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カテゴリ:アジア( 24 )

これはちょっとやそっとの映画じゃないです。
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世田谷の男さんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

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本当の認識。ぼくたちの認識。
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golow5060さんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

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映画は無力じゃない、ということを教えてくれます。
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コメディとして本当によくできています。記憶をめぐる話としてはもったいなさも感じます。
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毎度、映画について四の五の言うておりますけれども、映画は観る者の成熟度を試すようなところがこれあるのでございます。ある映画を観たときに、面白いつまらないと各々に誰しも感ずるものでありますが、ある映画をつまらぬと感じた場合はその映画の責任というよりも、自分の見識、審美眼、観察眼の未熟さゆえということも、往々にしてあるのでございます。

 などと言って書き出すと、これからこの映画を悪く言う前振りになってしまいそうですが、必ずしもそうではありませんで、とても楽しめたのでございます。しかし、今のぼくよりももっと人生経験を積み、過去が光の中に消え、それが美しく輝き始めるような境地に達しておれば、もっともっと楽しめたであろうなあとは思います。ぼくよりも上の世代の人はきっともっとびしびし来るんじゃないか。80年代に原体験のある人はもっと地肌でわかるんじゃないか、なんてところも多いのでございます。
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 高校時代とおばさんになった現在を交互に描いていくコメディタッチの作品でありまして、軽快なテンポは実に愉快なものでありました。エンターテインメントとしてはとてもよくできているなあと思いますね。七人の仲間たちという設定、離ればなれになった仲間たちを探していくという設定はわかりやすいし。高校時代と現在とでぜんぜん顔が違うな、という配役事情的な部分についても、「整形」を表に出して乗り切る。韓国ならではであるなあと思います。
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全編にわたってテンポがよく、べたべたの部分もよくはまっています。漫画的に頬を赤らめるようなシーンも許せてしまうというか、ああ、そのトーンで行くのね、そっちのほうがいいねと思える。学生運動に巻き込まれたシーンの軽快さは白眉でありました。
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ずうっと楽しく観られるのですが、四分の三くらいが過ぎると、何か引っかかるものがあるなあと感じられてきて、それは何だろうと考えていたのですが、わかりました。うむ、ぼくからすると、「この作り手は屈折していないなあ」と見えたんですね、屈折。

自分がそうだったから、というのが一番大きい理由なのですが、青春期を描いた作品となったときに、ぼくは何らかの屈折を求めてしまうたちなのです。屈折という言葉がわかりにくければ、「思春期のもんもん」と言ってもいい。別に性的なものを意味しているのではなくて、もっとなんというか、自分というものに悩み始める部分とか、しかしそれを言語化できずにうろうろする様とか、社会の歪みとかが見えてくるけれどどうしようもない夜とか、社会なんてどうせこんなもんだと髙をくくってその結果痛い目にあってのたうち回る様とか、そういう部分に「青春」を見るたちなのです。主人公の兄ちゃんやシンナー少女のほうに気持ち的には近いのですね。だからね、「いやいや、青春は楽しかったよ」と言える人は、この映画が徹頭徹尾楽しいだろうと思いますね。それはとても幸福なことです。幸福な人が観るとより幸福になれる映画です。
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 でも、この辺も冒頭で述べた「自分の成熟度」と関わる話でね、長くなるからしませんけど、もっと大人になったらまた違うことを言えるだろうな、とは思うんですね、うむ。

まあコメディが主体ですからね、その辺をごにょごにょ言うのも違うんだろうなとは思いますが、観終えてちょっと経つと、自分とこの映画の間にある大きな溝が見えてきてしまう面はありますね。映画自体について言うと、記憶がわりとみんな一緒に共有できちゃうんだね、というのが気になるところでもありました。
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 あの頃はああだったよね、こうだったよね、という話をするときに、「いやいや、自分はあの頃実はこうだったんだぜ」というのがあると、もっと深まるのになあとは思ったんです。時間が経ってわかることというか、時間が経ってるからこそ語れること、そういうのがあまりないんじゃないか、というのは気にかかった。わっかりやすい話で言うと、同窓会で出会った男女が、「当時、実はおまえのことが好きだったんだぜー」「えー、ぜんぜん知らなかったー」的なことって、あるじゃないですか。当時としては秘めたる思いを口にできず、布団の上でのたうち回った日々なのに、今となればあっさり言えちゃうよね、ぼくたちも年をとったね、的な時代の彼我。そういうもんがね、深まらないんですね。過去という美しい箱の中はしっかりと安定している感じ。それはぼくの求めているものと違ったんです。あるにはあるんですけどね、ハンサムな好青年とのくだり。でも、そういうところはわりと記号的なんですね。
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コメディのテンポを保つ以上、負の側面を記号的に処理するのはわかるんです。たとえばあの、ハンサム青年とクールビューティ・スジの逢瀬を、主人公が発見してしまうところですね。なんであんな、『殺人の追憶』なら完全に殺されているであろう林の中を歩いているんだ、ということは、言ってはならないのですね。負の部分はディレクターズカット版で入っていると宇多丸さんが言っていましたが、そこを切るのもわかる。それくらい、コメディとしてはよくできているんで、うむ、これはこれでいいわけですね。
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しかしそうと知れた上で、あえて二点ほど申し述べると、あのクールビューティ・スジに関するところです。
 仲間たちが楽しい日々を過ごして、連帯感ばりばりなんです。でも、スジはいつでもすかしているというか、一人だけテンションが低いんです。こういうキャラ付けはいいんです。というか、この映画のキャラ付け自体には何の文句もなくて、とてもよいのです。
 ただね、キャラ先行のところが強いんです。平たく言うと、なんでスジがあの面々とつるんでいるのか、どうもわからないところがあるんです。一匹狼っぽいおまえが、なんであんなハイテンションガールズと一緒にいるのだ? と言いたくなります。電車の中でも一人離れているんです。すかしすぎなんです。『リンダリンダリンダ』の香椎由宇もすかしていたけれど、しっかりチームの一員でしたし。
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 だからね、あのキャラの場合は、「ああ、こいつはこいつで感情表現がうまくはないけれど、ここにいるのが楽しいんだなあ」というのがほしいわけです。そういうツンデレな部分がないと、どうもこいつの話が終盤で重みを帯びない。で、さらに言うと、もしもその設定で押すのなら、あのシンナー少女のくだりはちょっと違うんです。
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「普段は何も言わない、仲間っぽくもないやつだけど、こいつは誰よりもチームを愛しているんだなあ」感が必要なのです。そしてそのためには、あのシンナー少女を圧倒するとか、クールに追い詰めるとかじゃなくて、熱いところを見せなくちゃなんです。圧倒的に不利な状況、でもチームを守るために戦うんだ的な展開があってこそ、あの寡黙キャラはもっともっと活きるのです。そのほうが、一員である感が絶対もっと出るのです。美貌で押すより、そっちのほうがいいと思うんですよねえぼかあ。
 まあ、それは好みの問題なのかもしれませんがね、はい。

でねえ、うーん、ラストですね、はい。この映画はね、ラストでメンバーの一人が死んでしまうんです。でも、そのメンバーは大金持ちで、友人たちに多大な遺産を残しているんです。ここはね、別にいいんです。結局金でハッピーエンドかい! などと言って、わりとここを突く人もいるようなんですけど、それは別に構わない。うん、この多幸感のある映画であれば、しんみり終わるよりもあれでいい。あのラストだからこそ、ダンスが活きるんです。だからあれはあれでいいのです。

