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男はあの場所に来るべきであったのかどうか

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 アメリカン・ニューシネマというのは観たので言えば、『俺たちに明日はない』『イージーライダー』『タクシードライバー』など、有名どころくらいなんですけど、基本的に外れがないです。その中でも、『カッコーの巣の上で』は非常によかった。これはいいですね。でも、タイトルはどうなのでしょう。原作も原題もほとんど似た意味の英語ですけど、これはなかなか内容と繋がらないです。「カッコーの巣」が精神病院の隠喩と言われてもどうもぴんと来ません。『俺たちに明日はない』とか『明日に向かって撃て!』みたいなキャッチーな感じもないし、パッケージも引きが弱いです。僕などは予備知識がなかったので、田舎のほのぼの話なのかななどと思っていましたから。

内容はとてもいいです。これはなんというか、いろいろな意味が含まれていますね。安穏とした精神病院にジャック・ニコルソン演ずる一種荒くれた男がやってきて、そこをかき乱していく。学園もののテレビドラマとかで、今でもよく使われるパターンです。とある学校にぶっ飛んだ新任教師がやってきて云々という。でもそうしたドラマと違うのはやはりアメリカン・ニューシネマ的に、敗北のかおりが色濃いところです。ここには、彼は果たして善き訪れだったのか、という問いがあります。劇の最中、彼は精神病院の婦長や看護師たちに抗い、様々なことを仕出かします。ときには脱走劇を繰り広げたりして、それまでの状況では心開くことのなかった人々に笑顔をもたらしていく。中盤まで彼は、体制に抗う善き訪れとしての機能を果たしていくわけです。ところが最後、病棟にいた仲間の一人は彼の行いに賛同したがゆえに、自殺するという末路を迎える。では果たして主人公の男はあそこに来るべきだったのか、彼が来なければそれまでとなんら変わらない平和な日々は続いていたのではないのか。世界が外に開かれたがゆえに人々は幸福を享受したが、外の風景の訪れは同時に、それまでの内閉した世界の秩序を乱し、予測しなかった犠牲を生み出してしまった。結局、外からの訪れはその世界に飲み込まれてしまいます。他方、その訪れに心を揺らされた一人の男は、その訪れに最期をもたらし、己が外へと飛び出していって映画は終わる。明確な答えを出さないあの終わり方は、非常にいいなあと思いました。精神病院という限定空間がその構図の確かさを固めていたのもいいし、寡黙なインディアンの大男というのも気持ちいいところです。でも、考えてみると、あの後またしても病棟の人たちは静かな日々に戻るわけで、一度外からの訪れを見た者が果たしてそれまでの平和を取り戻せるかと言うと、難しいところなのかもしれない。こうなると、彼は善き訪れといえるのでしょうかね。そういうことを考えさせてくれるという点でもいいです。

精神病患者たちをコメディアンとして用いていたのもよかった。彼らの振る舞いは一種コメディアンのそれなんです。コメディというのは子供っぽい大人というのが沢山出てきて、それが物語を引っ掻き回すのが楽しいのですが、精神病患者たちもそういう面白さがあるんです。台詞がなくても、その振る舞いがいいというか、もちろんそうなれない人々もいるわけですが、その純粋さというのは、物語内において非常に機能性の高い装置になります。看護婦の帽子を被ったひげもじゃのお爺さんとか、ゲームのルールを無視する小男とかがいますが、ああいうのは面白いです。なんというか、それを精神遅滞の患者、精神病の患者と深刻に捉えるよりも、なかなか面白いコメディアンじゃないかと笑って受け入れられればそれでいいんです。芸能人でも、たとえばゲイを公言してそれを売り物にしている人たちがいますが、あれは正しい態度だと僕は思う。ゲイのタレントが男の俳優を好きだと言ってきゃあきゃあ騒ぎ、男が嫌がるという構図がバラエティのひとつの定番になっていますが、ああいう社会への溶け方はいいと思うんです。少なくとも、同性愛をカミングアウトしてなんちゃらというドキュメンタリーに見られるような在り方よりもずっと溶けやすいはずなんです。笑いって、そういう効果があるんですよ。それは面白いことに対する、笑いに対する敬意がなくては解せない立場なんですけどね。何かを笑うと、それを馬鹿にしているという風に捉えられることがありますけど、それは絶対に違うと思うんです。たとえばテレビで精神病患者や知的障害者を扱って、それを面白おかしく撮ったりすると、馬鹿にしているなんてクレームが来るのでしょう? それはもう本当に大きな間違いです。むしろそういうクレーマーのほうが、笑いというものを、もっと言えば人間の感性というものを馬鹿にしているという点で罪深いです。僕は誰に怒っているのでしょう?
でもまあ、笑いを解さずに本当に馬鹿にして笑う、どうしようもない馬鹿も世の中にはいるんですが。

話がそれました。もちろん、劇の最後に自殺した若者がいたように、あるいは劇中で錯乱する患者がいたように、笑い飛ばしてはいられない側面もある。その両面をちゃんと扱い、なおかつ精神病院というきわめて限定的な場所を基本的な舞台としたのもこの映画の勝因です。学校という舞台では無理ですし、刑務所という場所でも無理。精神病院というのが舞台設定としてなんとも素晴らしい。またひとついい映画に出会えました。ハッピーです。
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テンポの大事さというものを教えられました

