<   2009年 04月 ( 21 )   > この月の画像一覧

好き嫌いがはっきりする映画だとして、ぼくは嫌いな側ですね。
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 この前の『シザーハンズ』などを観て特に思うのですが、やはり映画は「乗れるかどうか」が相当重要な要素で、極端な話「乗れるかどうか」がすべてと言ってもいいです。乗れれば面白い、乗れなければつまらない。別に映画に限ったことではなく、普遍的に当てはまることでしょうし、というか、「乗れる」というのは「面白い」の代替語でもあるわけですが、その意味で言えば本作、ぼくは乗れませんでした。

 管理社会の風刺、システムに対する風刺ということが言われて、後のスピルバーグ作品、『マイノリティ・リポート』(2002)でも同じモチーフが描かれています。管理社会で起こるミスによって悲劇が起こる。しかし管理が行き届いているため、ミスがミスとして認められることがない。それに異を唱える人間はシステムへの反逆者として扱われ、騒動に巻き込まれていく。『マイノリティ・リポート』も本作も、主人公がシステム運営側の人間の一人であるのは同じなのですが、『マイノリティ~』のトム・クルーズがシステム被害の当事者になったのとは違って、本作の主人公、ジョナサン・プライス扮するサムはミスを帳消しにするために仕事にかり出され、その先で出会った女性を救うために騒動に巻きこまれるわけです。

 ちょっとわかりにくい説明ですな。要するに、サムがシステムの引き起こしたミスを帳消しにするために被害者のもとに行くと、そのミスを目撃し誤認の抗議をしていた女性を発見します。彼女を捉えるかと思いきや、サムは彼女に恋をしていました。彼女はシステムの誤作動を告発しているため、このままではシステム側の人間に抹殺されてしまう。そう考えたサムは彼女を守るべく、てんやわんやの大騒動に身を投じていくわけです。

 ぼくが大いに引っかかったのは、あの夢のくだりです。彼女に恋をしたのは、夢の中に彼女が出てきたのが大きいようですが、これはサムが彼女に恋をする動機として、あるいは彼女を守り抜こうとする動機として、弱くないですか? 命に替えても彼女を守らなくちゃ! という気持ちが伝わってこないんです。何をこだわっているのや、と思わされます。主人公サムは夢の中で、鎧を着て背に翼を持ち、空を飛び回る存在なのですが、あの描写が嫌いでした。あれ、ものすごく馬鹿っぽいんです。いかにもつくりものめいていて、一番まずいのは鎧武者と戦う場面。日本の戦国武者みたいなのと戦うんですが、あれはものすごく安っぽく感じる。金がなくて安っぽいのとは違うんですよ。金がなくて安っぽいならそれはそれで味があるし、金がないなりに頑張ってつくろうとしているのやな、と愛着も湧くんです。でもこの場面は違う。この鎧武者は別に出てくる必然もないし、この場面全体が薄っぺらさに満ちていて、どうにも好きになれなかった。

 どうもこの映画は全体的にぺらぺら感があるんです。人間に絶対的な優越を持つ管理社会には見えない。いや、それはいいんです。絶対的な管理社会に見えながらその内実はいい加減なものだ、というのはこの映画で大事なところでしょう。でも、とりあえずは、ああ、これはすごくシステマチックなのだな、荘厳で抜け目のない世界だな、と「一見して」思えなくちゃいけないんじゃないでしょうか。一見するとすごいシステム、でもその内実は、というところの対比が、システムへの風刺になるんじゃないでしょうか。この映画は全体的にどうもぺらぺらしている、ようにぼくには思えた。端からぺらぺらしているので、絶対的なシステムから逃れようと苦闘する主人公、というのが浮き出てこないんです。

 ただ、今述べたような部分も、乗れれば多分気にならないんです。それはそれでええがな、と思えると思うんです。『シザーハンズ』について、ぼくは細かいことなどすべてどうでもいいですから。ただ、乗れないときつい。いろんなことを仕掛けてきますが、すべて鼻についてくる。システムに抑圧される人間、というなら、その人間のあり方をちゃんとしてほしいんですが、笑わせようとしているのか何なのか、トラックに振り回される主人公はどんなに振り回されても落っこちないし、ロバート・デ・ニーロの修理工もなんで出てきたのかよくわからない上にスロープで超人的な滑走を見せるし、こいつらは本当に抑圧される人間なの? と思わされる。かなり散漫な印象を受けました。ふざけているところなんかが、どうしてそんなところでふざけるの? と感じてしまうし、一方で締めるところを締めていない感じが、ものすごくします。

全体の印象が細部の印象を決めるなあと思います。今述べたところなんかも、いいように捉えられれば捉えられるし、深い意味も読み取ろうと思えるかもわからないんですが、この映画全体の映像センスについて、好印象を持てなかった。ぼくは「快楽が意味に優越する」と思います。どんなに意味深い描写でも快楽がなければ価値がなく、何の意味もなかろうが快楽さえあればよいとする立場です。快楽がなかった。それがすべてです。途中からどうでもよくなって、何なら途中で観るのをやめようかとも思いました。好き嫌いがはっきりする、などと映画についてはよく言われることですが、なるほどぼくはこの映画、嫌いな側の人間です。
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趣味の悪さ、露悪趣味が吉と出ている映画です。
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原題『Cannibal Holocaust』
前回『かもめ食堂』を取り上げて次にこんなのを持ってくるなんて、一体どういう映画の見方してるんだ、と半ば訳がわからなくなっている男、ぼくです。近所のビデオ屋が旧作100円レンタルデーだと知り、GWにはぼくみたいな野郎は特別何の予定もないため、手当たり次第に借りてきたわけです。うーん、GWだからどこかに出かけよう的な予定もないし、それ以前にそうした欲望もないのです。映画が沢山観られることが嬉しいです。ああ、寂しい男さ。でもその寂しさの中にいれば、寂しくはないのさ。人が孤独を感じるのは、どこよりも人混みの中なのさ。

 GWに『食人族』を観るなんてもう救いようがないんじゃないかと思われそうですが、めげずに更新するのです。コメントがないのは別にいいのです。ここに書くのは自分の映画体験をより強固なものにするための手続きなのです。さて、『食人族』ですが、これは大変見応えのある映画でございました。イタリア人というのは趣味が悪いですねえ、パゾリーニとかヤコペッティとか、なんだか趣味の悪い人がいっぱいいるみたいです。

『ブレアウィッチ・プロジェクト』(1999)が踏襲した疑似ドキュメンタリー的手法で、設定も「潜入したカメラクルーが死に、彼らのフィルムが発見された」という形をとっています。とはいえ全編がドキュメンタリーなのではなく、そのフィルムを発見するまでのくだりなどは劇映画的に撮られているし、フィルムを試写するくだりも劇映画です。その描写ぶりに監督は法廷出廷を命じられ、フィクションの証明をせねばならなかったそうですが、なるほどインパクトのある映像が多かったです。今でこそネットがあるし、史上のあれこれを踏まえていますからフィクションだと割り切れますけれど、三十年前ともなれば信じてしまう人が出てきてもおかしくないです。日本でも昔、熱心にドラマを観た視聴者が、悪役を演じた俳優をそのまま悪人だと思ってしまうなんて話もあったようで、まあ困った話ではあるんですけれど、そういう時代にはちょっとした羨ましさも感じますね。