問題はその後です。なぜ、おばさんになったスジを映したのです!
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この映画はおばさんになった主人公が旧友たちを集めていく話なんですけど、一人だけ見つからない仲間がいて、それがかつてのクールビューティ・スジです。で、ずっと見つからなくて、本当の最後の最後に、やっと出てくる。仲間たちが再会! というラストですね。
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ここはねえ、スジを映さないほうがいいと思いませんか? 知らないおばさんなんですよ、言ってしまえば、観客にすれば。観客にとってのスジは、あの若かりしクールビューティなんです。だからぼくは終わる直前、ああ、これは出さないほうがいいな、と明確に思った。でも、結局出しちゃった。あれはね、きっと、主人公の笑みで終わっていいんです。
 ぼくが求めたのはこういうラストです。五人がダンスを踊る。スジが来ないまま終わるのかと観客は心配する。で、誰かが部屋に入ってきたのがわかる。しかし正体は映さないでおく。そのまま主人公の顔にパンする。主人公が笑う。観客はそこで、「あ、来たんだな」とわかる。エンドロール。

このほうがいいと思うんです。ここがこの映画で一番残念なところでした。
ワンカットのあるとないとで大違いです。というのはね、あそこで観客の想像に対して開いたまま終わると、そのまま観客はその感情を持ち帰れるんです。で、学校を卒業してから会っていない友人に、各々が思いを馳せることができると思う。あいつ会っていないけど、今どんな感じなんだろう、どんなおじさんおばさんになっているんだろうと、顔を想像できる。わかりますかね? スジの顔を映さないからこそ、現実の観客個々人の記憶を、揺らすことができたはずなんです。この「想像に対しての開かれ」。それをあのラストは供給し得た。なぜそれをやらなかったんだろうと思ってならない。

 映画はとても面白かった。反面、「あれ? この監督はこんなに記憶を揺らしうる題材を描いておいて、記憶というものにそれほど興味がないのかな? 思想がないのかな?」と思うところがあります。それが感じられれば、ぼくはこの映画を激賞していたかもしれないのですがね。

 結構書きましたね。この辺にしておきましょう。ちなみに、かつての友人たちが集まる作品で言うと、ぼくが好きなのはジブリの『海がきこえる』です。あの作品がまた、観たくなりました。そんな感じで、今日はこれまで。
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美容整形について思うところ。映画自体は面白く観ました。
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 鈴木由美子の漫画が原作だそうですが、設定や内容はそれとはまるきり違うものなのだそうです。それならオリジナル脚本だと言い張ってもよさそうなものですが、「いや、もともとはあの漫画から着想したので」ときっぱり表明しているのはとても潔いですね。その姿勢は映画の内容とも通じていると思います。整形美人になる主人公のお話です。

韓国の整形文化については広く言われていることですが、ぼくの考えとして美容整形に肯定的か否定的かと言われれば、一応は肯定的であると申し上げましょう。というより、論理的に考えたときに、美容整形を否定することはできなくなるからです。一席ぶちましょうか。

 まず、前提として、人は顔の美醜で人を判断してしまう生き物だということです。この社会において、その前提に疑義を呈することはできません。現に顔の美醜によって人気者は生まれ、化粧品市場は潤い、経済は動いているのですし、顔の美醜によって恋愛問題は生じるわけです。美醜の問題は、たとえば貨幣経済がそうであるように、人間という存在にとって絶対的なものではない。しかし、貨幣経済がそうであるように、現代の社会から切り離すことはできぬものなのです。

外見によって人は人を差別します。美人はもてはやされ、不美人はそっぽを向かれる。男の場合もそう。それがどの程度に露骨であるか、個々人の価値観や考え方によってもちろん度合いは異なりますが、人はどうしても外見で人を差別するのです。こと、恋愛などという場面においては特にそうでしょう。拭いがたくあるものです。

 であるならば、なぜ不美人は美人によって、いつまでも富を収奪され続けなくてはならないのか。なぜ不美人は美人との生来的格差を是正してはならないのか。過激な物言いをするならば、整形の否定とは、被差別者をいつまでも被差別的境遇に置いておいて構わないとする、きわめて危険な思考だとも言えるのであります。

 ここまで言うと、いやそんなことはないと思われる方もおられましょうが、ではお尋ねしましょう。あなたは対人関係において、こと恋愛の局面において、顔の美醜を価値基準としてまったく設定していないと、本当に言えるのでしょうか。もし言えないとするなら、あなたはまさしく美醜による差別心を持っているわけです。美男美女から迫られたら受け入れるけれど、醜男醜女なら受け入れない。これは差別なのです。

 それを悪いと言っているのではなく、先に述べるとおり、人はそういう生き物なのです。だから、被差別者が被差別的境遇から抜け出そうとする投資を、否定することはできないのです。その否定はほとんど人権の侵害行為なのです。

それでもなお、「いやいや、自分は一切外見で差別しない。顔の善し悪しはまったく価値基準にない」としたうえで、整形を否定する人がいるかもしれません。しかし、それは自己矛盾です。外見や顔がどうあろうと人を差別しないということは、他人の顔に一切のこだわりを持っていないということです。顔の形に一切こだわりを持たないのに整形を否定する、これは矛盾そのものです。だって、どうでもいいわけでしょう、顔というもの自体に何の興味もないわけでしょう、だったら否定する必要がないじゃない、という話です。

まだ書けます。こうしたぼくの考えに対して、「親からもらった顔に」云々、「顔はその人の人生の履歴書であってそれを変えるような考え方は」云々という道徳的アプローチで反論することも可能です。しかし、そんな意見に対しては、「それはおまえの個人的な感覚だろう」で終わりです。社会的に、道徳的に、というのならば、批判すべきは整形をする個人ではなく、この社会です。美醜によって人を判断するという、人間が持つ動物的、非理性的価値観を温存する社会。それに対しての反論ならばわかる。そういう人は整形を否定しても意味がないので、「社会の皆さん、顔の美醜で判断するのはやめましょう」と呼びかけるべきなのでしょう。

 かような理由をもちまして、ぼくは整形に肯定的です。

 と、言いつつも、ここで立ち止まる。社会的評価に対して、顔の美醜が占める割合が大きくなれば、人々の知的ありようは変化してしまうのではないか。わかりやすく言うなら、整形や美容のために掛けるコストの分だけ、他の方面への知的涵養、感性的涵養は果たされなくなってしまうのではないか。そういう危惧があります。現に、日本の書籍市場における売れ筋はダイエットや美容の本。これが日本の大人たちの興味なのかと思うと、やはり憂いたくはなる。その点では、整形に対する疑問符が取れない。

ここに矛盾がある。個人にとっての幸福の追求は、決して社会全体の成熟を意味しない。個人個人がよきものを得ていったとき、社会がよき場所になるとも思えない。
 何も難しい話じゃない。人を見た目で判断するな、と言いつつ、ぼくたちは人を見た目で判断する。その矛盾を常に既に抱えている。

