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ところどころだっさださ。でも格好いい。つまりキュート。
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 ジャッキー・チェンが主人公ですが、今回のジャッキーはアクション封印で映画に挑んでおり、その点がこの映画の大きな特色となっています。いろんな意味で面白い作品でした。

 ジャッキーは中国からおんぼろ船に乗ってやってきた不法入国者なのですが、彼のたたずまいがものすごくいいのです。ジャッキー映画はそれほど観ていないのですが、今までに観た中でいちばんいい味を出していたように思います。アクション封印、ということで、もう気弱そうな、特に力強くもないような、貧相な男を演じていて、その風貌がものすんごくはまっているのです。過去にもむろん、すっとぼけたような男を演じてきた彼ですが、いざとなると力強かったわけで、今回はただ単に弱々しい男として出てくるから、そのギャップが絶品なのです。ジャッキー的なアクションは皆無と言ってよく、乱闘シーンなんかでも普通のおっさんの頑張り方なんです。ジャッキーがきちんと弱そうに見えるんです。このジャッキーを観ただけでなんだか満足できます。映画的に駄目な部分もキュートに見えてくるのです。

 公平に一本の映画として観れば、ところどころの演出がもうあほみたいにだっさいです。最近のテレビ局映画級のだささであり、観ながら何度も「うわあ、ださいなあ」と思わされる場面に出会います。加藤雅也が出てくるところは特にそうで、失笑してしまうほどなのです。テレビドラマ的というのがいちばん近いのですが、やっぱり映画とドラマは違っていて、映画でドラマっぽい演出をされるとひどくださく見える。テレビ局映画の駄目さはひとつにそこで、彼らはドラマをつくるやり方に馴れているものだから、どうしても癖が出てしまうのでしょう。本広克行にしても堤幸彦にしてもそう。彼らはドラマで名を上げたものだから、そのやり方でいいと思ってしまっている。だから映画にするとださく見える。

 この問題は観客側にもきっとあって、普段映画をあまり観ない層を集めようと思えば、どうしてもテレビドラマ的になる。ドラマの映画化がことごとく映画としてださいのは、彼らテレビ視聴者用の映像にしようと作り手が思っているから。あるいはテレビドラマに馴れきって映画の作法を受け入れられない観客が実際に多いからでしょう。平たく言えば、馬鹿用につくっているから馬鹿な出来になるんです。馬鹿が理解できるようにしないとせっかくテレビCMに踊らされてやってきた馬鹿が満足しなくなるのであり、あえて馬鹿用につくらざるを得ない、もしくはそういう言い訳が作り手の髄に染みいっている。こういう風にしないと観客はわからないだろうと恐れるがあまりに、馬鹿みたいな演出を繰り返している。そしてやがて本当にそういうのしかわからない馬鹿が増える。この馬鹿スパイラル。

 ああ、今日も話がそれる。
 『新宿インシデント』はそういうだささに充ち満ちています。今回の題材がヤクザ同士の抗争なので、きっと監督は日本のVシネマを散々に研究し、それがゆえにださい演出も覚えてしまったのでしょう。竹中直人の台詞なんかもまさかと思うくらいにださいんです。中国の監督だから日本語の芝居はそれでいいと思ったのでしょう。ぼくは別にそのことを悪く言うつもりはありません。というのは、ぼくのジャッキー萌えも似たようなものだろうと思うからです。ジャッキーの芝居、その中国語の台詞回しがどうなのかぜんぜんわかりませんから、ジャッキーの演技について悪く思わない。中国人から観ればひどい台詞回しと思うのかもしれないけれど、さっぱりわからないから問題ないんです。

 演出はださださな場面が多いんですが、それすらもキュートに思えるのがいい映画というものです。時々はっとさせられる場面があって、締めるところを締めているので、馬鹿さがキュートなんです。端正でよくできた作品の良さ、というのもあるけれど、なんだか馬鹿っぽいいびつな作品の良さもあるわけです。

 不法入国者ジャッキーが周囲に助けられつつも周囲を助けるためにヤクザの世界にはまっていくのですが、ヤクザ映画といえばつきものなのが対立的権威たる警察の存在です。ある特定の刑事が警察という記号の代表として出てくるのがヤクザ映画によくあるパターンで、今回その役を担うのは竹中直人。彼の出演シーンのほとんどはテレビ局映画並にださいことになっていますが、彼の登場によってジャッキーの運命は大きく変わっていくのであり、彼は大変なキーパーソンになっています。そしてそのことはこの映画の大きな魅力に関連するのでして、その部分をさっぱりわかっていない人間がアマゾンレビウにいたので、ここで密やかにつるし上げます。

密入国した鉄頭を待ちかまえていた日本でのうかばれない悲惨な生活、ヤクザの抗争に翻弄され、恋人もヤクザの妻、そして結局は哀れな死に方をしてしまう・・・という、ちょっとだけ悲しい内容の映画ではあるが、このストーリーには納得がいかないなぁ。違法就労で下水溝清掃作業をしていた鉄頭を捕まえようとやってきた刑事(竹中直人)が、鉄頭を追いかけている途中で下水溝で溺れそうになってしまい、それを鉄頭に助けられるものだから、命の恩人として鉄頭を見逃し、その後も鉄頭に便宜をはかるってのはヘンでしょ。そもそも鉄頭が逃亡しようとしたから溺れそうになったんだもの、「命の恩人」だなんていう理論が成立しないぢゃん。プロの刑事なんだから、プロとしての自分の仕事を全うして鉄頭を逮補しろよな。ちゃんと逮補していたら、鉄頭の人生も変わり、下水溝の中で死んで行くだなんていう悲劇的最期を迎えなくてもすんだだろうに。

