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今回は映画とは関係ありません。

普段はテレビなど観ないけれど、ぼくはこのイベントを毎年大変楽しみにしている。緊張感みなぎる生放送を見終わった後、ただの視聴者なのにどっと疲れる。特に今年は疲れた。レベルは上がっていると思う。というかM-1仕様の漫才を体得している漫才師達が全体的に多くなっていると思う。だが、今回のM-1は少し残念である。ぼくはどうしても、NONSTYLEの優勝に与することができぬのである。2003年のフットボールアワー以来のことである。

いや、技術的な面で言えば、優勝はNONSTYLEに間違いない。だからその点について、否定的な態度をとるつもりはまったくない。ただ、ぼくは松本人志が放送室でかつて述べたことに大いに賛同するのであって、その彼がNONSTYLEを選択したことに、大きな違和感を抱いたのである。放送室でM-1を振り返る回が大変待ち遠しい。
 
 松本は2002年のM-1グランプリを評し、優勝はますだおかだではなく、フットボールアワーであるとした。そのとき彼は言っているのである。技術的にはますだおかだは大変高いものがあるが、今までの漫才をきっちりとやっているな、というだけのことであって、彼らの漫才は新しい面白さを生み出してはいないと。そして、それでは漫才というものは向上していかないのであると。

 今回のM-1、繰り返しになるが、技術面で言えば圧倒的にNONSTYLEだ。ナイツは塙の一方的な進行に土屋が合いの手のごとき突っ込みを入れるというスタイルに始終していた。オードリーはナイツに比べて突っ込みの態度が多様性に富んでいた(スタンダードな突っ込み、受容、いなし、笑い合いなど)が、春日は自分のペースに走りすぎており、時として何を言っているのかわからないほど早口になったり、笑い待ちができぬまま次のボケに行くこともあった。その点、NONSTYLEには非の付け所がない。昨年の(あえて今年ではなく)キングコングのごときハイスピード漫才でありながら、キングコングに比べて間を重んじている。漫才の間を、ではない。客の笑いの間を、である。あの自分を突っ込むような、脚を叩くときの一言がその役割を果たしている。わかりやすさという点においても他の最終決戦二組に比べれば上だ。上手さで言えば、ダントツであり、五票の獲得もその点、道理の通ったものであろう。

 しかし、である。NONSTYLEには新しさを感じられないのである。現代にほどよく調和したますだおかだ、というか、きっちりとしたM-1仕様の漫才というか。キングコングのボケに比べればベタさはないものの、予想もつかぬようなボケはなかったように思うのである。ぼくには、オードリーのほうが圧倒的に面白かった。

 ネット上ではわかりやすい分かれが散見される。「NONSTYLEは面白かったが、オードリーは何が面白いのかわからなかった」、似たような構文で、「オードリーは面白かったが、NONSTYLEは全然笑えなかった」。ぼくの場合、後者なのである。この点、面白かったというこの点は、万事が結句「好み」に収斂するほかない。前段で述べているように、技術という点において、オードリーはNONSTYLEを下回っている。だが、あえて言うなら、ぼくは技術なんてものはどうだっていいと思っているのである。いや、これは語弊がある。技術は必要だ。言い直そう。
「最終的な部分において」、技術はどうでもいい。
笑いには、意味はない。ただ、意味を超えるものがある。技術とは理論の集積とその体現であり、たとえどんなに技術があろうと、それは笑いとは、本質的には関係ないのである。だが、そう言い切るのはあくまでも危険であり、しつこいようだがあくまでも技術は必要なのであり、なおかつコンテストという場においては、それが重要な審査基準足らざるを得ない。
 
ここまでだらだらと要領を得ぬことを書いてきて、わかったことがある。ぼくは、技術による面白さにはあまり惹かれないということである。むしろ、たとえ拙劣であったとしても、訳のわからないものが好きなのだということである。笑いは意味を超える、という自説の示すところはすなわち、そのようなものである。オードリーの春日のボケは滅裂である。だからいいのである。滅裂なボケと自分の話をする突っ込み、という点で中川家を想起したが、中川家とも明らかに違う。礼二が持つスタンダード的突っ込みと、若林のつっこみはまるで違う。若林の応変な振る舞いが、滅裂さをうまく中和している。そしてこのことは、いわゆる「技術」とは別種の妙技なのである。

