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いろいろと語れることが湧き出てきまして、今までで最長の記事になってしまいました。
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 常々いまさら的に映画を取り上げているわけですが、今回のこれはまあこのブログにしては珍しくタイムリーな一品です。昨日はぼくの居住する場所から二、三キロのところで、あそーさんとはとやまさんがIWGPよろしく、東西戦争を繰り広げていたようであります。選挙に関しては思うところあれこれありますが、映画について書くことでその点も述べられましょう。

『選挙』は、いわゆる小泉自民党の推薦を受けた候補者を追ったドキュメンタリーです。山内和彦という人で、川崎市議会議員の補欠選挙の候補として選挙活動をする様子を映しています。新作『精神』も公開中の想田和弘監督、その一作目です。

 想田和弘監督と宇多丸の対談をポッドキャストで聴いたのですが、なかなか面白い話が沢山出てきました。詳しくはそちらを聴いてもらえばいいのですが、かいつまんで言うとこの監督のスタイルは「観察映画」と呼ぶものでありまして、つまり編集以外の作業をほぼ一切行っていないようなのです。聴くところによると、テレビでつくられるドキュメンタリーなどは、現実をありのままに映していると思いきや、ある程度筋書きが用意されているようでして、初めからどういう素材を撮るのか打ち合わせがきっちりあるものらしいのです。

 つまりは、ある特定の視点、特定の意見があり、それを裏打ちするための素材としてのドキュメンタリーとなっているものが多く、想田監督は最たる例としてマイケル・ムーアを取り上げていました。すなわち、『華氏911』などはブッシュ批判という視点がもとからあって撮られたものであるということで、その視点を補強するための演出、編集がなされているというわけです。『松嶋・町山 未公開映画を観るテレビ』が面白いですが、あれでもウォルマートのもの、サブプライムローンのものなどは、そのような形式で撮られています。

 かたやこの『選挙』は想田監督自身の言葉では「観察映画」、広く言われる言葉では「ダイレクト・シネマ」の形で撮られており、特定の意見などはなく、ただありのままに撮られている。いわく、そのほうが発見があって面白いのだとのことです。ゆえに、メッセージ性などは言ってみれば皆無。観客各々が何を感じ取るかは十人十色というわけです。

 以前、家畜産業を扱った『いのちの食べかた』について、ぼくはぼろくそに書きました。あれも形式としてはそっくり同じ、ダイレクト・シネマです。観客に丸投げしていてよろしくない、と書きました。では今回の場合はどうなのか。なるほど、この『選挙』も観客に丸投げです。『いのちの食べかた』の監督もきっと、観客各々に自由に感じてくれ、と思っていたのでしょう。しかし、明らかに違う。何が違うかというと、こちらは面白いということです。面白いという言い方が主観的に過ぎる、ならこう言い換えていい。この『選挙』の場合は、伝わってしまうものが散りばめられている、ということです。

『いのちの食べかた』が比較上の好材料なので、あえてあちらを今再びぼろくそに書きますが、あれはもう本当に撮っているだけなんです。なんというか、本当に、本当に撮っているだけ。もうそれしか言いようがなくて、だから面白くない。『選挙』の場合は、想田監督が面白いと思って撮っているのがわかる。そしてなおかつ、別に何を示しているわけではないけれども、確実に何かが示されている現場を捉えている。もうひとついいのは編集のテンポです。ぜんぜんだらだらしていなくて、わりと次々とシーンを重ねている。はっきり言って別に面白い場面でもないんですよ。でも、なんか知らんけど面白い。これはドキュメンタリーとして、非常に素晴らしいです。

 想田監督と宇多丸の対談で痺れたのは、監督の次のような言葉です。
「ネタのインパクトなんて、別にこだわらなくていい。この世界には本当に面白いものが沢山ある。でも、我々が何気なく見過ごしているから、それを面白いと感じていないだけなのだ」
これはねえ、うん、そうなんですよ。絶対そうだってのはわかるんです。伊集院光はそういうのが実にうまいです。今にも死にそうな蝉を這いつくばって見ていた、というだけの話を面白く語ってくれる。ただ、これは切り取り方の問題でもあるのかなあとも思う。映像で見るから面白い、という部分もありますね。想田監督はその切り取りが抜群にうまい人じゃないでしょうか。

