<   2009年 09月 ( 11 )   > この月の画像一覧

ティム・バートンは本当にいい感じの映画的位置を確保していますね。
 
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 映画館デートなどという至極ありふれた体験。さえしたことのない公界知らずのぼくではありますけれど、まあその辺の人に比べれば映画について多少は詳しいよ、くらいは言えるつもりでして、そんなぼくが「映画館デートでお薦めの映画監督は?」と訊かれた場合、少し伏し目がちに舌を震わせながら、意味もなく手先をぶるぶるさせて、「ティ、ティ、ティ、ティム・バートンがいいんじゃないかな…うへへ…」と答えるでしょう(なんでそんな答え方を)。

 持ち前の無意味なまわりくどさを発揮して書き出しましたが、ティム・バートンはデートムーヴィーとして恰好の監督でありましょう。まあ映画館デートをする頃合いに丁度よく彼の映画が公開されているかどうか、その辺を突っ込まれるとあれですけれども、来年の春には『アリス・イン・ワンダーランド』が公開されますので、行きたいカップルはウキウキ気分で行けばいいじゃん!(情緒不安定)

 さて、とはいえぼくは2000年代のティム・バートンについてはまだちゃんと観ていないのですけれども、『ビートルジュース』から90年代の監督作はすべて観ています。『スリーピーホロウ』は大変に面白く観ました。この人の映像はやはりちょいと真似できないというか、どうしてこうもまあいい感じの画を撮れるんかいなあと思います。ちょっと他に見あたりません。超一流のパティシエみたいな人です。日本映画はこういうのが本当にできないですね。日本映画でも『下妻物語』の中島哲也や園子温など映像技巧のうまい人がいますけど、ティム・バートンの向いている方向とは全然違うし、実際アメリカ映画を観てみても、ハリウッド超大作云々とはやっぱり全然違う。本当に独特の、なおかつすごくいい感じのポジションを見つけた監督だと思います。

 アメリカの怖い民間伝承みたいなものらしいです。深い森にいる首なしの騎士が人々を惨殺するというもので、この映画ではジョニー・デップが捜査官としてその森に入っていくんですが、この首なし騎士がいいんです。予備知識まったくなしで観始めて、最初三十分くらいはなんか金田一耕助みたいな話だなあと思っていたんですが、あの首なし騎士が襲ってくるシーンではっとさせられ、持って行かれました。いい感じの怖さです。いちばん丁度いい怖さというか、撮り方がいいので迫力、スピード感があるし、あの騎士が出てくる舞台の背景もよく調和しています。ジョニー・デップの佇まいもいいです。『シザーハンズ』『エド・ウッド』のときも感じたんですが、やっぱりこの人は馬鹿っぽい役のほうがいいです。今回の映画でも首なし騎士が格好よすぎるので、どこか間抜けな感じなんです。日本では海賊をやって大ブレイクしたように思いますが、わかりやすいヒーロー的な役回りだと魅力が減じます。ティム・バートンはジョニー・デップとコンビを組んでいろいろつくっていますが、この監督の世界には合うんですね。顔はなんといっても綺麗なので、バートン的世界の住人として実に収まりがよい。

 首なし騎士はもう次から次へと人々の首を切っていきます。『マーズアタック!』でも人がばかばか死んでいましたが、今回はもう馬鹿みたいにわかりやすく首切りシーンを撮っていますね。もう一切のごまかしなく、生首の連続です。実際、生首が大量に出てくる場面もあって、この辺もぼくとしては大変好感度が高いです。とりわけいいなと思うのは、無辜なる人々も容赦なく殺している映画的誠実さです。悪巧みをしているおっさんだけではなく、無関係な女子供も殺す。子供が死ぬ場面こそ直接描いてはいないものの十分にほのめかすやり方で、この辺りはすごく誠実です。ハリウッドにありがちな、「恐怖の殺戮マシーン! でも女子供は殺さない! というか殺されないことになっている」というものではないので、おお、首なし騎士やるやんけ、ええやんけバートン、と思わされます。ティム・バートンの映画が持つ「いい感じ」からして、女子供は死なないことになりそうなんです。でもちゃんと、その辺の差別がないのがいいですね。

 松本人志が書いていましたが、殺人が出てくる映画で大人の男ばかりが殺されるのは変なんです、というかある意味差別的なんです。なんか当たり前のように、「おっさんは殺してよし」みたいになっているのに、「子供を殺すのは駄目」となります。子供を保護するような感じになっていますが、逆に言うとおっさんが保護されなすぎです。おっさんを殺しまくる映画はいくらでもあるのに、子供を大量に殺す映画は観たことがありません。こういう言い方をすると、そういうのは道徳上よろしくない、と言われそうですが、それも変な話です。おっさんを殺すのは道徳上かまわんのかい! ということですから。

話が逸れました。首なし騎士もジョニー・デップもいいんですが、クリスティーナ・リッチがこれまたいいです。ヴィンセント・ギャロの『バッファロー'66』より後年の映画なんですが、あの頃よりもロリータっぽさがあります。それでもちょっと鋭さもあって、雰囲気が安達祐実に似ていると感じるのはぼくだけでしょうか。それにしても安達祐実も『家なき子』がピークという状況にあります(ああ、そうか、こうして話が逸れていくのか)。今日付ウィキで観てみると、なんかぜんっぜん知らない映画ばかりに出ています。舞台やドラマで活躍していたのでしょうが、それにしても映画で活躍しなすぎです。十代後半の彼女をそういえばまったく覚えていません。おそらくはこのクリスティーナ・リッチ的な、小沢健二的に言えば「大人じゃないような子供じゃないような」、ぼく的に言えば「ガール・ゴーイング・トゥ・レディー」的なよさがあっただろうに、日本映画も惜しいことをしました。あ、でも、ルパンの「くたばれノストラダムス」がありました。あのときの安達祐実はいいです。俳優の声優活動に基本的に反対のぼくですが、たまーにああいういい例があるため、絶対断固反対! とまでは言えないのです。
 
 今日は変なほうに進みます。で、『スリーピーホロウ』ですが、この首なし騎士に首ったけだったぼくは、あの馬車チェイスシーンも非常に楽しめました。『バットマン』でもバットポッドを動かしていましたが、ここまでの白熱はなかった。やっぱりバートン的にも、『バットマン』はどこか借り物としてやっていたんじゃないでしょうか。今回のこれは自分のつくりだした世界で心置きなくやっている感じがあり、それが全編に満ちあふれています。推理劇みたいなくだりはちょっとだらだらするんですけども、それでも役者と首なしが魅力的で、かつあの死人の木とかも素晴らしく、あの魔女とジョニー・デップの間合いも素敵で、これはとても好もしい一品です。今のところぼくが観た中では一位『シザーハンズ』は揺るぎませんが、それに次ぐ堂々の二位となりました。そしてまだまだぼくには2000年代の彼の作品を観るという楽しみがあります。ふふふ、「観ていない」ということは、映画通を気取りたいやつには恥だけども、一人の映画観(えいがみ)であるぼくには単純に幸福なことなのだぜ、ふふふ(やっぱり今日は変だ)。 
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これではちゃんと伝わらないんじゃないでしょうか。
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 園子温監督作のわりにどうも香ばしいにおいがしねえなあと観ないでおいたのですが、まあ園子温だし何かしらあるのだろうと思い、はるばる出向く有楽町シネカノン。

 癌で病床に伏せる父を見舞うサラリーマンの主人公、しかし彼自身もまた癌に冒されていることが発覚。父親よりも余命が短いことを知り、残された日々をどう生きていくかを描いたお話。なんですが、結論から言えば、これはあまり面白くないです。何なのでしょうか。ラストで、「父に捧ぐ」と出るのですが、もっともっと捧げがいのある映画はあるように思われます。それとも、あくまでも父親と監督の間だけに通じるようなものがどこかに描かれているのでしょうか。ぼくには「ちゃんと伝わる」ものがなかったです。

 悪く言い切ってしまえば、普通なんです。だから、園子温的には変な映画です。園子温はその監督作を観るに、いわば「変なおじさん」なんです。その変なおじさんが普通のことをしているから、変なんです。どうしてこの映画を撮ろうとしたんでしょうか。やっぱりお父さんに捧げる個人的な作品なのでしょうか。演出において言うと、園子温はいつのときも密室芸がうまいんです。狭い空間でのやりとりを非常にうまく描く。ところがこの映画では、その辺のよくある日本映画みたいな感じなんです。一切奇をてらっていないし、一切自然さもない。いわゆる普通の劇映画、という感じ。園子温が凡庸に徹した、という印象があります。最初のうちこそ、「うわ、変なおじさんが普通のことをしている。変!」と思えるのですが、時間が経つにつれ、なんかどうでもいいものに思えてきます。

 園監督のものは『うつしみ』以降のものはほぼ観ているのですが、その中で一番近いので言えば『気球クラブ、その後』。あれも他と比べると面白みに欠けますが、でもあれはあれで監督の密室芸がうまく、なおかつかの平成の大女優、永作博美の力もあって、まあまあこんなのもありなのかな、というくらいなんですが、今回の『ちゃんと伝える』に関しては、お、ここはすごいな、みたいなのが本当にないんです。

