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いちげんさんは十分に楽しめませんが、ファンにとってはきわめて真っ当につくられている傑作。実は敷居の高い作品。
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 シネマサンシャイン池袋はこの映画でごった返していました。今いちばん客の入る映画じゃないでしょうか。公開規模がどれくらいかよく知りませんが、大変カルト的な人気を誇っているのは間違いありません。かなり混雑している様子ですが、やはりシネコン的な場所は若者が多くて困ります。まあ、ハルヒにじいさんばあさんが集うわけもないのですが、映画鑑賞作法の悪い連中がいるのはなんとかならないでしょうか。隣に座った女二人組、ぼくの隣の一人はビニール袋をがさがさやり、ポテトチップスとたけのこの里をぼりぼり食っており、その音が周囲の鑑賞を阻害する行為だとわかっていないわけです。当然『ハルヒ』のよさもろくろくわかっていなかったらしく、途中ですやすや眠っていました。まあ、わからないでしょう。たぶん、偏差値的にきつかったと思います。少林少女の出てくる映画でも行っておきなさい。料理がおいしそうとかアホみたいな感想を抱きなさい。

ただ、そのアホ女は眠ってしまったわけですが、彼女だけを責めるのはかわいそうというものです。今回の『消失』は正直、いちげんさんにはきついと思います。少なくとも、街に張られているポスターから受ける印象とはまったく違う映画です。ハルヒを中心としてどたばた劇が繰り広げられる、と期待していけば、まず間違いなく裏切られる。なぜなら、なんと、ハルヒはあまり出てこないからです! 『消失』ですからタイトル通りなんですけど、これはもうはっきりと、キョンと長門の映画なのです。時間を移動したりパラレルワールドに行ったりするのであり、その説明も逐一くわしく行われますから、正直、最近の大作邦画などを観に行ってはちゃいでいる程度のリテラシーではわからなかったはずです。オタク向けの萌え系アニメだろうなどと高をくくっていたアホ女は、自分より相当偏差値が高かった世界に耐えられなかったようです。

 とはいえ、序盤はテレビ版と同じような舞台です。SOS団の面々がおり、ハルヒがいてそれなりに活気もあり、律儀に「冒険でしょでしょ」を流しました。ここで「冒険でしょでしょ」を流したサービスは偉いと思います。テレビアニメで聞き慣れた曲が映画館でかかると、上がるのです。エヴァの新劇場版にも見習ってほしいところです。ここら辺までだと、たとえいちげんさんであっても問題なくついてこられます。なるほど、こういうキャラクターたちがいるのだな、わかったわかった、となります。

 ところが、あるときを境に世界は一変、映画も一変します。ハルヒが出てこない世界、今までのSOS団がいない世界に連れて行かれます。こうなるといちげんさんは面白みを覚えないでしょう。簡単な例をあげるなら、『サザエさん』の一家が離散してしまうような出来事です。サザエさんを知っていればそれは超大事件だとわかりますが、彼らの日常を知らないとそれがいかなる大事件なのかもうひとつ伝わらないわけです。知っていたぼくは、そしてこの映画のためにあえて原作本を読まずにいたぼくは、大変愉快な驚きを得られました。こういうのは過去の文脈を大変有効に使える設定です。過去のすべてがネタフリになりますからね。一本の映画だとこの部分までに尺を使わなくちゃ行けないけれど、既にSOS団は知られているとして進むので、知っている人間には実によいテンポでした。

 いちげんさんとファンを大きく隔てるのは何より、あの朝倉涼子の登場です。ほら、内容を知らないと意味がわからないでしょう? もとからのファンは驚くわけです。普通、この手の映画の場合、朝倉涼子がいかなる人物なのか、過去の映像などを用いて語るものなんですが、この部分から『消失』が独自の語り口を見せ始めます。『消失』では朝倉涼子の過去を、単にキョンの台詞で処理します。長門との戦いを映像化しないのです。いちげんさんの理解を助けるなら、まず間違いなく映像化する。何しろ尺が2時間40分あるのでして、おそらく日本の長編劇場用アニメでは最長ですが、にもかかわらずその種の親切をしなかったのは明らかなこだわりです。これには理由があるのですが、全部語り尽くしてもつまらないので、劇場に足を運んでのお楽しみです。
 
そう、この映画は2時間40分もあります。ジブリとかエヴァとか、大きな世界の話でも大体2時間程度で収めるのに、こんなにも時間を取るのは異例です。それだけの長さが必要だったか、はわかりませんが、少なくともぼくは一切長さを感じなかった。隣の馬鹿女はきっとこんなに長い作品だとは思ってもいなかったのでしょう、途中で疲れていました。だからおとなしく柴咲さんところにお世話になればいいのです。

