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「私、日本人でよかった」というポスターが話題になっています。
実はモデルが中国人だった! とかで騒がれる向きもあり、かたや「自国に誇りを持つのは何がいけないんだ」と、批判に抗弁する向きもあります。

 あのポスターに対して、ぼくは否定的です。
もちろん、自国に誇りを持つのは悪いことではありませんし、ぼくだって日本人でよかったなあと思うことは山ほどあります。
 そして、ぼくが好きな日本の美徳に、「謙遜」というものがあります。すごいと言われても、いやいや自分なんてと一歩引いてみせる様が美しいと思うし、それこそが日本人のよさであるだろうとぼくは考えます。

「わざわざ言うのは、みっともねえよ」ってことです。

 たとえば以下のようなポスターや広告があったら、大炎上ないし猛批判を食らうことでしょう。
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 はて、反感を持った方にお訊きしたい。
 美人であること、金持ちであること、天才であること、政治家の家系であること。
 それを誇ることの何がいけないんだ!?

 そう、何もいけなくない。ただ、わざわざそれを言明するのは品がない、みっともないのです。この「みっともない」という感覚がまさしく謙遜の美意識であって、こともあろうに日本文化の要所を担う神社本庁がその感覚を持っていないという点が、甚だしく残念であるなあと思います。

「日本人でよかった」というのはもっと、しみじみと思う深い感覚なんじゃないのかい? 広告のキャッチコピーなどに使うものじゃなく、それこそ神社仏閣の趣深さに触れたり、和食の絶妙な味わいを感じたり、そうしたときにそっと「あぁ、日本人でよかったねえ」と呟いたりするのが、美しさってもんじゃないのかい? 中国人だったとかいうのはこの際どうでもよくて、そういう「粋」な感覚を持たなくなっているのがやばいんです。みっともないんです。

「『日本人でよかった』を批判するなんて、なんて自虐的なんだ」

 違うよ。自虐じゃなくて、謙遜の問題、日本的な美徳の問題だよ。自虐と謙遜の区別もつかないやつのどこが日本好きなんだよ。いちいち声高にそれを口にしないところに、日本の美しさがあるんだよ。ということをわからないやつらが、日本が好きだの愛国だの言っているのだとしたら、正体見たりなんとやらだ。

 あのポスターの問題は、神社本庁ともあろうものが、日本的美徳を忘れていることです。
 みっともない。


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 右翼と左翼、保守とリベラル。政治の話をする際は、とかく立場が分かれがちになります。今回は左右両方の、あるべき姿について考えたいと思います。

 ではそもそも右翼と左翼とは何なのか、なんてことを言い出すと、それこそフランス革命の話だの、日本の特殊性だのというところから振り返らねばなりません。そうでなくても、歴史認識やその他さまざまに違いがあるわけで、ひとつひとつを詳しく見ていく手間は取れません。立場の違いをわかりやすく示すために、ここでは例として、「外国や外国人に対する捉え方」という切り口から捉えてみたいと思います。

左右の違い
 左右の考えの違いを分かつものとして、ひとつに「多文化共生」というものがあります。左は外国人コミュニティも含め、多様な価値観がともにあることを良しとして、そのような社会を推進したいと考えます。右よりも外国人の権利や人権などに寛容だし、外国人の参政権も認めるべきだ、と主張する向きも中にはあるわけです。

 左にとって重要な価値のひとつとして、「平等」という概念が挙げられます。19世紀以降に世界を席巻した共産主義という考え方はまさしく「左」によるものであり、世に溢れる不平等を無くしていこうとするのが、左の大きな重点です。

 そしてまた、特に日本の場合においてですが、左は平和外交を志向する向きが強いです。政党で言えば共産・社民が筆頭であるように、膨張政策を続ける中国に対してもなお、軍事的対立ではなく、平和外交を目指すべきなのだという主張を掲げます。

 つまり左は、国内においては外国人も含め、多様な価値観や平等な権利を志向しつつ、外国に対しては平和的な対話外交を推進しようとする性質があるわけです。

 一方、右はというと、この考えと大きく対立します。
 移民の流入に対して反対したり、外国人参政権に反対したり、中国に対しては軍事的な抑止力を持って備えようとする考えが強くあるわけです。

 右は「保守」とも呼ばれるだけあって、物事が変わっていくことについては慎重な立場を取ります。外国人の増加や権利拡大が、日本の文化や習慣を大きく変えてしまうのではないかと考えるし、日本の輪郭を確固として保つためにも、下手な融和外交はすべきではないと考えます。歴史認識という点でも、特に中韓に対し、 決して譲れない部分というものを多く持っています。そして昨今の場合、中韓の国家性や民族性に対して批判的な向きも大きくなっているし、日本という国家の価値、あるいは高潔さを称揚する人も多くいる状況です。

 さて、ここではどちらがいいとか悪いとか、そういう話をしたいのではありません。
 上記のおさらいを踏まえたうえで、右にも左にも顧みるべき点があるであろう、ということについて、考えてみたいのであります。ネット上の言説ややりとりなどを見ると、どうにも右も左も、自分たちのあるべき姿を見失っているのではないか、と思えてしまうのです。その点に関する指摘を、行っていきたいと思います。

左の問題と取るべき態度
 まずは左です。
 左は、多文化共生や多様な価値観というものを尊びます。たとえ文化や考え方が違っても互いを尊重しあい、ともに住みよい社会をつくっていこうという理念を持っています。そして、軍事的対立ではなく、平和外交の努力を進めるべきだとも考えます。

 そうしたときに問われるのは、異質な他者に対する構え方です。右の人々が外国人との軋轢を憂慮するなら、左はそれを緩和できるように範を示さねばならない。自分と考えの違う人を安易に罵倒したり、嘲笑したりするのではなく、どうすれば共存できるのか(あるいは相手の振る舞いを改めさせられるのか)を考えねばならない。武力によるのではなく、対話による外交が必要だと主張するならば、卓抜した対話能力を示さねばならない。

 要するに左は、他者に対する寛容さについて、右を導くべき立場なのです。それができないなら、異質な他者との共生など無理であると、自分から言っているようなものです。
 また左は、異質な相手との対話力を必要とする立場なのです。それができないなら、対話による平和外交などできないと、自分から言っているようなものです。

 むろんそれは、何から何まで寛容せよというのではありません。そんなことを言い出したら、「移民排斥という立場を寛容せよ」ということになって、主張が通らなくなります。ですから左は、移民排斥を主張する他者に対して、説得的な論理を打ち出す必要があるし、彼らの不安を取り除けるような対話力が求められるわけです。

 しかし残念なことに、今の左はさしたる政治的な力を持っていません。ネット上においても、右の考えを左に溶かし込むような、有効な方策を持っていません。ここが、左にとっての大きな課題なのです。

右の問題とあるべき姿
 右を見ていきましょう。
 右は右で、あまりよろしくない振る舞いというものが確認されます。
  
 昨今に右に見られる振る舞いとして、特徴的なものがあります。それは、中国や韓国に対して嘲笑的だったり攻撃的だったりという振る舞いです。あるいは、日本はすごいのだと自己賛美的になりやすい態度です。左は右に比べると国家意識が強く、同時に自国の文化や歴史を肯定的に捉えるものですが、それがいささか過度に(あるいは歪んだ形で)表出しているように、ぼくには思えるのです。
 
 たとえば、こういう言説があります。「中国人は行儀が悪く、自分勝手である」「韓国人は平気で嘘をつくし、日本を罵倒する」「一方、日本人は礼節を重んじ、相手をきちんと尊重する」。なるほど、仮にそうだとしましょう。

 で、あるばらばです。
 日本人は高潔さを保たねばならないし、誇り高くあらねばなりません。行儀の悪い振る舞いは避けねばならないし、嘘をつくべきでもありません。それでこそ日本人の美徳を示せようというものです。

 しかし残念ながら、とてもそうとは思えない振る舞いも、ネットには数多く見られます。
 決して行儀がいいとは言えない発言や、相手を貶めるようなデマや、相手を尊重しない表現の数々が、「右」や「愛国」を自称する人々の手によって放たれています。 左が自己の取るべき道を歩めずにいるように、右は右で自分たちのあるべき姿を見失っているように思えてなりません。

