「ほっ」と。キャンペーン

カテゴリ:ドキュメンタリー( 17 )

真意はどうあれ、トリックスター。
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ニュークスさんよりオーダーいただきました。ありがとうございました。

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ぼくたちは知っているはずなのだ。
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その陶酔感においてはマスカッツの方々を凌駕する。
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 以前の記事でも述べましたとおりに、「マスカッツを愛するとはすなわち、マスカッツを超えるものを求めること」。というわけで、ぼくたちは新たな希望の依りしろを探すことが大事なのであります。そしてそのためにはAV女優のアイドルをどんどんと世に知らしめていくことがこれ大事であろうと思い、その種のキャンペーン記事でございます。映画評はどこへ行った、これではAV評ではないかね、もうおまえのブログは見ないぞ、と言われましょうが、映画評はそのうちやるので、今回はご勘弁願います。映画は放っておいてもみんな観るのです。マスカッツの種を広めるためなら、ブログの方針などどうでもよいのです。
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マスカッツの創生におきましては、蒼井そら様や麻美ゆま様、吉沢明歩様やRio様、あるいはみひろ様という存在が不可欠でございました。そうした超一線級の方の発掘が重要でございます。そうしたときにkarasmokerがなんとしても語らずにはおられないAV女優、第一弾。由愛可奈さんでございます。「ゆめかな」と読みます。
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由愛可奈さんの作品を網羅しているわけではぜんぜんないので、もっと魅力を語れる方もおられようかと思いますが、ぼくはこの作品を観て、おおう、これはちょいと、なかなか、おおう、と感銘を受けたのであります。
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構成はというと、インタビューと絡みを繰り返す形式でございます。両方ともがきちんと見所であって、彼女の素顔を活写しているのであります。
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 マスカッツの偉大なる功績として、AV女優が背負う陰を和らげたということがあります。人にばれてはいけない、なんて後ろめたく生きるのではなく、堂々とAV女優が光のもとに立った。自分の職業はAV女優である、というアイデンティティを誇らしいものとして認めさせた。あるネット番組の中で、かの吉沢明歩様がおっしゃっていた言葉を知る人があるかもしれません。彼氏にAVをやめてくれと言われたらどうするか? と尋ねられた彼女は、凛としてこう言い切りました。
「やめない。やめろと言われてやめるようなことはやっていない」
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由愛可奈さんも、堂々とAV女優として生きていらっしゃるのが本作でわかります。ご両親には、デビュー前に既に話したとのことです。AV業界は広く深く、親にばれたのでやめるなどという方もいらっしゃいますし、そのほか職業の特殊性ゆえに人格的な支障を来すケースもあると聞きますが、彼女は自信の職業的アイデンティティを真っ当に保持しているようなのであります。実に頼もしいのでございます。
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 彼女を推さざるを得ないのは、セックスにおけるその心酔ぶりであります。これはAV女優にとってとても重要な要素です。こう言ってしまうとあれですけれど、マスカッツの方々は実はこの点が弱い。皆様は女優としての心得が十二分にあるがゆえに、見る限りそこまで自己を解放しない。「マスカッツのAVって抜けないよね」というネット上の声も多くありますが、原因の一つがこれでしょう。今回は詳述いたしませんが、これはエスワン系AV全般に見られる傾向ではないかと思います。
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その点において、由愛可奈さんは蒼井そら様をはじめとするマスカッツのほとんどの姐さんたちを既に凌駕している。そう見えるのはもちろん監督であるカンパニー松尾さんの手練手管があってこそとも言えますが、別の作品においても、由愛可奈さんの奔放さは時として半ば感動的ですらある。痴女的演技においても、ああ、ここまでの演技ができる女優は、マスカッツの中には誰もいないとまで思わせる。こういう方を目にすると、壇蜜ごときがエロスの代表格のように言われているメディア状況が、いかにゴミ同然のものであるかが知れましょう。あんなの、黒木香の足下にも及びやしねえじゃねえか。
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 由愛可奈さんのような方がたくさん出てくれば、種子の繁栄も夢ではないと思えます。
 吉沢明歩様やみひろ様と一緒にバラエティに出たりもしているので、その点でも有望株でございます。一方、普通の映画などでの演技は、トレーラーを観る限り、あまり優れたものではなさそうな気もします。彼女は女優ではなく、まさしくAV女優であると言えましょう。
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作品内容に踏み込んで評しておらぬではないかと言われそうですが、いい映画を観た後のレビウが時としてそうであるように、「うだうだ言うより観てもらった方が早い」と思ってなかなか書けないこともあるんですね。最初の男優との絡みはそれほど好みじゃないんですが、カンパニー松尾との暗い室内での絡みは絶品です。

今後も気になる女優を取り上げていきたいと思います。
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 ところで、この種の記事は何かに引っかかるんでしょうかね。
 18禁の映画はよくて、AVはいけないのかな?
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うまいことやっていますねえ、「アイドル=聖女」の枠組みの中で。
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 つまるところ、宗教たるものはその信者にとって一等尊いものであり、信仰せぬ者においてはほとんどどうでもよい代物なのでございまして、ぼくなどにはもう一ミリとも響かぬものであったというのは、致し方のないことなのであります。しかしなんでも、最近では元メンバーの方がなんとあのイエス・キリストを超越なされたということで、だったらもういっそのことオバマもロムニーも蹴散らして大統領になればよかったのにと思いもするのですが、そこまで言うなら観ておこうと思って、観てみたの。

 ただですね、申したとおりに、この映画はある種の宗教映画でございますから、異教徒のぼくがどうのこうの言うのも唇寒い話なんですね。その信者の方々が満足されていればいいわけです。非常に話を続けにくい状態であります。変に絡まれるのも、面倒くさいだけです。

 異教徒なりに思うのは、「うまいことやっているなあ」ということですね。表だけではなく裏も見せまっせと。観る者に「おお、これが裏か」と思わせる。宇多丸さんは、「アイドル映画の臨界点だ!」とおっしゃっていますが、要するに、「AKBに惹かれる程度の人たち、を満足させる程度に、裏」なんです。うまいことやっています。さすがですね。

 たとえばあの選挙のくだりですね。誰が何位だ何位だ、一位だ二位だと。で、華々しいあのステージの裏ではこんなことがあったのだと。そういうのをファンは観たいわけで、そのニーズにきちんと応えているんです。うまくやっています。ただ、ぼくは異教徒ですので、一位とか二位とかってことがもうどうでもいいわけです。何をこの人たちはそんなことに熱くなっているのかな、とぽかんとするのです。

 ツタヤに行くとポップに「ジャンル:戦争ドキュメンタリー」とか書いてあったり、宇多丸さんもそんなようなことを言ったり、あるいはこのグループが「社会現象」として語られたりする。そこまで言われると困ってしまいます。当然本当の戦争はそんなものではあり得ないわけですし、世界でも昨今政変ラッシュが続き、日本でも与党が変わろうとしている。そちらのほうに重きを置いて社会を眺めている人間からすると、何を熱くなっているのかまるでわからない。オバマとロムニーの戦いには注目しました。都知事選にも衆議院選挙にも注目します。中東情勢にも注目します。現実社会のことですからずっと重いわけです。そんな時代にあって、「これはもはや戦争ドキュメンタリーですよ!」みたいなことを言われても、ねえ?