この人はこの映画の何がいいのかをぜんぜんわかっていないというか、こんなうすらとんかちのぼくよりも人情というものをわかっていないようです。ジャッキーは警察に追われているのにその警察の命を助けたのであり、そのジャッキーが捕まるべきだったというのなら、彼はあの後の人生で、他人の命を助けたいという人情を完全に損なうことになります。尊ぶべき人情を否定し、ただ賢く生きることのみを奨励することになります。ここで「プロの仕事をまっとうして逮捕しろ」という人を、いやあどこの誰だか存じませんが、心底軽蔑するのであります。ちゃんと逮捕していたら死ななくてすんだのに、馬鹿なことをしたものだ、みたいに書いているのですが、そこがこの映画のいいところだよ馬鹿!

 ジャッキーの人情がめぐりめぐってあの最期を迎えたからこの映画は格好いいんだよ。いいことをしたから、人を助けたからと言って必ずしもよき結果を招くとは限らない。あの甘栗の青年だって、甘栗の屋台を得ることさえなければあんな目に、あんな末路を遂げることもなかった。じゃあ甘栗の屋台をプレゼントしたのが悪いことなのか? それで喜んだのはいけないことか? そんなことはあり得ない。どんな幸福がどんな不幸を招くかはまったくわからない、その逆もしかり、というのがこの映画の展開のおもしろさを生んでいるんだよ。加藤雅也を助けるくだりでも、別にジャッキーは人助けをするつもりはなかった。でも、結果としてすごい人物を助けて、それがまた運命を動かしていく。それがいいことかどうかはわからない。わからないけれどとにかく人生は進んでいく。この映画には「人間万事塞翁が馬」が貫かれていて、だからこそ馬鹿馬鹿しくてださださでも格好いいんです。

 クライマックスも格好いい。もうめちゃくちゃになります。誰が誰の味方かわかんないし誰を助けりゃいいかわかんないしなんか全部敵みたいな感じするからとりあえずここから逃げなきゃ! になるあのシーンの豊かさ。リアリティ度外視のドンパチ劇でも、面白ければオールオッケー。何よりもキュート。

 外国人参政権がかまびすしく論議される昨今ですが、不法入国者ものはあまり観た覚えもなく、新鮮だったのも好感を覚えた要因です。参政権うんぬんどころか身分証もないんですけど、というアウトサイドの連中がいて、そいつらは最悪だけど最悪じゃない部分もあって、でも最悪にならざるを得ない部分もあって、という部分を描いているのもいい。不法入国は不法なんだから肯定されるべきではないんだろうけれど、偶然日本という国に生まれているから言えるのであって、じゃあいざ彼らの立場に立たされたらどう思うかってことはやっぱり考える。母国で満足な生活もできねえこのクソみてえな人生を不法入国でもなんでもいいからなんとかしてえんだよ! っていう思考を想像することはできる。

 すっごく失礼なたとえを使うけれど、部屋に一匹のゴキブリが入ってきたとして、ぼくはそのゴキブリを撃退したいと思う。でも、ゴキブリはゴキブリで別にぼくに悪意があってやってきたんじゃなくて、そいつはそいつで必死で生きようとしてうっかりぼくに見つかって殺されてしまうわけであって、その殺害はつまり、「ぼくに見つかった不運なゴキブリ」と「ゴキブリを見つけてしまった不運なぼく」のぶつかりの結果である。そしてぼくが幸いにも人間の側に立ち、ゴキブリでなかった結果である。ゴキブリに対する恐怖や嫌悪は消えないけれど、今度もし家にゴキブリが出ることがあったら、彼か彼女の声を想像してみたいと思う。「馬鹿野郎。俺だって来たくてここに来たんじゃないやい」「俺にだって生きる権利はあるんだ。おまえなんかに殺されてたまるか」という声が想像できたら、ぼくの恐怖は少しだけ消えるかもしれない。みんなもいつかやってみよう。って、そんな締め方あるかよ。なんかどう終わっていいかわかんないやシリーズ。
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いい意味で中学生的。
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B級テイスト溢れるSFスリラーで、ウルトラQ的な昔の特撮ものにも似た、なかなか愉快な作品であります。変な褒め方ですが、「いい感じで金がかかっていない」作品です。下手に豪華な特撮効果を入れるでなし、近未来を描いたりして失敗するでもなし、発せられるメッセージはアホみたいにわかりやすく、ぼく的基準で言えばかなりキュートな作品と言えます。

 失業中の主人公がドヤ街に暮らし始めるといきなりその集落が警察によって破壊され、不審に思った彼が真相を究明しようと乗り出すとそこには驚きの事実が、という筋立てで、いたってシンプルな作りです。