 他民族を一緒くたにして貶めるような物言いは避けねばならないし、自分たちの主張に間違いがないか、厳しい目で捉え続けるべきです。日本人の礼節を重んじるならば、たとえネット上とはいえ、見知らぬ他人に敬語を欠くなどあってはならないし、謙遜の美徳というものを軽んじてもいけません。相手がどうのとすぐさまあげつらおうとする態度は控えるべきだし、たとえ相手がどうであれ、自分たちに甘くなってはいけません。
 左は戦争を恐れ、平和という題目を唱え、軍事増強や強硬外交に反対する。一方で右は、「戦争が起こってほしいなんて、思っているはずないだろう」「戦争になるなんて考えすぎだ」と反発する。であるならば、右はその正しさを示す意味でも、日頃からつとめて抑制的な振る舞いを、心がけねばなりません。

 左は寛容さと対話力を持つ必要があります。
 右は礼節と高潔さを持つ必要があります。

最後に
 ネットにおける言説や主張、やりとりなどを散見するに、右も左も自分たちのあるべき姿、取るべき態度を、忘れているように思うのです。どちらの立場であっても、自分たちの思想に基づく振る舞いを、忘れてはならないと思うのです。
 右翼、左翼という言葉は暗示的で、「翼」という文字を持っています。飛行機であれ鳥であれ、片方の翼がなくては満足に飛べないし、本来は互いが支え合うべきものであるはずなのです。
 右でありながら左である、左でありながら右である。
 そのようなしなやかさを、失ってはならないように思います。

 おしまい。

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 辺野古の基地新設工事が進められる沖縄。沖縄が抱えている米軍基地問題には右派、左派ともに、自派を顧みる必要があるように思います。

 まず、そもそもどうして沖縄に基地が必要なのか。という話を紐解いていけばそれこそ戦後史自体を振り返ることにもなるので、ここでは避けます。今現在、なぜ基地が必要かと端的に問えば、その答えは「海洋進出を例とする、中国の膨張政策に備える」というものになるでしょう。北朝鮮有事というのもありますが、やはり中国の存在が大きいわけです。尖閣諸島の一件を取っても明らかなわけですし、中国が今後の外交を改める兆しはあまり認められません。

 だからこそ、抑止力としての米軍基地が必要で、沖縄には基地がある。
 政府並びに、それを支持する右派は、沖縄の基地を是とします。

 一方、今の沖縄では、米軍基地の存在に批判的な民意が多数派です。国政選挙を見ても、現在の翁長知事が選ばれているのを見ても、沖縄の意思としては、基地負担の軽減を求めるものになっています。共産党、社民党、自由党をはじめとして、左派の陣営は辺野古基地、あるいは高江のヘリパッド建設に異議を唱えています。

左派への問い
 さて、しかし、左派はここできちんと考えねばならないと思います。
 右派の疑問に、きちんと答える必要があります。

 米軍基地なしに、中国の海洋進出を防げるのか?

 ここについて右派を説得できない限りは、基地建設の反対運動が力を持ちません。中国が攻めてくるわけないじゃないか、と言われても、実際に尖閣への威嚇的な行動は確認されているわけで、中国に対する脅威というものを右派は感じている。なればこそ、彼らを説得できるような、安心させられるような論を立てない限り、基地反対の主張は現実味を欠いてしまう。お花畑だ、などと揶揄される原因のひとつは、その点にあろうかと思います。

 これは沖縄のみならず、国防全体にまつわる議論にも言えます。日本共産党は日米安保の破棄のみならず、自衛隊の縮小をも主張している。ではどうやって国を守るのかと言えば、平和外交への努力だと言う。なるほど確かに、平和外交はとても大事です。しかし、そのためには卓抜した外交能力が問われるわけだし、外交とは相手方の意見もあるわけですから、こちらの努力だけではなかなかうまくいかないというのもまた現実です。だからこそ、右派は防衛費の拡大路線を是とするわけです。平和外交がどのようにして可能であるか、ということに説得力を持たせられなければ、やはり右派の納得は得られません。

「米軍基地が要らないっていうけど、それで中国を抑えられるのか? どうしてそう言えるんだ?」

 中国に怯える右派の恐怖。これを取り除く論理を、左派は構築する必要があると思います。

右派への願い
 さて、問題があるのは左派だけではありません。

 そうは言っても、沖縄の民意は米軍基地反対という点で、はっきりとしているのです。むろん、国防は国全体に関わることですから、沖縄だけの民意をくみ取るわけにはいきません。しかし他方、彼らの民意は民意として尊重する必要も、ないわけではないのです。
 この点について、右派は向き合わねばならないと思います。
 
 大きく言って、右派は次の三つの点に留意する必要があります。
 ① 米軍の存在によって、領土、領空を奪われている現状。
 ② 米軍なしでは日本を守れない、という現状。
 ③ 米軍基地の存在は、沖縄の民意に反しているのだという現状。

 「自国は自国で守る」というのが、本来主権国家としてのあり得べき姿であろうと、ぼくは思います。つまり、①と②というのは、本当のことを言えば好ましいものではないのです。それは理念の問題だけではなく、現実的なことでもある。米兵に日本人が蹂躙されたり、航空訓練の騒音で住民が辛い思いをしたりというのは、まったくいいことではありません。

 この①②を踏まえた上で、③に絡むことですが、ネットにおける右派の主張などを見る限り、逡巡が足りないように思えます。「ニュース女子」の問題でもそうですし、翁長知事に対する評価などもそうですが、基地に反対する人々を嘲弄するような発言が、目についてなりません。

 右派に必要なのは、左派を嗤うことでも潰すことでもない。
沖縄の人々が納得できるように、寄り添う態度です。
 そして右派であるならば、自国を自国で守れずにいることについて、忸怩たる思いがあってしかるべきです。

 沖縄では基地を要らないと言っている。でも、地政学的に見て、防衛上の観点から見て基地を置かざるを得ない。その矛盾に悩む態度が右派に欠けているように、ぼくには見えるのです。

 「本土の人間が負担を押しつけてしまって申し訳ない。でも、どうかここは折れてくれ」というためらいの気持ちが必要であるし、また同時に、「基地を負担してくれてありがとう」という感謝の思いがあってもいいはずです。米軍に対して「思いやり予算」を払うのなら、同じ日本の人々に対して、そういう思いやりがあってもいいはずです。少なくとも現段階で、政府は右派の主張どおりに事を運んでいる。左派に対して怯える必要はない。だからこそ、基地に反対する沖縄への思いやりの気持ちとか、慰めの気持ちとか、そんな情を抱いていいはずなのです。

 基地に反対している人の言動に、いっさい問題がないとは言いません。しかし、右派が寄り添う気持ちを失い、ただ黙って受け入れろと押しつけるような態度では、彼らが反発を覚えるのも無理からぬ話です。右派は先に述べた①②③を忘れるべきではないのです。

 左派が基地を除去したければ、右派の不安をも取り除く論理と戦略が必要です。
 右派が沖縄の反対を鎮めたければ、①②③の事実を胸に留め、納得を得られる語り方をすべきです。

現実に理想を
 おまえはどう思うのかって?

