いますね。ダイレクトなメッセージ機能は十分に有しています。

 つくりとしては、わかりやすい因果応報譚でもあります。相手に悪いことをしたら自分にも返ってくるのだぞ、ということです。そして、実はこの映画は終わっていないですからね。ノートンがあの後で、果たしてどういう生き方ができるのか、観客はいやがおうにも考えることになります。だから映画の中に閉じていない。この映画はあくまでも現実に寄り添いながら進んでいるのですね。そう考えると、妙にこねくり回すことなく、人種差別の状況について、真っ向からぱしっと描いているというこの映画の強さが見えてきます。

 人種差別に関する映画の、ひとつの模範型としてお薦めできるのではないでしょうか。
 映画に関係ない部分が長くなってしまい申し訳ありませんが、ひとまずこの辺にさせてもらいたいと思います。
 
ちなみに……ネオナチのでぶちんがバンを運転中に歌っている歌は「リパブリック讃歌」が原曲。これは黒人による歌であり、黒人奴隷解放を訴えたジョン・ブラウンを称える歌にもなっているため、ネオナチの人間が歌うのは変。ネオナチでぶちんの馬鹿さ、歴史への無知を表したシーンとも読める。
正義の実現はカタルシスになるけれど、個人的にはもっと突っ込んでほしいとも思いました。

もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Murder in the First』
結構前にお薦めいただいていたのですが、すっかりと失念しておりました。映画をご紹介いただく場合、「おすすめ」だと忘れたままにしてしまったり、あるいはぴんと来なかったら書かずにスルーする可能性もあるので、「この映画観て記事書きなよ、書けばいいじゃん、おまえみたいなやつは」とお思いの方は(なぜそんなにぶっきらぼうなのか)、「リクエスト」と書いてもらうと、一応書かねばならぬという気になります。今後のご参考にしてください。

さて、『告発』ですけれども、ケヴィン・ベーコン、クリスチャン・スレーター主演で、アルカトラズ刑務所を題材にしたお話です。アルカトラズ島にはもともと南北戦争の際、南軍のサンフランシスコ湾侵入を防ぐために北軍が設置した要塞があったのですが、1861年に軍事刑務所として正式に指定されたそうです。途中から連邦刑務所として管轄が変わったのですが、1963年の閉鎖に至るまで100年以上にわたり、アメリカにおける代表的な刑務所のひとつとして機能していたようであります。アメリカの治安を守るうえでのアピールにも使われていたらしく、アル・カポネやマシンガン・ケリーといった有名な犯罪者も収容されていたのであります。

 しかし、じゃあ収容されていた囚人が誰も極悪な犯罪者だったかというとそうではないようで、比較的軽い罪の犯罪者も送られていたらしいのですね。高い維持費の一方で、空き部屋があってはならぬという事情もあって、誰も彼もが殺人犯とかそんなのじゃなかった、ということのようです。
 

 囚人のケヴィン・ベーコンは貧しい境遇にあった男で、少年時代、妹のために五ドルを盗むのですが、取り調べで五百ドルということにされてしまい、収監されます。そして脱獄を図るのですが捕まってしまい、ほとんど光のない独房の中でなんと三年間の懲罰を食らうことになったのです。

 しかも看守からの暴行は当たり前のように行われており、心神喪失状態になって、受刑者の一人を殺してしまいます。その受刑者は自分と同じに脱獄を図ったのですが、別の犯罪者を密告した見返りに懲罰を免れ、他の囚人と同じく普通の監房生活を送っていたので、ケヴィン・ベーコンは憎々しく思って、衝動的にやってしまったのです。

 その裁判をあらためてやらなきゃいけない、ということになって弁護士のクリスチャン・スレーターに出会うのですが、その過程でアルカトラズのひどい虐待が暴かれていき、「告発」され、やがてアルカトラズ自体が閉鎖されていくと、まあこのようなお話です。

 実話をもとにつくられたとのことですが、今よりも人権意識のない時代でしょうし、まあ本当にこれに近しいことはあったんだろうなあと思わされます。現代においてだって、イラク戦争時のアブグレイブ刑務所みたいなことがあったわけですからね。

