<   2009年 03月 ( 19 )   > この月の画像一覧

圧倒されるばかりで味わい切れていません。ぼくの許容力不足を感じさせられる圧倒的な作品です。
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 ペキンパーへの名声はもの知らぬぼくの耳にも前々から轟いていたのですが、なかなか観ずにおりまして、やっとこさペキンパー初体験であります。

 ツタヤディスカスで借りたDVDはレコードのA面、B面よろしく両面式になっていました。このタイプのDVDをぼくは初めて目にしました。収録映像は特典含め177分ですが、片面では収まらなかったのでしょうか。物語途中で一度切れてしまうので、そこはやや残念。物語自体は二時間半に満たないので片側にまとめて欲しかった。まあそうすると、特典映像の存在に気づかれない可能性が高いので、やむを得ぬといったところでしょうか。

 作品自体は、あと何度か見返したいなあと思わせる代物でありました。ぼくはまだこの映画のよさを十分に味わい切れていない気がします。違う言い方をすると、この作品から発されるエネルギーを受け止め切れていないというか。こういう感覚はなかなかあるものではありません。

「最後の西部劇」とも評される本作品は1913年のアメリカ、メキシコが舞台となっています。強盗団と、彼らを捕まえれば無罪放免にすると言われている犯罪者たちと、それからメキシコの政府軍などが織りなす物語で、強盗団の逃走劇、彼らと政府軍とのやりとりなどが大変に高濃度で活写されています。

 先日観た『プライベートライアン』もそうだったように、本作も序盤、終盤に銃撃戦が展開しますが、こちらの描写は『プライベートライアン』ともまた違うすさまじさを帯びていました。簡単に言うと、銃撃戦を観ている間、まったく情報を整理できないんです。一秒、もしくは半秒に満たないカットを怒濤のごとく重ねており、何が起こっているのかを捉える間にすぐ次の、あるいは次の次のカットに移るため、観ている間、起こっている出来事を意味に変換できない。「あっ、誰々がやられたぞ」とかそのように捉えられるのは後になってからで、その瞬間はただ場面展開を追うのがやっとなのです。観る側はただ無心で釘付けにされるのであり、これこそがまさに「圧倒的な」映像描写と呼ぶべきものでしょう。人は普通、ものを知覚し、知覚したものを理解するというプロセスを経てそのものを捉えるわけですが、この映画はその余裕を与えないんです。状況が理解できるのは、すべてが終わった後になってからで、観ている間はただ呆然と観続けるほかない。こういうのもやはり映像の強みですね。意味や理解を経ないままに観客にぶつけるというのは文章には不可能です。

 ぼくにとって最高に印象的だったのはしかし、あの銃撃戦ではありません。最後、主人公の強盗団が捉えられた仲間を助けに行くのですが、このとき目の前で、敵のドンによってその仲間が殺されてしまいます。すると反射的に主人公たちがそのドンを撃つのですが、その直後の間。この間はもう映画史に燦然と輝く間と言っていいでしょう。以前、ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』でも良質な間に出会いましたが、それよりもずっと上。これほどに豊かなる間をぼくは他に知りません。主人公の周りには敵の軍隊が控えているのですが、この場にいる誰もが、何が起こったのかわからなくなっているんです。まさかドンが殺されるとは、という驚きで皆が自失するあの一瞬、そして、後に撮られる『ポセイドン・アドベンチャー』でも好演したアーネスト・ボーグナインの薄笑い。おい、もう取り返しがつかねえぞ、というあの薄笑い。この後で銃撃戦に突入します。あっぱれ。

 そうした点でなるほどこれはすさまじい映画であります。
 そのほか印象深いところとして、このロケーションが素晴らしいところです。メキシコの村やアグア・ベルデはファンタジーの世界にも見えました。猥雑さとファンタジーが同居しているあのロケーションは不思議です。荒野の場面のよさは言うまでもないところです。この映画はサービス精神がありますね。活劇を盛り上げるための策をあれこれと練っており、機関車乗っ取りのシーンや橋の爆破場面等々、悦をもたらすスペクタクルをつくっています。

それとやはり、これは時代的な演出なのですね。人々を重く描きすぎていません。囚われのエンジェルがもうめちゃくちゃな目にあうのですが、このときも決してしっとりさせず、きわめて冷徹な距離感を置いており、湿っぽいBGMなどなく、流れているのは盛りの囃子です。ただその分、人々の関係性がもうひとつわからないところもありました。一人汚いじじいがいるのですが、このじじいが糞をしようとしたとき、ずっと同行してきた仲間が火のついたダイナマイトを投げます。じじいが気づいたからよかったものの、あれは冗談にならない。ちょっと場所が悪ければ死んでしまいます。え、何してんの、と思った場面です。このじじいはじじいで、最後別の連中と合流して終わるのですが、主人公たちの死には何の感慨も抱いていない様子です。嫌われていたにしても、アーネスト・ボーグナインやウィリアム・ホールデンには別に嫌われていなかった様子だし、もうちょっとなんかあるんちゃうんけ、というのはあります。それとも、それすらも描かない冷たさやハードボイルドさ、ということなのでしょうか。
 説明が足りていない感じもします。マパッチ将軍が偉いのはわかるのだけれど、どれくらいの軍勢を持っているのか、どれくらい強大な組織なのか、あるいは小さいものにすぎないのか、もうひとつよくわからなかった。言うとすればその辺でしょうか。

 先にも述べたように、ぼくはまだ完璧に味わい切れていない感じがします。ただ圧倒されるばかりの一度目の出会いといったところです。なので、多分、この先何度か観ることがあると思いますね。観るたびに発見のありそうな映画です。
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シーンによっては趣を感じるのですが、全体を通すと印象強くはなかったです。
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振り返るにぼくはイタリア映画というのをこれまでほとんど観てきていません。なぜでしょうか。気づくと手に取っているのはアメリカ映画で、これはまあ近所のビデオ屋にヨーロッパのものが少なすぎる、洋画と言えばアメリカ映画ばかり、というのも要因なのですけれど、イタリア映画にはそこまで惹かれないというのも事実です。それでも強烈なものはあって、パゾリーニの『ソドムの市』(1975)、グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』(1962)などが(これはイタリア映画と呼んでいいのでしょうか)そうですね。グロテスクさや異常さに傾かない映画で言えばイタリア映画で一番好きなのがロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』(1998)。ことほどさように、ぼくのイタリア映画への造詣はきわめて浅いのであります。

 さて今回の『道』ですが、世界的に高い評価を受けているようですけれども、ぼくとしてはもうひとつ印象に残りにくい作品でした。先々に振り返るとき、ああそういえば昔観たな、くらいの感じになりそうです。フェリーニは最も思い出深い作品と語っているようなのですが。