 ぼくは、沖縄の米軍基地をなくすべきだと思います。
 しかし、国防も必要なので、沖縄の米軍基地に変わる抑止力を持つべきだと思います。
 そのためには憲法九条を改正の上で、対地攻撃能力を持つ自衛隊基地を、沖縄に置くべきだと思います。米軍ではなく、自衛隊が守る。①②に処するための回答です。

 むろん、日米安保は必要です。しかし、考えてみてください。
 アメリカにとっていちばん大事なのは、日本を守ることではありません。
 彼らにしても中国の海洋進出は脅威であり、そのために日本を防衛の砦としているのです。なればこそ、日本はもっと強気に出ていいはずなのです。
「俺たちなしでは中国から国を守れないぞ!」とアメリカに言われても、強気に出られるように、九条を改憲して自衛隊を強化する。
 そのうえで、「アメリカさん、海洋線を守りたいのはあんたらも同じだろ、日本に協力しろよ」と言えるようにする。肝心な部分を忘れてはいけません。日本はアメリカに守ってもらっているけれど、一方で、アメリカは日本によって中国の海洋進出を止めたがっているのですから。利用する狡猾さが必要なのです。尖閣への安保適用なんてのは、アメリカの戦略として当たり前の話で、それで喜んでるのは情けのない話なのです。

 当然、そんなことは一朝一夕にはできない。何年もかかることです。
 しかし、理想を持った現実主義と、理想のない現実主義は違う。
 他国に国防を頼って何のためらいもない右派は、志のない現実主義です。
 フィリピンのドゥテルテは米軍との同盟関係について問われた際、「自分は他国の軍人がいない国を目指したい」と言った。それこそが右派の取るべき思考です。
 ドゥテルテには賛否がつきまといますが、この点については正しいと思います。
 理想に現実を、現実に理想を。
 
 ちょっと格好いいことを言って、今日はこれまで。

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 昨今、巷に広まった言葉として、「フェイク・ニュース」「ポスト・トゥルース」といったものがあります。さらには「オルタナティブ・ファクト」なる言葉まで生まれる状況でありまして、とかく「真実に触れる」ことが困難な時代であるなあと見受けます。


カスタム・ファクトとは何か?
 一昔前はマスメディアが世間の情報を独占できたものでありますが、今ではひとりひとりがメディアの時代となりまして、「マスコミは本当のことを報道していない」「ネットに真相が書かれている」という論調がそこかしこに生まれるようになりました。

 この手のことで騒がしくなるのは、とりわけ政治の世界でございます。昨年のアメリカ大統領選が好例でありましょう。ネット情報自体が政局を左右する時代にあって、ニュースひとつ、情報ひとつが武器になる。真偽不明の情報がもとから溢れていることに加え、フェイクであっても有利に事を運べばそれでいい、と考える不届き者が出てきて収拾がつかなくなり、いやはや何が真実なのかと、まことに頭を抱えたくなる時世でございます。

 この状況を表す言葉が「ポスト・トゥルース」だったのかと思いますが、ぼくなりの表現で言うならば、現代は「カスタム・ファクト」の時代ではないかとも考えます。今回はこの「カスタム・ファクト」という概念を掘り下げたく思います。

 初めに言っておくと、この言葉はぼくが思いつきででっち上げた単語です。英語的には「カスタマイズド・ファクト」「カスタムメイド・ファクト」などというほうが正しいのかも知れません。意味はと言えば、「趣味に応じてあつらえられた真実」とでもなりましょう。「セレクテッド・ファクト」という言い方も適当かも知れません。

カスタム・ファクトの誘惑
 先に要点を述べてしまいますが、人というのは何につけ、「信じたいものを信じる」のですね。既に言い尽くされた表現ですが、ともかくも人というのは自分好みの真実を選ぶ習性があるのです。

 現代では何が本当で何が嘘なのか、あるいはどれほどまで辿れば正しい理解に辿り着けるのか、非常に見極めが難しい。そこまでにいろいろな情報を吟味しなくてはならないし、うっかり信じ込まないように絶えず疑いと警戒の気持ちを持たねばならない。はっきり言ってそれはとても手間が掛かるし、疲れるし、そもそもそれだけの手間を費やしても「本当の本当」に到達できる保証などない。人が信じたいものを信じてしまうのも、まあ致し方のない状況であります。

 そうなった場合、人が選ぶ合理的な行動は何か。
 自分にちょうどいい、ないしは収まりのいい、気分的に好ましいファクトを飲み込むということです。そうしないといつまでも精神的に落ち着かないからです。

 裏を返すと、人は精神的な安定を得るためなら、本当に事実かどうかというのをまさしく二の次にしてしまうわけです。別の人が真相として提示するものがあっても、精神的に不安定になる以上は受け入れたくない。そう考えた場合、人が「カスタム・ファクト」を見出すのは、とても自然なことなのです。

 カスタム・ファクトを選択し続ける限り、精神的には安定します。なにしろ耳心地のいいものだけを選ぶわけですから、不快な思いはせずにすむ。たとえ偏見がないつもりでも、人は確証バイアス、認知バイアスに絡め取られやすい生き物でありますから、自分でも気づかないうちに、好みのファクトのみを選び続けたりもするでしょう。

 特に現代の場合、カスタム・ファクトをつくりやすい時代です。ネット広告にしてもアマゾンのお薦めにしても、そのユーザーの好みをコンピュータが読み取ってくれる。こちらが頼みもしないうちから先回りして、好きそうなものを教えてくれる。過剰なまでのサービスが、考える前に答えを与えてくれる。特殊な趣味であっても、ネットの世界を一歩踏み出せばどこかしらに同好の士を見つけることができ、自分と意見を同じくする人たちが頼もしさを与えてくれる。くれるくれるくれる。

 ひとりひとりがメディアになれる現代は、ひとりひとりが自分に最適なものを選べる時代です。古く昭和の時代はケータイもなく、テレビも家族に一台しかなく、好きな番組が見られずに仕方なく家族の好きな番組を横で見ていた、なんて風景もあったわけですが、そんな話は今ではほとんど聞かなくなった。誰でも、自分好みのものを選べます。多少お金に余裕があれば、ネットでお気に入り商品をいくらでもゲットできる。

 さて、そうなった場合、情報もまた個人用にカスタマイズされるのは、むしろ自然なことでありましょう。事実かどうかよりも、いかに好ましいか、いかに精神的に安定できるか、そちらの優先度が高くなっても、何も不思議ではないわけです。

 だから、ぼくは言うのです。現代が、カスタム・ファクトの時代であると。

カスタム・ファクトの表れ
 しかし、この状況には危険性もつきまといます。
 信じたいものだけを信じることが可能な状況を突き詰めていくと、そこには(原理的な帰結として)カルトが発生します。真実かどうかが二の次である以上、居心地の良さをひたすら求めていけば、カルト的な狂信性に辿り着くのは時間の問題となる。むしろ居心地の良くない情報が、その人の背中を押しさえするでしょう。

 既にその兆候は、ネットのそこかしこに見受けられる。
 この文章を書こうと思いついたのは、あるネット動画がきっかけです。
 固有名は伏せますが、たとえば次のようなことです。

 あるテレビ番組がありました。その内容にデマや虚偽、いいかげんな報道が多く含まれているとして、抗議の声を上げる人(A)がいました。
 ところがその抗議に対して、「言論弾圧だ!」と食ってかかる人間(B)が出始めました。

 Aは「デマを訂正してくれ」と言っているに過ぎないのですが、Bにはそれが通じない。なぜなら、Bにとってその番組内容がデマではないからなんですね。「カスタム・ファクト」のなせる業です。Bとしては番組内容を十分に事実だと信じているので、Aの要望が「言論弾圧」という概念で捉えられてしまうわけです。

 むろん、Aが絶対に正しい保証もない。同時に、Bが正しい保証もない。
 それぞれが「カスタム・ファクト」の世界に生きている。

 これを解決する方法はただひとつ、双方が話し合い、双方が納得しうるファクトを導き出すことしかありません。逆に言えば、それができさえすれば、簡単に解決できるわけで、ある意味ではとても単純なことなのです。
 しかし、それは実際のところ、容易ではありません。
 いや、それが実は、本当に難しい。

 なぜなら。

 人は信じたいものを信じてしまうからです。

 ファクトよりも、カスタム・ファクトが尊いと信じ、そう振る舞ってしまうからです。

 現代において、カスタム・ファクトの誘惑を絶つのはきわめて困難だとつくづく感じる次第です。

 そしてこれもまた、ぼくなりのカスタム・ファクトなのかもしれません。

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 大阪の「森友学園」という学校法人が、近頃何かと問題になっているようであります。
 園児に教育勅語を暗唱させたり、軍歌を歌わせたりということで注目を集めた「塚本幼稚園」が、その進学先として設けようとしている学校が「瑞穂の國 記念小學院」。その土地購入に際して、不当に安く払い下げたのではないか、という疑義が持ち上がり、国会でも質問が繰り返されています。
 
 その細かな経緯については他に譲るとして、ここでは、ネット上に見られる多くのリアクションについて、考えてみたいと思います。この件についてツイッターなどを見ますと、批判する側、その矛先を逸らそうとする側に別れている印象を受けます。大まかに言って、いわゆる「左翼」の側が問題視しており、「右翼」の側が追及を嫌っている感じです。この辺の振る舞いについて、気になることをつらつらと述べてみます。

渦巻く「ホワットアバウティズム」
 これはつい最近知った言葉で、ぼくの中での流行語になっているのです。皆さんはご存じでしょうか。
ホワットアバウト。英語で書けばWhat about. 「~についてはどうなんだ?」というときの言い回しです。
You criticize them so loudly, but what about that?
[君はこの問題についてうるさく言うけどね、じゃああの問題はどうなんだ?]

