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主演の田中美佐子も映画の風合いもいいのに、いかんせんむにゃむにゃし過ぎていた。
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 田中美佐子の映画デビュー作なのですが、このときの田中美佐子は蒼井優とよく似ています。全体を通して佇まいが似ていて、カットによってはほとんど酷似している場面もありました。田中美佐子といえばぼくはテレビドラマ『セカンドチャンス』のイメージしかなくて、そのイメージも記憶とともに薄れているのですが、若かりし頃の田中美佐子を愛でるには最良の映画でありましょう。映画の中での演技や風情はとてもいいです。この後の活動はテレビドラマがメインで、ほとんど映画には出ていないんですね。長い黒髪には大和撫子の魅力が十二分に備わっており、彼女でこの映画は持っていました。

 大学生の田中美佐子と予備校教師の山崎努の恋愛劇がメインで、浮気性の山崎努には正妻がおり、なおかつ他の愛人もおり、云々という話なのですが、ストーリー展開自体はいくぶん退屈でありました。田中美佐子の心情描写に物足りなさがあり、山崎努も序盤に比べて面白みがなかった。話の運び自体は途中からどうでも良くなりますね。

 うん、大学生的な倦怠感でも言いましょうか、なんとない退屈さと言いましょうか、そういうのは表されているのですけれども、それにしても後半けだるさが過ぎて、田中美佐子の気持ちがよくわからなかったです。山崎努がもっと加速してもいいのになあと思えてなりませんでした。浮気しつつも、妻の朝丘幸路を捨てられないのだという気持ちの部分に全編通して変化がなく、恋愛劇が結局むにゃむにゃし続けているのです。田中美佐子がレストランで、もう一人の愛人、加賀まりこを交えて山崎努と衝突しますが、この場面にもどうも宿るものがないんです。あの場面には、もっと宿るものがなきゃいけないと思うんです。

 カット割りや街の写し方は好きです。全体を通してその点は非常に好ましかった。被写体とカメラの距離感、あるいはカメラが写し込む被写体の大きさは今の日本映画と比べて美しい構図で、カットも無駄に動きすぎずある程度の定点性を維持してくれます。撮り方については好きだったので、その分物語にもうひとつの味わいがほしかったなあと思います。

この手の映画って、わりと撮られやすいんじゃないでしょうか。要するに、「なんかむにゃむにゃする恋模様、そしてその生活」みたいなね。予算的にも大して必要とせず、過酷なロケも派手なシーンもいらないですから撮りやすく、ただその分話を持たせるにはテンポの醸成と静物画を描く際の演出力が必要と思われます。その種の映画でぼくが好きなのは矢崎仁司監督の『ストロベリーショートケイクス』(2006)。女性中心の物語で結構むにゃむにゃしており、しゃらくさい場面もあり、ぼくのような人間には肌合いが悪いはずなんですが、これはなぜか心地よかった(ちなみに作家の保坂和志がちょい役で出ています)。池脇千鶴や中越典子の好演が光っており、しゃらくさいデリヘル嬢もよかった。

 一方、そうしたタイプの日本映画にはもうどうしようもないものもあり、もう絶対に観てはいけない最悪な映画が大宮エリー監督『海でのはなし』(2006)。宮崎あおい、西島秀俊、それから菊地凛子など現代邦画界の逸材を起用しながら、もうこれがひどい。yahoo動画で配信されたものをDVD化したらしいのですが、予算云々以前に何も描いていないんです。スピッツの名曲をたくさん用いながら使い方はむちゃくちゃで、「何も描かずに、それでいて何かが描かれる」ほどの手練れでもない。『ダイアモンドは傷つかない』では田中美佐子の濡れ場がありますが、それで思い出すのが星野真里主演のむにゃむにゃ系恋愛映画『さよなら、みどりちゃん』(2005)。これももうひとつでした。星野真里がいいし、感情の振り幅もあるけど、倦怠感の風合いはもうちょっとほしい。惜しい。こういうのがあるから、現代のむにゃむにゃ映画には少し手を出しにくいところもあります。
 
『ダイアモンドは傷つかない』は、もう少し振り子を振ってほしかったなあと思います。そうでないとせっかくの田中美佐子も生きてこないんですね。大学の同級生もその他大勢感が強かった。なんだかもったいない感じがすごくする映画です。このときの田中美佐子は間違いなくダイアモンドの原石で、磨かぬうちに光っていましたから、映画にもその輝きがほしかったのが率直なところであります。
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 現代の日本映画は過去から何を学んでいるんだろうか。    
何故こうした傑作を観て育ったはずの人々が、愚かな演出に手を染めるんだろうか。 

 ずっとずっと前に、この映画の一場面をテレビで観たことがあって、極寒の最中発狂してふんどし一枚になる男の像が頭に焼き付いていて、ああ、なんかとてつもない映画なのだろうなあと思い続けていて、実際に観てみるとやはりとてつもない映画でした。
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 監督は森谷司郎という人で、黒沢映画のチーフ助監督を務めた人らしいです。橋本忍や芥川也寸志といった黒沢明の盟友もおり、『砂の器』(1974)の野村芳太郎も加わっていて、役者陣は高倉健、北大路欣也、三國連太郎、加山雄三、脇を固めるのが丹波哲郎や緒形拳という、これまたすんごいメンツです。

 日露戦争前、極寒地域での陸軍戦闘とロシア軍の陸軍戦闘に備え、高倉健と北大路欣也の部隊が真冬の八甲田山に雪中行軍に出されるお話です。2時間50分の上映時間は序盤の旅立ち前夜のときよりあとはずっと、豪雪の山中が舞台です。これがもう凄絶な道程で、吹雪が荒れ狂うシーンがたくさんあって、誰が誰やらわからなくなります。二つの部隊の様子が交互に描かれるのですが、どちらがどちらなのかもよくわからない。でもこれって、とても正しい演出だと思うんです。ああ、今は日本海外問わず、こんなのはできないんだろうなあと思います。雪に難儀する人々の様が描かれ、それがどこなのかもよくわからず、人の顔も雪でよくわからず、観客もまた遭難者のような気持ちにさせられます。有名役者がたくさん出ているにもかかわらず、被写体に気持ちを取られていないんですね。最近の大作はどうしてもヒーローヒロイン、有名な役者の顔をばっちり撮ろうとするんですが、この映画はその愚を犯さず、あくまでも一人の雪中の受難者として描いています。だからこそ、深い雪に翻弄される人間の姿がひしひしと伝わってくる。不分明であることの分明さ。描かれないが故に、描かれるものがある。
 
