「ほっ」と。キャンペーン

<   2010年 06月 ( 7 )   > この月の画像一覧

これをよしとするのは、どこまでもロメロを擁護できる人だけ。
d0151584_20665.jpg

 新作の『サバイバル・オブ・ザ・デッド』を観に行こうかと思い、そういや前作を観ていなかったと気づき、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』。ここまでのロメロ監督ゾンビ作品は全部観たんですけれども、ぼくはこの人の作品がそれほど好きではないんです。「ゾンビと言えばロメロ」みたいに言われまして、確かに『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で現代の映画的ゾンビ像をつくり出したのは見事だと思うのですが、それ以降ほとんどこの人のゾンビ像には、進展がないように思うのです。

 いや、だからこそ愛好する人もいるのでしょう。紋切り型の美学というか、お定まりの娯楽といいますか、そういうものの良さはわかります。特撮ヒーローものにせよ時代劇にせよ、形は決まっているのであって、それを崩す必要はないのであって、そうした意味でならロメロ的ゾンビもわかるんですが、今となってはもう時代遅れな感じがしてしまうんです。だからもう、ロメロって人はほとんど、お師匠的立場になっていると思うんです。歌で言うと、演歌界の大御所とか、もしくは矢沢永吉とかって、曲の斬新さやクオリティで褒められているんじゃなくて、「よっ、待ってました!」みたいな感じで、「とりあえず来てもらったことがあっぱれ」なんです。ロメロ監督にしてもそうだと思う。次はどんな表現で魅せてくれるのかという、多くの映画監督に対する期待とは違う。ロメロ先生が撮ったらしいからとりあえず行っておかなきゃ、という感じだと思う。宮崎駿の『ポニョ』みたいなものです。

 最新作を観ていないのでまだ言い切ることはできないんですが、ロメロゾンビはエドガー・ライトの『ショーン・オブ・ザ・デッド』で終止符を打たれたんじゃないかと思います。あの映画では、ロメロの紋切り型ゾンビを笑いに変えた。市街地をうろつくゾンビの間を、主人公たちがゾンビのふりをして乗り切るという、最高のアイロニーを決めた。あの時点で、古いロメロゾンビは、もう役割を終えているように思うんです。それでも紋切り型を愛するなら、別ですけど。

 さて、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』ですが、ことほどさようにロメロ師匠は自分の造形したゾンビを頑なに守り続ける。これを潔いと観るのが不変を尊ぶロメロファン。そうでないぼくは、つまらなく感じる。なぜロメロはゾンビに工夫を凝らそうとしないのでしょう。たとえばテレビゲームの『SIREN』に出てくるゾンビ(屍人)は、生きていた頃の記憶に基づいて、仕事をしていたりするんです。料理人だったゾンビは朦朧とした手つきで包丁を動かしていたり、警官だったゾンビは人間を犯人だと思って追いかけてきたり、子供のゾンビが家の中で勉強の真似をしていたりする。そういうところで、うわあ、生きていた人間がこうなってしまったのかあという生々しさが演出される。ロメロに限らず映画ではそういう工夫っていくらでも凝らせる。仕事をしているようだから話しかけてみたらゾンビだったとか、そういう驚きはいくらでもできる。でもそういうことはしない。
それにロメロのゾンビはくさそうじゃない。死んでいるのだから腐敗臭が漂っていてよさそうなのにそういうのはない。ゾンビに限らず映画では散々クリーチャー表現が生まれてきたのだから、それらを参考にすればいいのに、いつまでもお決まりのメイクでとろとろ歩かせているだけ。

 『ランド・オブ・ザ・デッド』はまだ、おっと思わせるところがありました。黒人のゾンビが銃を持ち、人間の世界に攻め入ってやろうとするところはそれまでのロメロゾンビにはなかった。でも、今回はその辺の工夫もない。またも逆戻りのクラシック。

『ダイアリー~』の特色は、『食人族』『ブレアウィッチ・プロジェクト』よろしきハンディカムスタイルなんですが、疑似ドキュメンタリー的な質感は皆無。普通のカメラで撮っているのと同じ映像感だから、手持ち独特の荒さもない。この映画が今までと最も違うのはそこであるはずなのに、そのハンディカムスタイルのうまみを何も活かせていない。というか、前々から思っていたのですが、ロメロという人はそれほど映像作家としては優れていない。この人の功績はその意味で、あのゾンビ像をつくったというその一点に尽きるように思うのです。その財産でずっと食っている感じがする。これなら『REC』のほうが全然マシ。

 エドガー・ライトとかロブ・ゾンビとか、あるいは日本なら白石晃士とか、2000年代に入ってからスプラッタ表現、ダーク表現の担い手がどんどん出てきています。最新作を観ようか観るまでもないか迷い始めているのですが、ロメロももはや70歳で、斬新な表現を期待するぼくのほうがきっと間違っているんでしょう。金曜ロードショーのスティーブン・セガールを観るような気分で、「いつものやつ」を期待すればいいわけです。
[PR]
威力と魅力がいかんせん不発。
d0151584_23291188.jpg