 お見受けする限り、今回の問題について、いわゆるネトウヨ系の人たちは、このホワットアバウティズムを多用しています。
「じゃあ朝日新聞の土地はどうなんだ?」「じゃあ大阪の朝鮮学校はどうなんだ?」「じゃあ国会の無断欠勤はどうなんだ?」「他にももっと審議すべき問題がある!」
 実際に、ツイッターで検索をかけてみてください。ホワットアバウティズムの例を、実に多く見つけることができます。

「ホワットアバウティズム」の誘惑と実態
 実は、このやり方というのは、いちばん簡単なんです。かく言うぼくも、過去にこのブログやツイッターにおいて、この手の言い返しを使ったことは何度もあるわけです(その点の自戒の意味でも、この文章を書いているのです)。
このやり方は、非常に便利です。なぜなら、防御と攻撃を同時に行えるからです。
 自分サイドの問題について突っ込ませず、なおかつ相手の弱みを突ける。一挙両得の手法であり、たいへん使い勝手がいいのです。これは何も、今回の森友学園の問題に限らない。とても広範に使われる手法で、相手を煙に巻きたいとき、実に重宝します。


 しかし、この手法には問題があります。
 なんというか、建設性に乏しいのです。
「おまえサイドにも問題があるのだから、この件について触れるな」という態度は、根本的な解決を生みません。「お互いに探られたくない腹はあるだろう」と、クリンチに持ち込んでやりすごす態度は、何も発展性がないのです。ゆえにこの手法は、「その場の論議に負けたくない」場合に絶大な効果を発揮する反面、あまり建設的な議論を生み出さないのです。このホワットアバウティズムという手法を煎じ詰めると、実に意味のないやりとりに行き着きます。

A「○○は問題だ! 追及するぞ!」
B「ふん、じゃあ、地球規模の環境汚染についてはどうなんだよ?」
A「は?」
B「おまえの扱っているのは所詮は小さな問題だ。この世界には大きな問題が横たわっている。地球規模で進む環境汚染について論議せず、そんな小さな問題にこだわるのか? もっと論じるべきことはあるはずだ!」

 ちょっと飛躍的に映るかも知れませんが、ひたすらホワットアバウティズムで矛先をかわしてみてください。ホワットアバウティズムを多用していくと、(それが環境問題かどうかは別として)最終的には実りのない部分に辿り着いてしまうのです。

「○○について批判するんですね。じゃあ、××についてもお願いします」というのは、どこかで一度くらいは見覚えのある言い回しでしょう。
 しかし当然ながら、人や組織の動ける範囲には限界があります。すべての問題について平等に追及することなどできません。
 だからこそ、それぞれがそれぞれの問題意識の中で、追及していけばよい。ホワットアバウティズムで逃げていては、ある問題についてきちんと取り組むことができなくなります。「じゃあ××についてもお願いします」というなら、「じゃあそれは君がやってね」で終了です。
 ホワットアバウティズムを仕掛けて、言ってやったとにんまりするのがゴールというのは、どうにも発展性に欠ける論議です。

これは誰の問題なのか?
 さて、ここで冒頭の森友学園問題について戻りますけれども、ぼくにはとても大きな疑問があります。なぜ右派は、あるいはネトウヨ系の方々は、この問題について触れるのを避けたがるのでしょうか? ホワットアバウティズムで逃げたがるのでしょうか?

 今回の件では、いわば「愛国」的な学校法人が問題となっています。であればこそ、日頃「愛国」とか「日本が好き」とかってことを言明なさっている方は、なおいっそう批判すべきなのではないでしょうか。なんなら左翼の方以上に、「愛国者を騙りながら、いいかげんなことやってんじゃねーぞ」と、息巻いてもいいはずなのです。

 問題となっている学校法人が、国家の財産たる国有地を不当に安く購入した疑いがある。
 その法人の幼稚園では、登園する園児や保護者に対して、虐待的・差別的言動を行っていた疑いがある。なればこそ愛国者は言うべきであります。「愛国者の面汚しが!」と。
 民進党や共産党など、「愛国者」の方々が「反日」と罵る相手に任せるのではなく、「愛国者」の筆頭たる自民党のほうこそが、この問題を激しく追及してもよさそうなものです。「日本政府の代表者たる安倍首相の名を使って、疑われるようなことをするな!」と、威勢良く森友学園に突っかかってもよさそうなものです。
 
 しかし、それはしない。やるのは、ホワットアバウティズムの繰り返し。
 ぼくには本当に、その一点がわからない。
 この問題を、朝日新聞や民進党になど扱わせるのではなく、産経新聞や自民党といった「愛国」的組織にこそ糾弾の先頭に立ってもらいたいし、ネトウヨ系の皆さんも怒りにたぎるべきなのです。しかし、それはしない。本当に、なぜなのでしょう?
 これは徹頭徹尾、愛国者の問題なのです。民進や共産や朝日新聞ごときに、先鞭をつけられてどうするのです。
 
憲法改正、教育無償化の問題
 近頃に進んでおります憲法改正論議。その重要項目のひとつとして、教育無償化というのが上げられております。法律で整備できるのだからそれでいいんじゃないかと個人的には思うのですが、自民党、日本維新の会、民進党細野グループなどは、「教育は国の柱」と考え、法律ではなく憲法に書き込むのだというお考えのようです。

 なるほど、実に高邁な考え方です。
 
 はて、そうなるとぼくには疑問です。それほどまでに教育に熱心な各党の方々が、どうして今回の問題、それも「愛国」を旨とする学校法人に関して、ほおかむりを決めているのでしょうか。そのような学校で差別・虐待的言動があったなどとすれば、教育無償化の憲法改正を進めようというほど熱心な方々は、いの一番に注視すべき問題でありましょう。国を愛するなどと言いながらそんないいかげんなことをしているのか、獅子身中の虫ではないかと、誰よりも早く駆けつけて、事態を精査すべきでありましょう。

 だが、断る。それはしない。

 なぜなのか。
 合理的に考えると、実に恐るべき結論が導かれます。

 自称「愛国者」は、愛国者ではない。
 教育無償化の憲法改正を訴える人間は教育に興味がない。

 領土問題についてうるさく叫びながら、国有地の不当廉価売却を無視。
 教育について憲法改正を主張しながら、教育現場の問題を無視。
 では、彼らは何に興味があるのか。

 自分は国を愛しているのだ! と叫ぶ美しき自己像。
 自分たちの力で憲法を変えるのだ! と叫ぶ逞しき自己像。
 それ以上のものは、何もない。理想の鏡に、現実は映らない。

 まさか、よもや、そんなはずは。そんなはずない!

 でも、実際にそうなんじゃないか?

 最後に
 昨年に発生した相模原障害者施設事件について、先頃、犯人の鑑定結果が公表されました。いわく、「自己愛性パーソナリティ障害」。自分は特別であり、他者に危害を加えても許されるとまで考えたであろう犯人の姿に、今の日本の「愛国」と重なるものを見てしまいます。ニッポンすごい! 中韓は死ね! と叫ぶ、自称「愛国者」の姿と。

 あれ?
 そういえば。
 あの犯人も、「愛国」的な思想に、共鳴していたそうで。


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 ツイッターなどを眺めておりますと時折、小学校のかけ算に関する議論が観測されます。

 Q.りんごが3こずつ、4つのおさらにのっています。ぜんぶでいくつでしょう?

