<   2010年 04月 ( 9 )   > この月の画像一覧

狂おうとして狂えていない作品の例。
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「ゴールデンウィーク」という名称はもともと映画興業の宣伝文句だった、というのはかなり有名な豆知識でありましょう。ではどこの会社の人がつくった言葉なのか、といえばこれは大映専務の松山英夫さんという方が考案されたものらしく、つまり「ゴールデンウィーク」の過ごし方として大映映画を観るというのはなかなか正統な行為なんじゃないかと思い、新文芸座。大映は潰れたけど。

 新文芸座はさすがであって、この黄金週間にかの大映看板監督、増村保造特集を組んできました。毎日出かけなくちゃいけなくなりました。この連休中は毎日新文芸座に行くので、見つけたら声を掛けてください。ぼくは深紅のイヴニングドレスを着てちょびひげを生やし、左手には釘バット、右手にはカーキ色のずた袋を抱えているので、捜してくれればわかるはずです。

さて、併映は『からっ風野郎』だったのですが、タイミングを逸して見過ごしました。これではなりません。明日以後は気をつけなさい。はい。

さて、『偽大学生』です。これは大江健三郎原作作品なのですが、 彼は本作のソフト化、テレビ放映を許可していないらしく、見逃すわけにはいかじと勇んで出かけました。

東都大学(この名称は「東京大学」の模倣品として最もメジャーな名前ですね)の受験に失敗した大学生大津彦一(ジェリー藤尾)が、身分を大学生と偽って学生運動グループに入ってしまい、そこで物語が駆動していきます。

 本作はモノクロですが、増村保造作品の大きな魅力は色彩にあるので、この点は他のものより味わいが減じます。構図的な面白さも他の傑作に比べると弱いのです。増村のミューズ、若尾文子が今回の特集上映の目玉なのですが、本作の彼女はどうにも下ぶくれで美しさは感じられません。その点は他の作品に期待です。大学生の設定なのに、瑞々しさは皆無であり、野蛮さも薄く、平たく言うとけだるそうなばばあっぽいのです。時折30後半のばばあなのかと思う場面もあり、結構残念に思いました。

『卍』のときに書いたのですが、増村保造の大きな魅力はその濃度です。逆に濃度のない増村はあらが目立つ結果になります。今回はどちらかというと、濃度がなかった作品かのように感じられました。

ジェリー藤尾扮する大津は合格してないので大学生でありはせず、学生運動グループ内でスパイ嫌疑をかけられます。そして部室の中に監禁されるのですが、ここなども場の熱量が弱いのです。限定された空間は映画においてとても大事な要素で、自ずとその場に力が発生していくものですが、ことこの映画に関して言えば、それがあまりにも希薄であるように感じられました。さてそれはなぜかと考えるに、あの監禁の場面がだらだらしていたからです。時間的なだらだらではなく、人々の動きがだらだらしていたのです。スパイでも何でもないのに理不尽な拘禁を受ける。その理不尽さに耐える姿は熱に繋がるのであり、哀しみを生むはずなのに、周りの連中がどうにもぶつぶつぶうたれているだけだから、主人公の悲しさや辛さが伝わってこないのです。いや、むろん映画製作には何にせよ制約がつきものです。予算、人員、あるいは表現の「許可幅」。でも、だからこそ、ここは若尾文子に頑張ってもらわねばならなかったんです。

 若尾文子が多少なりともはっちゃけてくれていれば、この映画はもっとずっと熱いものになり、ひいては終盤の狂気も炸裂に至ったはずなのです。ところが若尾文子はずっとだるそうにしているのです。彼女がぜんぜん面白くありません。頭が痛いのか知らないけど、何かというと頭を抱えています。彼女は「自分たちのやっていることはこれでいいのか」と悩む立場の人なので、普通の人物像としてはリアルかも知れません。だけど、だけど、だけどさ! いかんせんそのせいで面白くならないんだよ!

 この監禁のくだりは映画全体に影響します。というのも、この監禁部室こそが、狂気の苗床として扱われているからです。終盤、ジェリー藤尾は狂っていくのですが、それなら狂気の苗床を痛烈に描かない限り、爆発の熱量がこもらないはずなのです。ラストシーンを観るまでの間、映画のクライマックスにおいても、ぼくはあのジェリー藤尾が本当に狂ったのかどうかわかりませんでしたよ。狂ったふりをしているんじゃないか、と疑っていました。狂気の苗床が不十分だったので、その実りが得られない描かれ方でした。だから母親の登場も唐突に映る。あれね、彼が狂っていれば唐突でいいんです。狂気とは往々にして唐突に発露するものです。でも、狂気が醸成されていないから、母親の登場も悪い意味で唐突。正義云々の話もから回る。

 とはいえ、映画で語られることそれ自体は好きです。保守をやっつけろ正義は我々だとほざく学生運動を、実際てめえらも駄目な連中じゃねえか、と揶揄しています。早い映画監督、速い映画監督として、きちんと1960年の段階で釘を刺しているのは好きです。ただ映画としては、狂気の熱量がもっともっとほしいものなのでした。おわり。
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「抉られた」とはこのこと。今までに観た映画の中で、論ずるのがいちばん難しい。
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一回観てもよくわからず、二回観に行きました。原題が『糞蝿』の韓国映画、『息もできない』。よくわからない、というのは別に、ストーリーが難解であるとかそういう意味ではまったくありません。この映画が放つものをどう受け止めていいのか、ぼく個人がわからなかったのです。映画好きの評判もすこぶるいい調子で、絶賛されているのですが、正直まだわからないのが本音。というか、逆に訊きたい。この映画を褒めている人たちが、本当にこの映画の良さを理解しているのかを。なんか周りがいいって言っているからって、雰囲気で流されている感じもしないでもない。褒め言葉がどれも漠然としている感じなんです。ぜんぜん悪く言っている訳じゃないんです。そこは誤解してもらいたくありません。ただ、ぼくはすごく悩ましく感じているのに、気軽に「いやー、よかった」と言われているのが、取り残されている感じで不快なのです。

 内容はと言うと、借金取り立て屋の男が主人公であり、彼が一人の女子高生と出会い、周囲にいる人々との触れ合いを通じて少しずつ変容していく話です。監督が私財をなげうって完成させた低予算映画で、映画好き界の話題を席巻しています。ぶっきらぼうで暴力的な男の話であり、また絆としがらみを巡る話でもあります。そう言い切ってしまえるなら読解はまだたやすいのですが、登場人物たちの人間関係の深い部分まで見つめていくと、どうにも捉えようのない感覚に陥ります。監督、脚本、主演を務めたヤン・イクチュンがすべてをぶつけた作品らしいですが、その「すべて」というのは大変に曲者でして、そう易々とわかるわけもないのです。自分以外の誰かの「すべて」をわかろうはずもない。この映画には確かに監督のぶつけたいものがぎゅうぎゅうにつまっているけれど、だからこそわからない。このことはこの映画に描かれる重要なモチーフでもあります。

 有り体に言えば、かなり深いところまで抉ってくる映画というわけです。うん、ぼくのこの感じは、「抉られた」という表現で表せましょう。だから一日空けただけで、二回も観に行ってしまったのです。抉られた後の虚空を眼差し、抉られたものが何なのか見いだそうとして、あるいは抉ったものの正体を見いだそうとして、ぼくはとても悩ましい思いでいっぱいなのです。

 駄目だ。ああ、まともに語れないよ、困ったな。こういう感覚は初めてだ。
 
主人公のサンフンは何かにつけて暴力をふるいます。ドアップで映される激しい暴力と日常会話のように繰り返される「こづき」と「びんた」。まるで暴力以外のコミュニケーション手段を知らないかのようです。しかし、決して悪いやつではないのです。腹違いの姉がおり、彼女の息子がいるのですが、この息子(サンフンにとっての甥っ子)とは仲良く遊びに出かけたりするのです。腹違いの姉は独身であり、サンフンは自分の稼ぎを彼女にあげたりします。性根の部分で、彼が周囲の人間を大事にしているのがわかります。

