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メッセージと物語が実にうまく合わさった寓話
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『ドッグヴィル』の続編である『マンダレイ』、白線や最低限の小道具だけで物語の舞台をつくりだし話題を呼んだ前作に引き続き、今回も同様の殺風景な空間で話は進められます。主人公グレースはニコール・キッドマンに代わり、ブライス・ダラス・ハワードという女優になりましたが、この人がよかったです。ウィキペディアの写真はやけに不細工なんですが、この映画の中では綺麗で、いかにも使命感に燃える女子大生みたいな感じがよく出ているんです。この映画は時間軸的に前作の後ということになっているので、グレースがえらく若返ったなあというのはあるんですけど、吉と出ました。黒人差別を打開して自主的で民主的な共同体を作らねばならぬ、という理想に燃えている彼女の表情が、なんともいいんです。この人物が一生懸命やりながらも苦闘している、苦闘しながらも懸命になっているという風情が実によく醸されている。

だからその分、結末のいっぱい食わされた感じがいいんですね。伏線が炸裂しているし、その点非常に好感が持てます。『ドッグヴィル』よりもいいと思います。ロケーションを行わずに風景を欠落させている点で舞台演劇的である、というのはそうなのですが、こういう試みは好きです。舞台演劇的ではあるが、じゃあこれを舞台でやったら同じ面白みが出るかといえば必ずしもそうではないはずで、たとえば舞台全景を上から見下ろすショットとか、魔王の井戸を回転しながら上で撮るところとか、ラストのグレーズが置いていかれる場面のカットバックとか、そういうのは舞台では原理的に無理ですからね。そういう意匠を凝らした上でのあの舞台設計は、ロケーション映画にも舞台演劇にもないものを確かに生み出しうるのです。忘れてならないのは、映画という表現形態を持ちながらあえて空疎な舞台を作り出した意味。奇を衒っているだけではもちろんなく、この方法はそのまま寓話性を高めることに直結しているのです。

グレースの人物像がいいのは、先ほどもいいましたが、理想的で愚直なところ。その人物造形が後にアイロニーを描き出します。理想的で愚直で道徳的であるがゆえに、その理想事態が持つ愚かさ、道徳自体が持つひとつの差別思想が露見してくるというのはとても小気味よい。いくつもありますけど、印象的なもののひとつが、白人が黒人たちを牛耳り続けた罰として、グレースの命令によって顔を黒塗りにされて奴隷であった黒人たちに仕える場面。これはグレースが知らず知らずに見せた差別性の表れですよね。本来なら、白人が白人として黒人に仕えねばならないはずなんです。それによって今までの刑罰となるはずなのに、刑罰を受ける者の顔、仕える者の顔を黒くしてしまえば、それはあくまでも黒人を下に見ることにしかならない。「黒人を馬鹿にしてきたけど、黒人になって嫌な気分だろう」みたいにしてしまえば結局、「黒人になるのは嫌なこと」というあり方自体は変わらないわけですから。あとはマンシとマンシーですよね。白人とか黒人とかで差別するのはやめましょうよ、と主張し続けてきたはずのグレースが結局、マンシとマンシーという区別に囚われ続け、マンシーを罵倒して鞭を放つ。奴隷解放、その後の「善き」共同体の構築、それを広めようとしつつ、無邪気に「自由」を称揚し続けるアメリカに対し、「おまえらの言うてることなんて所詮嘘やんけ、見せ掛けだけやんけ」と言うマクロのアイロニーでもあれば、それはつまり個人個人が持つ似非平等主義というミクロに向けられた矛でもあるわけで、グレースに両手離しで好感を持ち続けた輩を強烈に殴りつけてくれます。

この『マンダレイ』において最も価値ある点は、そうしたアイロニー、メッセージを中軸に据えながら、それが見事に物語機能と調和している点。物語の流れ、筋としての面白さが、そのままメッセージを伝える方法と合わさって成り立っている点。これは非常に勉強になります。『ドッグヴィル』ではその映画的特殊性に目が行ったし、監督してもその特殊な映画を成立させることに力が入っていたと思うんですが、今回はそれを我が物にしたうえで物語を作っているので濃度を高めることができている。いい映画だと思います。
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1や2がよかった分、ちょっと難しくなってきています
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近所のビデオ屋でレンタルを開始していたのですが、大人気ですべて貸し出し中、待ちきれぬわい!ということで、ええいままよと叫んで、購入。