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ずっと観ようと思っていたキアロスタミ作品、初めて観ました。
これはすごくいいです。なんというか、やっぱり映画のテンポというのはものすごく大事で、それは編集であったり台詞の間であったりワンカット中のアクションだったりというものによってつくられるものですけど、この映画の場合のテンポはすごくしっくり来ました。ストーリー自体は特別に何ということもないですよね。土に穴を掘って死のうとしているおっさんが、延々とその穴を埋める人間を探すだけの話ですから。でも、やっぱり映画ってストーリーがすべてではあり得ないわけで、こうしたきわめてシンプルな、シンプルすぎるほどにひねりのないストーリーがこの映画のゆっくりとしたテンポを助けているのです。紆余曲折ある物語もテンポの緩急調節力が要求されますが、一方でこうした簡素な筋においても同様に重要となってくるわけです。この映画のテンポがいいなあと決定的に思ったのは、博物館勤めのおっさんが長く喋り、その中でジョークを言うところです。外国でよくある形のジョークって、僕は笑ったことがないんですが、この映画のジョークは笑ってしまいました。それってやっぱり、オチとかネタとかのどうこうじゃなくて、テンポ、間なんですよ。

映像的テンポということで言えば、車中の助手席、運転席からのショットと、車外から車を風景の中に収めるショット。ここにも緩急がありますよね。車に乗っている人間を横の座席から撮る際、人物というまったく動かない被写体と、猛スピードで消えていく外の風景が対比されます。一方で、車外から車の動きを捉えれば、荒野の中を車がゆっくりと移動していくという構図になる。これを双方たっぷりとした間を置きながら交互に繰り返すことで、単なるドライブでも決して単調ではない、なおかつきわめて端整なシーンが出来上がるわけです。ドライブの最中、博物館のおっさんが主人公の自殺を食い止めようとして長々と説教をしていますが、この場面はここ最近で見た映画の中でも最も快感度の高いものでした。あまり耳慣れぬペルシア語で、少ししゃがれた声付きで、特別に目新しいことを言うでもないのですが、何故かずっと聴いていたいくらいの心地よさがあった。それが先ほど述べた、ジョークで笑ったということの要因でもあります。

決定的に、ここからどう転んでも嫌いにはならないな、と思ったシーンは、あの主人公の男がお茶目さを出したところです。博物館のおっさんに会いに行って、何をするのかと思ったら、「眠っているだけかもしれないので石を投げてくれ、体をゆすってくれ」などと言い出したので、これでもうオーケーでした。ずっと死のうとしていた男があんな風にお茶目さを出すのはいいですね。でも一方で、「結局穴に入ることはやめないけど」という姿勢が貫かれているのもわかるし、非常にいい。もっと言えば、心配していたはずのおっさんが、彼を呼びつけた主人公に対し、面倒くさそうに「今忙しいんだ」とさらりと言ってのけるところもいいです。「おまえ何しに来たんや」という突き放した感じがブラボーです。

他のキアロスタミを観たことのない初心者なのですが、大好きなカウリスマキにちょっと似ていたりもしますね。どうしようもない男の寡黙なストーリーで、間の取り方とかもそうだし。二人とも小津安二郎からの影響を認めているそうです。僕の場合、小津の最高傑作とも名高い『東京物語』を最初に観て全然アンテナに引っかからず、それ以来小津を敬遠し続けているのですが、彼のフォロワーである監督たちには惹かれます。ヴィム・ヴェンダースも、『パリ、テキサス』(1984)は後半ちょっと喋りすぎている気もしたんですがやっぱりその間の取り方はいいと思うし、もう一度ちゃんと小津を観なくちゃいけないのかもしれないなあと思っています。

『桜桃の味』に関して言うと、ラストのことがよく言われたみたいですが、僕も残念ながら「余計だったと思う派」です。映画監督であれば、誰でもやろうと思えばできることですからね、ああして壊してしまうのは。ジャッキー・チェンの映画にあるようなNGシーンとも違うし。こういうことを書くと、「いや、あのラストではこれこれこういう試みがなされていて」云々と言われるかもしれませんが、多分それはあの映画のみに通用する理屈じゃないでしょう。あの映画だからこそあのラストが必要だった、という風にはならないと思いますね。少なくとも最善の終わり方ではなかったように思います。

しかし総じて、非常にすばらしい映画でした。嬉しいですね、いい映画に出会えると。僕は世間の映画好きを自称する人々の中ではまだまだ全然映画を観ていないひよっこの部類ですが、へへん、ひよっこだからこそ、既に沢山観てきてしまった人たちがもう味わえない旨味にこれから出会えるんだい。というわけで、まあ、今日はこの辺で。
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「あるある映画」が意味づけるもの

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最近の学園ものの邦画には、田舎を舞台としたものが数多いようです。というより都会の中学高校というのは、映画ではほとんど描かれることがないように思います。話題になったものでいえば、「リリィ・シュシュのすべて」「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」「リンダリンダリンダ」「夜のピクニック」など、ある地方の田舎町、一領域を照らすことで物語世界を打ち立てることが多いようです。