 犯罪者にまつわる話は最近幾度か語ったりしているんですけれど、うーん、この辺は一本調子で語るのがやっぱり難しいですねえ。

 映画自体はね、うん、今のぼくにはやや単純に映るところもあります。ケヴィン・ベーコンが演じた役の設定としては、貧しい境遇で妹のためにわずかばかりの金を盗み、しかし五百ドルに水増しされて収監されてしまい、脱獄の罪でひどい虐待を受ける、ということなので、観ている側としては単純に、可哀想だなと思いますよね。それで、スレーターが頑張って彼を支えて、人道的な社会へと前進していきました。悪しき環境が絶たれましたってなもんなんですけど、うーん、うん。

 広く受けいれられるための映画としてはそれでいいんですよ。そのほうが観客のウケもいいだろうし、カタルシスをもたらすかもしれない。この映画はこれでいい。だからこの映画のつくりに文句を言うぼくがひねくれているんです。そう思ってもらうのが穏当です。

 ぼくはもう一歩突っ込んで考えてしまう。あのケヴィン・ベーコンが、たとえばもっとひどい罪を犯したという設定だったらどうなのか。ぼくたちはベーコンやスレーターに感情移入できただろうか。そこまでいくと、この映画はもっと深い部分に澱を残せたと思ってしまうんです。

 いや、わかります。この映画で描かれていた重要なことのひとつは、たとえ社会に混乱を起こし、自分の立場が危うくなるとしても、正義のために戦うべきなんだというメッセージでもあります。劇中でも、スレーターに依頼が回ってきたとき、「この裁判はどうせ負け戦だから」みたいなことを周りに言われるんです。賢い大人は、「まあ変に粋がらなくていいからさ、うまいことやりなよ」みたいな感じのわけです。スレーターはそうじゃいけないと思って奮闘するんですね。

 だからこの映画では、たゆまぬ正義を実現する姿のよさってものを見て取るのが感動的な解釈で、そういう風に観るのがきっと正しいのでしょう。しかし、今のぼくはもうちょっとこねくり回したものを求めてしまっているんですね。

 正義ってじゃあなんやねん、ということも考えてしまう。考えたくなる。さっきの話と繋がるんですけど、ベーコンがもともと殺人犯か何かだったら、周りは応援していただろうか。殺人犯でも人道的な扱いを受けるべきだ、という論調は生まれていただろうか。殺人犯なのだからひどい目にあっても構わない、いやむしろそうすることが正義なのだ、みたいな話もあったんじゃないか。そうすると、「たゆまぬ正義」のようなわかりやすく清いものではなく、「何が正義かはわからないけれど、自分はこれが正義だと思うんだ。そして、それを貫くんだ」というものが見えてきたんじゃないか。

 何度も書いてアレですけど、この映画はそういう映画じゃないのはわかっているんです。 ただ、構図として単純に見えてしまう。あれだと、検事役のウィリアム・H・メイシーがただの邪魔者に見えてしまうし、まあ誰だってベーコン、スレーターを応援しちゃうでしょう。

 この辺の話は他にいい映画があるもので、どうもそっちと比較するところもでてきてしまいました。信ずる正義を実現する話ってことだと、『セルピコ』とか『フィクサー』とかが好きで、あの映画って、「てめえ、マジでつぶすぞ」があったんです。主人公が頑張れば頑張るだけ、「おめえつぶすからな」って周りから威嚇されていた。だから、それでも頑張る姿が余計に感動的だった。あとは『ロンゲスト・ヤード』です。これは同じ監獄もので、あの映画でも「囚人の犯罪歴が弱い、もしくは描かれない」というところはあったものの、「ここで戦わなきゃ一生後悔する。たとえ、失うものがどんなに大きくても」というところで強い芯があった。本作のスレーターはねえ、そこが弱くてねえ。ちょこちょこ言われたりはするんですけど、「だったらマスコミにばらしますんで」みたいにかわしちゃったりするし。スレーターはあの後も普通に弁護士稼業できるんだろうし。っていうか、結構儲かっていくだろうし。