 主人公はとある場所でサングラスを見つけるのですが、それを装着するとなんと、世界の像がまったく違って見えるのです。飾り立てた広告の看板はどれも「従え」「買え」「考えるな」というメッセージを放つだけのものに変わっており、街を行き交う人間の一部がドクロのような顔に見えるのです。看板については、これ以上なくわっかりやすい商業主義への風刺です。
「ふたたびテレビを見てすぐに気づいたことは、テレビ画面に映し出される映像は全て、我々に何かを売りつける意図のもとにデザインされているということです。映像は全て、我々に何かを買いたいという欲望を起こさせることを意図して作られているのです。彼ら(映像の作り手)がやりたいことと言えば、我々のお金を奪うことだけです」
これは今日付ウィキに貼られている監督のコメントですが、この考えを表すにあれ以上わっかりやすいやり方はないでしょう。

 まるで反商業主義の雷鳴に撃たれた中学生のような、とても短絡的な発想ですが、この監督の映画もどうも中学生っぽい、いや高校生くらいか、とにかくちょっと馬鹿っぽいんです。悪く言っているのではありません。その甘さがキュートなんです。これをね、深刻な面をして商業主義を語り出したりしたら最悪ですよ。でも、「こういうよの中はへんだとおもうんだ!」って叫んでいる感じで、かわいらしさがあるのです。

 幸か不幸かこういう若々しい発想を持つ時期はぼく自身は過ぎておりまして、今では半ば世捨て人みたいになっているため、「好きにやればよろしい」と思っております。それではあまりにもじいさんくさいのでちょっとひねくれたことを言うならば、やはりアホはアホで利用価値がある、ということです。やはり人がものを買わないと経済が回らないし、商品開発の競争によって科学は発展を見ていくわけであるし、そうなるとアホはアホなりに広告やCMの言うことを聞いて、商品を買っていればよろしいのです。アホが経済を回していると言っても過言ではないのです。アホがパワースポットに行く過程でお金を落とし、アホがキャバクラの女にボトルを開け、アホがすかすかな音楽とクソ映画に涙を流し、アホが流行に乗せられて次々と家電や衣服を買い換える。不景気打開の鍵はこのアホからいかに金をむしり取るかということであって、もうぼくは知らない、好きにやればよろしい。

 映画に戻ると、街の通行人の一部がドクロに見えたのは理由があって、なぜならそいつらはエイリアンだったから、という、なんともこれまた中学生的な発想なのです。エイリアンがこの社会を乗っ取ろうとしていて、ああいう商業主義的なメッセージを発しているということなのです。人々をメッセージに従順なる存在に仕上げ、乗っ取ってやろうという腹づもりのようなのです。地下には宇宙へワープする装置があって、驚くことに地下にそのまま宇宙空間が広がっており、ここを通してエイリアンは乗り込んできているのです。

 さて、今ぼくはエイリアンを「中学生的」と書きましたが、実はそれだけの見方ではSFそのものへの踏み込みが足りないとも思います。「エイリアン」は宇宙人、地球外生命体などの概念として日本では訳されますが、言葉の意味としては"alien"=「外国の、異質な、対立した」という意味を持つ形容詞句でもあります。エイリアンとはつまり、「他者」のことなのです。エイリアンを記号的な悪、こちらを脅かす敵対者としてのみ描く、あるいは見なしてしまうというのは危険であり、この映画ではその点への気遣いが見られます。

 ここに出てくるエイリアンは、別に悪いことは何もしてない。いや何もしていないわけではなくて確かにドヤ街を壊したけれどそれは自分たちの存在に気づく気配を感じたからであって、表向きは普通の人間と何も変わらない形で過ごしているのです。映画に出てくる一般市民からすれば、クレイジーなのは明らかに主人公のほうであって、エイリアンは別に何の危害も加えていないのです。監督はエイリアン=他者=「彼にとっての商業主義」を破壊的な悪と見なすのではなく、いかにも優しい顔をして近づいてきてこちらを取り込もうとする存在、として捉えています。破壊的エイリアンやゾンビといった、いかにもキリスト教的な「絶対悪」を配置しがちなアメリカ映画の中で見れば、この映画の美点があるように思います。

 エイリアン側に寝返る登場人物も当然いるのでして、彼は「商取引のようなものさ」と主人公たちを説得します。別に危険な連中じゃないんだから彼らとうまく持ちつ持たれつでやっていけばそれでいいじゃん、的な人もいて、これはこれで(現実においても)確立した処世術となっており、監督にしてみれば忌むべきものなのでしょう。ぼくはこの登場人物を見て、宗教に関する連想が働きました。現実社会でもやっぱりあるわけですよ。特定の宗教団体に入信すると言っておけばその分仕事が回ってきたり、得票できたりするわけですよ。監督は商業主義に重きを置いたようですが、宗教方面でふくらませていればぼく的ポイントはもっと上がりました。

 芸能人や政治家やなんかでも、信濃町を中心とする熱放射の恩恵を受けている人は多いようです(検索を恐れる迂遠な描写)。それを生まれたときから本気で信じている人はまだわかるんですが、中にはそれこそ「商取引」と割り切って入信してしまう人もいるんでしょうね。商業主義云々より、そういうマインドのほうがぼくは恐いです。ある意味では透徹した無神論者、処世第一の合理主義者と言えなくもないけれど、宗教的な精神の部分を明け渡す、文字通り「魂を売る」人間のほうが恐いと思うんです。