妙といえば妙、道理といえば道理。
都会に住む学生も多いはずで、そこで生まれる物語も数多いはずなのに、何故田舎を舞台とすることが多いのかと考えれば、妙。学生という存在、その物語を照らすには夾雑要素が少ない世界のほうがやりやすいと考えれば、道理でしょう。また、田舎を舞台とすると、それぞれの観客の田舎時代のくすぐったさを演出することが出来ます。ああ、あんな感じの建物あったなあとか、ああ、あんな風な道よく通ったな、といったように、どこかしらのフックを提供しやすく、それは都会的なものと比べても人々の心に訴えやすいのです。

さて、今回の『リンダリンダリンダ』。これもまた地方都市が舞台。あらすじを語るのは他の誰かにお任せするとして、いきなり感想から書き始めましょう。

かなり、「あるある」的な部分に力を入れているなあという感じがしました。あるあるネタをちりばめてシーンを進めていますね。その点に関していうと枚挙に暇ありませんが、たとえば主人公たちの性格配置、キャラ設定からしてそうなのです。前田亜希が一番キャラが薄いのですが、うまい具合に可愛らしさを殺している。この人はもっと可愛く描こうと思えば描ける人なのでしょうけれど、メイクの感じなどがかなり没個性化され、汎用的な存在になっています。香椎由宇にしてもそうで、ちょっとむかつく顔なんです。学校の同級生を恋愛対象にしていない感じの尖った風情に「ああ、おるおる」と思ってしまいました。また、関根史織の、親しい相手に対してもテンションの低い感じというのもわかります。ここにペ・ドゥナをスパイスにしてバンドが駆動していくわけです。韓国人留学生、という設定を入れることで特異性を生んでいて、もしそれを剥いでしまうと本当に「あるある」で終わりかねなかったと思いますね。

この映画は「あるある」が集積されています。いや、厳密に言うと、「あるあるっぽさ」。リアリティという言葉ともちょっと違う。リアリティを持たせようとする努力がくどくなった形、とでも言えましょう。最初はそれがすごく心地よかったんです。冒頭のシーン、不美人の女子高生がカメラに語りかけるところ、撮影の男子があたふたしているところなど、「わかるわあ」と思いました。なんかこの、後々になって全てのことがこっ恥ずかしい記憶になるであろうところなどは、抜群でした。で、観ていくうちに、「そろそろええで」と少し思いました。例はいくらでも挙げられますが、ダブっている先輩が何故か声がやけにハスキーボイスだったり、「プリンを買おう」という仲間の女子高生らしい振る舞いに対し、関根史織が「千円超えちゃうじゃん」と言い、「デザートは?」という仲間たちに「うちのお母さんが寒天つくるから」と答えたり、甲本雅裕演ずる先生が廊下で生徒を呼び止めてぐずぐずになったり、兄ちゃんが電話している横で腕立てを始めていたり、男子生徒がクレープ屋の客商売なのに全然愛想よく対応できていなかったり、ペ・ドゥナの日韓交流の催しの部屋がもうどうしようもない内実だったり、主人公たちが本当にしょうもないことで笑いあったり、とにかくそういうことが集積されています。それで引っ張ったという感じがしますね。物語自体に大した抑揚がない中で、そういう「あるある」をおかずにして観客を飽きさせないように作っているという印象です。

この映画の重きはそこにこそあったと見るべきなのでしょう。四人でバンドを成功させよう、というのは実は彼女たちにとってそんなに大事じゃなかった気がします。そうでなければ、あんな風に四人揃って舞台の時間に寝過ごしたりしませんって。しかも前田亜希は恋の告白っていうイベントまであったわけで、あそこまでずっと、くどいほどの「あるある」を積んできたのに、あそこに来て「寝過ごしてハプニング」なんて仕出かしませんもん。ペ・ドゥナの歌も別に全然上手ではないわけで、あのバンド演奏はひとつの終局、物語推進のもの以上のものではなかったのではないでしょうか。彼女たちにとって「ブルーハーツ」は特段の意味を持っていない、ということがそれを裏付けてくれます。韓国人留学生を入れてきたならなおのことです。おそらくは意味もわからぬまま、「僕の右手」を口ずさんでいたのです。その意味でいうと逆説的に、鑑賞後すべてのシーンが意味づけられてきます。呆れるほどに意味のない振る舞いのひとつひとつが、後々包括的に意味づけられてくる。僕たちの記憶をくすぐってくる。青春の瞬間瞬間をうまく切り取っていると言えましょう。だから、この映画において「あるある」を感じられない人にはきついかもしれないですね。これの外国版があったら相当きついはずです。「あるある」と言えませんから。

韓国人留学生という設定なら「青空」あたりを歌ってくれると違う動きが生まれるなあ、とも思いましたが、どうやらそんな意味など考えてはいけない映画だったようですね。頭を空にして心地よくありし日を振り返るにはいい映画ではないでしょうか。
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美しいという褒め言葉を目にしますが、美しいってこういうことですか?