 個人的には引っかかってしまいましたが、よい映画だとは思いますし、飽くことなく観られました。なんだかんだ言っても、じゃあ自分であのスレーターのようなことができるかと言われたら難しいわけですし、たゆまぬ正義のために頑張る姿は、とても尊いものであります。
 こんなところで、おしまい。
この映画には、共感も風合いも不要なわけです。

世田谷の男さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 ミヒャエル・ハネケはぼくにとって、その魅力を最も感知しにくい監督の一人です。何か深い感じはえらい醸しとるな、とは思うのですけれど、じゃあどこがどうええねんと言われたらわからない。強敵ハネケであります。リクエストを頂いたとき、うわちゃあ、と思ったのが正直なところであります。

 前回『白いリボン』を取り上げたときの反省も踏まえまして、なんとかその美点、あるいは批評性というものを読み取ろうくみ取ろうと頑張って観たのですが、観終えたときには口ぽかんでありました。やばい、わからん、と思ったのでした。しかし幸いなことにハネケ本人のインタビューが収録されていたために、多少はふむふむとも思ったのでありました。

ストーリーはというと、終盤手前までは何もないにも等しいのであって、最終的には家族が一家心中をしてしまうという、ただそれだけのことなのであります。これはなかなか、さてどうしたもんでありましょう。

 白状しますと、自分であれこれ導き出すのは難儀きわまりなかったため、映画評サイトをいくつか散見いたしました。すると、さすが他の方は見方が深いですね、この映画の美点、細部における意味などを拾い上げているものが多く見受けられました。なので、先に言っておきましょう。他のサイトを読むのがお薦めです!

しかしそれを言っちゃあおしまい、身も蓋もない、それでいいのかおまえ、ということなのでなんとかひねくり出しますと、本作にはわかりやすい見所がございまして、それはなんといっても終盤の器物損壊のくだりです。家族は心中を遂げる前に、家にあるもの一切合切を鈍器で打ち壊し、はさみで切り刻み、破壊の限りを尽くすのです。これはハネケの国、オーストリアで実際に起こった出来事であるらしく、その辺の嫌な感じはいかんなく表現されていると言えましょう。

 そこから逆算してこの映画を見つめ直すと、行為の集積がおぞましく思えるところも見えてくるのですね。本作には確かに、観る者を不安な気持ちにさせるような訴えかけがあります。今までハネケ作品では『ファニーゲーム』『隠された記憶』『白いリボン』を観たことがあるのですが、その中ではいちばん好きですね。言い忘れていましたが、本作はハネケの長編デビュー作で、デビュー作らしいむき出しの野蛮さがありました。

 行為の集積とは何かということですが、本作の特徴としては、過剰な接写が挙げられます。とにかくいろいろと寄って撮りすぎている。印象に残るのは人物の顔よりもむしろ、彼らが単に家事を行ったりするその行為であって、序盤では顔が持つ人称性を逸したまま、しばらく淡々とその行為だけが描写されます。

 ただの日常的行為が、結末から逆算しておぞましく見えてくる。そして日常の認識にも、揺らぎを与えるように思えてくる。これはいい映画の条件のひとつと言えます。映画評論も行う社会学者、宮台真司は、「映画は自分にとって娯楽ではなくアート。アートというのはつまり、その映画を観る前と観た後で身の回りの世界が違って見えてくるような、そんな体験をさせるものだ」というようなことを言っていて、本作ではその一端を味わうことができます。

話はややそれるようですが、ぼくは外出するとき、たいていの場合イヤホンをしていて、音楽やらラジオのポッドキャストやらを流しています。何も流していないこともありますが、およそいつでもイヤホンをしているんです。そう言うと奇異に思われるかも知れませんが、そうしないと不安な気持ちになってしまい、やや大げさな言い方をするなら、精神的な安定が保てるかどうかちょっと心配になるのです。

理由は何か。風景や行為がもたらす退屈さや、あるいは真逆に多すぎる刺激に対して、耐えがたく感じるからなのです。よくわかりませんか? でも、前者ならば多くの方にわかってもらえるでしょう。日常の行為がもたらす退屈さに、ぼくたちは耐えかねてしまうのです。そうでなければ、電車の中であれだけ多くの人々がケータイをのぞき込んでいるはずがない。多くの人は電車の中で、ケータイをのぞき込んではメールやツイッターをチェックし、また別の人は本を読み、別の人はゲームに興じている。なぜか。いちばん簡単で素直な答えは、「退屈だから」。なるほどそれはその通り。ではなぜ退屈が嫌なのか。