 ぜんぜん関係ないようですけど、大統領選とか自民党の動きとかを眺めながら、近頃は右翼と左翼について考えたりしていて、三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地での演説などを動画で観たんですね。すると、ぐうっと胸に迫るものがやはりあるわけです。その思想はどうあれ、ああこの人は本気の本気で日本を憂い、行動に出たんだなと感じ入るものがある。そういうのを観ていると、「票数は愛です!」「うおーっ」みたいなのは、ねえ?


(ちなみに、ぼくは憲法の改正は条文によっては実行されるべきであろうと思っていますが、今の自民党程度の草案には賛成できません。)


こういうことを言うと、アイドルに浮かれることを悪く言っているように思われそうですね。でもそうではありません。異教徒と申し述べたように、ぼくはぼくで恵比寿マスカッツを信奉しております。恵比寿マスカッツ信者の切り口で、ちょいと話します。


 恵比寿マスカッツは主要メンバーがAV女優であります。彼女たちは普通のアイドル的活動をしながらも、その一方ではAVに出演している。ペニスを咥えヴァギナを舐められ、涎を垂らし小便を垂れ、アナルを露わにしファックに喘いでいる。そんな姿を堂々と見せている彼女たちは既に、十分すぎるほどに十分な「裏」を見せているわけです。恋愛禁止だと処女幻想を振りまくなど、彼女たちには端からあり得ない作法です。 

信者としては、その振れ幅に魅せられる。彼女たちは単なる聖女ではない。聖女と売女の両面を露わにした、類い希なる存在として顕れている。そういうものに魅せられている人間からすると、あまりにもどうでもよいものに見えてしまうのです。 
 世の人々は聖女を崇め、売女を誹る。彼女たちはその誹りをも覚悟の上で、その裸体を晒している。その心意気を買わずして何が日本男児でありましょう!

 こういう異教徒にとってみれば、傷つきながら夢を見られても、どうでもいいとしか言えぬのです。マスカッツの作品それ自体が持つドキュメンタリー性に比べれば、と思ってしまうのです。けなしているのではまったくありません。聖女を聖女として崇めたいのなら、どうぞどうぞご覧になって頂くのがよろしかろうと思います。
 ただひとつ、確か、イエス・キリストは人類の原罪をその一身に背負い、人々は彼を信ずることで神からの赦しを得るのだろうと思うのですが、この文脈に照らすならば、AKBの元メンバーがキリストであろうとは信じられません。AKBはこの映画をもってしても、「アイドル=聖女」の枠組みをなお遵守し続けているのです。

 恵比寿マスカッツは己が売女として石を投げられることをも覚悟しながら、僕たちの下卑た欲望を肯定し、生を肯定する存在なのであります。「おまえたちが生を受けたのは、かような営みがあってこそなのだ」と教えてくれるのであります。最初の人類たるエヴァは知恵の樹の実を食べ、裸体に恥ずかしさを覚え、楽園を追放された。であるとするなら、原罪を背負いながらも陰部を露わにするマスカッツの営みは、ヤハウェへの挑戦であり、サタンとの融和であり、原罪の超克なのであります!

 そろそろ何を言っているのか、自分でもよくわからなくなってきましたが、まあ、もうなんでもいいや、ええと、(適当に締めておいたほうがいいな、そうだな、よし)、

 AKBと恵比寿マスカッツをこれ以上引き比べるようなことにならぬように、どちらでもないこのユニットのPVで、平和的に締めましょうか。

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ものの良し悪しって何なのでしょうかね。
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 好事家の間で話題を生んだドキュメンタリー作品です。なかなか考えを揺らせる作品でありまして、よい映画でございました。

 バンクシーというのは正体不明のグラフィティアーティストでありまして、街角の壁にいろんなアートを描いている人です。政治的メッセージ性のある作品なども描いていて、世界的な注目を集めているようです。

 映画はバンクシー監督名義になっているのですが、少しややこしいのは、映画自体の始まりが彼ではない、ということです。最初はティエリーというカメラ好きのおっさんのハンディカムから始まって、彼がいろんなグラフィティアーティストの活動を追いかけるのです。バンクシー自身が出てくるのはずいぶんと後で、最初のほうはぜんぜん絡んでいないんです。このティエリーというおっさんの話でもある、というかそちらの話になっています。ティエリーというおっさんがバンクシーと接触したことで、バンクシー監督による作品が生まれた、そんな珍しい構造なんです。
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 本作を観て誰もが感ずることは、アートって何やねん、という問いでしょう。全編がこれをめぐるお話と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 
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 グラフィティアーティストといって、まあ街角に勝手に描くわけです。違法行為だから見つからないように夜な夜なささっと描いて逃げたりするんですね。日本の街角でも変な落書きみたいなのが方々にあったりします。
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 それ自体がどうやねん、というのもありますね。知らない人の建物に勝手に描きまくって、それがアートなのだ、どうだ、と言われても、ぼくはそれを消す仕事をしている人のことを考えてしまったりもします。消すの大変だろうなあ、とかね。自分で描いて、自分で消していたらまだいいんですけど、言っちゃえば描きっぱなしですからね。穏やかな町並みの中に、手前勝手に表現活動されてもうっとうしいだけやで、みたいなのを感じる部分もあります。
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 うん、それはあるかなー。いや、バンクシーみたいにね、政治的な意見の表明としてやっている分には、意味があるというか、わかるんです。言論よりもわかりやすく人々に伝わるというのは間違いなくあるし。ただ、それを芸術表現だみたいにしているのを観ると、なんか違うんちゃうかな、という気もしてしまう。

 そもそもの話、ぼくはアート感度が大変低い人間であります。もし人にアートの話をされてもきついもんがあります。ただ、この映画はアートの中身うんぬんよりも、その外側。受け取る側に突きつけてくるものがあるので、とても刺激的です。芸大や美大の人とか、アート関連で飯を食おうという人は観ておくべき作品だと思います。