 池袋東急。ワンスクリーン単発興業でかなり細々とやっている印象の映画館。
 北野作品は最近の三作を観ていません。評判があれだったりするので、別の映画を観ているとどうしても優先順位がいつまでも下なのです。北野作品でいちばん好きなのは『3-4×10月』で、映画界で高評価の『ソナチネ』『HANABI』に対する感度はかなり低いです。『あの夏、いちばん静かな海』なんかもそうなんですが、静かな北野映画って、一度「退屈だなあ」と感ずるともう残りの時間がひたすら退屈になるんです。いわゆるキタニストには評判が良くないかもしれないけれど、ぼくとしては『BROTHER』や『座頭市』が好きなのです。エンターテインメントに寄ってほしいのです。

 さて、『アウトレイジ』は『BROTHER』以来のヤクザたけし登場映画です。組織内のいざこざが激化していくお話です。ヤクザ映画一般について、ぼくはさほど詳しくありませんので、これがヤクザ映画としてどうなのかという比較談義はなかなかできないのですけれども、こういう映画では「台詞のドス」が快楽の決め手になってくると思います。

 脅し、威嚇の台詞が怖いと、そのヤクザ映画はきっと優れたものになると思います。観ているほうまでをうわあ怖いなあとびびらせてしまうものなら、観客を引き込めていると思うのです。ただその種の表現というのは何でもかんでも怒鳴ればいいというものでもなく、やっぱり細かい演出なり役者の技量なりが必要になる。

 小説でもそうなんです。多くの小説でも登場人物が罵声を飛ばしたりする場面がありますが、下手にやると言葉が空虚になる。響きが空回りする。たとえば小説の場合、「てめー何すんだこら」と書いたって、何の迫力も生まれない。特に日本語の場合、平仮名は優しい印象を与えるので、「こら」という表記は全然現実の響きをトレースできない。じゃあ片仮名で「コラ」と書けばいいかというとそう単純ではなく、地の文でいかに雰囲気や流れを固めるか、いかに言い回しに工夫を凝らすかが勝負になる。ちなみに、そういう用意も何もなく「てめー何すんだこら」と書いたのは『蛇にピアス』。それでいいのかよ、純文学ってのはよ。純文学こそ、それを許すなよ。

 愚痴に傾き掛けたところで話を戻すと、「台詞のドス」が出来不出来の指標となるヤクザ映画において、『アウトレイジ』はかなり微妙なラインでありました。役者の迫力、という部分で言えば、どうにも不気味さ、底知れなさが足りぬという思いでした。北野武の怖さはあるにせよ、他の役者、椎名桔平や杉本哲太などのドスが、どうにも不発な印象を受けたのであり、三浦友和に至ってはむしろどうしても彼のいい人っぽさが先に出てしまい、ああ、こいつは怖いぞ、何をしでかすかわからないぞ、という狂気が滲んでこなかったように見受けました。

とはいえ、「台詞のドス」に関しては、別に怖いことやびびらせることがすべてではありません。たとえ怖くなくても、「いい啖呵」を切れていれば、映画的な快楽が生まれうるのです。たとえば前回紹介した『片腕マシンガール』の八代みなせ、杉浦亜紗美、あるいは『愛のむきだし』の満島ひかり、もしくは『バトルロワイアル』における栗山千明など、最近の若手女優でも「いい啖呵」を切れる人は多いのです。ああいう啖呵を聞いた場合、たとえば内田裕也ならば「姉ちゃん、ロックじゃねえかシェキナベイベー」と賞賛することが予想されるのであり、では今回の『アウトレイジ』の啖呵はどうかというに、それほどロックな感じがしなかったのであります。雰囲気的には、今一歩の印象です。

 映画全体の演出としましては、饒舌でありながらも細かくカットを割っており、なおかつ互いにバストショットで台詞を交わす場面が非常に多く、前にも増して北野武は小津安二郎に近づきつつあるように思います。というか、ほとんど小津安二郎そのままと言ってもいいくらいの場面が散見されます。仮に笠智衆が存命でヤクザの大親分なんかをやっていたら、本当に小津作品に見えてくるくらいなのです。そうなると場面全体の熱量が醸成されることは難しく、役者の台詞にドスの負荷がかかってしまうのです。場面に熱量を生むためには、ある程度カットを割らず流れに任せた芝居が必要だと思うのです。でもこの映画では、カットを割って、よーいスタートでカチンコを鳴らし、直後罵声を放つ、という撮影法がおそらくは多用されている。これは難しいです。これでは台詞のドスを利かせるのはすごく難しいと思います。

 物語の流れで言うと、かなりベタベタというか、先の読める展開が随所に見られます。一人の男がぼったくりバーに連れて行かれ、金を出せと要求されます。彼は「事務所に行けば金がある」と店員を連れ出します。もうこの時点で、ああ、男はヤクザなのね、で、店員がびびらされるパターンなのね、とわかってしまいます。こういう部分には驚きが欲しいじゃないですか。ヤクザに見えない役者さんを選んではいるんですが、だからこそちょっとバレバレ過ぎて、ベタベタすぎる。

