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「ヘタウマ」という言葉がこれほど似合う映画は、観たことがありません。
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 井口昇という監督の名前は前から目に耳にしていたのですが、今回初めて観ました。この監督は思いっきりAVはスカトロ畑の人なんですね。近頃では単体系も撮っているようですが、昔はスカトロビデオばかり撮っていたようです(それにしてもウィキペディアのフィルモグラフィは誰が書いたのでしょう)。

 AV女優が好きなぼくとしては、AV畑出身の監督は応援したいところです。思えば今大御所とされる日本映画の監督だって、昔はピンク映画を撮っていたりしたわけで、今後AV出身の名監督がたくさん出てきても不思議はありません。とはいえ、AV畑といっても、スカトロはかなりの僻地ですからね。ひとつの畑として確立してはいますが、これほどに世間一般から嫌われるジャンルは他にない。SMとかレイプとかもあるけど、あれはまだ一般表現にも近づけるじゃないですか。SとMなんて言葉は日常会話でも出てくるくらいになったし、レイプだってたくさんの映画で出てくる。レイプビデオの監督が撮る暴力映画とかは面白くなりそうだと思います。

 じゃあスカトロ出身のこの監督が、映画に近づくうえでどこでその強みを活かすのか、といえば、これはもうはっきりと劇中に現れていました。ある意味でそのままでした。観ればわかりますけれど。

 映画それ自体は開始一秒で低予算映画だとわかります。そして映画それ自体も、いわゆる普通の映画とはかけ離れています。この映画をして「シュール」などと呼ぶ向きもありましょうが、「シュール」な映画なんてたくさんあります。別にこの映画に特異なものではない。この映画に最も適した形容句は「ヘタウマ」です。これほどに「ヘタウマ」という表現がしっくり来る映画を、ぼくは観たことがない。始まってしばらくは、「おいおい、大丈夫かこの映画」と思わされるんですが、いつの間にか引き込ませる。明らかにうまくないんです。でも、うまいんです。まさしくヘタウマです。

 主演は荒川良々と新井亜紀という女優さんなのですが、荒川良々という人は存在自体がヘタウマみたいな人です。まともに演じていても馬鹿っぽいし、馬鹿っぽくてもきっちり演じられる。この人の変人っぽさが映画に合致しているのです。そして初めて観た新井亜紀という人なのですが、もうこの人はある意味荒川良々以上のおかしさです。結構舞台に出たりしているようなんですが、ぼくはてっきり素人なのかと思いました。発声が映画向きではないんです。じゃあ舞台向きかというとむしろ逆で、普通の人が普通に喋っている感じ。だから声が聞き取りづらかったりする。映画というのは舞台よりも我々の日常に近い喋り方をするものですが、それでも誰しもある程度は声を張っているんです。そうしないと聞き取れないことがあるからです。ところがこの人の発声は本当に普通の人のそれで、もしこれが作為的なものだとするなら、監督含め、ほとんど達人に近い領域です。

 ある出来事をきっかけに映画は大きく動き出します。ネタバレします。はい、警告しました。

 新井亜紀は頬に怪我を負うのですが、その怪我はとんでもないことになり、簡単に言うと頬にアナルができるような状態になるのです。しかしそこは口の役割を果たしていて、そこから食べ物をすするのです。ここなぞはもうまさしくスカトロ監督の本領発揮です。頬のアナルがひくひくする描写などは、もう気持ち悪さに笑うしかありません。それを観てゲロを吐く荒川もひどいもんです。褒めてます。

 レイプビデオの監督が暴力ものを撮ると面白かろう、と書きましたが、スカトロ監督はスプラッターやモンスターものを撮ると面白いかもしれません。終始映画としてはヘタウマのトーンの中、ここだけは妙にそのトーンがきっちりと映画になっているのです。

 人と人が普通に会話する場面とか、いわばリアルな場面の描写については、ほとんど投げやりにすら見えるヘタな撮り方がある。おい、それでいいのか、という場面もある。でも、そこには野蛮さがあるんです。飛び出す目の描写なんて、野蛮の極致です。洗練の真逆を突っ走っています。映画が一般的に、なぜ表現を洗練させようとするのかと言えば、そこにリアルを求めるからです。あるいはうまさ、格好良さ、美しさを求めるからです。ところがこの映画の目の描写は、そういう映画的発展の歴史から大きく逸脱しています。これまさに低予算ゆえの野蛮さです。逆に予算があったらあんなものは撮れないのです。 
 一般的に言って、AVは大きなバジェットを組んで撮られるものではありません。毎年何百、何千の作品がリリースされていることからも明らかで、映画とは比べものにならない予算で撮られることが大半です。むろん、作品の肝となるのは女優の(あるいは男優の)肉体的な絡みですから、それほど予算を必要としないというのもありましょうが、限られた範囲の中でいかに他のものと違う作品をつくろうか、と作り手は頭を悩ませます。その中でたくさんのフェティッシュな描写が生まれてきたわけです。

 この『恋する幼虫』のような映画は、「まともな感覚」では撮れません。たとえばキネ旬で褒められるような、「いわゆる名作映画」をずっと観てきて、それに憧れた人間では、とてもじゃないけれど撮れない。はっきり言ってモテませんよ、これを撮ったって、絶対モテない。ついでにこれを褒める人間もモテない。でも、だからこそ惚れさせる。その人にしかつくれない映画ってものを、しっかりつくっている。結構度肝を抜かれる映画体験でした。おもろい、これはおもろいと観ながら何度も繰り返して呟いていました。他の作品も観なくちゃと思いました。

追記
 5月29日、デニス・ホッパー氏が前立腺がんの合併症のため、74歳で亡くなりました。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。
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ハラハラさせる展開とはこのことだ。
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イーストウッド監督作品はまだ3分の1程度しか観ておらず、今までもうひとつ楽しめずに来た人間なのですが、この『ガントレット』は面白かった。こういうのを観ると、他の作品も観てみようという気になりますね。「どう展開していくのだろう、ハラハラ」という、単純にして尊い物語的快感。それを素直に感じさせてくれる一本です。

 イーストウッド演ずるショックリー刑事は上司の命令を受け、裁判の証人を迎えに遠出していきます。証人のソンドラ・ロック(イーストウッドと長年交際の女優)を保護し、警察へと戻ろうとした矢先、次から次に危険が迫り、帰路は一転逃避行の様相を呈することになるのです。

 デ・ニーロ主演の『ミッドナイトラン』(1988)という映画は公開当時、結構この映画と比べられたことでしょう。あれも証人保護の道中でハプニングが巻き起こる作品で、起こる出来事もかなり似たようなところがあります。