 人間ドラマみたいなものも、つとめて押し殺したトーンで描かれています。長い雪中行軍のシーンはともすれば退屈に陥りかねず、何かと派手な出来事や人々のぶつかりを求めてしまいますが、この映画では皆が皆、軍の一員としての哀しい生き方を全うしています。上下関係というものがきちんと貫かれているのは、やはり作り手たちが戦前に生まれ、戦争を体験した世代だからではないでしょうか。生温かい人間ドラマ、上下関係の窮屈さを打ち破るような現代の若者的振る舞いは、そこにありません。ことさらな演出はなく、だからこそただ一度の、北大路欣也が三國連太郎に判断の過ちを咎めるシーンが熱を帯びる。そしてそれも、まったくもって過剰さがない。こういう表現にぼくはとても打たれます。たとえ間違っていると思っても、極限状態にあったとしても、上官の命令に逆らうことができず、ぐっと唇を噛みしめて従い、でもどうしても言っておきたい、言わずにおれない一言があり、強い怒りを堪えながらぶつける。あのシーンは、強い。

 台詞とか心の交流なんてものがなくても、人間のドラマは生まれるんですね。あの案内人の女性がそうでした。名前もわからない案内人、一切の私語はありません。彼女がどんな人間なのかもわからない。でも、三十一連隊が彼女に敬礼をする別れのシーンの濃度たるや、圧巻の一語です。ああいう存在にも、ぼくは心惹かれます。黒澤明の『隠し砦の三悪人』(1958)で、雪姫一行が道中買われた女を助けるところがあります。その女は一行についてくるのですが、ほとんど台詞もなく、綺麗でもなくて、ずっと無愛想な顔をしています。でも、終盤雪姫一行が窮地に陥ったとき、身を挺して彼らを逃がそうとし、撃たれて死んでしまうんです。台詞も人間味もエピソードもなくていい。ただ、大変な状況の中にある人間には、存在するだけで宿るものがあるのです。『隠し砦の三悪人』といえば、リメイクされていましたね。観たくもありません。これはさっき書いたことに関連することですが、聞くところによればなんでも、雪姫が連れの百姓の一人と恋仲っぽくなるというではありませんか! だからなんでそういうことをするんだ! 上下関係、身分の違い、超えられぬ壁があったんだ! それをなくして生まれた現代はそれはそれでいいものだ。だがどうしてその価値観をそのまま映画に持ち込むんだ! どうせあの買われた女さえも美女にしてしまっているはずだ! あれは美女じゃないからいいんだ! なんでそれがわからないんだ!

『八甲田山』に戻ります。八甲田山は大量に人が出てきますから、当然一人一人にまでスポットは当たりません。その他大勢みたいになる人がいっぱいいます。ただ、前進に雪を被りながらの物言わぬ後ろ姿や黙々と歩く姿は、人間の真っ直ぐさのようなものが現れているというか、どうしようもなく愚直であるしかないけなげさというか、哀しい面が映し出されています。一人一人の人間性までは見えなくても、辛い状況で必死になるほかない生き様は、そこに確かに透けているのです。その他大勢は、決してただのその他大勢ではありませんでした。何も言えず倒れていく様は、すごく哀しいものでありました。 

 吹雪荒れる真っ白なシーンの続く中で、すっと春や夏のシーンが入るのもよかったですね。しかもそれがただ風景を映し、幼い日を思い出すだけに留まり、妙な日常の回想を入れたりしないのが良かった。温かい家庭の様子、家族とのやりとりなんかを描けば一挙に手軽に感傷的になるけれど、この映画はあくまでもそうした感傷性を排除している。ああ、古い映画ならではの実に好ましい演出です。

 この映画を実際に撮ったのがすごいです。『タワーリングインフェルノ』で感じた「ものづくりの神様」の存在を、今回も感じずにはいられませんでした。2時間50分をぜんぜん長く思わせない。またひとつ、大傑作に出会えました。
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今昔併せて感慨深し。すごいシーンに理由なんて要らない。
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 日本アカデミー賞が発表されました。昔は知りませんが、このところこの賞ははなはだ信用ならない選択をしているので、あまり興味がありません。『おくりびと』は悪い評判を目にしませんね。最近の中ではかなり良心的な選択だったのでしょうか。未見なので書くことはできません。

 さて、今回の『楢山節考』も日本アカデミー賞を受賞しています。カンヌのグランプリを獲ったことでも有名ですね。考えてみるに、今とは違う時代だからこそ日本アカデミー賞を獲れたと思われます。きっと今ではこの映画、規制にやられてしまいますね。性的描写が結構あるので、子供には見せられないとかなんとか言って、テレビ放映にも向かず、受賞できないでしょう。賞自体に、この作品を受け止める力がないと思います。アマゾンのレビウで星一つをつけているものがあって、読んでみればそれまさに「性描写が多い。家族で観ようと思ったのに子供には見せられない」などというものでした。今村昌平は別に子供に見せようと思って撮ったわけではないだろうに、なんとも不当な評価を下すものです。いや、子供と一緒に観たっていいじゃないですか。性描写に対して潔癖すぎる風潮は大嫌いです。あなたは子供と一緒にポケモンを観て洟を垂らしていればいいのです。

 最初のほうはちょっと不安だったんです。というのも、いまひとつ役者の言葉が風情を醸していなかったからです。昔々の山奥の農村のわりに、やけに言葉の耳通りがよく、方言特有の汚さがなかったのが気になった。それはつまり作品世界の色づけにかかわる問題であって、綺麗な言葉は汚い世界を描ききれないのです。もっと汚してくれればいいのに、なまりすぎて何を言っているかわからないくらいが丁度いいのに、と感じながら観ていたのですが、途中からはあまり気にならなくなった。性描写の滑稽さや生き埋めのくだりが秀逸で、なおかつ左とん平が抜群の働きをしていたからです。ああいう表現は、観る側を安心させてくれます。ああ、見てくれのええもんだけ撮ろうとしてないな、というのがわかります。

