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インターネット上で差別的な発言を繰り返され、名誉を傷つけられたなどとして、在日朝鮮人の女性フリーライター・李信恵リシネさん(43)(大阪府東大阪市)が18日、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などに総額約2700万円の損害賠償を求め、大阪地裁に提訴した。
 李さん側の弁護士によると、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチ(憎悪表現)を巡り、個人が賠償請求する訴訟は異例という。
(『読売新聞』記事より抜粋)

 レイシズム、ヘイトスピーチにまつわる愚見はツイッターでもことあるごとに申し述べてきたのでありますが、今一度ここで整理しておきたいなあと考え、お話しをする次第なのでございます。

 といって、昨今の事情、情勢、あるいは近隣諸国との歴史的経緯などを総ざらえするのはさすがに手に余るのでありまして、話の力点としたい部分だけを述べるのであります。

 一般的な考えを申すのであれば、レイシズムは許すべきではありません。相手の人種、民族という属性をもって、罵倒することを許してはなりません。

 などというと、いやいや、向こうの国は反日教育を施し、反日政策を是としているのであるから、こちらも黙ってはおれぬという議論が起こるのですが、それならばその反日政策を行う政府(つまりは韓国政府、北朝鮮政府、中国政府)だけを叩けばよいのです。民族的な話ではないはずです。
 
 などというと、いやいや、その政府を支持しているのは民族なのであるから、民族、国民自体がよろしくないのだという議論が起こるのですが、それはとても乱雑な捉え方でありまして、政府の意思はイコール民族、国民の意思ではあり得ません。安倍政権の考えが日本人全員の考えと同じでないのと同じことであります。反日教育にしてみても、その教育にすべての国民が同意しているわけではないはずでありまして、それは日本を見ても同じこと。日教組の教育を受けたからと皆が皆、日教組的思想を受け継ぐわけはないのでありまして、教育それ自体が国民の思想であるというのは、まったくもっておかしな見方なのであります。ゆえにして、反日政策や反日教育をもって、民族そのものへの憎悪を抱くのは、あまりにも蒙昧な考えであろうと思うのであります。

 などといっているうちに前置きがどんどんと長くなるため、この辺にしましょう。
 さて、ことほどさようにレイシズムとは許されるべきものではありません。
 しかし他方で、ぼくは思うのです。レイシズムを、許してやろうと。
 さあ、ここからが本題なのであります。

 皆様の感情を逆撫でそうなことをあえて述べますが、ぼくは、「レイシズムを、ひとつの立場として認める」という考えを持ちます。

などというと、当然反論のために、皆様の指先が動き始めるのでしょうが、まあお待ちくださいませ。要点はここからでございます。

 以前「ゴキブリ考」の記事でも述べたのですが、レイシズムはひとえに、「嫌いから始まる」ものなのです。嫌う理由を尋ねればあれこれと出てきますが、それはすべて後付けであって、根本には「単に嫌い」という感情が居座っている。朝鮮人が嫌いだ、中国人が嫌いだという方々はまずはそれをお認めになるのがよろしかろうと思います。「嫌い」が先にあって、その「嫌い」という感情を補強するために、さまざまに情報を集め、時には虚偽すらも感情の補強に用いる。自分の感情に反する情報は排し、ただ「嫌い」を正当化するために必要なものを摂取する。すべての根本に、「嫌い」がある。

 そして、それは致し方ないことだとぼくは思います。人間は理性の動物であると同時に感情の動物でありますから、感情から出発するのも仕方のないことなのです。「レイシズムを認める」といった理由はまずここにあります。「嫌いなものを嫌いだと言うな」。そのような命令は自由権にもとるものでございます。

 さて、しかしここでぼくは立ち止まります。
 そもそも「レイシズム」とはどういうものであるのか。一般的な認識としては、「特定の人種、民族を差別する思想」のようなものでありましょう。ですがぼくの場合は少し違う認識なのです。レイシズムの本質はそこにはない。レイシズムの本質とはすなわち、「人種差別、民族差別がこの世にあることを、積極的に認める思想」なのです。