 これに対し、

 A.3×4=12

と書いたら○がもらえて、4×3=12だと×にされてしまう
そんな報告がネットに上がり、一悶着が起こるわけです。

当然ながら数学的には、両方とも正解です。ではなぜ×にされてしまうかといえば、算数における「意味理解」の段階というものがあるそうで、小学校の先生の中にはその辺でこだわりを持つ方もいらっしゃるようなのです。

 この問題には、とても簡単な解決策があるように思います。

 前提として、両方を○にしたうえで、次の授業で議論の時間を設ければいいのです。

 教師が生徒に対して、「3×4って書いた子と、4×3って書いた子がいるけど、どっちが正しいのかな?」などと発問してみる。すると中には、「どっちでもいいに決まってるじゃん」と聡い子もいるでしょうし、「3×4が正しいよ!」と主張する子も出てくるでしょう(大人たちのツイッターがそうであるように)。

そこで、「4×3」と書いた子が発言してくれるようなら、どうしてそういう風に式をつくったのか、答えさせてみればいい。あるいは教師サイドから、4×3だとどういう解釈ができるのかを考えさせてみればいい。

 そうやって時間を割いたうえで、「なるほど、かけ算の場合はどちらでもいいんだね」という風に結論づけておけば、数学的正しさは無傷で留まるし、子供は子供で、自分とは別の見方、捉え方に気づけると思うのです。

 これを広げて考えれば、よく言われるような話、「正義と悪」の二分法ではなく、「正義とまた別の正義」のような政治哲学的テーマにまで、教育の機会を与えられるのです。いわゆる「多様な見方」というものを獲得できる機会になるはずで、単に算数の問題に収まらない、実りのある議論を築けるわけなのです。

子供を教育するというのは、そういうことではないかと思います。
 安易に「どちらでもいいんだ」と提示するのでもなく、「こちらが正しい」と決めつけるのではなく、双方の視点からものの見方を示すこと。そうやって、算数に留まらない思考の幅を広げること。それがまた、算数そのものの理解をも深めるはずなのです。

かけ算の順序はどちらでもいい。ただし、どうしてどちらでもいいのかをちゃんと考えさせること。その機会をしっかりと与えること。

 この議論における最終回答は、以上をもって決したのではないでしょうか。

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 先に断っておきますが、ぼくはここでネトウヨ批判をしたいのではありません。ネトウヨの人と喧嘩する気もありません。その人たちが何を考え、どうしてネトウヨでいたがるのかを分析してみたいのです。「ネトウヨはいかにしてネトウヨであり続けるか」が本稿のテーマです。誰に頼まれたわけでもないのにネトウヨでいるということは、そうすることが本人にとってプラスになると感じているからでしょう。では、どういう点がプラスになるのか。ぼくが考えたいのは、まさにそこなのです。今からいくつもの指摘を行いますが、おそらくネトウヨ的な人で、一つも当てはまらないという人はいないと思います。ネトウヨがネトウヨでいたいと思う理由はきっと、次のいずれかです。それではさっそく参りましょう。

① 帰属意識
「日本が好き!」とわざわざ言明する心性は何なのでしょう。好きなものを自己紹介するのは別段おかしなことではありませんが、なぜわざわざそれを言おうと思ったのか。好きなものは無数にあるはずですし、長年日本で暮らしていればむしろ、わざわざ言う必要はなさそうに思えます。現に、日本で日本人同士で自己紹介するとき、わざわざ「僕は日本人です」と言ったりはしない。その場所にいながらその場所のことを好きだとあえて言うのは、「帰属意識」が高いことの表れであるように見受けます。そして、その帰属意識の高さゆえに、排外主義と結びつきやすくなる。あなたは日本人なの? あなたは日本が好きなの? と、自分の帰属スペースの純粋性を保ちたくなるのではないでしょうか。強硬な外交を望むのも、自身の帰属先の輪郭がくっきりするように思うからではないでしょうか。裏を返すと、他の部分での帰属意識に不安を抱えている可能性もあるように思います。自分の家族、友人、学校、会社、サークル、街。エトセトラ。いわば「居場所」のようなものを求めたいけれど等身大では満たされず、一足飛びに大きな共同体=国家を愛するという言明に結びつくのではないかと、そんな可能性も指摘できます。

② 承認意識
 人は何かにつけ「居場所」「帰属先」を求めるものですが、それを「国家」と結びつければ、ある面でとても安心できます。学校という共同体はいつか卒業しなくてはならないし、今の職場が好きでもいつ変わってしまうかわからない。反面、国家は過去も未来も長年にわたって存在するものであり、居場所としては実にうってつけです。居場所としてこれほど安定的で、なおかつ崇高なものはそうそうない。だからときとしてこんなことを言う。「日本に生まれたことを誇りに思う」と。自分が日本人であることが、承認欲求を満たしてくれる。国歌を歌うことの強制を支持したり、沖縄の選挙結果を無視して国防強化を支持したり、ときとして国家主義とも取られる振る舞いは、日本という存在が自分の承認意識と結びついているからではないでしょうか。

③ 使命意識
 帰属意識と承認意識が促すものとしては、妥当な線だと思います。
 自分の居場所、自分を認めてくれるもの。それに対して自分も何かをしたいと思うのは道理で、だからこそときに攻撃的な振る舞いを行う。自分もこの日本社会に対して何かを言いたい、言わずにはいられない、言うべきだ。自分は私利私欲ではなく、この崇高な国家共同体のために発言するのだ。そのような使命意識が①や②から導かれても、何の不思議もありません。
 保守的な言論人として知られる古谷経衡氏によれば、ネトウヨの人々は日本人全体の平均と比べて、高学歴かつ高収入であるそうです。成功した自営業者なども多く見られ、だからこそ社会福祉に対しては割合冷淡な態度を示すのではないか、と彼は指摘しています。
高収入であれば、その使命意識として弱者救済を叫んでもよさそうですが、必ずしもそうではない。弱者救済は、①や②とは無縁だからです。むしろ仕事の成功によって、もっと大きなものを求めたくなる。自分は自分の会社のためにだけ働いているのではない。自分はこの国家のために働くのだ。崇高な使命意識は、さらなる自己肯定を呼び込んでくれる。いや、仮に成功していない人であっても、日本について論じると何か大きなことを言ったような気もするし、自分は日本人としての使命を果たしているのだと自意識を満たせる。①や②や③は独立したものではなく、互いに絡み合ったものと見るべきでしょう。

④ 被虐意識
「中国や韓国は反日的な言動を繰り返している。自分はそれに反対しているだけだ」(③でいえば、「日本人なら反対すべきだ」)。このような物言いを観測することもあります。確かに、中韓は反日的な言動が多い。ではなぜ、ネトウヨ以外の日本人はそこまで目くじらを立てないのか。いや逆に、なぜネトウヨは目くじらを立てるのか。ここには③と絡み合った被虐意識が見て取れる。「自分たちは不当に攻撃されている」という意識が、相手への攻撃的発言を生み出す。書籍でも「中国人に乗っ取られる」系の言説は多いようですし、「在日に支配されている」系の言説はデマも含め、ネトウヨを刺激します。実際に中国は尖閣に船を出しているし、竹島も占領されているわけで、被虐意識を抱く材料は十分にあるわけです。「外国人への不安」というのもこの被虐意識に関連するでしょう。「特に何をされたわけではないけれど、外国人は怖い」みたいな不安感覚です。これが排外主義と結びつかないとしたら、むしろそのほうが不自然と言えるものです。