 ジェルソミーナという女性が大道芸人であるザンパノという男に買われ、その道中の二人の生活を追った物語なのですが、このザンパノは魅力的です。やさぐれた無頼漢っぽさが出ていていいのですが、ジェルソミーナはあまり面白くない。監督のフェリーニの奥さんらしいのですが、この人の味わいがもっと伝わってくれば印象も違ったように思われます。二人の対比を形作る上で、うーん、もうひと味、というのがぼくの感じ。淀川長治は「頭のいかれた女の子」と形容していますが、まあ頭が弱いということですね、その頭の弱さをもっと観たかった。そうするとザンパノとの対比がさらに色濃くなるのですが。
 
 最も印象的で、かつ優れた感じを受けるシーンは、ザンパノが一人の男を打ち殺してしまうシーンです。ザンパノに殴打され、男は車に後頭部をぶつけてしまう。この後男はよろめき、「時計が壊れてしまった」と呟き、数歩進んだ後路上に倒れ、そのまま死んでしまいます。よくある演出なのでしょうか、それともぼくが今まで見過ごしてきたのでしょうか、この演出は見事でした。映画、あるいはドラマを含めてもいいですが、それらの多くは後頭部をぶつけた瞬間に死なせてしまいます。でもこの映画は違っており、死ぬまでにしばらく間があるんです。実につまらなそうに、「時計が壊れてしまった」と呟かせたあのシーンはとても新鮮だった。ああすることで、虚しさがあの瞬間にぎゅっとこもる。格闘と殴打、そこからすぐに死に繋げると衝撃的である分、間が埋まってしまう。この映画はそれを回避しており、実にゆっくりとしたテンポで死に向かわせます。これは素晴らしかった。

 他にも、ちょっと違和感のある、それでも演出の時代性を感じさせる場面がありました。ザンパノとジェルソミーナがある修道院に泊まるのですが、このときザンパノは夜な夜な、修道院の持ち物である銀のハートを盗もうとします。ジェルソミーナがそれを阻むのですが、編集によって結局どうなったのかわからないまま夜が明け、二人は修道院を去ります。現代っ子のぼくとしては、このシーンを観ると、結局盗んだのかどうかを明かして欲しいと思ってしまうし、あるいは盗んだことを何かのエピソードで知らせて欲しいと思うのですが、この後銀のハートを盗んだのかどうかの答えが出ていないんです。伏線の意図的な非回収。これは温故知新と言いますか、なるほどそれはそれでありなのやもしれぬと考えさせられました。物語的な思考に染まると、事件=伏線という構図をつい描いてしまうけれど、伏線という考え方自体がひとつの偏りとも言えるのであり、形によってはエピソードを放り出すのも、そして放り出し続けることでその事件の残滓を人々のうちに漂わせ、その人物のありようを滲ませる手段なのかもしれない、とそんなことを考えました。意味がわからなければすみません。

 ストーリー的な味わいで言うと、ぼくはジェルソミーナに惹かれなかったために、最後のシーンにも感動を覚えられなかったですね。それと細かいことですが、ザンパノの大道芸があれだけというのもちょっと弱いです。もうひとつふたつ、何か欲しい。鎖を体でちぎる、というのだけではどうも。

 いい、という人がいるのはわかります。瑕疵のある作品では全くないので、これはもう、みもふたもないのですが、好みの問題でありましょう。
 
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ジョディのアイドル映画。
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最近は訳もなく大作を続けて観ています。今回の『コンタクト』はウィキによると制作費9千万ドル。9千万ドルかけての大作ですが、ぼくはこの映画、ジョディ・フォスターのアイドル映画のように思うのですね。

 2時間半の間、ずっとジョディ・フォスターが出ています。とりたてて好きな女優ではないので、あれだけ出続けていると辟易します。彼女のための映画みたいにも思える。当然にして彼女の役柄は真っ直ぐで実直で研究熱心でという設定になっていますから、そんなに面白くもない。なんだかなあ、というのが正直なところです。一人の人物を追い続ける作品が悪いのではもちろんありません。ただこの映画の場合、それなりに大規模な設定を施し、大金を賭けてできた大作なのですから、彼女でずっぱりにされてもなあということであって、しかも彼女が特別なのはただ終盤で特殊な経験をするところだけであり、その意味で言うと描き方が面白くないです。

 宇宙人から設計図が送られ、それをもとに特殊な装置の建造が始まります。一人の人物の手によってそれが破壊され、大爆発するのですが、それまでの部分はずっと安穏としていて、違う言い方だと退屈。というのは、このジョディ・フォスターの役柄をどうも好きになれない、というのがあるんですね。

 宇宙との交信をしたいのにそのための予算が打ち切られる、となり、その決定をしたドラムリンという人物のところに抗議しに行くのですが、そのときの台詞が引っかかった。税金で仕事をしているのだから役に立つ活動をしないと駄目なのだ、とドラムリンが説明し、それがなるほど道理の通ったものなのですが、このジョディ扮するエリーは感情的に、「だから何よ! この研究は私の人生なのよ!」みたいなことを言うんです。もうこの時点でぼくはこいつが嫌いです。おまえの人生なんか知らんがな、ということですから。そこは嘘でも虚勢でも、その研究がどれほど有意義なのかをちゃんと説明しなくちゃ行けないでしょう。それを「私の人生」などと言って怒って立ち去る。バカ女です。

 その後ドラムリンが邪魔だなあみたいになるんですが、このエリーってどうもぼくからすると純粋に宇宙の研究をしたい、交信をしたい人間に見えないんです。宇宙との交信ができたぞとなって、マスコミが詰めかける記者会見のシーンがありますが、このとき研究の中心人物だったエリーをさしおいて、ドラムリンが舞台に立ちます。これをエリーは不服そうにしている。ジョディ・フォスターとしては自然な態度ですが、エリーの態度としては引っかかる。彼女は科学者で研究、交信をするのが目的のはずなのだから、別にあそこで自分が目立つ必要はないのであって、こうなるとこのエリーという女をやはり好きになれない。あの場合、エリーの味方の誰かが不服そうにしていてもエリーは気にしていない、くらいの描き方にすべきじゃないでしょうか。そうしないと二時間半出続けるこの女を応援する気持ちになりにくいんです。

 映画について言うと、宇宙との交信を進めていく中で科学と宗教の対立図式が描かれていて、それが物語の要所を担っているのですが、なぜ宗教側があのプロジェクトで科学を敵視するのかがぼくにはよくわかりません。神の領域的なことなんでしょうか。