整形を肯定する場合には、この矛盾に対する内省が必要なのであろうと思います。

 さて、やっとこさ映画に入ります。
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 この映画は「歌はうまいけどデブでブスな女性」が全身整形を施し、美女に生まれ変わるという筋立てです。歌はうまいけど外見がアレなので、美人な歌手の「ゴーストシンガー」として歌い続けている女性が、イケメンプロデューサーへの恋心から整形を決意し、持ち前の歌唱力で堂々と表舞台に立つのです。
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 コメディテイストの本作。笑い自体はベタベタです。怒っていた人が相手が美人だとわかるや態度が豹変したり、美人になった主人公に見とれて男がバイクから転げ落ちたり、整形前と別人だと思った友達がまったく気づかずギャグになったりと、結構ベタベタなんです。音楽の使い方もえらい古いなーと思うくらい、その辺はもう古典的な感じです。ただ、見せ方、間、切り取り方が上手なので、素直に面白く観ることができました。ストーリーラインでも伏線の機能がしっかりしているので、感心するところ多々です。
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 整形美人ものって、わかりやすくサスペンス構造です。ばれるんじゃないか、はらはら、という引っ張りが効くので、物語の緊張感も持続できる。くわえて、途中でライブシーンのような盛り上がりも入れている。とてもうまいバランスです。劇中、主人公がBlondieの「Maria」という曲を歌うのですが、Coccoのようでもあり、ぼくのヘビロテになりました。

 語りたい場面が多いのですが(いい映画の条件ですね)、ぼくは美人になった主人公に一目惚れした、出前持ちの男のくだりが好きです。彼は彼女をつけ回して盗撮をしているのですが、それを彼女の恋人である音楽プロデューサーに見つかってどやされます。しかし、その恋人を彼女は制するんですね。「好きな相手に近づきたくても近づけない気持ちがあなたにわかるの?」みたいなことを言って。ここはいいなあと思いました。彼女はかつて自分がそうだったから、いわゆる恋愛弱者の気持ちがわかるわけです。ともすればストーカーを肯定するようなシーンでもありますけど、かつて弱い立場にいたからこそわかってやれることがある、というのを示す点、非常によかった。
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 これね、整形美人でいい気になって、ファンの男を鼻にも掛けないみたいな冷たい態度をとらせることもできるんです。簡単に言うと、「外見は綺麗になったけど心は……」みたいにすることもできる。外見重視の話だとそっちに行きがちなんじゃないかとも思う。でも、そっちにはいかなかった。えらいっ。あのシーンはそういう意味でも重要な場面なんです。
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さて、なりすましサスペンスではその正体を暴こうとする敵の存在が大事で、この映画ではかつて主人公の歌声を利用していた、いわば「もうひとりの嘘の歌姫」的な女性が出てきます。彼女は主人公が消えてしまい、ゴーストシンガーがいないとあって窮地。そこで主人公を怪しみ、いろいろと仕掛けてきます。
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 この人がねえ、悪者になりすぎてしまっている部分もあって、でも、そこは仕方がないのかなあ。主人公を応援させるにはこいつを悪者にするのは仕方ないか、うーん。こいつはこいつで可哀想なんですよある意味。外見は整形で何とかなるけど、歌の才能はなんともならないとあって、そこでの問題も含んでいる存在なんです。ただ、そこまで丁寧に描くと話の軸がぶれるし、難しいですね。悪者としての役割はしょうがないところでしょう。
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ネタバレ警報。ういーん。

 最終的に、主人公はスターの位置に上り詰めるのですが、満員の聴衆を前に、整形を告白します。その要因が痴呆のお父ちゃん。お父ちゃんとのくだりがもっと濃密でもいいかな、そのほうが効果的かなとも思う一方、あれを最後のきっかけに持って行ったのは好きです。自分を偽り続ける限り、お父ちゃんを大切にできない。そんな生き方をするくらいなら、この地位を捨てたほうがましだというシーン。
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 で、この映画がさすが韓国だなというのは、その後も彼女はスターであり続けるんですね。整形でもいいじゃないか、と明るいエンディングになる。ここは韓国的態度ですねえ。日本はいまさら『ヘルタースケルター』を映画化して、整形の悪イメージを保持したりしているけれど、なんと向こうの国の映画ではラスト、不美人の友達が「私も全身整形する!」と言い出して終わるんですから。

 前半長々とぼくは「整形肯定論」を述べましたが、それは「整形推奨論」とは違います。ですので、ここまで整形ばりばりサイコーの終わり方で来られると、おお、そこまで言うのか、韓国はすげえとこまでいってんな、とびびったりもするんですが、安易な否定論的結末に比べれば百万倍マシです。アンチもいる、というのを最後に示してもいるし、その点のバランス感覚があります。

ただ、書きながら思いましたが、整形肯定論とは言っても、40代、50代、60代となるとちょっと別ですぼくは。その年までなったら、「美醜から解脱しろよ」あるいは、「20代、30代のような顔!とか言って若さにしがみつくなよ」とは思います。その年ならその年なりのものを磨けるんちゃうんか、と言いたくなります。それが知性や感性の成熟というものでありましょう。うん、若さにしがみつく整形は嫌ですね。それは美醜とはまた別の問題です。ショウビズの世界での整形はぜんぜんオーケーだと思います。

なんかどの辺からコメントが飛んでくるかわからない記事になってちょいとびくびく。ご意見もお待ちしておりますよ。
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韓国的闇づかいも十分な娯楽作。韓国映画の充実期を示すひとつの好例。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

ぼくは劇場に行かないたちなので、皆さんより遅れて話題作を観るわけですが、公開時にはツイッターのTL上でも結構賑わっておりましたね。しかしまあ、タイトルのアジョシというのは「おじさん」みたいな意味らしいのですが、韓国映画がときどきやるこのほとんど投げやりみたいなタイトルは逆に面白いですね。『グエムル 漢江の怪物』も原題では単に「怪物」だけらしいし、『シークレットサンシャイン』も(別の意味合いを引っかけているのかもしれないけど)単に地名の「密陽」ですから。『息もできない』にいたっては「糞蠅」です。

 さて、おじさんというにはいささか格好よすぎるウォンビンが主演のバイオレンスアクション映画ですが、これは娯楽作品としては言うことなしでいいんじゃないでしょうか。個人的には映画の娯楽性というものへの感度が鈍っているのですけれど、アクションシーンの迫力とか細かい部分の見せ方とか、日本映画との差を感じてなりません。