 どちらの映画も、刑事とその刑事から逃れたい人間が対になっているのですが、こういうバディ・ムービーは関係が引き締まっていて面白いです。当初から仲間ではなく、最初は互いを煙たがっているため、捕まっているほうは時として刑事の目を盗み、逃げ出そうとする。これによって、物語の重要な要素たる「爆弾」がずっと維持され続けるのです。

(*爆弾・・・・・・なにさま的映画用語。「いつ爆発するかわからないぞ」と思わせるのが爆弾の大事な機能であり、これを用いることで観客に緊張感を持続させられる。映画における難病、ウイルス、スパイなどがこれに当たる。当然、爆発後には大きな物語転換を引き起こすのであり、爆弾は映画の「起爆剤」でもある。)

 まさかのキャプションをはさんで話を続けます。
 『ミッドナイトラン』もそうですが、アメリカ映画の強みを存分に活かしています。荒野と長距離鉄道を観るたび、かの国のロケーションはなんと映画向きなのか、と思わされる。料理文化の発展はその国が持つ農業的資源によるところが大きいのですが、映画の発展もまた、地理的な資源が大きく影響しているのでしょう。『北国の帝王』などを観ても、ああ、これはヨーロッパや日本では小さすぎるよなあ、と思わされます。
 あの広い舞台があるからこそ、ヘリとバイクのチェイスは白熱します。観ながら思ったのですが、MGS3はこの『ガントレット』にも影響を受けているんじゃないでしょうか。夜のたき火のシーンもバイクのチェイスも、MGS3に登場します。

 たき火のシーンはよかった。あの場面でこの映画に惚れた。イーストウッドがサンドラ・ロックを殴りつけるのですが、サンドラは彼の股間を蹴り返します。その後の言い争いも素晴らしかった。
サ:「なんであんたがこの仕事(自分を保護する仕事)を任されたかわかる?」 
イ:「俺が優秀だからだ!」
サ:「違うわよ! あんたが死んでも誰も悲しむ人がいないからよ。だから敵と味方の区別もつかないのよ!」
 このとき、彼ら二人を追っていたのはギャングや悪たれではなく、事件もみ消しをはかる警察の上司で、イーストウッドはまともに言い返せません。彼は見下していたはずの売春婦に、自分の偏狭さを思い知らされるのです。この後のやりとりも含めて、ぼくはこの場面で完璧に惚れました。

 この後、二人が貨物列車の中で悪たれに襲われるシーンもいいです。イーストウッドを助けるために悪たれを引きつけ、自分が犯されかけてしまうサンドラ。彼女を助けるイーストウッド。ここにおいて二人は強く結ばれる。こういう展開は大好きです。

『ミッドナイトラン』の掛け合いもいいですけどね、真面目なチャールズ・グローディンが向こう見ずなデ・ニーロに対し、鉄道における駅の存在意義をとうとうと語るところは素晴らしく面白く、ああいう温度差遊びもいい。こういうタイプの関係はもしかするとぼくの好物なのかもしれません。思えば『第9地区』の二人もそういう部分が大きかったわけです。ツンデレじゃないですけど、「おまえのそういうところが嫌いだ」「おまえなんかくたばったちまえ」と言いながら一緒にいるというのは、なんとも素晴らしきかな、という感じがします。

 クライマックスはこれまたとんでもないことになります。ですが、ここでぼくはふと引っかかるんですけど、映画ってのはどうしてどれもこれも、車を銃で狙撃するとき、タイヤを狙わないのでしょう。この映画でもやたらと車体に発砲するんです。止めたければタイヤを撃ってパンクさせるか、もしくはエンジン部分を狙い撃つべきです。これは人間を撃つ描写にしてもそうです。相手を殺したければ、腹などではなく、頭部を狙い撃つべきなのです。もちろん頭部の方が幅が狭く当たりにくいという事情があるんですけど、結構至近距離の発砲でも腹を撃ったりしますからね。まあ、そういうことを言うのは野暮ってもんです。粋じゃないのです。この映画のクライマックスはなかなか楽しいことになっていますので、それでよいのです。

 娯楽作としてのイーストウッド作品。その中では最も楽しめる一本でありました。
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まとまらせられない感動。ゆえにもう一度語るのだん
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 当ブログの検索キーワードはずっと「愛のむきだし あらすじ」がトップなのです。なぜあらすじを知りたいのでしょう。四の五の言わずに観やがれってんでい。注目作であるのは間違いないので、あらためてその魅力を語ってやりましょう。

 主に前半について述べましょう。
 長尺を支えた要素は数多く述べられますが、テンポの良さとナレーションと音楽が実に大きな働きをしているのは、言うまでもないところでありましょう。奇跡までのカウントダウンとチャプターごとの切り分けでメリハリを付け、速いテンポの編集をかましつつ、最高にセンスの良い音楽の選び方をしています。ダンスシーンやミュージカルシーンのような心地よさ、快活さが漲っているのです。ナレーションの当てはめ方が園監督はものすごく上手い。『紀子の食卓』『奇妙なサーカス』という2005年の代表作がありますが、あれらと同じく、登場人物はナレーションでどくどくと内面を吐露し、その吐露の語り口が絶品。男は敵、男は敵、と繰り返すヨーコの語りなど、もはや心地よさの極みであります。

 などということは観れば瞭然の話で、誰しも理解以前に体感可能なところでありましょう。ではなぜそれらの演出が劇的な効果を上げるのか、という話ですけれども、それはまさにタイトルが示す、「愛のむきだし」ゆえなのです。これは過去作における『うつしみ』とも通じていますが、あの作品にはなかった見せ物としての充実ぶりが、半端ではないのです。

この映画ではナレーションによる内面の吐露と表象される出来事がそのどちらにおいても、「むきだし」なものとして表されています。コイケの章に顕著ですけれども、彼女の学生時代が語られるときは、そりゃもうえげつない行動の連続です。「好きな男子に見つめられるともう駄目だった」といえばその通りに、リストカットがぐっちゃぐちゃになり、それどころか相手をぶっ殺してしまうのです。これはあまりにも「むきだし」なものとして迫ってきます。相手を愛するがあまり自分を傷つけ、しまいには相手を滅してしまう行い。リアリティなど糞食らえ。とにかく彼女なりの「愛のむきだし」の実現が描かれるのであり、こちらの予測を超えた形でその内面を描き出しているのです。あのコイケの章は、ものすごく濃い前半部の中でもとりわけぶっちぎっています。テンポ、音楽という外枠の部分を巧みに設定しつつ、観る者を飽きさせない刺激の連続。これぞ映画。そうした「むきだし」感こそが、この映画全体を神がかったものにしているわけです。