 観る前、ぼくはてっきり、かなり凄惨な映画なのだろうと思い込んでいたんです。貧困でどうしようもなくて仕方なくて、泣く泣く母親を山に連れて行く話なんだと思っていました。ところがぜんぜん違っていて、この映画はとても明るい。貧困にあえいでいるという感じはぜんぜんないんです。でも、そうした表面をべろりとめくると、一挙に村の哀しさや残酷さが発露します。生き埋めのくだりのすごさはまさにそれで、それまでそれなりに仲良くやっていたような連中が、一挙に襲いかかる。食べ物を盗んだ村人の家を破壊し、それどころか子供さえ躊躇なく生き埋めにします。表現として非常に正しい。表面上の安穏はその実ぎりぎりの部分で維持されているのだということが伝わり、秩序や不文律はその逸脱を決して許さないのだとわかる。それまでの流れは決しておどろおどろしくないんですよ。だからこそあの場面が生きてくる。序盤に出てくる胎児の死骸もそうですが、子供だろうと何だろうと関係ないよという容赦のなさは表現として信頼できます。

 さっきの話に関連しますが、ぼくはそういうものが子供にとって有害な表現だとはちっとも思わない。むしろ世界のあり方というものを示すうえで有用だと思います。実際パレスチナで何が起こっているか、毎日報道されている通りじゃないですか。そのくせ映画の中で子供が死ぬことについて過敏に反応するなんて、どう考えたって歪んでいます。この映画で生き埋めにされる子供は、どう考えても理不尽な死を遂げています。その理不尽な死は肯定されるべきものではあり得ないけれど、その表現はまさにこの世の戯画です。戯画を否定し現実に対し見て見ぬふりで、あげくに吐くのは「子供に見せられない」。YO、朋輩、じゃあこの世界を見せないように、まずはテレビをたたき壊せ。

 話がそれました。『楢山節考』では性描写が多く出てきますが、どれもこれも滑稽で笑ってしまいます。決して綺麗じゃなくて、生々しくて、馬鹿げている。キム・ギドクの映画にも通ずる身体性で、特に左とん平がばばあとやるくだりは最高です。とある事情から誰とでも通ずるようになった倍賞美津子に、あいつは臭いという理由で左とん平がふられるのですが、これが実に愉快です。この映画における左とん平の役柄はとても大きくて、犬とやろうとするくだりも楽しい。あれは道化の役回りであると同時に、哀しさも醸していますね。あげくにばばあとやってしまうところが、もう哀しくてどうしようもない。でも、面白いんです。この性描写を通して、人々の愚かさや息づかい、生きることの汚さというのが立体的になってくる。キム・ギドクの『魚と寝る女』(2001)を思い出しました。

 女性の汚さはいい感じでした。あき竹城がその一人で、脇でしっかり映画を支えていました。ぼくがこれまで持っていたあき竹城に対する「うるさいおばさん」イメージと違って、若々しさと瑞々しさがありました。決して美人というわけでもないのに、とても美人に見える瞬間があり、この山村の風土とよく調和していた。顔に大きな痣のある女性も良かったです(漫才師らしいですね)。山奥の村にいる若い女という感じ。垢抜けていなくていい。あれが美人だったら興ざめなんですが、適度にブスな感じなんです。良質なキャスティングだったし、痣もかゆいところに手が届いている。あの痣がなんとも哀しくて、生き埋めのくだりでもあの女の存在が活きています。役者で嫌だったのは倉崎青児くらいです。一人だけ垢抜けた感じがあって、現代の薄っぺらい感じがあった。今現在に活躍している若手俳優に似ていて、演技や台詞回しに汚さがありませんでした。

 さて、この映画の際だった演出はやはり後半ですね。中盤までたくさんの役者が出てきて村の活気やなんやが表されていながら、ラスト30分はほとんどが沈黙劇。緒形拳と坂本スミ子が黙々と山を登るシーンは、中盤までとの対比でとてつもない濃度がありました。坂本スミ子が一切喋らないんです。しかしその沈黙の中に、それまで快活であった彼女との対比が生まれる。ネットで見てみれば、緒形拳と坂本スミ子は一歳しか違わないんですね。それでも、母と子として何の違和感もなかった。一切喋らずに苦難の登山をするシーンは引き込まれます。30分間、見事に魅せてくれました。この映画のいいところは、あの姥捨てにあまり必然性を感じさせないところです。貧困でやりようがないというようなわかりやすい方向に持って行っていないんです。それが悲壮感とはまた違う、えもいわれぬ雰囲気を帯びています。坂本スミ子の母親は自分から望んで山に行きます。緒形拳もそれを止めようとはせず、ただ母の強い意志を感じて山を登り続けるのです。そこには、貧困なる明白な理由とは違う、それでいて風習だからというただの惰性でもない、不思議な感動があります。それでもやはりいざとなると、母を捨てるのが辛く、緒形拳は母の胸に顔をうずめて泣き、そんな子の頬を母はぴしゃりと叩きます。一切の説明はありません。あんなシーンを、ぼくは他に知らない。

山から下りる最中にあった、あの出来事もいい。あれを挿入することで、決して緒形拳と坂本スミ子の姥捨てを綺麗なものにせず、姥捨ての残酷さも照らしている。雪が積もりすぎている感じがしましたが、まあそれはいいです。ラスト、家に帰った緒形拳が母の名残を感じつつ、物語は終わります。台詞はありません。感傷もありません。表現のバランスがこの上なく、すごい。そりゃカンヌグランプリも獲るでしょうというできばえです。

 これからこんな作品が出たとき、果たして日本アカデミー賞は許容できるでしょうか。『三丁目』だの『フラガール』だのに最優秀をくれているような賞、いやそれよりも深刻なこととして、そういうものが一番だとされている現状。一番というのは、この『楢山節考』のような作品にこそ、やはりふさわしいのです。
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 精巧な特殊メイクも意匠を凝らした奇怪な装置も、たかだか数匹のゴキブリに勝てなかった。
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 ウィリアム・S・バロウズとこの『裸のランチ』というのは、その名前だけは前々から知っていたのですが、まだ原作を読んだことはありません。というか、麻薬でくるくるぱーになった最中に書いた、ストーリーもないような小説という時点で、ぼくはあまり興味を持てません。というか、それで名を馳せられても、ぼくとしてはもうひとつすごさを感じられないんですね。ある意味で誰にでもできることなんじゃないかと感じてしまう。麻薬でイッてるときに表現したものを、ぼくは認めたくないというか、それは一種の奇襲戦法でしかないと思っていて、じゃあ他の人間がそれをやったらもっとすごいんじゃないかと思ってしまう。普通の精神状態ですごい小説を書いた人が、麻薬でイッてるときに書いたものは、読んでみたいと思う。でも、麻薬漬けの人間が書いたものなら、それはやはり認めたくないんです。麻薬がいけない、というのとこれは別の話です。というか、ぼくは別に麻薬なるもの一般を嫌っているわけではない。ただ、ぼくはぼくでものをつくりたいと考えていて、それなりに日々悩んだりもしているので、そういう方面で飛ばれたとしても、ぜんぜん尊敬できないんです。