 かといって、そういうものをぶちこわせばそれでいいのか。この監督は最後の最後で、中学生的でありながら中学生的ではない、実に大人なラストを用意しました。エイリアン電波装置を主人公が壊したせいで、エイリアンのドクロ顔ははっきり誰にでも見えるものになり、大混乱になるのを予見させて映画は終わります。エイリアンを倒してハッピー、という単純な話ではなく、むしろ隠していた嘘を暴いたら大変な混乱が起きるというエンディングを用意しているのです。嘘を暴きたいと息巻くのはいいけれど、真実が見えた後の後始末はつけられそうにもないだろう? 監督が自分の中の中学生と語り合ったかのようなこのラストは絶品。さらに偉いのは、きちんと笑いになっているところです。まじめぶるのではなく、笑いにしてしまう。信頼できる監督です。
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アホ。
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現在新作の『ブルーノ』が公開中ですが、ボラットと同一人物だとは思いませんでした。ぼくはサシャ・バロン・コーエンという人を監督だと思いこんでおり、いや、ボラットの監督兼主演だと思っていて、『ブルーノ』では監督に専念したのかと勘違いしていました。という、「別におまえの勘違いとか訊いてねえし」情報からのスタートですが、『ボラット』はドキュメンタリータッチのコメディです。カザフスタン人ボラットに扮したコーエンが、アメリカ社会に踏み込んでいたずらをしまくる、ふざけまくる映画です。

 前半は結構面白く観ました。テレビがまじめっこちゃんになって以降、ぼくはこういうものに餓えていたのです。いちばん連想しやすいのは『電波少年』で、小学校高学年の時以来『電波少年』に支えられ続けたぼくは、こういう体当たり感が好きなのです。やっぱりドキドキさせる番組、映画というのは尊いのです。テレビ番組がつまらなくなったいちばんの要素はこのドキドキ感の消失。事故性の消失。事故が起こっちゃいけない、とわかりつつも、おそらく昔のテレビにはその事故をも包括して楽しんでしまうようなところがあったと思うんです。『電波少年』はその金字塔です。松村をチーマーの輪の中に放り込むようなことは、今のテレビには絶対できない。今のテレビはガチで、事故が起こらないようにしているんです。社会全体がそうなのでしょうかね。たとえば公園の危険遊具の撤去とかにしたって同じ話です。煙草のタスポ導入だってそうです。国母選手の騒動とか、沢尻エリカの騒動も似たような感じを受けます。あとはあの覚醒剤騒動の過熱ぶりよ。とにかく枠の外に少しでも出るようなものに対してヒステリックになる。この風潮はちょっと恐いですよ。かなり恐いですよ。こういう風になったこととネット文化の広まりがどうも時代的にかみ合っているのですが、何か関係があるのでしょうか。賢い人に教えてほしいものです。

閑話休題。『ボラット』。
 字幕だからニュアンスは十二分にわかっていないのだろうけれど、それでも字幕の付け方は上手くて、笑わせてもらいました。編集のテンポもいいし、さらりときわどいことを言うのがうまいんですね。おかしなことを言うぞーじゃなくて、普通のトーンでぽろっとおかしなことを言うのが面白い。ひやひやわくわくさせてくれるから、笑える空気がきちんとつくれているんですね。

 と、言いつつも、案外風刺的な部分って、弱いような気もするんです。この映画を褒めるときはアメリカ社会の風刺みたいなところを言われるようですが、実はその部分はそれほど濃くはなかったりする。あのロデオ大会のくだりはいいと思うんです。ロデオ大会に出て行ってスピーチするんですが、このくだりは素晴らしい。イラク戦争に関して、ボラットは「私は戦争を支持します!」と叫び、観客から喝采を受けます。ところがボラットは続けて、「イラク人民を皆殺しにしましょう!」「向こう千年は草木も生えない土地にしてやりましょう!」と叫び、今度は周囲の反応が悪くなるんです。これはすごくいい風刺だと思うんです。戦争を支持するってことは、そういうことなんだろ? おまえらはイラクの国民が死ぬことを望んでるんだろ? 拍手をしたやつらよ! というメッセージになっていて、人々の気持ちを実に痛快に逆撫でる。こういうのがもっともっとあってほしかったなあと思うんです。

 確かに人々との会話で、ユダヤ人差別の本音を暴く、みたいな体は随所にあるんですけれども、それもどうも弱くて、というか、なんともこの映画に充ち満ちている「仕込み感」が拭えない。ロデオ大会はそうじゃなかったんですが、他のところは仕込み感が強かったんですね。違う言い方をすると、せっかくドキュメンタリーっぽいのに、ドキュメント的なドキドキが無くなり始める。いちばん明確なのは、出てくる人たちがぜんぜんカメラを観ないことです。ボラットが変なことをしていて、いわば狂人じゃないですか。そのとき相手は正気を求めて、カメラを観ると思うんです。ねえ、どういうことなのこの人? という救いを求めるようにね。あの会食の席はそれがないから、どうも生々しさが乏しい。パメラ襲撃のくだりにしたって何だって、「何を撮ってるんだ!」みたいなのはあったほうがいいと思うんです。そうするとよりあのボラットの狂人性が浮き立つと思うんですよ。カメラを観ないということは、カメラの存在をないものとして扱っているということです。それはつまり普通の劇映画的であり、違う言い方をすると虚構的なんです。虚構なら虚構で結構。ならば下手にあのロデオ大会みたいな本物を入れないほうがよかった。ああいう現実のすごみに、虚構は負けてしまうんです。でも、あのシーンもどれだけ現実か怪しいなあと少し思うのは、後ろでタイミング良く牛がこけるところ。面白いけど、迫力が薄れます。

