「ほっ」と。キャンペーン

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 人間の描写が薄いと思います。そこまでいいですか、これ?
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 映画は毎日のように観ているぼくですが、最新映画を観る趣味はなくて、よほど観たいと思ったものしか足を運びません。今年で言うと『愛のむきだし』は観に行きましたが、それ以降はぜんぜん行っていないし、いわゆる世間一般の映画好きに比して、ぜんぜん映画館に行かぬたち。いや、なんなら、別に映画好きじゃない人よりも行っていないくらいです。純粋に愉しむにはやはりぼくにはDVD、家で観るのが一番なんです。他の観客が気になることがあるからです。今回も、二つ前の席に座った老夫婦が鑑賞中何か喋っているのが気になって仕方なかった。二つ前だから注意もしにくいし。この点ぼくは大変神経質なので、なんなら前の席の人間の頭の影がもう気になる。あるいは他にすすり泣いている人がいると、ぼくは逆に冷める。

 ではどうしてそんなぼくがこの『グラン・トリノ』を観に行ったのかといえばひとえに、町山智浩だったり、その影響強い宇多丸だったりが激賞しており、宇多丸に至っては「これを映画館で観ようと思わないやつは映画ファンじゃない!」とまで言い切ったため、ほうほう、そらそこまで言うならよほどのもんなのじゃろうと思って行ってみたわけです。

 とはいえ、特別な期待を寄せていたわけではありません。というのも、ぼくはイーストウッド作品をそこまで好きじゃないんです。それほど数を観ているわけではないのですが、どうもこの人の作品には惹かれない。だから、まあ今回の映画で好きになれたら幸いで、足を運びました。池袋、シネマロサ。

 結論から言いましょう。
「そこまで言うほどかあ?」です。

 主人公、イーストウッド扮するウォルト・コワルスキーは朝鮮戦争従軍経験を持つ、フォードで自動車組立工をしていた老人です。物語は、彼の妻の葬儀のシーンから始まります。冒頭の場面から、このコワルスキーはいきなり怒っています。葬儀に来たガキどもがいたずらな言動を取るのを、低いうなり声を上げて睨みつけています。その後の場面でも、どうやらこの老人は周囲の人間があまり好きではないのだな、というのがわかってきます。息子の家族のことが嫌いで、うるさいガキどもと思っています。自分がフォードに勤めて育てたにもかかわらず、トヨタの車に乗っている息子のことも嫌いです。青臭い若造のくせに、神父としてえらそうに説教を垂れるのも嫌いです。隣に越してきたモン族(アジアの山岳民族)のことも嫌いです。とにかくみんな嫌いで、話し相手と言えばせいぜい古い友人ばかり。家に閉じこもり、静かな生活を乱すやつには銃を向けて威嚇し、孤独に暮らしています。この設定は好きです。この老人の設定は、最初のほうからかなり好感が持てました。というのも、ぼくもおそらく何十年かしたら、このような頑固じじいになることが予想されるからです。自分より年下の人間がちょけているのを観ると無条件にむかついてくるぼくであり、特に中途半端に不良的な、群れることで活気を増すような連中は大嫌いでありますから、このコワルスキーの造形には相当惹かれます。要するに、序盤のコワルスキーというのは、「もうみんなうるさい! 俺は静かに暮らしたいんだ。あ、俺の領域に入ってくるな、あっち行け」という、頑固かつ引きこもリスティックな人物でありまして、これはぼくとしては大変共感できる人物なのであります。

 そんな彼が不良を追い払ったことから、お隣のモン族の若い娘スーと親しくなります。この辺のくだりは好きです。イーストウッドが好きになれない理由の一つが、あのいつでも崩れることのない頑ななしかめっ面にあるのですが、このモン族との交流のくだりにおける彼は大変にキュートで、あ、この映画はよいかもしれないぞ、とさらに好感が持てます。鏡の自分に向かって「誕生日おめでとう」と言ってみたり、モン族の人と食事をしているときにも「後で戻ってくるから皿は下げないでくれよ」と言ってみたり、あれ? 今までぼくが抱いていたイーストウッドイメージと違うぞ、なんてキュートなんだ! と思わされ、なるほどこれは評価の高い作品だけあるなあと一人観ながらにやけていたのです。孤独で無愛想な彼がモン族の娘に誘われて食事に出向く場面でも、「まあいいか、今日は誕生日だしな」みたいな感じで、この辺の照れというか、あまり優しくされるのになれていない人間が心を開くさじ加減、もうぼくみたいな人間にとってはこの上なくはまる描写であったわけです。

 かたや、この物語ではモン族の少年、タオがキーパーソンになります。タオは意気地のない弱々しい少年で、不良連中からもいじめられています。彼とコワルスキーとの交流がこの物語の根幹をなします。タオの弱さを軽蔑していたコワルスキーですが、これもまた次第に打ち解けてきて、最後には非常に重要な役割を持つに至るわけです。

 ここまで書いている分には、この映画、文句なしなのです。ではどうしてぼくは「それほどかあ?」と思ったのか。

 さて、ここまでの話なら別にネタバレというほどではないでしょうが、これ以後は物語上重要な話もさせてもらいます。公開中につき特にネタバレの注意を促します。はい、ぼくは注意したので、後はもう知りません。基本的にここからは観たのを前提で話したいと思います。

 あの不良連中にタオがいじめられ、それに怒ったコワルスキーが報復に出て、そのまた報復という形でタオの家に銃撃、スーに至ってはぼこぼこにされる(明言されてはいないものの、まあレイプもされているのでしょう)。いよいよコワルスキーも我慢の限界。相手の家に乗り込みますが、でもいわゆるヒーロー的な復讐劇ではなく、自分を撃たせることによって法の裁きに委ねるという、復讐の連鎖を自らの死で食い止め、かつ報復としての役割も演ずるという、まあとても格好いい結末があるわけです。ここで観客は号泣、実際ぼくが観たとき客は少なかったものの、泣いている人もいたわけです。

 ところが、ぼく、ぜんぜん心を動かされなかった。
 やっぱりぼくは、イーストウッドという人が持つ、あるいはこの人の作品が持つ、クールな部分に惹かれないんです。この映画も相当クール。だから、そこまで愛せない。

『ミリオンダラー・ベイビー』のときも書きました。人物が綺麗すぎて、そこまで愛せないのだと。『グラン・トリノ』とあの作品は、似ていると言えば似ています。親類は信用に足りないという点もそうだし、それまで心を開かなかった相手に対してどんどん愛情を強めていく点も一緒だし、その相手がひどく傷つけられるところも似ている。もっと言うと、敵になるのは単純に悪いやつ、という簡単さも似ている。あの作品に比べれば今回の『グラン・トリノ』はずっと好きです。好きですが、この監督の人間の描き方って、どうしても綺麗すぎる気がしてならない。あるいは踏み込んでいないように思えてならない。今回ので言うと、スーとタオはもっと色濃く描かれていてもいいんじゃないかと思えてならない。そしてコワルスキーはもっと格好悪くていいと思えてならない。

 ぼくね、これは白状しますけれども、スーがぼこぼこになって帰ってきたあの瞬間、笑ってしまったんです。うわ、わかりやすっ! と思って。スーはどうしたんだろう、帰ってこないなあ、心配だ、あ、帰ってきたぞ、えっ、ちょっと……なんてことだ! というあの流れがもうわかりやすすぎるというか、すっごい単純な流れすぎて、ぼくは笑ってしまった。そのとき気づくのは、ああ、ぼくはスーという人間にそこまで愛着を持っていないのだなということでした。いや、スーの顔は可愛らしいと思うし、コワルスキーと打ち解けていくくだりでも何の文句もないし、スーはいいんです。でも、彼女が傷つけられたことについて、コワルスキーとともに怒れなかった。ここなんです。彼女が、まあタオでもいいですが、彼らが傷つけられたことにコワルスキーと一緒になって怒れるか。ここがこの映画に強く感じ入れるかどうか、です。ぼくは、怒れなかった。どうしてかなあと思うに、要はあのスーが、親切で気のいい隣人という域を出ていないと感じたからです。愛するものが傷つけられて主人公が怒る、というのはそれこそ映画のド定番ですが、だからこそその対象は「愛するもの」でなくてはならない。この映画ではいけ好かない孫娘が出てきます。彼女との対比で、スーがいい子として印象づけられるよう仕向けられています。なるほど彼女は無愛想なコワルスキーの心を開いたいい子ではあります。ただ、ただ、ぼくの印象としては、いい子止まり。それこそコワルスキーは最愛の妻を失った後で、あのスーはもっと愛情の矛先に転じてもいいはずなんですが、そうなっていない。『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクもそうでした。イーストウッドにとって、真にかけがえのない存在として映ってこないんです。この子がいなければ自分はこの先進んでいけない、というほどの存在にまでなっていないんです。「愛するもの」が傷つけられる話を数多観てきたほうからすれば、このスーの存在感はあまりにも弱い。ぼくがスーのあの場面で笑ったのは、むろんぼくが非倫理的な嗜虐家だからではありません。いかにも強引に、作劇上の「必要な展開」として傷つけられた作為ぶりに、失笑してしまったのです。

