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満腹感はある。でも、満足感に欠ける。
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 アメコミものが最近結構ぐいぐい来ているようです。未見ですが『ウォッチメン』とか『アイアンマン』とか、バットマンシリーズの『ダークナイト』もそうですし、知る限りはおしなべて評判もよく、CG技術の発展とアメコミが幸福な合致を見せている頃合いなのかも知れません。日本ではヒーローものというと、数十年前に特撮で開花しましたからね。日本の場合それがあるから、今に至るまでヒーローものって、漫画ではそれほどメジャーなものになっていないんじゃないでしょうか。いや、というか、日本のアニメレベルがすごすぎるため、そちらで花開いたんですね、ガンダムしかりドラゴンボールしかりエヴァンゲリオンしかり。ドラゴンボールは実写化されましたが、もうアニメの段階ですんごいクオリティにいっているから、実写化する意義がないわけです。

 その点で、日本とアメリカはやはり別方向を向いているなあと思うのであって、映画文化、映像文化としては面白い状況だと思います。さて、今回は1992年の『バットマン・リターンズ』です。

 ティム・バートン並びにワーナーブラザーズは前作と今作の二作で大儲けしたようです。今日付ウィキによれば、二作の世界累計興収は6億8千万ドル。実に700億円です。バットマンといえばそれこそ1939年以来の米国を代表する漫画ですから、ティム・バートンとしてもある意味怖かったことでしょうが、これだけ稼げればもう文句なしだったでしょうねえ。一作目は原作をまったく知らぬ分もあってか、結構楽しめました。やはりヒーローものは悪役が光ると面白いです。ジョーカーはやはり豊かなキャラクターですね。

 本作ではジョーカーはおらず、ペンギンという男、そしてキャットウーマンが登場します。バットマンの話というより、この二者を重点的に描いたのは好ましかったですね。特にペンギンはよいです。あの醜悪さがよいのです。喋り方はヒース・レジャーの演じたジョーカーによく似ています。さすがにジョーカーには魅力は及びませんが、キャットウーマンと並びつつの働きとしては十分でした。さて、いまやSM嬢のボンテージとしても活用されるこのキャットウーマンですが、こちらはよくわかりませんでした。

 キャットウーマンになったきっかけはいいとしても、どうしてバットマンを襲うのかよくわからないんです。こいつが何をどうしたいのか、もうひとつ見えてこない。ここはこの作品の問題点として大きいと思います。ジョーカーにしろペンギンにしろ、悪として立派というか、ちゃんと悪役然としているんですよ。正義のヒーロー、バットマンの敵としてしっかりしているんです。ただ、このキャットウーマンの立ち位置はちょっと違っていて、まあいわば、敵か味方かみたいなサードポイント的な位置づけになっている。それはそれで大いに結構。ただ、いかんせん何をどうしたいのかよくわからない。

 バットマンを敵に回してペンギンと組んだりするし、デパートを爆破したりするのですが、何故そんなことをするのかぜんぜんわからない。彼女がキャットウーマンとして覚醒する場面でも、別にバットマンは絡んでいませんからね。バットマンとしてみれば、「なんやようわからんやつが来よったで、ほんでこいつ何をしたいねん」ということです。普通に考えて、あのシュレックという男を最初から狙えばいいのにそうはしないし、これはキャットウーマンという存在ありきで脚本をつくろうとしたゆえの失敗じゃないでしょうか。なんとかキャットウーマンを絡めたい、でも最初からバットマンと共闘するのはつまらないなあ、さてどうしよう、と考えたあげく、「よくわからないけれど、とにかくバットマンを襲う」という意味不明なやつになってしまった。後半でペンギンの動きに疑問を覚え、スケベ心を気持ち悪く感じ、ペンギンとの仲を分かつのですが、どうにもキャットウーマンの立ち位置がぐずぐずです。

 ペンギンは頑張っていました。ただ彼の場面も、出来事を詰め込みすぎているかなあというのがあります。バットマンを悪者に仕立て上げ、バットモービルを暴走させて街を破壊させ、バットマンに成り代わって街のヒーローになろうとします。しかしなんとも簡単な方法でバットマンに反撃を喰らい、結局ペンギンは再び悪者になってしまう。その後の展開上、物語的な意味はきちんとあるんですけど、どうも面白くないのは要するに、「どうする! バットマン」的な場面がないのがまず大きいですね。

 別にこの作品に限らないんですけど、前作の『バットマン』も『ダークナイト』も、バットマンは絶体絶命に陥らないんです。そこに行く前に、わりとあっさりと解決策を見つけてしまう。それでも、ジョーカーという敵がすごくしっかりしていたので、まあよいかなと思えた。ただ、今回のペンギンはそこまで強烈なアイコンにはなっておらず(一時とはいえシュレックに操られてしまうような存在ですから)、前述の通りキャット・ウーマンはぐずぐずで、ゆえに白熱に乏しいんですね。うん、バットマンが映画の中で悪役以上の魅力を持てないのはそこが大きいです。艱難辛苦乗り越えて、満身創痍になりながらそれでも戦うヒーロー、ではなく、いつでも無敵のパワーでかなりあっさり乗り越えてしまうから、いまひとつ応援できない。ヒーローは結局勝つ、そうわかっていても、途中でやばい状況になればはらはらするんです。でもバットマンは、過程で起こる難題や難敵をするりと抜け、あの屋敷に戻ってスープかなんか飲んで、さて次はどうしようかみたいになるので、どうも濃度が高まらない。

 随所随所はやっぱりティム・バートンの面白さはあるんです。ペンギン(鳥のペンギンね)が大軍をなして進む場面も愉快だし。でも、物語全体を振り返ると、どうもいまひとつかなあという感じです。色々詰め込んであるからおなかいっぱいにはなるんですよ。金もかかっているし画も面白いし、結構おなかいっぱいになる。でも、うまいものを喰ったなあという鑑賞後感がもうひとつ湧かない。

 キャットウーマンというポップなキャラを出したわりに、そこまで機能しなかったですね。彼女に関してはどうもティム・バートンらしくないような気もする。もっとはっちゃけてよかったんじゃないでしょうか。クールビューティじゃなくて、もうぶりっこくらいの猫キャラで押すともっと映えた。なんか格好つけすぎ。キュートをつくらせたら右に出るものがいないティム・バートンなのにもかかわらず、いざこのキャットウーマンについてはキュートさが出せなかった。かなり普通の女になってしまった。その点が残念です。猫なんて、他のどの動物より遊べる要素があるはずなんですけどねえ。
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この哀しさはすさまじいところまで行っています。
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 映画の面白さ、もしくは小説なんかでもそうなんですが、やっぱり「狂っている」ことって、大事だなあと思うわけです。壊れている、という言い方でもいい。『狂気の歴史』じゃないですが、やっぱり近代ってのは狂気を押さえ込め、あるいは排斥した枠組みのうちに育ってきたわけで、その枠からはみ出しているものにぼくは強く惹かれる。「笑い」に惹かれるのも結局その点が大きくて、笑いとはつまり「狂い」ですからね。普通の、常識的な流れからの逸脱、すなわち狂いの発生が笑いを生み出すのであって(あるいは過度な常識もまた狂気たりうるわけで)、表現全般においてぼくは狂っているものが好きであります。

 思うに、テレビがつまらなくなった理由を一言で言うなら、抽象的ですが、この「狂い」がなくなったからでしょう。昔のバラエティもドラマも、どこか狂っていた。おそらくは収録現場にも立ちこめていたであろう狂気が画面を通して伝わり、我々の狂気アンテナに受信されていたのです。そして昔の映画にもまた「狂い」があった。この『肉弾』などはその好例と言えましょう。

 時は終戦間近、主人公は寺田農扮する二十一歳の一兵卒です(名前は出てきません。この映画が語られる際には一般に「あいつ」と呼ばれています。軍人である彼の、ほんの短い時間を描いた作品ですが、これが岡本喜八の演出なのでしょうか、全編漲る悲壮感と馬鹿らしさが絶妙な折り合いをなしているのであり、いわゆる戦争映画の、ドンパチが出てくるような場面はほとんどなく、ひたすらこの寺田農を映し続けている奇妙な作品です。

