カテゴリ:アニメ( 37 )

クライマックスを活かせていれば。
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そして、普遍的なものへ。
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大変な快作を見逃しておりました。
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さとるさんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

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子供向けの発想を、大人にだって魅せるのがすごいのだ。
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notchさんよりリクエストいただきました。ありがとうございました。



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ぼくはもうついていけない、ということなんでしょう。

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 公開当時方々から絶賛の声があがって、うわ、こら難儀やな、乗れなかったらなんか嫌な感じになるな、と思って敬遠していたのですが、一応観ておこうと思って、まどかマギカ。

結論から言うと、個人的にはちょっときつかったです。乗れませんでした。これはですねえ、ぼくもおっさんになったなあと思いますね。あのきゃぴついてる感がそろそろきつくなってきたんです。カロリーが高いというか、胃もたれするというか、そんな感じです。大学生くらいの頃は、おじさんたちがいうところの「この年になると肉はもういいね。魚だね、うん」的な発言を完全に他人事として受け流していたのですが、なんかそれがわかるんです。「男子の夢想する、女子たちのお喋り」みたいなもんを観ているのがもう辛い。ラノベ的な、恋愛要素のないハーレム的部室感がきついんです。作品がどうのこうのじゃなくて、今のぼくには糖分が高すぎる。若者ならばまだしも、ぼくより上の世代の識者とか通人みたいな人がこれを観て耐えられるのがある意味羨ましいです。若々しいと思います。

あとはあの劇団イヌカレーによる描写もぼくには辛い。カロリーが高い。
 結局ぼくは、『哀しみのベラドンナ』に撃ち抜かれっぱなしなんです。あの抽象表現をどうしても思い出すので、今回のような足し算スタイルにはどうしても乗れなくなる。
 ここで前に述べたことです。そこから前に進めていない感じがしてそれが自分でも辛いんですけども、結局「昔感じたあの鮮烈さ」を超えてくるようなものじゃないと、エレクトしないんです。「あー、これは確かに凄いけれども、あのときのあれのほうが凄かったよなあ」になってしまう。

 正直なところ、偏狭と言われるのを覚悟で申すならば、「『哀しみのベラドンナ』に勝てるアニメ表現なんか無い」とさえ思ってしまうのです。理由は簡単で、あの作品が想像力に訴えてくるから。今日までのアニメ技術の発展による緻密な描き込み、高画質、高精細のどうたらこうたら。それは確かに凄いけれども、所詮はすべて視覚への訴え。『哀しみのベラドンナ』が違うのは、あえて視覚的要素を減らすことで、こちらの想像力に訴えてくるからなんです。足し算をいくらやられても、引き算をつきつめたもの以上の感動を得られないのです。

 で、どうでもよくなっちゃったんです。
 足し算をされればされるほど、ああ、どうでもいい世界のどうでもいい話だなあ、感が迫ってくる。その意味では『エヴァQ』で感じたものと同じです。「こいつらがどうなったところで俺はもうどうでもいい、何なんだこの世界は」という感覚が、キャンディなものを描かれれば描かれるほど強まってしまった。なんでこんなに、足し算をするんだろうって、冷めてしまった。チーズ! カマンベール! とか、あの辺のノリと作為性。

 若い人はいいと思うんです。若い人がこれを観て、おおお、と思うのはとても正しいと思う。ぼくも十代や大学生なら、あのほむらとマミの対決のシーンとかで興奮していたと思う。でも今のぼくは、なんかぺらぺらだなあ、と感じてしまう。「ああ、こいつらはどうせどっちも死なない。なぜならこの世界はたぶんなんでもありだし。仮に死んでも、何か理屈をつけて蘇ったりするし」と引いて観てしまう。「いるか? その格好つけたポーズ」なんて思ってしまう。作為性ばかりが目に付く鼻につく。

世界に入り込めなかったのは大きいです。『エンジェルウォーズ』を観たときの感覚にも近いです。「魔女がつくりだした世界なの!?」とか驚くのもよくわからない。そもそもあんな世界、見るからに現実でも何でもないから、どんな世界でもどうでもいい。

で、後半から終盤で、ほむらがキュウベエと一緒になって、この世界はどうたらこうたらということを言い出すのですが、乗れなかった人間としてはもうきついだけになってしまった。というか、テレビ版に遡って、このまどマギという作品がちょっと嫌いになってしまった。

テレビ版の最後で、まどかが世界を救って、でもみんなに忘れられて、みたいな結末を迎えていたのですけれども、これがあらためてちょっと引っかかってきたんです。というのも、実につまらないことを言いますけれども(既に散々言っている気もしますけれども)、ぼくには「世界なんか、救えない」という諦念があるからです。いや、それは違うかな、言い方としてはこうかな。「あの程度の描き方で、世界を救った救世主的な立ち位置を取られても、愛おしくない」と思ってしまう。

