カテゴリ:洋画( 259 )

深いテーマが配合されている。描ききれてはいないけれど。
d0151584_00315059.jpg
 ずいぶん前に一作目を観たと思っていたのですが、もしかしたら観たつもりでいただけで初見だったかもしれません。二作目、三作目は観ていないし、そんなに惹かれずにいました。監督の二人は現在、性転換手術をしているので「姉妹」と書くべきかもしれませんが、公開当時はまだ男性名で活動していたので、「兄弟」と書いておきます。

 さて、昨今いよいよ市場に花開くVR=仮想現実ですが、その種のテーマの代表作といえる作品ですね。この現実は本当に現実だろうか、というのはそれこそ古代中国の胡蝶の夢、邯鄲の夢などで言及されてきた哲学的な主題。現実を疑う作品として思い出したのはフィリップ・K・ディックの『追憶売ります』、それを原作とする『トータルリコール』。このテーマって、言ってみればあらゆる題材の中で、いちばん大きな枠組みの問いですよね。歴史を改変する大事件とか、宇宙を巻き込む大戦争とかよりもはるかに大きい。「ここに存在する自分自身」というものを突き崩す話ですから。

 この手の話には答えがないのですが、自分の実存がふと遊離するような感覚というのは、稀に訪れるものです。あれ? 自分はなぜこの自分なのだろう? 自分の名前で自分は呼ばれるけれども、なんで自分はその名前で呼ばれるのだろう? 自分は今ここにこうしているけれども、ここにいない選択肢もあったんじゃないか? 
 小沢健二が『流動体について』で歌っていたように、「並行する世界の僕は、どこら辺で暮らしてるのかな?」と思う瞬間があったりわけです。あり得ないと知りつつも、街のどこかで別の生き方を選んだ自分に会うこともあるんじゃないか? なんて空想してみたり。

 もっとも、劇中ではそこら辺をそんなに深くは踏み込まず、あくまでアクション映画のストーリーテリング。その点に物足りなさを感じた部分もありますが、この作品はもうひとつ、ふたつのテーマも含みこんでいるので、重層的なつくりと言えるかもしれません。

主人公のキアヌ・リーブスは「現実とされる世界」において、トーマス・アンダーソンとして暮らしています。「本当の現実」ではネオと呼ばれます。「現実とされる世界」は普通の世界なのですが、「本当の現実」ははるか未来、荒廃しきって機械が支配する世界。今までは機械のつくった現実の中を生きていたというわけで、そこから「目覚めた」ことで大冒険に出るはめになるのです。

 観ながらわかったもうひとつのテーマは、『失楽園』です。イギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『失楽園』は近年ならあの『ダークナイト』に通底するモチーフで、日本のアニメ映画ではそのまま『楽園追放』なんてのもありました。
 要するに、「天国で奴隷でいることを選ぶか? たとえ地獄行きでも自由を得るか?」という問題です。「自由」というのを「尊厳」に置き換えると、また別のテーマになります。「組織に従っていれば生活は保障されるけれど、組織の不正を知った以上は戦わなくちゃならない」なんてテーマなら、『セルピコ』とか『フィクサー』あたりが思い出深い。「たとえ賢明でなくても、自分はこの瞬間を戦わねばならない」という話なら、何よりも『ロンゲスト・ヤード』が思い出される。

 本作で言うと、機械の作り出す世界にいたほうが、幸せっちゃ幸せなんです。現実は悲惨きわまるものだし、だからこそ一人の登場人物は中盤、主人公たちを裏切って、仮想世界でいい思いをしようとする。劇中では悪役的に描かれているけれど、あれはあれで十分に取り得る選択ですよね。過酷な現実を生きるなら、支配されても幸せを選ぶというのは、この社会でぼくたち自身が選んでいる生き方でもあるでしょう。本作はハリウッドのアクション映画ですから、そこを掘り下げられなかったんでしょうけれど、あの裏切り者も描き方次第では別に、悪人ではないんです。

 映画の性質上はしょうがないのですが、そこに食い足りなさを感じたのはあります。キアヌ・リーブスは独り身で、ぜんぜん冴えない生活を送っている設定ですが、もしもあれが幸せな家庭を築いているマイホームパパだったらどうか? その幸せな家庭を捨ててまで、あの過酷な現実を生きる価値はあるのか? そういう問いに直結しますよね。まあそれをやっちゃうと観客の共感を得がたくなるので、できなかったのでしょう。でもぼくが観たいのはそっちの葛藤でした、本当を言うとね。