 ただ、この映画でひとつ、ある意味とても風刺的なところがあって、それはあの福音派のくだりです。福音派の集会があるんですが、ここでは今まで散々ボケ倒していたボラットがぜんぜんボケないんです。素直に福音派に従う。これね、福音派を皮肉ることができなかった、という見方もあると思うんですが、ぼくは「福音派ってのはボラットがボケられないほどの狂烈集団だぜ」という風刺として機能していると思うんです。下手に皮肉る必要がないような集団だってことは、観りゃわかるだろ? ということです。

 この映画はいろいろ言いたいことがありますが、忘れてはならないのはあのチンポむきだし写真です(あの場合、チンコではなくチンポというほうが適切。適切って何だよ)。もうモロだしなんです。あの辺の映像の基準がよくわからない。市販AVでもチンポは自主規制をかけているものが大半ですが(ネットは除く)、この映画では普通にチンポが写っています。さすがにボラットのチンコは隠れていましたが、ああいうのはいいのでしょうか。いや、いいのです。ああいうのを規制するものと戦わねばなりません。その点のDVD制作者の心意気はあっぱれです。

この映画をやれる日本人はなんと言っても江頭2:50ですが(実際にトルコでやったし)、江頭は笑えなかったようです。いわく、「ああいうのは嫌々やるから面白い」とのことでした。ディレクターの指示を受けた芸人が罰ゲームとしてこわごわやるから面白いのだと言っていて、この点は松本人志の『ジャッカス』評と同じことを言っています。江頭という人がこの辺のバランス感覚を大事にしているのは意外でした。確かに嫌々やることによってドキュメンタリー性は高まるんです。そのほうが余計ドキドキするというか、じらし効果を生むんですね。この映画に足りないのはじらし効果で、ゆえに後半になると仕込み感が浮き立ってくる。

 あれこれと思うところある映画ですが、『ブルーノ』を観に行こうと思わせるよい映画でした。最後にブタゴリラとくっついたところも、大変心温まる部分です。
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だまされちゃ駄目でござる。

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 ネットを散見するに、結構はっきりと賛否分かれる「くせもの映画」のようだと思い、実際観てみるとなんともはや結構な「くせもの映画」でございました。結論から言うに、ちっとも面白くないくせに意味ありげ。意味ありげだというただそれだけで認められている映画のように思いました。あとは『隠された記憶』くらいしか観ていないのですが、この人もまた、ある種の映画監督に見受けられる傾向を有しています。一言で言えば、「批評家向けに撮っている」ということです。一部の批評家に褒められることを良しとしている気がしてなりません。絶賛している人もいるようなのですが、どこがいいのかさっぱりわかりませんでした。

 休暇で別荘に向かった三人家族が男二人組に暴力を受け、殺される話なんですが、凄惨な暴力がうんぬん、という褒め方にまず文句を言いたい。ひどい暴力が描かれた映画、みたいに言われるんですけども、ぜんぜんそんなことはありません。カンヌの上映ではそのひどさのあまりに観客が席を立った、みたいに言われますが、違うでしょ? 暴力表現のひどさとか残虐さとかで席を立ったんじゃないでしょ? 単純につまんねえからだよ!

 監督はハリウッドアクションへのアンチみたいな感じで撮った、とも言われています。大量にばかばか人が死ぬような映画、登場人物がご都合主義的に暴力から救われる映画、そういうものへの痛烈な皮肉だなどという褒め方をする人もいます。暴力表現を娯楽として楽しんでいる観客、それらに対する皮肉でもあろうとわかるのは、悪役がカメラ目線で語りかけるメタ的な描写です。あれによって、観客もまた悪役同様に、暴力を娯楽として楽しんでいる人間なのだと知らせて、観客を共犯関係に巻き込んじゃったりなんかしちゃったりなんかして、ほら、批評的でしょう? って腹かよ!