 世界なんか、この作品では描かれていないんです。身の回りとか、ごく限られた登場人物が、デフォルメされた舞台にいただけです。キュウベエが「地球外の存在、観測者」として出てきてぐうっと広げてはいたけれど、この作品には実世界における人々の営みや歴史の連なりのようなものがなく、あくまでもぺらぺらの世界があるだけに過ぎないので、それを救ったところでそれがなんなのか、と非常に冷めた物言いをしたくなる。

「みんながまどかを忘れる世界なんて嫌!」などと言ったところで、結局のところぼくたちは皆忘れられていく存在なのです。百年、千年、一万年の歴史を考えてみれば、ぼくたちなんてどのみち死ねば忘れられる。そもそもこの現実世界において、一人の人間の人生など、世界にとってなんでもないものです。どれだけ狭い範囲の話をしているのや、と思います。それで世界を変える変えないみたいな話をされてもなあ、です。それを何を子供じみたことを言っているのか。すべては光の中へ消えていくというのに、あまつさえ愛がうんぬんと言い出す。もう本当にどうでもよくなる。

 いや、ぼくは「忘却」にまつわる話を否定するわけではないんです。ただ、その規模の問題なんですね。「身の回りにおける忘却」ならばぐっと来る話になると思うんですけど、そこでどうして「世界」に飛んでしまうのか。結局はこの話もまたセカイ系的なものに感じられてならない。ごく限られた人間の間で交わされる話が、世界の命運を握っているかのように論じられる。

「叛逆の物語」というより、「ほむらちゃんのどうでもいい話」として感じられてしまったぼくは、いやはやつくづく乗り損ねたなあと感じます。別のタイミングで観ていたら、きっともっと違う感想もあったのでしょうけれど、率直に言えば上記のような感じ方になってしまったのであります。もっと建設的な見方をするべきなのは重々承知ですけれども、今のぼくにはあまりにハイカロリー、糖分高めでありました。

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ディズニーが生み出すキュートの全力を、見た気がします。
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久々に、何の構えもなく、面白いと言えるアニメに出会いました。
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 落語ものの話は何かないかなと探していたらこれを見つけて、しかし内容的には落語ほとんど関係ないやんけ、であって、それでいてすこぶる面白かったアニメであります。昨今のテレビアニメは気が向いたら見るという程度でぜんぜん詳しくないのですが、かなり久々に、素直に面白いと思える逸品でありました。『エヴァ』にせよ『ハルヒ』にせよ『まどマギ』にせよ、あるいは『あの花』とか、最近で言えば『悪の華』『進撃の巨人』とかっていうのは、どうしても何かこう、こちらを構えさせるところがあるわけですね。作品が放つ「やったるで感」に、こちらも身構えをしてしまうような感じがある。そういうことを一切考えずに楽しめたのがこの『じょしらく』であります。