 この違いをおわかりでしょうか。
 思うに、レイシズムとは「差別する思想」ではないのです。「差別し、差別されることを受け入れる思想」なのです。なぜだか世間では後半が抜け落ちる。ぼくにはそれが不可思議でならない。

「誰かを差別する」ということは、「誰かに差別されてもかまわない」という意思の表明なのです。考えてみれば当たり前のことです。「俺はおまえを差別するが、おまえは俺を差別するな」などというのは、あまりにも子供じみた発想で、取るに足らない。語る必要もない。それでは「思想」の名に値しない。レイシズムを語るときには、むしろこの「誰かに差別されてもかまわない」のほうをこそ考えるべきなのです。

 だからぼくは言うのです。レイシズムを許容しろと。

さあ、そろそろ牙を剥きましょう。わかりやすくするために、会話形式でお届けします。

「俺は朝鮮人を差別するぞ。思想の自由だ。表現の自由だ」

「OKです。自由は許容されるべきです。ですが、レイシズムとは『差別する立場』であると同時に、『差別される立場』でもあります。差別する自由を認める代わりに、差別されることもまた、受け入れてもらわねばなりません」

「そ、そんなのは嫌だ。俺は差別したいんだ。差別されるのは嫌だ」

「子供ですかあなたは。それではあまりにもあなたに有利すぎる。あなたの差別を許しますので、あなたの身にたとえどんな不当な差別が降りかかっても文句を言ってはいけません」

「ふ、ふん。別にいいや」

「つまりあなたは、『差別される自由』を最大限行使できるのであり、差別が許されない社会においては、あなただけが唯一、差別の対象として扱われます。たとえば街中で、突然殴る蹴るの暴行を受けても、文句を言ってはいけません。あなたはレイシストであり、つまりは『不当な差別構造の存在を、受け入れる人間』です。とんだ茨の道ですが、あなたは自ら、そうありたいと願ったわけですから」

「ふ、ふん、じゃあ逆に、俺が街中で朝鮮人を殴る蹴るしてもいいわけだな」

「駄目です」

「なぜだ。話が通らないじゃないか」

「朝鮮人はレイシストではありません。その構造を受け入れていません」

「ふふふ、あいつらは反日政策をして反日教育で、日本人を差別していて……」

「あなたは本当に馬鹿だ」

「なんだと畜生、工作員! 在日乙! 必死www、ええと、それから」

「あなたはどうしてそうも自分中心なのです。いいですか、私たちはあなたを差別することができます。しかし裏を返せば、あなたのことしか差別できません。あなたは差別を一手に引き受けると先ほど表明しましたが、その対象はあくまであなた一人のこと。なぜあなたが、朝鮮人全体を差別していいのですか。あまりにも釣り合いが取れません」

「わ、わからないぞ。あ、そうだ、反日はお帰りください!」

「私たちはあなた一人しか差別できない。そのくせあなたは朝鮮人全体を差別すると言っている。それではあまりにもあなたに有利すぎる。と、そう言っているのです。それに、朝鮮人一人一人がレイシストかどうか、全員に調査したのですか。したはずはない。あなたはそのぼんやりとした目で、集団として見ているだけだ。レイシストでない可能性のある人間を差別するのは、ルールに反します。レイシストではない人間は、『差別される自由』を行使できないからです」

「そ、そんなの、それじゃああまりにレイシストが不利じゃないか。損じゃないか」

「ええ、しかし安心してください。あなたの立場は守られるべきです。あなたは世界で唯一、不当に差別されることを受け入れた人間です。あなたが大事にしたい差別構造を、私たちは全力で守ります。あなたは公道を歩いてはいけないし、公共の施設を利用してはいけないし、人権侵害にも反論してはいけません。それはあなたの意にも沿うはずです。あなたはそうやって、差別構造の存在を、この世に保全することができるのです。なんと素敵なことでしょう」