 あのー、批評家向けに撮っているなって思わせる監督の映画って、大体そうなんですけど、登場人物にちっとも存在感がないんですよ。きわめて記号的、頭でっかち。暴力なんていうきわめて肉体的なものについて、頭でっかちに語っちゃ駄目なんだって。暴力のうんぬんを描くなら、「批評的に」描きたいなら、まずは肉体感を示さなければどうにもならない、というか、批判している(のかしらないけど)ハリウッドアクションとまったく一緒じゃん! 「駄目な映画を盛り上げるために簡単に命が捨てられていく」(さて、何の歌詞でしょう?)ような状況についてね、それを面白がる観客についてね、批評的であろうとする態度はいいの。それは確かに倫理的な態度だし、あるべき態度なんだよ。

 でもね、だったらその分、「うわあ、人が暴力をふるわれるのは本当に嫌なものだ」と思わせてくれなきゃ駄目だし、そのためには是が非でも肉体的な重み、あるいは一人の人間が確かにそこで虐げられている、という存在感がなきゃ駄目だよ。ところがこの監督はそういう土台の部分にまるきり意識が働いていない。批評的な構造ばかりに目がいって、肝心の人間がいないんだ。あえて残虐な表現を回避しながら観客に不快感を抱かせているなんて言う人もいるみたいだけどね、はあそうですか。ぼくは鈍感だからちっとも感じませんでしたよ。なぜならこの映画には肉体感も存在感もないからね。一風変わった手法を褒めてるだけじゃないですかね。だからはっきり言って「不快感」とか「嫌悪感」なんてこれっぽっちも沸いてこない。沸いてくるのはひたすら「つまらない」ってことだけ。

 ちゃんと映画を観たい人間にしてみれば、「すっごく不快なもの」や「すっごく嫌なもの」も含めて、ちゃんと価値のあるものになるんだよ。どうしてこんなに不快なのか、どうしてこんなに嫌なのかってことを考えられるし、学びを得られるんだよ(だから不快だったり嫌悪を感じたりするからと言ってそういうものが消えて無くなればいいとか思っているやつらが、表現についての条例案とか出してんじゃねえよ)。

 この映画は、その地平まで連れて行ってくれないんです、ぜんぜん。
 で、もうすっごい退屈なわけ。
 あの、途中の携帯電話のくだりとか、スーパーどうでもいい。携帯電話が濡れちゃってつながらないわ、あ、つながるかも、あら、やっぱりつながらないわ、というあのくだり、絶対要らない。その直後の、女が家から脱出した際のワンショットも要らない。夫婦が抱き合うあの長さも要らない。
 ってこういうこと言うとなんですかね? テンポ良く語ろうとする話法もまた娯楽的であり、現実はそれほどテンポ良いものではあり得ず、この映画ではきわめて現実的な場面を切り取っているのであり、あのテンポの悪さもまたアンチ娯楽映画的態度だとでも言うのですかね。ああいうのをリアリティだとでも言うんですかね? 

 だったらぼくにビデオカメラをよこせ! 世界一リアルな映画を撮ってやる! ただし、普通に部屋を映しているだけだからそのつもりでな!! あのね、いくらリアルに近づいたところで、面白くなきゃしょうがないんだよ。リアルに描くことを先に持ってきて、映画を観る快楽それ自体を失わせてどうするんだ馬鹿! あれだって肉体感さえあれば、存在感さえあれば違っていたよ。あのキスの場面だって違っていたはずなんだよ。そういうのが何にもないの! 記号的に描いておきながら何がリアリティだ! 去にさらせ!

 いや、別にね、ぼかあね、そこまで怒ってやしないんだよ。
 簡単に言えばどうでもいい映画なんでござる。ところがね、こういう映画を観てね、「いやあ、暴力のなんちゃらがうんちゃらだよね」とか、「映画全般に対する、あるいはぼくたち観客に対する痛烈な批評だよね、批評たり得るよね」みたいなことを思っている人もいるみたいでね。
 要は頭よさげで口の上手い人に騙されちゃ駄目ですよってことでござる。 
 リメイク版はもちろん観ないのでござる。
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スネーク的格好良さ
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 原題ESCAPE FROM NEW YORK
 マンハッタン島がまるまる終身刑の刑務所になっているという設定の近未来アクション。大統領がこの島に誘拐される事件が起こり、それと時同じくして一人の犯罪者がこの島に収監されようとしていた。彼の名はスネーク・プリスキン(カート・ラッセル)。かつて戦場の英雄として名を馳せたスネークは無罪放免を条件に、マンハッタン島へと単独潜入し、大統領の救出を試みる。人気ゲームソフト『メタルギア』シリーズの元ネタとしても有名。

 1981年の映画で1997年を描いているのですが、今に照らせば2026年ということです。うーん、絶妙な「未来さ」です。2030年以降だと未来! って感じだし、2010年代ならもうすぐ! って感じがしますが、2026年はぼくの中でかなり微妙な未来さ加減です。

 この映画に描かれた16年後では、マンハッタンが完全に機能していないものになっています。荒廃した大都市っていうのはそれだけで単純な面白みを生みますね。ピクサーの『ウォーリー』なんかはその極致で、あの荒廃描写はひとつの集大成であるように思います。世の中には廃墟が好きな人というのがいますが、ちょっとわかります。長崎県端島、いわゆる軍艦島にはいつの日か行ってみたい。誰もいない街というのは、なんだか美しいんです。それ自体がひとつの大きなオブジェみたいに思えるんですね。都会の明け方は、それに近い感じがします。

 本作のマンハッタンは囚人の街になっており、いちばんイメージとして近いのはテレビゲームの『ファイナルファイト』です。あのゲームは本作に影響を受けたことでしょう。あるいはFF6に出てくるゾゾの街にも似ています。とにかくどうしようもない場所なのです。そこに潜入するスネーク・プリスキンが、悪党の親玉に連れ去られた大統領を救出するため、東奔西走を繰り返すわけです。

