「ほっ」と。キャンペーン

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ある種の人格を問うてくる映画です。 
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 豪華キャストの共演、というのは映画に話題性を持たせるための常套手段。最近の邦画では「前世紀ボーイ」がその代表でしたけれど、この『ぐるりのこと』は話題性ではなく、その実力においてなんとも豪華なキャストでした。映画好きからすると、これが豪華キャストってものだと言いたくなります。ちょい役やほとんどカメオ出演のような形で、贅沢な役者陣が揃っていました。地味な映画をもり立てる上で、嬉しいキャスティングでした。

 木村多江とリリー・フランキー扮する夫婦が主役で、脇を固めるのは超豪華。倍賞美津子、寺島進を筆頭に、寺田農、柄本明、八嶋智人、安藤玉恵、温水洋一などが出ており、カメオ的な出演でも斉藤洋介、光石研、加瀬亮、田中要次、佐藤二朗、新井浩文、田辺誠一ほか、横山めぐみや木村祐一など、今の日本映画を支えている役者陣が名を連ねています。中でもぼくは安藤玉恵という人が好きなんです。この人が出てくるとちょっとウキウキする。別に取り立てて美人ではないんです。でも、この人の存在感の濃淡加減が好きで、『紀子の食卓』で「廃人五号さん」として出てきたとき以来惚れております。「下層社会のやさぐれ女」をやらせたら今、おそらく右に出る人はいないでしょう。ぼくが仮に映画監督をやるとしたら、何にせよ出てもらいたいと夢見ております。他にも一人一人言及したいところですが、きりがないのでやめておきます。

 さて、『ぐるりのこと』。すこぶる評判がよい様子で、宇多丸は昨年の邦画ベストワンだと言っておりました。一組の夫婦の十年を映した映画で、木村多江にはかなりはまり役だったと思います。木村多江は「ザ・薄幸顔美人」です。この役柄を演ずるにはいちばんの女優だったでしょう。中身に言及していくと、まず序盤で見せられる長回しが特徴的です。映画にせよ何にせよ、「つかみ」というものがありますが、この映画のつかみはあの長回しでした。主人公の夫婦の夜中の語らいなのですが、定点で押さえたあのやりとりだけで、夫婦それぞれの人物性を描き出していました。この映画の核となる部分を説明的でなく描き出している点は非常に素晴らしかった。園子温の密室芸がハンディカムを用いた生々しさに依っていくのに対し、この映画は定点カメラで捉えており、小津由来の伝統的な方法を用いて映し出します。つかみに限らず、この映画では密室を定点で捉えるシーンが数多く出てきます。三脚をセットし、一点から状況を捉えるという最も原初的な撮影法は、密室の長回しにおいてその強さを発揮するのだとあらためて感じました。この辺のことを掘り下げて話したい気もしますが、進めなくなるのでやめておきます。

 木村多江扮する妻は、(おそらく)身ごもった我が子の死をきっかけとして精神を疲弊させていきます(おそらくと書いたのは、あくまでも暗示的なものに留まるからです)。数年のスパンをとって映画は進みますが、時間が経るにつれてどんどん鬱症状がひどくなります。そしてあるとき、ある出来事をきっかけに爆発してしまうのですが、夫リリーはそれを優しく包み込むわけです。

 今まで結構べた褒めトーンで来たのですが、実を言うとこの映画、ぼくは入り込めませんでした。いい映画だと思いますし、これでぐっと来る気持ちはわかるし、状況が違えばぼくももっと入り込めると思いますが、今のぼくではまだ無理のようです。映画をけなしているのではまったくありません。良質だと思うし、あくまでもぼくの感受性の問題です。

 ぼくはあの木村多江、妻にねえ、入り込めなかったんですねえ。もっと言うと、リリーにも今ひとつ感情移入できず、結局のところこの夫妻のことがそれほど好きになれなかったんです。それが決定的だったのは先ほど述べた妻の感情爆発シーンです。これを言うと、ただでさえ好感度ゼロのぼくがいよいよ人格を疑われそうで、いささかためらいもないではないではないではないのですが、ええいままよ、書いてやる。妻が「どうしていいかわからないの!」と叫び、子供のように泣きじゃくって地団駄を踏み、感情を爆発させます。リリーは彼女を抱きかかえてなだめるのであり、映画としても盛り上がりの部分です。でも、ぼくはそれを観て、「鬱陶しい」と思ったんです。自分の感情を制御できずに泣きじゃくる奴は、鬱陶しいんです。端的に面倒くさい。ああ、ここだよ、なんていうか俺という人間の本質が見えてくるよ。俺には、鬱陶しいんだよ、ああいうのが。