 イタリア人は趣味が悪い、と書きましたが、この辺のイタリア映画は何をしてくるかわからない怖さがあります。この映画でも、動物をばんばん殺しているんです。死体を嫌というほど見せつけますし、とても露悪的です。映画で動物を殺すのは個人的に倫理的に、アウトです。でも、ぼくみたいなのが言っても説得力に欠けるんですよね。たとえばテレビで今、動物を殺す描写がちょっとでもあれば、大問題に発展するでしょう。でも、そのクレームの電話をかける人の食卓には屠殺された家畜の肉がある。食べる分には構わないのだ、と言ってもヴェジタリアン的にはアウトでしょうし、今この瞬間も、食べられることもないまま破棄される動物の破片が山のように排出されている。「野蛮人はどっちだ?」と映画の最後に語られますが、ぼくたち現代人が胸を張って「俺たちじゃない」とは言えないんです。だからこそ映画で動物を殺す描写にも、実際真っ向からは反発できないというか、する資格がない。

 なかなか映画の中身に踏み込めずにいますね。この映画の場合、描写がえげつないので、かなり魅せます。安っぽさみたいなのは感じられなくて、ファックシーンなんかも「この映画、大丈夫か」と思わされるくらい迫力があります。結構やばい映画です、可愛いお子様にはくれぐれも見せてはいけません。陰部もモザイク処理をかけてはいますが、そのモザイクを通して明らかにものの形状がわかるので、逆に目立ってやらしい感じがします。この映画の場合、「隠さずに自然のままに撮る」とかいうのとは違って、明らかにわざと見えるようにしていますね。露悪ぶりが炸裂しています。「別にそこはパンツ履いててもええやん」というところまで脱いでいますから、あほですね。でも、そうやって露悪的にやる分、描写にもすごみが出ています。人間の内臓をぐちゃぐちゃ出す場面も、つくりものとはわかっていても見応えのあるグロさで、これは映画的に勝ちです。つくりものとわかっていながらどこまですごみを演出できるか、というスプラッター描写の戦いに、この映画は勝利していると思います。劇映画的な鮮明な映像の部分でもそうだし、疑似ドキュメンタリーで画質を落としている部分は余計にいい。画質を落とす、というのはスプラッター描写において重要なところです。今は映像が綺麗になっている分、精巧につくる戦いをしなくてはならなくなっていますが、この時代の映画で、それも画質を落とし気味でつくられたものには、現代では再現できないような味わいが宿ります。

この映画のうまいのは、最初の劇映画っぽいところと後半のドキュメンタリーっぽいところを対比している点です。『ブレアウィッチ』なんかは全編ドキュメンタリー的にしており、あれはあれで味わいがありますが、この映画のようにすると、一度目線を下げさせるんですね。「これは劇映画ですよ」という感じを観客に与えたあとで、ドキュメンタリーのほうに連れて行くから、その落差が生まれる。また後半、フィルムを試写する場面があるのですが、そこではフィルムを観る人々のショットをドキュメンタリー的映像の合間に差し挟みます。この演出はいいと思う。あれをしないと観客の多くが映像のインパクト、緊張感にやられてしまうでしょう。入れない手もあるはずなんですが、この監督はあえて良心的な振る舞いを見せ、その虚構性を露わにする。この辺の手さばきが好ましいです。入れないで後半を全編ドキュメンタリーにするとそこが前半と対比されすぎてしまうし、これ見よがし感がいかにも強くなる。この監督はその点をわかっているのでしょう。一歩引いているのが頭いいなあと思いますね。監督自身が映画に対してちゃんと距離を置けている。まあ、それでも距離が置けない観客が沢山出てしまったようですが。監督としては作品世界に没入した人が多く出て嬉しい反面、「だからさあ、虚構性をちゃんと打ち出してるじゃん!」と思ったことでしょう。

 音楽のかけ方もいいです。残酷な場面で優しい曲を、というのは広く使われる手法で、ぼくはこの手法が基本的に好きです。これまで観てきた映画で印象深いのは『バトル・ロワイヤル』の「G線上のアリア」ですね。柴咲コウが撃たれまくる場面です。『エヴァンゲリオン』の劇場版でも、カタストロフ的シーンに「甘き死よ来たれ」を流しており、あれもよかった。園子温などもよくやる手です。一方、動物を殺すシーンではいかにも残虐な音楽を流したりするんですが、これはこれであり。最後のクライマックスではその両方を立て続けに流したりして、ああ、観客を狂わせようとしているなあという感じが好ましい。

『食人族』というタイトルはなんかもっさい感じがしますねえ。いかにもB級スプラッターのにおいがしてしまいますが、もっと見応えのある映画です。「食人」が大きな役割を果たしているというわけでもないし、この映画の要点はもっと他にあります。人によってはタイトルとパッケージで毛嫌いしてしまうでしょうが、まあ騙されたと思って、観てみるとよいでしょう。
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どこまでがマジなのだ? という困惑。まさか無邪気に愛でるのか?
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 こういう作品についてはもう出会うタイミングというか、こちらの心理状態で大きく左右してしまうところがあります。今時のぼくはちょっと辛かったですね。「何も起こらない、起こさない」という物語的美徳は決して嫌いではないけれども、あまり好きにはなれなかった。

 フィンランドといえばぼくにとってはもちろんアキ・カウリスマキですが、彼が撮る街並みと違って綺麗さに充ち満ちているのは新鮮でした。カウリスマキの描くフィンランドって、もうどうしようもないところみたいに見えるんですが、この映画のフィンランドは本当に綺麗です。本当に綺麗だからあまり面白くないというのもあります。あざとい感じがしますね、絶対OL受けするのがわかっているようなつくりです。あるいは本気でこの綺麗さを愛でているのか。どちらにせよ、好きではないんです。シナモン・ロールをつくろう、ああ、おいしいわ、みたいなあの辺のくだりとか、なんだかなあ、シナモン・ロールってもの自体が別に日本でも珍しくないし、フィンランドだからこその記号が欲しいんです。あんな爽やかで綺麗な食堂でシナモン・ロールを食べてみたいわ、と観客に思わせたいのかバカ野郎、と思ってしまいます(ああそうさ、ぼくがひねくれているのさ)。

 カウリスマキといえば、マルック・ペルトラが出ていました。最初出てきたとき、「なんかカウリスマキ映画っぽい人が出てきたぞ」と思って、どこかで観たぞ、ああ、『過去のない男』の人だ! と思ったらまさにそうで、これはちょっと驚きました。彼の出てくるくだりはカウリスマキっぽい感じがありますが、まあそれは既にカウリスマキ作品で観ていますし、味わいは向こうの方があるわけで、ちょっと日和った感じも否めません。