 他にも、ある一人の黒人がヤクザに絡め取られるくだりがあるんですが、あの「蛇」の場面はちょっといただけなかった。まるで数十年前に戻ったかのように古くさく、今にすればださいやり方。特に今回の加瀬亮の役どころを考えると、あれはまずい。加瀬亮に関しては、ああ、こいつだけは底知れねえ、という風合いを出せたし、出すべきだったのに、あの蛇のくだりはとても残念。やっつけにさえ見えました。黒人もねえ、拙い日本語で面白かったりするんですけど、どうももうひとつ活かし切れていないんです。ポリティカリーコレクトをあからさまに破った、最近の映画にしては過激な一言があるんですけど、ああいうのをもっともっと放り込んでよかったんじゃないですかね。ああいうのをたくさん放り込んだら、絶対この映画はもっと強くなっていたんです。

 暴力描写についてはどうかというと、ここは魅力的な、さすが北野バイオレンスという表現があって、まだまだ活けるぞという頼もしさを感じました。歯医者のくだりと國村準のくだりが出色で、あの辺のぞわぞわ感は貴重です。暴力描写には大きく分けて二つの醍醐味があります。一つには見せ物としての暴力描写。前回の『片腕マシンガール』もそうですが、ゾンビ、スプラッタなどアメリカ映画で大きく栄えました。もう一つは直接的な痛さ。ゼロ年代において韓国映画が筆頭となりました。2001年、キム・ギドクの『魚と寝る女』が印象深く、最近で言えば『チェイサー』のノミとカンナのくだり。本当に痛く、怖い描写。韓国映画で爆発したこの10年でしたが、北野バイオレンスは今でも日本の砦
となっているのがわかり、ここはとても頼もしいのでした。しかし、今回の映画についてはどうもお上品な場面も見受けられるのであり、少し不安でもあるのでした。

 総じて言うに、どうも活ききっていない要素が多い作品だとは思いました。すべての要素を活かすなんて土台無理な話ですが、ここも活かせるのに、ここを活かすならここはこうじゃなきゃいけないのに、と思わせられる部分が多々あったのでした。物語的にもよくわかりません。どうして北野武はああいう展開に巻き込まれたのか、どうにも必然性がない。北村の大親分がとち狂っちゃったようにしか思えなかった。ここはぼくの読解力不足かもしれません。誰か教えてください。後半はさながら『ゴッドファーザー』的な事態に陥っていくのですが、反面北野武の動きがしょぼしょぼーんな感じです。ああいうのがリアルで、美学なのかもしれないし、『グラントリノ』よろしく過去の自分を裏切って見せたかったのでしょうけれど、それにしても消化不良な感じです。

うーむ、うーん、うーむ。
[PR]
何でもありの果てまでも。
d0151584_991245.jpg

 自主規制していない表現、というのは観ていて気持ちのよいものです。やりたい放題の表現、というのは気持ちのよいものです。開き直っている表現、というのは気持ちのよいものです。無論そのすべてを肯定することはないにせよ、誰かの顔色を窺ったり、お口に合わせたりするものよりは、「これがおもろいんじゃい!」と声高に叫んでいるもののほうが、やっぱり最終的に強いと思います。本作はその演出において、テレビ局映画と同じ轍を踏みながらも、テレビ局映画が失敗したすべてを成功に変えている。大変な快作であるなあと恐れ入った次第であります。

 テレビ局映画が駄目と言われる理由は数多く、代表的なもので言えば「脚本がご都合主義的」だとか「ご都合主義どころか支離滅裂」とか「演出がださすぎる」とか枚挙に暇ないほどですけれども、この『片腕マシンガール』はそのすべてが当てはまります。そして、驚くことに本作は、その瑕疵のすべてを美点に変えてしまうのです。

 まさに爆笑と失笑の差異。本作は前者、テレビ局映画が後者。では、何がその差異を生み出すのでしょうか。

 ぱっと観てわかるところは、照明の妙です。この映画は照明が非常に上手で、画面全体にその場の雰囲気が漲っているのです。どうして『呪怨』はこれができないのでしょうか。この映画では照明が暗い場面があり、それゆえに部屋の隅の闇が滲んで見えてくる。登場人物が浮き上がらずに、暗い部屋の中に一人ぽつんといる雰囲気が醸成される。この映画はチープで、馬鹿らしくて、演出的にもださい。でも、その場面の設計がきちんとなされているために、単なる駄目映画とはまったく別の場所に位置しているのです。テレビ局映画は十中八九、画面を明るくしすぎるんです。鮮明にしすぎると言ってもいい。そのせいで余計に作り物めいてくる。映画全体を貫く雰囲気の点で、まったくの別物です。