 リアリティなど糞食らえ。と書きましたけれども、前半部のハイライトに当たる広場での乱闘シーンがその極みです。なんなんだあのごろつきどもは、などというのは野暮。あのごろつきの台詞が面白い。ヨーコを見つけるなりごろつきの一人は、「まぶいすけじゃねえか」と挑発します。今時あんな人は日本中探してもいますまい。「まぶいすけじゃねえか」という言葉は、あの場面がリアルから大きく飛躍する始発信号なのです。退屈なリアルではなく、映画的醍醐味へ。まさしく「まぶいすけ」であるところのヨーコ、ひかりちゃんの舞踊が始まります。あれは一種のミュージカルシーンなのです。『愛のむきだし』には映画的要素が詰め込まれていますが、ミュージカル映画でもあるわけです。何人もの女性を並べてラジコンで盗撮するシーンも同じで、下手にやればただの馬鹿な表現。でも、ビートの刻み方が史上最高に秀逸だから、爆笑させてくれる。

 それと、格闘のシーンを語る上で、いや、映画全体を語る上で、ひかりちゃんのパンモロを抜きには話せません。映画にとって大事なものは何か、などと語り出せば、むろん幾多の要素があるわけですが、そのひとつに、「エロ」があります。いやいや、真面目な話なのです。はっきり言いますが、エロ抜きにこの映画を語ろうとする連中は全員偽物です。真面目たらしくキリスト教がうんぬんとのたまい、エロに触れないやつがいるとすれば、そんなやつはぽっぽこぴーです(何のこっちゃ)。

 男子たるもの、おぱーいやパムティーを観てうきうきしないなんてあってはなりません。映画とは見せ物です。エンターテインメントです。面白いものです。であるならば、変な格好付けは不要なのです。観客が密かに期待するおぱーいやパムティー。そういうものをきちんと見せるサービス精神を褒めずして、何が映画観(えいがみ)でありましょう。そういうものを下品だと言って退るやつはろくな映画を撮れないし、観られないのです。アホ扱いを気にしてるんだかモテたいんだか知らないけど、純愛なんて気取っているやつに誰が心動かされましょう。下品だってアホだってかまわない! ぼくたちはパンツが観たいんだ! ひかりたんのオナニーシーンで抜いたんだ!

 ああ、それにしたって度が過ぎる。言わなくていいことをたくさん言った気がする。
 
ところで、ぼくは昨晩銀座のカフェで一人、物思いにふけっていたんだ。どうしてポスト印象派の画家たちは、かように前衛的な作風を採用しつつも、我々の世界の一端を鮮やかに写実し得たのだろうって。あるいは彼らの研ぎ澄まされた感性は、たとえばこの窓外に見える梢をちらと目にしただけで、植物との対話を十全に果たし得たのかもしれない。
考えをまとめられそうだったその刹那に、飲み終えたコーヒーの氷がからんと音を立て、携帯電話が鳴った。バーのマスターが、いつもより開店が遅くなったことを詫びようと、律儀にも電話を掛けてくれたのだった。

 よし、バランスを取った。閑話休題。

 えー、あとはそうですね、役者陣が見事に園マジックにかかっているところです。技量以上とも思われる抜群の働きです。満島ひかりちゃんの表情の豊かさは、映画史上まれにも見ません。相手を蔑み、憎み、嫌う表情の冷たさの一方で、恋する乙女の無邪気さを見事に表現しており、映画館で観たときはただただ感動するばかりでした。コイケもまたいい顔をしています。安藤サクラは面白い顔です。あの人を引っ張ってきた園監督の慧眼は素晴らしい。ブスではないんです。でも、美人でもないんです。でも、時々美人に見えます。美しそうで美しくない、少し美しいのです。あの人がまた肉感的であり、板尾のちんこに股をこすりつけるシーンでは不覚にもぼくの股間が反応しました。

 渡部篤郎、渡辺真起子の良さもさりながら、忘れてならぬのが故・大口広司です。『奇妙なサーカス』で狂った父親を演じた彼の狂気に満ちた面構えが、馬鹿らしさを狂気に導いていたこと。「心から勃起しろ」というエコーのかかった声が、その狂気に彩られて強い響きを帯びていたこと。彼は格好いい役者さんでした。彼は『愛のむきだし』一般公開の一週間前に他界したのでした。彼をもう園映画で観られないというのは、悲しい限りです。

西島隆弘について語らねばなりませんが、彼は劇中ひかりちゃんと熱いチウをしているのであり、嫉妬の対象です。もう少し気を落ち着かせてからでないと、冷静に語れません。

 いい加減長くなった。読み返してみるとなんともまとまりを欠いた文章だ。こんなにまとまりのない文章は読んだことがない。でも感動をまとめるなんて、土台矛盾した話さ。続きは後編で。
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ドラえもん映画の隠れた逸品
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 記憶の中に埋もれていた名作。思い出したら観たくなってレンタル。監督が原恵一だとは知りませんでした。言わずもがな『クレヨンしんちゃん』のあの二作を世に送り出した名監督で、いやはやこの人のつくるアニメというのは、どうしてこうもよくなるのでしょう。今年は新作映画が公開されるらしく、要注目です。

『ドラえもん』の映画も良作が多く、泣かせる作品と言えば『海底鬼岩城』『鉄人兵団』『太陽王伝説』あるいは『ねじ巻き都市冒険記』などが思い起こされます。声優交代後は観ていません。世代的にもう無理なんです。大山のぶ代でがっつりとイメージが固まっているため、違う声優は無理なんです。しかもドラミちゃんの担当が千秋だというではないですか。千秋はぼくの中でノンタンの声であり、ポケビのヴォーカルであり、新おにいを連れてくる女性なのです。なのでドラミちゃんと同一視することはどうしたって無理です。

 さて、当然今回取り上げる映画では前のドラミちゃんです。安心して観られるのであり、兄よりもしっかり者の妹が頑張る様はそれはそれで素敵です(「兄」って何だろう?)。

『ドラビアンナイト』と併映で、時間は40分と短いのですが、きっちりまとまっている名作です。もっと長くていいんです。もっともっと長くていいんです。ぼくはもっともっと泣いていたでしょう。そうです。この作品は目頭を熱くさせるのです。

のび太の孫の孫に当たるセワシの依頼を受け、ドラミちゃんともう一人のロボット・アララが戦国時代に向かいます。セワシの先祖に当たるのび平はのび太同様にドジばかり踏んでおり、セワシは「彼を優秀にしたら自分ももっと優秀になるのではないか」と考えたのです。この辺のタイムパラドックス的うんぬんに突っ込むのは無粋以外の何物でもありません。