 寺田農の肉体的存在感が圧倒的です。肉体的存在感、というと、筋骨隆々のたくましい男をイメージしますが、彼はどちらかというとひょろっちく、丸眼鏡をかけて弱々しい男です。しかし、時折織り込まれる印象的なショット(反芻シーンの喉仏、全裸労働シーンの尻)や、冒頭とラストを結ぶドラム缶内の汗ばみなどが、彼の存在を異常なまでに色濃く映し出します。名前も明かされない、友人も肉親も出てこないこの話における彼は、ひどく哀しげに映る。こんなにも哀しいやつがいるだろうかというくらいです。哀しい男、というのはぼくが一番好きなキャラクター造詣ですが、こいつの哀しさはちょっと痛々しいくらいです。彼だけが哀しい、というよりも、彼を取り巻く全てのものが哀しいんです。
 
 彼は人間魚雷の特攻隊員に選ばれ、一日だけ自由な時間を与えられます。彼はひどく汚い地下の本屋に出向き、そこで笠智衆扮する老店主に出会います。小津映画に出てくる彼のように、抜群の好々爺ぶりなのですが、彼は戦争のために両手を無くしています。彼は一人で用を足せないので、寺田農の力を借りて用を足します。トーン自体は結構明るいというか、ほのぼのとした交流みたいに見えるんですが、いざこの状況を俯瞰すると、なんとも哀しいです。もうどうしようもないような人生の一部分なんです。別に劇的でもないし、悲惨な場面でもないし、でも画面に溢れる薄汚さがあって、見知らぬ老人の小便を助けて、なんか、わかりますかねえ、この感じ。この哀しさ。

 その後、女郎買いのためにこれまたきったないドヤ街みたいなところに男は出向くのですが、女郎も汚く醜いババアばかり。彼は童貞であり、なんとかよい女を相手にしたいと願っていたところ、大谷直子演ずる可憐な少女に出会います。やっといい想いができる、と思っていたところ、いざ出てきたのは汚いババア。コメディとしては一番当たり前の展開なのですが、哀しさがまたも強まります。死が迫る直前、一日だけ与えられた自由な時間に童貞を捨てようと夢見た結果が、このババア。こいつの人生は一体何なんだと思わされる一幕です。

 それでも大谷直子とはこの後、再び出会って交流があるわけですが、そのシーンなどもこの映画の狂いを見せつけられます。他の場面もそうですが、会話が演劇的なんです。どうやっても映画的ではない、演劇的なテンポのあるやりとり、そして身の所作。しかしこの映画は単に演劇的なだけではなく、その後妙に長い間をつくったりなどするため、今度はぐぐっと映画的な濃度が高まる。園子温の狂い方の源流は、岡本喜八にあるのかなあと思いますね。音楽も園子温同様、明るい音楽を流したりするし、やけに顔のアップが多いのも似ている。園子温は岡本喜八が大好きなはずです、知らないけど。

 後半の砂丘シーンもねえ、もう、何なんだこの状況はという場面なんですよ。戦争映画という感じじゃないんです。ディストピアのなれの果てみたいな、もう人間社会なんてものはどこにもないんじゃないかと思わされるような寂寥感があります。男は砂の中にうずめたドラム缶を一応の住処としており、これは軍隊としての備えか何からしいのですが、他にそんなことをやっている連中の姿がないんですよ。人は出てくるんですけど、彼同様にドラム缶に暮らしている人の姿が描かれないので、この男の、もう訳のわからない状況に置かれている感じがひどくよく出ている。モノクロ映画の砂丘シーンってのは、どうしてこんなに寂しいのでしょうか。

 ラストは驚きですね。この哀しい男には、ある意味何よりふさわしい終わり方ではありますが、これ以上哀しい終わり方があるのかという結末。かといって、絶対感涙を誘ったりはしないですよ。この映画は泣ける映画では絶対になくて、むしろ岡本喜八演出で、コメディっぽい香りが漂っているんです。でも、その笑いもまた、「もう笑うしかない」という哀しさでね。「すべらない話」で麒麟の田村があの昔話をしたときに、周りの皆は「哀しすぎて笑う」というリアクションを示しました。それに近いところがあります。哀しすぎて笑えてくる。

泣くとか泣かないとか、そんなわかりやすくて直情的な次元にはない哀しさ。そこにはぼくとしては「狂い」を見いだすのであって、この男の寂しさもまた、ぼくには大変響くものがあったわけです。
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これはともすれば我々の戯画。
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 町山智浩が「80年代で最も難解な映画」と呼んでいるのですが、ぼくはこういう難解系映画というのは、基本的には好きではないんですね。難解系とは要するに、①話の内容がよくわからない、もしくは、②話はわかるけれどそれが何を意味するのかよくわからないというものです。話、物語、筋書きというのはその映画を理解するうえで大切なものですが、これがさっぱりわからないときつい。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』とかデヴィット・リンチの『インランド・エンパイア』とかはぼくにとって①で、これはもうはっきり言っちゃえば、「ノリ」の問題に尽きると思いますね。訳わかんない、だったら大事なのは乗れるか乗れないか、もう本当にそれだけ。だから①みたいなタイプって、ある意味語る気力が持てないわけです。あれこれ理屈をこねて遊ぶことはできましょうが、場合によってはリンチの『インランド』みたいに、「自分でもよくわからない」などと言われてしまう。作り手にわからないものがわかるわけありません。それはつまり作り手の、「物語とかどうでもいいんだよ。乗れるかどうかがすべてなんだよ」という言明でしょう。

さて、問題は②です。今回の『ビデオドローム』は、まあぼくが眠かったのが大きいですが、①と②の境界線上にあるというのが個人的な受け止め方です。②の映画はぼくの場合、評論家の解説を必要とするものが多いです。町山智浩はポッドキャストなどでも、いろいろと教えてくれます。最近の宮崎駿はこの②のタイプをよくつくりますね。『千と千尋』なんて、一度観ただけでは普通、何の映画なのかよくわかりません。アニメ興収が歴代一位の映画ですが、あれを観た人の中で、あれがどういう話で、どういう意味を持っているのかきちんと解説できる人は、1%にも満たないのではないでしょうか。だからあれですね、今、難解な映画で客を寄せようと思ったら、実写では駄目なんです。アニメこそそれができる場所ですね。『ポニョ』だってそうです。意味なんかわかんなくても、あの一世を風靡したテーマ曲があればそれでよい、というわけです。

『ビデオドローム』は、ある拷問ビデオを観た主人公が、幻覚に取り憑かれていってしまう話です。クローネンバーグはまだこれを含め三作程度しか観ていませんが、グロテスク表現という点では、映画界で独自のものを生み出している人なんですね。きっと「グローネンバーグ」なんて呼ばれたりしたのでしょう。話のテーマとしては結構現代性を持っているというか、メディアの世界に取り憑かれている人、という暗喩があるようで、この主人公なども簡単な見方をすれば、テレビの世界(今ならネットの世界)に入り込んでしまって抜け出せなくなっている人、というように捉えることもできそうです。実際この主人公がテレビに(テレビから張り出した唇に)顔をうずめるシーンがあります。実際の現実よりメディアを通したものに感応する、ということでいうと、ぼくなどもそれに近いものがあるわけで、たとえば映画を見続ける時間、ぼくは現実を離れているのですし、こうしてパソコンのディスプレイに向かってキーボードを叩くのもそうですし、これを読んでいるあなたとて、「ぼくが書いている」ことをまあ信じているのでしょうけど、それとてもしかすると現実の出来事じゃないかも知れないよ! あなたが頭の中で生み出した妄言を画面に投影しているだけかもよ! ということです。

 この映画を完全に読解するのは難しいですが、メディアにまつわるエトセトラをテーマとしているのは間違いないでしょう。実際、性的、暴力的表現が社会に与える影響、について論じられていたりします。でも、この映画の作り方だとなんか、人によっては、「ほらね、やっぱり暴力的メディアは人を暴力的にするんじゃん!」と読解してしまいそうです。主人公は拷問ビデオを観て、その後人殺しに手を染めてしまうので、そんな風に受け取られかねないと思うんですが、それは監督の意図するところでしょうか。「つくっている間、よくわからなかった」と監督は言ったそうです。しかし、「でも今観るとよくわかる」そうです。つくっているときよくわかっていなかった、というのがここでは大事で、だとするとクローネンバーグはやはり無意識的に、暴力メディアの現実への影響という論調を肯定してしまっていたんでしょうかね。