 小林聡美、片桐はいり、もたいまさこが主軸となるわけですが、片桐はいりは本当に面白い顔ですねえ。これはずるいです。片桐はいりがアップになるだけでもう笑いになります。この映画で言えば、もうちょっと普通の人をキャスティングしてもよさそうなものですが、あえてここに片桐はいり、というその発想は嫌いではありません。もたいまさこもインパクトがすごいですが、あのメンツだと「かもめ食堂」が変な場所になりますね。もし客としてふらっと入ったら、「どういう人たちなんや」と気になること請け合いです。「奥で料理してるあの人はちょっと綺麗なあ、せやけどあとの二人がきっついなあ」と思わされることでしょう。その意味であのおにぎりは深刻です。小林聡美のおにぎりは食べたいですが、あとの二人はちょいと願い下げです(なんて失礼な思想だ)。

 小林聡美の演技はちょっと鼻につきました。でもこれは小林聡美が悪いというより、演出的なところでの嫌悪感ですね。いかにも芝居っぽいんです。「台本が見える」というのは演技演出のうえで最も駄目なもののひとつだと思うんですが、この小林聡美、そして片桐はいりの場合、台本が見えます。原作の小説があるようですが、そこからそのまま台詞を持ってきたところもいくつかあるのでしょう。小説的にはセーフでも映画的にアウトな台詞回しが散見されました。舞台出身か、それともCFの人かな、と思いきや、監督は映画畑を進んできた人のようで、だとすると癖ではなく、あえてやっていると見るべきなのでしょうか。アクションの少ない劇ですから当然会話に比重がかかる。だとすれば会話における演出は当然一番くらいに大事なものになるし、現場でも重点的に演出可能な場面。にもかかわらず、「台本が見える」=「映画が映画であることが現前する」=「虚構性が浮き立つ」ような会話が生まれている。無邪気にやってそうなっているなら単に駄目だし、もし理由があるのなら(あってくれないと困るのですが)それは一体何なのか。

 ここがぼくの困惑のしどころで、思考を先に進めてよいものかどうか迷う場所なんです。合気道の膝行とか部屋の感じとか、もたいまさこの森林ときのこのくだりとか、マジでやってるのでしょうか。シナモン・ロールとかコーヒーのおまじないのくだりはマジなのでしょうか。いや、でも、それをマジでやる人なら、片桐はいりとかもたいまさことか、どう考えても癖のある、あの透明な空間に入れるにはあまりにもインパクトの強い二人をキャスティングしないと思うんです。もっとも、それがこの映画のヒットの要因とも言えましょう。単に綺麗どころの女優を三人並べただけでは、なんかあれでしょ、どうせただのいい感じ系の映画でしょ、みたいな印象を与えかねず、その点、片桐はいり? もたいまさこ? おいおいどういうキャスティングなんだよ? という興味を持たせます。

 この映画全体の印象をたとえるなら、要はハッカのガムみたいな感じです。現代東京の猥雑なる街並みを抜け、映画館に入ってみれば、一時の清涼感を与えてくれる。噛めば噛むほど味わいが出てくる、かもしれない。でも、ガムはガムなので、別にこれと言って栄養になるものでもない。ぼくはやっぱりフィンランドならアキ・カウリスマキです。
『かもめ食堂』が好きなのー、フィンランドってば素敵よねーなどという輩に対しては、てやんでい畜生、カウリスマキを観やがれ、あのどうしようもねえカスみてえな登場人物が醸す底知れねえ映画的興奮を味わいやがれ、と言ってやりましょう。
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 些末なことなどどうでもいい! 面白ければそれでいい!
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 いつものごとく世間に大きく遅れまくって、感想を語ります。
 正直そんなに期待してはいなかったんです。手がハサミの男のラブストーリーというのがぴんと来ず、DVDパッケージにも惹かれなかった。ですが、いや、まだまだぼくのアンテナは修正の余地が多分にありますね、これは傑作でした。『ザ・フライ』を観たときに感じたのと似ていて、ぐいぐい引き込まれました。アマゾンでもほとんど五つ星ですね。

 まず冒頭から、世界観の部分で、ああ、これはありやな、と思いました。おとぎ話的な風合いをフルスロットルでかますかと思いきや、日常的な、それでいてジオラマ的な町を舞台として見せる。まるでテーマパークのような、それでいてシンプルかつ開放的な町を描いており、その背後にあの城をどんと置く。この世界観の時点で持って行かれました。なおかつあのジョニー・デップ扮するエドワード・シザーハンズが最高でした。手がハサミであること以外、何の予備知識もなかったので、虚を突かれました。あんなキャラクターだとは考えておらず、もっと普通の人間っぽいのかと思っていた。あのエドワードのキャラクターは百点です。あの舞台にあの存在を配したことにあっぱれ。おとぎ話といえばおとぎ話ですが、とても良質なおとぎ話です。テンポ、音楽、美術演出、どれをとっても素晴らしい。

 エドワードはすごくおどおどしている。このおどおどが素晴らしい一方で、手には鋭利なハサミ(というか長いナイフの五本指)を持っているため、観ている間ずっと緊張感が保たれる。犬の毛や人の髪をカットするシーンでも、扱う技術が十分にあるとわかっていてもどこか危ない感じが拭えず、だからこそエドワードがただの愛すべき存在にはならない。不意に人を傷つける存在だからこそ生まれる独特の魅力が付与されています。また、こんなのは言うも愚かですが、この刃物の手はコミュニケーション的な意味合いも孕んでいるわけですね。エドワードは意図せずして傷つけてしまう。傷つけまいとして慎重に振る舞えば、今度は向こうが傷つけてくる。不意に自分自身をも傷つける。Mr.Childrenの『掌』で歌われた「抱いたはずが突き飛ばして 包むはずが切り刻んで 撫でるつもりが引っ掻いて」というのがまさに文字通り当てはまる寓話で、ハリネズミのジレンマなどとも言われますけれども、陳腐ではあっても最もわかりやすい形で、コミュニケーションの難しさが表されています。

 もうはっきり言って細かいことなんてどうだっていい!
 つっこみどころなんて犬っころに喰わせちまえ!
 これは『ザ・フライ』によく似ています。あるガジェットの面白さで見せきってしまうんです。あの映画でも、どうしてあんな部屋であんな発明ができるんだとか、科学的に合理的と言えるのかとかそんなこと言い出せばそりゃもうおかしな話でしょうが、あの映画にとってそんなつっこみは無粋以外の何物でもないんです。この映画もそうで、何なんだあの城はとか、どうやってあのエドワードができたんだとか、完璧にどうでもいい。人の動きに合理性がなくたってどうでもいい。多くの人々がその他大勢になっていようがどうでもいい。あの男を殺したあとの現実性だってどうでもいい。些末な問題などすべて吹き飛ばしてしまえる魅力がこの映画にはあります。あの博士が作った機械が最高にキュートじゃないですか。あのキュートさが全編に漂っている本作を、諸手を挙げて支持します。

 今日はわりと短めに終わりましょう。非現実的なお話ですが、目頭をくうっと熱くしました。これだから映画観(えいがみ)はやめられません。
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 大きさに弁えのある点で、好ましいです。
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 寝ようと思ったら意味もなく目が冴え、映画評でも書いてやり過ごします。
 ぼくの映画の好みで言うと、「いわゆる典型的なラブストーリー」というのは中心から大きく逸れます。好きよ嫌いよ惚れた腫れたに一喜一憂する話は普段積極的に観ようと思わないし、これまで評してきた映画においても純粋にラブストーリーが主題となるものは少ないはずです(あっ、つい最近は『恋空』がありますね、でもあれは「いわゆるラブストーリー」ではなく、登場人物の内面を激しく破壊しているポストモダンの前衛映画です)。