 ただ、今の日本でこういう映画を撮れるかというと、映画産業うんぬんとは別に、社会状況的に難しいというのもあるでしょうね。日本的成熟、いい意味でも悪い意味でも落ち着いている日本にあっては、なかなかこの映画のような題材から話を作っていくのには無理がある。以前レビウした『スプリング・フィーバー』でも述べたアジア的活気。とりわけ韓国の場合はいまだ地続きの北国と緊張状態にあるとあって、暴力表現にも生々しさが宿りやすいのでしょう。アジア的生々しさが随所にあります。警察がどやどや踏み込んできているのに、ばばあがラーメンをすすって睨みつけたり。
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 この映画に限らず、韓国映画でよく観られる風景として、近代的な風景と土着的な路地の落差、というのがありますね。一方では金持ちがプール付きの豪邸で女性を侍らせたり、クラブで踊り狂ったり、最新の携帯機器を使いこなしているかと思えば、日本では昭和の映画でしかお目にかかれぬような汚くて薄暗い、古い家屋の建ち並ぶ路地があったりする。これは欧米の映画でもなかなか観られぬ類のもので、日本だと今度は寂れた田舎っぽいほうに振れたりしてしまう。ひとつの物語の中に、都市の中に新旧が入り混じり合う風景は、映画にとって大きな財産でしょう。だから、いずれ開発が進めば、韓国映画にも今のような土着さは多分出せなくなる。その意味で韓国映画は幸福な時代をいまだ保持していると言えましょう。
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 映画に入っていくなら、闇づかいが実によい、ということです。あの闇はもう欧米も日本も醸せない類じゃないかと思わせる。家の中の、生活臭にまみれた空間に映える暗がり。あれは韓国映画の強み、大きな武器です。今の日本映画にはほとんどできない。それは映画制作力どうこうではなく、時代的に日本は既に、あの暗がりに説得力が宿らなくなっている。ああいうものを観るにつけ、「日本映画は韓国映画に比べて駄目ね~」的言説は(過去にぼくも述べてしまっていることですが)、映画を単純に論じすぎているという気がしてくる。社会状況の問題と併せみて論じるべきなのでしょう。ポン・ジュノ監督が言っていた意味がわかります。
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 ああいう風景が、血みどろ劇に厚みを持たせるんだと思う。またそれますが、南アフリカを舞台にした『第9地区』で、バラックに住むエイリアンたちがやけに実在感を帯びていたのもそこで、個々の出来事や存在はその風景との調和で説得力を左右される。韓国映画ではあの薄暗い土間、何が潜んでいるかわからないような路地、ああいうものを背景にすることで、血しぶきひとつとっても見事な画になるのです。だから逆に、明るいシーンだと日本映画みたいな薄さが出ていたりもする。一人の男を拷問する場面があるんですけど、あれは大手の日本映画っぽくて、虚構性が際だってしまう。でも、気になったのはそれくらいです。
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 いつになったら内容に触れるんだ、最近のおまえはいつもそうだ、と言われそうですが、いやあ、だって、ウォンビンが格好いいとかそんなのは、もう散々言い尽くされているでしょうし、いいじゃないですか。そういうのが読みたい人はどうぞ「ウォンビン格好いいよねーレビウ」をお巡りください。
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 内容に触れますと、別段物語自体には目新しさはないのです。ウォンビンがキム・セロン演じる少女を救い出すために頑張る話です。骨格自体を切り出しちゃうと、この映画の魅力はちゃんと伝わらないんじゃないでしょうかね。敵はわかりやすすぎるくらいわかりやすい悪役ですし。でも、あんなわかりやすい悪役、誰がどう見ても悪い奴を出してくるってのも潔いなあと思いますね。なにしろ臓器売買のために平気で人さらいをして人殺しをして、子どもに覚醒剤の合成か何かをさせて、ほとんどショッカーの域です。でもそこまで行くのもあっぱれな話です。いや、それが適当な感じだったら駄目ですけど、悪い奴は徹底して悪いのだ、という風に持って行くのは、いまどきなかなかできるもんじゃないです。そこに子どもをもろに絡ませている露悪趣味はさすがの韓国映画節です。
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 で、昔の東映映画みたいな、宿命のライバルテイストもちょっと入れてくるんですね。あれなども面白い。敵の組織に腕利きがいるんですけど、こいつは最後にあるひとつの大事なことをして、そのうえでなおウォンビンと対峙する。絶対有利の状況なのにあえて銃を捨てて、ナイフで挑む。これはなんだか時代劇っぽいじゃないですか。まさしく『用心棒』ってな案配です。組織とかどうでもいい。おまえを倒すほうが大事だ、というね。
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 演出の細部は好きなところが多いし、全部は語れませんね。これは観た人それぞれ、何かしらあるんじゃないでしょうか。ぼくがいいなと思ったのは終盤です。ウォンビンが敵のボスを追うんですけど、敵は車に乗って逃げようとする。このとき、ウォンビンは銃で車を狙うんですけど、ちゃんとタイヤを狙うんですね。ここはえらいです。ぼくが銃と車の出てくる映画でいつも疑問に思うのは、「なぜタイヤを狙わないんだ.車体ばっかり狙うんだ」ということで、逃げる車の的確な狙撃目標はやっぱりタイヤでしょう。で、相手の動きをちゃんと止めるわけです。
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 その後もよい。敵のボスは防弾ガラスの車に乗っているから、銃で撃っても殺せないと。そうしたときウォンビンは、あくまでガラスの一カ所を執拗に狙うんですね。考えてみれば当たり前のやりかたですけど、この執拗さがいい。地味で実効的でよい。これ、敵が車からうぎゃーとか言って逃げ出すより、はるかにはるかにいいじゃないですか。

結末・ネタバレーション警戒速報。結末に触れます。

 最後はどっちでもいいと思った。死んでしまっているでもありかなと思った。そしてそれは映画としてすごいと思って観ていました。この映画の場合、最後に少女を救えても救えなくても、どちらでもいける。ただ、やっぱりちゃんと救ったほうが絶対に収まりがよくて、あの腕利き用心棒にも深みが出る。韓国映画のことだから、あの目玉は本当に少女のものだ、みたいなえげつなさで攻めてくるかとも考えましたが、そこはかわしておいていいところですね。ちゃんと終わってよかったと思います。

 これはいいんじゃないでしょうか。けなしどころはあるでしょうかね。細かいところをつついていけば何なりとあるでしょうけど、そこに気を取られるのはもったいないと思います。お薦めいたします。
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個人的にはさほど、とはいうものの、ぼくより年長者の世代にはもっと感じ入るものがあるのかも。
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ヨメンさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 中国映画です。リクエスト作品は本当にいろんな国に分かれていて、それだけでも面白い現象であるなあと思います。今回までに取り上げたのはイタリア、フランス(合作でベルギー)、オーストリア、香港、日本、アメリカ、そしてまだイギリス、韓国が控えており、アニメ映画もぽつぽつ入っている。皆様のご厚意によってか偶然かわかりませんが、おかげさまで万国の風土に触れられるのでございます。

 さて、ロウ・イエという監督のことは知りませんでしたが、天安門事件を扱った映画を過去に撮っており、そのために中国本土での映画撮影を禁じられているそうです。南京を舞台としているのですが、今回の映画もゲリラ撮影の場面が数多いとのことであります。

しかしまあ一見してみて、なかなかに何を言うたらええんのかいのうと頭を悩ます作品でもございました。ふうむ、先に言っておくと、ぼくにはよくわかりませんでした。しかし、なんとかして美点を見いださんとするのが現在の当ブログの方針でありますので、書きながら見つけられたらいいなあと思いつつ、踏み込んで参りましょう。

