カテゴリ:洋画( 258 )

傷つけない面白さ、傷つけてもきちんと救う格好よさ
d0151584_10181528.png


ビリー・ワイルダー的コメディというのは、もうアメリカにはなくなってしまったのでしょうか。それとも鈍感で情報収集量の少ない僕が見過ごしまくっているだけなのでしょうか。わかりませんけれども、久々にワイルダーのコメディを観て、やっぱりいいなあと思う僕です。太田光が好きな僕は、彼がその著書で再三チャップリンに触れているのを知り、一時期チャップリンを見まくって大体の有名どころは見尽くしているのですが、そこまでぴんとこなかったんです。チャップリンが飛んで跳ねてしているものにそこまで面白さを感じない。やっぱりワイルダーのような、あるいは三谷幸喜のようなコメディにこそ惹かれるのです。ウディ・アレンなども面白いとは思うのですが、その面白さはあくまでもワイルダー的な正当なコメディあってのものだろうなと思うし。

いきなり終わりの話をするのもあれですが、この映画のエンドロール、それぞれの登場人物たちのその後が描かれているのがどうにも好きなんです。あの終わり方がいいのは、不幸の影を見せていないこと。すごく気持ちのいい終わり方ですね。死刑囚は処刑されておらず、睾丸を撃たれた博士も『不能のよろこび』なる著書を記したなど、細かいところにも救いがあって、そういうところはやっぱりいい。無理なくハッピーエンドになっているんです。ジャック・レモンとスーザン・サランドンのカップルが破局したことを知らされても、劇中でレモンが新聞記者として熱中しているのを示しているので、なんら問題ない。別れた女性が子供につけた名前もいいじゃないですか。ああいう風な終わり方はひとつの理想という感じがするんです。いや、さして難しい技巧があるわけじゃないんですけど、観終わった後の爽快感を演出するというかね。

内容についてですが、観客を飽きさせない密度というのは大事ですね。当たり前のことかもしれないけれど、娯楽作品である以上はやはりその当たり前のことが大事で、この映画でもどうでもいいような部分はほとんどない。すべてちゃんと必要な情報としてもたらされているので、弛みがないんです。展開の早いコメディですからそうなるのでしょうけど、僕にはすごく心地いいテンポだった。ぜんぜん時間が気になりませんでした。僕の場合、時間を気にしてしまうことがわりと多いんですけど、これについてはなかった。やはりそれは熟練されたテンポ感ゆえなんでしょうね。リアリティがどうだとかいうことを言われるかもしれませんけど、そんなものはどうでもいいんです、こういう映画については。リアリティというのはもちろん大事な要素ですけど、何もかもに当てはまる金科玉条じゃない。この映画はもっと気楽に楽しめばいいんです。

結構小ネタの部分で好きなのが多いですね。新人記者が小便を漏らして、それが後々フィルムの現像のときに仇になるところとか、ウォルター・マッソーが駅に仕掛けていたあれであるとか、そういう小ネタが充実していると、そのコメディはやはり優れたものになります。うん、小ネタの配置って大事ですね、そこにセンスが出るというか。だから駅の家族役を出すところなんて、本当に、僭越のきわみここにありですけど、ワイルダーはセンスがいいなあと思うわけです。スーザン・サランドンという女優はよく知らなかったのですが、非常に声がセクシーアンドプリティですねえ。あの声はとても好きです。うん、そういうところが印象に残っているところかなあ。

さっきの話に戻るようですが、誰も傷つけないというのはやっぱり格好いいんですよ。何かにつけて穏やかじゃない話を持ち出して人目を引いてっていうエンターテイメントが多い中で、誰も傷つけていない。いや確かに娼婦は窓から転落したし、博士は睾丸を撃たれてしまったけれど、そういうことは後でちゃんとフォローしていますからね、『不能のよろこび』として。これは三谷幸喜でもばっちり受け継がれていて、結局誰も傷つかないようにつくられている。そういう作品って、本当に素直に「面白かった」と思えます。道具みたいにぶち殺しまくった挙句面白くない、という作品もある中で、誰ひとりとして傷つけずに面白いものをつくるというのは、やはり巧みなんですねえ。うん、まあ、この辺で。
[PR]
起用した女優が映画を決めた二作
d0151584_10173822.jpg


『白い花びら』はモノクロのサイレントスタイルです。もともと寡黙なカウリスマキ作品ですから、自然に見えます。ただ、どうしても女優カティ・オウティネンが気になってしまいましたね。オウティネンはカウリスマキ作品の常連です。『浮き雲』『過去のない男』などでは、すごくよかったんですけど、今回は役柄的にどうなのやと思ってしまいました。この役はオウティネンではないでしょう。