 退屈がなぜ嫌なのか、についての普遍的回答をぼくは知りませんが、ぼくなりに思うのは、「退屈は人を不安に陥れるから」です。なぜ不安になるのか。人は退屈であるとき、自分が今なしている行為と直接に向き合うことになってしまう。たとえば電車に乗って会社に向かっている。そのとき、人の身体はある場所からある場所へと、運ばれているに過ぎない。たとえばコンビニで買い物をするとき、レジのバーコードチェックを待っているとき、人はただ待っているに過ぎない。そうしたことの数々は、人々に行為そのものの意味を意識させる。行為そのものの意味を意識するということは、大げさでなく、自分の人生というものと向き合うことになっていきます。

わかるかなあ、わかるかなあ、もっとわかりやすく書きたいんだけど、ちょっと大変なんだよなあ。

 イヤホンの話でいうと、退屈とは真逆の、多すぎる刺激に対する防護策、というのもあるんです。ぼくは仕事に行くときなど、池袋の自宅から電車に乗って移動することが多いのですが、そうなると人混みにぶつかりますね。すると、ふいに不安になる瞬間に遭遇します。「なんて多い人の数だ!」って。これだけ多くの人がいて、互い互いの人生に関わることもなく生きて、そしてぼくはこの中の誰とも仲良くも理解し合うこともできなくて、あれ、なんで、なんでこんなに人がいっぱいいるんだ、うわあ、という気持ち。人間、他人という存在が無数にいることそれ自体への不安、恐怖。こう書くとなんだかやばい感じがしなくもないんですが、こういう感覚、わっかんねえかなあ。その感覚に陥らぬために、イヤホンで意識的に鈍感さを保っているところがあるんです。

 長々とそれましたが、『セブンス・コンチネント』はそうしたことに思い巡らすと、結構わかってくるような気もします。この映画では、意味づけをさせないくらいの接写によって、ただ行為自体をむき出しにする。実はぼくはこの次の記事で、ある映画について、アップばっかり撮ってんじゃねえよ、とけなすことになるのですが、それとは明確に違う。このアップには意味がある。引きの画で撮ると、その行為には意味が生まれてしまうけれど、あえて手元ばかりを映したりすることで、モノ、行為を意味と切り離してしまう。それはぼくを不安に陥れる。せっかく意味をつけてきた出来事の数々、その集積が、崩されるような気持ちになる。人はその行為ひとつひとつをなんとか意味づけることで、自分を保っているのだと気づかされる。以前、松本人志がラジオでこんなことを言っていたのをふと思い出しました。
「人間って、えらそうなこと言ったりやったりなんやしてるけれども、考えたらうんこ運んでるだけやで。ある場所からある場所へ、うんこ持って行ってるだけ」

 

家族は心中する際、家の中にあるありとあらゆるものを破砕します。それが家具であろうと、思い出の品々であろうと関係なく、すべてを壊す。きわめつけはトイレに紙幣を流すところ。監督によると、このシーンは観客に不快を引き起こすものであったそうですが、それもよくわかる。紙幣とはぼくたちの社会生活における意味の象徴です。トイレに紙幣を流すということは、ぼくたちが約束しあっている社会の意味を、無くしてしまうことに他なりません。意味を瓦解させてしまうんです。家族が心中した理由は描かれませんが、家族の死には説得力が宿る。徹底して意味を瓦解させたとき、人は生の理由を失う。

書きながらようやっと見えてきました。書く前には、「でも、なんだかんだ言ってもこの映画には、その映画空間が持つ風合いってものがまるでねえんだよなあ」と思っていたんですが、なるほど、わかりました。この映画には風合いは要らない。あってはならない。風合いがあったら、行為がむき出しにならない。この映画は雰囲気とか風合いとかそういうものをすべて捨て去っているんですね。ああ、なるほど、ハネケが少しわかったように思います。