「じゃ、じゃあ俺も誰かを不当に差別してもいいんだな。半島へ帰れ」

「ええ、しかしそれはレイシスト同士に留めるべきでしょう。レイシストではない人を差別すれば、理に反します。繰り返しになりますが、レイシストではない人は差別されることを受け入れませんから、『朝鮮人を殺せ』などと公衆の面前で言ってはいけません」

「自由はどこへいった」

「お忘れですか。あなたは不当な被差別を自ら負うと宣言したのですよ。あなたから自由がなくなっても、それに反論することはできない。あなたに自由があるかどうか、あなたは決める権利を持ちません。あなたが望んだことじゃないですか。しかしそれは些細なことですよ。大事なのは、あなたが今から、差別され放題だということ。さあ、レイシズムを満喫しましょう!」

 おわかりですね。
「レイシズムを認める」とぼくが言ったのはこういうことです。
彼らは「差別の構造を守ろう」と言っている。それはすなわち、「不当な差別を受け入れる」と言っているに等しいのです。

 なぜそんなことを言うのかぼくにはまるでわかりませんが、まあ世の中には生粋のマゾヒストというのもいらっしゃるわけです。彼らの主張を守りましょうじゃありませんか。差別が許されないこの世の中で、唯一自らの意思で、自らへの差別を受け入れてくれるという彼ら。彼らの主張を守るとは、彼らを叩きつぶすことでもあります。彼らを叩きつぶすことは、彼らの望みでもあるわけですから、結果的には守ってあげることになるでしょう。その意味においてのみ、ぼくは言うのです。レイシズムを、許容してやろうと。

くくく。

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他国の事情は知りませんが、日本で「嫌いなもの」のアンケートを採ったら一番手に来るのがゴキブリでしょう。そして「ゴキブリが好きですか、嫌いですか」と尋ねたら、99%近くの人が嫌いと答えるでしょう。

 はて、しかしなぜ人はゴキブリを嫌うのでしょう。かくいうぼくも素手で触れるかと言われれば、逡巡してしまいます。どうしてぼくを含めた多くの人々は、ゴキブリが苦手なのでしょう。

そもそも虫全般が苦手である、という人もいます。それならばまだ話はわかります。顔が見えないのでコミュニケートしづらい、という感覚もわかる。足が六本(以上)ある、羽が生えているなど、人類とは別種の変化を遂げたその姿形が、距離感を覚えさせるのもわかります。

 ここでの議題は、「カブトムシや蝶々なら愛でるのに、ゴキブリは嫌いである」というその差別意識なのです。

 本能的なものとは考えにくいのです。食用にしている文化圏もあるわけだし、「ゴキブリによって殺された」という話も聞きません。人間を殺す動物ならば他にもいくらでもいるし、病原体の媒介でいえばネズミや蚊のほうがよほど脅威です。ゴキブリにそれほど嫌われる理由があるとは思えないのです。

 おまえ自身の理由を考えてみたらよかろう、と言われそうです。ふむ、考えてみましょう。自己対話です。

「あの黒光りした様が嫌なのです」
「ふむ、しかしおまえの好きな色は黒ではなかったかね」
「あいつはちょっと茶色っぽいじゃないですか」
「茶色いものを嫌いなのか。ではチョコレートはどうだね」
「そういうことじゃないのです。チョコレートは食べ物ですから、比較材料としては不適切です」
「ふむ、ならば黒光りしていて茶色っぽい虫だから嫌いなのかね」
「そうです」 
「だったら白いゴキブリであれば問題ないのかね」
「部屋に白いゴキブリが出たらある意味普通のゴキブリ以上に怖いです」
「どうも色が理由だというのは少し怪しい気がするぞ」
「だいたい、あいつらは不潔じゃないですか。ゴミ捨て場や下水道などに生息しているじゃないですか」 
「ほう、だったら清潔な環境で飼育されたゴキブリなら触れるのかね」
「自信がありません」
「なぜかね」
「なぜでしょう。そうだ、あの触覚が嫌なのです。体と不釣り合いに長いあの触覚が微妙に動く様など、不気味に思われます」
「触覚がなければ平気かね」
「少しはマシな気もします」
「だったら君は、ゴキブリが嫌いとは言わずに、触覚が長い生き物が嫌いだと言えばいい。なぜそうゴキブリばかり嫌悪するんだね」
「あいつらはカサカサッと動くじゃないですか。あの動き方が嫌です」
「君は気づいているかね」
「何でしょう」
「君はさっきからゴキブリの特徴ばかりを述べている。そこに『嫌い』とくっつけているだけだ。それでは説明にならない。イヌが嫌いだという人がいたとして、四足歩行だから、ワンと鳴くから、全身に毛が生えているからと説明されても、ぴんと来ないだろう」
「はて、ではなぜぼくはそれらの属性を嫌っているのでしょう」
「そこに勘違いがあるのだよ」