オウティネンのマルヤとその夫ユハが田舎で細々と、しかし幸せに暮らしています。そこに一人の男がやってきます。車の修理を依頼するためたまたまやってきた男なのですが、その男はオウティネン演ずるマルヤを目にして、夫を捨てて自分と来なさいと誘惑するんです。マルヤに一目惚れしたように見せるわけです。

でも、悪いけど、オウティネンは一目惚れをさせてしまうような美貌じゃないんですよ。この映画ではそこが大いに引っかかってしまった。いつものカウリスマキ作品はそれでいいんです。いや、むしろそれがいいんです。『浮き雲』にしても『過去のない男』にしても、冴えない人々の冴えない日々が豊かに見えるというのがカウリスマキ作品のすばらしいところで、だからこそオウティネンのような女優がいい働きを見せる。別の女優ですが、『街のあかり』にしたって、大して美しくない女性が登場したことでよりいっそう意味深い映画になっていました。でも、今回のオウティネンはいただけません。夫婦のもとにやってきた男は彼女を見て、「娘さんかい?」などと聞くのです。オウティネンは「夫婦ですよ」と返して、男は「そんなまさか」と言わんばかりに笑うのですが、これがねえ、ぜんぜん娘には見えないわけで、むしろ彼女のほうが夫よりも年上に見えるんですよ。後の展開を考えてみても、これはどうしたってもっと若い女優を使ってほしいところでした。綺麗じゃないところがよかったんですけど、それを綺麗な役として配置されると、どうしても違和感は生まれますね。

話の内容的には、ほかのカウリスマキのほうが好きです。僕の中では、最新作の『街のあかり』がベスト。『過去のない男』もよかったし、カウリスマキ作品の波長が、回を重ねるごとに僕の波長とマッチしてきている感じで、次回作が楽しみというところ。今回はオウティネンを外してほしかったなあという気持ちです。
d0151584_10175573.jpg

さて、女優つながりですが、次はぜんぜんまったく作風の違うもの。ハワード・ホークスの『紳士は金髪がお好き』。オウティネンは美しくないからいいのだ、という話をした後でなんですが、ノーマ・ジーンは綺麗ですねえ、マリリン・モンロー。べたべたですがマリリン・モンローは好きです。この作品でもマリリンのコメディエンヌぶりが好ましいです。カウリスマキの登場人物とは好対照に、マリリンは煌びやかだから素敵というのがあります。彼女はやはりスポットライトが似合うというか、ありていに言ってスターなんですね。あごを上げた下目づかいの顔がよく出てきますが、彼女の場合は上目づかいがとってもプリティです。彼女が一番素敵に見える映画は僕の知っているところで言うと(そんなに知らないけど)、ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』。もっと言うとその映画の前半部分。髪をあまり固めすぎずに、少々ラフな感じで天真爛漫に振舞う姿が絶品ですね。

今回の映画で言うと、ジェーン・ラッセルも綺麗でした。ちょっと山本モナに似ていますね(余談ですが、山本モナは顔の綺麗さだけで言うと、芸能界でも相当なハイランクにあると思うのですがいかがでしょう)。二人の美人女優を中心として、周りに登場する紳士たちが阿呆になるこの構図は娯楽映画として正当で愉快。子供の役者も面白かったですねえ。

やっぱりマリリン・モンローという人は不幸だったりひなびた感じだったりはどう考えても似合わなくて、その分だけこういう輝く映画では誰よりも輝く。ハワード・ホークス作品に登場したのはこれだけなのでしょうか。よくわかりませんけれども、ハワード・ホークスやビリー・ワイルダーといった名匠たちのコメディで彼女は最高に輝いているわけです。ワイルダーソウルの継承者でもある三谷幸喜には、早く現代のマリリンに出会ってほしいと願うばかりですが、なかなか日本にそういう女優はいないものです。このへんで。
[PR]
スタンダードを知らぬゆえのコンプレックスを感じています
d0151584_10161847.jpg


古い映画については、最近のそれと比べて、語ることに対するちょっとした抵抗があるというか、僭越さを感じるというべきか、どうしても難しさを覚えてしまうんですね。歴史を知らないことに対する強いコンプレックスがあるんです。どういう時代背景の下に、どういう文脈の下にその映画があるのかわからないことについてコンプレックスがあって、だから僕は古いものを最近観ようとしています。一応、それなりに観ていかないと結局どうにもならないなあと思っています。

