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格好いいとはどういうことか
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勝新太郎の『座頭市』は初めて観ました。というか、役者・勝新太郎の作品を初めて観たというべきです。三船敏郎大好きっ子の僕ですが、いやあ、勝新もめちゃ格好いい。やっぱりね、格好いい役者、まあ「貫禄」ってことですけど、その貫禄ってひとつには怖さでもあるんですね。三船にしても勝にしてもめちゃめちゃ怖そうですもん。本気で怒られたら僕は間違いなくびいびい泣いてうんこを漏らします。この「怖い役者」というのがなかなか今の時代いなくなってしまいました。いやもちろん、ヤクザ映画に出てくる俳優とかいるわけですけど、それでもこのどこまでも油断できない役者というのはなかなか今は見られません。時代は優しくなっていますからね。それこそこの映画の「めくら」という表現にしたって今では放送禁止になっているわけだし、配慮配慮の積み重ねによってかつてのような油断ならない俳優というのは生み出されにくくなっているのでしょう。勝新太郎にせよ、たとえば松田優作にせよ、監督との衝突という事件を起こしている。今はもうぜんぜん聞かないじゃないですか、そういうの。せいぜい広告代理店やらタレントの所属事務所やらが監督にあれこれ注文をつけて、俳優は「悪そうに見えますけどすごくいい子なんですよ」的な感じで収まって・・・・・・かあっ、むずむずする構造です。去年の沢尻報道でも思いましたが、もっと無軌道なやつらがいてもいいんです。それをあんな風に処理するから駄目なんです。最近で言うと窪塚洋介なんて僕の大好きな俳優なのに、俳優業に愛想を尽かしてしまったらしいじゃないですか。それじゃあすごいもんなんてできるわけないんです。平和ボケ国家は平和ボケ国家で結構だけれども、脅迫的な平和では困ると思うんです。この平和を乱すものは容赦なく撃ち殺す、といわれればそれはもう平和じゃないんです。SFが散々謳ってきたことです。

で、『座頭市物語』ですが、ちょっと『用心棒』に近い感じですね。ばくち打ち同士の衝突が会って、互いに用心棒がついていて、その用心棒たちは当の雇い主のいざこざには愛想を尽かしていて本人たちだけの戦いがあるという。それでまあ後年『座頭市と用心棒』なんて作品もできていますし。続編がどんどんとつくられたシリーズもの第一作になるわけですが、この盲目の剣豪というのは当時結構目を引いたんじゃないでしょうか。しかも剣豪ではありながら見た目はしがない按摩をやっているというね。で、三船の『用心棒』などの剣豪と違うのは、見た目は平身低頭な感じだということで、これが不気味さを醸すところがあります。三船が陽の強さだとすると、この勝は陰の強さがある。すごく物静かではありながら、太刀裁きですべてを思い知らせるというか、それであるからラスト、雇い主の親分に啖呵を切るところでもその台詞に格好良さが出る。この静けさと、終盤の戦いの混乱が対比されてすごくいいじゃないですか。あまり詳しいレビウは書けそうにないけれど、五社体制時代にものすごい数の映画がつくられまくった中で、時代を越えて語り継がれる作品というのには、やはり何事かのすごさがこもっているというのがわかります。

さて、後半はドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の『ダーティ・ハリー』です。これもシリーズ化されて五作くらいまでつくられたようですね。クリント・イーストウッドの主演作というのはほとんど見ていないのですが、三船や勝のようなすごさは残念ながらあまり感じられないんです。どうも茶目っ気がないというのが今の印象なんです。三船や勝は怖いけれど、その一方でちょっとした茶目っ気が覗くところがあって、それが魅力的なんですけど、どうにもこのしかめっ面続きのイーストウッドには惹かれない。もっと見れば印象が変わるかもしれないですけど。あのー、この映画のイーストウッドはそりゃあまあ格好いいんですよ。犯人を追い詰めるところの銃をつきつけるくだりとかね。ただまあ、これは銃と刀の問題なのかもしれないけれど、やっぱり侍の格好良さはないんですよね。

作品自体は楽しめました。ただ、あの犯人を釈放してしまうというのはありなんでしょうか。証拠がないから云々と言っていましたけど、あの辺はちょっとどうなのやと思いました。なんだか説得力がない感じがしたんです、四十年近く前のアメリカの法律がどういうものかあいにく僕にはわからないから、こういう発言は無知をさらしているだけかもしれないんですけどね。犯人がテレビ局のインタビューに嘘をついて答えるくだりとかも、別にそこから話が膨らんだわけでもないですしね。当時の社会に対するメッセージ性があったのかもしれないですけど、なんならあの犯人の側からつくったら面白そうだなあと思いました。

今日は映画への直接的な言及よりも別の部分の話が膨らんでしまうんですけど、やはりねえ、僕などからすると、刀と銃があったときに、断然刀のほうが格好いいんですね。銃は好きじゃないです。銃も刀も凶器であることに変わりはないけれど、刀と侍は切っても切れなくて、つまり僕は侍の格好良さが好きなんですね。銃って西部劇でも出てくるけど、現代劇でもばかばか撃たれまくってるし、遠くから撃つなんてこともいくらでもできるから、格好良くないんです。それは『座頭市物語』の中ではっきりと語られました。病に臥する平手という用心棒が、銃を持っていくという他のやつの発言に対して、「鉄砲は卑怯だ」とどやしつけるんです。これがねえ、格好いいんです。傷つくリスクのない攻撃の仕方は卑怯だ、というのはやっぱり侍の心意気なんです。相手を傷つけるときはこちらも傷つく覚悟を持つべきだというのは一度ちゃんと腰を落ち着けてアメリカ野郎に教えてやるべきことです。

そういえば、今年には綾瀬はるか主演で『ICHI』なる映画が公開されるそうですね。はあ、綾瀬はるか、ふうむ。北野武の『座頭市』は、勝新とは別の要素を盛り込んでつくられていましたよね、真っ向から勝新をやっても仕方がないと見切っていた武は頭を金髪にし、タップダンスを盛り込むなど奇をてらった方策に打って出た(黒澤・三船を模写しようという暴挙に出た森田・織田とはそこが違いますね)。で、北野武はそれまでの芸歴、来歴からしても貫禄がありますから、僕は『座頭市』は楽しめたし肯定的に捉えたいのです。さて、厄介な代物です、『ICHI』・・・・・・。三番煎じは、よほど煎じ詰めないことには危険でしょうからね、今日はこの辺で。
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反復がもたらした秀逸なリズム
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僕は、北野映画というものに対する感度は鈍いほうかもしれないです。名作といわれる『ソナチネ』、『HANA-BI』について、ほとんど反応できないというのが正直なところなんですね。『HANA-BI』は随分前に観たので今観れば別かもしれないけれど、『ソナチネ』はどうも今の段階ではそのすごさを感じられない。じゃあどういうのがいいんだよおまえこのやろうと言われれば、『その男、凶暴につき』とか、あとこれは世間のキタニストには不評かもしれないけれど『BROTHER』。はじめてまともに観た北野映画が『BROTHER』だったのでその印象が強いのかもしれません。『キッズ・リターン』とかも僕の中ではもうひとつなんですねえ。