 差異としてあげられる二点目は、ほとんど開き直っているかのように見える芝居です。映画における芝居の禁じ手として、「説明的な独り言」というのがあります。その人物が感じたこと、思ったことを台詞に出さず、いかに仕草や表情で見せるか、そこで演技力は問われてくるのであり、脚本のうまさが問われます。自分がどう思っているかを説明的に呟くなんて、普通はあり得ないわけで、これを喋らせてしまうのはださいわけです。登場人物の内側から漏れた言葉でなく、物語説明としての台詞だとばれるからです。しかしこの映画は、その禁じ手をばんばん破ってきます。テレビ局映画がそれを禁じ手だとも知らずに(あるいは観客の読解力を見くびって)説明し、失笑を買うのに対し、この映画ではそれが爆笑に変わる。どうしてか。理由は簡単。この映画が細かい演技どころではない、とんでもない展開を用意しているからです。変に抑えた演技は、むしろ要らないのです。増村映画のごとく饒舌に語らせることによって、この世界そのもののぶっとび感を強めているのです。ぶっ飛んだ世界でリアルな演技はむしろ変です。ぶっ飛んだ世界なら、ぶっ飛んだ演技を。言ってみればすべてが禁じ手とも言えるこの映画では、細かい定石など、意味をなしません。主人公の友達がいるのですが、ぼくはこれまで、あれほどに記号的な友達を観たことがありません。でも、いいんです。ぜんっぜん問題ない。
 教訓。下手なリアリティに囚われて停滞するくらいなら、むしろ饒舌にぶっ飛ばせ。これは増村保造の教えでもあります。

 最も重要な差異は、冒頭に述べたことです。映画にとって重要な熱量、それは規制や配慮、遠慮や逡巡をかなぐり捨てたときに発生するのです。「馬鹿だと思われるんじゃないか」「ださいんじゃないか」「嫌われるんじゃないか」という自主規制を一切せず、「これがおもろい!」とマジで信じている。「ここで血がぷしゅーって出たら面白いぞ」「ここでぐちゃぐちゃにするとすんごいグロテスクだぞ」というほとんど幼児的とさえ言える演出を、ためらいなく仕掛けてくる。これはねえ、『第9地区』に通ずる熱さなんです。あの映画だって、冷静に観ればおかしいような・・・という点はあります。でも、いいですか、「冷静に観る」必要なんて、ないんだよ。理屈抜きに面白いものは、それでいいの。もちろん、その面白さの分析をすることは有意ですよ。どうしてこんなに面白いのかってことは分析したくなる。それを突き詰めているのがピクサーだし、ピクサーの面白さには全面的に敬服する。でも、ああいう計算され尽くした面白さとは違う、「馬鹿」と呼ぶのが最も適切な面白さはあるのであって、それは規制や逡巡をものともしない熱量ゆえに生まれるのであって、最終的にぼくはそういうものを支持します。テレビ局には、計算もなけりゃ熱量もない。あるのは金勘定のそろばんだけです。まったく次元が違います。

 今日の書き方だと内容がまったく伝わらないのですが、まあ下手なネタバレをしないほうがいいでしょう。驚きの連続を味わっていただきたいものです。主演の八代みなせが素晴らしいです。増村保造映画の渥美マリや『さそり』の梶芽衣子と双肩と言って差し支えありますまい。
「人殺しは、絶対やってはならないことだと信じてた・・・。だけど、あんたのご両親から学んだよ。時と場合があるってね!」
この八代みなせのすごさったら! ウィキを観る限り、ぜんぜん演技方面で活躍していないようなんですが、まったく世間の映画関係者は何をしているのか! これは大変な逸材ですぞ!

 あとは杉浦亜紗美。すごくいい啖呵を切るなあ、これまたすごい女優だぞと思っていたら、AV女優なのですね。ほら、な、AV女優の演技力ってあるんだよ。みっひーもそうだし、『グロテスク』の長澤つぐみもそう。絶対もっともっと逸材が隠れているんです。なんとも途方もない宣言をしますが、もしもぼくがいつの日にか映画を撮れるようなことがあったなら、必ずAV女優から抜擢します。あの人たちの演技の幅を、なめてはいけないんです。よく、綺麗な女性の職業なんかで、「女子アナ」とか「フライトアテンダント」とかあるでしょ。「アイドル」「女優」「モデル」はいわばそのヒエラルキーの頂点でしょ。とんでもない! ぼくの描くピラミッドの頂点は、間違いなくAV女優なのです(何なんだこのセンテンスは)。

 園子温、白石晃士が日本映画の2トップと思っていましたが、お見逸れしていました。3トップです。井口昇監督に、リスペクトフロムハート。
[PR]
今これを観てみて結末に驚く人は、よほどのノンタンです。
d0151584_58981.jpg

 今後の展開がどうあれ、日本代表が一勝したことは喜ばしいのでございます。今回の代表は駄目だの弱いだの終わってるだのと言われた中で戦った姿にぼくは打ち震え、キーパーの川島選手が「絶対にこぼさないぞ!」とばかりボールを抱く姿に目頭が熱くなったのであり、あの岡田監督がガッツポーズを見せた瞬間に感動したのであります。今後の展開はどうあれ、「どうせ一勝もできない」的に斜に構えていたやつらを、ぼくは心底侮蔑するのであります。