 これはタオへの愛情の話にも繋がります。コワルスキーのスーへの愛情が見て取れない以上、彼女の傷について痛みを得るには次の二つの条件が必要になります。すなわち、コワルスキーが強くタオを愛していること、そしてタオがスーを強く愛していること。この二点が守られて初めて、彼女の傷が意味を持ちます。ではこの映画ではどうか。はっきり言えば、どちらも雰囲気というか、やはりその点の描写が弱い。コワルスキーはタオがいなくても生きていけるし、タオとスーはただ家族であるというだけのことで、タオは無愛想ではあるけれど本当にこのスーのことが好きなんだなあと思わされない。いいですか、大事な話です。このイーストウッド、『ミリオンダラー~』もそうですが、彼は「肉親」というものを、基本的に信頼していないんです。「肉親であるというそれだけで愛するに足る」という思想を、彼は否定しています。だったら絶対、タオとスーの関係はもっと強く描かれなくてはならないはずです。タオがスーへの暴行に怒った理由を「だって家族なんだから!」ということにするのは、絶対通用しないんです。ああ、このタオはスーという姉貴を心の底では本当に愛していて、大事に思っていて、頼っているんだな、という描写が必要です。それがない!

 今日もどうやらながーい記事になりそうです。
 もうひとつ、イーストウッドのコワルスキーの描写です。随分上に書きましたが、ぼくはこの男が基本的に好きです。だけど、結局彼の最後の戦いが、今まで述べたとおりのところからわかるように、「戦わずにはいられない」と感じられないんです。言ってみれば彼が従軍した朝鮮戦争みたいな話です。別に自分の争い(=本国の争い)じゃないから、そこまで戦いに逼迫感がない。そしてどうしても守らねばならないものにも見えないから、彼が戦うところに濃度がこもらない。最後、あの終わらせ方は好きです。復讐の連鎖を止める、そのための手段としてああいう方法をとるのはぼくは格好いいと思います。だから非常にもったいないと感じます。描き方が弱い。これなら、たとえば『ターミネーター2』のシュワルツェネッガーのほうが格好いいです。今まで散々守ってきてくれたあいつが、あんな最期を!と思わされます。

 ことほどさように、今回の『グラン・トリノ』。ぼくはやはりイーストウッド映画のよい観客にはなれませんでした。どうしてそこまで激賞されるのか、よくわからない。この人が持つ薄さ、クールさには、どうしても惹かれないんですねえ。
 ここまで読んだあなた、つわもの万歳。
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 これはまさに監督自身の狂い咲き。
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 石井聰互はこれを、大学の卒業制作としてつくったそうです。これが大学の卒業制作だって!? おそらくはあらゆる表現のうちで、今現在までに至っても、史上最強の卒業制作と言えましょう。いたく感銘を受け、DVDボックスまで買ってしまいましたよ!(それにしても、何故ボックスには『爆裂都市』が入っていないのでしょうか。いまだ観られずにいます。誰か理由を教えてください。)

 不良たちの争いをモチーフとしていますが、実際は山田辰夫扮するジンという男の戦いに焦点を当てています。この山田辰夫がすごい! とにかく命知らずの男で、もう無茶苦茶に暴れ回ります。この頃の日本映画にはすごいエネルギー、あるいは魅力を持った主人公が数多く出てきますね。長谷川和彦の『青春の殺人者』(1976)なら水谷豊、『太陽を盗んだ男』(1979)なら沢田研二、前に述べた今村昌平『復讐するは我にあり』(1979)の緒形拳、そしてなんと言ってもこの頃のスターには、松田優作がいます。日本ではかつて五社体制の頃、各社専属のスター俳優がいたわけですが、それが崩壊した後の時代でも、このようにすごい魅力を放つ役者がおり、またそうした役者を活かせる映画がばきばきつくられまくっていたわけですね。今はどうでしょうねえ。役者が香り立つ映画ってなくなっていますねえ。せいぜいバラエティに出てへらへら宣伝してろ馬鹿! と言いたくなりますねえ。そうでなくても、映画に沢山出てバラエティに出ないような人でも、たとえば浅野忠信とか、オダギリジョーとか、加瀬亮とか、どうも薄口の人、もしくは「一癖ある俺」的な人ばかりです。エネルギッシュな人がいないですねえ。窪塚洋介に大変期待していたぼくとしては、彼が俳優業をほとんどやらなくなったことがとても残念です。

 山田辰夫の顔立ちが本当に狂犬の相貌なんです。ああ、向こう見ずな男だなあという顔。何十人の不良とたった数人で戦わなくちゃ行けないというときでも、こいつは一貫して一切怯まないんです。もう四六時中アドレナリン出っぱなしみたいなキャラクターで、もうどうしようもないわけです。で、ぼくにとってさらに嬉しいのは、この山田辰夫が恋愛などに現を抜かさないことです。セックスはしても恋愛の描写は一切無い。恋愛の描写って必然的に、こいつは対話可能な存在なのだな、という描写になるんです。恋愛があると、どんなに暴れても、なんか人を愛するってこともわかっている、優しさもある男なんだな、と観客に伝わってしまうわけです。でもこの山田辰夫のジンはそんな側面をまったく見せず、とにかく暴れまくる。だから怖いんです。ここが実に潔いです。ああ、孤独なやつだな、そして孤独だってことを自分ではよくわかってないんだな、というところに大変好感が持てます。

 ものすんごく勢い重視の映画で、話の筋自体は無茶苦茶と言えば無茶苦茶。面白優先型です。すごい詰め込み方ですね。とにかく面白ければ何でもあり、と言った具合で、クライマックスはもう日本映画史上最高級の炸裂ぶりではないでしょうか。おそらく石井聰互はサム・ペキンパーが大好きで、この映画を撮るときにも影響を受けていると思います。少人数で大集団相手に戦いに行くところとか、銃撃戦のスピード感とか、『ワイルドバンチ』ですもん。『逆噴射家族』は『わらの犬』ですね。終盤、あの街並みがいいですね。あれはどこの街なのでしょうか。日本っぽくなくて、中国かロシアか、そんなようなところの街っぽい、非常に面白いロケーションです。あんな街の中で、あんな銃撃戦をするなんて、勢い大爆発です。めちゃくちゃですから、手練れの映画人ならやらない。でも、もうとにかく若さ漲る勢い、これには惚れる。圧巻。

あのジンが武装した格好は、何のパロディなのでしょう。映画に詳しい人、教えてください。明らかに何かのパロディなんですけど、何でしょうね。で、その前の、片手片足が切られるっていうのも、この映画のすごいところです。普通主人公をあの状態にはしないですもんね。普通の映画なら、主人公はなんだかんだあっても、大した傷を負わず、負ったとて回復可能なものにするじゃないですか。でも、この映画はそうじゃなくて、片手片足を切られてしまう。おいおい、大丈夫かと思わされます。最近でも『プラネット・テラー』とか『片腕マシンガール』とかありますけど、あれはその部分を兵器にするわけでしょう。でも、この映画はそこはあえて飛ばずに、あくまでも弱い部分として描くからいいわけです。だからこそ、ラストのあの少年の台詞が活きてくるわけですよ。