 とはいえ、映画についてはそれなりに期待して観ました。監督がどういう世界をもたらしてくれるかは、原作とはまったく別の話だからです。特に前に観た『ザ・フライ』がとてもよかったのもあって、今回は題材が題材だけに、余計ハードルが上がりました。しかし、残念なことに期待はずれでありました。ぼくが感じたことは山形浩生のウェブサイトにそのまま書かれているので、そちらを読んでもらうのもひとつとして、そこではあまり言及されていなかったことを書いてみたいと思います。

前回の『第三の男』の記事で、映像ならではのものを観たいと書きまして、それに関連する形で阿部和重の文章に触れました。いわく、「スタンリー・キューブリックが一九六八年当時の最先端テクノロジーによる特殊撮影効果を駆使して仕上げた『2001年宇宙の旅』におけるすべてのシーンをもってしても太刀打ちできなかった一九六一年の作品『ハタリ!』にみられる猿の大量捕獲場面」。今回、似たようなことをぼくは『裸のランチ』作中において感じました。

 作品の中ではグロテスクな生き物がたくさんでてきます。タイプライターに模した形状で、なおかつ背中に喋る肛門のある虫や、頭に生えた触覚の先からだらだらと液を垂らす、あばらの浮き出た白い生き物など、いかにも金のかかった特殊メイクおよび装置の数々。 かなり気合いも金もこめてつくられたであろうそれらは、作り自体は確かにグロテスクで良質なものであり、安っぽさは感じさせないけれども、残念なことに、冒頭及び前半の場面で登場した、本物のゴキブリに勝てなかった。たかだか三匹程度のゴキブリのほうが、よほど気持ちの悪い代物であったのです。これはこの映画にとってきわめて深刻な事態であるなあと感じます。ぼくは常々、「どんなホラー作品よりも、部屋にいる一匹のゴキブリのほうが怖い」と感じているのですが、それはつまりより確かな現実感を帯びるからであって、どうしてもホラー的な表現は表現という枠組みの中に収まってしまうんです。映画の作り物は、たとえどんなに精巧であっても(そして仮にCGを用いることがあったとしても)、それが作り物であるという時点で既に負けてしまうんです。2005年公開の海洋ドキュメンタリー映画『ディープ・ブルー』はそれを如実に示していて、人間の作った映像は結局のところ生身の生き物の躍動を超えることはできないんです。今回で言えば、ゴキブリが一番グロテスクでした。ゴキブリに似せた奇怪な生物が序盤、主人公の靴で潰されますが、あれが本物のゴキブリだったらもっと気持ち悪かったはず。ぼくは、どうしてもそう感じてしまいます。

 それに類した点は山形浩生が指摘している通りで、この映画はセットがその奥行きを感じさせない。モロッコの猥雑な街並みを再現しているのですが、まるでコントのような奥行きの無さで、そこからは何の臭いも匂いも風情も沸き立ってこないから、これまた哀しいことにラストの、ほんのちょっと映っただけの林のシーンに負ける。いや、それでもこの点に関してはまだ思案の余地があります。現実離れした世界を描く場合に、必ずしもセットにリアルさを求めても仕方ないのであるから、あえてリアルさを排した虚構的な空間を作ろうとしたのかも知れません。ただ、仮にそうだとするなら、やはり最初にゴキブリを出したのは失敗だった。あるいは、害虫駆除の脂ぎった汚い事務所のような場所を出すべきでもなかった。等身大でリアルな禍々しさ、鼻をつまみたくなるような悪臭の風情を見せてしまえば、今回の場合、虚構に軍配は上がらないと思う。この辺のことは多分に印象論がかっているので、それはぜんぜんそうじゃない、と感じる人もいるかも知れませんが、ぼくにはこの世界を楽しむことができませんでした。途中からどうでもよくなり始めていましたが、そのどうでもよさは、麻薬的な愉悦をくれなかったし、物語を追う必要を感じないという意味での狂いもまた、ぼくにはもたらされませんでした。
 
 うーん。味わいきれませんでしたねえ。
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映画、映像ならではの魅力はそこまで感じなかった。玄人好みの一品じゃないでしょうか。
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 キネマ旬報の1999年度版洋画オールタイムベスト100で、『2001年宇宙の旅』(1968)や『ローマの休日』(1953)、『風とともに去りぬ』(1939)といった超有名作品を抑え、堂々1位に輝いている作品です。淀川長治が「映画の教科書」とまで言ったそうで、いやがうえにも期待を高めて観ました。やはりオールタイムベスト100のトップともなれば、少々期待しすぎてもそれに応えてくれるのだろう、と思って観ました。

 結論から言うと、ううむ、です。
 サスペンスミステリーなのですが、それほどすごい作品かい? というのが本音です。よくできているなと思うし、よい作品だなと思うんですが、いわゆるひとつの「すごさ」は感じませんでした。考えてみるに、ぼくはこの手の作品に対してのアンテナが伸びきらないところがあります。

たとえばアルフレッド・ヒッチコックがそうです。ヒッチコックと言えば誰もが認める巨匠で、サスペンスの神様などと言われているのであり、そうかそうかとぼくは思って、いくつかの有名作品を観ては来たのですが、そこまですごいか? と感じてしまいます。蓮實重彦もそれに連なる阿部和重などもヒッチコックのすごさを謳っているのですが、どうしてもぼくは途中で退屈してしまいます。だから多分、ヒッチコックはすごい、という人たちからすると、この映画はとてもすごいんだと思うんです。