 ですが、彼には一人だけ、どうしても許せない相手がいました。父親です。父親はかつて家族に暴力をふるい、そのためにサンフンの妹を死なせてしまい、そのせいで母親もまた死んでしまったのです。サンフンの人生を壊した張本人とも言えるわけです。その父親が長い刑期を終えて出所してきたのですが、サンフンはこの父親に対し罵倒と暴力を繰り返していきます。

 一方、サンフンが偶然に出会い仲良くなっていく女子高生ヨニもまた、家庭に問題を抱えていました。死んだ母をまだ生きていると思い込んでいる、精神の壊れてしまった父親。金をせびって乱暴する弟。ヨニの家のシーンは彼女ともども、こちらをもうんざりとさせます。

 失われた、あるいは欠損した家族の姿が描かれ、同時に擬似的な家族像が劇中何度も反復されます。サンフンはヨニと出会い、甥っ子ヒョンインと遊ぶ中で、次第にこの家族像への憧れを明確なものにしていきます。途中、サンフンが携帯電話を買うくだりがあります。彼はそれまでポケベルしか持っていなかったのであり、このシーンはとても重要な場面です。

 誰かと繋がっていこう、開かれていこうという気持ちが、サンフンの中にはっきりと芽生えたのです。このシーンはその気持ちを象徴しています。「象徴しています」などと知ったような口を聞きましたが、こういうくだりはぼくのような者を抉ってくるのです。

 と言いますのも、ぼくもサンフン同様、携帯をまったく使わない日常を送っているからです。誰かと繋がるということに憧れながら、それができずにいる人間なのです。そのサンフンが誰かと繋がっていこうとするあの場面。腹違いの姉がショップの店員なのですが、
ろくろく彼女の目を見ることもできずに買おうとするあの場面。なんとか人と繋がっていきたいというサンフンの気持ち。ぼくがこの映画を褒めている人に対して、「本当にわかってる?」と聞きたくなるのはこうした部分なのです。

 日常的に携帯電話を駆使し、「いやああの映画はよかったよねー」「それはそうとして今度どっか遊びに行こうよー」と語り合う相手がいる人間に、この映画がわかるものかよ!と思うのです。ぜってーわかってねーと思うのです。あのシーンの白眉はもうひとつ、腹違いの姉の表情です。この姉は素晴らしいです! 彼女の内面が描かれるシーンはあまりないのですが、彼女のいつもどこか怯えたような表情を見ると、サンフン同様になんとかこの姉貴に幸せになってほしいと思わせられるのであり、彼女が頼りないながらもなんとか頑張って生きていこうとする姿を感じさせるのです。

 さて、誰かと繋がっていこうと前向きに感じ始めたサンフンですが、どうしても忘れられぬ相手がいます。父親です。この父親との絡みはぼくにとっていちばん難しい場面です。

 自分の人生を壊しておきながら、妹と母を死なせた男でありながら、ぬけぬけと生き延び、あげく腹違いの姉と甥とともに疑似家族を形成しているのがわかる(腹違いの姉、という存在は言うまでもなく、この父親がサンフンの母親以外に女をつくっていた証です)。酔っぱらったサンフンは「ぶっ殺してやる!」と息巻いて父親の家に向かいます。

 ここからは驚きの展開です。
 サンフンは父親が手首を切り、自殺を果たした現場に遭遇します。今まで暴力をふるい続け、憎しみ続けた父親。ぶっ殺してやると言ってここまで来たサンフン。それにもかかわらず、彼は父親を病院に運びます。「なんとかしろ! 俺の血を全部くれてやれ!」と医者に掴みかかるのです。

 一回目に観たときは、ぼくはわかりませんでした。なぜサンフンが父親を救おうとするのか。彼が半狂乱になってまで彼を救わねばならぬ理由、それがわからなかった。いや、正直言って今もまだ戸惑っている。本当の部分では、まだわかっていないと思う。このシーンは「映画、物語というものをどれくらいわかって観ているか」を問ううえで格好の教材になると思います。ぼくには正解がわかりません。わかりませんが、わかっているふりをするほど鈍感でもありません。

「なぜ、サンフンは父親を助けようと思ったのか?」

「彼は暴力と罵倒を繰り返しながらも、底の底の部分で父親を愛していたから」
 などと答えれば、いちばん簡単なんです。でも、表面では嫌っていても実は愛していた、なんて、いかにも物語的で単純な理解だと思いませんか? それに、「実は愛していた」なんて、どこでわかるっていうんです?

「実の父親だから助けたいと思ったんだよ、理屈じゃないよ」
 などと言うのは、「父親」という記号に寄り添った安易な解釈でしょう。彼は父親ではあるけれど、一方で家族を台無しにした張本人です。確かに血縁主義を持ち出せば「父親」という記号はそれだけで価値あるものかもしれない。でも、それではなんら物語を読解したことにはならないし、どころかこの映画で描かれていることを軽んずる態度でさえあります。

 ではどうして父親を助けようとしたのか。について、語りたいけど、それはね、すっごくね、大変なんだ。すっごくね、長くなりそうなんだ。整理しなくちゃいけないんだ。だから短く簡潔に整理できたら別の記事で語ることにします。いい加減長くなったので、もうここまで読んでいる人もいないだろうし。誰も読んでいないだろうなあと思いながら書くには、大変すぎるし。

 そういうのは自分で考えやがれ! わからなくなったら相づちを打ってやる! と悪態をついて、今日はここまで。
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教科書をちゃんと読んでいる映画。場面場面できっちり決めている。
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 先日、頑張って渋谷まで行き、『息もできない』を観てきたのですが、どう受け止めていいのかわからない妙な感覚に陥り、明日辺り新宿武蔵野館に行ってもう一回観る予定の男です。
 この春の映画を語るなら、おそらくはアリスではなく、むろんカンタービレでありはせず、『第9地区』と『息もできない』の二本が必須となります。映画好きの過半がそう捉えていると思います。『息もできない』について書こうと思ったけれど、途中まで書いて、「あっ、ぼくはこの映画について十全に理解していない!」と気づいたので、先延ばして、とりあえずはチャッキーについてのお話でお目汚し。

 十年くらい前の深夜に観て以来のチャッキー。2も観ましたが、ぼくは1派です。3以降は観ていないのでその辺の話は期待するな。誰も何も期待なんかしていないさ。

『チャイルドプレイ』は幽霊映画と殺人鬼映画の常道をきちんと踏まえたとても真面目な作品です。大変に筋がわかりやすく、まるでその種の映画のお手本のようです。

 冒頭のシーンで、どうして人形が殺人鬼になるのかという説明を手早く済ませ、主人公の少年アンディを登場させる。この少年の運命がどんなバカにもわかる話運びです。そして予想通りに、当然の進行として、アンディ以外にはチャッキーの正体がわからないまま話が進んでいくわけです。

 殺人鬼映画の常道として、登場人物のある一人がそれに気づいても周りは気づかない、というものがあります。そして気づいた頃には手遅れ、というのが定石です。『スクリーム』が自己言及していた通り、「幽霊なんかいるわけないだろ、アハハ」という態度の人間は必ず殺されるわけであって、本作もその筋立てを裏切りません。しかし他の幽霊もの、殺人鬼もの、あるいはゾンビものなどと違うのは、「子供の空想的な人形遊び」を「大人が気づかない理由」に結びつけた点です。周りの大人が気づかないのは仕方ない、だって普通は子供の思い込みだと思うもの。この設定で観客の共感をぐっと掴み、映画に引き込んでいくわけです。これは本作を語る上で不可欠な設定と言えましょう。