 細かいところも面白いですねえ。
 小林稔侍が右翼の頼れる人物として出てくるのですが、彼がホモというのが面白い。あらためて観ればなるほど、いかにもホモっぽくて、あまりのはまりぶりに笑ってしまいました。漫画みたいでした。ホモとして描かれる必要も別にないんですが。明らかにタチのほうである彼と、思い切りネコっぽい部下の対比も面白い。ああ、こいつはネコだなあと、これまたはまっている(タチ=掘るほう。ネコ=掘られるほう)。
役者で言うと、ジンのもとの兄貴分の彼女がいい。丁度いいです。すんごく丁度いいです。ああいう丁度良さは大好きですねえ。

 80年代最強の監督といって多分間違いない石井聰互ですが、90年代以降はどうなのでしょうか。大学の卒業制作であれをつくった人なら、はっきり言ってその時点ではスピルバーグや黒澤明をも超えていますよ!ものすごいやつが現れた! と映画界騒然だったはずです。でも、今の彼はあまり巨匠とはなっていません。知る人ぞ知るみたいになっていますし、石井聰互の名前はやはり80年代の作品がその代表になっている。「早熟の天才」であったのでしょうか。30、40代で芽吹く監督と違って、早くに咲きすぎた人なのでしょうか。そうならばなるほどまさに、この作品は石井聰互自身が「狂い咲き」した時代のものなのでしょう。
 
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 今いちばん面白いテレビ番組の話。

 基本的にテレビはまったく観ず、もっぱらネット上にあがった動画をオンデマンドで観るような生活を送っているぼくですが、唯一リアルタイムで視聴しているのがこの『おねだり!! マスカット』です。テレビ東京で月曜深夜2:00から放送されている30分のバラエティ番組ですが、これは大変に面白く、生活の潤いになるものです。この番組が終わったら泣くと思います。

 大きな特徴としてはまず、AV女優がやたらと出ています。ぼくはかねてより、AV女優を主役に番組をつくったら面白かろうと思っており、実際にAVメーカーの面接に行ったときそれを主張したり、構成作家の高須光聖に会える機会があったときにもそのような提案をしたりしました。そんなぼくですから、こうした番組は実に好ましいのであります。

 これは別にぼくが大のAV好きであることを意味しません。というか、別にAVを好んで観ることはありません。自宅にあるAVも数えるほどですし、レンタルビデオ屋やツタヤディスカスでは映画しか借りません。ゆえにぼくはAV好きではないのです。では何故にぼくはAV女優を押すのでしょう。

少し話が逸れます。
 20世紀映画史、芸能史に残る美女と言えばマリリン・モンローがいます。アメリカにおける美女として彼女以上の知名度を誇る人はいません。では彼女の魅力とは何かと言えば、思うにそれはただ容姿の問題ではないのです。彼女の魅力の大きな割合は、そのコメディエンヌ的才覚にあるのです。ビリー・ワイルダーやハワード・ホークスといった名匠の作品における彼女は、その中でコメディエンヌ、喜劇人としての才能を発揮しています。単に美しい女性、女優なら他にも山ほどいる。その中で彼女が際だつ存在となったのは、その喜劇的才能ゆえと言ってよいでしょう。1948年の独占禁止法に伴いスタジオシステムが崩壊した50年代アメリカ映画は、日本より早くテレビ普及の影響を受け、なおかつ世界大戦後の冷戦やそれに伴う赤狩りによって、かつてのような映画を保てなくなりました。日本では1930、40年代と言えばそれこそ戦争へと進んでいく悲壮な時代のイメージがありますが、アメリカにおいては映画文化絢爛なる時代であって、むしろ戦勝国アメリカはその後の冷戦にこそ脅威を感じたわけです。そしてアメリカ映画は60年代、あのアメリカン・ニューシネマに代表されるように、それまでの夢と希望を謳うハリウッド的文化と大きく決別した作品群を輩出するようになります。アメリカ映画における50年代はコメディタッチの作品が数多くつくられた一方、上記の意味で決して幸福な時代と呼べぬ側面もあるわけです。その中においてこそ、マリリン・モンローは光りました。彼女が映画で活躍したのはもっぱら50年代。『紳士は金髪がお好き』『七年目の浮気』『アパートの鍵貸します』などのコメディ群の中で、マリリン・モンローは特段の輝きを見せたのであります。

 話がものすごく逸れました。『おねだり!! マスカット』の話でした。ぼくがAV女優を押すのは要するに、彼女たちのコメディエンヌ的側面に惹かれるからです。これは普通のアイドルとは大きく異なるのです。他にもアイドル番組は数多くあり、いまや女子アナさえもアイドル視される時代です(2005年頃まで女子アナ大好きだったぼくですが、もうついていけません。世間が彼女たちを本気でアイドル視するようになっては駄目なのです。『アヤパン』がよかったのは、「アイドルではないものがアイドル的たりうる」というネタ性があったゆえであり、そのネタ性を加速させたからです。今はベタになってしまいました。女子アナの番組が乱立したり、アイドル扱いされてはもうどうしようもありません)。しかし、一般のテレビ業界のアイドルたちには(むろん女子アナには)できない振る舞いがAV女優にはできます。

 彼女たちはやはり裸で勝負している、裸でファックする自分を見せているだけあって、思い切りがよいのです。凡百のアイドルは自分を可愛く見せることばかりに気が行くし、事務所もいかに可愛く見せるかという凡庸な努力ばかりをし続けるわけですが、この『おねだり!! マスカット』はいかに馬鹿馬鹿しく進めるかを考えている。そもそも彼女たちはファックで利益を上げられます。彼女たちの容姿的、肉体的魅力は既に保証されている。だからこそ、その辺のアイドルのように可愛さを必死で打ち出す必要がなく、むしろ堂々と馬鹿馬鹿しい方向に進めるわけです。そしてなおかつ、下ネタへも進むことができる。これは非常に画期的なのであります。また、注意しておくこととして、この番組は別に下ネタを押していません。というか、下ネタが出てくることのほうがずっと少ない。それでもさすがAV畑の人たちだけあって、それを活用できるときはちゃんと活用する。これはアイドルや女子アナ風情のお愛想とはまったく違う代物です。

 芸人には無理な方法です。お笑い芸人たちがどれだけ集まっても無理です。というのは、男の発する下ネタ、あるいはブスな女芸人の発する下ネタは、美人が発する下ネタを代替できないからです。美女だけが生むことのできる笑いを開拓している、という意味で、この番組は笑いにおける画期的事態を認めることができます。

 さらに言うなれば、アイドル番組としてのオールスター的な魅力があることです。アイドルユニットは個々の存在が魅力を持たねばなりません。五人でひとつ、というのでは駄目なのです。あの人もいる、この人もいる、ああ、なんと層が厚いのだ、というオールスター性が重要なのであり、一線で活躍するアイドルグループには皆これがあります。一時期のモーニング娘。にあって、今の彼女たちにないのがそれです。
 この番組の「恵比寿マスカッツ」は大変に層が厚いです。人数の多さは問題ではありません。蒼井そらをリーダーとし、みひろ、吉沢明歩、Rio、麻美ゆまなどの大変豪華なメンツが機能しており、小川あさ美や初音みのり、西野翔やかすみりさなどがさらにそれを支えます。巨人じゃないですが、四番がたくさんいるのです。そのうえ一番も二番も六番も七番も八番もすべて揃っていますし、エースもクローザーもいます。大変に豪華な顔ぶれなのです。
  
 おぎやはぎや大久佳代子を置いたのも頭がいいです。彼女たちを活かすには、あまり前に出る芸人を置くべきではない。前に出る芸人では、「恋のから騒ぎ」になってしまいますし、それではアイドル番組として機能しない。非常にものをわかっているキャスティングと言えましょう。小木が特定のメンバーを贔屓するなど、微妙な面白みもあってよいのです。小木のセクハラは何度観ても愉快です。