 あえて原作を読まずにおいたのでなんとも言えないのですが、かなり原作に忠実だろうと思います。筋が忠実というだけでなく、細部まで忠実にやろうとすると、これくらいの尺になるわけです。全編は当然キョンの視点で語られます。この点も忠実で、ずっと観客はキョンとともにいます。今までとは違うハルヒのいない世界を、キョンは旅し続けることになります。キョンの重要さを前回に語りましたが、このキョンの視点で動き続けることを楽しめるか否かで、この映画を楽しめるかは決まります。何の特殊能力もないキョンが、うろうろと歩き回る。世界の謎に直面していく。このスピードは大変ゆっくりしています。長門有希の家を朝倉涼子が訪ねるくだりなどが大変に顕著でしょう。もっと手際よく、ぱぱぱっと語ることもできたのです。でも、それをしなかったのはひとえに、キョンの旅を観客にそのまま体感させることが重要だからであり、あの長門を丁寧に描くためです。テンポよく進めてしまうと、この世界の異常さをキョン目線で受け止めきれなくなる。キョン目線を奪えば、『ハルヒ』シリーズのひとつの核が壊れる。過去の小ネタなども語られますが、いちげんさんにはわからなかったはずだし、たぶんここでテンポが遅いと感じる人も多くいたろうと思います。いちげんさんにもファンにも楽しめるもの、がつくれれば理想的だったかも知れませんが、そもそもこの『消失』自体がいちげんさん向けの原作ではないのです。仕方ありません。

 ただ、いちげんさんの多くが持っているであろう、「ハルヒ? なんか萌えとかそういう、オタクっぽいあれでしょ?」という先入観は、たぶんかなり壊されると思います。萌えできゃっきゃみたいな要素はそれほど多くないのです。かなりまじめに語られている物語です。

 主軸となるテーマのひとつは、最初の方でキョンの口から語られます。
「とても不幸な人がいたとして、あるとき突然にユートピアに連れてこられ、幸せに過ごせるようになったとしよう。ただ、誰によって、どうしてそこに連れてこられたのかは、まったくわからない。さて、その人はその状況を喜べるのだろうか?」

 こういうテーマを偏差値の低い人にぶつけてもよく理解できないので、隣の馬鹿女はポテチを食いながら眠り始めるわけです。この問いかけは当ブログでも再三にわたって述べてきた記憶の尊厳の問題そのもの、そして悪魔の問題そのものなのです。ぼくはここでもうやられました。なんとぼくの大好きなテーマを語ってくれるのかと感動したのです。

 キョンはいつもハルヒに振り回されてきましたが、彼女が不在の世界に耐えられなくなります。彼女がいない世界は平穏そのもの、普通の日常。それはある意味、彼が望んだ世界でもあったはずでした。厳密に言うと、その世界にハルヒはまったく存在しないのではなく、キョンとは無関係な別の文脈で生きていたのです。ハルヒと関わらなければキョンの平和な日常は続きます。でもキョンはハルヒを追い求め、新しく出会ったハルヒとも別れ、もとの彼女がいる世界を取り戻そうとします。なぜなのでしょう。なぜキョンはもとの世界を望んだのでしょう。「ハルヒが好きだったから」では省略の多すぎる答えです。しかし、いちげんさんではそう解釈するほか無いのかも知れません。「結局あれでしょ、ハルヒが好きで、そいつのいる世界を取り戻したいってそういう話でしょ」みたいな雑な理解で済まされそうで嫌です。でもその解釈なら、なぜハルヒをまるで脇役(本作のハルヒは間違いなく脇役的です)にしてしまったのでしょうか。この映画は劇場版第一作でありながら、ハルヒの位置取りは軽く、キョンと長門の映画なのです。

 世界を取り戻そうとした理由。一つ目はキョンに限らぬ、一般的な問題として考えられます。キョンが世界を取り戻そうとしたのは、もとの世界にこそ自己の記憶の尊厳があったから、とまずは言えます。ハルヒ不在の世界において、キョンの過去は抹消されることになります。あの世界で生きていけば、たとえ平穏ではあるにせよ、キョンがSOS団で過ごしたすべての記憶は彼の中にしかないものになる。己の記憶は確かに自分の記憶であっても、誰もその事実を認める者はない。かの『オトナ帝国』は未来消滅の物語と見えて、実は過去の消滅をも物語っていたわけですが、その過去の部分にこそ尊厳はあるのであり、その消滅はキョンにとって耐え難かったわけです。 
二つ目は、これはもう終盤ではっきりと語られていたので、ぼくがいまさら書くのも面倒な話です。『オトナ帝国』は未来を語りましたが、本作は現在を語りました。ハルヒがいない世界では、つまらないじゃないか、ということです。彼女のいない世界は面白くない、とキョンが初めて真っ向から認めるのです。なんだ、結局ハルヒが好きだって話じゃん。それでいいんじゃん。いいえ、違います。先ほども書いたように、それならハルヒの物語的位置が軽すぎる説明がつきません。長門を尊ぶのは不可解です。この問題は何も知らないハルヒではなく、長門の方にこそ重きがあるのです。

 キョンにとってのハルヒは、一言で言うに「尊ぶべきノイズ」なのです。この世を実感する手応えとも言えましょう。面倒くさいけれど、それがなければ異常にのっぺりとした世界になる。嫌ではあるけれど、それが不在では退屈に過ぎる。曖昧かつざっくりした言い方をしますけれど、キョンの表明した態度は、「このくっだらねえ世の中」の肯定なのです。世界はどうしようもなくくだらないけれど、どうしようもなかろうがいかにくだらなかろうが、最後の最後の部分でそれを愛でずにはいられない。なぜなら、そのくだらないもろもろこそがぼくたちの生の手応えを生み出すからです。

 生の手応え、今回のキーパーソン、長門の行動に注目しましょう。

『消失』はぼくたちにとっての、過去の肯定と、生の手応えをめぐるお話だったのです。長門があのような形でああいう風にああしたのも、感情という生の手応えの爆発です。ああ、長門に関していろいろ話したいのですが、ネタをばらしすぎるのもあれなので、これはまた別の機会に譲りましょう。長門を愛でたい人には最良の映画です(ぼくが言うまでもないことですが)。

