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ガキ度の高さがぼくらのしるし。
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『ニューヨーク1997』(原題『Eskape From NewYork』)の続編、あるいはリメイクですが、前作より大幅にパワーアップしています。前作が1981年ですから技術的にも前進しており、アホさもさらに際だち、これは久々に、素直に楽しめた娯楽映画です。観るべき傑作はまだまだあるのだなと感じ入り、気分がよいのであります。

 ラストカットで思わず拍手してしまいました。作品全体がよかったのもさりながら、前作以上にキレのいいラスト、なおかつぼくの溜飲を下げる描写です。それはカート・ラッセルの喫煙です。
 
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2013年がこの映画の舞台ですが、2010年の今まさに、禁煙の波は現代社会を席巻しております。何しろハリウッドでは喫煙描写があるだけでレイティングがかかる始末です。日本でももうすぐ煙草が値上げ。とにかく煙草は嫌われ者です。「体に悪い」「たばこ臭い」の二点を主張されれば、もはや喫煙者サイドはぐうの音も出ない。ぼくもね、別にね、そりゃやめたっていいんです。そのほうが経済的なのは明らかだし、健康にもいいのだろうし、吸っていない人からすれば、「なぜそんな愚行を働き続けるのか」ってなもんでしょう。でも、ぼくはこの今の流れがすっごく嫌いなんです。「おまえらの言うことに従いたくない」というのが大きいんです。煙草は害悪だ! やめろ! って言っている人たちが怖いんです。彼らの言っていることは正しいんですよ。でも、正しいから怖いんです。「自分のやっていることは正しい」というのは、これはあまり好きな言葉じゃないですが最も「思考停止」させる言葉なんです。どれだけの考えがあって「やめろ」と言っているのかな、というのがものすんごく疑わしい。体に悪くて臭いのがいけないなら、酒だってやめるべきです。肝臓をやります。煙草はダウナードラッグですが酒はアッパードラッグの側面を多分に持っているし、実際酒による悲劇だってたくさん起こっている。でも、酒はいじめられない。その不均衡ぶり。そういう不均衡に目をつぶるやつらの正義なんて、誰が信じるんだよ。

 何を映画と無関係な愚痴を垂れるのか、と思われそうですが、今日ばかりは無関係ではないのです。『エスケープ・フロム・L.A.』は前作以上に、反体制のマインドばりばりの映画なのです。その最たる象徴が、あのラストなのです。

 前作とほぼ筋立ては同じで、囚人を閉じ込めた物騒な島に、大統領の命令を受けたスネーク・プリスキン(カート・ラッセル)が飛び込んでいくことになります。その命令を聞かないと殺すぞというわけで、体にウイルスを注入されます。ランボーは2において国に忠誠を誓ってしまいましたが、スネークは初めから体制への信頼を大きく損なわれているのです。彼が向かった先には、チェ・ゲバラもどきの征服者がいます。スネークはここでも体制と対峙することになるのです。
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 とはいえ、難しいこととかうんちゃらかんちゃらはひとまず置いておくのです。何しろアホみたいな描写、展開がわんさかあるのであって、それがとても心地よいのです。インディ・ジョーンズでもぼくは『魔宮の伝説』がいちばん好きですが、子供っぽいことを大まじめにやっているのって、どうしても惹かれるのです。カーペンター監督はやっぱり愛すべき人です。潜水艦に乗せたりサーフィンをやらせてみたりパラグライダーを出してみたりバスケをさせたり、なんとガキっぽいオンパレードでしょう。
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でも、それがいいのです。最近思うのですけれども、「嫌われないように」と思っている表現って、好きにもなれないんです。みんなこういうのが好きなんだろう、こういうことを言ったら嫌われるかな、みたいなのって、商売上はうまく行くかもしれないけれど、どうしても好きにはなれない。「嫌われたってかまわないから好きなことをやる」という表現のほうが、絶対に愛すべきものに思える。江頭2:50という人はその体現者ですよね。彼も言ってみれば、反体制の人です。

 ラストでスネークがやったことは、実は最低ですよね。後に『世界の終わり』を撮るカーペンター監督ですが、本作こそその名にふさわしいかもしれない。でも、誰かに徹底管理、支配されるくらいならば、そちらのほうがよほどマシだ、というのはわかる。ルシファー魂です。

この映画は一作目をたたき台にして、迷いがないです。開き直っています。世界観は前にも増してゲーム的で、単純にうきうきさせるのです。ジョン・カーペンターのつくる世界観は、なんていうか格好つけてる感がないんです。キザさがない。つくりこんでいる感がない。テリー・ギリアム、ティム・バートン、あるいはその源流にいるであろうスタンリー・キューブリック、彼らのような「職人の仕事でっせ。いろいろ考えてつくってまっせ」的な感じを与えないのです。「こういうのが面白いと思う! 思う思うー!」というガキっぽさ。以前、『ゼイリブ』をここで「中学生的」と評したのですが、いわば「ガキ度」の高い作り手というか、そういう人のつくるものは素直に面白い。日本だと井口昇ですね。
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 子供の頃の遊びとかがなんであんなに楽しかったかっていえば、きっと煩悩がなかったからなんです。モテようとか賢く思われようとか、ましてや金を儲けようなんて煩悩なく、ただ単に面白がっていたんです。そのガキ度の高さを、カーペンター監督は保持している。アメリカンニューシネマにせよロックにせよ、あるいは笑いというものも、すべてガキ度の高い人間がつくったもの。体制に肯うことを骨身の部分で嫌うもの。そういうものの味方であり続けたいと、心底思うのです。
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長回しの特質と個別性の美点を活かした作品。
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同性愛を主軸にした映画って、思い出してもぜんぜん観た記憶がありません(強いて言えば『ブルーノ』くらい)。アカデミー賞の『ブロークバックマウンテン』も未見だし、テーマ的には興味深いものだと思いつつも、無意識に避けていたのかもしれません。もっと観てみようと思いました。

 橋口監督もゲイだそうです。ぼくはゲイではありませんが(昔、人から一度、「ゲイなの?」と真顔で訊かれたことがあります。俺に女っ気がないのはモテないだけだ畜生!)、彼らにはある種、リスペクトを感じています。ヘテロが当然の社会で彼らは嫌がられたり、からかいの視線にさらされたりする(『ブルーノ』ではアメリカのホモフォビアがいかんなく描かれていました)。同性愛者は自分の恋愛感情というきわめてナイーブな部分を、社会的に肯定されていない。映画内で「自分たちの関係が長続きするとは思っていない」と語られる場面がありますが、やっぱりまだまだ社会的にはなじみがないわけです。

 そういう人たちは、自分たちの性に対して真面目だと思うんです。誰がどう言おうと自分はこうなのだ、という感覚を確かに持っている。それはすごく尊い。彼らは言ってみれば、とても残酷な言い方ですが、遺伝子レース的にはアウトです。生命の核に「生殖」があるとするなら、彼らはその核の部分が大いに欠損している。社会的以前に、生物的にアウトな存在。だからこそ、「俺はこうなのだ」「私はこうなのよ」という、自分を自分たらしめる明確な意思が必要で、その意思はとても尊いものだと思うのです。

 前置きの長くなる癖。さて、『ハッシュ』です。
 橋口監督の作品は後の『ぐるりのこと』しか観ていないのですが、『ハッシュ』は『ぐるりのこと』以上に長回しが多用されており、「長回し」って何? という人には本作と相米監督の作品を示しておけばわかっていただけましょう。

 長回しが印象的な作品ですと『トゥモロー・ワールド』が思い起こされます。カットを割らないクライマックスやチェイスシーンがてんこ盛りの傑作ですが、長回しは観客に対して没入を促す効果があります。カットが割られて画が変わると、観客はその画変わりの一瞬で、脳内で無意識的な解釈を行いますから、没入が妨げられるんです。え、わかりづらいですって! 説明しましょう。

 映画を観るという行為は、とても脳を使う行為です。ぼくたちは無意識に理解、解釈を行っています。たとえば映画内で、ある出来事が映し出される(事故でも言い争いでもラブチュッチュでも何でもいいです)。そして次のカットで、その場にいた別の人物の驚いた顔がぱっとアップになる。このとき観客は、「あ、この人物は今の出来事を目撃していたのだな」と理解します。ある出来事と、それを目撃した人の顔、それを連続して内容を理解、解釈するのです。