 映画と離れてしまいますが、ぼくはこの「神の領域」なる表現がわかりません。クローン技術で人間をつくりだすことができる、というものに対し、それは神を冒涜するもので云々と批判されたりしますが、ぼくからすると、「神への冒涜だ!」みたいなことを言うほうが神を冒涜している気がする。神が人間を生み出したのだとして、神は超越的な存在なのでしょう? だったら神は、人間がクローン技術を生み出すことくらい織り込み済みじゃないですか? 人間が技術の発展で新たなことができるようになったところで、神の領域になんて踏み込めないと思うんです。人間が何かを行ってもそれは全て神の掌の上にあると考えなければ、本当の意味で神の超越性を信じることにならないと思うんです。

 話がそれました。そう考えることもあって、なぜこの映画での宇宙との交信が宗教者の怒りに触れるのか、よくわからなかった。別に神に会うと言っているんじゃないんです。地球外生命体に会うと言っているだけなんですが。
 
 恋愛パートもいらんなあと思う。あれこそジョディへの接待みたいな感じがぷんぷんします。この映画で恋愛パートは重要じゃないです。研究や宇宙との交信という方向と何も関係がないし、むしろもっと周囲の技術者たちを重く描いて欲しいです。ジョディ本人か、もしくは事務所が押したんでしょう。「恋愛のシーンを入れてくれ」と。それがなければもっと短くて濃度のある話になったのに。

 映画として面白かったのは、散々待たされた後やっとの、あのトリップシーンです。
 ただ、ここでもやっぱりジョディ大写しです。いい加減にして欲しいです。あのトリップシーンなら、それこそ『2001年宇宙の旅』的に、トリップのうねりを全画面で映せばいい。9千万ドルも使っているのであり、キューブリックの頃から30年経っているのだから、観客に魅惑を与える映像だってもっと魅せられる。それなのにこの映画はトリップの様子の傍にジョディの頭部を映すものだから、映像的に面白くない。なおかつ彼女の目線に同化できないので、結局は彼女への移入を阻害している。あのトリップがこの映画における映像的魅力を一番伝えられるシーンだった。なのにもかかわらず、「頑張るジョディ」ばかり映している。何をやっているのか。

 浜辺のシーンは画として面白いです。嘘みたいに綺麗な浜辺で、あのシーンは特殊だった。あれをもっと活用すれば映画的なスペクタクルが花開いたんですが、このときもやっぱり…。

 ここ最近大作を観続けていますが、どうも「もったいない」と感じることが多い。映画はバランスが大切です。この映画のバランスはよくないと思います。もっとこうすれば、とずぶの素人のぼくが思うのですから、映画作家たちはもっと思うんじゃないでしょうか。それともこれは素人ゆえの愚見に過ぎず、あれで正しいのでしょうか。それでもやはりこの映画は「ジョディ過ぎ」ます。ジョディ大好きのあなたにははお薦めです。まあ、そんな人はとっくのとうに観ているわけですから、じゃあ誰にこの映画をお薦めましょうか。
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完全版でなければもっと楽しめたと思います。
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ぼくの借りたDVDは劇場公開版とは別の完全版で、公開版より30分長い170分のものでした。ファンには嬉しい仕様かもわかりませんが、ぼくには長かった。公開版の長さの方がいいです。

 海底の石油採掘チームが沈没した原子力潜水艦の調査に乗り出し、その過程で未知の存在に遭遇するというようなお話です。調査に同行した特殊部隊の人間との諍いや採掘基地に降りかかる危機的状況が長尺の物語を支えます。

場面としては採掘基地内と海底の水中シーンが交互に織りなされるつくりで、これはそれぞれのシーンの持ち味が活かされています。採掘基地内の逼迫した素早い動きと、水中シーンの大がかりな、それでいて必然的にスローな動きが対比されています。ただ、物語のテンポがやはり生きてこない。完全版というのはカットシーンがない分、情報も詰め込めるし撮ったシーンもたくさん入るので好きな人には嬉しいでしょうが、初めて観るぼくとしてはテンポのほうが気になった。編集によってテンポを高める、ということができなくなるので、そこが難点でした。

 魅せるシーンは魅せてくれます。主人公の夫婦の二人はよくて、夫のバッドが妻リンジーを蘇生させる場面はほろりときました。その前のキャブ内における危機感もいいですし、その前のキャブ同士の格闘シーンもよかったです。

 ただ願わくば、整合性を取って欲しかった。特殊部隊の隊長の乗るキャブが海底に沈み、キャブは水圧に負けて崩壊してしまうのですが、その後主人公バッドが潜水服でさらに深く進むシーンでは水圧に耐えている。それでも身体が異常を来し、意識が朦朧としてくるのですが、なぜかさらに深いところで大丈夫な状態に戻っている。よくわかりません。あの場面でリンジーが思い出話みたいなのをするのもちょっとくさいです。そんな場合ちゃうやろ、と言いたくなります。

 海底深く進んだバッドは未知の生物に出会うのですが、この面白みは微妙なところであります。前半でリンジーが出会うのですが、これは面白い。小さいのが来て、その後とてつもなくでかいのが来たときのカットは非常に愉快でした。ただ終盤、バッドがそれに出会うくだりはちょっとファンタジー臭が強すぎた気がします。手を繋いで進んでいくところなんかで特にそう感じました。それまで採掘基地の浸水シーンがあったり、特殊部隊隊長との対立、格闘があったりした後であれを観るとなんだか醒めます。津波のシーンなんかもちょっとバカ映画っぽいんです。米ソ対立や原子力潜水艦、核爆弾などを出しつつ、「人類が自滅の道を進もうとしているからそれをやめさせようとした」みたいな話になるのですが、どうにもそのメッセージ性が率直すぎます。劇中におけるあの生物は暗い深海に比して輝いていますが、存在としてもっと輝きが欲しかった。観終えて残る印象として、この生物があまり面白くないんですね。

 もっとも、これは劇場公開版を観ていれば違う印象だったかも知れません。完全版にした分、丁寧ではあるがテンポの妙味が減じたという点では、少し残念でした。テンポの大切さを学ぶ機会となりました。
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戦闘シーンは完璧。だけど物語が…。
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こういう大作をぼくは結構見落としてきています。今まで触れる機会があったはずなのに、観てこなかったんですね。まあ、映画をきちんと観るようになってから触れることができたのは、幸福と言えばそうでしょう。

 本作は戦争ものの中でも、その戦闘シーンの白熱ぶりに評価が高い作品で、怒濤のごときそれらのシーンの濃度は時間を忘れて引き込ませるものであり、なるほどすさまじいものでありましたが、映画として心に残るものかというとそうでもなく、ではそれは何故なのだろう、というのを少し考えてみたいと思います。

 本作はノルマンディー上陸作戦に参加した一部隊が、ジェームズ・ライアンという兵卒を捜し出すのが主軸となっています(原題は『Saving Private Ryan』)。ライアンは五人兄弟の一人で、他の兄弟が皆同大戦で戦死を遂げており、それでは故郷の親が悲しむだろうとの配慮から国が救出を指示、トム・ハンクス扮するミラー大尉の部隊がどこにいるかわからない彼を捜しに行くという話です。