 この『選挙』では、もう普通のおっさんが普通に喋っているだけのシーンとか沢山あるんですよ。おばさんがどうでもいい話をしている場面とかね。でもそれが妙なおかしみを持っている。はっきり言ってどうでもいいような場面もあって、別に何もおかしなことは起こっていないのに、そこにもおかしさがある。ただねえ、これは世界それ自体の面白さというのとも微妙に違う気がします。それをあえて切り取ることの面白さなんじゃないか、と思うんです。『ある朝スウプは』という映画があって、その中でも日常の一コマがやけにおかしかったりするんですが、それは客観的に映像として見ているから面白い、という部分がかなりあって、実際にその場で体感すると、それほど面白くなかったりもしそうなんです。ここはねえ、うん、世界の面白さ、あるいは世界の深さをどう感じるか、という相当な難題でもあるから、保留が必要なテーマです。言っていることがいまいち伝わっていない気もする。ううむ。

 映画それ自体と違う話を膨らませているような、いや本質に迫っているような、といった具合で続けますが、映画で言うと『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』で、父ヒロシが過去を回想するシーンがあります。しんのすけによってくさい靴下をかがされ、正気に戻る場面ですが、これは絶品のシーンです。回想の内容はというと、別に変わったものじゃないんですよ。ヒロシが子供の頃から大人になる今までを音楽とともに流し続けるだけなんです。でも、これはもう感涙してしまう場面なんです。ヒロシの普通すぎるほど普通なこれまでの生涯が、思い切りドラマティックに見えてくるんです。ああ、今思い出しても泣きそうなくらいです。人が普通に育ち、普通に生きてきたというだけのことをあんなに感動的に描いた映画を他に知りません。だからこそ後の場面、クライマックスで、エレベーターに挟まれながら叫ぶ台詞が素晴らしいわけです。敵であるケンに「つまらん人生だったな」と言われ、必死で言い返します。
「俺の人生はつまらなくなんかない!」
ああ、もう涙が湧き出してきました。あんなになんでもないヒロシのこれまでが、なんと素晴らしいものであり、なるほどあんたの人生はつまらなくなんかないよ! と心中叫ばずにはいられないわけです。

 こうした体験を映画はじっくりと見せてくれるわけです。『選挙』はその点が実によい。主人公となる山さんの過去までは見えないけれど、彼の周りにいる人々が、確かにそこにいるのだ、と思わされる。別に面白くもない人々の佇まい、でもそこには確かに息づいた人間がいる、とわかる。これはねえ、日常ではそうそう感じていられません。だって日々暮らしていて、自分と出会う人々の生にいちいち感動してはいられませんからね。長々と要領を得ない話を続けてきてようやくまとまってきました。世界それ自体の面白さ、というよりも、世界それ自体を切り取って見つめたときにやっとわかる豊かさがある、ということです。写真とはつまりそういうメディアです。日頃見ている、見たことがあるはずのものなのに、その一瞬として切り取ることで見えてくるものがあり、それを写し撮ることが写真の意義なのです、きっと。想田監督は、ぼくたちがずっと前から写真、画像として見てきたものを、映像として、連続した時間で切り取ることに非常に長けている人だと思います。だからこそ、写真とは違う味わいがあるわけです。

『選挙』は笑いどころが多いですねえ。まずこの山内和彦という人の佇まい、顔だちが好感触です。あのー、初めての立候補だと言って頑張っているのが、なんかくすぐったいんですねえ。先輩から怒られたりするところ、友達と喋るところ、妻と喧嘩するところ、その辺の力の抜け具合がもうこれ以上なく等身大なんです。あるあるネタっぽいというか、ああ、うん、そんな感じになるよな、わかるわかる、というのが数多くあります。学生時代にはきっとわからなかったようなこともありますね。ああ、うん、そう、こんな感じでちょっと大人的な振る舞いを求められるよな、そしてそれがむずがゆいよな、という。そうそう、気に入られようとしてそんな感じでぜんぜんおもろない冗談とか言うてまうよな、ほいで意外とその冗談が相手にうけてなかったりして自分の愛想笑いだけが虚空で散り散りになるよな、という。