 さて、『3-4x10月』です。これはいいです。この映画のリズムはすごく心地よかった。何がいいのかなあと考えると、あの反復のイメージなんですね。この映画には多くの反復がちりばめられていて、それが随分と快いものになりました。反復は早い段階で示されます。まずはあの草野球のシーンがそうですよね。柳ユーレイがバッターボックスに立って三球三振する。繰り返し投げられ続ける球に対し、それを見送り続けてしまう態度という反復。ガダルカナル・タカとベンガルのやり取り、「井口だろ?」「井口さん」の反復。あと、これはこじつけになるかもしれないけれど、パチンコという遊び自体にある反復など。もっとも美しかった反復は、たけしが女に向かってボールを打ち続け、それを女が拾い続けるシーン。往復運動を細かく切り刻んだあの場面は、僕がこれまでに観た北野映画の中で最も充実したワンシーンに思えました。

反復というのは運動と停止を同時に内在させる事象です。反復運動という形でそれは絶えず動き続けている。一方、その反復運動を外側から眺めたとき、それは新しい展開を呼び込まない停止でもある。古来、停止的な、静物画的なショットを効果的に収める監督というのは数多いて、北野映画でも停止的ワンカットは多用されているのですが、この反復は停止的なイメージを残しつつも映像の強みである運動を同時に喚起している、ごく単純ではあるがきわめて効果的な技法であるなあと思うわけです。

ではその反復は何をもたらすのか。申し述べたとおり、運動と停止を同時に行う技法であるがゆえに、次の場面に移る場合は、必ず別の動きを生み出すことになる。つまり「反復→停止」にもなりえ、「反復→運動」にもなりうる。僕がこの映画のリズムに惹かれたのはまさにそういう要因のためです。反復運動が繰り返し用いられるおかげで(それはメタ的な反復でもあるわけで)、この映画では運動と停止の絶妙なバランスが生みだされているのです。

ちょいと堅い話が長くなったので、もっと簡単なことを話しましょう。
石田ゆり子がいいですねえ。この映画に出ている頃は20か21歳、今の石田ゆり子ももちろん抜群にいいわけですが、女子大生的な魅力を持つこの頃の彼女はもうとんでもないわけでして、映画の中とはいえ柳ユーレイに嫉妬さえ覚えるわけです。柳ユーレイの試合を石田ゆり子が見に来る場面がありますが、あれはねえ、もう本当に、「ええとこ見せたろ」と思いますね、男ならね。「ええとこ見せたろ」と素直に思ってしまう場面というのは、なかなかありません。あの石田ゆり子が観戦している試合で「ええとこ見せたろ」と思わない男がいたなら、それはもう男ではありません。そんなやつはくるくるぱーのぷっぷくぴーです(なんのこっちゃ)。柳ユーレイが石田ゆり子とともに電車に乗っている場面がありますが、僕があの柳ユーレイと同じ状況にいたら、多幸感がきわまって死んでしまうかもしれません。だからこそ、あの終わり方は嫌でした。石田ゆり子を巻き込んで欲しくないのです。彼女には幸せになってほしいのです(あほか)。

北野映画では笑いが邪魔になることがあります。『ソナチネ』でも『キッズ・リターン』でも、笑いが鬱陶しかったりする。僕はビートたけし世代ではないので、彼の芸人的な面白さに思い入れもなく、べたべたさにきつさを覚えたりもするのですが、この映画ではそんなことがありませんでした。笑いの場面も素直に受け入れることができた。それはあの反復あってのことだと思いますね、映画における笑いはやはり、リズム感をつかめなければどうにもならないんです。笑いとは空気あって生まれるもので、その空気の醸成には世界観の構築とは別の、リズム感の獲得が必要になるのです。この映画のリズムには申し分がないので、非常に楽しめました。ちなみに、ラストの夢オチですけれども、あれはまああれこれ言われるのでしょうけれども、考えてみればこの映画にとって自然なことなのです。なぜなら、この映画は反復を配した映画であるわけで、あの柳ユーレイもまた、いつもどおりの野球場に向かって戻っていくのは当然なのですから。
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なんだかんだ言いながらも、とりあえず観ろとしかいえないし、是非観てほしいですね
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園子温作品は『紀子の食卓』に続いて二作品目の鑑賞なのですが、今回も強烈でした。強烈な映像を撮る、作品を撮る監督は歴史上世界に数多いると思いますが、日本ではこの人が今現在、ダントツのトップなんじゃないかと思います。ホラーとかスプラッターとか、そういうレベルの強烈さではなく、もっと嫌らしいというか、かなり屈折した強烈さがあります。この点においては、今の邦画界で良心的な作品を生み出す黒沢清、青山真治といった人々とはそもそも住む世界が違う感じがします。どっちが上とかじゃなくて、ぜんぜん違う方向を向きながら、日本の映画を支えているという感じ。

まず述べたいのは、この人が使う役者たちは皆、瑕疵のない演技をするということ。役者の力というよりもこれはもう監督の力だと思うんです。なかなかそういう監督は今、いないと思いますね。先に揺ぎ無い世界観を構築した後で役者を遊ばせていて、役者は決してその世界観を壊さない働きをしている。これは何なのでしょうか。定評のある役者たちを使っているというわけではないのに、定評のある役者たちががんばるよりもはるかに良質なものに仕上がっている。その映画の持つ空気、エネルギーがそうさせているんですね。思い切り突飛な世界であり、まあ言えば非現実的な世界であるはずなのに、ちっとも浮いた感じがなく、その世界の人間として役者がそこにいる。こういうことができる監督は、繰り返しになりますが、現代の日本映画には非常に稀だと思うんです。