 ドラミちゃんは村人ののび平に出会い、山賊のタケゾウ(ジャイアン)らとも出会います。しずかちゃんキャラとして出てくる「おしずちゃん」はしずかちゃんよりさらにかわゆいです。思えば「我らが最初のミューズ」はしずかちゃんでした。多くの若者にとって、しずかちゃんは初恋相手の一人と言えるでしょう。のび太に感情移入し続けてきた少年としては、当然しずかちゃんをも好きになるのであり、彼女の前で格好をつけたがるのび太を応援せずにはいられないわけです。設定的には小学校高学年ですから、下卑た呼び名で言えば「ロリータ」に当たるのでしょうが、しずかちゃんに関しては特別であり、そんな感覚を微塵も抱きません。彼女の大人びた魅力は、年齢を超越しているのです。アニメにおけるヒロインは数多く、やれラムちゃん、やれ音無響子さん、やれ綾波レイ、やれ朝比奈みくる。いろいろいますけれども、最終的に一人を選べと言われればしずかちゃんで決まりです。

 何を長々とあほらしい、そのあほらしさが気持ち悪さと直結するようなことを書くのかこの俺は。

 さて、映画ですが、スネ夫はというと、村人を顧みない領主の一人息子スネ丸ということになっています。村人が重い年貢に苦しみ、日々の食事も満足でないというのに、彼は豪奢な屋敷で腰元たちに甘えきり。いわば他のメンバーにとっての敵役として登場するわけです。

 ひょんなことからスネ丸は山賊のアジトに連行されてしまいます。最初はのび平やタケゾウを下層民として侮蔑するのですが、ともに農作業を経験し、次第に心開いていくのです。この辺のくだりはもう絶品です。さすが原恵一。威張っていたスネ丸が貧相にもふんどし一丁になり、自然に溶け込み、汗を流しながら慣れない手つきで作業をするシーン。最初は「おまえらの食べているものなんか汚いんだ。ぼくは毎日鯛の尾頭付きを食べているんだ」と嘯いていた彼が、収穫した野菜を食べて感動するシーン。帰り道の夕焼け。「時間の尺がない」ということが、これほどもったいない映画は他にありません。少年たちとスネ丸が解けあっていくくだりは本当に、もっともっと観ていたいと思わせるのです。タケゾウがまたいいんです。スネ丸とタケゾウという、まったく違う生き方をしてきた二人の間に芽生える、ほのかな友情。

 そして話は飛びますがクライマックス。ここは泣きます。ここで泣かないやつなんて大嫌いです。
 ドラミちゃんが出した農業用機械が暴走してしまい、山が洪水に見舞われます。木々が流され、土砂崩れが起き、そのどたばたによってスネ丸と彼の父親が窮地に陥ってしまいます。高い崖から今にも落下しそうな丸太の上に取り残され、絶体絶命になるのです。

 ここに山の異変を察知した村人たちが、何事かと駆けつけてきます。
 村人はさんざん領主のスネ丸一家に苦しめられてきたので、「おらたちを苦しめた罰だ!」「なんであんなやつを助けなきゃならねえんだ!」と罵ります。ですが、タケゾウその他の頑張りによって、村人たちは、「畜生!」と悔しげに言いながら、落ちそうな丸太を引き上げようと力を合わせるのです。このくだりは泣きます。短い映画ですから、別にここで長々と引っ張ることはありません。ですがその分、ぎゅっと凝縮しているのです。

 ドラミちゃんの立ち位置がまたいいんです。スネ丸親子を助けようとするのび平を、じっと見守っているのです。何もしようとせず、彼を見つめて宙に浮かんでいるのです。このワンカットを放り込んだからこそ、余計にのび平の頑張りが胸を打ちます。ここにあのワンカットを放り込んでくる原恵一に脱帽です。あのワンカットはすごく大事なのです。

 今、DVDを借りようとすると、『ドラえもんズ』と『のびたの結婚前夜』という短編とワンセットになっています。『結婚前夜』を褒める人がいるのもわかるんですが、いやいや、このドラミちゃんのほうでしょう。まさしく隠れた名作。忘れていた名作。と、あまりハードルを上げても仕方ないんですが、ドラミちゃんやしずかちゃんに恋した記憶があるのなら、観ておいて間違いないでしょう。
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死というものがちっとも見えてこないのが致命的。死がないのに生を語られても。
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 原題『My Life Without Me』
 たまには「邦題が10文字以上映画」を観なくちゃな、ジャンルが結構偏っているからな、何かというと殺人、ドンパチ、おぱーいばかりを愛でるからな、というわけで観てみました。

 邦題通り、余命数ヶ月を言い渡された若い女性がどう生きるかを描いた作品です。余命ものというのはセカチューの大ヒットにより、日本でも陸続とつくられるようになりました。死というのはすべての人間に関わりを持つテーマですし、結末は決まっているし、感動を誘いやすいモチーフだと思われがちです。タイムリミットものと爆弾ものの両方の側面を備えてもいるため、エンターテイメント的語りもしやすい。でも、実はいちばん難しいジャンルだと思いますね。どうしても絵空事感が強くなるんです。本当に真剣につくらないと、あるいはすごく巧みにつくらないと、むしろ描かれていることの軽さばかりが先に立つ。痛みをもたらさない。本作に感じた印象はつまりそういうものでした。

 類似ジャンルで「記憶消失もの」があります。だんだんと記憶が消えていく、というのも、余命ものと似た性質があるので、たくさんつくられるようになりました。余命ものではぐっと来るものに出会ったことがないんですが、記憶消失ものでいうと、小説『アルジャーノンに花束を』が忘れられません。今までに読んだ小説の中でかなりベスト級で、あれはめちゃくちゃうまい。忘れていくにつれだんだんと記録の文章が拙くなっていくところなんて、あっぱれです。訳文がとてもよくはまっています。死に向かう過程での自意識ではなく、自意識そのものが消えていく過程。自意識を描くのではなく、「描かれないということ」それ自体。映像作品は観ていません。どうせ勝てるわけがないでしょうから。あの小説に打ち震えた記憶があると、どうしてもこの手の作品には辛くなってしまいます。

 余命ものとは少し違いますが、『ザ・フライ』も実は構造的には同じなんです。やばくなっていくのが目で見てはっきりとわかるし、遠からずどうしようもなくなるのも予見できる。その末にああいう結末を持ってきた点が作劇上素晴らしく、強いてあげれば、余命ものの傑作は『ザ・フライ』ということになるでしょうか。

 さて、映画の話に入ります。観てわりと早い段階で、「下手な感じ」を受けます。具体的にどこで感じたかというと、動きのない会話の場面で、妙に人の顔を寄りで映し、話者の顔に忙しくカメラを動かすところ。登場人物の人間性を伝える際、その人の所作や行動ではなく、延々と過去を語らせてしまうところ。非演劇的所作を避けようとした分、むしろその演劇性が強まって見える恥ずかしいところ(涙を流す絶妙のタイミングったら!)。あとは最初に主人公が異変を起こし、倒れる際の一連の編集とカメラワーク。全体が見えていない感じ。安定感がない感じ。「映画ってこういう風にやるんだよね」みたいな感じ。ここはこう撮る! という明確な意思を見いだせない感じ。

