<   2010年 01月 ( 15 )   > この月の画像一覧

何も起こらなくていい、と序盤から魅了された。ベタですが、実家にはちゃんと帰ろうと思いました。
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最新作の「ペ・ドゥナasダッチワイフ」はまだ観ていないのですが(そんなタイトルではない)、もうすぐ新文芸座で公開されるようで、ぜひ観に行こうと思います。いやあ、『歩いても歩いても』は素晴らしかった! 

 ほとんど何も起こらない映画、なんて言い方をされるものは数ありますが、ぼくはかなり早い段階で、「ああ、もう、この映画は何も起こらなくていいや、それでぜんぜんかまわない」と思っていました。かなり早い段階で魅了されました。何か大きな出来事を起こして物語を駆動させる映画とは対極にある、日常のちょっとした出来事を積み重ねる映画は数多いですが、その多くはぼくの言葉で言うと「むにゃむにゃ映画」なんです。なんかいろんなことがむにゃむにゃしており、むにゃむにゃしたやりとりなり何なりをずっと見せられ続けることもあります。そうした映画とまったく違うところとしてやはり、細部の照らし方がいいんです。細かい部分がよく描かれているので、映画内の人々がちゃんと息づいている感じがしました。
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 阿部寛とその妻と子供が、彼の実家に帰省した二日間を描いています。阿部寛の両親は樹木希林と原田芳雄、阿部寛の妹にYOUがいて、彼女の夫と子供二人も帰ってきています。この人たちの間合いがもうなんともいい感じです。ちょっと複雑なのが、阿部寛の妻と子供です。阿部寛の妻(夏川結衣)は過去に前夫と死別しており、子供(田中祥平)は彼女の連れ子です。
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 この田中祥平の立ち位置がすごく絶妙なんです。有り体に言えば、この舞台となる家とはぜんぜん関係ない子供なんです。YOU夫妻の子供は田舎のおばあちゃんの家に来てはしゃいでいるのですが、田中祥平は正直ぜんぜん血のつながりもないので、どうしていいかわからない感じなんです。この設定はいいですねえ。またこいつがちょっと賢そうなんです。中学受験の塾では絶対に上位クラスにいます。こいつがまた、ぜんぜんYOUたちの子供と仲良くならないんです。一緒に遊びに出たりするんだけど、一応一緒に遊んでいるんだけど、ぜんぜん仲良くなっていないんです。この辺の感じは正しいというか、子供を記号的に扱っていないわけです。子供は子供同士ですぐに仲良くなるみたいな、いい加減な処理をしないわけです。意外とそんなに仲良くなれない、というのは非常によくわかる。

細かい部分で言うと、序盤でファミレスにいるとき、コーラとジンジャーエールを割ってオリジナルドリンクを作り、テーブルに持ってくるんです。これも実際にあるじゃないですか。ああ、子供ってそんなことするわー、という細かい演出です。あとは「うさぎへの手紙」の話とか、将来なりたいものの話とか、伏線ともならぬほどの伏線がきちっと回収される。細かい部分における伏線の回収がきちんとなされていて、大変気持ちのいい作られ方です。『誰も知らない』の子供の描き方もすごくよかったし、是枝監督は子役を撮らせたら邦画でも随一じゃないでしょうか。
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 家の中でも特に印象に残ったのはあの風呂場の棒です。あの風呂場の棒を阿部寛が気にかける場面で、時の流れ、両親の老いをさりげなくも明確に描いています。ああ、時間が流れたのだな、ということをわからせる場面で、あれは実家を離れて暮らす人間ならば何事かを感ずるでしょう。ロデオマシーンを買ったけどぜんぜん使っていないところとか、ああ、わかるわー、です。
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 女性陣も全員好演していました。YOUがまた、ちゃんと年老いた感じで見えるんです、冒頭の方からね。シニカルだけど明るくて、彼女が会話の要になっている。何を言ってもちろっと気の利いた返しをするし、あの樹木希林とのやりとりはもうずっと観ていたいくらいでした。樹木希林は本当にすごいというか、もうあの役は樹木希林以外ではありえません。YOUと仲良くやる感じ、原田芳雄との間合い、死んだ息子への思いとその原因をつくった男への思い、もう樹木希林がらみの部分は全部いいです。ぼくはあの蝶々のくだりで泣きました。
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蝶々が家に迷い込んでくるのですが、「死んだ息子が来たのだ」と言って追いかけるんです。このシーンは泣きました。今思い返しても鳥肌が立ちます。あの場面にはもう、本当にいろいろ入っているじゃないですか。死んだ息子を思う気持ち、というのもありますけれど、同時に阿部寛目線からすると、親の老いを思うんです。決してぼけてはいませんよ、まったくぼけてはいない、でも、もっと若い頃の彼女ならあんな風にはしないんじゃないかと感じ、戸惑い、そこに老いゆく母を思うんです。蝶々が外に出て行き、それを縁側から眺めるショットのすばらしさ。あんなくだりを思いつく監督は、並々ではありません。これね、樹木希林がぼけていれば、それほどじいんとは来ないと思うんです。普段はすごく明るいし、しっかりしているんです。そんな彼女が見せたあの行動は、だからこそこちらをはっとさせるんです。と同時にね、死んだ息子の存在もこちらに見えてくるんです。あ、思い出した。あの写真のくだりもいいですね。家族写真を撮ろうというときに、すっと遺影を持ち出すじゃないですか。ああいう細部の積み重ねが、蝶々の場面で小さく大きく弾けるんです。
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 原田芳雄の頑固じじいの感じもすばらしい。ここでも細かい台詞が効いています。子供が「おばあちゃんの家」と言うのを、YOUに向かって愚痴るんです。考えてみると、よく「おばあちゃんち」なんて言い方を聞きますが、その家の家主は本来「おじいちゃん」だったりするわけです。ああ、気づかなかった、という驚きと、そういう細かい人間の気持ちをきちんと見つめている監督に脱帽です。またなぜか知らないけど、田中祥平ばかりをかわいがっている感じが面白いです。YOUの連れ子のことはかわいがっておらず、庭の木を折るなと叱りつけたりするんですが、この田中祥平にはちょっと興味を持っています。あとはあの、加藤治子の部分ですね。倒れて救急車で運ばれていくのですが、あのときのあまり力になれていない様子。それをもの悲しく見届けるたたずまい。
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 樹木希林と原田芳雄の夫婦は、ちょっとぼくの両親の感じに似ているんです。それがこの映画に魅入られた大きな要因でもありますから、違うタイプの両親を持っているとまた感じ方が違うかもわかりません。原田芳雄と阿部寛の関係も絶妙の一語でした。阿部寛は敬語を使うんですよ。ぼくは両親と話すとき敬語など使いませんが、ちょっとわかる。なんか、きちんと向き合うのがどうしても恥ずかしい感じ、今の自分にちゃんと自信を持てない感じ。さっきから感じ、感じと語彙のなさを丸出しにしていますが、「感じ」というのがいちばんしっくり来るんです。この感じをわかるかわからないか、です。幸い、ぼくは今回の映画、わかる側の人間でした。わからないな、という人も、きっといると思います。この映画がわからないとは! などと言うつもりはまるでありません。ですがこの映画はわかる人にはびしびし来ると思います。
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夏川結衣という女優さんは正直あまり観た覚えがなかったのですが、きわめて適切なキャスティングだったと思います。樹木希林というすごい領域にいる人と、ぶつからないくらいの丁度いい透明さでした。YOUの樹木希林の娘としてのよさと違って、夫の実家に来た嫁ですから、やっぱりある程度の存在的な「引き」があったほうがいいわけです。癖がなさそうなんです。主婦的でベタな趣味を持っていそうだし、子供を奔放に育てている感じもないし。で、寝室でちょっと本音を漏らすところが生きてくる。もう、全編にわたってバランスの取り方が抜群です。
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 物語が全くなくてもいい、大変に出来のよい映画でした。すごくベタなことを言いますが、ちゃんと実家に帰ろうと思いました。

小説もよろしく!