確かに古いものの中には、今観ても感慨がないという類のものもあります。ビリー・ワイルダーは好きな監督ですが、『サンセット大通り』『失われた週末』などは、今の僕にはぜんぜん響きません。でも、そういうものも含めて歴史をわきまえないといけないと思いますね。そういう態度を持って観ていくと、たとえば『2001年宇宙の旅』という40年前の映像イメージを、いまだに誰も超えられていないということもわかってくる。新しいものを悪いといっているのではなくて、古いものを見ない限りは新しいも何もない、ということですね。僕が最近よく行くバーのマスターは新作映画を追いかけまくる人なんですが、それはあくまでも古いものを押さえた上でのことですからいいのです。ただ、古いものを観ないまま宣伝に乗せられ、映画館に足を運んでも、やっぱりそれは仕方ないんです。映画は話のネタにすべきアイテムではないと思っていますから。

さて、『荒野の決闘』です。なんというか、子供にもわかる格好良さみたいなのがありますね。あくまで大人向けで、子供が喜ぶようなものでは全然ないのに、子供も格好いいと感じるような。日本映画の侍とアメリカ映画の西部保安官、実際の歴史上の存在としてはぜんぜん違うものですが、侍よりも歴史が浅い分、わかりやすく格好いいという感じがあります。侍の格好良さって子供向けじゃないんですよ、でも保安官って子供にもわかるわかりやすさがある。こんなことを感じるのは僕だけでしょうか。

この映画だけの話をするにはまだ僕の歴史知識がなさ過ぎてあれなのですが、なんというか、非常にシンプルでありながら、ある種のスタンダードというものがここにはあるなあという感じがします。ハリウッド黄金時代と呼ばれるだけあって、夾雑物の少ない、純粋な娯楽映画というか。今はもう、過去に散々やりつくされていますから、何か変わったことをしなきゃいけない。普通のものをつくったら「何をいまさらそんなものをつくっている」と言われかねないわけですけど、この時代は堂々と自信を持ってひとつのスタンダードをつくることのできた時代であって、だから迷いがないんです。それに加え、先ほど言った「西部保安官的わかりやすい格好良さ」があるので、やはりひとつの王道を観た思いなんですね。あと、これはまあ映画によるでしょうけど、特にこの映画の場合、非常にあっさりしていますね。弟が殺されてしまうところとか、踊り子の女の正体が発覚するところとか、クラントン一家が保安官の一人を殺すところとか、今の時代の演出では、洋画も邦画も含めてまずありえない、あっさりとした感じ。

『荒野の決闘』というからもっと男くさい話なのかと思いきや、女性が結構絡んできたりして、その点は意外でした。観て知ったのですが、原題は『My Darling Clementine』ですからね、この原題を『荒野の決闘』と訳したのは思い切りがよすぎます。もうちょっと色気のある訳し方はなかったのでしょうか。タイトルにもなっているクレメンタインが非常に綺麗です、僕の好きな顔です。

うん、いやあ自分で書きながら今回はなんとも底の浅い映画評になりました。いかんいかん。これでは阿呆のブログだと思われても仕方ありません。やはり古いものを語るにはもっとちゃんといろいろなことを知らないといけないなあとつくづく実感します。ちょいと出かけなくちゃいけないので、この辺で。
[PR]
突然炎のごとく死なれても、困る
d0151584_10152427.jpg


ヌーヴェル・ヴァーグ、ネオ・リアリズモ、アメリカン・ニューシネマ、イギリス・ニューウェーブ、ニュー・ジャーマンシネマ、はたまたイラン・ニューウェーブなど、映画の長い歴史は全世界に各々のカテゴリーを芽生えさせているらしく、まあ僕などはそのどれひとつについてもまともに論じられぬ、そもそもそこまで映画を観ておらぬ若輩ですけれども、それでもちょっとずつ自分の趣味嗜好というのは輪郭化されてきていて、たとえばネオ・リアリズモはあまり肌に合いそうにないなあとか、アメリカン・ニューシネマはいいかもしれないぞなどとなんとなく思っておりまして、それで今回のトリュフォーといえばヌーヴェル・ヴァーグ。あとはゴダールくらいしか観たことがないので、なんとも言えないのですが、このヌーヴェル・ヴァーグの肌色はまだ微妙なんです、自分の中で。合うのか合わないのかよくわからない。そして今回の『突然炎のごとく』もそんな感じです。

トリュフォーというと、ちょっと思い出すことがあります。なんていうことはないのですが、高校生の頃、深夜、僕はエロの入っている番組に餓えておりまして、まあAVを借りる度胸もなかったものですから、「ミニスカポリス」「水着少女」などのちょいエロでも、「動く胸」「動く尻」が見たくてたまらなかったのです。その折、ラテ欄をチェックしていると、『柔らかい肌』というのがありました。動くエロに餓え、理性をなくしていた僕は、「これはVシネマとかロマンポルノ的な類のやつなのでは!」と思い、深夜二時まで起きていたのですが、全然違っていて観るのをやめました。あれがトリュフォー作品だったと知ったのは、その五年後くらいのことでした。