 強いて言えば伊藤歩です。伊藤歩というと、ぼくの中では広末涼子主演のドラマ、『リップスティック』のヤンキー娘の印象が強いです。あとは『スワロウテイル』で観たくらいでしょうか。今回の作品では伊藤歩が非常にいいです。主演はエグザイルのAKIRAという人で、正直演技がうまくはないのですが、その傍らで彼女の演技はすごくいいです。その監督は女性を本当に魅力的に映し、上手な演技をさせる人です。そういえばカメオ出演で『愛のむきだし』の満島ひかりちゃんが出ていましたが、いやあ、もっとひかりちゃんが出てきてくれればもっとポイントが高かったのに! ひかりちゃんは本当に可愛いです(何の話)。

 この映画は伊藤歩でなんとか持っていたようなものです。肝心のドラマ部分は、どうしてどうして園子温、どうしてまあこうもどうでもいい話をつくってしまったのか。余命いくばくもない父親との話も、正直何もこもらないんです。下手をすると監督の私的な思い入れが裏目に出た可能性があります。撮っている最中に自分の父親との思い出が浮かんできて、冷静にこの話を捉えきれていなかったんじゃないでしょうか。いかにもお涙頂戴の話にしなかったのは正しい。でも、お涙頂戴にするまいと警戒しすぎて、結局奥田瑛二扮する父親とAKIRA扮する息子の話が、あまりにもすかすかになっている。厳しかった父親との思い出、みたいなのが描かれるんですが、それもちっとも効果的ではない。うん、だから、この映画では絶対に見せ場になるはずのあの河原のくだりも、どうにも希薄な場面なんです。あれはやっぱり、父親が確かに生きていた感じ、その生の濃度がもっと引き立たないといけないし、そのためには嘘でも病気にやつれている感じがないといけないんじゃないでしょうか。

主人公も病に冒されている、しかも父親より早く死んでしまう可能性が高い、にもかかわらず、父親も主人公もまったくその気配がない。これはきっと意図的なものなんでしょう。そうとしか考えられないくらい、闘病の雰囲気に欠けます。だからこそ、主人公にも父親にも、こちらは思い入れが湧かない。ああ、確かにこいつらはこの世界で生きているな、というのがないから、死も当然浮かび上がってこない。主人公AKIRAは終盤、自分の病を恋人伊藤歩に打ち明け、伊藤歩が号泣するのですが、あのー、ぜんぜんAKIRAが病気っぽく見えないわけですよ。それはAKIRAのせいではなく演出の問題で、まったく病気の気配がないわけです。なんでこんな風に演出したんでしょうか。この手の映画ならまず間違いなく、どんな阿呆監督でも病の描写を入れます。でもそれを明らかに意図的に回避した。それでも濃度があればいいんですよ。この前書いた『盲獣』は、体を傷つけても血が出ないけど、血がどうのこうのどころじゃない濃度があった。『ちゃんと伝える』は、病気の問題さえちゃんと伝えていません。

 園子温好きにとって、本作ほど困惑させられる映画はありません。何やってんの、と言いたくなります。「おまえこそ何見てんの?」というお声があれば、ぜひ頂きたいところです。細かい理屈なんてどうだっていい! と突っ走るのがその映画の大きな醍醐味です。だから今回だって、病気のリアリティ云々はどうだっていい! と突っ走ってくれればそれでよかった。でも一向に走り出す気配もなくて、作品にエネルギーがない。『愛のむきだし』がスーパーエネルギッシュだったから、今度は静かな作品を撮ろうというのはわかるんですけど、それにしたって何もなさ過ぎる。困惑しきり、でありました。
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クオリティは素晴らしい。でも、ゼルエル戦はテレビ版の勝ち。
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 日曜のレイトショーということもあってか、公開から三ヶ月近く経つのに思いのほか混んでいて、なおかつてっきり自由席かと思っていたのに指定席で、まあ観てきました。ぼくはこの指定席システムというやつが嫌いです。劇場に入る前から席を決めてしまうと、現場の感じがわからず、よくわからないやつに近隣の席を取られたりしたら最悪なのです。前のほうになってしまい、まあいいかと思いきや、悲劇は起こります。あ、ここからしばらくの段落は映画の中身とは一切関係ないので、読み飛ばしてくれていいです。

 この問題に今日出会いまして、前の席に座ったのは柔道部の兄弟みたいなやつで、こいつがきちっと座りすぎなんです。自分の頭部が後部座席の人の邪魔になるのでは…という想像力すらない奴が、どうして映画を理解できるのでしょう。頭をひとつの円としたとき、背もたれから半円以上の面積を出してはいけないと思います。つまり後頭部の中心を背もたれの上部に当てて鑑賞すべきなのです。ところがそいつは背もたれをあくまでも、「背をもたれるための存在」として捉えているらしく、頭部丸出しなのです。うなじ丸見えなのです。しかもそいつが来たのが予告編の始まる直前くらいで、前の席だからもともとスクリーンを見上げる形でもろにこいつの頭は邪魔で、うわ、きついの来られた、移動しようか、と思いつつも指定席だし、それなりに混んでるし、どうしようか、どういう注意をすればこいつを傷つけず、こいつに気を遣わせることなくこの状況を回避できるだろうか、と思っているうちに本編が始まってしまい、ジ・エンドでした。字幕の右半分が読めないのです。日本映画でよかったですが、エヴァは外国語の会話も出てくるので、もう最悪です。注意すればいいじゃないか、とお思いの方もおりましょうが、本編が始まってからは絶対に一言も発するべきではないのです。これはマナーどころかルールとも言えましょう。笑い声はセーフですが、会話をしてはいけません。たとえぼくが正義であろうとも、正義の声を発したとしても、声を出した瞬間に悪なのです。映画館で映画を鑑賞するということは、それくらい真剣かつ厳粛な営為なのです。

 にもかかわらずあろうことかそのぼんくら柔道部兄弟(柔道部か兄弟かもわからないのですが、双子のようにそっくりだったのです)は、ことあるごとに話をして観ているのです。さすがにこのぼく、平成の生き仏を自負するぼくでも鬼にならざるを得ず、背中を思い切り蹴ってやりました。すると会話はやめたのでほっとひと安心ですが、こいつは上映中、ずっときちっと座っているのです。馬鹿なのか。なぜ自分の座り方が後ろの人の邪魔になるということがわからないのか、無駄に姿勢がよいのか。「そのうち体を椅子に沈ませるだろう、それくらいの気遣いはできるだろう、人間だし」と思っていたぼくが甘かった。というか、そういうのは注意されるまでもないことである、とぼくは思っていました。たとえばズボンからちんこが露出している人を見たとして、「ちょいと旦那、おちんちんが出ていますよ」と注意できるかと言われれば自信がありません。ちんこを出さないのは常識であり、断じて不注意ではないのであり、そんな常識すら守れない人にかける言葉が見つからないのです。まあ要するにぼくの気が弱いということですが、ぼくの優しい気持ちが悲劇となったとも言えます。これだから指定席は厭です。指定席撤廃要求運動をしたいくらいです。でもそこまでするのは面倒くさいので、誰かやってください。

 さて、どうでもいい話でした。新劇場版エヴァ第二弾、『破』です。
 かなり評判がよい様子でしたが、まあ気分的にはマイナスからのスタートで、それほどの期待をせずに観始めました。エヴァについて、いまさらぼくなどが語る必要はないと思います。これほど人々にあれこれ語らせたがるアニメは他になく、もう大体の話は出ているのでしょうし、ぼくにはそれほど深い知識があるわけでもありません。

 いわゆるエヴァ好き、くらいの感じでエヴァ好きのぼくですが、今となってはそれほど熱くはなれず、よくも悪くもフラットに観ました。よくも悪くも、とあえて書いたのは、エヴァの新作を楽しみにしていた人にはかなり楽しめたんじゃないか、と思うからです。使徒戦も適度な間隔で織り込まれていたし、出てくる使徒は大きくバージョンアップしていたし、新しいキャラも出てきて、これまでと同じだけどぜんぜん違う展開があったりして、なるほどこれは新しいエヴァ、『序』にも増して新しいエヴァであるなあというのは異論ないところであります。上映時間中、前方の馬鹿の頭を吹き飛ばす夢を幾度も見ながらも、飽きることなく観られました。エヴァが好きな人をちゃんと満足させられるという点で、エヴァファンのためのこの新作は大成功であると言えましょう。コアなファンであれば、「テレビ版、あるいは原作漫画版と違ってあそこであいつがああなるのは、作り手がこういう意味を持たせたからで…」「アスカの苗字が惣流から式波に変わったのはこれこれこうで…」云々と熱く語れるでしょうし、そういう語らいをファンにさせた時点で、作り手は勝ちですから。だからぼくがこれから書くことは、はっきり言って作り手にも、絶賛系のファンの人たちにとっても、本当にどうでもいいことだと思います。うん、ぼくが作り手でもそう感じると思います。だってこの作品は、勝つべきところで勝っていますから。

 ぼくが気になったのは、あの新しいキャラクターですね、真希波・マリ・イラストリアス。このキャラクターを肯定するかどうかは、この映画を絶賛するかどうかの大きな分岐ではないでしょうか。ぼくとしてはどうも、なんか狙ってるなあと作為が見えてしまいました。あの佇まいとか、ファッションとか、眼鏡をかけている感じとか、喋り方とかがどうも鼻についてしまいました。いかにもアニメ的な奴がやってきた、というか、妙にノリと押しの強い奴が来たなあとちょっとノイジーな印象でした。ゼルエルと戦うくだりなんかでも、変にご陽気な感じでした。彼女については旧来の、特にアスカが好きなファンなんかはどう思うんでしょうか。彼女が弐号機に乗ったとき、むかつかなかったでしょうか。
ぼくなどは、訳もわからぬうちにあのアスカの弐号機に乗って、「ビースト!」か何か叫んでいるのを観ると、何なんだおまえはこのやろう、と思ってしまいました。