 この映画のコメディっぽいのは、頑張ってはいるけど頑張りきっているけど、意外に頑張ってへんかったりするよな、というところです。選挙で勝つために頑張るぞー、というわけですが、あのー、これは選挙一般に言えることですけど、結局大人のなんやかんや、付き合いだのうんちゃらかんちゃらが大きいから、泥臭く子供っぽくはなってないというかね。勝利のための一大ドラマではぜんぜんないんですよ。選挙のために幼稚園や老人の運動会に行ったりして、なんか、頑張り方としてぜんぜん説得的じゃないというか、すごく頑張っている、にならないんですね。

 これは実際に感じることで、選挙で皆が名前を叫ぶけれど、それって本気っぽくないじゃないですか。本当に、もう是が非でもこの国、この地域をよくしたいんだ、という根本の熱意に関してはこの映画、一切感じられません。もうとにかく当選するかどうか、というそれだけがすべてで、政治の根本部分がすっぽり抜け落ちているから、頑張りが肝心な部分で腑抜けていて、だから滑稽なんです。主人公の活動をずっと追っていて、主人公も気のよさそうな人ですが、ぼくはこの映画を観ても、一ミリたりともこの山内さんに投票しようとは思えなかった。いや、それはぜんぜんこの映画の欠陥ではないんですよ、想田監督だってそんなプロパガンダはぜんぜん狙っていないはずで、その意味で大成功なんです。実際、山内さんが記者に政策を問われてしどろもどろになるところも映されています。要は当選することだけなんです。そういう人はきっと日本中にいっぱいいるはずです。だからぼくは選挙に行きたくないんです。

 現実の選挙が描かれていますが、名前をただ連呼するというのはつくづくアホですねえ。「通行人が聴いてくれるのは三秒だけ、だからその三秒に名前を入れる」と選対の人が言っていて、実際ほとんどの人はそういう発想なんでしょうけど、これって本当にアホの発想です。票を入れてもらうためにどうすればいいかな、と小学校の学級会で話し合われることになったとき、アホの調子乗りが言いそうなことです。
「名前を何回も言う! それで覚えてもらう!」

でも実際、それが一番効果的だとされて長年やられ続けているわけですから、それで投票する人がいるということなんでしょう。そいつらはどんだけアホやねん。そういう人は選挙の時期に「たけやさおだけ」を聴いたら、投票用紙に「たけやさおだけ」と書くのでしょう。ぼくは端から選挙に行く気がないですから耳を貸しません。というか、名前を連呼されればされるほど、ああ、名前を連呼すれば投票すると思っているのだな。ということは彼あるいは彼女は俺をその程度の阿呆扱いしているということに他ならず、何故そうした無体な認識を持つ輩に対して一票を投じねばならぬのだ、と思ってしまいます。選挙に行く気があれば、ちゃんとその人の活動とか公約とかなんやかやを吟味します。それで決めます。だから名前なんかいくら叫ばれても無意味で、というか名前を叫ぶだけで投票する阿呆相手の選挙自体をぼくは否定したいので、今回もぼくは投票しません。「そんな選挙活動はやめろ」という意味での棄権です。決して民主主義に喧嘩を売っているわけではないのですが、これは大変な英断でありまして、こうした棄権行為の実践、行為しないという行為による抗議。これこそが現代の選挙に改革を促し、それこそが各立候補者の意識改革、ひいては政治改革につながるというわけです。政治を変えるならまず選挙から、というのもなかなか悪くない考えだと思います。

 話がどうも頓珍漢な方向に行きます。長く書いたわりにあまり中身を紹介できていない気がしますが、まあ変な先入観を持たずに観るべきですからこれでよいのです。
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スタローン自身による2、3の否定と超克
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原題『Rambo』 
「最後の戦場」というのはあくまで邦題で、2011年には5作目が公開されるそうです。邦題をつけた人々のなんたる勇み足、あるいは嘘つき。さて、ランボーに関しては過去作三つとも観ています。過去作で言うと一番いいのは1作目、原題『First Blood』ですね。アメリカン・ニューシネマ好きのぼくとしては、後の2、3よりも1作目を推すところです。2と3はなんだか単純にヒーローっぽくなってしまっています。それに2のラストで、「国に忠誠を誓います」みたいなのを言わせるのはどうなのでしょうか、という、世間では20年以上前に議論されたであろうことをやはり思う。しかも忠誠を誓うとか言いながら3作目ではタイで暮らしているし、ようわからん。1では、なんでランボーはあんな暴挙に出るのかな、というもやもやがありつつ、ほとんど台詞もなく、最後に感情を思い切り爆発させる。ベトナム戦争と、それに従軍した兵士の怒りをぶちまけ、ニューシネマ的な悲哀が素晴らしかったんです。