ものすんごくどうしようもない話をした後で、やっとこさ話を始めます。トリュフォーの『突然炎のごとく』です。ジャンヌ・モロー演ずるカトリーヌに、ジュールとジムという二人の男が恋する話なのですが、ぎくしゃくする恋愛関係とかいうのとは違い、カトリーヌはどちらにも愛を向けており、ジュールとジムも別にいがみ合うことなく、「彼女はそういう女なのさ」みたいな軽い感じになっています。

実際にいたらとてつもなく迷惑な女です。仕舞いにはジムを道連れにして死んでしまいますし、子供のこともものすごく軽く扱っている。僕はねえ、前の記事の『アカルイミライ』にしてもそうなんですけど、子供を出したら一応それなりにケアしてあげてほしいんです。子供好きじゃないですよ、どちらかといえば嫌いかもしれない。でも、物語に出すからには知らん顔してほしくないんです。『リップスティック』というフジテレビのドラマで、三上博史が「子供産んだんならなあ、女やめて母親になれよ!」という叫ぶ場面があるのですが、僕にもそう叫びたい気持ちってある。女をやめろとは言わなくても、母親の部分を描かないならば母親としてそこにいてほしくないんです。この映画ではその葛藤さえもなくて、それはこのカトリーヌの奔放さを描く上ではいいのかもしれないけれど、観ているとあまり気分がよくないんです。

早いカット割りなど観るに、ある意味では彼らに人間性を与えようとはしていないのかもしれない。どちらかというと駒的でした。ジムとジュールも別に深く悩んでいる様子はなくて、「彼女が言うならそうしようぜ」みたいな感じになっている。ちょっとは自分の意思を出したりもするけど、最終的にはずっとこの女に寄り添ってますからね。鬱陶しいですよ、これは。「おまえは何やねん、最終的にどうなりたいねん!」と突っ込みたくなって、最終的には死にやがります。まあ傍についていた男もどっちつかずのやつらばかりなのですが。だから登場人物に気持ちを入れ込んでみることはできませんでしたね。「なんやうだうだやっとんのお」という感じでした。これをね、どちらかの男がね、もう俺だけのところにいてくれっていう強い意思表示をしたらわかるんですけど、結局振り回されてばかり。
結末で死ぬというのもどうなんやろう。原作がそうなんでしょうけど、「また死んだわ」と最近僕は考えるのです。この物語でいくと、どうにか死んでほしくなかった。死なないで何がしかの結論を見出してほしかったんです。死ぬっていうのは簡単なんです。いろいろなことがありました、でももうその当人は死んだのでもうこれ以上は語れません、というのは逃げている感じじゃないですか。あの女の別の末路を見てみたかったです。「突然炎のごとく」、消えられても困る。

でもまあ、飽きずに観られたというのはあります。テンポが好きだったのかもしれません。あとは時折はさまれる視覚効果であったりとかもあって。レンタルしたDVDにはトリュフォーのインタビューがあって、そこでいいことを言っていました。原作を映画にしようとするとき、小説を戯曲化してシーン割りしたりしてはいけないのだ、原作にある文体を活かさねばならないのだ、ということを言っていて、これについては、ええこと言わはりますわあと思います。この金言は覚えておく価値がありそうです。
[PR]
天才は亜流に絶望を与える
d0151584_10133443.jpg


キューブリックの有名どころは前々から少しずつ押さえていっているのですが、この作品は特別に理由もないままにずっと回避していて、やっと今になって観ました。最近よく行くようになったバーのマスターがこの映画をオールタイムベスト1だと言っていたので、そういうこともありまして。

そういえば公開から今年でちょうど40年なんですね。キネマ旬報によると1968年度版ベストテンでこの作品は第五位。ちなみに一位にはアーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』がランクされており、アメリカン・ニューシネマが勃興した頃でもあるわけです。かたやニューシネマが始まり、かたやこのキューブリックの才気大爆発があった。アメリカ映画の華やかなりし頃のひとつ、と言って許されるでしょうか。僕にはよくわかりませんけれども。一方、日本ではウルトラシリーズが権勢を振るっていた時代でもあります。ウルトラシリーズの最高傑作であるウルトラセブンがこの一年前に放送開始されており、社会的には大学紛争もあり、なんかもうそうなるといろいろありすぎてよくわかりません。密度の濃すぎる時代です。