そうなるとね、ほら、ゼルエルと戦うとき、テレビ版の話ですよ、あの綾波のカットが最高だったじゃないですか。核の部分にN2爆雷をぶつけるときに、寸前で閉じられ、綾波の顔。あのシーンは号泣じゃないですか、音楽の使い方もあの場面はもうあれが一番じゃないですか。今回はねえ、あのゼルエル戦の感動だけは落ちていますねえ。あれははっきりと、テレビ版の勝ちです。クオリティはもう歴史上のアニメでも最高の地点に来ていますけども、感動それ自体はテレビ版には勝てない。だってマリちゃんがよくわからないんですもん。アスカはアスカで、あのゼルエルに死を賭して戦わねばならぬ理由があったんですよ。だから両手が吹き飛ばされても突っ込んでいくところが号泣点になるし、そしてその後のレイですね。レイが左手のない零号機で自爆覚悟で突っ込んでいく、そしてあの一瞬。もうあの瞬間風速たるやとてつもないんですよ。これがねえ、映画版ではやっぱり、文脈がないから弱いんです。マリちゃんはすごく頑張りますけども、どこまで行っても、「この子は誰だ? なぜこんなに頑張るのだ?」の疑問が晴れないから、テレビ版に勝てない。 

 それと、あの音楽ですね、うん、この映画で否定的な見解が出るとしたら、音楽でしょう(それも織り込み済みで作り手はやっていますね。過去作から考えるに、エヴァの作り手にとっていちばん心地いいのは、「賛否両論」状態でしょうから)。簡単なところでは宇多田のエンディングです。あのー、エヴァっていうものが、無数のサンプリングからできているとはいえやはりひとつの格調高い作品になっているところから見て、宇多田ヒカルっていうのは、ちょっとださい感じがしてしまいます、あるいは安っぽい。『残酷な天使のテーゼ』にせよ、『魂のルフラン』にせよ、アニメのアニメとしての格好良さにそぐうものなんです。一方で、『Fly Me to the Moon』をテレビ版エンディングにしたのもすごく格好いいです。オープニングの勇ましさと比した穏やかなメロディは、連続するドラマの締めとして素晴らしく格好いい。『甘き死よ来たれ』もぼくのアイポッドヘビーローテです。でもねえ、この宇多田はねえ、その意味ではぜんぜん格好良くないんです。ああ確かにスタイリッシュではあるさ、そうさ、ヒカルの生み出すミュージックは最高にスタイリッシュなのさ! 元夫の映画もスタイリッシュではあるのさ! でもさあ、今までの音楽がよすぎたせいもあるんですけど、適度すぎるんですよ。体よく収まりすぎなんです。

 あとはあの童謡で、こここそ最も賛否分かれる部分じゃないですかね。あれはちょっとださいかなあというのがぼくの感じ方です。カタストロフ的場面に穏やかなものを流す演出は好きですが、あれこれ繰りすぎた結果、ださくなっていませんか? いや、あれをいいという人もいるでしょうから、そう言われちまえばもうぼくは説得のしようもないんですけど。「いやいや、あの歌詞に注目すればわかるけどあのシーンとあの歌詞は実は符合していて…」とか言われそうですけど。ああいう演出をしてうまくはまると、観客の感覚を狂わせることができるんです。園子温が得意としています。園子温映画が持ついびつさとあの音楽の使い方がマッチしている。そう、つまり、ミスマッチでも結局はその映画全体が持つ雰囲気とマッチしているから効果的なんです。いびつな表現を支える、音楽のいびつな使用法として。でも、今回のはねえ、むしろあのマリちゃんの勇猛果敢で真っ直ぐな感じもあって、そこまでいびつに行っていなくて、くわえて綾波が料理を作るって、それ、何? ああ、ごめんなさい、きっとすごく深い意味があるんですよね。綾波カレー、綾波パンとか行って売り出せばそれなりに売れるだろうし。でもね、そっちで「ぽかぽか」しちゃってたり、アスカが人といることの大切さをしみじみ語ったり、むしろ良識的な部分に舵を取っている部分が大きくて、そうなるとあの音楽は、落差となりこそすれ、うん、格好良くはない。「ださ格好いい」わけでもない。

 映画それ自体は十分に面白かったです。面白かったし、ぼくは現にもう一度観たいです。今回は前方に馬鹿がいましたし。でも、ああ、そう来たかーという感動はなくて、あのゼルエルもテレビ版の勝ちで、それならテレビ版であのゼルエル戦までをもう一度観てみるほうがいいなあとも思います。

『クレヨンしんちゃん』原作者の臼井儀人さんが亡くなられました。
ご冥福をお祈りいたします。しんちゃんを、ありがとう。
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これぞ異常な愛情。
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 江戸川乱歩の小説を原作にした作品で、82分と短いのですが、強烈なインパクトを与える映画でした。増村保造ミーツ江戸川乱歩、この化学反応たるやすさまじかったです。前半のあらすじは以下の通りです。

 モデルをしている女性(緑魔子)のもとに、盲目の按摩師(船越英二)がやってくる。マッサージにやってきたと思いきや、彼女の体をべたべたと触る不審なそぶりを見せる。彼は目が見えないが、彼女をモデルにした彫刻に美術館で触れており、その体の造形に惚れ込んでいたのだった。彼は自分の母親と結託して彼女を誘拐、アトリエに彼女を連れて行き、監禁し、彫刻のモデルになるよう要求する。

 この緑魔子という人が大変に綺麗です。これは今からちょうど40年前の映画ですが、実際観てもらえばわかるんですけども、まったく古くささがない。今普通にお洒落な繁華街を歩いていてもなんら違和感がない相貌で、現代のモデルとしても十分に通用する綺麗さなのです。顔が綺麗というより、そのファッションやメイクが特筆すべき部分です。今、映画あのままでファッション誌などに出ても、本当に何の違和感もないくらいなのです。増村保造はイタリア留学をして向こうの監督に師事しており、ヨーロッパの風合いを非常にうまく日本映画に持ち込んだ人です。ああ、モダンとはこういうことだよな、という、ひとつの規範たりえているのではないでしょうか。軟体動物シリーズのときの渥美マリにも同じことを感じました。この人のつくる綺麗な女性像は、40年経った今でさえまったく古びていないのです、本当に。

 緑魔子演ずる主人公の女性が連行されたのは暗いアトリエで、壁には無数の彫刻が埋め込まれています。それらは目や耳、鼻や手足など体の一部で、それが無数に壁から出ている。そして部屋の中央には、巨大な女性の体が横たわっているのです。そうした異常な空間は一切の馬鹿らしさを帯びず、この映画の不気味な雰囲気と見事に調和しているのです。

 盲目の誘拐犯、船越英二も素晴らしかった。この犯人は生まれつきの盲目で、母親によって育てられてきており、世間知らずで大変純粋な男なのです。やはり純粋さとは狂気に繋がるものであって、この船越英二の狂気は緑魔子とぶつかりあって、すごいパワーをこの映画に与えています。規模自体は非常に小さいです。何しろこのアトリエと狭い居住空間以外はほとんど出てこない映画です。でもその分、ぼくが常々書いている「限定空間性」、すなわちひとつの空間にこもる濃度があり、それがあのアトリエであり、役者は緑魔子と船越英二、もう要素としては一切の非の打ち所がないのです。

 緑魔子は逃げだそうとします。この辺の加減も実にうまい。船越英二を誘惑して、母親の嫉妬をかき立てて逃げだそうとするんですが、このあたりなんかもう最高の一語ですよ! 母親が子供、特に息子に対して持っている「女性的愛情」、「母親的愛情」でなく「女性的愛情」を利用する場面、うまいです。これはうまいです。緑魔子がうまいです。増村保造がうまいです。そのときの緑魔子の表情、目線もむろん見逃してはいけません。というか、この映画における緑魔子の表情と目は、ぼくが今まで観てきたすべての映画、その中に出てくる女性の中で、最も魅力的だったとさえ言いましょう。願わくばこの二年前の『痴人の愛』には、彼女に出てほしかった。谷崎潤一郎の『痴人の愛』におけるナオミはいわば「超悪魔的小悪魔」であって、アゲハチョウではなくアフリカメダマカマキリか何かであって、つまりはオスを喰ってしまうわけです。ナオミは理想化された美少女なわけですが、この緑魔子ならそのイメージに太刀打ちできたのではないでしょうか。

 長くなりすぎるので、かいつまみます。
中盤でもう、ああ、この感じで行ってくれたらいいなあ、と思っていましたが、後半の展開はやや急です。82分しかないので致し方ありませんが、もっと長くてもぜんぜん問題なし、いやむしろもっと長くしてくれと思うくらいでした。ちょっと急だなあ、と思わざるを得ない展開があります。そして終盤、本当にこれぞ「愛=狂気」という展開に行くのですが、残念なのは血が一切出ていないことです。表現上の規制をかけられたのでしょうが、あそこで血が出ていないのは本当に残念。あれは百人中百人が、「えっ、血は?」と思う場面なんです。それに、やっぱりあのくだりは全裸じゃなきゃいけない。うん、あれが全裸で、血もどばどば出ていたら、これはもう世界に類を見ないほどの狂った場面になったはずなんです。