ここまで書いてきて(もう読む者もあるまい)、2004年のM-1をどう捉えるか、という問題が想起された。ぼくのNONSTYLEへの評価は、アンタッチャブルの支持と矛盾しないのか。南海キャンディーズへの支持を表明しなければ、ことの筋目が通らぬのではないか(その点、中田カウスの審査はさすが筋目が通っている)。

 これは山崎と石田、という二人のボケの違いに答えの糸口がありそうだ。ぼくがNONSTYLEに面白みを感じなかった理由、その重要な部分が、石田の「自分の脚を叩きながらの一言」にあるように思われる。ぼくにはあれが好ましくなかったのである。あれをすることにより、ボケが十全にボケ的であり得なくなってしまうのだ。先ほど述べた滅裂さが消えてしまい、両者の対立性が減じる。アンタッチャブルの山崎と柴田は、滅裂と常軌の対立となる。ブラックマヨネーズにも対立がある。その対立は化学反応となり熱を帯び、面白さに繋がる。ところが、石田と井上には対立による熱がない。感覚的な物言いになるが、ボケがツッコミの外側に出て行かないのである。簡明に言えば、両者に独自の個性が見えぬというか、両者の独立性が浮き出ていないのである。

 そろそろ疲れてきた。もう本当に読む者もあるまい。妙な誤読をされたくはない。ぼくはあくまでも、自分がどう感じ、どうしてオードリーを支持するのかということを明らかにしたいだけであり、他意は微塵もない。NONSTYLEを持ち出すのはあくまでも比較材料としてであり、批判であるとか悪口だとかそんなものではまったくない。ただあくまで、ぼくにとっての優勝者は、オードリーであるということを述べたいだけである。M-1に登場した漫才師達すべてに、満腔の敬意を表する。
 ここまで読んだあなたは、つわもの万歳。
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ザ・フライと言いつつ、蝿ではないところが巧みです。

 もちろん存在を知ってはいたのですが、きちんと観たことがなくて、くだらない映画なんじゃないかと勝手に思っていたのですが、まったくお見それしました。これは傑作ですね。

 ハエと融合する話というのは知っていたのですが、その描写が大変すばらしかった。最初のほうで実験に使われたヒヒが死ぬのですが、そのときのグロテスクさがいい。ここはぼくにとっていい掴みの部分でした。それまで大したインパクトもなく、なんなら普通の恋愛映画っぽく引っ張ってきた分ハードルが下がっていて、そんなところにあのヒヒを出してくる。あれで手腕がわかるというか、グロテスク表現に信頼が持てて安心できます。ゾンビ映画なんかでは、メイクが安っぽくて入り込めないことがあるのですが、この映画ではそんな心配は要らなかった。細かい部分の描き方が秀逸です。毛のくだり、腕相撲のくだりもいいですね。爪や歯が抜け落ちるところも絶品で、何より安易にハエにしなかったのがよかった。これは1958年の『蝿男の恐怖』という映画のリメイクらしくて、そちらのほうは観ていないのですが、監督の談話では、そちらが蝿の頭にしたのに対し、まったく別の生き物になるようにしたとのことです。これがいいんですね。

科学的合理性とかそういうのはどうでもいいんです。主軸はあくまでも主人公の変貌ぶりにあるわけですから。蝿でも人間でもないようわからん生き物、という状態で引っ張ったのは正解で、グロテスクさが引き立ちました。蝿、というのがいいチョイスですね。あの羽音が不快さを引き立てる。考えてみるに、蝿というのはあまり実害のない生き物なんですが、あの羽音が生理的な不快感をもたらして、それと融合する不快さを演出しています。夢のシーンもいい感じでした。

ラストも好ましいです。だらだら引っ張らず、すぱっと終わっている。時間的にもちょうどいい。これは鑑賞後のポイントとしてとても高いです。あの助けに来る男はかわいそうでした。腕と脚を溶かされてしまったのですが、それにしても建物に来る前に銃は組み立てておけよという話です。ぼくの気になった突っ込みどころはそれくらいのものです。どうして病院まで追跡できたのかとか、飛ぶことはしないのかとか、そんなのはどうでもいい。というか、飛ぶシーンを描かなかったのが、いいんですね。蝿というと飛ぶもの、というところをうまく裏切っている。その一方、強力な酸など、地味なところを有効に描いている。繰り返しになりますが、描写の加減がとてもいい。