 まああれこれ観ようという気持ちになっているのもあって、借りてきたのが『ブリジット・ジョーンズの日記』です。続編も作られた結構有名な映画ですね。三十二にして独身、主人公の冴えないOL、レネー・セルウィガー演ずるブリジット・ジョーンズが主人公で、話はといえばまあ、要するに惚れた腫れたするお話です。

 日記という体裁を取り、ナラタージュを全編に散りばめるわけですが、編集がうまくてテンポがあり、楽しく観られました。ナラタージュをかますときには語りが押しつけがましくなりすぎぬよう、特にスピーディに編集してダイジェスト的に見せたり、音楽を背後に流したりするなどの工夫が観られ、映画の濃度を高めることにきちんと気を配ってくれています。

 三十台のOLの等身大的恋愛コメディですから、土台とてつもない傑作とはなりにくいわけですが、このサイズの話を形作るといううえでは過不足がなく、演出面でも適度なバランスを保っています。この映画は『キャリー』よろしく、主人公のキャスティングが適切と感じました。この手の映画はもう、主人公を好きになれるかどうかに半分以上の比重がかかるものですが、このレネー・セルヴィガーという女優、そしてブリジット・ジョーンズのキャラクターはよかったです。冒頭はちょっと女子大生っぽくもあるんです。でも、すぐにそうじゃない感じ、三十代の人だなという感じが出てきて役柄のサイズに合っているし、美しすぎずブス過ぎず、とりわけいいのはあのバニーガールの場面です。仮装パーティだと勘違いして、バニーガールに扮するシーンがあるのですが、あのときのねえ、肥満体質もあっての、あの脇の肉がたるんでいる感じ。

 映画とはぜんぜん関係ない話ですが、いわゆる熟女ものが受ける理由は、つまりあの脇の肉のたるみにあるのです。女性らしくありたい、美しくありたい、若々しくありたい、という真摯な願いが、それでも経年の肉体的疲弊に負け、ちょっと腐りかけているところ(なんと失礼な表現!)。その忍び寄る腐敗の影はつまり哀しみであり、その哀しさ、切なさが、若さ漲り希望溢れるぴちぴちギャルには表出不可能な熟女的魅力、エロスを醸すわけであります(明け方に何を書いているのだぼくは)。

 ちょっとおドジな、という設定はコメディにおける笑いで重要なさじ加減を必要としますが、このコメディの笑いは好きな部類です。いや、大爆笑できるようなポイントはないです。でも、ちょっとくすっとしてしまうところはちゃんとつくられている。滑っているところはないですし、滑った様が面白い、というところもちゃんとしている。好ましいのは、これ見よがしな笑いがあまりないところです。現代の日本は幾多のコメディアンが耕してきたおかげで、結構笑いのレベルがあがっていると思うのですが、それでもたとえば『キサラギ』みたいな映画ではこれ見よがしな笑い、「はい、今面白いことを言いましたよ~」的な間をつくってしまうこともある(これは現代和製コメディで一番観たくないもののひとつなんです)。『ブリジット・ジョーンズ』はその点、間を弁えている。笑いにおいて大事な間は、面白いことが起こった後の間。ここを活かせるかどうかで笑いは決まります。ツッコミの善し悪しにおいて大変重要な場所です。この映画は面白い状況が起こった後、わりとすぐに別のカット、シーンに移る。編集の思い切りの良さが好ましかったですね。別に、すごく奇をてらった笑いではないですよ。むしろ逆に結構ベタベタです。でも、ベタベタの使い方が映画の大きさに見合っているというか、押しつけがましくない。

 本筋のラブストーリーですが、まあびっくりするような展開はさほど起こりません。ブリジットをめぐる二人の男がいて、彼らの過去について「えっ、そうだったの!」な仕掛けは用意されていますが、映画を観ている限り、彼らがどんな人間なのかは自ずとわかってくるので、あの仕掛けは別に大した驚きをもたらしません。でも、この二人の格闘シーンはいいです。ぐずぐずの格闘がいい。この監督はええ感じにしよるなあ。ぜんぜん喧嘩になれていないインテリ二人の喧嘩、そのぐずぐずさが出ていていいです。ラストの仕掛けはいいんじゃないでしょうか、映画に見合った適度なびっくり感です。

 時間的にもちょうどいいですし、気軽に観られる作品です。三十代の冴えないOLにあまり、というかほとんど、というかほぼまったく思い入れがないぼくが面白く感じるのだから、もっとこの映画を推す人はたくさんいるでしょうね(逆の場合もしかりですが)。設定と作品の大きさが見合っており、やれることをきちんとやっている作品であります。
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中途半端さを活かすための詰めが、中途半端。
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 アマゾンではレビウが沢山ついていて、星五つから一つまで満遍なく別れていますね。海外の監督が日本を映しているので、その分どういうスタンスで観ればいいのか困惑させるんだと思います。多くの人にとって、絶賛も酷評もしにくいんじゃないでしょうか。土台これはアメリカ人によるアメリカ人向けの映画という色合いが強いわけですから、日本人が酷評しても仕方ないという気はしますし、反対に絶賛するというのもよくわからないですね。

 松本人志が言及していましたが、やはり一本のCMで二百万ドルを稼ぐような大スターが一人だけでホテルにいるのがおかしいように思います。そこに何かしらのエクスキューズが欲しいんですが、当たり前のようにひとりぼっちですね。一言二言でもいいんです、スターの男が一人になっている理由がないと、ただでさえ日本人の観客としては観るのが難しい映画であるにもかかわらず、余計に「lost」な気分にさせられてしまいます。ですがそれは後述する意味でのよき「lost」感とはぜんぜん違います。

 日本描写のデフォルメがこの映画を語る上で外せないものになっているようですが、別にそれはそれでいいんです。この描写をマジで受け取っても仕方ないです。ただ、上記のような設定上の説明がないため、いまひとつこの演出に信頼がおけないんです。この監督はどれだけわかったうえでやっているのかな、と思ってしまう。阿部和重はこのデフォルメされた日本描写を、作り手による仕掛けだと語ります。外国人が日本に来たときに抱く違和感を、歪んだ日本描写への違和感という形で観客にも追体験させようという目論見なのだ、と語られています。つまり、この映画内における「日本」を日本人にとっても距離感のあるものとして映るように仕向け、登場人物への移入を目論んでいる、ということです。もっと平たく言えば、この映画における「日本」、「東京」は、我々が住む世界とも違う場所であり、観る者すべてにとって異国的な場所ということになります。
 
 阿部和重はこの映画のデフォルメを不快と感じる人々に対し、制作者側を擁護する形で論じているのですが、彼の論に則って捉えるのなら、むしろ逆にこの映画の詰めの甘さが露呈してしまいます。だって、もしもそうなら、要するにこの監督は、日本の独特さというものを歪めた形でしか表せない、ということですから。日本人が気づかない日本の特殊さを描くというところまで、たどり着いていないわけですから。だから変なデフォルメなんかしなくていいんです。していないところはいいんですよ。ゲームセンターの辺りもいいし、変なばあちゃんが喋りかけてくるところもいいし、ああした描写を活かすためにも、やはり妙なデフォルメをすべきではないんです。異文化の中に紛れ込んじゃったわ、な感じを出すためにデフォルメしなくちゃいけないっていうのは、詰めが甘くないですか?