 さて、最近は映画の話をする気が起こらなくなっていてもっと観ねばザビだと思います(「観ねば」という言葉と「ミネバ・ザビ」を掛けている)。『告白』とか『アウトレイジ』とか観ねばザビです。

 さて、『ユージュアル・サスペクツ』は評価の高い作品でアカデミー脚本賞も受賞しているそうなのですが、いわゆる大オチの部分はかなり早めにわかってしまいます。ある描写とあるキーワードによって、これはもうどう考えてもそうなのだろう、と思っていたらまさにその通りだったので、残念と言えば残念でした。あのオチで驚かせようとしていたのなら、あの描写とワードを出すべきではなかったんです。ヒントは、冒頭の描写と、「あいつがやたらと気にすること」です。後は何も要らないくらいです。

 というか、脚本上結末はあれしかあり得ない、という意味では、大オチという呼称は適切ではないかもしれません。子供は騙されましょう。でも、いい大人があのオチに驚かされているなんて、そのほうが驚きです。作劇上、あの結末以外を用意するほうが難しいのです。

 ともあれこれは15年前の映画ですから、あくまで今観てみれば、ということです。当時の観客がどういうリアクションだったかはわかりません。しかし、今となれば結構いろいろな映画に越えられてしまっています。虚実の皮膜の部分で言うと、『ファイトクラブ』のような大胆な作品が生み出されてしまったし、オチの美しさで言うなら『SAW2』を挙げればよいでしょう(ぼくは今もって世間的に『SAW2』の評価が高まらないのが納得いかない)。

ガンアクションの部分についてもねえ、いやはや映画というのは本当に洗練を続ける表現ですから、本当にハードルが高まっているなと思います。パトカー襲撃のくだりとか他の襲撃シーンも、別に優れたものとは思えなくなっている。ぜいたくな話ですが。90年代というのが時代的に微妙なのかもしれません。もっと古くなれば、その時代特有の表現に味わいが感じられたりするんです。70年代の映画は邦洋問わず、血糊がペンキ丸出しなのですが、それはそれで味だったりするんです。ロメロゾンビが今でも愛されるのは、そこに味があるからだと思います(『ショーン・オブ・ザ・デッド』で終止符が打たれたように思いますが、さて、ロメロの新作やいかに。観ねばザビ。)でも、90年代はねえ、まだそこまで熟成されていないんですねえ。

 最近はあまり映画の駄話をする気にならなくなっているので、この辺で。いいんだか悪いんだか。もっと新作を観なきゃね。
[PR]
雰囲気づくりができていない。それに尽きる。
d0151584_09252.jpg

 宇多丸さんのラジオにたびたび出演している三宅隆太監督。ホラー映画の作り方や脚本の書き方についての話がためになり、それなら作品も観ておかねばと期待して呪怨。

 昨年公開の呪怨シリーズ最新作ですが、ぼくはこれと劇場版一作目しか観ていない不届きものです。ビデオ版がいいという話も聞きますが、劇場版一作目を観て、他も観てみようとは思えなかった。個人的に、ホラー映画、恐怖演出をしくじりまくっていると思ったからです。

 そこへ来て今回の三宅隆太監督はホラー映画についていろいろ理論をきちんともっているらしいので、これはひと味違うんじゃないかと思ったのですが・・・。

 正直に言ってぜんぜん怖くない。言うは易し、行うは難しということでしょうか。
劇場版一作目と同じ過ちを繰り返しているだけ(たぶん二作目もそうなんでしょう)。ここでは一作目について述べましたが、あのとき指摘したことを繰り返せば事足りる結果でした。悪いけど何にも進化していない。三宅監督の他作品はまだ観ていないんですが、これではちょっと期待が持てない感じがします。

 彼がラジオでホラー映画の作り方について語った際、登場人物と幽霊の映し方について、こんなことを言っていました。
「登場人物と幽霊が対峙したとき、人物はバストショットで、幽霊は遠巻きに映す。こうすることで観客は、登場人物を近しい存在、幽霊を対話不能な存在として印象づけられる」

 なるほど、その方法論は一見正しく思える。では、実際に観てみるとどうか。

 これがねえ、登場人物をバストショット、アップショットで映す際の配慮に欠けているんです。『白い老女』『黒い少女』両者ともに指摘できる欠点として、あまりに登場人物の顔を映しすぎる。綺麗に、まるでテレビドラマみたいに。