 映画では、夫リリーが法廷画家の仕事に就いています。法廷画家というのはこの映画においてすごくいい職業設定、他のどんな職業よりもいい設定じゃないかと思います。法廷ではその年その年の大事件を連想させる裁判が行われています(過去の時代を見せているけど、これ見よがしになっていない点が大変好ましい)。遺族よりはずっと冷静に、ただの傍聴人よりも真摯に、記者たちよりもじっくりと裁判の様子を見つめる法廷画家というのは、この映画にとってばっちりでした。あの設定をつくることで、自分たちの平穏な日常との対比がわかりやすく伝えられます。悲劇的な人生を目の当たりにすることで、自分たちの何でもない日々は幸福なのだなということを感じさせるわけです。この対比は大正解でした。いろいろあるけれど、支えてくれる相手がいるというのは幸せだよな、ということを観客に伝えているのであり、だからこそリリーと木村多江の夫婦の何気ない日々を尊く感じさせるわけです。

 だからね、ぼくがね、それこそ結婚して、静かな生活を送り、そしてこれからも送り行くであろう人間なら、きっとこの映画はすごく胸に響くと思うんです。でも、いかんせんそういうものとぼくはあまりにもかけ離れているんです。結婚うんぬんはぼくにはもう半ばSFの世界です。同級生が結婚した、子供を作ったと聞くと「うぎゃー」と思います。この「うぎゃー」は、「うぎゃ~、まずいよ~、アケミも結婚しちゃったの~、リサコも今の彼と婚約するとか言ってるしさ~、マジ焦っちゃうんですけど~」的な「うぎゃー」ではありません(なぜアラサー女子っぽいのか)。ぼくの「うぎゃー」は単純に、「うぎゃー、また一人、知っている人間が別世界に旅立ってしまった。ああ、君も愛なんてものを信じるのか」という寂しさなのです。人格疑われついでにはっきりと言うなら、結婚などぼくにはほとんど理解不能な世界です。「婚カツ」なんてものが世間では流行しているようですが、ぼくにはもう訳がわからず、「トンカツ」のほうがずっと好きです(まさかの親父ギャグ)。トンカツのほうがサクサクしているし。肉汁がじわりとして旨いし。

 映画自体はきわめて中立的です。たとえば子供の扱いひとつとっても、決して可愛らしくは描いていない。むしろ鬱陶しさを感じさせるくらいです。ぼくは子供が鬱陶しいので、ただ単に鬱陶しく感じただけなのですが、感受性があればああした子供たちにも優しい眼差しを注げるのかもわかりません。報道の事務所みたいな場所で、「カレーの会」をやっているのもいいですねえ。ああいう地味な感じが適度。倍賞美津子の家の感じ、息子夫婦とのやりとりとかもよくて、日常風景の活写においてはもう何も言いたくありません。

 だからこの映画、ちゃんと世間を渡り歩くちゃんとしている人にとっては、ちゃんと響くと思います。逆に、ぼくのような人間はなんだか「美しいものを美しいと捉えられないのだおまえは!」と言われているようでちょいと複雑です。あなたの人格を映す鏡となる作品でしょう。鏡よ鏡よ鏡さん、あたしは心が醜いのかしら?
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鑑賞時の注意:本気になるのは御法度。阿呆みたいな顔で観ること。 
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 世間に遅ればせることでお馴染みのこのブログ。今回、結構な遅ればせ感を漲らせるのは『崖の上のポニョ』であります。はい、今まで観ておりませんでした。

 で、観ました。最近は前置きが長くなりがちなので、早速映画を語ろう、そうしよう。
 賛否が分かれているようですけれども、あのー、まともに受け取っても仕方ないんですよ。大人がごちょごちょまともなことを言っちゃ駄目なんですよ。だからもう、真剣に映画館に行ってみるような作品ではない、というと悪く言っているように聞こえますがそうではなく、おうちで適当に観る分にはまあいいんじゃねえの、という、ああ、どうやっても良い言い方ができない。もう腑抜けみたいな格好で観るのがいちばんいいんです。金玉を放り出しながら時折陰毛を抜くなどし、鼻くそをほじくりながら観るとよいでしょう。それくらいのテンション、熱さで観るべきです。そうすれば楽しめると思います。

 いろいろと意味だの物語だのを考え出して、構成上のどこそこがよろしくない、と口角泡を飛ばしても、仕方ないですって。今まで名作を沢山つくってきた宮崎駿があえてそうやっているんです。まともに語る必要はないですよ。宮崎駿っていうネームバリューがあるし、過去の作品もあるから、どうしても世間の目は厳しくなるけど、もうあの画を見た瞬間に、今回は腑抜けたもんをつくるつもりやな、とわかるじゃないですか。だからある意味では、映画を評論しようとする人々に強い無力感を与える映画です。まじめになればなるほど損をしますから。屁をこきながら観ればよいのです。けなしているわけじゃないですよ。ほえーっとしながらそれでも観られる映画って、少ないです。その意味では大変希少価値が高いとも言えましょう。