 映画は三時間近くありますが、これを序盤・中盤・終盤と分けたときに、序盤・終盤のシーン、つまり大規模な戦闘シーンは圧巻でした。ここは確かにすごいのです。中盤では部隊のライアン捜索の旅が描かれますが、ここはいろいろな描き方ができるところです。
 
部隊に8人の隊員がいるのですが、彼らの描かれ方はもっと味わい深くできたようにも思われます。3時間近い映画の中で、あの人々の個性というか、生き様というか、そうしたものがもうひとつ伝わってこなかったのが本音です。この8人でなくてはならない、というのがないんです。だから、ああ、あいつがやられてしまったのか、というのもなくて、隊員たちが死を嘆いてももうひとつぐっとこない。中盤を魅せる山場としてはそこですよね。3時間引っ張り続けるために、死んで欲しくない人物が死ぬと、物語に綾ができる。そこで物語に喪失感が生まれ、それでも突き進まねばならぬ苦難が浮き出てくる。ところがこの映画の隊員にはあまり魅力がない。せっかく大隊を離れてはっきりと小隊になり、ここの人間模様なり何なりをわかりやすく描けるのにあまりそれをしていない。そこはどうしてなのだろうかと疑問ですね。小隊編成にするなら、それをしなくちゃいけないんじゃないでしょうか。大隊なら別なんですが、道中の苦境があまり立体的ではなかった。せっかく台詞で「brotherhood」と出てくるのに、あまりbrotherhoodが浮き上がってこない。

 ライアンを後半までずっと出さない、というのは明確な選択です。タイトルにもなっているくらいだから、監督が違えば序盤で多少なりとも顔を見せることをするでしょう。トム・ハンクス側とマット・デイモンのライアン側の二つで並行的な構成にすることもできたわけですが、この映画はその道を選択しませんでした。デイモン側を描いておくと、いざ両者が出会ったときに面白みが生まれます。テレビ番組『電波少年』のスペシャル版、『電波少年インターナショナル』における「キャイ~ンのおつかい」はまさにそれで、両者が出会おうとしてなかなか出会えず、ついに片方のカメラがもう片方を捉えたとき、「あっ、見つけたぞ今!」という驚きと悦びが視聴者にも伝わった。この映画はその道を回避した。であるならば余計に、中盤が物語における最も重要なシークエンスとなるはずで、だからこそ中盤の描き方がぼくはとても気になりました。

 完璧にトム・ハンクス側の部隊で進んでいるものだから、マット・デイモンにちっとも思い入れが沸かない。さらにまずいことに、映画の冒頭とラスト、あの場面ではマット・デイモンに老け役をさせるでもなく、見知らぬ老人をライアンの老いた姿として出している。どうしてあんな選択をしたのか。ぼくにはよくわからないんです。選択としてベストな道を進んでいるように思えない。いや、狙いはわからないでもない。あの誰だかわからない老人をスタートで出して、その後すぐにトム・ハンクスを出す。あれによってあの老人がトム・ハンクスの老後だと思わせることができる。すると何が起こるかというと、物語のラスト、トム・ハンクスの死が予期せぬものとして映り、観客は驚き、ああ、あの老人はマット・デイモンのライアンだったのか、という驚きになる。これを狙うなら無論、マット・デイモンの老け役はありえない。しかしそんな狙いであればこの映画には不要の目論見と言わざるを得ず、だとすればどうしてあの選択をしたのかぼくにはわからなくなります。

 戦闘シーンは確かにすごい。でも、物語的な効果として、変な選択ばかりしている気がしてなりません。マット・デイモンのライアンに思い入れを感じさせないようにしたい、ということなら、その願いはわかる。実際自分があの捜索部隊として出かけたら、「誰やねん、なんでそんなやつを探さなあかんねん」となるでしょうし、実際見つけても思い入れはわかないでしょう。それよりも、死んでいった仲間のことばかりが思い出されてならない、とこうなるでしょう。そうなれば観客の気持ちに振り子ができるし、そうなれば効果的です。でも、先述したとおり、この映画の小隊の面々はあまり魅力的ではない。だから死んでいった者への哀しみが沸きにくい。語り方として、やはりぼくにはベストとは思えない。

とまあ、この映画への不満はそういったところです。うん、人物の描き方がもうひとつ弱いなあというのはどうしてもあります。アパムの弱さはもっと濃厚に描けたんじゃないかなあというのを感じていて、彼の弱さによって人が死ぬんですが、そこもあまりアパムに腹が立ってこないし、恐怖も伝わってこない。

 戦闘シーンはすごいんです。だからこそもったいない感じがする。前回の『新幹線大爆破』と同じで、いいところはすごくいいのに、悪いところが見えてくるから、結局全体として傑作とは呼びがたい。このシーンはあまり何も起こらないだろうなあ、というところでやっぱり何も起こらないと、緊張しないんですね。マット・デイモンを見つけたときくらいですよ、驚きがあるのは。あとはそうでもないなあ。煉瓦が崩れて敵と対峙したときも、もうひとつ驚きが弱かった。何でしょうね。戦闘シーンは百点なんだから、もっと物語に力入れてくれよ、と強く言いたい作品でした。
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リアルにしたいのかしたくないのか。作品内でその点に大きな分裂があるため、久々の辛口モードです。
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 一定速度以下になると爆発する爆弾が新幹線に仕掛けられ、犯人が解除方法の伝授と引き替えに大金を要求するという設定の話で、犯人と警察・国鉄の駆け引き、当の新幹線のパニックが見所となる作品です。

 今日現在のウィキによると、
「当時のオールスター揃い踏みの豪華キャストが話題になった(東映の専属スターのみならず、いわゆる“東映色”の薄い俳優陣も数多く揃った)と同時に、それまで仁侠映画・実録ヤクザ映画を数多く手がけてきた東映が、その路線とイメージからの脱却を図るべく、当時の洋画におけるトレンドであったパニック系アクションの制作に乗り出した第一作目ということもあり、業界からも注目を集めた。しかし、国鉄から撮影(ロケ)の協力が思うように得られず、制作が2ヶ月ほど遅れ、映画の完成は封切の2日前だった。そのため試写会もなく、宣伝も行き届かなかった。(中略)1980年代以降、同作品のレンタルビデオやテレビ放映がされるにつれ徐々に再評価されるようになり、今日に至ってもなお多くのファンを魅了している。1998年には当時の資料や対談などを内ジャケットやライナーノーツに掲載した2枚組レーザーディスクも発売されている。2001年、東映50周年記念を機にDVDソフト化希望の映画タイトルを投票により募集したところ、3位にランキングされ、翌年DVD化されて発売された。DVD化により公開当時の直接世代とは言えない1970 - 1980年代生まれの世代にも一気に認知度が高まり、『太陽を盗んだ男』と並んでカルトとも呼べる熱烈なファン層も存在している。」
とのことです。同年代のパニック系アクションではアメリカにすごい作品がありました。日本でもパニック系ではないですが1977年、『新幹線大爆破』と同じ高倉健主演の『八甲田山』があり、その辺の関連のために期待を高めて観ました。