 バンクシーを追いかけていたおっさん、ティエリーですが、バンクシーから自分でアートをつくりなさいと言われます。これは別に彼に才能があると思ったからではなく、ティエリーが自分でつくった記録映画が、ぜんぜん駄目だったからなのです。バンクシーは、「自分の作品はすぐになくなってしまうし、映像として記録に残るのもよかろう。ティエリー、ちょうどいいからおまえの映像を編集して映画にしてよ」と言ったのですが、これがまるきりどうしようもないので、とりあえず彼にアート制作を勧めたようなものなのです。
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 ここからが面白くて、ティエリーは自分でいろいろ始めだして、大きな個展を開くぞ、という話になるんですけど、そのアートの中身はといえばどうにも無個性というか、自分の内側から生み出したものじゃねえじゃん、っていうかぱくったりとかしまくってんじゃん、みたいなものになっているのです。
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 ただ、これまた面白いのは、彼の個展は結構評価されるんです。勧めた責任上、バンクシーも名前を貸したりしており、彼の名前があるならということで人が集まって、作品が高値で買われるようになるのです。

 さあ、ここがこの映画の大変興味深いところですね。じゃあ、アートってのは何なのだね、という話です。本物のアートとか、偽物のアートとか、そんな言い方がそもそも何を指し示すものなのか。それがわからなくなるのです。
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 いや、アートに限りません。映画もそうだし、小説も、演劇も、音楽も、テレビ番組も、なんでもそうです。何をもってぼくたちは良し悪しの判断をしているのか。
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 いちばんわかりやすいのは数字ですね。数字が出るということはそれだけ多くの人に評価されているということでもあるし、だとするならそれはよい作品なんじゃないかと言える。でも、数字だけで表せるほど単純なものであるはずもない。
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 映画ブログですから映画産業でいうとわかりやすいでしょうね。テレビ局制作の映画が興収の上位を占めると。でも、多くの映画好きからすればそんなものは観るに値しないといわれる。でも、事実として多くの観客はそれを観て面白いと感じている。だったら、良し悪しって何なんだろうね、ということです。

 そのお金によって救われる人が出てきたらもっと事態は複雑です。劇中、アーティストとしてどうやねん、と思われるところの多いティエリーですが、事実彼は大金を手にしている。そのお金を、たとえばですよ、慈善事業に寄付していたりなんてことがあるとするなら、本物のアートうんぬんと言いつつも密かに闇夜街角でごちょごちょやっているだけの人よりも、ずっといいのかもしれない。この映画ではそういう描写はまったくないんですけど、そこを一カ所でもぽんと放り込んだら、観客の認識はもっと揺るがされることになったでしょう。

 アートは内発的に生みだされたものがすばらしいとか、独自のスタイルを確立してこそのものだとか、そういう言説というのは確かにそれらしく聞こえはする。ただ、どうなんでしょうね。受け取る側が満足しているならそれでいいじゃん、っていうか受け取る側に支持されるものがいいもんなんじゃないの? だって、おまえ一人がいくら自分の内面だの経験だのをごちょごちょ言ったってそれは結局おまえ自身のものに過ぎないしさ、そんなのよりみんなが楽しめるものを生み出していたらそれでいいんじゃねえの? という話にもなってくるんです。
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 この辺のことはぼく自身がずうっとずうっと考えていることでもある。
 ぼくは昔から人を笑わせるのが好きだったんです。一時は本気でお笑い芸人になろうと思ったこともあるし、今だってテレビの芸人を観ているともどかしさを感じたりする。でも、ここが微妙なところで、好きではあるけれど、得意かどうかというとぜんぜん話が違うんです。ぼくが面白いと思ったことが、人に伝わらなかったりするんです。逆に、ぼく自身はぜんぜん面白いと感じてなくて、まあこれくらいで人は笑うのかな、程度のことを言うと、むしろそちらがウケたりする。そのたびにぼくは感じる。周りが笑っているからそれはそれでいいんだけど、ぼくはぜんぜん面白くないんだよなと。そうなったとき、ぼくはどうしようもない気持ちになる。
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 そうなったら、ウケているほうが正しい、と思わざるを得ないんですね、その場では。でも、それはぜんぜんぼく自身の中からのものじゃなくて、むしろどこかの流行のギャグだのちょっと変な言い方だのをアレンジしたものに過ぎない。じゃあそれは、この映画で言うところの、本当のアートではないから駄目なのか。そうじゃないだろうと思うんです。
現に、それが受け入れられているから。だから辛いというのもある。

 話はまとまりようもありませんが、この映画はいろいろ問いかけてきます。じゃあオリジナリティって何やねん、とかね。最初のほうに出てくるスペースインベーダーのアーティストにしたって、インベーダーのあれってもともと日本のタイトーがつくったんちゃうんか、そしたらティエリーと何が違うねんとかね。バンクシーがグアンタナモの囚人の人形を置くくだりでも、あれがアートなのかえというのもあるし。

 話はアートに限ることなく、かなり広範囲にわたる話題を引き出す映画だと思います。 観た後に、内容から考えさせられることをいろいろと語らせたくさせます。
芸術関係の人とか、これから知人の個展やなんかに出かけようという人は、ぜひ観ておくとよいと思いますね。
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ラジオにおける伊集院のほうが、酔っぱらい的な面白さを放っています。
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 伊集院光、DVD六ヶ月連続リリースの第二弾です。
 過去にDVD化されている企画で、「酩酊ドミノ」というのがありまして、その第二弾でもあるのですね。若手芸人たちに酒を飲ませ、みんなが酔っぱらった状態でドミノを完成させようというシンプルな内容です。

個人的には、ぐでんぐでんに酔う、というのをもう大学の頃からさっぱりと体験していないですね。許容量を超えて飲むと最終的にはひどい吐き気と虚無感に悩まされるだけ、というのがあるので、それほど酔うのも好きではないし。大学一年の頃に下北沢の居酒屋でウイスキーのロックを煽り、女子トイレを占拠して嘔吐し続け、その後に行ったカラオケ屋でもひたすら便器に顔を突っ込んでいたというのがどうにも苦々しい記憶でありまして、以来酒の失敗的なものはせぬようになりました。 
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さて、DVDの中身はというと、伊集院と芸人たちが酒を飲んで酔っぱらう場面がほとんどです。普段は大人しいという若手が先輩に暴挙を働いたり、せっかく並べたドミノを蹴っ飛ばしてぶっ壊したりなどという、めちゃくちゃな行動が笑いを誘うのです。
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 以前行われた回のDVDもぼくは見ていて、ラジオで伊集院が「今回はさらにすごいぞ!」と煽っていたので期待していたのですが、まあ面白くはあるにせよ、これは前回よりもすごいな、面白いな、となるかといえばそのあたりは微妙でありました。企画自体はまるきり一緒ですので、もう一ひねり欲しくもありました。
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 そもそもドミノにこだわる理由が特にないですからね。酔っぱらう様を面白く見せるにはまだ何かあったのではないか、という気がしてしまうんです。