 この映画の公開は1981年、この半年後にはあの『マッドマックス2』が公開されています。あれもぶっ壊れた未来の話ですが、悪役の造形は結構似ています。マッドマックス2のほうがぶっ飛んでいるんですが、ファッションとかはどちらもパンク風で、この辺は漫画的なおもしろさを感じるところです。悪役以外にも訳のわからない人たちが出てきて、これも愉快です。

 ゾンビ的な人たちが夜の街でいきなり家の床をぶち破り、地下から出てくるんです。途中、何かいわくありげな女が出てくるんですが、話している最中にいきなり地下のゾンビ的な人々に襲われ、以降彼女は一切出てこなくなります。あれはちょっと笑います。すっごくフリの長いギャグみたいなものですよ。彼女は何か物語的機能を担うのかなと思いきや、その後何もなく、ただ襲われるだけの人でしたから。だったらなぜあんなに意味ありげだったのか。思い返して笑うこと請け合いです。

 全体を通してあほっぽいところはあほっぽいというか、ちょっとゾンビ映画のノリが入っています。記号的に倒される悪役が出てきたりするし。それにアクション映画として観てみても、他のいわゆるハリウッドアクションに比べればぜんぜんたいしたことない、という感じも大きいのです。ゆるゆるなところは結構ゆるゆるなのです。たとえばあのアーネスト・ボーグナインの出てくるタイミングが良すぎるのです。なんであんなにどんぴしゃのタイミングでやってくるのかとつっこみたくなります。でもその辺をご愛敬とするのがこういう映画の楽しみ方でもありますから別によいです。

 でも、この映画はとびきり格好良いです。ラストシーンが素晴らしいので、痛快感は相当に大きいです。このラストを書いたとき、監督は「できた!」と嬉しくなったことでしょう。特に後に公開される『ランボー 怒りの脱出』と比較してみると、この映画の格好良さが引き立ちます。

『ランボー 怒りの脱出』も潜入ものでしたが、あの映画がやっぱり嫌なのはランボーに「国に忠誠を誓います」と言わせてしまうところです。だったらなぜ三作目でタイの寺院なぞにいたのだ、とつっこみたくなるわけです。その点で行くと『ニューヨーク1997』のラストはそんな野暮な真似はしません。あのラストでかなりポイントが高くなりました。
 
 ちなみに、このスネーク・プリスキンもランボーもメタルギアシリーズを造形するうえで多大な影響を与えているキャラクターですが、MGS3におけるラストはいいですよ。艱難辛苦乗り越えてミッションを達成したスネークは、大統領や記者団に囲まれながら敬礼します。何も言いません。あそこで何も言わないのがいいんです。あのときのスネークは、「こいつらに何がわかるものかよ」という顔なんです。ランボー2の失態からきちんと学びを得て、MGS3はつくられたわけです。日本の大作映画はぱーぷーの踊り場と化していますが、ゲームは違いますね。ハイクオリティなゲームが(それとアニメが)日本映画界を引っ張っています。ゲームとかアニメをオタク文化だとけなしているやつらが、非実在青年とか言い出すのです。馬鹿どもめ。

 なんだか話が右往左往していますが、久々の映画話なのでご愛敬。今日はこの辺。
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この芸人がすごい!

 最近映画から離れているので、映画ブログ一徹としてやっていくなら更新を止めざるを得ず、かといって何かしら書いておきたいという気持ちもあり、まあ読む人がいようがいまいがどうでもいいけど、まあ読むなら読んでおくれよ。

 ぼくはお笑い芸人という人々が大好きですが、特に大好きな人の魅力を伝えたいのでそういう文章を今日は書こう。ダウンタウンは別格として、ひとまず横に置いて。 

伊集院光
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 ラジオの魅力は言わずもがな。この人のラジオを面白くない、という感受性をお持ちの方とは、かなり浅い段階からもうわかりあえない。90年代からの筋金入りのファン、というわけではまったくないけれど、大学時代からずっと聴いている(不幸なことにおねマスと時間が被っている!)。今のテレビのお笑いで満足している人には絶対わからない。ラジオというメディアでかたくなに自己のスタイルを貫き通し続けているところがすんげえ格好いい。芸能人、と広く言われる中で、たぶんいちばんに喋りの面白い人。鶴瓶の魅力もさんまの魅力もすごいのだけれど、率直にいちばん面白い人は誰かと言われれば、ぼくはこの人を挙げる。BSで放送されていた番組も違う意味で面白いし興味深い。エッセイも面白い。知れば知るほどすげえなあと思わせる。ぼくがあれこれ書いてもどうせ伝わらないけれど、ラジオを聴けばわかるはず。わからない人にはあまり用事がない。

江頭2:50
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抱かれたくないとかで常連上位だけど、つくづく女ってのは・・・と思わされる。この人の格好よさは『レスラー』のランディに通ずるものがある。自分がどんな目に遭おうがどう見られようが関係ないっていう潔さ。真似できないし、下手すると本当に笑いのために死ぬんじゃないかと思わせるただ一人の芸人。やっぱり自分は弱い人間だなあと思うのは、どうしてもどこかで格好を付けようとしてしまうから。この人はそういうのぜんぜん関係ない! っていうのがびしびし伝わるし、それがすっげえ格好いいってことがなんで女はわからないんだろうか! ぼくが女だったらぜんぜん抱かれてもいいぞ! 言っちゃ悪いけれど、この人のすごさがわからなくて「お笑いファン」とか言ってんじゃねえよと思う。この人を「抱かれたくないタレント」に挙げたクソ女どもめ! いや、そりゃあ面白い面白くないってことは人それぞれあるからいいけど、とにかくすごいってことはわかるんじゃないのか? ネット上の動画とか見れば。破天荒な芸風とは裏腹に、大変映画に造詣が深いというのもポイントプラス! 格好いいぜ!(という褒め言葉を嫌うところがまた格好いいから仕方ないのさ!)