現実のぼくたちはこういう風にものを観ていません。映画とはその形式自体が、ぼくたちのリアルなものの見方と大きくずれているのです。有り体に言えば、「ぼくたちの生活にはカットなどない」ということです。長回しは「画変わりの一瞬」がないので、現実のぼくたちのものの見方に近いのです。だからこそカットを割る映画に比べて、人物たちが本当にそこにいる、という良質な錯覚を、ぼくたちに与えてくれるのです。

 つまり演劇的ってこと? そういう言い方もできましょう。しかし、映画と演劇はもちろん違いますね。演劇こそまさに、想像の産物です。演劇はあくまでも舞台の上、書き割りの手前で起こる出来事ですから、観客はその背景を積極的に思い描かねばならない。その時点でリアルではなくなる。映画はセットを使わない限り、実際に現実にある場所を舞台としますから、より現実のぼくたちの見方に近づくのです。

『ハッシュ』は十年近く前の映画ですが、個々の生活の場所が今と変わらぬものに見えてきたし、登場人物同士のやりとりも細部が丁寧で現実感が漲っていました。田辺誠一と高橋和也のカップルが部屋の中で軽い言い争いみたいになる場面で、高橋和也がハーゲンダッツを食べ始めます。
田辺「怒ったの?」
高橋「怒ってないよ」
田辺「だって怒ると、いつもアイス食べるじゃん」
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こういうやりとりは人物の存在感をぐっと増すのです。J-POPが忘れ去った個別性、個別なものにこそ人物の存在感は宿る(小沢健二の『恋しくて』を聴こう)。『ぐるりのこと』でも「カレーの会」みたいな、絶妙なだささを醸すものがあった。観ている側からすると、こういう細部によって作り手を信頼できる。密室芸の良さで言うと、園子温とも通じる。園子温の『夢の中へ』におけるカップルの喧嘩は今まで観た中で最高の密室芸で、あの境地まで行くかとなるとわかりませんが、適度な微温感を漂わせていて心地よい。その直後の病院のシーンのブスも心地よい。
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 片岡礼子という女優さんはよく知らずにいたのですが、なんとも世紀末的な風合いを持っていました。あの髪とか、90年代を引きずっている感じがものすごくよかった。喋り方が90年代の少年アニメの主人公みたいだなあ思って、それもよかった。なんか知らないけど変に懐かしかった。あとは園子温映画で大活躍のつぐみ。つぐみの壊れ方はいいです。これみよがしの壊れ方だとこの映画には合わない。最後だけにして大正解。あえてつぐみの暗い動きを一切示さないところは配合の妙。あれね、つぐみがストーキングしているカットとか入れたら絶対駄目なんです。そして、入れがちなんです。でも、一切入れない。なぜ入れないのか。この映画の演出を通せば理由は明白です。

別のところで言うと、ゲイのたまり場の陽気な兄ちゃんがよかった。片岡礼子と飲むシーンの表情の妙。あの表情の細やかさには唸る。元気いっぱいにノリもいいけど、刹那だけふっと苦い顔を見せる。あのノリを放り込むのがとても上手。今思いつくところで言うと、『Tokyo Real』のナンパ師と同じくらい上手。
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ただ、ちょっと長かった。二時間を切っていれば文句はなかったんですが、ちょっと長かった。全部のシーンがいいけど、この長さになるならあれは要らない、というのもいくつかある。でも難しいところで、この良さを生むにはやっぱりあれもこれも要る。長さを感じなかった場合はとてもいい映画に思えたでしょう。長さを感じると、アラも見えてくる。家族が揃って口論になる場面があるけど、長回しって段取りくささと表裏一体。真柄佳奈子(娘役の子。ドラマ『リップスティック』のポッポ)に台詞を与える必要はなかった。演技自体に問題はないけど、段取り感がふわっと香った。これが多人数でやる長回しの弱点。あとは光石研の最後の出来事って、要る? いや、ああいう脚本にする理由も、わからないじゃない。つぐみの話もそうだけど、ああいう物語の流れにすることでどういう余韻が生まれるかってこともわかる。言葉で説明できる。でも、なんだかどうも、キレの悪さも残る。でも、そのキレの悪さも美点なのかもしれないとも思う。
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 長く語ったけれど内容が伝わっていない気がする。でも、面白さを言葉で説明しにくいっていうのは、それまた優れた映画ってことでも、あるわけで。ぼくもキレが悪いね。
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これぞ真なるアイドルバラエティ。
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夏は仕事が忙しくなりなかなか映画を観られずにいて苦しいのであります。最近はあまり当たりの映画にも出会えていないので、ゆっくり映画を観られる日々が待ち遠しいのであります。今日は映画ではなく、バラエティ番組のお話であります。

 幾度も激推ししているのでもはや説明の要はございますまい。現在も「ちょいとマスカット」として放送中の深夜番組、その前身である「おねだり!! マスカット」がDVD化されました。今後も『オホホ編』『キャハハ編』がリリース予定であり、なおかつサイドステージとはいえあのサマソニにも出演予定とあって、いやはや恵比寿マスカッツの今後に一層の期待が持たれるのであります。

 とはいえ、彼女たちがアイドルとしてのメジャーステージ(つまりはマスコミによってテレビ番組、CMなどに幅広く登用される状態)にあがることは、この先もまずないでしょう。主要メンバーが皆AV女優であるからです。映画などで個々人が活躍することはあれ、今のままメジャーになることはまずあり得ない。AV女優を好んで使うスポンサーはいないし、現行のアイドル事務所だって幅を利かせている。テレビでこれ以上メジャーな場所に行くことは、難しいのです。ネット検索にしたって、グーグルで彼女たちの名前を打っても、連想ワードが出てこなくなっている。エロが絡めば、一般的にその時点でシャットアウトがかかるのです。

 世間的にもAVはやはり陰のメディアのように思われているし、AV女優も平たく言えば賤業のように見られているのではないかと思います。ぼくも就職が迫ったとき、AVメーカーに勤めようと考えたのですが、親の反対を受けました。反対を押し切って、という情熱もなく、その道は取りやめましたが、年長者にせよ若い世代にせよ、「AV産業に好感を持っている」という人は多くないでしょう。特に女性からの支持率がほぼゼロである、という業界的宿命が大きいですね。女性に好かれない限り広告商売には起用されないし、好かれないどころか嫌われてさえいるとしたなら、もはやメジャーへの道はないのです。

 ただ、いかがでしょう。世間の諸兄の方々は、多少なりともお世話になっているはずなのです。というか、女性支持率はほぼゼロでも、男性支持率は高いはずなのです。仮に男性の二人に一人しかAVを観ないとしても、単純計算で言えば成人の25パーセントはお世話になっているはずで、AVに限らずその他のアダルトメディアの利用率を考えれば、男性のほとんどはエロ産業にお世話になっていると言えましょう(ゲイもの含む)。

 男性のおそらくは過半数が好きに違いないAV、ないしアダルトメディア。にもかかわらず、世間でおおっぴらにエロネタが話されることは少ないのです。誰も彼もこそこそと日陰で話し、いかにもいやらしい話をしている感じになります。もっとオープンに話したいと思っている人がきっと多いのです。それなのに、なんと閉塞的な社会心理状態でありましょう。大体セクハラなんて概念が広まるからいけないのです。「いやらしい話をしているわ! セクハラよ!」などと叫び立てるやつが、世の中を面白くしてくれるわけがないのです。世の中を面白くしてくれるのは、どんなに寒くてもスカートを短く保つ女子高生などのほうです。彼女たちは本能的に、自分たちがセクシャルな存在として見られることを望んでいるのではないでしょうか。そうでなければ、駅の階段であんなにも「見えそうで見えない」レベルの絶妙な丈を合わせる必要はないのです。

 ぼくからすると、いわゆる「シモネタ」なんてものはぜんぜんシモネタじゃないのです。なぜならエロというのは人間存在そのものへの言及であるからで、エロ話をするというのはこれ、そのまま学問の話をしているに等しいのです。SMの話、と考えればシモネタに思えるかもしれない。でも、マゾの話は「人はなぜ他者からの被虐に快楽を覚えるのか」という大変深い話に繋がるのです。テレビでは同性愛が笑いものになるけれど、「なぜ遺伝子の継承に不適合な愛好を抱くのか」を考えれば、これまた一夜語り明かしたいテーマになるのです。女子高生のスカート丈しかりです。

 なのに世間ではAV女優を下に見る。むむむ、けしからん。昔からお世話になっている相手は大事にしましょうと言われてきたはずです。世間の男子諸兄にはもっと、「彼女たちにお世話になっている」というリスペクトが必要なのです。世のアイドルやモデルどもが、おしゃれ感やら処女性やら「ちょいエロ」などというきまりの悪いレベルで売っているのに対し、AV女優は「やることやっている」。この事実をぼくたちは、頭とちんこで真剣に受け止めるべきなのです!