 たとえば過去、あの「ガキの使い」において、「へべれけ寸劇桃太郎」というのがありました。これはガキのメンバーがもう本当に前後不覚になるくらいに泥酔してから桃太郎の劇を演ずるというもので、とても面白かったんです。松本が川で洗濯をするおばあさんを演じているのに、酔って寝ちゃっていつまでも劇が始まらないとか、桃太郎の中の簡単な台詞がめちゃくちゃな内容になっているとか、いろいろな笑いがありました。

 今回のDVDでいうと、前と違う見せ方がされている箇所がほとんどないんですね。要は「酔っぱらった若手の暴挙」があるばかりですから。それこそ劇などをしてみると面白いわけですが、まあそうなるとガキと被るってのもありますし、別の企画を今すぐ思いつくかというと難しいのですが、うーん、ドミノ、うーん。二回やらんでも、とは思いました、観終えたらね。エスカレートして面白くするってんなら、それこそドミノのスペースに嘔吐しちゃうくらいでもいいのに、そこまでの危険度は皆無ですし。
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 面白いのは面白いんですよ。飽かずに観られはする。ただ、酔ってめちゃくちゃになる快感はさほどにない。
 
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 考えてみるに、伊集院のラジオ自体が酔っぱらいの妄言みたいなところがあるわけです。そのほうがよほど面白い。あるいは多くのバラエティにおける芸人のハイテンションで珍奇な振る舞いは、既にしらふではない人間のものにも似ているわけで、あのくらいの酔い方ではどうにもこうにも、と思ってしまう。酔った勢いで芸人がぶっちゃけてしまう、みたいなくだりもあるんですけど、あの、「ぶっちゃけトーク」なんて、どこでもやっていることですし、それこそ伊集院がラジオでいくらでもやっている。
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ああ、だからひとつわかったんですけど、「崩壊と混沌の快楽」が乏しいんです。わかった、そういうことです。
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 あのー、「これをきっちりやりますよ、しっかりこれをみんなでやるのです、これを絶対にみんなで成し遂げるのです」という確たる約束を築いた後で、いかにそれが壊れていくか、というのが酩酊の快楽なのであって、最初からもう酔ってめちゃくちゃになりますよ、というのがわかっていると、あまり面白くないのですね。前回は最初だからよかったけど、二回目の今回は既に観ている側にも構えができているし。

 だから企画としてやるのなら、ドミノではない、まったく別の何かをきっちりやろう、という方向にまず持って行って、でもそれをいざやろうとする寸前のところで、「景気づけに酒でも飲もうか」みたいにして、で、当初の計画がぐだぐだになっていくようにすれば、これはもう崩壊と混沌の快楽です。ああ、こんなはずじゃなかったのに、ぐっちゃぐちゃじゃないか、というのがあったはずなのです。
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 あと、これは大事なところなんですけれど、酔って暴れる面白さって、やっぱり、「やっちゃいけない」感があったほうが面白いはずなんです。普通にしていなくちゃいけないのにやらかしちゃうのが醍醐味のひとつなんです。それを、「さあ、酔っぱらってください」って方向に持って行くと、芸人は芸人で酔わなきゃっていう変なプレッシャーに行ってしまうところがあるし、それは本来の酔っぱらいの面白さとも違うんです。前回はその辺が手探りだったけれど、それがよかったってのもあるし、今回はエスカレートの名の下に、酔っぱらいの大事な面白さが壊されてしまった部分があると思う。もったいなさを感じます。

 うん、伊集院光がつくるものならではの面白みという点では、過去に出てきたDVDのほうがよほどこもっている、という風に感じます。酔っぱらいの暴挙の面白さ、ということでいうなら、深夜のラジオのほうが活きています。ゴールデンのバラエティでにこにこしている穏和でユーモラスな伊集院さんが、深夜となるとあんな風に豹変するのか! という面白さが、既にこのDVDを上回っているんですね。うん、観てみようと思っている人には、まずは過去のものをお先に、と言っておきましょう。 
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不可知だが左右しうる未来を見据えて。
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ponさんよりお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Into Eternity』
 フィンランドにある放射性廃棄物処理施設とその関連人物に取材したドキュメンタリーです。今の世代が遠い未来にまで残すことになる放射性廃棄物、その安全をどのように「永続」させていけるのかを問うています。
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 この映画について語るとき、当然原発のことについて言及しなくてはいけなくなるのでしょうけれども、今ぼくが「原発について思うところを述べなさい」と言われたとしても、結局何も言えないですね、十分に知識もないですし。「原発」という単語ひとつ取っても、そこに付随する問題は政治的、経済的、社会的、エネルギー資源的その他多岐に渡りますし、危惧される福島原発からの放射能の影響についても現在、専門家の間でさえ統一的な見解を出せていない。ぼくに何かが語れようもないのですね。

 原発は是か非か、推進か脱原発かというのが世間で問われることですけれど、これについてもぼくは曖昧な態度を保持するしかないのです。もちろん、その危険性を考慮するならば原発はないほうがいいでしょう。そして長期的に考えれば、再生可能エネルギーを進めていくべきであろうとも思います。ただ、このような難しい問題について考えるとき、いつでもぼくは「人間万事、塞翁が馬」という言葉を浮かべてしまうのです。何が良きことで、何が悪しきことなのかはわからない。良かれと思ってなしたことが悪しき結果を招くかも知れないし、そのときは愚かしいと思われた判断が次の希望を生み出すのかも知れない。これはもう、本当にわからない。

 むろん、ぼくのようにわからぬわからぬと言っているだけでは何事も進みませんし、実際に活動を行っている人々はすごいなあと思います。ただ、今のぼくにはとてもじゃないけれど全体が見渡せない。どのスイッチを押したらどの部分が動くのか、社会のありようが複雑すぎて見えない。情報には敏感であろうとは思うけれど、すべての情報を集約してそこから総合的な論理を組み立てることはまったくできない。そうなると、言えることはとてもとても限られてくるのです。

