<   2009年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧

映画の愉しみを子供に教えるには適当な一作だと思います。

 あまりにも有名すぎて逆に観ていない、という映画が数多くありまして、これもそのうちのひとつでした。もう少し短くしてもよかったように思います。100分くらいのほうがぼくにはよかった。

 まあ子供向けの映画ですね。子供心にはそりゃ楽しいと思います。大人ってものが背景化して子供が前面に出ているし。だから細かいところをごちょごちょ言っても仕方がないんですね。気楽に楽しむべきなんです。子供はアニメが好きなものですが、そういう子供にアニメ以外の映画の楽しみを教えるには、丁度よいと思います。大体の流れがわかってしまうと途中だるくなりますが、子供はそういうことはないでしょうしね。

『E.T』の形状は気持ちいいところではあります。『グレムリン』のギズモみたいに可愛くないんです。グロテスクな要素が入っているので、そこはえらいというか、媚びている感じがなくていいんですね。実際にいたら気持ち悪いです。それがわかっているスピルバーグは子役のドリュー・バリモアに絶叫させます。最初は拒絶してしまう、という正直な反応をちゃんと描いています。死にそうになるところも絵的にわかりやすい。綺麗じゃないんです。それはとてもいいことで、死にそうな生物を綺麗に描かないというところは、ああ、わかっているな、と安心できます。あれが妙に可愛らしかったら駄目なんです。もちろん単に気持ち悪くても駄目で、その辺のバランスはうまいところですね。どうして一度死んだのに生き返ったのかとか、どうして川辺で死んでいたのかとか、そういう部分は無視してよいのです。些末なことに過ぎないのです。そう思って観る映画なのです。

 ラスト近くの、自転車と車の対比、というのもうまい。あれは子供心をつかみます。やはり自転車というのは子供の象徴で、車は大人の象徴です。日頃自転車に乗って移動する子供という生き物は、あのシーンで心を鷲づかみにされるに違いないのです。思い切り主人公に感情移入するでしょう。自転車の疾走シーンは大変快楽のある場面であって、いよいよ追い詰められるぞ、となったときに飛翔する。メインテーマがバックにかかる。持って行き方がとてもうまいなあと思います。子供目線で観ると、飛翔と同時に完璧に心を持って行かれますね。空を飛ぶ、というのがわかりやすくていいじゃないですか。いいんです、細かいことはどうでも。

 こういうのは『グレムリン』と同じで、肩肘張って観てはいけないのです。素直に、ぼんやりと観ていればいいのです。そうすればそれなりに楽しくて、「子供にもわかる面白いものをつくろう」という、スピルバーグの率直な意志を感じることができるのです。
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 高層ビルだけど、地に足のついた傑作。作り手の意気込みに敬服。
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まったくの予備知識なく観ました。インフェルノ(=地獄)という響きから、ホラーものなのかな、などと思っていたのですが、ビル火災のお話でした。高層ビルで火災が発生し、それに巻き込まれた人々と消防士たちのお話です。

 いまさら言うまでもないことを言いますが、これは大変な傑作であります。
 165分ありますがちっとも長さを感じません。非常に楽しい165分でありました。
 災害もの、パニックものといえばいつの時代も人気があって、今でも邦画洋画問わず次々につくられているわけですが、30年前にこんなに素晴らしいものがつくられたというのに、最近の映画人は何をしているのだ、と思います。CGだの何だのという技術は一方向的に発展していますが、その分それらの恩恵に浴しすぎているのではないでしょうか。この映画には学ぶべきものが数多くあります。

 全体的な表現として、地に足がついている感じがします(高層ビルものの形容としては変な感じですが)。奇をてらっていないし、盛り上げるために大袈裟な演出も施していない。過剰も不足もないというか、きちんと撮るべきものを撮っているなという点に大変好感が持てます。被写体との距離感も抜群でした。つまりはカメラ的な距離感、そして物語的な距離感です。これが最近のハリウッド映画に比べて格段にいいのです。

 人物に寄りすぎていないんですね。妙な人間ドラマみたいなものもなく、撮る側が人物に移入しすぎていないし突き放しすぎてもいない。それを強く感じたのは不倫カップルの場面でした。短いシーンなのですが、この登場人物に対する距離感が大変にいい。火災から逃げ遅れたカップルの悲劇的な最期。決して甘ったるくしないし、かといって軽んじているわけでもない。出てきた当初は「誰やねん」なのですが、数分後にはその人物がきわめて立体的になっており、かつ押しつけがましくありません。男のほうが助けを呼びに行くと行って炎の中に飛び込んでいくのですが、炎の揺らぎが非常に美しい。CGやなんやに頼りきりの昨今では絶対に出せない味わいがあるのです。ああ、映画というものをきちんとつくっているな、という感じがしました。職人の誇りのようなものを感じました。

