カテゴリ:洋画( 259 )

叙情も感傷も、何の救いにもならない中で。
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映画というのは多くの場合、自分たちの価値観や生活を相対化して捉えさせるものでありますが、アフリカを舞台にしたものだとその感覚をいっそう強く抱くのであります。
 リベリア内戦を題材にした少年兵の話ですが、こういうのを見ると、ああ、日本とは本当に生ぬるく、そして幸福な国であるなあと感じます。また、少年兵という存在は紛争の起こる限りにおいて、おそらく絶えようのないものなのだろうなあとも思うのですね。

 複数国間での戦争であれば、もっぱら国の軍部によって統率された正規軍によって戦いが行われるものですが、内戦となるとそうはいかない。なにしろ政府軍対非正規軍、レジスタンスの争いになるので、普通の民間人が戦争を始めてしまう。その中で、子どもという存在も駆り出されてしまうわけですね。いや、というより、子どもや十代の若者たち自身が、進んでそこに身を投じていったりするわけです。日本のアニメその他では、十代の若者が戦いに身を投じるような作品が何かと人気になりますが、実際にそんなことをしたらこんなことになるぞ、というのがよくわかるお話です。
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 タイトルの『ジョニー・マッド・ドッグ』とは映画に登場する少年の呼び名で、彼らは仲間内でニックネームをつけて呼び合っています。「ノーグッドアドバイス」とか「バタフライ」とか「プッシーキャット」などと言い合っている。これなどはキャラ好きの日本人からするとどこか格好よく思えたりするし、ギャング的なものへの憧れを惹起するし、コードネームのような華々しさを帯びても聞こえますが、劇中、それとは違う背景がふっと語られますね。彼らはそもそも自分のしっかりとした名前を持っていなかったりする。いつしか集団の中に入り、自分を示すアイテムや何かを見つけ、それを名前にする。裏を返せば、彼らが名前を持てるのはただ、その集団の中でのみのことでもある。これは少年兵を考えるときに重要なことなんじゃないかと思います。あるいは家族から引き離され、強制的に加入させられる者もいる。そのとき、新たな人格を否応なく付与されてしまうわけです。
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彼ら少年兵は劇中、悪逆の限りを尽くします。冒頭からいきなり、田舎の村を政府軍のスパイ呼ばわりして虐殺し、強奪し、街に人影を見れば見境なく因縁をつけ、場合によっては殺す。なんてひどい奴らなんだ、と思うのは簡単だけれどそうではない。彼らにとっては、それこそが自分の存在を承認してくれる行いなんですね。日本の十代の若者でもある意味では似たようなところがあるのでしょう。不良的な集まりだったら、悪いことをするのが格好いいみたいになったり、それで根性があると見なされて尊敬されたりするわけです。その点ではまったく遠いものではない。
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 ただ、少年兵の場合が深刻なのは、彼らがそれ以外の承認手段を一切持っていないということです。なにしろ国はぐちゃぐちゃ、教育も麻痺し、道徳を得る機会など与えられていない。そして安穏としていたらいつ殺されるかわからない。だから被害者にならないためには加害者になるのが最善の方策。そう信じるしかない。そんな中で一人だけいい子ちゃんになることはできない。そんなことをしたら自分も殺されるかもしれない。そうやっているうちにいつしか、自分の行動に疑念を持たなくなる。

 輪を掛けて深刻なのは、彼らを利用する大人によって、彼らが承認されるという構造です。教育者のいない中で、「おまえは政府軍を殺せばよい」「政府軍を殺せば一人前」「そうすれば幸せになれる」と教わり、麻薬をもらって快楽を覚えてしまえば、もはや抜け出すのは至難でしょう。思考力も心的規制も弱い十代だからこその直情さも相まって、彼らは何のためらいもなく戦渦のうちに飛び込んでいくのです。

映画に登場する少年兵たちは、なんと実際の元少年兵なのだそうです。彼らは幸いにして渦の中から抜け出せたわけですが、現実問題として、そこから抜け出せないまま大人になっていく人も数多いのでしょう。そうなってくると、その人たちがまた次の世代の少年兵を生み出したり、内戦の火種を大きくしたりを繰り返していく。アフリカ映画が放つ、「アフリカという場所のどうしようもなさ」を思います。
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 この映画には日本や欧米の映画のような感傷がありません。ジョニーとは別の映画の軸として、一人の少女が出てきます。映画はこの両者を追っていく構成なのですが、この少女はいわば内戦の一方的な被害者で、住処を追われてしまうのです。
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 彼女には両足をなくした父親がいるのですが、彼がどうして両足をなくしたのかは語られない。そして彼女には母がいないようなのですが、それすらも顧みられることはない。まるで、そんなのはありふれたことであって、ひとつひとつの事情を物語るまでもないというかのように説明が省かれているのです。彼女には幼い弟がいて、彼を引き連れて逃げ出すのですが、彼とはぐれてしまいます。そして、このエピソードも結局は未回収になるのですが、少女が感傷に浸るような描写はない。
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「叙情など贅沢品に過ぎない」と言ったのはキム・ギドクですが、この映画はその言葉を地でいきます。叙情も感傷も、何の救いにもならない。ただ、状況に対処することで精一杯。彼らは自分の内面を語る言葉すら満足に持ってはいない。だからこそ、見ている側はひとつひとつの背景を想像することになります。
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 この映画にはまともな救いが何一つありませんし、カタルシスもないです。ですが、この映画はそのような結末を迎えるよりほかにないし、物語が終わったかのように見せるならばそれは欺瞞でしかないでしょう。実に真っ当な終わり方だと思います。ぼくたちの生ぬるくて幸福な生活を相対化させる作品として、観てもらいたい一本でございます。
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夢見るじいさんのロードムービーってのは、素敵ですなあ。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