 しかし評論などを読むと、クローネンバーグという人は一筋縄ではいかないらしく、ちょっと頭がおかしい、いや結構頭がおかしい人のようですね。いわゆる普通の捉え方とは違うというか、たとえば『ザ・フライ』なんかでも、あれをハッピーエンドだと言っているそうで、そう言われてしまうとまともに考える気が失せます。いや、悪い意味ではなくて、「ああ、いわゆる道徳的な基準で捉えちゃ駄目なのね」と思わされるということです。今回の映画も最後は主人公が自殺しますが、あれもハッピーエンドなんでしょう。いや、それ自体は間違っていないというか、狂人にとってのハッピーエンドとしてはわかります。ただ、周りにいた人々は冗談じゃないという話ですけどね。

 映画自体はちょっと眠くなってしまったんですが、それでもこのクローネンバーグという監督には興味があります。今後も観ていきたいと思います。

メディアの悪影響って言いますけど、「悪影響」の定義を一度しっかり決めたほうがいいんじゃないでしょうか。
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渥美マリで保っている作品ですが、増村保造の変さが出ていて、個人的に好きです。
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 日本の映画監督、でぼくが一番惹かれるのは繰り返し述べていることからわかるように園子温ですが、既に逝去した監督で言うと今のところ、増村保造です。黒沢、小津といったビッグネームには遠く知名度は及ばないし、大きな賞を受賞しているわけでもないのですが、この人の映画が持つ特殊さには強く惹かれるのであります。

 一言で言うと、物語運びや演出は「テレビ的」であり、構図的風合いは「西洋映画的」なのであります。この人の映画の登場人物はとにかくよく喋る。映画的演出としてはむしろ不可とされかねません。たとえば誰もいない状況でも、登場人物が独り言で内心を独白したり、状況を説明したりします。また、進みのテンポもやたら速い。だから今回の『しびれくらげ』の前に撮られた『でんきくらげ』などはともすれば昨今のケータイ小説的な事件のオンパレードにも似ています。反面、イタリア留学でヴィスコンティらに師事したというだけあって、映画の風合いがどこかヨーロッパ的。それは今回の『しびれくらげ』を観るとよくわかります。

大映倒産まで一貫して大映で撮り続けた増村ですが、この作品はその最後期のものに当たります。『でんきくらげ』『しびれくらげ』をぼくは明確に「ジャケ借り」しました。画像添付は面倒くさいのでしませんが、ぜひ検索してジャケットを観てほしいものです。あからさまにピンク映画っぽく蠱惑的で、なおかつ古さを感じさせない(いや感じたとしてもそれは「レトロ・エロティック」として好意的に受け止められる)ジャケットです。一方タイトルはあからさまに気が抜けており、これをジャケ借りしない手はありません。

 この二つは「軟体動物シリーズ」として位置づけられるようで、他の監督が撮ったもので「いそぎんちゃく」などがあります。といっても本当にそれが出てくるわけではなく、では何が「でんきくらげ」であり「しびれくらげ」なのかといえばひとえに、あの渥美マリの魔性の魅力なのであります。

 渥美マリ、という人は1968年に映画デビューし、1973年に引退(18歳から23歳の間に主に活動)。実質活動は5年と女優としては非常に短いのですが、この映画を観るにつけ、いやはやすごい魅力でございますなと感嘆します。『でんきくらげ』のキャスト紹介によれば、当時の「No.1オナペット女優」だったそうです(DVDのキャスト紹介としてそれでいいのか)。顔の下半分が鈴木紗理奈に似ていますが、存在感はもちろん鈴木紗理奈の比ではありません。『しびれくらげ』における渥美マリはわかりやすく「日本人離れ」しています。メイクの感じもあって、ヨーロッパ映画に出ていても何の違和感もありません。また、この人のメイクや髪型には古さがないのです。今でも十分に通用する。いや、今でも「いわゆるいい女」の模範になりそうな、香り立つ美人ぶりです。もうぼくはこの渥美マリを観られただけで、この映画はこれでいいです。というか実際、渥美マリがいるから映画が持っています。

 ストーリーは別に紹介しようとも思いません。物語は特別に優れたものとも思われません。まあ要は『でんき』『しびれ』両方とも、「男に依存して生きながらも、男の小ずるさ、小ささに辟易した女が、一人孤独にももたくましく生きていく」ような話です。相手役は川津祐介ですが、この人は見た目めちゃ男らしいです。もう、「どう考えても仕事ができる社会人」です。この川津祐介が仕事場にいたら、もう間違いなく頼りにされるのであって、女子社員のハートがちゅくちゅくしちゃうことでしょう。絶倫タイプなので、その点でもOL、BGは揺さぶられ、引き続きキューティーハニー風にいえば(何のため)「私のあそこがじゅくじゅくしちゃうの」ってなもんでしょう(尾籠)。でも最終的にはこの川津祐介の弱さやずるさを見限り、渥美マリが強く生きていくってな筋立てです。

 渥美マリはこの頃20かもしくは19ですが、幼稚さは欠片もなく、大人の女性の魅力ぷんぷんです。芝居自体は変と言えば変です。いや、あるいは増村演出のせいでしょうか。すべての台詞が「押し」なんです。台詞の調子が強いんです。連想するのは栗山千明ですね。栗山千明がすごむとすごくいいのですが、あの調子が全編にわたっています。でもこれはこれでよいのです。この映画は渥美マリの存在感が勝負ですから、彼女が変にリアルな芝居などする必要はなく、ひとつの偶像として存在してくれるのがよいのです。

 というか、まあこの映画に限らず増村の映画はそうで、先に「テレビ的」と書きましたが、一方で「演劇的」でもあるのです。狭い空間におけるやりとりは演劇のそれです。沈黙による間とかそんなものはないのです。人物ははっきりと自分の言いたいことを言い、それで悶着を起こしますが、この濃度がいいのです。前回の『痴人の愛』は、テーマがテーマだけに、狂気にまで持っていく必要がこれあり、濃度的には物足りなかったわけですが、このサイズの作品であれば、濃度的には満足です。ああ、ひとつの物語がここにあるな、と思われ、映画的快楽があると言えましょう。

 映画自体は特別お薦めはしません。話自体は事件が詰め込まれていて退屈しませんが、かといって取り立ててすごいわけではありませんし、大映が映画会社として立ちゆかなくなった頃のものですし、良くも悪くもテレビドラマ的です。ただ、この渥美マリという女優を観るだけでも価値がありましょう。他の監督作における彼女を観ていないので何とも言えませんが、増村演出と彼女の存在が非常によくマッチしており、その点だけは個人的評価が揺るがぬところです。また、構図、画づくり自体も増村の特殊さが出ている作品ではないでしょうか。汚いアパートのシーンなんかでも、昭和の汚いアパートという感じではなく、欧米的なきらびやかさがあるのです。ごみできらめいている感じ、かといってけばけばしくない、モダンな感じがあります。ことほどさように増村保造は変です。種々の雑多な要素が混在しながらも、ひとつの統一的な映画世界を築いており、それがまさに他ならぬ増村保造映画たり得ている。この類例まれなる映画作家が、ぼくはやはり好きであります。
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個人的にあのナオミには惹かれなかった。そしてこの映画の最大の問題は、やはり狂気に欠けること。
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 いわずとしれた谷崎潤一郎の名作ですが、この増村版を含め、三作ほど制作されているようです。木村恵吾という監督がこれより前になぜか二回、映画化しています。ちなみに谷崎潤一郎はぼくの卒業した学科の先輩に当たります(谷崎は中退したみたいですが)。ちなみに増村保造は大学の先輩に当たります。

 原作は随分前に読んだので、細部などはぜんぜん覚えていませんでした。なにしろぼくは小説の内容を長期にわたって覚えておくことができない。なんか大体あんな感じ、こんな感じという覚え方で、この『痴人の愛』にしても、簡単なあらすじも忘れているくらいでした。ただその分、映画はフラットに観られたと思います。ああ、いや、そうでもないなあ。やっぱり原作のインパクトありきで語ってしまいますね。原作と違ってもいいんですが、原作の核の部分が変わることだけは、やっぱりよくないです。

 要はまじめなサラリーマンの男が、自分よりずっと年下の少女に耽溺していく話ですが、まじめな男、河合譲治役を小沢昭一、少女ナオミ役を安田道代(現・大楠道代)という女優さんが演じています。安田道代という人はほとんど知りませんでした。観た記憶があるのは鈴木清順、『ツィゴイネルワイゼン』くらい。水蜜桃をエロティックに舐めていた婦人ですね。