 このタイプの映画はテンポがゆっくりです。それもそのはず、幽霊のアタックまでをじわじわと盛り上げていく必要があるので、アップテンポにはできず、わりとじっくり間を置いて撮る。そうなるとどうなるか。人物は不穏な影、不安な気配を前に立ち尽くすことが多くなる。そうなるとどうなるか。当然、役者はただじっと立って目線を向けているだけになる。その人物が確かにそこにいる、という微妙な仕草や目線の動き、息づかいが演出できず、ただ怪しんでいるだけの人間として位置づけられる。これをいくら接写したって、雰囲気が醸成できるわけがない。登場人物の不安そうな顔、虚心の顔を映せば怖い雰囲気ができると思ったら、観客が感情移入してくれると思ったら大間違い。むしろ逆です。アッキーナかわいいな。みひろかわいいよ。加護ちゃんかわいいじゃん。そういうことばっかりに目がいく。

 二作に共通して言えることは、登場人物の顔なんかをあまり映さないほうがいいということです。むしろ引きの画で撮るべき。そのほうが、誰もいない空間に一人置かれた人物、周りに誰もいないうら寂しい場所にいる人間という感じが絶対出るはず。

 そうでないなら白石晃士の『ノロイ』や『オカルト』を見習うべき。あの人はハンディカムを多用するからこの映画に負けず劣らず顔が大写しになるけど、むしろ非ドラマ的な近さで接写したりするし、他の場面ではちゃんと登場人物を動かしているからその人間にも存在感が宿る。登場人物に存在感が無いままアップにしたって、ただ可愛らしいだけです。

 今回の二作はどうしてこうも雰囲気作りがへたくそなのでしょうか。前にも書きましたが、ホラー映画は雰囲気が勝負なんだって。幽霊が出てきてびっくり、って『呪怨』はなんかそれが好きだけど、それはびっくりで恐怖じゃないの! ああ、怖いなあ、不気味だなあ、という雰囲気、その状態。それこそが恐怖映画の醍醐味だよ。それを醸成しないまま、幽霊がドーン! 怖かった? 怖かった? 怖くねえよ。びっくりしたよ。でも、怖くはねえんだよ。

どうして雰囲気作りができないかと言うと、いろいろ理由はありますが、登場人物の芝居、演出がドラマドラマしすぎているんです。幽霊が出てこない場面の演出が下手すぎる。いかにもお芝居。『黒い少女』の演出なんて、再現ドラマレベルで吹き出してしまいました。二作とも、これがもしテレビドラマならば、「おお、最近のドラマはダメだと思っていたけど一応はちゃんとしとるやんけ」と思えるけど、ぜんぜん映画になっていない。

 映画とドラマの違いについてはたくさんあるのでしょうけれど、ここではそのもともとの性質の違いからひとつ、指摘します。ドラマというのは、特に民放について述べますが、CMが入ることが前提です。十分、十五分おきにCMが入ります。するとどうなるか。いくら雰囲気をつくってみたところで、一度CMで区切る必要に迫られるんです。どんなにもり立てていっても、一度どうしてもリセットされることになる。CMの間に視聴者はトイレに行くし、別の無駄話を再開してしまう。だから、ドラマは映画のようにじっくりとした雰囲気作りができません。ではどうするかというと、それこそテンポを高めて短い時間で集中させる必要が出てくるし、あるいは次々に出来事を起こす必要に迫られます。雰囲気ではなく、実際の出来事の連続で埋めていくことになります。あるいは、有名俳優同士の掛け合いかなんかで。

 映画は二時間なら二時間、一時間なら一時間。ずっと雰囲気を持続できるメディアです。だったら高めていけばいいのに、なぜだか『呪怨』というのはいちいち断章を繰り返す。そのたびに人物が入れ替わるから感情移入に必要な尺も不十分なままに幽霊アタックを食らう。だからこれはテレビドラマ向きなんです、明らかに。テレビでやればいい。たくさんの登場人物を出して、微妙に繋がる形にしているから、一応構成の妙を狙っているんでしょうけど、機能していない。何度も言うけど、雰囲気ができていないから。

 これは言い切っていいと思います。ホラー映画で雰囲気を作れなければ、何をしたって駄目です。そもそもの話、幽霊なんて雰囲気のたまものなんです。それこそ現実の世界で、夜の墓地でも廃墟でも学校でも何でもいいけど、そこに実際に行ってみて、「怖い雰囲気だ」と思ったら、何でも怖く見えるじゃないですか。普段なら何でもない絵画が怖く見えたり、ちょっとした物音でびくっとしたりするわけですよ。幽霊もそうで、雰囲気があるから怖いんです。もしくは幽霊ってもの自体、怖い雰囲気が見せる錯覚だとも思うんです。それが幽霊に関するいちばんの基本でしょうに、さっぱりそこに気遣っていない。

 ホラー映画は雰囲気が勝負。『オカルト』を観ましょう。
[PR]
比較しやすい類似作が、充実しすぎているので。
d0151584_0123100.jpg

『マーダーライドショー』のロブ・ゾンビ監督が、ジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』をリメイクした作品です。ジョン・カーペンター版を観たので、比較にと思って観てみました。続編はまだ観ていません。