 地に足がついているというので言うと、最上階に残された人々の戸惑いや恐れも適切です。愚かしいパニック集団でもなく、無論たるんでいるわけでもない。いい意味で地味なんですね。可燃物を捨てろと言われて皆が皆各々にものを担ぐ場面、カゴに乗る場面、その順番を決める場面、水流に流されぬよう体を縛り付ける場面。言ってみればとても地味なんです。でも、そこに人々の気持ちが宿っている感じがある。名もなき人々の危機感と助かりたいという気持ちが伝わってくる。なおかつ憔悴感もある。人間の無力さを描く手腕が大変に高く、描き方がフェアです。無力ではあるが、エネルギーがある。エネルギーはあるが、無力である。このバランスがすごい。一も二もなく、良質です。

 うん、あのー、CGに頼れない分ね、きっと撮影現場もものすごく緊張感があったと思うんです。実際の炎と戦いながら撮影するわけで、当然半端じゃない緊張感ですよね、撮り直しも大変だろうし。そうしたときにね、やっぱりCGで合成しようっていう作り方とは違う緊迫感が映画に宿るんだと思うんです。妙なことを言うようですが、ものづくりの神様に守られるんだと思うんです。黒沢明のモノクロ時代の時代劇なんかもきっとそうで、映像処理ではごまかしようがないわけですから、その分、「このシーンを撮る!」っていう意気込みがとんでもないものだったと思うし、だからこそ今の時代まで語り継がれているんですね。今回の『タワーリング・インフェルノ』もなんというか、そういう作り手の背景まで含めて、賛美したいのです。

スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンの二大スターが共演して話題を呼んだらしいですが、なんでしょうね、今の有名映画俳優とは違うんですね。日本の三船や勝新などもそうですが、本当の男前という感じがします。あほみたいな表現をしますが、「モテたい臭」がしないんです。格好つけていないんです。マックイーンも三船も、だから臭そうだし、野蛮な感じがするし、怖いんです。だからこそ本当に格好いいんですね。

今昔併せ見た感慨も含め、『タワーリング・インフェルノ』は抜群の快作です。30年前のこの映画をぼくは今、自信を持って薦めたいと思います。
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 どうか真面目にやってくれ。

 ネットの情報によれば、これはもともとテレビドラマらしいのです。なおかつ、3時間以上あるものを2時間に収めたらしいのです。道理で粗雑な物語運びだと思いました。今世間ではチェ・ゲバラものが公開中ですが、きっとそっちのほうがはるかに見応えがあるでしょう。今日取り上げるこの映画は別に観なくてもいい種類の映画です。パッケージにはゲバラをでかでかと映しつつ、内容はカストロの一代記です。ゲバラよりもカストロが好きなぼくはそれでいいのですが、こういうのは観る人間のことを考えていません。映画を作った人には何の罪もないのですが、輸入してなおかつ2時間に切ってパッケージングした日本人が駄目です。パッケージの見てくれに力を入れて、顧客が借りさえすればそれでよいと思っているはずです。いい映画をお届けしたいなどとつゆほども思っていないはずです。そいつには映画業界を辞めてほしいと思います。

DVDのそういう背景を知ったので、この映画のことをあれこれ言うのは控えたいところです。何しろぼくはきちんとした完成品を観ていないわけですから。ただ、このDVDを観るのはよしたほうがいいよ、ということはこの記事でお伝えしておこうと思います。

これで終わってもいいのですが、一応滑る弁舌に任せてもう少し余談を並べましょう。

 この映画はキューバの話なのにほとんど英語です。カストロもゲバラも英語を喋ります。アメリカにおけるテレビドラマなのでむべなるかなという感じですが、やはり言語の問題は大きいのです。ぼくは英語のリスニングもまともにできず、スペイン語など単語ひとつも知りませんが、そんなぼくでも言葉は気にかかります。というのも、その言語言語が持つ響きというのが、その世界観にとってきわめて重要だと思うからです。それぞれの言語には特有の響きがあり、意味こそわからずとも響きの差異は解せます。絶え間なく流れるその国特有の言葉は、その映画の、その国の景色やにおいを伝える有用な装置なのです。ぼくにとって外国語は音楽に似ています。歌詞のない音楽に似ています。音楽は理解できるできないではなく、それが生むリズムやメロディ、音響を楽しむものですが、ぼくにとって映画における外国語は、つまりそうしたものに近いのです。だから今回の映画は、その点でも残念でした。

 ごく当然の話ですが、発話とはその言説内容がすべてではありません。それを発話している人間がどういう感情を持っているのか、どういう人間性を持っているのか、という、メタレベルのメッセージ性があるのです。まさにフィデル・カストロの演説こそそれを教えてくれる。「演説」、今風に言えば「プレゼン」なのかも知れませんが、そこで大事なのは内容よりも話し手が持つ雰囲気なのでしょう。内容を知るだけなら文章を読めばいいのですから。そのとき、やはり言語に見合った響きというものがあるのであり、その響きはその人間自身が意図しない部分を露呈させるのであり、すなわち当の人間自身が制御できない、非随意な生の部分を見せるのです。