 ただ、増村保造ミーツ江戸川乱歩。血が出ない、全裸ではない、展開が急だという非常に致命的な欠陥を持ちながらも、そんなこと、観終わった後ではほとんど気にならない。というのも、この映画は絶えず身体にこだわっているからです。この映画における最重要モチーフは「身体」ですが、ずっと「身体」にこだわってきた映画だからこそ、最後の最後、あの狂気の爆発が生まれる。あの場面を観ると、逆に血は要らないな、とさえ思えてくる。うん、あのラストに限っては、一切血が要らないんです。あれはまあ、直接映すことはできないのですが、変に小細工をせずに映さないことにして、大正解。あそこで観客は、「映画を目で観ながらも、小説的に想像力で観る」という体験をすることになります。観ていないと何のこっちゃでしょうが、あまり文章で書きたくないのです。

 終盤の演出的欠陥はあるにせよ、緑魔子と船越英二が最強なので、この二人の迫力で全部オッケーになります。本当にすごい役者二人だと思いました。できればこの二人に、『痴人の愛』をやってほしかった。この『盲獣』でこそ、増村が『痴人の愛』で表現できなかった「狂気としての愛」が、直接的に描かれているのです。


 ぼくが恋愛系の作品にあまり惹かれない理由は、そこに狂気がないからです。愛が成就するか否か、という問題に留まり、その先に行くと狂気にぶつかる、ということまで言及するものがほぼないからです。でも、この『盲獣』は、「恋愛」という眠たい過程を一気に飛び越え、しかし「愛という狂気」を爆発させている。狂気の愛に至るうえでの母親の存在についてなども、いろいろと書きたいところですがひとまず、「ああ、そこまで言うなら観てやろうか」というくらいの感想は抱いてもらえたでしょう。
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 おかっぱの彼はまさに今回の松本監督そのもの。
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 池袋に引っ越しました。東口のほうです。池袋は映画好きにとって、日本でもトップレベルで恵まれた環境じゃないかと思います。シネマサンシャイン、テアトルダイヤ、HUMAXシネマズ、東急、シネ・リーブル、シネマロサ、そして新文芸坐。これまで住んでいたのは椎名町で、ここは池袋から一駅ですからまあそれほど変わらないとはいえ、やはり徒歩圏内に映画館がたくさん、というこれからは相当に贅沢気分なのであります。くわえてDVDにおいてもツタヤがありますからこれもウハウハです。今まで頼っていたのはフタバ図書椎名町店で、ここは24時間営業の優良店、なおかつ書店、中古本、中古ゲーム店も併設の素晴らしい場所で、二年間どうもありがとうと謝辞を捧げたいのですが、それでも品揃えで言うとアメリカ映画とアニメばかりが多く、日本映画の充実度ではもうひとつ、という部分もあり、その点ツタヤは日本、ヨーロッパ映画でも監督別のカテゴライズ、有名作品は一枚でなく数枚置いてあるという気の利く商品配置で、東西両方にツタヤはあるわけで、さらにアイ信、ゲオなどがその脇を固めるという強力布陣、映画好きにはなんともたまらぬのであります。むろん、あのバルト9、そしてさらに大きなツタヤを擁する新宿には今一歩譲るところもあるにせよ、池袋もかなり裕福であり、「映画好き ヤッピータウン 池袋」と一句詠むことでこの悦びを表現したいと思います。

さて、そういうわけで行ってきたのは松本人志監督作第二弾『しんぼる』です、HUMAXシネマズ。松本人志というのはやはりぼくにとって特別な人でありまして、彼の言動、活動にはいちいち着目しており、だからこそ結婚はショックでした。彼には独身貴族であり続けてほしかった。アンチ結婚の生き方をしてほしかった。なんか、ああ、そっちに行っちゃうのねという寂しさがありました。ああ、家庭なるものを築く人間なのだね、孤独を捨ててしまうのだね、という寂しさであります。

 さて、それはそれとして『しんぼる』です。
 結論から言うと、これはいただけません。松本の映像作品をずっと観てきたぼく、たとい多少の瑕疵があろうと彼のつくるものをこよなく愛してきたつもりのぼくですが、今回のこれはいただけなかった。うん、DVDを買うことはないでしょうし、もう一度観るということもおそらく、かなり先までないでしょう。

 簡単につくりを話しましょう。トレーラーにもあるように、密室に閉じ込められた松本が脱出をはかる場面と、メキシコの人々の一日を描いた場面の二軸で進んでいきます。

今まで彼がつくってきたあらゆる映像作品と異なり、このメキシコ部分では芸人はおろか、日本人さえ出てきません。現地の人々と思しきメキシコ人達の一日が描かれるのですが、ここがまず何も面白くない。いや、それなりの風合いはないではない。シスター姿の女性が煙草を吹かしながら車を運転するところなどは画としては面白いし、覆面プロレスラーとのドライブ場面もそうです。ところがこれ、最後の場面を別にすれば何も起こらないに等しく、一体何がしたいねんというくだりなのです。松本のいる白い密室と交互に描かれますが、互いに関連しているような演出もなく、もし仮に、密室で松本一人では画が持たない、緊張と緩和で云々などという考えでこうしたのだとすればそれはもうどうしようもないのであり、あのくだりだけで捉えても何のドラマ的悦びもないのです。

 では松本の出てくるくだりはどうかというと、ここもひどくもたもたとしていた。予告編でも出てくる「天使のちんこ」。あの初期設定自体は面白いと思った。ネタバレというほどでもないので書きますが、ちんこを押すと、壁から次々とものが出てくるんです。何が出るかはギャグ演出として重要なので伏せますが、松本人志ともあろう御方が、なぜあんな暴挙に出たのか、大いに疑問です。というのも、あの「壁からものが出てくる」というのは笑いとして相当難しいはずだからです。何が出てきたら面白いか、当然考えたはずですが、あのもったりとした演出だと、出てくるものが何なのかにかなりの負荷がかかる。つまり、「何でもあり」だからこそ、何が出てきても意外性に乏しくなるのであり、ゆえに笑いにとってとても大事な、発想的飛躍が困難になるのです。壁から無数の「天使のちんこ」が出ている。なるほどこれは面白い。でも、その後に出てくるものがその驚きと面白みを超えていない。少なからぬ松本ファンは、あの演出でヴィジュアルバムの「マイクロフィルム」を連想したはずです。中国マフィアに捕らわれた全裸の男を殴ると、尻から次々とおかしなものが出てくるというコントですが、ぼくはあのコントには面白さを感じなかった。今回の状況は映画という媒体であることもあり、余計にあの演出が難しくなっていたはず。DVD副音声ではかの松本イエスマン、倉本氏が松本と一緒にけらけら笑っていましたが、今回の試写でもきっとそんな感じだったんでしょう、目に浮かびます。

 あれを面白くするなら、きっと狂騒化、協奏化させなくちゃいけなかった。つまり、いくつものアイテムが同時多発的にアクションを見せる必要があったんです。あの設定ですから、やりようはいくらでもあった。ちんこを押すとものが出てくる、のであれば、たとえばちんこを強く押しすぎて、延々と何かが出続けている、なんてことも可能だった。そうすれば、ぜんぜんどうでもいいものが劇中延々と壁から出続けている、というアクション及び画で魅せることもできたし、そのどうでもよさが際だつし、「このまま出続けたらどうでもよいものによってそのうち部屋が埋め尽くされてしまう…」という逼迫感も生まれた。寿司なら寿司で(あっ!)、寿司をずっと出し続けていてもよかったはずです。よりあほらしい、なおかつ生理的に嫌な(なぜか本作では寿司にまつわる不快描写が何度も出てきます)画が実現されたはずなのです。人だって出てくる。ならばあのコミュニケーション不能な存在を、ずっとその場に置いておくことで気まずさを醸し、笑いに繋げることもできた。コミュニケーション困難な外人を使った笑いは松本一派の十八番のひとつであるはずなのに、なんであんな使い方をしてしまうのか。

 初めから海外を意識してつくった、という松本の発言はいささかの免罪符となってしまいます。一方で、彼が何を考えているのかわからなくさせてもいます。彼はテレビの笑いを見限った。そして映画という媒体に乗り出した。ならばその媒体の自由さを持って、テレビではできない笑いをつくってほしいわけですし、それが映画の意義でもあるはず。なのに、目線を海外に持っていくとはどういうことなのか。松本は以前、電波少年の企画でアメリカ人を笑わせるためのコント、「サスケ」をつくっています。そのとき、「アメリカ人を笑わせるには60%の力に抑えなくてはならない」と発言していた。今回の作品における笑いは、60%よりもさらに低い数値でしょう。90年代、「ごっつ」「ガキ」全盛の頃に彼が回避していた「ベタ」へと舵を取っているのです。屁のくだりの絶叫などは、彼のつくるものをずっと観てきた人間からすると、ため息を禁じ得ないのです。

前作『大日本人』をぼくは肯定的に受け止めています。DVDも持っています。あの映画における怪獣格闘描写、金をかけていかに阿呆なものをつくるかという部分にとても好感が持てたし、あの格闘描写が随所のクライマックスを生んでいた。一方でそれに比したあの大佐藤大のわびしい生活があり、インタビュアーとの対話がそのわびしさを強め、彼の哀感を生んでいた。今回はそれさえもない。

