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二時間かけて語られてもなあ、でした。
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 巨匠ポランスキー監督作で、受賞も多く、高評価の作品と見受けますが、ぼくにはどうもぴんと来なかったのが本音でございます。

 イギリスの元首相と、彼の自伝を書くことになったゴーストライターの話です。首相の名前は架空です。イラク戦争と思しき戦争にまつわる報道が出てくるのでいちばん近いのはトニー・ブレア元首相ということになるのでしょうが、イラク戦争に対するイギリスの政治的責任、とかそういう話にもあまりなっていかないので、それはそれ、「政治をめぐるサスペンス」みたいに観ればいいのですね。
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 ユアン・マクレガー扮するゴーストライターは、ピアース・ブロスナン扮する元首相と出会い、彼の自伝を書く作業を始めます。しかし、この首相が戦争時、捕虜の拷問に携わっていたぞ、という報道が出てきて、彼の身辺がにわかに騒がしくなります。そんな中でマクレガーは自分なりに元首相の過去をいろいろ調べ始めるのですが、その過程で首相の話したことと出来事のずれなどが発覚したり、前任のライターの不審死がきな臭いものに思えてきたりして、彼は「政治の裏」にどんどんと首を突っ込んでいくことになります。
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 うーん、ただこれねえ、中盤から「この程度の話になるなあ」感を覚えてしまうんですね。映画は二時間観るなら二時間の中で、やっぱりなんというか、何か考えの種がほしいんですね。もちろん、たとえ何も残らなくても二時間ばっちり愉しませてくれるものもいいんですけど、これはなまじ政治の裏の話とかしているんでねえ。だから、現実を忘れてその二時間を愉しめばよい、というものでもないし。そう考えると、政治に何の興味もないよ、という人ならいいのかもしれないですね。褒めているのはそういう人じゃないかなという気もしてしまいます。今のぼくは「ポランスキーのこの映像美学を観よ!」と言われても、そちらにはとんとインポテンツなので。

ネタバレーション警報。結末の話をしますね。
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 この映画に大きく絡んでくるのはCIAです。ざっくり言うと、CIAが(つまりはアメリカが)イギリスの政治を裏で操っているのだ! みたいな結末です。このマクレガーもそこを追及する形になっていくんですね。CIAと関係していると思しき人物が元首相との関係を隠していたりするし、その関係に触れたから前任者は死んだのだ、みたいなにおいをさせたりもするし。で、最後には、「首相の妻はCIAの人物だった!」というところでびっくりさせるみたいなね。
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この結末に至ったところで、ああ、やっぱりつまらない話になっちゃったな、と思ったんです。っていうかこの話って、日本人からすると、何の衝撃もない話じゃないですか。そんなこと言い出したら、こちとらずっとアメリカに操られているぞ! ってなもんですから。こちとら憲法も米国人製で、「戦力は、これを保持しない」はずだったのに、朝鮮戦争があって保持することになって、その結果違憲状態のまま半世紀以上が経過したぞ! この国の保守は親米がメインなんだぞ! なんか知らないけど親米的な内閣ほど長続きしてきた国だぞ! 日本の従米・属米をなめるな! ですから。だからねえ、イギリスがアメリカに操られているのだ! って言われてもねえ、なんです。
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そもそもぼくはどうもこの、「操ってる系」の話、「陰謀論的」とでも申しましょうか、この手の話が好きじゃないんですね。

 わかりやすいんですよ、陰謀論というのはね。この世界には絶大な影響力を持つ組織なりなんなりがあって、世界はその組織の考えで動いている、みたいなのってわかりやすいじゃないですか。でも、それはちょっと見方が拙い気がしてならないんです。実態なんて何もわからないぼくですが、要するにアメリカにせよCIAにせよ、抜群に手回しがうまい国家、組織だと思うんです。いくつものシナリオのシミュレーションがあって、どこがどう動いてもいいように早めに手回しをしている。相手がぼんやりしているうちに早めに動いて、自分たちがうまくやれる方向に仕向ける。そういうのがうまい国だと思うんです。

 その外交能力、処理能力にめちゃめちゃ長けているんだと思う。だからこそ、傍目からはすべて彼らの仕組んだことに見えてしまったりもする。アメリカがどこそこの国と実は裏で手を組んでいるんだ、とかいうのは、「手を組む」じゃなくて「手を回す」が正確なところじゃないかと思うんです。向こうの国がこう来たらこう返す、こう出てきたらこのように対処する、あちらがどのように動いてきてもこちらの国益を損なわないように準備しておく、みたいな構えがあるんだと思うんです。そういうことをまるで考えない人たちが「陰謀」という話に飛びつくんじゃないでしょうか。そこで考えるのをやめれば楽だから。

 この辺の話をすると膨らみますけど、政治的陰謀論って、「自分が不幸なのは世の中が悪いんだ」的な心性と結びつきそうなんですよね。誰々が悪いから自分は不幸だ、あの組織がこうだから自分は不幸だ。そう考えるとそこで楽になれるんです。でも、それはあまりにも単純だよねってことです。もちろん実際にそういう場合もあると思いますけど、こと国家同士の話になったときには、そんなに単純とは思えない。
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 陰謀論を膨らませてしまうのは、外交能力の無さを、あるいは自分の弱さを見ないようにするための、悲しい慰撫に見えたりもするんです。「仮面ライダーのいない、仮面ライダー的世界観」とでも申しましょうか。
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 映画から遠く離れました。そのうえでこの映画を考えるとね、やはりどうしても物足りない。ラスト、この映画における「衝撃の真実!」に触れた主人公が殺されたことを暗示して終わるわけですが、国家が個人の告発を握りつぶすなんて、もうそんなのいくらでもある話でしょう。政治運動をしただけで投獄される国だってあるわけです。そこをねえ、ラストに持ってこられてもねえ。敏腕きわまる国家の連中に対して、個人が闇雲に動いたらそうなるよ、というのは案の上の結果です。二時間以上あって、こちらの思考を何一つぶらしてくれない。
 