長々と何を言いたいのだ、と言われるかも知れません。それ以前に誰も読んでいないかも知れません(きっとそうだ。そうに決まっているのだ)。このことを映画に関連づけ、いくつかのことを語れますが、そろそろ疲れてきたので今回は平易な内容へと繋げましょう。

昨今、字幕よりも吹き替えで映画を観る層が増えているという話があります。ぼくはこれにとても憤っているのです。憤る理由はここまでの話で書いたので繰り返す必要がないでしょう。そりゃあ英語が堪能な人からすれば、字幕で観ているレベルでは英語の細かい言い回しが分かっていないから駄目だ、となるかもしれません(きっとそうだ。そうに違いないのだ)。しかしそういう人でも、どの映画でも字幕なしですべて解せる、というわけではないでしょう。その意味で言えばその人だって字幕の恩恵にあずかる人です。だからあなたと私は友達です。どうかいじめないでください。

それよりも吹き替えの話です。あげくにタレントを起用する始末です。いや、それならそれでいいんです。タレントを声優に起用した糞映画を吹き替えで観ている人とは住む世界が違うから勝手にしろです。でも、そんなやつらに映画業界がすり寄るのは言語道断であります。そんな映画関係者は獅子身中の虫であります。この話を続けると教育問題まで言及しなくてはなりません。だけど、ぼくにはピアノがない。それを話せる頭もない。心はいつでも半開き。伝える言葉が残される。ああ、ああ、ああ、ああ。
暴走しそうです。この辺にしておきます。
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凶悪、とは呼びたくない愛嬌。

「お菓子系」という言葉があります。これは元々グラビア関係の用語らしいのですが、ぼくの脳内辞書においてはまったく違う意味があります。ぼくがひとりごつときに使う「お菓子系」とは、「まったく毒にも薬にも栄養にもならないけれど、おいしい」というものです。このほうが用法として適切な気がします。この用法を広めたいと密かに思っています。

 さて、『グレムリン』はつまりそういう映画でした。別にこれを観ようが観まいが、人生には何の影響もありません。ですが、それなりに面白くは観ました。小さな悪魔が愛嬌があるし、変化のたびに驚かされるのがいいです。水を浴びせたら増殖する、というのもあほっぽくてよかった。毛玉がぽんぽん抜けて増えるのがいいですね。そのくせさなぎになるとそのさなぎがグロテスクで、そういうちょいちょいの変化が気持ちいい。プールに落ちたときの大袈裟なまでの波立ちや、暗闇から大群が出てくるときの感じも、楽しいものをつくるなあの一語ですね。観ていてなんだかわくわくするというか、おどろおどろしくないんですね。モグワイ状態より、グレムリン状態のほうがぼくには可愛かった。モグワイ状態はなんだか、可愛さを前面に押し出す感じが嫌です。どうもこんにちは、チワワみたいな犬が嫌いな者です。「かわいい~って言われるのをわかってやっとるな」というあざとさというか、ぶりっこ感があります。

 凶暴なグレムリンがわいわいやっているのは可笑しいんです。人間を襲うから凶暴なんだけど、どこか憎めないところがあるというね。最初は可愛かったものが凶暴化する、というので言うと『チャイルド・プレイ』のチャッキーがありますが、あれは単純に怖いんです。でもこのグレムリンは凶暴化してからもお茶目なわけです。酒場のシーンは絶品ですね。映画でわあちゃあしているのも愉快。というのはやはり、別にこのグレムリンには悪意がないからなんですね。そう、グレムリンについて「凶悪」という形容をするのは間違いで、彼らは人間を殺すことに執心しているわけではないんです。彼らはあくまでも欲望に忠実なんですね。それが酒場のシーンに象徴されていて、人間を襲う意志があるのではなく、欲望を満たすうえで邪魔な存在を排除する、というだけのことなんです。あるいは、欲望のままに遊び続け、人間に迷惑をかけてしまうんです。つまりは人間の戯画です。

 この手の映画ではあまり人間を殺してほしくなかったですね。大迷惑をかけても、人間を死なせてほしくはない。被害を受けた人間は死んだかどうかはっきりしない状態になっていますが、彼らについては多分に死を感じさせる終わり方になっていた。痛い目に合う、くらいがいいんです。犬嫌いのばあさんはかなりポピュラーになっていましたが、見る限り「絶対死ぬやん」という感じの飛び方だった。あれは「辛うじて生きているよ」っていう風にしてほしかったです。

そうすると人間の手で爆殺されるシーンにももっと味が宿ったように思う。グレムリンを悪として扱うよりいいと思うんです。悪はあのモヒカンのグレムリンだけでよくて、あとはいたずら好きの欲望的存在にしてほしかったというのがありました。そのほうがラストの中国人の台詞が生きたはずで、人間の愚かさも引き立ったはず。毒か薬になったはず。まあ、お菓子を作ろう、という発想であるなら、これは皆余計な思案なのですが。

 数ある映画の中の、数あるクリーチャーの中で、このグレムリンというのはちょっと特殊ですね。いい意味でのあほっぽさを持っているので、気楽に観るには丁度いいのではないでしょうか。これは劇場よりDVDで観るほうが楽しい種類の映画でしょう。
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 演出云々ではなく、大竹しのぶの力が映画を支えています。

