<   2009年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧

もたもたしたうえに、ぺらぺら。
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書いている途中にパソコンがバグり、また振り出しから書く羽目になりました。ですが二回も同じことを書くのは嫌なので、最初からかいつまんで書きます。

 えっと、シリーズ四作目の本作品。四作中、堂々の四位です。

 過去の作品に思い切り負けてしまっていると思います。それでも最初のほうは期待させます。ケイト・ブランシェットの外連味ある敵キャラは面白く、このちょっと子供っぽいバカ映画っぽい敵がインディの面白さだと思っているぼくは期待を高めました。何よりいいのは一作目のラストに出てくるでかい倉庫が再び登場する点で、これはシリーズものの特権、つまり過去の蓄積を活かして世界を重厚にできるという強さなのであります。歴史や考古学的な宝物を主軸とするこのインディ・ジョーンズにおいて、過去のアーカイブを重んじるというのはまさに正しい演出であって、この辺のアクション描写もよかった。いいんです、細かいことは。異常に強い磁力のくだりとかも、いいんです、別に、あれはあれで。冷蔵庫のくだりとかも、まあいいんです、あれはあれで。あの核爆発が一体何の物語的意味があるのかとか言い出したら長くなるから、いいんです、あれはあれで。

 最初こそいいのに、時間が経つごとに面白くなくなっていく。なぜかと考えるにこれは、妙に謎解き要素をいれやがったからです。そのせいでものすごくぐずぐずします。
 インディ・ジョーンズの四作で最もぼくが好きなのは二作目、『魔宮の伝説』(1984)。あれはのっけからドンパチがあって、退屈なシーンというのがまったくなく、いやそりゃ確かにトンデモ展開でいかにも子供向けかもしれませんが、いいんです、土台、冒険活劇なるものは子供向けの娯楽であり、そっち方面で爆走してくれていい。今日付ウィキによると、二作目はスピルバーグ自身は嫌っているようなのですが、あれがいちばんいいんです。政治的な云々とかそんなのもないし、よくわからない邪教のボスを敵としているところも簡明でよい。とにかく二作目は余計な説明がないんです。勢いで持っていくところが好ましいわけです。

 ところがこの四作目は、やたらと謎解きに時間を掛けます。クリスタルスカルにまつわる謎みたいなものを延々とやるんですが、あのー、そんなの、どうだっていいんですよ。観ている側には。もしも本当の、実際の史実の話で行くなら別かもわかりませんが、架空の世界の架空の話で、真剣に謎解きされても退屈なだけで、観客のほとんどはたぶん、そんなものをこのインディ・ジョーンズに求めていないと思うんです。おそらく、この点は作り手もわかっているんですよ。だから中盤、あの、ナスカの地上絵付近の、古代の墓に行くくだりの出来事があるんです。

 あのシーンは本当によくわからない。何がわからないって、あの墓を守っているやつらが何なのかよくわからない。あれはもう思い切り、「このまま順調にいくと退屈だから敵を出しておけ」というためだけの敵で、その後も一切出てこず、何のバックボーンもない。

 その前の部分もちょっと、インディに求めているもの、少なくとも過去のインディの面白さに見合ったものと違うんです。街中のカーチェイスのくだりとか、それはインディ・ジョーンズ的なものと関係ないというか、別にこのシリーズでやらなくていいと思うんですよ。カーチェイスは必要です。しかし、インディが街中で暴れる必要は何もない。

 過去のアーカイブを活かす、という点では褒めるべきところはあります。何よりあのカレン・アレン、一作目のヒロインが登場するところ。これなどは驚きとしていいものになるわけです。でも、褒められるのははっきり言ってそこだけ。あのー、なんで過去のアーカイブをちゃんと活かさないんでしょうか。カレン・アレンが出てきたのは一作目『レイダース』、1981年の作品です。今の観客は知らないし、一作目を観た観客もどんな感じだったか忘れている人が多いはずです。だからね、あれはね、ゲームの『MGS4』のように、あるいは映画なら『SAW』シリーズのように、過去の映画のシーンをすっと挿入すればもっと活きて来るじゃないですか、カレン・アレンの登場が。余計な謎解きだの説明だのをぐだぐだ入れるくらいならそういうところでサービスしてくれよ! 実際に長い時間が経っているわけだから、アーカイブとして活かすなら絶対にここは活かすべきところなんだよ!

