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こういう人間でございま 

 クリスマス。はい、特別に何もございません。世間のカプールたちは性なる夜を過ごしているのでしょう。へへん、俺っちはどうせ一人でマスをかくのさ、クリスマスだけにね!

 正式な統計はわかりませんけれども、おそらく世間の若者には九月下旬、十月初旬生まれが多いはずです。性なる夜を過ごし、勢いで中出しするからです。古い年代はそんなことないでしょうが、平成以降なんかはもうその時期、産婆がサンバを踊るくらい大活況でしょう。

「東京は雪が降らないね、あ~あ、ホワイトクリスマスってわけにはいかないのかぁ」
「そんなことないよ、今日は君にとって、最高のホワイトクリスマスになるはずさ」
「えっ、どうして?」
「それはね、ぼくが君の顔に精液をぶっかけるからさ!」 

 最低のジョークが決まったところで、映画の話をしましょう。でも、実際にこんなカップルはいるはずです。射精した後にクソみてえな男が言ったりするはずです。
下半期は上半期に比べて半分程度しか映画を取り上げなかったので、下半期なにさまアカデミー賞は開催できなくなりました。関係各位の方々、申し訳ありません(誰もいねえけど)。代わりに、もうすぐゼロ年代も終わりということで、なにさま的ゼロ年代ベストテンとしゃれ込みましょう。

 ベストテン、と言いましても順位をつけるのは困難なため、年代順に十選という形にします。
バトルロワイアル 2000
クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲  2001
クレヨンしんちゃん アッパレ戦国大合戦 2002
パッチギ! 2005
奇妙なサーカス 2005 
SAW2 2005
街のあかり 2006
チョコレートファイター 2007
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド 2007
レスラー 2008


 以上の十作です。以下、短めにコメントをしましょう。
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『バトルロワイアル』 深作欣二
 誰もが知っている大殺戮劇ですが、これはやはり傑作でしょう。こういうものを褒めると馬鹿にされそう、なんて思う必要はまったくないのです。通ぶる必要はありません。いいものはいいのです。ちょうどこれを観たのが高校一年の頃だったのも大きいかも知れません。同年代の殺戮劇をリアルタイムで楽しんだわけです。発想はひどく幼稚です。でも、幼稚なものをちゃんとつくりこめばその分だけわかりやすくおもしろいものができる、という好例です。『少林少女』に出てみたり、一体誰が買っているんだという歌手活動をしてみたりという柴咲コウですが、この頃は実によい。栗山千明の過度に芝居がかった啖呵も深作持ち味の古い暴力映画を思い出させ、これを観たタランティーノは栗山に目をつけ、『キル・ビル』のゴーゴー夕張というキャラクターを作り出しました。うだうだすることなく、早めにあの島に連れて行くのも演出として非常に正しく、あの島での殺し合いは活気に満ちていた。灯台のシークエンスなんてもう最高です。中学生なのに大人びすぎている? リアルじゃない? うるせえ馬鹿野郎。あの桁違いの迫力がわからねえのか!
 2は言うまでもなく駄作です。そして1についても完全版じゃない方がいいです。余計なシーンが足されすぎていますから。公開時のパターンを観ましょう。
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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』 原恵一
 ことあるごとに触れているので、もう多くは語りますまい。むろん、テレビアニメや原作でクレヨンしんちゃんに触れているからこそ余計に思い入れる、という部分は大きいわけですが、それを差し引いても映画としての完成度はすごい。よくできている。ギャグ映画としてもおもしろければ、発されているメッセージもあの昭和萌え映画とはぜんぜん違う。クレヨンしんちゃんを「子供に見せたくない」とほざき、あの昭和萌え映画に萌えているなら、ああ、よほどてめえのガキはご立派にお育ちなんだろうなこの野郎!
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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦』 原恵一
これももう多くを語る必要はありません。そういえば今年はこれを原案にした実写化がされたらしいですが、知りませんそんなの。井尻又兵衛と廉姫の関係は他に類を見ないほどのバランスであり、又兵衛が出てくるだけで泣ける。なんでこれを観てリメイクしようとしたのか、その発想がわからない。完璧なものをリメイクできると、本気で思ったのか?
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『パッチギ!』 井筒和幸

 今ではもうイタイ人とされてしまった沢尻エリカですが、この頃は最高! そういえばこれを昔ブログで褒めたら、なんか訳のわからないコメントを多数書き込まれるということがありました。左翼的だとかそういうことだったんでしょうけど、右翼とか左翼とかってもう本当にどうでもいいカテゴリーなんですけどね。ちなみに次作はなぜだかどうして、これに比してぜんぜんよくなかった覚えがありますが、本作は傑作といってまったく差し支えありません。
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『奇妙なサーカス』 園子温 
 今年は『愛のむきだし』という大傑作がありましたが、あれよりも園子温の作家性が凝縮されていると思います。とても醜悪なイメージとエキセントリックな世界観と虚実がわからなくなるような構造。『愛のむきだし』よりもずっとぶっとんだ作品です。『愛のむきだし』は誰が観てもちゃんとおもしろいエンターテインメントになっていますが、こちらは間違いなく好き嫌いが分かれましょう。その分、園子温好きには非常に濃い味で楽しめるのです。
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『SAW2』 ダーレン・リン・バウズマン
 このシリーズでよく言われることは、1が一番よくてあとは下がり調子、ということ。確かになんとか許せるのは5までで6となるともう擁護できませんが、1が一番と言うのには異論あり。2が一番だと思います。1はまだ観客の目線も低かったし、設定の妙味で引っ張った感じがあるけど、2は1で高くなったハードルをちゃんと越えている。あのパソコン画面のトリックとか子供を助けるためのくだりとかアマンダの本性とかジグソウ、トビン・ベルのアイドル性とか、いろいろと仕掛けをこらしていた。確かにこの監督が後の作品でゲーム的な殺人を生み出すとっかかりをつくってしまったんですが、その悪い流れが6まで続いたわけですが、この作品だけを観れば1以上の見せ場をつくっているし、編集のテンポもいい。『ターミネーター』『エイリアン』『グレムリン』『インディ・ジョーンズ』『マッドマックス』など、2が傑作になる映画は数多いですが、この『SAW2』もそこに加えてほしいところです。
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『街のあかり』 アキ・カウリスマキ
 十選の中で一番知名度が低いのがこれでしょう。アキ・カウリスマキはやはり外せません。『過去のない男』を彼のベストワークという人もいるでしょうが、個人的にこっち。ただ、ぜんぜん万人に勧めるものではありません。他の作品は誰にもお勧めしていいのですが、これを勧めるべき相手はこの先、ほとんど出会わないと思います。その分だけ、個人的に大切な映画ともいえます。クリスマスにチュッチュしている人には特に勧めません。いや、そういう人には観ないでもらいたい。観て、つまらないとか言わないでもらいたい。
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『チョコレートファイター』 プラッチャーヤ・ピンゲーオ
 充実した、充実しきったアクションにアイドル性がプラスされている最高の娯楽作。美少女が戦う、なんていうのは世にあまたあるわけですが、これぞそれをちゃんと成立させている作品。ブルース・リーやジャッキー・チェンにもオマージュを捧げ、コミカルな要素も多分に含んでいる。『少林少女』ではブルース・リーがコケにされていた。あれをギャグだと思ってつくった作り手を殺すと罪になる、その理由がぼくにはよくわかりませんが、ああいう「作り手」を指先で吹き飛ばせる名作です。同じ監督の『マッハ!』もいいのですが、アイドル好きのぼくとしてはこっち。いいから観なさいって。絶対おもしろいんだから。
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『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 ポール・トーマス・アンダーソン
 各所で絶賛されており、もうぼくがいちいち言う必要はない傑作。今まで観た映画に出てくる登場人物でもっとも好きな存在と言って差し支えないダニエル・プレインビュー。ダニエル・デイ=ルイスのすさまじい存在感。たとえば昔の黒沢映画などを観て、三船敏郎を目にすると、もうこんな存在感を発する役者はいないんじゃないかと思わされますが、いやいや、ダニエル・デイ=ルイスがいました。DVDも買いました。これは一生手元に置いておきたい作品です。『ぐるりのこと』という日本映画があって、あれは確かにいい作品だけれどぼくの人間性が邪魔して好きになれなかった。その点で言うと、こっちはぼくの人間性にびしびし来る映画なんです。ある意味、『ぐるりのこと』と真逆ですよ。いろいろあるけれど、平凡な日常と伴侶があれば、人生はいいものだ。そういう静かな幸福をこのプレインビューは受け入れられない。愛も神も信じずに、ただひたすらに石油を求める。これをして強欲な拝金主義と思うのは間違っている。確かにプレインビューをして資本主義と重ねる向きもあるけれど、彼は主義ではなく一人の人間なのであり、彼は別に金を欲して遊びたがっているわけでもない。彼にとって石油を求めることは、「存在すること」とほぼ同義だったように思います。だからこそ、このタイトルが生きてくるわけです。生きること、その存在を保証してくれるものとして、一方には福音派がおり、神によりどころを求める。でも、彼は神によりかかることがどうしてもできない。ただ一人で、おそらく本人にも訳もわからず石油を掘り続けている。そうやって追い求めることだけが、彼にとって生きることであり得る。この融通の気かなさ、ぼくにはびしびし、来る。
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『レスラー』 ダーレン・アロノフスキー
 これも何度も語っているところ。プロレス好きではないぼくがこれほどに惹かれるのはやはり映画の力。そしてダニエル・デイ=ルイスにも匹敵するミッキー・ローク。主人公が死を賭してクライマックスに挑む、というのは映画の常套手段ですが、その中でもこれは希有。なぜなら、ほとんどの「死を賭す」映画は、そこに倒すべき敵がいるから。あるいは、命を掛けてでも達成すべきものだから。人類を救うために何かする、みたいな。でも、このランディ・ラム・ロビンソンは違う。相手のレスラーもやめろと言う。でも、それをやるしかない。死を賭すことでしか生きられない。この本当に、まさに、ギリギリの生き様に胸を打たれぬわけがない! すっごく陳腐な、漠然とした、紋切り型の言い方をしますが、この映画にはある種の「人生の本質」があるように思います。