 細かいネタを明かさぬよう配慮しつつ、まとめに入りましょう。ラストについても言いたいことがありますが、要するにこの映画、劇中におけるおかっぱの男は、紛れもなく松本監督自身のメタファになっています。すなわち、何もない部屋に次々とものが出てきて、その中で脱出を計ろうとする彼は、映画そのものの出口を探して試行錯誤を繰り返す監督自身なのです。そして、彼はあの部屋を散らかしたままに出ていきます。監督自身が、あの部屋をそのまま放棄してしまったように。部屋から出口を見つけたのはいいものの、結局その後も体のいい出口が見つからない。こうなったら結末の整合性などどうでもいい、とにかく壮大な出来事が起こったようにして終わろう、という高らかな宣言の如く、彼は重力も時間も何もかもを無視して、何でもありの部屋から、何でもありの四次元に飛んで行ってしまいます。よもや1968年のキューブリックを模したわけでもなかろうあのラストは、さながら「NHK地球紀行スペシャル」の豪華版オープニングみたいな塩梅で、観客は皆、おかっぱの彼に、そして監督に対して、この言葉を想起せずにはいられません。

「おいおい、どこ行くんだよ、おいおい」
「おいおい、この話、どこに持っていくんだよ、おいおい」
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それほど期待しないくらいのほうが、楽しめると思います。
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町山智浩激推しで、作品が放ついい感じの馬鹿っぽさに惹かれて、新宿はケイズシネマ。

「昆虫軍対毒蟲軍」と銘打って、計24回、虫同士を戦わせるだけの映画です。ストーリーも何もないです。透明な容器に入れられた虫たちが24回、一騎打ちを繰り広げるだけです。貴重な種類の虫、以外は低予算の極みで、カメラ一台と回転可能な台と容器があるだけです。虫の紹介VTRでは互いのキャッチコピーをつけたり、「俺様に勝てるかな?」「おまえなど一瞬で殺してやる」みたいな声を入れたり、いかにも子供っぽい盛り上げ方で、その虫がどういう生態なのかとかはぜんぜんわかりません。

 昆虫軍はカブトムシ、クワガタを筆頭に、カマキリ、タガメ、ハンミョウなどが出てきます。毒蟲軍はサソリが多くて、他にクモとムカデが出てきます。この対戦だけが見ものなわけですが、何しろ24カードもあるので、かなりさくさくと進んでいきます。いざ絡み合うと決着は早くて、一撃必殺の毒攻撃にかかると昆虫軍はやられてしまうのです。

 これまでの虫皇帝というのはカブトムシ対カブトムシ、クワガタ対クワガタのようなシリーズだったようですが、ここに毒虫が入ってくると戦いが違ったものになります。監督自身が劇中で解説していましたが、カブトムシやクワガタの戦いというのは、いわばスポーツなんです。実際、自然界において彼らがなぜ戦うかと言えば、それは木の樹液争い、縄張り争いのためであって、木の枝や幹の上で戦い、相手を角で退けることが目的なのです。ところが毒虫はそうではありません。町山智浩の表現を拝借すれば、「ヤッパ持ってる」わけです。「格闘家対ヤクザ」なのです。毒虫の毒は純粋に相手を殺すためにあるのであって、まさに「格闘技対ヤクザ」は言い得て妙です。格闘家がパンチやキックで戦うのに対し、毒虫は刃物を持っているに等しく、それどころか刃物の先に毒が塗ってあるという有様です。

 毒虫のメインを張るのはサソリなのですが、あらためて思うにサソリというのはよくできた生き物です。まず、前方からの攻撃に対してはハサミを持って応じます。この時点で相当な武器ですが、いざ横ばいの体に乗られた場合どうするか。そうです、しっぽの毒針があるのです。サソリの体は反っていまして、長いしっぽは体の上に来る敵を見事射程に収めているのです。一方のカブトムシやクワガタも負けてはいません。クワガタなどはあの頭の特大ハサミをフルに活かし、相手をすごい力で締め付けるのです。カブトムシはというと、これは格闘家というよりお相撲さんみたいなところがあります。どっしりとした体で、角を使って相手を投げ飛ばす。しかも体が非常に硬く、たとえばサソリの毒針なんて跳ね返してしまうのです。これはすごい戦いなのです。
 
 さて、概観は以上のようなところです。細かい部分はネタバレになるので、後に示します。ひとつの映画、演出としてどうか、というと、ここについてはちょっと甘いというか、もうちょいなんとかならんのかという部分もあります。基本的に低予算なのは仕方ないのですが、いらない要素もあります。たとえば最初のほうで、アイドルが出てきます。監督の新堂冬樹という人は芸能プロの社長でもあるそうですが(メフィスト賞作家でもある!)、自分のところのアイドルを出しておきたいのでしょうが、互いの応援をしているアイドルなんてことで名前を出して、しかもその後そいつらはまったく出てこない。いや、アイドルが出てこないのはいいのですが、まったく出さないでほしいのです、まったく関係ないから。それと、6カードごとに新藤監督のワンショットで解説が入るのですが、これも工夫がほしかった。6対戦後との小休止、という趣旨はわかるのですが、今観た戦いがいかにすごいかをもう一度話すだけなのです。それならもっと、それぞれの虫の生態なんかを教えてほしいところです。「サソリはしっぽの部分も内臓になっているから、そこを攻撃されると弱い」みたいな豆知識がさらりと語られていましたが、そういうのをもっと入れてほしいわけです。せっかく珍しいカマキリなんかも出てくるのだから、実際自然界でどういう風に生きているのかなどを知りたいわけです。映画としての工夫は甘いというか、工夫がなさ過ぎる感も否めません。新藤監督が解説するとき、「あっ、今のところもう一回巻き戻して、ああ、違う、もうちょっと前」みたいなのも、ぐずぐずしていました。その辺はもうちょいうまくやれよ、と言いたくなります。ところで彼はなんであんなに強面で、ホストっぽいのでしょうか。町山流に言うと、「完全にあっちの人」ですね。

 さて、ここからは実際の戦績も踏まえたネタバレになります。どちらが勝つか、というのはこの映画の肝でもあるので、観に行きたい人は読まないほうがいいかもしれません。

 戦いのカードで言うと、カマキリが常に負け続けるばかりだったのが残念です。カマキリが出てくるたび、「またカマキリだ。どうせ負けるのだろう」と思ったらやっぱり負けるのです。カマキリというのは強くないのでしょうか。昆虫軍でも特異なヤッパ系、にもかかわらず、あのご自慢の鎌が炸裂する場面はひとつもなく、細長い体が仇となっていつも負けていました。タガメは水中の生き物で不利なのに、一回勝ったのでああいうのは面白いわけです。でも、あの映画ではタガメの本当の強さを観ることはできず、これが残念なところ。それならいっそ、自然のドキュメンタリーのほうが面白いわけです。クモやムカデは迫力がありました。ムカデの巻き付き攻撃というのは本当に怖いです。しかも外見的にも明らかにやばいやつですからね。外見的には一番に怖い。クモの戦いをもっと沢山観たいなあというのはありました。この映画、後半はサソリばっかりなんです。うん、昆虫軍はヴァリエーションが豊富なんです。ハンミョウという虫があんなに凶暴で強いのも知らなくて、発見がありました。でも、毒虫はサソリとムカデとクモしか出てこず、この辺の豪華さには欠けるところです。名前こそ「コスタリカンゼブラレッグタランチュラ」とか、「ケニアンジャイアントスコーピオン」とか立派で種類も豊富ですが、もっと別種の毒虫はいないものなのでしょうか。まあ、ハチとかだと飛んでいるから戦いにならないというのはあって、これはやむをえないのかもしれません。「なんじゃそりは!」という、見たことも聞いたこともないような虫がいたら、さらに素晴らしかったんですけども。

 それと、文句をつけておくと、虫好きな監督が撮っているんでしょうけども、じゃあ虫がばんばん死んでいくのはいいのかい? というのはあります。本当に虫が好きなのかい? と思ってしまう。国産カブト、いわゆるカブトムシが最後のカード、無敵のダイオウサソリに角と左目をぶち切られ、それでも向かっていく姿に対し、「感動的です」とか言っているんですけど、ぼくはやや不快でした。これね、自然界のドキュメンタリーなら確かに「感動的」と言えるかもしれないんですけど、こちらで無理矢理戦わせているわけですからね。毒虫と戦う時点で、まあ負けたら死ぬのはわかりきっているわけで、それを観に行くぼくも同罪ではあるんですが、素直にすごい戦いとは言い切れないのです。カブトムシ同士のフェアな戦いを撮ってきたこの監督が、ああいうのを撮るというのはちょっと嫌です。虫が好きなのか? 虫を殺し合わせるのが好きなのか? 両方だというのか?
その意味ではこの映画、本当に虫が好きな人は、むしろ観に行かないほうがいいかもしれないです。

 それと、あえて生息地の違う虫同士を戦わせた、という部分で面白さはありますが、普通の動物ドキュメンタリーで出会う驚きや興味にはどうしても勝てない。その点、動物ドキュメンタリーを撮っている人たちってすごいなあとそっちに感心しました。ああいうもののほうが、「うわあ、自然界はすごいなあ、ぼくの知らないところで日々、生と死のドラマが展開しているのだなあ」と感動を覚えます。
 
町山智浩が大興奮でお薦めしていましたが、その分ぼくの中でハードルが上がってしまった。そこまで期待せずに観たら、もっと違う感想があったことでしょう。だからぼくはあえてここで、「それほど期待しないで観に行くくらいが丁度いいよ」と言いましょう。そのほうが面白く感ずると思います。
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 「足のにおい」が象徴するもの 
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 前回に引き続き、しんちゃんを愛でます。ぼくも幼い頃には「しんちゃん」と呼ばれていましたから、クレヨンしんちゃんは他人のように思えないのです。そういえば日本PTA全国協議会調査「子供に見せたくない番組」ランキングでも毎年の常連、去年もクレヨンしんちゃんは二位に入っているわけですが、データを詳しく見てみると「子供に見せたくない番組がある」と答えているのが全体の30%程度で、残りはまあそうでもないようなのでこの点については安心できますが、それにしても「小学校五年生の保護者対象」の調査ではクレヨンしんちゃんはワースト一位を取っているのであり、その主な理由はといえば「内容が馬鹿馬鹿しい」というものであって、だったら手前ら「保護者」向けワイドショーのあの馬鹿馬鹿しさは一体何なのだという疑問が晴れることはなく、甚だ憤りを感じる次第であります。 

 『オトナ帝国』を観た後で、「クレヨンしんちゃん」を「馬鹿馬鹿しい」と言える奴がいるのでしょうか。今までに何度も観ていますが、今回もまたお決まりの場面で号泣、嗚咽、大粒の涙を流しましたよぼくは!!