 「愛」「自由」というものが本作では重要な要素であるらしく、登場人物たちはまさしく奔放に愛を交わしていくのであります。その主軸となりますのが同性愛。しかも結婚している男が別の男と逢瀬を重ね、その男がまた別の男と体を重ね、なおかつその男は別の女性ともチュウをしているなどとあって、なんかぐちゃぐちゃであるなあ、という状況なのです。
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 ぼく一人の感想ではなかなかむずい、ということでネット上をサーフすると、宮台真司先生がヒントをくれます。いわく「『スプリングフィーバー』、つまり『春の嵐』というタイトルが示すとおり、今の南京だからこそできる、というものに充ち満ちている。」「日本も'96年くらいまでは微熱感が街中に満ちていて、それがいろんなことを可能にしていた」とのこと。この辺から考えていきたいと思います。
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 今、2012年という位置から過去を振り返ったときに、90年代なら90年代の、80年代なら80年代の野蛮さ、放埒さというものが実にうらやましく感じられることが多々あります。ぼくも多少の分別がつくくらいには大人になって、ゆえに過去の時代に目をやることも多くなった。そうしたとき、80年代や90年代の日本が持っていたその時代特有の輝きというものが、猛烈に眩しく思える瞬間がある。その時代、ぼくはまだ子どもだった。だから自分の青春を振り返って、体感的な懐かしさを覚えているのではない。当時の東京などぼくは知らないし、ただブラウン管越しにぼんやりとその遠景を眺めるばかりだった。でも、当時の映像が焼き付いている。そしてその野蛮さに、憧れを覚えるのです。
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 そうした視点でこの映画をもう一度眺めると、なるほどこの映画からは今の日本とは明らかに異質なものが見えてくる。だからこの映画を登場人物たちの関係性それ自体だけで観ると見方がやせ細ってしまう。この映画が今の中国という場所を舞台にしているのも大事です。日本の高度経済成長期並みのGDP成長率を背景にしつつ、いまだ性的表現含めた各種の検閲を強く敷かれている不思議の国、中国。そんな中にあって、何をどのように生きていけばいいのかわからぬまま生きている連中の姿は、日本のそれとは似て非なるものです。あれは現在の日本映画の風景では撮れない。絶対、もっと乾いてしまう。そのくせ絶対、もっと湿っぽくなる。
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 印象的だったのは、登場する女性の一人が、コピー製品の工場で働いているところですね。工場長は明らかに彼女をものにしたがっているのですが、そんな折りに警察当局の手入れがあって、大騒ぎになってしまう。こういう場面を今の日本映画で観られることなど、まずあり得はしない。
 中国という国が先進国基準の著作権法観念を無視し、好き勝手に海賊製品を流通させているという実態は、確かにぼくたち日本人から見れば問題が多い。しかし、ぼくは以前から、そこにある野蛮なエネルギーを思ってやみません。思えば20世紀の日本にもそんな類の製品は流通していた。どこのおっさんが歌っているのかわからないウルトラマンの曲のカセットがあったし、何のヒーローだかわからないソフビ人形があったし、縁日では「特殊なえさで育てた」というカラーひよこがいて、中に一万円札が入っているけれど絶対に釣れない重さになっている水風船があって、「騙したもんがちじゃい」と言い切る粗暴さがあったし、騙されたほうも騙されたほうで「ちきしょう、一杯食わされたぜ」と笑える鷹揚さがあった。
 注意してほしいのですが、中国が行っているような不正コピー流通を肯定しているのではありません。しかし、真っ向から否定する気にもなれない。そこには確かに、未成熟な社会だけが放つ粗野な魅力がある。清濁併せのんで、生き馬の目を抜いて、しかしお上にばれたら何もかもおじゃんというような中に生きる人々。
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 そんな風景の最中にあって、しかし性的にはマイノリティで、なおかつそんなマイノリティたちに振り回される女がいて、どうしたらいいかわからなくて、というその生き様には、成熟した日本からは既に失われたように思える濃密さが見て取れる。
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 と、そんなことが言えるんじゃないでしょうかね、うむうむ。
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 などと言いつつも、じゃあおまえはそれをしかと受け止めたのかよおまえ、と言われたらまあそこはどうもぼんやりとしていて、けだるさが色濃く出ているなあと感じてしまうところも多々あり、なんならもっといききったったらええのに、と思うところもないではなかったですね。以前、別の方に紹介してもらった崔洋一監督の『犬、走る』という映画があって、そのときはぴんと来ないところもあったのですが、今思うにあの映画における日本の風景や岸谷五朗の粗暴さは、90年代的な、アジア的な熱気を体現するものであったなあと思います(『月はどっちに出ている』にも言えます)。
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 この映画を「愛」という視点で見ると、どうもぼくにはうまく見えてこない。また、「自由」というのとも違っている。そしてなおかつ、アジア的な熱気に充ち満ちているというのも違う。その意味で、宮台先生言うところの、「自分がこのタイトルを訳すとしたら、『微熱感』とするだろう」というのは腑に落ちる。韓国映画もそうですが、アジアの映画には今の日本映画では表しようのない風景に遭遇することがあります。戦後の時代に思いを馳せ、自分の中でおぼろげに映える過去の野蛮さを思い起こしながらこの映画を観ると、また違うのではないでしょうか。その意味では、実はこの映画は、若者にはあまりぴんと来ない。ぼくも実はそれほどぴんと来ていない。おっさん、おばさんが観ると、もっと深く共感できるものがあるんじゃないでしょうか。
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 まあ、そんなところであります。
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奇想てんこ盛り。だけどこの主人公はぼくたちよりも切なく。
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皇帝ペンギン飼育係さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 原題『神探』
 リクエスト作は頂いた順に取り上げるようにしているのですが、奇しくも非アメリカ映画が続き、しかもあまり国が被らずに来ていますね。イタリア、フランス、オーストリア、日本と来て、今回は香港映画です。香港映画はこのブログでほとんど取り上げていないのではないでしょうか。ブルース・リー、ジャッキー・チェンという二大スターくらいはなんとか押さえていこうと思っているのですけれど、記事として書く気にはならないというか、いまさらぼくなどがブルース・リーの魅力とかを語ったところで、ねえ? もっとがっつりはまっている人は多いわけですから、映画秘宝界隈の人たちにお任せしましょう、しょこたんとかに。

 さて、ジョニー・トーという監督については宇田丸さんのラジオで知り、傑作と謳われる『ザ・ミッション 非情の掟』と『エグザイル/絆』を観たのですが、なんだかぼくの好きな感じとは違うのう、と思って遠ざかっていました。

 振り返って考えてみるに、ぼくは特定のジャンルや監督について、アツアツになって愛好するということをほとんどしない人間であります。映画好きの方の中にはたとえばゾンビ映画が大好きだとか、香港ノワールに惹かれてやまぬという人も多いように見受けるのですが、ぼくはそういうのがない。アニメなどはわりと好きですけれど、世間にはものすごく愛好している人も多いわけで、そうした人らに比べればすごく好きだというわけでもないし詳しくもない。強いて挙げるならば、「この映画には人の生き様が描かれておるのう」と、ぐうっとなるような作品が好きと言えるわけですが、それをジャンルとして提示されると違う。あとは社会や人生のあり方について読み取らせてくれる作品が好きですね。今のぼくは、以前と比べて、「単純に面白い映画」というものにあまり興味がなくなっている。新作を追いかける趣味が全くない、というのもその辺りに関係していそうです。