 以上十選。長くなりました。町山智浩いわく「オールタイムベストテンはその人の人格表明である」とのこと。これはあくまでここ十年の作品に絞ったものですが、なるほどガキっぽい側面あり、アイドル好きの側面あり、危険な側面あり、ベタな側面あり、ロマンチストな側面ありです。皆さんも考えてみるといいですよ、その辺の性格診断よりも如実な結果が出てくるかも知れません。
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いやあ・・・・・・「ピクサーの中では」最弱じゃないですか・・・? 
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 原題 『Up』
 ピクサーの長編作品は今のところ『レミー』以外すべて観ているのですが、「ピクサーにハズレなし」と言い切ってよかろうと思います。つまらないものはひとつもありません。老若男女誰が観てもちゃんと意味がわかり、楽しめるエンターテインメント。もっとも単純でもっとも難しいそれを、きちんとつくってくれます。

 ただ、今回の『カールじいさん』に関していうと、個人的にはかなり下の方。いや、正直に言い切ってしまえば、ワーストです。ただこれは作品に対するフェアな評価とは言い難いところもありまして、まあお話ししましょう。
 
 2009年は立体3D元年ですが、今まで観たことがなく、今回初めて観てみました。今後隆盛するであろう3Dの初体験がピクサーというのは悪くないのう、と思いつつ足を運びました。ちなみにぼくが行ったのは池袋シネマサンシャイン。ここはあまり好きな劇場ではありません。前にも書きましたが、繁華街のど真ん中にあるせいできゃぴきゃぴした連中が多すぎる。しかもなぜかよく行くことになる一番シアターはスクリーンが小さい(窓口の人は極端に後ろの方を勧めてきます。そのいいなりになっているアホがたくさん、後ろの席に固まっていました)。3Dは劇場によって効果が違う、アイマックスが最高なんて話も聞きますので、もっといい鑑賞状況があったのかも知れません。その点を踏まえた上で読んでもらえれば幸いです。

 で、3Dです。3Dのメガネはサングラス的なので、画面が暗くなります。これがいただけませんでした。鮮やかに明るい画面を暗くして観ることになり、大変もったいない。しかもお子様でも外れないようにしているためか、ふちがきつくて後半はこめかみが痛くなった。だったらその分、3Dとしての特性を活かしてほしいわけですが、いやあ、メガネによるマイナスポイントのほうが大きかった。これなら普通に2Dで観た方がいい。画面の光量を犠牲にしてまで立体効果が得られているとは、とても言い難かった。時折メガネを外して観れば、ああ、鮮やかな色彩だなあと思わされるのに、メガネをつけないとぼやけてしまう。すごく雄大な場面も多いのに、すごく消化不良でした。画面から飛び出してくるような効果がないのです。3Dの特性ってそこにあるんじゃないんですか。明るさのほうがよっぽど尊かった。

 こうした要因があるため、内容についてもフェアな言い方ができなくなるかも知れません。ぼくが知っていた事前情報は、チラシから得られる程度のものでしたが、いざふたを開けてみると、ばあさんとの別れみたいなものは実にさらっとしていました。冒頭の場面で感動した、という評価も目にするのですが、3Dの違和感、光量の問題もあって、そこについてはぜんぜんはまれなかった。音楽を流し、長い時間の経過をモンタージュで見せていく、その中でこのじいさんと妻の日々を描いていく、という手法。そう、あれですね、まさにあれですね、『オトナ帝国』のあれですよね! あれをどうしても思い出してしまうので、もうそうなるとどうやってもあの冒頭の場面で感動したりはできない。『オトナ帝国』の回想シーンがある以上、僕はこの先、この手の手法には一切感動できない気がします。それくらいにあの回想はよかったわけで、『カールじいさん』のモンタージュには何も惹かれなかった。というか、あれで泣ける、感動できる理由が全然わからない。何も蓄積がないでしょ。蓄積がなければ原理的に成立しない手法でしょ。しかも流されているのはきれいで穏やかな記憶ですよ。違うじゃん違うじゃん。『オトナ帝国』を思いだせって。クソみたいなこともあった、決して立派な過去じゃない、悲しいこともいっぱいあった、だけれど、だからこそ紛れもない自分の過去で、だから自分にとってはどうしようもなく尊いんだ。ということが、生きた記憶のすばらしさじゃん。これじゃあ話の先々を物語る上でも生きてきませんよ。多くの人が言うように、序盤は『グラン・トリノ』っぽいんですよ。でも、『グラン・トリノ』のコワルスキーのほうが、よほど妻との記憶を感じさせたんです。追記:『カール』の回想においては悲しい記憶も、あるにはありました。ただ、なぜかぜんぜん印象に残らなかった。

 『グラン・トリノ』は誰しも大絶賛ですが、ぼくはそれほどいいとは思いませんでした。ただ、前半は確かにいい。あの映画は冒頭、妻の葬式の場面から始まります。妻との記憶、その場面なんてまったく描かれない。でも、イーストウッド扮するコワルスキーじいさんが周囲に心を閉ざし続けていることによって、彼がいかに妻を大事にしていたか、妻が心の支えであったのかが見えてくるわけです。ここは確かに巧みなところです。描かずして描く、ということをやってのけているのです。カールじいさんにはそれがない。あるにはあるけど、これまた『グラン・トリノ』にはやはり及ばない。