 そう。ここにはおそらく認識の転倒があるのです。きっとぼくたちは「嫌い、という認識から始まっている」のです。親がゴキブリの出現に大騒ぎしたり、嫌なものとして扱われているのをテレビで見たり、ゴキブリホイホイの存在を知ったり。とにかく「ゴキブリ=嫌うべきもの」という認識を与えられ続けてきたのです。そしてそのあとから、理由付けをしているに過ぎないのです。合理的な理由があって嫌っている、わけではないのです(不潔だからという合理的理由がある、という人は、清潔なゴキブリなら触れるという人ですね。でもそれは不潔なものを嫌う理由であって、ゴキブリをことさらに嫌う理由にはならないのです)。

 ではなぜ日本人は文化的にゴキブリを嫌うようになったのか、という話ができればぼくも立派なもんですが、あいにく文化人類学には疎いのです。
 ぼくはこの議題を、ヘイトスピーチ問題に結びつけて考えたくなります。
 中国や韓国を強く嫌悪する人々と、ぼくたちがゴキブリを嫌う理由というのは、実は似ているのじゃないでしょうか。ここで言いたいのは当然、「中韓=ゴキブリ」などという話ではまったくありません。述べたいのは、「嫌いから始まっている」ということです。 理由は後付なのです。

だから、ヘイトスピーカーに対して、合理的な説得を図っても難しいような気がするのです。彼らの理屈や言葉を剝がして剝がして残るものはきっと、単純な叫びです。
「理由なんかどうでもいいんだ! とにかく自分は中国や韓国が嫌いなんだ!」
というものでしょう。嫌いなものは嫌いだ、というだけの話です。

 ぼくは彼らの罵倒を不当だと感じます。しかし、であるならばぼくは正当な理由をもってゴキブリを嫌悪していると、果たして言えるだろうか。そう考えると不安になってきます。もしかしたらぼくたちは、不当にゴキブリを差別しているのではないか? 好きになる必要はなくとも、他の虫と同じくらいに扱ってやってもいいのではないか?

 こう書くと、「外国人は人間だぞ。ゴキブリは虫じゃないか。同等に扱うのは乱暴だ」「ゴキブリを触れなくても誰も迷惑しないじゃないか。ヘイトスピーチは人を傷つけるんだ」と言われそうです。しかし、ぼくの言いたいことの力点はそこじゃない。問いたいのは、嫌悪するものを思い描くことで、ヘイトスピーカーの心性を理解できるんじゃないかということ。そして、果たしてぼくたちは差別をやめることができるのかということ。

 ヘイトスピーカーにやめろということはできる。でも、やめる側には難しいのかもしれない。ぼくたちにとってゴキブリを触ることが、難しいように。理由のない差別をやめるべきだというならば、ぼくたちも同じようにしなくちゃいけないのかもしれない。