 この作品は単純に面白さを追求したぶっ飛び映画かな、と思いきや、書いているうちに、ん、そうでもないな、もっと自分たちに引きつけて観られるところもあるな、と思い至ります。
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「MAD探偵」という通り、主人公は結構、相当いっちゃってる感じの元刑事です。存在しない人間が見えていたり、人の内面が見えるのだと言ったりします。いっちゃってるだけじゃなくて特殊能力もあり、事件が起きればその犯人や被害者と同じ行動を取ることによって真相を突き止め、解決に導くということもできてしまいます。
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「七人の容疑者」ということですけれど、これは本当に七人いるわけではなく、ある刑事の失踪事件について、同僚の刑事がどうやら犯人らしいということになって、そいつの内面には七人の人格が潜んでいるぞ、とそういうことなのです。いっちゃってる主人公には、その犯人と思しき刑事が七人の人間に見えるんですね。このビジュアルは面白かったです。
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 以前、『ブラックスワン』を評したとき、「幻覚はそれを見ている当人の目線に限定して描くほうがいいんじゃないか」と書いたのですが、本作では序盤はわりと忠実にそこが守られます。後半になるとそうでもなくなるんですが、まあこれくらい大胆に描くならもういいでしょう。ビジュアル優先で面白くわかりやすくいくのがいいのです。
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 相手の姿が、実際のそれと異なって映る、というアイディアはこの作品の彩りにおいて相当大事で、それがなければ結構地味な映画になっていたでしょうね。このアイディアは何か元ネタがあるんでしょうか。もちろん、幻覚を見る系の映画では過去にいくらもありますけれど、ここまで大胆にやってのけた例は知りません。トイレのシーンなんかは面白いですね。主人公と容疑者がもみ合いになるんですけど、主人公から見ると相手が七人に見えて、その人格同士でまたもみ合ったりしている。内面の葛藤をこのような形で描くってのは新鮮でした。惜しむらくはそれがクライマックスにほとんど活かされないことですね。ビジュアルの面白さはあったけれど、この七人の人格というのが効いていませんでした。もっとも、時間的にタイトだし、他にも要素があるので、その点は仕方ないかも知れません。

 短い中に奇想てんこ盛り、というタイプの映画です。90分弱の映画ですから、人格が人間の形で見える、というアイディアで押してもいいのに、主人公が犯人や被害者の行動を取ることで真相に気づく、というのも入っている。この辺はキング原作、クローネンバーグ監督の『デッドゾーン』、日本で言えば漫画『サイコメトラーEIJI』のあたりにヒントがあったんじゃないでしょうか。事件に関係するものに触れるとその過去が見える、というやつです。それをもっと大胆に描いていますね。被害者がスーツケースに入れられて殺された事件を調査するときは「自分をスーツケースに入れて階段から落とせ」と言ってみたりするんです。ああ、でも、なんかもっと直接に近い元ネタもありそうだなあ。
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 内面が見えて相手の気持ちが読み取れる、というのはテレパスですけれど、この映画はテレパスだったりサイコメトリーだったりという、既に使われているオカルト的アイディアをもっと先鋭的に、ビジュアル的に詰めていったわけですね。そこが人々に面白さを感じさせる要因であろうと思います。
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 見えるものは見せる、という部分にこだわり、内面問題に固着しないのもテンポをよくする工夫であって、たとえば主人公の抱える問題を、恋人の話に集約していたのがポイントの一つでしょう。こういう変わった主人公の映画の場合、どうしても事件よりもその人自身のことに興味がいったりするわけで、どうして狂ったんだとかこいつはどういう内面を抱えているんだとかを考えたくなりますけれど、その部分は恋人、元妻とかのあたりに集めておいたのですね。彼は既に存在しない妻の幻影と一緒にいようとするんですけど、最終的にそこから脱する。そこで彼自身の物語というのも重しとして機能させておく。その辺のバランスも気を遣っているんです。自分だけに見えている相手、というのもこれまた昔からあるようなアイディアですけど、いろんな奇想の中のひとつに位置づけているので、話の綾になります。

 主人公を演じたのはラウ・チンワンという人で、香川照之と柳葉敏郎を足したような顔ですけれど、この眼力も魅力ですね。いっちゃってる感が病的に映らず、はじけてる感じが出てきて、あまりナイーブな方面にいかない。一方で、この主人公の孤独みたいなもんもよく描かれていたように思います。もともとはゴッホのイメージが最初にあったそうなんですが、この主人公は孤独なんですね。飯を一人で何度も頼んで黙々と食うシーンとかも印象的です。それに、結局は頭がおかしいやつだと思われて、仲間の刑事に撃たれてしまうあたりとかね。あの辺には哀愁を感じます。やっとこさ妻の幻影というくびきから解放されて別の人生が見いだせるのかと思いきや、そして自分なりに頑張って敵を追い詰めたと思いきや、仲間に疑われてやられる、というのは哀しいもんがあります。
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 考えてみると、多かれ少なかれぼくたちにも似たところがあるんかな、とも思いますね。この主人公は簡単に言えば「狂っている」と言えて、自分と切り離してみられるかも知れないけれど、まったく遠いものでもないと思うんです。彼は相手の人格が見えたり、過去の愛の幻影に縛られたりするんですけど、それって自分の身に置き換えてもあることじゃないですか? 人と接したときに相手がどんな人物かが初対面でなんとなくわかってしまったりとか、素敵な相手がいるのに過去に好きだった人のイメージに引っ張られてうまく接することができなかったりとかね。それと、自分では一生懸命やったつもりなのに、人にわかってもらえなくて、憂き目を見たり。作品では狂気や特殊能力として大いにデフォルメされてはいるけれど、その中心には自分たちとなんら変わらない内面問題、関係問題があるってのが、この映画をただのクレイジーな物語にさせていない重要な要素であろうと思いますね。
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 ふむ、まあ、ふむ、そんなところでありましょうか。面白く観ました。お薦めします。

 
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孤島というメタファ。傍観者に与えられる痛み。
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世田谷の男さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。
 
 韓国語の原題を直訳すると『キム・ボンナム殺人事件の顛末』という意味になるそうですが、なかなかに強烈な映画でございました。久々に韓国映画を観ましたが、やっぱりかの国の映画は、日本映画になくなったもんを持っているなあと思いました。