 さて、話は変わりますが、あまりにも有名な話でしょうけれど、メタルギアソリッドシリーズはかなりランボーからの影響を受けています。というか、ほとんどぱくっているところも多いですね。MGS3というのはランボーの2、3からエッセンスをもらいまくっています。ランボー2では密林への単独潜入がありますが、これなどはMGS3の最初と同じで、ランボー3でこそ存分に発揮されたスニーキングミッションはもろにメタルギアの本質となっています。ランボー3の大義は敵地に連れられた要人の救出ですし、この点もメタルギアに同じ。もちろんスネークはランボーであり、キャンベル大佐はトラウトマン大佐。ランボーはかつて所属した部隊で「レイブン」と呼ばれていましたが、動物になぞらえる点でスネークに同じ。ちなみにMGSの敵に「レイブン」というのがいます。ランボー3はMGS3に持って行かれた要素が本当に多いです。砲台からヘリを落とすところとかもそうだし、敵はソ連だし。

 なかなか本編の話に入れませんが、MGS大好きのぼくとしてはランボーシリーズも好きです。本作の舞台はミャンマーで、慈善目的で訪れた人々が旅先の村で襲撃に遭い、連れ去られ、彼らをランボーが救出するという筋立てです。時間は1時間半と短いですが、取り立てて複雑な話はなく、これくらいのサイズでぎゅっと濃縮して見せたかったのでしょう。話はきわめてシンプルで、というか、おいおいそんなにとんとん行っていいのか、と思うくらいです。タイで細々と暮らしているランボーのところに、アメリカの慈善活動家みたいな人たちがやってきます(3のときもそうでしたが、なぜランボーはタイにいるのでしょうか、今回の場合はきっと、ミャンマーが舞台だから地理的に都合がよい、ということなのでしょう)。彼らは危険地域にいる人々を助けに行きたい、生活の援助をしに行きたいみたいなことを言いだし、ランボーは最初無下に断ります。ところがそのうちの一人の女が説得して、ランボーは彼らを連れて行くことになります。この辺はなんとも単純化したものだなあという印象を与えます。過去にあれほどの経験をしてきたランボーが、あんな女の別に鋭くも何ともない説得によって彼らを連れ出すことになるのです。ここは映画進行上、スタローンが「どうでもいいところ」とした部分でしょう。「見せ場はこの先に山ほどあるから、この辺でぐずぐずしても何のあれもないな」と思ったのが丸出しですね。

 その後、海賊に襲われたりなどしつつ村に行くのですが、案の定村は襲われます。わかりきっている展開ではありますが、描き方は実に凄惨で、これは映画史に残る濃度と言えましょう。ベトナム戦争を描いたものでは山奥の村が破壊されるものが多くありますが、オリヴァー・ストーンやデ・パルマなどが描いたそれよりもはるかにすさまじい出来映えで、この辺はスタローンの監督としての手際の良さが予想以上の仕上がりを見せています。子供も容赦なく殺しており、暴力描写もすごい。現実で起こっている(た)であろう出来事を隠さずに描いている点で、ひとつの映画として敬意を持ちます。いや、現実を知らぬので、どの程度ああしたことが行われていたのか、本当のことはわかりませんが、少なくとも暴力というものの悲惨さを描く以上、その残酷さをマイルドに描くべきではなく、徹底して嫌な気分にさせるこの描写は映画として正しい、ということです。2や3はランボーがヒーロー化した、痛みのない暴力表現、いわゆるハリウッドアクション的なそれになっていましたが、今回のものは明らかにそれらと違います。アクション映画を期待した観客は度肝を抜かれたことでしょう。これを娯楽映画と呼んでいいのかな、という気分にさせます。いや、ぜんぜんよくない気がします。

 1ではやむにやまれぬ怒りから、2では自分の釈放と引き替えにという条件で、3ではかつての恩師の救出のため、という理由があったのですが、今回のランボーは実に希薄な理由で敵地に向かいます。女を救うため、というかもわかりませんが、それなら最初から連れて行くべきではなかったわけで、あの辺をあっさり描きすぎたツケが回ってきます。でもその分、「何やってんだ」という徒労感が強く押し寄せ、最後のあの呆然と佇むランボー、そして実家へと帰る後ろ姿が印象深くなります。散々に大変な出来事があった後で、本当に虚しくなる。暴力の虚しさ、というものが初めて描かれたランボーシリーズとも言えましょう。