あと、音楽の感じもものすごく僕は好きです。今日の僕は、酔いながらの帰り道、「名前のない仔犬」をずっと口ずさんでいました。『紀子の食卓』でも、穏やかな音楽をずっと鳴らしながらの登場人物の独白があり、彼らはそのナラタージュの中、社会から漏れていく。あれねえ、音楽なしのナラタージュだと駄目なんですよ、声のもたらすものが強すぎるから。声が情報になって、喋っている自意識が浮き出てきて、絶対浮いてしまうはずです。でも、この監督はそれをさせない、絶対に浮かせない。音楽によって独白を中和し、あるいは独白をも音楽化して、ナラタージュにしている。おどろおどろしい音楽なんて使わないんですね。それが既に陳腐であることを知っているというか、だからこそありきたりな音楽の構成は絶対にしない。先ほど述べた「名前のない仔犬」も自分で作曲しているというし、クレジットでも監督・脚本・音楽・園子温となっているし、かなりその点においてこだわっているのがわかります。役者をその世界の住人にするうえで必要な音楽という演出を、非常にたくみに活用している。僕はあまり音楽に明るくなくて、映画を観るときもあまり重視しないんです、実際。サントラに惹かれるということもあまりない。でもこの監督の場合は別です。この人の使う音楽のセンスは実にすばらしい。その点に注目して観てみてください。

あのー、おそらく映画っていうのは、その世界観を完璧に提示した瞬間に、ほとんど勝ちだと思うんです。不味い映画がどういうものか、そこに共通しているのはひとえに、世界観がしっかりしていないことだと思う。この映画はまあ言ったらめちゃくちゃな部分が多いというか、むしろまともな部分のほうが少ないというか、有体に言って現実的な感じは全然ないですよ、学校のシーンひとつとっても、もうありえない世界です。でも、それをして突飛過ぎるとか、非現実的だとかいうそしりを投げる鑑賞者は悪いけど馬鹿だと思いますね。そんなことはすべてわかった上なんです。むしろ現実性に拘泥して世界観をまともに作り上げられないほうがよほど愚かというか、どうでもええことに縛られとんな、と思うわけです。かといってまあ、迂闊に真似はできないところではあるんですけどね、なまじぶっ飛んでしまうと、今度は足元が崩れてしまうことがあるので。この映画の場合、冒頭からあの訳のわからぬショーのシーンで始めていますよね。最初から、「この感じでいくで、ついてきてな」という態度を示しているのが大変好ましいと思います。

ストーリー的な部分で話すと、まあこの映画をストーリーだけ切り取って語ることは無理なんですけど、めちゃめちゃ嫌な話で、めちゃめちゃ嫌な真相がありますよね。この映画の場合、移入が難しいです。観ている人の大半はおそらく、あの少女に移入して世界を眺めていくと思うんですよ、でも、途中から母親がメインになって、「あら?どういうことなんや」となっていって、どうやらあの少女がこの母親と同じになっているらしいぞ、と思って、で、最後に裏切られると。だからもう、大半は妄想のもとに繰り広げられているんですけど、あのサーカスシーンを冒頭に設定してラストに入れて、すべてを包み込む形になっているじゃないですか。だからもう、何が現実かとかどうでもいいんですね。そもそも映画における現実ってなんやねん、ということでもあって。夢オチは最悪やというのが世の中の常識となっていますけど、これはもう夢オチとかそんな次元にもないし。最初のほうからのどこからどこまでが本当のことで、どこからどこまでが妄想なんやというのもよくわからないじゃないですか。そう、だから、ストーリーについて云々語るのは無意味かもしれないですね。これこれこういう話やで、というとこに落ち着けないです。難しいですよ、この話の筋を人に説明するのは。いや、それはやろうと思えばできるけど、それが正しい解釈として成立しているかというと、あのサーカスのラストですべて怪しくなりますからね。

いずれにせよ、久々に強烈なものを観たなあという印象です。それは見た目のグロテスクさもさりながら、もっと別の部分ですね。グロテスクな映画なんていくらでもあるわけですけど、この映画のグロテスクさって、可視的にスクリーンで描かれている表現以上のものです。その点を感じることができないと駄目です。見た目のものはあくまでも見た目でしかないでってことがわからないと楽しめようもありません。

R-18ということですね。まあこれは、あらゆる意味でテレビではできないです。ただその分、こういう映画を映画批評家が褒めていかないと映画が伸びていかないと思うんですけど、批評家内での評価はどうなのでしょう。詳しくないので知りませんけど、ある意味で、これがメジャーになってもそれはそれでまずいなあという気がするし。難しいのは難しいですね。この映画を宣伝する文句を書きなさいといわれたら僕は、なんだかんだと書いた上で言うのもあれですが、「とりあえず観ろ」としか書けません。でも、凡百の映画よりもはるかに、映画という媒体でしかできないことを成し遂げているのは、これはもう間違いありません。
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いまさらのきわみですけど、三船のすごさを強く感じるわけです
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映画に目覚めてからずっと観たいと思っていたのに、ずっと貸し出し中で観られずにいた一本。ようやく観ました。『花よりもなほ』の次、時代劇を立て続けに見たのですが、いやはや黒沢明が活躍したころの時代劇というのは、妙な感傷もなくていいですね。今の時代劇というのはおしなべてなんというか、いい話みたいな感じにするじゃないですか。前回の『花よりもなほ』はその最たる例のひとつですけど、2000年期に入ってからの時代劇は、夫の武士がいてそれを妻が支えて云々、うるうるみたいな。そういうのが好きじゃない僕なので、こういう『用心棒』のような話は実に好ましい。

桑畑三十郎にはちょっと笑ってしまいました。『椿三十郎』はこの後に撮られているんですね、僕は『椿』が先で、自作のパロディをしたのかと思って笑ってしまったんですけど、この桑畑のほうが先なのでした。『椿三十郎』といえば織田裕二がありましたが、ちょうど今の織田裕二とあのころの三船は同い年くらいなのですね。いやあそうなると、三船がいかに格好良かったか、いかに逞しかったかということをまざまざと知らされるばかり。この『用心棒』においては特に、まあ『椿』もそうですけど、三船の格好良さがいかんなく発揮されているため、惚れ惚れします。やっぱり風格がとてつもないんですね。しかもこれより前の時代の1955年に、あの『生きものの記録』の老人を演じているわけです。この『用心棒』の六年も前、三十五歳のときにですよ。そんな役者はもう日本には皆無です、いや、世界にもいないでしょう。娘の三船美佳がその夫と一緒にけらけらテレビで笑っているのを見ると、今昔併せ見て、時代の退行というものを感じてなりませぬ。三船敏郎が見たら泣くでしょう。