 原作はあの『悪の華』や『進撃の巨人』と同じ『別冊少年マガジン』に連載されているのですが(なんと連載は次号で終わりだとか)、あまり原作には興味が湧かない、というか、なるほどこれはアニメだからこそ良いな、と思える作品です。漫画表現の旨味をさらに引き出しているのではないかと思います。
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 タイトル通りに女子の落語家の話なのですが、なんと実際の落語はまるで出てきません。各話のタイトルは古典落語をもじっているのですが、その内容をトレースしたような展開になるでもなく、楽屋で五人の登場人物がだべっているだけなのです。彼女たちの落語家風景は冒頭にちょっと出るだけで、修業したり稽古したりみたいな部分はまったくないのです。言ってみればストーリーはないに等しく、落語の知識はまったく要らない。そしてこれを見ても一切落語には詳しくなれない。それくらい開き直っているのが逆によい。テレビ版では『サザエさん』よろしく、独立した三話構成になっています。
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そういうものをなぜ褒め称えるのかね君は、というと、笑いのテンポがとてもよくできているのです。アニメの特性をフルに活かし、画で見せる、テンポで見せる、音で見せる、というのが非常にうまくまとまっている。テレビアニメでこれだけきちんと笑わせてくれるものを、ぼくは本当に久しく観ていなかった。観ている間、とても満ち足りた気分になります。
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初回のほうで、「このアニメは女の子の可愛さをお楽しみ頂くため、邪魔にならない程度の差し障りのない会話をお楽しみいただく番組です。」というのが出て、原作でもそのようになっているらしいのですが、それだけを切り出せばいわば「ガールズトーク」ですね。そんなもん、女子のおしゃべりなんざこの俺が楽しめるわけがないだろう、女同士が喋ってることなんざ一ミリたりともおもろないんじゃボケ、と、笑いに関しては男尊女卑大爆発の価値観を有しているぼくなのですが、これはね、演出次第でとても面白くなるわけですね。
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そう、このアニメは演出がとてもよくできている。こういうガールズトークならいくらでも観られる。世間の似たようなお喋り番組も、こういうものに演出を学んでみるとよいのではないでしょうか。と言っても、この表現はアニメじゃないと難しい。だからこそ、アニメという形式がとてもよく行かされた作品と言える。ストーリーで見せるもの、その世界観で見せるもの、キャラクターの魅力で見せるものなど様々ありますが、このアニメはキャラのよさもありつつ、演出で見せている。その意味で非常に正しい。
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 キャラづけも非常にうまく行っていますねえ。五人出てくる(というかそれ以外はほとんど出てこない)のですが、各人が各人の色をもって、まるでガキの使いのごとくに、各様のボケになる。ある者がボケならある者がつっこみになる。コントがいつでも即席される。この空間は非常によいものです。
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時事ネタやメタネタ、オタクネタなどをふんだんに配合しています。しかもわりとおっさん向けのものもあるんですね。今の十代わからんやろ、みたいなのもあったりして楽しい。ただひとつのフレーズで『ブレードランナー』を入れてみたり、それでこちらをにやりとさせたり、その辺の小気味よさ。あるいは作画に文句を言った人物が雑な作画になるなどのメタネタ。ぼくが一番好きな漫画が『魔法陣グルグル』なのですが、あれの遊び方を彷彿とさせるものがありました。
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 どんどん褒めますけれど、各回三話あるうちの二話目が、楽屋ではなくて外に出るんです。浅草とか築地とか方々を散歩する話で、その土地ごとの歴史とか豆知識などを織り込んでくる。ここがとても好もしい。楽屋では着物を着ているキャラクターがその回ごとに違う私服で出てくるというアニメ的、美少女キャラ的快楽を混ぜ込んでいるのもとても真っ当。細かいことですけど、五人のうち四人は成人だという設定もいいんです。何かにつけてマーケティングのため、登場人物の設定を十代にしてしまう昨今ですが、そこと一線画してちゃんと成人にしておくのは大変よいです。
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めっちゃ褒めとるな、という今回ですが、この『じょしらく』にはちょっとびっくりさせられたことがもうひとつある。アニメでは一切落語をやらないのですが、実はCD版というのがあるんです。そこでは創作落語がしっかり収録されているのです(ぼくは「にこさうんど」で発見したのですが)。惜しむらくはアニメ版の声優ではない起用がされているところで、おかげで一人分は聴くに堪えぬのですが(どれのことかは言わずもがな)、この音声版にははっとさせられた。というのも、これこそが声優という仕事の最も効果的な使い方であるまいか、と思ったからです。

 声優というのは声を多用に変えられるし、演技力もある。ということは、落語というメディア、特に音声で聴く落語には実は一番適した方々でもあるのです。この点においては本物の落語家以上かもしれない。なぜなら本物の落語家は舞台で身振り手振り顔つきなどで見せる部分も込みでのプロですからね。声優の持つ特性は、それと勝負できるんです。で、このCD版の創作落語がこれまた面白いのです。
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 創作落語ってどうしても広まりにくいというか、やはり落語と言えば古典だよね、ということになりがちなわけです。喧噪きわまる現代社会と、江戸時代のはっつぁんくまさん、喜六や清八の生きた社会ではあまりにも違うのです。現代版の落語だと言ってつくっても、サラリーマンと上司の会話で古典落語のようなものはできやしない。ここに現代の創作落語の難しいところがある。でも、アニメ的世界の声優的演技によっては、その困難をひょいと飛び越えることができる。実際にできているのです。
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 この方面で広がったらさぞ面白いのに、というものが詰め込まれているのがこの『じょしらく』なのであります。この作品についてはけなすべきところが見当たらないというか、とてもよく完成されているのです。連載は終了するそうですが、ぜひに第二期のアニメ版を期待するものであります。最終回の終わり方もこれまたなんか、やたらと格好よかった。このアニメをつくった人たちのセンスに脱帽、という感じでございました。

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途中で観るのをやめようかと思った一方、ある意味、三作の中で一番好きです。
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半分世捨て人みたいな生き方をしているため世間とは映画の歯車もまるで合わず、いまさら『エヴァQ』なのかよと言われそうですけれども、まあエヴァの『新』自体がいまさら感のあるものだったりもするのであって、DMMからやっと届いた『エヴァQ』を観たなり。
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 公開時には盛り上がっていたわけですけれども、その盛り上がりにぼくはちょっと「?」を感じていたのですね。というのも、やはりエヴァというのは90年代的な背景あってのものであるなあと考えているからです。