 傑作との呼び声もある本作ですが、ちょっと脚本がお粗末でした。

 止まれぬ新幹線が走り続け、他の電車との衝突を回避しながらなんとか解決の道を探る、という筋立てなのですが、鉄道のダイヤがかくも精密であるのに対し、この映画の脚本はかなり粗いです。重大な突っ込みどころが多く、緻密な鉄道運行や組織的な人々の動きというものが鍵となる本作においては、いささか看過し得ぬような奇怪な点が数多くありました。

 これはこの映画においてきわめて重大な問題と思われます。というのは、犯人と警察の一進一退の攻防が見物であるこの作品の場合、そのやりとりが緊迫したものでなければ2時間半の視聴に耐えるものではなく、なおかつその動きは説得的なものであるべきです。
 そのくせこの映画の組織の動きは、「駄目な警察の描写」をしているにしてもあまりにもやり過ぎている感が強く、終盤ではありえないような展開が起きる。ぼくはリアリティなるものについて、根本ではどうでもいいと感じているのですが、この映画の描き方に則るならばリアリティは必要になる。あくまでも現実の人間の動きを刻々と描いており、警察組織、国鉄、犯人の真摯なやりとりがそこに展開しているわけですから、リアリティはむしろ武器にするべきもので、リアリティが欠けているのはちょっとまずいと思うのです。

 その中でも重大なものをあげると(たくさんあるのですが)、あの喫茶店の描写です。犯人の高倉健に対し警察は爆弾の図面を要求します。高倉健は「喫茶店においてある」というのですが、ここが異常なまでに唐突かつ不思議。喫茶店に図面を置いた描写はなく、しかも客が立ち去った後の席にあんなに目立つ形で大きな封筒が置き去りにされているのは妙で、まあそれは許すにしても、なんとその後警察が駆けつけたとき、喫茶店は火災炎上しているのです。ぼくはてっきり山本圭が何かしらの動きを見せたのだろうと思ったのですが、そうではなかった。じゃあなぜあんな火災が起きたのか。あれはあまりにもいただけません。本当に唐突なのです。それ以前の場面でも、犯人一味の山本圭を警察が追う際の動きがあまりにも杜撰であり、それより前の渓谷の柔道部のくだりもおかしく、これでは警察と犯人の熱戦がちっとも説得的ではない。それがこの作品の肝でしょう。何をやっているのか。

 一番気になったのは国鉄職員の宇津井健がテレビを通じて犯人に呼びかける場面。爆弾が解除された後もあの呼びかけがテレビで続けられている。それはあり得ないでしょう。記者の一団を同乗させている点も踏まえ、当然マスコミが現場に詰めかけて報道しているはずで、あんな風にテレビで呼びかけが続くというのがあり得ず、一連の流れを考えても警察の動きとしてちっとも合理的ではない。あんな演出をされてはどうしようもない。シリアスな展開や犯人の哀しい過去などを描きながら、一方できわめてリアリティのない演出を施す。どうしたいのか。この映画をどう観ればいいのか。やっていることは真剣そのものなのに、悪いけれど脚本がバカ映画そのもの。

細かいところを言い出せばきりがないですが、新幹線に爆弾を仕掛ける描写がないのが妙で、車両清掃員になって仕掛けたと言いますが、どうやって清掃員があの位置に仕掛けるのか。犯人の一人を工事現場作業員に設定しており、傍には爆弾の仕掛けをつくれるような高倉健がいるのだから、整備士か何かになることにするほうが説得的じゃないですか、あの位置に爆弾を仕掛けるなら。また、警察は「爆弾の図面」を要求するのですが、なぜ「図面」を要求するのか。位置を知らせろというべきであり、しかも結局「図面」がわからないまま簡単に爆弾のコードを切っている。乗客の描写も平凡。せっかくあれだけの乗客がいるのだから、2時間半のどこかで、「爆弾がないか観客がそこかしこを探し回る」みたいな描写をつくったり、あるいはスターみたいな人を同乗させたのだからその周辺の話をつくったり、危機的状況下の人間模様を描いてみたり、いくらでもあるじゃないですか。そうすれば観客のパニックがより伝わるはずなのに、これじゃあ悪いけれどパニックものではないです。前年にアメリカでつくられたあの作品と同じ呼称では呼べません。だから車内の限定空間性が醸成されないし、車内と外の対比のテンポも生まれない。車内の模様、外の模様、車内の模様、外の模様、でテンポを織りなせばいいのに、かなり車内の動きが置き去りにされていました。

 序盤はそれなりに期待させるんです。でも、あまりにもおかしい箇所が散見されるので、全体としての印象が相当悪くなっています。それなりに魅せはするし、退屈な映画というわけでもない。だから面白いという人がいるのもわかります。ただ、役者、素材がいいだけに描き方、脚本の部分でかなりもったいない。まあ、「面白ければ何でもいい」がぼくの根本なので、これを面白いという人がいたらもうそれでいいとは思います。でも、ちょっと突っ込みどころが多すぎやしないかと感じられ、その点が大きくマイナスでした。
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毎年つくって毎回このレベルに持って行くのは、すごいことだとぼくは思います。 
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 この『SAW』シリーズが大好きでありまして、今回で五作目ときりもよいため、DVD-BOXを購入しました。4は去年買ったのでだぶっています。欲しい人はあげます(4だけもらってもどうしようもないですね)。
 
 さて、今回で五作目を迎えるこのシリーズは2004年の第一作目以来、毎年のペースでつくられています。シリーズものでハイペースでつくられる映画は史上多くあります。世界的に有名なもので言うと『007』シリーズがありますね。日本においては『座頭市』、『男はつらいよ』などが有名で、今も『釣りバカ日誌』シリーズは毎年つくられています。
ホラー系では『13日の金曜日』が最も有名でしょうか。シリーズものをすべて観る、ほど惚れた作品はぼくの場合、今のところ『SAW』だけです。やはりリアルタイムで第一作の出現に出会ったことが大きいと思います。