 やはり、映画に求めるものというのが人それぞれにあって、ぼくの場合、映画ならでは、映像ならではのすごさみたいなものを観たいなと思います。ストーリー的な面白さなら、小説なり舞台なりでも再現可能なんです。でも、中には「これは映像という表現媒体でしかなせない」というものがあるわけで、その意味で言うと『2001年宇宙の旅』はそういうものを描いていると思います。ちなみに、阿部和重は小説『ABC戦争』において、「キューブリックは『2001年』の全シーンを持ってしても、ハワード・ホークスの『ハタリ!』における猿捕獲シーンには勝てなかった」というようなことを述べていました。なるほど『ハタリ!』(1961)もすごい映画で、ぼくが強く感じ入ったのは猿捕獲シーンもさりながら、サイを追いかける場面でした。そういう映像的なスペクタクルは映画の醍醐味であって、『第三の男』はたとえばラストシーンなどの綺麗さ、格好よさがあるにしても、それほどすごいとはやはり思えませんでした。

思うに、古いサスペンス系、ミステリー系の映画にあまり食指が動かないというのがあるかもしれません。ホークスで言うと(プロ野球チームじゃないよ)、『ハタリ!』や『紳士は金髪がお好き』などは好きなのですが、名作と言われる『三つ数えろ』(1946)はぜんぜん好きになれなかった。ハードボイルドはハードボイルドでいいのですが、もっと茶目っ気がほしいなというのがあります。いや、茶目っ気があったとしても、ぼくの求める茶目っ気ではないのかも知れない。だからもうひとつ、はまりきれないんですね。

『第三の男』はそれでも、まさかの展開的な物語的工夫は利いているし、いい映画だとは思います。ただ、不朽の名作、20世紀映画のベストワンかと言われれば、それは大いに疑問です。玄人好み、と言われれば、そうなのかも知れませんが。

ちなみに、JR恵比寿駅における発車時のジングルは、この映画のBGMです。
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もっと長くていい。もっと掘り下げたところまで観てみたかった。
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  原題HOODLUM
 1930年代半ばのアメリカにおけるギャング抗争を描いたお話です。賭博のシマ争いで三つの勢力が拮抗し合っていて、それぞれのヘッドをローレンス・フィッシュバーン、ティム・ロス、アンディ・ガルシアが演じています。

 三国志よろしく、三つ巴の戦いというのは話を立体的に見せますね。これは恋愛ものでも同じで、恋愛のいざこざというのは要は三角関係ですからね。三者が睨み合っている状態となると、水面下でのやりとりが見物になります。誰かが誰かと組んで誰かを潰す、というスタイル。その中で裏切りが生じたり、組んでいると見せかけて実は違う組み合わせがあったりというところで面白みを醸しやすい。

 この映画の三者はそれぞれに良い対比がありました。主役はローレンス・フィッシュバーンなのですが、ティム・ロス、アンディ・ガルシアの存在感が大きいです。やんちゃなティム・ロス、冷静なアンディ・ガルシアの対比がよくて、いつ爆発するかという緊張感がずっと持続していました。

 話自体はもう少し膨らんだかなという印象があります。こういうのって、最終的に誰かが勝つか、それとも全員が相打ち的に死ぬかというのが気持ちよくて、一人が負けて二人が組んで勝ってしまうとあまりすっきりしない。話はなんだか「これで一件落着」みたいになっていたんですが、もっと長くてもいいので最後まで争ってほしかったです。クライマックスは実にあっけなかった。そんな終わり方でいいのか、というのがあります。アンディ・ガルシアは存在感こそあれ、最後まで結局何もしていない感じがします。水面下でうまく動いたのはわかるんですが、うまく動きすぎてあまり伝わってきませんでした。落ち着き払った彼が銃撃戦に巻き込まれるのを観たかったんです。そこで振り子が大きく振れたのに、あえて回避したのでしょうか、もったいない感じはしましたね。ティム・ロスは『スカーフェイス』(1983)のアル・パチーノのような凶暴さと退廃を帯びていました。彼の見せ場がもっとほしかった気がします。結局、銃撃戦や戦闘シーンで頑張っていたのはローレンス・フィッシュバーンばかりだった印象が強いです。この三者がやりとりするシーンは、一色触発の気配もあり、その点緊張感は良質だったんですけど、振り返って見るにほとんど爆発しておらず、爆発するのはいつも下っ端がらみなのです。やはりクライマックスでの白熱する拮抗を観たかったというのはどうしてもあります。

 この映画は1930年代の話なので、白人と黒人の上下関係というのが随所に織り込まれていました。この辺はアメリカの物語表現において、かなり使える社会的装置です(逆にそれに縛られることも多いですが)。ヨーロッパほど白人的じゃないし、白人と黒人がごちゃごちゃになっている世界は対立に緊迫感があります。日本映画では難しいですね。というか、日本の社会は差別についてそこまで成熟していないせいなのか、描かれにくいところがあるのではないでしょうか。部落差別に関するものなどは古い映画にたくさんありそうですが、今の日本映画における「差別」としてあるのは、『GO』(2001)などとりわけ朝鮮人もので、あれは恋愛を主軸にした内面的な超克物語にされており、差別というものをちゃんと考える作品ではありませんでした。これから先の日本映画は余計にそうなっていくでしょう。差別などの問題を個人の内面問題に置き換え、青春だの恋愛だので薄めまくって中和しすぎるようなものばかりしか、今の日本映画には作れないと思います(インディーズは別だと思いますが)。そうなってくると、時代劇における貧民はもう描かれない。貧しい武士や町人を描いても、その貧しさや汚さもたかが知れていて、この先穢多や非人など影すらも描かれることがないでしょう。

 話が大きくそれました。
『奴らに深き眠りを』のローレンス・フィッシュバーンの台詞で格好いいのがありました。
恋人とベッドにいるシーンで、「教会に行きましょう」と言われたとき、彼はこう返します。
「俺には神様と交わした取り決めがある。お互い無関係でいようと」
いい台詞でした。ただ、彼の生き様、その描かれ方は微妙でした。なんならティム・ロスやアンディ・ガルシアの役柄から見る目線に、もっと力を入れてほしい感じもありました。あまりこういう感じ方は普段しないのですが、もっと長くていい。2時間以上あるけれど、時間が足りない感じがした。もっと観たかったな、と思わせる映画で、違う言い方をすると消化不良の感もややあります。3時間くらいでも、全然オッケーだったのですが。
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 あの結末をどう感じたか、よければ教えてください。 
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 グラインドハウスとは低予算映画を2、3本同時上映する映画館のことだそうです。日本向けのDVDではカットされたシーンも盛り込まれ、一本ずつになっているようです。 
 ついこの前、『ジャッキー・ブラウン』でタランティーノ節が失われていることを(世間に十年以上遅れて)嘆きましたが、『デス・プルーフ』は『キル・ビル』に引き続き、彼のやりたい放題が炸裂していてよかったです。時間を忘れて観ることができました。