 で、アンディの母が真相に気づく場面。子供の空想じゃないと明確に悟る場面。ここは小気味よいですねえ。とっても小気味よい。まったく無理がない。どんなバカでも一発でわかるようにしているのが偉いです。「わかりやすさ」というのはつまり「キレの良さ」であって、転換点としてのキレが抜群です。「真相に気づくくだり」というのは広く映画一般に見受けられますが、直前までの流れと直後の展開含め、これほど綺麗にはまっている例はあまりないのではないでしょうか。

 チャッキーと対峙し続ける子供、という構図もこの映画の良さです。普通は殺人鬼と対峙するのは大人であって、子供はひ弱で足手まといな存在にされがちですが、この子供アンディは頑張って戦い続ける。「ファンタジー映画はロリータこそおかし」と先日述べましたが、ファンタジー映画より直接的で等身大的な戦いが、手に汗を握らせるわけです。

 ラストもとっても真面目でしたねえ。まさに教科書通り。きっとこうなるな、という展開を見事なまでに裏切らない。ちゃんと教科書を読んでいるのが偉いです。変に自分流のアレンジとかせずに、やることをきっちり真面目にやっているのが偉いのです。おきまりの展開じゃないか、ワンパターンだ、などと言うのは無粋です。たくさんの試行錯誤がある中で、こんなにも真面目なラストを描く映画は絶対に必要なのです。

 さて、2はというと結構褒める人もいるようなのですが、ぼくはいまひとつ乗れませんでした。1からの引き継ぎ設定をものすんごくあっさり捨てちゃっているのがまず困りました。1で頑張ってくれた刑事も母親も出てこず、すごくなおざりな台詞ひとつで片付けられます。しかもあれだけの体験をしたアンディなら、グッドガイ人形を目にしただけで泣き叫んでもよさそうなものなのに、なぜだか同じ部屋でぐっすり眠ったりしているのです。

 あんな風にするならいっそのこと、アンディとはまったく別の設定にすればよかったと思うんですが、いかがでしょう。この2では「アンディとチャッキーの因縁」だけが引き継がれており、後のことは無視もいいところです。で、1と同じく結局は、「大人は気づかない」パターンです。ここは先述通りこの映画の優れた部分であるし、崩しようがないのでしょうが、それにしても1と同じ過ぎます。しかもとってもかわいそうなアンディの境遇に対して周りの大人がぼんくらすぎる。人形の正体に気づかない大人は別にぼんくらでなく常識人ですよ。でも、傷ついているはずのアンディへの気遣いがなさすぎる大人はもう死ねばいいだけの存在なので、何のあれもないのです。

 チャッキーが本格的に暴れ出した後も、「そのカット撮りたいだけやん」みたいなのが多かったですね。コピー機の場面とか、目玉の場面とか。ああいうのをよしとする映画好きがいるのもわかるんですが、ぼくは乗れませんでした。クライマックスのおもちゃ工場も、もうおもちゃ工場くらいしか行くところがないから行っている感じです。1ではアンディの自宅が修羅場になっており、あの家は全編通じて映画のメインステージとして機能していたんです。だから白熱した戦いになったんです。2ではそういう舞台をつくれなかったので、チャッキーがいっぱいいる画的な面白さを頼ってのおもちゃ工場。舞台に宿る力がない。しかもNHKの教育番組みたいなセットだし。倒し方についても「それやりたいだけやん」を感じました。

 2がいい映画、というのはたくさんありますが、このように1がいいのもある。もっと奥深いところまで行くと3、4がいいという世界もあるようですが、ぼくはまだまだひよっこです。2が精々。よくなる2とそうでない2の違いについて語る元気はもうないので、また今度。明日は武蔵野館に行く予定。レイトの回に行くつもり。真っ赤なバラを口にくわえて昆虫のような銀縁眼鏡をかけ、上半身裸でローションを塗りたくっている男がいたらそれがぼくです。「油あげ、油あげ」と唱えると奇声を上げて逃げていきます。
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表現トハ是レ狂ウ事ト見ツケタリ。
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最近ここで取り上げる映画の傾向が特にそうなのですけれども、優れている映画、面白い映画の多くは、すっごく濃いんです。濃度、密度、熱量、迫力、どういう言い方でもいいんですが、やっぱりぶっちぎっている映画ってのはそれだけで人々を引きつけるんですよ。このブログの検索ワードでいちばん多いのは『愛のむきだし』なんですが、あの映画は最近の日本映画の中でも本当にぶっちぎりに熱いんです。そしてその熱ささえあれば、細かい設定や演出なんてものはどうだってよくなるんです。もちろんその「熱さ」の表現法はひとつじゃなくて、映画のベースラインに底流するものとして表される場合もある。ぼくにとっての『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はそれに当たります。

 濃い映画って、大体がいびつなんです。どこか壊れている。でも、そこさえも魅力に転ずるものが、確かにあるのです。ここが傑作と駄作、カルト的熱狂を生む作品と昨今のテレビ局映画の最大の違いです。どちらにしたって突っ込みどころはあるんです。なんやそれ、という展開があったりするし、変な表現がたくさんある。その点で両者は通じているとも言える。でもね、明らかに違うんです。いい映画は爆笑できるけど、悪い映画は失笑になる。その差異は何によってもたらされるか、について、明確な言葉で語ることがぼくにはできません。夜通し語り明かす必要があります。でも、キーワードがひとつだけあるとしたら、「狂っているかどうか」じゃないかと思う。

狂気の歴史によって近代が封じ込めた「狂い」。その枠から逸脱するものは、そりゃ熱狂を生むって。まさに「熱狂」ですよ。枠の外に行っちゃっているもの、枠からはみ出すもの、そこに熱を見いだすんです。『ごっつええ感じ』のコントは主に松本人志によって演じられたキャラクターが、狂っていたんです。その後のバラエティのコントは狂っていない。狂っていないコントでは、「おかしな言動を取る変なキャラ」に留まる。「こんな変なやつがいたら面白いよねー」みたいなテンションなんです。狂っているやつって、自分の面白さを制御できないんです。その制御し得ない面白さによって枠の外に開かれるのであり、いい映画にはその制御できない狂いがあるわけです。駄目な映画には、制御しようとさえしていない怠慢さがあるのです。あるいは、制御しうるものだけをしようとする器の小ささが。

 人間についても同じようなことを感じるし、あるいは他の表現全般についてもほとんど意見は変わらない。やっぱり狂わなきゃ! 狂うっていうのは放送でも引っかかるくらい危ない言葉とされているけれど、笑いの本質は、狂いなんだよ。

 こういう話って、通じにくいんだろうなあ。

 まあいいや。それで今回の『女囚さそり 第41雑居房』です。さそりシリーズ第二弾です。監督の伊藤俊也は東大文学部出身で、大先輩です。ちなみに増村保造も東大文学部。学部が同じでも学科が違えば先輩意識はないし、そもそもあまりぼくのほうに帰属意識がないのですが、そんなことより、伊藤俊也や増村保造という狂った映画を撮る人たちが東大文学部出身というのは、なんだか嬉しいです。インテリ風味のアート映画なんて撮らないんです。狂っている、熱いものを持っていたのです。

 一作目に比べてさらにぶっ飛んでいました。もう暴風雨警報発令どころか、警報発令装置まで吹き飛んでいます。一作目と違うのは、梶芽衣子演ずる松島ナミが他の囚人たちとともに脱獄するところです。一作目は主に刑務所内の話でしたが、今回は早々に脱獄し、逃げ回るというわけです。もうほとんど全編にわたって演出が変です。んなアホなの連続です。でも、アホでありながら格好いいんです。饒舌な面々を配置しつつ、梶芽衣子には全編中、たった二言しか喋らせません。この方針を一貫させているため、彼女にはいっそうの迫力が宿るのです。