 アホなのか真面目なのかよくわからない文章を書き連ねていますが、やっとこさ『おねだり!! マスカット』の話です。個人的にもう何度も観ているのでいまさら目新しい情報は少ないのですが、お勧めするのです。アイドル的快楽とバラエティ的快楽の融合した、希有な番組なのです。各コーナーが短く編集されており、いちげんさんがどれほど楽しめるかは保証の限りではありませんが、番組が少しでも長く続くのを願い、いいから買えってんだこの野郎。

 ぜんぜん内容がわからないじゃないか、という方々もおられましょうが、内容なんかどうでもいいから買えこの野郎、というと話にならないので、このたびはアイドル的側面をお伝えすべく、画像をお届けするのです。とはいえ、メンバーのごく一部に留めておきましょう。いかに層が厚いか、AKなんとかと比べるまでもないことがわかるのです。
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 「ちょいと」になって卒業しましたが、「おねがい」「おねだり」を支えたリーダーであります。蒼井姐さんは中国で大人気。アジアで大人気と聞きます。浜崎さんみたくエイベックスだのなんだのが金の力でプロモーションするまでもなく、彼女の魅力が大陸まで轟いているのです。ゼロ年代アイドルAV女優としての筆頭。ちなみに高校は卒業しており、短大卒であると著書『ぶっちゃけ 蒼井そら』にて語られております。
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「ちょいと」では蒼井姐さんの跡を継ぎ、新リーダーとなりました。この方は年々輝きを増しておられます。今観ると「おねだり」時代は少し太っている気がします。前にもちらりと書きましたが、この方はたぶん、本当に「いい子」なのです。ああ、いい子ってのはこういう子のことを言うのやな、というのは、ずっと番組を観ているとわかるのです。仮にそのすべてが演技であったとして? いや、それならそれですごいって。これほど徹底していい子を演じられるなら、そのペルソナはもはや顔だって。8月に池袋東口でサイン会があるのに、仕事で行けない! 口惜しや。
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 ぼくの部屋には2010吉沢明歩カレンダーが貼られており、どの面を見てもアッキーの艶やかな姿が目に入るようになっております。新人時代はそこまでずば抜けた美人のように思われませんでしたが、OLメイクによって人跡未踏の美しさに突入したのです。その辺のOLはいくらメイクを決めたってこの領域には行けないのです。メイクというのはこういう方を輝かせるためにあるのです。新人時代の顔立ちで、すっぴんでも美しいのは実証済みでありますが、いやあ、この方の美しさに惹かれないなら、それはおまえがおかしい!
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 この方もOL的な美しさでいえばトップクラスですが、お馬鹿キャラが炸裂し、他のメンバーが持たぬ武器を有しております。存在感的には、FF6でいうウーマロみたいな頼もしさがあります。世間でいうお馬鹿キャラは皆、彼女の前にひれ伏すがよい!

 他にもRioやみひろ、かすみりさ、かすみ果穂、藤浦めぐ、桜木凛、初音みのり、西野翔などなどなどなどなどそのほかご紹介したいのですが、オホホ編のときに譲ることにしましょう。

再生は義務。↓


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いかにも博報堂がかかわっているなあっていう。
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 大ヒット作だしテアトルダイヤも徒歩五分だしとりあえず今日は休みだし観てきたのは『告白』。原作も読んだけれど、同じタイトルの小説なら町田康の作品を断然お薦めします。今後、一般的に、『告白』といえばこの映画と原作を指すことになるのは、いささかもの悲しいのであります。

 さて、考えてみるに中島監督というのは、今現在の邦画界において最も著名な監督の一人に数えられるようになりました。『下妻物語』『嫌われ松子の一生』『パコと魔法の絵本』によってゼロ年代邦画に新風を吹かせた功労者であることは、疑いようもありません。海外はさておくとしても、邦画界にこのタイプの作品を撮る人はいなかった。テレビ局ドラマ原作ではなく、若者を呼び込める監督。そして今回の『告白』のヒットによって、今後彼は邦画界のトップの一人になっていくことでしょう。

 彼が際だっているのは、CF的な映像手法を、完全に全面に押し出している点です。バーのマスターが「ナイキのCMみたいな映画」と言っていましたが、ぼくも同意見。CF的な映像とはどういうことか。一言で言えば、「画になる」ということ。短い時間で視聴者に訴えかけねばならないし、CFであるからにはスタイリッシュであらねばならない。CFの第一人者である監督は、短時間のうちにどう効果的に伝えるか、ということに非常に長けていると思いました。CFを撮りたい、「映像クリエイター」になりたい人は、この映画を必ず観なくてはなりません。

 ただ、冷めた目線で観てみれば、「格好つけとるな」という感じも受けます。「画になる」ということは、特にCF的である場合、「ばっちり決めようとしてるな」というあざとさも伝わるのです。『下妻物語』の優秀は、そのあざとささえもひとつの武器にしたところです。ゴスロリ、ヤンキー、どちらも「ばっちり決めようとしている」存在であって、下妻という田舎を舞台に、格好つけることの空しさ、馬鹿らしさまで描き出していた。作品のモチーフそのものが、CMやそのイメージと、現実との落差に言及できていた。CMは華やかな世界を見せるけれど、現実は地味なものだ、でもその現実だって決して悪くはない、ということを、深田恭子が一身に体現していた。一方、今回はと言うと、今回はと言うと・・・。

 さて、一応ここまでは枕です。
『告白』は実にCF的に、記号的な表象が詰まり詰まった映画でありました(原作にも言及するととても長くなるので、あくまで映画からの印象に絞ります)。物語の発端は、松たか子演ずる教師の娘が殺されたことに始まります。この娘の描き方は、とても記号的です。記号的とはどういうことか。つまり、「実在する人間としての娘」ではなく、「己が愛するか弱き者」として位置づけられている、ということです。むむむ、堅苦しい。わかりづらい。

 簡単に言うとですね、この松たか子の娘がどんな子なのか、ちっともよくわからないのです。たとえば韓国映画の名作『シークレット・サンシャイン』の男の子を思い出しましょう。彼も映画序盤で殺されるんですが、それまでの間に、その子がどういう子なのか伝わってくる。ああ、この母親は息子を確かに愛しているな、というのがわかる。子供が実在的なものとして示されるし、親子の確かな関係もそこに付随する。この映画では松たか子親子のつながりが見えないんです。この母親は娘を愛しているな、娘は確かにここにいるな、というのがまったく見えず、むしろ物語的テンポを優先してか積極的に個性を奪っている。「子供を殺された母親」「哀れにも殺された子供」という記号。記号というのは言ってみれば抽象されたもの。一方、実在感とは抽象以前の具体感。

 具体無き映画に人間は存在しない。それを突き詰めたのがキューブリックの『2001年宇宙の旅』。と、やっぱやめた。その話までしていると終われない。

 この松たか子親子は物語の軸であったはずなのですが、おざなりでした。そうなるとそれ以外の登場人物に実在感が宿ることは、どうしても難しくなります。そのため、少年と母親の関係性も当然希薄です。熱血教師も記号です。全部が記号的と言えます。ですがそれは中島監督は当然わかっていて、でなければあのような編集、テンポを取るはずはない。だとするとこの映画で彼がやろうとしたことは、映画を通じて何かを描く、ということではあり得ず、彼の持つCF的手法を現実的な物語にどこまで落とし込めるか、どこまでそのドライブで運べるか、という実験なのではないかと思うのです。この作品を「映画ではない」という人がいます。そう思わせるのは、監督がこの映画で、何事をも語ろうとしていないように見えるからじゃないでしょうか。復讐うんぬん、というのは物語を進める口実に過ぎないように見えます。『パコ』にしても、彼が何かを物語ろうとすると映画が死にます。彼が遊んでいる間はいいのですが、真面目に何か言おうとすると駄目なのです。