 去年ぼくはナウシカの原作をがっつり読んで、虫への慈しみを覚えるようになりました。 ゴキブリだって懸命に生きているのです。
 何もぼくたちに嫌がらせをしようと台所に出現しているわけじゃない。「おなかがすいたなあ。食べ物無いかなあ」「あ、あった、巣に持って帰ろう、子供たちに食べさせなくっちゃ」。そう思っているとき、ばったりぼくたちに出会ってしまうだけなのです。
ぼくは時々本気で、「おまえは一匹のゴキブリよりも一生懸命生きているか?」と自分に問うてしまうほどなのです。

 さあ、そう考えたら触れそうだ。と、思いながらも、やはりためらう。
 ぼくはまだまだです。ゴキブリを平気で触れるようになったとき、「一段上の男」になれる気がするのですが、なかなか果たせません。
 さて、どうでしょう。あなたはゴキブリを触れるでしょうか。
「嫌うことをやめる」というのは、なかなかに難しいことなのかもしれません。

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 映画についての更新は休止中なのですが、世間の出来事について思ったことを書きたくなりました。今後も時たまそういうことがあるかもしれませんので、その際は気が向いたら読んでくらはい。


ろくでなし子さんという方は知りませんでした。今回の件で初めて知ったという方も多かろうと思われます。彼女は自分の性器の3Dプリンタ用データを頒布し、それが「猥褻電磁的記録」の頒布に当たるとして逮捕されたそうです。この件について、愚見を述べたいと思うのであります。

 思考の結論自体はまだ出ていないのですが、多少ネット上の情報を見聞して思うことには、「これをOKにしたら、裏ビデオもOKになるのではないか」ということです。

順を追って考えてみますに、まず排除すべきことは「芸術かどうか」という曖昧な議論です。芸術活動だからOK、というのは意味のない議論です。もしそれが通るなら、ぼくは今日から裸で街を歩いていいことになります。警察に咎められても、「これは芸術活動だ」で乗り切れるか。そんなはずはない。つまり、「芸術活動だから逮捕するな」というのは無意味な言い分です。この点について、過去の実績うんぬんというのもまた無意味です。ぼくが今から十年間、男性器のアートについてどんな活動をしてどんな実績を積んでも、裸で歩くことはできません。まずは、「芸術うんぬん」という議論を切り捨てます。

 ではなぜ逮捕されるのかと言えば、「猥褻物」を「頒布」したからです。「猥褻物を頒布してはいけない」という法律は必要なものであろうと思います。際限を設けることは社会にとって必要です。そこで問題となるのが、「猥褻物」とは何か、という線引きの問題です。

 猥褻なものの筆頭たるAV。これまでのAVでは様々な性的表現がなされてきましたが、「性器の無修正撮影」は今も昔も御法度です。肛門はよいのですが、性器は男女問わずアウトなのです。このラインが、逮捕に至る「猥褻物」か否かの完全な分かれ目です。たとえいかほどにくんずほぐれつの営みがなされても、いかほどに変態的な性的遊戯がなされようとも構わない。ただ、性器だけは映すなよ。これが警察による猥褻の線引きです。性器さえ映っていなければ、有償であっても可というわけです。この線引き自体に、ぼくは違和を覚えません。「どんなに淫らで変態的な行為でも構わない。その代わりに、性器だけは映すな」。この取引で、AV界と警察は渡り合ってきたのです。わかりやすい取り決めであると思います。

 では、女性器を模したオナホールはよいのか。男性器を模した彫刻など昔から溢れているではないか。といえば、これはよしとされているようです。つまり、「模したもの」であればよいのです。そのものでなければ、可なのです。

 ひとまず整理します。頒布すると逮捕に至る「猥褻物」とはすなわち、「性器そのもの」であると言えます。性器に似ていても、性器でなければいいのです。

では、「性器そのもの」であれば、逮捕されても文句は言えないのか。性器は「猥褻物」なのか。それはとてもデリケートな領域ですが、少なくともAV界はその線で渡り合ってきました。そうでなければ、これも猥褻、あれも猥褻となって、逆に表現の幅を狭められてしまうかもしれない。だからこそ、猥褻の対象を性器に絞り込んできたのです。そしてその線を越えた業者は逮捕されてきました。性器そのものが映っていますからね、文句は言えませんね、と。