 この映画のすごさはとうに語り尽くされておりましょうが、やはりあらためて観て、あのヒロシ回想シーンのすさまじさたるや、筆舌に尽くせません。あれをこそまさに映画史に残る名場面と呼ぶのです。そしてこの映画のすごさは、あのシーンへの持っていき方です。一般に、泣けるシーンといえば、それまでの物語上の流れを汲んだクライマックスで、いよいよ終わりを迎えるときにもたらされるもの。ところがこの映画の場合、あのシーンはまだまだ物語が後半にさしかかった辺りのことなのです。しかもそれまではバスジャックしたしんちゃんたちの、アニメ的などたばたカーチェイスシーンがあったのであり、これは多分にコミカルであるがゆえに、決して涙を誘う盛り上げ方ではない。そのバスジャックが決してからわずか数分後に、あのシーンに行く。そしてぼくはびいびい泣く。

 少しまじめなトーンで言うと、あのシーンはやはりアニメの強さが活きています。ヒロシの子供時代からの生涯を追うのですが、あれを実写化しても絶対に無理。というのも、実写の場合、どうしても子役を使わざるを得ないからです。なおかつ若い頃のヒロシを表そうと思えば、ヒロシ役の俳優に若作りさせるか、あるいはこれまた別の若い俳優を使うかという判断を迫られるのであり、いずれにしてもあの表現に勝てない。アニメであればなんら無理なく、ヒロシの成長を観客に示すことができるのです。映画が生まれて長いわけですが、あれは実写が原理的に踏み込めなかった領域です。いや、長年続く映画であれば可能で、たとえば『ランボー 最後の戦場』における夢の場面がそうですね。ただ、それには長い年月が必要であり、やはり実際には難しい。あの表現は、おそらく多くの映画人の大いなる嫉妬を喚起したことでしょう。

 で、あのシーンに接続するのが、くさい靴であるというのがまたいいじゃないですか。それこそ「馬鹿馬鹿しい」ですよ。でも、下手にシリアスな小道具を持ち出すより、映画全体にとってずっと効果的なわけであり、意義深いのです。あのシーンには、記憶の尊厳があります。そしてあのシーンが象徴するものこそまさに、「オトナ帝国」の超克なのです。
 
「オトナ帝国」では美しいものしかない、美しく、なつかしいものしか描かれないことになっています。ところが、ヒロシが思い出す過去はどうか。華々しい万博などそこにはない。青春時代に恋した相手にふられ、冬の寒い道をとぼとぼ帰ったこともある。上司に叱られ、自棄酒を飲んだこともある。夏の暑い日差しの中を営業のために歩き回っていたこともある。それらは決して美しくない、決して秀でたものでもない、ただ、だからこそ自分が生きてきたことへの確かさがある。ラストに歌われる「私は今日まで生きてみました」ということの尊厳がそこにある。人々はあの街が醸す「なつかしいにおい」に魅せられていた。それを「足のにおい」が打ち破る。薄っぺらく懐かしい何かではなく、確かに自分が今ここに存在する確かさをもたらすのです。足のくささで思い出す、というのはただのギャグ的演出とも取られかねませんが、そうではない。「足」、そう「足」なのです。そこにはヒロシの「足跡(そくせき)」があるのです。彼が回想するシーンは、まさに彼が歩んできた道であって、足のにおいにはヒロシの過去がしっかりとしみこんでいるのであります。ことほどさように、あれが「足のにおい」であることには実は非常に深い意味があるのです。こうしたことが伝わる表現であるからこそ、泣けるシーンにしては一見唐突なあのつなぎが、まったく違和感のないものになるのです。

 いつまでもここにこだわっていられないので進みますが、この映画のヒロシは本当に格好いいです。いいところを持って行きすぎです。あのエレベーターの場面がそうですね。「俺の人生はつまらなくなんかない! 家族がいる幸せを、あんたにも分けてやりたいくらいだぜ!」という名台詞が飛び出し、これも最高なのですが、その直後のパンチラ目撃の台詞を忘れてはいけません。チャコのパンツを見たとき、ヒロシはエレベーターのドアを必死で抑えながら絞り出すように言います。
「やっと人間らしい顔になったなあ! いいじゃん!」
 これはくさい靴にも通ずる身体性です。今までただ過去にこだわり、人間性を見いだせなかったチャコが、パンツを見られて恥ずかしがる。ああ、馬鹿馬鹿しいよ、でもだからこそ核心なんだよ! チャコはずっと物憂げな顔で、でもその物憂さに酔っているような存在だったけれども、違うだろと。パンツを見られて恥ずかしいっていう、いわばつまらない羞恥心を持っているのであって、でもそのつまらない羞恥心こそがおまえの本当の部分を剥き出しにするんだろと。今おまえは恥ずかしいと感じた、その感情の揺らぎこそが、おまえがまさに「今」「実際に」生きているということなんだぞと。これはねえ、この映画はねえ、もう決めるところで本当に決めてくるんです。

 語り出したら止まらないので、ある程度絞って述べますが、あの階段駆け上がりシーンは無論省くわけにいきません。でも、実際ぼくがいちばん泣けたのは、あの階段駆け上がりシーンの直前なんです。みさえがそれまでのシーンでネタにされていたでかい尻で追っ手を阻み、ひまわりもちょっとだけ攻撃し、シロが飛びかかるところです。シロが一瞬画面から消えるんです。で、その一瞬の後に敵に飛びかかる。この「一瞬」をつくった演出が素晴らしい。あそこに「ぐっ」とこもるんです。あの「一瞬」によって、勢いで持っていくだけでなく、「覚悟」が見えるんです。ベタなことを言いますが、やっぱり仲間の前進や敵の打破のため、玉砕覚悟でぶつかっていくという演出には泣いてしまいます。「ドラえもん」でもありましたね。『海底鬼岩城』で、バギーがポセイドンに突っ込んでいくところはもうやばいです。皆に馬鹿にされながらもしずかちゃんにだけは愛され、彼もまた「シズカサン、シズカサン」と彼女を慕い、最後には彼女を守るためにポセイドンもろとも吹き飛ぶのです。そして『鉄人兵団』を忘れちゃ駄目です。ロボットの少女リルルは最後、有害なレベルに至ってしまった鉄人兵団を始原へと帰すことを決意し、自分が消滅することを知りながらもその最期を遂げるのです。なんだかもう話がどこに転がるかわからない状態になってきました。

 前半の子供たちだけのクルーズも楽しいです。ここの愉快さと、後半の強い表現があってこの映画は成り立っています。これだけの作品を90分弱で描ききっているというのは、もはや奇跡的です。もう文句なし。もっと色々書きたいところですが、それはまた別の機会に譲ることにしましょう。
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実写リメイクなんてものを観にいくくらいなら、この傑作をもう一度観てくださいよ。
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 ここでは基本的に初見の映画について書くことにしているのですが、モストフェイヴァリットムーヴィのひとつである本作をあらためて観て、あらためていたく感動したので書きたくなりました。ほろ酔いだったせいもあってか、ぼくは序盤からもう泣き始めていました。あとあとの展開を既に知っている。からこそ泣いてしまう、という現象です。

映画版『クレヨンしんちゃん』については本作と『オトナ帝国』の二作が出色とされまして、この評価についてはなんら異論ありません。一時期、まとめて映画版を観てみましたが、やはりこの二作が最も素晴らしい。この二作についてはもう完璧です。そして本作公開から今現在までの日本映画を概観するに、より一層この作品の価値はあがっていると言えましょう。

 あらためて観て思ったのは、やはりあの井尻又兵衛と廉姫という主軸二人が最高だということです。又兵衛が出てくるシーンは全部いいです。屋良有作(ぼくのなじみ深いところではちびまる子の父ちゃん役)の声と演技が、他に類を見ないくらいに完全な調和を見せている。これぞ声優の真骨頂です。タレントで声優を固める今の風潮が、いかに作品の味わいを殺しているか、この映画を観ればどんな阿呆でもわかるでしょう(だからこそ、本作における雨上がり決死隊は残念。完璧と言いましたが本当にここだけが残念。この屋良有作と共演してはいけなかった)。そしてまた又兵衛の人柄が最高なわけです。戦場では頼れる大将となりながらも、廉姫への慕情を抱えて恥ずかしがり、しんのすけにからかわれる。これはアニメならではの表現です。これを実写の芝居でやるとどうにも芝居がかってしまうはずです。アニメのコミカルな表現だからこそいいのであり、あ、そういえば最近実写化されているんでしたね、へえ、はあ、そうですか。