いあーしかし、あの生徒どもはなんとも胸くその悪い連中です。基本的にぼくはいちびっているガキ、ちょけている若者が全面的に嫌いですから、あいつらが全員ぶち殺されてしまえばよい、と思って見ていました(だからこそ『バトル・ロワイアル』は痛快であり、名画座は『告白』と二本立てで興行するとよいでしょう)。ぼくはあの手の連中を何の罪悪感もなく殺す自信があります(言うな言うなそんなこと)。でも、こう思わせるというのは監督の思うつぼです。一人一人の実在感を剥奪し、冷たい他者の集合として描かれているのですから、監督のやりたいことは成功しているわけです。

 結構賛否両論あるようです。話題の作品はそういうもんです。宮台真司先生は褒め称えています。以下、ツイッターより引用。

 圧縮されたエピソードの連接が、没入を妨げるだけでなく、「あれも1コマ、これも1コマ」という具合に、何か不可視な怒濤の如き抗い難い全体の流れの中の、一部なのではないかと感じさせます。この全体は、家庭環境や教室環境といった小さな何かではない。「もっと得体の知れない何か」です。

CFに頻見されるジェットコースター的=圧縮表現的な手法を使うものの、日常的な幸福感覚や善悪感覚をかっこでくくったところに現れてくる「もっと得体の知れない何か」に感覚を研ぎ澄ませる中島監督の構えには、かつてのテレビドラマにも満ちていた日本的映像表現の伝統を強く感じます。

なんだかわかったようなわからないような言い方です。要するに宮台先生は、中島監督は世間一般の人々に対して、日常よりももっと大きな「何か」の存在を示そうとしているのだというわけです。

 一方、『映画秘宝』アートディレクターの高橋ヨシキさんは『告白』をぼろくそにけなしています。

Lucifer Rising
要するに、「格好つけているだけじゃん」と喝破しているのです。

 どちらがうんぬん言い出すのはもう面倒くさい。今日はこの辺で。
 ところで、やっぱり世間の連中は映画館で後ろに座りたがるやつが多いです。あの劇場で後ろに座ったらぜんぜん映画館のスクリーンの醍醐味を味わえないと思うんですけどね。ぼくは三列目に座りましたが、二列目でもよかった。前五列は完全に空いていて、後ろばかりにたまっていやがる。馬鹿だね。
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クゥの描き方をどう観るかで、感じ方が大きく変わるでしょう。
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 夏休みにちなみ夏休み映画です。監督はクレヨンしんちゃんのあの二作を指揮した原恵一。前回の「口裂け女」もそうですが、「河童」というのもいい味を出しています。「かっぱ」という響きがまず心地よいですね。いい感じで間抜けな響きです、かっぱ。

 時間としては2時間20分くらいあって長尺ですが、その分監督のこだわりが随所に感じられ、また物語としても不足無く描こうとしたのがわかります。ただ、さすがに長いとも思いました。言いたいこともないではありませぬ。

 いい加減述べるのはやめたいのですが、声優問題があります。むやみにタレントを使うのはやめよう、という話です。しかし、今回の声優に関しては原恵一監督自身が決めたとのこと。ウィキによりますと、監督は「プロの声優のいわゆるアニメ声やオーバーな演技が苦手」らしく、「芝居のうまさよりも子どもの声のリアリティを求めた」そうなんですが、原監督がこういうことを言うのは正直ちょっとショックです。宮崎駿も同じようなことを言っているんです。何を言っているんだ、彼らほどの巨匠が。

 全面否定はしません。プロの声優だけを使えとは思いません。今回、主人公の少年と家族が出てくるのですが、母親の西田尚美はすごくよかった。気づかなかったし、違和感がなかった。この母親はすごくよい、そこそこ若い母親らしさがすばらしい、と思いながら観ていました。冒頭の場面に出てくるなぎら健壱にも気づかなかった。でも、ココリコ田中はいただけない。父親の顔と田中の声の細さは明らかに不調和。絶対にもっと適した声優がいる。
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 子供の声については、主人公の少年と妹はよいと思いました。子供のキャラには子役を、というのがうまくはまっていて違和感はない。キャラクター造形もよいため、安心して観られました。なのですが、肝心のクゥ。そもそもぼくはこのクゥの造形に疑問です。

 佳い作品ではある。ただ、「クゥに喋らせない」という選択肢はなかったのかなあと思うんです。作画が綺麗で画力自体がとても饒舌な本作では、クゥには言葉を喋らせないほうが実は良かったんじゃないかという気がしてしまうんです。クゥの声についてはちょっと上手くない。ある場面でクゥがすごく怒ってわめき散らすんですが、そこが決定的。あの場面はもっとわんわんいかなきゃいけないはずなのに、お行儀が良すぎる。お上手な子役を使うのは結構ですが、感情を爆発させる芝居が肝心要。そこでお行儀が良いのはむしろマイナスで、だからぼくはこれならば喋らせないほうがいいんじゃないかと思ったのです。素直で、日頃突飛な暴挙に出ることもないような百点の子役なのね、と思わされる。原監督、それはしんちゃんと真逆であるはずなのに。

 アニメというのは、言ってしまえばただの画に過ぎない。しかしその動きの連続によってただの画に魂がこもっていく。その魂を込めるのは声優ですが、あえて言葉を封じ、動きだけで実在感を持たせることができれば、それは純粋にアニメ的表現と言えたし、この映画にはその境地に至る可能性があったと思うのです。声優が芝居によって魂を込めるのでなく、ただ画を連続させるだけでクゥに魂を込める。それができていれば、もっとこの作品は特別な価値を持ったと思う。少なくとも、あの子役声優に喋らせるよりは。
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 もちろん、そうするとこの作品の有り様は大きく変わる。何よりクゥが友達的存在からペット的存在へと変貌しかねない。でも、どうなのかな? 明確な意思疎通によって友達的存在として固定するよりは、あえて声優を用いず、「友達でもペットでもない、名状しがたい何か」として設定できたなら、河童という特異な存在がより質感を持って迫ってきたんじゃないかな? そんな気がするのです。つまり、友達的存在としての設定は、クゥという、河童というキャラクターを小さくまとめてしまった。「おまえたちに会えてよかったぞ」と台詞で言わせるのではなくて、ただ描かれた画だけで、それを伝えること。もしくは観客の想像力に訴えかけること。このクオリティのアニメなら、その高みに達することができたと思うんです。そこが残念です。当然、子役声優にそのニュアンスを表現することはできません。

 クオリティはさすが原恵一監督です。特に家庭内の場面において、ディテールがすばらしい。普通の家族の普通の日常を活き活きと映し出している。主人公を旅に出すときの両親の様、妹の立ち位置、細かいところですけど、ひとつの台詞で示される妹のとある癖。ディテールの積み重ねと西田尚美の抜群の働きによって、ただの画でしかないアニメに確かな実在感が宿る。惜しむらくは、ココリコ田中。

 学校の場面もよいです。いじめられっこの女の子がいますが、彼女と周りの距離感、いじめっこの立ち振る舞いはきわめて実在的。アニメは時として実写映画以上に現実の我々を映し出す。本作はその好例であり、それを叶えただけでこの作品は素晴らしいとも言える。

 あと、本作で繰り返し描かれるのは、主人公たちを取り巻く他者の意地悪さですね。執拗と言ってもいい。クラスメイトの言動もそうだし、マスコミもそう。何より印象的なのは写メールを撮る人たちです。監督は写メールが嫌いなようです。ところでこの作品は携帯サイトとかでプロモーションできたのでしょうか。おそらくできていないし、していないでしょう。携帯の会社はこの映画が大嫌いなはずです。
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 ぼくも写メール、携帯カメラが嫌いです。「撮る」行為にも「見る」行為にも没頭していない、どっちつかずな感じがします。どうせ撮るなら撮るための専用器カメラを用いよ、撮らぬなら二つの目で直に見よ、と思います。なんかすかしている感じ、遊んでいる感じがします。「私は今、遊んでいます」とことさらにアピールされている感じがするんですね。

映画の話に戻ります。極言すると、この映画では病的なまでに他者を不安視している気がします(ぼくが言うのもなんだけど)。終盤のコンビニのくだりなんかまさにそれです。あそこにああいう風な店員を置く必然性はないですから。この他者に対する不安ベースは、クゥを友達化したこととも関わりが深いと見ています。ちなみに主人公には信頼できる友達がいません。