 でねえ、途中でまあ、見せ場となる密林内でのカーチェイスがあるんですが、ここは確かに白熱した場面だし、疾走感もあるし、場面吸引力もある。だけどね、こうなるとあのケイト・ブランシェットの馬鹿なスタイルがいかにも軽いんです。なんか、馬鹿っぽいなあという気がしてたまらない。普通の将校なんかでは見栄えがしないと思ったのかもわかりませんが、ああいうキッチュなキャラを入れてくることで、シーンそのものの格式がなくなるんです。このケイト・ブランシェットのキャラクター自体が、最初こそいいものの、いざああいう場面になるといかにも馬鹿らしくなってくる。剣で戦うみたいなくだりはもう、本当に要らない。猿のくだりなんかもどうしようもない。違う映画でやってくれ。カーチェイス場面は過去作でも出てきて、特に『レイダース』『最後の聖戦』の出来映えは本当にいいんです。『魔宮の伝説』のトロッコも素晴らしい。あれをつくれた人たちがどうしてこういうものを撮るのか。

 この映画が過去作に比してやっぱり駄目なのは、仲間が多いせいでもたもたするところなんです。『魔宮の伝説』の女と子供はそれぞれに味があったし、役割も活きていた。『最後の聖戦』はショーン・コネリーですが、これはもう言うまでもなく非常に格好よく、頼りがいがあり、そのくせちょっと間抜けなところがあって、親子という設定も活きていた。今回はねえ、合計で四人も同行者がいるんです。そのうち一人はあれなんですが、そうするとどうしても疾走感に駆けるというか、これはやはり老齢となったハリソン一人では辛いという部分なのかもわかりませんが、どうももたもたもたもたする。過去作に出てきたパートナーに比べて魅力に欠けるし、もっと人物を絞ってもよかったんじゃないでしょうか。正直、ジョン・ハート演じたあの精神を病んだ友人はそれほど絡ませなくていい。インディがクリスタルスカルを持って走るというのでかまわない。そして、実は敵であるあいつを同行させたのもどうなんだという話で、ここも切ってよい。しかしそうなるとアレン・カレンとシャイア・ラブーフだけになってしまう。それだとやっぱり弱い。長々書いているんですが、要するに個々のキャラが立っていないんです。

 言いたいことは沢山ありますが、あのラストですね。ぼくが『魔宮の伝説』を推すのは、あの作品だけが変なファンタジー要素を押し出していないところなんです。『レイダース』にせよ『最後の聖戦』にせよ、クライマックスで変なファンタジーが出てくる。骨太な冒険活劇が、急に妙に幻想がかってしまう。本作は輪を掛けてひどいことになっていて、そりゃ金はかかっているし画面も見事ですけども、あれ、何なのですか? 特典映像のインタビューを観ると、どうやら宇宙人だの異次元人だのを使う構想はかなり最初のほうからあったようなんですが、あのー、それはインディ・ジョーンズに不必要じゃないでしょうか。しかもあの辺のくだりで駄目なのは、散々密林を越え、山谷を越えてやってきたのに、ぜんぜん汚れていないところ。ケイト・ブランシェットの服がちっとも汚れていないのが特に駄目で、もうそれまでの艱難辛苦の蓄積がぜんぜん見いだせない。金こそかかっていても、あのシーンのうすっぺらさはひどいものです。

 二時間の作品なんですが、体感時間はとても長かった。『魔宮の伝説』の三倍くらい長かった。まだまだ書き足りないところはありますが、この辺にしておきたいと思います。
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プロレスのすごさってものが、初めてわかった気がします。
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 町山智浩のホームページにでかでかとジャケットが張られており、大絶賛の様子で、どうも気になる作品ではあったので観てみました池袋シネリーブル。