 廉姫も絶品です。なんというか、振る舞いのひとつひとつが堂々としており、女々しくないんです。これは大変に立派であります。そういえば黒澤映画をリメイクして訳のわからないことにした映画もあるようですが、この映画から何を学んだのか。廉姫と又兵衛の距離感がこの上なくよくて、又兵衛が自分の身分違いの慕情を恥じるところなんて、もうぼくはぼろぼろ泣いていました(結構序盤なので別に重いシーンでもないんですが。というかぼくは基本的にこの映画、又兵衛が出るたびに泣いていたのです、本当に)。身分違いの自らの慕情を恥ずべきものと感じるその奥ゆかしさ、これぞ時代劇の大きな醍醐味のひとつであって、だからこそ黒澤映画のリメイクのあれはもう本当に愚昧の極みと言えましょう。

ぼくはこの映画をもう完全に肯定的な態度で受け止めているため、細かいカットのひとつひとつにもぐっときてしまう。何でもないようなちょっとしたおかしみの場面、たとえば廉姫が車に乗り込む場面の所作、皆がカレーをつついている場面、廉姫のつくったおにぎりをそれと知らずに又兵衛が食べるところ、もうどれもこれも言うことなしにいい! 

 又兵衛が出てくる笑いのない場面では、ぼくはことごとく泣いていました。廉姫が隣国に嫁ぐことの是非を又兵衛に問う場面。自らの慕情など完璧に押し殺して又兵衛が、嫁ぐようにと諭すくだり。又兵衛が自分の家でしんのすけと対面し、家族は誰もいないと話す場面。姫との幼い日の思い出に現を抜かす場面。廉姫が顔を赤らめ又兵衛の胸に体をうずめるも、それを土下座して拒む場面。又兵衛を心配して姫が走る場面。そしてもちろん、あのラスト。思い出すだけでうるうるします。もうすべていいです。

 そしてむろん外せないのは、『クレヨンしんちゃん』映画版で必ず出てくる、野原一家の団結です。『オトナ帝国』の魅力もまた後日語ろうと思いますが、今回も文句なしです。 序盤、過去に消えたしんのすけを探して慌てるヒロシが、みさえに言う台詞。
「しんのすけのいない世界に未練なんてあるか!」
 かなり序盤ですが、早くも号泣ポイントです。テレビ版ではいつも頼りないヒロシが、そして映画劇中でも廉姫にでれでれしているだらしないヒロシが、不意に言い放つあの格好いい言葉には、もう落涙を禁じ得ぬわけです。そして戦火の中に車でつっこむクライマックス。敵の大将とぶつかるとき、みさえが身を挺してしんのすけを守るところも泣く。みさえの大活躍は『オトナ帝国』でも号泣ポイントですね。高所恐怖症には本当にたまらないタワーのシーンで、ギャグも織り交ぜつつ、いざ落下しそうになったときにひまわりを抱きかかえる。あの際の演出は神々しいレベルです。ああ、もう駄目だ、涙が出てきたよ。なんてすさまじい映画なんだ。

 ただただ大絶賛しているだけの記事になっていますが、もうそうするほかない領域にあるのです。だからね、ぼくはね、この映画を実写でリメイクするなんて、糞みたいな企画をなんで立てるのかがもうわからないんです。あのー、未見ですけども、もうこれはどう考えたって勝てるわけがない! もし今やっているリメイクが本作を上回るっていうなら、ぼくは全財産を散財して借金まみれでガッキーグッズを購入、そして深夜の公園で酔っぱらい、全裸になってそれをばらまいてやるよ! 黒澤リメイクもそうですが、絶対勝てるわけがない。特に今回の場合、既に完璧な作品をリメイクすることに何の意義があるのか、「金」以外に何一つ理由が見つからない。くわえて『クレヨンしんちゃん』はこれまでの文脈があるからこその傑作とも言えるわけで、それがない実写化ではもうどうしたって太刀打ちできるわけがなく、なおかつ。なおかつ。ホームページで予告編を観てみたんですよ。そしたらね、「こんな時代じゃなかったら」「身分の違いがなかったら」みたいな感じで、もう恋愛劇に主軸置きまくりなんです。おいおい、まさかとは思うが、身分の違いに阻まれる悲恋の物語なんて真似、しちゃあいねえだろうな! 「身分の違いがなかったら」みたいなことをね、この映画では絶対言っちゃいけないの! もうそれは『戦国大合戦』で一番に大事なところなの! それを互いに、口には出さない、その奥ゆかしさと切なさ、そこをあの映画では、本来子供向けであるにもかかわらず、この上なく絶妙なバランスで描いているの! しんのすけに指摘されながらも、でもこの時代にはこの時代の思想、道徳、規範があって、それを頑なでも守ってきたことを描いたから、この映画は時代劇として大傑作なんだよ! だからそれを特報ムービーでキャッチフレーズ化して観客に示した時点で、もうアウトなんだよ馬鹿! 映画を観る前から、この監督が『戦国大合戦』のことを何にもわかっていないのが丸出しなんだよ!

 ええい、勢いで書いてやる。このリメイクを担当する、そしてあの『三丁目』の監督でもある山崎貴という人は、過去の時代を描くくせに本当に現代の考えを持ち込みやがる。『三丁目』をいいと言う奴は、『オトナ帝国』観たのか? 本当にあの映画を観たのか?『オトナ帝国』は要するに、昔のいいところばかりに萌えているオトナに対し、しんのすけが未来を切り開くことの尊さを教えてくれてるんだよ。昭和の頃、物質的欠乏を抱えつつも未来は明るかった、でも今見える未来なんて……と言って過去に引きこもろうとするオトナに対して、未来を生きたいと叫ぶしんのすけがそこにいるんだよ。『三丁目』なんてのは、現代の価値基準を持ち込んでいる上に(過去への侵犯)、思い出的に過去を美化している(過去の歪曲)という意味で、まさに打ち砕かれるべきオトナ帝国そのものであって、あれをいいって言っているのはまさにオトナ帝国に毒されているってことだよ! 過去は汚かった、貧しかった、最悪なこともいっぱいあった、でも、それをこそ愛でるというのが記憶の尊厳であって、それなくして美化した思い出に浸るのははっきり言って「過去萌え」でしかないよ。『オトナ帝国』の公開から数年後に、『三丁目』がつくられているやばさを、もっと感じなきゃ駄目だよ!

 山崎貴という人は、『クレヨンしんちゃん』の、あろうことかあの大傑作二本と引き比べられるものをつくり、なおかつテーマ的に腐らせているという意味で、かなり業の深い方と推察されます。この人のリメイクを観るくらいなら、あらためて『クレヨンしんちゃん』を観てもらうほうが、はるかにはるかに有意義な体験となりましょう。  
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だから原作をなぞっちゃいけないんだって!
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 今年のモントリオール映画祭において、『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』で監督賞を受賞した根岸吉太郎監督、そのATG時代の作品です。この監督の作品は初鑑賞です。

栃木の田舎に暮らし、農業を営む若者の話で、ストーリーを楽しむというよりその風合いを愛でるべき映画でしょう。いい具合に「1981年の田舎」という空気感があり、飯を食うシーンが結構印象的なんです。うまく撮られている食事のシーンって、他では代替できない生々しさがあるんですね、特に日本映画の場合それを感じる。この頃撮られている森田芳光の『家族ゲーム』なんかはその典型(あれは変な食事風景ですが)だし、最近のもので印象に残っているのは高橋泉の『ある朝スウプは』のシーン。冒頭の朝食をとる場面です。咀嚼音が活写されると生々しさに繋がります。箸が茶碗に当たる音とかね。これをうまく活かすと、人が生活している空気を効果的に醸成できるため、この『遠雷』においてはとりわけ重要な機能を果たしていました。そういえば永谷園のお茶漬けのCMでも、男が茶漬けをかき込むものがありましたが、あれもまた食事の生々しさを押し出していました。

 主人公の若者を永島敏行が演じており、石田えりが恋人役なのですが、この石田えりはすごくいい感じで可愛いです。当時20歳くらいでしょうが、今の時代に置き換えても、女子大生の中で一番もてるタイプの可愛さです。ヌードも披露し、おぱーいがたわわです。演技も非常によい具合で、この映画に丁度いい。役者が醸す雰囲気、映画全体の雰囲気はいいです。ばあちゃんの愚痴に辟易した母親が、その愚痴で石田えりを辟易させる。でも本人にはその自覚がないというあのシーンなんか、ああ、人と人の関係のかゆい部分を描きよるなあと感心させられます。

 情交の場面も生々しくてよいですねえ。うん、生々しさがあるのはこの手の映画では大事だなあと思う。それでなくても、女性の裸を出す以上は生々しさがほしいですね。『楢山節考』もそうだし、キム・ギドクの映画もその辺をきちんと踏まえている。最近の日本映画でも、『ジョゼと虎と魚たち』の池脇千鶴や『さよなら、みどりちゃん』の星野真里のように、女優がヌードになっておぱーいを見せてくれるものがありますが、昔のものと比べると生々しさが足りなくなっています。綺麗に見せてしまっている部分がかなりあります。これはAVにも言えて、トップメーカーであるエスワンのAVはエロくない。そりゃやることやって見せるとこ見せていますけど、生々しさが決定的に足りない。