 カーペンター版『ハロウィン』は今観るとどうしても前時代的な表現に思えてしまいます。『マーダーライドショー』の原作たる『悪魔のいけにえ』については、今観てもその良さを失っていない、どころかその野蛮さが輝かしく思えるほどで、ぼくは『テキサスチェーンソー』(あるいは『ビギニング』)よりも『悪魔のいけにえ』を推しますが、この『ハロウィン』についてはロブ・ゾンビのもののほうがよかったです。

 1978年のカーペンター版は、どうしても盛り上がりに欠ける。この違いを例えるなら、ハワード・ホークス監督の『暗黒街の顔役』(1932年)とデ・パルマ監督の『スカーフェイス』(1983)の違いに似ています。どうしてもその盛り上がりにおいて、前者は後者を大きく下回るのです。カーペンターの『ハロウィン』は2010年のぼくの感覚からすると、どうももたもたしているんです。かといって『悪魔のいけにえ』的野蛮さもなく、素朴ではあるけれども素朴に過ぎる。結構いろいろな映画に越えられてしまっている。

 ただ、じゃあロブ・ゾンビ版『ハロウィン』はどうかというと、モンスターとしてのブギーマンは、レザーフェイスに勝てないんです。レザーフェイスとブギーマンはそのマスクや図体のでかさから、とても似ている存在ですが、ぼくは断然レザーフェイス派。実在のエド・ゲインはさておくとして、映画に出てくるレザーフェイスはとても魅力ある存在になっている。ブギーマンとのいちばんの違いは、哀しさなんです。ブギーマンは哀しくないんです。単純な絶対悪になっているのです。レザーフェイスは白痴で最悪家族のいいなりになって生きているような哀しいやつで、『悪魔のいけにえ2』ではポップさと哀しさを備えるに至ったわけですが、ブギーマンはあまり哀しくない。

 確かに見せ場はたくさんあって、スプラッター映画としてはさすがロブ・ゾンビ監督というできばえですが、もともとのキャラクターにさほど魅力がないというのが大きいんです。だからゾンビ監督は下手にカーペンター版のブギーマンを守ろうとしなくていいと思うんですけどね。自由にやってくれていい。彼は『ハロウィン2』もつくっているらしく、こちらは未見なので、なんとも申しようがありませんが。こういうとあれですけど、もとの作品に忠実なところほど、面白くない。オリジナルでつくった場面、暴力描写のほうが圧倒的に上回っている。ロブ・ゾンビ監督にはそろそろオリジナルをつくってもらいたいところです。『デビルズ・リジェクト』のように、はっちゃけてほしい。この人はすごい才能の持ち主だと思うんです。

 ブギーマンの幼少時代を長めに描いていますが、ここで深みが出るかと思いきや、そうではなかった。ここはとても残念です。やはりブギーマンは単純な絶対悪でしかないということなのでしょうか。絶対悪といえば、本作ではマルコム・マクドウェル、『時計じかけのオレンジ』のアレックスが精神科医として出てきます。これは面白い反転ですね。アレックスも絶対悪だったわけですが、彼が今度は絶対悪のブギーマンを抑えようとしているわけです。でも、映画としての弱さは、やはりアレックスのような激変がブギーマンには起こらないところ。終始暴力の行使者でしかないし、それはジョーカー的な絶対悪とも違う。妹を前にひざまずくくだりがあるんですが、あれもあまり効果的とも思われなかった。

 この映画におけるブギーマンの、絶対悪としての「ポイントオブノーリターン」は、あの看守のおじさんを殺してしまうところです。あのおじさんを殺した以上、いかに妹の前に立ち尽くそうとも、もはや彼には悲哀がこもらない。脱走する場面でおじさんを殺したら、もう後には戻れない。ただの殺人鬼になるしかなくて、それも本当にただの機械的な殺人鬼に過ぎないから、哀しくない。それと機械的殺人鬼の彼を造形するなら、幼少期をあんな風にして長めに描く必要はない。せっかく幼少期を長めに描いたのに、大人になってからと何も変わりがない。あの幼少期には、大人時代との違いが何かしらないと。

 総じて言うなら、これはもとの作品よりも格段に上です。カーペンター版ファンには同意を得ないだろうけれど、すべての面でロブ・ゾンビ版は上回っていると思いました。でも、じゃあこれが『テキサスチェーンソー』『テキチェン・ビギニング』を上回っているか、あるいは『マーダーライドショー』より上かと言われるとそうは思えず、そうなると『悪魔のいけにえ』がやっぱり段違いに上だということになるわけで、ぼくの中での序列は結構はっきりしています。『悪魔のいけにえ』の前半30分は恐ろしいほどに退屈ですが、あの家に入ってからの活劇は素晴らしい。見せ物としてのクオリティは確かにリメイクスのほうが上だけれど、野蛮さとあほらしさの融合、あるいはラストの美しさの点で、あの映画は他を凌駕していると思います。

 『ハロウィン』は面白いんです。面白いんですけど、他の比較材料が豪華すぎて、そうなるとそこまで褒められなくなる。なかなか贅沢な話ではあります。ちなみに、2005年公開の『ブギーマン』という映画がありますが、これはとてもつまらないので観なくてよいです。 
[PR]
一理あれば、よかったのに。
d0151584_0274271.jpg