『SAW』は一作目がジェームズ・ワン監督で(その後全作品で製作総指揮)、その後の2、3、4がダーレン・リン・バウズマン、そして今回の5はこれまで美術デザイン担当だったデヴィット・ハックルという人が監督です。4までの傑作度で言うと、1が一番いいという人が多いようですが、ぼくは2が一番だと思っています。1は初めての作品ですから観客の期待値もさほど高くなかったけれど、2は1の出来がよかったためハードルが上がった。今回はどんなオチなのだ? と注目が集まるところで、あの、ミステリーで言うところの叙述トリック(語りの内容ではなく、語りの形式で観客を欺くトリック)を用いていたのがぼくには驚きで、まあ叙述トリックなるものをちいとも知らぬものでしたから、余計に衝撃が大きかったのです。ダーレン・リン・バウズマンはやってくれる人かと期待した3、4は1、2に比べればやや劣りますね。残虐さ、見た目のグロテスクさに重きが置かれた感があり、構造的な面白さは減じてしまった。

 ただ、4までの『SAW』シリーズが好ましいのは、一貫してなんらかのオチをつくろうと努力している点です。そこにちゃんと拘っているのはとても嬉しいです。必ず最後に、お決まりのBGMと演出があって、そのときにはちゃんと締めるところを締めているのです。また、このシリーズの特殊にして豊かなる点は、前作までの歴史を完璧に受け継いでいることです。数多のシリーズものがその作品世界で閉じてしまう(一話完結ものである)のに対し、このシリーズは前作からの引用を全編にちりばめます。その意味で言うと、いちげんさんお断りのつくりになっています。5から観ても、ぜんぜん意味がわからなくなるか、もしくはその面白みがかなりの度合いで減じてしまうことでしょう。前作までの歴史を引用することで、物語に厚みを与えようとしています。これはこれでシリーズファンには楽しいものです。

 さて、5です。今のところほとんどネタバレをしていないはずですが、一応ここからはその注意を促しつつ、先に進みましょう。

監督が替わり、作風にも変化が見られました。3、4と観た後でこれが来ると、かなり抑えめの演出であるなあという印象を受けます。冒頭でどぎつい場面があって、おいおいまたこっちで行っちゃうのかよ、と思いきや、その点いい意味で裏切られた。それでも2以降に観られる、3、4で拍車のかかったグロテスク描写はあるのですが、この監督はその演出にそこまで執心しているとは思えない。この監督の演出は好きです。

 そのうえで、あの手のシーンが効いてくるんですね。あの手のシーンは、これまでの五作品における残虐描写の中でも出色の出来です。もっと派手なシーンはいくらでもありますが、それらの多くは派手すぎて見た目の恐怖にいきがちでした。ところがあの手のシーンは生命を即奪われてしまうほどのものではなく、3、4のものに比べればずっと地味で、でも観ている側の身体感覚に訴えかけてくるものがあり、ぼくは思わず身をよじってしまいました。オーディオコメンタリーで監督は「直感的な痛み」について話しているのですが、この監督の考え方は正しいなあと思います。

話の運び自体、ジグソウの教えの意味するところなどは、かなりわかりやすくなっています。ここの工夫は2に及ばなかった。2でジグソウがマシューズ刑事に対し、「ただ私と話をしろ。そうすれば息子は無事に帰す」と話す場面がありますが、怒り狂ったマシューズはその指示を結局のところ守れなくなります。そしてラスト、あの結末が示され、ああ、そういうことだったのかあ、となります。今回はそういう驚きがあまりなかった(ただ、1カ所だけはとてもシンプルかつうまいミスリードがあります)。オチという点ではシリーズ最弱です。というか、物語全体を包むオチにはなっていません。次回作以降においても、オチの美学は守ってほしいなあと思います。思い切り観る側のわがままですけれど。

 4の真犯人、ホフマン刑事が今回も暗躍するわけですが、ぼくはこのホフマンにはあまり惹かれないんです。そこが残念です。トビン・ベル演じるジグソウは『羊たちの沈黙』シリーズのレクター博士(アンソニー・ホプキンス)同様非常に魅力的で、3までのアマンダも好きだったんですが、このホフマンはあまり面白くないです。役者の顔立ちが作品の出来を大きく左右するのは史上類例数多のことであり、ホフマン役の選出にはもっと力を入れて欲しかったなあとも感じました。4のオチの構造上、あまりに悪役っぽくても成立しなかったのでしょうが、その分5のメインを張るにはどうも弱い。役者で面白いのは今回、最後まで頑張るあの女性です。大地真央にどこか似ている美熟女であって、次回作でもぜひお目にかかりたい女優さんであります。

 5は基本的によかったのですが、あからさまに次回作をつくろうとしている感じはちょっと危険なようにも思います。4はジグソウの死がはっきりしたものになり、今回で最後なのか、と思いながら観ていられるのですが、ホフマンが結局生き延び、なおかついくつもの謎が放り出されたままとあって、観ているうちから6ができるのが丸わかりになる。いや、6も観ますよ、観たいですよ。でも、5は5で完結して欲しいんです。6はできるのかなあ、と思いながら観たいのです。書きながらあまりにもわがままが炸裂しているなあと感じていますが、それはつまりこのシリーズへの期待の表れ、賛美の表現なのであります。

 ともあれ、『SAW』シリーズはアベレージが高いです。駄作というのは今のところ一作もないし、一本の映画としてどれも面白いです。時間的にも短くぴしっとまとめあげているのが好感が持てますし、この5レベルで続けてくれれば御の字、これ以上のものをつくってくれるなら、公平に観て何の文句もありません。
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 強烈さ、勢い、映画という表現の強みが活かされています。
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映画という表現には小説にはない自由さがあるのであって(無論その逆もしかりですが)、そのひとつに「勢い」というのがありますね。勢いで突っ走って、細かいことを言うのも無粋で、ともかくもおもろいからええやんけ、と言わせてしまう強さというのは、文章のそれよりも圧倒的に上であるように思うのです。

 文章とは結局文字の連なりであり、その愉しみを享受することはすなわち、意味を解してから味わいを覚えることであります。読書においては否応なく「読解」が必要になるのであり、「読解以前の快感」を覚えるのは難しいというか、まったく意味はわからないけれど面白い、というものはどうしてもつくりにくいのです。文章表現は意味と不可分であるがゆえに、意味に縛られる。それを壊す醍醐味もあるのですが、それを人に理解してもらうのはこれはこれで至難で、それがゆえ映像の自由さに憧れを抱くのであります。

 何のこっちゃ、という文章から始めてしまいましたけれども、これが『ファントム・オブ・パラダイス』を観て抱いた率直な感想のひとつであります。リアリティだの何だのは置き去り、強烈であること、面白いことこそ重要なのだとぼくは強く思うのであります。

先日ハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』(1938)を観たときも感じたことですが、映像特有の物語運びの勢いは、細かいリアリティなどどうでもいいものと感じさせてくれます。そうした映画を観ると、今の日本の小説はダメだなあという気がしてくる。面白くもない、有り体に言ってどうでもいいような細部はしっかりしているくせに、総体として見れば面白くない。そのくせそれを「エンタメ小説」などと呼んだりする。エンターテインメントっていうのは愉しませることが第一義でしょう。極端な話、面白ければ何でもいいんです。本来細かい理屈などものみな余計で、面白いことが何よりも尊いはずなのです。理屈抜きの面白さというものを追い求めていきたいのですが、どうもぼくにとって好ましくないものが小説の世界を跋扈し続けている気がしてなりません。