 テレビ放送開始が95年10月で、95年と言えば阪神淡路の震災とオウム事件でめちゃくちゃだった年。なおかつ世紀末が迫ろうとしている中での「新世紀」ものであり、崩壊した世界うんぬんというモチーフも見事にはまり、思春期的もやもやを抱えるタイプの主人公、碇シンジの造型も新鮮だった。社会学者やら精神科医やらが分析してみたり、宗教的なモチーフを探る研究本が出てみたり、エヴァというのはそれまでのアニメとはやっぱり違うもの、画期的なものとして映っていたわけです。

 平たく言うなら、90年代後半、エヴァの時代というのが確かにあったよな、という感じがする。20世紀アニメ最後の大発明だった気がする。そのような背景を思う中で、2010年代に入ってエヴァで盛り上がっている奴というのは何なのだろう、というのが、どうしてもある。
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 当時を知っていて今でもエヴァエヴァ言っている奴にはまだ言ってるのかよと思ってしまうし、今の十代がエヴァが好きだと言ったところで君らはもうゼロ年代以降の感性の持ち主だよねと思うし、今このタイミングでなぜエヴァなのだという感がどうしてもある。
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などと言いつつも、観終えてちょっとだけ考えてみたときに、ああ、これはこれでよいのだ、という風になぜか思えてきたの巻き、なんですね、うむ。
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正直なところ、途中で何度か観るのをやめようと思う瞬間があったんです。あまりにもどうでもよくなったので。知らない人たちがわんさか出てくるようになって、もう世界はめちゃくちゃになっていて、人物は合理的な行動を取れずにいて、一体どこで動力が稼働しているのかもわからない世界があって、もはや90年代的な空気などどこにもなくて。
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 やっぱりもう、今までの枠内で語るのは無理なんでしょう。監督も新しいことをやりたいのでしょうね。知らない人が出てきたり、今までの設定ひっくり返したりするのを観て、これならまったく新しいアニメをつくったほうがいいんじゃないかとも思ったのですが、まあそうは言ってもそれでは制作費も出ない。エヴァという枠組みを利用しつつ、最大限新しいものを描き出そうとしていたわけです。観終えてから考えると、その苦労みたいなもんがちょっと伝わってくるのです。
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 観ている間はカヲルとシンジの薔薇的くだりがあったり、真希波のノリが今回もまた鬱陶しかったり、もうこんな世界になっているのならどうでもええわ感満載だったのですが、観終えてみるとむしろ、「どうでもよすぎて好きになる」という作用が脳内に生まれたのですね。
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ある意味で「ポニョ感」があるんです。「ポニョ感」というのは、『崖の上のポニョ』がそうであるように、あまり肩肘張らずにぼけえっと観てたらおもろいやん、ということです。正直言って世界の崩壊がもうインフレを起こしすぎているため、まともに観る気が失せてくるわけですね。あの中で必死扱いてアスカが暴れ回っても、いや頑張れば頑張るほどに絵空事感が大きくなってくる。だからこれはその絵空事感を捉えて楽しんでいればそれでいいのであって、かつてのエヴァが持っていたような世紀末的な何事かなど、もはや論じるべき作品ではないのです。
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 だいたいにおいて人物たちの行動に合理性がないわけです。大人や渚に言いたいのは、「シンジにもっと説明したれよ」ということです。なんだか思わせぶりに、大事なことは言わないぜ的に振る舞いすぎていて、そのせいでシンジがいろいろ引き起こすことになりすぎなんです。
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 作品の構成自体が、大きなツカミを持っているわけじゃないですか。みんなびっくりしたわけですよね。あれ、ぜんぜん違うことになっているぞと。なんでミサトたちがあんな感じになっているんだ、萌えキャラ要素が足されたりしているんだと。で、シンジはこっちの訊きたいことをいろいろ訊いてくれるんですけど、そこでもなんかいまひとつ核心に迫った答えをしてもらえへんなといううちにまたぶっ飛ばされていく。ゲンドウはゲンドウで彼にちゃんと説明したったらええのにまともに会話しようとしない。過去作ではその辺がうまいこと行っていたんですけど、世界観が刷新されているからものすごく気になってくる。
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 東浩紀も指摘していましたけれど、あの地下深くに行ったときに、シンジが暴走する理由がもうぜんぜんわからない。情報強者たるカヲルが土壇場で「やめておくんだ」と言っているのに、アスカも精一杯止めているのに、単にカヲルについてきただけみたいなシンジが勝手なことをするんです。アスカはアスカでアホなんです。もっと説明したれよということですよね。「馬鹿じゃなくてガキね」みたいなことを言うんです。でも、それは仕方ないじゃないですか、シンジは何にもわからないんだから。だったら大人が善導したれよという話なのに、理由も説明しないまま力尽くで止めようとしているだけ。なんじゃこら、です。