 グラインドハウスの二本立てよろしく、この映画は前後半が分かれていますね。まずはタランティーノお得意のだらだらとどうでもいいことを喋りまくるシーンが続きます。松本人志が言及していましたが、あれは英語のリスニングができないともうひとつ楽しみ損ねる場面ですね。字幕は基本的に意味を表現するのに使われるわけですから、細かい言い回しにおける面白みは原理的に減じる。トーク番組などでも、その面白さは意味の部分で宿っているわけではなく、言い回し、表現の仕方、間の取り方などにかかっているわけですから。吹き替えで済むかと言えばそうではないでしょう。英語特有の表現というのがあるでしょうから、どのみち日本語にすれば楽しみきれない。もっとも、それはそれでいいんです。タランティーノのだらだら喋りって、その後の出来事のフリになると言うか、「ためてためてためてどーん!」の、「ためてためてためて」の部分に当たるわけです。RCサクセションの「雨上がりの夜空に」のメロディ部分みたいなもんです。わかる人だけわかってくれると思います。

 前半に登場したシドニー・ターミア・ポアチエというのは綺麗な人ですねえ。白人と黒人のハーフだそうですが、なるほど、上手い具合に白と黒が混ざるとこうなるのか、という感じの、正統派の美人です。ヴァネッサ・フェリルトという人は彼女ほど華はないですが、丁度いい感じの美人ですね。クラスにいたら一番もてるタイプじゃないでしょうか、ポアチエはなんか高嶺の花過ぎる感じもして、このフェリルトあたりが奥手な男子の気持ちをさらっていきそうです(何を言うとんねん)。

そして、だらだら喋りの後にびっくりが起こりましたね。ぼくは予備知識なしで観たので、単純に驚きました。カート・ラッセルが本性を現すときの言い回しが格好いい。悪役に言わせてみたい台詞です。それまでは、あれ? 今回はバイオレンス的なものがないのかな? と思わされるのですが、やはりそこはタランティーノでした。えげつないことをしましたね。それまでめっちゃ楽しくやっていたのに、突如です。あのシーンで眠気が見事に吹っ飛びました。

 その後、出てくる女性たちが替わり、グレードがかなり下がってしまいました。前半は綺麗どころがたくさんいたのに、綺麗どころと言えるのは一人だけです。しかもその人は途中から出てこず、おなすみたいな人と前髪を切りすぎている人とおばさんがメインになります。

 この後半、そして終わり方なんですけれども、ぼくとしてはなんか後味が悪かったです。映画としてはとても面白いんです。カーアクションもいいんです。でも、問題は結末なんです。ここからは完璧な、いつにもまして完璧な主観なのですが、カート・ラッセルが負けてしまうのが嫌だったんです。ぼくの頭がおかしいのでしょうか。今回の場合、あのラッセルに勝って終わってほしかった。そうでなくても相打ちにしてほしかったんです。

 カート・ラッセルは前半で、快楽殺人に踏み切るとんでもない悪人です。そして途中も悪事を働きます。だからあの終わり方は普通に考えて、勧善懲悪的カタルシスになる。にもかかわらず、ぼくは、あの殺人犯を応援してしまった。やはり頭がおかしいのかもしれません。銃で腕を撃たれてからは、何もいいところがありません。ぼくとしては、カート・ラッセルがあんな風に怯えて逃げ回りつつも、最後には「げへへ」と笑ってほしかったんです。そうでなくても、せめてあの女たちともどもどこかの崖から落ちるくらいしてほしかった。そのほうがすっきりして終われたんです。カート・ラッセルが勝っていれば、ぼくはこの映画、もっといいものとして受け止められたんです。我ながらおかしいとは思うんです。殺人犯が結局ぼこぼこにされる、それでいいはずなのに。ああ、ぼくの倫理観は変になっているのか。

 考えてみるに、あの女たちが好きになれなかったというか、カート・ラッセルのキャラクターのほうに愛着を感じてしまったというのはありますね。じゃあこれが逆に、前半のポアチエやフェリルトたちが後半の主人公であればどうだったか。なるほど、そう考えてみると、カート・ラッセルぼこぼこはすっきりした結末になりそうです。となると、ぼくのこの後味の悪さというのは要するに、女性の容姿の問題だったとも言えそうです。不細工な女たちに頑張られるのが嫌なのかもしれません。「おいおい、前半あれだけの上玉を出しといてあっけなく殺し、最後はブスが大活躍かよ」と、たとえばそんなゲスで下卑た感性の問題なのかもしれません。そうなるとこの映画はある意味で、ブス応援ムービーかもわかりません。ぼくはブスを応援していないので、すっきりしなかったのでしょう。思えばカート・ラッセルがあの女たちの車に体当たりしているとき、ぼくはカート・ラッセル側に感情移入していました。「落ちやがれこの野郎、けけけ」という気分でした。あれがポアチエやフェリルトであれば、「ああ、やめておくれよ、落ちちゃうよ」となっていたはずです。なんとも、ぼくの俗物性が露わにされた一本でありました。
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B級スプラッターものの中では出色ではないでしょうか。

 原題 THE EVIL DEAD
ぼくが観たDVDはどうやらカットされたシーンがあるらしく、アマゾンレビウでは評判がもう一つのようです。画質もVHSみたいで文句があるようですが、ぼくは画質に関しては特別気にはならなかったですね。というよりも、このタイプの映画であればある意味画質の悪さに味があります。やはりDVDだのブルーレイだのというこのご時世にして、VHS的な画質の悪さに味を感じることもあるんですな。そういえばちょっと前に行った黄金街のバーで、クソ映画とされるもののVHSを好んで観る、シネフィルっぽいおじさんに出会いました。中にはそういう人もいるようです。画質の向上がすべてではない、というのは確かにあります。考えてみるに、カラーよりも白黒のほうが味のある場合もあるわけで、それは懐古趣味とは別種のおもむきなのです。