 このペースで行くと相当長くなるため話を省いていきますが、どうもこの映画には他のピクサー作品にあふれていたキュートさが乏しい気がします。そこが他のピクサー作品と比べ、ぼくが惹かれなかった大きな理由です。どうもこんにちは、キュートなものが好きな者です。ピクサー的に大変キュートなもの、それは前作『WALL・E』におけるウォーリー、そしてイヴちゃん、あるいはお掃除ロボットのモーであり(あの映画は驚くことにゴキブリさえもキュートだった!)、『Mr.インクレディブル』における黒髪の姉ちゃんであり、『カーズ』における沈黙の道路舗装車であり、『バグズ・ライフ』におけるピンク色の王女アリであり、『トイ・ストーリー』における三つ目宇宙人であり、あげだすときりがないのですが、今回はそういうキュートなもの、出てくるだけで許せちゃうようなものがほとんどないんです。犬とか鳥もなあ、そういうものではなかったんですねえ。あの犬をさあ、あんな形で出すならさあ、どうせならカールじいさんがもともと犬を飼っていた設定にしてもよかったんじゃないですかねえ。でもそれだとコワルスキーと被りすぎるしやめたのかなあ。喋る犬たちが敵としていっぱい出てきますが、もし飼い犬を設定していれば、敵の犬との対比で見せ場、そしてキュートさが生まれたんじゃないかなあ。

 今回敵のボスとして出てくるのはかつて憧れだった冒険家ですが、こいつとの対立がちょっと強引な感じがしました。あのでかい鳥を守るためにカールじいさんは頑張るんですが、なんであの鳥をそんなに守りたがるのかがわからない。冒険家が鳥を捕獲しようとしている、とわかって、急にじいさんは態度を豹変させ、鳥を守ろうとし始めます。なんでそうなったのかよくわからない。ここは悪い意味で『グラン・トリノ』に似ている気がします。『グラン・トリノ』に文句を言うのはやや怖いのですが、誰がなんといおうとぼくはあのコワルスキーと隣人の交流が弱いと思う。だから最後に命をかけるところでぼくは泣けない。今回も、なんであの鳥をじいさんが率先して守りたがるかわからない。あれは子供の駄々を持ってきたほうしっくりくるんじゃないですか。たとえばじいさんは冒険家の話を聞き、初めは鳥を引き渡そうとする。でも、子供が鳥を大事にしていると知って気持ちが揺れ動き、最終的には守ろうという気持ちでいっぱいになる、なんて展開でもいいし、あるいは鳥に命を助けられたかなんかのくだりを入れて説得力を帯びさせることもできた。あの飛行船内部の場面、そこで冒険家と対立し始める場面が、この映画の後半にはまれなかった大きな理由です。

 でねえ、クライマックスはもっぱら空の場面でしょ。3Dなんて技術も取り入れているわけでしょ。で、なんといってもあのピクサーでしょ。これねえ、高いところの恐怖がないんですよ、致命的に。ああ、落ちちゃう、という場面はありますよ、でも、そこでのひやひやがまあゼロに等しい。ああいうところこそ3Dを活かして何かできそうなものなのに。これまた『オトナ帝国』を引き合いに出してあれですが、あのみさえとひまわりの場面をぜひご覧いただきたい。あれは本当に落下の恐怖を味わわせるシーンです。ピクサーともあろうのに、ここで見せ場をつくれたのに。

 クライマックスについてまだまだ文句をたれますが、犬にボールを投げて窮地を脱するっていうあれ、どうなのかなあ。なんか都合よく犬の馬鹿さを出してきたような気がするんですよねえ。いや、それ以前の場面で伏線は張っていますよ。でもさあ、なんか今までのピクサーにはなかった甘さを感じるんですよねえ。それでいうと、リスですよ。名前だけの存在、「リス」。説明してくれねえかなあ、リスのこと。ネズミがネコに反応するより、一般の共感度ずっと低いと思うんですよ。ネズミたちが「ネコ!?」というのとは訳が違うと思うんですよ。

でね、でね、あの冒険家の最後ですよ。あいつは完全に死にましたよ。死ななきゃいけないほど悪いことしていないでしょ。動物を捕まえようとすることは悪いことだ、という話も出てこないじゃないですか。いや、ピクサー的な道理は通ってますよ。『ファインディング・ニモ』があるので、野生の動物を捕まえるなんてのは悪党だ! というピクサー的考えは通ってますよ。でもそれは『ニモ』の話で、今回の話じゃないからさあ。あくまで人間目線の話だからさあ。敵が死ぬのでいえば、『Mr.インクレディブル』。でもあれは、あのシンドロームがそれまでさんざんヒーローを殺していたとわかるし、街を破壊したからまだわかりますよ。今回の冒険家はさあ、せめて風船いくつかぶら下げていたんだから、ゆっくり落ちて行っちゃうみたいな描写にしておこうよ。結構なスピードで落ちていったよ、悪いことも別にしていないのに。そしたらエンドクレジットで、ぜんぜん違う場所であの鳥を追いかけ続けているみたいなギャグっぽいこともできたじゃんか。

 長々と文句をたれてしまいました。いまさら信じちゃくれないでしょうが、それでもピクサーですし、きちんと楽しめる作品にはなっています。でも、これまで最高の仕事をしてきたピクサーにしては、あれこれ言いたいことを募らせてくれちまう映画でもあると思います。環境によって違うかも知れませんが、よほど3Dが活かせる環境でない限り、2Dで観るのが無難ですよ、300円ほど差があるしね。
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いちばん許せないこと
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                     ↑屁で飛んでいる人
 去年、クソだクソだと悪名をとどろかせた作品です。でも、そこまでクソなら観てやろうという気にもなるわけで、もうこの時点でぼくの負けなんですけど。

 内容に突っ込みをいれるなんてまねはもうする必要がないでしょう。もうどうしようもない作品なのは火を見るより明らかなのであって、作り手だって重々わかっているはずなんです。問題は、どうして明らかにクソである作品をつくったのか、そしてそれを恥ずかしげもなく昨年、大々的に公開したのかという点です。

 ただ、そのことは重くなるのでひとまず置いておきましょう。
 こういう作品(?)はあまりにもクソなので、何の期待もしなければ楽しめる部分もあるのです。「わあ、なんてくさいクソなのでしょう」と楽しめるのです。だから映画は失笑に充ち満ちているのです。こんなにも失笑させる映画は珍しいのです。この前年にはあの『恋空』が公開されていますが、日本のテレビ局は今、世界一の失笑映画制作力を持っています。その意味で日本は大変裕福な国です。なにしろ人々の失笑を買うために、何億ものお金を使えるわけですから。日本はおそらく世界に類をみない映画文化を有しています。歴史上類をみないともいえましょう。いまだかつて、失笑を買うことにこれほど大きなお金が動いた国があったでしょうか。

 突っ込みを入れる必要はないと書きましたが、内容には一応触れましょう。要するに、よくわからない人がよくわからないことをしてよくわからない結末を迎える話です。人間がたくさん出てきます。人間が二足で歩き、方々に移動します。言葉を用いて会話を行います。何もしていないのに人々との交友関係を回復します。最終的には言葉さえも使わずに「悪」と会話し、「善」にします。