 この映画ではキュートな座敷童も出てくるし、龍まで出てくる。その両者に主人公が関わりを持たない。特にあの東京タワーの場面の後、「龍を見られなかった」と主人公に語らせるのが象徴的です。主人公はクゥと出会いながらも、決して外側に開かれていくことはないのです。はるばる遠野の山奥に出かけ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』もちょっと見せて、さぞや世界への眼差しを広げゆくのだろうと思いきや、彼は他者、外部にわずかほどの開かれも見いださない。強いて言えばあの女の子くらいですが、彼女とも結局は離ればなれ。外部を見通す様々なモチーフをこれほどに用いながら、なぜこの映画はここまで自閉しているのか。ほとんど矛盾とも言える描かれ方であって、もうちょっと考えたいのですが、なんか疲れたんで、ひとまずはこれまでに。
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「お仕事」をしたのが白石監督だったのが救い。
 
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 夏と言えば怪談の季節であります。というわけで「口裂け女」を紹介します。
 口裂け女といえば1970年代後半に世を席巻したと言われる都市伝説、噂のキャラクターです。実在不在はさておくとして、あるいは噂の広がり方うんぬんの社会心理学的考察は知らぬとして、「口裂け女」というのはなかなか「ええとこついとるな」と思います。なんというか、いい意味で地味です。別に大げさな能力を発揮するわけではなく、刃物という現実的な凶器を所持し、完全なクリーチャーでもなく、「口が裂けている」という身体的異常のみをフィーチャーした地味な存在です。「現実にいてもおかしくないぞ」と思わせるちょうどいいレベルなのです。これが「ろくろ首」だったらそれほどニュースにはならなかったはずで、なぜなら「首がびよよんと伸びる」のはやりすぎだからです。もし「ぬらりひょん」だったら「結局何なんだそいつは」と言われて終わりでしょう。「口裂け女」というキャラクターには絶妙なリアリティがあったのです。

 ところで、当時の子供が講じた解決策、逃避策というのはなかなか愉快です。ぼくも子供の頃に聞いた覚えがありますが、もし万が一出会ってしまっても、「ポマード、ポマード」と唱えると逃げ出せるというものです。まったく意味がわかりません。これはもしかするとポマードの会社が流した噂の可能性があります。特に子供はポマードの有用性と機能について無知ですから、子供目線では魔法の薬に思えるのであり、おそらく当時のポマードの売り上げは結構なものだったでしょう。ウィキペディアによると、「千葉県我孫子市では、べっこう飴5個なら喜んで、金平糖5個なら逃げ出すともいう」そうです。「喜んで」のあたりが面白いです。「恐怖の口裂け女にも喜びという感情があるのだ」ということにしたほうが子供心に安堵を得られたのでしょう。街の子供が捻出できる財産は多くないので、「べっこう飴」「金平糖」というのは経済的にも大助かりの武器です。

 ウィキペディアは他にも愉快な情報を提供してくれています。
「愛知県西春日井郡豊山町では、『カシマ様114号線にさようなら』と言う呪文を唱えると『突然、口裂け女に瞬間移動が起こり消えるので助かる』という説があった。」
 こうなるともうぜんぜん意味がわかりません。まず、ものすごく狭い地域の情報なのが面白いです。春日井群までならまだしも、豊山町まで限定しているのが笑えます。呪文を唱えると瞬間移動が起こるそうですが、もはやホラーとSFとファンタジーが混融しています。味わい深いのは、これが「瞬間移動」である点です。「消滅」とかではないのです。「瞬間移動」というのはどこか別の場所に飛んでこそ成立するものですが、どうして別の場所に行ったことがわかるのでしょう。なおかつ、「カシマ様114号線にさようなら」という文句自体、かなりぶっ飛んでいます。「口裂け女に出会ったらこれを唱えよう」と最初に思った人間のほうがある意味怖いです。たとえば街の看板とか建物の壁にこの文句が書いてあるのを見かけたらとてつもなく怖いです。ウィキペディアはこういうボケをさらっとかましてくれるのでやはり面白いのです。

 いい加減にして、映画の話をします。
 白石晃士という監督は現代の邦画における旗手の一人です。昨年は『グロテスク』『オカルト』という傑作を連発し、今後一層の活躍が期待されます。なのでそれなりに何かしらあるかなと思って観てみたのですが、いやはや、これは白石監督が「お仕事」として取り組んだ感じがします。後の傑作にはとうてい及ばず、きわめて商業的な、「お仕事」としての作品であると断言しましょう。

 まず、主要キャストがおしゃれすぎます。口裂け女役は水野美紀です。この役は絶対に無名の役者のほうがいいし、白石監督も絶対わかっている。でも、「お仕事」ですから仕方なかったわけです。「この役は水野美紀がいいな」と白石監督が考えたわけがない。本作における監督の配役権はなかったのでしょう。口裂け女に水野美紀を使った時点でこの作品は終わり。どうやってもいいものにはならない。別に水野美紀が悪いわけじゃない。彼女が有名であるということが問題です。断言しますが、当時はきっと、彼女が映画のPRで出まくっていたはずです。ワイドショーで「今回は今までにない怖い役」うんぬんと話題作りをしていたはずで、その時点で作品は失敗。これはプロデューサーが銭を欲しがっただけ。銭欲しさに「口裂け女」という魅力的なキャラクターを消費するなよな。
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あとは佐藤江梨子と加藤晴彦です。二人を並べてはいけません。画が安くなります。この作品自体の志の低さが露呈します。佐藤江梨子は『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』で名演が光りました。でもあれは「自分は特別だと思っている女優志望の女」という設定にしたからこそであって、普通に芝居させてはいけません(『腑抜けども』のあの役を彼女にしたキャスティングは偉い。とても偉い)。
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 筋立てとしては別になんということもなく、台詞も無駄に説明的であり、口裂け女の過去設定は過剰と言わざるを得ず、はっきりと映画的にアウトな手法を用いた点があり、強いて言えば『腑抜けども』に通ずる闇づかい、色温度の調節具合が褒められる程度です。

 ただ、ひとつだけこの映画には美点があります。子供を殺す描写をしっかり入れているところです。ここは白石晃士が頑張ってくれました。雇われ監督からはみ出ようとした姿勢を尊敬します。あの規制度外視映画『片腕マシンガール』においても、「子供を殺すのはアウト」と出資者に釘を刺されたそうですが、本作は子供を殺す場面がある。ここで逃げなかったのは正しい。さすがに直接的な描写は駄目だったようですが、それでもハリウッド的コレクトに毒されていないのは正しい。
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 子供を殺しているから偉いなどと書くと、もう反社会的人格そのものですが、もちろん映画の中のお話です。映画の中でなら、臆さず殺すべきです。文脈上必要な表現なら、そこを逃げるべきではない。スピルバーグの『ミュンヘン』はその点、嫌いなんです。あの電話の場面は、意図的に子供の死を避けている。あの映画においてやってはならない欺瞞でした。理不尽な死や不条理な殺人はこの世界に溢れている。ならば映画でそれを描かないのは欺瞞です。現実はぼろぼろなのに美しい世界だけに自閉した、60年代中盤までのハリウッドへの退行です。イラク戦争の只中で、「テロは殺しても子供は殺さない」などという欺瞞的表現を放ったスピルバーグ(あるいは彼でさえそうせざるを得ないように仕向けたハリウッド)に比べれば、この映画はまだ勝っていると言える。

 もしかしたらこんな映画のプロデューサーのことですから、子供を殺す場面をカットしろと要請したかもしれない。でも、監督はきちんと入れました(彼にしては、それでも遠慮がちに)。それをしなければ、口裂け女というキャラクターがまったく機能しなくなることを知っているからです。それはこの映画の完全な死を意味し、口裂け女の魅力を完全に否定することになるのです。そこを避けた点だけは、この映画の偉いところです。

 日本は昔から怪談、都市伝説を数多く抱えながら、アメリカ映画に比べ魅力的な殺人鬼を生み出せていません。向こうの国がレザーフェイス、ブギーマン、ジェイソン、フレディなどを抱えている一方、日本にはあまりそういうのがいない。その点、口裂け女は「有望な人材」なのです。あまり易々と消費すべきではありません。美点はありつつも、おそらくは諸処の事情で、優れたものになり得なかった一作でございます。
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ナンシー役がかわいけりゃ。
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ぼくは洋楽というものにまったく疎いです。大体十代中盤くらいから聴き出す人が多いんじゃないかと思うんですけど、ぼくはその路線を完璧に素通りしました。日本語が好きなので英語の歌詞にぜんぜん惹かれなかったんですね。