 どうも愚痴っぽい話に引きずられます。そろそろ映画の話をしないと行けません。
『ファントム・オブ・パラダイス』ですが、ぼくはやっぱりこのブライアン・デ・パルマという監督が好きです。この人の映像表現はぼくの好みに合うのでして、世間的にはヒッチコックの強い影響下にあるなどと言われるようで、その辺の細かいところはよくわからないですけれども、ぼくはヒッチコックより断然デ・パルマが好きです。

 一人の作曲家が悪徳プロデューサーの手によって自分の曲を奪われ、悲劇的に転がり落ちていくのですが、その運びはある種の馬鹿馬鹿しさが含まれつつも強烈であり、「ああ、もうとんでもないことになっているなあ」といつの間にか引き込まれてしまいます。主人公の作曲家はずたぼろになり、「ファントム」として再び現れるのですが、その格好悪さを描いているのが大きくて、決して無敵の存在にはなっていないんですね。よくわからないまま掌の上で踊らされていて、悪徳プロデューサーのしたたかさとうまくバランスがとれていました。

 日本で言うと、三池崇史や園子温の表現に近いなあと感じました。キューブリック的なシュールさにグロテスクさ、醜悪さが加味されているというか、リアリティなどないけれどリアリティなんてそもそもどうでもいいじゃんか! と宣言するような頼もしさがそこにはあるのであり、ロックの狂騒場面やスプリットスクリーンなどの映像効果によってその強烈さをより濃度の高いものにしているのです。

 ロックの場面の混乱ぶりが出てきますが、『キャリー』のプロムシーンよりも白熱の度合いが高くて、えらいことが起こっているにもかかわらず観客が騒ぎ続けているのがいいのですね。あそこで客が引いたり変に怯えたりすると狂騒の度合いが弱まってしまいますが、ラスト、観客の興奮を前面においたまま舞台上の大混乱をつくりだしているのがとても好ましい。「ファントム」化した主人公の悲劇的最期もまたその中で描かれ、決してしっとりしていないからいい。感動のラブシーンなんかだと、周囲の声を落として背景化し、主人公とヒロインの語らいに焦点を絞ってしまうことがありますが、この映画はその道を回避し、あくまでも混乱の中の一点として扱っている。これにより観ている側は不要な落ち着きを得ることなく、ただあの場面を呆然として見続けることになるのであり、だからこそあの場面の濃度はきわめて高いものになっているのです。登場人物に冷徹な距離を置くこのような演出は、どうも少なくなっている気がします。あの混乱の中にあればこそ、「ファントム」であるところの主人公の哀しさはより大きなものになります。かなりさらっと終わっていて、まったくだらだらしていない。説明していないのが、すごくよい。

 90分というサイズもいいですね。この映画の場合、のばそうと思えばもっとのばせそうですが、このサイズで切った分面白みが圧縮されています。デ・パルマの、実に思い切りのよい一本であります。
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すごく多くの映画を観ている人がこれを一位にする理由が、ぼくには何一つわからないのです。
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 雑誌『映画秘宝』2008年度版オールタイムベストテンにて第一位となっている作品です。『映画秘宝』はかなり特殊な(では何が特殊でないのか、と問われると答えに窮しますが)選定をしていると思うのですが、この作品を愛でる人が多いとなれば、なるほどぼくは『映画秘宝』にそこまでのめりこむことはできないかもしれません。

 というのも、ぼくには傑作とは思えなかったからです。どうしてこれが一位なのか、まるでわからない。キネマ旬報の『第三の男』でも感じたのですが、この得票システムがどうなっているのか知りたいですね。皆が皆これを一位に押したのか、そうだとすると、ぼくにはどうも解せません。

 一言で言うと、いまさら感が強いということです。何十年前、半世紀以上前の傑作であってもすごいものはすごいのですが、この映画は後代に陸続とつくられた作品に、超えられてしまっていると思うんです。

 CG技術の発展で特に90年代以降、大作パニック映画が大量につくられた後にあっても、『ポセイドンアドベンチャー』や『タワーリングインフェルノ』はなお輝きを失っていないんですが、ゾンビ映画の場合、やはり特殊メイクなどのレベルは絶対にあがっているし、この『ゾンビ』がすごいものとはどうしても思えないんです。低予算でこれだけのものができるのか! という驚きは率直に言って無かったです。

ゾンビがとろとろと動いている。ゾンビはとろとろ動くものだ、というこだわりはいいんです。ぼんやりとしているのもいいんです。ただ、それならそれできちんとしてほしいんですね。襲いかかられそうな場面で、ただ突っ立って見ていたりします。生きている人間を囲んでいるのに、何もしてこなかったり。そのくせ、一方ではやたらと凶暴になったりする。基準がよくわかりませんでした。ゾンビがゾンビであることを示すメイクで、顔が青白く塗られているのですが、それだけなんです。うわあ、このゾンビはくさそうだなあとか、このゾンビは怖いなあ、というのがほとんどなくて、「ひどくとろくさくて大変顔色の悪い人」みたいになっているんです。そのために致命的なのは、ゾンビの恐怖がないことです。ああ、どうしよう、やられてしまうぞ、絶体絶命! というのが伝わってこなくて、逃げようと思えばぜんぜん逃げられそうだな、と思われるんです。あえてゾンビの動きをたるませているのはわかるんですが、映画自体がたるんでいる気がしてならなかったです。締めるところを締める、という感じもなくて、ゾンビの凶暴さが唐突にさえ映る。子供のゾンビはただじゃれついてくる子供みたいだったし。

一人の人物が鞄を取りに行くと言ってゾンビが溢れる場所に戻り、そのために大けがを負って死んでしまうんですが、その鞄がどうして大事なのかもよくわからない。二時間以上を費やしてあれこれ遊んでいるのに、そういう説明が足りていないんです。なんであの四人がヘリに乗るのか、どこに行きたいのか、あのデパートにいつまでいるつもりなのか、これからどうしようとしているのか。実際行動に移さなくてもいいので、その辺のやりとりがもっと示されないと、ひどく内面を欠いた人物たちに見えてしまうんです。ラストにしても、ロメロであれば『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の終わりのほうが切ないし、味わいがあります。

うん、どうしてこの映画が一位なのか、正直まるでわかりません。『映画秘宝』はある意味、映画好きがこじれてしまったようなところがあって、ダメだからいいとかクソだからいいみたいな愛で方をするときがないでしょうか。ぼくはそういうよさにちっとも痺れを感じず、映画的興奮も覚えないたちであって、この映画のいい観客にはなれませんでした。
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 『おくりびと』を観ていないので本当は書くべきじゃないけれど、あえて書きます。おいおい、『おくりびと』どころの騒ぎじゃないよ!
  