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 興味が湧くとすれば、この映画の結末に驚いたり満足したりしている人の頭の中です。 その人がどういう目線で、日頃政治というものを考えているのかには興味があります。 
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この手の題材の映画としては、頭ひとつ抜けている印象です。
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 イタリアの犯罪組織カモッラの有様を描いた映画です。海外の犯罪組織というと、「マフィア」という名詞がいちばんよく使われるものだと思いますが、マフィアというのはもともとシチリアから発祥したものなのです。カモッラはナポリから生まれたものであって、別の組織なんですね。だから本来、マフィアというのは一般名詞ではなく、もともと固有名詞に近いのでしょう。マフィアはアメリカで勢力を広げたり、政界に影響力を持ったりなどするうちに、概念のような形になってしまったわけです。
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暴力団やマフィアについて書いてみようと思ったのですが、映画と離れたままかなり長くなるのでやめておきます。しかし、この映画を観たら、暴力団やマフィアが社会や世界にどのような影響を与えているのか、どういう背景をもとに生まれてきたかを考えたくなるはずです。「暴力団なんて法律で禁止して、なくしてしまえばいい!」「マフィアやカモッラみたいな組織は警察がもっと取り締まればいい!」なんて言いぐさが、本当に子供じみたものに過ぎないことを知らされます。
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 本作ではカモッラに関係する人々、関係せざるを得ないがたくさん出てきます。それはカモッラに入ることに憧れている少年であり、不良の二人組であり、組織と構成員家族のつなぎ手であり、産廃業者であり、洋服の仕立屋であります。このような複数スレッド進行が、いかに地域と組織が深く結びついてしまっているかを効果的に示します。
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それぞれに言及していると一日仕事になってしまうのでさすがにできませんが、これはとても巧みな設定であるなあと思います。子供から大人まで、どの世代がどのように関係してしまうのかを綺麗に映し出していると思います。憧れを抱く少年などには、『ジョニー・マッド・ドッグ』の少年兵に近い背景を見いだします。この世界が奪う者と奪われる者で成立しているならば、奪う者の側に回らぬ手はない。ぜひともそちらに回りたい。そんな世界観が植え付けられてしまうのでしょう。彼がその通過儀礼として銃で撃たれる場面などはとても印象的です。暴力はよくないなんて道徳は、目の前で銃撃が頻発する世界では、意味のない理想論に過ぎない。
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 産廃業者のくだりも見るべきものがあります。これは日本にも通じる話じゃないでしょうか(というか、ほぼ同じような話が日本でもあるのは、よく聞くところです)。この辺が社会のどうしようもないところだなと思いますね。たとえばある業者が産業廃棄物を出してしまう。これを処理するうえでコスト削減のため、別の業者に外注する。そうなると
安い値段で処理を請け負う業者にお鉢が回る。しかしその安さが可能なのはまともな化学的処理を経ずに投棄してしまうからであって、そういった話は闇社会の勢力の温床になる。表社会に生きるもともとの依頼人は、「処理はお任せしているので」と知らんぷりを決め込める。環境を悪化させるような投棄など駄目だ、行政は何をしているんだと言っても詮ない。じゃあ自治体が請け負いましょう、というほどの金もない。こういう連関は先進国、途上国問わず起こることです。
 この映画ではさらにひどくて、子供たちにトラックを運転させて廃棄させる様まで描かれています。どこが先進国やねん、という話です。
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複数のスレッドにおいて、最も組織と縁遠いはずなのは、真面目な仕立屋のおじさんです。何十年にわたり洋服をつくってきて、職場でも信頼厚いおじさん。しかし、彼もまた無縁ではいられない。このくだりはとても興味深いものがありました。
 彼は会社の上司が無茶な注文を引き受けてくるのでいっぱいいっぱいで、しかも上司が信頼の置ききれない人間なもんだから、給金がまともにもらえるかも不安でならない。そんなとき、彼の腕を見込んで近づいてくるのは、中国系移民の仕立て屋。中国人は彼に対して、技術を分けてくれと頼み、十分な報酬を約束する。彼はおそるおそる、彼の工場へと出向いていくのです。
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 聞くところによると、21世紀以降、ヨーロッパで中国移民の増加率が最も高いのはイタリアだそうです。細かい背景はわかりませんが、伝統的にマフィア勢力が強いイタリアならば、治安的な面で考えても、不法(?)入国者が入りやすい土壌があるというのはイメージしやすいところです。ヨーロッパにおける移民問題、というのを織り込んでくるあたり、ああ、この映画は本当に地で行ってるなあと感じます。で、仕立屋さんの行動がどうして問題なのかと言えば当然、会社の技術を他の業者に売っているからですね。それも中国系の就労ビザもあるんだかないんだかわからない連中に売っているとなれば、これは許し難い。そこで登場するのがカモッラで、上司が頼み込み、「あの中国人の連中うざいんで、困るんで、どうかよろしく」と言えば、これを屠りにかかるわけです。真面目な仕立て屋おじさんはそんな状況に絶望することになります。スカーレット・ヨハンソンもこれまたとんだ使われ方をしたものです。
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ぼくはナポリにもイタリアにも行ったことがないので、これがどれくらいにリアルなものなのかはわかりません。いや、現地に在住しているという人でも、これらの様相を熟知している人は少ないでしょう。それは日本のヤクザに関しても同じことです。
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 ただ、なるほどこれは確かに十分にあり得そうなことだ、と思わせるくらいに、泥臭いリアルさがあります。カモッラの構成員の人たちはちっとも格好よくない。任侠のにの字もそこには見出せない。三浦友和とか西田敏行が出てくる日本のヤクザ映画みたいに、ばちっと啖呵を切って格好よく決めるような有様もなく、ただ密やかに地域に溶け込み、そして浸潤しているのがわかる。アル・パチーノの演じたがごとき、組織の絆や家族との情愛みたいなもんもない。原作者はカモッラの報復から逃れるべく海外逃亡して保護されていると聞きますが、なるほどやばいものがここにはあるなと思わされる。まかり間違っても、テレビのロードショー枠では流せない。仁義なき戦い、どころか、そこには仁義なんて概念が端から無いかのような、乾いた世界が描かれています。
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ヤクザ映画、マフィア映画というのは数多くあるわけですし、ぼくはぜんぜん詳しい人間ではないですが、ちょっと頭一つ抜けている印象です。一切美化することなく、組織の内幕をドラマティックに描くなんてこともせず、いかに社会に溶け込んでしまっているかを、効果的に描き出しているように思えます。反面、こういうものを観ると、有名スターがいきっているヤクザ映画をあまり観る気にならなくなるので、その点でも注意が必要かもしれません。
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アメリカ、自由、共同体、その他。
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 とかくアメリカ映画といえばビッグバジェットのハリウッド映画。とりわけ2000年代後半以後はずっとアメコミヒーローものがその話題的中心を担っているように見受けるのですが、ぼくはそれよりも今回の作品のような、アメリカの深い部分を覗き込ませてくれるようなもののほうがずっと好みなのですね。特にこの数年は。

 余談ですが、アメコミヒーローものとかって、いまひとつ乗り切れない。興味が湧いてこない。なぜなのかなあと考えたら、わりと理由がはっきりしてきました。というのもね、ぼかあ幼少期、ウルトラマンや仮面ライダーが大好きだったんです。たとえば仮面ライダーの放送を観終えますね、するとぼくはテンションが上がりきって、エンディングテーマを聴きながら、まるでそれが何かの儀式であるかのように、戦うライダーの真似をして飛び回っていたんです。ちゃぶ台の上から何もない中空に向かってジャンプキックしていたのです。友達と遊ぶときも本気で自分をライダーやウルトラマンの化身と信じ、戦いに身を投じていたのです。身体的に感染していたわけです。そういう記憶があると、今更アメコミのヒーローで盛り上がりましょうと言われたって、とてもじゃないがあの頃みたいな熱量は自分の中で生み出せない。何々格好いい! とか言ったって、あの頃に抱いたウルトラマンやライダーへの憧れにはとてもじゃないが及ばない。それを思うと、アメコミヒーローとか、かなりどうでもよく感じられてくるわけですね。
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 さて、そうなるとやはりこうした、陰鬱とした地味な映画に学びを得たくなる。
 本作は山中に住むアメリカ白人、ヒルビリーの少女の話です。町山さんのWOWOWでの解説がとてもわかりやすいです。背景などがよくわかります。この映画を未見で、「ヒルビリー? 何それ?」と思われる方は、検索して解説を聴いてから観るとよいかもしれません。
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 ところで、ここ数年はオバマ大統領による医療保険制度改革が取りざたされています。世界を牽引する先進国の筆頭でありながら、国民皆保険制度を持たずにきたアメリカ。ではなぜアメリカは国民皆保険を実施せずに来たのか。
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 その背景には、アメリカが建国の旗印にした「自由」というものがあります。 アメリカにとって「自由」というのはとても重要な概念ですが、ざっくり言うにその政治的意味は、「国家が国民を縛ることがあってはならない」ということですね。だからこそ1791年に制定された憲法修正の第一条では「宗教、言論、集会の自由」が保障されているのだし、二条では「民兵の自由」、つまりは革命権が謳われているし、今でも銃は自衛のための不可欠な存在と考えられている。イギリスからの独立によって人工的に構築された国家ゆえに、もともとから「国家への不信」がプログラムされている。アメリカが断固として共産主義を許さずに来たのもひとつにはこのためです。
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そういう発想からすれば、国家が保険制度に入ることを強制するなんてあり得ない! という考えが右翼方面から出てくるわけです。それがいいものであれ悪いものであれ、そもそも国家が強制するのはよくない、というわけですね。