 観ながら最初に抱いた印象は「どうも古いな」というものでした。80年代映画の、いわゆる角川映画の感じというか、1999年だからさほど古いわけでもないんですが、10年前よりもっと古い世界の印象がありましたね。でもそれはこの映画にとって結果的に正しいのかもしれないと思います。ホラー的なものに必ずしも映像的新進性は不要だろうと思いますし、古めかしさというのはある種、演劇にとって有用な要素ですからね。この映画における恐怖は宣伝の通り「人間の怖さ」というものでしょうから、古臭さは人間の垢抜け無さ、つまりは人間の格好つけていない生身の部分を表すという点で、よかったのだろうと思います。狙って古くさくしているわけでは、ないと思いますけれど。

 役者で言うとよかったのはなんと言っても大竹しのぶで、それから西村雅彦、町田康といったあたりです。町田康が出てきたのはびっくりしました。役者・町田康を初めて見たのですが、すごい存在感であります。多分役者としてのオファーはかなりの数に上っており、文筆業のために断ったりを繰り返しているはずです。ちょっとした出番だけなのですが、役者を本業としている人よりもいいんです。
 
 西村雅彦もよかったです。頭のおかしい人の役柄なんですが、大竹しのぶのものとは違う狂人ぶりが出ていた。決して悪性の狂人ではないんですね。犬を可愛がったりする優しさがあって、人を傷つけるタイプの狂人ではない。その哀しさと愛らしさが大変によく出ていました。三谷幸喜作品の西村を見ていても思うのは、この人は哀しさと愛らしさを兼ね備えた役柄でその本領を発揮するということ。だから中途半端なテレビドラマ向けの役者では、本来ないはずなんです。トレンディドラマで見かけたとき、つくづくそう思いました。

 そして、大竹しのぶです。これは大竹しのぶの映画です。後半に表出される凶暴さもさることながら、保険の窓口に来るところからして既に狂った感じがあってよいのです。西村の壊れっぷりはわかりやすい壊れっぷりになっていましたが、大竹しのぶはちょっと違う空気でつくられていた。この辺の演出はうまいなあと思いました。演出で言うと、電動こけしが何気ないところでいいんですね。原作を読んでいないのでわかりませんが、たぶん原作にもあるのでしょう。あのアイテムで夫婦生活のなさがわかるし、それでいてあの人間が持っている「性欲」という生の部分が伝わる。そういう演出の上での大竹しのぶの暴走はたまらなくよかった。家での夜の出来事の場面も、大竹しのぶの怖さが出ている。細腕に鉈、というのが怖いんです。太腕とは別種の怖さ。あの場面は大変よくて、内野聖陽の震えすぎには正直首をかしげたのですが、雰囲気としてとてもよい。

田中美里はよくわかりませんね。演技力ではなく役柄として、なんであんな感じなんでしょう。ちょっと一癖つけたかったのでしょうか。どこか病んでいるようなところがあるのですが、別にだからどうだというところもありませんでした。むしろ朗らかな役柄にしたほうが、最後に川辺で抱きしめるくだりが生きたようにも思うのですが。

 細かいところで、どうなのやというのもあるんですけどね、演出においては。あの家での出来事があった後、会社に襲いに来るくだりで、電話モニターの向こうの人物と内野が話をするとき、モニターの向こうに大竹しのぶがいるのがわかります。でも、内野は気づかないんです。なんでやねん、と思いました。目線で丸わかりになるのに、現にあそこまで強烈な体験をした内野がなんで鈍感やねんと。死体は上がっていないという時点で、こらまだまだ油断できないぞ、と思いながら暮らすのではないでしょうか、普通の感覚として。ボウリングの球がトイレに来るのも、何階やねん、というのがありますし。あの後ボウリングの球が階段の上から転がってくるのはどういうわけですか、ぼくにはわかりません。細かいこと言うな、と言われそうですけれど、大事な話で、これは超人的な存在が織りなす超越的ホラーではないんです。あくまでも生身の人間の怖さなんです。 だから怖さ先行型の演出をしてほしくはないんですね。生身の人間が仕掛けてくる生身の怖さがいいわけで、ボウリングが上から来ると、まるで支配的な悪霊がいるみたいじゃないですか。

ただ、ここぞという場面は緊迫感があります。家の場面にしろ最後の取っ組み合いにしろ。ひとつ要らない演出がありましたね。別の役者の綺麗な胸を使ってまで、あれを描く必要はなかったように思う。あれはちょっと笑ってしまいました。なんでやねん、と思って。

総じて言うと、良質なサスペンス映画だと思います。演出の古さ、をどう捉えるかというところに判断の余地はあるものの、大竹しのぶが圧巻であり、それ目当てだけでも観る価値はあると思いますね。
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 ぼくの中の「アメリカ映画」像における、ひとつの模範