 ともあれ、今年のベスト級、一本目です。ベストテンをつくったらまず間違いなく入れると思います。いちげんさんは十全に楽しめないので、予習をしておく必要があります。
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『涼宮ハルヒ』をよく知らない人向けの説明
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 ちょうど三年ほど前にネットで『涼宮ハルヒの憂鬱』を観たときにはそれほど強い感動は覚えず、なるほど確かによくできているなあ、くらいの感想だったのですが、映画が公開されるとあって原作を読んでみたぼくは、その周到な設定に目を丸くし、ああ、やられた、やられちまつた、と思ったです。ああ、やられた、やられちまつた、と思ったです。二回書くくらいに。

 大変よくできています。びっくりしました。
「国民的アニメ」とは別種のものとしての「カルト的アニメ」。70年代における『ヤマト』であり、その後の『ガンダム』であり、80年代は『ドラゴンボール』があり、90年代はむろん『エヴァンゲリオン』。予想を立てますが、先々その系譜においてゼロ年代を代表するのは『涼宮ハルヒ』だろうと思われます。これ以後は、特別に専門的な知識も持たないあっさいレベルのぼくが独断で語りますことなので(これまでがそうじゃなかったような言い方だな)、眉に唾を塗りたくり、その唾が目に入って沁みる沁みる、ああ、今まで気づいていなかったけれど自分の唾液は異常に酸性が強いぞ! などと言いながら読んでもらえば幸いです(よくわからん)。

既にして『エヴァ』が過去作品からの引用を巡らせた作品でしたけれども、『ハルヒ』はそれ以上に露骨な形でアニメ的な要素を他から持ち込んでいきます。言うまでもないこととして長門有希は綾波レイ(どちらも戦艦の名前から用いており、作者の意図的なパクリがわかるようになっています)であり、朝比奈みくるは既に記号化されていた「萌え」の体現であり、ハルヒは物語を推進させる動力かつ、「セカイ系」そのものとしか言いようのない存在です(このハルヒの使い方は実は他のどんなアニメもなしえなかったことを実現します)。この三者の配置はもう最近のアニメのおいしいところをすべて用いている(一目でわかる「萌え」とは別に、ハルヒの「ツンデレ」を入れたところもきわめて周到)。 
 この造形を完成させた時点でもうものすごいのですが、視点人物、語り手の男子高校生キョンの使い方が的確。的確すぎて怖い。キョンはハルヒに振り回される普通の高校生なのですが、原作を読んで最も驚嘆したのは、彼の語りがそのまま我々享受者自身の投影であることがわかるからです。

 このブログ自体がそうであるように、あるいはネットによって明示化された人々の反応がそうであるように、ぼくたちは絶えず世の中の出来事について普通一般の視点からツッコミを入れています。スポーツの試合から有名人の醜聞まで、いつでもぼくたちは何か感想を抱き、それを言葉にしたりしなかったりしながら日々を過ごしている。このキョンは常に冷ややかにハルヒの言動を追っていき、自分からは特別な行動を起こしません。むろんぼくたちは日々の活動で当事者的に主体的に動き回るわけですが、メディアに対しては当然傍観者であるほかない。どんなに自分で動いていても、世の中の大きなニュースに対しては傍観するほかない。この傍観的態度、そして心の中でなんらかのツッコミを入れる態度(あるいはネットに書き込んだり文章を書いたりする態度)は、そのままキョンと一致するのです。ハルヒが無茶なことを言い出し、それをツッコミながらも離れることができない。自分とは無関係だと言いつつも、メディアから断絶できずに眺め続けるぼくたち。キョンの立ち位置は、主人公でありながら主人公ではない。主人公では無いながら、はっきりと主人公である。今までの有名アニメがなしえなかったスタンスであり、最もぼくたちに近いものです。文学では別段発明に当たるものではありませんが、少なくとも有名なアニメ(細かいのは知らないけれど)にはなかった。ここは大変画期的かつ、コロンブスの卵でもあったのです。

 キョンという平凡な視点人物。彼を置いたからこそ本作は傑作たり得たのでしょう。ハルヒを視点人物にしては成立しないのです。キョンの存在は最もぼくたち一般人の情況に見合うものです。最も感情移入しやすいと言える。アムロやシンジのように巨大ロボットに乗り込むこともないし、悟空のように強いわけでもない。あくまで平凡な存在でしかないぼくたちが、最ものめりこみやすい方法は、視点人物が普通であること、そしてすぐ傍に自分を引っ張り続ける何者かがいること。この人物になることを通して、観る者はその世界へと誘われていきます。

 さて、『涼宮ハルヒ』がいかなる物語であるかをまだ述べていませんでした。
 ひどくざっくりとした設定を言えば、高校生のキョンがハルヒと出会い、彼女がつくるSOS団という集団に入れられ、その時々でてんやわんやに巻き込まれるとそんな話です。

 この物語における最大の発明は、ハルヒをもうこの上ない「セカイ系的存在」として設定したこと。彼女の存在は文字通り、「セカイ系」の体現であり、彼女が世界の中心に位置しているという最高に大胆不敵な設定を生み出したことです。彼女が救済されることによって世界も救済される、その中心部に彼女を置きました。もっと簡単に言うと、ハルヒはこの世界にとって神のごとき存在として置かれています。彼女自身にその自覚はなく、周辺の人間だけがそれを知っているという形式を取っています。