愛国計画

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菅家さんと検事のこと、従属することの罪、長い話。
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原題『COOL HAND LUKE』
 町山智浩さんが「一生に一本観るならこの映画だ」「これに比べたら他のポール・ニューマンの主演作などゴミだ」とまで言っていました。

『暴力脱獄』というのはなんかどえらく熱い邦題ですが、原題はむしろ逆で、そして当然原題の方が内容にそぐいます。客引きのためでしょうが、むしろ汗臭すぎて客が来ないタイトルじゃないでしょうか。日本では当たらなかったようです。

 ポール・ニューマンが囚人となり、刑務所に入ります。彼はその性格の良さ、明るさから、周りの囚人たちに一目置かれ、また愛される存在となります。しかし、とあることがきっかけで、脱獄を繰り返すようになるのです。

 ぼくは60年代から70年代のアメリカ映画が好きですが、一方ではその地味さ、ある種の穏やかさ、もっと言えば雑さについて、好みではない部分もあります。たとえばサム・ペキンパーに関しては、ベタに『ワイルドバンチ』とか『わらの犬』とか『ゲッタウェイ』とかが好きなんです。『ケーブルホーグ』とか『ビリー・ザ・キッド』、『昼下がりの決斗』、『ガルシアの首』などは正直面白く感じなかった。これをしてぼくは自分が、本当にペキンパー映画が好きな人種ではないことを自覚しております。あれらの作品はどうも地味に感じられてならない。地味というのは題材ではなくて、話運びや演出の部分で。アメリカン・ニューシネマは好きです。好きですが、『スケアクロウ』とか『真夜中のカーボーイ』は楽しめなかった。あれらの作品は地味で、結構弛緩していて白熱に乏しくて、そこに映画的深みを感じる人もいるのでしょうが、ぼくはまだまだひよっこでよくわからない。イーストウッドに惹かれないのも、この辺のことが関係しているのです。

 今回の『暴力脱獄』も同じように感じた。もっともっとががっと来ておくれよと思ったけれど、意外とさらっとしていたんです。しかも町山さんの映画の語り方にも間違いがありまして、これはひどく残念なところでした。町山さんは「一生に一本の映画だ」とまで言っているのに、ポッドキャストでは内容を間違って語っていたんです。劇中、ポール・ニューマン扮する主人公の母親が死にます。でも、刑務所にいる彼は葬式に行けません。悲しみで妙な気を起こすといけないから、という理由でその日の労役を免除され、独居房みたいなところに入れられます。これを町山は「母親の葬式に出ようとして脱走したけど捕まって、独居房に入れられる」などと言っていました。また、独居房に入れられる際、看守の言った言葉に対してポール・ニューマンが「ものすごく怒る」などと語っているのですが、実際観てみると怒っているというより、一言文句を言う程度でしかなく、そのシーンを期待して観ていたぼくは肩すかしで脱臼寸前でした。
(追記:独居房ではなく、「反省房」です。ご指摘いただきありがとうございます)


 町山さんの言うとおりであれば、この映画の点数はすっごく上がったんです。この映画について彼は『ドラッグ・ミー・トゥー・ヘル』(=『スペル』)の回のポッドキャストで語っていまして、この回の内容はすっごくいい話だったんです。だから町山さんの語りの方が感動的だった、というなんともしがたい映画体験でした。

 映画の持つテーマ性はぼくが常々考えていることにばっちり来るものでした。すなわち、反抗すること、です。反抗すること、逆に何かに唯々諾々と従うこと、それを通して人間を描いていて、「アメリカでも唯一の実存主義の映画」らしいです(本当に唯一なのか?)。

 話は変わりますが、ぼくはあの菅家さんの冤罪事件と、検事との法廷での対立に、「従うこと」の罪性というか、人間社会の業の深さを感じました。菅家さんは当時自分を有罪に追い込んだ検事に対して、謝罪を求めました。ところが、当時の担当であった森川検事は謝ろうとしませんでした。この出来事だけで、ぼくはいろいろなことを考えました。

 このニウス、仮にこの検事が謝罪を済ませていれば、ぼくはそれほど思い巡らせはしなかったと思うんです。検事はなぜ謝らなかったのでしょうか。謝罪というものを簡単に捉えている人であれば、謝罪していると思うんです。でも、そうはしなかった。この点についてだけ言えば、、謝罪というものをきちんと考えている人だと思い、検事に対して肯定的になれます。事なかれ主義的に謝る人じゃないわけです。ではなぜ謝らないのかと言えば、まさに「従うこと」の業であって、彼はおそらく、当時自分が与えられていた役目に忠実に従っていたのです。自分は自分の仕事をやったまでだ、恥じることは何もない、というわけです。ここには従属することそれ自体が罪たり得る、という実存的な問題があります。自分は与えられた仕事をやったまで、もしその仕事が悪いのだとしても自分のせいではない。この考え方はその個人の身になれば道理も通ります。極端な例が戦争です。戦場で人を殺してもそれは上官の命令だ、というわけです。『私は貝になりたい』の豊松は否応なく敵兵を殺します。そうじゃなければ、自分が殺されるかも知れないからです。

 戦争は極限状態ですから自分の命まで問われるけれど、平素の生活における従属はそこまでのものではない。ただ、何かに従属した行為は、それ自体が常に既に「保身」と表裏一体であり、保身を願望することから生まれる行為は、得てして他者に対する罪の実行となります(ああ、映画に関係ない堅い話が止まらねえ)。従属の究極形態は信仰です。何かを絶対的に信仰することは、何かに絶対的に従属するということです。神という存在はその意味で、大変危険なのです。「私に従え。さもなくば不幸になる」と言われたら、従ってしまうのが人情。そしてその従属こそが他の不幸を呼び込む。ぼくが神を尊ぶよりも悪魔を重んずる理由は、ここにもありました。

 かの検事は従属することの罪性に気づいていない。いや、反対に、自分はまっとうに従属したのだと誇りさえ感じているかも知れません。だからこそ、無実の可能性があった菅家さんを従属させることについて、罪の意識を持たなかったのであり、持っていない。ぼくの考えはあくまで菅家さんが無実であるという前提に基づくものですが、本当に彼が無実であるならば、かの検事は二重、三重の罪を負っているわけです。役割に従属した罪、己の従属の罪に気づかないこと、その精神によって他を不当に従属させたことです。

 加えて言うなら、検事が謝罪しない理由はもうひとつ考えられます。もし謝罪すれば、今度は一挙に彼自身が業を自覚することになるからです。平たく言うと、自分のやったことは正しかった、と信じなければ、申し訳なさ過ぎて耐えられない、というわけです。従属の罪を自覚する痛みもそこに加わるのであり、社会的エリートとして生きてきた彼の自尊心は、きっとこれを受け付けないのでしょう。

 ここまで読んだ人がいるか知れませんが、短絡的に「従属を罪だと言っている」などと捉えてほしくはありません。そんなことを言えば、検事に従属した菅家さんが悪いということになります。それは、たとえは悪いですが、奴隷状態にあった人に「従うな」と言っているようなもの。ぼくの述べたいこととは大きく異なります。ぼくが焦点としている従属はあくまでも、「己の役目に対する従属」です。検事の従属はそれですが、菅家さんのものとはぜんぜん異質です。 

 映画と関係ない話で今日も長くなりましたが、『暴力脱獄』はその映画について語るよりも、「その映画から語られること、について語ること」のほうが多いように思いました。それは映画としてパワーがあり、深みがあるという証なのでしょう。ただ、フェアに映画的な快楽を判断したときに、それほど映画自体の魅力を感じないのも事実です。脱獄のシーンの緊迫感はぜんぜんないし、ポール・ニューマンが受け入れられていく過程もなんとなくの感じがあります。だから道路舗装の達成感があまり伝わってこないし、看守と囚人という最も形になる部分もあまり活かされない。看守と囚人なんて、アメリカン・ニューシネマとしては最高のお膳立てだと思うんですが、看守サイドの圧力は脱獄の部分くらいでしか描かれない。

 話は尽きませんが、そろそろ打ち止めないとまた違う話で盛り上がりそうなので、中途半端な感じもしますが、まあ、とりあえずはここまでで。
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ぼくの好きな悪魔じゃない!

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下が日本市販のDVDパッケージ、内容を示せていませんねえ。上の元のやつだと売れないとか考えたのでしょうか。これだけ観るといかにも悪趣味ですが、この印象だけで内容を推察するとまず間違いなく裏切られます。これは思いっきり映画秘宝的な作品ですね。他の映画誌なら受け付けない、女ウケのしない、血みどろのテキサス。1も観ましたが、2のほうがずっと印象深いです。そして、なんとも困惑させられる映画でした。

1のモチーフはわかりやすく『悪魔のいけにえ』で、あの映画の元となったエド・ゲインが人形で登場します。ただあの映画と違って、悪者としてかわいこちゃんとかこのパッケージのおっさんが出てくるんですね。その辺で色味は変わってくるんですけど、本質的にはあの元の映画と同じですから、それほど印象には残らなかった。

2は設定自体を受け継いでおり、あの最悪殺人家族が警察に追われるところから始まります。主人公は最悪殺人家族です。逃避行の最中に次から次へと人々を殺しまくります。

 終わり方に顕著ですが、アメリカン・ニューシネマ風味が相当に濃くなっています。悪者の逃避行はむろん『俺たちに明日はない』ですが、やることがえげつないです。このえげつなさを容認できるかどうかで、この映画への愛着はまったく違ってくるでしょう。あの最悪家族をどう受け止めるかで、ぜんぜん評価が違ってくるはずです。ここがぼくにとって最も困惑する部分であり、この映画の肝とも言えるところでしょう。