何を隠そう『SAW』シリーズのファンです。一作目が素敵で、二作目がさらによかった。世間的にはどうなのか知りませんが、シリーズの最高作は今のところ2です。1が素朴なシチュエーションスリラーだったのに対し、2はその歴史を引用しつつ、監禁された人々とそれを助けようとする警察たちのシーンが交互に小気味よいテンポで織り成され、その双方が空間的限定性を高めていたので、実に面白かった。3はと言うと、1、2と上がり調子だった分、ちょっと下がりましたが、それでも一本の映画として観たときにはやはり面白いし、2で詳しく表されなかったジグソウとアマンダの関係が描かれており、なかなかよかった。

さて、4はと言えば、これはこれで実に沢山の仕掛けが含まれており、その点は『SAW』のポリシーが受け継がれています。ただ、今回の作品が持つどうしても拭えない弱点は、真犯人、ゲームを操る黒幕に重みがないこと。1は死体だと思っていた真ん中の人間が黒幕とは!という驚きがあったし、2ではその人物、ジグソウがのっけから登場する面白さがあったし、3は2でジグソウの弟子となったアマンダの話も絡んで、瀕死のジグソウもいてという形で厚みが生まれた。ところがこの4にはそれがありませんでした。最大の弱点はそこです。あの人物が真犯人だったのは確かに驚きではありますが、その原理で言えば1に負けているし、彼がなぜジグソウを継ぐものなのかもよくわからない。あの人物にも劇中、大して思い入れは持てないわけで、その意味で言ってこれはなかなか厳しいところでしたね。ジグソウの歴史がわかるといっても、大したことは描かれていないですしねえ、どうせならもっとウェットな感じで描いてほしかったなあと思います。妻の腹の胎児を殺されて、すぐに殺人鬼になり始めていますから、その過程もちゃんと描かれていないし。

それともうひとつ言うと、3からの傾向として、どうも残虐描写とか見た目のグロテスクさに走りすぎている気がします。簡単に人が死にすぎる。一箇所、物語に存在する必要がないまったく無駄な死がありました。無駄に人を殺すのは(常識としては言うまでもないことですが)映画という物語においてもいいことではありません。そうすると死や殺人というショッキングな出来事が軽くなってしまう。それでは物語全体の緊迫感もなくなってしまうと思うんです。ジグソウの解剖を冒頭に描いたのはいいと思います。あれがジグソウの決定的な死を示す最高にわかりやすい演出になっているし、ラストに発覚するミスリードの大きな伏線の役割をも果たすことになっている。ところがほかのシーンにおいても、残虐な死の場面が多すぎる。それは本来的な『SAW』の魅力ではないはずなんです。1ではその舞台設定上、残虐性を抑え続けていたから、たとえばゴードン医師が足を切断するシーンがとてもショッキングだったし、2においてはそれぞれの人物の関係性の中で死の衝撃を演出していたのに、3以降はのっけから死ぬ運命にあるような人が死んでいるだけなので、それを残虐描写に頼るようになったので、あまりよくない傾向だなあと思っています。4でもそういうシーンが沢山ありました、というかそんな死に方ばかりだった。スプラッター的な単純なグロさは『ホステル』にでも任せておけばいいのであって、『SAW』はそんなものに頼ってほしくないと思うんです。

時間的な進行のだまし方は確かにやられましたけど、なんだろう、あまりだまされた気持ちよさがないですね。「そうだったのかー!」ではなく、「ああ、そうだったのか」という感じ。策士策に溺れるじゃないですけど、「どうすれば観客をだませるだろうか」ということに意識が行き過ぎて、「これでだまされるとして、このだまされ方は気持ちがいいだろうか」にあまり目が向いていないというか。要するに、時間的に3の後の出来事だと思っていたのに実は3と同時進行の世界だった、という時間的トリックがあるんですけど、だから何なのかという話でもあってね。4から観た人にはどうでもいいことだろうし、1から観続けてきていても、3と同時進行だから何がどうだということでもない。だますことに気が行き過ぎて、だませればそれでいいみたいになっているとしたならそれは違います。

主人公リッグに対するジグソウの教えは、2のマシューズ刑事に向けられたそれに似ていますね。2でも、マシューズが動いたせいで悲劇的な結末になってしまった。4でも、結局リッグが何もしないほうがよかったという、その意味ではちょっとかぶっています。確かに効果的な方法なんです。星新一のショートショートにも多く観られるのですが、何か行為を行った後で初めて、その行為の取り返しのつかない感じがわかるというタイプのオチ。つまり、えらいことしてもうたんや~となってしまう感じ。救いたいなら救おうとするな、というメッセージは2の「息子を救いたいなら私と話をしろ」というマシューズ刑事に対するジグソウの教えと同じですから、その意味でも新しさはなかったです。これがかぶっていることを、同じ監督のバウズマンはどう思っているのでしょうか。

