<   2009年 10月 ( 9 )   > この月の画像一覧

ぼくはインド好きなのでよいのですけれども。 
d0151584_6403826.jpg
 
 久方ぶりの早稲田松竹。上映作品であまりぴんとくるものがなかったり、渋すぎたりして長らく行ってなかったんですが、 『トレインスポッティング』(1996)との併映でダニー・ボイル二本立てということで、早稲田松竹。早稲田松竹のよさってのもありますね。まずあの劇場の椅子がぼくは好きです。別に変わった椅子じゃないんですが、微妙な座り心地の点でね。それと建物に入ってわずか数歩で劇場内に入れるというこぢんまり感もよく、なおかつ喫煙所もすぐ外にある。たまに「館内は全面禁煙でございますぅ」とか言って、その劇場自体が七階とかにあるから一階外に出ねえと吸えねえじゃねえか的な映画館がありますが、そういう阿呆映画館とはぜんぜん違いますね。

 さて、最初に観たのは『トレインスポッティング』でした。こちらはイギリス国内でも最大級のヒットを飛ばしたということで、少々期待していたんですが、思いのほかぴんと来ませんでした。ドラッグ中毒の若者たちの日々、みたいな映画なんですけども、勢いはあるんですが、ぼくにはあまり面白くなかった。いや、これはイギリス人に大ヒットだったわけですから、たぶんイギリス人にとってはすごく面白い描写が多いんでしょう。ぼくはイギリスに興味がないので、その分魅力を味わえなかったということです。これは後のインドの話と比較するとよくわかります。個々のキャラクターもいまひとつよくわからなかったですね。主人公以外の登場人物がぜんぜん浮き立ってこなくて、どんなやつかもうひとつわからない。いや、キャラ付けはされていますよ、でもキャラ付けをされているだけな感じもして。女子高生の女も結局なんでもなかったし。イギリス人の若者と仲良くなり、そのノリがわかるとまた違うのかも知れません。

 さて、イギリスにはまれなかったぼくですが、『スラムドッグ$ミリオネア』の舞台はインドです。何を隠そうぼくはインド大好きでありまして、唯一行ったことのある外国もインドでして、最初にインドに行ってしまったものだからもう他の国に行く気がしない。だからこの映画においてはかなりインドポイントが加算されます。映画の出来云々とは別に、インドが沢山出てくるのでそれだけでポイントアップです。とはいえ、インド映画というと、実は一本も観たことがない! 映画好き、インド好きのくせにインド映画を観ていないなんておまえはばちもんやないけと言われたらそれまでですが、ぼくの好きなインドはまさにあのスラム的な泥臭さにあるのでして、ミュージカル的なノリでアメリカナイズされた男女の恋物語、となると正直惹かれないんですな。

『スラムドッグ~』はでも、設定上無理があるんじゃないかと観る前には思っていたんです。「スラム育ちの無学な少年がクイズ番組で全問正解する。でも無学なくせに知っているわけがないといって疑われる」という筋立てですが、「ミリオネア」って四択ですからね。日本で置き換えれば、「ぜんぜん勉強していない不良がセンター試験で高得点を取った」みたいな話です。それよりも正解の確率的には高いのであり、あの設定自体どうなのかと思っていたんですが、その辺は案の定ぜんぜんスルーでした。でも、設定自体は面白いんです。これはポピュラリティの高い設定ですよ。クイズ番組っていうそれ自体がポップなものを取り上げていますし、そこにドラマ性を絡ませれば設定としては面白い。企画会議でもすんなり通ったことでしょう。「ミリオネア」のフォーマット自体がきわめてシンプルで、あの番組を知らなくてもすぐにわかりますしね。

 この形って、どんなドラマでも作り出せると思うんですよ。クイズの答えをはからずも知っていくという設定で、その知識をどこで得たのかという過去のくだりが重要な軸になるわけですが、これは別にスラム育ちの青年じゃなくても十分に成立するんです。クイズの答え、その知識なんてどこで得たかわからないじゃないですか。いつの間にか知っているわけじゃないですか。その「いつの間にか」の部分を切り取れば、どんな人の人生を追ってもそれなりにドラマティックになるんですよ。たとえば、ぜんぜんもてない汚い中年男が高級ファッションブランドについてのクイズに答えたとします。そんなのどうして知っているんだ! となって過去の回想に行くと、「実は昔一度だけ恋した相手にプレゼントしようとしていたものだった」みたいな事実として見せられる。もういっくらでも思いつきます。この設定自体が物語的にかなり使えるものなんですね。そこにインド、スラム育ちという設定をくわえ、劇的な人生という味付けを振りかけたことで、映画的ないっそうの盛り上がりを生み出した。

 子供時代から人生を追っていくわけですが、全体を通していちばん面白かったのはこの子供のくだりですね。インドの街並みがたくさん出てきて、その中を子供が動き回る部分は、ダニー・ボイル的な勢いの演出と非常によく合致しています。それいるかあ? 的なのもないではないんですけどね。この辺は雑多な要素を盛り込むうえで結構苦労した様子があります。暴徒が村を襲ってきて母親が死ぬ場面なんかも、もう勢いだけで見せてますから。そこまでの文脈が何もない。恋の話を中心にしたかったんでしょうけど、『トレインスポッティング』と同じで、どうも登場人物の立体感がないんですよ。出来事を中心とした役割、役割、役割の人々が多い。役割の人がいてもいいんです。特に一人の長い人生を追った、非常に雑多な要素の多い映画ですから、当然役割の人がいてもいい。でもねえ、あまりに役割の人が多いと、今度は肝心の登場人物も薄く見えてくるんです。これは肝に銘じねばなりませんね。

 ぼくはインドが好きで、インド人女性の顔立ちも好きですからいいんですけど、それほどインドに興味がない、好きでもない、あ、ねえ、インドカレー屋あるよ、入る? えー、なんかインドカレーって気分でもないし、あ、パスタ食べたい、ねえ、パスタ食べようよ、的な人たちはどう思ったんでしょうか(なんだ今の寸劇)。さっきも言いましたが、相当インドポイントでカバーされています。特にインド人女性の美しさ、かわいさでカバーされています。恋人の女の幼少時代の子役も可愛いし、大人になった彼女も綺麗です。ユーラシアって東西に長いでしょう。西に行けば行くほど白人的になって、東に行くとアジア人的になる。肌の色も違ってくるしね。その中間のインドのバランスがぼくは大好きで、どうしてインドの女の子はあんなにも可愛らしく、また綺麗なのだろう! という感動でかなり保っていました。だからね、設定は面白いんですけど、物語の造りとか登場人物の動きなどで言えば、特に優れているとは思わなかったです。

 ただ、あの二千万チャレンジの方向に話を保っていったのは、シナリオ的には正しいと思いますね。そこまでは警察内部での過去の回想で済んでいたけど、さあここからは現在から未来なのだ、となるあの流れをつくったのはシナリオ上正しい。ぜんぶ過去にしちゃうと面白くないです。一千万まではもう、獲得できているとわかっているじゃないですか。あそこから二千万チャレンジに行くと、どうなるのかなというハラハラが足されますから。

 ただ、設定的に雑だなと思うのは、あのテレフォンのくだりですね。あれはもうちょっとしっかり設定しなきゃ駄目でしょう。テレフォンで好きな相手に電話できるんですが、ぼくが日本の「ミリオネア」で知っているのと大分違います。あんな感じだと、いくらでもテレフォンの相手が答えを出してしまいそうじゃないですか。最初からずっと番組を観ていて、問題が出たらすぐネットで調べるとかできてしまうじゃないですか。重箱の隅じゃないですよ、ぜんぜん。その辺はしっかりして欲しかったですね。

 恋人とのくだりもなあ、あれはねえ、あの彼女がすごく綺麗だからぼくはよかったけど、あれがその辺のアングロサクソン女優だったら駄目でしたね。インド人の彼女が綺麗ってことで観ていました。だから、映画それ自体の魅力、物語上のうまさはそんなにないです。ギャングのボスのところから出ていくのも今ひとつだし。