 なので、パンクもロックもプログレとかもちっともわからない。セックス・ピストルズもローリング・ストーンズもキング・クリムゾンもマイケル・ジャクソンも知らない。大学の頃、「レッド・ホット・チリペッパーズ」の話をしている人がいて、「新発売のお菓子かな? それともレストラン的な何かかな?」と思っていたくらいです。

 なのでシド・ヴィシャスも知らず、強いて言えば椎名林檎の「ここでキスして。」で名前を知っていたくらい。「セックス・ピストルズのベーシストだ」ということはわかったのですが、それが一体どういう存在なのかぜんぜんぴんと来ない。そういうレベルのぼくが観てみました。

『シド・アンド・ナンシー』と銘打たれておりますので、これはこれはボニーアンドクライド的、あるいは『カージャック!』的、『ダーティメリー・クレイジーラリー』的な何物かであろうと思い期待して観ました。シド・ヴィシャス役はゲイリー・オールドマン。シドは1979年に21歳で死んでいるのですが、オールドマンは撮影時それより年上であり、若造っぽさはなく、むしろ渋さが引き立っております。その点は本来のシドファンからすると問題なのかもしれないけれど、ぼくにはとても格好よく映りました。園子温の『ハザード』におけるジェイ・ウエストには及びませんが、このタイプのキャラクターは好きです。セクシーです。世間にもっとこのオールドマンブームが起きていてもいいんじゃないかしらと思うくらいとてもセクシーです。
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 一方、恋人のナンシー役を演じたクロエ・ウェブという人なんですが、この方は・・・ちょっと・・・あの、えっと、ブス・・・じゃないでしょうか。ナンシーは21歳くらいで死んでいるようですが、クロエはちっとも21歳の溌剌さはなく、というよりももうおばはん、時折おっさんに見えるくらいでして、オールドマンと釣り合いが取れていないのです。実際、オールドマンと同い年くらいです。ヒロインがこれだと加点できません。その意味で『スパイダーマン』のカーステン・ダンストに似ています。顔立ちも似ている気がします。『スパイダーマン』はこのヒロインのがっかりぶりがたまらない映画です。「主人公は誰のために頑張ったらええねん」「この女のために頑張るスパイダーマンをいまひとつ応援でけへん」と思わされます。ナンシー役は絶対もっとかわいこちゃんがいたはずです。実際のナンシーだってもっと綺麗です。クロエ・ウェブは意地の悪いおばはんみたいなんです。これは恋愛映画としては相当の打撃です。しかもキャラクター的に結構はっちゃけているものだから、「うわ、えらくはしゃいでいるな、ブスなのに」といちいち思わされます。
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内容的には、要するにシド・ヴィシャスの伝記映画なのですが、もうひとつ話の起伏に欠けます。早世の伝説的ベーシストというからには、はてさてどんなに破天荒な人生を送っているのだろう、と期待するわけですが、薬をやってだるだるになって、ブスとちゅっちゅしているばかりなのです。ヒロインがブスである以上、もはやストーリーなり何なりで頑張ってもらうほかないのですが、結構ぐだぐだしています。これがね、それこそ『カージャック!』のゴールディちゃんとかあのレベルならばね、ぼくは何も言わないんです。「ふほほ、ゴールディちゃんと送る退廃の日々よ。ヘロインの海にたゆたいながら漫然と過ぎよ」などとヴィシャス気分で楽しむことも叶うのですが、ヴィシャスにはもっと暴れてもらわないとつまらないです。すごくめちゃくちゃなパフォーマンスをするかと思いきやそうでもないし。

 その分、この映画でいちばんいいのはあの「マイウェイ」を歌うシーン。あのシーンはだるいトーンから一転して、実に快楽に充ち満ちている。椎名林檎いうところの「シドと白昼夢」みたいな美しさと愉しさで、ああいうのをもっともっと放り込んでくれればよかったんです。現実はだるだるだけど、ヘロインが見せる幻覚の中では光を浴びている。そういう起伏を織り込んでいけば、この映画におけるヴィシャスの憂鬱だってもっと引き立っていたと思うんです。あのシーンだけなんです。彼が爆発するのは。あとのギグシーンは普通に盛り上がっているだけ、もしくはだるだるなだけ。

ああいう夢見の場面と、それからヒロインの女優。この二つを変えることで、もっとこの映画は魅力あるものになったと思うのは、ぼくがシド・ヴィシャスあるいはパンクに何のゆかりもないからでしょうか。ヴィシャスを取り巻く他の人間の動きもよくわからないんです。どうして彼がああなっていったのか、ぜんぜんわからない。いや、そりゃむろん人の人生ですから、わからないものではあるんですけど、それにしたって墜ちていくくだりに明確な描写がなさ過ぎる。これだと単に、ブスに取り憑かれて駄目になっちゃったやつです。雰囲気で行こうとしとるな、と思わされます。

 終盤の刺殺シーンはいいです。あそこはまあいいです。でも、しつこいようですけど、ヒロインが別の人ならもっとよかった。薬でぼろぼろになっているんじゃなくて、もとからむくれっつらの人ですから、なんか、ぜんぜん、艶やかでない。

 もったいなさを感じさせます。ゲイリー・オールドマンがとても魅力的なのに、他の要素が彼の魅力にちっとも追いついていないという印象を受けるのでした。
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『片腕マシンガール』がどうして素晴らしかったかがよくわかる。この作品は・・・。
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 井口昇監督作は『恋する幼虫』『片腕マシンガール』と観てきて三本目です。その二作よりもハイバジェットのようですが、個人的には二作より大きく落ちます。金を使いすぎて余計な要素を足しすぎている感じがしました。

『片腕』同様、主人公の少女が体に改造を施して敵と戦う話なんですが、『片腕』のよかったところがすべてレベルダウンしている。本当に「すべて」と言っていい。

 主人公を演じたのは木口亜矢というグラビアアイドル、その姉役で長谷部瞳という人が出ています。この二人が主軸になるわけですが、『片腕』の八代みなせと杉浦亜紗美は本当にすごかったのだなとわかりました。正直、木口亜矢は八代みなせと比べるとずっと弱いんです。存在感も迫力においても、最初のうちはアイドル演技が井口演出と調和しているんですが、クライマックスや後半の戦闘シーンで、八代みなせとの差が歴然としてくる。相手役を担う長谷部瞳も弱すぎる。

 『ロボゲイシャ』には杉浦亜紗美が悪役で登場するんですが、彼女がこの映画を保っていた。彼女の切る啖呵は他の女優陣とはっきりレベルが違う。瞭然。悪の用心棒二人組みたいな役で、相方は泉カイというモデルなのですが、ドスの利かせ方がまったく比べものにならない。だからモデルは広告の上でへらついていればいいのです。もっとAV女優に出てもらうべきです。AV女優ってのは、やっぱり吹っ切れている人たちなんです。恥じらいの自意識を越える覚悟がある。主要女性キャストで杉浦亜紗美を上回れる人間がいない。だから映画としてパワーが上がってこない。

ネットで観る限り、八代みなせの事務所ってどうも弱小っぽいんです。それであまり芝居にも出られていない。なんてもったいない。今回ではっきりしました。彼女はやっぱりすばらしい。木口亜矢についぞこもらなかった魂が、彼女にははっきりと宿っていたんです(あ、ちなみに八代みなせはAV女優ではありません)。

いちばんがっかりしたのは戦闘シーンです。『片腕』のオープニングの戦いは本当に、ベタな意味で格好良かったんです。左腕がマシンガン化した八代みなせが縦横無尽に飛び回って不良たちを惨殺し、最後は肩車で敵の脳天を撃ち抜く。このオープニングはすばらしい。そして随所のクライマックスもすばらしい。すごい熱量で、白熱の戦いなんです。

 ところがねえ、『ロボゲイシャ』。尻から武器を出すとか、それはちょっと、ふざけただけじゃないかなあ。いや、井口監督にはいろいろやってほしいので、試みとしてはいいんですけど、結果から観ると、何やってんだ、という代物。前半はいいんですよ。すべての愚を美点に変える井口マジックで、たとえばあの芸者の髪型のアンバランスさも許容できる。なんでそんな格好やねん、というのも好意的に受け取れる。でも、いざ戦いの場面、命をかけた場面では、やはり命がけの態度が必要でしょう。それを尻から武器を出してうんぬんとやられてもねえ、別に笑えなかったんです。ああいうのは笑えないときついです。全部減点材料になるんです。何度も言いますが、『片腕』はその種のおふざけはしなかったんですよ。見た目はふざけていても、その登場人物たちは本気で取り組んでいるように見えていた。肝心なところはしっかり締めていた。今回はねえ、尻から武器を出して「恥ずかしいぞ~」とか言わせるんです。茶番だ。これは茶番だ。