 予告のミッキー・ロークの佇まい、顔立ちにまずもって惹かれました。ぼくは大体、「哀しい男の話」が大好物でありまして、予想に反せず実に哀しい男の話でありました。

 とはいえ、この映画が持つ情報に惹かれたわけではありません。ダーレン・アロノフスキー監督の作品は『パイ』(1998)くらいしか観たことがなく、ほとんど内容も覚えておらず、ミッキー・ロークという俳優をまともに意識したこともない。そのうえ何よりぼくはプロレスなるものに何の興味もないのでありまして、この映画、文字情報だけで見知っていたらまったくシカトしていたに違いないのです。町山推薦ってこともさりながら、大きいのはあの予告、そして主題歌の魅力で、これまさに映画の放つ香気というわけでしょう。そしてミッキー・ローク、あるいはプロレスのどちらかにでも興味がある人ならば、これは観ておいて損はないはずでしょう。どちらにも何の予備知識も愛着もないのにぼくでも、うるりと来たのですから。

 ミッキー・ローク扮するは80年代に大人気だったプロレスラー、ランディ・ロビンソン、通称ラムは20年を経た今すっかり落ち目となっており、一人で暮らすアパートの家賃すら滞る状態。興業だけではやっていけず、スーパーで仕事をしており、それも賃金が十分でないものだから「もっとシフトを入れたい」と店長に談判する現状。

 と最初の設定はざっくりそんなところですが、このプロレスのシーンが非常に迫力がありました。プロレスに興味がないものだから、プロレスの映画も観た覚えが全然無いぼくであり、あまり比較のしようがないのですが、この映画におけるプロレスの肉体表現、重みの表現は文句なしでした。やっぱりこれは映画ならではのところで、リング上で肉薄して撮っているからこその迫力なんですね。プロレス中継なんかだと、どうしてもリングの外から撮ることになるんですが、それとはまったく違う重々しさがありました。

 正直な話、ぼくがこれまでプロレスをどうしても受け入れられなかったのは、やっぱりガチンコじゃない部分ってのが大きいわけです。ガチンコの格闘技のほうがおもろいやい、とこれまた凡庸な印象を抱いていたのです。ところがこの映画はそういうぼくの偏見というかなんというかあれを、覆してくれるものでありました。この映画のつくりが最初から巧みなのは、打ち合わせ風景をじっくりと描いているところです。リング上で生まれるドラマ、みたいな演出にすることなく、端から「プロレスってのは筋書きがあるんだよ」というのを堂々と示しているところ。これは好感度が高いです。言うまでもなく歴史上、現実世界で名勝負とされているものは数あるわけでして、いまさら劇映画でそれの真似事をしたってどうしようもない。それをしっかりわかっている監督は、プロレスの舞台裏をまざまざと見せることで、現実におけるプロレスの魅力とは違う場所で勝負し、なおかつぼくのようにプロレスを毛嫌いする人間までをも早々と取り込んでしまうのです。逆にプロレスファンがどう感じるかも知りたいですね、言わない約束の部分を全面に出していますから。

 そしてそのうえで、あのとても迫力のある試合のシーンを映す。「打ち合わせ通りの出来事であっても、すごいと言わざるを得ない」という展開を生み出す。試合展開自体はガチンコじゃなくても、このぶつかり合いの衝撃は紛れもなく本物だと感じさせる。巨漢レスラーが叩き付けられる場面を至近距離で撮影しており、生々しさが沸き立ちます。日本ではプロレス人気が落ち込んでいると言われて久しいですが、中継時の撮影法次第では違うファンを取り込めるんじゃないか、なんてことを考えました。

 この映画は序盤とラスト以外はほとんどプロレスの場面は出てきません。ミッキー・ロークが戦うのは序盤と最後だけです。その意味では、プロレスシーン全面展開の映画ではまったくない。しかしこの映画は間違いなくレスラーの映画だ、と思わせるだけの濃度があの試合シーンにはこめられています。巧みな点は他にもあって、まずは最初の試合の場面ですが、これはねえ、映画というものへの観客の期待をうまく利用しているんです。

 映画というのは、「思わぬアクシデント」という展開が演出としてよく用いられます。うまく行くだろうと思っていたものが思わぬことから事件に繋がり…というのはもうそれ自体が当たり前なくらい、よく使われる物語展開です。そして観客は心のどこかで、その可能性を常に予期しているし、期待してもいる。だからこそ、あの打ち合わせ通りのプロレスシーンも、肉弾的魅力以上の濃度があるんです。単に肉体的な見世物なら実際のプロレスでも可能。これはその点に加え、映画という表現が伝統的に利用してきた物語的特性を予感させることにより、実際に映っているもの以上の緊迫感を観客にもたらすのです。
 