 最後のシーンは見入っていました。女性記者が主人公に融合を迫られるくだり、そしてついに主人公が完全に人間でなくなるくだり。ここは素直に引き込まれていました。なおかつ巧みなのは、あの主人公が最終的に自分に銃口を向けるところ。あれがもし、単純に襲いかかる蝿になっていたら、絶対後味が悪いんです。そこを、まだ人の心が残っているのだ、という風に描いたのは、非常にいい。ホラー系の映画ではその多くが、たとえばゾンビになった人間を悪者のまま殺してしまいます。80年代というゾンビ映画隆盛の最中にあって、この映画はゾンビ的存在とのビジュアル的類似性を示しつつ、その道を選ばなかった。最後の最後に、恐怖の存在だった主人公が自滅の道を選ぶ。あれは持って行かれました。ぼくは素直な観客になっていたので、襲いかかってくると思い込んでいましたから。とてもいい映画だと思います。
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 ラストは別にすごくないのですが、そこまではとてもよいです。

 『ミスト』は良質なハリウッド映画でした。
 正体不明の霧に襲われてスーパーマーケットに閉じ込められる、パニック系の映画ですが、「人々こそ恐怖」というのをちゃんと描いている点に好感が持てます。正体不明の怪物を出すと、恐怖の主眼がそちらに持って行かれがちなのですが、周囲の人々が襲いかかる部分をちゃんと描いているのが、とてもいいと思います。その中軸にあの宗教おばさんを据え、対立と混乱を描き出している点が好ましいです。みんな一丸となって事に当たる、みたいなことってでけへんやん、っていうことをきちんと描いていました。

緊張と緩和も適度なリズムで波を持っているし、グロテスクな部分の描き方もよかった。たとえばあの虫に刺されて、若い女性が死んでしまうんですが、その際の描写として、顔をめちゃくちゃに腫らせるんです。この辺のさじ加減がいいですね。大袈裟にすぎず、綺麗すぎず、ああ、あれに刺されたらああなりそうやなあ、という感じなんです。薬局での混乱もいいし、繭に包まれた人の悲惨な描写もいい。細かいところの描き方が好きですね。最初、タコの脚みたいなものに若者がやられるのですが、そうかと思いきや虫や恐竜のような生き物が出てくる。何かようわからん巨大なやつも出てくる。特定の怪物イメージを植え付けようとしていないところなども、好ましいです。かゆいところをきちんとかいてくれています。霧に包まれてしまった舞台設定もいいと思いますね。周囲を霧に包み、なくしてしまうことで、下手にあれこれ描くよりも観客の想像力をくすぐる。奥行きがない、という奥行き。それはつまり闇の相似形で、闇の怖さというのをうまく変形しているのですが、真っ暗なホラーとは別種の味わいというのがそこにはあります。

 さて、この映画はラストがもてはやされますが、その分ぼくの中ではハードルが上がってしまった。あまり「衝撃のラスト!」みたいなことは言ってほしくないですね。漫才やコントで言えば、「すごいボケが炸裂!」と言われてしまっているようなものですから、その分構えてしまって、正しく味わいきれない。中にはそれでもハードルを越えてくる映画というのもあります。『SAW』シリーズの初期がそれですね。2のオチには驚かされました。この『ミスト』の場合、オチは別にすごくありません。最後のほう、「さあ、どう片をつけるねん?」と思いながら観ていましたが、十分に予測範囲内というか。いや、というか、一番わかりやすい終わり方じゃないですか。

あのー、ひとつのハリウッドルールというか、ハリウッドマナーというか、ハリウッドはハッピーエンドにするじゃないですか。それをしていないという点ではいいんです。でも、すごいオチではまったくない。そりゃあハッピーエンドを信じ切っていればそうなるかもしれませんが、そしてハリウッドマナーに毒されている人ならそう思うかもしれませんが、ぼくは別にそうではないので、オチがすごいとは全然思えない。確かにハリウッドとしては冒険しています。善良な老人を死なせる、勇敢で懸命な男オリーをあっけなく死なせる、子供を最後死なせる(まあ子供の部分はあえて見せず暗示的にしているだけですが、)というのはハリウッドとしては冒険でしょう。でも、それはあくまで、ハリウッドとしてはよくやったな、ということであって、それ以上のものではないと思うんです。しかもそれでいえば、スーパーマーケットの客の中に、あの主人公の子供以外、子供が一人もいないのはおかしいです。そこは結局、あの子以外に子供を出してしまうと、宗教ばばあのシンパとの絡みでややこしくなるからでしょう。ややこしくしてくれたほうがいいんですが、そこはできない。ハリウッド的限界。ラストはむしろ文句の付け所ですよ。「もう少し待てよおまえら、そない早く自殺に踏み切らんと、ぎりぎりまで待ってみようくらいのことをせえや。弾丸あるならまだ戦いようも多少はあるやんけ」という部分なのに、あっさり死んでしまう。どうしてラストを褒めるのでしょう。褒めるべきはむしろそれ以前の部分ですよ、この映画は。