 そうなるとこの文章自体も腑抜けるので、ちょっとだけまじめになっておくと、今回も広告代理店的な発想の声優起用がなされており、これにはやはり腹が立ちます。それがまたねえ、特に二千年期に入ってからのジブリはもう、声優の使い方がもろに広告屋の発想なんです。広告屋のプレゼン丸出しです。要はメディア的好感度を重視したキャスティングです。主人公が青年ならジャニーズを使う。青年が出てこない場合は好感度の高い人を主要キャラに置く。今回で言えば山口智子と所ジョージですね。もう思い切り好感度重視じゃないですか。昔のジブリ作品ではあり得なかった。この辺がもう虫酸が走ります。集客を見込むことが仕事だ、という大人はいるんでしょう。そうすりゃ上司に褒められるんでしょう。でも、そのために映画の完成度、世界観の強さを殺していいわけがない。不遜ながら申し上げます。アニメってものを、一からよく考えていただきたい。

 あくまでこの映画は子供向けです。子供は別に気にしないからいいじゃないか、と言われるかもしれません。違います。問題はこの風潮それ自体にあるのです。これを続けると、声優という人々の夢を奪います。アニメというものの快楽を殺すことになります。かつて、前(?)楽天イーグルス監督、野村克也はオリンピックの野球におけるプロ参入について、批判したことがあります。いわく、「それは社会人で野球をしている人の夢を奪う」。プロが入ってくれば当然社会人野球の選手は入れなくなる。子供の頃から野球選手に憧れ、しかしプロには入れず、それでも社会人野球を続けている人たち。彼らにとってオリンピックに出ることは大きな栄誉だったはずなのに、実際その夢がなくなったわけです。あげく、オリンピックから野球は外れました。プロとは違うものとしてあったはずなのに。オリンピック種目から野球が外れたことについて、この日本のプロ参入問題は影響を与えたのではないかと密かに思っています。WBCがあるのだし、野球がプロ用種目になっているなら、要らないじゃないか。IOCはそういう判断をしたんじゃないでしょうか。

 声優についても同様です。声優になって、いつか大きな映画に出たいと思っていても、それは好感度の高いタレントに独占されており、脇役しか回ってこない。これはジブリに限りませんね。せっかく日本のアニメは素晴らしいものが多いのに、こんなことを続けていれば、キャラクターに命を与える声優の畑がやせ細る。アニメをつくってきた人が、一体どうしてそういうことをするのか。悪くて賢い大人に騙されないで! あいつらは集客のことしか考えていないんだから! 

 いやもちろん、映画とてビジネスです。集客はビジネスにおいて最重要の問題です。でも、ぼくはそれは禁断の果実だと思う。これをすれば集客できる、としても、取ってはいけない方法だと思います。綺麗事だと吐き捨てるか、兄弟? より大きな利益をあげることが必要であり、そのために何をしてもいいというのかい、兄弟? じゃあどうすればいいんだよ、もっと利益が上がる方法があるっていうのか、と君は問う。思いつかない、とぼくは言う。なんだ、結局対案がないじゃないか、と君は勝ち誇って笑う。ぼくに言えるのは一言だけだ。
「その方法を実行できる君、君のような人になるくらいなら、対案がないほうがずっとましだ」

 ずいぶんまじめになりました。『崖の上のポニョ』の話でした。
 腑抜けを再開するなら、まずぼくはあのポニョが嫌いです。ポニョが可愛い、と人はいうけれど、世界を滅ぼしても許されるほどには可愛くないです。なので海に沈んだ人たちが気になります。死んだのでしょうか。でも、海の中はデボン紀に戻っているそうです。となると、人々が死んだと解釈するのは無粋です。あれはつまり、海に沈んだことによって、人々は始原へと帰ったのです。これはゼーレの提唱した人類補完計画に通ずるものがあります。なので海の底の人々が死んだと思ってはいけません。皆、始原へと戻ったのです。ポニョや残された人々は始原に戻れなかった人々です。世界は分かたれたのであり、あの後人々はその分かたれた世界をたくましく生き抜くのであります。ポニョは人間になることを選択しましたが、これはハッピーエンドと見せかけて、実は大変な英断をしたと見るべきなのです。海の中で補完され、ゼーレ的な理想を遂げた人々とは違う道を選んだ。不完全な個体として、苦難の生涯を歩もうとしているわけです。実った愛は苦難の始まりなのです。
 はい。阿呆みたいな解釈です。

また別の話に移ります。この映画の褒めどころを上げるなら、気持ち悪いものがちゃんと出てくるところです。宮崎駿はその点を一応は重視しているようです。あのフナムシがそうです。別にフナムシが大量に出てくるカットは要らないはずなんです。デボン紀の気持ち悪い生き物もそんなに要らないはずなんです。ポニョの妹も気持ち悪いです。ああいうのがないと、この映画は本当に腑抜けのほんにゃかふんにゃか話になっていたことでしょ。あの辺にリアリティともつかぬリアリティが宿っています。この映画の世界を支えていたのはあの気持ち悪さです。

 また別の話に移ります。というか、戻ります。この映画の会話のテンポは非常にゆっくりとしています。主人公の男の子の台詞とか、かなりゆっくりしており、大人の観客にはじれったいはずです。それは子供向けである何よりの証左です。子供にわかりやすくしようと考えたのです。だから、複雑なメッセージ性なんてものとか、大人も納得の強度ある物語性なんて要らないのです。大好きな人と一緒にいたいよね、ということ以外はすべてどうでもいい、というなんともあっぱれな結論なのです。すべてを犠牲にしても、他人に多大なる迷惑を掛けても、大好きな人と一緒にいるのが素敵よね、ということが言いたいのです。その素敵さがあれば、何もかもどうでもいいわ超ハッピー! なのです。子供にそういうことを伝えているのです。それでいいのか。