この映画ではっとしたのは、その三船がぼこぼこにされるシーンです。『蜘蛛の巣城』では壮絶な死を遂げていましたが、あのように格好悪いやられ方をしているのは新鮮でした。ほかにもあるかもしれませんが、たぶんそれは僕がまだ観ていない作品でしょう。あれがいいんですね。『七人の侍』でも『椿三十郎』でも、三船はいつも強くて格好よい。でもその三船がああやってぼこぼこにされるのを見ると、それはそれで映画として実に面白いわけです。で、ぼこぼこにされて、ほうほうのていで飯屋の親父のところに逃げ込む。この後がいいですね。死体を運ぶ桶の中に担がれていくのですが、その中から強気に怒鳴り始める。きわめてキュート。桶の中から、やばい状態にあるのに外の状況を聞きつけ、「見物するから止まれ」とか言ってみたりするあれは絶品。ああいうのって、今、ないんです。今の映画で同じようなことをしたら、もっと恐る恐るやると思うんです。「ちょっと見てみたいんだけど、なんとかなるかなあ、いや、無理だったらいいんだけど」みたいな弱気な感じになるはずです。時代が繊細さを身につけたせいで、ああいう無頼で常に強気な侍の姿というのは描けなくなってしまいました。これはとってもとっても残念です。

それで言えば、一組の親子を救うシーンもそうです。今同じことをやって御覧なさい。絶対もっと心優しいキャラクターにしてしまいますよ。どうでもええような子どもとの会話のシーンを入れてみたりね。そういう愚は冒す気配すらない。これは非常に大事な場面だと僕は思うのです。なぜかというと、三船の役柄自体がそういう、現代映画にあるような叙情性を否定しているから。三船はとらわれの親子の、あの父親のような人間を嫌っているんです。早く失せろってなもんです。だから絶対に、あの親子とまともに口をきこうとはしない。三船のあのキャラクター性というのは、現代の映画に観られるような妙に生暖かい、「感動の人間ドラマ」みたいなものを明らかに否定しているんです。素浪人の格好良さとはつまりそのようなところにある。決して表には出ない、すべてを行動だけで示す、嫌われるとか好かれるとか格好いいとか悪いとかそういう価値観のすべてを排した場所に、あの役柄は生きてくる。あの、乱暴な優しさが今の映画からは失われている気がしてなりません。

他の役者で言うと、山田五十鈴がいいですね。ものすごく性格が悪そうな女主人。あの女主人と、丑寅方のぼんくらとが三船を取り合ったりするシーンなど、すごく愉快。仲代達矢の危ない感じもいいし、ジャイアント馬場みたいな人もいい。そういういかにも一筋縄ではいかなそうなやつらの間をかいくぐり、ぼこぼこにされつつも最後に勝利していく、それまでの筋書きはやはりすごくいいじゃないですか。あのー、叙情に逃げていないというのが好ましいんです。すべて三船の無頼漢ぶりの中でうまくまわされていくあの筋立ては、叙情的に夫婦愛だの家族愛だのを描きたてるものよりもはるかに見ていて気持ちがいいです。ならず者ぞろいのばくち打ち集団二組を、腕力と計略ですべて動かそうとしていく、あんなに格好良すぎる役柄に、ばっちり三船がはまって、これはやはり傑作になるわけです。場所の風情があるのはいわずもがな。
 今は『椿三十郎』とか、次の『隠し砦』とかありますが、よく言われることですけど、リメイクには無理があるんです。それはね、黒沢明という巨匠の作品を云々とは別に、やはり三船敏郎という絶対的なまでにすごい役者の出てくる作品を、今の役者でやるということに無理があるんです。ジャニタレでどうするっていうのですか。そんなことをするくらいなら、一本でも多くの黒沢作品(当然もともとの黒沢作品を)をテレビで流してほしいですね、ってまあ、そんなことを言ってもどうしようもないんですけれども。この辺で。
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 もし観るなら、暁覚えぬ春ごろに、何の期待もなくぼけえっと観るといいでしょう
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 新宿のマスターにもらいました。ありがとうございました。
『花よりもなほ』は若干長く感じました。二時間ちょっとなんですけど、この手の映画だと百分くらいが心地よい。なぜだろうなと考えると、いくつかの要因に思い当たります。

まず、この映画にはあまり風情を感じることが出来なかった。まあこれは人それぞれあるものですから、あくまでも個人的なものなんですけれども、こうした映画においてかなり重要な要素であるその空間の風情が、あまり香ってこなかったんですね。舞台は汚い長屋というきわめてにおい立つ場所であるはずなのに、醸されるものがあまりなかった。汚い長屋を汚く映すことが大事で、その汚さが逆に映画の美しさに変わっていく。ドブネズミみたいな美しさ、たとえば黒沢明の『どん底』にはそれがあります。この長屋は『どん底』ほどの汚い場所ではないにしても、もう少し汚れてほしかった。その点に風情のなさを感じたのかもしれません。

いや、わかるんです。これはもっと朗らかな話ですから、ことさらに汚さを押し出す必要はない。だとしても、やはり風情は保ってほしかった。宮沢りえが綺麗過ぎるんです。誇りっぽさもなくてやたらに綺麗過ぎて、それはまあ岡田准一についてもそうなんですけど、せっかくの時代劇なのに、時代劇風情がなさ過ぎて、現代の話でも別にええんちゃうんけと思ってしまった。

やたらと芸人が出てきたのは何なのでしょうね。BGMが示すように、この映画の陽気さを保つ上で有用な存在と考えて起用したのでしょうか。よかったのは上島竜兵です。千原兄は最初から最後まで千原だったんですが、上島竜兵に関してはその汚れ具合もいいし、映画の風合いにもそぐう働きをしていた。芸人では板尾が俳優として活躍していますが、上島竜兵ももっと出てきてもいいんじゃないかと思いました。反対に、木村祐一はミスキャストでした。演技どうこうではなくて、あの役に木村はない。なんなら古田新太と役柄を交換したほうがよかったんじゃないかと思えてなりません。古田は『木更津キャッツアイ』のオジーなど変な役をしているので、岡田も出ているし、今回もそれをすると同じような感じになるかな、と回避したのかもしれませんが、木村祐一の役は移入を阻害しました。ああいう役であればもっと若い俳優を使って新しい才能を発掘する機会にしてほしいなと個人的には思います。トミーズ雅が出てくるなど、「この監督は物語に観客を引き込む気があるのだろうか?」と思えてなりませんでした。ああいう形にすると間違いなく、一瞬観客は没入を疎外されるんです。作品世界に見入っていたのに、「あっ、トミーズ雅だ」という余計な驚きが入ってしまう。最近の日本映画はそういうのが多いです。これは苦言を呈したいところです。それを遊びに使うのは悪くないけど、あそこでトミーズ雅を起用する理由が、映画的には何もない。事務所的にはあるかもしれないけど、そんな事情は知りません。