 作り手も意味がわかっていないはずです。どうしてこういうものをつくるのでしょうか。だってテレビ局の人たち、つまりはいい大学を出て一流企業で働いている人たちなのです。彼らがなぜこういうクソをわざわざつくるのでしょうか。結局のところ、彼らはきわめて短いスパンの収益だけを考えているとしか、ぼくには思えないのです。すごくよくできているけど客入りは少ない作品、ぜんぜん駄目だけど客が入るクソ、彼らは後者を選ぶ人たちなんです。だから作品の評価とかどうでもいい。そんなものは金にならないと考えている。だから、映画館に行った時点で、DVDを借りた時点で彼らの目的は達せられます。観客の満足感なんて金にならないのだから、彼らには意味がないんです。そう考えるのがいちばん合点がいくんです。タレントを吹き替えに使う風潮とまったく同じです。

どうしてそんなにも金目当てでいられるのでしょうか。金目当てこそ不況の一番の原因だとぼくは思うんです。金が大事だといえばいうほど、人々は金を大事にするわけです。だから金が回っていかず、不況になるわけです。不況だ、金が大事だ、というダブルアナウンスでますます金を使わなくなる。不況を打開する方法の一つは、不況だという情報をアナウンスしないことではないでしょうか。

 閑話休題。金目当て丸出し、ということはもう明白に、映画を、ひいてはものをつくるってことに何の愛情も執着も欲望も野望もないんですよ。いや、もともとはあったのかもしれない。それがなぜかいつの間にかなくなったのかもしれない。だったらもう死ねとしかいいようがない。そいつらを殺せば悪になるけど、大局的に見れば善ですよ。という危険な発言まで吐かせる始末です。

 あのー、つまらない映画というのは、別に腹が立たないんです。おもしろいつまらないは個人の感覚だし。『少林少女』は別につまらない映画じゃないです。もっとつまらない映画、時間がたつのが遅く感じられる映画、眠くなる映画はあります。『少林少女』は失笑できるぶん、まだ引っかかりはある。でも、この映画には決定的に、絶対的に駄目な部分があります。それはつまり、「ものをつくることを明らかに放棄している」ことです。その結果、クソのできあがりです。がんばって作ったけど駄目、なんてものはぜんぜん問題ないわけです。ぼくだってそういうものを過去にいくらでも作ってしまったし、ぼくなどがどうのこうのいえた立場ではありません。でも、そのときそのときでこれが自分のベストなんだと思ってやってきたつもりではあります。この映画が最低なのは、ちゃんとできるはずのことをしていないからです。それも大きな予算を使って、プロといわれる人たちがお金を取って大々的に宣伝して。幼稚園児だって一生懸命お遊戯会の練習をします。この人たちはそれさえしようとしていない。だからこそきわめて有害なんです。ちゃんとつくってもいないものが、マスメディアでがんがん宣伝され、垂れ流されるわけですから。そしてそれをつくっているのが、ザ・マスメディアのテレビ局自身なんですから。今思えば、『恋空』はまだ弁護できます。あれはちゃんと駄作を作ろうとしていたんです。その時点で駄目なんですよ、でも、駄作を駄作としてつくることにまじめだったから、まだ情状酌量の余地がある。『少林少女』はそうしたものですらない。誰もが言うことですが、癒しやら友情やらという記号をただ並べているに過ぎない。

 いっちゃ悪いけど、映画館詐欺みたいなものです。不良品だとわかっている作品、それもちゃんとつくろうとさえしていない作品で金を取るわけですから。でも、きっと彼らはどうでもいいんでしょう。どうでもいいニュースに大騒ぎしては忘れていく、そんなテレビを作っている人たちなんですから、きっとこの映画が駄目だったことも忘れているはずです。観客もどうせ忘れるだろうと思って、これからもクソをクソと知れたままつくるのでしょう。公開されたときに金が集まればいい、あとはどうなろうと知らない。金を出した人々がどう思おうとまったく関係ない。それはもう完全に、犯罪者の発想なんですけどね。
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今年も笑いをありがとう! そして、笑い飯。 
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ブログデザインを刷新しました。横スクロールにして、画像もつけて華やぎました。おいしいお茶とお菓子を用意していますので、どうぞ遊びに来てください。赤鬼。

 さて、毎年恒例の大イベント。毎年書いているので映画評を休み、今回も感想を書いておきたいと思います。 個人的には実に複雑な思いの回となりました。最終決戦における審査結果は妥当だったと思います。この点、ああ、ちゃんと面白いものが評価されてよかった、という喜びはあります。あの中で選ばれるべきは、間違いなくパンクブーブーだったのです。

 しかしまあ、笑い飯。ああ、笑い飯。最後の年ということでよりいっそう期待度高く、一本目のネタは最高によかったのです。「鳥人」という設定がまず素晴らしい。突飛な設定をかましつつ、それが両者の対話によってさらなるボケを生み出す。この設定を採用したのはものすごくよかった。大抵の漫才はいわば「ありもの」、現実的な設定をしてボケを生み出します。「○○になりたい」「よし、やってみよう」の形式で、○○の部分には「警察官」とか「ヒーローインタビュー」とかが入ります。現実的な、誰でもわかるものを設定して、そこから各々がボケを生み出す。ところが今年の笑い飯は違いました。「鳥人がやってきたらいいと思う」という、なんとも意味のわからないところから始まり、さらにそこから対話に繋げた。

 これまで「闘牛」「ロボット」、あるいはあの「奈良歴史民族博物館」。その多くが片方の勝手な言動にもう片方が突っ込むという形式でした。しかし今回は積極的に対話を用い、「鳥人」のやりとりをフルに活かした。最高でした。

 ところが、です。ああ、笑い飯。なぜ二本目が、ああ。
島田紳助のエンディングのコメントが的確でした。「一本目にあれを持ってきたら決勝に来られない」「二本目にあれを持ってきたから優勝できなかった」。そしてもうひとつ、「鳥が来たから牛が来ると思った。同じものならよかった」。いや、別に「牛」じゃなくてもなんでもいいのですが、笑い飯は同じものでよかったんです。設定そのままでマイナーチェンジでもよかった。それくらい一本目は卓越していました。読んでご承知の通り、ぼくは笑い飯が大好きなので、二本目の途中で頭を抱えました。これでは優勝できないと。笑い飯は本当に安定感がありません。安定感がないからこそ大爆発があるわけですが、最後の最後で、なんとも哀しい幕切れでした。いまさらですが、やっぱり2003年だったのです。あのときは、誰がどう言おうと笑い飯だったのです。これは心底残念であります。ネタ順的にも、完全に風が吹いていたのに。

 個人的に大好きな東京ダイナマイト。
 東京ダイナマイトも同じような感想を持ちました。笑い飯にしろ東京ダイナマイトにしろ、ああいう舞台で結局いいところを持って行かれる、から好きだったりするんですが、M-1のテンポにははまらなかった。やっぱり四分という短い時間だと、ノンスタイルのようなテンポがウケるんです。東京ダイナマイトの持ち味は四分ではいかんせん活かし切れない。そのうえCMネタは少しマイナーすぎた。いや、いいんです。そのマイナーさ、「なんでそれをチョイスするのか」という微妙さこそが魅力に繋がるコンビなんです。でもそれはM-1仕様にはやはりならない。難しいところです。東京ダイナマイトがメジャーっぽいわかりやすい笑いに染まられてもあれなのです。ですが、もう笑い飯なき来年以降、ぼくが応援するのは彼らしかいない! ぜひ来年も出てきてほしいと思います。それにしても、なぜ必殺の、中盤に入ってからの「どうも、東京ダイナマイトです」をやらなかった! 