 しかし一方、人数が多くなりすぎている感は否めません。ここは難しいところです。
 この番組の濃度は30分に凝縮されているからよいとも言える。「ガキの使い」や「笑点」があれだけ長く続いている理由は、その時間内でぎゅっと凝縮しているのが大きいでしょう。30分では物足りない、からこそいい、というのがこの『おねだり!! マスカット』にはあります。ただ一方、どう考えても要らない人まで出てくることがあり、これは残念です。この大変にハイレベルなアイドル番組には似つかわしくないブスがいたりして、こうなるとアイドル番組としては残念なところです。ブスが馬鹿らしいことをやるのはもう他の番組でやっているから、要らないはずなのです。ブスが出てくると一気にテンションが下がります。もっとRioを出せ! アッキーを映せ! みひろを活かせ! 恵を映すな!ユリサを降ろせ! ゆまちんを映せ! パンツ見せろ!(あほやがな)。

 アイドル番組の醍醐味は、何度観ても快楽があることです。というのは、観るたび違うところに目が行き、このカットではこの娘がフィーチャーされているけど、後ろで映っているあの娘の笑顔がいい! という悦びがあるのであり、何度も観られるのです。正直な話、可愛ければ何でもいいです(あほ爆発)。

『おねだり!! マスカット』あるいは前身の『おねがい! マスカット』はテレビ史上初のAV女優のバラエティ、というわけではありません。この前にも、板尾創路が出ていた『淀川★キャデラック』などがあります。しかし、あの番組は少人数なうえにロケを行ったり、妙にエロを前面に押し出しすぎた演出をしたり、あるいは板尾がその存在感ゆえに邪魔になったりと、今の『おねだり!!』に比べると、アイドルを愛でる愉しみにかけるところが大きかったものと思われます。またSODの層は北都の層と比べても、やはり薄い。ここは業界トップ北都の強みです。

というわけで、まだまだ書き足りないことは多いですが、かつて大変にテレビっ子であったぼくから観ても、この『おねだり!! マスカット』は大変に優れた番組なのであります。どうか末永く続いて欲しいものであります。
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ネット上の無償映像に負けている、「観客に丸投げ」型ドキュメンタリー
 
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 ともすればゾンビ系スプラッター映画のタイトルにも思えますが、屠畜、屠殺の現場、農場の様子を捉えたドイツのドキュメンタリー映画です。屠殺とか動物の扱いとかについては興味がないわけではないぼくなので、興味津々で観たのですが、いやあこれはなかなか眠たい代物でした。後半三十分くらいはほとんど飛ばしながら観ました。普通映画を観る場合ぼくは飛ばさないようにしているのですし、最後まで付き合おうとするのですが、耐え難いくらい退屈になったわけです。

 こういうドキュメンタリーは、というかドキュメンタリーというものそれ自体が宿命づけられることだと思うのですが、やはりこちらが観たことのない映像、ショッキングな映像、あるいは見過ごしていた出来事等々をいかにインパクトを持って伝えるかってことが醍醐味であろうし、そうでなければ『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三のような、あるいは『新しい神様』の雨宮処凜のような、一風変わった、いやかなり変わった人々の生き様を映すなどによって、興味が持続するわけです。

 ではこの『いのちの食べ方』はどうかといえば、いやあ、どうにも「それは知っている」というものばかりでした。それくらいのことはわかっているよと。もっと、えげつない画が欲しいのだよと思うわけです。なんなら、肉食の生活にたとえ一時的にでも忌避感を与えるような映像が欲しいわけです。いや、中にはあります。牛を屠畜銃によって一瞬で殺す映像とか、豚の体を切り刻む映像とか、鶏の毛を機械で切っていく映像とかあります。植物でも農薬散布の場面や(まあ農薬かどうかもわからないくらい説明に乏しいんですが)、お花畑の花を農薬で全て枯らす場面なんかも出てきます。だから今までにこういうのを観たことがない人にはショッキングに映るかも知れない。でも、ぼくは前に大学の講義でこの方面のものを受けて、ネット上でこの方面のショッキングな動画を観たりしたので、それに比べれば何でもない。つまり、ネット上でヴェジタリアンや動物愛護の人々が無償で提供しているメッセージに、明らかに負けているんです。

 かなり最初のほうから、「あれ? これ、映像素材そんなにないのかな?」という、水増し感があります。普通のおばさんがただ黙々とパンを食べているところを映したり、煙草を吸っているだけのおばさんをしばらく映したりしているんです。何の意味があるのかさっぱりわからない。全編を通して台詞が一度も出てきません。ありのままを撮りたいみたいなことでしょうか。ありのままおばさんが煙草を吸っているところをただ映して、それが何だというのでしょうか。もうそのペースでだらだらだらだら続くんです。ただの風景を撮ってみたりね。あのさあ、そういうので時間稼ぐの、やめてくれる? それが映画的な「間」ならいいわけですよ。でもずっと「間」なんですよ。それを「間延び」と呼ぶわけですが。

 抑揚ってものが何もないんです。ただ撮って、切って繋げているだけです。メッセージ性をこめず、ありのままを映すことそれ自体が悪いわけではもちろんありませんが、だったら映像にインパクトが欲しいわけです。そのインパクトさえも演出的だから駄目だと言うんですかね。じゃあこの監督は「これを観て何かを人それぞれ感じてください」って丸々観客に頼り切っているわけですよ。観客は何かを感じるとして、おまえは何を伝えたいんだよ! ということです。これでいいなら、普通のその辺の人の一日を追っただけでもいいわけですよ。それなりにその人物の過去や現在が見えて、ドラマティックになったり「人生」について考えたりできますよ。そんなのと同じレベルです。

 これはなんかヨーロッパ的な甘さが噴出しているなあと思います。アメリカでこれを撮ったらもっとえげつない作品ができますよきっと。アジアならもっと泥臭い、衝撃的な事実を映しますよ。そういうのもないんです。悪いけれど、この映画を観たところで、観客は普通にハンバーガーショップに行きますよ。そうでない人、ショックを受けるなんて人は、よほどこの世の中が綺麗だと思っている人なんでしょう。いやいや、これくらいのことは予想できるって。

 特典でついているドキュメンタリーもこれまた哀しいです。日本のインタビュアが訊いているんですが、もう頭の悪い質問ばかりするから訊きたいことが何も訊けない。訊きたいじゃないですか、監督が肉食文化をどう捉えるかとか、食肉産業の実態についてどう思うかとか、動物倫理に関してどういう思想を持っているかとか、それなのに、監督がきっかけを問われ、「食肉業界のスキャンダルがあったんだ」と答えます。するとこのインタビュアは「スキャンダルの内容は具体的には何ですか?」と尋ねます。監督はそれに対し「食肉製品の飽和状態が数年前にあり、それを問題にされていたが、今では誰も言わなくなったので自分がこの題材を取り上げようと思った」みたいなことを答えます。それなのにインタビュアは、「毒物混入とか産地偽装とかそういうことではなくて?」とか訊くんです。帰れよ馬鹿! 日本で話題になっていただけだろそれは! この映画がテーマとしている(であろう)ことと何も関係ないだろ! 監督の発言とまるで関係ないだろ!   ぼくはこういう頭の悪いインタビュアが本当に大嫌いです。この映画を観た上でそんな質問をするってことは、ああもう何も考えていないんだな、ワイドショー脳なんだな、と思わされます。しかもこのインタビュー、変なところで突然終わるし。

 ことほどさように非常にどうしようもない映画体験でした。
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原田知世が出ている。もうそれだけの映画。
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有名作品を逆に観ていないようなぼくですから、大林宣彦監督で言うとたとえば「尾道三部作」なんてのも観ていないんです。『時をかける少女』を観ようかと思っていたら、ビデオ屋からいつの間にか無くなっていて、じゃあもういいやみたいな感じになりました。その代わりと言ってはなんですが、同じ原田知世主演の『天国にいちばん近い島』を観てみました。この頃の大林宣彦は今の三池崇史みたいにとにかく撮りまくっていますね。玉石混淆と言ったところでしょうか。ちなみに本作はぼくの生まれた日の五日前に公開されたようなのですが、いやあ、哀しいかなこれは玉石でいえば「石」ですね。いや、「石」は悪くないんだ。個人的に「石」が悪いと言われるのは心外だ(意味不明な怒りだと思ってくれてよし)。