 書くことで見えてくる、という体験をさせてもらいました。強敵ハネケの攻略を、自分なりの形でやってみたのであります。『セブンス・コンチネント』は、実は観ないほうがいい映画かも知れません。日々の生活、その行為の意味がそがれ、不安を招来させてしまうような映画です。面白いかと聞かれると面白くありませんが、日々の行為の中に不安を宿す人には、暗い気持ちを与えてくれるんじゃないかと思います。
今日は変わった映画評。前半では褒めていないのに、後半では視点を変えて評価しています。

OSTさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Calvaire』
『変態村』という邦題はもう小学生がつけたみたいなアホさがありますが、原題はラテン語で「ゴルゴタの丘」という意味だそうです。フランス・ベルギー製作で、アメリカのB級スプラッタみたいなものを予想すると大きく裏切られますね。かく言うぼくもこの邦題に印象を引っ張られまして、はてさてどう書いていけばいいものか、と悩んでしまいます。ぼくはぴんと来なかった映画についてはあまり記事を書く気にならないので、もしもリクエストいただかなければ書かずにスルーしていたでしょう。どう評していいのか困っているのが正直なところです。

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 変態村というからには、山奥の土人的な連中が淫蕩の限りを尽くしたり、外からの訪問者を拷問しては哄笑しているのかな、と思いきやそんなトーンは終盤近くまでほとんど出てこず、もっぱら流しの歌手である主人公の青年と、彼が滞在することになった山小屋のおっさんの話がメインになります。このおっさんがおかしなことをして、青年がえらい目に遭うわけですね。村では獣姦している場面も出てきますが、クライマックスまではおあまり触れないようになっています。 

おっさんは最初、善意の存在のように登場するんですけど、途中から変貌します。ただ、「げへへ、おまえを苦しめて殺してやるぜ」的なわかりやすいアメリカンタイプではなく、「おまえはわしの妻なのだ」と青年を縛ってしまうのです。このおっさんは妻を過去に失っていて、その妻と同一視してしまうというわけなのです。

 うーん、ここら辺はよくわからないところですね。ヨーロッパ的なのかわかりませんが、少なくとも非アメリカ的なのは確実で、ここで観客の何割かを結構おいてけぼりにする感じがあります。最初のうちはおっさんは普通に、外からやってきた青年として彼を遇していたんです。それがどうして途中から彼が死んだ妻であるという認識に変わったのか、というのがもうひとつよくわからない。


 まあ、要は「狂気」みたいなことなのでしょうけど、うーん、狂気なあ。正直、ここでも狂った人物の出てくる話はいくつも取り上げているんですけど、これで狂気……うーん、狂気なら狂気でいいんですけど、もっと煮詰めてほしいというか、中途半端な狂い方というか、そこはもうこっちがくみ取ってくみ取ってしなきゃいけないところなんですかねえ。

 監督のインタビューで『サイコ』に影響を受けたみたいなことを言っていて、なるほどあれもノーマン・ベイツが死んだ母親の人格を自分に取り入れてしまっているというような、狂気の一種を描いていたわけですけれども、本作の狂気にもそこは似たところがあるわけです。まったく見知らぬ若い男性を、自分の死んだ妻と同一視するわけですからね。

 ただ、ぼくとしては、もうちょっとそこは丹念に描いてほしかった。その狂気をもっとちゃんと観たかったんです。物語演出的に言うなら、ふりが弱いと思いました。ふりということでいうと、犬を探し続ける息子はいいんですよ。いなくなったものをひたすら探し続けている彼の存在の不気味さは立っている。でも、そこで事足りてはいないはずで、あのおっさんが死んだ妻の影をいまだに探し続けている、というのがもっと必要だったんじゃないか。少なくとも、あの歌に感動したというのでは足りないでしょう。

 ただ、そんなことを書きながらあれなんですけど、本作の場合、ぼくは監督のやりたいことがぜんぜん読み取れないというのがあります。たとえば序盤であの慰問コンサートのくだりを入れてきた意図は何か。あのくだりとメインの舞台の出来事がどう繋がるのか。白状しますが、ぼくには読解できていません。先般お断りしていたとおり、わからない映画にはもうわからないとしか言いようがないのです。