 役者っていうのは、その人を知らないほうがやっぱり観ていて気持ちいいのです。今は俳優がテレビに出ておしゃべりしたり、CMでちゃらちゃらしたりしすぎです。それでいい映画ができるなんて、まさかまさかって話ですよ。だからもうね、たぶんね、観る側も真剣に観ようとしていないんですね。片手間で観ればいいくらいの感じでしょ。どうしてくれるんだよ。

話がずれずれですけれど、バラエティなんかもそうでね、たとえば今は出演者の言葉をいちいちテロップで出すじゃないですか。あれはね、よくないんです。あれをするとじいっと没入して観られなくなりますよ。ラジオは音しかないから、その分聴き入るわけですけど、テレビは音と文字の両方で言葉を伝えようとする。聞こえている台詞にもいちいち字幕を付けてね。聴覚障害者にとってはいいでしょうが、他の大多数の視聴者に悪影響です。ああいうのを「悪影響」っていうんだよ! 松本人志はさすが慧眼、著書『松本』の中で十数年前、テロップの過剰導入に反対していました(その彼が出ている番組がテロップの嵐になっている。ああ、周りのスタッフは何を信じているのだ?)。

 気づけばぜんぜん映画の話をしていないのですが、ぶっ飛んでいる映画については言葉で追随することがなかなか難しいんです、実際。あれだけぶっ飛ばれたらもう、いちいち言う必要がないんです。くだらない評言を吹き飛ばすような、圧倒的な表現に、これからもたくさん出会いたいと願います。
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ファンタジーと現実の狭間に生きる少女の姿は、激萌えだってんでい!
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 TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』における「無差別評論コーナー シネマハスラー」で、ぼくの投稿したメールが取り上げられました、いやっほう。ラジオでメールを読まれたのは初めての経験で、該当箇所を何度も聴き返しています。『第9地区』の回に寄せられたメールは番組史上最多であるらしく、その中から選ばれたのは余計に嬉しいのです、いやっほう。今後はここでも「宇多丸」ではなく、「宇多丸さん」と書きます。一度でもコンタクトできた相手にはきちんと敬意を払うのです。ここを右クリックで開いてもらえば聴けましょう。29分あたりでぼくの言葉も出てきましょう。

世間では今週末より、バートンのアリスが公開されるようです。予告編を観る限り、どうもアリスがごっついです。19歳のアリスという設定らしいのですが、この手の映画は少女、ロリータのほうが絶対はまると思うんですよ。か弱い少女が不思議な国を大冒険するからこそこちとらはアゲアゲになるのであり、あのアリスはなんだかごっついです。ちょっと顎が割れていた、ないしはこの先割れるのではと思わせるのです。

 可愛らしい少女が支えている映画としては、ギリアムの『バロン』が記憶に残っています。あれはサラ・ポーリー抜きにはどうしようもない映画なのであって、時としてロリータは映画の屋台骨になるのです。ぼくがリュック・ベッソンの『レオン』を推さざるを得ないのは、なんといっても当時のナタリー・ポートマンが神々しいまでに瑞々しいゆえであって、『バロン』にせよ『レオン』にせよ、タイトルになっているおっさんキャラクターよりもその傍にいる少女に萌えるのです。思えばぼくは小学校当時、ドラマ『家なき子』の最終回を見て号泣した覚えがあり、あれがある種の原体験となっているのかもしれません。

 ロリータの魅力をですます調で語ったらどうあがいたって気持ち悪くなるのが世の習いでございますが、この『パンズ・ラビリンス』もまた主人公の少女、イヴァナ・バケロの可愛らしさによって一段と格調高い話になっていたのであります。この映画は素晴らしいです。「少女×異世界」ものとしての側面を多分に有しつつ、骨太な戦争映画としても立脚しているのです。『パンズ・ラビリンス』というタイトル、そして異形の者の存在感から、ぼくはてっきりファンタジーものだと思っていたのですが、いやはや、このバランスを成立させる映画をぼくはおそらく初めて観ました。

 時は1944年、フランコ独裁政権とゲリラの戦いが続くスペインが舞台です。少女オフェリアは母とともに、軍の大尉のもとに引き取られていきます。オフェリアは新しい住まいとなった森の中で、牧羊神パンとの不思議な出会いを果たします。

 ファンタジー要素が多分に濃い作品でありながらも、一方では戦争下の人々の動きをつぶさに追っていきます。2001年に監督された『デビルズ・バックボーン』でも同じように、スペイン内戦下でホラー要素の強い話を進める、という形式でしたが、あの映画よりもはるかに高いクオリティになっていると思いました。『パンズ・ラビリンス』ははっきりとファンタジーでありながら、はっきりと現実に足場を置いており、その調合具合がなんとも絶妙なのです。

 少女を主人公としながらも、彼女だけに比重を置いた物語をしなかったのがひとつの勝因です。軍とゲリラのシビアな戦い、軍の監視下で静かに動き回る人々。こちらをきっちり描いており、フィクション性の強い世界と交互に描き出すものだから、よりいっそう現実感、緊張感のあるものに見えてくるわけです。ひとつの戦争映画として描けばかなり骨太な力作になっただろうし、またファンタジー世界についてももっと観てみたいと思わせる演出力ですが、どちらかに傾けばジャンル映画に括られかねません。もっと娯楽的に映ったことでしょう。この映画はそのどちらに引っ張られることもなくつくられており、ゆえにとても不思議な映画として屹立しているのです。

現実の戦争と異世界への冒険的ファンタジーという相容れない要素を、互いに干渉し合うことなく、一人の少女に託して織りなしたがゆえに、この面白さは生まれたのです。イヴァナ・バケロの可愛さはヤッホーです。あのか弱さは芸術的! この世界に最適の顔立ち、たたずまいであり、観てもいなくてなんですけどバートンにも見習ってほしい! やっぱりね、ファンタジー世界への萌えというのは、少女への萌えと融合することでより大きな熱量を生むのですよ。特にこの映画の場合、彼女が対峙するのはファンタジーだけでなく、現実の敵対者でもあり、さらに最後には・・・という構造を取っており、うわあ、やられた!

 あの医者の行動は格好いいですねえ。ここでも再三触れている「服従と尊厳」にまつわる、この上ないストレートな表現です。
「何の疑問も抱かず従うだけなんて、心のない人間にしかできないことだ」
 この映画がすごいのは、このテーゼを結末で活かしたところですね。あの結末は映画鑑賞個人史の中でも結構ベスト級です。赤ん坊の血を流せ、という導きに従わなかった。それが尊いことなのだ、という結論。これは芥川龍之介の『杜子春』と同じ構造ですが、映画では観た覚えがありません。そして最終的にあの曖昧さを残したからいいんですよね。あれで救われました超ハッピー、では現実とファンタジーのバランスが崩壊します。それをきちんとわかっている監督は、あえて相容れないような、それでいて筋の通ったラストをつくりだした。悪役の結末も愉快痛快です。悪い大尉が格好つけて死のうとするけれど、それを止めてしまう。これはねえ、これはいい。映画的格好つけと決別した、透徹したリアリティです。

 あまり細かい内容に言及できていませんが、あえてしていないのです。これは観た人にしかわからない部類の映画なのです。ファンタジー世界にどっぷりと浸かる快楽もあるけれど、それとはまったく別種の映画的快感。いやっほう、おすすめです。
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脚本、設定上の不備を吹き飛ばす凄まじいパワー。「これぞ映画」のひとつ。
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原題『District9』
 映画好きを自称しながらいまだ『アバター』を観ていないようなぼくですが、こいつは駆けつけなくちゃと思って行ってきました、シネマロサ。またも三列目に座ってしまったけれど、これからここはもう二列目に座ることに決める、決めよう。