 ずっと気になっていたのですがなかなか観られずにいました。ビデオ屋さんで棚を眺めていると見つけることができました。どうもこんにちは、レンタルビデオ屋が大好きな者です。いわゆるショッピング的なものの楽しみはわからず、たとえば女性が「趣味:ショッピング」などと言えばさっぱり女はわからぬものだ、と思うのですが、なるほど、ぼくのレンタルビデオ屋での気持ちがそれに近いのでありましょう。あそこはまさに宝物庫であります。

 公開当初は酷評されたそうですが、どうしてでしょうね。文句なしの傑作だと思います。アル・パチーノ演ずるトニー・モンタナの生き様を描いているのですが、こういうキャラクターは一も二もなく好きですね。凶暴な北野武、おしゃべりな北野武と言いますか、北野が演ずるヤクザのお喋り版、放埒版という具合でとても楽しく観ました。3時間近くあるのですが、ほとんど長さを感じなかった。それをさせてくれるだけでも敬服です。

アル・パチーノの雰囲気がとてもいいのです。小柄だし一見強そうにも見えないのに、秘めたる凶暴さを一気に発露するときの表情が最高です。なおかつ、クラブで酒に酔ってぼんやりしているときの様子、レストランで妻に激昂して周囲に白い目で見られるときの様子、これもまた最高で、ひどく哀しげなのです。あの人物像をつくりあげたことですべての場面に緊張感が漲っている。こういう哀しい無頼漢が、ぼくは大好きなのです。

このタイプの主人公って、たとえば北野映画『BROTHER』の「ファッキングジャップくらいわかるよ馬鹿野郎」よろしく、怒りの中間地点がないんですよね。あるいは適度な怒りがないというか、怒った瞬間に殺してしまうというとんでもない瞬発性があります。やはりそこが面白さを生む大きな要因ですね。車に爆弾を仕掛けて追跡する場面にしろ、長年の友であったはずのマニーを殺す場面にしろ、「殴る」という中間地点がなく、すぐさま「射殺」に行ってしまう。マニー殺害の場面なんて、ほとんどの映画は殴らせてしまうと思うんです。ト書きに、「妹が下着姿で現れる。マニーと妹の関係を知るトニー。」とあったら、「トニーはいきなりマニーを殴りつける。」と続けてしまいそうなところ。ところがこの映画で言えばその代わりに、「トニーはマニーの腹を撃つ」と続けてあるわけです(台本を読んだわけではありませんが、つまりはそういう流れだということです)。

このタイプの人物だからこそ、麻薬組織で上り詰めたというところに一種の説得力が宿りますね。まったく生やさしさがない。映画における「殺人」という出来事はつまり、その殺人者が、「戻れない場所へと飛躍すること」なんですね。殴る蹴るでは回復可能ですから、飛躍にならない。この絶え間ない飛躍が活劇に魅力を付与しています。

この手の映画はやっぱりアメリカの強みがあるというか、アメリカならではだなあという感じがします。ぼくの中のアメリカ映画のイメージにおいて、この映画はひとつの模範であるなあという思いです。日本やヨーロッパの映画ではできないんですね、こういうの。日本もヤクザ映画は数多ありますが、どうしてももっと泥臭くなってしまうし、湿っぽくなる。いや、泥臭いのも湿っぽいのも好きなんですけど、この『スカーフェイス』的なドキドキ感って、日本映画では到底作れないと思うんです。

ラストシーンも圧巻でした。トニー・モンタナの壮絶な死に様ですね。ぐだぐだせずに、彼が死んだらすぐに映画も終わる、という潔さも大変によし。ぼくにとっては文句なしの傑作であります。
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たまには小説のレビウも。
 
 悪人、というのは描くのがなかなか難しい存在です。悪、というもの自体が難しいというか、何をもって悪というのかという部分がまず難しいんですよね。誰しもそれなりの道理をもって生きている、よかれと思うことを積み重ねながら生きている、互いに迷惑を掛け合わぬよう努めながらそのうちで幸福を得ようともがく。悪の枢軸と大国に決めつけられた国が、悪意を持っているわけではないと思うんです。彼らは彼らなりの善を抱えていると思うのです。その善が他者にとって邪魔なものである場合、その他者がこれを時として、悪と呼ぶわけです。

 さて、『悪人』ですが、どうも上品な気がしたというか、ぐっと奥底まで来てくれない感じがしました。あっさりしているというべきでしょうか。この小説では殺人犯がひとつの主軸となっていて、そこで描かれている生き方は決して悪人とは決めつけられないわけですが、ぼくとしてはその人物の深みみたいなものを感得できなかった。というか、たとえば悪辣な殺人犯として報道される描写が出てきますけれども、ぼくの場合、普段の報道を信じちゃあいないので、その点の落差みたいなもんを感じなかったというのがありますね。