 書き忘れていましたが、過去作の場面を引用するところが出てきます。こういうのは好きです。この辺もMGSシリーズ、特に4と共通します。それにしても、次のランボーでは何をどう描くつもりなのでしょうか。この4を撮った以上、もう2や3に戻れようもありませんし、戻ってはいけないとも思います。4と同じことをやっても仕方なく、さてさて、どう出てくるのでしょうか。
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ぼく個人としては身につまされる作品です。 
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 ロバート・デ・ニーロ扮するコメディアン志望の男の話です。これはぼくにとって、なかなか身につまされるところのある映画でした。デ・ニーロ演ずるパプキンは人気コメディアンのジェリーを追いかけ、彼の番組に自分を売り込もうとするのですが相手にされず、最終的には暴挙に出てしまいます。要は、いわゆる「痛いワナビー」の話なんですが、ぼくとしてはこのデ・ニーロに入れ込んでしまいます。

 デ・ニーロ扮するパプキンは傍から見ればもう痛々しい人間なんですよ。三十歳半ばでろくに仕事にも就かず、そのくせ自分では才能があると思い込んでいるからただひたすら芸の売り込みをしている。誰にも相手にされず、家で自作のテープを吹き込んでいるとおかんに怒鳴られる。好きな女にも愛想を尽かされ、唯一の話し相手となるのは同じような痛いファンのブスな女だけ。このパプキンの痛々しさはねえ、なんというかただ笑ってはいられないものがあるんです。

 格闘技ものとかスポーツものとかでも「負け犬もの」は数多くあるし、それらにも魅せられるぼくですし、それ以外でも負け犬の哀しさを描いた素晴らしい作品は多いですが、この映画の場合、それらと違うのはなんといってもモチーフが「コメディ」であるということですね。格闘技とかスポーツとかなら、負けた、勝ったというのがまだ明白じゃないですか。だからぜんぜん違う悲哀があるわけです。今年の個人的ベストワン候補である『レスラー』、あれはプロレスという、普通の勝負事とは違うものではあったけど、あれの場合は既に最盛期をとうに過ぎた男の話です。あれともこの『キング・オブ・コメディ』のパプキンは違うわけです。パプキンはまだ評価されたこともなければ、そもそも勝負して勝ったり負けたりした歴史さえ持っていない。でも、いやだからこそ、やはり確実に人生には負けてしまっている。なおかつ彼の没入するのはコメディ、芸能界という、なんとも曖昧模糊としたものであって、自分が負けていることをどうしても認めにくい部分があるわけです。

 ぼくなどもそうなんです。小説を書いて応募して、駄目で、で、いざ他人の受賞したものを読んでみればこれがもう何も面白くない。いや、それだけならぼくのほうの感性がおかしいということでも済みますが、実際文芸の世界で、それらの作品が評価を受けることもなく、また売れることもない。じゃあ結局何が面白いかもわかっていない馬鹿編集者どもの阿呆な選択じゃないか! 何を選んでいるんだよ馬鹿! と言いたくなるものなのです。

 話が逸れました。
 売れない芸人の話、という括り方もできなくはないですが、この映画のパプキンが実際にすることは要はストーキングです。目をつけたコメディアンのオフィスや家にずかずか乗り込んでしまうのです。それでこいつの哀しいところは、それを何の疑問もなくやってしまうことなんです。こんなことをしたら迷惑かな、とか思わないんです。体よく追い払われたとも思わず、「電話してくれ」という言葉を真に受けて電話を掛けまくり、「今度飯でも」というこれまた追い払う文句を真に受ける。本当に真に受けているものだから、こいつは始終楽しそうだし、真剣だし、だからこそ哀しくて、おかしい。おかしくて、哀しい。この辺も身につまされます。人間が吐く一番残酷な言葉のひとつはきっと、「今度」という言葉ですね。「また今度」。笑顔でそう言われた瞬間に、その今度はきっと永久に来ないのだろうとわかる。いや、その瞬間だけはどこか期待しているものだからこそ、やはり待てど暮らせど来ぬ「今度」を待ちわびて悲哀。