まとめるとこういうことです。打ち合わせシーンを沢山映す。これによって、すべては筋書き通りと思わせる。そのうえで、それでも驚嘆せざるを得ないプロレス場面を映し、肉体的表現のすごさを味わわせる。一方で、打ち合わせシーンを観た観客は心のどこかでハプニングを期待しており、否応なく場面に引き込まれる。この作り方は実に巧みです。

 この監督はそうした構造を全てわかったうえでやっているようです。それがわかるのは二番目の試合シーン。あれは最初から試合後の様子、すべてうまく行った様子を映しています。一回目とは違う見せ方で、今度は先ほどよりも過激な試合展開を見せ、観客に試合自体のインパクトを上塗りして植え付ける。こうした一連の構成が、この映画をひとつの「プロレス映画」として見事に成り立たせているのです。

 物語を全部説明するとまたべらぼうに長くなるので省きますし、あまり説明しすぎてもあれですからしませんけれども、要はミッキー・ローク扮するランディは既に全盛期をとうに過ぎたレスラーで、彼の哀しい生活、生き様が物語の中心となります。レスラー仲間はいるにせよ、精神的によすがになる人は少なく、マリサ・トメイ扮するストリッパーとの交流が描かれます。男の肉体表現がプロレスなら、女のそれはエロティックな舞踊。マリサ・トメイは40歳をとうに超えているのですが、その分なんとも哀しい熟女的な肉体の魅力があります。これはただの若い女では絶対に駄目なわけです。マリサ・トメイは、ぼくがよく使う表現ですが、「丁度いい」ところなんです。無邪気に肉体を誇るには年を食いすぎた、化粧っ気ばりばりの女。このミッキー・ロークの傍にいてやれるのはこういう女だよな、という人なんです。ただ、この女はこの女で苦労してきた感じが色濃くあって、だからこそミッキー・ロークとずるずるべったりには絶対にならない。この辺の加減は実にいいです。

 このタイプの映画の主人公、つまり哀しい男の話っていうのは、強い愛情なんてものを手に入れないほうがいいんです。そう簡単に愛なんて手に入らないよ、たやすく愛されるわけなんかないよ、というのが世の条理であって、その正直さが描かれている映画がぼくは好きです。哀しい男の大傑作『スカーフェイス』のアル・パチーノ演じたトニー・モンタナ、小説で言えば『告白』(町田康だよ、本屋大賞のほうじゃないよ、っていうかこっちに本屋大賞をやれ馬鹿)の城戸熊太郎。彼らもまた救われるほどの愛なんてものにはたどり着けない。ここに関する話をするとやたら長くなるのでやめますが、やっぱり哀しい男の話は、他者との強い実りがないほうが引き立つんです。
 と、ここまで書いて、違うな、と思ったので追記。彼は実は強い愛は手に入れているんですね。それが何かは言いませんが、だからこそラストのああいう展開があった。マリサ・トメイは命に関わる試合を引き留めようとして、舞台袖まで彼に会いに行く。しかし、彼は最終的にリングに出て行き、客に向かって言うわけです。
「俺にやめろと言えるのは…」
 彼はその愛がゆえに、命を賭けるほかなかったのです。これをミッキー・ロークという人が演ずるのは、これはこれで大変味のある場面です。


 ランディは娘がいますが、彼女には嫌われてしまっています。この娘とのくだりには言いたいことがないでもありません。公開中につき詳しいネタバレは避けたいと思いますが、最終的にあの展開で持っていくより、もっと哀感のこもる方法はあった。あそこはちょっと雑な感じがしました。ランディは娘との関係をすごく戻したいと思っているんだよね、だったらさあ……と言いたくなるところなんです。ちょっと無理矢理にああいう風に持っていった気がしないでもない。