『俺たちに明日はない』のボニーアンドクライドは、言ってみれば連続殺人鬼で、一言で言えばどうしようもないやつらです。でも、当時のアメリカ(1930年代前半)の社会的に不安な背景もあり、ただの殺人犯としてではない見方が生まれていた。人々の鬱憤を代弁するような存在としても受け止められていたわけです。また、『俺たちに明日はない』はアメリカン・ニューシネマの第一号でもあり、これもまた1967年という時代の状況にそぐうものだったのです。くわえてこの映画は古きハリウッドへの反発、その代表作として登場しました。お行儀のよいハリウッド映画に満足できない若者たちの心を強く捉えたのがかの名作だったわけです。

 さて、『デビルズ・リジェクト』ですが、この主人公の連中については、ボニーアンドクライドとはやっぱり違うと思うんです。そもそもがエド・ゲインという救われない殺人鬼を発端として造形されているわけで、エド・ゲインは残念ながらボニーアンドクライドとはほど遠い。1を踏まえてその続編として観たときに、やっぱりこの主人公家族がやってきたことは最悪すぎるんです。こんなやつらの逃避行を楽しめるほどには、良識を失うことができないのです。

 あのー、この家族を追う保安官は、鏡に向かって独白するシーンが象徴的なように、神という記号を担っていて、家族はタイトルにもあるとおりにまさに悪魔として位置づけられるわけです。神と悪魔の話を『アニマルハウス』のときに書いたのですが、ぼくはかみに対置される悪魔というものを非常に重要な存在だと思っています。

 ただね、ぼくにとって重要な「悪魔」は何も、「悪いことをする存在」ではないんです。思うに、悪魔の本質は別に「悪」でも「魔」でもない。ここは一般的な認識と大きく異なる部分でしょうが、ぼくはこの解釈に自信があるというか、今のところ間違いを覚えません。

 悪魔を「悪魔」と名付けたのは神のほうなのです。福音派を支持基盤とする前アメリカ大統領はいみじくも、対立する国々を「悪の枢軸」と名付けました。ではアメリカこそが善であり、かの国々が悪なのか。そう断定していいのか。アメリカによるこの十年の行いを見れば、その断定があまりにも危険だとわかるわけです。そして、悪魔と呼ばれた存在の本質が、「悪」や「魔」でないこともわかる。あくまでも(ややこしいな)、神に従わぬ存在として、悪魔はあるわけです。十数年前に自分の子供を「悪魔」と名付けて問題となった話がありましたが、その言い分にも一理あるわけです。神に従わぬ存在、言い換えれば、「己から強い意志を持つ存在」であるわけで、そういう風に育ってほしいのなら、これ以上の名称はないというわけです。

 ボニーアンドクライド、アメリカン・ニューシネマが人々を魅了したのは、神と対峙する存在としての悪魔だったからです。悪いことをしたからいいんじゃないんです。押しつけの秩序、信じられぬ秩序に牙をむいたから人気を得たのです。

 迂回が長くなりましたが、そうした文脈から判断すると、この最悪家族には価値ある意味での悪魔性は感じません。神(=秩序)と対置する存在としての悪魔ではなく、ただ悪いことをしている悪魔にしか見えない。あるいは『イージーライダー』のような、秩序からの自由者とも見えない。単なるたちの悪い破壊者にしか思えない。

 いろいろ考えたけれど、やっぱりこの最悪家族を好きにはなれなかった。なので白状すると、あの正義に狂った保安官が暴走しているとき、ぼくは痛快でならなかったんです。あの保安官の勝利で終わってもいいと思ったくらいでした。あの保安官には復讐を遂げさせてやりたかったのです。特にあのチャンネエが可愛らしいじゃないですか、きったないホワイトトラッシュばかりが出てくる映画の中で、あのチャンネエはグンバツに可愛いのです。で、あのチャンネエにむかついていたぼくは、「お、お、お、おまえなんかで勃たないぞ!」と思っていたぼくは、あの保安官がチャンネエを追い詰めたとき、なんとも痛快だったのです。これは女王様として威張っていたやつをぶち殺す、という、ぼくが妄想の中で理想とするシチュエーションに近かったのです(危ない!)。あいつが死んだ後で保安官が死姦していれば、痛快マックスで射精していたかも知れません(ああ、もうアウトだ)。

 いや、意外と真面目な話なんです。「愛する者よ、復讐するな」「復讐するは我にあり」とはこれまさに新約聖書の言葉でありまして、いわばあの保安官は主の代行者を気取りながらもその実、主に従わなかった存在なんです。彼は己の意志を持って動いた人間であり、ぼくの思う悪魔像に近いのです。その彼が、いわば「間違った悪魔」である(すなわちデビルズリジェクト=悪魔の廃棄物にすぎない)彼女を屠るとき、正しき悪魔は自らの存在をさらに際だたせることができます。あの場面においては、正しき悪魔が堕せる悪魔を打ち砕くシーンだったのであり、だからこそ保安官の勝利を求めるのです。

 こういう考え方でこの映画を観る人は多くないかも知れませんね。
 あの保安官は結局殺され、まるで最悪家族が被害者みたいな構図です。それで結局、あのアメリカン・ニューシネマだったなら最高に上がる終わり方を迎えるんですが、いやあ、この家族が好きなら、この映画を褒めまくっていたでしょうね。あの終わり方は確かに格好いいのです。あの終わり方をされたら、この映画に惚れていた人はもうメロメロでしょう。でもなあ、「家族愛」とか出してくるあたりはどうなのかなあ。いやいや、そこで家族愛をおまえらが語るのかよ! と思いますねえ。むしろ家族愛とかとは対極に突き抜けて欲しいんです。さんざん人を殺しておいて家族愛とかに着地されると、ああ、悪魔としての筋が通ってねえなあと思う。ダニエル・プレインビューを見習ってくれ!

 ぼくがもっと映画に詳しければ楽しめたであろう小ネタもあり、その点も残念です。映画に詳しくないと単に要らないシーンに思えてしまう場面がたくさんある。どう考えても話に関係ないシーンはいくつもありますね(あの映画評論家とかチキンファッカーのくだりとか)。映画好きには楽しめるのだろうなあと思いつつも、こちとらそれほどにシネフィルじゃないので、テンポが悪くなったという感じ方もあります。

 いろいろ書きましたけれども、それでも一本の娯楽作品としてはすごく濃度があると思いますよ。単に不快と受け取る人もいるだろうし、最高と思う人がいるのもわかるし、ぼくみたいに悪魔について悩む人もいる。娯楽的でありながら、そういう思考のしどころをたくさん生んでくれる映画です。どう感じるか、で自分の人間性を確かめてみるのも一興だと思います。おわり。
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これをベスト級に入れるって、馬鹿じゃないのか。

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 宇多丸が昨年のワースト4にしており、別に観なくてもよい映画だと判断していたのですが、キネマ旬報ではベスト9になっており、あらら、何かしらあるのかしらと思い、ディスカス。

 結論から言うと、宇多丸のポッドキャストですべて言い尽くされているなあという感じです。あれで全部言われているので、ぼくがここでいちいち指摘する必要はありません。これをベスト9に入れたキネマ旬報の選者たちを心底疑う。選考方法はというと、これは映画ベストテンを選ぶときに広く行われるポピュラーなやり方で、10本を選び、1位に10点、2位に9点、3位に8点という具合に与えていくものです。順不同の場合は1本につき、5,5点が与えられます。キネ旬といえば昔からの権威ある映画情報誌ですから、多くの映画観(えいがみ)たちが携わっているわけでしょ。評論文みたいなのを書いてお金もらってるわけでしょ。それでこれに点をあげた人が複数いるわけでしょ。どういうやつらなんだよ! 