長く感じた要因はいくつかありますが、ちょいちょい入れる甘ったるいシーンがそのひとつです。子供と岡田が話すところとか、観客への媚という感じが強くて辟易しました。子供をかわいらしく描きすぎている。かわいらしい子役を出しすぎている。これが風情が死んでしまったもうひとつの理由です。汚い長屋に暮らすならばもっと汚くないと趣がない。阿呆な女子供の客は「子役の子がかわいかったあ」などと鑑賞後にほざくかもしれませんが、かわいい子役を見たければ一日中NHK教育でも眺めていてほしいですね。この映画において子供は完全に小道具化していたので風情を助けず、むしろ邪魔でした。復讐を済ませたという芝居をするところでも、宮沢りえが子供を抱きながらだらだら喋る、それに岡田が何事かを感じる………ああいうのがどうにも粋ではない。もっとさりげなくやってほしいですね。子どもが宮沢りえの夫の似顔絵を見せるじゃないですか、それが仇討ちの指名手配の絵になっている。それで十分なんですよ、岡田が復讐の意をとどめようとするのは。それをあそこまでくさいやり方でするとなると、いやはやむしろ怒るべきは観客のほうに対してなのかもしれません。

もっとも、結構辛口で話しましたが、決してそこまで悪いわけではないです。あのー、うん、BGMの軽快さが印象に残っていて、これね、中高時代の春休みくらいに観るとよかったかもしれないですね、もしくは五月前くらいのちょっとあったかくなってきたなあってくらいの時期。新年度でどたばたしつつも、特別に大きな悩みもない時期。それくらいにふらっと映画館に入ってぼけっと観る、そんな感じの映画ですね。逆に言うと、あまり真剣に観ると見返りがないので、こうしてちょいと辛口になってしまいます。この辺で。
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ある意味で、こんなに困惑させる映画を僕は知らない
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ロバート・アルトマンという監督のことを、僕はぜんぜん知りませんでした。名匠として名高い人らしいのですがまったく知らなくて、この遺作が初鑑賞になります。新宿のバーでもらいました。マスター、ありがとうございました。映画のことを語れるバーが二件あって、一件では2007年のベストワンと伺い、もう一件ではぴんと来なかったと聞きました。キネ旬では昨年の第三位でした。

 さて、映画についてです。
 時間が気にならない映画というのには二種類あります。ひとつにはとても面白い映画、もうひとつには引っかかるものがないまま流れるように過ぎていく映画。この作品に関して言えば、僕の場合、後者でした。

 ストーリーのあるなしというのは映画の出来不出来に関係ありません。ストーリーがよくてもつまらないものはつまらないし、ストーリーがなくてもいいものはいい。この映画は長年続いた劇場の最後の日の話ですが、ストーリーはないようなものです。ではそうした映画に何が問われるかというと、ひとつには風情の問題があって、この映画にはどうにも風情を感じることが出来なかったんです。

ちょっとわからないのは、この映画が、こうした映画でいくらでもできるはずのことをすべて外してきていること。その外し方が徹底されているので、あるいは別の意図があるのかもしれません。たとえば、こうした劇場映画の場合、その限定空間性がひとつの武器になります。ひとつの場所で複数の人間がいる場合、あちこちに動き回る映画よりも舞台の濃度を格段に高められる。人々の間ではなく、その場所に映画としての息吹が宿る。三谷幸喜が好例ですが、ドラマでいえば『王様のレストラン』『今夜、宇宙の片隅で』『総理と呼ばないで』、映画で言えば『ラヂオの時間』『THE・有頂天ホテル』、脚本のみ携わった映画ならば『笑の大学』、こうした作品群においてはほぼひとつの場所、ひとつの舞台だけで話が進行した。その中で、場所にこそ宿るものがあった。誰もいなかったとしても、そこに何事かを感じさせる、限定空間性を大いに拡張した映像作品です。舞台出身の三谷ですから特になんでしょうけれど、そうでなくても限定された空間には、人々の生み出す独特の空気が自然に生まれてくるんです。ここで紹介した作品では『カッコーの巣の上で』が好例でしょう。しかしこの『今宵、フィッツジェラルド劇場』には、そうした限定空間の濃度がないんです。これがわからないところです。作り出そうとしてしくじっているわけではない。むしろ、そうした限定空間性を活かすことを回避しているようにさえ見える。それは登場人物が画面に映るときの大きさからも明らかです。この映画では登場人物たちに寄ったショットが多い。そして引いたショットは極めて少ない。これにより、狭い空間がさらに狭く感じられ、この劇場の広がりがまったく掴めず、なおかつどういう構造を有しているのかも明らかではない。劇場の外観も入り口が示されるばかりです。悪いといっているのではない。その意図が僕にはわからないということです。

ではその大写しになった登場人物たちに息吹があるかといえばそれもない。長く続いている劇場といいつつもそのことを傍証するような趣はなく、出てくる人々がどのようなバックボーンを抱えているのか、どういう性格があるのかもただ語られるばかりで一向に示されはしない。それは意図的と見るより仕方がありません。彼らは喋る駒でしかなく、そこには彼らの来歴を浮かび上がらせるものが何もない、たとえ妊娠した女性がいても、彼女のことが後は何もわからない。老人が死んだと言って皆が悲しんでも、彼ら彼女らとあの老人のこれまでを描き出すものがないので、こちらには何も伝わらない。繰り返しますが、それを悪いといっているのではなく、ここまで徹底的に、何一つ印象に残らないようにつくっているそのつくりの意図が、僕には見えないということです。使えるものが目の前に沢山ある。でもそれに対して完璧にそっぽを向いている。その理由がわからないんです。

そんな一方で、天使を名乗る女が出てきます。まったくもって天使らしくない彼女。ここでも外してきています。ショーの場面にしても、完璧に薄い登場人物たちが歌っているだけです。この映画はその意味で難しいです。何かを仕掛けようとしてしくじっているわけではない。むしろ何も仕掛けようとしていない。何かが起こってもよさそうな舞台設定で観客をひきつけながら、これほどまでにすべての効果を殺している映画はあるものではない。何度も言います。悪く言っているのではない。むしろこれは、僕の映画を観る目がまだまだ足りないという自分の無力さの表明と受け取ってもらうほうが穏当でしょう。ストーリーがないのに、風情もない。深みを出すことをむしろ嫌っているようにさえ見える。ある意味で、こんなに困惑する映画はない。明確な評価は避けたいです。このアルトマンという人のほかの映画を観ないことには、本当に何もいえない。

映画をいいと思うか悪いと思うかは、畢竟感覚的なものです。その映画から感じる得体の知れぬものを愛でることが醍醐味であり、その得体が知れないからこそ個人個人の独自のフェイバリットが生まれる。この映画について言えば、どういう人がどういう風情を感じるのか、僕にはまったくわからないんです。今度、新宿で聞いてきます。
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これまで27本の映画について、感想を述べてきました。今後も書き続けていきたいと思いますが、節目節目にはこうして特定の映画についてではない文章を書くのもいいと思いまして、記すことにします。ところで、この記事をアップした現在、コメントがひとつもないというのは実にさびしい限りです。どうせ自分のために書いているようなものだからいいのですけれど、何事かの反応があると嬉しいので、一応コメントを期待、歓迎しておりますという旨、ここに伝えておきます。