 話が逸れました。『遠雷』はしかし、空気こそいいんですが、どうしても原作小説をなぞった感じが否めません。立松和平の原作なんですが、これは原作小説を持つ映画全般に言えることで、どうしてもなぞった感じが出てしまうんです。原作と映画の関係について云々されますが、やはり「なぞった感」のある映画は、ストーリー的には失敗します。原作を読んで思い描いたイメージが映画だと異なって入り込めない、なんてことも言われますが、個人的にはそこはどうでもいいんです。それよりも映画を映画として独立させることがきっと大事で、下手に原作に寄りかかると、なぞった感が出てストーリーがしっかりしなくなる。

だからこそこの映画で言うと、ここが見せ場というところで思い切りしくじっている。見せ場となるのだろう三カ所が三カ所ともしくじっている(もっとありますけど)。ぼくは原作を読んでいないのですが、たぶん映画の主たる展開は原作に同じなんだと思います。改変して起こった失敗とはどうしても思えないのです。ひとつには父親のくだりです。不倫相手がいるのを隠そうともせず、金をせびる駄目な父親がいて、主人公は彼のだらしないところが許せないわけですが、いざ大事な場面になると父親がいません。どうなったのだ、と思うわけですが、そのままほったらかしです。何をやっているんだ!

  そしてあのジョニー大倉の独白場面。この映画を物語として褒める人はあそこも褒めるんでしょうが、ああいう演出にするならもっとジョニー大倉の役をちゃんと描かないといけない。ワンカットの長回しで自分の罪を独白するんですが、あれはきっと原作でも見せ場なんでしょう。でもこの映画の場合、ジョニー大倉があの構図に耐えるほど映画的な顔ではない、ということを抜きにしても、彼が濃密に描かれていないからあのやり方では耐えられない。人妻も情交シーンこそいいし、佇まいもいいけど、人物、人格ある人間としての印象が弱いので、あの告白に感慨がこもらない。簡単に言うと、脇役が終盤でしゃしゃり出てきた感じがすごいんです。おまえはそこまで物語を担っていなかったよ、と鼻白む。人妻にしても、せっかく娘という有効な装置がいるのに母親の部分を生かし切れていないから業がこもらない。蟹江敬三も拍子抜けです。多分蟹江敬三も台本を読んで拍子抜けしたでしょう。思わせぶりな登場だったのに、結局何でもなかった。

 それとあの「青い鳥」を歌うところ、これは原作にあったんでしょうか、唐突すぎて不可思議でした。結婚式の宴会の終わり頃、永島敏行と石田えりが皆の前で歌うんですが、あれはね、ああするならね、絶対あそこにいたるまでのどこかで、観客に「青い鳥」を印象づけないと駄目なんです。演出上、絶対と言っていい。いくらでもあるじゃないですか。ドライブ中に石田えりに鼻歌で歌わせてもいいし、たとえばそれを永島敏行が聞いて、「なんだいそんな歌」みたいな感じにしつつ、最後に合唱するなんて形でもいい。まあたとえそうであったとしても、友人を警察に連れて行った後で歌うには「なんでやねん」が消えないんですが、もう少し配慮があってもいいはず。あれはもうぜんぜん意味がわからないシーンになっています。

 原作をなぞっちゃったことで残念になっています。原作をなぞった弊害は何もシーンごとの問題ではなく、映画の焦点を絞るうえでまずいということ。結局どの要素も中途半端にしか仕上がらない。この手の映画の場合、いろいろな要素を盛り込むのはわかる。でも、そのせいで親父のエピソードも友人のエピソードも希薄化し、石田えりとの幸せな様子を描く場面にしたって、あの「青い鳥」は何の有効性も持たない。もっというとおばあちゃんの痴呆発症のところですね。おばあちゃんが出てくるところはいいんですよ。老人と暮らす上での、ある種の鬱陶しさというのは、ぼくも感じて育ちました。でも、その人が死んでしまうと、それに鬱陶しさを感じたことを申し訳なく思うし、むしろいとおしくすらなる。今さら遅いわけですが、そういう哀感、取り返しのつかない後悔は映画的になるはずで、この映画の場合、おばあちゃんは死なずにぼけてしまうだけで終わりですが、もっとその部分を強調できたはず。死なせろと言っているんじゃない。ぼけたときの哀感が生まれただろということです。強調できたつくりなんです。それさえもしなかった。あの描き方では、「鬱陶しいおばあちゃんが終盤でぼけた」というただそれだけになっている。

 原作をなぞりさえしなければ、はっきりともっとずっとよくなったはず。風合いはいいのです。その点が残念でなりません。さて、太宰治原作のあの映画や、いかに。
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無邪気に面白いと言える映画です。
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『2』の原題が『The Road Warrior』だったこともあり、『2』と気づかずにそちらを先に観てしまいました。昨年の映画秘宝オールタイムベストテンで第6位に入っていて、ずっと気になっていたので鑑賞。映画秘宝がいいのは、こんなの好きって言ったら馬鹿にされるんじゃないか…みたいな含羞が一切ないところです。好きなもんは好きなんじゃと開き直っているところがすごくいい。これに対してキネマ旬報はというと反対で、たとえば十年くらい前のオールタイムベストなんかを観ても、これを褒めておけば間違いないだろう、これを褒めておいても誰も文句は言うまい、みたいなのが上位にあるんですよね。まあ、モテるのは間違いなくキネ旬のほうなんですけどね。映画秘宝のオールタイムベストテンははっきり言ってモテません。『狂い咲きサンダーロード』とか『タクシードライバー』とか『時計じかけのオレンジ』とか『ファントム・オブ・パラダイス』とか、基地の外にいっちゃってるやつらの映画ばかりですからね。

 さて、主に『2』のほうについて書きましょう。というのも、1と2にはメル・ギブソン主演というほかにほぼ一切のつながりがなく、1を観ていなくても2を観る上でなんら問題はないのであり、そして2のほうが圧倒的に面白かったからです。1は正直言って特筆すべき映画ではないのですが、2はものすごかった。「マッドマックスは2より1がいいよね」という人は、絶無じゃないでしょうか。『エイリアン2』や『ターミネーター2』、『グレムリン2』、そしてぼく一押しの『SAW2』など、2が1を超える作品は数多いですが、その超え方、超えてる比率でいうと、これは史上最もグレードアップした2と言えましょう。

 後々の映像、漫画作品に影響を与えた、と言われるように、これはいかにも漫画的な作品でした。核戦争後の荒廃した世界で、石油基地でコミューンをつくって暮らしている人々と、その略奪を狙う暴走族の対立があり、そこにメル・ギブソン扮するマックスが絡んでいきます。人々や暴走族の造形はもう本当に漫画的と言うにぴったりです。なんか『北斗の拳』っぽいなあと思ったら案の定、あれはこの映画の影響を受けているようです。敵は本当にわかりやすい悪として描かれているし、かと思えば味方のほうは中世ファンタジーみたいなやつがいたりするし、これまた漫画的な野生児がいるし、ジャイロ乗りのおっさんがいるし、「どういう世界やねん」と突っ込み出せばきりがないんですが、もうそんな突っ込みなんてどうだっていいというわけです。こういうのって面白そう、こういう感じにすると格好よさそう、こういう変化球もアリだよね、というのをどかどか詰め込んでつくられていて、乗れないとあほらしさを感じてしまいそうですが、乗れればもうハイスピードで連れて行ってくれます。

 主演のメル・ギブソンが後に監督する『アポカリプト』もそうだったんですが、クライマックスが沢山あるんです。このサービス精神がいいです。ごちょごちょせずにとにかくアクションを盛り込んでいて、しかもそれが痛快なものになっているから、停滞がありません。これはターボをかけて大成功した例だと思います。下手にごちょごちょ思索ぶりだすと最悪なんです。核戦争後の荒廃した世界ってことでメッセージを込めたり、敵と平和的な解決を目論んだり、主人公が妙に悩んだりしてみせると、この映画はそれだけで一瞬で死んだ恐れがあるんですけど、そういう愚は一切犯さなかった。停滞させるとアラが見える。アラが見えてふと冷静になるとこの映画は大変に危険だったわけですが、ずっとターボをかけていたので文句なしなのです。

 圧巻はやはり後半三十分近くにわたるカーチェイスですが、ここでも1とは比べものにならないレベルアップです。カーチェイスシーンというのはやっぱり映画の醍醐味です。源流はジョン・フォードなどがつくりあげた西部劇にあるわけですが、画面上の盛り上がりを見せる装置として、最も画期的な発明のひとつでしょう。特にこの映画の場合、もう漫画的に開き直って構築された世界ですから、生半可なカーチェイスじゃないんですね。これはねえ、当時の中高生は本当にわくわくどきどきしたと思います。そしてそのときの観客が、後の漫画やゲームをつくる世代になっていたということでしょう。うん、ゲームにも相当影響を与えていると思います。設定とかも80年代のファミコンのそれっぽいんです。 

あまり中身に踏み込んでいませんが、この手の映画は中身を云々するよりも、無邪気に面白さを感じればいいのであり、また感想を書く際もそれでよいのだと思います。いやあ、こいつは面白かったですね。
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