さて、『2001年宇宙の旅』ですが、いまさら僕めがどうこう言う必要もないくらい語られているのですが、まあここは極私的なところなので、思ったことを書きましょう。映像的には、これがつくられた段階であとは何ができようか、ということだと思うんです。もちろん、40年の歳月の中でCG技術は発展の一途にあるわけですが、その発展を金字塔の頂点からせせら笑うかのように、この作品は今なお輝かしき光を放っているわけです。一番魅せられたのは、宇宙に放逐されてしまった乗組員がくるくると宇宙空間を回るシーン。あのイメージは言語では表現しえません。映像がいくら頑張ろうと小説に及べぬ領域があるように、小説がいくら頑張ろうと映像に及べぬ領域がある、のだとすれば、たとえばそのひとつがあのシーンでしょう。CG技術が発展して、VFXだかSFXだか知りませんけど、そういうのですごい映像が表現されている今日ですが、ああいうものはやはりキューブリックという人がいなくてはできないわけです。やはりそれは、まあ僕などが述べるのは僭越のきわみですけれども、映像に対する哲学というようなものがあってこそなのでしょう。技術や小手先のうまさが備われば、それなりに優れた映像はたぶんいくらでもつくれるのでしょうが、キューブリックという映像の哲学者がいなければ、あのような言語を超えるイメージにはたどりつけないと思うのですね。

その意味で言うと、僕の敬愛する小説家、映画評論家の阿部和重は『バリー・リンドン』(1975)をキューブリックのピークであると述べていますが、確かにあの映画においても、映像の一秒一秒がそれだけで絵画、美術作品になるような構図なのであって、あれは中世ヨーロッパという舞台でしたが、この『2001年宇宙の旅』においては我々の現実を超えるという意味でのシュールレアリスム絵画にまで至っているのであって、シュールが好きな僕としてはこちらのほうにそのピークを、多くの方々と同じように感じるわけです。

HALも面白いですね。この後の時代に続くSFアニメでもなんでも、コンピューターの声をかちかちの機械音声にするものが多いわけですが、この映画ではそんな段階はひょいと飛び越えられていて、完璧に人間的になっている。これをすると、もう、あの映画に登場する人間の人間性なるものは剥奪されるわけです。あの映画において最も人間的な存在であると僕が感じたのは、ほかならぬ、冒頭部分の猿たちです。彼らが一番人間的で、宇宙船にまつわる人々の誰一人をとってもそれが人間である感じがしなかった。それは映画全体の設計もさりながら、あのHALが人間そのものであったことが要因の一つです。あれを機械的にしておくと、人間が人間として対比される。その方向性を完璧に回避してあのようなコンピューターにしたことで、人間性さえ剥奪された人間がそこに配置され、ひとつの純粋すぎるまでの純粋な空間が生み出されていました。

この作品を観ながら考えたことはそりゃあそれなりにあるのですけれども、映像的なことで言うと、最近の世の中にあふれるクリエイターなるものが、どうにも安っぽく、また軽薄に思われて仕方がなくなる、ということですね。キューブリック的居住空間、というと言い方は変ですが、この映画に出てくる椅子や机などはいかにも、今のクリエイターなる人々が好んで使いそうなデザインなんです。また、ひどくゆっくりとしたテンポで描かれる映像の構図やその色調などにも、キューブリックの亜流がいかに今の世に溢れているかが見て取れる。そしてそのどれもがキューブリックに勝てるわけもない。キューブリックが持っていた、真髄を持っていない。

なるほど、その意味でキューブリックのこの作品は、現代の我々にひとつの絶望をさえ与えるような気がするのです。2001年を、とうに過ぎた今にしても。
[PR]
男はあの場所に来るべきであったのかどうか

d0151584_10124486.jpg


 アメリカン・ニューシネマというのは観たので言えば、『俺たちに明日はない』『イージーライダー』『タクシードライバー』など、有名どころくらいなんですけど、基本的に外れがないです。その中でも、『カッコーの巣の上で』は非常によかった。これはいいですね。でも、タイトルはどうなのでしょう。原作も原題もほとんど似た意味の英語ですけど、これはなかなか内容と繋がらないです。「カッコーの巣」が精神病院の隠喩と言われてもどうもぴんと来ません。『俺たちに明日はない』とか『明日に向かって撃て!』みたいなキャッチーな感じもないし、パッケージも引きが弱いです。僕などは予備知識がなかったので、田舎のほのぼの話なのかななどと思っていましたから。