 途中はややだれたところがないでもありません。いや、わかるんです。結構ね、哀しい場面が続くんですよ。ものすごく哀しいというより、ああ、なんか、ああ、切ないわあ、というくらいの。ただそこの描き方はちょっと退屈さもあったかなあとは思います。ロケーション自体はすごく好きでした。北欧みたいな寂しさがあって、この映画の風合いに見合っていた。この中盤にもうひとつ何かあれば(今、その「何か」がぼくには具体的にイメージできないんですが)さらに好印象、文句なしの傑作と言えたかなあと思うんです。このランディは金がなくて、スーパーでバイトしているわけですが、あることがきっかけで、「もううんざりだ!」となります。うん、あのー、結構この辺の場面ってだらだらしているし、馬鹿げたやりとりもあるし、うんざりな感じはわかる。観客もうんざりしたくなるところがある。でも、「ああもう! うんざりなんだよマジで!」っていう描き方についてはねえ、これは好みの問題もあるかもしれないけれど、もう一押しできたのかなあとは感じるんですねえ。その意味ではやっぱり、あの娘とのくだりにはあと一工夫、とは思いました。

 最後は試合の場面ですが、あの終わり方はいいですね、あれが一番いいでしょう。
 長年のステロイドの副作用から心臓を病み、長くリングを離れていた彼が、命を賭してリングに出て行く。いや、「命を賭して」というのも違うのか。あのー、先月に三沢光晴というレスラーが死んで、その後「リングで死ねたら本望だ」と語っていたレスラーの多くがその発言を撤回したそうなんですが、このランディについてはもう、リングで死にたいと思っていたんでしょう。リング以外の死に場所が俺にあるっていうのか? ってことです。それはつまり、リング以外に生きていく場所が俺にあるのか? ってことでもあって、このランディの哀しさが活きてくるわけです。

 この映画がつくられる際、主演には長年人気のニコラス・ケイジを使うように言われていたそうですが、監督は是が非でもミッキー・ロークだと言い張り、予算を削られてでも押し通したそうです。ニコラス・ケイジではこの映画はできなかったでしょう。ミッキー・ロークの佇まいが最高で、これについちゃあ非の付け所がありません。あっぱれでございました。
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この映画で起こる事件自体が、イラク戦争のことを指しているわけです。
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 イラク戦争時に実際に起こった、米兵による少女レイプ事件を題材に、フェイクドキュメンタリーの手法を用いて撮られた作品です。デ・パルマの戦争ものというと『カジュアリティーズ』(1989)がありますが、あれと似ています。

『カジュアリティーズ』はマイケル・J・フォックス主演のベトナム戦争ものです。分隊の上司、同僚が村人の少女を誘拐、レイプしてしまう話なんですが、デ・パルマは再び、米軍の派兵先での非道をモチーフにしたわけです。演出的にはとてもよく似ている部分があって、たとえば序盤、頼りになる上官が殺されるくだりなどは『カジュアリティーズ』と同じですね。頼りになる上官というのも一緒だし、弛緩した場面で突如死んでしまう点、その報復を口実に非道に染まる点、それがレイプである点、良心的な人物の告発で明るみに出る点も同じです。もっとも、『カジュアリティーズ』はベトナム戦争終結から長い時間が経った後の作品で、『リダクテッド』はつい数年前の、(新大統領によって撤退が進められているとはいえ)今も米軍の派兵状態が続いているイラク戦争の話ですから、この点は大きく事情が異なるわけです。この映画、カナダ資本で撮られたらしく(アメリカ資本がどれくらいあったのか、細かい割合はわかりませんが)、やはりアメリカの映画業界としてもあまり歓迎できないテーマだったことが伺えます。

町山智浩によると、このデ・パルマやウディ・アレン、スコセッシなどの作家的な監督は、今やアメリカで映画が撮れない状況になっているそうです。「パイレーツカリビアンの監督のような、何の主張もない人」ばかりが大作を任されているのだ、と町山は嘆いていましたが、これは日本にも通ずるところです。テレビ局主導の映画は大体が名のない監督のものです。考えてみればおかしな話だと思うんですよ。テレビ局が宣伝にもキャストにも金を掛けて、そのくせ監督は誰も知らないような人というのは、映画のつくられ方として正しくない気がします。テレビ局主導映画が持つ最大の問題点とはつまり、監督が雇われ監督に過ぎない、ということではないでしょうか。違う言い方をすると、つくる前から出来が決まっている、ということです。つくる前から、制作に携わる誰一人として、傑作をつくってやろうなんて考えていないと思われます。これはおそらく、ものづくりにおける最も深刻な、そして本質的な病理でありましょう。