 また別の話に移ります。『AKIRA』でも『攻殻機動隊』でも『エヴァ』いいですが、アニメ映画は時々こういうめちゃくちゃな着地点に行きがちです。でも、それでいいんです。そういうめちゃくちゃさが生き残れる土壌は必要です。だからぼくはこの『ポニョ』を、そのめちゃくちゃさとあほらしさにおいては擁護します。ただ、まともに擁護する気はありません。糞を垂れ流し、鼻水を袖のところで拭っててらてらさせ、阿呆みたいな顔をしながらであれば、擁護します。なんかよくわからん物言いですね。いいんです。そう言う映画です。さあ、歌おう、ポニョの唄を、ものすごく阿呆みたいな顔をして。
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ソウシリーズ大ファンのぼくですが、今回だけは擁護できません。
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 シネマサンシャイン池袋にて。新文芸座に慣れていると、どうも新作公開のシネコン系というのはアウェイな感じがします。とどのつまり、客層の問題ですね。新文芸座は、一人でやってくるおっさん、兄ちゃんが多く、熟年のお行儀のよいご夫婦がおられたりなどして、とても居心地がよいです。ところがシネコン系はカップルが多くおり、若い婦女子連などもおり、なんだか一人で映画を観に来ているぼくが寂しいやつみたいじゃないか!けっ! どうせあれでしょ、その映画鑑賞もまた前戯の一部なんでしょ? どうせその後酒でも飲んで、映画の的外れな感想なんか語り合ってから、ホテルでちゅぱるってな算段なんでしょ? けっ、この野郎、なんでいなんでい。

「嫉妬による妄言ですね」「はい、そうです」「『そうです』というのはこの『ソウ』という映画に掛けたダジャレですね」「ああ、いや、決してそんなつもりはありません」

 ところで、シネマサンシャインというのはどうも、映画の音響、スクリーンサイズにおいて、どうもいまひとつな感じがあります。劇場によって違うのでしょうか。文芸坐に慣れているので、どうも小さい感じがします。にもかかわらずカップルの連中などはこぞって後ろのほうの席に陣取ります。どうして後ろの席が好きなのでしょうか。ぼくは前のほうが好きです。スクリーンで視界をいっぱいにするほうが幸せではないでしょうか。どうせあれでしょ、映画なんてそんなに真剣に観るつもりはなくて、むしろ映画を観ている間にお互いの股間に手をやるなどして、暗闇の密戯を楽しもうって腹なんでしょ? けっ、なんでいなんでい、俺も混ぜてくれバカ野郎。

 いい加減映画の話をしないとわずかな愛想も尽かされそうです。映画の話をします。
 どうして前置きの妄言が長引いたかというと、ある重要な理由があるからです。それは、今回の作品はついにぼくを満足させてくれなかった、ということです。今までなんとか頑張ってきたソウシリーズですが、今回に関しては褒めどころが非常に少ないです。もう限界かも知れません。次作を作るなら7だし、7で切るというのはそう悪くないはずですから、次あたりを完結にしてもいいのかもしれません。あるいは公開のテンポを落としたほうがいいかもしれない。ちょっとよくなかったです。

 監督はこれまでシリーズの編集を務めてきたケヴィン・グルタートという人です。ソウシリーズのよさは編集に依るところが大きく、その点期待してはみたのですが、いかんせんストーリーや演出がいただけません。前作、5の監督、デヴィット・ハックルは、残虐描写をある程度抑えめにしていました。美術監督だったハックルがあえて残虐さを抑え、最後の手のシーンにインパクトを集中させたのに対し、今回は変なゲーム性と残虐さを押し出す格好となり、2でいい仕事をしたのに3、4で調子に乗ってしまったダーレン・リン・バウズマンの愚を繰り返しています。

 予告トレーラーの時点でもう馬鹿馬鹿しい感じだったのですが、実際に本編を観ても案の定でした。もう馬鹿馬鹿しい領域に入ってしまっています。その馬鹿馬鹿しさを埋めるために残虐表現に頼り、数コマ単位のカットの連続でごまかす。殺人に何の説得力もなく、重みもなくなっているため、ひたすら視覚的なインパクトをインフレ化するしかない。緊張感なんてちっとも生まれません。