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好きと嫌い、まっぷたつに分かれる映画というのは沢山あるでしょうけど、この『ベニスに死す』はその種類の映画ではないでしょうか。持ち上げる人は名作だというだろうし、わからない人はわからないというしかないし。で、僕はといえば後者です。これのよさがまったくわかりませんでした。

 少なくともこれをして「芸術的だ」とかいう感じはしませんでした。むしろある意味でコメディですよ。臆病なホモストーカージジイのコメディ。そう思ってみると別の面白さがあると思いますけど、どうやらそれを狙っているわけではないのでね。何しろこのおっさんの最終的な目的がわからない。いつまでも主人公のおっさんがぐずぐずしているのをいらいらしながら観ていて、まあ終いにはだんだんそれが面白くもなってきたんですが、やはり僕好みではありません。

とある少年に究極的な美を見出した男が墜ちていく、みたいなことが書かれていますけど、これを仮にね、ベニスなんてところでやらずに日本のその辺の汚いところで、しかも大学教授でなくようわからんおっさんがやっていたらどうなんやと。間違いなくただの変態じじいですよ、こんなもん。それをね、なんや雰囲気でええように言うてるなあという気がしてならないんです。それなら結局見た目の話でしかないという風に思ったんです。この映画を褒めるときに「美しい」っていう言葉が使われやすいみたいですけど、「美しい」ってそういうことですか? 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という名フレーズがありますけど、美しいってこの映画よりもっと別のものに使う言葉のように思うんです。いや、映像的な美しさはわかりますよ、でも、それは映画というより映像としての話でね。映像と筋、その演出を踏まえてこその映画だと僕は思うんです。

こういうことを言うと、原作を読んでもいないのになんたらとか言われるかもしれませんけど、僕の大好きなとある方がおっしゃるように、「原作を読んでいないと語れない、そんな映画ならつくるな」ということでね。この映画だけで言えば、僕は観る前に原作の存在すら知らなかったんですけど、明らかに原作があってそれをなぞっている映画だなという感じがしました。起こること起こること全部断片的です。おっさんが伝染病にかかって死ぬ、というのも中途半端ですよね。なんであのおっさんだけが怯えているのかがまるでわからない。そういう病気にすごくかかりやすいのだということも言われていないし。観光で収益を得ている街だから伝染病を表ざたにできないのだ、みたいなことを言っていますけど、他の人たちは全然そんな風になっていないし、もうついていけないですよ。原作はどうか知らないけど、映画だけで言えば、「ベニスに『死す』言うてもうてるし、原作のこともあるし、死んで終わらないといけないからとりあえず伏線引いておこうか」みたいな感じがぷんぷんします。それと細かいところですけど、なぜあのおっさんはラストシーンで頭から血を流しているんですか? 病気のことはよくわからないので僕の無知のための疑問かもしれないけれど、喀血とかそういうのにしたほうが伝わりやすいと思うんですけどね。綺麗なところを撮るのは頑張ったけど、いかんせんそういう部分への配慮が足りないと思いました。

うん、確かに映像とか町並みは綺麗なんですよ、それはこの映画を褒める人たちに何の文句もないところです。そのために、わりと飽きずに見られたのは事実です。台詞が少ないのも僕は好きですから。でも、どうも映画が発される「臭気」がなかったんです。「臭気」って悪い意味じゃなくて、いい意味の「におい」ということです。もともと綺麗な町並みなんだから、それを綺麗にとったものを観て「綺麗だ」といっても仕方ないでしょう。それならたとえば黒沢明の『どですかでん』(1970)なんて、本当に汚い場所なのに美しく見えるという驚きがあって、そちらのほうがよほど好きですね。

こういうことを書くと、この映画を愛でる人々は嫌がるんでしょうけど、何を言われてももうこれは仕方がない。結局、映画でも何でもそういうことですからね。無知ゆえにわからないのだと言われるかもしれないけど、じゃあ知識があれば愛でられるかといえばそういうことでもないですし。まあ、誤謬などあれば素直に認めますけど。

うん、そんなところですかね。
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カルト映画になれたのに、なりきれなかった作品
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『スワロウテイル』は観始めてすぐ、その世界観に惚れました。「イェンタウン」という日本語、中国語、英語の混ざり合う空間は僕好みのにおいっぷりで、「これは下手なことをしない限り面白くなるだろう」と思いました。
 
が、結果的にいうと下手なことをしてくれたところも多く、その分だけどうにも心に残りにくい映画になりました。カルト映画になれたのに、なりきれなかったという印象ですね。まあ、別にカルト映画をつくってやろうとは思っていなかったでしょうけど、この世界観を活かして形作られているかといえば、どうにも足りなかったように思います。
 
 役者自体はおそらく90年代以降の邦画で最も充実したラインナップなのではないかと思っています。少なくとも個人的にはそうです。三上博史、渡部篤郎、山口智子という大好きな俳優のほか、桃井かおりもさすがの名演であり、CHARAという特殊な存在を中央に配したことで物語世界に拍車が掛かっていました。が、主人公の伊藤歩は微妙です。伊藤歩といえば僕にはどうしてもテレビドラマ『リップスティック』の不良キャラの印象が強くて、ああした役柄に違和感を覚えました。まあ、彼女がそのドラマに出たのはこの映画から数年後のことなので、それは僕の側の問題なのですが。