 と、わかったような口を叩くよりも、映画のお話です。
『カジュアリティーズ』に似ている『リダクテッド』ですが、決定的な違いは言うまでもなく、疑似ドキュメンタリーという手法の部分です。もとよりの映像遊び巧者、デ・パルマですが、インターネット映像、テレビ映像などを織り込みながら時間を進めていきます。事実に基づいている、という一方、冒頭では「全てフィクション」と字幕が出ます。最後の写真の部分を除いて、映像は全てつくられたもののようです。ここが、変なところです。

 疑似ドキュメンタリーという形式が採用される場合、虚構でありながらいかに本当っぽく、生っぽく見せるかという方向に意識はいきがちだと思われます。劇映画的なカット割り、台詞などとは違う、いかにも現実っぽくつくられる映画、その形式によってリアリティを高めようとする手段として用いられるものが多いように思います。ところがこの作品は、いきなり最初から、「全てフィクション」と言い出します。そしてその中身もまた、どうにもドキュメンタリーっぽさがないというか、劇映画的なんですよ。
 
 特に兵舎の場面なんかはそうなんです。劇映画とドキュメンタリーの違いって何かなあと思ったときに、沢山あるでしょうけど、たとえば会話の間です。劇と現実は当然台詞の間が違う。でも、この映画が持つ会話の間は、「映画としての間」から離れていないんです。現実の会話って、もっとテンポが悪いものじゃないでしょうか。変に長い時間、間が開いてしまったりね。それでいうとたとえば今、映画が公開中の『エヴァ』、あれの第何話か思い出せないんですけど、アスカとレイがエレベーターに同乗している、すごく印象的なシーンがありますよね。ずっと黙っているんですよ。何も喋らない。普通あんな表現しない、というところがエヴァの面白いところなんですが、あれは劇映画の作法をぶち破り、一気に現実的場面へと引っ張る思い切った演出です。ああいうのは、現実じゃないですか。ドキュメンタリー的手法を使うなら、たとえ間延びしてもいいから、あれくらい思い切ってほしい。この映画のドキュメンタリーさは、乏しいです。でもわからないのは、デ・パルマがどれくらい「疑似ドキュメンタリーをドキュメンタリーに似せようとしたか」ということです。

 これは疑似ドキュメンタリー的な手法を撮りながらも、ドキュメンタリーには見えてこない。時折挿入されるユーチューブ的なくだりがありますが、あれもリアルに見えてこないなあというのはあります。他にも、あの上官が死んだときの引きちぎれた足(手?)がいかにもな映り方をしているところとか、本を読むくだりのこれみよがしな感じとか、あいつが連れ去られたときにいかにもタイミングよく別の人物が通りかかるとか、あとはあの、首謀者二人の語らいとか。

 ただね、ただね、こんなに長く書いているんですけど、それをすべて水泡に帰しかねないことを書くんですが、これは要はぼくがアメリカの現実風景を知らないからということと、字幕によって言語の同時性、直接性が働かなくなっていることがあるのかもしれません。アメリカ人が観れば、これはリアルなドキュメンタリーに見えてくるのかもわかりません。この点、自信がないのです。アメリカ人が観てリアルだ、現実の生っぽさが出ている、というなら、ぼくはこれまでの記述を全否定しなくてはなりません。

 物語の話に戻りますと、『カジュアリティーズ』のベトナム戦争と決定的に違うのは、あの筋立てがイラク戦争布告の戯画になっていることですね。レイプのために事件の家屋に入った際、首謀者の一人が、「大量破壊兵器が見つからない」と言って笑います。そもそもその事件の家に行ったのも、そこが上官を殺した犯人の要所だと勝手に決めつけたからであって、このレイプにまつわる一連、つまりはこの映画の筋立てそのものが、「アメリカの被害(911)→イラクへの容疑→決定的証拠もないままの宣戦布告→殺戮、破壊→そして決定的証拠などやはりない」というイラク戦争の流れと完全に一致するわけです。