アンソニー・ホプキンス主演で、実在したバイク乗り、バート・マンローという人のことを題材にした映画です。「インディアン」というのはバイクの車種のことであり、マンローは1000cc以下のオートバイで世界記録を樹立した人なのだそうです。
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 特に男の場合、十代後半くらいからバイクに興味を持つ人というのも世間には結構多いようなのですが、ぼくはぜんぜんでした。ぼくが人生の中で最もバイクに近づいたのはむしろ幼子の頃、仮面ライダーに熱狂していた時代であって、この映画ではあのライダーのようなエンジン音がとどろいていて、なんだか懐かしくもあったのでした。
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 ホプキンスは世界記録を夢に見て旧式バイクの整備にいそしむのですが、この辺はちょっと『グラン・トリノ』っぽくて好きでした。このブログで『グラン・トリノ』を評したのは日本公開時のことで、その頃はぜんぜんよさがわかっていなかったんですが、いやあ、読み返すと不明を恥じるというか、「若かったのう」というような記事であって、見方が成熟してからやっとわかるような映画というのは、やっぱりあるのですね。自分も日に日におっさんへと近づいていくわけですが、そうなればなるほどおっさん映画への思い入れも強くなるのであって、ホプキンスがぼろ小屋で旧式バイクを大事にしているのを観ると、ああ、このおっさんの人生がここにはあるのだなあ、という風に思えてくるわけです。
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で、彼はニュージーランドにいるので、記録レースに参加するためにアメリカに渡るのですが、その道中の様子がロードムービー、まさしくこれぞ一期一会という案配で描かれていきます。ニュージーランドからアメリカに来たおじいさんがアメリカで右往左往する、というのがなかなか面白くて、個人的にはおかまの人との一期一会が好きでした。あとは地元の暴走族連中が餞別をくれるところですね。この映画に出てくるのはほとんどみんないい人ばかりですけれど、まあこの映画ではそれでよいのです。
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 ロードムービーというジャンルが基本的に好きなのですけれど、それはなぜかと考えてみるに、それが人生のメタファとして映ってくるからなのでしょう。人生は旅にたとえられるものですが、ロードムービーのつくりは、他の種類の映画よりも、人生に近いんです。そのこころは、「何が大事で、何が大事じゃないかはわからない」。そして、「一寸先がどうなるかは、まるでわからない」ということですね。そしてアメリカ映画というのは実にロードムービーがよく似合う。
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 その目的として、記録レースに出るわけですが、ニュージーランドからはるばるよく来たね、ということでもてはやされます。一方で、彼のバイクは旧式で笑いものになるくらいなので、「こんなんじゃレースには出せない、死んだらどうするんだ」という主催者側の意見も出てくるんですが、彼は「死んだらそれも本望」という気概で、終始明るく振る舞います。こういう生き方には格好良さを感じます。「ここで死んでも悔いはない」という瞬間に出会うために、人は生きていくのかもしれません。ホプキンスのバイクが最後に横転し、彼の片足は熱のために大やけどを負うんですが、その瞬間の彼の満足な表情を見よ、ですね。
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 深い話ができなくて恐縮ですけれど(なにしろ映画評を書くモチベーションが大幅に下がってしまったのです)、とてもよい映画だったと思います。
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 さて、今回をもちまして当ブログは数ヶ月間ほどお休みいたします。どれくらいの長さになるかわかりませんが、短くとも涼しくなるまでは更新がないことと思われます(恵比寿マスカッツにビッグニュースがあればそのときは別です。恵比寿マスカッツ主演の映画ができたら即論評します。誰かつくれ)。映画以外の出来事、実際の世の中の出来事のほうに興味を奪われているのが今年に入ってからずっと続いていることで、今は劇映画自体をもうほとんど観ようとさえ思わなくなっているのです(リクエストをいただいて刺激をもらったわけですが、結局のところ、続けてもなあ、という感じになりました)。まあ、今回でやめるぞ、というほどの覚悟もないし、別に言い切る必要もないのですが、ともかくしばらくは戻ってこないのです。コメントいただけたら返事はしますが、映画の話をされてもノリが悪くなってしまうであろうことをご了承くださいませ。

というわけで、しばしのお別れ。
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表層の部分ではなく、彼の思想について考え出すと、ぼくたちは無辜なのかという不安が生まれる。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Rampage』
 このパッケージだとハリウッドアクションっぽく見えてしまうのですが、ぜんぜんそんなのではなく、世間でいうところのいわゆる「パラサイトシングル」が大量無差別殺人を行う話です。歴史上でも、現在の世界でも実際に起こっている出来事の類ですが、それをさらに大規模にしたような内容です。

 ウーヴェ・ボルという監督のことはぜんぜん知りませんでしたが、なんでもゲーム原作の映画化などをしてその出来により大変な不評を買い、かなり嫌われている監督でもあるようです。ただ、この映画についてはそんなに悪くないというか、作品の出来それ自体は十分飽かずに観られるものだったと思いました。時間も90分に満たないし。
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 常識的な感覚で観たら、唾棄すべき類のものだと思います。なにしろまともに自立しようとしない若者が自家製アーマーを着込み、ただただ街の人々を殺しまくるのです。しかも、追い込まれて精神的に錯乱しているようなわけでもなく、俺は自分なりの思想をもってやっているんだぜ的なところが輪を掛けて腹立たしいのでありまして、しかし腹立たしさを覚えさせるということはこの映画がそれなりによくできていた、ということでもあるわけです。
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 ドイツ・カナダ制作ということですが、アメリカの田舎が舞台です。主人公は人生がうまくいかない多くの人間がそうであるように、世間に対して鬱屈を抱えていて、「行動を起こしてやる」みたいなことで大量殺人に走るんですね。まず最初に警察署を爆破したところがミソで、それによって街の治安機能を麻痺させ、やりたい放題に殺しまくるわけなのです。

 あんなうだつのあがらないやつがあんな爆薬をつくれるのか、警官の銃が効かない一方で身軽に動けるあんなアーマーは軍隊でも持っていないんじゃないか、そうした装備一式を取りそろえて銃まで所持するその金をいったいどこから調達したのか、街の中にも銃を所持している人はいるだろうのにあまりにも主人公にやられ放題じゃないか、などといろいろ思うところもあるわけですが、「こいつはどこまでやるつもりなのだ?」と思わせつつ殺人の限りを尽くすので、先が気になるのですね。こいつがむかついてならないのですが、それもまた引っ張りになるわけです。スプラッタ系の猟奇殺人ものだと、まだ一人一人の被害者の残虐描写に時間を割いたり、そのインパクトに頼ったりするわけですが、この映画だとなんとも軽々しく人々が殺されてしまう。その点に、この映画の持つ不快さの鍵があるような気がします。
 
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 殺人鬼なりなんなりが出てくる映画って、変な話、まだ安心できるのはその殺人鬼が「狂っている」あるいは「人格を持たないモンスター化している」からなんですね。でも、この映画の主人公は自分なりの考えを持ってしまっている。それはつまり、人の命をなんとも思わず、むしろ「人口を減らせば長期的に見れば世界のためになるじゃん!」という口実を見つけてしまっているということです。この映画で軽々しく無辜の人々が殺されることと、彼の考えは一致しているわけです。彼は命をなんとも思っていないどころか、むしろ積極的に減らすべきだと考えている。
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 もちろん、そんな思想を受け入れられるわけはない。端的に言って、物事を単純化しすぎた頭の悪いやつです。しかし、現実として、こういう物事を単純化して自分を正義とみなす馬鹿、というのは相当数いるのでしょう。ぼくは彼が虚構的な存在に思えなかったんです。というのも、たとえばぼくと彼の間に、どんな垣根があるのか?
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 おいおい、穏やかじゃないぞ。

 いやいや、違うのです。ただ、こう考えてみましょう。
 彼は顕在的大量殺人者ですが、じゃあぼくたちは果たして、まったくの無辜と言えるのか?
たとえば、タイムリーな話題で恐縮ですが、生活保護受給の問題でいえば、仮に受給要件が厳格化されたり、給付水準を引き下げたり、資格のあるはずの人がもらえない事態が発生するなどした場合、その結果として死に至るケースが出た場合、厳格化を推進した人、その方向性に賛同した人は、果たして無辜なのか? そのとききっと、そんな人は現場に責任を押しつけるという行動に出るでしょう。自分は悪くない、自分は国や地方の財政を健全化させる必要があると思って賛成しただけだうんぬんと言うでしょう。さて、本当に無辜なのか? いや、もしかすると、「自分には責任がないと言えるくらいに間接的な形で」人の死に関わっているんじゃないか?