 率直に言って、苦痛でした。これは観ていて苦痛でした。何度途中で観るのをやめようと思ったことか。眠いし歯も痛くなってたし(それはおまえの問題)。原田知世のアイドル映画なわけですが、もうはっきり言って原田知世以外何も観るものがない。しかも原田知世が大きなメガネをかけていて、まあこれはメガネを外したときの素敵さが光りはしますけれども、それでもメガネはもう途中からまったくかけてなくていいよ! とは思いますが、これはたまたま原田知世を見かけたぼくが言っているだけであって、当時の原田知世ファンはきっと、「知世ちゃんのメガネ姿もいかすジャン!」と思ったでしょうからまあそれはいいです(結局何を言いたいのだ)。原田知世は可愛いです。怜悧さと清潔さと純粋さとあどけなさとか弱さと可愛さと、「この先こらええ女なりよるで」感が漲っているため、原田知世は素晴らしいです。歌手として活動しているだけあって、声質もよいですね。ちょっと山口百恵っぽいニュアンスもあってよいですね。原田知世はよいのです。ただ、それだけです。もうそれ以外の要素がきっついことになっています。

「天国にいちばん近い島」、ニューカレドニアが舞台ですが、まあ風景の綺麗さがこの映画のよさだとして、今では既に対応年数、賞味年数をとうに過ぎています。今さらニューカレドニアが綺麗だねなんて話をされても散々テレビ等々で観ていますので、これについては今ではこの映画の魅力とはなりません。

 問題は役者と脚本です。これはひどいことになっています。ぜんぜん面白くありません。役者について言うと、峰岸徹が出てくるのですが、こいつが単にいいやつになっていてちっともスリルがないんです。峰岸徹の役はまあ要するに体のいいナンパ師みたいな役ですが、それならそれでもっと下心を出して16歳の知世ちゃんを押し倒し、わあ! きゃあ! やめて! 離して! 観ている側としては、おい! 知世ちゃんになんてことをするんだ! 彼女を離せこの野郎! わあ、知世ちゃん、知世ちゃあん! となってくれりゃあ面白みも出るんですが、単にロマンチックなキザ野郎なので、何もどきどきしません。いやしかし、ここはですね、この峰岸徹が出てくるくだりでは、実は正しい見方というのがあって、それはつまりあの峰岸徹に感情移入して知世ちゃんと戯れるという見方がいいのです。そうするとなんと愉しい気持ちになるでしょう。「天国にいちばん近い島」を探しているのかい、ふふふ、何を言っているんだ、ここが既にそうなのさ、何故かって? だって目の前にいる君は天使そのものじゃないか! とでも言いたくなるのです(あほ)。

 だからまあ峰岸徹のくだりは、前半でまだ興味も保てていたし、まだいいのです。ただ、あの高柳良一という役者が最悪です。もう、棒読みとか台詞っぽいとかを通り越して、朗読みたいになっています。単に文章を朗読しているようなしゃべり方です。でもこれは彼が悪いとも限りません。演出が糞なのかも知れません。さすがにいくらなんでももっと演技ができるはずです。彼の役はニューカレドニアで生まれ育った日系三世という役どころで、監督としては日本語を使うのに難儀している青年みたいに描こうと思い、だからこそああやって丁寧すぎる朗読的台詞を吐かせたのかも知れませんが、それならもっと、現実的な「拙さ」に行けよ! あるいは親以外に日本語話者がいない環境なんだから、親の言葉をそのまま模写しちゃったみたいな変なしゃべり方でもいいじゃないか! なんか、新興宗教の勧誘みたいなしゃべり方なんです。「ありがとう、素敵な言葉です」みたいな。いや、わかるよ、この映画はニューカレドニアが舞台の、ファンタジックな描写が必要なアイドル映画だってことくらい! だとしてもあの青年の住環境と彼の言葉遣いが合ってなさ過ぎだろう! 妹の子役はすごくいいんですよ、『となりのトトロ』のメイみたいで、歩き方とかもすごく可愛らしいんですよ。なのに肝心のあの男は何をやってるんだよ! もう会話じゃないんですよ。一人で朗読しているだけだから、ぜんぜん知世ちゃんとの繋がりができていないんだよ! それならもういっそのこと、峰岸徹に暴れさせろ!

 で、この映画がどうしようもないのは、後半でそれまで一切出てこなかった訳のわからないババアとおばさんが出てきて、海に繰り出して涙ほろりみたいなシーンがあって、あれ何なんだよ! 戦争の何たらを描きたいならもっと別の映画でやってくれ! それだけならまだしも、おばさんと峰岸徹のくだり。あの眠たいくだり。もうこの映画は知世ちゃんが出ていないシーンにはひとかけらの意味もない! 快楽もない! あのおばさんのおかげで日本に帰れてよかったね、みたいになって、一応物語上の意味はあるんですが、それならいっそのこと峰岸ともう一回カジノでも行かせろ! 何も面白くない!

知世ちゃんを愛でる以外に、もう何の快楽もない映画です。
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映画が映画として真摯であるためには、無辜な子供だろうが何だろうが殺すべきだ。 
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 なるべく毎日更新を心がけている当ブログですが、今後はそのペースをちょっと落としたいと思います。2、3日に1回くらいにしたいと思います。ちょっと違うことに時間を割かなくちゃいけないのもあるし、何よりこのブログはコメントが少なすぎるわけです。こうなると書いているほうとしても張り合いが無くなります。まあもとより自分のための備忘録的な意味合い、映画体験の濃密化を図るために書いているもので、人がどうであれ関係ないと言えばそうなのですが、どうにも返りがなく、そろそろ寂しくなってきましたため、まあペースを落とそうというわけでございます。

 さて、『ミュンヘン』です。ミュンヘンオリンピックにおける、パレスチナ組織「黒い九月」によるイスラエル選手団殺害を発端とし、その報復にかり出された人々をめぐるお話です。ぼくは予備知識が無くてっきり、この殺害事件がクライマックスになるのかと思っていたので、結構意外でした。

 主人公はエリック・バナという人で、ぼくには鑑賞中、この人がフィリップ・トルシエの通訳であったフローラン・ダバディに見えて仕方ありませんでした。エリック・バナ扮するところのアヴナーが同じ任務に就いた仲間とともに敵組織の実行者たちを殺していくのですが、いやあ、今までに観たスピルバーグ作品の中ではこれはぼくにとって、かなり下の部類です。スピルバーグ作品はまあ人並程度には観ているのですが、退屈を覚えたのは初めてかもわかりません。

 あのー、その敵組織の人間を次々と殺していくのですが、それがもう、「過程だなあ」という感じなんです。2時間半以上あるのですが、とにかくもう、任務の過程って感じがすごくして、途中からだるくなりました。話が妙な方向に転がっていかない、いや転がっては行くのですが、その妙さはどうでもいいような妙さで、敵を殺していく際のサスペンスに乏しいんです。事実に基づいている、というエクスキューズが悪い方向に働いているのかも知れないし、そうかと思えば創作と思しき部分が適切に働いているとも思えない。たとえば子供の電話のくだりです。電話に爆薬を仕掛けて、標的が電話に出たら起爆するんですが、誤算で子供が出そうになるんです。ああ、無辜なる子供を誤って殺してしまうのでは、子供が殺されてしまうのでは、となるわけですが、まあ結局、子供は電話に出ずに去り、標的が出て作戦成功、となるわけです。これもねえ、ぼくが頭がおかしい人間だからかもしれないけれど、あそこで子供を爆破に巻き込んでいればまた違うんです。ぼくとしては子供ともども殺して欲しかった。そうするとあの主人公の苦悩にもっと深みが出ると思うんです。任務とはいえ、誤算とはいえ……という懊悩が生まれるし、後々主人公が復讐の任務に疲れ果てるくだりも説得力が増すと思うんです。意図せずして無辜なる人間の命を奪った人間の苦悩、というのが出てきて、不条理性が浮き立つと思うんです。ここがハリウッド、最近のスピルバーグだなあ。『JAWS』の頃はそんな配慮をせず、好き勝手にやっていたんですけどねえ。