南海キャンディーズはもっと点数が高くてもいいと思いました。ぼくは山里の言葉選びが大変に好きなのですが、どうにも客ウケがよろしくなかった。うーん、ぼくはやっぱり一般のお笑いファンみたいなものがいけ好かないのです。山里がストーカーの演技をしたとき、笑いではなく小さな悲鳴が上がったのをぼくは聞き逃しませんでした。違うじゃん。もうその時点で、なんかもうおまえは舞台上の彼らをリスペクトしてねえじゃん。どこかで「気持ち悪いよね」みたいな感覚抱いてるじゃん。女性からの好感度なんか糞食らえだ!山里は今のまま頑張ってくれ! 笑い飯も他の舞台で頑張ってくれ! それにしても、よく言われる(?)ことですが、笑い飯は女性ウケしないコンビです。その証拠に、彼らはゴールデンのバラエティにぜんぜん呼ばれていません。女性ウケしないと呼ばれないのです。その点、ノンスタイルはなぜだか女性好感度が高いようです。だからというわけではないけれど、ぼくはノンスタイルがぜんぜんぴんと来ませんでした、昨年も今年も。

 ぼくは笑いが好きで、むしろ笑いに呪われてきましたけれども、ノンスタイルが好きだという自称お笑いファンとは一生仲良くなれない気がします。笑い飯や東京ダイナマイトが好きな人となら、すぐにマイミクになれます(ミクシィ入ってないけど。誰も入れてくれないけど)。 

ハライチというコンビもいましたが、あの坊主の人は来年あたり売れるでしょう。これはかなり濃い線です。動作も大げさだし、てんぱり感が今ウケするし、わかりやすくテレビ向きですから。ここのコンビはもう一人がもうなんともどうにもならない感じがします。ボケでもないですからね。坊主さんが頑張っているだけですから。で、気になるのはあの方、ネタの途中でなぜか知らないけど笑うんです。なんで? あの人がもっともっとぐいぐい、いや、ぐいぐいじゃなくても、もうちょっとなんかあれしなきゃ! あの坊主さんが喋りだしたとき、そこに乗ってミニコント始めるでもなんでもいいので、なんかあれしなきゃ!

 モンスターエンジンとハリセンボンは、これといって印象に残るものがなかったように思います。ハリセンボンは初めのほうの、家が厳重になっているところや家の中のくだりがちょっと間延びし、モンスターエンジンは前年に比べM-1仕様のテンポアップがなされていましたがボケの威力に乏しかったのです。その意味ではパンクブーブー、四分間に適したテンポと間、ツッコミの威力を持っていました。ボケの威力はツッコミによって変化しますが、アンタッチャブルに似ている分、盛り上がりが生まれていました。

 パンクブーブーはアンタッチャブル、サンドウィッチマンに続いて三組目の関東勢チャンプとなりましたが(もともとは福岡らしいですが、標準語漫才ということをここでぼくは言いたい)、かなりアンタッチャブルを参考にしているように思います。力の限りつっこむことで、ボケが余計に面白く見えてくる。大したことのないボケである場合も、ちゃんと面白くなる。あの声質の響きがいいんですね、怒り調子で。

 決勝三組の熱量としてはパンクブーブーが圧倒的だったように思います。笑い飯はなんたるかな、結局2002年の初出場以来、8回連続出場でラスト、2位に終わる。そして来年以降、M-1の舞台に彼らはいない。そのことは結構寂しいです。有終の美を飾ってほしかったのですが、それでも、どうしても、パンクブーブーがよかった。これはもう、文句の付けようがありません。

追記:笑い飯は来年も出る?
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こういう映画は要素が素朴なほうがいい。 
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 新しいパソコンを買いました。一代目の購入から六年くらい経っているので、まあよしとします。デスクトップを購入したのですが、今までより画面がでかく、映画鑑賞には実に適しております。

『悪魔のいけにえ』(原題・『Texas Chainsaw Massacre』)はなんともすさまじい映画でした。実にぞくぞくしました。やはりこういう映画をきちんと観ていかねばなりません。大の大人が『悪魔のいけにえ』を愛でるなど、このポストモダン社会において阿呆と思われそうな所業ですが、ぼくはこういう映画をちゃんと愛でられる大の大人になりたいと思います。ドトールでヤンエグとクリエイターが打ち合わせをしているその横で、「『悪魔のいけにえ』は最高だぜ、ぐへへ」と笑う大の大人になりたいと思います。

若者たちがとある場所を訪れ惨劇に見舞われる、というのは、とうに使い古された設定ではありますが、使い古されたということはつまり、最もわかりやすく、余計な要素抜きに効果を生み出せるということでもあります。この手の話には余計なあれこれは不要。殺人鬼に追われる恐怖が存分に描かれていれば、他の要素はないほうがいいのです。

 殺人鬼レザーフェイスが初めて出てくる場面は、度肝を抜かれました。今では韓国に息づく「鈍器の恐怖」があり、低予算であるがゆえの生々しさがありました。レザーフェイスは怖いです。見た目、攻撃力におけるキャラクター性としては、後発の『13日の金曜日』、ジェイソンに似てはいますが、あの映画とは見せ方がぜんぜん違っていて怖いんです。ジェイソンは正直、あまり怖くないんですが、これは見せ方の問題が大きい。あとは物語や人物の動きの問題もあるんですが、今回のレザーフェイスはジェイソンよりはるかに上の恐怖を与えてくれます。何がいいって、間合いが素晴らしいんです。若者たちを追い立てるときの間合いが絶妙で、いちばん怖い距離です。いちばんハラハラドキドキの高まる距離をつくっている。一歩遅れれば捕まる、というのがいちばんいいわけです。多くの映画において、登場人物たちが追走劇を繰り広げる場面がありますが、この映画の間合いはひとつのお手本です。チェーンソーを持って大男が追いかけてくるんですよ、しかも絶妙な間合いで。記憶の限り、ジェイソンにはこの絶妙な間合いがなかったと思います。

 正直前半はだるいんです。もうとんでもなくだるい。いや、あの醜悪な男がいたから掴みにはなるけど、盛り上がりに至るまでがすっごくだるい。でも、その分あのレザーフェイスのファーストカットはあっぱれ、目が覚めます。時間も短いし、深夜にビデオ屋にふらりと行って借りてくる分には、大変お薦めです。ところであのミイラじじいは何なのでしょうか。あれは笑ってしまいますが、ああいうのを入れてくるところがよくわからないですね。いや、ぜんぜん悪く言ってはいません。何考えとんねん、とつっこみたくなる場面があります。じじいのハンマーのくだりはもう笑っていいのか何なのか、あれはねえ、実はすごい勇気の要る表現なんです。あるいはアホにしかできない表現なのです。怖い怖いと思ってずっと観てきた観客は、絶対にあそこで戸惑います。許容力のない人は、あの場面は要らないよね、などと言うかもしれませんが、ああいうまったく意味不明の場面はあっていいのです。だって、あまりにアホですから。あまりにアホなものは必要なのです。『バタリアン』におけるババアの首や首無しのあいつみたいなものです。でも、『サンゲリア』のサメ対ゾンビは好きではありません。

 この傑作に気をよくし、続けて『テキサス・チェーンソー』を観ました。リメイク版です。こちらはこちらで白熱した逃亡劇、スプラッター劇なのですが、もともとのほうがぼくは好きだし、この先覚えているのは間違いなくもとの作品のほうです。リメイク版を観て感じた比較点は沢山あるのですが、いちばん大きな部分で、画面が綺麗になることの辛さ、というのはあります。『悪魔のいけにえ』は古い低予算映画ですから、画質が荒いです。でも、その分の味わいって、やっぱりあるんです。これはサム・ライミの『死霊のはらわた』でも感じたことですね。醜悪なものが本当に醜悪に見えてくる。『悪魔のいけにえ』でほんの一瞬映る、蜘蛛か何かの群れはもう本当に気持ち悪い。こういうのは画質の悪さが大きいんです。白黒映画特有の味わいがあるように、別に何でもかんでも鮮明なものがいいわけじゃない。これは実に幅広く、また奥深い話になりますので、回避します。