 アカデミー賞を取ったということですが、いい具合に派手さもあるし、盛り上がりもあるし、設定の面白さもあるし、お祭り的なものとしては納得できます。2008年のアメリカ映画というと、ぼくの知る限りでは『レスラー』と『ウォーリー』がトップなんですが、『ウォーリー』はアニメ賞を獲っていますし(『ウォーリー』はマイベストオブピクサーです)、『レスラー』ではお祭りには地味なんでしょうしね。『スラムドッグ』はイギリス映画ですが、イギリスとインドはなぜか一緒にアカデミー賞を獲ることがあって、1982年の『ガンジー』のときもそうですね。そういえばインドはイギリス領でしたが、今回の映画では別に関係ありません。なんか今日はどうまとめていいかわかんねえや。
[PR]
現実か妄想か、という部分のバランスの取り方がすごくよいです。
d0151584_6382331.jpg

 ロマン・ポランスキー監督作は初鑑賞です。この監督は最近、三十年以上前の淫行事件のかどで身柄を拘束されたそうです。ジャック・ニコルソン邸で十三歳の少女とファクっちまったらしいのです。真相は藪の中のようですが、いまさらどうやって立証できるのでしょうか。

 さて、『ローズマリーの赤ちゃん』。原題は”Rosemary's baby”ですが、「○○の赤ちゃん」という響きがちょっとおぞましく感じられるのはぼくだけでしょうか。いや、「たぬきの赤ちゃん」とか「伊達さんのとこの赤ちゃん」とか言う分には何でもないんですけど、○○の部分に人の名前が入ると、特に女性の名前が入るとちょっと怖い感じがします。それがタイトルの場合だと、なんか、なんとなく。

 さて、この映画もタイトルのように、なんとなく怖い映画でした。ある大きなマンションに越してきた夫妻、その妻が主人公の話です。隣人の老夫婦と関係が生まれるのですが、特に老婆のほうがやたらとしゃしゃってきて、いい人だけどなんか面倒くさい人だなあ、という感じが色濃く描かれます。しかし、決定的に怖いことはラスト近くまでほとんど描かれません。この映画を語る上で最も重要な部分でしょう。夫婦の日常が変調をきたすのは、妻のローズマリーが赤ん坊を孕んだところからです。隣に住む老婆が妊婦となった彼女に色々と忠告し、産婦人科は誰にしろ、妊娠中はこれを飲めなどと色々うるさくなってきます。最初こそ素直に従うのですが、原因不明の腹の痛みに襲われ、そこから日常生活が徐々におかしくなっていきます。
 
 抑制の利いた、という表現がありますが、この映画の演出はまさにそれです。おぞましい雰囲気も妙な出来事も非常に抑えたトーンで描かれます。それは結構心地いいです。だからこそ、途中で差し挟まれる夢のシーンはぼくには邪魔でした。でも、決して否定的なわけではなく、あくまでぼく個人の感じ方です。あれはあれでよい、という人もいるでしょうと思えます。この映画にとって、ローズマリー役のミア・ファローという人のキャスティングはきわめて重要であり、大きな効果を発揮していた。ミア・ファローの顔立ち、顔つきがどうも神経質な女の感じなんです。単純な幸せが似合わない顔。「陰のある」という言い方がよく当てはまる感じで、この映画の風合いに最適でした。夫役は映画監督のジョン・カサヴェテス。この人の敵か味方かわからない具合もまさに最適です。

 特典映像のインタビューで監督は、「現実なのかローズマリーの妄想なのか、曖昧に描くことを心がけた」と語ります。その力加減、バランスの取り方の点で言えば大成功と言えましょう。ミア・ファローの抜群の顔立ちのためもあり、観ている側は絶えず、これはこの女の妄想なのでは、という気分にさせられます。ミア・ファローがこれまた妄想でおかしくなりそうな女なんです。特にこの映画、妊婦というデリケートな状況を扱っているから、精神的な危うさを醸すうえでこの上なく適切な設定になっている。この現実とも妄想とも知れぬ絶妙さを学ぶうえでは、最良のテキストの一つと言えましょう。

 2時間以上あって、長さを感じることがないではないですが、時間を気にするほどではありません。撮り方がうまいし、特に大きな事件が起こらないこの映画を、あのバランスで引っ張ったのはすごいです。面白い映画だな、と特には思わない。映画を観る喜びがあるか、というと、うーん、そこまででもない。だから悪く言えば、さしたる満足感はないんです。でも、この話のつくりかたで、観ている間飽きさせないのはすごいです。何か起こりそう、でずっと引っ張ることができるのは、それはそれですごく難しいことです。一歩間違えば単に退屈になるわけですから、何度も言いますが、バランス感覚のすごさです。 
 あのラストもいいんです。あのラストのシーンって、他の場面との連なりで見ると、妙に浮き上がって見えます。現実感にも乏しいし、まさに妄想なのか現実なのか、と言ったところ。変な表現ですが、あのシーンの「浮かせ方」は面白い。「浮く」のはあまりいいことじゃないと思うんです、一般的に。でも、あそこは浮いているからこそいい。あからさまに浮いているわけではない。ちょっと、浮いているんです。ここもまたバランスの取り方ですね。終わり方はもう曖昧の極みみたいな感じですが、嫌いじゃないです。変な結論はこの映画には似合いません。

 それと、こんなことは散々語られたんでしょうが、今日付ウィキによると、この映画の公開の一年後、監督は妊娠中の妻をカルト教団の連中に殺されているそうです。なんか、この映画との気持ち悪い繋がりを連想しますね。どう言っていいかわからない気持ち悪さです。

 1968年と言えば、ハリウッドがニューシネマに食われ始めた頃です。古いハリウッドっぽい風合いが色濃く、それほどの映画的興奮はありませんが、映画的なバランスの取り方を考えるとき、大きな示唆を与えてくれる一品です。
[PR]
単純に面白い。そして日米のゾンビ観を比較するうえでも、非常に優れた作品です。
d0151584_6414544.jpg

 最近は『ウルトラセブン』をDVDで観ています。「一生ものフレバー」が香ったので、全巻購入することに決めました。いやあ『ウルトラセブン』は本当に名作です。すべての要素が味わいに満ちています。ウルトラセブンにならば抱かれてもいいです。モロボシ・ダン役の森次浩司に抱かれてもよい、という意味ではありません。アンヌ役の菱見百合子さんについては、四十年前の彼女であれば抱きたいです。今は抱きたくありません。『ウルトラセブン』の魅力についてもいずれ語りたいところです。そう言えば12月にウルトラマンの映画が公開されるようですが、一切観る気はありません。だって聞いてよ、ウルトラマンキングの声優が小泉純一郎だって言うんだよ。あのさあ、ほんとまじでいい加減まじめにやれや! 誰が喜ぶんだよそれ。そのほうが集客が見込めるって? 映画館に客を入れちまえばあとは知りませんっていうその考え方がもうどうしようもなく腐ってるんだよ! これ以上は言わないよ、でも、そんなやつが諸手振って、なんちゃらクリエイターだのかんちゃらプランナーだの言ってる現実にはまったく反吐が出るよ、反吐を分泌している臓物まで出てきちゃうよ!