 映画はと言うと、簡単に言えば「フジテレビ失笑シリーズ」のひとつです。ただ失笑を漏らすばかりなのです。少年犯罪の加害者家族、志田未来演ずる女の子と、彼女をマスコミの過熱報道から守る刑事、佐藤浩市が主人公です。犯罪における加害者家族の葛藤なり実情なりを描く、というところが本作の売りなのでしょう。

 つまり物語内容としては、徹底してリアリティに比重のかかるものです。リアリティなんてものは本質的にはどうでもいいのですが、この手の話だといちばん大事な要素になります。一般の人が知らない社会のありようをモチーフにしているのですから、「こんな風にはならないよ」と思わせては駄目なのです。この手の映画はそう思わせた時点で、もうアウトなんです。

 だからもうかなり序盤でアウトでした。こんな風にはならないだろ、の連続です。いちいち突っ込むのも面倒なほど低レベルなものです。やっぱりこの手の話なら、一般人、観客の実感が大事になるわけですよ。我々が日頃ニュースなり何なりに触れているときの実感がくすぐられなきゃ駄目なんですよ。中学生の女の子の写真なりインタビューをマスコミがあんなに欲しがるわけないじゃないですか。写真撮ったところでどこで使うんだよ!使えねえだろ! どのデスクが「加害者の妹である中学生の写真を撮ってこい」と指示するのでしょうか。カーチェイスまでして。実際凶悪事件のニュースに触れても、そんな加害者家族の写真、見たことないじゃないですか。これね、実際ニュースでそういう写真が多く報道されていれば、実感とそぐうんですよ。でも、日頃見ているニュースとはぜんぜん違うから、もう架空の話もいいところなんです。

加害者家族のどうたらを描きたいのでしょうが、それを悲劇的に描くために他のすべてを歪曲して厭わない。2ちゃんねる的なものの描かれ方はその極みです。あれもね、一度だってああいう暴走が現実に起こっていれば受け止め方も違いますよ。でも、あんな風にまで暴走したこと、一度でもありますか? いやいや、これから起こることがあるかも知れないのだ、警鐘なのだ、というんですか? あのねえ、ネットをやる人の人格を疑いすぎ。宇多丸は的確に指摘していました。この監督はネット嫌悪がひどすぎる。どうしてこの監督がネットをそこまで嫌悪するのかという推理も含めて、溜飲の下がる指摘でした。しかもわかりやすく、ネットで暴走するやつはアニメオタク的だということにしている。パソコンにアニメのシール貼らせてね。あのさあ・・・・・・いや、なんか、もう、いいや。

 かようにこの映画では看過できないレベルの誇張が行われています。テーマを描きたいがために、他の「いやな要素」を誇張しすぎている。マスコミの過熱報道とか、ネットの炎上とかを批判したいのかもしれないけれど、この映画自体がまったく同じ愚を犯しているんです。報道なり何なりに文句をつけているおまえが、いちばん事実をねじ曲げているんだよ! ということです。人に向かって「ちんこが出ているよ」と言っているおまえが、なんで全裸なんだよ! しかもてめえのちんこは勃起までしているよ!

 この映画は罪が重いですよ。
 中にはね、これを観てね、「報道とかネットとかの問題を考えさせられました」みたいに受け取っている人もいるみたいなの。ってことはその人たちは、この作り手によって思い切りねじ曲げられた世界を信用してしまっているんですよ。間違った世界認識を植え付けるんですよ。まさにさっきのちんこの比喩通りで、批判しているこの監督がいちばんの悪なんです。

宇多丸が触れていなかった細かい点を指摘しておきましょうか。
 まず、あのケータイのくだりです。ケータイを覗かれるのが嫌だ、持ってきてくれというんですが、あのケータイに関してはネットの恐怖は描かれないんですよね。ぼくはてっきり、あのケータイのアドレスもばれて、誹謗中傷のメールがばんばん入ってくるとかされると思ったんですよ。ねじ曲げた世界ならいっそのこと、ちゃんとねじ曲げるべきです。駄目映画でも駄目映画なりに脇を固めるべきで、そういう演出一つで彼女の孤独感なり危機感なりを高められるじゃないですか。住所までネットにあがるほどのねじ曲げ方なんだから、いっそのこと徹底してねじ曲げて、そのねじ曲げを物語的に有効に使え! と、言っても、監督本人は悪いねじ曲げだと思っていないわけですけど。

 母親の自殺が記号的に過ぎます。悲劇性を高めたいのでしょうけど、あれはあまりにも記号的。自殺させるならその種、つまり母親の人格をたとえわずかでもあれ描く必要がある。別にエピソードに時間を割く必要はないんです。細かい演出でできるんです。たとえば役所の人間が来たとき(あれも嘘らしいんですけど。本当にひどい)、事務的に婚姻の処理をするんですが、そのときも母親は手が震えてペンが持てないであるとか、異常に部屋の汚れを気にしてみせることで、精神的に危ういのだと観客に知らせるとか、あるいは逮捕された息子を気遣って差し入れを頼む、でもその差し入れが訳のわからないものになっていて精神錯乱を思わせるとか、なんでもいいんです。いくらでも思いつく。数秒のカットでできる。そういう気遣いがないから、記号的な自殺という最悪の方法に堕す。そして、父親はどこに行ったのだ! おっさんと少女の取り合わせって映画的に好きなんです。『チェイサー』とか『レオン』とかね。あれをしたかったのかもしれませんが、そのためにも父親をもうちょっとしっかり扱え!

 あと、これは本当に重箱の隅の隅、気づく人も少ない場面でしょうが、冒頭の場面、佐藤浩市らが買い物をする場面、あれ、池袋東口なんですよ。ぼくの家の近所です。でね、佐藤浩市は娘へのプレゼントを買っているんですね。まあ平穏な場面のわけです。でもね、彼が抱えている過去の事件のトラウマというのがあって、その事件の起こった現場がなんとまったく同じ場所なんです。本当なら近寄りたくもないんじゃないのか!? 回想場面はほとんど映らないからいいと思ったのでしょうし、まあ重箱の隅の隅ですから見逃していいんですけど、いかんせん池袋東口の風景をぼくは知っている。こういうところでも印象が悪くなってしまった。

 芝居に関しても、はっきりとテレビドラマの芝居。映画じゃない。監督がテレビドラマで成功した人ですから癖が出るのは仕方ないけれど、だとするならこれは映画じゃなくて、テレビドラマとしてやるべきだった。内容的にも、テレビドラマの仕様です。

 この映画をベスト9に入れたキネマ旬報はやらかした感じです。これをベスト級に入れた映画観(えいがみ)を、今後ぼくは一切信用しません。去年は『グロテスク』も『オカルト』もあったのに!
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残虐表現の最高峰。この監督は要注意です。
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 過激すぎる残虐描写のためにR-20指定となり、イギリスでは上映禁止、DVDの販売も禁止。それどころかあのアマゾンにおいても取り扱い中止となっている作品です。エロアイテムも普通に買えるあのアマゾンで、販売中止になっているものを初めて知りました。それほどに相当に、忌避されている作品です。ちなみに、鳥居みゆきはゼロ年代ベストで一位にしておりました。彼女はソウシリーズが好きらしく、やっぱり彼女はいい子です。
 
 時間は70分程度と短いのですが、いやあ確かに強烈な映画でした。これはまず間違いなく、上映中に席を立つ人が続出したでしょうね。以前に同監督の『オカルト』を観て、すごい作品を撮る人だと思い期待して観ましたが、期待以上でした。他の作品を観ていないのでまだ詳しくはわかりませんが、去年公開の『オカルト』『グロテスク』二作を観る限り、すごい映画監督が現れたという印象です。園子温が今の日本映画でぶっちぎりだと書きましたが、ホラーにおいても彼が本気を出すとすごいことになるはずだと書きましたが、いや、もしかするとこの白石晃士という人もそれに比肩するかもしれません。いや、『グロテスク』における表現は、園子温がまだ立ち入っていない領域であり、この人は今後すごく期待できる監督だと思います。
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 ストーリーと呼べるほどの物語性はありません。付き合い始めのカップルが男に拉致され、体をぎたぎたにされるだけです。もう最低の映画です。ただ、ここで言う「最低」が文字通りの意味でないことは、今日の話運びでわかるでしょう。最低すぎて、でもその最低が本当に最低のところまで行っているので、むしろすごい。これはお勧めしていいのか迷います。くだんの通りに嫌われまくっている作品ですから、おそらく途中で嫌になる人もいるはずです。
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 スプラッター表現は昔からありますが、この映画における人体破壊描写は非常に正しいというか、監督がその嫌さを十分に心得ている点で多くの作品と異なります。スプラッターがスプラッターとして成功するか否かの鍵は何か。ヴィジュアル的な過激さではありません。CGを用いて「えぐく」「ぐろく」すればいいかというと、まったくそうではない。大事なのは肉体的、身体的感覚をいかに与えられるかです。痛そうな表現が痛そうに見えるためには、観客の身体性に訴える必要があるのです。失敗例はここ数年の『ソウ』。あれはもう過激な残虐描写をインフレ化することにしか、作り手の意識が行っていない。だからいくら体が張り裂けて血が出ても、痛そうに見えない。『ソウ』の本来のおもしろさまで見失っており、あれはもう今、どうしようもなくなっています。反対に成功例としてあげられるのは、スプラッターでもホラーでもありませんがキム・ギドクの『魚と寝る女』(2000)、そして数ヶ月前に取り上げた増村保造の『盲獣』(1969)、どちらもヴィジュアル的なインフレは起こっていない。でも、身体的な痛みを十分に表している。映画を観れば、そのどちらもが身体を十分に意識して作っているのがはっきりわかるでしょう。
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『グロテスク』における身体表現で、信頼が置けるなとまず思わせたのは、あの排便の描写です。排便、失禁している様子は、映画を観るときに大切な要素です(別にスカトロ趣味はありません。念のため)。理由は簡単で、それのあるなしで、どれだけ誠実に人間、肉体を描こうとしているかが大体わかるからです。人物が拘束、監禁される場面というのは映画でよくありますが、「おいおい、そんなに長い時間拘束されていたら、おしっこ、うんこも出てくるだろうよ」と思ったこと、ありませんか? ここをちゃんと描く映画は信頼できると思います。ああ、うわべだけで撮ろうとしていないな、とわかりますから。こういうところで身体性はこもってくるんです。その人間がひとつの肉体であることを、どれだけちゃんと描いているかがわかります。
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 さらにこの映画が身体に踏みいっているのは、性的な描写を入れてくることです。AV女優、長澤つぐみ(SOD系なので、ぼくの好きなマスカッツにはいませんが、大変な名演でありました。その辺の「女優」をはるかに凌駕しています)は変態男によって舐められ、揉まれ、手マンされます。カップルの男の方は手コキを食らいます。もうこの時点で良識ある人たちは観るのをやめたかもしれませんが、ここでもまた身体性が強く意識させられます。こうした下地があってこそ、残虐表現は活きるのです。
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 今日は長くなりますよ、すごい映画でしたから。