 始まり方は大変好感が持てた。工場に勤める河合は工場長に、「いい年なのに結婚はしないのかい、遊びもやらないし、生粋のまじめ人間だね」みたいなことを言われ、「自分は猫を飼っているんです。雑種なんですがとても可愛いんです」というような答えを返します。いざ家に帰ってみると、そこにいるのは猫でなく少女ナオミ。きゃはきゃは騒ぎながら河合は彼女の写真を撮りだし、オープニングクレジットに入る。このクレジットは絶品で、それまでと一転して怪奇映画の様相を帯び、この映画の行く末を暗示します。またその直後、ナオミの観察日記を写真とともにナラタージュするあの流れもいい。

 舞台は原作の大正時代から1960年代に置き換えられていますが、これ自体は観ている最中、特別気にならなかった。ただ、後に触れますが、観終えた結果としてはやはり時代設定を原作通りにしたほうがよかったようにも思います。

 この手の作品だと、もうはっきり言って、ナオミが勝負みたいなところがあります。ナオミが可愛ければ何がどうでも許せてしまう作品になり得ます。アイドル映画は中身がどうあれ、アイドルが可愛く撮れていればそれでいいようなところがある。この映画はナオミというアイドル=偶像が可愛ければそれだけでいけちまう類のものです。

が、いや、だからこそ、ぼくはあの安田道代がちょっと残念でした。これはもう好みの問題でしかないかもしれないけれど、安田道代自体がそれほど魅力的に思えなかった。これはこの映画をどう観るかにおいて、一番と言ってもいいくらい大事な部分です。

 難しいと言えば難しいんです。小説はそれこそ自分の理想通りのイメージで読めるから、いざある女優になるとその違和感が気になるというのはどうしてもあって、特にこうした小説ですからナオミ役は難しく、誰しものイメージ通りにぴたりといくこと自体、そもそも無理。だからこの安田道代でよかった、という人もいるんでしょうし、これはあくまでも個人的な感じ方です。ただ、アイドル好きのぼくからすると、このナオミはもうロリータ味が強すぎるくらいが丁度いい気がします。原作では十五歳のときに出会った設定になっていて、要するに女子高生に惚れたような話ですし、彼女は勉強嫌いの気まぐれ小悪魔なんですから、子供っぽさが全面に出ている方がいい。ただ、原作ではメアリー・ピックフォード(文庫版では「メリー・ピクフォード」)に似ていることになっています。この人を知りませんでしたが、ウィキの画像ではちょっと大人っぽいですね(って、何歳の頃の画像かわかんねえから意味ねえだろ)。ともあれ、やはり小悪魔性こそがこのナオミの核にあることは間違いないわけです。

 この安田道代はねえ、ちょっとしゃべり方とか声がおばさんくさいんです。絵沢萌子という今はおばあさんの女優がいるんですが、あの人を思い出してしまった。なんなら、あの人の若かりし頃かと思うくらい印象が被る場面がありました。しゃべり方が子供っぽくない。時代的な背景があるにせよ、もっと子供っぽい、舌足らずなくらいでいいんです。
 
 顔に関してはこれこそ好みの最たるもんですけど、やはりロリ要素が皆無。同じような話でナボコフの『ロリータ』、原作こそ読んでいませんが、キューブリックの映画版は観ています。あれなどは観ていて気にならなかったんですけどね、今回のナオミはなあ、ちょっと合わなかった。今のアイドル、役者で言えば、このナオミ役にふさわしい人がいくらでも思いつきます。脱ぐ場面も演じられる、となるとぐっと選択肢が狭まるので、ここはAV女優も考慮に入れたいところです。あの人もよい、この人もよい、といろいろ空想するだけで楽しめるものです。ちなみにぼくのナオミ役の一押しは、数年前に引退した、エスワン草創期を支えたあの、小倉ありすです。もうちょっと年若ければみひろもいいです。ロリとは違いますが、最近では桜木凛の良さに惚れ惚れとしています(何の話だ)。ちなみに、ごく個人的なことでいえば、かつて新宿のバーに立っていたあずみちゃんという女の子が、ぼくの抱くナオミの外見的イメージに合います(誰にわかるというのだ)。

 谷崎潤一郎について、マゾヒズムってことが言われますが、マゾ=被虐、被支配に快楽を見いだす欲求の場面で言えば、あの馬になるシーンがあります。ナオミにまたがられた河合が家の中を四つん這いで歩くのですが、ここなどはもっとエロティックかつ狂った見せ方ができたんじゃないかと思います。どうもここは平凡だったかなあ。あるいはやはり、女優の問題に尽きるのでしょうか、ぼくは入り込めなかった。

 マゾというのは、わかりやすいところでSMの女王様というのがあるけれど、何も女王様的な、強いものからの被支配がすべてではありません。SMの女王様といえばそれこそ、革のボンテージにお姉系のいかつい女性が高圧的な態度をとる、というイメージがありますが、この役割をロリ系に当てはめてみると、これまた違う味わいがあるわけです。客観的に見れば貧弱で幼気な、か弱く可憐なる少女。そのような少女に支配される悦びをこそ愛でる、というモードがマゾヒズムにはあるのです。簡単に言うと、「強いものに屈する我」としての快楽ではなく、「己よりも明らかに弱いものにさえ屈する我」に快楽を見いだすこと。ぼくは対女王様のマゾヒズムには惹かれませんが、こちらのマゾになら官能を覚え、感応できる。強いものには反発したくなる。行ったことはないけれど、ぼくがいわゆるSMクラブに行ったとして一番喜ばしいプレイはきっと、女王様を(本当に)殺すというものでしょう。Mのふりをして入り、いきなり女王様を殺すことができたら、これは快楽濃度が高そうです。サディズムにおいてはぼくは、弱いものを屈服させたい願望はない。でも、強いものをぶっ殺すならばそれはさぞ面白かろうと思います。

 だんだんやばい方向に話が転がっている。人間性が疑われる。いや、しかし、これはこの『痴人の愛』を語る上で重要なところではあるのです。こうした話し抜きにこの話を語るなんて、格好つけのやることです。結果、河合はナオミに屈服し続ける生き方を選びます。これはこれで谷崎の行ききっているところだなあと感じます。一人の女子を愛玩する話だと『完全なる飼育』がありましたが、あの筋立てはこの『痴人の愛』に比べればひどいものです。誘拐犯と女子高生が最終的に純愛みたいな、もうどうしようもない話です。あれこそまさに、支配と被支配が逆転するダイナミズムを生み出し得る設定なのに、何を考えていたのか。『痴人の愛』の芳しき狂気はすなわち、支配していたはずのものに支配される、愛玩していたものに飲み込まれる、それでいてなおかつ、当人は幸せであり続け狂気から醒めぬという、喪黒福造に「ドーン!」を喰らった後のような、「不幸に見えるが当人はいたって幸福」という部分なのです。考えてみるに、狂人とは幸福な人々です。愛の狂気を描いているなんて、手垢にまみれつくした表現をするのもどうかと思いますが、やはりその点は疑いようがないです。

 映画全体を通じて言うと、この狂気の密度を高めるには1960年代ではなく、大正のそれこそ『ツィゴイネルワイゼン』的な怪しい雰囲気を持っていたほうがよかった。これは否めないところです。ストーリーなんてぶっちゃけどうだっていい。いかに雰囲気を漲らせるかがこの映画のポイントであったはずで、最初こそ相当いいのに、途中からつまらぬ男のつまらぬ話に堕してしまう。河合がナオミを欠いた際の「禁断症状」に見舞われるシーンがありますが、あれをああやって見せるのではなく、その雰囲気を全編に持たせることが必要だったんじゃないかと思わされる。そのためには、母親が死ぬ場面のああいう笑いは、この映画の場合要らないかなあと思いました。むしろ、あそこで河合の底が知れてしまった。あそこで母親の死に悲しむのは底が知れる。あれで悲しまなければ、狂気が持続したかもしれないのに。それと、せっかく効果的だった日記をどうして最初のほうでしか使わなかったのか。モノローグは狂気の宿り場。あれはもっともっと使える装置だったのに、低予算映画で雰囲気をつくるにはあれは絶対使えるのに、使わなかった理由がわからない。

 ことほどさように、『痴人の愛』自体は素晴らしいにしても、その映像化という点ではいささか踏み込みが足りないと思いました。終わり方も、あれでは河合が「愛に溺れた」哀れな男に見える。そうじゃなくて、「愛の海に溺死し、しかしそれをこそ尊ぶ」という、簡明に言えば、ひどく幸福そうな表情で終わりにしたほうが、狂気が浮き出たはず。増村保造は好きなのですが、この映画に関してはちょっと残念だったなあと思います。