 そういう意味で、「外国人だからこそ活写できる東京の風景」というのが弱い。アメリカ人がこの東京の風景を面白く思うのはわかりますよ。でも、どれもこれも「その風景は知っています」って感じなんです。で、物語自体はビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンのどうでもええような淡い慕情みたいな話で、なおかつそれがホテルの内部で繰り返されるとあって、そうなると現代東京に住む僕としては何も面白くない。だから正直、わざわざアメリカから持ってくるほどの話でもないと思うんです。日本人が観ても仕方ないんじゃないでしょうか。

 なんだかこのブログでは最近園子温ばかり褒めているようであれなんですが、それなら最近取り上げた『ハザード』の東京のほうがよっぽど外国的な違和感を与えます。ラストでちょこっと出ているだけなんですが、主人公とともにずっとニューヨークにいた観客は最後の日本に距離感を覚えます。日本人が観るなら、絶対こっちですよ。
 
 海外での出会いが一種の特別さを帯びるのはわかります。ぼくも大学生の頃インドに行って、そこで出会ったツアーガイドがいて、彼と突然別れることになり、別のガイドがついたけどその人は何も面白くなくて、アーグラーのホテルでひとり号泣したことがあります。ただ、人と人との関係を描くなら、最初に述べたように、人と人との関係をきちっとしてほしいです。スターが一人でいるなんて不可思議な状況では説得的じゃないです。あの通訳の人たちも役割で存在しているにしてもきちんとしていなさすぎです。そうやって無理に東京でのひとりぼっち感、「lost」感を出しておきながら、一方でホテルというベースを用意しているものだから結局「lost」感は薄められてしまう。次第に近づいていく二人が最後、路上で抱擁しキスをする。別れるときになって初めて愛を交わす、という仕立てなんでしょうけれど、ここは離ればなれのままのほうがいいと感じるのはぼくが日本人だからでしょうか。あそこでああやってわかりやすい愛情演出をかますところが平凡だなあと思います。たとえば離れたところで手を振って、男が女の去りゆく背中を見届ける。男が去りゆく女に背を向けたときに、女が振り返る。女もまた、男の背中しか見ることができない。たとえばそんな(まあどこかにありそうなやり方ですが)方法のほうが、この映画の風合いにそぐうと思うんですねえ。ずっとだらだらしていたんだから、変に愛を爆発させないほうがいいなあと思う。この二人、またどこかで会うな、という感じがしてしまう。もう二度と会えないと思えるからこそ、そして抱擁を交わせないからこそ、旅先の出会いには哀感がこもるんですけどねえ。このとても中途半端な映画の中途半端な関係を輝かせるには、その関係の中途半端さを活かすことが鍵だと思うんですけれどねえ。

 そんなわけで、ぼくのこの映画への捉え方は、否定的です。ご意見を賜りたく存じますね。
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この監督には脚本家が必要なのです。
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 シャマランと言えば『シックス・センス』が何より有名ですが、実はぼくはそれを観ていません。有名すぎて逆に観ていないわけです。シャマランで観ているのは『ヴィレッジ』くらいです。あのオチに対しては否定的であります。この監督は実にもったいないのです。今回の『ハプニング』でもまさに、『ヴィレッジ』と同じことを感じました。 

 映画のつくりはいいんです。冒頭、謎の自殺が相次ぐところなどは、おおう、どんなことが巻き起こるのだと期待させます。撮り方も大袈裟に過ぎず、驚きのショットもあります。訳のわからない恐怖から逃げる、というのはそれだけで物語の駆動材料になるわけで、とにかく主人公らが逃げろ逃げろと頑張るわけで、その様も決して悪くないと思います。アメリカ東海岸全土で、白昼の集団自殺が相次ぎ、パニックの様相を呈します。死んでいくのは皆集団の中の人々。「どうやら沢山の人と一緒にいないほうがいいようだぞ」と気づいた主人公ほか二名はあえて少人数で行動しようとします。この辺も物語をうまく運ぶために工夫したのが感じられます。大量のエキストラを使うことなしに主人公を際だたせるには、どうして皆と離れる必要があるのかを説明せねばならず、この説明責任は一応果たされております。とにかく逃げろや逃げろと逃げ続けます。何から逃げなくてはならないのか、がわからないままに逃げる、というのはいいと思います。その後に、どうやら風を吸い込んではいけないらしいぞ、というのがわかり、観客の恐怖の対象を風に焦点化させるという運びもいいと思います。

 途中までは結構期待させます。途中までは面白いんです。ただ、ばばあが住む家に入った当たりから、危ないぞ、という気がしてきます(主人公たちが危ないのではなく、この映画自体が危ないという意味)。『ヴィレッジ』のイメージがあったので、まさか今回もオチとも呼べないオチになるのかしら…と不安にさせます。二作観ているだけですが、どうやらシャマランは希有な監督です。普通、「危ないのではないか…」「展開が不安だ…」というのは主人公目線に立ってこそ意味があるものであり、主人公の身になって危険を感じたり不安を覚えたりするのが映画の醍醐味です。この先主人公はとんでもない恐怖や悲劇に見舞われるのでは…と感じてハラハラするのです。ところがシャマランの場合、「この映画はもしかしたら非常につまらない結末を迎えるのではないか…」という不安を観客に覚えさせるのです。メタ的な恐怖を与えるわけです。「鑑賞していたこの時間は何だったのか、という目に合うのではないか…」という不安を与えるのであり、この恐怖から逃れられる観客はとても少ないはずです。ある意味、恐怖映画を撮らせたらこの人、な監督です。

(以下はネタバレになります。もう既に結構大事なことがばれている気もしますが。)

 そして、予感は的中するのです。
 見事に、「何だったんだ」感がすさまじい作品であります。『ヴィレッジ』で免疫があったからまだよかったものの、もしそれがなければ衝撃を受けて立ちあがれなくなるでしょう。まさに「衝撃のラスト」です。むろん、メタ的な意味での、負の意味での「衝撃のラスト」です。ひどいです。さすがシャマランと言いましょう。今日付のウィキペディアで、「映画監督生命は危機に瀕していると言える」などと書かれるだけのことがあります。

 
 正体不明の恐怖、といえば最近は『ミスト』がありました。『ミスト』はその結末を、いわば暴力的な形で締めくくったのであり、どんなオチにするかと考えたときにある意味一番簡単な方法ですが、その分多くの作り手が避けてきた道であり、だからこそ新鮮に映ったのでしょう。ところがこの『ハプニング』はそれ以上なのです。風に当たると自殺してしまう、という設定をつくりあげ、そのうえで主人公とその同伴者を風に当たらせます。その直前、風を受けて自殺に走った人物がおり、ああ、主人公らも死んでしまうのではないか、と百人中百人の観客は思うわけです。ところが、なんと、主人公たちは死なないのです! 後付の説明で、正体不明の恐怖はこのとき既に終わりを告げていた、と知らされるのです! 『ミスト』のラストでダークな気持ちになった観客もいるでしょうが、この『ハプニング』はその比ではないのです。良識ある観客として、主人公たちには助かって欲しいとは思っていました。別に主人公に死んで終われと言っているのではないのです。ただ、主人公が救われた原因がわからない、どうしてああなるのかわからないので、素直に喜べないのです。