 そのような発想が底流している国は、一方で多様な民族、いまや三億の国民、広大な国土を有している。そうなってくると必然、いかに世界第一の国家であろうと、その施政からこぼれ落ちる人たちが出てくる。この映画で描かれているのはそんな社会の様相です。

この少女は幼い兄弟二人と、精神を煩った母を支えながら暮らしています。父はというと、家を担保に借金をして出て行ってしまったのです。サブプライムローンが記憶に新しいわけですが、貧乏な人たちが借金返済ができず、福祉制度も備わっていないとなれば、これはもうどうしようもない状況に追い込まれます。主人公の少女は行き場もないままに、家を売りに出さざるを得ないような形になるのです。その前になんとしても父親を捜し出さなくてはなりません。

 しかし、近所の人たちに父親のことを聞き回っても、みんな頑なに口を閉ざすんですね。 その様子があまりにもあからさまで、どうやら何かあったらしいとわかってくる。
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こうした、閉ざされた田舎というのは、万国共通なのだなあと思いますね。田舎というのはやっぱり狭い世界であるらしくて、独特の怖さみたいなもんがあります。かく言うぼくも田舎の生まれですが、その辺の怖さはそこはかとなく感じますね。旧友の結婚式で地元に帰って飲んだときも、既に地元で家庭を築くなどしている同級生が、「どこどこの誰々はああだこうだ」という話に花を咲かせたりしていた。うわあ、なんか、いろんなことがばればれでやっていかなあかんねんなあと、少し距離感を抱きました。東京で暮らしていると気づきにくいことです。「これからの時代と田舎における人間関係」というのには、文化人類学的な興味をそそられます。

ネタバレ速報。ういーん。
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 話が進むうちに、どうやらこの少女の父親は、村における掟を破ってしまったらしいとわかってきます。村における掟って。昔じゃないんだから。という感覚になったりもするのですが、そこでアメリカ社会ってもんがちょっと垣間見えますね。
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国家というものは信用できない、という国家においては、民族やその系譜などをよりどころにして、国家よりも小さく緊密な共同体が、大きな意味を保持する。その助けになるのはキリスト教ですが、本作でそうであるように、宗教など何の生活的救いにもならない。そうなってくると、個人個人は自分たちの生活を守るために共同体が必要で、そこでは掟というものがどうしても重要視される。その掟が犯罪にまつわるものになってしまっても、貧困が絡んでそこから抜け出すことができない。そう、おそらく、日本では既に昔話にしか出てこないような「村の掟」なるものが、今もってアメリカでは意味をなしているのでしょう。すごい話だなあと思います。そして、「そんなのはよくないよ、もっと福祉制度を充実させて」などと言っても通じないわけですから、これは根の深い話です。別の国家ですが、中国の田舎なんかも、もしかしたらこういう面があるんじゃないですかね。要因は当然ぜんぜん違ってくるでしょうけど、これは中国に置き換えても成立する話に思えます。中国とアメリカって実は似ていて、「国家を信用する」ことができない歴史があるんです。向こうは王朝や支配者層の変転というものがありますから。

 全体を通じて、かなり地味というか、話らしい話はぜんぜん膨らみません。親父はどこだ、親父には触れるなの繰り返しですからね。でも、最終的には結構えげつないことになるんですねえ。抑制したトーンでずっと来ていた分、あのチェーンソーの響きが重いんです。「うわあ、最悪やあ」のシーンです。あれはきついです。少女にしたら、「なんでこんなことになってるんだ」というほかない状況です。
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「地域の共同体」という言葉、概念の怖さがここにはあります。「共同体」とか「自治」とかっていうのには、相互扶助、もっと優しい言い方ならば「助け合い」という祝福の側面がありますね。日本でも、「昔はよかった。貧しかったけれど隣近所で互いが助け合って」みたいな言説がある。ただ他方、「隣近所の輪から抜け出せない地獄」という呪いの側面もあるわけです。まあ、今更言う必要もないことでしょうけれど、経済的な問題などによってその呪いが膿んでしまうと、こういうどうしようもない事態が発生してしまうわけです。そんなどうしようもなさをまざまざと見せつける作品でございました。
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 年が明けて2013年になりましたが、ぼくの映画に対する接し方はどうやらこのまま継続しそうです。すなわち、映画そのものよりも、映画を通して見えるもののほうに惹かれる、ということですね。何々格好いい! とか、誰々の演技がぁ、というのは、とりあえず過去の記事の中のものです。映画を観る以上は、学びを得ていきたいのですね。映画を観て、面白い面白くないというのはもういい。そんなことにぶうたれている大人なら、アニメに文句も言わず熱中する幼児のほうがよほどいい。そんな感じなんで、これからも大した数の読者を得られずに低空飛行だと思いますが、まあ、よろしければよろしくです。
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真実は嘘よりも、本当に尊いのか?

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1950年代のアメリカのテレビ番組で実際に起こった出来事をもとにしているようですが、これは今もってなお意味のある題材だと思います。こういう社会派劇みたいなのは好きです、ええ。

 出演者二人が対決するクイズ番組。勝者には高額賞金が与えられる。しかしその裏では話題作りのための八百長が行われており、それをめぐって関係者たちの攻防がなされる。とまあそんな内容なのですが、つまりいわゆる「やらせ」というやつですね。ぼくは元来テレビっ子なもんで、テレビ番組を題材にしている時点で結構興味を惹かれたりしたのです。
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現在までの日本で言うと、やっぱり時を経るにつれてテレビのパワーというのは落ちてきているわけでして、それはむろんネットの普及と発展が大きいわけですけれども、ネットがテレビの裏側を暴き立てるようになったのも主因のひとつですね。ひとたびテレビ番組で不祥事なりなんなりが起こったりすれば一気にネットで広まって、というのは数多いわけでして、テレビ局は相当な苦慮を強いられているようであります。
 もちろん、ネットがあるからこそ明るみに出ることもあるのですが、こと娯楽としてのテレビという点では、ずいぶんと萎縮を余儀なくされているのでしょう。

 2ちゃんねるの元管理人ひろゆき氏が「嘘を嘘と見抜けない人には使うのは難しい」みたいなことを言ったのが広く伝わっていますけれど、ことテレビについて言えば、「嘘を嘘として楽しめる人が少なくなった」のかもしれません。騙されないようにしよう、という知的警戒心それ自体は重要なものですが、一方で何かにつけてやらせだなんだというのも狭量な話だと思います。
 ひとつ覚えているのは、ぼくが中学生くらいの頃に好きで観ていたTBSの『ガチンコ!』があります。TOKIOが見届け人で、ボクサーになりたい不良とか大学に行きたい不良とかを熱血講師が指導する、みたいな番組で、ドキュメンタリーっぽい演出でした。 これに対して一部の週刊誌がやらせだというのを暴いたことがあったのですが、ぼくはなんだか興ざめしてしまったのを覚えています。それはあの番組が「ガチンコ」でなかったことに対してではないのです。「わざわざ騒ぎ立てるなよ、野暮だな」ということなんですね。こっちはマジックを楽しんでいるのに、そのタネがわかったと騒いでいる人がいたら醒めるじゃないですか。ディズニーランドで楽しんでいる人に向かって、「ミッキーの中には人がいるんだよ」なんて言うのは野暮じゃないですか。プロレス観戦で、「台本があるんでしょ」は野暮でしょう。それに近しいものを感じたのです。