「昔は良かった」なんてことを言うのは厭ですよ、でも、実際に昔のほうがいいんだよ、明らかに。四十年前のCGもなかった時代で、毎週のテレビ放映に急かされつつなんとか面白く見せようって頑張っていた人たちを尊敬するばかりだよ。

 さて、そろそろ落ち着いて映画の話をしよう。
 ウルトラシリーズの円谷プロ、その創始者である円谷英二が特技監督を務め、監督には『ゴジラ』シリーズの本田猪四郎、原案にはあの星新一まで携わっているという素敵な映画、『マタンゴ』です。カルト映画としても名高く、結構いいにおいがしたので、観てみました。

 無人島に漂着した男女七人の話です。無人島には食べものがほとんどなく、備蓄された食料も底をつく状況。島には生き物もおらず、しかし夥しいまでにキノコが生えています。このキノコを一人、また一人と食べ始め…。

「キノコのホラー映画」ということしか知らずに観てみたんですが、実際に観ると終盤まではあまりホラー的な要素は濃くないです。むしろ無人島で生き延びようとする人間模様のほうが細かに描かれます。食料をこっそり持ち出すやつとか、性欲漲る男どもを手玉に取る女とかが出てきて、無人島漂着ものとして成立しています。これは現代でも古びず用いられるテーマで、アメリカのドラマ『LOST』がそうですね。今でも十分に鑑賞に堪えるものと言えましょう。ただの無人島漂着ものではなく、序盤からキノコの陰が出てきます。古い難破船を見つけて中に入ると、すごい量のカビがあるのです。カビにせよキノコにせよ、一種の原始感のある装置であり、とりわけぼくなどはキノコが嫌いなものですから、その醜悪さをびんびんに感じながら観ていました。
 
 キノコはどうも昔から好きではありません。特にシイタケが駄目です。キノコ類全般に気持ち悪さがあります。今、ウィキペディアで見かけたもので、シャグマアミガサタケというのがありました。こんなのはどう好意的に捉えても気持ち悪いです。気持ち悪くない要素がないです。やっぱり生産者たる植物ではなく、分解者たる菌類、細菌類の仲間だけあって、「生」よりも「死」のにおいがします。唯一好意的になれるキノコと言えば、マリオに出てくるキノコだけです。それにしてもマリオは何であんなに毒々しい色のものを食べて、命をひとつ増やしたりできるのでしょうか。永遠の謎がまたひとつ増えました。

 キノコが苦手な人からすると、その不気味さがよくわかると思います。それでも先ほど述べたとおり、中盤までは一切キノコがフィーチャーされることはありません。しかしいざ出てくると、これはもうゾンビものです。そうなのです。この映画は、ゾンビ映画なのです。世にも稀なる、キノコゾンビ映画なのです。キノコを食べた人は皆体をキノコに冒され、キノコの化け物になっていくのです。前半は硬派な無人島ものだった分、後半のたたみかけがホラー的な怖さを増幅します。アメリカでは主に70年代以降、ゾンビ映画がたくさんつくられますが、正直日本のこのキノコゾンビもののほうがずっと味わい深いように思います。それほど多くのゾンビものを見ているわけではないですが、アメリカンゾンビよりもずっとこのキノコの化け物たちのほうが怖かったし、映画としても優れていると思いました。島で展開するゾンビものといえば、有名なところで『サンゲリア』があります。あれはゾンビ映画好きの中では評価が高いようですが、ぼくにはぜんぜんでした。

 なんでなのかなあ、なんでこの『マタンゴ』のほうがいいのかなあと考えるに、大きな要因は二つあります。ひとつは表現のインフレ化が起きていないところです。序盤からゾンビが出まくったりすると、あとあとに期待が高まる。その分、過激なスプラッター描写なんかをたくさん詰め込む作りになってしまって、見た目には面白くても単純なアトラクション化してしまう。『マタンゴ』は実に抑制したつくりであり、その分の振れ幅が生まれるのです。

 もうひとつは結構深いテーマです。今のぼくひとりでは解決できません。「どうして日本ではゾンビものがあまりつくられないのか」ということに関連します。アメリカでは阿呆みたいに沢山つくられたゾンビものが、なぜか日本ではほとんどつくられてこなかった。予算的な問題でもないと思うんです。ハリウッドアクション的な大作がつくられないことについては、予算的な説明がまだつくんですが、ゾンビ映画が日本ではぜんぜんつくられずに来たことはひとつの謎です。いや、あるのかもしれないし、わかりませんけど。

 で、このゾンビというものについて考えたときに、『マタンゴ』はどこかアンチゾンビムービー的というか、アメリカ人の発想ではないつくられ方をしているんです。ここが『マタンゴ』を押す二点目です。アメリカ人はゾンビを悪者にする。もう醜悪でどうしようもない存在にする。でも、日本人はどこかそうじゃないニュアンスを混入させるふしがあります。ゾンビではありませんが、それこそ本田監督の『ゴジラ』は、もともと人間の核兵器が生み出した哀しい存在ということになっているし、『ウルトラセブン』の星人たちにも哀しい理由があるものが散見される。ゾンビもので言うと、テレビゲームの『SIREN』がありますが、あれはこの『マタンゴ』ととても似た設定を持っています。すなわち、「相手は相手で幸せになっている」ということ。『SIREN』の屍人たちって、ただのゾンビじゃないんです。やつらはやつらで、幸せな世界にいるという設定なんです。幸せな気分でいるから、人間をそちらに取り込もうと思って襲ってくるという、ゾンビの裏事情みたいな設定がされています。これがアメリカ的ゾンビと大きく異なるところです。『マタンゴ』もそうなんですよ。あなたもこっちの世界においでよ~という感じで迫ってくる。そして重要なことは、その彼らがひどく幸せそうに見える、ということなんです。

 ここは非常に重要です。要は、「人間対ゾンビ」をつくろうとするアメリカ的価値観とは違って、我々の認識の地盤を揺るがしてくるんです。向こうのほうが幸せなのでは? というこの認識。非常にメタフォリカルだと思うのはぼくだけでしょうか。敗戦を経験してアメリカの文化を続々と取り入れた日本(=異世界に対する、ねじれのある憧れ)と、自分たちこそ勝利者と誇るアメリカ(=自分たちと異なるものは討ち滅ぼすべし)の差異が、こうした恐怖映画、ゾンビ映画の違いとして表れているのです。あ、だとすると、ゾンビ映画が日本でつくられず、またアメリカで大量につくられた理由も、少しわかってきた気もしますね。

 意外に深い話まで入り込みました。そしてこの映画、さらに豊かなのは、ラストです。さすが原案にあの星新一大師匠が参加しているだけあり、ちゃんと星節が利いています。半世紀近く前の映画ですが、ここはぜひ自分の目で確かめてもらいましょう。
『マタンゴ』、馬鹿にしてはいけません。日米ゾンビ観の違いを捉える意味でも、これは大変にお薦めです。
[PR]
ほんのちょっと不気味な明日へ。 
d0151584_6425566.jpg

 新宿のバーのマスターが、「びっくりするようなことが起こるよ」と言っていて興味を惹かれ、「でも公式サイトを見ちゃダメだよ、全部ネタバレしてるから」と釘を刺され、なるほど確かにこれは、「当たり前かもしれないけれど映画というのは、内容をまったく知らずに観たほうがずっと面白いな」と思わされる一品でした。だからぼくも今日は、ネタバレを最初から最後まで避ける方針で書くことにします。安心してお読みください。

 とはいえ、別にばらしてもよいことは書きます。一切内容に触れないのも無理なので。まず、この作品は疑似ドキュメンタリーの手法が取られています。この話にとって、最もよくはまっている形であり、劇映画ではこのうまみがごっそり削られてしまうでしょう。というのは、ある登場人物の語りがカメラ目線でこちらに向かってくることによって、この映画における嫌な感じが増幅されているからです。カメラ目線でなくても、少なくとも登場人物はカメラに向かって喋っている。カメラのこちら側にいる観客、鑑賞者に向かって話されることになる。その利点が非常によく活かされています。あるブログに、松本人志が『大日本人』で完璧に失敗したことを突き詰めている、と書かれていました。これには大いに同意します。『大日本人』のドキュメンタリーとしての失敗は、松本演じる大佐藤と他者との関係がほとんど描かれなかったこと。他の人物はあくまでも「大佐藤を語る証言者」に留まっており、ドキュメンタリー的に撮ることで生まれる他者との間合いがなく、ゆえにドキュメンタリーとしての風合いが非常に乏しくなった。想田和弘の『選挙』は疑似ではありませんが、あれは人と人が接する場所に生まれる「独特の変な感じ」を大変にうまく活写していた。この映画でもその点はきちんと活かされています。ああ、こんなやつはいるな、と思わせると、その映画はぐっと説得力を増す。すべての登場人物が丁度いい感じなんですが、ぼくが感じたので言えば、ある女性がとりわけよかった。ああ、こんなやつはいるよ、こんなやつをなんか俺は知っているよ、と思った。人って、こういう場合は実際こういう感じだよね、という。

 ドキュメンタリー的な風合いを十二分に活かしつつ、『オカルト』というタイトルからもわかるように、まあいわくありげなものが出てきます。タイトルになっているからこれはネタバレとは言いません。うーん、これ以上踏み込むとネタをばらすことになりそうなんですが、頑張ってそうならぬように書くと、非常に絶妙にいい感じでオカルト要素を入れているな、ということです。我ながらなんとまあ漠然とした物言いでしょうか。ひとつ言えるなら、「どうせあれでしょ、オカルトチックな、なんか超常現象的なあれで、結局はどっちらけで終わるんでしょ」というあなた、そこのあなた、そういう心配は無用です。「オカルトとかそういうの、あたし興味ないっていうかあ、それよりさあ、聞いてよ、この前さあ、あたしの元彼がぁ、二年前くらいに別れたんだけどぉ、なんかいきなりメールしてきてぇ」というあなた、そこのあなた、うるさい、そういうのは発言小町に行け! 「いきなりメール」って、じゃあどうすればその「いきなり」という副詞をはずせるんだ!「いきなり電話してきた」「いきなり家に来た」「いきなりぼろぼろの三輪車で家の前に来たと思ったら、いきなり黒い謎の渦に飲み込まれた」よりずっとましだ!