 変態男役の大迫茂生という役者さんがまたいいんです。この人、ちょっと奥目で、顔立ちがマスクっぽいんです。だから余計に不気味な感じがした。この得体の知れなさは狂気を漂わせていて、絶品でした。話は変わるようですが、『ごっつええ感じ』という番組がありました。あれがほかのコント番組と大きく違っていたのは、いかに日常と異常を渾融させていたか、という部分です。ほかのコント番組、あるいは芸人のネタにおいては、最初から変なやつが変な言動をとることになります。ボケ役がすごくわかりやすく、徹頭徹尾変な人として立ち振る舞う。ところが『ごっつええ感じ』で多く、松本が演じたキャラクターは違っていた。どう見ても変なのに時々筋の通ったことを言ったり、あるいはめちゃくちゃな行為をした直後に普通の人が見せる普通の姿になったり、そういう工夫によってキャラクターがただのボケ記号であることを回避していました。本作でもそうなんです。思い切り狂っているのに、会話が普通だったり、むしろすごくまっとうなことを言ったりするんです。これこそが狂人のありようであると思わされます。『オカルト』でもそうでしたけど、狂人というのはたぶん、すごく筋が通っている人なんです。その人の中ではちゃんと理屈が通っていて、他の理屈を受け入れられない。でも、根本的に変な方向を向いているから、傍から見れば奇異と映る。ぼくもちょっと狂人傾向があるので、この辺はわかります。二作を観る限り、狂人の描き方がとてもよくわかっている。
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 この変態男の発する質問がまた、等身大的なんです。観てもらいたいのであえて書きませんが、ああ、それを訊くかあ、と。うん、あの状況であのカップルに尋ねるうえで、あれ以上の質問はないです。すっごく単純なことなんですけどね。もういちばんくらいにベタなんですけど、あの質問は肉体のみならず、精神的な部分でも説得力を生みました。観客も、つい考えてしまいますもん。この男の問いを、無意識に自分で受け取ってしまうはずですよ。そうやって移入を促す。うまい、ものすごくうまい。
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 注文をつけるとしたら、ちょっと小休止的な場面があるんですけど、あそこの描き方は変かなあ。一回、「助けてやる」みたいになるんですけど、あのくだりがねえ、そういう反応はしないだろうっていうのが結構多かったんです。最初のカップルの語らいはいいんですよ、ちょうどいい微温具合。でもあの寝室のシーンは違うかなあと思いますね。あそこも完璧だったら、この映画はものすごい傑作になっていたと思います。全編非の打ち所なしの。

 ラストはねえ、もう、アホです。もう、どう受け止めていいのかわからないアホさなんです。あれをもっとリアリズムで落とし込むこともできたでしょうけど、あえて変な方向に走った、『悪魔のいけにえ』パターンです。でも、アホだからこその狂気ってのもあるのでね。「がんばれ」のくだりはもう狂気の極地で、「とどめ」のくだりはアホの極地です。この場面における長澤つぐみの語りかけは、『愛のむきだし』の満島ひかりちゃんの聖書暗唱に匹敵します。

 音楽の使い方もこの人はわかっているというか、かなり園子温に影響を受けていると見て間違いありません。園子温が用いた「音楽と場面の乖離による狂気の増幅」を踏襲しています。簡単に言えば、ひどい場面に穏やかな音楽を流す手法です。古くは『博士の異常な愛情』のラストであり、実相寺昭雄が用いていた手法でもあり、最近では『エヴァ破』で使われていました。わりとポピュラーな方法で、成功失敗は個人の感覚によるんでしょうが、本作では効果的でした。あの威風堂々。
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 総じて言うに、これはさすがもろもろの禁止を食らうだけのことはありました。免疫のない方にはお勧めしませんが、映画史における『グロテスク』な残虐表現、その最高峰と言って、差し支えないでしょう。

追記
 この映画は実は、ゼロ年代に大流行したいわゆる「死にオチ系純愛もの」への強烈な皮肉、もしくはそれを好きこのんで観に行く観客への痛烈な批評になっています。というのも、大迫は劇中、「自分を感動させてくれ」と要求します。そして、人物たちをぎたぎたにし、それを眺めている。この男はいわば、難病などで死に逝く登場人物の姿を好んで観ようとするような、「死にオチ系純愛もの」そのままなのです。だからこの映画は、残虐系映画であるのと同時に、ゼロ年代に純愛系で涙した人々へもまた、捧げられているのです。純愛ものが観たいという人には、ぜひぜひお薦めしましょう。

小説もよろしく!

愛国計画

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正しい戦争映画のあり方。
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ぼくの普段観る映画は日本映画とアメリカ映画がほとんどでして、それ以外の地域のものはぽつぽつとしか観ず、ロシア映画というのは実は観たことがありませんでした。今回初めて観る本作は厳密にはロシア、カザフスタンの映画らしく、トルストイの小説を原作としています。

 第一次チェチェン紛争を題材にしているのですが、恥ずかしながらぼくはこの辺のことについてまったくの無知でありました。たぶん、おおかたの日本人がそうだと思います。チェチェンの場所を正確に、あるいは大体にでも把握している人は少ないと思います。ロシアからの独立をめぐって起こった紛争で、今もなお緊迫状態が続いている。こういう紛争は世界に数知れませんが、こうした出来事を見聞きすると、日本のニウスなんてものを観る気がいよいよ失せてきます。日本で大問題だと言われていることも、向こうに比べたら些事もいいところ。日々戦っていたり、あるいはそれに苛まれたりしている人々からすると、日本の政治家のどうしたこうしたなど、「けっ」の一音で唾棄されるでしょう。この映画は言ってみれば小さな映画です。描かれることも決して派手ではない。でも、映画自体が持つパワーというのは、下手な超大作よりずっとずっと大きいものです。鑑賞し終えてから残る余韻、というのは、表現が持つ大きな魅力ですが、この映画はまさにその点が大きいのです。

 コーカサス(カフカース)地方でロシア兵二人が、山村に囚われます。彼らを捕らえた村人の一人が、捕虜の交換に彼らを使おうと画策します。村人の息子がロシア軍の捕虜になっており、その息子を奪還するために彼らを生け捕りにしたわけです。ロシア兵二人は脱走を図りながら、その山村で暮らしていきます。

 山村に捕虜がやってくるという話だと、これより後に『鬼が来た!』(チアン・ウェン 2000)がありますが、あれがかなりパワフルな劇だったのと対照的に、とても静かな物語運びです。ロシア兵二人と村人の交流とも呼べぬ交流があり、退屈と言えば退屈ではある。そんな映画を支える大きな要素は、コーカサス地方の山々です。本当にファンタジーみたいな世界で、画になりすぎるほどの風景です。この地方で生きていくというのは一体いかなる人生なのだろう、という想像をふくらませるのです。雄大な大自然、という月並みな文句がありますが、この風景は雄大すぎます。ああいうところで生きている人は、もう根本的にぼくや多くの日本人とは何か重大なものが違うのでしょう。アメリカやヨーロッパはまあ、同じとは言わないけれど似通うものはありますよ。でも、あの場所で生きている人とはもう、本当に全然違うだろうな、と思わされます。観ながらそんなことなどをいろいろと考えることができます。

 物語は中盤、ほとんど動きません。囚われた兵士の母親が奪還を望む様など描かれますが、山の方ではあまり大きな出来事は描かれない。だけれどその分、クライマックスに行くと一気に持って行かれます。「一気に」と言いましたが決して勢いがあるクライマックスではない。あくまで淡々と、淡々と進みます。でも、起こることのひとつひとつはショッキングです。「静けさが静けさのままに弾ける」。辛うじて言えるのは、そんな漠然とした文句だけです。その出来事を観ているときは、クライマックスだ! ショッキングだ!とはあまり思わない。でもそのシーンの数十秒後くらいに、ああ、なんかもう取り返しがつかねえや、という気分になる。ボディブローというのでしょうか。じわりじわりと来るのですね。