伊藤歩自体、というよりもそのキャラクター設定が世界の拡大を留めてしまったという感じを受けてしまうんです。あのいわば訳のわからない世界、どんな規則があるのかも明瞭でない場所では、確かにああいう、観客にとってのひとつの移入装置が必要なのもわかるんです。まともな人がいたほうがまともじゃないものが対比されますからね。ただ結果的に言えば、それは別に必要ではなかった。そこまで他の登場人物がぶっ飛んでいるわけでもないですから。だから要するに、伊藤歩が歩んだイェンタウン世界への融和と、三上博史やCHARAなどのようにイェンタウン世界で上昇しようとする動きが、どうにもかみ合っていなかったんです。どちらかにしてしまえばよかった気がするんです。融和物語か上昇物語か。どちらかに決めた後で、あらためて世界の多様性を示すことも可能だったのではないかと僕は思うのです。こうした世界観の場合、当然多元体描写のほうが面白くなるわけですが、融和物語を組み込むならもっと絡ませていかなければ世界観が活きてこない。それを蝶の刺青でどうこうしてみたり、刑務所に弁当を届けてみたり、どうでもいいことばかりに時間をかけています。野島伸司ドラマみたいでした。岩井俊二と野島伸司は親和性が高そうで、野島伸司のドラマも大好きですが、この世界では要らなかったんじゃないかなあ。あれをすることで、せっかく濃度の高いものになりそうなイェンタウン的特殊性が薄まってしまったように思えてなりません。あれではイェンタウンならではの出来事として成立しないんです。

ストーリーがなんちゃらということも公開当時言われたみたいですが、僕は上記のように言いつつ、本当はそんなものはどうでもいいんです。確かに最低限ストーリーを理解させてもらわないとデヴィット・リンチ監督『インランド・エンパイア』のような地獄を見るわけですが、この『スワロウテイル』の場合、ストーリー云々よりも、世界観の提示さえ全うなら僕は問題なく観られたんです。ただその世界観が十分じゃなかったんですね。いや、たとえばあのイェンタウン的猥雑、渡部のいる『あおぞら』的荒涼、そして時折見られる現代日本的整頓がごちゃごちゃになっているところとかはすごくいい。言語にしてもそうで、あれを聞いて僕は、きわめて日本的な映画だという印象を持ちました。しかし、その外見を支えるものがあまりなかった。

変な世界は変な世界できちんとしておいてほしいんです。その意味でいえば山口智子の役柄が引っかかります。江口洋介のリャンキの組織に追われて、CHARAと桃井が渡部の「あおぞら」に逃げてくる。渡部は多勢に無勢の絶体絶命の状況において、挑発的に銃をぶっ放す。どうなんねん、あかんやんけ、と観客が思う中、びっくりしました。ああいうのをデウス・エクス・マキナとでもいうのでしょうか。山口智子がバズーカで敵をすべてぶっ飛ばしてしまうんです。あれはいただけない。あれでいいなら何でもありになってしまう。イェンタウンのような変な世界を提示したなら、つまり秩序のわからない「なんでもあり」のような世界を提示するなら、一方できちんとその秩序を保たねばならない。それが「外見を支えるもの」です。「なんでもあり」の世界ほど秩序を保たないとならないはずなんです。

そろそろやめにしましょう。そういえば公開当時、子供が偽札を使う描写があったせいでR指定になったというのを何かで読みました。あんなもんはどうでもいいんです。ほな何かい、子供が真似するんかい。真似してあんな風に偽札の機能をはたせるんかい。どうせ千円損して終わりになるだけなんですから、あほな子供に見せてやってもいいんです。

二時間半というたっぷりした時間をとって、世界観を提示しつつ、結局それが岩井俊二的な穏やかさに悪い形で中和されてしまったという印象を受けました。
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カウリスマキは格好悪いから格好いいのさ

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池袋・新文芸坐にてデヴィット・リンチ監督『インランド・エンパイア』、アキ・カウリスマキ監督『街のあかり』を鑑賞。

『インランド・エンパイア』は正直きつかった。訳のわからないものは嫌いではないが、この形では正直ものすごく疲れる。この映画の魅力がわからない人間はきっと何を言っても無駄であろうし、またこの映画の魅力がわかる人間の解説を聞いたところでおそらくその良さは解せないのだろう。かなり早い段階から「ストーリー」なる概念が意味をなさなくなるため、ついていけない僕としては、三時間はあまりにも長尺だった。「ああ、いつ終わるのだろう、もしかしたらこのまま永遠に終わらないのではないだろうか、永遠は言い過ぎとしても、このまま何年も映画が続き、気づいたときには『昭和生まれのじじい』などと揶揄されるくらいに年をとってしまうのではないか」という錯覚に囚われたのも事実で、置いてけぼりを食らった人間は途中で再乗車することが許されないような、そんな映画であった。わからないことばかりというか、この映画において読解できたことが少なすぎるため、これ以上は何も書けない。