 だから総じて、「すごいオチだ」「衝撃のラスト」みたいなことを言うべきではないんですね。観客は入るでしょうけど、せっかく入ってくれた観客の率直な鑑賞及び感想を阻害します。それを言わなきゃとてもいい映画なのに、と思います。いい映画だと思って観てきたのに、最後がっかりさせられてしまうことになるのです。ただ、全体を通して描き方はいいので、決して悪い映画ではありません。悪いのは、コピーでハードルを上げた配給と広告屋です。
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 両作とも期待値が高かったのですが、最も肝心なところをきちんと描いていませんでした。

 女子高生がジョギング中に誘拐され、犯人の男に監禁される話なんですが、その心の変化がよくわからなかった。初めの描き方自体は面白いんです。女子高生役の小島聖の演技はかなり演劇的というかオーバーアクションというか、いわゆるリアルな女子高生の演技ではないんですね。これはこれで面白いと思った。何かにつけリアルな、そしてリアルを求めるが故に退屈な演技が多い中で、あくまでも演劇的で大袈裟な振る舞いに委ねようという方法は、この監禁劇においては大きな効果を発揮しています。ぼくはこの演技を「あえて」やっていると信じたんです。監督はあえて、このような形をとったのだろう、と思ったんです。その意味で好感を持ったのですが、後半になるにつれ怪しくなっていきました。ああ、監督はマジでこの演技をさせてんのかな、だとしたらただ古いだけやんか、と印象が変わっていきました。

 決定的だったのは旅館の場面ですね。小島聖が竹中直人のもとに帰った瞬間に、この映画は終わったと思います。あそこからはもう、濡れ場しか見る場所がないというか、何の緊張感もないんです。この手の映画には緊張感がとても大切だと思うんです。誘拐犯と被害者という、心のつながりを得られそうもないところにどういう力学を働かせるのか、が腕の見せ所であり、なおかつその過程では絶えず緊張感をはらませねばならない。当初はそれができていたのに、あそこで小島を竹中のもとに帰した後、結局最後まで愛し合っているだけなんです。何のどんでん返しもないし。この手の映画をうまくまとめるには二つの道があると思うんです。ひとつは心を開いたように見せかけて最後に殺すなり何なりというオチを用意する。いかにも物語的なそうした構造を嫌うのであれば、是が非でも誘拐犯と被害者の心の動きを丁寧に描かなくてはいけない。この映画はどちらもしていません。そのくせ、ほかの住民達の結局はどうでもいい日常を随所に挟み込んでしまう。何か伏線になるのかなと思いきや、何にもなりませんでした。

 まあ、小島聖がとても綺麗なので、その点は見る価値ありですが、ネット上の断片的レビューを拝借すれば、「この映画の一番の見所は小島聖の濡れ場であり、そのことはこの映画の駄作ぶりを示している」というところですね。小島聖はテレビドラマ「ナースのお仕事」で初めて目にして、度肝を抜かれた記憶があります。完全に観月ありさよりも可愛らしかったです。でも、それは小島聖の魅力であって、この映画の魅力ではないんですね。濡れ場はよく撮れていました。精神的EDのぼくですが、なかなか見応えのある場面です。でも、それだけですね。