言い出せばいくらでもきりのない話です。どんな戦争であれ、その戦争を支持した人々は、他人の死に対して何の責任もないのか? 戦争が始まれば兵士は死ぬ可能性が十分にあるし、その戦場となる場所の一般市民にもまず間違いなく犠牲者が出る。戦争が何なのかわかっていればそれは当然織り込み済みのはずで、そのうえで戦争を支持することは、殺人への関与ではないのか?
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 もちろん、支持した市民が法的に裁かれることはない。あってはならない。自衛のための戦争というものだってあるし、相手を殺さなければ自分が殺される局面というものも考えられる。一概に言える話じゃない。ただ、一概に言えないからこそ、まったくの無辜という立場が取れるのか? という疑念が生まれる。
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 長々と映画から離れて恐縮ですが、彼の思想はまったく現実には存在しない、虚構的なものだとは言い切れない。程度の差こそあれ、自分たちの利のために相手のことなど案じない、という生き方は、たびたび選択されている。そして場合によっては、それが合法であるがゆえに、たちの悪いものなのかもしれない。

 回りくどいようなので、刺激的な文言で短く言ってみるなら、「ぼくたちは皆、潜在的な殺人者じゃないのか?」ということです。たとえばぼくたちが持っている財産を半分でも貧しい人に寄付すれば、その人は死なずに済むかも知れない。ぼくたちが消費を増やせば景気がよくなって、生活保護うんぬんの世知辛い話も吹き飛ぶかも知れない。でも、それはできない。なぜなら、「自分には自分の生活があるし、今後の経済がどうなるかもわからないし、自分の財産を人に譲るなんてできない」からです。つまり、人は自分のことでせいいっぱいなのです。しかしこれは言ってみれば、カルネアデスの板です。自分の命を守るために人を見殺しにしても罪に問われない。自分の生活の満足のために、社会に無関心でいても罪にはならない。そのときぼくは思う。ぼくたちは所詮、浮くための板を必死で守ろうとしているだけじゃないのか? その横で死を迎える者を自分のために見殺しにしている潜在的殺人者じゃないのか?

 こうしたことを考えていくと、「人類のために人口を減らすよ」という彼の究極的な思想を、果たしてどのように否定できるのか? 実はこれは『逆襲のシャア』におけるシャアの思想でもあるんですね。地球の人類は愚かしくも地球を破壊し続けている。制裁が必要だ、という彼の思想に通じているのです。その話をし出すともう収拾がつかないのでやめます。

 表面的に観れば、鬱屈した糞みたいな奴の大量殺人映画、まったく胸くその悪い作品、ということはできる。しかし、その背後にある(たとえ馬鹿げているとしても彼が語る)考えを聞くと、はて、と思い悩んでしまうところがある。これは政治哲学的な領域にも踏み込んでしまいそうな話なんです。虐殺は最悪だ、と言いつつ、国家は戦争を散々繰り返してきたわけです。

 なんだよ、もっと映画の中身についてレビウをしろよ、と思われたらすみません。この前にも述べたとおりに、ぼくは今、映画について、「あのシーンはいいよねー」的話よりも、こういうことを語りたくなるのです(だから休止するのです)。映画なんてのは観れば誰だって感想の一つくらい出るものなんですから、それはあなたが勝手に感じればよいこと。ぼくはそこから映画外に踏み出したくなってしまうのです。

 まあ、そんなところなのです。
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以前観たときはわからなかったのですが、今観るとよくわかるんです。
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ヨメンさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ずっと前に観たときはぜんぜんぴんと来ずにいたのですが、そのときは集中して観ていなかったらしく内容もかなり忘れまくっていて、あらためて観てみればなんとも味わいのある作品でありました。やっぱり、年齢やら知識やらによって、映画の見方というのは変わってくるものなのですね。観る機会を与えていただきありがたく思います。

『ガタカ』のスペルは「Gattaca」で、DNAにおける基本塩基四つの頭文字を組み合わせた造語です。劇中では主人公の勤める会社名を指しています。
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 この映画の世界では遺伝子診断がものすごく発達しており、男女の産み分けや出生前診断は当たり前になっているのですが、イーサン・ホーク演ずる主人公はその種の診断を受けずに生まれており、寿命が30歳前後であろうという過酷な運命を担っています。
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 そうした遺伝子診断は職業選択にも大きな影響を与えております。彼は宇宙開発の会社に勤めているのですが、そこは遺伝子的に、まあ言ってみれば「優等」な人間でない限り、入れない場所なのです。しかしなんとか宇宙に行ってみたいと願う彼はその種のプロにお願いし、優等な遺伝子を持つ人間に接触し、その人になりすまして会社に入るのです。
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 映画自体はアクションがあるわけでもなく、めざましく未来的なガジェットに溢れているわけでもなく、近未来的なオフィスの中が舞台の、まあどちらかといえば地味な作品でしょう。だからSFと聞いて『スターウォーズ』とか『トランスフォーマー』とか、宇宙の戦艦がやってきてどんぱちみたいなのをイメージする人にしてみれば、娯楽性に乏しく映るかも知れません。昔のぼくはそういう風に思ってあまりちゃんと観られていなかったんですね。でも、今のぼくにはこの手の話のほうがずっといい。この映画は宇宙開発時代の話なのに、宇宙のビジョンはほとんど出てこない。星空がせいぜいです。でも、それでいい。それがいいのです。
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 お話としては、主人公が任務として憧れの宇宙に行くまでの間に、彼の身分詐称がばれてしまうのではないか、という「なりすましもの」的どきどきが引っ張りになります。なにしろ髪の毛一本から即座に身分が割れかねない状況なのです。彼は垢が出ないように毎朝体を丹念にこすったり、キーボードの埃をこまめに掃除したりを繰り返し、とにかく気を遣い続けます。ところがそれが至らずに彼の「不適合な」身体の欠片が発見され、さあ、どうなるのか、ということなのです。
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 構造としては、歴史上でもたくさん発生してきたことに近しいです。差別があって、主人公は身分を偽って暮らしていて、でもそれがばれそうになって、というものですから、たとえば黒人奴隷が脱走して市民として暮らそうとしているとか、ユダヤ人がナチスに隠れて暮らしているとか、キリシタンが幕府に隠れてイエスを崇めたりとか、そういう対・差別のなりすましもの。しかしそこに遺伝子や宇宙というわかりやすく未来的な要素を入れてきたことで、スタンダードにして新しい作品になっている。
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 ただ、遺伝子による差別、というのは何も新しいわけではなくて、実を言えば黒人差別ってそういうことですね。黒人としての遺伝子を持つ人を、その形質によって差別しているわけですから。だからこれはきわめて古典的な差別問題を扱っているとも言える一方で、それが今後の社会で何かの形で起こりうるのではないか、という想像もさせてくれます。
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 もちろん、今後の社会で、遺伝子そのものによって社会的な被差別を受けるということはまずないでしょう。しかし、ゲノム研究がさらに進んでいけば、この映画のように出生前診断による産み分けが広がることは十分に予測できる。いや、というか、既に起こっている。「出生前診断」でググればそんな例はいくらも出てきます。これは今後の社会における非常な難題です。胎内の子どもを検査したら高い確率で難病になる、そういう遺伝子を持っているとわかった。さて、生むべきか、中絶するか。これはもう、ちょっとやそっとで語れるテーマじゃないです。ぼくは今のところ、回答を避けるほかありません。