 テレビなど今はほぼまったく見ませんが、それこそ朝のワイドショーなんかではひとたび事件が起きれば、決めつけ報道がえげつないことになります。それを無邪気に信じるなんてモードは、ぼくの中に欠片もないんです。どんなに残忍で醜悪な事件が起こったとしても、その報道に触れてぼくが感ずるのはいつも、「これは本当に犯罪者の供述どおりなのだろうか」というところなんです。つまり簡単な話、去年の秋葉原事件がありましたけれども、ぼくは報道されていることを根本の部分で信じていないのです。犯人の身勝手な犯行、その報道どおりなのかもわかりませんが、根本の部分では、「もしかしたら犯人が語る動機というのは表面上のことで、何か別の真相を隠しているのでは」と疑ってしまうのです。極端な話、「殺人を犯さなければおまえの家族を殺す。逮捕されても嘘の動機を供述しろ」と脅され、そうやって脅されたのを隠し続けているのでないか、などとさえ考えてしまう。何の根拠もないんですよ、ぼくの疑いは。でも、普段からそういう風に考えてしまうたちなので、『悪人』のラストの部分、あるいは祐一の生き様のくだりなどについて、特別強い感興を得られませんでした。うん、きっとそういうことはこれまでも散々あったんだろうな、という感じと言いますか。事件の真相って報道されるほど単純なものでは絶対ないで、とぼくが常々感じていることを延々書かれているというか。

 感情の部分であっさりしているな、と一番感じたのは、石橋佳男が鶴田に案内させ、増尾のところにたどりついた場面です。

 分からない。人の悲しみを笑う増尾のことが分からない。増尾の話に笑うこの二人の若者のことが分からない。佳乃を誹謗中傷する手紙を送りつけてきた人間たちのことが分からない。佳乃をふしだらだと決めつけたワイドショーのコメンテーターが分からない。
「佳乃」と、佳男は心の中で娘の名を呼んだ。
お父ちゃん、よう分からんよ。


憎い相手のもとにやってきた父親の心情描写です。「分からない」を並べるところは好きなんです。ただ、個人的にもっとドライブがほしいんです。「分からない」をもっと長く、くどいほどに並べてほしい。そのドライブの後にこそ、抜粋した最後の二行が生きてくるような気がします。加害者、つまりは「悪人」を丁寧に描いているのですが、その分被害者のどろどろとしたものを描いてほしい。あるいは混乱と落胆と虚脱の入り交じった、「分からない」の境地に連れて行ってほしい。その振り子って大切だと思うんです。うまくまとまっているけれど、うまくまとまりすぎている気がする。この佳男っていうのは、登場人物の中でもとりわけ大事な位置にいると思うんです、被害者の父親という立場ですから。ここの憎悪みたいなものはもっともっと濃く描いてほしいと感じました。その憎悪こそ、長編の物語としては地味なこの事件を、強烈なものとして印象づけられると思うんです。被害者遺族たる悲しい存在が抱く憎悪が、この小説にもっと必要に思われたんです。虚脱までが早かった。あるいはそこに至るまでの蓄積が、やや物足りないように感じました。

 かなり評価の高い小説のように見受けるのですが、その辺はなんとなくわかります。適度な感じがしますから。うん、適度なんです。いわゆるエンタメ作家のものに比べれば描写もずっといいし。違う言い方をすると、置きに行っている感じもする。突き抜けてくるものが四百ページを通して、ぼくの場合、なかった。作中に2001年のバスジャック事件が出てきたり、漢方薬を売りつけるあくどい連中が出てきたりするのですが、そちらのインパクトに負けているんですね。この小説で最も重要な装置である殺人事件、この犯人のことって、たとえば現実の報道でぼくが見たら、あれこれと想像して背景が理解可能なんです。想像可能なんです。その人間の不透明さがそんなにないんです。それより漢方薬売りの人間性を知りたいと思ったし、バスジャック少年の人間性を知りたいと思った。彼らという悪人こそ、どういう心持ちがあるのかを知りたいと思った。だからなんでしょう、多くのレビュアーが物語るような、読後の感嘆は正直ありません。品質も確かだしこういうのをいいっていう人はいるんだろうね、という意味でお勧めできますが、心底のところでは特別いいとも思われない。秀でた小説であるのは間違いないと思いますが、ぼくの琴線にはあまり触れませんでした。
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役者の使い方、空気の作り方という点で、この人の右に出る監督は今日本にいません。たぶん。

園子温というのは今現在の邦画界において、最も優れた監督の一人だと思います。この人の映像表現はかなり独特というか、他の数多ある作品群と一線を画しているのは間違いないですね。今回の『エクステ』も佳作でした。髪の毛のホラーというのがどうもぴんと来ず、長らく観ずにおいたのですが、いやあよかったですね。

『奇妙なサーカス』のときにも書いたのですが、この監督の作品に出てくる役者達は、とてもいい演技をするんです。個々の役者の技量以上のものを引き出しているというか、それってなかなかできることではないと思うんです。今回で言うと子役の佐藤未来が大変よかった。子役が準主人公で、そうした映画で言うとつい先日書いた『仄暗い水の底から』があるわけですが、いやあこうも違うものかと思います。子役自身の技量差ではないと思うんです。やっぱり演出力の違いだと思いますね。『仄暗い水の底から』も、あるいは他の多くの映画もそうなんですが、子役を小道具化してしまうところがあります。勝手に動き回る装置として、あるいは単に無力な存在として。でも、この映画の佐藤未来はそれとは違う。佇まいや表情がとてもいいです。虐待に怯えている演技が抜群で、なおかつ役割化されていない。といって、別の映画やドラマで同じくらいいいかと言えば、おそらくそうじゃないと思うんです。この子がよかったのはやっぱり、演出力が大きいんです。