この設定をつくりあげたことで、『ハルヒ』シリーズは無敵になりました。どんなジャンルの物語も描けるようになったのです。SFだろうがファンタジーだろうがミステリーだろうが、とにかくどんなものであっても、その物語内に取り込めるのです。なぜなら、ハルヒは神であり、「こうなったらいいな」と思えばセカイはそうなるのですから。もうどんなジャンルでも可能です。異世界に紛れ込む道理が通れば、どのようなジャンルも物語内部に落とし込める。いやあ、やられちまつたというものでしょう。

 なおかつ『ハルヒ』は先に指摘したとおり、既存の作品から次々とアイディアを取り込んで厭わない。他のものなら「パクリ」とされる引用さえ、その作品世界を構築する要素として機能させてしまう。朝比奈みくる登場の際、ハルヒの台詞として「萌えキャラが必要」と言わしめます。これを何の説明もなく放り込んでいたらただのパクリですが、こういうメタ的な台詞を入れることによって、読者をも共犯者にしてしまいます。だってあなたも萌えキャラがいた方が面白いと思うでしょう? という問いかけが、自然と読者の方に発される形となります。さんざんに使い尽くされてきた要素の数々を、堂々とした形で自作品に取り込んだ。すべて暴露した上で、それでも楽しめるものをつくる。この態度はきわめてゼロ年代的ではないでしょうか。

 SF的な設定をしっかり説明しており、同時にうんちくの退屈さに陥らない。なんとすごいのでしょうか。こういうのがいちばんすごいのです。

『ハルヒ』をして単にオタク的なものであると唾棄する態度は、己のエンターテインメント観の狭さを露呈するものであります。非常に秀逸な形で構築されています。『ハルヒ』が徹底して偉いのは、そのような構築の巧みさに気づけなくても楽しめるものだということ、これをエンターテインメントの極致と言わずなんと言いましょう。細かい話がわからなくても、たとえばキャラクターが可愛いというだけで人々を魅了できる。歌がいいというだけで人々を魅了できる(エンディングの『ハレ晴レユカイ』にダンスをつけたのもとことん慧眼)。そうやって、楽しみ方にいくつものレイヤーを用意しているのです。

 さて、前段の文章が大変に長くなりました。これでやっと『涼宮ハルヒの消失』について語ることができます。
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賞を取るのが大変にお上手な優等生の映画。攻めていないところがなんともいけ好かない。
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キネマ旬報で昨年の邦画一位を獲得していました。『ゆれる』も世間的には大好評だったようで、こんなことを書くのは気が引けないでもないのですが、 個人的にはこの監督、どうも過大評価されすぎな気がします。OLあたりには丁度いい感じがしますが、プロの映画観(えいがみ)がこれを褒めるのは、正直よくわからない。去年の一位をこれにして、『愛のむきだし』を四位にするキネ旬がわからない(『誰も守ってくれない』とか入れてるし)。『映画秘宝』では『愛のむきだし』、邦画の中でダントツの一位だし、『映画芸術』でも一位。ちなみに町山智浩さんは邦洋含めて第一位。ちなみに当ブログの検索ワードはもう超ダントツで『愛のむきだし』。『ディアドクター』はあの阿呆らしもない日本アカデミー賞でも優秀作品ノミネートで、選考委員の馬鹿どもは『愛のむきだし』をノミネートすらしていない。『ディアドクター』を褒めている層は、要はそういう層です。『愛のむきだし』がダントツだということがよくわかっていない連中なのです。

 さて、『ディアドクター』。新文芸座は活況でした。
無医村で慕われている医師を笑福亭鶴瓶が演じており、彼の活動とその後の失踪が交互に物語られます。ほとんど予備知識なしで観たのですが、おそらく鶴瓶が無免許医師か何かなのだろうという気がして、実際にその通りでした。そうと知れてからのくだりが長く、何のひねりもなかったので残念でした。

『ゆれる』のときも感じたんですが、どうもこの監督は間をたっぷり置けば映画的になるとでも考えているようです。最初こそわりとテンポはいいんです。コメディタッチで鶴瓶の奮闘ぶりが描かれ、この辺は長さを感じず、面白く観ました。ですが、彼は医学的心得に乏しいとわかりかけてきて、だんだんシリアスな感じになっていくにつれ、もったりとした間が発生し、テンポが急激に落ちる。間を置いてもかまわない演出というのはおそらくいくつか条件があって、画的な配置が面白いであるとか、台詞回しやその内容に迫力や深みがあるとか、その後に起こる急な運動を予兆する静けさであるとか、そういう工夫が必要になると思うのですが、この監督はその辺の演出にそれほど長けてはいない。物語は無医村での奮闘と刑事の聞き込みを繰り返すことでその単調さを免れてはいるものの、あとあと刑事の聞き込みがどうにも面白みを欠くものになり、語りのテンポのだるさがばれてくる。そしてたっぷりと余計な間を置いた分、余計なカットをしこたま差し挟んだ分、肝心なクライマックスが雑に、記号的に処理される。『ゆれる』と同じです。