企業にしても、優秀な人材を募りたいと思ったら、その種の検査を取り入れるところが出てくるかも知れない。法的に規制を受ける可能性は高いですが、技術が進んで時代が移り変われば、たとえば健康診断で遺伝子診断の結果を出しなさいと言われることもあるでしょう。そこで「30歳で難病発症率が高い」などということがわかり、それが就職や役職に影響を与えるなんてことも、十分考えられる。NASAが「最も現実的なSF映画」に認定したのもわかります。
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 この映画の優秀は、宇宙開発といういまだ不確定要素の大きすぎる分野については、周到に言及を避けているところです。それはあくまでも背景、遠景としての機能にとどめている。それはあくまでも未来と主人公の希望の象徴とするにとどめ、彼自身の物語に焦点を当てている。いや、ここが宇宙であることもまた肝要なのでしょう。劇中、下半身不随の男が出てきて、主人公は彼と取引をすることで「適正な」身分を手に入れるのですが、主人公が彼に向かって言うのです。「宇宙に行ったら、車いすを使わなくてもいいんだぞ」と。これはこの映画の影を大きくする一言です。地球は重力に縛られている、たくさんの規則や、障害や生まれ持った差別に満ちている。しかし、宇宙はそうじゃない。なるほど、見えました。主人公が宇宙に惹かれた理由にも説得力があるというものです。彼はどうしようもない差別を帳消しにする場所として、宇宙に惹かれていたのかも知れません。この映画における宇宙は、未来を表す背景だけではなかったのですね。

 そうなると、他方、海というものもまた意味をなす。そこには社会的差別はない。遺伝子が何だ、自分のほうが泳げるんだ、という主人公の兄への対抗心。彼にとって、宇宙や海はとても意味のあるものだったわけです。
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 がちゃがちゃした要素がないので、物足りなさを感じる人がいるかもしれません。ほら、映画って、がちゃがちゃした要素に面白みを覚えたりもするものじゃないですか。だからそういうのがほしい人向きではないかも知れないけれど、必要なこと、この映画で表せることを過不足なくやっていると思いました。あの殺人事件はその中でもやや過激すぎる出来事ですが、物語を進めるうえでは意味があるし、おかず機能も担っていたのでしょう。
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 以前にはちゃんと味わい切れていなかった作品でしたが、あらためて観て良さがわかりました。これはリクエストいただいたからこそのことでありまして、ありがたく思います。最後の医者のくだり、ぼかあ、好きですねえ、うむうむ。

 この映画はですね、なんというか、グミとかファンタが好きな子どもには薦めませんが、塩辛いつまみとともにウイスキーを飲む良さがわかるような人には、わかると思います。ええ、お薦めいたします。
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昔のコメディの上品さ。戦時中にこれがつくれる余裕。
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井上luwakさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 原題『To Be or Not to Be』
 今回で450件目の記事を迎えた当ブログでありますが、今日までにリクエストいただきました作品、今回分を含めた残り4本を持ちまして、一度お休みしようと思います。近頃の記事の傾向でもおわかりの通り、ぼくはここしばらくずっと、映画それ自体について語るよりも、映画から読み取れることを考えたいと思っているのです。つまり、映画以外のことを考えたりする時間をもっと取りたいのです。ここ数ヶ月のぼくの興味はざっくり言えば政治、経済、国際情勢、歴史、哲学、政治哲学、テクノロジー、社会などのほうに向いておりまして、これからもそちらのほうでもっと知識を蓄えたり、考えを深めたりしたく思うのです。ゆえに、あと4本でこのブログは当面お休みします。短くとも9月くらいまでの間は更新しなくなると思います。読者の方には申し訳ないのですが、とりあえず、ご報告までに。
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 さて、『生きるべきか死ぬべきか』です。
第二次世界大戦初頭の頃のお話で、ナチス侵攻を受けたポーランドが舞台のコメディです。こうした種類の映画というのは当世ほとんど観られないものですね。今ではナチスというものが既に散々語り尽くされたか、もしくは映画でも散々に利用され尽くしたようなところがあるし、映画内における悪の組織としてデフォルメされたりしている。一方で、歴史的な評価は極悪の権化として固まっているわけで、あまりライトな描き方もできないし、おそらくされるべきでもない、という状況でしょう。
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 この映画は1942年公開でナチスばりばりの頃ですが、まだ歴史的な評価も定まっていないとあって、風刺的な意味合いが強く残っているものであります。しかし、えらい時代といえばえらい時代ですね。悪逆の限りを尽くすナチスが実在している一方で、「ハイル・ヒトラー」のあの敬礼をギャグっぽく描いている。ルビッチはドイツ出身らしいのですが、どういう目線でこの映画をつくったのか、気になるところです。前にも書いたことですが、戦時中にこういう映画がつくれるアメリカには、そりゃあ勝てないわ、と思わされます。チャップリンの『独裁者』もそうですけど、本当にやばかったらこんな映画はできないでしょうし、こういうものを娯楽映画の中でつくりこんでしまう余裕がすごいです。ヨーロッパと地理的に離れているというのも精神的要因かも知れないけど、それにしても、じゃないですか。
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 冒頭からわかりやすいギャグを入れ込んできますね。掴みとしてもグーなのです。これはコメディだぞ、というのがばっちりわかって、掴みはオーケーです。ナチスの芝居をしている人たちが「ハイル・ヒトラー!(ヒトラー万歳!)」の敬礼を交わすのですが、それがまた機械的で、ヒトラーの芝居をする人は「ハイル・マイセルフ!(自分万歳!)」と返したりする。構造も細部も面白さを蓄えているんですね。
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 で、コメディの常道であるところの「なりすまし」をフルで用いている。で、なりすましものはやっぱり、ばれたらやばい、ということが必須になるわけですが、この映画ではナチスが敵に当たるわけで、なりすましのハラハラ感がいちばんわかりやすく効いてくる。なりすましものとはつまりスパイものですが、チャップリンの『独裁者』とともに、これはその後の映画の、ひとつの教科書になっているんじゃないでしょうか。