 その線引き自体が不当である、性器が映っていてもいいじゃないか、という場合は、これまで裏ビデオとされてきたものも、よしとする必要があります。この点を留意して話を進めます。

 さて、ろくでなし子さんの件です。
 彼女は「自分の性器の3Dプリント用データ」を「不特定多数の人間に有償で」頒布しています。繰り返しになりますが、その意図や動機、実績などは無意味です。芸術活動のためかどうか、ということは何も意味がないのです(もしその理屈で許可できるなら、裏ビデオ業者も全員無罪放免です)。寄付してくれた人に限って渡している、という部分は弁護材料になりません。それが通るなら、その理屈で裏ビデオ業者も行けます。購入ではなく寄付なのだ、で通るものではありません。
 いよいよ本質的な部分に来ました。
「自分の性器の3Dプリント用データ」は「性器そのもの」に当たるかどうか、という議論です。はっきり言って重要な論点はここだけです。3Dプリンタという新規なものゆえに問題が複雑化しているように思われますが、それは既存の技術に置き換えて考えたほうがシンプルです。

2Dプリンタ、すなわち写真だったらどうなのか、と考えてみましょう。写真そのものではなく、ネガのほうがわかりやすい。つまり、今回の件はこれと同じです。

「自分の性器を映した写真のネガを、不特定多数の人間に売った」 

 さて、これは逮捕すべき「猥褻図画頒布」に当たるのかどうか。
 もうひとつ言うならば、「裏ビデオ」というのもいわば「データ」ですね。
 モニターで再生すれば性器が映るデータ。それを売ると、逮捕されるのです。
この路線で行けば、前例に照らして言えば、彼女の逮捕は正当であると言えます。

 しかし、3Dプリンタのデータは「性器そのもの」ではない、という立場に立つなら、この論は成り立ちません。彼女を擁護する人間はこの点に立脚して勝負する必要があります。彼女を擁護する人間の言い分は「あれは性器そのものではない」という立場を意味しています。問題は本当にこの一点です。

 中には、「あれは性器そのものだ。だが逮捕は不当だ」という人もいらっしゃるかもしれません。OK、であれば、ぜひ裏ビデオをも擁護してもらいたく存じます。いやあるいは、AVのモザイクを取っ払う方面の主張も重ねてお願い申し上げます。もちろん、別の「線引き」を提示する必要がありますが。

すごく嫌な言い方をしますが、AV界は今回の件を格好の試金石と見ているはずです。
「彼女の頒布したものは性器そのものではない。ネガやビデオデータとは異なる」という擁護派の主張が通るならば、AV界は新たなマーケットを生み出せる。すなわち、「有名女優の性器データを堂々と売れる」ことになるからです。元手が安く住む分、それなりに大きな利益が生まれることでしょう。くどいですが、それが芸術かどうかなんて話には何の意味もない。
 あるいは、女子大生やOLがちょっとしたこづかい稼ぎに、性器のデータを売るなんていう新たな地下マーケットもつくられることでしょう。顔を隠して匿名性を保持しつつ、顔以外の身体データを売って金を儲ける。そういったことも問題ないわけです。
 今回の件で彼女を擁護するのであれば、そういった可能性ももちろん許容する必要があり、そうした商品が定着しても一切問題ない、と宣言することになります。フェミニズム的に彼女を擁護する向きもあるようですが、この点ご一考いただくのがよろしかろうと思います。今ここで彼女を擁護すれば、性の商品化はいっそうその土壌を広めます。ぼくとしてはそれでも何も問題ないですが、フェミニスト的にどうなのかは疑問です。

彼女の逮捕が不当かどうか、ぼくにはわかりません。3D用データが性器そのものか、ぼくには結論できません。ただ、逮捕が不当であると主張する場合は、その影響も加味したうえでのほうが、よろしかろうと思います。

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