 さて、前置きが長くなりましたが、本作もまた「不可知」であることを考えていくような映画であります。なにしろ本作には邦題にもあります通り、「100000年後」のことまでをも考えている人々が出てくるのです。
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 フィンランドにある、放射性廃棄物処理の地下施設「オンカロ」。ここは2100年の完成を目指して地下500メートルまでの建造が予定されており、その中に膨大な量の廃棄物を埋めていくことになっています。
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 完成の暁にはどうなるのか。最終的にその場所は完全に封印され、以後一切、人が立ち入れなくなるらしいのです。いわば禁じられた土地のごとくに、廃棄物を永久に地の底に眠らせるということなのです。
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 ただ、関係者の人たちはその先をも危惧します。100年、200年の単位ならばそれでいいとしても、たとえば10000年後にその場所を封印し続けていられるのかどうか。遥か遠い未来の「人類」、それこそ100000年後の「人類」にまで、その地下に禁忌の物質が埋められていると伝えられるのかどうか。そのことが映画では問われ続けます。
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 想像を絶するとはこのことであります。なにしろぼくたちは数年後の自分さえも想像できません。放射性物質がばらまかれた日本で、数年後どのような事態が巻き起こるのか、誰も断言できずにいるのです。未来に対して不可知であるぼくたちが100000年後のことを考えるなど、まったく不可能に近いのであります。
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 もちろんね、無責任に突き放すことはいちばんたやすいんです。そんな未来のことなんて知らない、と言い切ることは幼児にだってできる。人間という種が存在しているとは思えない、なんてことも言える。あるいは、そんな未来だったら、今の技術を克服して放射性廃棄物を無害化することができているかもしれない、300年後くらいにはできるかもしれないよ、なんてこれまた楽観論を言い放つこともできましょう。その頃にはまず間違いなく今いる誰もが死んでいるのですし、言いたい放題です。

 言いたい放題ということで言うのなら、この問題は「放射性廃棄物の無害化」あるいは、「医学の超飛躍的発展」がなされれば「一応の」解決を見ます。前者よりは後者のほうがまだ現実性があると言えるのでしょうか。たとえば、これはもうほとんど馬鹿みたいに単純な例ですけれども、癌が錠剤一つで解決できるような未来が来れば、ぼくたちの怯えは大きく緩和されます。癌のみならず、放射性物質の蓄積から引き起こされる身体的障害を完全に克服できるというのなら、廃棄物は少なくとも今ほど驚異的存在ではないわけです。

 何を馬鹿みたいな夢想を書いているのだ。恥ずかしくないのか。馬鹿だ馬鹿だとは聞いていたけれど、そんなことを書き連ねるほど馬鹿だとは思わなかった、豆腐の角に頭をぶつけて湯豆腐をつくれ、その湯豆腐を食い「これは酢豆腐」などと言って笑われろ、と思われるかも知れませんが(後半は思われない)、たとえばどうでしょう、癌の克服は難しいとしても、人工身体、それこそ攻殻機動隊の草薙素子のような「全身義体」なんてことがもしもありうるのなら、人間は病気を克服する必要さえもなくなります。義体技術の研究、人工臓器の研究などの発展如何によっては、放射能の恐怖から解き放たれる日が来るのかも知れない。21世紀は無理でも、22世紀には可能かも知れない。SF的な話ではありますが、これが今のぼくに想像できる、「一応の」解決がある世界です。もちろん、現実味があるなどとは思いませんが。

ただ、この映画では100000年後ですからね、もうそうなると想像はつきません。
 想像もできないのでどうしようもないじゃないか、ということになるのですが、それでは実りがないです。この映画から見つけられるのは、「不可知なものへの態度」の重要性です。
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 ぼくたちには未来を見通すことができません。予測はできたとしても、確定はできない。 さて、ところで、なぜぼくたちは未来を確定させることができないのでしょうか。
ふたつのことが言えます。
 ひとつには、ぼくたちは未来を経験したことがないからです。
 ふたつには、ぼくたちの社会は複雑すぎるからです。
 未来にまつわる予測が立つのは、ぼくたちが人の経験を聞いたり、歴史を学んだりしたことがあるからです。これまでの経験からこの先はこうなるだろうとか、こういう歴史があるからこのままではこういう風になるだろう、と一応の予測が立ちます。あるいは理論による予測もできるわけです。
 でも、確定はできません。
 社会は複雑なので、今までと同じように考えることはできないのです。今までならうまく行っていたことであっても、様々な要因が絡み合って変わりゆくために、いつまでも同じというわけにはいかないのです。

 100000年後の安全について考えるのは、実に途方もないことです。考えても仕方がない、と思えるくらいに想像を絶することです。でも、じゃあ、10年後のことは簡単に考えられるかというと、そうはいきません。社会は大変複雑なので、10年後に何がどうなっているかもわからないのです。極論に思えるかも知れませんが、あえて言うなら、100000年後だろうが、10年後だろうが、不可知であるという点でまったく同じなのです。
 もちろん、大きな違いは、10年後の未来は大体予測できるし、今の人間によって左右しうるということ。
一文にまとめるなら、「ぼくたちは10年後について不可知であるが、予測を立てて左右しうる」ということ。
不可知なのに左右しうるというのは大変なことです。であるならば、その不可知の度合いを軽減する必要があり、原発一つ取っても、いろんな側面から考えなくちゃいけないということです。
 原発推進にせよ脱原発にせよ、その論拠を示すときには、政治面から、経済面から、社会面から、安全面から、持続可能性の観点から、入り組んだ物事を解きほぐしていかねばならぬわけです。どれかひとつを切り取ってしまうのは、それこそとても危険です。
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 ぼくはこの映画を観て、未来は不可知であるけれども、だからこそ謙虚になって、左右しうる未来についてはできるだけいろいろな観点から考える必要があるんだ、ということを思ったのでした。なんだかそう書くと、通り一遍の言い方になってしまいますけれどね。
 まあ、ご覧になって観てくださいませ。
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犬猫だけが特別視されるのはどうやねん、という視点も持っておくべきだろうとは思います。
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 タイトルの通り、犬と猫と人間とをめぐる作品で、捨てられた犬猫や野良の犬猫がどう処遇されているのかが描かれています。
 ぼくのペット歴で言うと、中高生の頃にハムスターとフェレットを飼いました。やっぱり愛情は強く感じるものでありますね。その動物が生きたこと、生きていたこと、その事実について記憶できるのは自分だけであるという閉じられた関係性。自分が育てねばこいつは生きていけぬのだ、という責任感。そんなこんなで情を抱くのでありました。

 反面、犬や猫というとこれは愛育した記憶が大変乏しいのでありまして、映画を自分事として惹きつけてみたり、記憶が揺れたりということはありませんでした。映画では犬と猫以外の動物に言及されることはありませんので、なんだかんだで犬猫は特別扱いされているな、という印象も抱くのであります。フェレットが出てきたりしたらぼくはぜんぜん違う見方をしていたでしょう。だから逆に、犬や猫を飼っていた人は強く感じ入るものがあるでしょうね。ぼくはちょっと一歩引いて観てしまいました。
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飼い主のもとから放されてしまった犬猫を、施設の人々が育てる様などが描かれるわけですが、はじめに映画について申し上げておくと、ちょっと手つきが優しすぎるというか、同じことの繰り返しになっているきらいがありました。