まあ、コメントが来ないのは仕方ありません。そもそもこのブログのことをほとんど身近な人には教えていないし、それ以前に映画について語れる「身近な人」というのがほとんどいないし、そうでなくてもここに上げている中に最新作など皆無で、時には60年近くのものを語る始末で、ならばそれだけに足る映画的教養というのがあるのかと言われればこれまたぐうの音も出ぬ次第で、ゆえに今日も今日とて見返りのなさそうな文章をだらだらと書くわけであります。

さて、長々と書きつつ、そんなことはどうでもいいのです。
僕はこのブログを映画の話をするために始めたのだし、続けているのです。なので映画の話をしたいと思います。

とて、先ほども述べたように、僕は映画についていまだそれほどの知識も教養も有しておりませぬ。有名どころでも観ていないものが数多くあり、ちょいとした映画好きの中に入れば僕などまったくのひよっこであります。ひよっこであることについて恥じらいはありませぬ。むしろ前にも書いたように、ひよっこであるからこそこれから、「非・ひよっこ」の人々が既に感じ終えてしまった感動に多く出会えるのです。

僕が映画を観るようになったのは昨年の十月初めからです。なんと短い映画歴でありましょう。もちろんそれまでにもちょいちょいとは観ていましたが、あくまでもちょいちょいであって、年に数十本程度のものでした。一週間に一本も観ていなかったと思います。今はどうかというと、毎日一本は観るようにしております。もちろん観られない日もあるのですが、去年の十月から数えれば、百十七本ほど見ております。このままの計算でいくと年間三百本ペースということですから、ひよっこなりには頑張っているほうでしょう。

もとより、何本観たから偉いとか、沢山映画を観ているからすごいとか、そういう考え方は嫌いです。いくら映画を観たって何も学べない人もいれば、一本の映画から百の学びを得る人もいることでしょう。そしてすばらしいのは無論後者であって、僕も観るからには出来る限りの学びを得ていきたいと思うのです。

このブログでは古いものも扱っています。規則性はありません。観たいと思ったものを観て、書いているだけです。最新映画を観るということはほとんどありません。理由は大きく分けて四つあります。
ひとつ、映画館に行くのが面倒くさいということ。ひよっこなりに曲りなりに映画好きを自称しながら、なんと馬鹿げたことでしょう、とお思いかもしれませんが、僕は生粋の出不精でありまして、映画館なる場所に行くのが億劫なのです。自分の部屋でDVDで鑑賞するのが好きなのです。もちろん映画館に出向くこともありますが、稀です。僕の観たいと思う波長が、公開されているものと合った場合は観に行きますが、そのこと自体が稀なのです。
ふたつ、映画館に行くとお金がかかるということ。僕はお世辞にも裕福とは言えぬ生活を送っているものですから、そんなに頻繁に映画館に行けぬのです。名画座なら二本立てで千円くらいですからまだいいですが、最新映画の場合、一本だけでもっとかかります。DVDであれば、全品半額レンタルの日に出かければ一本百八十円です。どちらがいいかは言うに及びません。
みっつ、最新映画に期待できないこと。僕は新しい映画についてあまり期待を持ちません。好きな監督のものなら別ですが、特に日本映画の場合などはリスキーでありまして、ひどい映画に捕まったらと思うと怖くて仕方がないのです。どうしようもない映画を観て、それだけでもくたくたなのに、あげくに横の席で阿呆が涙ぐんでいて御覧なさい。僕にはその人を殴らない自信がありません。口コミなるコミュニケーションがありまして、今はネットなどというものもありますから、評判を聞くことは出来ますけれども、基本的に僕は世間の評価なるものを信用しないので、これについてもあまり意味はありません。
よっつ、これが一番大事ですが、古い映画でも観るべきものはまだまだ山ほどあるということ。1895年にリュミエール兄弟が創始してからというもの、全世界で百年以上にわたる歴史が紡がれてきたのです。一生かかっても観きれないほどの財産があるのです。何を最新のものを追っかける必要がありましょうか。古い映画はほとんど観ちゃった、もう新しいものくらいしか観るものがないよ、というすごい人なら別ですが、僕はまだまだひよっこです。歴史上の名作偉作を観ずして、映画を真に捉えることが出来ましょうか。古い時代のものを知らないということはつまり、歴史を知らぬことへのコンプレックスを喚起するわけです。これと向き合うことなしに、映画と向き合うことは出来ぬと僕は考えるのです。まずはいいものを観ること。優れた人々の残した作品に向き合うこと、最新のものを追いかけるのはその後で十分です。ゆえに僕はおそらく今後も、最新映画を観に映画館に出向くということはほとんどないと思います。

映画は実にいろいろなことを教えてくれます。今までずっと見過ごしてきた分、そのすばらしさに打たれ続けています。適当な娯楽として観るのもいいでしょうけれど、映画が適当な娯楽化しすぎて今のテレビのようになってからでは遅いのです。今後も、絶えず敬意を抱きながら、より真摯に映画を観続けたいと思うばかりです。心から。
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遠景は見えるが、主題がぼけている ~キネ旬は在日びいきなの?~ 
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在日朝鮮人をひとつの主題として扱った映画で観たことがあるのは、『パッチギ!』とその続編、それから『GO』『血と骨』程度のものなんですけれども、その中では最初の『パッチギ!』がずば抜けています。続編は不味かったですけれど、ほとんどDVDを買わない僕が購入したくらいですからね。『GO』は不味かった。行定勲監督というのはどうにも肌に合いません。二十代の俳優では最も好きな窪塚洋介が主演で、期待していたんですけれど、どうにも味わえなかったです。『GO』は2001年度キネマ旬報第一位を獲得していますが、なんで?と思うほかありません。

さて、それ同様、1993年度にキネ旬第一位を獲得している『月はどっちに出ている』です。キネ旬は在日映画びいきなのでしょうか。『パッチギ!』の2005年度一位はいいとして、『血と骨』の2004年度二位もまあいいとしても、『GO』を一位にするなど、あまりにも出来すぎているくらい在日ムービーへの評価が高いです。そして、『月はどっちに出ている』を第一位にすることに異論があるかといわれれば、僕はあると言う方になりました。