 南アフリカが舞台のSFアクションです。巨大宇宙船がヨハネスブルグの上空に飛来し、中にいた宇宙人たちが難民として地球に降り立ちます。彼らは街の一区画「第9地区」に隔離居住させられることになります。それから20年の月日が経ち、宇宙人の数が増えてトラブルを多発するようになってしまい、彼らに手を焼いた政府は民間企業MNUに業務委託を行います。MNUは宇宙人を「第9地区」から立ち退かせ、強制収容所のような場所に押し込めてしまおうと考えました。そしてその計画のリーダーとなった主人公ヴィカスがいざ、宇宙人居住区へと足を踏み入れるのでした。

 宇宙人はバラックに住んでいるのですが、その家の様子と彼らの外見のギャップ(あるいは調和)がとても面白いです。ずたぼろの家から甲殻類みたいな宇宙人が出てくるくだりはリアルとアンリアルの混融ぶりが絶妙であり、ちょっと「ごっつええ感じ」の世界を彷彿とさせるものがあります。舞台としてあのバラック街を造形したのはとても的確だと思います。やっぱりぼろぼろの町並みっていうのはそれだけで、生活のにおいをいやおうなく感じさせるものだし、同時にそこでの生活の悲しさを思わせるものなのです。思えば『スラムドッグミリオネア』の映画的な良さはあのインドスラムのくだりにあったのだし、ブラジルスラムでいえば『シティ・オブ・ゴッド』『シティ・オブ・メン』があり、あの映画でも町並みが重要な要素として機能していました。黒澤明の映画で最も好きな作品のひとつである『どですかでん』も貧困の底の風景を描いており、それだけで画面から放たれるにおい、臭気が印象深いものになっていた。『第9地区』はそのバラックに奇妙な宇宙人を配置したことで、他の映画にない独特の雰囲気を提示したのです。

あの風景とグロテスクな宇宙人の風貌はうまいです。あれによって、宇宙人にぐっと存在感が増すのです。驚くことに、街の風景と彼らがなじんでいるんです。たとえば都会の綺麗な町並みの中にあの宇宙人がいたら、一気に嘘っぽく見えてくるわけですが、この映画では汚い街をうまく使い、彼らがいそうな空間に仕立て上げてしまいます。

 この視覚的魅力が設定の穴をうまく隠してくれます。正直、設定としては甘い部分もあるのです。そもそもあんな巨大円盤が飛来し宇宙人がやってきたら人類史上かつてない大事件に数えられるわけでして、あんなぼろぼろの場所にただ単に住まわせておくというのが変な話なのです。それに主人公始め出てくる人々は宇宙人と結構複雑なコミュニケーションをとっているのですが、どうしてそんなことが可能なのかよくわかりません。言葉が通じているのが不思議でなりません(あるいは言語については、脳波を相手に伝える技術があるのかも知れません。なにしろあんな巨大宇宙船をつくれるのですからテクノロジーは計り知れないのです)。あとはあの液体が何なのかさっぱりわかりません。あの液体であの宇宙船を動かせるというのもよくわからない。説明不足な部分は多く、これは続編で明らかになるのかも知れません。

 脚本、設定的にはなんだかぼやぼやしているところも多いのですが、そんな細かいことに気を取られてこの映画の美点を見逃すのは無粋に過ぎます。この映画の迫力は素晴らしいです。途中、主人公のヴィカスが『ザ・フライ』『ザ・フライ2 二世誕生』的な展開に放り込まれるのですが、そこからはこれぞ映画という快楽に充ち満ちます。

 映画における最も重要にして尊い醍醐味とはすなわち、時を忘れて画面に食い入ってしまう体験をすることです。忘我し、没頭すること。これぞ映画鑑賞なのです。この映画はその体験をさせてくれた大傑作だと思います。ミリタリーアクションがすごい映画というと、わりと最近のものではアルフォンソ・キュアロン監督『トゥモロー・ワールド』(原題:Children of Men 2006)があります。あれは長回しを多用し緊張感を漲らせた傑作です。あとは『プライベート・ライアン』の序盤と終盤も世界最高峰のミリタリーアクションシーンですね。日本だと『狂い咲きサンダーロード』がありますか。古いところならペキンパーの『ワイルドバンチ』を忘れるわけにはいきません。あれは西部劇ガンアクションの頂点だと言えましょう。そうした映画たちに、この映画は並んでいます。とにかくクライマックスのシーンのすごさったら! 

 追われる身となった主人公ヴィカスがメタルギアREXクリソツのマシンに乗って戦うのですが、このシーンをぜひご覧頂きたい。このクライマックスを見せられたら、もう設定の細かい事なんてどうだっていいんです。あれね、ヴィカスを終盤ぎりぎりまで英雄的に描かなかったのがものすごく大きいと思うんです。この映画は主人公の男ヴィカスと一人の優秀な宇宙人クリストファー・ジョンソンとのバディ・ムービーのように後半からなっていくんですが、ヴィカスはあくまでも自分の目的のためにずっと動き続けているんです。だから時として、自分の利にならないとわかると、相棒的なクリストファーをひどく打ち付けたりする。これが大変共感できるというか、とても等身大の人物像を描き出しているのです。SF設定に不備はあるものの、人間の小ささをきちんと描いているのであり、信頼できます。そうあればこそ、英雄的に振る舞えなかった男ヴィカスが最後にあの行動を取るのがものすごく格好良く、ゆえにあのシーンは最高なのです。

 さて、ぼくは性格が悪いので、「自分が良いと思ったものをディスるやつを徹底してディスる」習性があります。誰のものとも知らないネット上の文章を抜粋し、つるしあげてやります。

「本当につまらなかった! (キッパリ!)

エイリアンは気持ち悪いし、主人公は人として最低な自己中野郎で、最後はエイリアンに助けてもらったクセに、自分だけ助かろうとして、それがムリだとわかった途端に急に偉そうに上から目線でヒーロー気取りで、本当に嫌なヤツでして。

なので、ずっと こんなヤツ早く殺されてしまえ・・・と思って観てましたが、結局死なず。
さらに、それぞれ英語とエイリアン語(?)しか話さないのに、お互い会話が成立してたり、なぜかパンツみたいに布を着けてたり、挙句にエイリアンの名前がクリストファー・ジョンソンって!!

限りなく、人間寄りなエイリアン設定なんですけど。

こんな映画と知ってたら、絶対観なかったのになぁ・・・ 」

 ああ、エイリアンが気持ち悪い、主人公が自己中と言ってぶうたれているこの人は、さぞ容姿端麗でさぞ隣人愛に溢れた聖人なのでしょうな! 最初は気持ち悪いだけだったエイリアン、クリストファー・ジョンソンに対して物語を経ても何も感じない。極限状態にある主人公を「自己中野郎」と言い、「なんとかして生きていきたい」と願う人間性を感じない。せいぜいてめえだけを愛してくれる利他的イケメンを捜してな! クリストファー・ジョンソンという名前で「人間寄りなエイリアン設定」だと?  地球に移民して20年経っているんだよ!自称か他称か明らかじゃないけど、そういういかにも地球人的な名前をつけさせられているところが悲しいんだし、同時に可笑しいんだよ馬鹿! 人間寄り? 人間寄り? 「人間寄り」って何ですか? いやあ、ぼくは自分で「性格が悪い」と思っていましたが、こういう人に比べるとぼくなんて、まだまだみたいです。

 ちゃんと映画を観る頭を持っている人にはちゃんとおすすめします。これは傑作です。まだまだいくらでも書きたいのですが、もう1時半だよおい。
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この人はこの人なりにとても映画を愛していたのだ。
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 2年前に逝去した映画評論家、水野晴郎が監督を務めた、知る人ぞ知る珍作。監督名義は「マイク・ミズノ」となっています。彼が金曜ロードショーの解説をしていたのはぼくの小学生時代のことであり、映画原体験の中に彼の顔は確かにあるのです。

 この映画は・・・・・・いやはや・・・・・・なんというか。
 公平に見たら駄目映画なんですよ。そりゃひどいもんですよ。でもね、きっと、この水野晴郎という人は、とても映画を愛しているんですよ。それをね、あしざまに言う気にはなれないんです。水野監督がね、DVDの冒頭で、「さあ、ご覧になってください!」と笑顔で言うわけです。それをね、ぼろくそに言う気にはならないです、ぼくは。一部でカルト的な人気を博している、とも言われ、続編がどんどん撮られているようですけど、なんかわかります。「『シベ超』の悪口は言うな!」と思います。公平に観たら相当なクオリティの低さであって、言い出したらきりがないですよ。低予算だってことを勘定に入れても、一本の映画としての出来は今までに観た映画の中で最低の部類です。でも、いいんです。悪く言う人に対しては、「水野さんがええって言うてんねんからもうええやんか!」と擁護に回りたいと思います。

 一生懸命頑張って撮ったんだ、というのは伝わってくるんです。その結果がどうであれ、いいじゃないですか。この映画を観てね、ぶちぶち文句を言うなんて、無粋なんです。そういうのは他でやってください。ぼくはこのマイク・ミズノに、エド・ウッド的なものを感じてやみませんよ!