犬猫が見放されて、そんな彼らを見守る人間がいて、なんとかしなくちゃいけないね、ということが描かれる。でも、その繰り返しなんです。そこからあまり深まらない。可哀想だということはわかるんですけど、犬猫に愛着のない人間からすると、もっと認識を揺らしてほしいと思うんですね。あるいは、へえ、そんなことがあるのか、というものが少ない。まあ、そういうことなんだろうね、と想像がつくものがほとんどなんです。
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この映画が果たす機能としては、犬猫を無責任に捨てる人たちの抑止力となるんだろうと思うのですけれど、犬猫に関わることがない人間、あるいは犬猫を飼った以上は死ぬまで面倒を見るのが当然だと普通に思っている人間には、それほど感じ入るものがないんです。まあ、この手の映画についてあれが描かれていない、これが描かれていない、と言い立てるのはよくないんだろうし、撮られたものの中から最大限何かを読み取るのが観客の取るべき態度であろうとは思うのですが、いかんせん中盤には退屈した。白状しますが、ぼくは後半は飛ばし飛ばしで観ました。
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 そんなことを書くと、おまえは動物愛護の精神がないのかと言われそうですけれど、ほなら動物愛護ってつきつめていったらなんやねん、ということでもあってね。たとえば、勝手なわがまま全開で言いたいことを言うなら、あの施設の人々、確かに尊敬すべき仕事をしている人々ですが、じゃあ彼らは牛肉、豚肉、鶏肉、魚を一切食べないのか。そういうところには言及がないんです(飛ばし飛ばしで後半を観たので、あったぞそういうシーン、と言われたらぐうの音でも出ません。もしあるとしたら訂正します)。動物愛護ってことを言い出すとその辺ってすごく微妙な領域じゃないですか。犬猫は特別視するけど、牛が殺されるのはいいのか、豚が殺されるのはいいのか、そこには一切踏み込まれない。犬猫が可哀想ですね、っていうところに留まり続ける。確かに最後の方では動物愛護精神からベジタリアンが増えているっていう例は海外のものとして出されますけど、日本の状況ではそういう手つきはなかった。
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 だからもう、ぼくの観たいもの、考えたいことと、監督が撮ろうとしたものがまるきり違うということなんですね。監督はあのおばあさんのお願いをうけて、犬猫の状況をセンチメンタルに訴えたかったということなのでしょう。だからこれを観るべき人というのはおそらく結構限られていて、周りで犬猫を捨てようとしている人に対して観せるものなのでしょう。あるいはペットショップで犬猫を買おうとしている人たちに一緒に買わせるのがいいでしょう。この映画とDVDをつくった人々は、値段をぐっと廉価にして、全国のペットショップに卸すというのがいいと思います。基本的に手つきがものすごく優しいですから、犬猫を欲しがる人なら誰でも観ると思いますし。

 ぼく個人で興味を引かれたものでいうと、冒頭のペットの愛玩状況のほうでしたね。今はペット向けサービスが華やいでいるようで、犬猫向けの誕生会サービスなんてのがあるようです。
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 ぼくはああいうものに関するモンド映画的興味を持ったわけですが、この映画ではそういうのはぜんぜん描かれません。あれはものすごく奇妙だと思いますけどね、完全に人間の自己満足やんけ、と思ってしまいます。あの辺から、ペットビジネスのいびつさみたいなもんを引き出したら面白いのになあ、と感じてしまった。ああいう人間の自己満足的なビジネスを突くことが、この問題の解決に繋がるんじゃないのかい? とも思った。この映画の主眼はそれじゃないのはわかるんですけど。

 この映画が退屈だなあと思った理由は、出てくる人がみんないい人だからなんです。みんな犬猫が好きで、とても大事にしている。でも、その人たちに寄り添うだけで二時間見せられてもなあ、というのが正直な感想です。

 そうは言いつつ、動物ものというのは、実はかなりナイーブなテーマなんですよね。今回の作品で言えば、ペットビジネスに立ち入ればまた別の見方も提示できただろうけど、実際それは難しいし、たとえば食肉業界と家畜の問題についても、深く切り込むのは困難を伴うだろうし、製薬会社と動物実験の問題なんかも難しいだろうし。その点で行くと数年前に『ザ・コーブ』というのがありましたが、あれなどは食文化の問題と生命の問題が実社会を巻き込んでの摩擦となった。動物って結構世間がセンシティブに動くものだから、それを取り巻く企業や団体の調整がものすごく大変なのでしょう。そういう意味では、優しい手つきで控えめに犬猫問題を取り上げる、という方法は、いちばん安全かつわかりやすいものなのかもしれません。
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ペットの話、動物の話はいろいろな切り口がありますけれど、「ペットは家族の一員だ」という街の人の声で、ぼくは少子化問題を連想しました。わかりやすいことに、ペットの数は1960年代から順調に増加していて、いまやペットとしての犬猫の数は人間の子供よりも多いそうです。これは実に興味深い変化であります。完全に相関関係にあるのではないでしょうか。子供を作らない世帯が増え、犬猫が子供の代替機能を果たす。だとするなら、ペットビジネスの拡大は、犬猫殺処分問題と少子化問題の両方に絡んでいるのではないでしょうか。この辺を掘り下げるとなんだか面白そうだなあとも思うわけですが、それは同時になかなかの難題でもありますゆえ、今日のところはこれまでであります。
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これもひとつの世界の戯画。
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テレビや雑誌なんかのアンケートで、面白い芸人とか好きな芸人とかを募ったら、まあ大体明石家さんまであるとか、ビートたけしであるとか、ダウンタウンであるとか、そのほかいろんな芸人の名前が挙がってくるわけですが、トップテンに伊集院光が入っているのを見たことがないですね。若い世代、深夜ラジオに親しみのある世代でアンケートを採ったら間違いなく票を集めるはずなのですが、まあテレビというのはラジオに比べて、やっぱりずっとマスであるのだなあと思います。
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 伊集院は「テレビで面白いことをやる」というスタンスを取ろうとせず、本人もそこは自認しているようで、テレビの視聴者には「汗っかきで朗らかなデブキャラ」として見られているのだろうと何度も語っています。ゼロ年代に入ってからの松本人志がそうであるように、テレビで面白いことをやろうとする難しさに直面していて、主戦場のラジオを突き詰め、かたやこのような形で、バラエティのDVDをリリースされております。
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 お薦めのDVDとしては、ちょうど一年前くらいに取り上げたのですが、芸人草野球の巻きがとてもすばらしいです。あそこには作り手が制御し得ない面白さがありました。石橋貴明がバナナマンのラジオに出演した際、バラエティ一般について「枠の中に収まっちゃうとつまらない。そこからはみ出るものがあるから面白いのだ」というようなことを言っていたのですが、あの草野球の回では、枠の中で起こりうる、しかし作り手が支配しきれない展開が巻き起こる。世間的に、もっと褒め称えられていいと思いますね。
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 さて、そんな伊集院が六ヶ月連続でリリースするというバラエティDVD。これは楽しみがひとつ増えたというものですが、その第一弾として出たのが本作です。
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ゲーム形式のバラエティなのですが、ルールは簡単。
 出演する若手芸人やアイドルたち九名に、だるまを五つずつ渡します。
このだるまはそれぞれのメンバーが八回ずつ、誰かに渡すことが可能です。一個も渡さなくても構いません。
 誰かに渡すことができるのは一回につき最大三個。ただし、特定の一人に向かって複数渡すことはできず、三個手放そうと思ったら三人に一個ずつ渡すことになります。
 自分のもとに送られてくるだるまが、誰から送られたものなのかはわからない仕組みです。
 誰が自分に送ったのかわからない状況でだるまの渡し合い、押し付け合いを繰り返していると、当然人によって、持ち数が変わってきます。多く持ってしまう人もいるだろうし、すごく少ない数だけ持っている人も出てきます。
 その持ち数が最終的に多かった人は、次回の収録に呼んでもらえないことになります。
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伊集院ははじめに、「全員が同じ数であれば全員生き残りだ」と言明します。
 囚人のジレンマよろしく、このゲームで負けない最善の方法は、お互いがお互いを信じ合い、誰にも渡さないことです。一切だるまの流通が起こらなければ、初期値の五個で全員が動かず、全員が平和に生き残ります。