 いちばんまずいなあと思ったのは、無医村の人々の翻意をものすごいショートカットで描いてしまったことです。それまでは村のヒーローみたいに持ち上げていたのに、刑事の捜査で彼が無免許医師だとわかると、彼らは掌を返して悪口を言う。いや、別にそれはそれでいいんですけど、そこがすっごくあっさりしているんです。そこじゃねえの? そこにこの話の相当大事な部分はあるんじゃねえの? そうじゃなかったら、前半で延々と鶴瓶の活躍を描く必要がなかったじゃないですか。無免許だとわかった村人の反応は普通に考えて二つですよね。無免許でも彼は立派だったと持ち上げるか、無免許なんて最悪だと落とすか。どちらでもいいんですよ。それはもうどちらでもいい。曖昧であってもかまわない。でも、曖昧であってもきっちり描かないと。途中から出てきた井川遥とか刑事の人とかが悩んでみせるのは結構ですが、肝心なのは村人たちの気持ちでしょう。正直、逃げたなあという感じがします。村人の代表として八千草薫がいるんでしょうけど、八千草薫が今回はあまり面白くない。『歩いても歩いても』の樹木希林がどれだけすごかったのかわかります。

 台所のショットなんかは『歩いても歩いても』と酷似していて余計に感じたんですが、八千草薫がねえ、もうひとつ面白くないのです。あの方は画になりすぎてしまう。あれはもう孤独なおばあちゃんなのですから、もっと不細工でしわくちゃでいいんですよ。一人暮らしの寂しいお年寄り感が強いほうが、絶対あの役は活きたはずです。しかも性格がよくわからないというか、あのキーポイントになるおばあさんとしては性格が弱い。樹木希林のように快活でもいいし、あるいは世をすねたクソババアでもいいんです。そうすれば絶対もっと活き活きとした存在になったのに。で、井川遥です。ここに井川遥を持ってくるあたりがOL映画っぽいです。映画向きな役者とそうでない役者がいるとすれば間違いなく後者で、明らかに存在として薄い。それを埋めるためなのか、無意味に沈黙の横顔ショットとか入れるし、一目置かれているみたいにするし。

なにさま映画評らしいなにさまな弁舌ですが、もうちょっと続けると、この映画、あるいは監督は、どうにも攻めていない気がしてならないのです。よく言えば卒がない。卒がないから賞もたくさんもらうのでしょうけれど、この映画だけが持っているもの、これを描きたいのだという攻めの部分がどうしても見えない。不細工でいいと思うんです。八千草薫は好例で、あそこに綺麗な大女優を置いておけば大丈夫だろうという「置きにいっている感じ」が否めません。あの役はもっとしわくちゃで閉鎖的なやつの方がいいって。鶴瓶に対しても、嘘をついてくれみたいな話をするけど、あれだってもっと、最初は診療をいやがっていやがって、でも実は理由があってみたいにすれば、キャラが立ってくるじゃないですか。他のキャラ立てでもいいから、何か方法はあったはずです。何度も引き合いに出しますが『歩いても歩いても』の樹木希林はそこが最高だったんですよ。陰と陽の使い分け、あるいは尋常と異常の境目が絶品だったんです。ああいうのがないってことに、映画観(えいがみ)たちは何も感じないのか?

 でねえ、ラストもねえ、あれは逃げたなあ。
 慕われていた医師、でも深い事情があって失踪した医師、あの交互の文脈で話を進めておいて、正直別に展開にひねりがあるわけでもなくて、途中から間がだれてもう観ているのが苦痛になってきて、さあラストはどう締めるのだと思ったら、あんな風にちょいとハートウォーミングみたいな。あのラストで終わるなら、途中に伏線が欲しくありませんか?お茶かなんか渡していましたけれどそうじゃなくて、八千草薫が何かを探している、何かを無くしてしまった設定にするとかして、それをラストで渡すとかなんとかできたはずですよ、あんなにもったりとした間をつくっては何回も合わせていたんだから。ペンライトのくだりも急ぎ足だと指摘したとおりです。

 いろいろと悪態をつきました。いちばん気になる、好きになれないのは、攻めてない感じのするところ。結局何をどうしたいのかもうやむやに終わらせるところ。ただ、今後もこの監督は賞を取っていくでしょうね、賞を取るのが大変にお上手です。優等生メディアに今後も褒めそやされていくことでしょうから、ぼくみたいな訳のわからぬ腐れポンチがあれこれ言っても、唇寒しなのですね。
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出てくる人たちがみんな空気人形ですけど、監督、この映画はそれでいいんですか?
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新文芸座にて。
 ダッチワイフのペ・ドゥナが心を持ち、その辺をふらふらし始める話です。結構評価が分かれる作品らしく、『映画芸術』ではワーストワンになっていました。
 このご時世、空気式ダッチワイフというのはそっちの業界でどれくらいのシェア割合なのでしょう。九年前くらいから監督が暖めていたアイディアらしいのですが、今ではラブドールのほうが人気じゃないでしょうか。空気式の方が断然安いでしょうけれど、金があればたいがいの人はラブドールを求めるでしょう。少なくともぼくならばそうです。ラブドールの方が明らかに立派でリアリティがあるので、人形としての生々しさについては惜しい感じです。