どうも今日の文章はいつもより読みにくい感じです。ごめんね。
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ラストショットの素敵さは今まで観た映画でいちばん。
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 原題『THE KILLING』。邦題の「現金」は「げんなま」と読みます。
 思えばぼくが初めてまともに意識した映画監督は、スタンリー・キューブリックでした。映画なんかぜんぜん観なかった大学時代にもキューブリックだけはなぜか結構観ていました。今のところ、『ロリータ』以降のものはすべて観ていて、ほかには『非常の罠』なども観ています。マイベストを決めるとしたら、もう一度見直す必要がありますね。『時計じかけのオレンジ』とか『フルメタルジャケット』とかは、観たのがかなり前なので、今よりもずっと見方が甘かったはずで、今観ればきっとぜんぜん違う感想が得られるでしょうから。

 さて、『現金に体を張れ』です。前回も強盗ものを扱いましたが、これも強盗の話です。競馬場での強盗を目論む人々の話で、時間軸を行ったり来たりする手法がとられています。タランティーノが初期三作で用いていましたが、この手法をうまく用いると、じらしの演出ができます。つまり、時間的にクライマックスに向かいながら、すっと過去へと反転するため、観客はその語りにじらされる。なおかつ、新情報が次々と舞い込むため、観ていて飽きないつくりが可能になるうえ、情報量を盛り込むことが可能なので説明的な役割も果たせる。日本で一番成功している例はテレビドラマ『木更津キャッツアイ』だと思います。行ったり来たり、とは違いますが、野球の攻撃における表裏の構造をうまく用いて、クライマックスの濃度を高めていた。映画版は観ていないのでなんとも言えませんが。

 強盗もの、計画ものでは、その来るべき実行までをどう見せるかが大事になりますが、この映画の場合、そこはちょっと退屈でした。結構ハードボイルド的というか、あまり余計なことが起こらず、余計な演出はなく、その分退屈さもあり、伏線が張られて心地よい、ということもあまりない。うん、強盗チーム各人の描写をしていたわりには、伏線的心地よさには欠けたかなあというのが正直なところです。伏線という物語装置にはあまりこだわっていないようですね。メンバーの一人である警官が一般市民の頼みを無視するのですが、これが後々生きてくるかと思いきや何もなかった。あのひづめのくだりはよかったですけどね。

 映画全体を通して、時代性、B級さを感じました。今ではぜんぜん通用しないであろう演出、場面も多いです。スキンヘッドのおっさんが暴れるくだりもそうだし、実際に強盗をする場面のもたつきも、警備員に見つかって咎められるシーンも、今はもう通用しないでしょう。一言で言うとかなり平板な撮り方ではあります。とはいえ、時間軸をずらしまくるという、当時としてはおそらくかなり斬新な手法をとっているので、この辺のシーンは逆にわかりやすさを第一にするというのもわかります。

 タランティーノが『レザボアドッグス』で、あるいは『パルプフィクション』のトラボルタ射殺シーンで撮った突然の銃撃、あれも時間軸ばらし手法同様、この映画を参照したものなのでしょうか。いきなり銃声が響き、一瞬で事が終わる場面があって、あそこの驚きは良質ですね。あの間男の描き方自体がさらっとしたものなので、あの場面はあれくらいタイトにまとめるのがいいというわけです。あそこでぐだぐだしないのは好感度が高いです。

 なんといってもこの映画でよかったのは終盤、そしてラストですね。終盤の札束シーンは、全体を通して映像的面白みがさほどないこの映画において光りました。ああ、ああ、ああああああああああああああ、という場面です。あれもいいし、この映画のポイントがさらに上がるのは最後の場面。今はエンドロール当たり前の時代ですが、この頃はそんなものがなく、「THE END」でぱしっと終わります。その終わり方が最も効いている例のひとつではないでしょうか。あそこで「THE END」にするのは最高に格好いいし、そのときのショットがこれまたいい。ああ、まさにこれは「THE END」だな、という終わり方。あるいは「GAME OVER」的な。あの終わり方はさすがだなあと思わされます。今のところ、終わり方、ラストショットという意味では、今までに観た映画の中で一番です。別に奇をてらったことは何もありません。きわめて普通。きわめて当たり前、きわめてわかりやすい終わり方なんですが、この王道ぶりをかませるのは格好いいです。あそこで終わる、というのは当たり前のようで意外とできない。余計な説明のない、いい終わり方でした。

『2001年』『時計じかけ』『バリー・リンドン』などの色彩溢れるキューブリック世界とはまったく違うモノクロもので、映像的な楽しみを与える作品とは違いますが、あの終盤とラストでかなりポイントが上がりました。全体を通して言えば、別に傑作、名作とは思わないんですが、ぴしっとさらっと締めているところは素敵です。
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原題の意味は『暑い日の午後』。そう思って観たほうが、この映画の味わいが深まる。
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原題『Dog Day Afternoon』。
原題の『Dog Day』とは、猛暑の日、または停滞期を示す言葉だそうです。邦題の狼というのは勝手につけたものみたいですね。シドニー・ルメットはぜんぜん観ていませんでしたが、もっといろいろ観てみたいと思いました。よかったです。最近はもうひとつ褒めきれない映画に数多く出会っているため、いいのに出会うとやはり嬉しいです。

 銀行強盗の話ですが、最近作でもルメットは銀行強盗を扱っていたようです。アメリカ映画では結構よく出てくる事件じゃないでしょうか。アメリカン・ニューシネマでも『俺たちに明日はない』や『ゲッタウェイ』があるし、最近の『ダークナイト』でも銀行が襲われていました。日本の強盗ものといえばこれは『ルパン三世』をおいて他にありますまい。『陽気なギャングが地球を回す』なんて日本映画がありましたが、あれは面白くなかったです。

 アル・パチーノが主役です。やっぱりぼくは彼が好きです。以前、70年代から80年代の日本映画にはすごくいい俳優が沢山いたと書きましたが、アメリカ映画で言うとぼくは今のところ、アル・パチーノが一番好きですね。どこか危うい男を演じさせるとこの人はすごくいいです。『スカーフェイス』は言うまでもなく、『カリートの道』なんかでもすごく色気があったし、『ゴッドファーザー3』の老成ぶりもたまらない。『ゴッドファーザー』でいえば、3の老いたアル・パチーノが一番好き。決して強い感じじゃないんです。たとえばクリント・イーストウッドは昔から一貫して強そうじゃないですか。そのほかアクション映画系のマッチョなスターもわんさか出ていますし、イケメンスターも次々出てきますが、アル・パチーノの、一見弱そうだけど爆発すると頼もしい、何をしでかすかわからない感じというのは、かなり希有だと思います。

 今回のものもそうですが、アメリカン・ニューシネマ的敗北の香りはやはりぼくの好物です。おしなべて好きです。嫌いなのはマイク・ニコルズ監督の『卒業』(1967)くらいですね。名作とされる『卒業』ですが、あれはぼくには駄目でした。あの映画はどうしてあんなに褒められるのでしょうか。サイモン&ガーファンクルの楽曲はいいのですが、話の本筋がよくわからない。ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスに惚れていく過程がどう考えても弱く、逆もしかりです。おかんと寝ていたホフマンを、なぜキャサリン・ロスが許したのか、まるでわからない。有名なクライマックスも意外と盛り上がりませんでしたし、訳もわからず花嫁を持って行かれた男が可哀想です。

 なかなか映画の話に入れません。前置きが長すぎます。
さて、『狼たちの午後』ですが、銀行強盗をしたアル・パチーノと相棒ジョン・カザール(ゴッドファーザーではアル・パチーノの兄貴でした。この映画の公開3年後に42歳で亡くなったそうです)が、延々立てこもり続ける話です。予備知識がなかったので、ずっと銀行内で進めていく設定には驚きました。アル・パチーノが結構いいやつで、人質の事情をあれこれと対処しているうちに警察に囲まれ、出て行けなくなってしまうのです。途中、説得に来る警察官やなんやかやを交えながら、話は進んでいきます。