 どうしたいねん! と思わずにはいられないのは、ぼくの人間性ゆえでしょうか。
 映画の中身でも、「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書くのですが(このレストランのシーンの「くさい演劇性」は反面教師になる)、その中に「夫以外の男と遊ぶ」みたいなことを書いているんです。で、実際に他の男とチュッチュするのです。

 わからない! ぼくにはてんでわからない!
 この女(『バロン』を支えたサラ・ポーリーとは気づきませんでした)は家族がいて夫とも仲良くやっているのですが、どうして他の男と遊ぶのかよくわからない! この女は17で妊娠し、要は他の男をあまり知らないというわけなんでしょうが、だとしても死が間近になって、他の男と遊びたいと思うものなのでしょうか。この手の映画ってやっぱり、主人公にある程度感情移入して観るものだと思うのですが、さっぱりこの女の考えがぼくにはわからないんです。死ぬ瞬間になって、夫に対し、「自分が愛したのはあなただけだよ」と強く言えないことになると思うんですが、それはいいのでしょうか。「あたしはあんたしか男を知らない。でも、ただ一人知っている男があんたで、よかったと思うわさ」となっていたなら、くーっ! だったのに。夫は妻の死の宣告を知らずにいて、「なんだい、変なこと言うなあ」みたいになっていれば、くーっ! だったのに。なんかよくわかんねえ男とチュッチュしているんです。

 いや、わかるんですよ。自分と同じ名前の隣人が引っ越してきて、仲良くなって、ああ、彼女と家族が仲良くやってくれたらいいなあと眺める様なんかは、いいと思うんです。自分があまり夫を縛り付けないようにしよう、そうしないと自分の死後も生きていく彼を呪縛してしまうから、という、いわば反『ゴースト』的姿勢はある意味正しいと思うんです。でもさ、だからといってさ、他の男とチュッチュするのはよくわからないんですよ。それにさ、それにさ、それだとするとさ。

 引っかかるのは、車の中でメッセージを吹き込んだりする場面ですよ。あの辺のなんていうか、リストカッター的なイタさを感じさせるくだり。うわ、結局自意識にまみれてるやん、呪縛しようとしてるやんと思わされます。隣人と仲良くやって、何なら次の家族像を結んでほしいとまで願うのなら、あんなメッセージを吹き込んじゃ駄目だよ。あの辺がちょっとリストカッターっぽいんです。深刻ぶっている感じに見えるんです。綺麗にしようとしている感じなんです。その人にとっての死が、ぜんぜんリアルに見えてこないんです。

 いちばんこの映画で辛いなあと思うのは、「あーっ、嫌だ! 死にたくない! 死にたくないんだよ!」という生への執着が、ほんのひとかけらも見いだせないところです。無様でいいし、不細工でいいから、死にたくないっていうあがきを見せてほしいんです。そうしないと、死と対比される生が見えてこず、ゆえに死を問題視しえないんです。
「なんか、あたし死ぬみたいだし、できること、やっておこう」みたいな。
あのさあ、そんなやつにつきあっていられないよ! 格好付けてるのか? 何なんだ?
とにかく全編を通じて、この人にとっての死というものがちっとも見えてこないのが致命的。園子温の『ちゃんと伝える』も同じようなものでした。死が見えてこないのに、生を語られても。それなら逆に、「死ぬと言われたけどちっともリアルに感じられないよ」というその精神が伝わってくるかと言えば、否。だから全部、絵空事。全体的に、女性監督的な甘さが漂ってならない。

 アマゾンなんかじゃ褒めている人が多いみたいなんですけどね。これを褒めるかー。
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過去にびりびり触れる。でも、ぼくにわかろうはずもない。
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19世紀のロンドン。生まれつき奇形で醜悪な外見により「エレファント・マン」として見世物小屋に立たされていた青年、ジョン・メリック(ジョン・ハート)。肥大した頭蓋骨は額から突き出、体の至るところに腫瘍があり、歪んだ唇からは明瞭な発音はされず、歩行も杖が無ければ困難という悲惨な状態だった。

ある日彼を見世物小屋で見かけた外科医、フレデリック・トリーブス(アンソニー・ホプキンス)は興味を覚え、研究したいという理由で持ち主のバイツ(フレディ・ジョーンズ)から引き取り、病院の屋根裏部屋で彼の様子を見ることに。

はじめは白痴だと思われていたジョンだったが、やがてトリーブスはジョンが聖書を熱心に読み、芸術を愛する美しい心の持ち主だということに気付く。当初は他人に対し怯えたような素振りを見せるジョンだったが、トリーブスや舞台女優のケンドール婦人(アン・バンクロフト)と接するうちに心を開いていく。

 これまでに観たことのあるリンチ作品は観た順に言うと、『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』『ブルーベルベット』『イレイザーヘッド』。正直、どれも好きではないんです。どれも監督の代表作と言われるものでありますから、ああ、ぼくにはリンチは合わないなこれは、と決めていたんですけれど、本作『エレファント・マン』に関しては別です。これはとても素晴らしかったです。

 実在した男性、ジョゼフ・メリックの伝記映画なのですが、彼は大変な奇形なのです。それゆえまともな職に就くこともできず、見せ物小屋に出されてひどい生活をしていたわけです。そんな彼が医師と出会い、人生を踏み出していくことになるのです。

 白黒映画であり、音楽演出、カット割り、舞台設定などもかなり古風に仕上がっています。1980年の映画ですが、50年代の映画だと言われても違和感がありません。とても素朴に物語っているのであり、妙なてらいはなく、ジョゼフ・メリックという人をきちんと描こうとした点、とても好感が持てます。

 今でこそ障害者という人々への理解なり何なりが広まっているし、人種差別なども昔に比べれば弱まっているのでしょう。しかし19世紀となると、今ほどの寛容さはなかったと思われ、このメリック(そして同様の奇形者たち)の人生がいかほどのものであったか、想像すらできません。黒人差別がひどいとか、人種差別がひどいとかっていう問題はあるし、それも確かに大変な刻苦なんですけれど、そういう場合はそれでもまだ、その中で共同体を築けるというか、傍に同じ境遇の人間を置くことはできる。思うことはできる。でも、彼のような人間は、そうじゃないですからね。街を歩くだけで奇異の目を向けられるし、それどころかまともに動くこともままならない。そうした人々への気持ちというのはちょっと、うまく言葉にできないです。