 正体不明の女を一人で叱りつけてしまいました。ああ、いきなり妄言を書いたせいで次に何を書くか忘れてしまった。内容とは一切無関係です。
 思い出した。正直、ネタバレを避け続けてはいますが、大体の流れは結構最初の方でわかります。だから、マスターが言っていたように「びっくりすることが起こるよ」というのは、まあそこまで強調しなくてよさそうです。確かに「びっくり」はありますけれど、肝心なのは、大体の話の流れの予想がついたとしても、非常にぞくぞくさせられるということです。これはぞくぞくしました。映画を観た後、あまりいい気持ちはしないのですが、それはこの映画の勝利です。変な言い方ですが、いい感じで嫌な感じ、です。しっかりと、もしくはどんよりと、残るものがあります。 

 うん、現実とオカルトとの調合具合が絶品なんです。ネタバレをしないで書くのは難しいです。ネタバレしちゃ駄目な映画だと『ミスト』なんかもあるんですけど、あれはもういいじゃん。駄目って言うのは結局ラストだろ。ラスト以外はいいじゃん。でも、この映画はそうじゃないのでねえ。あくまでこれ以上なくほのめかしておくと、「我々の住む社会(世界、とはちょっと違う)が、少し不気味に思える」ということです。不気味、のニュアンスは書きません。観た後だと、たぶんほんのちょっと不気味に思えると思いますよ。街を歩いているときとか、人とすれ違うときとかね。
「ああ、この社会はすばらしいなあ、生きていることは素敵だなあ」
「でも、君が見ているその街角にある、あの黒ずみは何?」
「えっ?」
くらいの感じ。わかりにくいって? いいんです。わかりにくくて。ネタバレしないんです。

 一本の映画としてよくできています。ややだれるかなあ、と思うところもないではないですが、構成も編集もいい。こういう映画体験もあるから、映画っていうのはいいものであり、また嫌なものです。お薦めします。
[PR]
この女、きらい!
d0151584_643448.jpg

 ソダーバーグ監督、ジュリア・ロバーツ主演という知識以外、何もないまま観てみたんですが、奇しくも前回の『セルピコ』と同じような筋立ての話でした。実話ベースで、巨大な組織相手に立ち向かうという物語、タイトルが主人公=実際の人物の名前である点が同じで、その分どうしても引き比べてしまいますね。内容的な部分、映画的な豊かさで言えば、圧倒的に『セルピコ』が上です。『エリン・ブロコビッチ』は退屈でした。途中で観るのをやめようと思ったくらいでした。

  ジュリア・ロバーツ扮するエリン・ブロコビッチは三人の子を持つシングルマザーなのですが、職がありません。彼女は自動車事故に遭ってしまい、そのときの訴訟で出会った弁護士事務所に転がり込みます。そこで仕事中に見つけた資料から、とある大企業の工場が公害を引き起こしている実態が見えてきて、彼女は一念発起、その事件の調査に乗り出すわけです。

 かなり実際の出来事に忠実につくったらしいですが、ぼくの先入観なのでしょうか、どうしてもハリウッドの大女優が出ずっぱりの映画というのは、接待のにおいがします。今回で言えばもうジュリア・ロバーツがとにかく映りまくりで、おそらく全上映時間中の五割以上、下手すれば七割近くの時間はずっと彼女のアップの顔が映っています。これがアイドル映画なら、それでいいんです。アイドル映画の場合、客はそのアイドルを観たくて劇場に足を運ぶんですからそれでいい。でも、この手の映画の場合はそういうものじゃないはずです。そのうえ、ジュリア・ロバーツはそこまで汚れたりするわけでもなく、とにかく私が私がという感じのキャラクターで、もうこれはきついです。

 そもそもぼくはこの主人公がかなり初めの方から嫌いでした。事故に遭って訴訟を起こし、でも裁判には負けてしまう。仕事もないので、裁判で知り合った弁護士事務所に転がり込む、というくだりで、この女がもう大嫌いになります。この女は勝手に弁護士事務所に上がり込み、法律の知識もないのに強引にも、自分を雇えと言い出します。そんなことで雇ってもらったくせに、「事務所の皆が君を煙たがっている。そのファッションも皆には嫌われているみたいだよ」と上司に言われても、「あたしはあたしですから」みたいなことを言いやがるんです。もうぼくはこいつが大嫌いです。強引に押しかけて雇ってもらっている立場で、なんという態度でしょうか。

 ネット上で実話を解説しているものを読むと、「最初の事故の裁判は弁護士の不手際で負けてしまった」みたいに書いてあるんですが、この映画では別に弁護士がどうのこうのじゃなくて、女の態度が陪審員の不評を買ったみたいな描かれ方です。もしも弁護士の不手際で負けたなら、ああいう態度で職場にいるのもまだわからないでもないですが、この映画の描き方ではどう考えても痛い女です。こういう映画では主人公が好きになれないときついんですが、好感度ゼロです。

 それでもまあなんとか大企業の実態を暴き初め、一応頑張り出すんですが、このときもまたむかつかせてくれます。実態を調査するために会社を一週間欠勤するんですが、こいつはどうやらそのための連絡を一切入れていなかったらしく、上司に怒られます。普通の常識があれば、「すみません、実は…」と詫びを入れるのが筋であり、そもそも欠勤の連絡を入れるなんて常識中の常識です。ところがこいつはそんな自分の過失などおかまいなしで、逆ギレし出すんです。その後クビを宣告されるんですが、その実態調査が大変な事実を示すものであったとわかり、上司が家に訪ねてきます。まあ要するに、あの調査の件を聞きたい、クビは撤回しよう、という話です。するとあろうことかこいつは、上司に対する罵倒を行い、そのうえあろうことか昇給まで要求するのです。一体どういう精神構造の持ち主なのでしょうか。これは本当に実話に忠実なのでしょうか。実在のエリン・ブロコビッチは本当にこういう感じだったのでしょうか。悪の大企業に立ち向かうはずのこいつこそ、相当なヤクザ女です。

 でねえ、さらにこいつに怒りたいんですけども、調査が進んでいって、裁判への準備がどんどん整っていく状況になるんですね。すると上司が、公害訴訟のプロであるという弁護士を事務所に呼び、応援を要請するんです。別に上司は何も間違っていないじゃないですか。それをねえ、この女はねえ、「何よ、いきなり横乗りしちゃってさ!」みたいにまた怒り出すんです。もう大変に面倒くさい女です。ぼくはこの上司が不憫でなりませんでした。公害訴訟をする上で協力するって言っているんだからいいじゃないですか。この女がなんで怒っているかと言えば要するに、自分はずっと地元に足を運んで調査し続けてきたのよ、これは私のヤマなのよみたいな話ですよ。なんでそうやって自分の手柄にしたがるのでしょうか、目的は一体どこにあるのでしょうか。ジョディ・フォスターの『コンタクト』でも感じましたよ。おまえの目的は何やねん、と言いたくなるんです。問題を解決することなんか、それともおまえが手柄立てたいんかと。ほいでこの場合は、地元民を救うことが目的になるのだからおまえの手柄とかはとりあえずどうでもええやんけということなんです。しかもこれがまたジュリア接待のにおいのするところで、結局その新しく来た敏腕弁護士は無能だったみたいな感じになるんです。あのさあ、大企業と戦って勝利しました、やったね、って話じゃねえの? これじゃあ結局、仲間内でいちばん優秀だったのはジュリアだったのよって話でしかないんですよ。