 要は夢オチに似た徒労感ですね。主人公には助かって欲しいと思うけれど、危機的な状況でいきなり目が覚めて「ああ、助かった」と言われれば拍子抜けしてしまう。あれとよく似ています。

『ヴィレッジ』を観たときも思ったんですが、このシャマランは別に監督として駄目な訳じゃないと思うんです。脚本家として駄目なんです。自分で脚本を書くのが好きみたいですが、もっとちゃんとした脚本をつくれる人とやれば、この人はいいものを撮れると思うんです。ぼくはその意味ではこの監督を見捨てたくないのです。シャマランには自分で脚本を書くのをやめてもらえばいいのです。誰かシャマランの傍にいる人、助言してあげてください。
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きわめてポストモダン的、シュルレアリスティック、アンチ映画史的、攻撃的なすんごい映画です。
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 いい映画ばかり観て過ごせればそれに越したことはない、というのはひとつの真理ですが、また同時に、いい映画がいい映画であることに対して感謝を捧げる、という営みも映画観(えいがみ)として重要なことだと思われます。そのためにはひどい映画をあえて観る、というのも決して無為なことではありません。なのでぼくは二時間を棄てることをいとわず、こういうのも観てやるんだ! というわけで、『恋空』です。

 宮台が「ただの駄作と切り捨ててはいけない」と論じ、「我々が一ミリたりとも共感できぬものに対し号泣する人々がおり、衝撃的であった」という内容のことを書いていて、それでも長らく敬遠しておったわけですが、ええいままよ! と叫んで『恋空』です。

 これはすごい映画です。こんな映画は観たことがありません。
 そもそもケータイ小説なるものは近代文学のカノンを多分に無視した表現であります。近代文学の文豪たちがあの手この手で模索し続けた表現を棄て、人物描写、内面描写、情景描写の説得性を自ら積極的に排した、いわばポストモダン的な表現と言えましょう。映画はその妙味を多分に活かしています。この作り手たちは、あえてこうした表現をつくりあげているのです。

 駄作、という言葉がありますが、それは何を指すのか。感動させようとして感動させられず、盛り上げようとして盛り上げられないなど、演出の不備、脚本上の不備が駄作の条件となります。つまり、目論んではいるが目論見に失敗している作品が駄作の要件です。ですがこの作品は、決して作り手の目論見から外れてはいないと思われます。作り手はきちんと、ケータイ小説を映画化しようと努めているのです。だからこそ、ケータイ小説が近代文学の数多きカノンを打ち破ったのと同様に、この映画もまた映画史が教えてきた幾多の教訓をいとも簡単に棄て行くのです。『No Country For Old Men』という映画がありますが、この『恋空』の副題にこそそれはふさわしかろうと思われます。つまり、旧来の価値観ではとても太刀打ちできず、もしも万が一まともにこの映画を鑑賞しようと思えば、鑑賞者は強烈に頭を打ち付けられることは間違いなく、その意味で大変前衛的な映画なのです。

 活劇の古典的な売り文句に、「笑いあり涙あり」というのがあります。映画で言えば、性と暴力が古くから人気の装置で、「セックスあり! バイオレンスあり! カーアクションあり!」などといえば、観客は胸躍らせて劇場に足を運ぶわけです。それに倣ってこの映画を喧伝するなら、「レイプあり! 流産あり! 難病あり!」という悲劇のオンパレードであります。いつの時代も性的描写、暴力描写が表現批判のやり玉にあげられますが、この映画はそれどころの騒ぎではありません。何しろレイプや難病という深刻な話題を、観たことがないくらい異常に軽く扱っているのであり、映画の出来映えを踏まえてもこれをこそ有害な表現として指弾するのが保守派の務めであろうにもかかわらず、世間の教育者たちは誰もまともに怒っている気配がないのです。これはすごいことです。レイプをされても傷ひとつなく、流産しても悲しむ気配がなく、難病に陥っても衰弱の様子がないという、きわめてシュルレアリスティックな表現なのです。これは映画の演出的不備を意味しません。映画はケータイ小説という原作に忠実に、「説得力を生むための描写」などというものを一切度外視しているのです。これはこれまでの映画の文法では語れない一大事なのです。

 まともに観ていたら頭がおかしくなります。この映画こそがまさに現代的作法の体現なのです。ケータイ小説が近代文学の歴史に対し積極的な断絶を計ったことに符合し、この映画の人物たちも過去なるものを次々に忘却し、未来へと進んでいきます。レイプのくだりが終わればその残滓も余韻もなく、「はい、レイプのくだりは終わり。これからは流産のパートに映りまーす!」と声高らかに宣言し、まったく別の話に移行していく。これはつまり現代日本の直接的な風刺なのです。歴史を重んじず、次から次に流行に乗り、世間を騒がせた大事件も日々の話題として消費し何も学び取ろうとしないという、現代人の戯画なのです。

 この映画は駄作ではありません。駄作という呼び名はもっと別の映画のためにあるのです。これは等身大の女子高生を主人公とし、なおかつ超常現象的な出来事が何一つ起こらないにもかかわらず、きわめてポストモダン的かつシュルレアリスティックであり、我々が普通抱くであろう感情なるもの、心情なるもの、そうしたリアリティをはるかに超越しているのです。また、一見清純そうに見えてその実学校でセックスをしてしまうというのは、あのナンバーワンAVメーカー、エスワンが誇る人気シリーズ「学校でセックスしよっ!」を彷彿とさせる演出であり、それでいてまったくセックス的な気配を、もうまったく感じさせないという点においては、この上ない奥ゆかしさを感じずにはいられません。

 ことほどさように大変すごい映画なのです。ぜひ観てもらい、こんな映画が現実につくられたのか! と驚いて欲しいです。レイプも流産も難病もこれほど手軽に希薄に表現できる作り手たちの人間性を心底疑いますが、きっと、とても頭のいい人たちが作っているんだと思います。いや、皮肉ではありません。この作り手たちは、「狙って1点」をとっています。狙って100点を取るのも難しいですが、「狙って1点」をとるのはある意味もっと難しいのです。ストライクを取るより、一本だけピンを倒すほうが難しかったりするのです。バカな女子高生を泣かせる、というのは、ぼくにはできない芸当です。仮にできたとしても、バカな女子高生を泣かせつつ、同時に多くの映画観(えいがみ)たちを困惑させるなどという芸当はどう転んでもできません。それを軽やかにできてしまうのは、相当クレバーな人たちです。きっとこの作り手たちは、自分たちの人間性が疑われることもいとわず、新たなる表現を模索しているのでしょう。そうです。そうに決まっています。ぼくはこの作り手たちが、表現というものの未来をどう捉えているのか、とても興味があります。近代的価値観、評価軸に自ら背を向ける勇気が一体どこから湧くのか、そして何を目論んでいるのか、大変興味があります。