 ぼくが小学校の頃、通学路で、奇形の人とたまにすれ違うことがありました。その人はおそらく中年の女性で、いつも自転車に乗っていたのですが、顔の半分が腫れて爛れていたのです。ぼくは彼女を恐れました。彼女の顔を見て、いつも目をそらし、その顔の残像に怖気だっていたのです。あるときぼくが自転車に乗っていると、その人の自転車とぶつかってしまいました。大した衝突ではなかったのですが、ぼくは相手が彼女だということに気づいており、顔も見られず謝りもできず、そのまま逃げ出してしまいました。

 彼女が何をしたわけでもないのに、ぼくは彼女を恐れていたのです。奇形であるという、ただそれだけの理由で。

 顔、という対人関係におけるきわめて重要なファクター。
 ぼくには悲しい記憶があります。
中学二年の頃に鼻の頭に大きなできものができました。それは小豆大に赤く腫れ上がり、半分爛れたような状態でした。思春期ににきびができるのは誰しも経験することですが、それはにきびとも別種の、まるで原因不明の爛れでした。これは高校に上がってもなかなか治ることはなく、それどころか他の部分にもにきびが増えたりして、もうぼくは誰とも話したくありませんでした。高校生の男子、多感な年頃、好きな女の子にそんな顔を見られるのは、望ましいわけがないじゃありませんか。だからぼくは好きな女の子が優しく話しかけてくれても、まともに返事もせずに、相手を傷つけてしまったりしたのです。ぼくはそのときのことを謝るまで、ずっと後悔し続けるだろうと思います、たとえ相手が完全に忘れていたとしても。今思い返すに、あの頃ぼくのお肌がつるつるであったなら、きっと違う性格になっていただろうと思います。

 だからぼくはイケメン野郎が「人間関係とは~」などと言うのを聞くと、虫酸が走るのです。おまえね、ちょっと廊下を歩くだけでね、キモイキモイと囁かれてきた人間の気持ちがわかるか? 教室の自分の机にいるだけなのに、女子数名がなんか後ろでごちょごちょやっていて、何かなと思えば、ぼくのほうに向かって一人が友達の体を押し、押された友達がそれを嫌がって身をよじる。その様を見たことがあるか? 廊下を歩けば「彼ってば格好いいよねー」的な目線を向けられて生きてきた野郎は、そういう経験を素通りして生きているんです。奇形の人々をあくまで客観しかできない。主観的な被差別体験がない。それですくすく育つのはてめえの勝手だよ。だけどてめえみてえな野郎が、人間関係だのコンプレックスだの生き方だのについて語ってんじゃねえよ。

 映画から遠く離れた。いや、でも、『エレファント・マン』については、ぼくの場合は、結構引きつけて見てしまうところがあります。

 恥さらしついでにもうひとつ披瀝すると、ぼくの弟は重度の知的障害者で、言語を解することができません。身体はぼくより健康なくらいですが、時折かんしゃくを起こして泣きわめくことがあります。そうなるとしばらく手が付けられなくなるのです。小中学校の頃、家族旅行に行った先で、泣きわめくことがありました。あるレストランに入ったとき、どうにも手が付けられず、両親が彼を連れ立ってトイレに入りました。ぼくは食堂に留まっていたのですが、ウエイトレスのバイトの女子高生は「何なのあれ」「こわーい」みたいなことを言っていました。そこには蔑みの口調があったのでした。断じて、「障害者の人だから仕方がない」というような声色は、なかったのでした。

 ぼくにとってはたくさんの記憶を巡らせる映画でした。差別は良くないとか、蔑まれたほうの気持ちになれとかは言いません。ぼくだって奇形の人を恐れた記憶があるのです。ただ、彼がそれでも生きていようとしたのだ、ということについて、なんとも表しようのない気持ちになるのです。劇中、彼が医者の奥さんに話しかけられたとき、「こんな綺麗な人に優しくしてもらったのは初めてだ」と泣く場面があります。ただそれだけのことが、彼にとっては大変な感動だったのです。興味本位で人々にもてあそばれ、追い詰められ、「ぼくは人間だ!」と叫ぶ場面。それを、大声で言わないと生きていけない人生。やっぱり、ぼくには想像さえもできないのです。

 かなりがつんと来る映画でした。多言すればかなりナイーブな領域に踏みいりそうなので、今日はこの辺にするよ。
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ゴールディちゃんの大変な勇み足ぶり。
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原題『Sugarland Express』
 スピルバーグの長編劇場用作品デビュー作は実は『激突!』ではなく、こちらのようです。ぼくは『激突!』がデビュー作だと思っていました。世間の映画好きにもそういう人は多いのではないでしょうか。『激突!』はもともとテレビ用だったのであり、純粋な劇場用映画はこちらがデビューなのです。ちょっとしたうんちくにしましょう。

さて、「続」がついていますが、ぜんぜん関係ないです。原題もまるで違うし。これならば単に『カージャック!』とかいう邦題にしてもよかったんじゃないでしょうか。公開当時の客入れのために、間違ったようなタイトルが何十年も引きずられています。

 物語はと言うと、二人の若い夫婦が自分の子供を連れ戻すために警官を人質にし、パトカーで子供のいる土地へ突き進んでいく話です。この夫婦は刑務所に入っていたため、子供が里親に引き取られてしまったのでした。妻は釈放されていたのですが、夫はまだ収監中で、もう待ちきれないわよ! ということで彼を脱走させ、逃避行をするのです。

 1969年の実話をベースにしているらしく、若夫婦の感じもあからさまにボニーアンドクライドに似ていて、アメリカン・ニューシネマの中に位置づけてよい作品だと思います。スピルバーグという人は言うまでもない世界トップの映画監督ですが、この時点で映画の申し子としての才覚を露わにしています。なぜなら彼は本作でそれまで大流行していたアメリカン・ニューシネマ作品を作り上げ、次作『JAWS』でその流れを断ち切りにかかるのです。

アメリカ映画の大きな転換を象徴する映画は、70年代半ば、一年ごとに公開されています。75年の『JAWS』、76年の『ロッキー』、そして77年の『スターウォーズ』。反抗の美学、敗北の美学に依っていたアメリカン・ニューシネマの流れは、この三作によってはっきりと断ち切られました。

 閑話休題。『続・激突! カージャック』。ボニーアンドクライドのボニーに当たるのがルー・ジーン・ポプキン、演じたのはゴールディ・ホーンという人です。この人がグンバツにかわゆい、というのはきわめて重要な要素でした。この人がかわゆいので許せてしまうのです。追跡していた警部もめろめろになるのです。ヒロインは美女が演じてなんぼ、というのが映画の常道ですが、この手の作品は特にそうです。この役ははっきり言ってブスでは成立しないのです。この役がブスであったら、もう最悪の調子乗りの大迷惑勘違い女です。『マーダーライドショー2』もこれに同じです。ゴールディさんは安達祐実に似ています(ぜんぜん関係ないけど、安達祐実は園子温映画に出たらかなりはまると思います)。このゴールディ・ホーンの魅力でこの映画の株はかなり上がっています。なおかつ面白いのは、商品を買うともらえるサービスポイントの券みたいなのを大量に抱えているところです。警察に追われてえらい状況、銃乱射の現場にいるときでさえ、彼女は大量のサービス券を抱えているのです。とてもキュートです。