 ペ・ドゥナの持ち主は板尾創路なのですが、彼はこのダッチワイフを生きている恋人そのものとして扱っています。話をするし、風呂にも入れるし、近所の公園に遊びに行ったりもします。これは不気味と言えば不気味だし、悲しいと言えば悲しい行いですよね。ダッチワイフを扱っているならもう少しその点を描いて欲しかったと思います。ぜんぜん不気味でも悲しくもないんです。持ち主が本気になればなるほど悲しさが浮き出てくるはずなのに、その辺が綺麗すぎる気がしました。あとあとこの板尾は、別れた恋人代わりにこのダッチワイフを用いているのだとわかりますが、ちっとも悲しさがないのです。不気味じゃなくてもいい。どこかで悲しくないと、あるいは普通の恋愛とは異質な偏愛を色濃く感じさせないと、せっかくダッチワイフを用いた意味がない。ぼくの大好きなドラマで、三谷幸喜脚本の『今夜、宇宙の片隅で』というのがあるのですが、あの中で西村雅彦が片思いの相手、飯島直子の代わりに、彼女とそっくりのコールガールを呼ぶ回があります。あれなどはもう全面的に悲しい。この板尾の場合、失ったものを別の何かで必死に埋めようとする者の悲哀がないのです。この点は映画全体を貫く問題点に関連します。

 空気人形ペ・ドゥナが心を持つそのきっかけが別にない、というのはまあいいとしても、あいつがふらふらし始めてからの物語の脇がどうしても甘い。なんでビデオ屋の店員になれたのだ、なったのだという合理的説明の部分は許すとしても、板尾がペ・ドゥナの外出にまったく気づかないというのはちょっとよくわからない。結構かわいがっているんですよ、板尾は。あとあと「代わりはいくらでもいる存在」だとわかり、だから外出にも気づかぬ程度にしか愛されていなかったのだと汲み取ることはできますが、序盤ではそれなりに愛しているんです。だからペ・ドゥナが、「私は性欲処理の道具だ」みたいに言っても、ちょっとぴんと来ない。心を持つきっかけが別にないんですよ、この映画。とすると観客としては、ああ、かのピグマリオンのごとく(当然この映画の大元のネタですが)、板尾の愛情が通じたのだなと解釈するほかない。でも結局そうじゃなくて、板尾は中盤以降完璧に愛想を尽かされます。板尾の気持ちがさっぱりわからないんですよ。別れた恋人の代わりに人形を買って、さも本物の恋人のように振る舞うというのは、やっぱり精神的に壊れていると思うんです。その壊れっぷりが描かれないものだから、人形たるペ・ドゥナと人間の板尾、ひいては他の人間たちとの対比もきわめて弱い。

 他の人間たちの存在感がとにかく弱いです。だからもうこの映画は、ペ・ドゥナのアイドル映画として愛でればそれでよいのでしょう。オールヌードも惜しげもなく披露してくれます。が、その存在感、およよという驚きは、『復讐者に憐れみを』のときのほうが大きい。『復讐者に憐れみを』では彼女は騎乗位ファックを演じていましたが、肉体的魅力が伝わるのはむしろあちらです。まあ、人形だから伝わらない方がよくて、その点で言えば演出は成功していますが。人間世界と彼女の衝突が何もないのです。ちょっとしたのはありますよ。でもさあ、美容室行ったり服買ったりするお金はどこで払ったの? 板尾はそれほど裕福じゃないですよ、むしろ貧しい感じですよ(ああ、この貧しさもまた悲しさに転じられたのに!)。その辺で世界観がゆるゆるになる。空気人形の彼女がふわふわしていてもいいけど、人間世界までふわふわしていてどうするのだ! いや、わかりますよ、「ぼくもある意味空気人形だ」みたいなことを彼氏的な男に言わせているし、人間たちの存在感はおそらく意図的に薄められている。あの『歩いても歩いても』でちゃんと存在感を描いた監督ですから、まさかこの薄さが演出的失敗によるものだとは思えない。

 でもさ、その薄さが故にさ、あのクライマックスが活きてこないと思わない?
 記号としての血が出てきて、そこに彼女と人間を隔てるものが描かれてはいる。けれどあの場面はもっともっとぞくぞくできたシーンだと思うんです。あそこに至るまでに人間の存在感とペ・ドゥナの対比をもっと色濃く描いておけば、その対比の爆発点としてあの場面を設定できたのに。なんか綺麗な感じなんですよ、でも前にも書いたけれど、綺麗なものは残りませんよ。そうなると肝心のペ・ドゥナの最期も印象に残らない。あれはもういちばんに大事な部分ですが、ああ、結局どうにもならないのだなという悲しみがない。フランケンにしろ『ブレードランナー』にしろ、勝手に創られて勝手に死の運命を与えられる存在なのであり、そこに悲しさがある。ひいてはああした人造人間なりレプリカントなりという存在は、人間自身の比喩でもあった。我々は自分の意志と関係なく生まれてきたわけで、彼らと同じ存在ですからね。このペ・ドゥナには生きることの悲しさがないのですよ。板尾はそりゃ浮気していましたけれど、立ち去る彼女を必死で捜し回っていたじゃないですか。彼のもとに戻ることもできたんです。彼は愛してくれていたのです。なんかすっごい中途半端な終わり方で、『ウォーリー』的な、ロボットが人間らしさを教えてくれるような展開にもならない。人間もみんな空気人形なのさ、すかすかさ、という印象しかこの映画は与えてくれないんです。ラストのタンポポも滑っている。

 板尾とあの恋人、ARATAに焦点を絞ってもよかったんじゃないかと思ってしまう。板尾をもっと全面に押し出せば、少なくとも絶対に濃度は上がった。板尾の男の偏愛が本作の主軸でないのはわかっていますけれど、それなら他の人間たちの人間性はもっと必要だった。