総じて辛口になりましたが、それでも「腐ってもSAW」というか、多くの映画よりはやはり好きです。このシリーズは総じてクオリティが高いです。時間も100分以内に収まっているのがいいですね。無駄に長い映画が多い中で、これくらいに収めてぴしっと行くのは好きです。あの音楽もいいし、ものすごくハイスピードなカットを流すのも好きです。願わくば、次の作品ではまた原点に戻ってほしいところではあります。おそらく5もできるでしょうけど、4の流れを受け継いでのスプラッター的なものにするよりも、もっと静かに空間的限定性を生かしたものにしてほしいと、一ファンとしては思う限りです。これまで。
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日向の縁側で、黒澤じいちゃんと
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『八月の狂詩曲』はなんというか、中学校の国語の教科書なんかに出てきそうなお話ですね。原作の『鍋の中』というのは読んでいないんですけど、この映画について言えば子供たち四人がおばあちゃんと一緒に田舎で夏休みを過ごして、戦争のことを知って、大人たちや外国人と触れ合って、という、なんとも中学国語の小説を思い出させるような内容でした。八十歳の老師黒澤明が、これまでつくってきた血みどろの映画たちに別れを告げ、穏やかに語ったという感じ。御伽噺のようでもありますね。現代の社会派劇なんてものから遠く離れた本当に静かな映画でした。

 その静けさの中で、ひときわ驚いたのは、あのラストシーンです。あれは何なのでしょう、あのー、笑いの間なんですよね。あれは面白いんですよ。笑いを意図しているはずないと思うんですけど、最後の場面はものすごく面白いです。あのシーンで泣いたなんてレビューもありましたが、うん、いや、それもまあそれでいいんですけど、僕はおかしくてしょうがなかった。あれはものすごく絶妙で微妙なシーンです。おばあちゃんが暴風雨の中を傘を差して突き進む、子供たちがその後を追いかける、沈黙の反復がずっと続いて、最後におばあちゃんの傘が風でひっくり返ってしまう。そのときに「野ばら」という曲が流れる。これは観てもらうしかないんですけど、なんじゃそらという場面なんです。あれはものすごく面白い。絶対に笑わす意図ではないはずなんですよ、文脈的にもすごく真剣な場面なんです。でも、見た目がやけにおかしいんです。あれは映画史に残る、ひとつの名場面です。僕がこの先この映画を思い出すとき、必ず最初に思い出しますね。

 この映画は長崎の原爆投下について語っているんですけど、その点について肩肘張って観てはいけないと思いますね。黒澤が原爆投下をどう捉えているのかなんて難しい見方をしてはいけないんです。前述のように、中学国語的に穏やかな話なんですよ。登場人物たちも類型的です。大人たちも子供と対比するために非常にわかりやすく悪者っぽくされていますよね。戦争のことを語ろうとせずに自分たちの利益だけを考えて、なんて形であまりにも平たく描かれているし、子供との対比をそんなふうに色づけようとするものだから、子供は子供で本当に無邪気に、模範的で理想的な子供としてしか動かない。だからリチャード・ギアが出てきても別に何ということもなく、本当に穏やかに過ぎるほど穏やかですよね。

そう、だから、変な話、「さわやか3組」とか「中学生日記」みたいなNHK的ドラマにすごく似ているんですよね。子供の目線で、深い内面はなくて、道徳的でという。そこにはもちろん、教育が原理的に持っている数々のイデオロギー性が伏流しているのだけれど、そこに着目するよりも表層の劇を見ておきましょうよというね。ある意味、あのおばあちゃんというのが黒澤自身のメタファみたいな気もするんです。黒澤は社会派劇とか戦国の戦いとか、そういうものをずっと描いてきたけれど、老境に入り、腰を下ろして、子供たちに静かなお話を細々と語っている。縁側に座りながら、黒澤じいちゃんの語りに耳を澄ませ、そこから見える風景をただ眺めていればいい。この映画の見方は、そういうものだと思うんです。
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格好良さ、美しさ、豊かさ、その差歴然
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映画は毎日のように観ているんですけど、エネルギーを違う物事に向けているため、しばらくこのブログを滞らせていました。久々に気まぐれに何か書こうと思います。書いていない期間にも沢山観ているのでいずれ言及するかもしれませんが、今回は語りやすいものについて語ってみたいと思います。というわけでタイトルの二本。