 えっ? そんなこと考えていないって? まさか、まさか。
 ただ女子高生相手のお金儲け、バカな観客相手のお金儲けをしたいだけだって?
 まさかまさかまさか。
 そんなはずはありません。だって、もしそうだとしたら。
 ぼくはこの作り手たちを殺しにいかなきゃならないじゃないですか。
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今回は映画評と言うより、黒沢清という監督に対する今のぼくの感じ方を書いています。
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 黒沢清作品というと、初めて観たのが確か『ドッペルゲンガー』で、その後『アカルイミライ』『CURE』『叫』『LOFT』などを観ています。現代日本の監督の中ではかなり評価の高い人だと思うのですが、正直ぼくにはどれもぴんと来ないんですね。理由は後述しますが、これまで観たどの作品も、映画的な愉しさにもうひとつ欠ける。青山真治なども同じ感じなんです。評論家受けもいいようだし、きっと色々と高尚なことが表現されているのだろうな、とは思うのですが、そこまで面白くないから、そこまで熱心に読解しようと思えない。

 日本の監督で言えば、やはり園子温が頭二つ抜きんでていると思います。頭ひとつ、と思っていましたが、あの『愛のむきだし』で、ああ、こら飛び抜けているなあと感じました。その点、黒沢清などの監督って、なんかいい感じに振る舞ってはいるけれど、園子温的なエネルギーを発していないんです。うん、そう、黒沢清に対して抱く距離感を表す言葉として、エネルギーというのがありますね。この人の映画には、あまりエネルギーを感じないんです。要はこういうことです。うまいとは思う。でも、すごいとは思えない。

 うまいと思う(どうもこの「うまい」という言葉は上からっぽくて駄目ですね、まあ何しろタイトルが「なにさま映画評」ですから)のは、たとえば今回の『回路』のホラー描写などはすごく優れていると思います。いわゆるエンターテイメントホラー、『呪怨』だとか『リング』だとか『着信アリ』だとかが流行りましたが、あの辺のホラー描写よりずっと怖い。ホラー映画、幽霊の描写などで怖いと感じることはほとんどないんですが、この映画の幽霊などは結構怖かった。ぼくはDVDを観るときいつも、夜な夜な部屋の電気を消して観るのですが、かなり味わいがありました。動き方なんかも不気味でしたし、ホラー描写の点では相当良質なものだと言えましょう。

 ところが、ですね。ぼくが黒沢清に距離感を抱くもうひとつの理由なのですが、結局この人は評論家に向けて撮っていないか? と感じてしまうからなんです。この人の目線が一般の観客のほうを向いているかどうかについて、ぼくは懐疑しています。今回の『回路』についても、正直後半の意味がわからないんです。評論家などが意味を解説したりしていると、ははあなるほどそうゆうことなのでごじゃりまするか、と思うのですが、物語の筋を追おうとしても、ぜんぜん意味がわからないです。これねえ、見せ方の部分でね、先ほど書いたように前半部、ホラーのいいところが結構あるんですよ。で、観客の立場としては、「前半でこんなに怖いのが出てくるのだから、後半ではもっと強烈なのがあるんじゃないか」と無邪気に期待してしまうんですよ。期待させるんですよ。周りの人間、脇役が無残な死を遂げていく、ああ、こんなひどい目に主人公も陥ってしまうのか、と思って観客はハラハラするんです。それは映画の大切な醍醐味だと思うんです。でもこの映画、後半は別に怖くない、というか、ぐじゅぐじゅどうでもいいことを話した後に、訳のわからない方向に行ってしまうんです。

 いや、評論家は言うと思いますよ。あの場面のあれはこうで、これはこうでと言うだろうし、そう思って観ればなるほど意味がわかるぞ、と思うかもしれない。でも一般の、映画を観て愉しみたいな、あるいは豊かなる表現に触れたいな、と思っている人間は、正直意味がわからないんじゃないでしょうか。一部の人にだけわかる表現で、それで満足している感じがしてしまい、その点がどうしても好きになれない。たとえばなんであの電車はやってくるのか、たとえばなんで有坂来瞳はあんな風になるのか、たとえばなんで街はあそこまで荒廃しているのか、なんで加藤晴彦がああなるのか。こちらが積極的に意味づけすれば意味はあるんでしょうよ。でもさあ、その意味づけをしたいな、この映画を読み解きたいな、と思うほどの魅力に乏しいんですよ。

 訳のわからなさは嫌いじゃないし、むしろ好きな方です。でもそれには映画的な、映像的な濃度が必要だと思うんです。その濃度があると、訳のわからなさがより味の濃いものになって、すごく強烈なものを観たなと思える。この監督の映画はいつもすかしている感じがします。だから訳のわからなさに気持ちよさがこもらず、恐怖の濃度も結局のところ萎んでしまう。一度、黒沢清監督には、ぜひ平明なエンターテイメントとしてのホラーを撮って欲しいです。中田秀夫監督などがホラー監督として有名ですが、きっと目じゃないと思うんです。あるいは世界の崩壊をもっとわかりやすい形で描いて欲しいです。この『回路』の荒廃した街の場面は、あの中で人物を惑わせたらたいそう面白かろうと思わせる風景でした。

 今日は同じことを繰り返しているだけのようですが、わかる人にはわかるんだよねえ、みたいな感じが好きになれないところですね。園子温などは、「わかるやつもわかんねやつも来やがれ! 祭りじゃ祭りじゃ! ええじゃないか!」というエネルギーを感じるわけで、なんかすんごいカロリーの高いもん喰ったな、胃もたれしちまいそうだけど旨かったぜ、と思わされるんですが、黒沢清の場合、「これは世界のセレブリティがお酒のつまみにしたり、もしくは遅めの朝食をとるときなんかに食卓に添えたりするんだよ。小雨がそぼ降る物憂い休日にさ、クラシックのレコードをかけながら窓の外を見てみるんだ。忙しい日々の中で、そんな朝にしか感じ取れないものって、きっとあるよね」的ないけ好かない感じもちょっとします(なんとわかりにくいたとえだ! 書いている本人もよくわかっていない!)。

 今日は映画評になっていないですな。まあ、黒沢清作品については、ぼくみたいな頭の悪いどうしようもないウジ虫の糞ほどの脳みそしかない人間には(卑下しすぎ)うまく語れず、もっと他の人の論評を読むのがお薦め、というわけです。
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核心部分の説得力の問題。それともぼくがずれているのか?
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現代日本に生きる一応の映画観(えいがみ)としてはシカトしておれぬというわけで、観てみました。あまり期待せずに観てみました。あれだけ評価されているということは、疑ってかかれということですから(ああ、いつからそんなひねくれた人間になったのだ)。

 この映画は意図的に非日本的につくられていると思いました。山形の田舎が舞台だというのに、主人公の本木・広末夫婦が暮らす家はどう見てもヨーロッパ的だし、山崎努の会社にしたって事務所の様子がやけにこじゃれていて所帯くささがないし、チェロというアイテムもまた欧米的な装置です。都会を離れて田舎にやってきた夫婦ですが、決して田舎と都会の対比はなく、あくまでも舞台は欧米的、非・伝統日本的なつくりを有しています。方言こそ田舎っぽいですが、全編を通していかにも田舎っぽい感じはない。この演出によって日本独特の儀式をより特化して浮きだたせるというわけでしょう。海外で評価される一因じゃないかとも思います。欧米人が入りやすい舞台設定ですし、日本映画というより洋画的な風合いが漂っていました。山崎努の振るまいなども、日本のおっさんという感じがあまりないですし、本木雅弘の端整な顔立ちはいわゆる日本的な顔ではないですし。

 撮り方自体もよく、物語の前半部は、ああ、確かに評価されるだけのことはあるなあ、と感心しきりでした。ただ、ただ、ただ、です。丁度中盤くらいで、激しい違和感がぼくを襲いました。ネット上で見られる予告編の場面にもあった、あのシーン。あれに違和感を抱くぼくのほうがおかしいんですか?