 あのラストシーン、ラスト数分間は本当に秀逸でした。銃声が鳴り、死んだはずの彼が目の前を横切っていく、振り返れば老人の後ろ姿、荒野、生き延びた男の上に迫り来る戦闘機、助けに来たかと思いきやそのまま飛んでいく戦闘機、そのまま飛んでいき、旋回する戦闘機。ここは、すごい。

 いや、本当はこんなシーン、つくられないほうがいいんです。松本人志が以前、映画評の連載をしていたとき、「戦争映画は本当は面白くない方がいい」と述べていました。いわく、戦争っていうのは本当にひどいんだと思わせなくては駄目で、どんぱちやるのが面白いとか格好いいとか思わせるようでは本当はいけないんだ。その伝で行くと、この映画は成功しています。この映画は確かにいい映画です。でも、本当はこの映画自体がつくられないことこそ、いちばんいいことなんです。あのラストシーンも、本当はああであってはいけないんです。

 近頃はこの手の感触をもらえる映画に出会えておらず、大変貴重な映画体験でした。こういう映画はない方がいいんですが、これはとてもいい映画です。これはとてもいい映画ですが、こういう映画はない方がいいんです。だからこそ、戦争映画として大変正しいのである、とだけ、はっきりと申し添えておきましょう。
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わかりやすい駄作だと思うのですが。

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言わずと知れた超有名古典劇だけあって、過去何度も映画化されているようですが、今のところこれがその中で最新となっているようです。バズ・ラーマン監督は『ムーラン・ルージュ』の前半がすごくよかったので期待して観ました。

 ぼくとしては見終えてから、「これは結構わかりやすい駄作だな」と思ったんですが、いやあアマゾンなんかでは五つ星レビューが多いんですね。褒めている人の大体はOLじゃないでしょうか。OLが褒めているということはろくなもんじゃないということです(反感しか買わないことをこうやってぼくは言ってしまうのだ)。

 昔の戯曲を現代劇にアレンジしているのですが、現代劇にすることと現代風にすることはぜんぜん違っていて、見てくれは現代劇でありながらちっとも現代風ではなく、だからこそ物語の進行と人々の動きに大変な乖離が見られます。それが最も顕著に表れているのがあの台詞回しですね。

 いかにも原作から持ってきたような詩的にして大げさな台詞回しが多いのですが、いかんせんこれは現代劇のトーンとしては合わない。冒頭でちんぴらたちのどんぱちを映してしまったでしょ。あのせいで余計にトーンが一致しなくなってしまった。ちんぴらたちとロミオ、ディカプリオは友達なんですが、一人だけ浮いています。ノリがぜんぜん合っていないので、もう映画的にばらばらになっている。クライマックスの誰もが知っているあの場面でも、あろうことかディカプリオはアロハを着ているんです。よりにもよってアロハって。

 古典的な恋愛劇と現代っぽいちんぴらの部分が一緒にあって、互いを殺し合っている。ちんぴらの浜辺の部分とかはもうすっごい面白くない。ちんぴら映画ならちんぴら映画で、あの浜辺のシーンも楽しくなるのに、一方ではお堅い恋愛劇も入れようとするから、結局映画の雰囲気がどっちつかずです。普通の映画っぽい形で、愛のささやきを交わすのはまずいでしょう。プールのシーンで戯れるシーンがありますが、今度は古典からそのまま持ってきたような会話だったり独白だったりするくせに、撮り方はきわめて普通です。だからね、現代が舞台の恋愛劇を見せられながら、台詞だけはやけに昔っぽいという、どうにもならない乖離があるんです。これならいっそ、もう思い切り昔っぽくターボを掛ければよかった。割り切って大げさにやってしまえば熱量も生まれたのに、二人の別段面白くもないちゅっちゅですからね。OLはこの程度でいいのでしょうけれど(だからぼくはどうしてそういうことを言うのだ)。

 ジュリエット役はクレア・デーンズという人ですが、ジュリエット役にはミスキャストだったように思います。それほど可愛くない、いや可愛らしいですけど、なんていうか、クラスでも三番目くらいの感じです。「ソフトボール部に可愛い子いるよな」「え、誰だろ、あ、あの子か、うん、まあ可愛いね」くらいの感じです。超有名古典劇の誰もが知っているヒロインですが、それにしてはちょっと普通すぎるんです。でもこれはOL受けするにはいいのです。レオ様に愛される相手を普通の女にするほうが、移入しやすいのです。これは「倖田來未がそんなに美人じゃないからギャルにも受ける」のと同じことであって、あれは素顔がブスっぽいからいいのです。ギャルメイクを肯定するためにはそれがいいのです。ブスでもごてごてメイクをするとモテる、という、厚盛りメイク肯定論を体現するのが、倖田來未なのです。

 まともな方向に話を戻すと、話運びがちょっと無理があります。古いものを現代に直すとき、そこでは当時と現代をどう調整するかが鍵になる。つまり、今の時代では通用しないものをどうするか。たとえば携帯電話のない時代とある時代では物語の作り方が違うわけで、この映画でもそこが重要だったし、何なら活かすことだってできたと思う。この映画では携帯電話は出てきませんが、現代になっているのだから変えなくちゃいけないところがあった。それを怠っています。

 いちばんまずいのは殺人を犯したロミオを捕まえもせず、「街から追放」という意味不明の処置を行うことです。警察もいるんですよ。なぜ捕まえないのかわからない。昔ならまだわかるというか、観る側としても見逃せる部分じゃないですか。このヴェローナの都から出ていけ、という風にして物語を進めるのは、シェークスピアの時代のものなら別にいいじゃないですか。でもこれは現代を舞台にしているので、そこは看過できない。これだともう、単純に当時を再現するのが面倒だったり金がなかったりするから現代にした、というだけです。金がないから現代劇にした、というなら、その分頭を使って説得力を持たせないと駄目でしょう。そもそもがモンタギュー家とキャピュレット家が何なのかよくわからない。対立している両家って、何? マフィアなの? 何なの? 現代劇にする上での説明がぜんぜん足りていません。

 しかもえらいことになっているのは、神父からの手紙が届かないというくだりのずさんさ。行き違いなり何なりという物語の面白みを活かせる場面なのに、ここはびっくりします。逆にびっくりします。郵便屋が手紙を届けるけれどそれがロミオに渡らない。これでラストに繋がるわけですが、郵便屋が届けに来たとき、ロミオはすぐ横の草原で遊んでいるんです。このせいで手紙が渡らなかったのだ、という風にしたいのでしょうけど、あのさあ、手紙でしょ? なんで「不在通知」になるの? 宅配便じゃねえんだから、不在通知はおかしいでしょ。

 物語の節々がずさんで、登場人物の造形もすかすか。クライマックスはというと、ここはちょいと工夫してはいるんです。ロミオが毒を飲んだちょうどその瞬間に、ジュリエットが目覚めるという体を取っている。だからいまわの際のロミオと目覚めたジュリエットのタイミングの悪さの妙が活きる、とこういうわけなんでしょう。でもさあ、だったらさあ、あの場面ね、吐き出せよロミオ、今飲んだばかりのその毒をなんとか吐き出そうとしろよ。本当に今飲んだばかりなんだからさ! いや、毒が回ってできないのだ、というのなら、じゃあなんで死に際に喋っているんだよ! しかもまたももったいつけた格好つけた台詞をよ! 喋れなくなっているなら、一言も喋っていなければ、まだこのシーンは救いようもあった。辛うじていいものになり得た。がくがく震えて吐血したりしていればね。それもねえんだよ、結局綺麗に綺麗にやってるんだよ。ここが最後のチャンスだったのに!