ブラックマヨネーズ・吉田敬
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 この人も女性支持率が低い。いやあ、後に続けて書く人もそうだけど、女性支持率が低いほど面白いのはなぜだろうか。もちろん小杉の魅力もあるし、人気は小杉のほうが上だろう。でもこの吉田の、どうしようもなく卑屈で利己主義的な感じが、見ていて心地いいのだ。発言のひとつひとつがすっごく姑息な感じ、下卑た感じ。でもそういう目線で語られる言葉は、面白いのだ。前に見たロンハーの格付けが印象的だった。
 自分の行った格付けがことごとく違っていて、他の芸人から「謝れ!」と罵られる。それに対して吉田は、大きな声で謝る。しかし頭は下げずに謝ったので、「頭を下げろ!」とつっこまれる。すると彼は、「大きな声で謝った分、頭まで下げたら損やないか!」と逆ギレする。
別のくだりで同じように謝罪を要求されると、悔しそうに顔を歪めながら、「他にも謝らなあかんやついっぱいおるのに、そいつらのこと考えたら、こんなことで謝ってええんかなあ」と悩み始める。
 この発想は実に面白い。怒鳴って屁理屈をかますのも面白い。漫才のネタもこの手の発想の割合が大きい。とにかくミクロな部分で相手を言い負かそうとして、変な方向に転がっていくのだ。松本人志は「多くの若手がダウンタウンの影響を受けた中で、ブラマヨはそうではない」と言い切った。
 モテたいモテたいと言いつつ、言っていることはモテないようなことばかり。でもそうと知りつつも、笑いを取るほうに進んでいくのが格好いい。人間的に信用できそうもない、とここまで思わせてくれる人もなかなかいないが、そこを自ら進んで露呈しているところが信用できるのだ。

南海キャンディーズ・ 山里亮太
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 なんといってもツッコミのボキャブラリーが面白い。関東系のお笑いは「なんでやねん!」「どないやねん!」という関西の切れ味には勝てず、だからこそ「うまいたとえ」「うまい言い回し」に進化した。筆頭はくりぃむしちゅーの上田であろうし、その弟子筋とも言えるアンタッチャブル柴田であり(彼らもまた伊集院の影響下にある)、口調自体が独特なおぎやはぎ・矢作もいる。そのような中、ツッコミが単独のラジオ番組を持っているケースは少ない。笑いの要素が強いラジオならば唯一ではないだろうか(知らないけど)。この先芸人として生き残るのは実はしずちゃんでなく、山里のほうだろう。この人も吉田同様に、人間的に下衆な感じがするのであり、その点も好ましい。

象さんのポット
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 とっくに解散したコンビで、リアルタイムで見ていたわけではぜんぜんない。ネットで見て、実に面白いと感動したのである。時代的に早すぎた、という感じがすごくする。漫才の歴史では、ツービートのテンポの速い漫才があり、それを紳助竜介がさらに加速させ、その末にダウンタウンのスローな漫才が出てきたと言われる。ダウンタウンが出てきたとき、どこで笑えばいいのか戸惑ったという人もいる。象さんのポットを見ればそのスローさにおいて、ダウンタウンの比ではない。ツッコミもあるのかないのかよくわからないくらいだ。でも、三十年近く前の漫才で、今見ても率直に面白いと思えるのはこの人たちのものだけだ。他の漫才師のものは確かにすごいと思うけど、面白いかと問われれば時勢が過ぎた感じが大きい。この象さんのポットは例外的に、今にさえ通用する笑いである。松本は笑いを「発想」の勝負だと語るが、こと漫才においていえば、ダウンタウンに匹敵、時に凌駕している。ダウンタウンの漫才は発想とは別に、浜田のツッコミによるところが大きいが、象さんのポットは違う。勢いもない。技もない。むきだしの発想勝負師だ。知らない人はいくつか見られるものがあるはずなので、ネットでチェックしてみよう。

 こうして見てくると女性支持率の低い人たちばかりである。ひとつとて例外なし。
 しかしだからこそ面白いし、伊集院や江頭という人たちは特に、笑いを突き詰めている感じがする。この人たちの魅力がわかる人とは、わかりあえると思う。逆に、この人たちのすごさもわからずに「お笑いファン」を名乗る人については、嘘だと断言してやる。そんなやつらは笑いってものを、一度だって真剣に考えたことがないはずだ。一度だって真剣に、愛したことがないはずだ。さて、あなたはどうだろうか。
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