⑤ 嗜虐意識
 ④と対照をなすこの意識は、簡単に言えば「いじめは楽しい」です。なぜ世間の学校や職場でいじめはなくならないのか。理由はとても簡単。いじめが楽しいからです。それは人間の暗い一側面としてあるものです。それこそ皇帝がサディズム的性愛に励んだ古代ローマの頃から、存在するものです。弱者を叩けば、自分の優越性を確認できるのです。
 ニコニコ動画などで、気に入らない政治家が答弁につまったりすると弾幕を張る。貧困問題で虚偽が発覚するとスレッドが乱立する。そこにあるのは系統だった批判などではない。みんなで叩くのは楽しい、という本音でしょう。みんなが殴ってる。俺も殴っていいんだ。さあ殴ってやれ。これは別にネトウヨ特有のものではないでしょうが、ネトウヨをネトウヨたらしめる炎上的振る舞いのひとつと見受けます。被虐意識が根幹にあるなら、復讐したいと思うのが人情。反動的な攻撃性。復讐の矛先が正しくても間違っていても、大きくても小さくてもかまわない。いや、むしろ小さいほうが、反撃してこないからやりやすい。おい、こいつ、反撃してこねえぞ、もっとやっちまえ、というのはいじめの楽しみ。嗜虐意識。

⑥ 自縄自縛意識
 人はとかく、自分の間違いを正すことに抵抗を覚えるものです。「はい、論破」と得意げに言いたがるその心性は、自分が論破されれば悔しいという心理の表れ。人は誰しも(当然ぼく自身も)、多かれ少なかれ自分の意見に固執してしまいがちなのです。
 とりわけ、自分の意見を言葉にしたときは危険です。
 言霊なんて言葉もありますが、何かを発言するというのはそれだけで意味を帯びるものであります。そして、自分自身を縛りつけやすくなる。人が自分の意見を簡単に変えにくいのは、「それまでの自分を否定することになるから」というのが大きいでしょう。動物的な感覚として、単純に負けたくないというのもあるはずです。
 人は自分の言葉に縛られていく。
 たとえば相手と何か議論になったとする。
 自分はAだと思う。相手はBだと言っている。
 このとき、仮にAに自信がなくても、議論に負けるのが嫌で、ことさらにAだと主張したくなったりする。
 すると、最初はAについて半信半疑だったとしても、だんだんとAであるに違いないと思うようになり、どう考えてもBを否定するしかないとさえ思う。
 そうやって、柔軟性をなくしてしまう。
「自分を否定するのは嫌」という意識。くわえて、「自分自身を洗脳する」意識。
 この二つが自縄自縛をもたらして、たとえやめたくてもやめられなくなる。もう、強硬な主張を続けるしかない。

⑦ 脱宗教の不安意識
 森達也監督のドキュメンタリー『A』『A2』というのがありました。事件後のオウム真理教の姿を追ったもので、そこには事件があっても教団を抜けない信者たちの様子が描かれていました。ぼくは思ったものです。なぜ抜けないのだろうかと。しかし、考えてみればその理由はある意味、とても自然なものでしょう。彼らはむしろ、抜け出るわけにはいかないのです。
 今戻ったところで、自分は社会で「元信者」として見られる。
 今戻ったところで、一般社会で幸せになれるとは思えない。
 だったら、ずっとこの場所にいたほうがいい。
 宗教を抜けろと、外部の人間が言うのは簡単です。でも、いざ入ってしまった人間は猛烈に不安なのでしょう。
 抜けたとして、幸せになれるかと。これは⑥とも関連しますね。
 たとえばそれまで、「支那人死ね、朝鮮人帰れ」とネット上で言い続けた人間がいるとして、その楽しみを奪われるのはすごく嫌だと思うんです。悪いことだとわかっていても、それをやめたら自分の楽しみがなくなってしまう。わかった、ヘイトスピーチはやめると言ってみても、そのあと別の形で今までみたいな楽しみを得られるかは、わかったものじゃない。
 だったら続けたほうがいい。ヘイトスピーチ教を、信仰していたい。
 そういう意識が働いても、何の不思議もないのです。
 
⑧ お手軽意識
 これは書くまでもないことですが、書くまでもないと言いつつこうしてぼくが書いているように、ネットはお手軽です。お手軽に①を、②を、③を、あるいは⑤を満たしうるわけです。ぼくがブログをやめられずにいるように、お手軽な楽しみをやめたくはないのです。



 もちろんこれらは、ネトウヨだけに認められるものではない。「パヨク」にも当てはまることでしょう。しかし、「日本」という国家、郷土、共同体の後ろ盾があればこそ、安心してその活動を続けられるというものです。
 自分は日本を愛している→そんな自分に反対するのは売国奴だ。
その図式を描いた瞬間、①~⑧が一気にその人の脳内を駆け巡り、指は次の一文字を打つためにキーボードを鳴らす。
 以上に述べたようなことが、ネトウヨにネトウヨを続けさせる大きな要因と思われます。

 ご指摘やご意見はありがたく頂戴するつもりでおりますが、日本人たるもの、くれぐれも人と話すときの良識を忘れませぬようご配慮願います。ネトウヨの人たちって下品だな、などと思いたくありません。ぼくはむしろ、ネトウヨの人からいろいろと意見を賜りたいなあと心から思っているところなのです。
 もしもコメント頂ける場合でも、もうひとつだけご注意願います。
 「おまえの言っていることはむしろ左翼に当てはまる」とか、「韓国に言ってやれ」的なものは一切求めていません。④のせいなのか、ネトウヨの人たちに見られがちな振る舞いとして、「話を相手のほうに逸らす」というのがあります。その手のコメントは求めていません。ぼくはネトウヨについて考えているので、それ以外の人たちを対象とするコメントはしなくてもいいです。と、まあ、そんなところであります。

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 最近、「ネトウヨ」について考えています。彼らはどのような思想を持っていて、どのような人間であるのか、考えているのです。自分の思考を整理する意味で、分析を試みたいと思います。と言って、ぼくにはネトウヨの知り合いがいるわけでもないし、仮にいたところでそれを一般化することもできない。定量的な調査をしたわけでもないため、ぼくがこれより述べるのはあくまで印象論に過ぎません。

 いや、あるいはぼくが考えたいのは、少し別のことかもしれない。「ネトウヨがどのような思想の人々か」ということより、「どうしてネトウヨはネトウヨになるのか」「どうしてネトウヨはネトウヨであり続けようと思うのか」についてのほうが、興味がある。その人がなぜ、ネトウヨ的なあり方に駆り立てられるのかを考えてみたいのです。

 さて、先ほどからネトウヨネトウヨと言っていますが、「その用語の定義は何なんだ」ということがよく言われるようです。万人が同意できるのは「ネット右翼の略称」ということでしょうが、その内実となると確かに難しい。そもそも右翼とは、なんてことを考え出すとそれだけでたいへんな作業だし、安倍政権を支持していればネトウヨということでもないし、中韓に批判的なことを書けばネトウヨというのも乱暴です。そもそも、「安倍政権を支持」と一口に言っても、それが経済政策への支持なのか、外交への支持なのか、積極的な消極的かなど、中身は一様ではないでしょう。この用語は実のところ、定義が難渋なのです。

 ただ、ネット上における特徴的な振る舞いから、その定義を試みることはできるかもしれません。たとえばツイッターにおいて、中国人や韓国人、在日外国人を罵倒する発言。それを繰り返す人々はネトウヨだと個人的には思います。中韓の政府を批判するのとは別に、「犯日支那人」とか「姦国人」などというように、あえて漢字をいじくったりまでして攻撃的な物言いをする人は、ネトウヨと言って差し支えない気がします。「パヨク」と言って左翼的言論・政治家を揶揄したり、「嫌韓・嫌中」をわざわざツイッターのプロフィールで表明したりする人も、ぼくが想定するネトウヨの人たちです。中国や韓国、北朝鮮での事件や不祥事のニュースを多くリツイートするのもネトウヨ的振る舞いと思われます。

 もっと言うと、ことさらに「日本が好き」「日本に生まれたことが誇り」などとプロフィールに書く人も、ぼくの想定するネトウヨです。ぼくはこの地球が好きだし、日本が好きだし、両親が好きですが、いちいちそれを書こうとは思わない。多くの人々もそうでしょう。それをわざわざ表明したくなる心性は、ネトウヨ的振る舞いのように見受けます。