 大企業のプレッシャーみたいなのも、めちゃめちゃ薄いんです。脅しの電話を一本だけ入れたけど、それ以上何もしてこないし。いや、別に何もしないから悪いんじゃない。むしろこの映画をもっと引き延ばされてもたまりません。ただ、大企業のプレッシャーがあるんだなあ、という雰囲気なり何なりはもっともっと必要ですよ。だから『セルピコ』を観ろって。あれはアル・パチーノ、フランク・セルピコの孤独さ、周囲からの孤立感がすごくよく出ていますよ。だからその戦いに対しても、頑張れという気分になるんです。このジュリア・ロバーツのエリン・ブロコビッチは、ぜんぜん応援できないです。

 実際のブロコビッチがどういう人なのか、どういう事実があったのかは知りません。あくまでもぼくはこの映画に怒っているんです。それで言えば、どうしてこの女がこんなにもこの公害事件に熱くなったのかもよくわからないんです。とりあえず仕事が欲しい、なんでもやるわ、みたいなやつだったんですよ、最初は。独身で三人の子を養うための就職口がほしかっただけのはずなんです。なんでそんなにこの事件に熱くなったのか。こいつにとってこの事件がどれだけ大事なのか、ぜんぜん見えてこないんです。いや、わかりますよ。子育てのために雇ってもらわなくちゃならず、そのためには仕事で活躍しなきゃ行けない、そのうえでこの事件は絶好のヤマだ、とこの女は考えているのでしょう。だとすれば、敏腕弁護士登場に怒ったのも筋が通ります、手柄を立てたいのもわかる。でもさあ、だとするとこいつにとってのこの公害事件って、何? 『セルピコ』はわかるじゃないですか、あれはもうセルピコがどうしてあれだけ頑張るのか、ちゃんと最初から最後まで筋が通ってますよ。でも、哀しいかなこいつの場合、結局公害事件に大した思い入れがあるように見えないんですよ、いくら頑張ったところで。

 いちばんの証拠は、最後の特別ボーナスのくだりですよね。事件を解決に導いたってことで、特別に大金のボーナスをもらって映画が終わるんですが、じゃあ結局金なの? その金が欲しくてずっと頑張っていたってことなの? それってすごく哀しい、悪い意味で哀しい結論じゃないですか。いいじゃないですか、最初は数ある仕事のひとつでしかなかった公害事件をなんとか解決に導いて、金ではない、人々との繋がりだのなんだのを喜んでハッピーで、もうそれでいいですよ、こんなことなら。裁判に勝った後、原告の人の一人に報告しに行くんですが(裁判のくだりは実にあっさりしていました)、このときも多額の賠償金を得たわよ、よかったわねって話なんです。なんでそんなに金を得たことばかりで喜ぶ必要があるのか。いやもちろん、金を得たことは大事ですよ、そのための裁判だったわけですよ。でもさあ、それとは違う何かってものを描いてこその物語的厚みじゃねえの? 裁判で勝ちました、金をもらいました、自分も大金のボーナスを得ました、めでたしめでたし、ってなんだそりゃ! 本当にそれでいいのか!

 家族のくだりもねえ、なんか、どうでもいいやって感じですよ、だから。あとこれは文化的な問題、それこそ何でも明示、主張しなくちいけないお国柄なのかもしれないけど、この女はことあるごとに、「自分は子供を人に預けて働いているのだ」みたいなことを上司に抜かすんです。いやそれはさあ、わかるよ、わかるけど、それを言わないから健気さって生まれるんじゃねえの? それを言わずに頑張る姿が感動を呼ぶんじゃねえの? そういうところでも、この女をどうしても好きになれない。ここなんですよね。「私は頑張っているのよ!」って言っちゃ駄目だよってことですよ。それを言わずに頑張る姿を見て観客は、「俺はおまえの頑張りを知っているぞ」と共感するんですよ、セルピコはそうですよ。こいつは自分でいかに頑張っているかを言いまくるから、「はあ、そうですね、とてもよく頑張っていますよね」くらいにしか思えない。それで、最後は結局、金。

 もう今回はずっと怒っているだけの文章ですが、これを観て世の人々は何か感動したり何なりするんでしょうか。あの様子を見て、そしてあの結論を導かれて。ぼくにはもうさっぱりわからない。そんな人に言えることはただひとつですよ。『セルピコ』を観やがれ!
[PR]
ある意味で最も優れたアメリカン・ニューシネマでしょう。
d0151584_17405395.jpg

 台風が日本列島に上陸うんぬん。ところで、インフルエンザが流行っていると言いますけれども、今回の台風でインフルエンザウイルスが一挙に吹き飛んだりはしないものなのでしょうか。それと、台風のニウス映像などでよく、傘を吹き飛ばされてひっくり返ったりしているものがありますが、「一切吹き飛ばされない傘」というのは開発されないのでしょうか。傘は古来進化していない物品とされますが、ぼくはここで傘会社各社に対し、「その辺をうまくあれするといい感じなんじゃないかな! 革命的ってのはつまりそういうことじゃないのか!」と声を大にして言いたいです。  
 
 素朴な疑問アンド漠然とした妄言で始まりましたが、映画の内容と今の前置きは一切何も関係ありません。その辺のわりきりがドライで素敵、ともっぱら評判です。「もっぱら」という日本語は面白いですね。「も」の後に「っ」があって、「ぱ」と破裂音が続き、「ぱ」となんだか相性のよい「ら」で終わる言語センスは、なかなかのものです。

『セルピコ』はアル・パチーノ主演の、警察の腐敗に立ち向かう刑事の話です。タイトルの『セルピコ』とは、実在したその刑事の名前です。警察官という仕事に誇りと希望を持って職に就いたセルピコでしたが、いざ内部に入ると犯罪者に賄賂をもらって馴れ合いを続けているような連中ばかり。上層部に訴えても黙殺され、むしろ警察の中でセルピコは孤立を深めていきます。下手を踏めば身内に殺されかねぬほどの孤立の中にありながらも、決して己を曲げることなく腐敗を世に告発した、なんとも格好良すぎる男の話です。

昔から人は「朱に交われば赤くなる」とされ、「郷に入っては郷に従え」など命令形の諺もあるくらいですが、セルピコは一切妥協しません。これは実は、最も優れたアメリカン・ニューシネマの形なのかもしれない、と思いました。

 アメリカン・ニューシネマの核心をぼくなりに解釈し、一言で言うなら、、「体制への反抗」です。物語としての筋もさりながら、そもそもニューシネマは古きハリウッド体制への反抗から始まったのでした。ノワールにおいても暴力が描かれることがなく、セックス描写などもってのほかだとするヘイズコードがあり、なおかつ悪名高き「赤狩り」によって、反体制的な映画は御法度とされました。「反体制的」というのは何も政治性の強いものばかりとは限りません。社会不安、社会問題を描く内容の映画、なんてものをいざつくれば、それはアメリカの社会状況を悪く言っているのだ、つまりは資本主義社会批判だ、容共的だ、などということにされるため、家族で安心して見られるハッピーエンドの物語ばかりがつくられるようになったのです(ん? 背景事情は大きく異なるとはいえ、何かにつけ規制著しい昨今の日本に似ていませんか?)。

 とはいえ、世の中では映画のような幸せな出来事ばかりではありません。米ソの緊張が高まり、ヴェトナムは惨禍の現場となり、人種差別に立ち上がったマルコムXが殺され、やがてはキング牧師も殺される。若者たちは革命を歌い、ヒッピーとなって既存の価値観にノーを突きつけました。アメリカン・ニューシネマは混沌たる社会状況の申し子だったのです。