 となれば、この映画にとって大事なリアルとは、疑似ドキュメンタリーという表層の部分にはない。大事なのはこの筋書き自体がイラク戦争をなぞっていることであって、デ・パルマはレイプ事件を描いたと見せつつ、イラク戦争そのものを描いたと見るべきなのでしょう。だから、「現実に基づいている」一方で、「全てフィクション」と言っているのもわかります。この映画自体は確かに「現実に基づいている」。「全てフィクション」とあえて言わなくてもいいことを言うのは、「描かれる出来事自体に拘泥するな」=「小さな事件として矮小化するな」ということなのです。独りよがりかもわかりませんが、この解釈には個人的に自信があります。

 ラストシーンはというと、もろに、宇多丸いうところの「エモい」音楽とともに実際の被害者の写真を流しており、最後の最後に、今度は創作した部分の死体を映します。あの構成についても考えたいところではあるのですが、いい加減長くなって疲れてきました。映画全体を通じて言うと、うーん、うーん、というところです。やりたいことは個人的に解釈できるんだけど、これをして強く何か打ちのめされるということはないなあ、という感じです。たとえばこの先、リアルタイムであの戦争を観ていなかった世代に、イラク戦争について知りたいと言われたとして、この映画を薦めるかと言われれば、特に薦めません。「観るなら観てもぜんぜんいいと思うけどね、まあ、そうね」くらいの感じになってしまいました。
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この上半期、ちょうど100本の映画について、延々と独り言をまくし立ててきました。 今回は総括する意味で、よかった映画について個人的な賞を贈り、賛辞を重ねたいと思います。

そのいち 上半期、作品賞十選。
映画雑誌などはベストテンという形をとりますが、順位をつけるのは好ましいところではありません。また、過去数十年の名作たちをもごったに取り上げているので、順位付けなど土台不毛なものになります。ゆえに、十本選ぶならこれだ、というのを並べてみたいと思います。順不同であります。

『スカーフェイス』 ブライアン・デ・パルマ 1983
『ファーゴ』    ジョエル・コーエン 1996
『アポカリプト』  メル・ギブソン  2006
『ワイルドバンチ』 サム・ペキンパー 1969
『愛のむきだし』  園子温 2009
『狂い咲きサンダーロード』 石井聰互 1980
『ポセイドン・アドベンチャー』 ロナルド・ニーム 1972
『タワーリング・インフェルノ』 ジョン・ギラーミン 1974
『サボテン・ブラザーズ』 ジョン・ランディス 1986
『巨人と玩具』  増村保造 1958

もう一本選ぶなら…!
『明日、君がいない』 ムラーリ・K・タルリ 2006

 こう並べてみると、誰しもが納得の映画史に残る名作から、結構最近のもの、わりと知る人ぞ知る的な作品まで名を連ねております。並べた作品については、注文のつけどころがない。いや、たとえあったとしても、それを補って十二分にあまりある魅力を備えておる作品ばかりであります。

そのに 主演男優賞
 洋画部門 アル・パチーノ 『スカーフェイス』『狼たちの午後』
 一見してひょろっちく、キュートであり、しかしその分秘めたるパワーを爆発させれば圧巻のきわみ。記事としては取り上げませんでしたが、上半期には『カリートの道』、『ゴッドファーザー』三部作でも彼を目にし、やっぱりぼくは彼が好きだなあとつくづく思います。
 邦画部門 緒形拳 『楢山節考』『復讐するは我にあり』
 去年亡くなった緒形拳。90年代以降は主演を張ることもほとんどなくなったようですが、この人が見せた哀しさにはぐいと心を持って行かれました。これほどの力を持った俳優が消えつつある昨今、彼此今昔併せ見て、やはりこの人の魅力を思うのであります。

そのさん 主演女優賞
 洋画部門 チョン・ドヨン 『シークレット・サンシャイン』
 女性が主人公の映画もわりと観ているのですが、最も印象に残っているのは彼女ですね。逆に言うと、洋画の主演女優は他にあまりぴんと来る人がいなかった。これはやはりこの女優さんをおいてほかにおりません。