 『テキサス・チェーンソー』は決して悪くないです。ドキドキさせます。でも、良くも悪くも綺麗に収まっていて、『悪魔のいけにえ』が持つ強烈さがありません。たとえばそれはラストシーンの違いに象徴的です。『悪魔の』のラストはずっとずっと覚えていることでしょう。逃げ延びた女の狂った哄笑、そしてあの朝焼けに踊るレザーフェイス。一方、『テキサス』はといえば、「赤ちゃんを救ったわ」というなんとも意味のない着地(誤解の無いように言いそえると、本当のエンディングの部分は別ものなのですが、やはりあれでももとの作品にはとても勝てない)。

『テキサス』は要らない要素が多い。先ほど述べたとおり、この手の映画に余計なものは要らないのです。怖さに興奮させてくれればもうそれでいいのです。あるいはとんでもなくアホであればそれでいいのです。それをねえ、ちょいちょい変に要素を足すんです。あの赤ちゃんとか子供とか、何の意味も無いじゃないですか。出してきたわりに別に活きてくるわけでもなく、どうして赤ちゃんとか子供とか入れたかなあ。あと、仲間にとどめを刺すあのくだりも要らない。いや、あれを入れるならば、最後にあの女は狂わないと。狂わせる上でなら意味があるけど、結局とんちを利かせて逃げ延びましたって話ですよ(あの車のくだりにはまんまと騙されましたが)。工場のくだりもなあ、確かにそりゃあ見た目は怖いし、映画的な味付けにもなっていますよ。でも、映画の難しいところで、味付けをしたからっていい味わいが出るとは限らないんです。むしろ、「余計な味付けしやがって感」のほうが引き立つ場合もあるのです。「この塩辛い磯臭さがいいってのに、なんでマヨネーズなんか掛けるんだ、このとんまめ」と思う羽目になります。

 レザーフェイスの恐怖、この点がもう決定的です。もとの作品よりさらにレザーフェイスは暴れますよ。でも、画質問題もあって、生々しくないんですよ。ゲーム的な敵に見えてくるんです。もともとあった哀しさというか、もう本当にどうしようもない存在、というのもない。『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスはどうしようもないですよ。ちょっと痛々しいんです。最高にアホな場面があると書いたけれど、あのアホな場面があると、レザーフェイスの哀しさも生まれてくるんです。ああ、こいつはもう、本当にもう、どうしようもねえんだな、というね。

『テキサス』を悪く言っているようですが、『悪魔のいけにえ』が大変すばらしかったのでこれは仕方ありません。一本の映画としては楽しめると思います。だから別に作品を貶しているわけではありませんし、貶そうとも思いません。要は『悪魔のいけにえ』がすごくよかった、ということです。おわり。
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同じく「夢に呪われている」者として、悲哀が足りないと感じました。
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 宇多丸絶賛の本作を十二月、新文芸坐。
 埼玉県の冴えないラッパーたちを描いた映画で、80分と短く、我らがおねマスのみっひーも出演とあって、観てきました。埼玉という微妙な場所、そして米国発祥のラップ、ヒップホップを日本語でやる「イタさ」を描いている作品ということで、ラップ全開の映画ではまったくありません。その点にも興味を惹かれました。

 ヒップホップ、というものには興味がありません。いわゆるB-BOY、その種のファッションも好きではありません。一言で言うと、「ガラが悪い」感じがします。どうしても不良っぽい感じがあります。ロックの不良とも違うんですよね。たとえばロックの不良チームとヒップホップの不良チームがあって、「どちらかに入って活動せよ」と言われれば、ぼくは言葉を駆使し韻を踏んでいくヒップホップに入ると思うんですが、周りと仲良しになれるかどうかはすごく疑問です。すっごい偏見を持って言うと、チーマーっぽいんです。ロックはチーマーっぽくないんですが、ヒップホップはチーマーっぽいです。ロッカーはカツアゲをしそうにないのですが、ラッパーはしそうで嫌です。はい、偏見です。

 この種の偏見はこの映画では解けません。出てくる登場人物はやっぱりどうもガラが悪そうです。主要人物は情けない面が結構出てきますが、そこを描かれない脇役はどう見ても悪そうですからね。主人公はラップグループ「SHO-GUN」でライブをしたいと願いながら、ぜんぜんうまく行かず、夢と実際の生活に苛立つ若者です。これは個人的に惹かれる、というか重なる部分も大きい設定です。その点も映画館に足を運んだ大きな理由です。

 宇多丸もいとうせいこうも泣いたというのですが、やはりそれは彼らがラッパーだからでしょうか。ぼくには引っかかりませんでした。いちばん大きな理由は、「この主人公は本当にラップが好きなのだな」という部分がないからです。なんとかしてやろう、という部分もあまりないんです。それで働くこともせずニート暮らし。こうなると応援できないし、わかるぞー、と共感する部分もないんです。ラップが本当に好きそうに見える、なんとかしたいと悩んでいる、特にしたくもない仕事で日々を過ごしている、このうちのどれかひとつでもあれば、ぼくはすごく共感できたんです。「ラップ」の部分以外は、ぼくと同じですから。ああ、そうだよな、こういう局面ではこういう風になるよな、というのがないんです。もしくは、ああ、こいつは意外といいやつだなあ、というのもない。たとえば『レスラー』ではラムが眠いのに子供と遊ぶじゃないですか。『キングオブコメディ』ではやけにパプキンが人なつっこかったりするじゃないですか。好きな作品ではないですけど『竜二』でも竜二を好きになれるところは多いんですよ。この映画の主人公は、好きになれるところがない。ただ怠けている人、に見えてしまう。

 いや、わかりますよ。ただ怠けているだけ、に見えて、そうじゃない部分ってあるんです。どうしたらいいのかわからない、という風になることって、もういっくらでもあります。どうしたらいいかわからなくて結局何もできずに終わる夜、を何度過ごしたことか(そしてこれからもそういう日はきっと来る)。でも、映画ではその部分が見えてこない。なぜなら、先ほど述べたラップへの愛情、なんとかしたいという悩みの部分が引き立っていないから。これはすごく残念です。

 我らがみっひーが出てきます。AV女優として出てきます。しかも普通、映画で出てくるAVシーン(エスワンのものかマキシングのものかわかりませんでしたが)が、妙に長い。普通より十秒くらい長い。みっひーはおねマス屈指の演技派で、いい演技を見せてくれましたが、この映画に出てくる必要があったのか疑問です。役割に乏しいからです。映画的な色づけにはなっていますが、もっと出すか出さないかした方が、物語の風合いとしてはよくなったと思います。主人公との関係もよくわからない。もちろん、上京して都会で頑張る彼女と主人公の対比があるのはわかりますが、ここではそれならみっひーじゃないほうがいいと思います。だって、どの程度のメジャーな存在なのかわからないですもん。ああ、でもこれはみっひーが大好きだからこう感じるのでしょうか。ぼくとしてはぜんぜん知らない企画女優みたいな人が出てくるほうが、非メジャー感があってよかったと思う。しかもすごく細かいことを言いますが、このみっひーが単体なのかキカタンなのかわからない(意味は調べましょう)。企画女優ではなさそうなのですが、単体とキカタンでぜんぜん違います。ビデオのパッケージはワンカット放り込むべきでした。そうするとみっひーの活躍レベルがはっきりしたんです。AV女優について話し出すときりがなくなるのでやめておきますが、ここでは現実世界で既にアイドル的女優のみっひーを出すべきではなかった。役柄上の女優として出ていても、みっひーとして見てしまいます。わかりやすく言うと、そうですね、たとえば南明奈がアイドルとして出てくるようなものです。しかもどの程度のアイドルかわからない存在として出てくる。こうなると観客は戸惑うはずです。みっひーはAV界において、南明奈どころではありません(あ、いまさらですが、みっひーとはもちろんみひろのことです。みひろを知らないなんて、まさかまさか。無知にもほどがあります)。主人公にとってどういう存在なのか、あらゆる意味で見えづらい。