 ただ、週刊誌に理がないわけではない。状況や対象によっては、「王様は裸だ!」と言わねばならないときもあるでしょうし、その辺は難しいところ。長くなりましたが、その辺の難しさをきっちり描いている映画として、とても見応えがあります。
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 映画はわざと負けるよう指示された出演者の告発に始まり、そこに法律家が目をつけ、真実を暴いてやるぞとテレビ局や制作者、スポンサーに挑んでいきます。八百長で勝利し、話題の人となったのはハンサムな大学教授で、彼と法律家の攻防が主軸です。
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 映画自体はドラマをきっちりと撮る堅実なタッチでありまして、彼らの駆け引きこそがこの映画の最大の見所のわけですが、この映画が偉いのは、決して一方的な善悪に収まっていないところなんです。テレビ局やスポンサーという巨悪! 真実を暴く痛快劇! になっていない。社会の複雑さを描いているのが大変好もしいです。
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 眉毛の太い法律家役のロブ・モローはその中でも真実を暴こうとする立場にいて、観る側は彼を応援するようなつくりではあるのですが、そこに閉じていないんですね。他の人々の立場とかも斟酌できるつくりなんです。これはそうたやすくないぞ、と観ながら思うのです。
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 たとえば八百長で負けにさせられるジョン・タトゥーロがいますが、後半明らかになるように、彼も答えを教えてもらってきたんです。それで何でもない貧乏ユダヤ人だった彼は一応賞金を手にしてきたんです。でも彼は八百長で負けを強制されたと怒る。この辺なんかも、彼をただの無垢な被害者にしていないグッドポイントです。おまえはおまえで甘い汁吸ってる側にいたじゃないか、と言われても仕方のない立場にいる。
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 テレビ局やスポンサーも自分たちなりの道理を持っている。あれがやらせであったとして、何がいけないんだ? と問うてくるわけです。視聴者は最強スターが出ていれば喜んでみるし、それが人々に知識を持たせようとする動機付け、教育効果に繋がるし、冠スポンサーは売り上げが伸びて万々歳だし、何がいけないんだ?
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 こうしたオトナの問いに対して、「だってそれは真実じゃないもの!」と反駁することはできる。現に八百長でスターになる前のハンサム教授、レイフ・ファインズは良心からその誘いを断ろうとする(カントなら何て言うかな? とインテリっぽく)。

 ただ、観ながらふと思う。真実って何なんだろうと。それを暴くことは果たして人のためになるのだろうか? そんなことを思うのです。
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 いろんな人が言っていることですけど、たとえば事故で最愛の我が子を亡くし、悲しみに暮れる母親がいたとします。彼女の前に二人の人間が現れたとします。一人は現実主義的で、科学的に証明されていない死後の世界などまるで信じない人間。もう一人は霊界と交信ができるというスピリチュアルな人間。彼女を救えるのはどちらなのかといえば、「天国では息子さんがあなたにこう言っていますよ」云々と語る後者のほうかもしれません。彼はインチキかもしれませんが、現実よりもそんな嘘が人を救うことだってある。

 これは単純化した例ですけど、先ほどの手品の例のように、「どうだい、嘘を暴いてやったぜい」という「真実主義」が必ずしも人を幸福にするとは限らないのです。

 この映画はそんな現実を見せます。
 ラスト、ファインズは法廷に立ち、真実を語るのですが、結局のところ彼ひとりが社会的な地位を失い、テレビ局の人たちはのうのうと次の仕事を始めることが示唆される。
 ロブ・モローは確かに真実を明るみに出しました。しかし、真実主義者の本当の敵はまた次の嘘をいくらでも生み出せる。彼は中途半端な形でしか真実主義を遂行できず、結果一人の人間は職を追われた。
「テレビには嘘がある」ことを示したという点では、意義があった。何もかもを鵜呑みにしちゃ行けないよという教訓を与えたでしょうし、人々は多少賢くなったことでしょう。でも、それは果たしてよきことなのか、ここは難しさを孕んでいるように思えてなりません。
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 なんだか社会哲学めいて参ります。
「嘘のない社会は、いい社会か?」

 ぼく一人では到底語りようのないテーマに想到させる映画でした。
 ここはひとつ、『クイズ・ショウ』にあやかって、大きなクエスチョンを投げて終わりましょう。
 どうですか?
 皆さんは、嘘によって救われたことが、ただの一度もありませんか?
 強者による嘘や隠蔽は許せない! としても、強者の嘘や隠蔽によって今の不自由ない生活が成立していると考えたことは、一度もありませんか?

 お相手はkarasmokerでした。また、この時間にお会いしましょう。
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この手の映画には哀しさがほしいのです。
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原題『Out of Rosenheim』
 1980年代終わりの日本(おそらくは東京)でミニシアターブームを引き起こしたと言われている作品です。前から名前だけは知っていたのですが、どんなもんかいのうと思って観てみました。

 タイトルにあるバグダッドカフェとは映画に登場するモーテルの名前ですが、舞台はアメリカの砂漠地帯で、観るところイラクとは何の関係もありません。何か深い意味があるのかもしれませんが、これはむしろ日本の街角にもあるような、「喫茶 パリ」とか「スナック モンテカルロ」とか「ホテル イスタンブール」とかそんな感じの店名だと捉えたほうが、むしろ風合いを感じられるようにも思います。