 ただ、それじゃあ面白くないよね、ということで、伊集院があれこれと仕掛けていくわけです。
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 草野球の回もそうですが、伊集院はこういう、互いが疑心暗鬼に陥る系のゲームが大好きです。『真剣じゃんけん』という回があるのですが、今回と同じような心理戦ゲームです。

 そういえば昨年は震災の影響から、「絆」という言葉がもてはやされましたが、表面的な絆が壊れたら、人はいとも簡単にばらばらになるんだよね、というこちらの真理は、人間の世界の一面を確かに捉えているなあと思います。絆、人のつながりというとすばらしく前向きで、そうやってみんながみんなを思いやれば素敵な世の中になるよね、という理想論も結構ではありますが、自分の身を守らねばならない状況下では、そんなことは言っていられなくなるのであります。

 話はそれるようですが、ぼくは絆だの人とのつながりだの仲間だのを称揚する言説が嫌いです。それは最終的に、絆のパワーゲームにしかならないと思うからです。絆って素敵だよね、人とのつながりっていいよね。ああそうかい。だったら、東電と政府の絆も素敵だね。宗教団体と政党の絆も素敵だね。特定人種の中で閉じるのも、絆として素敵だね。

 閉じられた絆を超える手段として、伝統的に採用されてきた方法がありますね。それが宗教です。バックグラウンドの異なる個々人や共同体が互いを警戒し合う行為を、人類は宗教という形で超克しようとしました。すなわち、「最終的に」同じ神を信じている、「最終的に」同じ世界観を共有しているという意識を、互いの内面に植え付ける方法です。最終的に同じ考えを持っている自分たちは、互いの差異にも寛容になれるよね、という思想。宗教的共同体は世界観の共有、信仰の同一をもって、絆なるものを超えようという営みだったわけで、これを国家レベルのわかりやすいものにすると、「アメリカ合衆国の理念」のような形になるわけです。
 ただ、これは一方で、「絆の超克」から「絆」への退行をも同時に内包しているわけで……やめましょう。なんでバラエティの話なのにそんな難しい方にいこうとするんだ。そんなに頭がよく思われたいのか、けっ、なんだいなんだい、インテリぶっちゃってさ。

 情緒も話の方角もめちゃくちゃですが、要するに、人と人とのつながりってのは何だろうねおい、というのを考えさせますね、ええ。これと数年前に発売された『真剣じゃんけん』の連続視聴をお薦めします。で、斜に構えた見方をすると、「彼らは芸人だからあえて面白さを求めて動いているんじゃないか」とも言えるわけですが、現実の世界ってのは、芸人以上に過激にアクティブに動いているものです。今回も「伊集院の火種」があるまでは動きがほとんどないんですが、実世界はえてして、予想もつかない火種が投げ込まれるものでありまして、その意味で本作は人間世界の戯画であると言えるようにも思います。
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 観終えてみると、いろんな選択と、いろんな結果があります。そういう選択をした者が、そういう末路を迎えるということもあるよね……でも、人ってのはさ……社会って、うーん、なんだろうね、と思います。個人的には、田代32という芸人の選択が、なんか、考えさせるもんがあります。ネタバレになるし、あまり言いたくないですけど。
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伊集院によると、テレビでこういうのをやると、反発を食らう時代だそうです。『逃走中』で、他のプレイヤーを裏切るような行動を取ると、ネット上でそのタレントがバッシングされたりするようです。くわ、何なのでしょう、日本が有する病理みたいなもんを感じます。そんなやつらが絆を称揚しつつ実生活では自分に有利に動こうとするのでしょう、嗤うよ。ってなもんです。

 何にせよ、一見の価値あるバラエティです。前半は動きがないので、もっと! もっと!という食いたりなさも多少はありますが、普段人を信じている人ほど、観終えた後で何かを感じるのではないでしょうかね。逆に、人は人を裏切って当たり前だと思っている人はつまらないかもしれないですねえ。自分の人間観を確かめる意味でも、観てみるとよいでしょう。
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この映画を観て考えたこと。
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 数年前にやっていた「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」は毎週チェックしていた、というわけでもなくわりと見逃しているため、あらためて興味深いものを観てみようと思いまして、久々にドキュメンタリーを取り上げます。

 そういえばぼくはコンビニ等で水を買う、ということを日本国内に限って言えばおそらく一度もしたことがないですね。昔インドに行ったときにはさすがに水道水で暮らす勇気はなかったので売店で買っていましたが、日本での生活では水道水で満たされまくっている人間なのです。水を買う、という生活行動がぼくの中に一切組み込まれていないです。

 東京の水はまずい、みたいなことをよく言うと思うんですけど、ぼくは別に気にしないです。放射性物質の問題となるとまた別ですけれど、それでも水を買う気にはならなかったです。っていうかね、震災後の放射性物質がどうしても気になる、という場合は別にいいんですけど、そうじゃない理由で今、冷蔵庫で水を冷やしている人はいったい何なのだと思うんです。水がうまいだのまずいだの言っている人たちにはかなり距離感を覚えます。どうせボルビックだろうがエビアンだろうが六甲のおいしい水だろうが味の違いなんてわからねえくせに、なんでわざわざフランスの水を取り寄せて飲んでいるのかが意味不明です。洗練された人々の中にはお料理をつくる際も水道水ではなく、ミネラルウォーターを用いる方がいらっしゃるそうですが、かあ、ぜってーわかんねえだろと思うのです。水道水でつくったスープとミネラルウォーターでつくったスープの味が違うの?
 