 後半、よくわからないダンスシーンが入るんですけど、監督インタビューで、「あの場面は超現実の極みだよ」みたいなことをおっしゃられていて、端的に言ってぼくにはついていけないところがありました。超現実って言われても、です。食卓のシーンなんかも、ああ、観客に狂ったシーンみたいに見せたいんだろうなあというのはわかったんですけれど、別に際だって強烈なわけでもないですしねえ。その後の俯瞰撮影は面白かったけれど、全体を通して映像的快楽があったのはあの俯瞰撮影のところくらいなんです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、ここまで書いて、その後一時間くらい考えて、このままじゃならぬと思いました。と言いますのも、やっぱりその映画を観たからには何かしらの学びを得たいわけです。人から教えられた映画をけなすのは実に簡単なことです。変な話ですが、今回、ぼくはリクエスト作の良さをちゃんと見つけられたら勝ち、できなかったら負け、と勝手に自分で決めているのです。と、いうわけで、後半はまったく別のトーンで、この映画を褒めます。

実質、映画評二本立てみたいなもんです。別の人が書いたんじゃないか、「karasmokerは二人いる説」浮上、と言われるのもやぶさかではありませんが、別段他の方の映画評を参考にしたわけでもなく、自分の考えで書いています。
 それでは、二本目に参りましょう。

 振り返ってみるに、本作を土人の大暴れを楽しむ映画として観てはならないのでしょう。もしそういう映画だとすれば、主人公が男性であることに引っかかりを感じます。あのおっさんが主人公を自分の妻だと思いこむ。そのくだりがあるなら、主人公が女性のほうが絶対に理解しやすい。でも、そうなってはいないわけです。一方、この映画は冒頭、主人公が唇に紅をさすシーンから始まる。舞台に立つためのメイクなのですが、一般的に見て女性のなす行動です。

 この映画では、性別というものが壊れている。山奥に住む人々が獣姦を楽しんでいるのもそのひとつ。この映画では性別が意味をなしておらず、重要なのは愛する相手の欠落です。息子が最愛の犬をいつまでも探し続けているというのもそのひとつですし、そうやって見ていけばおっさんが主人公の青年を妻と同一視するという、異常な心情もまだ理解の範疇に入るように思います。おっさんは青年に女装させる。一方で、髪を乱雑に刈り込んでしまう。これは青年を女性に見立てる行為としては一見矛盾しているけれど、それはつまり、おっさんは決して、青年を女性に見立てようとしているわけではないということです。この映画における死んだ妻、グロリアという女性は、おっさんや村人にとっての失われた尊い存在であり、その代替物をこいねがう彼らにとって姿形の違いはなんら問題ではない(豚の鳴き声が響く中で獣姦ができる人々です)。そして、来訪者というものそれ自体が、彼らの欠損した世界を埋めるためのよりしろとして、機能していたわけです。

 おっさんや村人は欠損した世界に生きていたのですが、主人公の存在はその欠損を彼らに自覚させてしまった。おっさんのみならず村人までが主人公を我がものにしようとしたのはそのためです。あのダンスシーンは、「この映画を普通のまなざしで見つめるな」というサインでもあったのかも知れません。あのシーンのダンスも、普通は男女で行われてしかるべきものです。彼らは同性愛者だったのか。違う。彼らにとって性的区別には意味がない。彼らにとって大事だったのは存在と不在の二分法に過ぎない。不在を感知したとき、彼らはその不在を埋めようと、怒り狂って存在のもとに走ったわけです。

 ゴルゴタの丘、そこはキリストを磔にした、ある意味で死の象徴とも言える場所。しかし、その死がなかったなら再生の奇跡もまたあり得なかった。であるとするならば、ゴルゴタは絶望の場所であり、同時に希望を宿した場所であるとも言えるのではないでしょうか。だからこそラストシーンが意味をなします。ラスト、猛り狂って主人公を殺しに来たはずの男が、自分の死を目前にして言う。「愛していた」と。そして主人公に願う。「愛していたと言ってくれ」と。ここに及び、蒙昧の極みにいた山奥の村人は、愛という感情を思い出すに至る。主人公は村人たちにとっての愛のよりしろ、愛を再び感じ、その魂の救済を得るためのよりしろとして存在していたと言えるのです。