だから見方を変えると、本作の主人公たちって危ない人たちなんです。いわゆる「目覚めちゃった人たち」なので、新興宗教、新左翼的なにおいがしてくる部分もある。「この世界は間違っているのだ! 自分たちが世界を導くのだ!」的な人たちとも言えます。そうならないように、エージェント・スミス側の悪意を設定してはいるのですが、考えてみるとけっこうぎりぎりですね。

 映画の主人公は一応、観客の共感を得るように設定されるのが常道だし、ハリウッドのアクションものなら余計にそうだと思うんですが、この映画はいろんなものをどうにかこうにか固めたうえで、ようやっと共感に足る主人公にしている。キアヌ・リーブスに対して、無邪気に頑張れと言える人は、実はこの映画をちゃんとわかってはいないでしょう。だって、もしかしたらあの船に乗っている人たちのほうが、仮想現実側なのかもしれません。現実を疑う構造であれば、彼らこそが世界を崩壊させようとしている悪魔団の可能性も、完全には排除できない。うん、この手の映画では原理的に、キアヌ・リーブスを絶対善にはできないわけです。そう考えると深みが出てきますね。

 あと、描かれた大きな問題として、『ゼイリブ』問題があります。ジョン・カーペンター監督の映画で、本作にも影響を与えたそうです。あの映画では、異星人が普通の人間として入り込み、人間になりすまして世界を営んでいるんです。悪の陰謀が隠されてはいるんですけど、一応それで表向き、世界は成立している。あの映画のラスト、主人公の活躍で宇宙人の正体が暴かれ、なりすました姿からもとの醜悪な宇宙人に戻るシーンがあるんですけど、それを観てぼくははっとしたんです。悪の陰謀を暴いたとして、責任取れるのか? というね。

 この世界には確かにいろんな悪がある。不正義や不公正さがある。もしもなくせるならそれに越したことはない。けれども、その悪や不正義や不公正さのうえに今の社会はあるわけで、もしもそれらを取り除いたら、社会は混沌としてしまうのではないか? その場合の責任を取れるのか? なんてことも、ちょっと考えるんです。保守と革新の政治的テーマにも通じます。本作でも、一応はあの機械の世界で幸せに暮らしている人もいるはずで、主人公たちがその秩序を乱す側という見方も、成立しはするんです。永久に騙してくれるならそのほうがいいってこともありますからね。真実を暴かないほうが幸せってこともある。この辺の問いはロバート・レッドフォードの『クイズショウ』でも考えたことです。

 映画の中身から離れすぎている感もありますが、作品それ自体の面白みは、特段痺れるものでもなかったです。本作が後世に与えた影響もあるでしょうけれど、今観ればちょっとアレだな、という部分もなきにしもあらず。いちばん引っかかったのは、ネオが銃弾で撃たれまくって一度は死んだのに、「救世主である」というその一点をもって復活してしまうところです。なんじゃそら。現実現実言っておいて、その肝心な部分はぜんぜん現実的じゃないんかい、とつっこみたくなる。ヒロインの「あなたは救世主よ」的な囁きで復活するなら、今まで何を見せられていたのか。そうなるとこの映画で言う現実なるものが疑わしくなるし、あれはアリなのか。チートキャラがちと過ぎやしないか。続編で明かされるのでしょうけれど、この作品を観る限りはそうとしか言えない。ところで、「目覚めちゃった人」たるネオによって、ビルの警備員さんはかなり殺されているのだけれど、彼らに何の罪があったというのか。

 そう観ていくと、主人公=新左翼・新宗教系テロリストのにおいはどうしても残る。預言者に出会うくだりもただ「預言者に会う」というだけのために行動しているので、映画の流れがくたっとして感じられました。

と、文句を言いたい部分もあるのですが、深いテーマをあれこれと含みこんでいる映画であるのは間違いないわけで、映画そのものよりもむしろ、映画を観ながら感じたこと、ふと考えたことを楽しむほうが、多少はオトナな見方と言えるかもしれません。まあ、そんなところで。