これを褒めるっていうのは、ぼくにはさっぱりわからない。褒めどころが非常に少なく、あっても見てくれが一見綺麗だとかそれくらいしかない。だからすかすかなものをすかすかだと思わない人、なんかシェークスピアを原作にしている有名なお話を現代風にアレンジしてすごい! とか素直に思える人、つまりあまり頭がよくない人には、おすすめしておきましょう。
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対応年数は遠く過ぎた作品かなあ、と。
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 未来社会を舞台にしたフィクションというのは、一体どれくらい前からつくられたのでしょうね。有名な古典作品はたくさんあるけれど、古代や中世の頃に未来を描いたものというのは、果たしてあったのでしょうか。いや、別に何の答えも用意していない単なる疑問なので、期待されても困りますが、だいたい19世紀、近代以降に限定されて語られていると思うんです。古代の神話なんかはかなりダイナミックな世界観を提示しているのに、なぜだか未来については語らない。中にはノストラダムス的なものもありますけど、未来の世界について考えているというわけでもないし。もしかすると「未来を語る」「未来を考える」という営み自体が、近代の発明なのではないでしょうか! 江戸時代の人たちが考えた今の時代とか、わかる書物があれば面白そうなんですが、寡聞にして知りません。 うん、でも、今日はちょっと鋭いことを言ったんじゃないか。
「未来」自体が近代の発明だった。
 なんて、ちょっと格好いい文句です。ここから先の思案はとりあえず皆さんに任せます。何か反証になる作品などあれば教えを請いたいものです。

 さて、1973年のこの映画は2022年、次の寅年を舞台にしています(アメリカ映画だから寅年とかないけど)。とはいえキューブリックみたいなモダンさはつゆほどもなく、ちっとも未来っぽくはありません。予算的にも未来らしい未来を描けるほどの映画ではないようでした。この映画ではとにかく未来は荒廃していることになっていて、貧富の格差が激しいことになっており、貧しくて家もない人で溢れかえっています。しかも食べ物がぜんぜんなくて、果物一つもあれば大喜び。人工食糧のようなものを配給されている状態です。

 自然の食べ物がない中で、果物や野菜をかじるシーンは秀逸でした。チャールトン・ヘストン、エドワード・G・ロビンソンが実にうまそうに食べるのです。最近はなぜだか食べ物を食べるシーンに注目していたりします。それでいうと、『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ 1948)で貧しい親子がレストランで食事するシーンとかよかったなあと思います。映画自体は正直退屈してしまいましたが、ああいうところでなぜか、ほろりと来るものがあるのです。『ソイレント・グリーン』は食べ物が大きな鍵になるので、こうした食事シーンはもっと多くてもよかったと思います。人工食糧を食べるシーンなどをもっと入れた方が絶対によかった。これは断言します。別に食事じゃなくても、ちょっとつまんでいる程度でもいいから、もっと必要だったんです。

 物語はある大金持ちの暗殺に始まります。主人公はその死の真相を探るべく奔走するのです。もう三十七年も前の映画ですからネタバレも文句ないでしょう。要は、その大金持ちはある支配的な企業の秘密に触れたから殺されたのであり、その秘密とはずばり、人工食糧が人肉を用いてつくられていた、というものです。これがこの映画の大きな特徴になっています。

 人肉食は数あるタブーの中でも最も危険なものとして異論ないでしょう。この題材はわりとポピュラーですね。人肉をミートパイにしていたとかいう都市伝説もあるし、『食人族』なんて映画もあるし、『羊たちの沈黙』のレクター博士をただならぬ人物に見せてもいるし、歴史上の大量殺人鬼にはそのタブーを犯す人がたくさんいたようです。『ソイレント・グリーン』は、資源が枯渇し荒れ果てた未来を描き、ひどい未来をもたらせば人肉さえも食べることになるぞ! と警告しているわけです。

 このメッセージがゆえに、映画として歴史に残ったという感があります。映画のできばえ自体はさして優れたものとも思えなかった。人肉をショッキングにするならもっと食事のシーンを増やすべきだし、あるいは「牛肉が出回ったぞ!」と囃しつつも実は・・・なんて描き方もあったろうし、そもそもあんなぱりぱりのスナックみたいなものだと人肉の不気味さも出てこない。これならいっそのこと、「家畜を用いない、科学的な肉の人工生産に成功した」みたいな設定にして、でも実は・・・というものでもよかった。不気味さを高める、ひいては人肉のタブー性を引き立てる手立てはいくらでもあったんです。事態が解決する必要は全くないし、しなくて正解なんですけど、それにしても最後の追走劇シーンが面白くない。中途半端な下っ端に追われて終わりですから。

 あと、中途半端な恋愛のくだりは要らない。要らないシーンだなと思って観ていたら結局要らなかった。描くべきことにもっと労力をさいてほしかった。この映画において食べ物とは別の大きな特徴としては、安楽死的な場面です。人肉の秘密を知って絶望したじいさんがおり、彼は安楽死を望みます。その方法は、ベッドに寝そべり、かつてあった美しい風景を映像で見ながら死んでいくというものです。ぼくは人肉の話よりも、こちらのほうにこそこの映画のテーマ的美点があると思う。死にゆく者が最後に見る風景、それは走馬燈のごとき人生などと言われるように、その人個人の記憶であるのがいいはずなのに、この映画ではなんか、「安楽死用の綺麗な風景」みたいな、つまりは誰もが思い浮かべるような綺麗な場面を映すんです。これを見てじいさんは安らかな臨終を迎えることになるんですが、これは明らかに記憶の尊厳を無視している。荒廃した未来ではその精神性、人間性さえも希薄なものになっている、ということを示している場面です。

 ただ、実はそれほどいいシーンでもない。というのは、多分作り手はそこまで意識していない。むしろ「荒廃した社会を活きる人は皆、綺麗な風景を望んでいるのだ」という決めつけをしているように見え、すなわち作り手自身もまた、悪しき未来像のうちに囚われている。作り手が「こんな死に方があってなるもんか!」と言っているのではなく、「綺麗な自然は尊いのだよ」と言っており、「ね? みんなもそうだよね、このじいさんのようにさ」と観客に訴えてしまっています。これは駄目です。この脚本は駄目です。それではこのシーンの良さを何も活かせていません。

 なぜぼくが演出的不備、テーマをよく描く上での不備を見いだすかと言えば、主人公のチャールトン・ヘストンがじいさんと一緒に風景の映像を見て、「綺麗だな」と感動してしまうからです。あれではもう、「死ぬなよじいさん!」の気持ちが何も出てこないんです。「こんな風景に感動するな! こんなのはつくりものだ! あんたの記憶じゃない!」と怒ってもらわないと、テーマが非常に小さくなってしまいます。いや、わかりますよ。監督や脚本家がいちばんに描きたかったのはそのことじゃなくて、環境や未来社会のうんぬんだったんでしょうから、綺麗な風景を持ち上げたい気持ちもわかる。でも、あんな風に安楽死を遂げる様もまた、環境とは別の未来社会への警鐘なのですから、あそこは絶対違う描き方があったはずです。あれではあの安楽死を肯定してしまうことになる。安楽死したくなるくらいにひどい世界として描きたかったのか? だったらもう一回言うけど、変な恋愛のくだりとか入れないで、人肉の嫌さをもっと描くべきです。うまそうな食事シーンを撮れたのだから、食べるという行為をもっと効果的に使えたんです。

総じて言うと、自然破壊や大量消費への警告さえできればそれでいいというような映画になっています。『ミクロの決死圏』で今にも通じるはらはらどきどきを描いた監督ですが、今回のこれは今にはもう通じない作品になってしまいました。

 いろいろと偉そうなことを言う。これが「なにさま映画評」の醍醐味なのでございます。
近頃はコメントがめっきり。誰かかまってくれる人がほしい頃合いでございます。あ、こういうこと書くのやめよ。だってこれで来なかったから余計寂しいもんな。とか言いながら、バックスペースキーは押さない男。
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とても明確なひとつの敗因。

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 谷崎潤一郎が神戸に移り住んでから発表された作品、『卍』を原作としています。ずいぶん前に読んでおり、大してぴんとも来ず、ほとんど内容を忘れていました。全編が谷崎お手製の関西弁で書かれており、なぜなら彼は非関西圏の出身。関西弁の魅力に惹かれてこのような語り口を用いたのだろうと思われます。

 その点で行くとぼくは非常に相通ずるものを谷崎に感ずるのでございます。と言いますのもぼくもまた、非関西圏出身でありながら、そして修学旅行で京都くんだりにただ一度行っただけでありながら、疑似関西弁を用いる人間なのでございます。独り言なども関西弁で言ったりするのでございます。とはいえネイティブではありませんから、テレビに出てくる芸人の言葉から覚えたのであって、中身はぐちゃぐちゃなのでございます。それこそ兵庫出身のダウンタウン、奈良出身の明石家さんま、京都出身の島田紳助、大阪出身の笑福亭鶴瓶など様々な言葉を聞いて身につけたものでありまして、自分でもどの地方の言語なのかさっぱりわからない始末なのでございます。

 ちなみに最近当ブログで頻発される「ございます」口調は何を隠そう桂枝雀の影響でございまして、なぜか知りませんが関西圏の言葉というのは実によくぼくになじむのでございます。

 どうして関西弁についてあれこれ述べているかと言いますと、この『卍』という映画において、関西弁は非常に大きな要素であり、また看過できぬノイズになったからでございます。主演は岸田今日子、若尾文子、川津祐介、船越英二という錚々たる面々なのですが、いかんせん彼ら全員、関西弁が稚拙なのです。これは大きなノイズでした。正直、物語にぜんぜん入り込めなかったのです。いちいちいちいちイントネーションが気になるので、そちらに気が行ってしまう。ネイティブの人が観たら余計に感じることでしょう。