考えてみると、ナチス潜入以上のスパイものってのはなかなかつくりがたいところがあるようにも思いますね。スパイ大活躍時代と言えば冷戦下でしょうけれど、あくまで冷戦状態ですし、この時代のナチスほどの迫力はない。そのうえで深刻にも描けるし、あのわかりやすい制服やしるしによって、コメディ的にも用いることができる。ナチスというのは最悪の集団なんですが、一方では映画の実りにおいてきわめて重要で、映画は娯楽メディアとして、ねじくれたもんをもっているなあと思ってしまいます。うん、ナチスやヒトラーという存在は、ちょっとやそっとじゃ語れない側面を持っているんですね。
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今の時代で映画を作るとなると、どうしても規模をそれなりに見せようとしたりなんなりされてしまいますけど、この時代のこういう映画は人々のやりとりだけを簡潔に描きますね。その中でいかに密度を上げるか、という方向になっている。これは映画として美しいと思います。昔のコメディが持つ上品さって、あるよね。と言いたくなります。余計なショットも小ネタみたいなギミックも、しゃらくさいサプライズも過激なブラックジョークもない上品さというのが間違いなくあって、変な話ですが、昔のもののほうがずっと洗練されていると感じることが時として確かにある。1930~40年代をハリウッド黄金期と位置づける人がいるのもわかるような気がします。もちろん、映画はいろいろな要素をその時代に応じて取り入れていくわけで、たとえばANCは古くさくなったハリウッドのスタジオ製映画に反旗を翻して生まれたわけで、その後も特撮やCGなどで映画は百花繚乱の時代を迎えたわけですが、ことコメディにおいては、昔のもののほうが構えずに素直に笑えることが多いのです。
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 そうした流れが映画の中で潰えた、わけでは決してないとは思うんです。それほど観ていないので詳しくは言えないのですが、いわゆるラブコメはまだ昔のコメディの伝統が息づいている部分じゃないかなとは思うのですね。そう考えると、日本ではもっぱらOL層をターゲットにしていると思われる「邦題が十文字以上系」ラブコメなども、もっと評価されてしかるべきものなのかも知れません(ただ、観ていないし、しばらく劇映画を観る気もないので、その辺はあくまでも印象論です)。
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 ああ、また今日も細かい内容について踏み込んだレビウをしなかった。いや、まあ、映画の内容なんてものは観ればわかる話なんで、いちいち文章化する必要もないんじゃないかと、そんな風に思ったりもするのです。ドイツのポーランド侵攻、とかについて話したらいよいよ映画のレビウじゃなくなってしまいますし、映画の外形、古い映画の印象などをだらだら語るより今はないのです。古い映画はどうも、という人は、コメディから観始めるといいのではないでしょうかね。とりあえず、そんなところであります。
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彼は彼だけにできる仕事を果たしたのです。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 アカデミー賞作品ですね。わりと賛否が分かれているのでしょうか。英国王の史実に基づくものですが、歴史的事実に違いがあるんじゃないかなんてことも言われているようですし、英国王室という題材が題材だけに脚色にも気を遣うところがあったのでしょう。時は第二次世界大戦前、というきわめて政治的に不安定な時期を舞台にしており、それがゆえに評価が分かれる部分もあるようです。

 イギリス史や英国王室史に明るくないので、その辺のアレへの深い言及はまったくできぬのですけれども、まあ行きましょう。主人公はコリン・ファース演じるイギリス王ジョージ6世、劇中では即位する前の時期から描かれます。彼は吃音症を抱えていて、大事なスピーチの席でもうまく声が出せない有様。それをなんとかするのじゃい、というような話と、王位継承時のあれこれが描かれています。
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映画の時代は1930年代後半、戦争前夜のきな臭い頃合いですが、政治的な話は後半までほとんど出てきません。ジョージ6世が王としてスピーチをちゃんとできるのかどうか、に焦点が当てられています。
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 これはこの映画の作りとしては正しいと思います。というのも、王にとってスピーチはとても重要な行為だからです。裏を返すと、外国との政治的な駆け引きに王は参加できない。それは当然首相をはじめとする政治家の仕事であって、王が口出しすることではないわけです。「君臨すれども統治せず」なわけです。
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 ではなぜ王室が重要なのかと言えば、それは国家の権威の象徴、国家の伝統を代表するものとして大切なわけで、求められるのは威厳です。だからこそ、スピーチがとても重要になる。特にテレビもなく、ラジオしかない時代ですから、その存在を国民に示すうえではある意味今以上にスピーチが大事。劇中でもヒトラーが出てきますが、彼がドイツ国民から支持された大きな要因として、彼が演説の名手だったことが挙げられるわけです。実際の政治に携わることができず、それでいて国家の権威を示すべき立場にある王としては、スピーチの正否は死活問題だったのですね。
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 映画では第二次世界大戦の開始に際し、国民を勇気づけるスピーチを放送するところがクライマックスになります。で、スピーチがうまくいってよかったね、ということで話が終わる。宇多丸さんの評のリスナーメールでは、ここを怒っている人もいるようです。今から戦争が始まるってのに、そんなのんきな結論でいいのか、ということのようです。
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 うーん、そこはどうなんだろう、うーん。
 じゃああのときの彼に何ができたのかってことですけど、王には政治的権限なんかほとんどないに等しいわけでしょう? あのとき反戦のメッセージを放っていればよかったのか? 彼の立場ではそれはできなかったでしょう。ナチスやファシスト党のような勢力がばきばき出てきているときに、反戦を訴えたってしょうがない状況があったわけで、その中で彼に尽くせるベストはもはや、スピーチを立派に遂げる、そうしてイギリスの人々を勇気づけることしかなかったんじゃないかと思うんです。それは人々を戦争に駆り立てる行為だ、というかもしれないけど、じゃあどうするんだって。ナチスみたいなとんでもないやつらが明らかに脅威的になっていて、協定結んでも破ってきて、形式上は軍の最高司令官だとしても実質は何もできない王に、何ができたのか。それでも反戦メッセージを訴える? 言うのはたやすいけれど、そんなこと言い出して国に混乱が起きている間に攻め込まれて殺されるぜ?  フランスだけで南北からのファシズム勢力を迎え撃たせればよかったの? イギリスがいたってフランスは占領されちゃったわけで、交戦しないのにも無理があったでしょう。ジョージ6世についての細かい話はそんなに知らないけれど、彼は彼のベストを尽くしたんじゃないのでしょうか。それは今振り返れば異論はあるかも知れないけれど、そのときその時代のその立場の人間じゃないんだから、わからないって。