 ペ・ドゥナがすごくよい、と言われていますがぼくは疑問でした。人形的、あるいはロボット的な言語の拙さが、韓国語なまりの拙さによって高められていたのだと評価する声もありますが、非人間的拙さとは明らかに違って、外国人の拙さなんですよね。特に韓国語っぽい、低音部が耳に残る訛りというか、べたりとした耳障りがある。あれなら『ウォーリー』のイヴちゃんのほうが遙かに上で、イヴちゃんは終始「ウォーリー」というだけなのにすごく愛着がわいた。文節を多用しない方がよかったんじゃないですかね。単語単語のコミュニケーションの方が味わいが生まれた気がしますそうでなくてもせめて、ずっと関西弁で訛っていれば違っていたのにね。ずっと板尾の傍にいたのだから、関西弁訛りがあれば違う風合いが生まれたのにね、あれをごく一部でしか使わなかった。ちょっとねえ、結構多くの人はねえ、ドラマ『聖者の行進』のいしだ壱成を思い出したと思います。あれにそっくりのしゃべり方ですからね。同じ知的障害者でも、『チョコレートファイター』のジージャ・ヤーニンのしゃべり方は上手かった。上手かったと言ってタガログ語だからまったくわからないけれど、雰囲気としてしっかり伝わってきた。今回はそういうの、なかったなあ。

 人形への偏愛、というのはそのまま「萌え」なのですが、どうも是枝監督は萌えの人じゃない気がします。もっともっと萌え要素は組み込めたんです。別に萌え要素をくわえたいとは思っていなかったかもしれませんが、だとすると監督、あんたはペ・ドゥナに萌えなかったのかい? メイド服も記号的だったし、監督はおそらくペ・ドゥナを偏愛していない。それだと、こちらには彼女の良さが伝わってこないのだ。 
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濃い!!!!!!!!
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 一般的、経験的に言って、面白い映画は体感時間が短く、逆もまた然りですが、時にはその濃さゆえに時間がゆっくり感じられる映画もありまして、本作がまさにそうでした。一言で言えばきわめて濃い映画です。すべてのシーンが濃いのであり、画面から発される圧力が時間をせきとめてしまうほどなのです。抽象的な言い方でわかりにくいですな。

すかすかな映画はたとえ面白くなくても、わりと時間が早く経つんです。時間は「流れるもの」とされますが(ところでなぜ「時間」は「流れる」という動詞を得たのでしょう)、まさに淀みのない川のごとく、すかすかな映画はその分時間も早く流れていきます。ところが濃い映画というのは逆で、流れゆく時間をいちいちせき止めてくる。強烈な感覚を次々と与えてくるのであり、それにびしびし当たっていると、時間はなかなか流れていかないのです。そういうことを感じたんだ、ぼくはさそりを観て。

 女子刑務所の話なんですが、もうリアリティは何のその、とにかく映画的な濃さをマックスまで押し上げる強烈な描き方です。これぞ映画的快楽であります。梶芽衣子演ずる主人公松島ナミが脱獄を図って失敗、拷問を受けるんですが、この冒頭のシークエンスだけでもう完膚無きまでに魅了されました。漫画原作の作品らしく、演出もかなり漫画的というか、わかりやすいデフォルメがなされているのですが、これはもう本当に「濃い」の一言に尽きます。表現として一切の迷いがないのです。表現とはかくあるべし、という思いです。増村保造、岡本喜八、石井聰互、最近で言えば園子温や白石晃士、彼らに通ずるのはその「大胆不敵さ」。怪我を恐れず、「やったれーい!」と爆進する姿勢。本作にも同じものを感じました。伊藤俊也という監督は知らずにおり、お見逸れしていました。なぜかこの監督はルパン三世の『くたばれ! ノストラダムス』も監督しているようです。

 増村映画がそうであるように、本作も名女優によって支えられています。梶芽衣子は今時のジンビーとしても十分に通用するのであり、雰囲気としては『バトルロワイアル』の頃の柴咲コウっぽくもあり、顔立ちは黒木メイサっぽくもあるのですが、彼女たちにはまかり間違ってもできぬ汚れ方をしております。迫力が段違いであります。今時のモデル上がりとは訳が違うのであります。全編にわたり台詞は大変に乏しいのですが、その分だけ表情に迫力がこもっており、数少ない台詞であるところの「おしゃべりが過ぎるよ」は格好よすぎなのであります。回想シーンにおける「半乳放り出し襲撃」は今の女優になどとうていできぬ所行であり、あんな演出を思いつく監督はアホじゃないかと思います(もち
ろん賛美の文句です)。それと敵役として出てくる横山リエ! この人はいい! ぼくにとってある意味、理想像です。台詞回しはそれほどにうまくはないのですが、この人の顔立ちがね、ぼかあ、好きだなあ。やさぐれきった女囚役なんですけども、そのやさぐれぶり、愛を信ぜぬ感じ。梶芽衣子は誰がどう見ても綺麗ですよ。華もありますし、時代が時代なら吉原きっての花魁ですよ。一方この横山リエはいかにも不健康そうで、太陽が似合わぬ面で、だけどね、あたしゃあの子が好きでたまらねえのさ! なんかこう、狂わせる面なんだよね。ああいう女ならあたしゃあ一度狂ってみたいもんだね。