 ひとつ、これまさにアメリカン・ニューシネマなりと思ったのは、なんといってもあの「アッティカ! アッティカ!」のくだりですね。アル・パチーノが銀行の外に出て、警察を挑発するようにそう叫ぶのです。アッティカ刑務所という場所で、囚人の扱いがひどくて暴動が起きた実際の事件があったらしいのですが、これは官憲の横暴として当時話題になったらしく、野次馬たちはアル・パチーノの叫びに呼応して盛り上がります。ボニーアンドクライドも、言ってみればただの犯罪者なのに、人々の人気を呼んで映画化されるほどになった。これは社会の複雑さというか、いい子ちゃんでおられぬ感じが吹き出したようで、なんだかわかるんです。

 犯罪はないほうがいいに決まっている。ただ、『マイノリティ・リポート』のごとく、犯罪を事前に察知して逮捕するような社会なら、それはユートピアでなくディストピアに思える。やっぱり人というのは、どこかで対岸の火事を望んでいる生き物なんだと思います。これは悲惨な事件が起きたときのマスコミを見れば一目瞭然で、どこかそういう暗い願望はある。この『狼たちの午後』の頃、アメリカン・ニューシネマの時代は、その残酷さが息づいていたのだなあと思って、どこか憧れる。今の映画では邦洋問わず、つくるのが無理でしょう。ボニーアンドクライドが今いたら、それこそ本当にただの犯罪者として扱われるだけでしょう。いや、彼らはただの犯罪者なのだから、その捉え方は実は一番正しく、かつ理性的ではある。

 でも、どこか寂しさもある。アメリカン・ニューシネマが持つ今日的意義を最も明確に映し出すのは『イージー・ライダー』であり、『カッコーの巣の上で』であるでしょう。前者は荒野広がるアメリカ大陸をハーレーで放浪、後者は閉じられた精神病院での小さな反抗、その外形自体は大きく異なるものの、自由奔放なる姿とその悲劇的末路という構造は非常によく似ている。自由であることをよきことと言う、しかし、その自由が自分たちの規範を逸れるのであれば、たとえ当人たち(あるいはジャック・ニコルソンに魅せられたそのフォロワーたち)が幸せであろうとも、体制や社会は容赦なくたたきつぶす。では自由とは何か。その問いの前に立ち、進みあぐねたとき、ぼくたちはジョーカーに魅せられる。ボニーアンドクライドが当時の人々にウケたのは、たとえ悪人であろうと、彼らのうちに自由を見いだしたからだと思います。自由とはひとえに、神の庇護からさえも離れること。それは時として神との対峙という形をもとるのであり、社会に生きるほかない人々はその対峙した姿に憧れを抱くわけです。ああ、すいません。話がまとまらないまま勢いで書いてしまった。どうせ書くならもっとちゃんとまとめてから書け、意味がわからない。ええ、その通りでやんす。格好つけた物言いをして悦に入るな、不快だ。ええ、おっさるとーりでらんす。

 いい加減映画の話をしな過ぎです。これではいけません。
 あの「アッティカ!」シーンにおけるアル・パチーノはロックスターそのものですね。銃声がなることもほとんどない、はりつめた空気の中でこそ、あのシーンは光ります。映画を観て行くにつれ、何の話なのかよくわからなくなりそうにもなる。銀行強盗でたてこもっているはずなのに、どうもそういう感じがしなくなってきます。いや、これはこれでよいのです。銀行強盗は話の中心ですが、この監督は別に銀行強盗を描こうとしていない。実際の事件に基づいているそうですが、ならばなおのことでしょう。銀行強盗の話なんていくらも創作しようがあるはずなのに、実際の事件に基づいたということは、銀行強盗が主題ではなく、その事件が「単なる銀行強盗ではない何か」であり得たからでしょう。劇中のアル・パチーノの振る舞いや、家族、恋人との会話などを見ていっても、銀行強盗云々などどうでもよくなってくる。

あっ、そろそろ眠くなってきました。まあゲイの恋人が出てくる話とかもしたいのですが、ここまで読んでいる暇な人もいないだろうので、この辺でそろそろ終わりに向かいます。最後のシーンは今までのトーンで保った分、「あっ」という衝撃に持って行かれます。その後ににじみ出てくる、なんとも言われない虚しさ。何やってたんだろうな、という、『ファーゴ』的虚無感。ああ、これぞアメリカン・ニューシネマの醍醐味。タイトルは『狼たちの午後』などと、ちょっと格好つけた感じですが、これはもう、まんま直訳して、『暑い日の午後』みたいな、虚脱したタイトルがよかったように思います。体感時間自体は結構長いんですが、その長さが決して悪くない。激動の一日って感じがあって、その後の虚無感が効いて、『暑い日の午後』だったな、という寂しい鑑賞後感が生まれる。

 なんだか中身があるような無いような記事になりました。無駄に長いですね。あらためねばなりません。
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魅力がないただのあほ。たとえばカウリスマキならもっとうまく撮ってくれたはず。
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 ダルデンヌ兄弟の作品は初鑑賞です。この作品は彼らの二回目のパルム・ドール受賞作ということで、これまでそれほど多く撮っていないにもかかわらず二度目というのはすごいことだと思いますが、今回の作品を見る限りでいうと、どうも本当にすごくて受賞しているというより、カンヌの賞獲りに向いている、ということではないでしょうか。賞を獲るのがうまい人たちというか、少なくともぼくなどの野暮天には、「おお」と思えなかった。

 筋書きはというと、要は駄目な男のお話です。男は恋人の女との間に子供ができるんですが、金欲しさに子供を養子として売ってしまい、でもあとで後悔して取り戻して、でももう恋人とは一緒にいられなくて、といった話です。

 観ながら思ったのは、これはヌーヴェル・バーグとかヨーロッパ系の、あっち系に詳しいともっといろいろ語れるのかもなあ、ということでした。ぼくは日本映画とアメリカ映画ばかり観ており、正直ヨーロッパの映画にはそこまで惹かれるものがない。アキ・カウリスマキくらい、あとは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ドッグヴィル』のラース・フォン・トリアーくらいかなあといったところ。ヌーヴェル・バーグなどには今のところ惹かれません。

 余談ですが、フランスのヌーヴェル・バーグはそこまでパルムドールに縁があるわけでもなさそうです。ぼくが意外に感じたこととして、過去のパルムドール受賞作を観てみると、ヌーヴェル・バーグの代表であるところのジャン=リュック・ゴダールも、フランソワ・トリュフォーも、パルムドールは獲っていないのです。それどころか、トリュフォーは『大人は判ってくれない』で監督賞を受賞しているものの、ゴダールにいたっては無冠です。ヌーヴェル・バーグにきわめて造詣の浅いぼくでも知っている、大変高名なこの二人が、どうしてカンヌ映画祭と縁遠いのか、誰か知っていたら教えてほしいものです。ルキノ・ヴィスコンティやミケランジェロ・アントニオーニなどネオレアリスモ系の受賞はあるのですが。

 さて、関係ない話が膨らみました。
『ある子供』は正直別に面白くなかった。これなら同年のパルムドールはフォン・トリアーの『マンダレイ』にあげてほしかったです。駄目な男の話は大好物なのですが、どうも画も面白くないし、子供を売るくだりもハテナマークというか、何なの? って感じです。
子供を売って金を得て、それで恋人がショックを受けると今度は翻意して取り戻す、それで恋人に嫌われて、ああ、とんでもないことをしたなあと途方に暮れる。そう、まさにこの主人公こそが「ある子供」、つまりはすごく子供な野郎なんですが、ただのあほなんです。なんというか、ああ、こいつはどうしようもないあほだなあ、と思わされればそれでいいんですが、こいつは「ただのあほ」なんです。ほしいものがあったからサラ金で金を借りて、でも返せなくなって、ああどうしようと言っているのと同じような、ただのあほです。こいつを子供っぽく見せようとしているのはわかるんですよ。最初の恋人とのコミュニケーションとか、ガキとつるむくだりとか、警察から逃げるときに川のほうに行ってしまう浅ましさとか、とにかく子供っぽくしているんですが、これだと「大人になれないやつ」というより、本当に「ただのあほ」に見えてくる。若者が大人になる話、大人になれない若者の話、子供のまま大人になったような男の話、など、いろいろな分け方があるとして、こいつの場合は、「ただのあほの話」です。