『片腕』で素晴らしかった証明の妙。闇づかい。今回はただの特撮ヒーロー、それも最近の明るすぎる戦隊ヒーロー的照明と同じでした。闇づかいがまるでできなくなっている。前回あんなにも豊かだった明度の妙技が、今回はさっぱり活かされていない。だから画面が薄っぺらくなる。そのうえであんな変な金の使い方をする。木口亜矢も弱い。これでは熱量が高まらない。空虚さだけが浮き彫りになる。なのに『片腕』より『ロボゲイシャ』のほうがいいとか言う人がいるんですから、一体どこを観ているのか。

 物語運びに関しても、つまらなくなってしまった。井口昇は増村保造に似ています。勢いで押してパワーを埋める分、勢いが弱まると絵空事ぶりが際だつ。最近の邦画の駄目なところをすべて美点に変えている、と『片腕』を絶賛しましたが、今回は邦画の駄目なところをそのまま実践してしまった。変にハートウォーミングな展開に持って行こうとして、ぐずぐすした。老人たちとの語らいもそう、姉との語らいもそう、これが八代みなせならまだよかったかもしれないけど、木口亜矢ではどうやっても無理。あんな風にだらだらやらずに、もういっそのこと姉妹の殺し合いにしてしまえばよかったんです。

 何を物騒な、と思われるかもしれませんが、『片腕』はそういう物騒な話なんです。弟を殺された八代が、次々にためらいなく敵をぶち殺していくから熱かったんです。「果たして復讐に意味があるのか・・・」「報復は虚しい連鎖を生むだけでは・・・」とか言い出したらあんなに熱いものは生まれなかった。とにかく仇をぶっ殺す、と八代・杉浦が邁進したからよかったんです。今回は姉妹の和解物語みたいなぬるいところに行っちゃった。だから肝心のクライマックスが余計に盛り上がらない。姉妹は二人とも演技力も迫力もないんだから、下手な芝居打たせずに、ひたすら戦わせる。それで最後の最期にでも、「あんたのことは嫌いじゃなかったのよ」みたいにすれば、悲哀も生まれたのに。

 テレビ局映画って、「観ていられない」「観ているこっちが恥ずかしくなる」類が多いけど、『ロボゲイシャ』の後半が踏んだのはまさにその轍。でも、そうは言いつつも、井口昇監督には好きにやってもらいたいんです。いろいろ無茶なことを繰り返して欲しい。そうすればすごいところに突き抜ける監督だと思いますので、臆面もなく馬鹿なことを続けていってほしいです。
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乗れなかったぼくが悪いんです、きっと。
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海外では興収的な大成功を収めながらも、日本では配給会社が決まらず、ネットを介した草の根署名運動でやっと公開が決まったという作品。そういう種類の作品でいうと近年、『ホテル・ルワンダ』や『ホットファズ』などの傑作が話題になっており、これは期待できるだろうと足を運ぶはシネ・リーブル池袋。

 土曜の昼間であり、シネ・リーブルはデパートの中に位置しているため、たくさんの人で賑わっておりました。そんな環境の中、話題の面白コメディという宣伝文句に釣られてやってきた若輩カプールや親子連れ(R15なのですが、15歳以下に見える子供、しかも女の子がちらほら)が多かったのでした。しかし、くひひひ、蓋を開けてみればなんと下ネタ満載の映画だったのです。くひひひ、トラウマをつくって帰ればよい。館内に響いた笑い声に怯えればよい。

結婚式を控えた新郎が独身最後の夜を楽しむため(バチェラーパーティというそうです)、悪友たちとラスベガスに出かけていきます。一夜を楽しく過ごしたはずなのですが、朝になると誰もが記憶をなくして二日酔い(=Hangover)、しかも肝心の新郎が行方不明、しかも部屋には謎の赤ちゃんと巨大な虎がいる・・・というのが物語のとっかかりになります。こんなことになるなんて、昨夜に一体何があったのか、三人の野郎どもが謎を解くため右往左往の旅に出かけていきます。

 ぼくは序盤、どうしても眠くなってしまいました。どうもよくありません。ぼくはまさに映画内の登場人物同様、彼らがお楽しみの夜に入るのと同時に意識を失い、彼らが目覚めたのと同時に物語に戻りました。ものの数分だとは思うのですが、いやはやこの数分のせいもあってか、いまひとつ乗れない。いやさ、この映画がどうしてこんなにもてはやされるのか、わからないグループの人間になりました。

 公開署名運動でやっと公開にこぎ着けた爆笑コメディ、というわりに、さっぱりその面白さがわからなかった。劇場は結構ウケてはいたんですけど、ぼくはぜんぜん乗れなかったんです。これはぼくにも大きな問題があったのです。数分間、眠気で意識朦朧だったので、その間の内容がよくわかっていない。だから、映画で何か出来事が起こるたびに、「ん? みんなはウケているけどぼくはぜんぜん面白くないぞ。さてはぼくが見逃した数分に伏線が張られていて、それをぼくがわからずにいるのかな」「序盤では夜の出来事は描かれていないという触れ込みだけど、何かしら描かれていて、それを見逃したせいで笑えないのかな」と疑心暗鬼に陥り、余計に笑えなくなったのです。

 しかし映画をいざ見終えると、「夜の出来事」は最後に種明かしされていました。ということは別に、ぼくが肝心の夜を見逃したわけではなかったのです。映画館の観客もまた、登場人物やぼくと同じように、昨夜何が起こったのかわからないまま、この映画に笑っていたというわけです。だとすると、事態はよりいっそう深刻です。ぼくは情報の欠如ゆえにこの映画を楽しめなかったのではなく、この映画のボケの連続それ自体に、うまく反応できていなかったということなのです。はっきり言いますが、なんでそんなにウケたのか、未公開の傑作ともてはやされたのか、さっぱりわかりません(しかしちょっと寝ていたのだから、そう強気にもなれません。今日は歯切れが悪いです)。

 朝目覚めてみるとホテルの部屋に謎の赤ん坊と虎がいる、新郎がいない。なるほどこれはミステリアスな状況です。主人公たちはホテルを出るのですが、次から次へと訳のわからない事態に巻き込まれます。次から次に出てくる訳のわからないもの、それに巻き込まれる主人公三人の悲喜劇ぶりがコメディになっているんですが、それがねえ、別に面白くなかったんです。この映画の笑いが、多くの作品に比してさして優れたものだとは、どうしても思えなかったのです。

 何が何だかわからない、違う言い方をすれば何が起こっても不思議ではない。この状況設定で思い出すのは松本人志の『しんぼる』です。『しんぼる』におけるいちばんの失敗は、その状況設定そのものです。何が起こっても不思議ではないということは、意外性のハードルがすごく上がるということなんです。ということは、多少のボケではこっちの期待値を下回ってしまうんです。

 赤ん坊と虎、はて、これは何なのだろう、とこちらの想像が膨らみます。どう解決してくれるのかな、と楽しみになります。ですけどねえ、その答えがねえ、いやあ、ぼくはそんなに優れた答えとは思えないんですよ。以下、ばらしていきますよ、ネタバレをしますよ、謎の答えに期待する人は、読まないでくださいな。


 赤ん坊はさておくとして、虎の答えがいただけない。だって、マイク・タイソンが出てくるんです。マイク・タイソンが買っていた虎を連れ出してしまったっていうんです。あのねえ、ぜんぜん理に落ちない答えなんです。あらら、そこがそう繋がってこうなっちゃったのね、そりゃまたすごい偶然ね、という驚きがないんです。それとマイク・タイソンっていうタレントに頼るってのは、コメディ映画として弱くないですか? 映画的面白さではなく、「わっ、タイソンだ!」っていう部分に引っ張られるじゃないですか。虎を連れ出した理由がそれなりにわかるものならまだいいですよ。でも結局はよくわからないままだし、タイソンの存在感に思い切り頼り切っているんですよ。