 ぜんぜん駄目だろうと何だろうと、その分野を心底愛しているのなら、その人を悪く言うことはできません。今のテレビ局映画が映画好きから嫌われるのはやっぱり、出来云々もそうだけどそれ以前に、映画ってものをちゃんと愛しているかどうか、疑わしいものが多すぎるからです。別に映画に限りません。その分野を愛しているか、ないしはたとえ愛していなくても、何か別の表現の仕方があるんじゃないかと模索し続けているか、そういう部分にこそ享受者は反応するんです。いろいろ映画について悪く言ったりしても、底の部分で愛しているのなら、底の部分でぼくはその人たちの味方なのです。

以下、町山智浩さんが映画秘宝創刊に関してインタビューを受けたものからの抜粋。

映画を観ることでモテたいって状況があったんですよ。蓮實重彦とか難しい評論読んでゴダールのこととか話してモテようとしてるヤツ。あと岩井○二とか辻仁○とか映画を作ることでモテようとしてるじゃん。そんな動機で映画作るヤツは死ねって言ってるのオレは(一同笑)。

 映画を語ることでモテようとするなよ! スピルバーグが映画を作ることでモテようと思ったか? モテようと思ったら「未知との遭遇」(80年米)なんか作らないよ。タランティーノだってモテようと思ったら「パルプ・フィクション」(94年米)なんて作らない。ゴダールだってモテようと思ってないよ、ただ映画作ることで女優となんかしようと思ってたかもしれないけどね(笑)、それは辻仁○と同じかもしれないけど。別に(映画製作は)カッコいいことでもないオタクなことなのに、映画批評とかでモテたい、偉く思われたいとか、不純な動機で映画を語る雑誌があって、自分が利口になりたい読者がいて、それは何か違うなと思って。


 うん、『シベ超』なんかはもう、モテ要素はゼロですよ。うまくもなければ格好よくもないし、これをつくったからと言って正直そんなに褒められた出来ではないんです。でも、この人はこの人なりにメッセージを込めているし、観客に楽しんでもらいたいと本当に思っているんだから、それでいいんです。この映画で儲けてやろうとか思っていないし、そこはテレビ局映画との最大の違いじゃないですか。

モテるとか金が得られるとかじゃなくて、これをつくりたいんだ!っていう動機がいちばん最初に来ているなら、それだけでぼくは擁護します。そういう思いが根底にある限りは、ぼくにとってその人は、称えるべき人なのです。「こんなのつくってみようかなぁ」とか、「こんなのできたけどどうだろう?」なんて人よりも、はるかに大好きです。その点で、確かにこの映画がカルト的な人気を得るというのもわかる。もちろんそれは水野晴郎という人あっての話で、純粋に映画の出来だけの人気ではないだろうけれど、監督が「ぜひ楽しんでください!」って満面の笑みで言うなら、応えようじゃないですか。

「一生懸命やったなんてことは社会では言い訳でしかないんだ。どういう結果を残したかがすべてなんだ」みたいなことを言いがちですし、それは確かにそうかもしれないけれど、あのね、映画ってのはね、あるいは何かをつくるってことはね、きっと、そんなシビアなものがすべてじゃないんだよ。もっともっと、深いものなんだよ。
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面白いってことは、確かに残るだろ?
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 元来出不精なぼくは映画好きを自称しつつ、実は今まで行ったことがなかったんです、新宿バルト9。観たい映画は大体池袋で観ることができたし、バルト9のある新宿三丁目はちょっと距離感があるのでした。事実、副都心線の構内をものすんごく歩きました。都会の大人は運動不足でうんぬん、などというイメージがありますが、思うにあれだけ地下鉄構内を毎日歩き回っているのだからそれほど運動不足でもない気がします。しかも大変な人混みの中ぶつからないよう注意を払って動くわけで、それなりの複雑な運動をしなくてはなりません。というか、ぜんぜんもう映画とは何の関係もない話ですけれども、都会の人混みを生きる人間は、かなり反射神経がいいのではないかと思います。何百何千の中を衝突無く切り抜けているわけです。長い長い階段やエスカレーターがありますが、あれで事故が起こらないのが奇跡的だと思う。上の人が転んで連鎖、という事故が起こらないのがむしろ不思議で、これはいかに都会の人間がその移動の作法をしっかりと飲み込んでいるかの証左でしょう。

初・新宿バルト9が『ブルーノ』というのは我ながらなかなかいい感じじゃないかと思います。面白かったです。映画館で素直に笑った記憶は実はあまりないように思います。

『ボラット』と同じような手法、趣向のコメディですが、前作以上に最低な感じです。サシャ・バロン・コーエンがゲイのファッション評論家ブルーノとして人々に迷惑をかけ続けます。もうただひたすら迷惑なやつであり、気が違っております。全編にわたって下ネタが炸裂しており、アホとしか言いようがありません。

 前作のボラットはまだ、風刺的な色合いも随所にあったんですけれど、今回はアホさがぶっちぎっており、アホのいなくなった日本のテレビとはまったく違う刺激を与えてくれます。観た後に何が残るかといえば、何も残らないとも言える。でもね、ぼかあ違うと思うんだよ。こういうアホがやりたい放題に走り回る姿はそれなりに感動的であり、このくだらない世界がよりくだらなく思えて、大げさに言えば生きる希望さえをももらったのさ。

 ぼくは小学校五年のときに松本人志の『遺書』を読んで衝撃を受けたのですが、それはひとえに、「こんなことを考えている人が世の中にいるのか!」という驚きだったのです。俺は天才だ! 俺の笑いがわからないやつは馬鹿だ! そんなことを正面切って言い切る文章が衝撃的だったのです。あのときほどの驚きはなくとも、この『ブルーノ』は、「こんなアホがこの世界にいる」という事実を知らしめ、喜びを与えてくれるのです。

 ボラットにせよブルーノにせよ感動的なのは、このアホどもが単身暴れ回ることです。徒党を組んで狼藉を働く連中とはぜんぜん違うのです。はっきり言ってぼくは群れというものが嫌いです。学生時代を通じ今に至るまで、群れに属すことができなかった。そういう個人史もあって、群れをなしてちょける連中に憎悪すら抱きます。これがね、何人も一緒になってやっていたら最悪なんです。馬鹿学生の集団です。この映画はもちろん撮影ですからチームがいるのでしょうけれど、画面上ブルーノはひとりぼっち。一応慕ってくる男が一人いるけれど、別にそいつとともに何かやらかすわけでもない。ひとりぼっちのきちがいは、それだけで悲しくて感動的で、共感してしまうのです。

宇多丸はラジオで、「とても共感しにくいキャラクター」と評していましたが、ぼくは彼をずっと応援し続けていましたよ。ブルーノ=サシャ・バロン・コーエンが見せる鋭い目線には「アホに徹してやる」と決めた男の熱さと強さがあって、それがなんて格好いいのか! 江頭2:50に通ずるものはやはりあって、どちらも易々とは受け入れがたい狂気のパフォーマンスを行うけれど、こうやってアホに徹することは絶対格好いいんだって!