 ストーリーの部分についても、死んでしまっているんですねえ。アマンダが再登場したのは旧来のファンには嬉しく、数少ない褒めどころなのですが、もうなんというか、過去の出来事を再利用しているだけ、ちょっとした謎をなんとかほじくり出しているだけという印象でした。これは4、5の時点でももう始まっていたことなんですが、要するにジグソウの過去なり人となりを頼る構造になっているんです。既に死んだ彼を頼ってしてしまうと、どうしても登場人物たち自身の逼迫度とか厚みが生まれてこない。つまり、魅力的になってこないんです。新たにゲームに参加させられた人々も、もう本当にゲームのコマでしかなくなっています。あのー、これは深刻なルール違反だと思うんですけど、ただ殺されるだけの人が沢山出てきているんです。ジグソウは人々の「生きる意志」を試したくてああいうことを始めたはずなのに、もう「生きる意志」も糞も、ただ不可抗力的に殺されるだけの人が沢山出てくるんです。でも、一応殺される理由をつけなくちゃいけない、と考えたのでしょう。これがまた雑なんです。恐るべきことに、ただ煙草を吸っていただけの人まで殺される始末です。上司に従っただけの人が殺される始末です。

許せないのはその不可抗力さです。ちょっとネタバレするんですが、今回のゲームの狂言回しになった人が、拘束された二人の人間のどちらかを殺さねばならない、という状況に陥ります。片方は独り身で家族もいない若い男、もう一人は家族のいる中年のおばさん。で、この狂言回しの男は、若い男を殺す選択をするんです。ここでもう、なんというか、監督の底が知れる。ああ、普通の考え方の人だな、と思わされてしまう。何にも面白くないですよ。あれでは独身者の観客が不快な思いをするだけですよ、それ以外に何の感興もないんですよ。もうあの設定をした時点で間違っているし、そのうえこの出来事は結局あとに何も活かされないし、最悪です。3のジェフも4のリグも、同じような状況に置かれたけれど、そのときはもっと何かしらあったよ! 今回は何もないんだよ、ただ殺してしまっただけ、殺されてしまっただけ。最悪です。

 いや、「上司に従って仕事をしただけの人がひどい目にあう」というのは、深いテーマたり得るんです。まだ未見なのでなんとも言えませんが、サム・ライミの新作はその辺に深く切り込んでいるようです。でも、この辺のことは何にも触れられない。非常に雑なんですよ。ジグソウの意思を十全に受け継げなかったホフマン、なわけですが、 映画自体もその意思を継いでいないじゃないですか。

 ただ殺されるだけの人、というのでいうと、3でも同じことは起こっています。だから2に比べると3は断然劣ってしまうんですが、それでもジグソウとアマンダはいたし、オチも驚きを保つものだった。今回はもう、オチがないに等しいです。一応オチらしきものはあるんですが、従来に比べると持って行き方が大変下手くそで、何の驚きももたらされない。オチの弱さで言うと、5はすごく弱かった。でも5に関しては、手のシーンがあります。あれだけでもぼくは5を擁護したいと思えます。今回はオチも弱いし演出的にも褒めどころがなく、いよいよ駄目になってきています。

 逆に、ぼくが驚いたのは、ソウシリーズともあろうのに、なんとも雑な出来事が起こったからです。公開間もないので未見の方に配慮しますが、ホフマンの音声のシーンです。あれをやったらソウシリーズでもなんでもなくなっちゃうよ! そしてあの段階で、結末はもうわかりきっているようなものなんだよ! 

 一度、じっくりと脚本を練り上げる時間が必要だと思います。続編をつくるでしょうが、そのために来年は一回お休みでもいいと思います。毎年つくろうという意気込みはもう本当に素晴らしいんですが、出来がこれでは本末転倒です。そろそろ休憩を入れて、今一度1や2のクオリティに戻してほしいと願うばかりです。
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意外にも(?)ぼくはこの映画が好きではありません。
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 文芸座で『レスラー』を上映しているようで、早稲田松竹ではもうすぐ『3時10分、決断のとき』と併映されるようで、もう一度観に行こうと思います。宇多丸が『レスラー』について語ったとき、「映画には『負け犬映画』という系譜がある」と語っていて、なるほどぼくはそうした「負け犬映画」というのが好きなのだなあとつくづく思います。アメリカン・ニューシネマは「負け犬」のにおいが色濃くて好きだし、『ロッキー』はその負け犬が最終的に勝負を超えた場所までたどりついているからやっぱり素敵。『レスラー』もいいし、『キング・オブ・コメディ』もいい。『スカーフェイス』も負け犬映画だと思うんです。負けることがいいわけじゃないですよ。負け犬がそれでも頑張ろうとする生き様だったり、負け犬だからこそ選ばざるを得ない人生があったり、そういうものになぜか胸が熱くなるんです。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はまたちょっと別なんですね。ダニエル・プレインビューは負けているわけじゃない。むしろ彼は勝利を収めているはずなんです。でも、何だろう、勝利したはずの人生なのに、なんでこんなにも虚しいんだろう、というあの哀感。いや、結局彼は勝利できたのだろうか、それ以前に、彼は何と戦っていたのだろう、ということをずっともやもやさせるところがすごいんです。

 さて、そういう「負け犬映画」の系譜に、この『竜二』もあるのでしょう。脚本・主演を務めた金子正次はこの作品の公開直後に亡くなり、一部では偉大なる遺作として賞賛されているようです。ヤクザである主人公・竜二が、カタギになろうとするのだけれど、結局はまた戻っていってしまうまでを描いたお話です。