 なんていけ好かないんだ! そのくせ化学調味料とかには無頓着だったりする人もいるのでしょう。水道水には消毒薬がとか塩素がうんちゃらとかごちょごちょ言うくせにファミレスで飯を食ったり冷凍食品を買ったりしているというのはもはやぜんぜんわけがわかりません。正体不明の化学調味料がいっぱい入っているよ! いったい何なんだと言いたくなります。もう自分は完全に舌の肥えたグルメであるってんなら別だけど、そうでもねえのに水を買っているやつがわからない。せめて国内産の水を買うならまだしも、海外の水の売り上げに貢献し続けるのもわからない。

ふう、水を買っている人を敵に回し続けるのもどうかと思うのですが、まあこれはこれでドキュメンタリーの内容にもリンクする話ですからよいのです。
 少し落ち着いて話しますると、「水を買う」という行為には、「手軽に得られる贅沢感」があるのではないか、というのがぼくの分析です。水は買わなくてもいいものじゃないですか、言ってしまえば。でも、そんな水を買うことによって、必ずしも必要ではないものをあえて買うことによって、贅沢な感じが得られるわけです。贅沢というのはいわば、「生活必需ではないものを購入すること」ですが、裏を返せば、贅沢な気分を得るには必需でないものを購入する必要があるのです。そうなったときに、必需性が低ければ低いほど、贅沢さの値が相対的に上昇するのです。しかし、じゃあ無意味なものを買えばよいのか、たとえば怪しげな露天商が売っているゴミみたいな勾玉などを買えばよいのかといえばそれは違っていて、なぜなら勾玉では「さすがに無意味すぎる」とさすがに気づくからです。

ここがお茶やコーヒーでないのもポイントで、お茶やコーヒーだと味があるので、「いい具合に、無味」ではないのです。お茶やコーヒーの「味」を求めると、味の分だけ付加価値が生まれてしまうのであり、付加価値を生み出せば必需性が高まるので、贅沢さが得られないのです。いや、もっというなら、たとえば缶コーヒーなどは華麗なるアーバンライフイメージにとってむしろマイナスで、コーヒーはドトールとかエクセルなんとかで飲むのがスタイリッシュなのです。だからぼかあ思うのですけれど、「水を買う人」と「缶コーヒーを買う人」はたぶん親和性が高くないと思います。カフェに行く人は水を買う人と親和性が高いでしょう。

 何の根拠もないことをいつになくだらだら書いているのですが、やっとこさ映画の話です。本作は大企業がアフリカやインドなどに乗り出し、水道局の民営化を果たして牛耳ってしまったり、自然の川の流れを勝手に変えて水を独占しようとしたりという状況を告発するドキュメンタリーです。

 いろいろと内容を書き連ねることもできますが、それは実際に観て確かめてもらうことにして、最も簡単な感想を要約すれば「ひどい話だ」になります。これまで意識しなかったあれやこれやがわんさか出てくるし、ひどい話だと誰もが思うでしょう。

 ただ、この手の映画で、大企業を批判して事足れりとするのはあまりいい受け止め方ではないように思います。大企業があんなことやこんなことをしている、よくない! というのは実に簡単な話です。でも、それはつまり、大企業だけに責任を押しつける行為なのですね。残念ながら、そしてある意味で幸いなことに、社会はそう単純ではないわけです。

 この企業がこんなひどいことをしているよ! と言っていろいろと話題が出てきますが、ぼくたちはその恩恵に間違いなく浴しているし、関係しています。その企業の規模が大きいということは、その企業と取引している会社も数多くあるわけで、その会社に勤めている人々は取引によって得られる利益に助けられている。そしてその家族は社員の給料によって養われているし、経済はその家族が消費活動を行うことで回っている。

 たとえばこの映画を観て、「なるほど、この企業はこんなひどいことをしているのか、この企業の商品を買うのはやめよう」と思っても、それでお話は終わりません。その企業のおかげで飯が食えている人はいっぱいいる。どこでどうつながっているのかすべてを見通すことなどできはしないから、ぼくたちはその企業を叩ける立場にないかもしれない。その企業が行っている善行だってあるかもしれないし、ぼくたち自身がそれに助けられているかもしれない。これはこのタイプの映画を観る上で大事な考えだと思います。

 もっと端的に言えば、途上国にとってみれば先進国など既得権益の固まりでしょう。格差社会といったところで、スナックや飲み物片手にネットをのぞけるぼくたちは格差世界のずいぶんと上の方にいるわけです。途上国の飢えた人々の姿を見ると心が痛む。これはおおかたの場合、欺瞞です。24時間テレビなどを観て、欺瞞だなんだというけれど、土台ぼくたちの生活はものみな欺瞞です。この映画は大企業を告発する映画であると同時に、ぼくたち自身をも抉ってくるのです。

結局ぼくは何が言いたいんだ? ということを探しているんですが、なかなか見つかりませんね。かろうじて言えることは、他者の欺瞞を他者のものとして観ることと、自分もまたその欺瞞システムの一部だと受け止めることは違う、ということ。それがこの映画を通して考えたことであります。
 
 では、どう違うのか?
 それは一概には言えません。
結局行動を変えないなら同じだろ。
 その通りかもしれない。
 ただ、その知的態度の違いは、たとえば無意味な攻撃を食い止めることはできるかもしれない。あいつが悪いんだ、あいつをやっつければうまくいくんだと言って、全体像も見えないのに何かに制裁を加えて取り返しのつかない事態を招くことは、避けられるかもしれない。であるならば、ぼくたちはぼくたち自身の有責性について自覚的であるべきだろうし、それはひいては無責任な政治的決定を避ける政治的振る舞いにつながるんじゃないだろうかとも思うのです。

 そう考えると、水を買う人々に対して感じるある種の欺瞞性についてもぼくは、今一歩踏みとどまり、別の考えを巡らせるべきなのかもしれません。水を買うのもありなのかもしれませんし、水を買う人々によってぼくの生活は何かしらの形で支えられているのかもしれません。書きながら考えが変わってくるくる。これぞ語りの醍醐味なり。
 
なんだかぜんぜん映画について語りませんでした。たまにあるそういう回です。ただ、ドキュメンタリーというのは、描かれたものを遠くのものとして観るのではなく、そこに自分はどのように関わっているのだろうかと意識して観るべきものなのだろうなとは思うのであり、自分の考えるあれこれが取り出されてくるものなのであります。
前半と後半でぜんぜんトーンが違う記事なのでした。
 おしまい。
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