 もっと言えば、このシーンには欺瞞があるんですよ。実際アメリカは誤爆で散々子供を殺している訳じゃないですか。この映画のテーマでもあるイスラエル・パレスチナの争いでも同様の出来事が起きているじゃないですか。そのくせ、映画の中では子供を殺さない。興業上の理由でしょうが、こんなものは欺瞞ですよ。それこそ2005年の映画なら、イラク戦争と結びつけて考えないわけにはいかなくて、ミュンヘン五輪のイスラエルの報復=アメリカの報復の構図があるわけでしょ。だったらあの場面で子供を殺せよ! まさに「誤爆」という形で、現実における残酷さを浮き彫りにできるわけだろ! そういう欺瞞を感じ取ったぼくは、中盤から後半にかけてぜんぜん楽しめませんでした。

 後半のストーリーはもう何も面白くない。途中の展開について「思い切り過程っぽい」と文句を垂れましたが、後半は過程っぽいどころかぐだぐだになります。復讐の任務に就いていた主人公が相手からの復讐に怯えだすんですが、この辺はもう至極どうでもよかった。母親のエピソードとか家族のエピソードとかも、申し訳程度に描かれているようにしか思えなかった。結局この後半の怯えを強めるためだったんでしょうけれど、ぼくには鬱陶しいだけでした。このトルシエの通訳、じゃなかった、アヴナーは要するに、「復讐に勤しんでいた自分が復讐されるのでは、ああ、怖い」ってなことです。そんなのって、わかりきっているんですよ。そんな恐怖は、別に実際体験しなくても百も承知なんですよ。しかもそれで実際に何か起こるのかと思いきや、単に怯えて終わり。もうぐっだぐだです。

 冒頭の殺害シーンがすごいという感想を目にしたりもしますが、いやいや、『プライベートライアン』のほうが断然すごかったじゃないですか。それは別に出来事の規模じゃなくて、描き方の問題としてですよ。ああ、こらすごいなあ、狭い空間の恐慌をこんな風に撮るのか、というのはなかった。爆破のシーンとか出てきますけれど、さすがスピルバーグ! と思わされる暴力描写、破壊描写はなかった。全体を通して、ものすごく体感時間が長かったです。つい最近『JAWS』を褒めたばかりのぼくですが、今回のこれは個人的には、あまり推せない作品です。
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バカ映画でこんなに楽しめるとは思わなんだ。
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原題『THREE AMIGOS!』
宇多丸が三谷幸喜の『ザ・マジックアワー』について語っていたときに触れられた映画で、気になっていたので観てみました。

 メキシコの村が盗賊に襲われ困窮しており、助けを求めて女性と子供が街に出てくるのですが、街では誰も助けてくれません。女性と子供はふらりと入った映画館で「スリー・アミーゴス」の出てくる映画を観ます。「スリー・アミーゴス」は役者なのですが、女性は本当のカウボーイだと思い込み、彼らに電報を出します。ところがお金がないために電報は言葉足らずの文章になってしまいます。一方、「スリー・アミーゴス」は映画会社に楯突いて、契約を打ち切られてしまいます。どうしようか途方に暮れているときに女性からの電報を受け取り、役者の仕事が舞い込んだと思い込んでいざメキシコへと向かうのです。

 本気で助けを求めている人と、危機的な状況を映画だと思い込んでいる役者という点で、確かに『ザ・マジックアワー』によく似ています。三谷は喜劇作家だし、この喜劇映画を観ているはずです。そして、ああ、『サボテンブラザーズ』に負けていたんですねえ。

 ウィキによると、みうらじゅんが「キングオブバカ映画」と評したそうですが、異論はありません。最高のバカ映画と言えましょう。面白かった。何をやっとんねん、何やねんの連続です。アメリカ人によるハイテンションバカコメディというのはちょっと忌避してしまいがちなのですが、いやあお見それしましたね。最初のほうから結構バカっぷりが炸裂しているのですが、非常に好ましかった。笑わせてもらいました。

 主人公の三人や村の人々や盗賊たちが最高にキュートです。このキュートさを放った時点で勝ちです。バカな表現というのは、そこにキュートさがあるかどうかが大事なのですね。可愛いと許せるわけです。ヒロインのメキシカンの女性もキュートでした。

 質素な村とメキシコの荒野を使ったところがうまく作用しています。バカな表現ではあるけれど、舞台自体は古き時代のシリアスな西部劇に出てくるような場所で、ここにあの三人を浮かせたのがよかったのかなあと思います。これ、イギリス的な空間表現にすると入っていけなかったかもわからない。そうなるとテリー・ギリアム的なふざけ方で空間演出をしていたかもしれず、そうなると多分ぼくには合わなかった。でも、うまく開けた舞台を使ったことで、たとえばバカ映画とも思えぬ壮大な夕暮れの風景や、騎馬の疾走シーンが描かれており、これが映画のバカさを引き立てる真面目部分として機能しているなあと思うわけです。簡単に言うと、これは映画としてちゃんとしている映画だな、と信頼が置けるわけです。また、特に序盤、なりすましコメディとしての設計もきちんとできているので、単に勢いだけでつくってないな、というのがわかり、この点もまた信用が高まるわけです。

そうかと思うとこの映画はふざけ出して、もう書き割り丸出しの場面を置いたりするわけです。「何やねん映画」です。悪者に捕まったヒロインを救うべく戦いに出たのに、あの木に遭遇したりするのです。

 あの木はいい! あの木のシーンはいい!

 あまり「これは面白いボケですよ~」なんて書くもんじゃないから詳しくは書きませんが、あの木がぼくは大好きです。物語とはもう呆れるほどまったく何の関係もない場面ですが、もうずっとあの木のシーンでもいいくらいです。

ああいうシーンが一個でもあれば、もうぼくはその映画を全面的に擁護する!
 アジトに乗り込むくだりもめちゃくちゃですよ。これ、普通の作劇で言えばハラハラドキドキの真剣な潜入シーン、決闘シーンになるわけです。いざ窮地に陥ったとき、さてどうする! どうやって切り抜ける! というところが活劇の醍醐味です。でも、この映画はそんなの知ったこっちゃない様子で、ありえない切り抜け方をします。こういう表現は難しいです。何でもありの果てまで行って、どうやって観客に微笑みかけるか。そこは大変難しい演出なのです。この映画の場合は全編に漲るキュートさによって、そしてぼくの場合で言うとあの木を出してくれた有り難みによって、何でも許せてしまうのです。結末は、もうあれでいいなら最初からあの三人はいなくてもよかったんじゃねえか、と冷静になれば思いますけれど、最後もこれまたキュートな締め方をしているし、幸福な結末だし、これでよし! 縫え老婆よ! 風のように縫うのだ!

時を忘れて愉しむことができました。まあ、乗れないならもう乗れないと思いますが、乗れちまえばこんなに愉しい映画はそうそう無いです。映画における笑いとしても、大変参考になる映画だと思います。お薦めです。
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あの男が発する問いに、どういう答えを用意できるのか。 
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 ぼくが映画評論で参考にするのは大体、町山智浩やその影響大きいライムスター宇多丸、蓮實重彦の流れであれば阿部和重、そして宮台真司などで、松本人志の映画評も好きでした。それぞれまったく違う色を帯びているから面白いです。ここで紹介した映画の多くも、この中の誰かが激推ししていた作品です。

 今回の映画で言うと、宮台真司の評論で知って観てみました。
 精神を病んでしまい、救いを求めて宗教(劇中では「セミナー」)にすがる男を、同棲している恋人の女が引き留めようとする話です。インディーズだけあって動きは乏しく、話のほとんども安アパートの部屋の中で進行していきます。

 結構退屈な映画ですが、随所の表現がとても面白いです。前回、いびつさを尊ぶという話をしましたが、この映画は所々そのいびつさが光ります。全編を通じて言うと、そこまでこの作品に肩入れはできませんが、シリアスな場面でも思わず笑ってしまう箇所もあります。また、示唆的なメッセージもありますね。