 宇宙戦艦がどこでどう出来上がったんだみたいなのは後の話で説明するかもしれないけど、ああいう人物同士の非合理的行動というか、頭の悪い行動が大変に困る。あの異常な世界を生き延びた人間なのだからさぞ切れ者に違いないと思いきやまるで最善の行動を取れない。これではまるで、最高のクオリティのアニメができるのに人間の行動的合理性が描けない、制作者のメタファではないですか。

 でもね、ぼかあね、今述べたようなこともどうでもええやないかという感じになっているんです。ポニョ感に満ちあふれた作品として受け止めています。あれだけ世界を緻密につくってきたのにそんな感じでいくんや、というわけで、まともに考える気があまり起こらない。見方を変えればとても楽しい作品です。勝手にしやがれ感が満載です。というか、ぼかあ碇ゲンドウがひげそりか何かのCMで使われているのを観たときから、ああ、もう世界観を守っていく気とかないんや、あの『リング』の貞子を始球式に使うノリなんだ、と思って、半ばどうでもよくなっている。
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 まったく皮肉ではなく、新作が楽しみです。あんなにもどうでもいいものを、あのクオリティでつくってくれるというのは、なかなかあるものじゃないのです。皆さんも、批評性がうんぬんとか言うのはやめて、ポニョを楽しむときのように、アホみたいな顔をして観るのがよろしかろうと思うのであります。カヲルくんとシンジくんの関係がたまらないのよね! とか、たとえばそんな人たちと同じノリで。あるいは金曜の夜に「バルス!」とか言えちゃう感じのノリで。まさしく、これぞ新劇場版という感じなのであります。ある意味において、これまでの新劇場版三作の中で、ぼくはいちばん好きです。
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ある設定を根本的に変えていれば、素晴らしいものになったように思うのです。
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 放送当時、好事家の間で話題になり、今年の夏には劇場版が公開されるということで、伊集院がラジオでちょいと触れていたのもあって、観てみました。

 あらすじをざっくり言うと、不登校の男子高校生のところに、何年も前に死んだはずの少女が現れるところから始まります。彼女の訪れをきっかけに彼はかつての仲間たちと再会し、死んだ少女への思いを通して再び皆が心を交わし合っていく、みたいな話です。
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うーん、久々なので加減がわからん。いや、これはですね、ぼくにはちょいときついところもありました。その理由はもう完全に明白で、ヒロインたるめんまのキャラクターです。あれはねえ、もういい年をこいてくるときついですね。だからもう、ぼくみたいなもんは端からお呼びでないというか、めんまについていけない人間は観ちゃ駄目なのかもしれませんね。あんな風な萌え萌え幼女的な感じで来られると完全に引いてしまうのであって、あるいは『ハルヒ』における朝比奈みくるのようにキャラづけに何か批評性があるのかと思いきや最後までそうでもなく、めんまがきゃぴきゃぴするたびに心がささくれ立ってくるという不健康な状態で観てしまったので、その辺がどうもあれなんですね、はい。
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 同年に放送された『まどかマギカ』も序盤は萌え風味が鼻につくなと思いつつも、結構物語的な部分とか魔女戦の演出とかキュウべえの謎とかがあったのでよかったのですが、今回はめんまがねえ、うん、ここについては後でちょっと掘り下げます。
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 あとは「デレヤレの構図」ですね。これは思いつきの造語ですが、ラノベやアニメに広く観られる構図です。冴えない主人公のもとに突如現れた少女が無償の愛を捧げながらデレデレし、一方主人公は内心惹かれているにもかかわらず村上春樹由来の「やれやれ」な態度を取る。アニメでは『うる星やつら』のラムちゃんがその金字塔ですが、それをいまだにありがたがっている状況含めて、ちょっと辛かった。
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 観終えてみると、めんまに引きずられたというか、持って行かれた部分がかなりあるなーというのが気になります。主人公と四人の仲間たちが出てくるんですが、彼らの造型というか、物語面がちょっと弱いように思いました。悪く言うと記号的にも思える。確かにそりゃクールなイケメンが女装したりというフックはある。でも、観終えて振り返るに、彼らのことをあまり長くは覚えていないだろうな、と思えてしまう。特に、ぽっぽとつるこは役割的な描かれ方が大きく、彼らの内面に踏み入れない。最終回で感情が爆発するのですが、それまでの話で重しが充分に機能していない。ぽっぽなんかは特にそうでしたねえ。最終回前まで、賑やかしの安定キャラでずっと行っちゃった。あれはどこかで伏線を張っておくべきだった。
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いろいろと文句を垂れてしまい恐縮なのですが、めんまに引っかかり続けていた人間としてはずばりこう思うのですね。賛同を得られる見込みの少ない、元も子もないことを言いますね。