 あとねえ、裸の中国人が車のトランクから出てくるところ。あれもねえ、「わ、なんだなんだ!」感がねえ、弱いんです。ぱっと出てぱっと去って行っちゃうんです。『ボラット』で裸の組み合いをするシーンがありますよね、あるいはジョン・カーペンターの『ゼイリブ』における延々とプロレスをするシーン。ああいうのは、ある程度以上の長さになると、とても面白くなるんです。「なんやねん、いつまでやっとんねん」って感じにじわじわ面白くなる。でもこれ、さささっといなくなるでしょ。だからぼく、寝ていたせいで不安になったんです。「あれ? ささっといなくなったけど、ここまでのどこかで出ていたのかな」って。「ぼくは初めて観たけど、みんなはこいつのこと知ってるの?」って。あそこは裸の中国人に、延々と暴れさせたらもっと面白くなったんじゃないかなあ。
「何だ何だ、なんか知らないけどものすごく切れてるぞ」が強くなったんじゃないかなあ。

電気ショックの場面もそうなんですけど、結構その場その場のボケなんです。後に繋がらない。デブの子供との確執だってあれで終わりでしょ、その後電気ショックが活かされる場面もないでしょ。ああいうのはさあ、少々強引でもいいから、電気ショックの道具をかっぱらってきたらいいんです。そしたらたとえば虎との立ち回りに活かせるじゃないですか。あれも単に睡眠薬で眠らせるっていう、つまらないやり方ですよ。電気ショックで眠らせたはいいけどそのせいでまたタイソンに怒られるとかやれば、どつかれるショック、電気ショックの天丼になったのに(せっかくタイソンを出したんだからもっとどつかせればいいのに! 天丼で行けるのに!)。

 脚本がよくできている、みたいな評価を読んだので、期待したんです。でも、カジノで勝つ場面にしたって、なんで勝ったのかぜんぜんわからないじゃないですか。あの本を読んだから勝ったって・・・・・・どこがうまい脚本なんだよ。何か見抜かれそうになったのを切り抜けるくだりだって、もうあれ以上下手なやり方はないじゃないですか。あの場面には本当に何の工夫もないんですよ。

 下ネタもねえ、そこかしこで出てくるんですけど、『ボラット』『ブルーノ』を観た今となっては、もうあんなの下ネタでも何でもない。あの程度で、お下品でしょ~みたいな顔をされても、サシャの兄貴を知った今では何の快楽もない。かといって子供や若者が満足するような下品さかっていうと違うと思うんですけどね、じじいのけつとか。何がしたいねん。何を見せたいねん。オナニーネタとかも入れてくるんですけどねえ、うん、サシャの兄貴は鼻で笑うでしょうねえ。

 三人組の奔走劇なら、『サボテン・ブラザーズ』を観るほうがずっと楽しい。署名運動の公開作でもバディ・ムービーなら『ホットファズ』のほうが遙かに上。

と、ここまで悪態をついてきたんですが、でもね、結局ね、今回はぼくが悪いんです。断言しますけど、ぼくが悪いんです。睡眠不足のせいで序盤で数分寝てしまい、そのせいでいまひとつ乗れなかったぼくが悪いんです。だからいじめないでください。こういうのは乗れれば面白いと思うんです。実際、大人気を博しているわけだし、この映画に惚れて公開運動で頑張った人もいるわけだし、ぼくが間違っているんです、きっと。だけど、乗れなかった目線で観てみると、もっとここがこうだったら・・・というのは出てくる。「それはてめえの勝手な見方で・・・!」ええ、そうなんです。だから皆さん、劇場に足を運び、ぼくの分まで楽しんでくれやい。と、投げやりにおわり。
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 考えさせる映画ってのは、こういう作品のこと。 
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オウム真理教を追ったドキュメンタリー『A』の続編です。森監督はオウム=絶対悪という図式でしか報道を許さない当時のテレビ局、制作会社に反発して職を辞し、『A』をつくったそうですが、なんとも敬すべきあまのじゃくマインドです。思えばあの頃からちっともテレビは進歩していない、などというと愚痴がまた延びるのでやめます。

 さて、『A2』です。
『A』では広報副部長の荒木浩を被写体として進んでいきましたが、『A2』では上九一色村退去後、方々を転々とする信者たちと、その周辺に住む住民たちの様子が主軸となります。住民たちは当然のように、オウムがやってくることに強い不快感を示します。しかし一方で、信者たちと住民の交友が目覚める場面が生まれ、それがこのドキュメンタリーの大きな醍醐味となっています。

 個人的には『A』よりもさらに興味深い内容でした。まったく長さを感じませんでした。実際問題として、オウムの信者たちというのは、教団が引き起こした一連の事件を受けて、足もとが思い切り揺るがされた人々なんです。俗世を離れ、信仰の道に生きるのだと心底から信じ続け修行してきたのに、一転して絶対悪呼ばわりされたわけです。しかも冷静に考えれば、そう若くない信者もいるわけで、彼らは実社会に出てもどんな仕事につけるかわからない。過去の経歴が露わになれば余計だし、当然世間の目もある。そんな彼らは、もう以前よりさらに、かつて見た幻影を信じるほかない場所にいる。そういう見方もできるわけです。

 どこに行っても出て行け出て行けと言われる。社会的に見れば、彼らの選んだ道は完全にハズレでした。信じてしまった神が、偽物だった。しかしLSDや電気ショックで深い洗脳を施され、自分では解除することもできないし、しようという気になれぬほど洗脳は進んでしまっている。そもそもそんな神を信じるのが間違いだ、などと言うのは後の祭り。なんでいまだにオウムにいるのか。答えは簡単。そこにいるしかないんです。

『A2』で描かれた教団と社会の軋轢は、何も特別なことではありません。いくらでも起こりうることです。町山さんが『ハート・ロッカー』に関する宇多丸さんとの討論で述べていましたが、組織の罪はえてして個人に降りかかる。ある会社が重大な事件を起こせば、たとえそれに関与していない部署の人間でもあっても、「おまえの会社が・・・」と叩かれる。民族についてもそう。特に韓国、中国を嫌う言論についてはそう思う。

 韓国や中国との歴史認識の違いで、彼らを嫌う人がいる。あいつらは間違った歴史認識でうんぬん、日中戦争や韓国併合について歪曲した教育をしてうんぬん、だからやつらの国もその国民も嫌いだ、という人がいる。でも、そういう教育を受けたのは上の世代による不可抗力。歴史絡みで若い世代にまで嫌悪の眼差しを向けるなら、『A2』を観ろ。

 ある教育なり制度なり、そういうものの下で生きてきた人間がいて、それをいくら叩いたって実りはない。むしろ相手は攻撃を厭い、ますます身を堅くし、口を閉ざす。徹底した排斥や従属が狙いなら、その方法は一理ある。一理あるけど、だとしたら歴史から一体、何を学んだ? 確か日本は数十年前、パワーゲームに負けた。

 固くなった。ああ、固くなるのは嫌だよ。やらかいのがいいよ、プリンを食べよう。

 閑話休題、『A2』です。
とはいえ、オウムを受け入れることができない住民側の気持ちだって当然わかる。そりゃテレビや新聞でさんざん悪の集団として報道された人々が、おらが村にやってきたとなりゃすんなりとは行かない。心も固まる。「対話なんてしたくないんだ。とにかくここからいなくなってくれ」という態度を崩せない。こういうのって「対話しよう」と言っても駄目なんですね。「いや、あんたたちとの対話にコストを掛けたくない。もっと考えなきゃいけないことはたくさんあるんだ。息子の就職とか持病の腰痛とか借金のこととか・・・」ってなもんでしょう。とにかくいなくなれ、解体しろ、そのメッセージを放つことで、住民側もまた精一杯なのでしょう。考えるという作業は時間的、精神的コストがかかる。何かを悪と決めつけるほうがずっと楽なんです。当時のマスコミはそれを先導し、無意識的にその態度を肯定していたわけです。後の、アメリカはブッシュズも。
 
考えるのをやめてしまえば、その先に問題に直面したとき、結局はパワーゲームになるほかない。パワーのあるやつが勝ち。人類が人類になる前から採用している至極シンプルなルール。でも、それは結局オウムと同じマインドなんですよね。考えることをやめて、誰かの強烈な意思や思想に肯い、右向け右の号令に従順。率先して流行に恭順。そのしるしに流行ったスピリチュアル。こう生きろ、ああ生きろ、あんたの前世と色が見える。論理は不要、証拠は不要、決めつけてくれと願っている。

 ああ、なかなか映画の話ができない。本来ならドキュメンタリーとして『A2』はどうかという話をしようと思ったのに。まあいいや。こういうことをいろいろ考えさせるってことは、それだけ優れたドキュメンタリーなのさ。
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