 王は前線に出るわけでもなく、安全地帯にいるというかもしれないけど、そんなことはないでしょう。国家の威信を背負う立場です。政治家みたいにやめれば済むわけじゃないし、いや、やめることは形式上できたかも知れないけど、父が死んで、その後即位した兄貴が変なやめ方しちゃってるから自分まで立て続けになんて絶対できない。そいつだけが背負っているもんってのがあるわけで、安全地帯でも何でもない。ある意味、最前線です。彼は彼なりに、国家の威信を守るっていう仕事を果たした。その後の戦争うんぬんとは別の話です。
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 もちろんこのときの状況は日本とは無縁ではないし、だから日本人としてこの映画のスピーチにいい評価を与えるのはいかがなものか的なこともわかるんですけど、じゃあ三国同盟を結んだナチスドイツの側に立った映画ならいいのかっていうとそんなわけもないし、むしろこれはどちらの立場でどうのではなく、国家の威信を守らんとして、自分にできることをやり遂げようとした人の話として観たほうが、実りがあるんじゃないですかね。そのとき、吃音症の克服は個人レベルの小さなものではなくなります。死活問題たるスピーチの前に立ちはだかる、大きな大きなものなんです。そういう立場のことを考えることなんて日頃ないわけで、この映画を観た甲斐もあるというものです。国家というものを大事に思う人ほど、この映画の意義は感じられるんじゃないでしょうかね。単に吃音症を克服した感動話だって観るのは、いくら感動したとしても矮小化しすぎでしょう。
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 言語療法士を演じたジェフリー・ラッシュとの掛け合いのテンポよく、飽かずに観られました。実際の細かいところには違いもあるようなんですが、この映画で彼が免許も資格も何もない男として出てきたのはいい対比になりました。彼は第一次世界大戦で、今で言うPTSDを発症した兵士たちの治療に努めた過去があるという話をして、ここなどは権威あるが経験のない王と、権威は何もないが経験のある男のコンビという対照的な関係があってよい。ヘレナ・ボナム・カーターの存在感もちょうどいい。
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 なんか戦争がらみの拙い議論を展開してしまい、聡明な方から叱責を受けそうで怖々しているところもあるのですが、ぼくはこの映画はよいと思いました。映画自体のレビウにしては映画からそれすぎている感もあるやもしれないのですが、映画自体よりもそこから膨らませられることを考えることに今のぼくの力点はございまして、まあアカデミー賞ですしレビウはそこかしこにあるでしょうし、ご勘弁願いたく存じます。
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有名な傑作ですから、語ることがありません。未見の人は読まないように。
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bang_x3よりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。


 原題『Witness for the Prosecution』
「アガサ・クリスティー原作、ビリー・ワイルダー監督の傑作法廷ミステリー」というその一文だけでもうこの映画は済ませてもいいような気もするのですが、そうもいかぬので書き散らしていきましょう、知る人ぞ知る名画、『情婦』です。
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 オチが有名な映画というと、たとえば「ここは地球だったのか!」であるとか、「実はあの人が幽霊だったのか!」とかが最も有名なところで、個人的に好きなのは「真ん中の死体が犯人だったなんて!」とか「すべては過去の映像だったのか!」あたりですが(さて、何の映画でしょう)、本作もそこはまったく引けを取らないですね。だから、難しいですね、これを語れというのはどうも、うーん、やっぱりまだ観ていない人には多少気を遣いたいんですけどねえ、いや、でも、リクエストいただいたbang_x3さんはご覧になっているのでしょうし、もうばらしていきますね。観ていない人は読まない方がいいです。本作に関してはそういう風に言っておきます。はい、もう、ぼくは知らない。すぐ下の行で結末を書きますよ。細かい流れとかもあまりちゃんと書かないから、観てからじゃないと何を話しているのかわからないですよ。



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 簡単に言うと、「おまえ、やってたんかい!」ですね。
これは実にいい線をついています。法廷ものではもうこれ以上簡潔なオチをつけることはできないでしょう。ミステリーのフーダニットものだと、よくあるのが「善意の案内人が実は犯人」とか「探偵の依頼人が実は犯人」とか「信じていた人物が犯人」とか「犯人はヤス」とかがあるわけですけど(あれ?)、本作はその王道をばちっと決めている一方で、観る者の意識をそこには向けない、という惚れ惚れするテクニックでかわしてくるわけです。
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 原作を未読なので映画の話になるわけですが、映画では弁護士のチャールズ・ロートンが主な視点を担うので、観客は無意識に彼を応援するわけです。なんとか依頼人の無実をはらしてやりたいと思う弁護士に移入し、どうやって裁判に勝つか、という目線になってしまう。アル中という設定で、真面目ばりばりでもない太っちょですから、自然と愛らしいキャラクターとして受け入れてしまい、それが自然と、タイロン・パワーを信じることにもなってしまう。持って行き方が大変に巧い。
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物語の常道の逆を行く、というのも大きいですね。やっているはずがない、と自然に思ってしまうし、またそう思いたいという観客の心理がある。タイロン・パワーはそこを二重で破ってくるわけですね。「本当はやってたのか」「そうなんだよ、この妻と組んで、一芝居打ったってわけさ」「愛する夫のためですもの」からの、「でもさ、俺、おまえのこともだましてるんだよね」「えっ!」です。勝つのが到底無理だろうというところからひっくり返して、それがさらにさらに、ですから、気持ちのいいこと請け合いです。
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 今の時代ではもう通用しないような話なのでしょうが、くどくどしいこともなく、観客の興味をずっと持続させ、裁判も二転三転する。これはもうぼくがこれ以上褒める必要がないです。あまり書くことがないと言ってもいいでしょう。どうしようかな。逆にこの映画の悪いところを考えてみても、なんかどうでもいいようなことしか思いつかないし。
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 みんながいいと言っている映画なので、もうぼくは言うことがないんですね。評価の分かれる作品ならやりようもあるし、メッセージのある作品ならそこを読み取ろうと思うのですがそこを突くタイプでもなさそうだし、法律うんぬんについてはまるきり門外漢だし。言うなれば、「評するまでもない。傑作だ」というところです。bang_x3さん、ぼくはいったい何を語ればいいのでしょうかっ(訊いちゃったよおい)。
 はい、普通にお薦めいたしまする。
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表面的な怖さはあるけれど、内面を揺らせる怖さは何もなかったです。
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軍平さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

原題『The Girl Next Door』
 1950年代に実際にあった事件をもとに、ジャック・ケッチャムが原作を書いており、その映画化であります。長い原作を90分に収めるとこんな感じになってしまうのだなあ、というもんがあります。