さて、そんなわけで本記事のメインは『街のあかり』についてである。いやあ、さすがはカウリスマキである。三時間のリンチ、八十分のカウリスマキ、僕の中では断然後者の圧勝であった。これは大変に素晴らしい。僕のようなものにはものすごくしっくり来る映画である。といいつつ、別にお勧めしたりはしない。というのも、この映画に共感できる人間、この映画のよさをわかる人間は(リンチの作品がそうであるように)多分相当に少数派だからである。「社会」なるゲームを「処世術」とか「コミュニケーション能力」とかいう武器を使ってうまく進めている人には特に勧めない。そんな人たちにはどうせこの映画の魅力などわかるはずがないのだ。ヤンネ・フーティアイネン演ずる主人公は「処世術」も「コミュニケーション能力」もまったくないような、本当にどうしようもない男である。彼のその姿が実に僕にはしっくりと来た。高校生の太田光は太宰治を読みながら「自分のことが書いてある」と思い、90年代の若者は「エヴァンゲリオン」の碇シンジを見て「これは自分だ!」と思ったそうであるが、それでいうとこの主人公は僕にとってそのような存在である。あらすじをアマゾンから拝借する。

ヘルシンキの警備会社に勤めるコイスティネンは、同僚や上司に好かれず、黙々と仕事をこなす日々。彼には家族も友人もいなかった。そんな彼に美しい女性が声をかけてきた。ふたりはデートをし、コイスティネンは恋に落ちた。人生に光が射したと思った彼は、起業のため銀行の融資を受けようとするが、まったく相手にされなかった。それでも恋している彼は幸せだった。しかし、実は恋人は彼を騙していた。彼女は宝石泥棒の一味だったのだ…。

あらすじには「美しい女性」とあるが別に美しくもない。フィンランドでは美人かもしれないが、日本人は彼女を美人だとは捉えないと思う。コイスティネンを陥れるハニートラップの役割を果たすのだが、その割には綺麗ではない。だが、そういうところがいいのだ。カウリスマキの優れているところのひとつである。別に美人ではないのだ。ソーセージを売っている、主人公にただ一人寄り添う女性も別に美しくない。だが、それが絶妙な味わいを醸しているのである。コイスティネンがハニートラップに掛かった理由は、むしろその女が美人ではないからこそ説得力を生む。美貌に惹かれたのではなく、偽りであったとしても自分に注目してくれた、そのことに惹かれたのである。その証左は、コイスティネンが女の正体を鏡越しに確信したシーンである。彼は窃盗団の一味であるという冤罪を着せられるのだが、絶対に女のことを警察にも話さず、有罪判決を受けて刑務所に入れられてしまう。その刑務所の中で、ほんの一瞬、おそらく劇中でただ一度の笑顔を彼は見せる。この笑顔のことを語り始めるとまた長くなるのでやめておくが、コイスティネンが彼女のことを警察に絶対に話そうとしなかった理由を僕なりに解釈すると、「彼女が犯罪者の一味であったとしても、そして自分を陥れたとしても、自分が彼女に恋をしたその気持ちだけは本当なのだ」というその精神ゆえである。裏切られたとか騙されたとか、普通の人間は憤るものだが、彼は違っていた。絶望したからではない。あまりのショックに落胆したからでもない。もしも彼女に対する怒りが彼の中に芽生えていたのだとしたら、どうして彼は犯罪者のボスを襲撃しようとしたのだ? 彼女への怒りがあるならば、彼女を殺そうとしたはずである。だが、彼はしなかった。自分が恋をしたそのことを、彼は信じていたのである。

「初恋の人というのは、恋をするということを教えてくれた人のことさ」

僕の言葉である。どこかのキャッチコピーで使ってもらいたいところである。コイスティネンの恋が初恋かどうかはわからないが、ともかく彼は彼女を恨んだりはしなかったのだ。僕が自分とコイスティネンを重ねあわせた理由はほかにもあって、彼が釈放後に始めた仕事が皿洗いだったということである。僕は逮捕されたことがないのでその点は関係ないが、僕もかつて皿洗いのバイトをしていたのである。そのための皿洗い機械、その工程などが実に僕の記憶をくすぐるものであった。ラストシーンも秀逸である。それまでコイスティネンにただ一人寄り添ってくれた女性がおり、彼はその彼女に対しても心を開こうとしなかったのだが、最後のカットで彼は彼女の差し伸べる手にそっと自分の手を重ねる。馬鹿な監督ならその後の会話なり何なりを描いてしまいかねないが、そこはカウリスマキ、当然わかってくれている。そんなことはしなくていいのだ。無駄に話をさせるべきではない。あの終わり方はまことにもって完璧である。犬が黒人少年とともにいるのもよかった。

そんなわけで、カウリスマキの傑作を観て、実に僕は気分がよいのである。
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イムジン河の不在
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本作には「イムジン河」がない。前作では北と南の間に流れた河を日本人と在日朝鮮人の間にある溝にトレースし、鴨川における名シーンに繋げた。塩谷瞬演ずる耕介が沢尻エリカ演ずるキョンジャと仲良くなりたい一心で覚え歌ったあの歌は、映画を纏め上げる最重要の装置として強烈に機能していた。前作にあって本作になかったもの、その象徴として「イムジン河」がある。無論、本作においてそれを中心に据える必要はない。それに変わる別の装置が必要だったのだ。軸となる武器がなく、芸能界や難病や劇中映画のテーマといった諸所の要素が最終的な統合を見出せないのだ。