 観る前からいい香りがしており、内容的にもきっと好きになれるに違いない、と思っていたんですが、意外にもぼくはこの作品が好きにはなれませんでした。題材的には大好物であるはずなのに、あのラストを除けばほとんど心動かされるものはなく、この作品で泣いたというレビウも目にしますが、どうして泣けるのかさっぱりわからないんです。

 いきなりラストの話から始めますが、あのシーンは確かにわかる。カタギの仕事をするけどそれになじめない彼が、家に帰ろうと商店街を歩く。そのとき、目線の先に妻と娘の姿がある。妻は商店街の肉屋の安売りの行列に並んで他の主婦と談笑している。その姿を見て、竜二は踵を返し、彼女のもとを去り、彼がヤクザの世界に戻ったことが暗示されて映画は終わる。このシーンは確かにわかるんです。小さな幸せに安住できない気持ち。そこに行けばささやかな幸せがあるんだろうけれども、そこにあるものがひどくわびしく思えてしまう。確かなるささやかな幸せ、ささやかではあるけれど確かな幸せ。それを心根の部分で信じられずに、踵を返してしまうところは確かにいいんです。

 ただ、あのラストに至るまでの描き方が、ぼくにはどうも味わいきれなかった。理由としては二つです。ヤクザの世界が好きなのだ、戻らずにはいられないのだという意思がどうにも感じられないこと。そして平穏な家庭での生活に空虚さがない、ということです。要は、ヤクザの世界と家庭の部分、ここでの対比が弱いと感じられたんです。

 ヤクザの世界に戻ってしまうのであれば、ああ、こいつは根っこがヤクザものだなあというところがもっとなくちゃいけないし、あるいは、ああ、こいつは根っこの部分で、ヤクザの世界に魅了されてしまっているんだなあというのがなくちゃいけない。前半はヤクザとしての生き様が描かれるんですが、その部分に今述べたような「ヤクザたらざるを得ない竜二」のテイストがあまりないんです。確かに山口百恵の『プレイバックパート2』が流れるところには活き活きした様子があるし、ヤクザとしての働きぶりがいいことも描かれている。しかし、じゃあそこでの生き様が家庭での幸福以上に彼を魅了しているようかと言われれば、決してそうは見えない。町田康が『告白』で描いた城戸熊太郎は、根がヤクザものなんですよ。せっかく大金を得ても博打ですってしまうし、博打に没頭する場面では、ああ、こいつは本物のバカだなあと思うんですが、そのどうしようもなくバカになってしまうところにこそ、熊太郎の真にヤクザものなところが出ている。そういうのが、乏しい気がするんです、この映画は。

 それにくわえて第二点目。家庭での幸福が一応はしっかりしているんですよ。子供がいるじゃないですか。あの子供と一緒にいるときの笑顔があるせいで、ああ、この竜二は今幸せそうだなあと思えてしまう。ヤクザのときにはなかった笑顔なんです。子供をちゃんと愛しているし、ささやかでも確かに幸せを掴んでいる。その幸せがあるのに、どうしてヤクザの世界に戻るのか。ここがぜんぜんわからない。いや、わかりますよ、小さくて穏やかな幸せに安住できない竜二の気持ちはわかりますよ。「この窓から、何にも見えねえなあ」というのもわかりますよ。でもさあ、じゃあ前半のヤクザの世界で何か見えていたかっていえば、そうは見えないんですよ。ルーレットの賭博所もせせこましいちゃっちい感じでしかないし、ごく狭い範囲で金を取り立ててうろうろしていただけだし、裏通りの飲み屋に殴り込んだりするだけだし。ヤクザの世界に何があるのかがぜんぜんわからないんです。だから、たとえ小さくても確かな幸せを掴んだはずの竜二が、何をしたくて戻るのかがわからないんです。

 あのー、ぼくは変なところでまじめだなと我ながら思うんですけれども、子供をほっぽり出して勝手に生きようとしているところが厭なんです。その部分でこの竜二を好きになれないんです。生まれる瞬間を心待ちにしたり、一緒に飯を食って楽しそうにしたり遊んだり、あんなにも愛していたはずの我が子を結果的に捨てるのに、何の葛藤もないじゃないですか。え? 子供は? あんなに愛していた子供を捨てる上での葛藤も何もないの?と思ってしまう。『レスラー』のランディが哀しいのは、そのしっぺ返しを見事に食らっているところですよ。かつて自分が捨てた我が子が、人生における最後の頼みの綱だと知る。でも当然ながら我が子にはすっかり嫌われていて、なんて馬鹿なことをしたのだと途方に暮れる。そこを描いたからいいんです。子供を捨てるところを描いたに等しいこの映画で、竜二の生き様がうんぬんと言われても、何を言っているのだと怒りたいくらいです。

 だからね、この竜二に関しては、この映画で描かれた物語のあとをこそ観たいんです。あれでは結局、貧しくてわびしいカタギの生活が厭だからというなんとも勝手な理由で、自分をずっと待ち続け支え続けた妻と愛するわが子を捨てました、あとはどうなったかよくわかりません、終わり、ショーケン、みたいな話ですよ。