 ううむ、どうも話が横道に行く。
 映画自体はパプキンがおかしく、小ボケもいい感じで効いています。役者デ・ニーロは何度も観ているはずですが、今回が一番魅力的に思えました。誘拐にまつわるベタベタなボケもいいし、待合室のくだりも最高です。受付のババアとの間合いとか、警備員に連れ出されるくだりとか、面白いです。それでいて、あの書き割りに向かって練習するシーンのえもいわれぬ不気味さ。パプキンが映画の中で一貫して、「自分には才能があるのだし、先方も約束してくれたのだし」という態度を貫いている滑稽さ。熱狂的ファンの女のブス加減も適度でした。魅力を詳述するときりがないですね。

 ラストシーンは、どう解釈するか、別れるように仕向けられていますね。それともハッピーエンドを強要されたか。あの終わり方はあり得ないでしょう、と思う反面、ああだったら愉快だよな、というのも、あのパプキンが好きだからこそ思ってしまう。観終えた瞬間は、この終わりはどうなのかとも思ったけど、よくよく考えると、あれはあれでいいのかなあという気もする。現実とも妄想ともつかぬ形での終わりですが、ある意味で一番正しいのかもしれない。夢見るコメディアン志望・パプキンにとっては、現実も妄想も一緒くた、いや彼の目に映るのは、望むべき未来だけなのですから。
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びっくりと恐怖はそもそもぜんぜん違うもの。
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 最近では新作も公開されている本シリーズ、劇場版第一作を観てみました。このシリーズには別段惹かれることもなく、これが初鑑賞です。ちなみに劇場版2の主演はあの酒井さんです。もしかすると映画の呪いでああなったのでは、きゃあ怖い。

 この映画のヒット要因はひとえに、あの白塗りの子供でしょう。『リング』の貞子よろしく、わかりやすいポップアイコンというか、一瞬で映画の中身を伝える象徴となっており、目立ちのよい看板となったわけです。

 いわゆるJホラー、近年の恐怖邦画一般に対して、ぼくの感度は鈍いです。あまり怖いと感じない。楽しめない。作為が見えるというのもあるし、撮り方一般の問題でもあります。というか逆に、よくもまあ世間の人々はこういうホラー映画について怖かった怖かったといえるものだなあ、と感心します。劇場で観たらそれこそ、周りに沢山の人がいるのだし、それだけで安心感がありそうなものですが(今思いつきましたが、映画館を舞台にしたホラーをつくったら面白いかもしれませんね。周りにいる観客が幽霊、みたいな筋立てにしたらひと味違う感覚を与えられるのではないでしょうか)。ぼくは日頃、DVDを観るとき、部屋を真っ暗にして鑑賞し、この『呪怨』も深夜一時くらいに一人で観ていたのですが、いやあ、怖くないんです。

 まず、冒頭の段階、奥菜恵が出てくる場面の撮り方からしてどうも違うなと思った。普通なんです、テレビドラマみたいな感じです。もちろんその場面は幽霊の気配のない、いわばフリの部分、静かな日常みたいな一コマなんですが、だからといって単に平穏無事な様子に見せればいいかというと、ぼくは違うと思う。どこかまがまがしいな、と思わせることが必要で、つまりは空気の醸成の問題です。主な恐怖の舞台となる、問題の家に行くと、そこにはどうもきなくさいババアがいるわけですが、この辺の空気感も非常に薄い。小説で言うと、文章が状況説明的過ぎる感じがするんです。エンタメ系小説に多い、空気を生み出さない文体というか、フリがフリになり過ぎているというか、どうも弛緩している。いや、当然、恐怖の場面に行く前に弛緩しているのはそれでいい。ただ、ただ、芝居や演出まで弛緩していては駄目です。弛緩した場面をきっちり撮ることが大事で、弛緩した撮り方で弛緩した場面を撮ってはいけないと思うんです。この映画のフリの部分、まがまがしさが足りない! 怪しい存在、怪しいものを置いているだけになっていると思います。

 はっきり言って、恐怖映画は空気が勝負です。空気が作り出せれば、別に怖くないものまで怖く見えてくる。いい例は森田芳光『黒い家』の電動こけしです。映画それ自体は穴も多いのですが、エロアイテムをあんなに怖く映せるのは素晴らしいです。それとこれは恐怖映画ではないですが、園子温の大傑作『奇妙なサーカス』。あの映画は全編にわたって空気がまがまがしい。だから大変な密度があります。この『呪怨』はそれがないです。空気がつくれていないです。