 とはいえ、「ただのあほ」だから即駄目だということでもないんです。ただ、この映画は手持ちカメラで音楽も排した撮り方なのですが、その分ずっと主人公を映している。となるとこの男を好きになれないとやはりきついです。これ、アキ・カウリスマキだったら違うんじゃないかなあと思うんです。たとえば1990年の『コントラクト・キラー』。会社を首になり自殺しようとした男が死ねず、でも死にたいから自分を殺してくれと殺し屋に頼む。しかし恋をしたことをきっかけに死ぬのが嫌になり、殺し屋から逃げ回るという話です。あるいはぼくのベストオブカウリスマキの『街のあかり』(2006)。孤独な男が恋をし、彼女のために罪を犯す。彼女は実は犯罪者一味だったのですが、そうとわかっても彼女を咎めることなく、自分が刑務所に入る。こいつらもどうしようもない男ですが、でもやっぱり愛着がある。それは何故かを考えるに、やっぱり作品全体から醸される「哀しさ」があるかどうかでしょう。『ある子供』の主人公に、あるいはこの映画全体に決定的に欠けているのは、「哀しさ」です。こいつは哀しいなあ、というのがない。それは主人公の行動や性格云々というより、ひとえに描写の問題なんじゃないかと思う。「生き苦しさ」や内面的孤独があるわけでもなく、ただ小悪に手を染めているだけの、ただのあほ。

 主人公がパンを食うシーンがあるのですが、ここに落差と哀感がこもらなかったのが大きい。最初のほうで、まだ彼女と幸せでいたときにもパンを食うシーンがあります。そして後半、独りになったときにも同じようなパンを食っている。ここで落差が見せられたはずなんですが、どうも一度目のパンと二度目のパン、どっちも旨そうじゃないんですよ。幸せなときも不幸なときも「なんかまずそうなパンやなあ」と思える。幸せなときのパンはもっとうまそうに描写してくれ! そして不幸なときのパンはもっともっとまずそうにしてくれ。ここでもやはりカウリスマキの手練れを思う。『マッチ工場の少女』(1990)の食卓の料理は本当にまずそうで、だから哀感がある。独りでいるシーンの多い、会話の比較的少ない映画なのに、こいつが独りでいるときの佇まいに魅力がないため、彼を好きになれない。

 パルムドールを獲ったわけですから、ぼくのような凡愚の野暮天にはわからぬ意匠がきっと凝らされており、味わい深い作品なのでしょうけれど、それからぼくが通うビデオ屋のポップには「蒼井優が絶賛」なんて書かれていたんですけれど、どうにも物足りない。最後に泣かれたところでどうしようもないのは、言うまでもありません。
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描写に乏しく、ほのめかすくせに雰囲気がなく、全体的に軽い。本当にこのテーマで撮りたかったのか?
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 たまたま原作を読んだので観てみたいと思っていました。原作はショッキングな内容でした。リーダブルである半面、文章的な面白みには欠けるものの、モチーフのインパクトが大きいので興味が持続します。この内容を映像化するにはいろいろな意味で障壁があると思ったので、なおのこと観てみたくなり、鑑賞。

 以前にも述べたことですが、映画と原作を比較してもあまり意味がありません。土台表現方法が異なる以上、あるいは長さの制約がある以上、原作を忠実に映像化することは不可能ですから、ぜんぜん違っていてもいいのです。大事なのは、その原作が持っている核の部分を変えないこと、その原作が表そうとしていることを曲げないことだけです。

 ゆえに、原作を横において一本の映画としてどうなのか、を考えねばなりません。
 内容は一言で言うに、タイにおける児童売春、臓器売買を描き、それに巻き込まれている子供、その実態を暴き救い出そうとする人々のお話です。

 撮影に当たってはやはり色々と問題もあったようです。ひとつには子供が売春させられる、というか、強制的に犯される場面をどう描くかです。撮影に臨む子供のケアや映画としての描写についてどうするかは大変ナイーブなところです。結局この映画が選んだのは、「ほのめかす」やり方でした。ファックシーンを描いたとしても子供の表情をアップにするなどして直接的に全貌は見せず短くまとめ、その前後の場面を描くことで何が起こるか、起こったのかを描くという方法でした。モチーフである以上、ここは非常に重要な場面になるわけですが、あの方法に留めるのは致し方ないのかもしれません。直接的に描きすぎると、問題が多いわけです。一番安易に、衝撃的に描くなら、もろにファックシーンを撮ればよい。この監督はその点きちがいではない様子で、良心的に収めています。ただ、良心的に収めてそれでいいのかという問題もあります。こうした場面には陰惨さが必要です。子供が本当に可哀想だ、観ていられない、というのを観客に伝えなければ、この映画がモチーフとしている問題がきちんと描かれない。それは何も直接的に描かなくてもいい。映画が放つ雰囲気、つまりは演出によって可能なところであるはずです。そういう演出に作為性を滲ませたくないなら、逆に正面から撮るべき。
 
 要はこういうことです。妙な演出を施さずにありのままに撮りたいなら、いろんなタブーを打ち破る覚悟で真っ向から撮る。それができないなら、演出によってその出来事の周縁を濃厚に描く。どちらかの方法を撮るべきだと思いました。にもかかわらずこの監督は、出来事の周辺をありのままに描くばかり。いや、ありのままならありのままできちんとするべきなのに、日本人のくだりなどはなんとも気の抜けた場面だし、他にも原作を読んだ人間じゃないと補完できない場面が数多くある。ほのめかすならもっとちゃんとほのめかしてくれよ、と思います。たとえば園子温の『奇妙なサーカス』。あれは近親相姦が出てくる話ですが、子供の恐怖と父親の不気味さが本当によく表現され、きちんとほのめかされている。この『闇の子供たち』だと、いろいろなことに配慮するあまり、結局一番何も描けない、というか、悪いけれど誰だって描けるくらいの描写でしかなくなっています。

 ここに濃度を持たないと、他の場面がゆるゆるになる。正直、つまんねえ映画だなと思って観ていました。宮崎あおいのくだりなんかも、妙に軽いんです。途中、佐藤浩市が出てくるなど役者だけは妙に豪華なのですが、このシーンのぺらさはもっとなんとかならなかったのか。腕のある役者が五人もいるあの家のシーンの駄目さはひどい。テレビドラマならあれでいいけど、この重いテーマを扱う映画であの程度では絶対駄目です。園子温からぜひ密室芸を学んでいただきたい。というか、この映画、本当は園子温に撮ってほしかったですね。

 映画全体がどうも軽いというか、タイの風景も面白くないんです。異国感がなくて、だから日本のシーンとの対比も活きない。それにくわえどうもこの監督は象徴的にというか、何かほのめかすようなことばっかりやって結局中心を描いていないし、中心を想像させるほどの周縁も描けていない。ゴミ袋に捨てられて、もといた村に戻る少女が出てきますが、あのシーンも緩い。結局撮れなかったんだな、という印象ばかりが強くなります。それならいっそのこと、『闇の子供たち』ってタイトルにしなけりゃよかったのにね。あの作品からインスパイアされた別の話として組み立てればよかったのにね。どうもこの監督の耐性は弱いような気がしてなりません。子供が牢獄で虐待されるシーンで、監督は自分で撮りながらもショックのあまり一時的に失語症になったそうです。観てからそれを知ったのですが、いやいや、それほどのシーンじゃないよ。それほどすごくないのに、自分はすごいものを撮ったと思って満足してしまう人なのかもしれません。

 悪者に脅されながらも懸命に実態を暴こうとする、という流れも結局何も逼迫感がない。仲間の一人が殺されるのですが、どうして殺されなくちゃ行けなかったのかよくわからない。触れてはいけないものに触れたからだ、というのでしょうが、だからその場面がねえんだよ! 触れてはいけないものに触れてるなって場面がないの! だからあの児童売春撲滅の集会もだらだらしてるの。銃撃戦になっても混乱が描き切れていないの。宮崎あおいに危機感がないの。テーマに比して軽いんですよ、全体が。

 しかも最後の場面。あれは原作と改変したところなんですが、ちょっとこの監督、映画をよくわかってないのかな、と思わされます。ここからはネタバレになりますので、まあ観てから読んでもらいましょう。はい、ぼくは注意しました。




 あのね、江口洋介がセンターの前で号泣するシーンがあるじゃないですか。なぜ号泣したのかと言えば、自分の過去が一気に思い出されたから、ということですよね。あの描き方もどうなんだと思うわけですが、問題なのはあれを思い出すきっかけです。宮崎あおいが子供の手を繋いで行く後ろ姿を見て、江口は過去を思い出します。これね、これで思い出すってことはね、「過去にそれと同じような構図を後ろから見ている」ってことなんです。「ああ、どこかでこの構図を見たことがある」と思って、人は過去を思い出すんです。だからね、江口洋介が子供と手を繋いで歩いていた自分の過去を思い出すのはね、どう考えても変なの。ぼく、あのラストに至るまで、あの暗闇の後ろ姿が江口洋介なのかどうなのかよくわかんなかったんですよ正直。だって、あんな思い出し方変だもん。江口洋介の目線じゃないんだもん。映画としておかしいですよ、あれ。