 さて、二本目の『ヴァージン・スーサイズ』。
 この映画も似た欠点を持っているんですね。肝心なところで、逃げている感じがする。

 撮り方とか話の進め方、BGMなどはとてもよかったと思います。その点はなかなか達者なので、描写はよくできていると思う。初めに自殺してしまう末っ子の演技も実に的確でしたし、あの姉妹の立ち振る舞いと、男子連中のがきっぽさというのもいいんです。映画としての完成度はかなり高いと思います。ただやっぱり、「なぜ自殺したのか」の部分ですね。ここはもうちょっとなんとかしてほしかった。「理由はわからないままだ」みたいになっているんですけど、それにしたってもうちょっとわからせてくれよ、とも思います。最初の子の自殺は理由がわからなくてもいいんです。それにガス自殺をしたラックスもまあわかる。でも、他の三人は全然わかりません。どんな性格のやつなのか、というのもわからず、簡単に言うとただの風景になってしまっている。風景の自殺では困ります。その他大勢、みたいな感じですからね。そうなると面白みの装置になってしまうんですよ。一人より二人、二人より三人死んだほうが衝撃度は大きい。でも、その分、作り手はその三人をきちんと描かないといけない。そこを逃げてしまうのは、どうも詰めが甘い気がします。いや、だから、理由はわからなくてもいいんです。理由はわからなくてもいいから、どんな人間なのかをちゃんとわからせてほしい。そうでなければ、人物も出来事も皆作り手の中で勝手に操られてしまうだけですから。

あの親父も、娘が朝帰りしただけであんな風になるのがわからない。娘が男と交流するのを、母親は嫌そうにしているのですが、父親はそうでもないんです。日本人の感覚で行くと逆だよな、と思いつつ観ていくと、結局娘の朝帰りに父親はショックを受けて、それどころか自失状態で現実逃避してしまう。あの父親がよくわからん。そういう、心の機微的な部分が、なんだか適当すぎますね。

二つとも、一番肝心なところで逃げている感じがします。だからこそ観た後で、「ああ、いい映画を観たな」という印象が持てない。部分部分とったらいいところはたくさんあるんですけど、総体としてよくないんですね。ごまかしたなー、という印象が強いです。
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三谷幸喜は従来の枠組みに疲れてきていないか?
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 とても久々の更新。
池袋の新文芸坐で10月くらいに観ました。
 舞台脚本出身、ということが大きいだろうが、三谷幸喜の映像作品は概して、限定された空間が土台となって成立している。テレビ放送で言えば『やっぱり猫が好き』『王様のレストラン』『HR』『今夜、宇宙の片隅で』『総理と呼ばないで』などがそれであり、これまで監督した映画においても『ラヂオの時間』はスタジオ、『THE 有頂天ホテル』はホテルの内部ですべてのストーリーが進行する。ひとつの限定空間に留まらない作品としては『古畑任三郎』がその代表格としてあげられよう。また、映画『みんなのいえ』でもまた開かれた状況で物語が進行する。

『ザ・マジックアワー』はひとつの架空の街「守加護」を舞台としている。特徴であった限定空間はいよいよ「街」というレベルに拡張された。その中で、これまでの映画とは異質な演出が施されるようになった。あらすじは他に任せるとして、これまでの映画と比較しながら作品の演出的特徴を考えてみたい。

 三谷幸喜の作品は基本的にリアルコメディだ。シュールな、超現実的な装置は用いられることなく、あくまでも等身大の人間達の所作や関係の配列によって物語を駆動し、笑いを起爆する。しかしそうでありながら他方、彼の作品は、他の多くのリアルコメディがそうであるように、「決してリアルではないマイルドさ、あるいは寛容さ」によって成立している。本当にリアルなものは彼の作品にはなく、むしろそれは余計なものとして退けられているのであり、彼の作品はモデル化された架空的な現実を基底につくられているのだ。現実的ではない現実、とでも言えようか。リアルじゃないと吐き捨てるのはたやすいが、彼の作品が持つその側面を受け入れることができたなら、観客はその世界を存分に楽しむことができる。『総理と呼ばないで』はその最たる例で、国政の長を描きながらもその国の行政云々という話は出てこない。三谷は政治家を主人公としつつも、政治や社会、マスコミといったものに何の興味も示していない。彼が見ているのはある閉じられた世界における人間関係や事件の面白さであり、それをより高純度で生むためにはつまらないリアルなど不要なのである。『古畑任三郎』は熱心なミステリーマニアには受けがよくなかった、と何かで聞いたか読んだかした覚えがある(ひどくいい加減な言い方で恐縮だが)。実にわかりやすい話で、『古畑任三郎』は純粋なミステリーではない(言うまでもないが、三谷はミステリー作家ではない)。コメディだ。謎解きは話の中心軸として存するが、一方で古畑、そして今泉の特異なキャラクター性があり、犯人役の個々の魅力があり、それがあのドラマの面白みを生み出しているのだ。