 ぼくね、これはね、めんまの姿を見せないほうがよかったのではないか? という風に思うんです。

「何を馬鹿なことを言っているんだ! めんまはあんなに可愛らしいのに!」

 ええ、だからもうね、めんまが好きだという人は読んでも意味がない話をするので、切り上げてくれて結構です。でもぼくは観ながら、ああ、これ、めんまの姿が視聴者にも一切見えていなければ、それこそすごいアニメになったんじゃねえかなあっていうのがあるんです。

視聴者は最初からあのとてつもなく可愛いめんまが見えてしまうわけで、主人公とずっと目線を共有することになるんですけど、その分、仲間たちが見せる当初の不理解ぶりを一切共有できない。先ほど、仲間たちの造型について述べましたが、それと繋がる話です。
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 勝手なことをあれこれ続けますが、これ、作り方としては、せっかく十一話あるのだし、他のメンバーを主軸の視点にして数話つくったほうが、深まったんじゃないかって気がしてならないんです。視聴者にも見えないようにしてそのつくりにすれば、もっと彼らに寄り添えた。あ、ネタバレをしますね。知りたくない人はここでやめてくださいね。
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 ええと、続けます。
 そういうつくりにして、最後の最後にだけ姿を現せば、「みぃつけた!」が最高に活きた。あそこでみんなが見つけてもねえ、こっちは第一話からがんがん来られてますからねえ。「みぃつけた!」からの、消えてしまう、がぜんぜん活きないんです。その「夏の幻」感がない。まったく得られない。
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姿を見せずに声やものの動き、あるいは筆談でその存在を示す。それを視聴者も共有する。めちゃくちゃなことを言っているようですけど、これは実は最もアニメ的な表現の提案でもあるんです。というのはね、そのやり方は絶対に小説ではできない。やっても仕方がない。それに漫画でもできない。漫画ではものが動いたり声が聞こえたりをアニメほどアクティブには描けないですから。あるいは実写映画でもできない。実写映画でやったら、成長前のめんまと成長後のめんまの役者が変わるので、最後の場面を説得的には描けない。そう考えていくと、姿を一切現さなかったら、もっともっと深く刺さるものになったんじゃないかって気がしてしまうんです。

 事実、筆談で仲間たちがめんまの存在を知る場面がありますけど、あれなんかも、姿が一切見えないほうが鮮烈に映ってくるはずだし、ラスト近く、仲間へのメッセージとしてへたくそな字で書かれている文字も、『アルジャーノンに花束を』よろしく、「消えていく存在」の儚さが強まった。主人公には見えていていい。でも、視聴者が見えている必要はない。

めんまが高カロリーな萌え萌え幼女キャラで実在感を示してくる分、周りの仲間にしても、めんまの母の狼狽にしても、ちょっと滑稽に感じられてしまう。視聴者には完全に見えている分、彼らの感情の揺らぎをまったく共有できない。

 なんであんな萌え萌え幼女造型にしたんだろう、というのがものすごく引っかかる。そんなの腐るほどある。地味な見た目になるのを回避したかったのでしょうし、キャラ商売をするうえではそのほうがいいのもわかるんですが、「この話を形作る上で最も的確な方法だったのか? 視点構成だったのか?」というのがすごく疑問として残る。文句ついでに言うと、なんでめんまだけあんな西洋人的な感じなのか。ウィキによるとロシア人の血を引いているなんてことなんですが、その設定の必要理由が何もわからない。単に画的な華を添えたいのか? 透明感みたいなことを言いたいのか? いや、透明感ってキャラでもないわけですし、なんであんな風に妖精的な持って行き方にしたのか。精神的には子供のままなのに肉体は大人びている、みたいなところの媚び要素もあざとくて鼻につく。この話の良さを高めるうえで、本当にあのキャラ造型で正しかったのか? 日本人のコスプレイヤーは泣きを見るぜ。白人にやられたら勝てないぜ。

「正しいに決まってるし。てかめんま超可愛いじゃん。何文句つけてんの。イミフww」

おまえはいつまで読んでいるんだ。読まなくてよいと言ったのに。
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だからあれですね、結局こういう共感を得られそうもない提案をしているぼくのようなじじいは、対象年齢から外れているんです。ポケモンが懐かしゲームとして出てくる設定にしてもそうで、中高生が観て満足すればそれでよいのですね。逆R―20指定作品として設定してもよいのかもしれません。中高生向けのアニメにわざわざ当たりに行っているぼくが当たり屋なんです。どうかご容赦くださいませ。今後の更新は未定ですが、引き続き気まぐれにやっていこうと思います。それじゃあ今日は、この辺で。

小説もよろしく!