さあ、大ファンが多そうなこの映画をばっさり斬ってしまったので、逆に斬られそうな気がしてウキウキしているのですが、もうちょっとだけ続けます。この手の映画だと、やっぱり主人公に感情移入したり、その主人公が好きになれたりするとものすごく大好きになれるんです。子供うんぬんと書きましたが、別に倫理的な部分が悪いから悪いということでもないんです。『俺たちに明日はない』なんて、それこそボニーアンドクライドは最悪なやつらだけれど、でもどうしようもなく馬鹿だから、こいつらのことはなんかわかるなあと思うし、『キングオブコメディ』のパプキンにしたって、もうどうしようもないんだけど、一貫してどうしようもないから、むしろ真摯な生き様にさえ見えてくる。この竜二は、兄貴肌で、頼りがいもあって、笑顔も素敵で、ちゃんとしている感じなんです。なのに肝心なところで子供を捨てるし、何をしたいのかわからないままヤクザの世界に戻るから、どういうつもりなの? って感じてしまうんです。

 うん、ヤクザ部分の愉しさと家庭部分の幸福のバランス次第では、もっともっとよくなると思うんです。ヤクザ部分の享楽性とか愚かさをもっと色濃く描けば、「馬鹿さ」がもっと引き立って、「ああ、馬鹿だなあ、戻っちゃうのかよ」と思えるはずなんです。あるいはダニエル・プレインビューのように、「家庭や他者というものを信じる回路すらない男」「家族をただ幻想の中でしか愛せない男」にすれば、家庭部分の幸福にもっと豊かなかげりがあったはずなんです。と、ぼくのような者は思ったんですけれども、『竜二』のお好きな方にぜひご反論をいただきたい。負け犬映画好きだからこそ、どうも辛口の回になってしまいました。
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またまた発見! 「ものづくりの神様」が宿っている映画! 
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 ここ数日はテレビゲームにはまってしまい、まずい状況です。ぼくの考えでは「テレビゲーム=麻薬」なんです。「ネトゲ廃人」なんて言葉がありますが、あれと同じ話で、「人生においてほぼまったく役には立たないし時間の無駄になるけれど、はまったらやめられない」という意味で、ゲームは麻薬なんです。これはよくない、ということで、今日の朝あたりにデータを消そうと思います。この依存状態から抜け出るうえで、最も効果的な方法です。格闘ものなどではあまり意味がないと思いますが、RPGなどでは特に有効です。何しろそれまであれこれやってきたのを水泡に帰すわけで、再開しても一度やったところの繰り返しになるのであり、データを消すとかなりさっぱりとやめられます。ネトゲ廃人からの脱却にも有効でしょう。

 さて、そういうわけでここ数日はあまり映画を観ていませんが、ディスカスから届いた『チョコレートファイター』。タイ映画はおそらく今まで一度も観たことがないです。『マッハ!!!!!』の監督の作品ですが、近々『マッハ!!!!!』も観ようと思います。大変な傑作でした、『チョコレートファイター』。

 知的障害のある少女が母の病気を治すため、借金を返さない悪人たちをなぎ倒していく話なのですが、この主人公の少女ゼン(ジージャー・ヤーニン)の佇まいが最高です。ほとんど会話もできないような女の子なのですが、そのぼんやりとした風情と格闘シーンの落差が目を見張ります。「冴えない主人公が何かに変身して強くなる」という古来からのひとつの定番がありますが、その形式を実にうまく用いている。この映画においては主に三つのリズムが織りなされます。一つには音楽を流しながら短いカットを繋げ、時間経過と登場人物の様子を伝えるシーン、二つめは主人公ゼンを主軸とした実際のドラマ部分、三つめはアクションです。このテンポの異なる三つのシーンを交互に繰り返し、映画全体を成立させるつくりです。緊張と緩和を律儀に切り分けています。が、これが日本映画にはできないところで、突然悲鳴が上がるような出来事が起こる。このびっくりの活かし方も素晴らしかった。

 とはいえ、編集や物語運びが完璧であるかと言えばそうではありません。撮り方もうまいのか下手なのかわからないところがある。最初のほうの過去のシーンはなんだか妙に安っぽいです。よく言えばジョニー・トー的な風合いがある、と言えなくもないですが、悪く言えば端的にださい。「少女のアクションが見もの」というのを期待して観ていると、「早く主人公が出てこないかな」といらいらさせられるほど、ちょっと説明的かつ面白くもない。ですが、結果的にはこれがいい前振りになった。主人公ゼン(三人目の子役が最高に可愛い)が見世物をやっているところから中心の物語が始まるのですが、このときのゼンはあまりにも魅力的です。ちょっと鳥居みゆきが入っているのもぼく好みでした。