大まかな印象から言うと、これはもう風合いをどれだけ感じたかということに尽きるんじゃないですかね。ぼくは実はそれほどぴんとは来なくて、方々のレビウを散見したのですけれど、どれもこれも映画の印象を褒めているようなものばかりです。1980年代終わりの東京では、なんかこれを褒めたほうがもてるんじゃないか、少なくとも『ロボコップ』とかを愛でるよりはるかにもてるに違いない、と思った男が続出したことでしょう。かく言うぼくだって、たとえばその時代に大学生だったりして、小粋なガールを連れて映画を観に行ったとなれば、無理矢理にでも褒めまくってハイセンスを気取ったに違いないのです。
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ストーリーはというと、ドイツからアメリカに来ての道中、太ったおばさんが夫と仲違いし、一人バグダットカフェに泊まるところから始まっていきます。このモーテルを仕切っているのはいつでもぷんすか怒っている黒人の面長おばさんで、急に訪れたドイツおばさんを怪しんだりもするのですが、いつしか打ち解けて家族ともどもハッピッピー、という映画です。
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 大した出来事が起こらず、日常の変化を淡々と追っていくような映画、でいうと、ぼくはここで幾度も述べているとおり、アキ・カウリスマキが好きなんです。風合いということでいえば彼の描き出す世界がなぜだか妙にしっくりと来るのでして、それをちょいと思い出したりもしました。で、それと引き比べるのは違うのだろうと思いつつ、どうしてアキ・カウリスマキがぴんと来てこの映画はそんなにぴんと来ないのかなというと、これはわかりました。うん。
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 あのー、うん、この映画は哀しくないんです。
 ぼくが惹かれなかったのはそこですね。哀しい感じがどうも足りない。
 別にこの映画が悪いんじゃなくて、というか一部で絶大な支持を得てすらいるわけで、この映画はこれでいいのだと思うのですが、ぼくにはもっと哀しみがほしいなと思ったんです。
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 わりと事がとんとん運んでいくんです。最初はぎすぎすしていたモーテルの中、そして素性知れずで怪しまれていたドイツ人女性、そういう初期設定があるのに、彼女がとんとん受け入れられていって、最終的にはモーテルで手品ショーを開いて大盛況、老人男性とも恋が芽生えて、結婚して永住権も獲得できちゃうのかな、という展開。寂しい風景があるにもかかわらず、哀しみが足りない。
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 これはそういう映画じゃないんだ、哀しみなんか要らないんだ、と仰る方はそれでよいのですけれど、別の言い方をすれば、背景がないんです。主人公のドイツ人女性にしても、彼女がどんな人間でどういう生を歩んできたのかが見えないのです。
 冒頭、アップテンポなカットで刻んで、彼女が夫と別れる場面を描くのですが、なんであんな描き方なのか、あの手法がどういう効果を生み出すのかがぼくにはよくわからなかったんです。
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 いやそりゃ確かに、激しい口論と喧嘩があって、けばけばしいメイクとぴちぴちの服装をまとってという部分で彼女のある種の荒みが描かれ、それをあの場所で癒されていくような展開というのもわかるんですけど、そこで気にかかってしまうのが主題歌の『Calling You』です。なんかちょっと幻想的な感じなんです。あの主題歌はすばらしいですね、というレビウがちらほら見受けられたのですが、ぼくにはこれまたわからなかったです。まあ、それがわからないというのは、つまりぼくがこの映画の魅力、よい見方を決定的にお見それしているということなのかなと思いますが、あの仰々しい、神々しい感じの曲と僻地における彼らの日常がどうシンクロしているのか。ぼくにはわからないのでした。
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 などと言いつつも、確かにずうっと観ていられる映画ではあるんです。風邪気味でぼうっとしていたのもあるかもしれませんが、なんだかずっと観ていられました。その点で言うと、この映画の風合いが自分にはびびびっと来たぞ、という人の気持ちもわからなくはありません。
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 ぼくはこうした映画に対して、「哀しみのおもり」を求めてしまう。もちろん、寂しげにピアノを弾き続ける少年や、彼がつくってしまったという赤子の泣き声などは哀しみを担うものであるけれど、そこはそんなに膨らむこともなく、マジックショーシーンは多幸感に充ち満ちていたりして、哀しくない。そんな感じでした。

自分の感じ方を確かめる意味でも、観てみるとよいのではないでしょうか。
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戦争の悲痛さや愚かしさよりも、虚しさを感じました。
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原題『Cross of Iron』
 町山さんがオールタイムベストワンにしていて、サム・ペキンパー監督で、ずっと前から観ようと思っていた映画なのですが、新しく発売されたDVDの字幕がひどいという評判が定着しているようで、敬遠しておりました。ツタヤで発見したので借りました。

 字幕は確かに不自然というか、最適な訳とはかけ離れているという印象でありました。「誰々が、誰々が」みたいな主語の連続が随所で出てきたり、自動翻訳みたいな箇所があったりなどして困ってしまい、英語の聞き取りも不十分な身の上とありまして、細かい部分はたぶんよくわかっていないのだろうなあと思います。
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 また、観る前に歴史についてもう少し覚えておくべきだったなあという箇所もあり、観終えてから方々の解説サイトを回り、なんとか意味がわかったぞみたいなところもあるため、今日はいつも以上に底の浅いことしか書けそうにありません。とても細かく批評しているサイトなどもいくつもあるようなので、そちらに行くべきであります。なんとなく知りたい人だけ読めばよいのです。

 第二次世界大戦の、ドイツとソ連の戦いの一幕を描いた作品です。しかし、戦時下のドイツと言ってもこの映画では、ナチスの影はかなり薄いというか、ナチスに反目するドイツ軍人が主人公なのです。主演はジェームズ・コバーンです。

邦題からはわかりませんが、原題は『Cross of Iron』といって、鉄十字勲章を指します。これはプロイセン王国時代から続くドイツ軍の勲章だそうで、ナチスの鉤十字などよりずっと由緒あるものなのです。この原題からして、非ナチスの映画、ドイツ軍人が全員ナチスの手先だったわけじゃないんだぞというのが示されています。

 サム・ペキンパーの映画はこれまで8作くらいは観ているのですが、大体において特有の「もったり感」があります。他の映画にはない、「もーん」とした感じがあるのです。なんというか汗臭く土臭く、砂まみれで乾いたような印象を与えるのです。この映画もまさにそうで、独ソ戦の様子が美化ゼロの風合いで描かれています。
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両軍の戦闘シーンは『ワイルドバンチ』でも観られた高速カットで描かれ、くらくらさせられます。何が何だかわからなくなってくる、というのがそのまま当てはまります。特に本作の場合、両軍の見た目をわかりやすく分けたりなんてことはないし、どちらも土と泥で汚れているような状態ですから、わわわわわと圧倒させられるのですね。これは戦争シーンの描写としてとても正しいと思います。何が何だかわからないままに敵がやってきて味方がやられて敵を殺してまた味方がやられてという極限的な状況は、むしろ「何が何だかわからない」からこそ写実的に描かれていると思うのです。観客に臨場感を与える演出として大変効果的であるなあと感服いたします。
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 主人公のコバーンと対比的に描かれるのはマクシミリアン・シェル演ずる上官で、彼は勇敢なコバーンとは対照的に、自分の勲功にこだわりながらも決して力強くない存在として出てきます。コバーンと彼がCross of Ironそのものについて語る場面は印象的で、コバーンは勲章など要らないと言い、一方でシェルは十字勲章を尊んでやまぬのです。
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シェルは貴族出身の軍人として出てくるのですが、この辺もこの映画が非ナチス的な軍人たちの物語として生きてくるところですね。そもそもナチスは労働者たちに支持されて台頭してきたのであって、かつての帝政のもとで重んじられていた貴族としては、あまり気分がよろしくない。伝統あるドイツ国防軍もナチスの下に位置づけられてしまい、それでもなお、貴族として、軍人として勲章がほしい。この、階級や所属と一体化してしまった自己像というのは、決して遠い国の昔のものではないと思うのです。
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 コバーンはそれに真っ向から相対する。彼は彼でナチスを嫌っていて、だからいっそう立ち位置が微妙です。彼が戦う相手はソ連で、自分はドイツの側に属しているのだけれども、かといってナチスのために生きることなどできず、軍のために生きることもできず、勲章で自分を誇るような生き方もできない。妻に「あなたは戦争が好きなんだわ」と言われても何も言わず、怪我が完治せぬままに戦場に出向く。彼は彼で何をどうして生きればよいのかわからずにいるように思えるのです。疲れ切ったようなあの表情からも。
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 とかく戦争には愛国だなんだと大義がつきものですが、この映画はそんなものを唾棄しているように見受けます。勲功は馬鹿らしいし、国を仕切っているやつらはもっと馬鹿らしい。戦い抜いてはみたものの、味方と思っていた連中が自分に銃を向けてくる。映画公開はベトナム戦争が終わった後のことで、ペキンパー流の反戦の表現が絶品なのです。サイトを巡ると、この映画は反ナチスの映画だ、と書いているものがあったのですが、違うでしょう。ペキンパーがこの時代にわざわざ反ナチスを撮る必要はないし、だからこそこの映画ではむしろナチス色はとても薄められているのです。ナチスというわかりやすい悪役をあえて脇に置いたことが、この映画をより強いものにしているのです。

だからラストに、ドイツの劇作家、詩人のブレヒトの警句が置かれるのです。

Don't rejoice in his defeat, you men
 For Though the world stood up and stopped the bastard,
 The bitch that bore him is in heat again