 非常に重要な点として、ボラットもブルーノも江頭も、人を傷つけようとはしていないことです。そりゃあ不快な思いをさせるし、見たくもないものを見たと思わせるかもしれない。でも、人を傷つける真似は絶対にしないんです。そして彼らは、人々から向けられる好奇、侮蔑、軽蔑、憎悪を一身に受け止め続けます。出典は不明ですが、江頭の発言としてネット上、こういうものがあります。
「目の前で悲しんでいる人がいたら、なんとかして笑わせたい。そのためには寿命が縮まってもいいし、警察に捕まってもいい」
 彼らは確かに嫌われやすいし、気持ち悪いと思われやすい。その場で向けられる冷たい視線は絶えず、それどころか殴られるかもしれない、場合によっては殺されるかもしれない。でも、他人からどう思われようと厭わず、それを画面の向こうで見る、自分からは見えない誰かを、笑わせようと必死になっている。これが感動的でなくして、何が感動的だと言うのか。

 人によってはこの映画を観て、「面白いけれど何も残らない」とか言いそうなんですよ。本当にずっと、終始アホだから。けれど、そういう言い方は間違っています。面白いってことが、残ったじゃないかと。たとえば花火を観に行ったとして、見終わった後何も残らないなんて、言わないじゃない。すごかった、綺麗だった、すごい迫力だった、そういう感動が残っているじゃない。笑いだってそうだよ。思い切り笑ったなら、十分残っているよ。何も残っていないのは単に自分の鈍感さゆえなのさ。知識とか思想とか主張が残ればいい映画なのか。違うよ。面白い映画こそがいい映画なんだよ。知識は忘れるかもしれない。思想は廃れるかもしれない。でも、面白かったってことだけは、ずっとずっと残るよ。「『ブルーノ』は面白かった」っていうそれだけでいいよ。「何も残らない」なんて、そんなことないよ。

 面白くなかった、という人もいるでしょう。それはそれで感じ方ですからね、仕方ないです。とにかく下品ですから、許容度が低いと引いてしまうかもしれません。冒頭からブルーノは上品なものに宣戦布告します。ファッションショーのくだりがそうで、上品きわまるショーをぶちこわしにしてしまう。どちらかといえば、いやどちらか選ぶまでもなく下品派であるぼくには痛快でした。ファッションショーなんかは特に大嫌いな部類ですからね。

 もちろん、あの陰で傷ついた人もいるかもしれない。たとえばあのファッションショーに命をかけていた人だっているかもしれない。でもそれを言い出したら、どんな話だって肯定できなくなりますしね。悪の組織を打ちのめす話だって、その組織にいる人すべてが悪人ではないかもわからないし。誰かの行動はいつだって誰かに影響を及ぼすのです。社会で生きていくとはそういうことでしょう。だから言い出せばきりがなくて、少なくともぼくの場合は、「ファッションショーなんかでお高く気取ってやがる上品野郎どもめ!」という行動には痛快さを覚えたのです。

 その点で行くと、下ネタって忌避されがちだけど、実はいちばん誰も傷つけない笑いなんですよ。チンコを出したら面白い、っていうシンプルな構図には、何ものもつけいることはできません。

 あと面白いのは、あの音楽の使い方ですね。めちゃめちゃ感動的な場面みたいな音楽を流すんですけど、それがどう考えてもアホらしいんです。感動的な音楽にそぐわない極度のアホらしさが感動的、という二重構造です。最後の闘技場の場面はすばらしいです。あれは実は批評的ではありますよね。人々は殴り合いを観たいと渇望しているけれど、その意に反して愛を交わす。するとホモ行為を嫌悪する観客は暴れ出してしまう。ゲイネタ満載の本作において、クライマックスにしていちばん批評的な場面です。

異性愛を賛美する人間たちが、同性愛を罵倒する。異質なものをこそ尊ぶ連中が、同質的なものを嫌悪する。しかしこの構造はそれ自体がアイロニカル。あの異性愛者たちは、同性愛者が自分と異質であるがゆえに嫌悪しているのであり、自分たちと同質であることを同性愛者に強要しているのです。異性愛者たちは暴力行為をこそ期待しており、それが裏切られて怒り出す。何が暴力の期待を裏切ったのかと言えば、目の前で繰り広げられる愛の光景。皮肉だね。良識的多数派であるはずの人間が、愛を否定し、暴力を期待しているなんて。っていうこの構図。ちなみにこの直前のくだりでも異性愛者による暴力が炸裂していて、アホアホ続きのブルーノは終盤において、にわかに批評性を爆発させるのです。

 なんてことを言っておけば、「何も残らない」なんて思う人たちの何かを、少しは満足させられるでしょうかね。
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長い記事になってしまった。宇多丸VS町山討論が作品そのものより興味深い。

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この作品を観ようと思ったのはアカデミー賞受賞という惹句ではなく、宇多丸と町山智浩さんの徹底討論を聴いたからです。ラジオ番組のポッドキャストとして配信され現在も聴取可能な本放送では、本作について両者が真っ向から議論を交わしています。有名人同士の「大議論」「徹底討論」にありがちな、「結局は二人とも同じ意見」のなれ合いではなく、約80分間、互いの主張を頑として譲らないものであって、とても聴き応えがありました。それで観に行ってみようと思ったわけです。

 二人の議論はこの映画の内容に留まるものではなく、評論行為そのもののあり方にまで踏み込むものでありました。そして二人の根本的な考え方の違いゆえに、議論はついぞ解決を見なかったのです。

 宇多丸の『ハートロッカー』評に町山さんが異議を唱えたのが事の起こりでした。どういった議論だったのか。映画を観ていない人にもわかるように、議論の構図を説明しましょう。
宇多丸が「この映画はAのような受け取り方も、Bのような受け取り方も許容してしまうようなつくりだ」と述べました。これに対して町山さんは、「この映画の情報を詳しく読み解けばAのような受け取り方は間違っていて、Bのような解釈が正しいとわかる」と応じたのでした。この町山さんの指摘に対しても、宇多丸は一歩も引くことなくぶつかり、長い議論は続いたのです。

 町山さんの評論に対する考え方はその著書からわかるように、「一般の観客が映画を観ただけではわからないその映画の持つ意味や情報を読み解き、人々に伝えることだ」というものです。ゆえに彼は、「Aのような受け取り方をしそうになるけれども、細かい情報を知っていけば、Bのような解釈に断定できる」という意見を貫いたのであり、彼の評論姿勢がとても顕著に表れていました。一方の宇多丸は、「細かい情報を知っていれば確かにBであるけれども、この映画に描かれていることだけを切り取れば、AにもBにも見える。実際、町山さんの言うBの解釈とは相反するような演出があるではないか」と反論し続けたのです。冗談でお茶を濁すような「すかしかわし」のない白熱した議論でした。

 町山さんの映画評論に対する考え方はとても学者的であるなあと思いました。別のポッドキャストにおいて彼は、「日本の映画評論の問題は調べないで書くやつが多すぎること」「他人の映画の感想なんか読まされても何もならない」「いい評論というのは、映画を観ただけではわからないことを伝えるもの。たくさん映画を観ているからこそわかる情報を伝えてくれるもの」というようなことを述べています。資料やインタビューを通じてその映画を研究し尽くし、評論するという姿勢は、きわめて学問的で厳密なものだと思う。だからこそ、「AのようにもBのようにも見えるね」という宇多丸の態度に引っかかったのでしょう(とはいえ、町山さんもゴシップ的な未確定情報を流してしまうこともありましたが)。