 と、まあそんなことがこの映画については言えましょう。
 正直言って、素直に書いたのは前半のほうです。後半のほうは無理矢理持ち出してきた感も否めません。しかし、たとえ無理矢理にでもその美点を見いだそうと苦慮することで、映画の見方を広げてみたいとも思うのでありました。世にも奇妙な映画評になったように思うのですが、まあリクエストいただいていなければ何の感想も抱かずにスルーしていたに違いなく、この試みもまたなされずにいたことでありましょう。感謝いたします。

 とりあえず、こんなところなのでございます。
詰め込みすぎて各要素が印象に残りませんでした。ハリウッドリメイクに期待します。


bang_x3さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Ne le dis à personne』
 前回イタリア映画を評したわけですが、お次はフランス映画です。どうしても日米が中心となる本ブログ、ぼくの好みとしては、ヨーロッパ映画はあまり手が出ないところもあり、フランスからも遠のいていました。フランス映画が持つある種のこってり感を、無意識に遠のけていたのかもしれません。

 ぼくの抱くイメージとして、今回の映画などを観てもはっきりしたのですが、フランス映画ってどうもこってりしているんですね。料理にたとえると、あんかけみたいなとろみがある印象です。脂っぽさとはまた違うんですけど、アメリカ映画ほどからっともしていないし、スマートでもない。ドイツ、スペイン、イタリアの映画にもないこってり感を覚えます。

本作『唇を閉ざせ』はベン・アフレックを監督にハリウッドリメイク、なんてことらしいのですけれど、アメリカでつくられたらぜんぜん違う風合いになるだろうというのもさりながら、わりと脚本も変えてくるんじゃないですかね。少なくともハリウッドでは絶対こんな映画はつくらない。理由は簡単で、あまりにもいろいろと詰め込んでいるものだから、ハリウッド的な脚本の合理性とは対極にあるのです。

 いろいろと詰め込まれている理由はひとえに、原作小説の要素をなるべく盛り込もうとしたからではないですかね。でも、原作小説を持つ映画にありがちなこととして、結局何を見せたいのか、それを見せるためにどの部分を押してどの部分を引くのか、が見えづらくなっている気がしました。なんていうか、要素の強弱がどうも把握しづらい。そのせいでサスペンスが持つ娯楽性が出にくくなっている気がしました。



 で、内容についてなんですが、これは謎が明かされていくような話でもあるんで、一応未見の方にも気を遣いつつ話すと、ちょっと難しいですね。主人公は最愛の妻と仲むつまじく過ごしていたのですが、あるとき暴漢に襲われ、妻も殺されてしまいます。ところがその八年後、一通のメールが届き、そのリンク先の映像には死んだはずの妻の姿が映されていた、とまあこの辺から話が転がるわけですね。



 で、いろいろな人が出てくるわけです。なぜか妻の存在を追っている謎の集団みたいなのが出てきたり、妻と過去に接触した人間が殺されたり、その容疑者として主人公が警察に追われたり、いろいろと出てくる。


 ただ、どうもひとつひとつが頭に残りにくかったです。
 いろいろ詰め込んでいるから、さらっと台詞で済まされることが多かったりするし、しかもわりといっぺんにいろいろ喋ったりするために、あれ、何がどういうことなのだっけ、と戸惑うことがありました。わかりやすいところでいうと、序盤、主人公のもとに警察がやってきて、「奥さんが昔殺された場所の近くで、先頃二つの別の死体が出てきたんです。奥さんの件と何か関係があるかも知れません」みたいなことを言います。でも、この「二つの死体」は刑事の口からさらっと言われるのと、新聞記事として二秒くらい映るだけで、その映像は出てこない。作り手としては、「はい、ここでこういうことを言っています。後々の展開にも筋は通っています」ということなのだろうけど、印象に残らないんです。