『俺たちに明日はない』『イージー★ライダー』『明日に向かって撃て!』などの名作が陸続と生まれました。後には『カッコーの巣の上で』『タクシードライバー』などこれまた大変有名なニューシネマ代表作がつくられます。これらの作品は自由を謳歌しつつも最後には悲劇的な終わりを迎えたり、日々の生活の鬱屈を凶暴な形でぶちまけたりする作品ばかりです。ニューシネマはかつてのハリウッドとはまさに真逆でした。夢と希望に溢れる世の中、そんなもんは嘘だろ。まさに思春期の反抗期そのもののうねりが、アメリカ映画で花開いたのです(『卒業』『M★A★S★H』など先に挙げたものと別種の作品もありますが、ここでは割愛します)。

 ですが、思春期の反抗期がそうであるように、このニューシネマは致命的な弱点を抱えていました(それは当時革命を謳った多くの若者に当てはまることではないでしょうか)。すなわち、「じゃあ、具体的にどうするんだ?」という問いへの答えがないのです。後世、尾崎豊は盗んだバイクで走り出しますが、どこに行けばいいのかについてはよくわかっていなかったのです。それと同じで、思春期の煩悶の正体はまさに、「反抗したい! かといってどうすりゃいいかはわからない!」というものなのです。

 さて、ぜんぜん『セルピコ』に入れませんが、ようやくこれで話が整いました。つまり、『セルピコ』は、「体制への反抗」を行いながら、「じゃあどうすればいいのか」をきちんと示しているのです。これが「最も優れたアメリカン・ニューシネマ」と書いた理由です。制服勤務から私服警官となったセルピコはひげをもじゃもじゃと生やして髪を伸ばし、だぶだぶの服を着て、誰がどう見てもいかがわしいヒッピー姿になります。このヒッピー姿は一目瞭然の、体制への反抗ユニフォーム。犯罪の現場にうまく溶け込むため、と上司には話しますが、彼は体制の中にありながら、体制に決して馴染もうとしないのです。

 そして、この誰よりもいかがわしいヒッピーセルピコは、実は誰よりも腐敗、汚職を憎む男であって、周囲からの圧力、反目にもめげずひたすら突き進みます。最も体制から遠い格好の男が、体制の暗部を突き崩していくのです。おまえらが正義だというなら、俺はおまえらと一緒の格好などできない。だって、おまえらは正義じゃないから。そのメッセージを、セルピコは全身で表現しています。セルピコは本人の希望で移ることもありますが、次から次へと部署を移されます。要するに警察の中では鼻つまみ者なのです。誰よりも正義である、このセルピコがです。

 映画における警察では賄賂を受け取ることが常習化しており、これを受け取ることが一種の仲間としてのしるしとなっています。セルピコは頑として受け取りません。一度でも受け取ればもう何を言っても意味がないことを、セルピコはわかっているからです。セルピコのメッセージは、この上ないほどシンプルかつ、実に当たり前なものです。
「正しくないことをするな。正しいと思うことを、周りになんと言われても貫け」
 これがいかに困難なことか!
 体制への反抗を叫んだアメリカン・ニューシネマ、そして革命を叫ぶ若者が進むべき道は、実は最も単純で、最も困難な道だったのです。結果として、人々は貫けずに終わったのです。「周りになんと言われても貫く」なんて、流行にかぶれた人々には土台無理な話だったのです。結局ほとんどの人々は時代に流され、いつまでも頑張っている人は「まだそんなことやってんのかよ」と白い目で見られるわけです。「慣れちまえばこっちもいいもんだよ」と、いつしか体制に染まった顔で笑われるのです。
 セルピコは、それどころではありませんでした。命の危険すらあったわけです。でも、たとえそうでも、よくないことはよくない! と愚直に叫び続け、結果、腐敗を世に公表することができました。これは最高のアメリカン・ニューシネマのひとつでしょう。

 メッセージを叫ぶこと、あるいは何か行動することが難しいのではないんです、たぶん。
叫び続けること、行動し続けることが、いちばん難しいのです、きっと。
[PR]
『ロッキー』が公開された後では、そして『レスラー』を観ている今となってはもう…。
d0151584_17493967.jpg

 赤井英和主演のボクシング映画です。赤井英和というとぼくの中では野島伸司ドラマ『人間・失格 たとえば僕が死んだら』のイメージが強いです。というか、あのドラマと「ありさんマークの引越社」と「白木屋」のイメージしかないです。『人間・失格』の父親の演技は非常に素晴らしかったですね。

 さて、ボクシング映画といえばもちろん『ロッキー』ですが、ぼくは実は『ロッキー』は第一作しか観ていません。なんでも聞くところによると2ではロッキーがチャンピオンになってしまうというじゃないですか。それだと、一作目がもともと持っていた豊かさって、絶対に削られてしまうんです。これは『ランボー』でもそうでした。だからどうも2以降には食指が動かないのです。

『ロッキー』はある実話をもとに、スタローン自身によって脚本が書かれた話ですが、その実話が大好きです。有名な話ですが、知らない人のために書きましょう。ボクシングのプロモーターであるドン・キングが、無敵の世界チャンピオンであるモハメド・アリの対戦相手として、まったくの無名ボクサー、チャック・ウェプナーを指名しました。ウェプナーは当時三十六歳、優れた対戦経歴を残しているわけでもなく、当然誰もがアリの圧勝であると思っていました。アリの噛ませ犬としか思われていなかったのです。ところがいざ戦いのリングに上がると、ウェプナーはアリに対して大善戦を見せました。そして9ラウンド目には、ダウンさえ奪ったのです。15ラウンドを戦い、結局は負けてしまったのですが、それより何より、ウェプナーがノックアウトされることなく、チャンピオンのモハメド・アリ相手に最後まで戦い抜いたことが劇的で、これがスタローンを突き動かしたわけです。

 ミッキー・ローク主演の『レスラー』もそうでしたけど、勝負事とは関係ない、勝負を超えた場所まで描くと、物語はぐっと熱くなります。勝ちとか負けとかじゃなくて、戦うことそれ自体の尊さ。『ロッキー』では、スタローンがぼこぼこになりながら、立ち上がって戦おうとします。セコンドのおやじは、"Stay down!! Stay down!!"と叫びますが、とにかく倒れるわけにはいかないんだ、とロッキーは立ち上がります。負けたくないから、じゃないんです。戦い続けること、がロッキーには大切だったのです。実際、試合前のロッキーは相手のアポロを前にして、「すごいなあ」みたいな表情を見せています。意地でも倒してやる、という感じじゃないんです。とにかく、勝とうが負けようが、倒れるわけにはいかないんだ。その心意気があの『ロッキー』を傑作にしているのです。また『レスラー』においては、プロレスという、展開自体が決まっているリングの上へとランディ・ラム・ロビンソンは向かっていきました。そこには勝ち負けなんてなかったのです。あの場所で生きること、たとえ死の危険があるにせよ、それでもあの場所で生きること。そこに『レスラー』の熱さがあります。

 さて、なかなか『どついたるねん』の話に入れませんが、そうした傑作を観たあとで観ると、うーん、なんですね。当然作り手も『ロッキー』を意識せざるを得なかったでしょうが、あのような熱さがないんです。

 赤井英和って人がもともとボクサーで、だからこそこの映画のような「返り咲き」を描くには恰好の人物だったと思うんです。赤井が引退するきっかけとなった試合の相手、大和田正春との試合が冒頭に描かれており、現実の赤井同様に映画の主人公もまた、引退せざるを得ない怪我を負ってしまう。現実と虚構が入り交じっており、だからこそ一人のボクサーの「返り咲き」話として、説得力を生めるお膳立てがあったはずなんです。『レスラー』のランディは心臓を悪くし、もう一度戦えば死ぬかもしれないとわかりつつ、リングへ向かった。今回の映画でもそこを活かせたはずなんです。ところが、そこはぜんぜん浮き上がってこないんです。設定として引っ張ってはいるし、幼なじみの相良晴子もその点を心配してみたりはするんですが、ぜんぜん活かされていない。死ぬかもしれない、でも戦わざるを得ないんだ、という熱さがぜんぜんないんですよ。