『NANA』は酷かったです。松本人志が映画評で、何かの映画を酷評しつつ「逆R指定をつくれ」と言っていたのを思い出します。RとかPGとか、年齢制限がありますが、あれはあくまで下限制限であって、何歳以下は見てはいけませんというものです。それに対し松本は「何歳以上の人は楽しめませんよ」という上限制限、「逆R指定」をつくれと言っていたのですが、今回の映画はまさにその感じです。20歳を越えた人間は楽しめないと思うんです、あほらしくて。せいぜいが高校生かそれくらいで、これを褒める大人がいるというのがまるでわからない。役者の演技、台詞回し、どうしてこんなことになるのかと思わずにはいられない。下手な演技というのは台本が見えてきます。喋る役者、動く役者という表象の裏側に、台詞やト書きが透けてしまう。世界自体もぺらぺらなんです。『NANA2』が世間的に酷評されていた覚えがありますが、いやいや、一作目の時点であかんがなという話です。違う言い方をすると、結構笑えます、ものすごく馬鹿っぽいから。レストランのシーンなんて、再現ドラマの文法です。もはやドラマですらない。バラエティ番組の中に入る三分くらいの再現ドラマ、それでよく見たような光景。これを観ていったい何を感じろというのでしょうか。そう、だからやはり、未成年限定指定か何かにすればいいんです。

とて、僕がこれだけこの映画を好きになれないのは、演出的幼稚さもそうなんですが、原作の『NANA』の魅力がまったくわからないというのもあります。僕には『NANA』の何が面白いのかひとつもわからない。世界的に輸出されており、もう累計で何千万部みたいな規模らしいですが、一、二巻ほど読んで駄目でした。どうでもいいんです。大学生くらいのやつがほれたはれた、好きよ嫌いよ言うてるのはもう本当にどうでもいい。だから「あいのり」みたいな番組も何もわからない。憶測ですが、「あいのり」が好きな人は間違いなく『NANA』が好きなはずです。どうでもええようなやつらのどうでもええようなほれたはれたに現を抜かしているのが好きな人たちでしょうから。
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さて、後半は『ガキ帝国』です。
これはよいです。『パッチギ!』の原型というか、『パッチギ!』的完成を見る前の不完全さがあって、『NANA』的書割世界に比して非常に豊かですね。特別に好きだったのは、役者たちの滑舌がよくないところです。紳助も竜介も、何を言っているかわからないんですよ、早口だし。でもそれがいいんですね。映画にしろテレビにしろ、どうしてもはっきりと喋らせようとするし、特に最近はそうだと思うんです。何を言っているかわからないからもうワンテイク、みたいなね。でも、何を言っているかわからなくていいんですよ。あの『ガキ帝国』的な、汚い大阪の街で暴れる汚い若者たちの世界を表現するうえで、あの滑舌の悪さは非常に有意だった。台詞というのは何かを伝えるための装置ですが、大事なのはその言説内容に限らない。何かを喋っているその姿や振る舞いがメタ的な言説要素になるのであって、この映画の薄汚い感じは非常に美しかった。うん、これはこのブログでも何度も書いたことですけど、格好いいとか美しいっていうのは、格好悪いこととか不細工なことも含めてなんですよね。『ガキ帝国』に出てくる人たちはみんな格好悪いし、だからこそ格好いい。みんな臭そうで汚いけど、だからこそ美しい。で、映画の魅力はそういうところにあると思うんです。それは写真とかでは伝わらないことで、どろどろの汚さや生臭さを持った人々の生きて動くさまが描かれることが大事なんですね。『NANA』をぼろくそに言うのはいい加減にしておこうと思いますが、結局あれでは誰一人格好よくないし、美しくない。ええかっこしたいんか、と言いたくなるだけですもん。『ガキ帝国』は「ガキ」というだけあって、馬鹿だし、愚かだし、どうしようもないやつらばかりなんですけど、そこには確かな芯がある。繰り返される喧嘩は本当に無意味で馬鹿らしいけど、それでぼこぼこにされた後の表情には確かに人間的なものの宿りを感じる。

ぜんぜん時代も舞台もそこで描かれていることも違うけれど、今日あげた二つの映画に出てくる若者たちはあまりにも違います。映画的なよさもまったく違います。何の共通点もないような映画を比べるのはおかしいですが、仮に『NANA』と『ガキ帝国』を観て、万が一にでも『NANA』がよかったというやつがいれば、そんなやつと僕は何も喋りたくないし喋ることもできないでしょう、たぶん、話す言葉も何もかもが違うから。
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