おしゃべりが過ぎています。この映画は全シーンに渡って濃いのであり、ひとつひとつを仔細語ればそれだけで一日仕事です。リアリティなんてものは吹き飛んでいるから、アホみたいな表現も多いですよ、看守たちはまるでショッカーみたいだし。でもこういう大胆不敵なものは、今の時代に欠乏しているように思えてならないので、余計に褒め称えたくなる。なおかつこの映画が偉いのは、女子刑務所という特性を活かし、ふんだんにおぱーいを登場させるところです。梶芽衣子もそうだし、とにかくたくさんおぱーいが出てくるのであり、後半における「看守監禁レイプ」は笑いました。囚人の女たちが看守を監禁し、レイプするのです。なんたる展開! 巨乳の囚人がたわわな胸を看守に押しつけるのです。あれはもうすごい話です。なんとうらやましい状況でしょうか。オープニングクレジットの場面もただおぱーいを見せたいだけみたいなシーンで、そういう馬鹿らしさは大事! 大事なんだってば!

本作のサソリの格好を引用した『愛のむきだし』でも、ひかりちゃんのレズシーンとかオナニーシーンがありますが、あんなのは物語を語るだけなら別に要らないわけです。でも、パンモロもそうですが、ああいうものは映画的サービスとして非常に意味があるのです。断言しますが、4時間の『愛のむきだし』を支えたのはああしたエロシーンの数々なのです。「わっ、おパンツだ!」と思うだけで、映画は楽しくなるのです。今回の作品にしても、「わっ、おぱーいだ! おぱーいがたくさん!」「わっ、乳房だ! 乳房発見!」「わっ、乳首だ! みんな、乳首があるぞ!」という刹那の感動によって支えられているのです。

 ずいぶん偏差値の低いことを延々と書いているのですが、とにかく本作は映画的快楽に充ち満ちているのです。『愛のむきだし』でサソリの格好が出てきたのもわかるというものです。あの作品は本作へのオマージュです。銃撃あり、格闘あり、おぱーいあり、非常に豊かな作品でありました。
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ロメロ的ゾンビの最も正しい使い方
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大傑作『ホットファズ』の監督の作品ですが、日本ではDVDスルーで劇場公開されなかったようです。タイトルから知れるようにゾンビものですが、従来のゾンビものをうまくネタフリにしており、それでいてゾンビ映画特有の要素もきちんと盛り込んでいるとあって、非常に巧みかつ面白い作品でした。

『ホットファズ』でもミステリーとコメディのきわめて絶妙な調合を行っていましたが、本作もまたゾンビものとコメディをうまく混ぜ合わせている。最もわかりやすいのは、ゾンビの滑稽さを全面に表している点です。ロメロが造形し、最も一般的となった「映画的ゾンビ」は、非常にゆっくりと歩くのが特徴です。夢遊病者のごとく、すごくとろとろしているんです。この特性を活かして、随所で笑いを生み出していて、ことごとく面白いギャグになっています。一方でゾンビの怖さもしっかり演出されていて、今までに観たゾンビ映画の中でいちばんに好きです。そう、この映画が大変に偉いのは、きちんとゾンビ映画の王道も踏まえていることです。過去のゾンビ映画をネタフリにするだけではなく、過去のゾンビ映画演出をちゃんと守るんです。あのインテリ男の最期のくだりで、特にそう感じました。あれを観ると、ああ、ゾンビ映画を観ているなあと誰しもが思うことでしょう。

 その一方で、今までにはあり得なかったラストシーンをつくった。何もかもがゾンビによってめちゃくちゃになりましたみたいな無責任な終わらせ方はしないんです。それでいいのか、と思わせつつ、これでいいのだな、と思わされる結末です。この映画はゾンビもの、特にロメロ的ゾンビを用いた映画にとって決定打となる作品じゃないでしょうか。

 今後この手のゾンビを使う場合は、相当に大変でしょう。少なくとも、単純にゾンビが出てきてきゃあ怖い、という映画はもうつくれないし、逆に過去の映画を観るに当たっても、ゾンビの滑稽さを的確に笑いのめしたこの作品を思い出してしまう。途中、ある目的地に行こうとした主人公たちが、ゾンビの大群に遭遇します。道には大量のゾンビがいて、うかつに進めば殺されてしまう、という状況。そのときに彼らが取った行動は、ある意味最もシンプルで、今までのゾンビ映画すべてを笑っている。「それをやっちゃあおしまいよ」的な行動で切り抜けるんです。ああいう方法で切り抜けた本作が公開されたら、後の作品ではもうあの局面自体を使うことができないでしょう。実はあれがいちばん正しくて、いちばん笑えるんですから。その「練習」をするくだりもいいですねえ。あの練習があるからこそ、余計に効いてくるんです。

 編集、テンポも大好きです。ごく短いカットを数秒つなげるだけで、もろもろの説明を済ませていたり、あるいはその活用でギャグを生み出したり。序盤はあまりゾンビが出てきませんが、ああいう編集で後々までテンポを殺さず進める手腕に惚れます。

 今日はあまり深い話をする気になりません。どこが面白いとかどこが優れているとか言葉で言う必要をあまり感じないんです。変にネタバレしたくない。多少なりともゾンビ映画を観ていると、余計に楽しめること請け合いです。ゾンビ映画なんてぜんぜん観たことがない、という人は、先に他の作品、特にロメロをいくつか観てからのほうが楽しめるはずです。そうすることでこの映画の優れた点がさらにわかりやすくなると思います。
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