内容はとてもいいです。これはなんというか、いろいろな意味が含まれていますね。安穏とした精神病院にジャック・ニコルソン演ずる一種荒くれた男がやってきて、そこをかき乱していく。学園もののテレビドラマとかで、今でもよく使われるパターンです。とある学校にぶっ飛んだ新任教師がやってきて云々という。でもそうしたドラマと違うのはやはりアメリカン・ニューシネマ的に、敗北のかおりが色濃いところです。ここには、彼は果たして善き訪れだったのか、という問いがあります。劇の最中、彼は精神病院の婦長や看護師たちに抗い、様々なことを仕出かします。ときには脱走劇を繰り広げたりして、それまでの状況では心開くことのなかった人々に笑顔をもたらしていく。中盤まで彼は、体制に抗う善き訪れとしての機能を果たしていくわけです。ところが最後、病棟にいた仲間の一人は彼の行いに賛同したがゆえに、自殺するという末路を迎える。では果たして主人公の男はあそこに来るべきだったのか、彼が来なければそれまでとなんら変わらない平和な日々は続いていたのではないのか。世界が外に開かれたがゆえに人々は幸福を享受したが、外の風景の訪れは同時に、それまでの内閉した世界の秩序を乱し、予測しなかった犠牲を生み出してしまった。結局、外からの訪れはその世界に飲み込まれてしまいます。他方、その訪れに心を揺らされた一人の男は、その訪れに最期をもたらし、己が外へと飛び出していって映画は終わる。明確な答えを出さないあの終わり方は、非常にいいなあと思いました。精神病院という限定空間がその構図の確かさを固めていたのもいいし、寡黙なインディアンの大男というのも気持ちいいところです。でも、考えてみると、あの後またしても病棟の人たちは静かな日々に戻るわけで、一度外からの訪れを見た者が果たしてそれまでの平和を取り戻せるかと言うと、難しいところなのかもしれない。こうなると、彼は善き訪れといえるのでしょうかね。そういうことを考えさせてくれるという点でもいいです。

精神病患者たちをコメディアンとして用いていたのもよかった。彼らの振る舞いは一種コメディアンのそれなんです。コメディというのは子供っぽい大人というのが沢山出てきて、それが物語を引っ掻き回すのが楽しいのですが、精神病患者たちもそういう面白さがあるんです。台詞がなくても、その振る舞いがいいというか、もちろんそうなれない人々もいるわけですが、その純粋さというのは、物語内において非常に機能性の高い装置になります。看護婦の帽子を被ったひげもじゃのお爺さんとか、ゲームのルールを無視する小男とかがいますが、ああいうのは面白いです。なんというか、それを精神遅滞の患者、精神病の患者と深刻に捉えるよりも、なかなか面白いコメディアンじゃないかと笑って受け入れられればそれでいいんです。芸能人でも、たとえばゲイを公言してそれを売り物にしている人たちがいますが、あれは正しい態度だと僕は思う。ゲイのタレントが男の俳優を好きだと言ってきゃあきゃあ騒ぎ、男が嫌がるという構図がバラエティのひとつの定番になっていますが、ああいう社会への溶け方はいいと思うんです。少なくとも、同性愛をカミングアウトしてなんちゃらというドキュメンタリーに見られるような在り方よりもずっと溶けやすいはずなんです。笑いって、そういう効果があるんですよ。それは面白いことに対する、笑いに対する敬意がなくては解せない立場なんですけどね。何かを笑うと、それを馬鹿にしているという風に捉えられることがありますけど、それは絶対に違うと思うんです。たとえばテレビで精神病患者や知的障害者を扱って、それを面白おかしく撮ったりすると、馬鹿にしているなんてクレームが来るのでしょう? それはもう本当に大きな間違いです。むしろそういうクレーマーのほうが、笑いというものを、もっと言えば人間の感性というものを馬鹿にしているという点で罪深いです。僕は誰に怒っているのでしょう?
でもまあ、笑いを解さずに本当に馬鹿にして笑う、どうしようもない馬鹿も世の中にはいるんですが。

話がそれました。もちろん、劇の最後に自殺した若者がいたように、あるいは劇中で錯乱する患者がいたように、笑い飛ばしてはいられない側面もある。その両面をちゃんと扱い、なおかつ精神病院というきわめて限定的な場所を基本的な舞台としたのもこの映画の勝因です。学校という舞台では無理ですし、刑務所という場所でも無理。精神病院というのが舞台設定としてなんとも素晴らしい。またひとついい映画に出会えました。ハッピーです。
[PR]
美しいという褒め言葉を目にしますが、美しいってこういうことですか?

d0151584_1085151.jpg


好きと嫌い、まっぷたつに分かれる映画というのは沢山あるでしょうけど、この『ベニスに死す』はその種類の映画ではないでしょうか。持ち上げる人は名作だというだろうし、わからない人はわからないというしかないし。で、僕はといえば後者です。これのよさがまったくわかりませんでした。

 少なくともこれをして「芸術的だ」とかいう感じはしませんでした。むしろある意味でコメディですよ。臆病なホモストーカージジイのコメディ。そう思ってみると別の面白さがあると思いますけど、どうやらそれを狙っているわけではないのでね。何しろこのおっさんの最終的な目的がわからない。いつまでも主人公のおっさんがぐずぐずしているのをいらいらしながら観ていて、まあ終いにはだんだんそれが面白くもなってきたんですが、やはり僕好みではありません。