 要因は数多いわけですが、ひとつには役者として不適な人のキャスティング、役者の駄目さです。奥菜恵はこの映画には綺麗すぎる。彼女が大写しになって怖がるたび、ぼくは「綺麗な顔やなあ」と思ってしまいました。あのちょいと尖った鼻をぺろぺろ舐めてやりたいぜ、と思わされます(変態)。始終綺麗で、幽霊相手に瘴気を喰らっているようなやつれた感じもなく、この点も空気感の醸成にしくじっている。まあでも彼女はまだ頑張っていたとして、やっぱり伊東美咲は駄目ですねえ。『タイガー&ドラゴン』という名ドラマがありますが、彼女があのドラマの魅力を一人で五割ぐらい殺しています。あのドラマを観ようと思うたび、「ああ、でも伊東美咲出てくるわ、観るのやめよ」と翻意するくらいのひどさです。名ドラマをただ一人の技量のために潰した時点で、ぼくの中で彼女は罪人です。モデルとして服飾誌、広告、CFでにこにこしていればいいのです。彼女が女優として出られるというのは、いかに今の日本映画がやばいかというのを示しています。上原美佐という人も出てきますが、こういう映画に綺麗な女優はそもそも不要ですよ。それだけでまがまがしい空気作りが阻害されます。他の役者もまずいところが沢山ある。いい役者なのに駄目、というところが多い。要はやはり映画の空気の問題で、なおかつ会話の構築の問題でもある。それについては長くなるので割愛します。

 この映画で力が入っているのはなんと言っても、あの子供の幽霊・俊雄や女幽霊・伽椰子でしょうが、この映画、それさえ出せばいいと思っていませんか? 松本人志の映画評がここでは的確です。引用します、勝手に。

「どっきりカメラでも、引っ掛ける人間がたくさんいて、いろんな伏線があって、段階を踏んでドキドキさせて、それでびっくりして大成功じゃないですか。これまでのホラー映画がそうしてきたのを、『呪怨』はいきなり「ゴリラが出たぞ!」ですよ。
 エレベーターの扉が開いたら、ゴリラが出てきて「ウワーッ!」って驚いて、また扉が開いたらゴリラが出てきて、「ウワーッ!」。怖かった? 怖かった? 怖かった? それの連続ですからね。それはびっくりするよ。怖いよ。でも、それが大成功? いやいや、失敗の要素ないやろ、それのどこがおもしろいの? って話ですよ。」

 あのー、よく考えると、「びっくり」と「怖い」はぜんぜん違うんですよ。それがさっきから繰り返している「空気」の話でね。びっくりは一瞬じゃないですか、でも恐怖は、少なくとも映画という媒体で効果的に描かれるべき恐怖は、一定時間持続する「状態」なんですよ。たとえばカフェだかレストランだかのシーンの俊雄は象徴的ですよね。あれはもう恐怖じゃなくて、びっくり演出です。しかも映画としての空気が緩いから、そのびっくり演出に「びっくりさせよう」という作為が見える(サービス精神ではない)。これはよろしくありません。

 もちろん、ホラー映画で怖くないから駄目だ、というのではありません。たとえば園子温の『エクステ』はホラー映画とされますが、怖さで言うと大したことが無くても、それとは別の魅力が確かに宿っている。あの作り方なら綺麗どころ、栗山千明も映える(栗山千明と伊東美咲というのが、まさに映画的な落差、格式を示していますね、また子役の出来不出来という点も比較材料です)。この映画も半分、笑わせようとしているんでしょう。少なくとも笑えるシーンならあった。幽霊が出てくるシーン、俊雄出演場面は笑えるところもある。でも、これは積極的に推せる場面ではない。「せめて笑いにでもしなきゃダメダメでしょこの映画」といった感じの笑い。

褒められるところが非常に乏しい作品です。これが現代のJホラーの代表作だと言うのは、結構貧しい状況じゃないでしょうか。『回路』や『叫』で、いい空気をつくっていた黒沢清が監修だというのに、ああ、こういう映画にこそ黒沢清的要素はあってもいいのに!

 ちなみに、テレビに出始めた頃の鳥居みゆきはこの映画の幽霊要素をぱくっていましたね。
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