 数えるほどの島民しかいない孤島が舞台なのですが、こういう韓国映画っておそらくぼくは観たことがないです。ド田舎が出てくるような映画はありますけど、孤島は覚えがない。風景は古い日本映画を観ているような感じもしましたね、『神々の深き欲望』みたいな南方っぽい舞台です。
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 主人公は二人の女性で、一人はソウルで働くヘウォン(チ・ソンウォン)、もう一人は生まれてこの方島暮らしのボンナム(ソ・ヨンヒ)。都会暮らしの中で疲弊したヘウォンが、子供の頃に暮らした島でボンナムとの再会を果たします。最初はヘウォンの都会生活が描かれますが、途中から彼女は脇役っぽくなって、ボンナムがメインになるので、うむ?これはどういう展開になるのだ? とぐらぐらした感じを与えます。この辺のバランスは面白かったです。
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ボンナムを演じたソ・ヨンヒは昔の倍賞美津子みたいな雰囲気がありますね。監督は『楢山節考』が好きだというし、倍賞美津子からインスパイアされたはずです。このボンナムの置かれている環境というのが最悪で、なにしろ夫は暴力的だし、子供が傍にいるのに平気で家に売春婦を呼ぶし、義理の弟が犯しに来るし、ともに仕事をするばばあたちは「夫に従え」という考えを押しつけてくるし、ぜんぜん愉しくない生活なのです。
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 韓国にはこんな古い因習に縛られ、誰も助けてくれない、閉鎖的な島があるのかな、と思いきや、監督によるとこれは創作の舞台だそうで、実際にはないそうです。まあ考えてみればぼけたじいさんとばばあ数人と、一家族だけで成立するような社会が現存するとも考えにくいわけですが、これは言ってみればメタフォリカルにデフォルメした舞台立てなのでしょう。
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 都会に暮らしていると、社会の掟であるとか因習であるとか、そういうものに縁遠さを感じるのは事実だし、特に現代は古い常識をいくらでもぶち破れる時代です、とまずは言えます。では、この映画に描かれているのは実際にはあり得もしない出来事なのか、自分とは関わりのない悲劇なのか。
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 監督は韓国国内で起きた複数の事件をもとに映画を造型したそうです。いずれも性的暴行にまつわる事件ですが、本作を観るうえできわめて重要な要素だと思われますし、孤島が舞台のこの映画を現代に通じさせるものだとも言えましょう。
 と、言いますのも、性的暴行はこの現代においても、「閉じられた犯罪」であり続けるからです。この映画では近親相姦がにおわされるわけですが、それは被害者が外に訴え出にくいことの代表であると言えましょう。いくら開かれた社会、流動性の高い社会であると言ったところで、家族という共同体は機能し、今でも閉じられた関係です。なおかつ被害者は経済的、社会的に考えても加害者に依存するほかない状況がある。くわえて、仮に助けを求める気持ちがあったとしても、それを明るみに出すには精神的な障壁がある。
 そう、「助けてくれる他者がいない孤島」というのは、現代にも存在するわけです。
 題材の一つである「密陽女子中学生集団性暴行事件」という2004年の出来事がありますが、これなどは実際のレイプのみならず、セカンドレイプの問題が深刻化した事例です。警察も望ましい対応をしてくれないとあれば、社会自体が地獄。ネットで世界に開かれている、なんて言ってみても、現実に生きる場所が地獄なら、そんなものはひとときの逃げ場所でしかあり得ない。

 性的暴行はある意味で極端な事例で、男性であればほぼ無縁の出来事として眺められるかもしれないけれど、じゃあ掟や因習と無縁でいられるか。無縁だ、と言い切れるなら幸福ですが、そのとき監督はあなたに鎌の切っ先を突きつけます。監督は「傍観」への批判的まなざしをこの映画で絶やさないからです。監督の師であるキム・ギドクが言うところの「芸術や詩情など贅沢品だ」という態度に通ずるものを感じます。

 ねたばれがんがん。未見ちういほう。




 ボンナムは夫とのもみ合いの中で、最愛の娘ヨニを失います。
 その突発性もこの映画の衝撃度を高めるわけですが、その後に周りのばばあたちや男たちが取る態度は、まさしく傍観者そのものであり、いやそれどころか、傍観者の残酷さをさらに鮮烈に映し出します。ばばあたちは調査に来た刑事たちに、口をそろえて言うわけですね。「事故で死んだ」と。傍観者の怖さが二重で描かれる。すなわち、見て見ぬふりの怖さと、事なかれ主義の怖さ。自分は関係ないという態度と、面倒が起こるくらいなら隠してしまえという隠蔽の暴力。
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 とりわけばばあたちにとってはあの島こそが社会。だからこそ、その平穏が破れるのは何よりも怖い。だから成員に何が起ころうと社会を守ることが大事だし、そのためには権力者である男を守る。これは孤島に閉じた構造ではあり得ない。そのまま社会に通じている。だから監督は序盤をヘウォンの都会描写から始めるんですね。そこで描かれるのは社会の傍観者。生活の平穏が破れるのは怖いから、弱者を見捨てる。それを意識させたうえで孤島を描くわけです。
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 映画の演出面で言うと、太陽に撃たれてから殺戮に走るあのシークエンスはとても見応えがありました。こう言ってはなんですが、「太陽を見ていたら、どうするべきかわかった」というのは、『異邦人』よろしく抜群に格好いいんです。で、なんか、わかるというのもあれですけど、すっと入ってくるもんがあるんですね。娘を理不尽に失い、その哀しみから逃れるように一心不乱にじゃがいもを掘ってはかき集めかき集め、ふっと虚脱したときに眩しい日差しを感じ、心の焦点がちりちりと焼けて、ついに発火する。ああ、もう、なんでもいいわって気分になって、殺す。殺すの。最初の鎌の一振り。
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ここからは韓国バイオレンス大爆発ですね。ボンナムが夫をぶち殺すシーンなどはもう、日本は言わずもがなアメリカ映画の追随さえも許さないです。殺人鬼になりすぎて、男の首を木の枝に引っかけてあるところはちょっとアメリカ映画に寄っちゃってんなーとも思うのですが、あんな状況で包丁を舐めたり、口で包丁をくわえて刺すなんて、韓国映画しかやらないでしょう。あれで終わるかと思いきや、ヘウォンのところまで突っ込んでいったのもすごいですね。あれは警察でどうしてああいう状況になったのだとは疑問なのですが、ヘウォンに怒りをぶつけないとボンナムの物語が終わらないのもわかりますしねえ。ヘウォンはぼくたち自身=傍観者でもあるわけですから。
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傍観者に痛みを与える映画というと、記憶に残っているのは『明日、君がいない』がありますね。傍観者であってはならないのだ、などと言うのではなく、どうせ傍観者であり続けるぼくたちに痛みを与える。ぼくたちの日常の認識をぐらつかせる。
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『ビー・デビル』。ぼくはいい映画であると思いました。世田谷の男さんはお気に召さなかったようで、同調できず申し訳ありませんが、どの辺が駄目なのかというのも知りたいところであります。とりあえずは、ここまでということで。
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寡黙さを埋めるだけのエロスは感じられませんでした。
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なめこさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 台湾映画というのはぜんぜん観ていない分野です。ここで取り上げたのも『モンガに散る』くらいですね。アジアで言うと香港映画がアクションの分野で人気で、タイ映画もそれを追随している。一方、ゼロ年代には韓国映画が大きく花開き、とりわけノワール系での強いインパクトをもたらした。台湾映画には何があるのか、ぼくにはよくわからなくて、なかなか観ずにいるのが現状です。

さて、『西瓜』です。タイトルからは何もわからず、予備知識ゼロで観ました。西瓜といえば夏の風物詩みたいに言われますが、ぼくはというと西瓜が好きではありません。子供の頃には家で食べたりしましたが、何がうまいのかさっぱりわからなかったんですね。西瓜の甘みというのがてんで感知できぬというか、「西瓜は甘くておいしい」みたいなことを言われても、何のことだかと思っていた。むしろ、「此は今あまり食はずに置きて、虫籠の中の甲虫にやらう。かの虫の方が悦びをもつて汁を吸ふらむ」と思っていたので、カブトムシに捧げたりしていたほどでした。「塩をかけて食うとうまい」と聞いたので、そうやって食べてみると、ふむ、塩味がするのでうまい。しかしその場合、ぼくは塩をうまいと思っているのであって、西瓜である必要性がなく、なんなら西瓜は要らないから塩だけ舐めていたいとさえ思ったほどに、西瓜の魅力がわからなかったのです。
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 映画もまた、実際の西瓜同様に、ぼくにはよくわからぬものでありました。
 演出としては90年代の北野武や、あるいはキム・ギドクのように寡黙な作品で、その風合い自体は嫌いではないのですが、いかんせん何をどうしたいのかよくわからないところが多かったのです。