 こうした態度は大変重要であると思うわけです。評論家というのは時として、自分からは何も生み出していない存在であり、「クリエイター」のほうが偉いのだみたいになりがちですけれども、じゃあまともな評論家の声がほとんど届かない今の日本映画はどうなっているのかを考えれば、「クリエイターが偉い」なんてとても言えません。批評的な視点がなくなれば、ついには「売れるものが偉い」というただそれだけの価値判断になっていく。有り体に言えば、馬鹿を踊らせたやつが偉い。現に日本映画はそうなっている(いや映画に限らぬ)。だからこそ駄作しかつくれない監督でも大作を任される。そいつらが「クリエイター」としてのさばる。クソを食らえ。この状況に対抗しようと思ったら、こちらはこちらで馬鹿を踊らせるものをつくるほかないのでしょう。評論家の声が届かないほど、彼らは踊りに夢中なのですから。

 話がそれる。
 宇多丸と町山さんの議論は互いの根本的な立場の違いがあり、そこを譲らない限りは平行線をたどるほかありませんでした。でもそれでいいのです。往々にして議論の実りとはその結論ではなく、その過程にこそあるのです。長い議論であるため詳細は実際に聴いてもらうほかありませんが、映画を観て聴いてみれば、何か感ずるところはあるはずです。

さて、やっとこさ『ハートロッカー』の話ですが、二人の論点を大きく回避しつつ、気軽に感想を述べたいと思います。観に行ったのはシネマロサ。西口なので距離感。スクリーンがさほど大きくないので三列目で鑑賞。二列目でもよかったくらい。

 イラクにおける爆発物処理班の男が主人公なのですが、爆弾というのは映画を、あるいは物語一般を盛り上げるための有用な装置です。物語に緊張感を与え、また盛り上がりを生むためにはいくつかのわかりやすい技法があって、たとえば「タイムリミット」がそうだし、もしくは追いつ追われつの「チェイス要素」もそれに類します。「爆弾」はその中のひとつで、「いつ爆発するかわからない」というのはそれだけで緊張感を生めるんです。

「爆弾」は何も本当の爆弾に限りません。幽霊、殺人鬼が襲いかかってくる映画も「爆弾」映画です。「いつ、どこからやってくるかわからない恐怖」こそが「爆弾」の意味です。難病ものもそうです。あれも「爆弾」映画。いつどこで発作が起こるかわからないため、緊張感を観客に与え続けることができるのです。

 だから思うのですけれど、この映画を褒めるときに、「爆発物を処理するときの緊張感が・・・」みたいなことを言うのはどうも阿呆らしい。戦争映画で爆発物処理で緊張感が生まれないほうが間違っているのであり、そこを褒めても仕方ないでしょう。特に常に銃で狙われる危険性を帯びている現場なのだから、アカデミー賞を受賞した本作への褒め言葉としては、逆に失礼というものです。ぼく個人としてはむしろ、その部分の緊張感にはさして味わいを覚えなかった。ああ、爆発するのか、いや、しないのか、ひやひや、という緊張感はそこまでのものではないと思いました。

 肉体感が迫ってこないのが大きかったかもしれません。ここで爆発したらこの登場人物は死んでしまう、その当たり前の事実に対してさしたる緊張感を覚えなかった。映画序盤で最初の爆発があるんですけれども、ここも妙に綺麗に撮りすぎていた。予告編にもあるのですぐに確かめられますが、あれでは構図としての収まりがよすぎた。ということはつまり、爆発に美しさがあったということです。それは爆発の恐怖と相反するものではないでしょうかね。爆発の恐怖を生むには爆発した美しさではなく、いかにそれによって人間の体が無残にぶち破れてしまうかを描くほうが重要なのに、あろうことかこの映画では妙に画になる爆発を最初に持ってきた。画にしちゃってどうするんです。

 爆発の恐怖を観客に共感させるうえで最も有効かつ手っ取り早い方法はおそらく、観客にその場面の不快を感じさせることです。いわゆるショック演出を使うこと。幽霊映画でも、いきなりドーンと幽霊が出てきたら観客はほとんど反射的にびくっとなるじゃないですか。それで不快感なり、生理的な恐怖を植え付けられるんです。同じイラク戦争ものでいえばデ・パルマの『リダクテッド』がありますけど、あの映画にはありましたね。思わずびくっとしてしまう演出。ああいうのがないんですよ。だから爆発への恐怖を共感できない。戦争は麻薬だ、などと言うのなら、その麻薬的なまでの強い刺激が映画のどこかにあってしかるべきなのに。

 いや、誤解のないように言っておくと、あるにはあるんですよ。その、突然の爆発っていうのはね。でもそこがぜんぜんショック演出になっていないんです。何の肉体的不快感もない記号的とさえ言える爆発でした。好意的に解釈すれば、これはアイロニカルではあるんですよ。戦争の現場で兵士が死ぬ事実をぼくたちは肌身には感じてはいないわけで、このように記号的な爆発はつまり、我々の戦争に対する捉え方そのものへの皮肉だ、と、言えなくもない。それを「戦争は麻薬だ」という字幕とつなげて、「戦争映画の麻薬性」を謳いあげれば、このだらだらした文章もそれなりに批評的に書けるかもしれないですが、
そんなファニーゲームをする気はありません。好意的に解釈したくなるほどの映画的魅力は感じませんでしたもので。

 この映画の記号的な死は他にもあって、たとえば砂漠での撃ち合いがそうなんです。敵の死はぼんやりとしか映されない。そこで確かに人が死んでいるのだ、という感覚を観客に与えない。それでいいんですかね? 兵士には確かにそうした殺人感覚の摩耗が起こるかもしれないし、それを観客に追体験させたかったのかもしれないけれど、だったら逆に、あの薬莢の落ちるスローモーションとか要らないんじゃないかなあ。あの見せ方じゃまるで、殺人のショックなシーンをごまかしにかかった安い演出に見えます。そうかと思えば子供の死体の場面はそれなりにグロテスクであり、ハリウッド映画で子供のぎたぎた死体を映すのはそれなりに冒険でもあり、死の軽重づけがいかにもアメリカ目線です。アメリカ兵が敵を殺す場面は大して残酷に見せず、人間爆弾にされた子供を見せて敵側の残虐性を強めて印象づける。そうかと思えばラスト近くにも出てくるもう一人の人間爆弾だって、肝心の爆発シーンは画になりすぎている。かなりちぐはぐな印象を受けました。

 そろそろ書き終えたい。
 ラストシーンは宇多丸・町山論争で最も問題になった部分です。大事なネタバレをします。


 主人公は任務期間を終え、平和な日常に帰って行くんですが、その後再び、自らイラクの渾沌の中に戻っていきます。宇多丸は「戦争は麻薬だという字幕もあるし、描かれている心情描写が乏しいし、平和な日常が退屈だから戻ったくらいにしか見えない」と述べます。すると町山さんに「ものすごく浅い」と言われます。町山さんは「自分ができる仕事をしにいくのだ。無敵だと思っていた自分が無力であることを知りつつも、自分に何ができるかを考えて戦地に赴くのだ」と指摘し、真っ向から対立するのです。

 この議論に深入りするとまだまだ終われなくなるのですが、宇多丸の視点になくて町山さんの視点にあるのは、「主人公の使命感」です。主人公は使命感ゆえに戻ったのかどうか、ここで意見が大いに分かれました。どちらともつけがたいというのが正直な思いです。個人的には、「どっちでもあるだろうよ」と思います。生の充足にどういう理由付けをするのかは本人の捉え方ひとつだし、どうとでも理屈は付けられます。別にどちらかに決める必要はないのであって、そこにこそ映画の登場人物の心情を読み取る味わいがあるのであって、我々がどんな生き方を選ぶときも理由はひとつではないはずです。両者はこの意見の相違を巡って映画を深く読み取っていきます。非常に興味深い対談でした。映画そのものより議論のほうがおもしろかったのでした。おわり。
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