愛国計画

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十代の方がご覧になればよいのでしょう。
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やまださんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

前回の『スカイ・クロラ』もそうですけど、大人が観るにはいささかナイーブすぎる、もしくは甘味がきつすぎるような映画ってのがありますわね。クオリティは大人が観てもすばらしいと思えるけど、その内容はもう二十代以上には通用しないんじゃないかみたいな作品というのがあります。しかし原恵一監督と言えば子ども向けど真ん中のあの『クレヨンしんちゃん』をむしろ大人のほうが泣けてしまう地平に持って行くという前人未踏の離れ業を成し遂げているので、どうかいな、と思って観たわけですが、ううむ。
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 冒頭は死後の世界から始まります。そこでは主人公の姿は明かされず、とにかく彼が既に死んでいること、そして生前の記憶もなく自分が誰なのかもわかっていないことが示される。その一方で、「あなたはもう一度人生をやり直してもらいます」と案内人みたいな少年に言われ、「自殺を図った小林真という少年に乗り移りなさい。彼は魂が抜けているから」と指示を出されます。主人公は自分が誰かもわかっていないので、「え? それは誰? 見知らぬ相手に乗り移るの?」的なことになって、そこから話が始まります。主人公は自分が誰だったのかもわからぬまま小林少年に乗り移り、小林少年としての生活を始める、とこのようなわけなのです。
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 さっそくネタをばらしにかかりたいのですが、その前に声優の件に触れます。原監督の前作『カッパのクゥと夏休み』のときもぼくは苦言を呈していたのですが、今回は輪を掛けてノイズに感じました。主演の子は前作でカッパのクゥを演じていて、その演技についてもぼくはぶう垂れていたわけですが、今回は彼がメインで、うん、ちょっと、どうなんですかね。その役がミスキャストかどうかってことは、突き詰めれば個人的な感覚でしかないわけで、そうとわかったうえで言いますけど、この主人公の少年には合っていない声じゃないですかね。仮にそうでなくても、演技がへたくそじゃないですかね。声優がへたくそだって思うことはあまりないんですけど、これは強烈に感じました。なんでこの子を二回連続で、メインで扱ったんでしょう。芸能事務所の意向なのか、はたまた二回連続ってことは監督もしくはプロデューサーの意向か。いや、監督にせよ声優の子にせよ、いい人なんだろうなと思います。声優としてすんごく頑張っていて、監督もそのがんばりを見て今回も起用したのでしょう。だから出来はどうでもいいんでしょうね。人と人との温かいつながりがあるじゃないですか、それでいいです、もう。

 あとは有名な俳優なりタレントを使うと制作費が上がるから、仮に声優業界の畑がやせ細ろうとも、麻生久美子演じる母親がずうっと麻生久美子そのものであり続けたとしても、それでいいんでしょう。舞台にせよ映像にせよ、役者は表情と身体を用いて表現するものだから、声優に比べて声色の微妙な調整をする技術に長けているわけではなく、そのための訓練をしてきたわけでもなく、ゆえにキャラクターと声との間にどうしようもない距離があったとしても、それはいいんでしょう。そんなことにこだわるほうが馬鹿げているんでしょう。だったらもういっそのこと、顔も何も麻生久美子や南明奈や宮崎あおいや高橋克実に似せてみたらどうですかね。そのほうがもっと集客が見込めるはずです。だって、突き詰めたらそういうことなわけでしょう? 彼らの名前や存在が集客になるって考え方でいくわけでしょう。だったらいいじゃないですか、そのほうがカラフルで。

 さて、余計な悪態はこの辺にしたいのですが、今日はちょっと辛口になりそうな気配です。リクエスト作に辛口はなるべく避けたい、それは今回のリクエスト作評当初から申してきたことですが、これはちょっと、どうなんでしょう。だから先に申したとおり、これは十代向けだと思います。二十代以上はきついと思う。だから十代の人は、じじいがうぜえこと言っている、と思ってくれればよいのです。十代の純真無垢な心に突き刺さる快作なんだと思うんですたぶん!
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 早めにネタをばらしますと、この死んだ主人公、正体は誰なのだ? ということをひとつの引っ張りにしたいのでしょうかね。あれはもうぜんぜんオチになっていなくて、構造上あの少年と同一であるってことしかないんです。もうそれ以外の回答がない。そこはばれているのに、ばらさない感じでいこうとしているから、随所随所無理が出てくる。これはちょっときつい脚本です。
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自分が誰かわかっていなくて、この小林少年に何の思い入れもない、というところからスタートする半年間なんですが、結局この主人公の魂の正体は小林少年なんです。そういう結末なんです。つまり、自分が自分だと気づいていなかったって話です。
 でも記憶がなくて、自分だとわかっていなくて、何の思い入れもない、と。そのくせ、母親が不倫していた過去にやたらむかついていると。この辺がねえ、扱い決めかねている感がすっごいするんです。おまえは過去を知らんことになってるんちゃうんかと。だったらもっと客観的な感じで、「あんたがそんなんだから息子は死んだんだ」みたいなことを言わせちゃったりすればいいのに。それと、友達ができるくだりですね。あれにしたって、「友達はいいなあ」みたいなことになりますけど、過去のないやつが自分の正体すらおぼつかない状態で、そんな風になりますかね。正体不明で自己同一性を保てずにいるということで行きたいのか、自殺をはかった小林少年で行きたいのか、そこがどうもねえ、「正体が小林少年だってことは後でばらす」という意識が働いているせいなのか、ちゃんと描けていないように思えるんです。