とある少年に究極的な美を見出した男が墜ちていく、みたいなことが書かれていますけど、これを仮にね、ベニスなんてところでやらずに日本のその辺の汚いところで、しかも大学教授でなくようわからんおっさんがやっていたらどうなんやと。間違いなくただの変態じじいですよ、こんなもん。それをね、なんや雰囲気でええように言うてるなあという気がしてならないんです。それなら結局見た目の話でしかないという風に思ったんです。この映画を褒めるときに「美しい」っていう言葉が使われやすいみたいですけど、「美しい」ってそういうことですか? 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という名フレーズがありますけど、美しいってこの映画よりもっと別のものに使う言葉のように思うんです。いや、映像的な美しさはわかりますよ、でも、それは映画というより映像としての話でね。映像と筋、その演出を踏まえてこその映画だと僕は思うんです。

こういうことを言うと、原作を読んでもいないのになんたらとか言われるかもしれませんけど、僕の大好きなとある方がおっしゃるように、「原作を読んでいないと語れない、そんな映画ならつくるな」ということでね。この映画だけで言えば、僕は観る前に原作の存在すら知らなかったんですけど、明らかに原作があってそれをなぞっている映画だなという感じがしました。起こること起こること全部断片的です。おっさんが伝染病にかかって死ぬ、というのも中途半端ですよね。なんであのおっさんだけが怯えているのかがまるでわからない。そういう病気にすごくかかりやすいのだということも言われていないし。観光で収益を得ている街だから伝染病を表ざたにできないのだ、みたいなことを言っていますけど、他の人たちは全然そんな風になっていないし、もうついていけないですよ。原作はどうか知らないけど、映画だけで言えば、「ベニスに『死す』言うてもうてるし、原作のこともあるし、死んで終わらないといけないからとりあえず伏線引いておこうか」みたいな感じがぷんぷんします。それと細かいところですけど、なぜあのおっさんはラストシーンで頭から血を流しているんですか? 病気のことはよくわからないので僕の無知のための疑問かもしれないけれど、喀血とかそういうのにしたほうが伝わりやすいと思うんですけどね。綺麗なところを撮るのは頑張ったけど、いかんせんそういう部分への配慮が足りないと思いました。

うん、確かに映像とか町並みは綺麗なんですよ、それはこの映画を褒める人たちに何の文句もないところです。そのために、わりと飽きずに見られたのは事実です。台詞が少ないのも僕は好きですから。でも、どうも映画が発される「臭気」がなかったんです。「臭気」って悪い意味じゃなくて、いい意味の「におい」ということです。もともと綺麗な町並みなんだから、それを綺麗にとったものを観て「綺麗だ」といっても仕方ないでしょう。それならたとえば黒沢明の『どですかでん』(1970)なんて、本当に汚い場所なのに美しく見えるという驚きがあって、そちらのほうがよほど好きですね。

こういうことを書くと、この映画を愛でる人々は嫌がるんでしょうけど、何を言われてももうこれは仕方がない。結局、映画でも何でもそういうことですからね。無知ゆえにわからないのだと言われるかもしれないけど、じゃあ知識があれば愛でられるかといえばそういうことでもないですし。まあ、誤謬などあれば素直に認めますけど。

うん、そんなところですかね。
[PR]
カウリスマキは格好悪いから格好いいのさ

d0151584_1074411.jpg

d0151584_1075744.jpg

池袋・新文芸坐にてデヴィット・リンチ監督『インランド・エンパイア』、アキ・カウリスマキ監督『街のあかり』を鑑賞。

『インランド・エンパイア』は正直きつかった。訳のわからないものは嫌いではないが、この形では正直ものすごく疲れる。この映画の魅力がわからない人間はきっと何を言っても無駄であろうし、またこの映画の魅力がわかる人間の解説を聞いたところでおそらくその良さは解せないのだろう。かなり早い段階から「ストーリー」なる概念が意味をなさなくなるため、ついていけない僕としては、三時間はあまりにも長尺だった。「ああ、いつ終わるのだろう、もしかしたらこのまま永遠に終わらないのではないだろうか、永遠は言い過ぎとしても、このまま何年も映画が続き、気づいたときには『昭和生まれのじじい』などと揶揄されるくらいに年をとってしまうのではないか」という錯覚に囚われたのも事実で、置いてけぼりを食らった人間は途中で再乗車することが許されないような、そんな映画であった。わからないことばかりというか、この映画において読解できたことが少なすぎるため、これ以上は何も書けない。