ラストシーンがすごい、という人もいるんですが、ぼくはそこまでの部分でこの主人公を応援できなかったので、どうもなあ、という感じ。あの場面も、実はあの部分までがかなり記号的なんです。『レスラー』でもありましたね、ラムがスーパーの総菜部門で働くところ。あれは延々と長回しした後、もう嫌だ! となるじゃないですか。ああいうタメがないんです。すっごい空いている焼肉屋ですからね。あれはせっかく長回しにするなら、ある程度の混雑があったほうがいいはずです。そこで仕事の失敗をするくだりをつくって、やっと先輩店員に怒られるところが利いてくるんです。定点でもかまいませんから、絶対そうするべきでした。やりたくない仕事に対するうんざり感プラス、という形になったはずなんです。店員もあの場面の間、ずっと脇で立っているだけだし、もっとあそこは演出できたでしょう。

 うん、総じて言うと、夢を追っているはずのこの映画では、夢を追っている感じがないんです。あるいは、夢に呪われている(宇多丸より借用)感じがない。夢とは呪いである、と宇多丸はラップで言っていました。その通りなんです。夢は呪い、この呪いが解けない。そしてその呪いが解けることなど考えられず、であるがゆえに深い呪いとなる。夢追い、あるいは夢の呪縛。そのどちらかが、もっともっとほしかった。

 最後に。ライムスターの「ONCE AGAIN」より、宇多丸ヴァースを引用。

 午前0時 日付の変わる瞬間 雨上がりの冷気 
 感じながら誓うまたリベンジ 気がつけば人生も後半のページ
 なのにいまだ半端なステージ 時には手痛く食らっちまうダメージ
 まるでいつか使う予定のマイレージ みたいにひたすらため込むでかいイメージ
 誰のせいにもできねえ したくねえ 夢別名呪いで目が痛くて
 目ぇ覚ませって正論 耳が痛くて いい年こいて先行きは未確定
 きっと映画や漫画の見過ぎ 甘い言葉聞き過ぎで時間のみ過ぎ
 ガキの好きそうなことばっか病みつき この男 誇大妄想家につき
 挫けなさは異常 ほとんど病気 ゼロからのスタートは一緒 荷物は放棄
 失うもの最小 得るほうが大きい 財産は唯一最初に抱いた動機
 気分はやけにとうがたったルーキーズ 
 午前0時 新しい日の空気 俺は古着 だが洗い立てのブルージーンズ
 そのドアを叩いて振り絞る勇気
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これはもっと踏み込んでほしいテーマなんですが。
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11月に新文芸坐で鑑賞。
『選挙』で注目を集めた想田監督の第二弾。「観察映画」と称されるその作品はテロップ、音響、筋書きなしのドキュメンタリーで、ダイレクト・シネマとも呼ばれます。実際、想田監督がカメラを回し、編集も行い、余計な肉付けなど一切行っていないため、エンドクレジットに出てくる制作者は監督だけです。

「こらーる岡山」という精神病の診療所がメインの舞台となっています。精神病院、というより、本当に診療所という感じの場所です。田舎の町医者みたいな感じです。そこを訪れた人々や病院で働いている人々にインタビューを行い、映画は進んでいきます。

 精神病の人々をおったドキュメンタリー、というと、どうしても残酷な興味を抱いてしまいます。どういう変調が、異常が起こるのだろうと期待してしまうのは、ぼくだけではないでしょう。ですが、実際に患者として出てくる人々は、どこにも異常らしい異常は見られない人が多いんです。もちろん、彼らが語る過去では不運、不遇があったりするようなのですが、そして今も病気を患っている人が沢山出てくるわけですが、登場する人々は言ってしまえば普通なのです。

 今のところ健常、健康であるという人と、精神病患者が、いかに紙一重であるかというのを感じさせられます。いや、紙一重ならば少なくともその紙の分だけは離れている。しかしもしかすると本当は病んでいるのかもしれない。病んでいたとしても、別に生活に支障はないと感じている。それなら精神病とは一体何なのか、などなどを、観終わったあと考えてみたくなるものです。そっちの話をし出すともうきりがなくなるし、結局は堂々巡りになるので避けます。

 興味深さ、その映画が持つドキュメンタリー的な面白さ、ということで言えば、ぼくは『選挙』のほうが数段よかったかなあと思います。ここでの面白い、というのはinterestingの意味ですが、面白さはさほどに感じなかった。『選挙』はひとつの物語として見ると、投票日がクライマックスになり、そこまでの選挙期間がそのままダイナミックさを帯びていたわけですが、今回に関しては、ひどく雑で嫌な言い方をすれば、人々がお喋りしているだけ、とも取れるんです。先ほど、登場する患者は皆普通に見え、病気を患っているように見えない、と書きました。その点で、なるほど精神病とは目に見えにくい、自分たちと紙一重なのかもなあ、などと考えられはするのですが、いかんせん今度はその人が出てくる理由がわからなくなる。精神病の人たちを取材して、その人たちが皆別に変じゃなくて、それで映画ができましたっていうのも、どうなのかなあと思います。正直ね、ああ、この人は病んでいるな、という部分がほとんどないんです。辛い過去だったり病歴だったりは話されますけれど、カメラに映る部分で、ああ、確かにこの人は病気なのだな、とわかる部分が非常に乏しいと思います。

 監督は、一切モザイクを入れないで精神病の人々を映すことが大事だと考え、皆顔出しでの出演です。モザイクそれ自体が精神病を世の中から隔離するコードだから、という話なんですが、正直、ここに映っている範囲のことであれば、モザイクは要らないと思われるものばかりでした。ああ、この現場を、この様子をモザイクなしで映しているのか、とはっとさせられるようなところはないです。ここに出てくる人たちは、インタビュー可能な人なんです。中にはインタビューが不可能な人もいるはずなのです。あるいは、「え、こいつが言っていること、ちょっとおかしくないか」という発言をする人もいるはずなのです。でも、そういう人たちは出てきません。なので、刺激の強さはない。いや、いいんですよ、刺激っていうのはつまり観客の勝手な欲望ですし、登場する人々は一般の人々なのであり、大変な事態にならないならそれに越したことはない。でも、そうなるとこの映画ってすごく弱いものじゃないですか? 