民族的対立というマクロ、個人の繋がりというミクロ。マクロでぶつかり、ミクロで分かり合う。マクロは乱暴な衝突を続け、ミクロは繊細に接近する。耕介はキョンジャと恋し、桃子はアンソンの子を孕み、耕介はアンソンと友達になり、大友康平演ずる男気あるラジオディレクターは当時の放送ルールを打ち破って演奏を許可した。前作のキャッチコピー、「世界は愛で変えられる」をどれほどの本気さで井筒が打ち出したのかは知らないが、少なくとも物語はそのメッセージを忠実に打ち出していた。本作はどうか。「love & peace」が副題となっている。キャッチコピー以上に重要なコピーたる副題が、果たしてどう機能していたか。日本人にしろ在日朝鮮人にしろ、結局は双方とも自閉している。主人公たるアンソンもキョンジャも分かり合えた日本人といえば藤井隆演じる佐藤くんくらいのもので、寺島進演じる日本人は最終的に罠にはめるし、石原のカリカチュアなのだろうか、ラサール石井演じた三浦とも何も分かり合えなければ分かり合おうともしない。物語のフックを前作以上に散りばめながら、そのどれにおいてもloveもpeaceもない。反戦を訴えればpeaceを主張できるか。違うと思う。その点における工夫、前作にあったそれが何故か本作では姿を消している。

なおかつ、前作にあった1968年的風景、昔的風景の風味が著しく低下したのも残念だった。舞台は1974年。歌謡曲や流行アイテムを散りばめてはいるものの、前作を強く支えた風味が消えてしまっている。前作は京都という一都市を舞台にし、そこに空気をこめることで濃密な空間が描かれていたが、本作ではキョンジャがロケで地方に行ってみたり、アンソンが見知らぬ田舎に出て奔走したりと空気が分散し、街の風情が消えてしまった。

アンソンの父の受難を描いた過去のシーンはどうか。カリカチュア的な人物、映画まで登場させて同時期公開の映画に真っ向からぶつけた本作は、前作よりも格段に「反戦」の色合いが強い。にじみ出ているならまだしも、真っ向から描いた。ならばあのコラージュで正しいのか。僕の記憶力、集中力が乏しいせいも多分にあるだろうが、アンソンの父がどんな顔だったか、まるで思い出せない。空襲のシーンには強烈なインパクトがあった。しかしその主体となるべき存在の顔がない。その状態でクライマックスにコラージュされても、そのドラマ部分が活きてこないので、協奏曲にならない。幾度も前作の思い出を語るようだが、前作終盤の多元シーンの協奏は本当に素晴らしかった。本筋ではないはずの桃子の破水シーンが、実に短い瞬間でありながら力強い支えとなった。本作はその濃度を大きく失っている。キョンジャのドラマ部分がその要因でもある。

中村ゆりの演技はよかった。演技をしていない部分などは特によく、かなり素に近い演技に見える部分が多々あって好感が持てた。しかし、彼女の演じた筋が結局、ラストの濃度を高めることが出来なかった要因となってしまった。彼女は芸能界に入り、順風満帆かと思ったのもつかの間、在日ということで差別を受けたり恋人に裏切られたり枕営業で役を掴んだりと沢山の酷い目に会う。しかし、その部分が活きないのだ。嫌そうではあるが、辛そうではない。すごく嫌だ、と感じる気持ちが伝わっても、すごく辛い、というところにまで至らない。病院の前で「朝鮮人になんて生まれなければよかった」と号泣するシーンがあるが、嫌さはあっても辛さがないため、ちっとも伝わってこない。

子どもの筋ジストロフィーの話がよくわからなかったというのが正直なところだ。劇中、快方に向かう様子も知らせもなく、それでいて酷さのあまりどうしようもなくなる、ということもない。ということは、あの子ども、チャンスは映画が幕切れを迎えた後もっと酷くなっていくのだということを観客に予期させて終わる。希望がない。この希望のなさをどう処理すればいいのかということについては、鑑賞後の余韻でもう少し考えてみたいと思う。何故あんな形で終わらせたのか、僕にはまだちゃんと処理できないところだ。

ちょいと書き出したら案外沢山書いてしまった。期待値が高かったためかなりきつめに書いてしまうことになった。そういえば以前、前作を褒めたところ訳のわからないコメントが大量に書き込まれるという椿事があった。今回はそうならないように願う。おわり。
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時間的・空間的な蓄積の問題をどう解決すべきか
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 前々から観ようと思っていた西川美和監督『ゆれる』です。かなり期待してみたのですが、そのせいもあってか、鑑賞後感で言うといまひとつぴんと来ませんでした。わりとたっぷりと間を置く感じの演出で、嫌いじゃないはずなのに、何故か好きになれなかった。このもやっと感を誰か言葉で表してくれと願い、ネット上で探し回ったのですが、高評価を与えるものばかりで、さらっと観た限りでは辛口なものは見受けられませんでした。やはり辛口で書くというのは、多少根性が要るものです。誰も読んでいないようなこんなブログでも、誰かの目に触れる可能性がある限り、辛口がそのまま己のあほさを晒しかねないわけですから。でもまあ、それはそれでいいんです。下の文章を読んで、僕の阿呆さを指摘してくれたら、それはそれで有難いわけですから。なかなか誰も相手にしてくれないのですがね、ぶひひ。