さて、そんなわけで本記事のメインは『街のあかり』についてである。いやあ、さすがはカウリスマキである。三時間のリンチ、八十分のカウリスマキ、僕の中では断然後者の圧勝であった。これは大変に素晴らしい。僕のようなものにはものすごくしっくり来る映画である。といいつつ、別にお勧めしたりはしない。というのも、この映画に共感できる人間、この映画のよさをわかる人間は(リンチの作品がそうであるように)多分相当に少数派だからである。「社会」なるゲームを「処世術」とか「コミュニケーション能力」とかいう武器を使ってうまく進めている人には特に勧めない。そんな人たちにはどうせこの映画の魅力などわかるはずがないのだ。ヤンネ・フーティアイネン演ずる主人公は「処世術」も「コミュニケーション能力」もまったくないような、本当にどうしようもない男である。彼のその姿が実に僕にはしっくりと来た。高校生の太田光は太宰治を読みながら「自分のことが書いてある」と思い、90年代の若者は「エヴァンゲリオン」の碇シンジを見て「これは自分だ!」と思ったそうであるが、それでいうとこの主人公は僕にとってそのような存在である。あらすじをアマゾンから拝借する。

ヘルシンキの警備会社に勤めるコイスティネンは、同僚や上司に好かれず、黙々と仕事をこなす日々。彼には家族も友人もいなかった。そんな彼に美しい女性が声をかけてきた。ふたりはデートをし、コイスティネンは恋に落ちた。人生に光が射したと思った彼は、起業のため銀行の融資を受けようとするが、まったく相手にされなかった。それでも恋している彼は幸せだった。しかし、実は恋人は彼を騙していた。彼女は宝石泥棒の一味だったのだ…。

あらすじには「美しい女性」とあるが別に美しくもない。フィンランドでは美人かもしれないが、日本人は彼女を美人だとは捉えないと思う。コイスティネンを陥れるハニートラップの役割を果たすのだが、その割には綺麗ではない。だが、そういうところがいいのだ。カウリスマキの優れているところのひとつである。別に美人ではないのだ。ソーセージを売っている、主人公にただ一人寄り添う女性も別に美しくない。だが、それが絶妙な味わいを醸しているのである。コイスティネンがハニートラップに掛かった理由は、むしろその女が美人ではないからこそ説得力を生む。美貌に惹かれたのではなく、偽りであったとしても自分に注目してくれた、そのことに惹かれたのである。その証左は、コイスティネンが女の正体を鏡越しに確信したシーンである。彼は窃盗団の一味であるという冤罪を着せられるのだが、絶対に女のことを警察にも話さず、有罪判決を受けて刑務所に入れられてしまう。その刑務所の中で、ほんの一瞬、おそらく劇中でただ一度の笑顔を彼は見せる。この笑顔のことを語り始めるとまた長くなるのでやめておくが、コイスティネンが彼女のことを警察に絶対に話そうとしなかった理由を僕なりに解釈すると、「彼女が犯罪者の一味であったとしても、そして自分を陥れたとしても、自分が彼女に恋をしたその気持ちだけは本当なのだ」というその精神ゆえである。裏切られたとか騙されたとか、普通の人間は憤るものだが、彼は違っていた。絶望したからではない。あまりのショックに落胆したからでもない。もしも彼女に対する怒りが彼の中に芽生えていたのだとしたら、どうして彼は犯罪者のボスを襲撃しようとしたのだ? 彼女への怒りがあるならば、彼女を殺そうとしたはずである。だが、彼はしなかった。自分が恋をしたそのことを、彼は信じていたのである。

「初恋の人というのは、恋をするということを教えてくれた人のことさ」

僕の言葉である。どこかのキャッチコピーで使ってもらいたいところである。コイスティネンの恋が初恋かどうかはわからないが、ともかく彼は彼女を恨んだりはしなかったのだ。僕が自分とコイスティネンを重ねあわせた理由はほかにもあって、彼が釈放後に始めた仕事が皿洗いだったということである。僕は逮捕されたことがないのでその点は関係ないが、僕もかつて皿洗いのバイトをしていたのである。そのための皿洗い機械、その工程などが実に僕の記憶をくすぐるものであった。ラストシーンも秀逸である。それまでコイスティネンにただ一人寄り添ってくれた女性がおり、彼はその彼女に対しても心を開こうとしなかったのだが、最後のカットで彼は彼女の差し伸べる手にそっと自分の手を重ねる。馬鹿な監督ならその後の会話なり何なりを描いてしまいかねないが、そこはカウリスマキ、当然わかってくれている。そんなことはしなくていいのだ。無駄に話をさせるべきではない。あの終わり方はまことにもって完璧である。犬が黒人少年とともにいるのもよかった。

そんなわけで、カウリスマキの傑作を観て、実に僕は気分がよいのである。
[PR]
←menu