 隣の家の少女が虐待を受けている、という少年の目線からの話なんですが、前半は不穏感が漂い、母親の強権的な感じ悪さもよく、なかなかよいのではないか、と思ったのですが、ちょっとしょぼしょぼん、としてしまったように思います。
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 隣の家の少女には妹もいて、二人して縁戚から引き取られたような立場で、もともとの家の男子たちや母親からはどうも疎まれている、あるいは男子たちには性の対象に見えてしまう、というところの危うさもあるわけですけれども、描写それ自体で言うと、どうも各人の内面が軽んじられている節が強く、わるもんはわるもんにしか見えず、それじゃあちょっと単純じゃないか、という風に思いました。
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 思春期の男子が抱える危うさ、というのはこの映画でもっと描かれるべきだと思うんですが、それがないんですね。もったいない。そして、虐待に荷担している子供らの逡巡みたいなもんもほとんどない。この映画の構造は簡単で、要はあの母親の怖さに頼っているんです。母親の嫌な感じは確かによく出ていました。でも、深みはない。母親はこれじゃあ単に嫌な奴です。いや、この母親はこの母親で何か辛い過去があって、それでああやって歪んでしまったのだな、とは思うし、ぼくはそこでなんとかあの母親の弁護士になりたいわけですが、これじゃあ彼女の抱えるもんがわからない。嫌な感じは絶品! うん、それはわかった。問題はその奥でしょうということです。そこを観たいのに、何もないんです。野村芳太郎の『鬼畜』を観ましょう。
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 この母親と子どもたちには別々の動機がある。子どもたちは劇中、エロ本を見たり覗こうとしてみたり、体を触りたがったりするわけで、その辺の行為それ自体は描かれる。ただ、それが記号的な行為に過ぎなくなっている。至極残念です。男子たちが寝室に集っているシーンで、「女性の裸体を初めて見た」という話をする。だったら、なぜその瞬間の怖じ気と興奮を描かない? 彼らの表情や目線に間を割かない? そこを描くことで、思春期の彼らが抱えるより危ないもんがあぶりだされたはずなのに。
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 虐待描写の嫌さ、というのは、一個の映画としては十分成立しているものだったと思います。だから、この虐待描写は本当に陰惨たるもんだ、と思う人がいてもおかしくはない。でも、こういう表現は今の時代、本当に難しいと思います。なにしろ、ぼくたちは既に、ネットなどを通していろいろなものを見て、いろいろなものを知っている。実際の凄惨な事件から想像する怖さ、実際の虐待事件の画像から想像する怖さ、そういうものを知っていると、この映画の虐待描写を褒めることはできません。こんなもんじゃねえだろ、と思わされる実際の出来事は、既に世の中に溢れている。それを忘れてこの映画の虐待描写に怯えるほど、もう若くはないのです。
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 で、主人公の少年にしても、この映画の描き方だと、「早く警察に行って匿名の通報をしろ」と言いたくなってしまう。警察に言いたいけど言えない、両親に言いたいけど言えない、そういう要素がないんです。その辺の逡巡が描かれていない。父親と話すときでもそぶりを見せず、「暴力は駄目だぞ」みたいなことを言われてそれきりの始末。
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 この映画はもっとここをこうすれば、というのがわりと多くあります。そしてそこを膨らませることで(あるいは変えることで)、もっと実りあるものになる。そこから読み取れるものもきっとある。でも、それらを捨象してしまっているがために、単に胸くその悪いものになっています。じゃあちゃんと胸くそ悪いならそれはそれでいいのに、そうでもない。この映画で何を映したかったの? 何を語りたかったの? と素朴に疑問です。表面的な怖さはある。だけど、内面を揺らせるような怖さは何一つ感じられなかった。うーん、これは本当、描写の問題です。90分しかないからしょうがない、という風には言えるんですけど、もっと長くていいから、もっと各種の描写を掘り下げてほしい、と思わずにはいられない作品でございました。 
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格好いいのはわかった。それで、何なのでしょう?
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ロキタさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 今年には2もつくられるとのことですが、もともとアメコミにはてんで関心のないぼくとしてはスルーだった本作です。うーん、これはちょっと困りました。

 ぼくはこのブログを続ける中で、自分の映画の見方が確実に変わってきているなというのを感じております。最近はそれがやや極端にもなっていて、要するに「娯楽的に面白いかどうかは、二の次」ということです。極言すれば、娯楽的に面白いかどうかなどどうでもいい。いや、さすがにそれは言い過ぎかとも思うのですが、ぼくにとっていい映画とはつまり、語りがいのある映画、語ることで見えてくるものがありそうな映画、ということなのです。だって、娯楽作品として面白いかどうかなんて、結局個人の感じ方ですからね。説得してどうなるもんでもないし、そこを語ることの意味があまり見えなくなった。そういうのは、他の皆さんにお任せしたいというのが正直なところです。などと言いつつ、かわいらしい女優などが出てきたらどうせきゃっきゃ言うのですけれども。
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 さて、『シン・シティ』ですが、アメコミ原作で、モノクロの中にパートカラーをふんだんに配合しているのが画的な特徴です。これなあ、これはもう好みの問題だろうからなあ。これこれこういう理由で駄目なのだ、とかそういうことでもないんですねえ。
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 メイキングやインタビューなどを観ると、監督のロドリゲスやタランティーノが、「この画は最高にクールだぜ!」みたいな感じで喋っているのであり、まあアメコミの雰囲気を保持する上ではパートカラーとモノクロの多用によって奥行きをあえて欠落させ、人物をマテリアルに際だたせるというのは効果的な手法であろうとは思うのでして、それが「なるほど超クールだぜ!」と思う人には何の文句もないのですけれど、そのクールでヴィヴィッドな表現ゆえに薄さが際だち、あれだけの技巧を凝らしながらも黒澤明が『天国と地獄』で見せた一瞬のパートカラーの鮮やかさ、強さには及ばぬとも思うのであって、結局のところは「お好きな人はどうぞ」というくらいしか言うことがないのです。
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 映像で冒険したり、いろんな表現を試みるのはどんどんやってほしいと思います。そういう中からびっくりするようなもんが生まれてくるのだろうし、その意味でこの映画はがんがん攻めているとは思うので、本当、お好きな人はどうぞ、です。
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 ぼくには合わないな、というのが、ラストの一場面に凝縮されています。
 ブルース・ウィリスが自殺するんですけど、そのワンカットを、なんというのですかね、シルエット風というか、モノトーンの切り絵みたいな感じで表すんです。ああ、これだなとぼくは思いました。結局この映画では、ブルース・ウィリスが生きようが死のうが、ジェシカ・アルバを救おうがどうなろうが二の次なんです。スタイリッシュなビジュアルとして見せるのが最初にあって、その中にいる人々がどうなろうが映画をスタイリッシュかつクールに見せるためのコマに過ぎない。ぼくはそういうものに興味がない。
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 いや、簡単に言うと、趣味の合わないファッションをずーっと薦められている感じなんです。このシャツ超いけてるよね、このジャケットマジ格好いいよね、てかこの靴とかマジやばくね? とずーっと言われているけど、いやあ、趣味が合わないなあ、としか思えない感じ。で、外見が格好いいのはわかったけど、そろそろ実のある話しない? と言いたくなるんですが、え? でもほら、俺むずかしー話とかちょー苦手な人じゃん? てか踊ってたほうが楽しくね? あ、あの娘ちょー胸でかくね? え、マジいい女じゃね? 普通に。みたいな。うわあ、ノリが合わねえ、という。
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 だから、ノリがあった人はそれでいいんじゃないでしょうか。それとも、この映画だからこそ、あの表現だからこそ語れるものが何かあったのか。ぼくの読解力ではそこが見て取れなかった。その意味では惨敗。監督が三人いて、アメコミ原作のオムニバスで、画のクールさに力入れて、で、何が語られたのか? ぼくにはわからなかったんです。教えてください。この映画については、本当に何もわからなかった。あの色にもきっと意味があるのでしょう。それが見えない。いや、意味なんかなくて、単に格好いい色だからとか言うんだったら、もう本当にどうでもいい。ぼくの知識ではあの色をあのように配置した意味がわからない。
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 どうも、馬が合わない作品でございました。どうも申し訳ありません。
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同性愛を考えるよい入り口となりましょう。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回は人種差別にまつわる映画でしたが、奇しくも今度は同性愛差別のお話です。
 タイトルの「ミルク」とは、実在したサンフランシスコの市政委員、ハーヴィー・ミルク(1930-1978)のことです。彼は自らがゲイであることを公表し、同性愛者の人権運動に尽力した人物なのです。同性愛者の人権に関しては、ウィキペディアのLGBT史年表やLGBTにまつわる権利などの記述が充実しているので、そちらを参照してもらえばよいでしょう(LGBTと言われて何のことかわからない人は調べるのがよいでしょう)。