[PR]
アクションの脚本としては実に正しい。しかし、設定に致命傷。
d0151584_20211543.jpg





More
[PR]
物語の面白さは、規模に比例しない。
d0151584_08520278.jpg





More
[PR]
嘘というのは、それだけで物語。
d0151584_08190512.jpg





More
[PR]
惜しい点は多々ありますが、程よく楽しめました。
d0151584_13502489.jpg





More
[PR]
多幸感系。切なさはスパイス程度で。
d0151584_16514481.jpg





More
[PR]
ミュージカルも効果的な、上品なラブコメディ。
d0151584_16514614.jpg


 
 ウディ・アレン、ジュリア・ロバーツ、エドワード・ノートン、ゴールディ・ホーン、ナタリー・ポートマン、ドリュー・バリモア、ティム・ロスといった、錚々たる布陣によるアンサンブル型ラブコメディです。ミュージカル・ラブコメディですね。大家族ものでひとりひとりの物語を要点のみ押さえ、ぽんぽん回していく。テンポのよい快作でありました。

大きな筋となるのは、①ウディ・アレンとジュリア・ロバーツの不倫恋愛、②エドワード・ノートンとドリュー・バリモアによる婚約恋愛、そこにナタリー・ポートマンらによるちょっとした恋物語の顛末や、いかれた元服役囚、ティム・ロスのドタバタ劇などが織り交ぜられます。物語にはほぼ絡まないけれど、家で独りだけ共和党支持で、政治的なことばかり喋っている長男ルーカス・ハースが面白かったですね。脇役の支えもしっかり効いている。

 映画には、話を動かすきっかけのポイント、第一幕と第二幕の転換ポイントなどがありますが、そうした要所にミュージカルシーンをきっちり配置している。この要点を押さえているのは非常に大きい。スムーズな進行のための大きな効果を上げています。ミュージカルというのは、「感情の頂点」を凝縮して表現するときにも有用で、この映画で言えば②にまつわる「恋の実り」の様子を描く際、その効果が顕著です。静かな高級宝石店、病院などの場面で用いることで、感情の高ぶりが劇的に演出されています。

一方、恋愛ものにおいては障害の存在がとても重要です。障害があるからこそ物語に緊張感が生まれるわけで、前半では①がそれを担う。ウディ・アレンはジュリア・ロバーツを口説き落としたい、ここでの苦闘がひとつめ。そしてジュリアには旦那がいる。これがふたつのめの苦難。障害を配置することで、恋の危うさが演出されます。もちろん、ウディ・アレンのコミカルな演技や台詞回しが、面白みを引き立てます。

 いろいろなことがうまく行くのが中間点まで。そこで「凶兆」として出現するのが、犯罪者のティム・ロス。②の恋愛を、坂道へと転がしていく。最終的にはドリューを銀行強盗にまで巻き込んでしまい、一度どん底をつくる。また、ナタリー・ポートマンの失恋、じいちゃんの死など、よからぬ気配が映画に立ちこめていく。

 最終的に、②は関係を取り戻すが、①は破綻してしまう。破綻の救済として、ゴールディ・ホーンとウディ・アレンの関係修復がある。クライマックスで二人のミュージカルが出てくるので、できれば前の段階で、この二人の関係をもっと濃く描くべきであったとは思いました。ゴールディ・ホーンは劇中、冒頭部以外はほとんどウディ・アレンと絡まないため、クライマックスで二人が踊っても、物語的カタルシスは決して大きくない。また、②の恋愛にしても、エドワード・ノートンの努力無しに関係が修復してしまうため、カタルシスが弱い。テンポの良いコメディとしてとても面白かったのですが、①と②の筋に関しては、お話としてのふしぶしを、もう少し固めておくとさらに楽しかっただろうなという感じはします。①のほうは、ジュリア・ロバーツがどうして旦那のもとに戻るのか、言葉で語ってしまうだけなので、その点の説得力が減じてしまっています。

 とはいえ、大家族の賑やかさと、タイプの違う二つの恋愛を、愉快なトーンで描いており、とても楽しい作品でありました。お薦めです。

[PR]
脚本術のお手本のような良作です。
d0151584_13513017.jpg


 マーク・ウォールバーグ主演作で、監督の長編デビュー作のようです。テッドの声も監督が務めているんですね。
  
クリスマスプレゼントとして主人公に届けられたテディベア、テッドが喋り出し、主人公が成長してからもずっと友達であり続ける、というコメディ。まず設定の面白さとしては、喋るテディベアが「有名になる」というのがありますね。『E.T.』なんかが一番の代表例ですが、この手の映画だとどうしてもそれを秘密的にするものが多いんじゃないかという印象があるし、そうでなくても『ドラえもん』的に、社会の反応はある程度無視して進められがちだと思うんです。でも、これは大人になった主人公にずっと寄り添い続けるという筋を無理なくつくるために、あえて最初のうちに有名にさせてしまう。社会に受け入れさせてしまう。ここを先にきちんと割り切ったことで、観る側に話を飲み込みやすくしている