 この映画のラストで、インタビューに答えていた人のうち二人が自殺したことがわかります。映画の中では、それほど印象には残らない人物です。これ、編集の仕方では、もっと印象深い人物として尺を取ることもできたはずで、そうなると最後の衝撃も大きくなる。劇映画ならば取られる手法ですが、もちろん監督はそんなことはしません。それはそれでいいと正しいんです。変に劇映画的にして、尺を取っていたりしたら、むしろ監督の人格を疑うところです。だから正しい。でも、その正しさ、被写体に対するまっとうな優しさ、がゆえに、映画としての力は、うーん、強くはないと思うんです。

 長々と書きましたが、簡単に言うとこういうことです。ぼくはこの映画を精神病を扱ったものだと知っていて、出てくる人の多くも患者だと知ってから観ました。でも、そういう事前情報一切なしだったら、精神病の患者を映したドキュメンタリーだとは思わなかったんじゃないか、と思います。それくらい、薄い感じがします。

 精神病院というと、精神を壊してしまった人が隔離される場所、みたいな印象が昔からあるようです。映画でもたとえば黒澤明の『生きものの記録』でも三船敏郎がそうなってしまうし、岡本喜八『殺人狂時代』でもそれこそ精神病棟の檻に入れられた患者が出てきて、鬼の形相を浮かべていたりします。他の映画でも、精神病患者が檻の中で暴れている、みたいな描写があったりしますよね。ああいうものではないよ、精神病患者に対するあの種のイメージは間違っているよ、というのは一応この映画の力によって伝えられています。でも、本当に精神を崩して会話不能になったような人は出てこない。あるいはそういう場面は映されない。想田監督はインタビューで、「踏み込みが足りないといわれるけれど、踏み込むのは好きじゃない」と答えています。ああ、踏み込んでくれないんだ、と少し困惑しました。踏み込むのがこの人の仕事なんじゃないかな、あるいはもうちょっと踏み込んだ場所で観察するのがこの人の仕事なんじゃないか、と思わされるのが今回の作品でした。『選挙』では、選挙がいかなるものか、がすごくよくわかった気がしたんですが、今回は精神病について、あまり理解が深まりませんでした。わかったような気になるのもよくないとは思うけれど、これではぜんぜんわかりませんでした。自分は精神病の人々についてぜんぜんわかっていないんだな、ということも、わかりませんでした。
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たまに観てみると、いいもんです。 
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 ディズニーアニメ『ティンカーベル』です。『ティンカーベルと月の石』という二作目が公開されているようですが、その一作目をDVDで観ました。

 あまり期待していませんでしたが、面白かった!
 ピクサーの看板監督、ジョン・ラセターが製作総指揮らしく、やっぱりこの人が関わるとちゃんとしたものができますね。

妖精の住む世界、「ピクシーホロウ」にやってきたティンカーベルは、「ものづくりの才能がある」と言われて、ものづくり担当の妖精になります。ですが、彼女は自分の仕事が好きになれません。そのうえ、ものづくりの妖精は人間の住む「メインランド」に行けないと教えられ、そこに行きたい彼女はなんとか違う才能を見つけようと悪戦苦闘します。

 ティンカーベルの顔はどうもしもぶくれでそこまで可愛くない、と第一印象で感じたんですが、彼女の頑張る姿を観ていたぼくはいつしか応援しており、最後にはこのティンクが大好きになりました。ちゃんとギャグの演出も決まっていて、中でも出色なのはあの「走りあざみ」というキャラクターです。これは『サボテンブラザーズ』に出てきた「歌う木」と同じく、実に面白い存在です。植物が変なことをするとどうしてあんなに面白いんでしょうか。あれが動物だったら面白くないんですよ、大して。でも、「走りあざみ」は植物で、こいつの存在がもう訳がわからない! 訳のわからないものが大量に突っ走っているという描写は最高に愉快! 蛍の大群とティンクのチェイスも面白いし、CGアニメーションも実に豊かです。あと、これまたキュートなのが雛鳥です。あの雛鳥はすごく可愛いです。ああいう細かい部分でも小気味が利いているんですねえ。

 ディズニーアニメですし、びっくりするようなことは起こらないですよ。ちゃんと規範、道徳をわきまえたつくりで、お子様連れのお母様も安心して観られます。この手の話はそれでいいんです。アクション映画やカンフー映画は内容云々よりもそのアクション描写が魅力になるわけで、収まるところに収まるのはまったく悪いことではありません。『ティンカーベル』は収まるところにちゃんと収まって、その中で楽しめるものを律儀につくっています。時間も短いし、さくっと観られます。これはお薦めです。

『マダガスカル』 エリック・ダーネル トム・マクグラス 2005

 さて、同じようなCGアニメで、こっちはよろしくないな、と感じたのは『マダガスカル』です。ドリームワークス製作なんですが、こちらはお薦めしません。というのも、どうにも画づくりがよろしくない。2005年ですからCG技術もかなり栄えているはずなのに、なんでこんなにかくかくしているのでしょうか。ライオンの毛は異様にふさふさしているのに、人間の描写なんてひどいもんです。ひどい、と言ったってそりゃちゃんとはしていますが、この頃はずいぶんピクサーに水を開けられていたようです。正直、PS2っぽいんです。人間はもう人形です。何の人格も感じられないし、まるでゲームキャラクターっぽく、それもPS2のゲームで街を歩く通行人、みたいな、要するにどうでもいい存在なのが丸出しなんです。 CGアニメの快楽ってひとつにはね、どうでもいい群衆がいかにキュートに見えるかってところにあると思うんです。物語には一切絡まない背景の存在だけれど、そいつがそこに生きている感じが出せるかが勝負のしどころだと思うんです。それでその世界が文字通り立体的に見えてくるんです。ピクサーは一貫してそれができています。別の機会に語りますが、ドリームワークスは『カンフーパンダ』ではできていました。ところがこの『マダガスカル』はそれがぜんぜんできていない。変にかくかくしているんです。これが1980年代とかならすごいと思うんでしょうけど、今ではもう時代遅れ感がすごいです。ピクサーはそうならないから立派です。

で、肝心の物語もひどいもんです。もうちょっとなんとかならなかったのでしょうか。ぜんぜん軸がしっかりしていないんですよ。何をどうクライマックスに持っていきたいのかがわからないまま話が進み、結局なんやそれというところに行きます。都会の動物園にいた動物たちがマダガスカル島に行く、という話なんですが、そこで起こることがすべて中途半端です。何を描きたいのか、監督は自分でわかっていたんでしょうか。だから正直、クライマックスも、「一応クライマックスをつくらないと駄目だな」という惰性的な義務感でつくっただけに見えてくる。実際、話はそこに向けて盛り上がっているわけではないですから。

 しかも設定がこれまたよくわからない。あの動物たちは一応人間の文字が読めるんですよ。でも、人間とは一切コミュニケーションがとれないんです。おかしくないですか? それならさあ、人間の言葉を読んでいるつもりでも実はぜんぜん読めていない、とか、人間の言葉を書いたつもりでもぜんぜん書けていないとかにすれば説得力も出るし、ギャグにもなるじゃないですか。しかも普通にシマウマが街を歩いたりしているのに、駅や電車の中では大騒ぎになったりするんです。どういうことなんですか? その辺がもうゆるゆるなんですよ。マダガスカル島で猿の大群に出会うけど、それだって別に何も活きてこないし、あのボスみたいな奴も結局何もしていないです。ボスは何かしろよせめて! ペンギンの扱いもなあ、北極の演出は別に悪くないんですよ。でも、最終的にあのマダガスカル島で日光浴しているって、どういうことですか? ペンギンだろ? ライオンの肉食描写みたいなのを描いているくせに、ペンギンに関してはリアリティゼロでいいの? 肉食のくだりもなあ、もう無理矢理なんですよ。なんとか話を進めなくちゃ行けないってくらいでしか考えていないですよ絶対。そのための設定でしかないです。ライオンもさあ、せっかく動物園にいたんだから、「動物園では威張っていたけど野生に行ったらたじたじになっちゃう」みたいなのを入れてもいいんじゃないの? 一貫して強いんですよ、ライオンが。だから都会の動物園とマダガスカルの対比がないんです。人間を描いていないから、野生もちゃんと描けていないんです。もう全編がはりぼてみたいな映画です。2はもちろん観ません。
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