 邦画部門 大竹しのぶ 『黒い家』
 日本の女優だと記憶に残っている人が多いです。『愛のむきだし』の満島ひかり、『清作の妻』の若尾文子、『でんきくらげ』『しびれくらげ』の渥美マリなど。ただ、一番迫力があり、存在としてすごいなあと思ったのは大竹しのぶです。大竹しのぶのすごさを感じる、という意味でなら、『黒い家』もお薦めです。

そのよん 助演男優賞
 洋画部門 ヒース・レジャー 『ダークナイト』
 彼は『ダークナイト』の主演と言ってもいいんですが、一般には助演となっていますし、ここに座りも良いので、助演男優とします。『ダークナイト』完成を待たずして去年、急性の薬物中毒で亡くなりました。本人としてはむろん望まぬ死であったはずで、やや不謹慎ではありますが、このジョーカー役を遺作とした彼は、格好いいです。

 邦画部門 ジェイ・ウエスト 『ハザード』
 邦画の助演男優賞はもうこの人で即決です。ジェイ・ウエストが演じたリーはものすんごい魅力。あの役のああいう風情には、憧れますねえ。ちなみに今年の三月、彼は大麻所持で捕まったそうです。薬物や大麻というのは、いい役者と関係があるものなのでしょうか。

そのご 助演女優賞
 洋画部門 サラ・ポーリー 『バロン』
 自分が観てきた映画のラインナップを見て、どうしようか考えてみると、洋画の女優でよかったのは、当時9歳のサラ・ポーリーかなあと思いました。もちろん他の映画の女優さんでいい人は沢山いるわけですが、「この人が映画を支えている」という意味でまさしく助演。サラ・ポーリーが一番です。

 邦画部門 『櫻の園』に出てきた演劇部の人たち
 これは反則なのであり、本来なら『幸福の黄色いハンカチ』の桃井かおりなどを選ぶところなのですが、別に助演女優とは一人とは限らぬわけで、映画を支えたあの少女たち、今芸能界にいるのかどうかもよくわからない人ばかりのあの演劇部を、個人的に讃えたいと思います。

そのろく 歌曲賞
『グラン・トリノ』のエンディングテーマ 
 
 音楽についてはちっとも詳しくなく、音楽に注目して観ているわけでもないのですが、上半期に観た映画の中で最も印象に残っているものとして選びたいと思います。音楽賞ではなく、歌曲賞です。そうなると、あの『グラン・トリノ』のエンディングテーマが最高だったのです。今でもちょいちょいyoutubeで聴くし、口ずさんでしまいます。

そのなな 美術賞
『シザーハンズ』

 やはりティム・バートンの美術センスは疑いようもありません。とりわけシザーハンズにおいては全編にわたっていいです。女性好感度もきわめて高いはずで、そうなるとぼくとは相性がよくないはずなのですが、基本的にキュートなものが好きであり、そうなるとティム・バートンを選ばぬわけにはいきません。

そのはち 視覚効果賞
『ファントム・オブ・パラダイス』

 多言無用ではないでしょうか。デ・パルマのように視覚効果をがんがん使っていこうという姿勢はとても好きです。バズ・ラーマンの『ムーラン・ルージュ』は前半がよかっただけに、残念でした。

そのきゅう 脚本賞
『明日、君がいない』

 映画自体は低予算ですが、つくりが非常に上手い。随所に驚きを挟み込み、なおかつ映画全体を覆すような結末を持っている。脚本賞はこれで決まり、個人的には揺るぎません。

そのじゅう 編集賞
『アポカリプト』

あれだけの面白さを持続するには優れた編集が必要です。シーンの良さはシーンの長さに左右され、映画の良さはシーンの繋がりに左右される。そう考えたとき、この映画の編集は完璧ではないでしょうか。

そのじゅういち 最高にキュートで賞
『サボテンブラザーズ』の「歌う木」

このキュートさは説明不能。観てください。それだけです。

そのじゅうに 監督賞
 園子温
 
 幾度も名前を出しているとおりです。いろいろな要素を総合したときに、この人のつくるものが一番魅力的に思われます。


 一応こんなところです。ワーストなどは決める気が起こりませんのでやりません。
 何かの参考になれば幸いでございます。
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