 作品のテーマとしては、「主人公の成長」譚です。テッドは子供時代のプレゼント、すなわち子供の象徴でもあるので、ウォールバーグは大人になっても子供っぽさが抜けない。それによる問題を乗り越えることが、この映画の重要な軸となっています。話のセットアップの段階で雷が鳴るんですが、これはその後の展開における「凶兆」となっているし、雷を怖がる子供っぽさを表すという意味でも実に優れたやり方です。

大人になった主人公ウォールバーグには、恋人のミラ・キュニスがいます。彼女はウォールバーグより若く見えますが、一方で大人っぽい強さを持った外見。この辺りも対比が効いています。

 二人はベッドに入っていちゃついているんですが、テッドが雷を恐れて飛び込んできて、良い雰囲気を台無しにしてしまいます。ここは「セックスの延期」であり、すなわち大人になれずにいることを象徴する場面。あとの場面でテッド抜きの性的ないちゃつきの場面が観られますが、ここにも対比がある。全体を通してわかることですが、この映画は非常に綺麗な脚本作りがなされています。脚本としてなすべきことを完全にこなしており、それを演出に絡めて行っている。とても巧みです。

 第一幕から第二幕に移行する転換点は、テッドが家から出て行くところですね。これによって、子供の象徴だったテディから主人公は切り離され、成長への道を歩み出すことになる。独りになったテッドの下品なコメディシーンも効いています。結構えげつない下ネタですから、これはテディベアが出てくるわりに、まったく子供向きではないんですね。テディベアがやっているから可愛く見えるけれど、フェラの真似事や顔射の真似事、はては本当に女を押し倒します。コールガールを呼んでうんこさせるとか、普通の大人でもやらない、なんというか、人間だったら相当やばい奴。世のお父様、お母様におかれましては、子供と観ようなどと考えてはいけません。

 でも、それは実は、テッドの子供っぽさでもあるんですね。テッドもまた、大人になりきれていなくて、主人公同様に大人になっていくわけです。

 テッドと別れ、本当の大人にならんとする主人公なのですが、ちょうど映画の中間当たりで、大失態をやらかします。その原因となるのはテッドであり、なおかつ子供の頃から好きだったヒーローなんです。大人になろうとする主人公を、それでも子供時代が引っ張ろうとする。これにより主人公は、大人の象徴である恋人との関係を破綻させてしまう。とても真面目なつくりです。脚本術の見本にしていい作品だとつくづく思います。

 その後、主人公とテッドが大げんかしたり、恋人には誘惑相手が近づいていったりする。よくできた映画は中盤から後半にかけて、どんどん悪い方向に事態が進むのですが、そこを綺麗になぞっている。

 そして第三幕。テッドが怪しげな父子に誘拐されてしまい、そこから逃げだそうとします。なんとか関係修復をした主人公と恋人は、テッドを救いに行きます。主要登場人物三人、そして外敵によって織りなされる、綺麗なクライマックスです。ここにおける演出の白眉としては、テッドの体が真っ二つになってしまうことです。外敵たる怪しい父親によって引き裂かれ、体の綿を振りまきながら胴体が真っ二つになるのですが、ここには「子供だったテッドの死」が象徴される。誘拐犯の子供が主人公によって一撃でのされるのもポイントですね。とにかくこの映画は、「子供時代から抜け出て大人になる」というテーマをちゃんと描こうとしている。

 テッドというのはぬいぐるみですから、肉体的な成長はないのです。裏を返すと、いつまでも子供であり続ける宿命を担っていた。それが、暴力的な形であるけれど、一旦体を裂かれ、死んでしまうことによって、大人へと生まれ変わるわけです。

主人公と恋人が結婚式を挙げるラストは、オープニングとの対比ですね。最初は子供だった頃のシーンから始まっているのが、結婚式という通過儀礼を経て、大人になったことが示される。

 ことほどさように、この映画は細かいギャグやコメディ要素をうまくテーマと絡ませつつ、一切テーマからぶれない。その点において、大変練り上げられた脚本だと唸らされました。お薦めであります。


[PR]
頭の悪さが、煮ても焼いても食えない腐れ具合で。
d0151584_05020021.jpg


More
[PR]
ぼんくら駄目野郎の話は大好物なのですが……。
d0151584_12075845.jpg

di9tkmtnakrsqhomn さんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

More
[PR]
←menu