 台湾では当年の興収一位を記録したという本作はしかし、日本ではR-18であり、性描写がたくさん出てきます。寡黙な本筋の一方で、この性描写が映画の「おかず」として機能してはいるのですが、ふむ、まあ、ふむ。
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 台湾の性産業事情というのがどのようなものなのか、ぼくはよく知りません。中国よりはオープンなのかなあとも思うけれど、日本よりも進んでいるようにも見えません。日本の映像における性表現といえば当然往年の日活ロマンポルノやピンク映画があり、その後アダルトビデオ市場の隆盛が今日まで続いているわけですが、台湾にはそのような歴史があるのでしょうか。いや、別に歴史のあるなしなどどうでもいいのですけれど、こと本作において言うなら、ううむ、なんか、古くさいなあ、というのがまずありました。
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 話は変わるようですけれど、現在のAVにおいても人気があり、ゼロ年代AV界で市場を広げた「S1ナンバーワンスタイル」というメーカーがあります。AVを観る諸兄において、S1の名を知らぬ者はおりますまい。このメーカーの特徴は単体系美少女、美女の女優名を前面に出して作品をリリースするところで、ぼくの大好きな恵比寿マスカッツの女優の多くも、このメーカーから作品を出しています。
 では、S1はなぜ売れるのか。
 美人女優を使っていることもさりながら、大きな特徴として、あのメーカーのAVはだいたい「緩い」んです。いや、緩いと言っても、むろんがっつりとした絡みを映しているのですが、映像から醸されるエロさが足りない。だからこそ、狭くてコアな客層には見向きもされない一方で、AVを見始めたりするような高校生、大学生などにはウケがいい。適度にエロい。

 ただ、それがゆえに、素朴さが無い。過剰さが足りない。肉体に言及していない。S1の監督が撮る作品には、職人的手つきは見えても、フェティッシュな変態性が一切見えない。
 
 この映画にもそれに似たものを感じました。S1のAVのような綺麗さは皆無ですし、むしろそれとは逆で汚いのですが、いかんせん過剰さと肉体への言及性が足りぬように思いました。生真面目で芸術的な映画が好きな人たちには、刺激的なエロと見えるかもしれない。しかし、ぼくのような品性下劣な人間からすると、何一つエロくないし、たとえば浴室で撮っているAVにしても、無様さが足りない。精液のインパクトに頼っている。
 足に煙草を挟んでむにゃむにゃやっているシーンでも、なんか、古くさいんだよなあと思いました。何のメタファなのか読み取れなかった。メタファとかじゃないよ、芸術的な構図だようんぬんと言われても、はあ、そうですか、としかぼくには言えぬのです。

 これは何なのかなあ、と考えてみるに、ひとつには「体温が感じられない」というのがあるように思いました。登場人物たちに体温がないんです。ではなぜ体温がないと感じたのかと言えば、身もふたもないのですが、彼らが何をどうしたいのかよくわからなかった。
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 この映画は寡黙です。寡黙な映画は数多くあります。そういう映画はやはり、静かな中でも個々人の性格とか背景とか葛藤とか目的とかがあるものです。この映画の登場人物についていえば、ぼくはしばらくしたら全員忘れてしまうと思います。彼らがどういう人間なのか、まるきりわからないのです。出てくるAV女優が終盤昏睡していますが、どうして昏睡しているのかわからない。彼女はなぜ昏睡しなくてはならなかったのでしょうか。昏睡した状態でAVを撮るのもわからない。昏睡ものはありますし、それ特有の魅力はありますけれど、あの局面で撮らなきゃいけない理由は何もない。

 正直なことを言いますが、お話がよくわからなかったんです。たとえば主要人物の男がいて、彼はAV男優をしているのですが、ネット上にある解説文などを読むに、主人公の女に対して、彼は自分がAV男優であることを隠そうとしていたようなのです。なるほどそうなれば、終盤のクライマックスでそれが効いてくることもまあ解せます。
 しかし、わからない。なにしろ台詞が少なくて、彼らの考えていることがわからない。 というか、自分がAV男優であることを男が隠そうとする理由もわからない。
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 ここにはなんというか、作り手の保守性というか、傲慢さを感じてしまうんです。AV男優なんて職業は隠して当たり前、知り合いのちょいと恋仲っぽい女性に対しては特に隠さずにはいられない。ということなのでしょうか。
 そういう社会通念があること自体はまだわかります。でも、そこを何の説明もなくさらっとやっているわけです。AV男優なんて正体はばらしたくないものだよね、それは言うまでもなく当たり前のことでしょう? っていうのを感じるんです。「彼氏がAV男優だったら嫌でしょ、そんなの説明要らないじゃない。言うまでもないじゃない。だから隠そうとする男の行動もわかるよね」っていうんですかね。いやいや、この映画のつくりならせめて女のほうから、「AV男優なんて嫌だわ」という一言は要るって。
 台湾社会では自明の通念なのでしょうか。たとえそうであるにしても、この映画は通常の社会の写し絵とも見えないし、ビルの屋上の貯水タンクで水浴するなんて無茶なことも行われているし、この映画で一般通念を説明なく押し通そうとするのは、ちょっと無理がありませんか? 水道の機能しない非日常、家族を持たない女、およそ一般的な状況から離れた基盤を用意し、ミュージカルに非現実性を持たせながら、自明の通念を利用する? ぼくにはわからない。
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ミュージカルシーンにしても、結局飛び切れていないというか、現実と遮断し切れていない安っぽさがあります。あれはもう、現実と断ち切れている場面じゃないですか。ところがねえ、安いんです、なんか。ぼくは既にゴテゴテでデコデコな画づくりのものを観てしまっているし、かちっとした洋画のミュージカル映画も観ているし、そうなったとき、あのミュージカル場面ではもう、うわあ、なんか、想像の世界まで安いのかよ、というのがあったんです。低予算娯楽映画なら目線を下げて笑って観るけれど、この映画はそうじゃないはずで、だとしたらあの中途半端な盛り上がりのミュージカルは、あのレベルなら入れないほうがいいんじゃないかとさえ思いました。
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ラストのフェラチオもなあ。
 登場人物の内面がうっすいので、ただのトリッキープレイにしか見えてこないんです。 いや、何か意味はあるんでしょう。横にチャイナエアラインのスチュワーデスの看板を置いて何事かを対比させたりしているんでしょう。過激さを狙ったのもあるんでしょう。 男根を咥えながら涙するところに、愛のなんちゃらを読み取らせたいんでしょう。
 でも、根本部分の、彼らの内面が、なさすぎやしませんか?
男が女に対して愛情をぶつけたかった? 別にあの状況じゃなくてもいいでしょう。
 職務を全うできていない駄目AV男優です。
 精液を口内に発射することが愛情の暴発? それならそれでいいけど、それに値する内面も物語もない。
 それならいっそのこと、内面をかなぐり捨ててファックを見せてくれる本物のAVのほうが、よほど感動的なんです。
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ぼくはよくここで書くのですが、登場人物が筋書きの上を歩くような映画は基本的に好きじゃないんです。そりゃあこの局面ではこういう行動取るよな、というのがわからないと、ぼくは入り込んで観られないんです。

 本物の西瓜の魅力もわかりませんでしたが、本作『西瓜』もまたわからなかった。旨味を足してくれる塩はあったにせよ、「潮」を味わうならばもっと別の食材がありますから、ぼくはそっちが好きです。
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