この監督は密室芸が大変にうまい。『夢の中へ』という作品があるのですが、その中で田中哲司と市川美和子のカップルが話をする場面があります。アパートの場面なのですが、最初こそ仲の良いカップルとしてじゃれあっていたのが、いつの間にか互いを罵倒し合う大喧嘩に発展する。この辺の持って行き方は実に巧みです。一定の流れの中で、本当に何気ない台詞によって一気に流れを変えていく。あれは惚れ惚れとしました。今回の『エクステ』でも、つぐみと栗山千明が佐藤未来をめぐって口論する場面があり、ここは絶品です。ものすごく濃度の高い場面なんです。ああいう濃度をつくることができる監督が、今の邦画界には少ない気がします。

役者の演出をさらに褒めますが、最初のほうの、栗山千明が独り言を言いながら自転車に乗る場面もいい。ともすればひどく馬鹿らしい表現に堕しかねないのですが、もうこの時点でひとつの世界をつくってしまっています。ある種の演劇性をこめることで、すぐさまフィクション100の世界に連れて行くというか、ホラー映画にありがちな、「リアルで平穏な生活」的演出に早々別れを告げている。ホラー映画と言えば怖がらせる映画のわけですが、この時点で、ああちょっと違う空気入ってるな、というのがすぐにわかります。だから悪いけれど、これをただのホラー映画だと思っている人間は馬鹿です。ぜんぜん怖くなかった、このホラー映画は駄目だ、みたいなやつは、エクステに巻かれて窒息すればいいのです。

大杉漣のキャラクターがもう普通のホラーじゃないんですよね。狂っているんです。でも、ちょっと面白いんです。ある意味ではキュートなんです。あのキャラクターを配したことで、ただのホラー映画ではありえないのです。どこか悲しいんですよ。狂っているしおちゃらけているけれど、そして死体愛好、死体毛髪愛好というどうしようもなくいかれている人間だけれど、どこか悲しさがある。

ホラーなんですよ。でも、それをあえて回避しているんです。園子温が本気でホラーをやったら、これはもう間違いなく、日本でトップになると思います。それは『紀子の食卓』や『奇妙なサーカス』を観ればわかります。そして今回も、そのホラー的実力の片鱗を見せていました。でもこの人はそれをしようとしていない。一般的な、いわゆるホラーというものとは別の地平を探っていると思うんです。

大絶賛の記事になりましたが、一見の価値はあると思います。ただ、園子温の本当に面白い映画は別にあって、これはわかりやすさという点でひとつの園子温入門にはいいかと思います。などと言いながら、まだまだ園監督のもので観ていないものはたくさんあるのですが。
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90分の短さなのに、観る側を待たせすぎている


ブギーマン、という言葉だけは前々から知っていたのですが、もともとは民間伝承のおばけというか、「悪いことをするとブギーマンが来るぞ」的な存在なのですね。映画も複数制作されているようで、ぼくはてっきり古めの映画と思ってこのDVDを借りたのですが、かなり最近のものでした。

 いやー、面白くない映画でした。久々にぜんぜん面白くない映画を観たという感じです。サム・ライミ製作であり、大作『スパイダーマン』シリーズをつくった彼が絡んでいるのだからそれなりのものであるのだろう、と思いきや、まったく面白くない。90分なのに長く感じられました。

 映像に深みがないと言いますか、照明の当て方やカット割りなどがどうにもCF的なのがまず気になりました。それに映画の大半でずっと映り続けている主人公の男もあまり魅力的でない。この男を映し過ぎなんです。これはこの手の映画ではあまり有効とは思われません。

映画では男が数々の恐怖体験をするのですが、どれもこれもただ怯えているだけに思えてしまう。劇中で彼は「ブギーマン」の影に怯えており、「父が死んで十五年、ずっとおまえの妄想だと言われ続けてきた」などと語るのですが、あれだけ男のアップカットが多くなれば、観客もそう思ってしまうと思うんです。主人公の男のアップが多くなると、どうしても「その男の話」になってしまうんです。その男の世界、を見せられてしまう。これは観客が男に感情移入するというのとは微妙に、絶妙に違っていて、「その男が捉えている世界」を見せられている気分になるのです。観客が感情移入するのって、そういうことじゃないはずです。

 妄想ではない、とアピールするように、ラストシーンでは他の人間も同じような怖い目に合わせるのですが、ああいう状況になる必然性、つまりあの女が出てこなくてはならない理由が正直わかりません。「これは男の妄想じゃないんだよ、劇中で本当に起こっていることなんだよ」とアピールするだけのために存在しているような女でした。初めのほうで馬に乗って登場したのもよくわからないし。それにあの行方不明の少女もよくわからない。あれをすると余計妄想っぽくなってしまうじゃないですか。