印象に残らないということでいうと、主人公を襲う謎の集団、その親玉、動機、その周辺です。やっぱりミステリー、サスペンスの醍醐味ってひとつに、「ああ、あいつがこうだったのかあ!」とか、「ああ、あれがここで効いてきてこうなるのかあ!」というものだと思うのですけれど、その快楽が実に乏しい。要するに伏線ということですね。要素はばらまいているんですけど、印象に残らなければ伏線として機能しない。二つの死体もそういうことです。まあ、「印象」というものそれ自体が個人的な感覚ですから、いやいや自分には十分印象的に映ったぞという方もおられましょうが、ぼくには詰め込みすぎて複雑化して、描くべきことを絞れずにいた気がしてならないのです。

それより印象に残ってくるのは、R&BみたいなBGMががんがんのシーンだったり、移民たちのいざこざだったり、そういうほうなんですねえ。あの辺にこってり感を覚えます。で、そこでも詰め込みよったなあというのがあって、主人公を助ける白人のおっさんですね。あれ、動機弱くないかなあ、あそこまでするってのは、どうも腑に落ちないというか、もうちょい説得力あってもええのに、なんです。原作ではあるのかも知れないけれど、強引にぎゅぎゅっと詰め込んだ感が非常に強いです。

クライマックスはある人物と主人公の対峙するシーンなんですけれど、ここもしゃべりが長くて、いろんなことを言うので、正直ぼくは流れを追うのがしんどかったです。ああ、この人の話だとこの人物が鍵を握っているのね、でも、その人物について今までぜんっぜん描写されてこなかったから、あいつだったのかあ感がないんだよね、ということです。 変な例えですけど、学校でも職場でも、自分がそこに来る前にいた人の話をされている気分ってわかりませんか? 周りの人にとっては知り合いでも、自分は知らないみたいな。
「ほら、一昨年の夏にさ、タマさんが石黒さんに怒られてさ」「ああ、タマさんねえ。だってもともと石黒さんとタマさんってあんまり合わなかったじゃないですか」「だけどタマさんってわりといい加減っつうか、仕事荒いとこあったじゃん。石黒さん、タマさんがいないときに結構文句言ってたもん」「ああ、はいはい(笑)」
みたいなことを自分以外の人同士で延々と話されて、自分だけが(うわあ、俺、タマさんも石黒さんも知らねえ。ついていけねえ、面白くねえ)みたいな気分になるあの感じです。

 映画でも、実はこいつがこんなことを! 的なのがあるんですけど、そいつの話それまでぜんぜん出てこなかったじゃん。もっと手前で、そいつのいい感じエピソード放り込んでおかないと、あっと驚くことにはなり得ないじゃん。で、そいつがいる前提であれこれ話されても、あとはもうごちゃごちゃするじゃん、っていうね。どんでん返しっていうかオチっていうか、そのための印象づけが果たされていない。同じことばっかり書いているようですが。

 けなしトーンになるのは避けたいのが本音です。だから、情報をさくさく飲み込んでいける人、カットの切り替えの早い映画が好きな人にはお薦めと言いたいところです。そして個人的な見方でいうなら、もっとシナリオの要点を絞って、描写も無駄を省いて、ハリウディッシュに仕上げるほうが面白くなるんじゃないか、という風に思いました。ここはやっぱりハリウッド的なわかりやすさ、それが支える娯楽性に惹かれてしまう。あれだけ情報量詰め込んで中心をくっきりともさせないで、その結果どんな美点が生まれたのか。何を訴えたいのか。恥ずかしながらぼくには見いだせませんでした。
 bang_x3さんには前回『モンガに散る』をお薦めいただいたにもかかわらずその良さがわからず、今度こそはと思って臨んだのですが、ぼくにはわからなかった。この映画の良さ、むしろお教え頂きたく存じます。そういう意味では、他の方々にもぜひご覧になって頂きたいですね。「いや、ぜんぜんありじゃないか?」という方に学ばせてほしいのが本音なのです。この脚本はまだまだ面白くなる余地が多分にあるとぼくは思う。削るべきところと強調すべきところの配合によっては、その見せ方次第によっては、おう、面白い映画だ、とぼくは言っていたと思うんです。だからリメイクする価値もあると思いますね。
 未見の方はご覧になって頂いて、自分の感じ方、サスペンス劇の捉え方を確認してみるのも一興ではないでしょうか。
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