 赤井の対戦相手となるのは自分のかつての教え子なんですが、これもなあ、どうしてもっと活かせなかったんでしょうか。こいつとの交流もないし、軋轢もないんですよ。気づいたらいなくなってた、みたいな感じなんです。気づいたら他のジムに行っていて、対戦相手になってた、みたいな。もっとそこは決別を描けよ絶対! 美川憲一なんて出して、映画の世界観をぶち壊してしまうくらいなら、あれは別にさらっと描いていいから、その分この教え子との悶着に時間を割きなよ! そうすれば最後の戦いがもっともっと熱くなるんですよ。かつての教え子でありながらもその教えを否定し、自分に引退を告げようとしてくる若きボクサー、意地だけでそれに立ち向かっていく赤井英和という構図をつくれば、最後のシーンはもっともっともっとよくなったのに。教え子を演じたのは大和武士という人で、観終えてから知ったんですが、この人はミドル級のチャンピオンだったらしいです。本物を使ってリアリティを出そうとしたんでしょうが、映画の中だけで観れば、この人は本当に気弱そうな感じで、ぜんぜん強そうには見えません。いや、それはそれでいいんです。でも、せめて赤井英和を脅かすような存在として見えないといけないんじゃないでしょうか。赤井英和は、「なんや、あんな弱っちいやつ」みたいに馬鹿にするんですけど、観客としても「そうだな、確かに弱そうだな」みたいに思ってしまいます。そうなると、戦いが白熱しないですよ。大和武士の強さの描写、もしくは、赤井英和の弱さの描写、そこを描かない限り、最後の試合が感動的なものにはならないって。

 街並みの風合いとかはいいんですよ。だからこれ、ATGの映画ならもっとよかったんじゃないかなあと思います。撮り方がねえ、テレビドラマっぽいんですよ。とりわけ残念なのは相良晴子で、あの汚い大阪の下町にいるには上品すぎる。わんぱくな感じで演じているんでしょうけれど、他の関西出身の役者の中で、彼女の話す大阪弁は下手なんです。阪本監督も大阪出身らしいんですが、この大阪弁でよしとしたんでしょうか。ところどころ、標準語のイントネーションになっているんです。そして、これは演出のまずいところで終盤、セコンドにいる彼女が天に向かって祈る、みたいなワンカットを入れるんです。入れるだけならまだしも「神様…」云々と言わせやがるんです。なんとか盛り上げなくちゃ行けないはずの最後の試合で、何なんですかあれは。タリア・シャリアがそんなことしたか? マリサ・トメイがやったか? するはずがないよ。そういうの入れちゃ駄目だからだよ! 

 これはねえ、設定自体は『レスラー』なんです。『レスラー』よりもずっと早く、なおかつ『ロッキー』ともまったく違うものとしてつくれた素材なんです。そういう優れた作品を観た後だと、どうしても厳しくなってしまいます。『ロッキー』の十年以上後で、この作品を観た当時の観客は、果たして何を思ったのでしょうか。
[PR]
本当は予備知識まったくなしで観るのがいい。それは百も承知なんですけど。 

 
d0151584_1745357.jpg
相変わらずぼくのアイチューンのヘビロテは宇多丸のシネマハスラーで、もうひとつは町山智浩の映画特電です。この二人の映画評論ばかり最近は聴いています。雑誌は読まないたちなので、新作映画の評価となると、主にこの二人に頼っています。他にも信頼している評論家はいますが、次々と新作を語る人となるとこの二人になってしまう。映画評論の本とかも書店で探すんですが、どうも昔の、それもぼくの映画観(えいがみ)レベルではまだ入り込めぬような、渋い映画ばかりを取り上げるものが多いんです。新作を取り上げるよい評論家を知っていたら、どうかおせーてください。

 さて、その二人が激推しして、ずっと観たかった『ホット・ファズ』です。以前、メル・ギブソンの『アポカリプト』を、「娯楽映画としては完璧である」と絶賛したぼくですが、それと同じくらいの大傑作でした。まだ二つとも観ていない人は、ぜひこの二作を一緒にレンタルし、連続で観ましょう。「映画はやっぱり面白い!」と素直に思えるはずです。思えない場合、あなたは嗅覚及び味覚が壊れている可能性があるので、一刻も早く病院に行きなさいこのばかたれ。

 すごく仕事のできる警察官が、それまで勤務していたロンドンから田舎へと異動させられます。その田舎でも持ち前の職務精神を発揮し、ばりばり働くのですが、同僚は皆たるみきっており、ぜんぜん仕事甲斐のない状況になってしまいます。何しろその町はすごく平和で、そんなにばりばり働いても仕方ないじゃないか、みたいな雰囲気なのです。そんな折り、とあるカップルが殺されます。主人公は現場の状況から殺人の可能性を疑いますが、周囲は皆事故だと決めつけて動こうとしません。その後も似たような出来事が起こり、主人公は捜査を進めるのですが、誰も彼も事故に過ぎないと言って取り合いません。この田舎町はすごく平和で、事件なんか起こる場所じゃない、と皆が口を揃えて言うのです。ところが、ついに主人公が殺人が行われる場面に遭遇し…。

 こう書くとまるでミステリー。いや確かにミステリー。しかし、実際観ればわかりますけれど、映画の風合いはぜんぜんミステリーっぽくなくて、むしろコメディ色ばりばりです。何度も声を上げて笑ってしまいました。それがこの映画のすごいところです。観ていない人にも配慮して書き続ける良心的なぼくですから、あまり詳しくは述べませんが、コメディとミステリーをここまできちっとミックスした映画が他にあったでしょうか。最も素晴らしいのは、コメディとして笑いになっていた部分の数々が、ミステリーの伏線として生きてくるところです。田舎の気の抜けた登場人物たちの言動、それ自体が笑わせるんですけれども、なるほどそれにはきちんと意味があったのです。

 ネタバレをある程度しないと書けないので、一応警告します。はい、警告しました。

 一応ほのめかす程度に書いておくと、この手の設定はSFにはよく見られるものです。星新一も似たようなものを描いていますし、ぼくの知っているのでいちばん近いのは『銀河鉄道999』の「ざんげの国」です。ああ、これでわかる人にはわかってしまいました。コメディやアクションの味付けはもちろんまったく違いますが、設定としては一緒です。

 アクションシーンも見事です。一方で、ここでもすごい。すごくきちっとしたアクションでありながら、そこに笑いがある。主人公がショットガンを持ったババアを跳び蹴りするシーンは大爆笑です。いまだかつて、ババアが跳び蹴りを食らう映画があったでしょうか。アクションのクオリティは非常に高く、サスペンスがあり、謎解き要素もあり、それでいて全編に渡って笑いを忘れない。娯楽映画として、非の打ち所がないのです。

 主人公とデブのぼんくらの対比もお見事です。あのぼんくらが格好いいんです。主人公のサイモン・ペグがずっと格好いいんですが、それに比してあのぼんくらニック・フロストはずっと格好悪い。でも、あんなにも格好悪いぼんくらが、クライマックスでは大活躍します。これがまたあいくるしい顔をしているんです。クールで職務に忠実な主人公と、映画の警官に憧れながら何もできずにぶくぶく太っているアホのぼんくら、このコンビが最高なんですが、このアホのぼんくらが光り輝くんです。このニック・フロストの働きはこの映画でものすんごく大きいです。サイモン・ペグだけだったら、ここまで面白くはなっていません。彼だけだと、この映画のコメディ要素が大幅に削られ、そうなるとミステリーとアクションの話になってしまう。この映画におけるコメディの割合、その調合ぶりがあっぱれ。言うことなしです。

 映画にせよ何にせよ、期待値を上げすぎないほうがいいんです。というか、期待値って絶対低いほうがいいんです。これはもう、あらゆることに当てはまると言っていいでしょう。なのですが、賞賛すべきものにはやはり賛辞を送らねばなりません。それに、おそらくこの映画を観て、「面白くない」ということはないんじゃないでしょうか。少なくとも、退屈させられることはないと思います。これは保証できます。えっ! 観たけど面白くなかったですって! 『アポカリプト』も駄目だったって! そういう人はもう、なんかうんこ臭いので、どうかこれ以上近づかないでください。 
[PR]
人が人を殺そうとする生々しさ、その点において韓国映画はぶっちぎりです。
d0151584_17501192.jpg