 ちょっとCFっぽいながらも最初のシーンはまだ期待させるんです。つかみの演出は一応しているんです。でも、その後何か起こりそうで延々と何も起こりません。そのくせ最後のほうはぐちゃぐちゃです。めちゃくちゃ急ぎ足でいろいろ起こる。怒濤のごとき恐怖、ではないんです。途中あまりにもだらだらしすぎているから、急いで詰め込んだみたいな印象でした。ラストもひどくまずかった。ブギーマンが消えて、「もう大丈夫さ」みたいになって終わるのですが、どうして「もう大丈夫」状態になるのかがわからない。人形を壊したからでしょうか。じゃああの人形は何やったんや。もう説明が足りなすぎるんです、何もかも。

総じて言うと、観る側を待たせすぎていると思うんです。ずっと何も起こらず、ほんのちょっとした恐怖やびっくりの羅列ばかりが続くから、当然後半へと期待が繰り越され続け、その末にあんな急ぎ足でごちゃごちゃ見せられても楽しくないんです。まったくおすすめはしません。
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「滴る水から洪水へ」というホラー映画の常道は踏まえているのに。

 ホラー映画というのを観て、怖いと思うことがほとんどないんです。なんというかこのご時世、視聴年齢制限もかけられていないホラーの場合、おそらく怖いものなど何一つできないと思われます。あのー、ディズニーランドのホーンテッドマンション的というか、結局は、「怖いアトラクション」みたいな感じなんです。アトラクションと恐怖って、本来的には繋っていないんですが、誰でも入れる形でそこを繋げるとなると、どうしても恐怖の濃度って薄まってしまうんです。

『仄暗い水の底から』にしても、やっぱり怖くない。いや、それはでも仕方ないと思うんです。特にこの作品の場合、子供が準主人公でしょう。そうなるとね、ある程度ブレーキがかかってしまうと思うんです。子供をめちゃくちゃな目に合わせると駄目というわけで、なんか危機的な状況でも全然危機的な感じがないというか。現代というナーバスな時代の表現枠組みがあって、この作品はあくまでもその内側にいます。内側で勝負するとなると、これはもうどうしたって難しいんです。

恐怖映画、ホラー映画としての怖さを抜きにして、ひとつの娯楽映画としてどうだったかといえば、結構だらだらしていました。結構いらないシーンがあったり、カメラワークに単調さが見られたり、いらないカットが数秒ほどあってテンポが悪くなったりしていました。ラストの水川あさみが出てくるくだりは要らないと思うんです。あれを入れるくらいならもっとそこまでの密度を高くしてほしかったと思います。

あと、映画が公開された当時にかなり言われたことだと推測するんですが、エレベーターの黒木瞳の心境がわからないんです。あれはちょっと困りました。子供を守るために犠牲になるみたいなことなんでしょうか。幽霊の女の子のところもちょっと貞子に被っているし、もっと遊んでほしかったです。いや、別にわからないならわからないでいいんです。エレベーターから水がどしゃあっと来るシーンも、どうしてそうなんねん、と思いますが、それはそれでいい。ただ、それなら水川あさみのラストのくだりはやっぱり要らない。水がどしゃあっと来るシーンで、娘役の子の後ろ姿をバックに終わっていればもっとポイントは高かった。無音でスロー処理をしてすべてが水に飲み込まれて終わってくれたら、それはかなり美しいシーンになったと思うんです。それでは確かに訳がわからなすぎるんですが、中途半端にわからないくらいなら、まったくわからないほうが気持ちいいですよ。

母親と子供のふれあい、みたいなくだりは、ぼくのような人間には邪魔くさかったです。よその親子が花火をしているのを見かける場面、その後に黒木が娘を抱きしめるんですが、ああいうのは要らないなあと感じてしまうんです。いかにも大人目線の子供というか、演出装置としての子供、になってしまうんです。「いかにも劇映画」みたいな点って、ホラー映画にはまったく不必要なものだとぼくは思う。たとえば幼稚園でよその子供が怒られるくだりなんかも、いかにも大人を悪者っぽく扱っているんです。園長先生の芝居ももうひとつでした。小日向文世の父親役もただの役割になってしまっており、敵対的な役柄に留まるものに過ぎず、「ああ、この父は父なりに我が子を愛しているな」という描写がないので、人間性が見えてこない。

100分という時間は映画としては理想的です、ぼくにとって。長さを感じない適切な時間なんです。それなのに、随分長く感じた。だらだらしていました。滴る水が洪水になる、というのはまさにホラー映画のメタファなんです。最初は滴る水程度のわずかな不快感だったものが、やがて洪水的なとどめようのない恐怖に変わる。それがホラー映画のひとつの典型であり、また理想でもあると思うんです。この映画はそのシーンにこそ洪水はあれ、恐怖的な洪水がなかった。ひどく残念でした。
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