 では、支持政党はどうでしょう。ネトウヨで民進党や共産党を支持している人はおそらく皆無で、支持するのはやはり自民党、ないしは日本のこころ、あるいはさらに右寄りの、今は議席を持っていない政党が対象となるでしょう。その中でも支持する政治家は安倍総理をはじめ、特に稲田防衛大臣や青山繁晴議員、片山さつき議員、高市早苗議員といったあたりでしょうか。彼や彼女たちをことさらに応援する発言、リツイートを繰り返す傾向が見られるように思います。そしてそういう人たちは同時に、民進党の辻本清美議員や有田芳生議員などに批判的な発言、リツイートを繰り返すこともあるのではないでしょうか。それをすればネトウヨだ、というわけではなく、ネトウヨの人にはよく見られる振る舞いであるという印象の話です。

 余談ですが、少し興味深い出来事があります。右派のネット局として有名な「チャンネル桜」。ここでは右派的な言論がメインでなされるわけですが、自民党の西田昌司議員への反応が面白いのです。西田議員は人気のコメンテーターだったようですが、あるときを境にYouTubeでの反応が「低評価」ばかりになった。それはいつかといえば、ぼくが記憶する限り、彼がヘイトスピーチ規制にまつわる法案成立に積極的に取り組んだ頃からです。彼は自民党の議員でありながら(少なくとも「チャンネル桜」の視聴者層には)批判的な姿勢をもって迎えられているようです。それが何を意味するかは、ここでは触れません。

 ネトウヨと思しき人々の興味としては、「ヘイトスピーチ規制」「生活保護の不正受給」「パチンコ」「朝鮮学校」「外国人参政権」などのトピックが他にも挙げられるでしょう。歴史問題もそうですね。慰安婦や南京、あるいは領土問題も重要ですし、憲法や靖國神社に関することも大いに関心を惹くところでしょう。むろん、天皇陛下にまつわることもあります。なにしろ話題は多岐に渡りますから、こういう発言をしたらネトウヨだと決めるのは難しい。そこがネトウヨの定義の難しさであろうと思います。

簡単な整理を試みます。

①中国や韓国や北朝鮮が嫌いである。その言動が気になる。
②自民党・日本のこころ・さらに右寄りの政党のいずれかを積極的に支持している。
③民進党や共産党が嫌いである。その党や議員の発言に批判的である。
④歴史認識問題、領土問題に関心があり、中韓の対応に反対する。
⑤保守とされる著名人を好ましく思う。

 以上のような姿勢をネット上で繰り返し発言したり、リツイートしたり、あるいはそれに反対する人々に意見をぶつけたりするのが、ネトウヨであろうと思われます。上の①~⑤のうち、いくつを満たしているかでネトウヨ度は変わるでしょうし、発言頻度の多さやリツイートの頻度なども度合いの要素になるように思います。たとえば③や④を満たすだけではネトウヨではないし、「韓国きらーい」と何気なく書き込んだからネトウヨというものでもない。その種の発言を繰り返したり、攻撃的な発言をぶつけたりするたび、ネトウヨ度は上がっていくでしょう。

 狭義のネトウヨとしては、「①~⑤をすべて満たし、なおかつそれをネット上で何度も、長期にわたり表明している人」ではないかと思います。

 はあ、長くなってしまった。ぼくが書きたいのはこんなことじゃなかったのです。
 これはあくまで準備。
 ぼくが考えたいのは、「ネトウヨはなぜネトウヨであり続けようとするか」のほう。
 次の記事に回しましょう。


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 ふと思いついた疑問の答えが、なかなか出なくて困っています。
 
 最近はAV問題について頭巡らすことが多くなっているのですが、そこに児童ポルノの問題も絡んできたりして、少しややこしさを感じたりもしています。

 ぼくは「表現の自由」を重んずる立場です。
 他者の人権を害しない範囲で、表現は許されるべきと思う。それゆえ児童ポルノについても、たとえば18歳以上の女優が演ずる小中学生のAVがあってもいいと思うし、「非実在青少年」をレイプする漫画があっても、その存在は許容されるべきだと思う(褒められたものかどうかは別として)。後の話を円滑に進めるため、それらをひとまず、「虚構的児童ポルノ」と呼ぶことにします。一方、マイノリティに対するヘイトスピーチ(ヘイトクライム)については、その属性を持つ人々の生活を脅かすものとして、反対の立場です。朝鮮人死ねとか、中国人帰れとか、そういう表現はなくすべきであるとぼくは思うのです。

さしあたり、4つの立場に分類すると、
①虚構的児童ポルノも、マイノリティへのヘイトスピーチもOK
②虚構的児童ポルノはOK。マイノリティへのヘイトスピーチはNG
③虚構的児童ポルノはNG。マイノリティへのヘイトスピーチはOK
④虚構的児童ポルノもマイノリティへのヘイトスピーチもNG

Q1.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?


 ①は表現の自由の原理的肯定派。④は積極的表現規制派。
ぼくは②の立場です。③という人がどういう人かはある意味で興味があります。
②の立場の人というのはそれなりに多いのではないかと、勝手な印象を抱いています。
そしてこの文章は、①と②の人に向けて書いています。

 はて、とここで立ち止まる。 

では、次のようなAVや漫画があったらどう反応するか。

A.「在日朝鮮女を集団レイプ!」   B.「身体障害者を拷問陵辱!」

 正直に言えば、そんなタイトルの作品を目にしたら、ぼくは大いに顔をしかめ、眉をひそめ、唾を吐きたくなるし、あってほしくないと思う。さて、上で①や②を選んだ人は、ここでどう反応するのでしょうか? もちろんそれは、あくまで「虚構的」なもの。本当にそういう人々ではないと仮定します。

 ここで、立場を整理します。虚構的児童ポルノをOKとした人に尋ねます。

①AもBもOK
②AはOK。BはNG
③AはNG。BはOK
④AもBもNG

Q2.さて、皆さんは上の4つのうち、どれを選ばれますか?

 ①を選んだ人に訊くことはありません。徹底した表現の自由肯定論者でしょう。②や③の人はなぜそこに線を引くのか、興味があります。ぼくは④です。

 さて、ぼくはここで困ってしまう。
「レイプ表現や虚構的児童ポルノを許容しつつ、民族的マイノリティや障害者を対象とするポルノを許容しない」という立場は、何か正当な理屈を持ちうるのだろうか?

 当然、そこに絡んでくるのは差別という問題。マイノリティや障害者は、社会的に差別されやすい人々です。彼らを対象とするのはよくない、という意見がまずはある。

 でも、ぼくが例としてあげた架空の作品は、差別を煽動する内容ではない。あくまでもポルノです。「日本人の成人女性をレイプする作品」はよくて、「在日朝鮮女をレイプする作品」は駄目なのか。なぜそう言えるのか(「朝鮮女」の表現が気に入らないなら、「韓国人女性」でも結構です)。「実際のレイプを誘発しかねない!」という意見であれば、レイプAVや虚構的児童ポルノにだって当てはまってしまい、表現規制派と同じ。

 幼女のレイプはよくてAやBは駄目だというのは、どうしても弁護が難しいような気がしてしまうのです。幼女も民族的マイノリティも社会的、生得的少数派だし、幼女も障害者も庇護を必要とする人々です。虚構的児童ポルノをよしとしたうえで、ぼくたちはQ2の④という立場を果たして取りうるだろうか? ①の立場以外で、表現の自由を語りうるのか?

 もう少し掘り下げます。
 レイプではなく、そのものずばり殺人だったらどうなのか? 
 現実の世の中でも、小学校や施設に押し入り、虐殺する事件が過去に起きている。
 
 思考実験として考えてみてください。

A.「女子小学生をレイプ!」 B.「女子小学生を殺害!」
C.「在日韓国人を殺害!」  D.「障害者を殺害!」

 もちろん、すべて架空の設定の作品です。
 さて、Aだけを許すという理屈は成り立つか?
レイプと殺人に、軽重をつけて語っていいのか? BとCとDに差異はあるか?