映画の内容に入る前に書いておくこととして、1993年辺りの邦画というのは、今にして観ると一番古臭く感じる、ということです。外国映画はその国のことを知らないからあまり思いませんし、日本映画でも80年代以前になればその古さに新鮮さを感じたりするんですけど、1993年辺りは端的に古臭い感じがしてしまいますね。いや、だからといって映画の評価に影響を与えるものではないんですが、そういう印象は強く感じたもので。

この映画については、あまり楽しめはしませんでした。というか、特別に光るものを感じ取ることが出来なかった。この映画を褒めようと思ってあれこれ頭をひねっても、どうにも出てこない。在日朝鮮人、あるいはルビー・モレノのフィリピーナやハッサンというアラブ人のドライバー、そうした人々が日本で生きていく姿を主題として描く中で、どうもどれをとっても掘り下げられている感じがしない。じゃあそういうものを無視して、たとえばひとつの恋愛映画として考えたらどうかというと、これまた別に特筆すべき点を見出すことも出来なかったし、「人々の何気ない生活」的映画として観ても、風合いや間の取り方、テンポや動きに魅せられることもなかった。こうなってくると、在日外国人を取り上げた映画という珍しさだけで走ってしまったんじゃないかという気がしてしまいます。在日という主題を用いたとき、たとえば『パッチギ!』では衝突と融和を描いていました。出来自体は肌に合いませんでしたが、『GO』においては自分の異質さ、自分の異物性をひとつの主軸としていた。ところがこの『月はどっちに出ている』の場合、在日という記号が持つ何事かを有用に活用していないように思われた。衝突はちりばめられている、特殊な自己意識も入り混じっている、しかしどれも光ってこない。僕が受けた印象はそういうところです。うん、微妙なところでは表現されていたのかもしれない。もしかすると僕の気づかない、在日外国人たちにとっての「あるある」はあったかもしれませんね。崔監督も韓国籍だというし。でも、日本公開である以上はもっとはっきりとしたものがほしかったなあと思います。

なぜ光ってこないのかなあと思って考えると、岸谷五朗のキャラクターがちょっと好きになれなかったというのがあるかもしれません。軽薄な感じはいいんですが、どうもちょっと寒かったです。岸谷五朗が悪いのではなくて、その役の動きが寒いと言いましょうか。あれではまるで中居正広の演技です。中居正広はどれだけ頑張っても重みのある演技ができないと僕は思っているのですが、その中居正広的演技を今回の岸谷には感じた。わかりにくいですかね。岸谷五朗は一生懸命やっている、でもその演技を演出する側が「中居正広のようにやれ」と言っているみたい、という印象を僕は語っているのです。笑いの部分はほかでもちょっと鬱陶しかったかな、金田明夫の絡む「自分はどこにいるのでしょう」のくだりとか、「金貸してくれよ」の電話のくだりとかね、なんというか、本当にべたべたで古臭い。

ルビー・モレノはよかったと思います。会話の間、言葉の間がいい。これで脚光を浴びたらしいですね。でも、ウィキペディアを参照する限りはあまり活躍していないようでもあります。東南アジア人枠というのは日本の芸能界でも俳優界でも空いているところだと思うんですが、あまり馴染まないのでしょうか。何故か東南アジア枠は誰も出てこないですね。映画とはまったく関係ないですが、僕にはフィリピンパブなるものの存在理由がまったくわかりません。僕に「東南アジア美女萌え」用アンテナがないせいかもしれません。

他の役者で言うと、「一瞬金貸してくれよ」の人が印象的ですね。あの人がまた腹の立つ顔をしているんです。腹の立つ顔をして腹の立つ声で腹の立つことを言うものだから観ているほうまで腹が立ってくる。でもそれは映画に移入しているということでもあるので、あの役はまあよかった。「俺、頭おかしくないだろ?」と言うんですが、やっぱりおかしいんですね。あの、なんとも言えない気持ち悪さというか、現実にいたときにどう対処したらいいかわからない存在というのは面白い。ばたくささとリアルの境界線上にいる感じです。

映画賞も数々受賞したようで、期待しても観たんですが、総じて言えばあまり印象に残る映画ではなかったです。プロデューサーは『パッチギ!』の李鳳宇だし、監督は『血と骨』の崔洋一だし、『69』『フラガール』の李相日監督作品よりも個人的に期待値の高い人々のものだったのですが、もうひとつでした(そういえば、2006年キネ旬一位も在日韓国人監督の『フラガール』だ!やっぱり在日びいきがある!)。今日はこの辺で。
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人間やその身体についての表現として、非常に真摯な作品
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キム・ギドク監督の作品は前々から観たいと思っていて、これが初鑑賞です。ハングルはわからないのですが、英語の原題は『The isl』ですから『島』とかいうことなのでしょうか。『魚と寝る女』という邦題はよくわからないですね。細かいことを言うと、「魚と」の「と」が「Fish and a woman who sleeps」なのか、「A woman who sleeps with fish」なのか迷ってしまうところです。「with fish」だと思うんですけど、「Fish and」のほうだよといわれれば、それはそれでいいような気もしますし。

いいなと思ったのは、やたらと排泄の描写を含んでいるところですね。別に排泄の描写がいいわけではなくて、そういうところを省かずに描いている姿勢が好ましいです。ドラマでも映画でも、人間性を描くとか人間の生き様をどうちゃらというものが多いですが、排泄のシーンというのはほとんど描かれない。食事のシーンを描くものは多いですよね、食卓の風景を描いてそこに何事かをこめようとする作品は数多見受けられます。だけど、食事の後に必ずある排泄のシーンはほぼ必ず省かれる。あるいは、たとえば何もない部屋に長い時間監禁されているとか、ずっと縛られているとかいうシーンがあっても、そのほとんどは排便をしていないんです。「そんだけ長い時間身動きできないなら、絶対漏らしてるやろ」という小さなツッコミが観客の心に生まれても、それはあえて描かないようにされているわけです。でも考えてみればそれは嘘なんですよね。そんなに綺麗なものじゃなくて、もっと動物的な汚さが出るはずなんです。この映画はだからその意味で、大変に汚く、生々しい。そういう排泄の汚い描写を置くからこそ、釣り針の身体的痛みも確かなものとして伝わってくるんです。

この映画を観た多くの人々は、やはりあの釣り針のシーンが印象に残ったことでしょう。飲み込んだり性器に入れたりという、地味ではあるが地味な分だけすごく痛い。銃で撃ったとか殴ったとか、そんなのとはまったく次元の異なる痛みがあります。北野武が映画について語っているのを何かで見聞きして、「痛みの伝わる表現を重視している」というようなことを言っていたのを覚えているのですが、その痛みとはまったく別種の、暴力の痛みとはまた違う鮮烈な身体的苦痛があのシーンにはある。それはひとえに、先ほど述べた排泄のシーンの賜物であって、ああした描写の上にこそ痛みが説得力を帯びるわけです。この点については噂どおり、キム・ギドクの表現のすごさというのを思い知りました。