 格闘シーンはことごとくいいです。どの格闘シーンもそこだけで面白いです。宇多丸が言及していましたが、過去のカンフーアクションの二大金字塔、ブルース・リーとジャッキー・チェンの要素が多分に盛り込まれているのも面白いです。ゼンがブルース・リー的な怪鳥音を発するときの濃度と言ったら! ゼンが三次元をフルに活かして動き回るジャッキー的アクションをするときのすごさと言ったら! これはもう日本映画も欧米映画も絶対に追いつけないアジアの強さです。映画の終わりにジャッキー映画よろしく、実際の撮影風景の様子、NGシーンが映されるのですが、もう死人が出てもおかしくない、いや死人の一人や二人出ていないほうがおかしいくらいのガチンコアクションです。断言しますが、この映画には「ものづくりの神様」が宿っています。『タワーリング・インフェルノ』や『ポセイドン・アドベンチャー』でも宿っていましたが、この映画にも完全に宿っています。これだけ頑張ったらそりゃあいいものはできる、神様は宿る、いやタイだから仏様だろうか、でも「ものづくりの仏様」というのもよくわからない、わからないけどとにかくすごい! やはりぼくもゲームなどをしている場合ではありません。データを消します。何をやっているのだぼくは! うわー!

 ゲームで思い出しましたが、このゼンの萌えポイントの一つに、格闘ゲームをするカットが出てきます。あんだけのアクションをした少女が格闘ゲームをやっているのには萌えます。『レスラー』でもランディがゲームをしているところがありました。実際に強いやつが格闘ゲームをやっているというのは、なぜだか知りませんが面白いですね。でも、この映画は本当に格闘ゲームみたいな世界です。いや、むしろファミコンによくあったような横型シミュレーションにも似ています。設定自体は子供っぽい、というか、脚本的にはその点もうゆるゆるなんです。何しろ借金をしていた奴の手下が、みんな好戦的な連中ばかりなんです。一人の少女相手に思い切りヤッパを振り回し、投げつけてきます。『チョコレートファイター』というのは日本向けのタイトルらしいですが、『ストリートファイター』みたいな感じで、内容と合っています。とりあえず邪魔する奴は無茶苦茶してくるのです。そのレベルがだんだん上がってくるのもゲーム的で、ゲーム好きのぼくには余計に面白かった。

 いいんですよ、脚本的な不備とかそういうのは。と、思わせるくらいの迫力です。「ものづくりの神様」ががっちり宿っているから、もう細かいことなんてどうでもいいんです。むしろそのアホさ、子供っぽさが活きてくる。あれだけの本物アクションを見せられたら、それをお膳立てするためならどんなアホさもOK、いや、アホだからこそよし! オカマの連中も、あの「どう見てもオカマ」な感じも面白くてよし! そのくせファッションはちょっとスタイリッシュで、目がぼんやりぼやけていたらいい女に見えそうで厭なのもよし! 敵のボスのどう見ても似合っていないロン毛もよし! 他の映画ならば「ツッコミどころ」になる部分さえ、魅力的に見えてくる。前にも書きましたが、面白ければ何でもいいんです。少なくとも映画においては、快楽は意味に優越します。

 ラストの明らかに『キル・ビル』っぽいところからのクライマックスもいいですねえ。あのー、ゼンの服装がまたいいんですよ、もう最高に野暮ったいというか、部屋着みたいな格好でめちゃくちゃ頑張るところがいいんです。敵はもうびっしりスーツを決めていたり、これまた何故か知らないけどお洒落ダンサーみたいな奴が出てきたり、そいつらとの対比で、部屋着丸出しのゼンがもう最高にキュート、キュートかつ最強。圧巻はなんといってもあの雑居ビルの場面ですね。あれこそまさにゲーム的。監督は間違いなくゲームが好きでしょう。それも古いアクションゲームが好きで、ああいうのを映画でやってみたら面白いと思っていたはずです。それをまさにやってのけた。ああいう場面があるだけで、この映画を否定することは誰にもできないのではないでしょうか。それくらいすごいシーンなのです。そして、ゲームで既につくられていたイメージとはいえ、じゃあゲームがあれを超えられるかというと、それは無理でしょう。死さえも覚悟のあの緊張感の中で撮った人々にしか出会えない、神様が宿っているわけですから。

 ゼン役のジージャー・ヤーニンのアイドル映画としても最高です。彼女が戦うときに発するかけ声が、スリルあるハードアクションをうまく中和し、娯楽性を高めている。これは屈強な男にはできない。リーともチェンとも違う魅力を確かに持っているわけです。

 と、まあそういったところです。この映画はタイでは去年の公開作ですが、去年と言えば日本ではどんなアクション映画があったのでしょう。そ、そ、そうです、あの悪名高き『少林少女』です。とはいえ、あまりにも悪名が高いので、ぼくはその映画を観ていません。ですが、観ないでぼろくそに言うべきではないのであって、近々観てやろう、観てこましたろうと思います。どれほどの出来なのかを知れば、きっとさらに『チョコレートファイター』のすごさを知ることができるだろうと思います。日本の駄目映画もいろいろ観てみようと思うんですけどねえ、でも絶対に時間の無駄になるとわかっているから、それならゲームに費やしたいとも思ってしまうし。ああ、また日本映画に対する愚痴が始まる。やめておこう。これまで。 
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