 観だして最初に好感を持てたのはあの女の顔です。あれは丁度いいです。というか、本当によくある顔というか、ああ、おるおるこういう顔の女、という感じの顔なんです。知り合いに似た顔はいませんが、これまでの人生で幾度となく見かけたような顔で、ブスでも美人でもなく、一重まぶたのちょっと底意地悪そうな目つきとか、ああ、この顔を間違いなくぼくは今までに何度も観ているぞ、と思わされ、その点のリアリティはやはりインディーズならではという感じがしました。立ち振る舞い的にも、普通の感じですね。純粋でもなく擦れている感じもなく、ああ、おるやろなあ、知らんけどきっとこういうやつはいるなあ、と感じます。これは実は映画においてとても大事なところです。それこそが紛れもなく、登場人物の実在感ですからね。

 ただ反面、わからないのは、どうしてあのどうしようもないような男をあの女は見捨てられずにいるのだろう、ということです。なんでこいつに惚れているのかよくわからない。宮台は「ピュアさゆえに」と解釈していて、特典映像のトークセッションにおいては、「彼女が彼に惹かれるのは、鈍感にもこの社会を平然と生きていける人々に比べて、彼がはるかに敏感だからだ」みたいなことを述べているのですが、この映画を観る限りはそこまで男の「ピュアさ」は描かれていないですよ。それを描くなら、「ピュアさゆえに社会からこぼれ落ちる」までの過程をどこかに描かなきゃいけないはずだし、映画からわかるのは、彼が単に精神を病んでいるということだけです。なぜ宮台がこの男の「ピュアさ」を感じたのか、よくわからない。ピュアなやつが精神を病むとは限らないし、精神を病んでいる人間がピュアだとも言えないでしょう。ピュアなやつは社会をまともに生きられない、と宮台は映画評でよく書いているのですが、ぼくには疑問です。多くの人が社会をまともに生きられるのは鈍感さの賜物である一方で、必死にバランスを調整しているからじゃないでしょうか。バランスを調整するために必要な敏感さだってあるわけです。バランス調整能力のないやつを綺麗に「ピュア」と呼ぶのは嫌いです。それならぼくだってピュアさ! ああ、もう少し早く生まれていれば、和久井映見に代わって月9で主演できたかもしれないのに! トークセッションで上記のような自説を奮う宮台に問われたとき、監督は「うーん」みたいな感じではっきりしていませんでした。そこまではっきりと意図されたものではないように思います。

どうも話がいたずらに逸れます。映画の話をしよう。そうだ、映画の話をしよう。
 まあそれでも、別に映画上大きな問題ではありません。とりあえずこの女はこの男を棄てておかれぬのだな、とわかればよいです。この男は随所随所で面白いです。女の友達が家に来るシーンは笑ってしまった。ああ、なんか、何気ない会話ってものはこんなにも実りのないものなのだな、と思わされ、ぼくが日常で感じるところに似ています。あの気まずい雰囲気とか、男と女友達が絶対にコミュニケーションできない感じ、不毛なる挨拶的な会話、気まずさに負けて部屋から離れたがるところ、ぽつんと取り残された女友達の後ろ姿、あれはなんか、「日常の中に起こってすぐに霧消するけれどその分どうしようもない人と人との関わり」を写し撮ったようで、好きです。ただ、取り立てて優れた活写というわけでもないと思います。ああいうことは世の中によくある。特にぼくなんかは、あの男のような立場に立ってしまいがちですから。ぼくみたいな人間にとっては「あるある」として面白かったわけです。

 頭を叩くシーンがあるんですが、あの間と間合いは好きですねえ(「間」は時間的、「間合い」は空間的な概念)。ここもちょっと面白いです。日常生活で頭を叩くことってないわけで、あの行為には二人の親密さと相手への怒りがこもっている感じがあって映画的に豊かだと思いました。全体の筋立てとしては特段面白いとも思わないんですが、時折見せるこうした表現はこの映画の大きな美点になっています。狭い空間ゆえ、カメラも天井の角からのショットが多くなり、それと手持ちカメラの近接したショットが交互に織りなされるため、空間の狭さが際だち、二人の距離の近さがよく表されていますね。絵的には面白くないこの話では二人の関係がもうすべてと言っていいですが、狭い空間をうまく活用しています。

 一番いいのはなんと言っても、あのトイレのシーンですね。ワンショットで二人の口論を撮り続けるのですが、ほとんど動きのないこの映画において、結末を導くうえで最も重要なシーンなのは間違いないでしょう。宗教にはまる男と、それをやめさせたい女が真っ向からぶつかり合います。結末を左右する上で決定的なのは、「どうして宗教はダメなんだよ?」という問いに対し、女が絶句してしまうあの間です。ここは結構問題を突きつけてきます。女はどうして宗教にはまるのを止めるのか。男は女の心中を見透かすように、「気持ち悪いんだろ?」と述べ、「よく知らないくせに」という内容のことを言います。
 
 ここなんですね。どうしていけないんだよ? 宗教によって自分は救われるんだ! と言い切られたとき、自信を持って言葉を返せない。その主張の裏には(それともおまえが救ってくれるのかよ?)という問いがあるけれど、これにもまた自信を持てない。結果、この女は男を宗教から離すことができなかった。宗教的な困難な問いという点では『シークレット・サンシャイン』にも通じますね。最後は、この映画としては真っ当な結末です。この映画の描き方では、彼はどうやっても宗教から離れ得ませんから。

 ちょいと社会評論の真似事をしてみれば、この映画は現代日本の状況(知りもしないくせにぼくはこういう言葉を使うんだ!)にとって示唆的であるなあと思います。
 やはりオウム事件は大きな出来事で、新興宗教に対する不安視、危険視はもはやこの国から拭えないものになっているように思います。ここで問題になるのは、新興宗教への忌避感を短絡的に、植え付けられたイメージのみによって抱くことにより、宗教に対する思考を失ってしまうのではないかということです。この映画の女は、だからこそ彼を救い得ませんでした。ここには学びの種があるのではないでしょうか。宗教への思考を失い短絡的な忌避感情を抱く状況は、その裏面できっと、短絡的な宗教依存を呼び起こします。それこそ「社会をまともに生きられないピュア」が短絡的依存と結びつけば、いずれ再び新興宗教の問題が頭をもたげてくるのではないでしょうか。なんてことを語って悦に入って、ちょっと社会についてわかったふりをしてしまうこのくせも、なんとかしないといけませんねえ。映画に倣って、今日は唐突に終わり。
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端整すぎて、愛せない。
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最近作の『グラン・トリノ』の評判がよいようですね。ぼくはこれまであまりイーストウッド作品には触れてこず、せいぜい『許されざる者』や硫黄島二部作程度、主演作でいえば『ダーティ・ハリー』とかそれくらいです。それほどイーストウッドという人には惹かれないんです。

 ぼくが好きになる監督というと、たとえば園子温、ブライアン・デ・パルマ、サム・ペキンパーなどがいて、そのほかにも一、二作しか観ていないけれど間違いなく好きになれる監督というのもたくさんいます。映像技巧を駆使した人たちが好きなのか、と言われればそうとも限らず、たとえばアキ・カウリスマキやキム・ギドクがそうです。反面、嫌いだなあという監督はテリー・ギリアム、小津安二郎、青山真治などがそうです。好きも嫌いも通じて言えることは、表現に過剰さがあることです。いびつさ、と言ってもいいかもしれません。うわあ、いびつな表現だなあと感じ、そのいびつさを愛でられるかどうかで好き嫌いが決まってきます。園子温やデ・パルマ、ギリアムのいびつさは一目でわかるとしても、カウリスマキや小津に対する「いびつ」という言い方は変に思われるかも知れません。しかし、彼らの表現は間違いなくいびつです。詳述は避けますが、どちらも異常なほどに静物的であるがゆえ、そこには現実とは異なる映画的ないびつさが表れています。

 本作を観て感じることとして、イーストウッド監督にはいびつさが見いだせないんです。違う言い方をすると、きわめて良心的な監督とも言えそうです。おかしなことをしない人じゃないでしょうか。「優等生」というのとも違うんです。なんというか、すごくきちんとしているやつ。勉強も遊びもきちんとしているやつ。誰からも嫌われないし、皆と適切に距離感を持って好かれているやつ。そんな感じがあります。園子温だのペキンパーだのはもうめちゃくちゃですよ。先生の頭をどつくわ土足で学校の中歩き回るわ、そのくせテストではいい点を取るわ妙に目がくりくりしているわ、よくわからないやつなんです。だから好きなんですね。イーストウッドはちゃんとしています。ちゃんとしすぎて過剰さがなくて、ゆえにつまらない感じを拭えないんです。