 公開されたのは1964年、増村保造が年に三、四作のすごいペースでつくり続けたいた頃合いですから、演出の細かい部分にまで気が回らなかったのかも知れません。これだとちっとも入り込めず、増村保造にずっと魅せられ続けていたぼくですが、今回ばかりはいいものとは思えなかった。別に関西である必要はないのだから、いっそのこと東京の話でもよかったのでは、もしくは関西圏の俳優を連れてくるなりすればよかったのではないか。『痴人の愛』を現代風にアレンジしたりしたんですから、東京風にアレンジしてもよかったんじゃないでしょうか、少なくとも、あの言葉の出来を聞く限り。

 話はと言うと、「最速の映画人」増村保造らしく、すごいペースで進んでいきます。評論家の柳下毅一郎が、『ケータイ小説は増村保造に撮らせるべき』と言っていて、これは膝を打たせる評言でした(もう増村は死んでいますけれど)。増村のスピードを持ってすれば、ケータイ小説もうまくマッチするように思います。それくらい彼の映画は急展開だったりするのです。他の監督のものならば「話が急だ」と悪い評価をされかねませんが、彼の場合登場人物間の熱量があるため、否応なく納得させられてしまうというか、別に展開が急とかそういうのはいいや、と思わされる。『盲獣』はその好例です。今回も役者陣自体はすごい人たちですから、熱量は生めたはずなんです。いや、生まれていたのかも知れない。でも、えせ関西弁のノイズはすべてを粉々にしてしまった。その意味ではなんとももったいない。これが外国映画なら気にならなかったでしょうけれど、いかんせん日本映画の、それも関西弁で全編がなされるものとなると、どうしても厳しくなる。

 熱量を失った増村作品は、今度はすかすかに見えてくる。もっといえば、ぼろぼろにさえ見えてくる。どうしてあんな結末になるのかがさっぱりわからない。不倫関係が新聞に露見した、もう社会的に破滅だみたいになって心中するんですが、どうして有名人でもない人の不倫があんなにでかでかと出るのかとか、そういう普通の疑問を感じさせられる。今の駄目な日本映画みたいになります。川津の綿貫にしても後半ではぜんぜん出てこなくなるし、あの岸田今日子の話を聞いている老人は何なのだとかわからないし、まさにケータイ小説よろしく、つっこみどころの洪水になります。原作の細かいところはぜんぜん覚えていませんが、少なくとも映画の上では説明が省かれすぎている。増村作品は数多くて、まだ五分の一くらいしか観ていないんですが、今のところダントツのワーストです。

『痴人の愛』でもそうでしたが、やっぱり谷崎潤一郎を原作に撮るとなると、もっと詰めるところをきちっと詰めていく必要があったのだと思います。早取りでわちゃーとやっていいような題材ではなかったのでしょう。年間に何本も発表する増村だからこそ生み出せる熱量はありますが、一方でその体制では十分に落とし込みきれぬ題材もあったわけです。関西弁とかそういうのはぜんぜん気にならない、という人ならば違う感想もあるでしょうし、ぼろくそに言うほどのめちゃめちゃなものでもないです。役者の揃えはいいのですし、誰もが関西弁らしい言葉を発しようとしてはいる。でも、いかんせんなじんでいない。言葉の端々に、関西圏特有のもったりとした感じがなく、東京弁的な鋭さが出てくる。

 方言の扱いは実に大事であると学ばされる一品になりました。
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実はバートンの良さがない作品。

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 ティム・バートンがアニメーターとして関わったという『トロン』(スティーブン・リズバーガー 1982)を元日に観たんですが、野蛮さを感じさせる面白い作品でした。全編にCGを駆使した史上初の映画というものなんですが、当然現代のものと比べればいかにも幾何学世界で、画面も暗い。でも、なまじ発展しきった技術よりも、ずっと魅力的なものがありまして、それを一言で言うなら「野蛮さ」なんですね。洗練されていない分、骨身の部分がむき出しで、とにかくやれることをやってやるという強さを感じる。昔の特撮ものの多くは今にしてもなお色あせませんが、それはつまり、技術を持たない時代の強さというか、限られた範囲でもフルパワーでやってやるという野蛮な意思を見るからなんです。たとえば『ウルトラマン』に出てくる戦闘機、ビートル号。あれが飛んでいるシーンをつくるために当時の人々が撮った方法はなんとも単純で、空を描いた円形の書き割りの前に模型を置き、書き割りをくるくる回すというものでした。今ではそんなことやれば馬鹿にされるし、CGでいくらでもつくれる。でも、あのビートル号が今CGで復活しても、たぶんぜんぜん感動しないと思うんです。見てくれの良さは大切ですし、映画とはビジュアルなメディアですけど、見てくれでは生み出せない感興というのがあって、その感興にこそ映画の魅力を感じたりするから、なんとも奥深いものであります(なんたるまとめ)。

 『チャーリーとチョコレート工場』はティム・バートンらしいと言えばらしいけど、らしくないといえばらしくない。彼らしいキュートさに充ち満ちているようで、実は彼の魅力が活きていない。そんな感じがしました。むしろ今も新作が公開中のテリー・ギリアムに近いですね。ギリアムとバートンのいちばんの違いって、キュートさだと思うんです。新作は知りませんし数作しか観ていないのですが、ギリアムはぜんぜんキュートなものをつくろうとしないんです。なんかうさんくさいイメージで、どこか醜悪さを帯びている。バートンはかわいらしいものをつくるんです。うまい具合にまろやかなものをつくる人です。今回だってもっとキュートなものができたのでしょうし、それが持ち味だと思うんですが、あまりその方面の満足はなかった。チョコレート工場ってくらいですから、とびきりキュートでいいと思うんです、ファンタジックに。ところが意外とファンタジックな感動はなくて、ちょっとSFっぽくさえしてしまった。

 今ふと感じたんですが、バートンはピクサーってものを脅威に感じているかもしれません。ピクサーの生み出すキュートさを前にしては、実写で人間が出てくるものはどうしても負けてしまう。特に今回のように工場内、フィクション100の世界でやるとなると、ピクサー的キュートさに行くのはためらわれて、ある程度実写感を前に押し出す方面に行くしかない。『ビートルジュース』にせよ『シザーハンズ』にせよ『スリーピーホロウ』にせよ、現実の場面と彼のキュートさが程よく入り交じっているわけですが、今回のようにフィクション100ではむしろ手に余ってくる。そういう印象を受けました。さて、アリスやいかに。

 物語自体もねえ、クライマックスがないんですね。実に四回、まったく同じような構成の出来事が起こるわけですが、いかんせんクライマックスがない。要は一緒にいた子供がどんどんいなくなっていくわけですが、この場合主人公にも魔の手が! というどきどきがないと盛り上がらないでしょう。ホラーやスプラッターはどれもが取る手法ですよね。どんどん犠牲者が増えていき、最後には主人公が危険な目に、というのが一般的な方法で、そうすることで盛り上がりは生まれるんですが、この映画は主人公がぼけーっとつっ立っていたらめでたしめでたし、ですからね。何かしそうな雰囲気を持ちながらも、ジョニー・デップは同じことをただ繰り返すだけなんです。いや、それならそれで消えていく子供たちの場面をきちんとしてほしいんですが、バートン監督にしてはなんともずさんです。娘がえらいことになっているのに、助けようとすればできるのに、父親は何もしなかったりするんです。あそこはしっかりしてくれよ。百人中百人、「柵を乗り越えろよ!」とつっこみたくなる場面ですよ。あの切れ者の子供が小さくなるくだりもそう。目の前でチョコが小さくなるのを目にしているのに、なぜ自分からひどい目に会いに行くのか。四回同じことを繰り返すなら、そして主人公を追い込まないなら、一回ごとにその不可避性、もしくは衝撃を高める必要があるのに、あとになればなるほど、どうでもよくなってくる。

 細かいことは気にするな、この世界観を味わってくれよ、というのなら、それこそ断然『トロン』のほうが上です。バートンにしては、チョコレート映画にしては、かわいげのない世界でした。幼少期のトラウマとかっていうエピソードもなあ、あれは物語的な落としどころをつくりたかったんでしょうけど、いかんせん子供をひどい目に遭わせるところとはつながりがないんですね。しかもここに時間を割いてしまったせいでクライマックスも生めなくなっている。

 安っぽさもないし、面白い世界をつくれてはいるんです。でも、見終わった後の余韻がぜんぜんない。本当にただ工場見学をさせられただけの気分で、しかも取り立てて発見もない。最初の時点でいわくありげなファンタジー世界をつくったんですから、あとはクライマックスさえあればよかったのに、一体どういうことなのでしょうか。
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