この映画、あるいは80年代のスプラッタームービーの多くは、画質をある程度落としてある方が、安っぽさが浮き出ないんですね。鮮明に過ぎるとどうしてもアラが見えるから、これはこれでいいような気もします。『死霊のはらわた』は、五人の若者が山奥に遊びに出かけたら夜な夜な怨霊に出くわして云々という、古典的な設定です。友人や恋人が怨霊に取り憑かれてしまって、というタイプのものですね。そのくせ主人公だけは絶対に取り憑かれないのですが、まあそれはお約束です。

 ゾンビ系スプラッター映画、というと、実は一番好きなのが『28日後…』(2002)『28週後…』(2007)です(あれは正確にはゾンビ映画ではないですね)。それほど数を観ているわけではないのですが、シリーズ化された『サンゲリア』(1979)『バタリアン』(1985)などはあまり好きじゃない。現代ゾンビ映画像の嚆矢とされるジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)も、どうしても今更感が強いです。映画秘宝が一昨年だったかに、オールタイムベスト100の1位にあげていた『ゾンビ』(1978)はまだ観ていません。近所のビデオ屋にないのです。ある程度お金がかかり、なおかつ洗練されているよさというのはやはりあるのでして、『28日後…』などはその点とてもよかった。一方、3までできている『バイオハザード』は駄目ですね。ハリウッド的な駄目さが炸裂しています。

『死霊のはらわた』はよかったです。設定は目新しくないのですが、ちょいちょい面白い表現がありますね。たとえば一番最初に取り憑かれるシェリルですが、変貌後ずっと床下にいるときが面白いです。ガオーッとなりながら、床下から出られずに部屋の様子を覗いているのが面白いんです。恋人のリンダがへらへらしているときの、主人公との間合いもいいです。なんやねん、という感じが笑えます。ぼくが傾倒的に私淑している松本人志によれば、お笑いとホラーは紙一重。怖さと面白さのあやうい均衡が、この映画には散見されました。

 一方で、気合いを入れてスプラッターシーンをつくっているところはサム・ライミの才気が溢れています。血の感じもいいんです。この時代のものって、特に日本映画がそうなんですけれど、血糊がペンキっぽくなりがち。でもこの映画はちょっと違って、茶色っぽいんです。その色合いはいい感じでした。単純に赤くしていないところに小気味が利いています。特にラスト近く、取り憑かれた連中がぼろぼろに溶けていくときのクレイアニメみたいな表現も気持ち悪くていいですね。CGにはない、クレイアニメ的などろどろ感というのは、ぼくには新鮮でした。蟻のような虫が這い回るちょっとしたカットもいい味を醸しています。この辺はゾンビ映画隆盛の80年代において、競合の最中に生み出された表現という感じがしますね。

 今は何かにつけて配慮配慮ですからあれですけれど、この時代のものを観ると、とにかく無邪気に技術を追及していた感じがするんです。どうすればより怖くなるか、不気味に見えるか、気持ち悪く見えるか、というのを、多くの同業者たちがこぞって研究していたんだと思います。それはすごくいいことだと思うんです。CGでちょいとやれば(などというのは失礼ですが)どぎつい表現つくり放題で、一方観客への配慮を意識しつつつくりましょう、なんてやり方では絶対ないですもんね。作り手の頑張り方に惹かれるというのは、以前に紹介した『タワーリング・インフェルノ』と同じことです。だから、『スパイダーマン』シリーズは少し残念な感じもする。そっちに行ってくれるな、という気持ちですね。

『死霊のはらわた』は、ひとつのスプラッター系エンターテイメントとして良質だと思います。ストーリー的にはもう何の工夫もないのですが、古めのスプラッターものの中ではかなり好きな部類ですね。
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いやあ、他人の自意識ってのは、しゃらくさいもんですねえ。
 
 ブラウン管から映し出される2001年9月11日のニューヨークの映像を「美しい」と感じてしまった盗撮魔・長谷川と、解離してしまった自分をあきらめかけていたゴスロリ(ゴシック&ロリータ)少女・萌との間に起こった2002年8月15日から9月11日までの出来事を描く。
 覗くことで他者を発見し、自らのリアルに触れようとする長谷川とそのことに共鳴する萌は互いに共犯者となり、リアルを奪還する困難な闘いに挑んでいく。その闘いに、張りぼてのメディア世界の中で長谷川や萌のように壊れてしまった様々な人たち・・・ひきこもり、過労サラリーマン、風俗嬢、過食症の女・・・の断片的なエピソードが絡み合い、平坦な戦場としての日常が浮かび上がる。長谷川と萌の不器用なコミュニケーションと静かな内省が、同時代を生きる観る者に微かな希望を与える。(公式サイトより)

昨年2月にこのブログで紹介した『新しい神様』の監督が撮ったものです。ドキュメンタリーと思いきや、虚構的な作品でした。幾多の断片を繋いで繋いでつくられているのですが、これはこれで小気味の良い開かれ方です。制作費は三百万程度ということで、照明もゆるく、普通のデジカムで撮影したような映像なのですが、この撮り方を劇映画に持ち込んだらさぞ面白かろうという気はします。うん、こちらの方角に開かれた、本格的な劇映画を観てみたい感じはします。今回は断片の中にあれこれとメッセージ的なものやモノローグ的なものが入りまくっているのですが、それがちょっと鬱陶しくもありました。

 覗き、というのが映画の軸になっています。長谷川という男が盗撮を行ってネットで公開する。そのネットに映された人々の生の欠片がコラージュになり、作品の広がりを呼び込む。特典映像に宮台真司を交えた監督のトークショーがあって、宮台はこのようなことを言っています。
 自分の「存在」ではなく、「不在」を確認することの悦びや現実感を覗きは与えてくれる。つまらない日常のうちにあって、自分など存在してもしなくても同じじゃないかと考える人間にあっては、存在の証明よりも不在の証明のほうがリアリティを得られる。
 
 自分の不在、あるいはそれまで存在することが自明だった自己の放棄、という点で言うと、安部公房の『箱男』が思い出されます。ぼくはそちらのほうに潔さを見るのであって、この映画における変な自意識のくだりが鬱陶しかった。