さて、『ゆれる』が何故ぴんとこなかったのかなあと考えると、時間的・空間的な蓄積というのが物語の濃度において足りなかった、少なくとも僕にとっては足りなかった、というのがあります。たとえば、この映画において最重要点のひとつであるつり橋のシーン。真木ようこ演じるチエがオダギリ演じるタケルと出会い、恋します。そして、田舎から出たいと思い始める。飄々とした都会人となったかつての幼馴染を見て、自分の来歴が無味乾燥な灰色のように感じられてしまう。そうしたメンタリティは理解できます。
橋にまつわるくだりはその心情の具現です。山中、オダギリが橋を渡っていく。その姿を見る。自分も渡ろうと思う。香川照之演じる、タケルの兄ミツルは引き止めるが、ここにいてくれと言って自分も橋のほうに向かう。ミツルとタケル、橋のこちらとあちらが、そのまま自分のいる灰色の町と希望溢れるかのような都会に対比される。橋の真ん中に達し、タケルに手を振るチエ。そこにミツルがやってくる。

この直後で引っかかりました。チエは自分の服を掴むミツルに激高するんです。最初のハテナマークが点灯しました。いや、わかるんです。自分が進もうとするのを、自分が抜け出したいと思っている場所が離してくれない。タケルとミツルの対比は実にわかりやすくメタフォリカルです。そのメタファの構図に従えば、チエの激高もわかる。しかし、構図はあくまでも構図であって、人間ではない。あの状況で、チエがあんなにまで激高してミツルを拒絶するというのが僕にはどうにもしっくりこなかった。人の動きがメタフォリカルな構図を生み出していい具合の筋道が描けていたのに、ここに来てその構図自体が人を動かす力学になってしまった。順序が逆転してしまったんですね。意味わかります?人が動いて物語の道が出来るはずが、あらかじめできた道の上を人が歩いている、という感じを受けたんです。そういう印象を受けたゆえ、このシーンに入り込めなかったんです。そして、このシーンに入り込めなかったことが、この映画から受ける印象の方向を左右させてくれました。

 タケルの気持ちがこれまた僕にはよくわからなかったんです。
 タケルが落下を目撃したのか、したならば兄が突き落としたのかそうでないのか、それはこの物語の上で非常に大事になるわけですが、目撃していたなら何故落ちたチエのほうに向かわなかったのでしょうか。合理的な理由としては、タケルはその時点で「ミツルが突き落とした」という状況を目視したからです。事故で落ちたと思ったなら助けにいくか、助からないと思ったとしてもチエのほうに行かないというのは解せません。また、橋の上でのタケルの態度、橋の下を確認しようとしていなかったこと、それを踏まえ、やはりタケルは事実、落下を目視しており、なおかつそれが「突き落としたように見えた、あるいはそう感じた」のです。そして衝突などあって、その記憶に確信を持ち、証言台に立ってしまいます。

しかし、「七年後」のラストシーン、タケルは昔のホームビデオを見て「突き落としていない」という記憶が結実するにいたり号泣し、兄のもとへと向かいます。

人の記憶がどうたらということがこの映画に関して言われているようですが、確かに曖昧なものです。そしてそれはその瞬間だけではなく、そのときの精神状態にも左右される。同じものを見ても別物のように見えることはいくらでもあるわけです。弟は兄が突き落としたように見えた、あるいはそう感じた。であるならば、そのように見えてしまう要因、簡単に言えば「兄に対するわだかまり」があったと見るのが自然です。七年後のシーンが示唆するように、タケルは「突き落としたのを見た」のではなく、「突き落としたと思い込んだ」と見るべきでしょう。では、それは何故なのか。

僕が冒頭述べた時間的・空間的蓄積の問題というのは要するに、兄と弟の間にある溝とは何か、ということです。この弟は兄に対して何を感じているのか。逆の立場ならわかるんですが、この弟が兄に何らかのわだかまりなり劣等感なり、(名前は何でもいいのですが)「不快な感じ」を抱いていたというのが、時間的・空間的蓄積として見えてこなかったんです。それがこの映画に満足できなかった非常に大きな理由です。重厚感がなくて、なんだか薄いんです。雰囲気にごまかされてはいけません。演出のうまさもあって雰囲気的にはシリアスな感じでも、もっと奥の部分で薄い(薄いのはお前の見方じゃ、うちが教えたるわい、という方を心よりお待ちしているので誰か言うてな)。兄に対する和解にしてもそうで、七年間ほったらかしにしておきながら、ホームビデオ程度で全てを思い出し和解するというのでしょうか。雰囲気やなーという感じです。

うーん、田舎と都会のどうたら言う褒め言葉を見ましたけど、それなら同年公開の『幸福のスイッチ』のほうが、まったく別ですけどコントラストとしてちゃんと描けているし、この『ゆれる』には大して活かされていなかったと思いますねえ。装置としては機能しても、風味を醸していないという意味で。そんな感じですねえ。

我ながら辛口続きやなあ。いや、でも、それはそれでそう感じてしまったんだから仕方ないです。上記のようなことを指摘できる映画はいい映画と思うものの中にもありますが、「それは別にええやん」と、そういう映画は思わせてくれます。この映画は思わせてくれなかった。思うことが出来なかった、というわけですね。なんか文句のひとつも言うてくれるとありがたいですね。
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