 主人公が納棺夫をやっているとなって、それを友人が蔑みます。納棺に立ち会った遺族がその場にいた不良をどやしつけるとき、本木を指して「あんな仕事につく人間になってもいいのか!」みたいなことを言います。これだけでも違和感があるにせよ、まあ田舎の考えというのもあるし、取材を重ねた結果ああいう状況が見えてきたというなら、まだわかるんです。ただ、広末があんな風に反応するというのがもうわからない。都会でウェブデザイナーをやっていた若い女性が、あれほどの忌避感を示すというのがついていけなかった。しかもそのときの台詞が、「触らないで! 汚らわしい!」です。汚らわしいって言葉、若い女性が使わないと思うんです。結構抑制の利いた、舞台設定こそ洋画的ではあるもののリアルな描写を続けてきたのに、あそこでもう、乗れなくなりました。

行定勲の『GO』でも同じような場面がありました。窪塚洋介演ずる主人公が在日朝鮮人だと知った瞬間、それまでいちゃいちゃしていた柴咲コウが急にすさまじい拒否反応を示す。これね、登場人物が年長者ならぼくは、ああ、まあそういう反応をする人もいるのかなあで済ませられるんです。でも、若い世代だったらぼくはちょっと信じられないというか少なくとも、そこまで嫌わないよ! と強く思ってしまう。ぼくがずれているんですか? 『GO』では柴咲コウの父親が朝鮮人を嫌っており、その教育を受けたというエクスキューズ(そう、まさに映画的エクスキューズ!)がありますが、この『おくりびと』の反応って、現代日本でそれも都会で暮らしていたような若い女性にとって、違和感のない描写なんですか? ぼくがずれているんですか? 納棺夫を穢れた職業だと、若い女性が思っているんですか?

 確かに古く、穢れの思想は日本にありましたし、死体を取り扱う仕事は社会的に身分の低い仕事とされていたというのもわかりますし、インドでは制度的にカーストが廃止されたとしても依然階層的差別は根強く、死体の処理は下層の人々の仕事だとも聞きます。確かに死体を扱う仕事に対する忌避感情は伝統としてあるのは認めます。ただ、現代の日本の若者が「汚らわしい!」と叫ぶほど嫌っているとは、ぼくはとても思えません。仕事を知って一度出て行った妻・広末ですが、子供ができたと言って笑顔で帰ってきます。ただこのときも、仕事はやめてほしいと言い続ける。「子供がいじめの対象になる」と言う。いや、あの田舎ならそうかもわかりませんが、日本全体を見渡したときに、いじめの対象になりますか? 

 もっとも、この辺の事情についてぼくは、自分の中にずれというか、普通一般の人より許容度が大きすぎるだろうなという自覚はあります。たとえばぼくに子供ができたとして、女の子だったとして、彼女が風俗嬢やAV女優になりたいと言ったとしても、特別に反対はしないと思います。どういう動機か、ということだけが問題で、その仕事に就くこと自体にはなんら問題を感じません。それはそれでとても立派な仕事です。BONNIE PINKの歌じゃないですが、「誰かの明日を支える素敵なお仕事」です。風俗嬢やAV女優などに対し、社会の男どもは皆「お世話になっている」。お世話になっているのだから、差別したりするのはおかしいと思うんです。でもこれはきっと、世間一般の感覚からはずれていますよね。だからぼくは納棺夫への忌避感についても、自分の感覚を信用しきれないのですが、あれはあまりにもぼくの感覚とずれていました。
 
 この映画にとってあの納棺夫の仕事が中心にあるわけですから、ここは大事なところなのです。あの反応が説得的であるかどうかは、この映画をどう捉えるかという点でとても大きな影響を及ぼします。海外で評価されるのはわかるんですよ。だって日本の感覚を知らないから。でも、日本人がこれを観て賛美する人が多いということはつまり、あの人々の反応を、その通りだと感じている人が多いということです。もしそうじゃなければ、「あんな反応、普通はしないよ」となるはずです。

 あの場面に説得性を感じられなかったぼくは、たとえば吉行和子の死の場面でも入り込めなかった。あのシーンで杉本哲太や広末涼子が何事かを感じる、みたいになるのですが、予定調和だなあと思って仕方がない。ただ、余計なことを言わせなかったのは救いでした。あの後杉本や広末が何をどう感じたのかということに触れないのは正解です。あのシーンの後、仕事を見直したみたいな言明があれば、それこそ最悪ですから。

 色々と文句を垂れてしまいました。もう少しだけ言わせてもらいます。
 最後の、峰岸徹扮する死んだ父親の場面。石を握っていたのが偶然すぎる、ご都合主義すぎるとかそんな野暮なことは申しません。映画的にはそれでいいですし、ああ、父親は息子を愛していたのだな、とわからせるためにはあれでいいんです。ただ、だったらもうちょっと息子・本木雅弘が父親・峰岸徹と別れたときの年齢をあげてほしい。六歳で別れて顔も思い出せない、と言うのですが、だったらあの場面で泣くかなあと思うんですよ。これね、もっと年齢を上にしておいて、それこそ中学生くらいで別れたことにしておいて、自分や母親を置いていった親父をもっと明確に憎んでいるとするほうがいいと思うんですよ、顔も思い出せないとするよりも。そうするとあの石を見てあの父親の長きにわたる愛情の継続を感じられ、父親に対する記憶の解釈が変じ(ここが大事)、一挙に記憶に対する印象の書き換えが行われるようになり、それで号泣に至ればもっと説得的になる。この設定だと、その印象を書き換えるためのもととなるべき、昔の記憶に乏しいんですよ。結局憎んでいるように見えながら、本木が思い出すのは最初から父との温かい記憶ばかりなんです。絶対別れた年齢は六歳じゃないほうがいいって! 父親だからというだけで泣いているように見えてしまうし、強がって嫌っていただけに思えてしまう。記憶の印象がダイナミックに書き換わるという運動性に乏しいんです。

この映画は対比に満ちています。洋画的背景と日本的儀式の対比、死者と残された生者の対比、宿った子供と死に行く子供の対比、活かされ流れゆくタコと喰われる生き物の対比、女と見えながら男だった人間の表層と内部の対比、大きくごつい石と小さな卵形の石の対比、登り行く鮭と死に流れる鮭の対比。だけれどぼくが長々述べた物語上最も重要と思われる部分の対比が、弱い。

撮り方、テンポ自体は安心して観ていられるし、笑いの部分もうるさくなくていいし、終わり方はあれが一番いいです。きちんと良心的につくられている分、なぜ肝心要のところでああなるのか、と思ってしまいました。
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