 ちょいちょいモノローグを入れるんです。不在の証明どころか、だらだらと自分語りが炸裂している場面が多かった。あれが解せません。ぼくも前に別のブログをやっていたとき、だらだら自分語りをしている時期がありましたが、もう嫌になりました。だからこっぱずかしいんです、自分はどうのこうのというのがね。あのー、思春期っぽいなあという感じがします。自我ばっかり肥大している時期のにおいがぷんぷんしました。
 
だから作中のカップルのくだりは快活なんですね。アパートで同棲しているカップルの男が、911に絡めて世界情勢を語り、自分たちはどうあるべきかをあれこれ主張します。女はそれを疎ましく感じながら、男の饒舌を一言で喝破します。
「そんなことより、金返してよ」

この女の目線がぼくは好きです。しゃらくせえんだよ、という目線です。思えばこの映画に出てくるやつらはどいつもこいつもしゃらくさいです。しゃらくさい極致が、あのナゴミという女ですね。いや、映像表現としては新しいというか、まるでサウンドノベルのごとく日記の文面を映し出すあの方法は好感が持てる。ただその内実で、私の死がどうしたとか悦に入っているのがもう最高に最低にしゃらくさい。「うるさいうるさい」と言ってやりたいですね。あの思春期臭が大嫌いです。リストカットの傷跡なんかもちょいちょい出てくるんですが、ぼくはああいうものが大嫌いなのです。「手首を切っているあたし」みたいな、「動詞+一人称」のあの感じは辟易の極みなのです。

 それとこの映画は911のことを何かと挟んでくるのですが、本当に必要だったのか疑わしいです。覗きをめぐる物語に特化してほしかったです。911にリアリティを感じられずただの傍観者として観た者、という立場はわかるんです。でも、ぼくなどからすると、あの事件にこだわることそれ自体が既に違うというか。はっきり言ってしまうと、ぼくは傍観者以前の立場とでも言いますか、あの911に何事かを感じるということがほとんどまったくと言っていいほどないのです。あのー、やっぱり根本の部分で、アメリカなんか知らんがな、というのがあります。オバマの就任演説が日本でも大きく取りざたされたことについて、村上龍は「アメリカへの精神的奴隷状態」と述べました。関係ねえじゃん、と村上龍は言っており、これがぼくにはよくわかる。911について当時日本の識者マスコミがあれこれ言っていましたが、ぼくは不思議でした。いやいや、アメリカの事件だからさ、それより日本の国内政治のことをもっと語らないと行けないんじゃないの、状態でした。もっと言うと、やっぱりぼくは広島長崎の原爆の件を考えてしまうんですね。アメリカ謝ってねえじゃん、という感じ。あの国謝ってないのに、どうして911について日本があれこれ騒ぎ立てなきゃ行けないのさ、その辺がもう敗戦国マインドばりばりなんだよね、と思うんです。まさに占領は遂げられたなあという気がします。

 映画とは関係ないことについてあれこれ語ってしまいました。その意味で言うと観る価値はありそうです。観終わった後にあれこれと語りたくなる映画、ということは、それなりに何事かを感じさせてくれるものだということですから。
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 前二作の躍動感はどこへ消えたのでしょうか。

 先日『レザボア・ドッグス』(1992)を再見しました。『レザボア・ドッグス』のいいところはたくさんあるんですけど、冒頭からかなりつかんでくれますね。どうでもいい会話をだらだら流した後で主要キャストが格好良く裏通りを歩いて、その後すぐに流血のティム・ロスがぎゃあぎゃあわめいているシーンに繋げる。で、その後は会話劇が延々と続く。舞台劇でもやりやすそうなシンプルな設定で、会話にテンポがあり、なおかついつ銃声が響くかわからない緊張感もあって、不安定でありながら全体を通してきちんとまとまっています。内と外の使い分け、現在と過去の使い分けも巧みでした。

『ジャッキー・ブラウン』は『レザボア・ドッグス』、『パルプ・フィクション』(1994)に続くタランティーノの長編三作目です。前二作の後で言えば、それまでのタランティーノっぽさがぐんと薄まったというのは異論ないところでしょう。作風をがらりと変えて来よったな、という感じです。二時間半あるんですが、前二作のテンポを踏襲すれば二時間、あるいは一時間半強でまとまるような話じゃないでしょうか。時間軸やシーンをずらす面白みは減じています。同じシーンをいくつも視点から切り取るなど時間軸の遊びはあるんですけれども、テンポ的な面白さがあまりないんです。どうでもいい会話の面白さも減じていました。お、これはタランティーノならでは! というわかりやすい魅力がなくなっていて、ハラハラ感もないんです。ああ、このシーンはきっと何も起こらないなあ、というところではやっぱり何も起こらない。いや、最初のほうの、オデールのボーエン殺しとか、結構期待を持たせるんです。ああ、油断ならんぞ、というね。でも、二時間半あるわりには途中だらだらしました。

 それでも前半を観ている間は、「ここまでをあえて抑え気味にして、クライマックスで爆発してくれるのだろう」と思っていたのですが、それも別になかった。金の受け渡しもなんだかキレがありませんでした。金の受け渡しを一回目、二回目とやるのですが、一回目は要らなかった気がして仕方ありません。とにかくロバート・フォスター扮するマックスが面白くないんです。サミュエル・L・ジャクソンもパム・グリアもいいんですよ。デ・ニーロもいいし、ブリジットフォンダもいい。ブリジットフォンダはこの映画公開当時で33歳くらいと知って驚きました。女子高生役でもまったく違和感ないくらいで、うざい少女というのがよく出ていて圧巻です。なのに、ロバート・フォスターのマックスがもう何も面白くない。このキャラクターが出ると見事にテンポが死にます。ああ、結局こいつは最後まで何もしないだろうなあ、と思っていたら本当に何もしなかった。ジャッキーブラウンに言われたことをやっているだけです。主体性がゼロです。このポジションは必要だったんでしょうか。

前二作にしても『キル・ビル』(2003)にしても、やりたい放題やっているんです。タランティーノはそれがいいんです。ああ、こいつ好き放題やっとるなあ、というのが観ていて面白いんです。『ジャッキー・ブラウン』なんかも、デビューからの二作を観て映画館に行った観客はそのやりたい放題が観たかったんだと思う。なのに、妙に抑制しています。抑制して時間をかけて、そのくせ話の切れ味はよくない。やっぱり、二時間半では長すぎる作品だと思います。
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