 さまざまな問いを投げてきたのですが、ぼくには明確な答えが出せずにいます。
 あるいはぼくがここで述べたことは、既に表現の自由/規制論議で語られ尽くしているのかもしれませんが、AV問題を契機にあらためて考えてしまったのです。

 HRN的な、「エロいものは全部駄目だ!」な人たちには必要のない問いでしょう(個人的には、反応頂かなくて結構です)。かたや、ヘイトも含めたあらゆる表現を許容する人たちにも必要ないでしょう(この問いについて悩むまでもないでしょうから)。

 ぼくがお相手したいのは、そのどちらでもない人たち。
 表現の自由を重んじるからこそ、その内省を求められる人たち。

 さて皆さんは、表現の自由というものにどう向き合うのでしょう?
 とりわけ訊きたいのは、Q1で②を選び、Q2で④を選ぶ立場について。果たしてそんな立場は成立するかということ。

この仮定はまったくあり得ないものだとぼくには思えない。もしも虚構的児童ポルノを許容するなら、それ以外の作品群も出てきかねない(もしかしたら既に流通しているかもしれない)。その状況がもしやってきたら、どういう構えをとる? 一時期流行ったサンデル教授じゃないですが、この問いは多分に社会哲学的なもののように、ぼくは勝手に思うわけであります。

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 伊藤和子弁護士率いるHRNがこの半年ほど、AV規制にまつわる活動を活発化させています。その報告書にはDMMの名前も挙げられ、我が愛する恵比寿★マスカッツとも決して無縁ではありません。既に多くの方々がHRNの問題点を指摘していますが、あらためて今回、「HRNには人権を守る気などさらさらない」ことがはっきりしたように思います。一般に示された報告書には数多くの問題があるのですが、すべてに触れるのはどうにも難儀であります。端的な事例をもとに、「HRNには人権を守る気がない」ことを指摘したいと思います。

 前提として申し上げますが、かねてより彼らが問題視するAV強要、そして児童ポルノというものは、それ自体許されるべきものではありません。ゆえに、彼らが本当にAV強要被害をなくしたいと考え、真摯に児童ポルノ問題に取り組む団体であるのならば、僕はその活動を応援したいと思います。被害者の人権は守られるべきものに相違ありません。ところが実際、彼らのなしていることはまるで真実性を帯びず、真摯に人権問題に取り組むものとは到底言えない。そのことを述べていこうと思います。ありていに言えば、HRNは人権の敵と言わざるを得ない状況です

 9月5日付で発表された報告書では、「児童ポルノ」についての問題を取り上げています。児童ポルノとは簡単にいって「18歳未満の少年少女を被写体とする、性的要素を含んだ事物」のことを差します。ところで、それが18歳未満を連想させつつ、実際は18歳以上の出演者である場合はどうなのでしょう。あるいはそれが漫画の場合はどうなのでしょう。この点においては議論の余地を残すところかもしれませんが、HRNはそうしたものも広義の児童ポルノに含めようとしているようです。オーケー。わかった。だったら、その目線でとりあえずは考えてみましょう。HRNの目線に立ったうえで、HRNの問題点を指摘しましょう。

 さて、9月5日付で発表された報告書においては、HRNは複数のAV作品を取り上げ、「児童ポルノの疑いがある」ものとして示しています。その作品はタイトルに「小学生」などと銘打ったものであり、なるほど字義通りに受け取れば、悪辣な児童ポルノということになります。実際は成年の出演者であっても、「小学生」であることを強調するのは、もしかしたら問題のあることかもしれません。オーケー。HRNの言うとおり。仮にそうだとしましょう。

 その点を加味しても、この報告書には、非常に大きな問題があります
 一般向けの報告書は伏せ字になっているものもありますが、十分に作品名を特定できるものも複数掲載されています。ちょっと検索すれば、数秒のうちにどの作品を差しているのかわかってしまいます。
 そういえばHRNは今年に入ってから、AV強要について盛んに主張していました。強要被害を受けた女性に寄り添い、その個人名も作品名も公表しない方針を貫いていたはずです。それがなぜここにきて、すぐに作品名がわかるような報告書を出したのか。
 
 その作品に出演した女優が、強要被害を受けた可能性はないのでしょうか。HRNが本当に強要問題に真摯に取り組んでいるのなら、真っ先にそのことに配慮を向けるはずです。そして強要被害を受けていたと判明したら、作品の名前は出すべきではない。少なくともHRNは、そのような方針でいたはずです。

この一点を取ってみても、彼らは強要被害について真剣に考えてなどいないのが、はっきりしています。また、もしも本当に児童ポルノであるならば余計に問題であり、彼らは18歳未満の出演者を特定できるような報告書を仕上げたことになります。
 
 いや、待てよ。そうか。なるほど。

 HRNはきっと、当該作品の出演者に関して年齢などの調査を細かく行い、強要被害もないと断定したうえで、報告書に作品名を挙げたのでしょう。そうでないと、ことの筋目が通りません。あの大変高名で聡明なHRNが、いい加減な団体だということになります。まさかそんなはずはない。

 ところが。

 実際はその形跡がまるで見られないどころか、むしろ報告書において、出演者への聞き取りなどなんらしていないことが明らかになっています。ある作品については成年の女優であることが判明していますが(ド素人が一分もかからずに確かめられます)、HRNは実在も不確かな小児科医の診断として、「小学校高学年の可能性もある」などと表記しています。

 と、いうことは。

 HRNは作品名を特定可能な形で表記しつつ、出演者の情報も特定できていない

 と、いうことは。

 その女優が「強要被害者であった場合の二次被害」の可能性も考慮せず、「仮に18歳未満であった場合の二次被害」も考慮せず、そのうえで出演者を特定できる形で、報告書を出したことになります。人権被害に加担する可能性があるわけです。

 だとすると、きわめて残念な結論が導かれる。
 HRNはAV強要問題にも児童ポルノ問題にも、真剣に取り組む気がないということです。人権を守る気がないのです。そのくせいっちょまえに、「児童の権利を考えて」などと言い、「出演者の二次被害、法令違反を防止するため」、出演者の情報を非開示にする、などと言っている。というかそもそも、本当にその気があるならば作品名を出すべきではない。AV強要についても、彼らには被害者を救う気がないというのは、以前の記事で述べたとおりです。

 こういういい加減な団体があると、本当に真面目に活動している人権団体にとっても有害でありましょう。だからこそ、HRNは人権の敵なのです。まるで、差別が目的のくせに愛国を標榜するどこかの保守団体のように。

この手の連中がいちばんたちが悪いと、個人的には思います。本音は別のところにあるくせに、さも立派な大義名分を掲げて活動し、いかにもそれらしく振る舞う。しかし根底のところで真摯ではないから、いたずらにそうした主張自体のイメージを毀損し、本気でその問題を考えている人々の邪魔になる

 なぜ堂々と言わないのか。
 ポルノが嫌いだ、ポルノを規制しろと堂々と言えばいい。ハードなポルノは嫌いだから規制しろと言えばいい。成年であっても漫画であっても、児童を連想させる表現は全部駄目だと言いたいなら言えばいい。表現の自由を縮めたいと、堂々と言えばいい。

 ついでにレイシストもそうだ。愛国とか保守とかそんな笠を着なくても、差別が目的なら堂々とそう言えばいい。自分が本当に真剣に心から差別をしたいなら、その態度を表明すればいい。それでどんなに批判されても、自分が正しいと信じるならその道を行けばいい。

 おわかりか。

 彼らは自分自身の主張に対してさえ、真摯ではない。
 彼らは自分自身の欲望に対してさえ、真摯ではない。

 HRNは、一刻も早くあのいい加減な報告書を取り下げるべきです。人権問題にとって邪魔です。HRNは「いいかげんな団体が人権問題の邪魔をしている」ことについて、真剣に取り組むべきです。

 DMMもDMMだし、IPPAもIPPAです。ひとまず引くのはいいとしても、相手はいいかげんな主張で突っかかってきただけなのだから、ちゃんと毅然と対応してほしいものです。

 まだまだ問題点は多いのですが、全部書くのはあまりにも難儀なので、この辺で。

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