"the bastard"とはヒトラーのことでしょうが、この警句の要点は、「ヒトラーは死んだが、彼を生み出したものはまた首をもたげているぞ」ということで、なるほどまさしく米ソは戦いを始めるわけです。そして「彼を生み出したもの」は、今もなお生きているわけです(蛇足ですが、それは特定の国家や団体ではあり得ません)。
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戦争の悲痛さとか愚かさとかそういうものよりも、強い「虚しさ」を感じさせる映画でございました。
反戦映画の金字塔としては、語弊を承知であえて言うなら、『まぼろしの市街戦』が愚かしさを、『ジョニーは戦場へ行った』が悲痛さを、そしてこの『戦争のはらわた』が虚しさを顕現しているように思います。
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饒舌な劇ですが、語ってほしい部分にはいかんせん寡黙で。
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パトリック・ウィルソン演ずる男がエレン・ペイジ演ずる少女と出会い系サイトで知り合い、あれなことをしてやろうと思ったら逆にどえらい目に遭わされるという、そんなお話です。日本のオヤジ狩りにヒントを得たそうで、パッケージからも明らかなとおりに「赤ずきん」が元ネタでしょう。

 本作は一言で言うに、エレン・ペイジを観る映画なのかなと思いますね。短髪で生娘っぽい外見の彼女がその実サイコパス的な言動に走るその様が本作の見所でして、後に彼女が『スーパー!』に起用されたのもむべなるかなと思います。
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 なぜ彼女がパトリック・ウィルソンをひどい目に遭わせるか、その本音の本音の部分はどうも語られずじまいのようなのですが、要するに彼が出会い系で若い少女を捕まえるようなロリコンであり、過去にもそんなことをしているのであり、であるならば制裁をくらわせてしかるべきであるからやってしまえと、まあそんな感じなのです。
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 ほぼ全編二人の会話劇です。二人のスリリングな駆け引きがこの映画の肝なのです。饒舌な劇でありまして、エレン・ペイジに虐められたいという諸兄にはもはやこれ以上の映画はないのであります。一方で、彼がロリコンであるという部分は台詞でちろちろ語られるのがもっぱらであり、こいつがどんな人間かもうひとつよくわからないなあというのもあって、そこまで入り込めはしませんでした。
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 二人が男の家で織りなす会話劇、なおかつ男は身体の自由を奪われて大変な状況、であるにもかかわらず、どうにも二人の本音が見えてこない印象がありました。そこがねえ、うん、この映画のひとつ弱いところではあります。
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 ロリコン野郎をぶちのめせ映画であるのだとして、こいつのロリコンぶりがあまり見えてこないんです。そこが弱いのです。いや、別に、そういう写真だの映像だのを出してこいというんではないんです。むしろ必要だったのは、彼が己のそういう無様な一面、口にするのも憚られるような欲望をぶちまけるシーンがなかったことです。
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 なぜこの映画はそこをかわすのか、あるいは用いないのか。それがないからどうにも芯が弱くなる。男は少女に睾丸除去を迫られて、「なんでもするから助けてくれ!」と懇願する。いわば極限状態です。にもかかわらず、こいつの醜い面が最後まで出てこない。
 
 なんかね、一人、失踪中の少女がいるらしいんです。で、この男がやったんじゃないかと言って少女は攻撃を加えるわけです。その辺は真相が藪の中というか、最後まで男は否認するんです。そういうやりとりがあるのは構わない。だったらなぜそのくだりで、この男の他の罪、ロリコン的趣味の告白をさせない? それをさせたほうが像がくっきりとしてくるのに。
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 いや、それをすると男が悪者っぽくなり、少女が正義の執行者のように見えて、映画のバランスが崩れるのだ、というかもしれない。でも、そうやって本音を交わし続けているから、この二人の劇の熱が高まっていかないんです。なんかよくわからない二人がずーっと戦っている感じになります。

 この映画では男の睾丸除去というのがひとつの山場になります。そこら辺の直接的な描写はふせられています。それは全く構わないというか、この映画ではグロ描写は別に必要ない。それでいい。しかし、その分だけ二人の会話から生まれる熱にもっと傾注しなくちゃいけないし、そのためには二人の正体なり本音なりにもっと迫らなくちゃいけない。顔のアップが多いのに、二人の深い部分が見えない。せめて、男のほうはそれをすべきだったと思うんです。エレン・ペイジの謎さはキープしてもいいけれど、男のほうはもっと明かしてほしいわけです。

 二人の駆け引き、どっちが攻めるか守るかの揺れというのは確かによくできていて、その部分のサスペンス感はあります。そこはいいのです。そこがいいのでこの映画はそれでよし、ということもできる。一方で、もったいなさも感じます。
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あるいはこれは観る者の年齢、性別等々によって、ずいぶんと見方が異なる映画なのだろうなあとも思います。たとえばこのエレン・ペイジと同世代の少女が観たら、パトリック・ウィルソンは単に悪い他者でしょうから、ある種の痛快さを得て終わるかもしれません。反面、ロリコン男には胸くその悪い結末でありましょう。十代のアイドルを信奉している人たちに見せるとどよーんとするかもしれません。どちらでもない人間からすると、もっと踏み込んでくれればいいのに、と感じるのであります。
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 ちょっと、「観客のご想像に任せるよ」の部分が多すぎるかなというのが大きいです。こっちは想像したいんだけど、それにしたってもうちょい鮮明にするところがないと想像できないよ、と言いたくなるんですね。

 この映画が自分にはよくわかったぞ、この映画は深い部分でこういうことを言うているのだぞ、というのがあったら教えてほしい一本でございました。
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監督のアホさが炸裂している作品は観ていて気持ちがよいのです。
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 SFというジャンルには興味がありますけれど、ぼくが関心を抱くのは現代の延長上に想像できるような未来もの、その中に出てくるガジェットの数々などのほうで、宇宙戦争的なものにはあまり惹かれず、その方面はガンダムなどアニメのほうがむしろ好きなのです。みんな大好き『スターウォーズ』にもちっとも興味が無く、エピソード4と1しか観ていないような人間であります。

 本作は原作がハインラインの『宇宙の戦士』ということなのですが、刊行されたのが1959年。世界大戦が終わった後の冷戦期、宇宙進出競争が東西陣営で行われていた時代です。 宇宙ものSFが華やいだのはやはりこの米ソ対立、宇宙競争のたまもので、今よりも宇宙に対する希望が大きかった時代と言えましょう。その流れは70年代、80年代まで続き、それが『スターウォーズ』、『ガンダム』の製作、ヒットの要因と言えましょう。両者ともが戦争というモチーフを中核に据えているのも道理なのです。