 韓国映画自体をあまり観ていないのですけれども、実際よさそうなものを観てみると、かなりアベレージが高いです。沢山観るとあれれなものもそりゃあるでしょうけど、韓国ノワールで評判がいいものに裏切られたことがないです。世間でも評判なのでしょうか、新文芸坐では平日午前中の回だというのに結構な入り様で、席は半数近く埋まっていたようでした。新文芸坐はいいですね。特に今回に関しては、予告編なしでいきなり本編が始まり、うるさいマナーCMもなかった。マナーCMはマナーを守れない奴がいるから流すものなのですが、新文芸坐に来る人たちというのはちゃんと映画が好きな人たちであり、パープーはほとんどいないのであり、そうなるとマナーCMも要らないわけです。

 さて、『チェイサー』ですが、実際に起きた連続殺人事件をもとに起草されたらしいです。その点でポン・ジュノ監督『殺人の追憶』と比較するレビウもあるようですが、ぼくとしてはあれよりも上です。主人公は元警察のデリヘル屋で、店の女を危ない客のもとに派遣してしまったことから話は始まります。主人公がやっぱりいい感じですねえ。パク・チャヌク監督『オールドボーイ』のチェ・ミンシクもよかったですが、今回のキム・ユンソク。キム・“甲斐よしひろと桑田佳祐を足して二で割ったような男”・ユンソクが絶品でした。このちょっとやさぐれたおっさんのチョイスが素晴らしいです。また子役のキム・ユジョン。キム・“宮崎あおいに似てるけどこりゃ将来的には宮崎あおいより可愛くなるぜ間違いなく”・ユジョンもいいんですねえ。『レオン』が好きな理由は、やっぱりあのジャン・レノとナタリー・ポートマンのコンビに負うところが大きくて、おっさんと少女という組み合わせにぼくは弱いです。しかも可愛がっているわけではなく、「さて、どうしたものか。どう接していけばよいのやら」となるのがよくて、この映画でも主人公が子供に飯を食わせているところなどが非常にいい感じなんです。互いに一緒にいたいわけではぜんぜんないけれど、少女は少女で男を頼らざるを得ず、男も男で面倒を見たくはないんだけども見てやらざるを得ない、見てやらずにはおけない、というこの間合いが好きなのです。このあたり、ぼくという人間の柔らかい部分が自己分析できそうですが、まあそれは別の機会に。

 少女の母親はデリヘル嬢をやっているのですが、彼女が殺人犯のもとに派遣されてしまう女性です。おっさんが少女といなくちゃいけない理由はまさに、この母親がいなくなってしまうからです。犯人に監禁されて、殺されかけてしまうわけです。犯人は主人公と偶然出会ってしまって捕まり、かなり早い段階で警察に逮捕されます(正確には「逮捕」ではないのかもしれませんが)。つまり、「チェイサー」というタイトルではありますが、話の大部分は犯人追跡ものではなく、母親を捜索する話なのです。「証拠が見つからない限り、翌日には釈放しなくてはならない」というタイムリミットが設定されており、「それまでに母親を見つけないとやばいことになる」というわけで主人公ならびに警察が頑張るわけです。

 悪い奴だとわかっているのに釈放しなくてはならない、というので言えば『ダーティハリー』に通じていますね。あの映画ではミランダ権(容疑者の人権を保護する法律)が鍵になっていて、それが守られなかったために犯人は釈放、そして次の事件が、という展開になります。今回はそれとは違いますが、手法的には同じです。観客は捕まっているのが悪い奴だとわかっているので、そいつが法律に守られるのを見ると、すごく嫌な気持ちになるわけです。そして、「それ見たことか」という展開に繋がるのです。これは学校ドラマの「いじめ」でも使われる手法ですね。いじめをやっている奴が先生の前ではいい子ちゃんになって、いじめが気づかれずに済んでしまうような嫌さです。考えてみるに、これは「作劇」というものの特性を非常に活かした方法です。当事者たちは知らないのに、劇を見る観客はすべてを否応なく知らされており、でも観客は当然手出しができず、ただ嫌な流れを黙って観ているしかないわけです。

 そして観客は当然展開を予測します。「きっとタイムリミットに間に合わないだろうな」と。犯人は釈放されてしまうだろうなと。そして案の定、犯人が出てきてしまい…とここからは実際に観て確認して欲しいところです。終盤、韓国映画のえげつなさがついに爆発します。

『復讐者に憐れみを』のときにも書きましたが、韓国映画の暴力描写は本当に怖いです。一言で言えば、「鈍器の怖さ」ですね。アメリカ映画ではやっぱり銃が主役じゃないですか。アジアであっても香港ノワールは銃が出てくるし、香港の他にタイなんかでも武術アクションを使うことでアメリカ映画に張り合っている。ところが韓国には銃がない。武術アクションは中国、香港に任せている。だからこそ、日常の犯罪において最もリアルな「鈍器」が最大限に活かされます。人が人を殺そうとしている、ときの生々しさにおいて、韓国映画に勝てるものはないんじゃないでしょうか、少なくともアメリカ映画はその点において、絶対に勝てません。ヨーロッパも無理でしょう。この『チェイサー』を観て、ますますその印象が強くなりました。序盤にあるあの浴室のシーンの嫌さは本当にたまりません。クライマックスもしかりです。

 かなり褒めまくっています。相当な出来だと思います。主人公と犯人の出会いが偶然すぎる、とかはまあいいじゃないですか。そこは別にいいです。一カ所だけ文句をつけたい場面があります。警察が出てくるワンカットです。サスペンス映画っていうのは、全員が全員ベストを尽くしていると濃度が生まれます。皆が皆、それぞれの事情を背景にベストを尽くしているとそこに逼迫感が生まれるし、その分、ベストを尽くしたにもかかわらず…という悲哀、虚しさも生まれます。別に正しい努力でなくてもいいんです。そいつがそいつなりに、間違ってはいるけれどそうせざるを得ない、という部分でベストを尽くしていることが大事です。主人公の、警察署内における暴走はその一例です。ただ、警察が出てくるワンカットがその分残念。この手の映画だと、「一生懸命な主人公と対比される警察の無能」みたいなのがあって、『グエムル』に関してはそこが残念なところでもあって、
それでもこの映画の警察は頑張っていた。でも、あのワンカットでちょっと興が冷めます。あのワンカットは要らない。ベストの熱量が間違いなく減じます。
 
終盤については詳細な言及を避けますが、ほのめかしておくと、大まかに言って『グエムル』と同じ方向です。これが韓国映画の怖いところその二です。これだけ言えば大体わかるでしょうか。これ以上は何も言いません。

 最後に一つ。
 まあ、この映画などを観て、今の日本映画の駄目さと比較するのはもういいでしょう。観るだけで日本映画がいかに駄目かわかるわけですから。ただ、それとはちょっと違う日本映画、日本映画界の駄目さを指摘する必要が出てしまいました。というのも、この映画のあるシーン、非常に重要な場面なんですけど、日本公開用にちょっと変えているんです。だからその、いわゆるその、残虐描写みたいなことです。つまりは生々しさを消しているわけです。それでも十分鑑賞に堪えるわけで、作品自体がすごくいいので、別にあの演出それ自体を駄目だとは言いません(あれ? あれれ? とは思うんですけど)。ただ、これは演出的な歪曲です。しかもやってはいけない歪曲なんです。生々しさを殺してどうするんですか。あのね、あのね、この映画の暴力シーンは、何度も書いているとおり、本当に嫌なんです。でも、嫌だからこそ意味があるんです。人が人を殺そうとしている、そのことの嫌さがもうえげつなく描かれている。監督だってそこにこだわっているわけです。嫌なものをちゃんと嫌なものとして描く意味があるんです。それを変えるってのはどういうことなのか。残虐描写は日本では駄目だとされている。だから変える。あるいは規制に引っかかる。だから変える。もうそれだけですよ。そこに何の意思もないですよ。日本映画の駄目さ、は、作り手以外にも及んでいるんですね。

 今日も長くなりました。一見の価値ありです。
[PR]
←menu