 同性愛差別は人種差別、民族差別とはまた違う切り口が必要となる問題です。それはやはり、トピックそのものが「性愛」というナイーブな部分に重なっているからであり、なかなか語りにくい、語られにくい、というのがあるわけですね。真っ向から語るとまたえらく大変になりそうなので、映画に言及しつつ進みましょう。
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サンフランシスコという場所は当時のアメリカでもゲイの集まりやすい地区であったらしく、ミルクはそこでカメラ屋を営むことにします。次第に広がり、盛り上がっていくゲイ・コミュニティの一方で、ゲイに対して差別的な警官の取り締まりなどに遭遇し、政治的に声を上げねばならぬと思い立ったのです。映画では彼がサンフランスシスコに来てから暗殺されるまでの数年間を描いており、実際の1970年代の風景がところどころに挟み込まれます。
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 ただ、表立って声を上げると、その分軋轢を生むのが世の習いです。それまではひっそりとしていたからいいものの、そんなに堂々とされちゃあ困るんだ、という人たちも出てくるわけですね。同性愛者の権利を認めるか否かをめぐって、政治的なぶつかりが生まれていくのです。
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日本では表立って同性愛差別をするということはないものの、そこは持ち前の「空気」の文化で、公言することもしない傾向が強いんじゃないかと思います。ただ、同性愛を差別することはないものの、じゃあ同性婚を認めているかと言えばこれは別で、欧米の国々は軒並み法律を整備しているのに反し、なかなか議論が進んでいない様子です。これについては地域差を見てみると結構違いがあって、先進国とされる国では同性結婚を認めるか、ないしはパートナーシップ法やシビル・ユニオン法(婚姻とは同等ではないものの、それに付随する権利の一部または大部分を認める法律)があるのに対し、東欧、中南米、アフリカ、アジアは認めている国のほうが断然少ない。まあ途上国の場合は、それ以外に定めるべき法律があったり、あるいはイスラム圏では教えとしてそもそもアウトというのもあるため、同性愛は成熟社会で問題にされること、という性質があるのかもしれません。
 日本でなぜ認められていないのか、まあいろいろな理由があるのでしょうが、最も大きなもののひとつには憲法の問題があるのでしょう。憲法では婚姻について「両性の」合意が必要なものとしているので、同性婚を認めるとなるとここに引っかかります。日本では過去一度も憲法改正は行われていませんので、ここからひっくり返すのは難しいのでしょう。正式な婚姻ではないパートナーシップ法の導入が現実的ですが、議論はあまり進んでいないようです。

一方、アメリカという国はいちいち決めなくちゃいけないんですね。これはアメリカが共同体であるというより、組織体としての性質が強いというのが大きな要因でありましょう。移民が多く、人種も様々。であるとするなら、生き方に関わることは逐一人々の意見を聞いて決める必要がある。だから人々はそのたびに自分の思想を明確にする必要に迫られます。「あなたは同性愛の権利を認める? 認めない?」という問いに真っ向から晒される。そうしたことを繰り返して、自分が組織体の一員であることを国民が意識する。その最たるものが大統領制です。日本にはない作法であります。

長々と映画とそれたようなことを書いているようですが、この映画を観るにあたっては、その辺のことを考えておきたいものなのであります。
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映画の中では、ショーン・ペン演ずるミルクの近辺よりも、政治的な戦いの様子がメインで描かれますね。同性愛者の差別の現場よりも、実際のニュース映像などを交え、同性愛を認めない政治家や有名人の声が対立軸として明確に描かれる。だから、生のやりとりそれ自体から考える種類の映画とは違います。ゲイを特殊なものとして感じさせないつくりがなされているのですね。
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ぼくは彼を追ったドキュメンタリーについては未見で、どういう人なのか細かいところはわからないんですけど、わりと簡単に性的な交渉を持っちゃう感じがしますね、あれはいいんでしょうか、ああいう人だったんでしょうか。最初に出会って長く暮らす相手もすれ違いざまのナンパだし、途中では明らかに葉っぱか何かをやっている感じの若者を連れ込んですぐにやっちゃいます。特に後半の場合は、既に身の回りにも支援者がわりといる状況で、相手がいないってわけでもなかろうに、すぐにやっちゃう。これ、異性愛の映画だったら、なんじゃこいつは、と思われそうです。映画全体が、「同性愛だっておかしな人たちじゃないんだ」という方向に進んでいる反面で、「それにしても軽いなおい」という印象を観客に抱かせてしまいそうですが、どうなんでしょうか。あれは映画的に、ちょっと危ない場面にも見えるんですが、何か他の意味があるのかなあ。
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 ただ、でも、同性愛は異性愛に比べれば、迫害されているのもあって、近しい者に親密さを増すというのはあるんでしょうかね。ゆっくりと慎重に愛を深めるとかいうんじゃなくて、お互いがそうだとわかったらもうオープンに、やることやっちゃえ、みたいな部分もあるんでしょうか。うーん、でもまあそれは人それぞれなのだろうし、うーん。
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実際のニュース映像が挟み込まれるのですが、アメリカは本当にはっきりとものを言いますね。イエスかノーかのお国柄なんてことも言われますが、堂々と「同性愛は害悪!」みたいなことを言うでしょう。今でも「進化論は嘘!」とか言っている人もいるわけですから、なるほどこれはある程度ちゃんとルール決めしないと国がえらいことになるなあ、と思わされます。
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 結局、同性愛がなぜ嫌われるのかっていうと、前回の記事で語ったことでもあるし、劇中でも出てくるけど、それまで抱いていた価値観を揺るがされるからなんですね。人の認識は楽をしたがるものだし、これはよいもの、悪いものと決めておくほうが苦労がない。なので、男は女と、女は男と、それ以外は認めません! と言い切ったほうが絶対に楽で、社会的にもそのほうがややこしくなくてよい、という主張があるわけです。宗教的な理由もそこに足されるわけですね。ミルクを殺した政治家にしても、自分の生活がうまくいかないってこともあるんでしょうが、それまでの価値観を粉々にされたというのがあったのでしょう。
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 前回の人種差別ものもそうですが、この辺の話はそう易々とまとまりがつかないですね。うまいことこの映画の美点であるとか、映画内の話にまとめたいとも思うけれど、どうしても実世界の状況なんかについても触れたくなるし、それを始めるともうだらだらと収拾がつかなくなるし。まだぜんぜん語りきっていないんですけど、これ以上書くといよいよ長くなりそうなので、ひとまずこの辺にさせてもらいます。

 うまく語れるときとそうでないときがあるので、これでいいのだろうかと考えてしまうことが多いです。なので、リクエストしてくれた方もそれ以外の方でも、あの映画のあの場面はどう思った? あの場面について触れてくれよ、と個別に言ってもらうのもぜんぜんありです。しばらくすると細かい部分については忘れてしまうでしょうから、気になった場合はお早めにどうぞ、今日はこれまで。
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