 そういった時代から離れて97年、がっつりとした宇宙戦争もの映画です。戦争、とは言っても、相手は人間ではなく虫のエイリアン。まったく言語も通じない怪獣みたいな存在です。怪獣ものとして楽しめるところが多分にあり、アメリカSFと東宝映画が出会った、みたいな作品です。
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冷戦も終わってソ連崩壊、ロシアは宇宙開発どころか経済がやばい、という時代でもあるので、その辺の緊張感はなく、とにかくエイリアンをやっつけるぞ、というまっすぐな映画です。ヴァーホーベンの悪趣味を炸裂させるにはちょうどよい内容と言えましょう。
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 ウィキによると、本作はナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』のパロディであるとのことで、劇中の世界は統一政府によって支配されているらしく、ニュース映像も兵隊さん万歳みたいな内容で、軍の人たちの一部はナチスそっくりのユニフォームを着ています(ちなみに上画像の鷲の紋章(ロゴ)はナチス特有のものではまったくなく、鷲マークはドイツの伝統ある国章ですから、ナチスと同一視するのは誤りです)。
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でもそんなことはお構いなしじゃい、政治的な細かいことは要らんのじゃい、という感じで映画は進み、主人公が地球防衛軍みたいなところに属し、敵との戦いに繰り出していくのです。
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 ところで、近頃はアメコミものが人気だし、SF映画も勢いがあるのかなという風に思うのですが(新作追っかけにまったく興味がないのでわかりません)、最近の映画でこんな思い切りのよいシーンはあるのかいな、というくらい、ヴァーホーベンがやりたい放題やっている感があります。
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 なんというか、むき出しなんですね。兵士が死ぬシーンなんかでも、人体が無様に散るんです。これがまあ本当に無様で、滑稽ですらあるのです。どちらかというと、SFとか戦争とかいうより、スプラッターものに近いんですね。感傷とかそんなのはぜんぜんなくて、ヴァーホーベンが「やっちまえ!」と吠えている様が浮かびます。『ロボコップ』とか『トータルリコール』とかでもそうですけど、ヴァーホーベン監督はリアリティうんぬんよりも、「この画おもろいやないけ! どかーんとやったらええねん!」という勢いを感じる監督で、ジョン・カーペンターに似ているなあとも思います。CG加工とか特殊メイクとか照明とか次第によって、もっとリアリティある画にはできるけれど、そんなのはいいんだ、この画がいいんだ、というのを確かに持っている感じがして大変よいのです。
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 活劇的面白さは十分で、主人公が巨大な甲虫の背に乗るシーンなどはPS2『ワンダと巨像』のような快楽もあるのであり、敵の虫が大群をなして襲ってくる様はあほみたいでこれまた面白い。
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 正直なところ、この映画はもうそっち押しがんがんの映画です。そもそもあの星に歩兵隊で攻め入るところが戦略としてどうなのやというのがあります。核ミサイルとかをがんがん打ち込んだほうがいいんじゃないかと言いたくなりますが、そんなのは知らないんだ、白兵戦のほうが盛り上がるんだからそれでいいんだ、現に面白いだろう、という力押しが圧巻です。原作だともっと説明があるのでしょうけれど。
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 反面、戦争パート以外はヴァーホーベン監督はそんなに力を入れてないんかな、と感じるところもあります。軍に入隊した若者たちの日常みたいなパートとか、恋愛パートみたいなのがありますが、そこはもう別にそんなにあれです(何なのだ)。しかしそんな中でも攻撃型演出健在で、たとえば戦争訓練のシーンで上官が新兵を締めるくだりはやっぱり少しやりすぎたりするんです。
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 あと面白いのは、新兵たちがシャワーを浴びるシーンですね。男女が普通に同じ場所でシャワーを浴びている。これはまあ、未来の世界では性差とかそんなのはないのだ、的なことなのかもしれませんが、どちらかというと単純にパイオツサービスなんじゃないかという気もします。
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 思いついたままにだらだら書くいつものスタイルで続けますが、ラストはラストでちょっとイってる感じの終わり方ですね。普通この手の、戦争で味方ががんがん死んで、艱難辛苦乗り越えて敵をやっつける映画の場合、主人公はラストには疲労困憊、心身ぼろぼろで任務を成し遂げたりするものですが、この映画では敵の巨大な虫を捕獲したら、みんなで取り囲んで勝ちどきを上げるんです。やったぞー、さいこーみたいな。死んだ人をほとんど顧みることもないままに笑顔なのです。しかもナウシカのオウムに似ているボス虫の口が、明らかに女性器に似ているし。最終的にそこに棒をぶち込むし。
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 そんなこんなで、ほとんどアホ丸出しで爆走しているところが魅力的な作品であります。監督がやりたい放題やっている映画、という感じがする作品は(本当はもっとやりたかったのでしょうけれど)、観ていて面白いものです。
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タイトルが逆説的に照らし出す、世界の複雑さ。
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 多視点・時系列ばらしものといえば90年代のタランティーノが最も有名であろうと思いますし、近頃の日本映画では内田けんじ監督などが注目を集めているわけでありますが、この方式には確かにパズルが組み合わさるような快楽があるのでして、伏線の張り方なども多岐に富むため、ぼくはわりと好きな手法ではあるのですが、『21グラム』は一種独特の感覚を残す映画でありました。
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 ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロが軸を担い、それぞれの物語が展開していきます。時系列通りに言うと、デル・トロがナオミ・ワッツの家族をひき逃げしてしまい、彼女の夫が脳死状態になり、心臓病を患っていたショーン・ペンに心臓移植が行われ、三者の人生が交わっていく、というような話です。今述べたのはあくまでも骨子の部分のみで、それ以外の部分なども含め、時系列をばらした形で話が進みます。
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 かなり細かく裁断されているので、ぼうっとしているとよくわからなくなりそうな映画でもありますね。その点で、観る者に緊張を強いるつくりとも言えます。あまりひとつひとつのシーンをじっくり長く続けたりもしないんですよ。で、こちらはこちらで何か時間的な仕掛けがめぐらされているのでは、と思ったりもするので、身構えを崩せずに観ることになります。気楽に映画を楽しみたいな、という人にはぜんぜん薦めません。
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 時間軸をばらす手法を取り入れた意味について、宮台真司は以下のように述べています。
「時系列を寸断する意図はあまりにも自明である。他でもない『特別な困難さえ無ければ…』というリグレットを効果的にキャンセルするためだ。」(『<世界>はそもそもデタラメである』より) 

 これはどういうことか。反対に時系列を寸断しなかった場合を考えてみるとわかりやすいでしょう。もしも時系列通りに、わかりやすく話が進行していたらどうか。ひき逃げ事件とそれが引き起こす事件の連鎖を時間の通りに映せば、「あの出来事によって運命が狂った」「あの事件さえなければ平穏でいられた」という感覚がどうしても観ている側に生まれる。しかし、世の出来事はそう単純ではないよ、というわけです。
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 ぼくは常々、「人間万事塞翁が馬」という感覚を持っているので、この辺の感じがよくわかります。何がよきことで何が悪いことなのか、それはまったくわからない。そしてもうひとつ、時間は確かに因果関係を生み出し、ぼくたちはその中で生きてはいるけれど、その因果関係とてまた自分の意思や境遇ひとつによるものではなく、他者との連関の中に存在するということ。こういう感覚を内在させて観ていると、わかりにくい話ではまったくないのです。
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 えてして映画というのは、登場人物への共感によって話を理解することができるし、自分に引きつけて観ることができる。いちばんわかりやすいのは正義と悪の二元論的な話で、正義の主人公に肩入れして観ることによって、彼が悪を打倒していく様を観ることによって、観る者はカタルシスを得るし、世界観を安定できる。
 多くの映画は観客が主人公に感情移入することで、その物語を共有するという形式をとるわけです。
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ところがこの映画はそれをキャンセルする。細かい裁断によって、観客は十分な移入の機会さえも与えられないわけです。そして同時に、題材が題材であるだけに、他の時系列ばらしものの多くが持つようなパズル的快楽、それによるエンターテインメント的な愉快さとも距離が置かれている。世の中の複雑さを描き出すための優れた形式であるとぼくは思いました。
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タイトルの『21グラム』というのは、ウィキに依りますと、「20世紀初期のアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが行った、魂の重量を計測しようとした実験に由来する。」そうです。なんでも、人は死ぬ瞬間に体重が21グラムほど軽くなるのだそうで、それが魂の重みなのではないか、というようなことが言われたりしたようです。