さて、前置きが長くなったが『ザ・マジックアワー』。この作品は上述したような「モデル化された架空的な現実」、意地悪な言い方をすれば「都合のよい現実」の上に成り立っており、その点ではこれまでの映画三作の比ではない。しかつめらしい顔をして「リアリティ」なるものを大事にすれば、到底受け入れがたい内容である。「こんなことってありえないよね」という度合いは過去の作品を遙かに凌駕しており、まさに「架空の街」ならではの架空的現実が炸裂している。その点で言えば、過去の映画作品に見られた配列設計にはやや及ばぬと感じた。架空の街の架空的現実、が生まれたせいで、そちらの面白さの比重が増し、緊迫感が減じたように思われる。要するに、我々の現実を離れたせいで、「我々の現実に基づいて我々が抱く共感や緊張感」との距離が生まれてしまった。「何でもあり」の独自の秩序を築き上げてしまうと、「どうやって解決するのだ?」というハラハラ感は原理的に失われてしまう。本作は「何でもあり」とは言わないが、架空的でマイルドな現実が生み出されたせいで、筋立てが生み出す緊迫が損なわれたようにぼくには思われるのだ。その欠点は実際、冒頭五分くらいで早々と露呈する。西田敏行のヤクザに妻夫木と深津が怯えるのだが、「街を出て逃げてもいつか殺される」ほど怖い奴らだ、という感じが、どうしても伝わってこなかった。西田のヤクザが本質的に怖い人物ではないこともそこで明らかにされているわけだが、そうなるとストーリー設計上の無理が生じてしまうことになるのだ。

舞台設定、ということで言えば、架空の街に街的な広がりを感じられなかったのが残念な点ではある。場所の力は『ラヂオの時間』『THE 有頂天ホテル』より低い。なおかつ、『みんなのいえ』の建築中の新居が持っていた場所の魅力にも及んでいないように感じた。せっかく架空の街を作り出したのだが、その住人の数がどうにも少ない。いやむろん、普通の映画と比べれば多いが、豪華な面々が多々登場した前作を観たあととなると、あの街にはもっと多くの人々の顔があってほしかった。今作は佐藤浩市と妻夫木聡を明確な主人公とする筋立てであるから、この二人の物語に重きが置かれるのは仕方がないが、街の住人がショークラブの二人とホテルのママとヤクザだけとあってはやや寂しい感じがする。あの街のことをもっと知りたかったというのが正直なところだ。『THE 有頂天ホテル』はあのホテルに行ってみたいというような魅力を帯びている。しかし、今回の街にはそれがない。

笑いで言うと、好きなところも多い。佐藤浩市と西田敏行のやりとりは面白かったが、細かいところで「黒い101人の女」がいい。あのシーンでは笑い声が劇場に響いていなかったのだが、おそらく若い観客は市川崑も『黒い十人の女』も知らず、年配の人はあれが『黒い十人の女』のパロディだということに反応できていなかったのではあるまいか。ぞろぞろぞろぞろ黒服の女が出てくるところを「なんだこりゃ」と思うかパロディだと気づくかで、笑えるかどうかは決まる。他でいうと、声に出して笑うところではないが、街でCMの撮影隊がいるシーン、名画座のポスターに「野郎死すべし」という映画がある。あんな小ネタがぼくは好きだ。「ワンチャイ」も面白い。あそこで「ワンチャイ」なる「だれやねん」的な外人が出てくるのは非常に面白い。三谷が有するああした脱力的なさじ加減は、三谷作品を観るうえで小さくも大きな楽しみの一つである。

総じていえば、そろそろ三谷幸喜の作品が従来の枠組みに疲れてきている感じがしなくもない。今回の「架空の街」はこれまでの三谷にはない(類似したものはあれど、ない)舞台設定だが、リアルから離れ始めるとすると、三谷の配列的方法はどうしても難しくなっていくように思う。そうは言いつつも、三谷幸喜が日本映画界における希有な人物であることは間違いない。三谷幸喜、という看板故、彼の功績故にハードルが高くなってしまうが、ひとつのコメディとしてはとても高いレベルにある。他にも彼の次作にまつわる難しさはあるのだが、そろそろ疲れてきたので、この辺で。
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