もうひとつ言うと、僕のこうした感慨については、あれが韓国人という、日本人と外見的にほとんど相違ない人々だったこともあると思います。白人や黒人の場合だと、どうしても外国人のものとして見てしまいますが、韓国人の場合はより日本っぽくて、一方で日本人ほどなじみがないからこそ味わいがあるのです。数年前に韓国のスターがもてはやされましたが、あの背景には、日本人に近しい親しみやすいルックスと、外国人スターという「雲の上の存在」的魅力が交じり合っていたというのがあると思います。親しみやすさと遠い憧れという相反する要素が、一部に熱狂的なファンを生み出した大きな要因でありましょう。韓国映画を観る楽しみ(中国、香港でもいいですが)のひとつには、近さと遠さの混合があると僕は思うのです。

話の筋自体はよくわからないというのが正直なところです。あの女は何なの?というのは一番広く聞かれる感想ではないでしょうか。怖いですよね、いきなり海に引きずりこまれたり縛られたり。娼婦の女は可哀想なもんです。楽しみに男に会いに来たのに、すぐに縛られたあげく湖に落ちて死んでしまうんですから。主人公の女があの男になぜそこまで入れ込んだのかもよくわからない。娼婦と男がセックスをしているときに、部屋の中の穴から見ているなんて、これは怖いですよー。僕があの男だったら「うわあ、なんやねん、絶対あかん人やん、あかんほうの人やん」と思ってしまいます。ただあの感じのルックスは気持ちいいところですね。綺麗過ぎては駄目なんですよ、絶対。綺麗だったらちょっと神秘的みたいになってしまいますけど、ぜんぜん神秘的ではなくて、何を考えているかわからない、獣くさい怖さがありますから。そういう怖さがあって、なおかつまったく喋らないという。まったく喋らずにセックスを覗いていたり、女を殺していたり、これが普通の街中の話であれば、完璧にキチガイですからね。ラストシーンも、多くの人々同様に疑問符がもっさりです。キム・ギドクという人はかつて引退宣言をして自分の作品をゴミ扱いしたりなどした、なかなかこれまた精神的に怖そうな人ですから、ちょいと解釈に困ってしまいます。もっと多く観てみないとなんともいえません。

今回一番勉強になったのは、身体的なものについてですね。排泄や釣り針もさりながら、体を切られた魚が泳いでいるところの印象も強いし、セックスシーンがこれまた男の腰の動きばかり目立ってちっとも美しくないし、人間や生物の汚いところをちゃんと描いているからこそ、その表現に信用が置けるというのがあります。ストーリーこそ完璧には咀嚼できていませんが、生半可な「人間ドラマ」よりははるかに良質なものだったように思いました。この辺で。
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別の視点から描いたらさらに面白くなったのに、という感じがあります
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レオナルド・ディカプリオという俳優はどうも逞しい役として見られないんです、僕には。一時期、僕が中学生くらいのころでしょうか、ディカプリオとブラッド・ピットが双璧の人気を博していたような記憶がおぼろにあって、それで比較してしまいがちなのですが、断然ブラッド・ピットのほうが好きなんです。ディカプリオは日本の俳優で言うと、妻夫木聡のイメージに近いです。軽い役とかさわやかな役をする分にはいいけど、逞しさを見せようとするとどこか頼りない感じがするというか。

さて、『ギャング・オブ・ニューヨーク』ですが、二時間半以上あるけれど飽きずに見られました。ひとえにディカプリオの敵役、ダニエル・デイ=ルイスの功績です。『存在の耐えられない軽さ』(1988)の主役の人だったんですね、ネットで調べて知りました。あの映画はあまり好きじゃなかったし随分と前に観たので、同じ役者とはまったく思いませんでした。魅力的な敵役というのは時として主役を超えます。『レオン』(1994)に出てくるゲイリー・オールドマンしかり、『ブラック・レイン』(1989)の松田優作しかり。設定上、役柄上の魅力もさりながら、やはり役者としてその役にはまるとすごく印象に残る。今回の『ギャング・オブ・ニューヨーク』もいわばデイ=ルイスの映画であって、この映画で数々の賞を受賞したというのも頷けます。デイ=ルイス側の話として描いたら、別の面白さがきっとあるはずです。彼が上り詰めていく過程というのは非常に面白そうじゃないですか。そのほうが非常に活気ある街の全景が見渡せる気がしますし。ブラジル映画の『シティ・オブ・ゴッド』という映画はそういう目線で撮られていまして、これもなかなかよかった。ディカプリオの復讐劇になってしまって、どうも話が小さくなってしまったようにも思う。主役の座を完璧に食ったデイ=ルイスの魅力のせいで、ディカプリオが邪魔にすら思えてしまいましたね。

脇役としてはキャメロン・ディアスもよかったですが、役設定自体はそうでもなかったように思います。スリの女なのですが、あれがディカプリオの女になってしまうのは嫌ですね。ちょっと離れているくらいがちょうどよかったんですけれど、がっつり肉体関係を持ってしまうとあの女の魅力が出てこない。なんならもっとわかりやすく、最初からデイ=ルイスの女として置いたほうが活きたんじゃないかと、勝手に思っています。あるいはスリの女のあれこれをもっと知りたかったかな。ここでもディカプリオが余計なことをしたわけです。女性ということで言うと、ほんのワンシーンなのですが、切り取った耳をカウンターに置いて酒のサーバーから直飲みするあの女性は魅力的でした。ほんの一瞬だけど格好良かった。あの街はギャングの群れが沢山あるので、その中の人々の話ももっと見てみたかったというのがあります。ディカプリオが出ずっぱりでほとんど彼の話なので、その辺がちょっと残念でした。うん、なまじ恋愛を絡めてこられるとちょっと退屈してしまうところもあります、この種の映画だと。

ニューヨークの歴史に疎かったので、その辺は己の無知を恥じ入るばかりです。知識があればもっと面白くなっただろうなというのはありますね。徴兵暴動なんて史実さえ僕はぜんぜん知りませんでしたから。いやはや、何も知らぬ戯けであります。

総じて、街の世界観も好きだし、敵は魅力的だしということでなかなか楽しめました。その分、ディカプリオにもうひとつの働きを期待したかったところであります。世間的にはこの映画はディカプリオの映画とされてしまうのでしょうがとんでもない。明らかにデイ=ルイスの映画であって、イケメン俳優がどうたらという阿呆のような世間の見方は早くなくなってほしいものだと、切に願うばかりであります。
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