 このタイトルは逆説的に映画を照らすように思います。21グラムという単語から率直に連想できることは何かといえば、「定量的で、軽量」ということです。静的で、数字で示すことができて、なおかつ実に小さなものに過ぎないですね、21グラム。

 しかしこの映画で起きることはそれとは真逆です。まるで計量不能だし、単純化できないし、些細なことではあり得ない。時系列をばらすことでより、そうした世界のありようが見えてくるわけです。 
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 具体的な中身、詳細に入れずにいてあれなのですけれど、なまじ立ち入ると大変なのです。なにしろいろいろと繋がっているわけで、易々と切り出せないところが大きいのです。

 ひとつだけわりと輪郭のはっきりしたところを言うなら、デル・トロのくだりです。彼はかつてはやさぐれきった男だったようなのですが、福音派に入信しており、地元の不良にも神の意思を説くような人間になっています。彼は清く生きようとしていたわけですね。ところがそんな彼がひき逃げを起こしてしまう。これは神という、いわば「世界を単純化するための装置」をも溶かしてしまうような設定です。彼はもしかしたら神を信じずに生きていれば、それはそれで幸せだったかもしれない。清く正しく生きて「いなければ」、あのひき逃げを起こさずにいられたかもしれない。清く正しく生きていなければ、あんな風に深い後悔の念に襲われずにいられたかもしれない。ただ、そんなことはすべて今となってはありえないイフに過ぎない。

 世界の複雑さを照らすために、神を信ずる男を入れたのは大変効果的であったなあと思います。そして彼は彼で別に、根っからの信仰者じゃないところもポイントですね。それ以前のまったく別の生を想像させる設定にしたのも、奥深いところでありましょう。

「人間万事塞翁が馬」、この感覚を常日頃持っていると、しっくり来る映画なのではないかと思います。そうでない人は、これまたまったく別の映画ですが、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』あたりと併せて観ると、世の捉え方が一回ぐちゃっとするような感覚を得られるのではないかと思います。この辺で。
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叙情も感傷も、何の救いにもならない中で。
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映画というのは多くの場合、自分たちの価値観や生活を相対化して捉えさせるものでありますが、アフリカを舞台にしたものだとその感覚をいっそう強く抱くのであります。
 リベリア内戦を題材にした少年兵の話ですが、こういうのを見ると、ああ、日本とは本当に生ぬるく、そして幸福な国であるなあと感じます。また、少年兵という存在は紛争の起こる限りにおいて、おそらく絶えようのないものなのだろうなあとも思うのですね。

 複数国間での戦争であれば、もっぱら国の軍部によって統率された正規軍によって戦いが行われるものですが、内戦となるとそうはいかない。なにしろ政府軍対非正規軍、レジスタンスの争いになるので、普通の民間人が戦争を始めてしまう。その中で、子どもという存在も駆り出されてしまうわけですね。いや、というより、子どもや十代の若者たち自身が、進んでそこに身を投じていったりするわけです。日本のアニメその他では、十代の若者が戦いに身を投じるような作品が何かと人気になりますが、実際にそんなことをしたらこんなことになるぞ、というのがよくわかるお話です。
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 タイトルの『ジョニー・マッド・ドッグ』とは映画に登場する少年の呼び名で、彼らは仲間内でニックネームをつけて呼び合っています。「ノーグッドアドバイス」とか「バタフライ」とか「プッシーキャット」などと言い合っている。これなどはキャラ好きの日本人からするとどこか格好よく思えたりするし、ギャング的なものへの憧れを惹起するし、コードネームのような華々しさを帯びても聞こえますが、劇中、それとは違う背景がふっと語られますね。彼らはそもそも自分のしっかりとした名前を持っていなかったりする。いつしか集団の中に入り、自分を示すアイテムや何かを見つけ、それを名前にする。裏を返せば、彼らが名前を持てるのはただ、その集団の中でのみのことでもある。これは少年兵を考えるときに重要なことなんじゃないかと思います。あるいは家族から引き離され、強制的に加入させられる者もいる。そのとき、新たな人格を否応なく付与されてしまうわけです。
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彼ら少年兵は劇中、悪逆の限りを尽くします。冒頭からいきなり、田舎の村を政府軍のスパイ呼ばわりして虐殺し、強奪し、街に人影を見れば見境なく因縁をつけ、場合によっては殺す。なんてひどい奴らなんだ、と思うのは簡単だけれどそうではない。彼らにとっては、それこそが自分の存在を承認してくれる行いなんですね。日本の十代の若者でもある意味では似たようなところがあるのでしょう。不良的な集まりだったら、悪いことをするのが格好いいみたいになったり、それで根性があると見なされて尊敬されたりするわけです。その点ではまったく遠いものではない。
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 ただ、少年兵の場合が深刻なのは、彼らがそれ以外の承認手段を一切持っていないということです。なにしろ国はぐちゃぐちゃ、教育も麻痺し、道徳を得る機会など与えられていない。そして安穏としていたらいつ殺されるかわからない。だから被害者にならないためには加害者になるのが最善の方策。そう信じるしかない。そんな中で一人だけいい子ちゃんになることはできない。そんなことをしたら自分も殺されるかもしれない。そうやっているうちにいつしか、自分の行動に疑念を持たなくなる。

 輪を掛けて深刻なのは、彼らを利用する大人によって、彼らが承認されるという構造です。教育者のいない中で、「おまえは政府軍を殺せばよい」「政府軍を殺せば一人前」「そうすれば幸せになれる」と教わり、麻薬をもらって快楽を覚えてしまえば、もはや抜け出すのは至難でしょう。思考力も心的規制も弱い十代だからこその直情さも相まって、彼らは何のためらいもなく戦渦のうちに飛び込んでいくのです。

映画に登場する少年兵たちは、なんと実際の元少年兵なのだそうです。彼らは幸いにして渦の中から抜け出せたわけですが、現実問題として、そこから抜け出せないまま大人になっていく人も数多いのでしょう。そうなってくると、その人たちがまた次の世代の少年兵を生み出したり、内戦の火種を大きくしたりを繰り返していく。アフリカ映画が放つ、「アフリカという場所のどうしようもなさ」を思います。
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 この映画には日本や欧米の映画のような感傷がありません。ジョニーとは別の映画の軸として、一人の少女が出てきます。映画はこの両者を追っていく構成なのですが、この少女はいわば内戦の一方的な被害者で、住処を追われてしまうのです。
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 彼女には両足をなくした父親がいるのですが、彼がどうして両足をなくしたのかは語られない。そして彼女には母がいないようなのですが、それすらも顧みられることはない。まるで、そんなのはありふれたことであって、ひとつひとつの事情を物語るまでもないというかのように説明が省かれているのです。彼女には幼い弟がいて、彼を引き連れて逃げ出すのですが、彼とはぐれてしまいます。そして、このエピソードも結局は未回収になるのですが、少女が感傷に浸るような描写はない。
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「叙情など贅沢品に過ぎない」と言ったのはキム・ギドクですが、この映画はその言葉を地でいきます。叙情も感傷も、何の救いにもならない。ただ、状況に対処することで精一杯。彼らは自分の内面を語る言葉すら満足に持ってはいない。だからこそ、見ている側はひとつひとつの背景を想像することになります。
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 この映画にはまともな救いが何一つありませんし、カタルシスもないです。ですが、この映画はそのような結末を迎えるよりほかにないし、物語が終わったかのように見せるならばそれは欺瞞でしかないでしょう。実に真っ当な終わり方だと思います。ぼくたちの生ぬるくて幸福な生活を相対化させる作品として、観てもらいたい一本でございます。
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