 それで最後に死ぬんでしょ、自分も幼児性愛者だったみたいな話でしょ。それで過去を悔いて自殺? えーっ、何それぇ? 切れ味悪いわあ。なんであの記憶が、彼の自害を促すほどに強烈に迫ってきたのか、ぜんぜん描かれてないもん。ぜんぜん衝撃のラストになってないもん。どうもうっすいんです。メンバーの一人が裏切った辺りも、あいつがメンバーだった印象がすっごいうすいんですよ。これはうっすい映画です。モチーフのすごさだけがこの映画の全て。描き方がもうゆるゆる。本当にこのテーマで撮りたかったんですかね。
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前半で期待を煽る分、後半の失速が実にもったいないです。
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 キャバレーと名のつくもので、世界最も有名なのがおそらく、このパリのムーラン・ルージュなのでしょう。ロートレックの絵のイメージが強くて、遠い昔のものなのかなと思いきや、今でも営業しているようですね。ところで、キャバレーとはダンスやショーを行う盛り場のようなのですが、どうしてショーも何もないのにキャバクラは「キャバレー」の部分を名前につけているのでしょうね。キャバクラは好きではありませんが、このムーラン・ルージュのようなキャバレーには面白さを感じます。

 さて、映画のお話です。舞台は1900年のパリですが、まあアメリカ映画はどれしもそうであるように、ばりばり英語で喋っています。ですがこの映画の場合、それで何の問題もなく許されるのは、世界が虚構性を全面に打ち出しているからですね。『下妻物語』などを撮った中島哲也監督は絶対この映画を参照しているはずです。中島哲也作品とかなり似ています。ティム・バートンとも違う、もっとごてごてとした虚構性で、イメージで言えばキャバクラ嬢御用達の『小悪魔ageha』的華美さがあります。ティム・バートンは子供っぽくも端整に形作るし、テリー・ギリアムなどはおしゃれっぽくもありながらその実冷たくグロテスクにつくります。この映画はムーラン・ルージュという場所をより一層華美に魅せ、一言で言ってごてごてした、キャバクラ嬢風に言えば(なぜキャバクラ嬢風に言うのだ)「アゲ盛り」な具合の映像を作り上げています。

 最初のほうのぶっ飛んだ演出は大好きです。勢いで全部持っていくところに映像の強みが感じられて、こういうのは好きです。1900年パリなんて舞台設定をしながらも、思い切り現代風にアレンジしていて、劇中で歌われる曲も「your song」とか「like a virgin」など現代の曲であり、虚構方面に爆走するこの姿勢は愉快に感じました。ムーラン・ルージュの小屋の中でダンスをするシーンなど本当に絶品。M-1の出囃子に遭遇するなどの面白みもあり、ああ、これは大変に素敵な作品であるなあと思わされました。ダンスシーンには特段アンテナが伸びぬぼくですが、このシーンはテンションが上がった。劇場で観たらさらにアゲアゲだっただろうと思われます。このクオリティを後半まで保てたら、素晴らしい出来になるだろうと思い、わくわくしながら観ました。ニコール・キッドマン扮するヒロインは綺麗でした。無条件で愛してしまうくらい綺麗、というのではないのですが、やはりハリウッドのトップ女優だけあって、底知れぬ魅力を放っていますね。

 物語はというと、ムーラン・ルージュのトップの踊り子に貧乏な作家が恋をし、二人は愛し合うようになるのですがそこに金持ちの公爵が横恋慕。そして踊り子は治らぬ病を抱え、不遇の死を遂げるという話です。冒頭から「彼女は死んだ」と言って始まるので、これはネタバレに当たりますまい。

 映像やテンポに妙技のある監督は数多くあれど、その人々とも絶妙に違う映像世界をつくっているこの映画は、前半かなり好感度が高いです。恋に落ちるくだりなども、ミュージカル的に、全部歌の文句で済ませてしまうのであり、勢いだけで話を持っていくところはありますが、これはこれでよいのです。ぐだぐだとつまらぬ会話で恋に落ちるくだりを描くくらいなら、全部勢いで持っていってよし! このノリに乗れていたので、何でもありの果てまでも連れて行っておくれって感じで映画的快楽がありました。

 ただ、うん、最近このフレーズを用いることが多いのですが、もったいない。後半の失速感は実に目に余る。この映画が持っていたアゲ盛り的愉快さ、前半に観られたあの高濃度の痛快感。それが後半になると何もなくなるんです。これはもったいない。どうして前半のままで行かないのか。

 といえば、理由は簡単です。ヒロインが結核にかかり、もう助からないみたいな話になって悲壮感。同時に公爵の嫉妬がえげつなくなって物語全体のトーンが暗くなり立ちこめる危機感。話は悲恋モードに陥っていくため、あの前半の魅力がまったくなくなるのです。こうなってしまうとこの映画、ただの悲恋話に堕します。そうなるとせっかく楽しかったあのミュージカルノリも鬱陶しくなる。監督が替わったんじゃないかと思うくらい、後半は駄目になりました。文法も普通の恋愛映画的になる。これは大変にもったいない。

 そう、前半あれだけ楽しかった監督が、後半からまじめっこちゃんになるのです。やりようはあると思うんです。たとえば劇場支配人と公爵が「like a virgin」のノリで、勢いで持っていく。あそこは後半で活きた場面ですが、あのノリで悲恋を持っていってくれて何の問題もないのです。つまり、ヒロインと公爵がミュージカルのノリで、「好きだよ~ららら~」「あたしは~ 嫌いなの~るるる~」みたいなノリで、ぐいぐい押していけばいいんです。それをなまじまじめっこちゃんのまじめっこモードで物語ろうとするから、ただの普通の映画になる。せっかくあの序盤のムーラン・ルージュのすごいノリがあったのに、だからぼくはクライマックスであれを上回るものが来ると期待したのに、後半は何故かインド映画というか、インドをモチーフにしたミュージカルにしてしまう。あのさあ、ここになんでインドなんだよ。遊びでインドを入れる分にはぜんぜんいいよ。でも、あの場面はインドでつくっちゃ駄目だよ。そこはやっぱりもっと、ムーラン・ルージュなんだから、フレンチカンカンで魅せようよ! 公爵の限りなく鬱陶しい横恋慕もフレンチカンカンのノリで巻いちゃえばオールオッケー! ってな話でいいのよ。それをなあ、妙にまじめなトーンを混ぜるものだから、肝心なところでぜんぜんあの世界観が活きてこない。

 それでヒロインが死んだ後も、妙にさっくり終わる。さっくりすぱっと終わるのは好きですが、この映画には物足りなさを感じた。だからそもそもの話、ヒロインが死ぬなんて設定要らないんだって。なんでもかんでも死ねば感動すると思うな馬鹿! いいじゃないですか、公爵の横暴を切り抜けて愛を成就させる二人でいいんですよ。なまじ最初から、「彼女は死んだ」みたいなばらしをしちゃうもんだから、どんなに公爵が横やりを入れてきても、それでも二人は愛し合うのって話にしても、「でも結局死ぬんだろ。だったら公爵の横やりとかあまり意味なくない?」と思ってしまうんです。そのうえもう一度言いますが、ヒロインを死ぬ設定にしたせいで、映画自体が失速するんです。それとその設定にもうひとつ突っ込みを入れましょう。ヒロインは結核なんだろ! だったらあんな人がいっぱいいるところで踊らせちゃ駄目だよ! もっと違う病気もあったはずじゃないですか。結核だと、周りの人に伝染するのでは…という余計な心配までしてしまうよ! 

 この監督はセンスがいいんだか悪いんだかよくわかりません。映像的にいいのに、クライマックスでそれを生かし切れていないし、物語をテンポよく進める術を知っているのかと思いきやぐだぐだにする。竜頭蛇尾映画です。前半でおいしいところを全部吐き出してしまったような映画で、後半はその残り香でなんとか持っているようなものです。もっと短くてもいいから、アゲ盛りのノリでぴしっと決めてくれればもっともっとよかった。またも思う言葉は、もったいない、ということです。
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