 1969年という時勢柄でしょうか、彼らは一種のヒーローとして注目されます。街の人は逃亡犯の彼らを応援しているのです。ボニーアンドクライドの時代から30年以上が経過したこのとき、再び同じような構造が生まれたのは興味深いところです。もうひとつ連想するのはサム・ペキンパーの『コンボイ』(1978)。あのテイストにかなり似ています。車が大行進するのも、支援者が大量に出てくるのも同じです。どうもアメリカの人たちは、みんなで応援するぞ! みたいなモードになりやすいたちのようですね。こういうのは日本映画で見かけることがありません。日本映画との違いで言うと、アメリカはやっぱり、国土がでかいのが強みですねえ。『カージャック』は夕焼けや朝焼けが非常に印象的なんですが、荒野に夕焼け、というのは古く西部劇時代からの映画的背景。日本はせいぜい海の朝焼け、夕焼けくらいしかないですからねえ。

 映画の話からそれるいつものパターン。
 最終的に、夫婦は子供のところにたどり着くのですが、まあうまくは行かないわけです。 ただ、観ながら思うのは、彼らが取り戻そうとしていた子供が結局取り戻されなくて、それはそれでよかったんじゃないか、ということです。はっきり言ってこのゴールディ・ホーンは母親として相当未熟だろうということが予想されるのであり、あの品の良い老夫婦と一緒に暮らしたほうが、一応は幸せに暮らせるだろうな、と思わされます。ゴールディ・ホーンとウィリアム・アザートンの夫婦は、仮に子供を取り戻しても、かなりの高確率で馬鹿親になる可能性が高かったように思います。なおかつ取り戻したところで結局は刑務所に戻されてしまうだろうし、そう考えると彼らが失敗してひとまずはよかったんじゃないか、と思ってしまうところもある。ぼくの中の、「良識」。

 全体としては、この映画を一言で言うと、「ゴールディちゃんの勇み足」なのです。刑期があと数ヶ月で終わっていたのだから、それからじっくり取り戻せばいいのだし、そうしないと結局は何もかもうまくいかないことは最初から明白だったはずなのです。よくよく考えてみればこのゴールディちゃんは最悪な女なのですが、そういう最悪なやつにも熱いものを観るのが映画なのです。「良識」というのは往々にして、無関係な人間が安全な場所で知ったような口を聞くことなのであり、当の本人にしてみれば、「そう言われたって黙っちゃいられないのよ!」という気持ちがあるわけです。「狂う」というのはある意味で、「客観の放棄」です。でも、客観を捨てた主観まっしぐらの人間にのみ宿る熱さがあるのであって、それはぼくの大好物でもあるのです。 
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いいところはいっぱいあるんですけれど。
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増村作品の中でも名作のひとつとされる本作。日中戦争の従軍看護婦が主人公で、若尾文子を愛でるにはこれまた佳い作品です。前半、野戦病院の凄惨な描写が続きまして、これなどはそのすごみを増すうえでモノクロがとても有効でした。増村作品はカラーのほうが好みなのですが、本作に関しては例外です。というのも、白黒場面から発される血の迫力が、カラーで描かれるそれよりも真に迫ったものに思えたからです。

 なるほどぼくはここにひとつの発見を見ました。血の描写というのは、おそらくモノクロのほうがいいのです。カラーだとどうしても血糊感が出てくるのですが、モノクロだとそうはならない。むしろ黒く表されるその色が、とても恐いものに思えてくるのです。本作では治療の手立てのない患者が、次々と手足を切断されていきます。この切断した手足なども、カラーだとどうしてもつくりものめいて見える。ところがモノクロはその難を回避できるわけで、ここは大いに作戦勝ちです。このシーンはぞくぞくしながら観ていました。だからスプラッターものなんかも、あえてモノクロで撮ったほうが、もしかしたらいいものが生まれるかもしれません。

 ただ、全体を通して言うと、この前半部の迫力がいちばんで、後半にさしかかって行くにつれ、それほどの感興を得られなくなりました。前半のド迫力で結構ハードルをあげてしまった気もします。個人的には、あのトーンを持続できていれば、という作品のひとつなんです。

 と言いつつも、物語的な美点も観られます。若尾文子扮する看護婦は、川津祐介演ずる負傷兵の看護に当たります。彼は両腕を切断しており、満足に下の世話もできず、そうなると性欲の処理もできないのです。若尾は彼の欲求を満たしてやり、献身的な奉仕を行うのですが、その後川津は自殺してしまいます。「あなた以上の女性にはもう会えないだろう」と遺書を残して死んでしまいます。ここなどは宮台が言うところの「痛み」を覚えさせます。相手の幸福に奉仕したことによって、その人は死んでしまったのではないか。もしも相手に優しく接していなければ、彼は違う人生の経過をたどっていたのではないか。もしかしたらどこかで別の幸福を得る場面もあったのではないか。善行が死を生みだすのではないか、という人生に普遍の議題が、ここに描かれるのです。

 などと言いつつも、この映画をさして褒められないのは、その後の展開にこのくだりが活かされてこないからです。若尾看護婦は芦田伸介演ずる軍医と恋仲になります。芦田はモルヒネの依存症に陥りインポになっていますが、彼女の頑張りによってモルヒネを断ち切り、インポも治してしまうのです! いや、確かに、美点はあります。待ったなしの死地に置かれた男が、モルヒネの依存症を立ちきろうと、インポからの復活を遂げようとすること。死が目前に迫る人間が、生を得ようとすること。これは悲哀を感じさせる展開なのです。でも、でもでも、そういうのがあんまり活かされていない!

 若尾文子が結構ベタに、芦田を愛してしまっているんです。こういうのは、「モテへん組合池袋支部・部長」のぼくなどには、けっ、という感覚を抱かせます。敵がやってくるぞ、もう駄目かも知れないぞ、という日の前夜。他の兵士たちが夜の闇に身を伏せて、じっと虚空を睨んでいます。そのとき、若尾と芦田は何をしているかというと、あろうことかコスプレごっこをしているのです! 珍シーン!