 承前。
 エンターテインメントとして、非常に真摯な作品であることは前段で述べたとおりです。観客を引っ張り続ける辣腕をふるい、感情のぶれ、振り子を思い切り振り切っていて、ものすごいパワーで走り続けており、細かいことなどどうでもよくなりますね。路上の乱闘シーンにおける協奏は、『パッチギ!』のクライマックスに勝るとも劣らない映画的興奮を与えてくれました。

 不明点を言い出せば、あります。なんでユウの父親があの鬱陶しい女に惹かれるようになった、また受け入れたのかもよくわからないし、ユウがヨーコに惚れたのも結局人間性ではなくその場の一目惚れでしかないんじゃないかというのもあるし、あれだけ尊敬していた父を後半、ユウがまったく顧みなくなるのもどうかしているように思うし、結局ヨーコはレズビアンなのか何なのかその辺がはっきりしないなあ、レズビアンならユウの愛がどれほど胸に堪え、また彼の愛にどれほど応えられるのか、などなど、思案の種は尽きません。
 ただ、この監督の場合、もうそんなのいいじゃん!と宣言するがごとき腕力で物語を推進し、結果そのためらいの無さが作品に圧倒的な力を与えているのです。

 一方であえて述べるなら、園監督の映画に観られる毒が少ないかなあというのはあります。『奇妙なサーカス』は毒気に満ちた映画で、園監督のああいうえげつなさが好きなぼくとしては、その点やや『奇妙なサーカス』あるいは『紀子の食卓』に比べると物足りなさはありました。この人は現代邦画界において、密室芸をつくらせたら右に出る者がいない。それは『紀子の食卓』のレンタル家族の不気味な朗らかさであり、『エクステ』における佐藤未来をめぐるやりとりであり、あるいは『夢の中へ』のカップルの喧嘩であり、『奇妙なサーカス』の屋敷のシーン全編に観られる妖艶さと醜悪さの混交なのですが、この『愛のむきだし』においては、密室が生み出す閉塞的な濃度はそれほどありません。古い家屋に暮らすユウと父親、煙たい同居人の女や悪意漲るコイケを配しながら、密室的な生々しさにおいてはもうひとつ弱さもあります。盗撮が露見した場面の怒号と混乱はもっと強くあってほしかったとも思う。無論これは園作品内における比較であり、他の多くの映画の密室濃度に比べれば段違いではあります。今ふと思ったのは、園監督が推理劇を撮ったらさぞ面白かろうということです。古びた洋館や孤島などの場面設定を行い、その中で謎を解き明かす場面などをつくったら、その辺のミステリー映画はすべて吹っ飛んでしまうような気がしてなりません。

エンターテインメントとして極上なのは間違いありません。しかし他方、彼のこれまでの作品に観られた醜悪さ、有害さは減じているようにも思う。最初にカトリックの教会があり、新興宗教が出てくるので、その方面での強い有害性を期待していたのですが、新興宗教的な怖さ、そこにのめり込む人々の狂気のようなものがどうしても感じられず、なおかつあの宗教がいかにして有害なのか、という面も描かれてはいませんでした。いや、しかしことによるとそれはそれで狙いなのでしょうか。新興宗教の恐怖的側面を描かぬことで、幸せに溢れた鍋を囲むシーンをただ描くことで、染まりきった人々の幸福な様を描くことで、新興宗教に対する先入観的ネガティブイメージをあえて押さえようとしているのかもしれません。この辺は深読みしすぎでしょうか。

 この映画は馬鹿みたいにわかりやすい設定がされています。馬鹿みたいに、とあえて言うのは、あの勃起です。愛と勃起をこれほど結びつけた映画がかつてあったでしょうか。ユウは愛した相手にだけ勃起するのです。彼にとって愛とは勃起させるものであり、たとえナイフを突きつけられても勃起し続けます。ここに正直さがくみ取れる。
 愛とは、格好悪いもの。そんな警句をぼくは一人想起してしまいます。
 ユウはあれほど尊敬していた父を顧みることなく、ただヨーコだけを追いかけ続けます。彼にとっての愛とはつまり性愛です。単純な性愛が、彼をただ突き進ませます。そこには一種の馬鹿らしさがある。崇高なるものでも慈悲深いものでもない、むきだしの愛です。むきだしで馬鹿らしい、しかし、止めようのない直進。あのちんこの勃起はつまり、愛の直線性の象徴なのではないでしょうか! ユウは劇中で言います。「勃起を恥じるな! いいや、愛を恥じるな!」。勃起と不可分である愛は馬鹿らしく、それでいてむきだしであるがゆえに、圧巻の高濃度で四時間を支え続けたのです。

 ただ、書きながら思ったこととして、これはことによるとぼくが思っていると単純ではないかもしれません。というのは、ユウを取り巻く人々や環境が、あの愛をただの性愛と思わせるには少し込み入っているところです。

 この映画には『新世紀エヴァンゲリオン』を思わせる場面があります。ユウと父親は碇親子の関係にも似ていて、現代の少年としてはアンリアルな父への畏怖があります。また、ヨーコがユウの上にまたがるシーンが二カ所あるのですが、一カ所目の浜辺のシーンでまたがられたユウの気弱さに、ぼくは碇シンジを思い出さずにいられず、なおかつクライマックスにおいて首を絞めるシーンは反転したアスカとシンジであり、ユウの家でヨーコがユウにのしかかられたときに見せる反応は、エヴァ劇場版のラスト、「気持ち悪い」をも思わせてくれる。それではユウはシンジであり、ヨーコはアスカであるか、といえば、それはまた違います。ただ、ヨーコはそれ以上の存在だと思います。ユウにとってのヨーコは、シンジにとっての綾波に似た母性のよりどころであると考えられないでしょうか!

 ユウは高校生ともありながら、いくらパンチラ盗撮をしても性欲を抱きません。彼が慕情を胸に抱くとき思い起こすのはいつも母の面影です。亡き母の優しい面影は彼にとってある意味のトラウマでもあり、またオブセッションでもあるかのように見えます。彼が恋をする相手は、彼によると「マリア」です。もしも父が主であり、ユウがキリストであるなら(劇中、盗撮をめぐるくだりでキリストと結びつけて語られる場面があります)、マリアへの慕情は母への情愛でもある。そうなると彼にとっての性愛とは、ただの性愛でありえはしないのです。

 もうそろそろ疲れてきました。この映画はただのエンターテインメントなどで収まりのつくものではありませんで、またいずれ言及することがあるかもわかりません。体のいい結びが見つかりませんがひとまずはこの辺にして、また一人ぼやりと考えてみたいと思います。
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