 本作にしても、別に悪いとは思わないんですが、いいとも思わない。でも、間違いなくきちんとしている。撮り方は丁寧ですし、映画を勉強しようと本気で思ったら、この監督の作品はかなり参考になる要素に満ちているんじゃないでしょうか、中道を知るという意味で。きっと確実に信頼の置ける映画監督なんです。だからいてもらうべき人なんです。ただ、友達になろうとは思えない人です(なにさま表現ここにきわまる)。

本作はボクサーの女マギー(ヒラリー・スワンク)とそれを支える老トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)の話ですが、ぼくはこのどちらにも感情移入できなかった。だから結局終盤、「どうでもええわ」になった。マギーにしろフランキーにしろ、すごく真面目なんですよ。悪いところのない人たちですよ。でも、かわいげがないというか、ああ、こいつらのこと好きやなあという部分がないんです。それならぼくはデンジャーという青年のほうがずっと好きですね。どうしようもない馬鹿だけど、愛せるんです。

 なんかすっごくちゃんとしているなあと思いました。だからわかりやすい悪役を持ってきて対比するしかないんですよ。この二人を清廉潔白にした分、こいつらが純粋にひどい目に合う形をとるほかないんですよ。だから面白くないんだと思います。

 マギーやフランキーの格好悪いところを見たいんですよ。あるいは小狡くて、汚い部分も見たいし、そうでなくたって弱いところ、馬鹿だなあこいつらはというところを見たいんですよ。貧乏のくだりはあれじゃあ甘いですよ。もっと貧乏でいいじゃないですか。その過剰がまさにいびつさで、そのいびつさに「愛のフック」(愛さずにはいられぬとっかかり)が宿るんです。でも、この二人はかなり透明なんです。色がない。いや、演出の不備だとは思いません。繰り返しているとおり、ちゃんとはしています。だからあの結末に感涙する人もいるんでしょう、きっと。ぼくの場合、この二人に何の愛着も湧かなかった。

 いびつさ、をキーワードにすると、たとえばイーストウッドは「クールすぎる」という意味でいびつかもしれません。最後は泣いてくれよ! と思います。そこはもうぼろっぼろでくしゃっくしゃになるまで、立ち上がれないくらいまで泣いてええんと違うの? そこがなんか、クールなんですねえ。透明、と感じるのはそういうところで、これではこの人を愛せないですよ。ずうっといびつさがなくて、最後はいびつなほどクール、となられても、それならおまえはぜんぜんおもろないやつやな! と思わされます。

 うん、悪いとは思わないと書きながら悪態をついてしまいました。いや、悪くはないんです(しつこい)。だから簡単に穏当に言うと、ぼくにはぜんぜんあわなかった、ということなんですね、結局。
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たかだかつくりもののサメ一匹、ところがCGフル活用の超大作より上。
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毎度お馴染み、有名すぎて逆に観ていなかったシリーズ、今回は『JAWS』です。サメが出てくる、サメが人を襲う、以外の予備知識は何もありませんでした。ところで皆さん、『JAWS』とはどういう意味でしょう。これは別にサメを意味する言葉ではなく、「顎(あご)」とか「口部」という意味です。英和辞書によれば、「危機的な状況、窮地」という意味もあるらしいですから、この映画にそぐうわけですね。

 さて、2時間あるというのを知り、サメが出てくるだけなら100分くらいが妥当ではないか、と思いながら観たのですが、サメとの対決シーンは圧巻でした。それでも100分くらいがいいような気もします。

スピルバーグはこの前にあの『激突!』などを撮っていますが、この作品で一躍スター監督になりました。1975年に制作されていますが、この1年後に「最後のアメリカン・ニューシネマ」とも言われるマーティン・スコセッシの『タクシードライバー』が公開されており、この後のアメリカ映画は『スターウォーズ』『地獄の黙示録』などの超大作時代へと移行し、低予算ものでもゾンビ映画などが隆盛するなどしており、スピルバーグが大作、名作の巨匠として名を広めていく最初の作品という意味でも、『JAWS』は時代の転換点にある重要な作品と言えましょう。敗北の美学たるニューシネマから冒険活劇的大作への移行。これに類した事象は日本の場合、アイドルで起こっています。すなわち、やや時代が下った1980年における山口百恵の引退と松田聖子のデビュー。それまで封建的女性像を、一方それに相反する形の、だらしない男性に対して憤る女性像を歌ってきた、やや影のある美少女としての山口百恵から、健康さと爽やかさに満ちた松田聖子へと時代は移行し、この後80年代における絢爛なアイドル文化が華やぐわけです。これはアイドルのみならず、フォークソングから歌謡曲へ、という流れも符合します。

 さて、映画と関係ない話がふくれました。『JAWS』はDVD特典映像で興味深い談話が語られています。やはりサメの造形については、70年代的な心意気が感じられます。CGを使わず、サメは美術の粋をつくしてその形をつくりあげ、それでもうまく動かずに非常に苦難に満ちた撮影を行ったとか、沖合にいるように見せなくてはならないのに、陸が映り込んでしまって何度も撮り直しをしたとかの裏話が語られ、こういうのは古き時代の心意気です。今ならCG処理でできてしまいますからね。金とコンピュータと指先の動きでできてしまう今に比して、汗水垂らしてつくった格好良さというのは一も二もなく尊敬するわけです。

 サメの怖さがこの映画のメインですが、さすがサメの怖さは十二分に伝わる作品で、言ってみれば「たかだかサメ一匹」であるのにこんなに濃度のあるクライマックスがつくれるのかと惚れ惚れします。スピルバーグはこの18年後、恐竜をモチーフにします(『ジュラシック・パーク』)。そしてサメから30年経った後には、今度は地中から姿を現した謎の存在を描きます(『宇宙戦争』)。いずれもCGをフルに駆使した作品ですが、実はこの『JAWS』にこそ(あるいは『激突!』にこそ)、彼の神髄はあるように思えてなりません。大袈裟なモチーフを使わなくても、「たかだかサメ一匹」(あるいは「たかだかトラック一台」)で傑作が作れるのであり、むしろCG時代というのが哀しく思えるくらいです。

話を今一度おさらいしましょう。海水浴の観光客が収入源となる島に、ある夏サメが出現します。即刻海への立ち入りを禁止すべきなのですが、市長はせっかくの観光客を逃したくないために海を開放し、犠牲者が出始めます。業を煮やした警察官ブロディ(ロイ・シャイダー)は海洋学者のフーパー(リチャード・ドレイファス)、漁師のクイント(ロバート・ショウ)とともに船を出し、沖合でのサメとの決闘に乗り出すのです。

 後半全編の船上での決闘シーンは文句の付け所がありません。つくりもののサメであるにもかかわらず、つくりものには見えず、本当の獰猛なサメとしてよく描けている。無表情、無機質な存在としてのサメは純粋なる殺人マシーンであって、殺人マシーンとの戦いの作品などいくらもあるわけですが、この後の時代のそれらと比べてもまったく遜色がありません。海上の実にシンプルな設定で、場面転換もなくただひたすらに戦うその姿に、ヘミングウェイの『老人と海』的なハードボイルドさも宿っており(サメとの対決というところも類似)、無邪気にぼくはこの三人を応援していました。だから、ある人物がサメに喰い殺されるところが本当に衝撃的に映るのであり、ラストにサメをぶっ殺すシーンが率直なカタルシスをもたらすのであります。

 当初、サメの最後については別の展開が用意されていたそうですが、この終わり方は後のハリウッドアクションのひな形の一つになっています。リアルであるよりも映画的なカタルシスとして、この終わり方がぼくは好きです。むしろそれまでがリアルで地味な戦い方であったからこそ、最後のあのハリウッドアクション的結末が活きてくるなあと思うわけです。

 今にして観てもちっともその映画的興奮は劣化していません。むしろ、CGばりばりの今の大作を観るよりも、こういう作品のほうが味わいがあると思えるくらいであります。既に観ていると思いますが、あらためてこの『JAWS』のよさを感じてほしいなあと思うわけであります。
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