 相手の過去を知らないはずなのに妙に相手の過去を不快に感じる。自分の履歴がないはずなのに自分事として感じる。好意的に解釈すれば、彼の中にある無意識の記憶がそうさせたのだ、みたいなことは言える。でも、だったらそこは観客に先にばらしちゃっていいと思うんです。小林少年が自殺して、でも本人はそれを忘れて生まれ変わったような気分でいる、という構造のほうが、つまり観客を主人公に対して情報優位にしておいたほうが、彼の内面の動きの見通しが格段に良くなる。この映画では主人公の正体が不明ということに一応はなっているので、観客も主人公のことがわからない。わからないのに勝手なことをいろいろするし、演技もへたくそだから、彼に移入できない。
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 あとは、宇多丸さんが言うところの「テーマを台詞で言っちゃう問題」ですね。テーマを台詞で言うってのは、それが描き切れていないことを作り手が認めているに近いんじゃないか、という気がしてならない。いや、それをアクティブな会話で表現したり、互いに口論させて観客に考えさせる、とかそういう形式ならいいんですけど、あの美術室のシーンなんかで、「カラフルでいいんだよ」みたいなことを言わせるのはきつい。あの南明奈はあの後も、「そうだ! ひろかはカラフルなんだ! これからも援交してカラフルな洋服を買うんだ!」となりそうで心配です。彼女は金がほしいとやつれているようにも見えず、わりとノリノリでやっちゃってる感があります。それとも、本作はジュン・スチュアート・ミルの提唱した愚行権を大幅に認める、リベラリズム的思想を称揚するものなのでありましょうか。それとぼくは一人称を自分の名前で呼び、単語的に会話することで幼児性をアピールし、それをカワイイに繋げようとする連中がほぼ無条件に嫌いなのです。つまりこのひろかちゃんを好きになれなかったので、勝手にせえとしか思えなかったのであります。
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 人様のブログを参考にすると、本作は原作が98年出版で、援交も今とは違う状況下に置かれていたようです。エアマックス狩りもそうしたことなんでしょう。でも、うん、あの、ケータイを普通に持っているんですよ、友達のいない中学生の小林少年が。だからこれは2010年のものとしてやっぱり観るべきなんでしょう。だったら援交の話はもっと脚本の段階で練るべきでしょう。練る気もないなら、ちょっと別のもんに置き換えたりなんなりすべきでしょう。2010年になっても援交をしている少女たちに向けてのメッセージが「カラフルでいいんだ」かよ。まさしく新自由主義のゼロ年代を文化的にまで体現したような思想でありまして、これを退廃と呼ぶのは時代錯誤なのでございましょう。
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 人物造型が中途半端なわりに、風景を妙に写実的に描いているのもよくわからなかったところです。風景を写実すればするほど、人物の薄さが際だってくる。しかも役者の顔が見えてキャラとしての自立性が奪われた状態で、です。あの二子玉界隈をめぐるくだりは何なのでしょう。あれもね、記憶がないっていうところを何か活かすのかなと思ったんです。それもしない。というか、記憶がないという設定はあの場合、むしろ邪魔。
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 記憶があれば、自分はこの町で育ったのに、ぜんぜんこの町のことを知らなかったんだな、という話に持って行けて、そこから記憶の尊厳と事実性の話に持ち込めたのに、『オトナ帝国』の原監督ならそれができたはずなのに、この脚本ではそんなことをかすめさえしない。単に、友達っぽい少年との交流という部分に矮小化してしまう。
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「カラフルでいいんだ」「生きていればそれでいいんだ」的なメッセージを受けて感動するほど、もうぼくは無邪気じゃなくなっている。とすれば、この映画からぼくは何を学びましょう。日常の風景がカラフルに見えてくる、ような感覚も得られなかったし、役者のやりとりから何かを得るにもさすがにノイズが大きすぎた。ちょっと、ちょっと、ちょっと今回の作品はきつかったです。見いだそうとする行為をノイズにかき消され続けました。ぼくは有益なものを何も読み取れなかった。お気に入り作品でしたら申し訳ない。
 帰り道のコンビニでフライドチキンを食べて肉まんを分け合って、ああ、友達っていいものだなあ、と思えるような若さを持った人たちには、お薦めしましょう。そして、この映画を観て豊かな気持ちになれるとしたら、そのほうがきっといいのです。そのほうが健全なんでしょうきっと。ぼくは駄目でした。申し訳ありません。
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