 若尾が芦田の上官の真似をして軍服を着、「靴を履かせなさい」とか何とかやっているのです。なんだそりゃ! 川津が浮かばれねえよ! 考えてみれば、命がけで飛び交う弾を避けて生きてきた他の兵士たちが、性欲を満たしたい一心でレイプに走って罵倒されているってのに、この芦田はおいそれと若尾の愛をゲットし、インポまで治してもらっていやがる! あげくに他の兵士が外で「恐いなあ、恐いなあ」と思いながら待機しているのに、こいつらはイメクラプレイをしていやがる!

 この辺がぼくなどにはどうも首をひねるところなのです。あのコスプレが何なのかぼくにはよくわかりません。誰か賢い人に教えてほしいです。いや、あるいは、だから、前半級のどぎつい場面がたくさんあって、全体がある種のドラッグムービー的な迫力に充ち満ちていればあの場面も、強烈なドラッグ描写になっていたのかもしれず、そうなればあの場面に狂気が宿り、なんかすげえものを観た、という気分になっていたのかも知れないけれど、ぼくはせいぜい、「けっ、芦田センセがよろしくやっていやがる」という気分にしかならなかったのです。

 いろいろと惜しい作品だと思うのです。いいところもいっぱいあるんです。でも、いちばん描かれている部分に、何の悲哀もなかったと思うのですよ。
 変にだらだら書かずに、この辺で。
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おっさんとともに、若尾文子を愛でる。
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家にいることに罪悪感さえ抱かせるうららかデイ。デイズ。新文芸坐は朝の回から大盛況。この分だと午後の回なぞは超満員じゃないかってぐれえのもんで、ぼかあ嬉しいやね、映画を愛する人々がたくさんいてくれるのが嬉しいやね。考えるに新文芸坐は理想的な環境であって、この理想形態は何に似ているかというと新宿ゴールデン街だね。その心はつまり、「改良の余地なし」ってなところだね。もう何にも変えなくていいやね。強いていやあトイレが混み合うって問題があるから、小便を済ましてから行くべしだね。

 なんていうか無粋な衆を寄せ付けねえ「気韻」ってもんがあらあね。いたずらに浮かれた心持ちじゃなくって、自分は映画を観るためにここに来たのだぞ、という明確な意思を感じるんだあね。自分はこの映画作品ときちんと向き合うぞ、という気位を感じてやまないやね。映画を観ている間も隣のラブちゃんと浮かれ気分でいるようなやつはシネコンに行くからね。一人で映画を観に来ているおっさんがほとんどだったね。宇多丸いわく、「映画館はおっさんとのデート」。おっさんと一緒に、若尾文子を愛でる。

 と、いうわけで『刺青』です。併映は『卍』でしたが、あの映画に対するぼくの評言は過去ログの通りでして、観ずに帰りました。『青空娘』のミヤコ蝶々の関西弁は美しすぎたし、『巨人と玩具』の企画部長か何かのおっさんの関西弁もリズミカルで抜群。その魅力を知っているはずの増村が、どうしてあんな調子の関西弁で『卍』を撮っちゃうのさ!

 と、いうわけで『刺青』です。若尾文子姐さんがついにターボをかけてくれました。連休中今日までの作品ではそこまではっちゃけることのなかった姐さんでしたが、今回は増村演出と非常に良くかみ合い、色気と業の入り交じる破滅的な女を演じてくれました。

増村保造×谷崎潤一郎の組み合わせは今回の『刺青』、『卍』、『痴人の愛』の三作ですが、その中で言えばダントツにいいです。というか、あとの二作が正直よくないです。『痴人の愛』という長編を短くまとめたのと反対に、今回は短編の『刺青』に大胆な脚色をくわえ、それどころか話を大きく変えて広げ、不足のない語りを実現しております。

谷崎の『刺青』を原作にしている、と聞いて、「はて? 映画になるほど長い話だったっけ。っていうか女に彫り物をして、わあ素晴らしい出来だ、はぁはぁ、みたいな感じじゃなかったっけ」と思っていたのですが、破滅的な色恋沙汰をそこに組み入れ、熱い話にしておりました。

 殺し合いの場面が幾度も出てくるのに驚きました。若尾文子をめぐる殺し合いが交わされ、格闘シーンがたくさん出てきます。ただ、増村は実は暴力表現がそこまで得意じゃない監督であろうな、と思います。石井輝男とか深作欣二などと比べてみると、増村の暴力表現にはあまり白熱がない。この人の狂気のおいしさはそこじゃねえんだな、とは思いました。

 ではどこなのか、というと、この映画のおいしさはつまるところ若尾文子のファム・ファタール感と、そしてあのラストシーンにあるんですな、ええ。ずっと連れ添ってきた弱気な男と対峙する場面がいいんですね。そして最後がいいんですね。観ていない人にも一応配慮して、詳しい展開は述べませんけれども、あのシーンの構図的、色彩的豊かさが、増村監督の魅力なのです。

うーん、でもねえ、でもでもでも、ここにおいてぼくはやはり『盲獣』と『巨人と玩具』の二作が素晴らしいってことを思ってしまうんですね。はっきり言ってあの二作品はもう完璧! 増村のすごいのは、ぜんぜんまったく違う二作品でそれぞれに別の熱を生み出しているところ。あれらと比べれば今回の『刺青』にはもったいなさも感じる。『巨人と玩具』的なハイパースピードを今回の時代劇に組み入れていればどうだったか。今回のあの女郎蜘蛛の刺青、あれを何度も映す演出は『盲獣』的身体性に通じたはずで、つまりは『巨人と玩具』と『盲獣』のちょうど中間をなすような狂気がもっと生まれ得たように思う。すればあのラストは谷崎の原作をはるかに超えるものであったろうに、という感じは否めないのであり、ちょっともったいない、結構もったいない。

でもそれは『巨人と玩具』『盲獣』を観てあまりにもハイハードルになっているからそう思うだけであろうし、何より当時まだ増村は『盲獣』を撮っていないのだから、こういうのは遠く時代を経た後のぼくが勝手に思っているだけの話である。本作は十分に見応えのある作品と言って差し支えなかろうし、繰り返しになるけれど若尾文子を愛でたい人の期待には十分応えてくれる逸品である。

 と、いつの間にか敬語を忘れていました。いや、濃度のある作品なのでね、増村作品の中では上位のものとして間違いないとは思います。年間に三本も四本も撮っている中でこれだけのものを残すってのはとてもすごいことなんです。増村監督は本当にすごい監督なのです。なんか今日もどうまとめていいかわかんねえやシリーズ。

 ぜんっぜん関係ないけど、BSでのひろゆきと勝間の対談が面白かった。勝間って人が長くしゃべっているのを初めて観たんですけど、要はこの人は、狭い範囲のことしか仮想できないまま、「あたしが正しいのよ! あたしは理路整然と話しているのよ!」と大声で言う人。だから江原とか細木に代わるばばあどもの偶像になる。
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