 そういえばずーっと見逃し続けていた監督、というのは他にもいるのでしょう。山本薩夫監督の作品はどうやら初めて観たようです。なぜか野村芳太郎監督とごっちゃで捉えていました。

 予備知識なしで観たのですが、なんかこう、こういう映画の系譜ってありますね。小説で言うと直木賞的、あるいは映画なら最近の日本アカデミー賞的。その心はつまり、深く掘り下げられてはいないけれども適度に大衆的、というものです。びっくりするようなことが起こらないではないけれど、いわゆる娯楽映画の枠組みを一切飛び出すことがなく、ひとまずは安心して観ることができる映画。良識人がちゃんと受け入れられる映画。そういうのでいいときってあるから、そういうのでいいときにはおすすめしていいでしょう。

 予備知識なしで観たのですが、観てみてびっくり。政権転覆を画策する自衛隊員たちが日本各地で動き回っており、そのリーダーが電車を乗っ取ってしまうという大胆な話です。

 電車がクライマックスのメインステージになりますが、政治家の動きなども織りなしつつ進めており、テンポはいいです。逆に言うとこの手の映画はテンポが命。だらだらし始めると絵空事感が強くなるから、ある程度ギアを上げていく必要があります。あまりごつごつした表現は必要ないというか、体感時間を短くさせるように、個々の描写を省くほうがいい。個々人の性格うんぬんを描くのではなく、事件展開を追わせるように仕向けていくべきで、その点が潔い映画でした。

 この映画の自衛隊員、特にリーダーの渡瀬恒彦は、三島由紀夫よろしく、憲法九条、日米安保反対ってなもんで、自分のリスペクトする改憲派の政治家を総理にせよ! と無茶な要求を行うのです。要求を呑まないと乗客もろとも列車を爆破だ! と怒ります。

 こういう主張を行う人物を、映画の中でびしっと描くのは難しいです。どうしても偏った人間に見えてしまいます。『日本のいちばん長い日』でも、玉音放送をなくそうとした将校たちは、結局偏ったやつらにしか見えてこないんです。ひとつの映画という限られた範囲でできることは、主張を大声で言うことではないんです。そうじゃなくて、観客に対して、「こいつの言うことにも一理あるよな」と思わせることが大事なんです。

 憲法九条の議論だの何だのを、一本の映画が描ききることなんて土台無理です。でも、だからこそ、「一理ある」と思わせれば十分に勝ち。「自分とこの登場人物の考え方は違うけど、この人物の言うことにも一理あるな」、「なるほど、こういう立場の人間ならば、こういう考え方をするようになるだろうな」と思わせればそれでいい。いや、それさえも難しいわけです。この映画では、その点は残念ながらちっとも満たされていません。おかしなやつらが無茶なことをやっちゃったよ、おいおい、というものになっている。

 好例はここでわりと最近に取り上げた『新宿インシデント』です。日本にやってくる中国人サイテー、あるいは韓国人サイテー、と思っている人は多いようですが、ああいうのを観ると、「でも、最低なやつらは最低なやつらなりに生き方があるんだな」とわかる。

 ああいう映画を観ると考えますもん。たとえば日本に来て犯罪に手を染めるアジアの人々がいたとして、最低だとは思うけれど、そうならざるを得ない部分ってあるだろうなとも思う。そういうのを作り出しているのは差別する側の日本人だったりしないか? とも思う。日本に来てお金を稼ぎたいって素朴に思っていた人間が、その出自のために言われもなく罵倒されたりする。そのために心閉ざしてしまって、「くそ、日本人め、だったら罪でもなんでも犯して儲けてやる」って思うようになる。そういうことって、あるんじゃないかなあ。そのきっかけをつくったのは、実はむやみに差別した人間だったりすると思うんです。

 この手の議論をあっち系の人とする気はないので、この辺でやめておく。

『皇帝のいない八月』はその点のあれを満たしてはくれません。
 満たしてもらえるのは吉永小百合好きの眼福です。当時三十ちょっと過ぎくらいの吉永様ですが、最高にちょうどいいです。「美人過ぎないレベルの最高点」です。なまじ美人過ぎると映画の風合いを壊しますが、この映画の吉永様は最高にちょうどいいのです。他は野郎ばっかり、おっさんばっかり、あるいは女郎蜘蛛みてえな女だけのこの映画で、彼女はとても重要な役割を果たしています。あとは高橋悦史が格好いいです。『踊る』の柳葉敏郎は間違いなく彼の演技を見習っています。

 映画自体はとても穴が多いです。テンポはいいんですけど、なんかその分いろいろぼろぼろこぼしている感じは大きいです。熱い映画ならば、そういうのはどうでもよくなる。でもこの映画は、造反有理の心意気を感じさせない。こうなってしまうと、「ああ、もう頭のおかしい渡瀬がやらかしている」と思わされてしまいます。一理で、よかったのに。
[PR]
←menu