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80年代的快楽に満ちている。ぼくはこういうものを愛でる。
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 80年代のアメリカ映画はポップアイコンに満ちています。1979年の『エイリアン』が成功し、2がさらなる大ヒットを収め、当初はB級映画扱いだった『ターミネーター』もまたヒットしている(キャメロンは寡作ながら80年代、90年代、ゼロ年代でそれぞれ超弩級の大ヒットをつくる監督で、多作のスピルバーグとともに現在までの娯楽映画を支え続けています)。スピルバーグと言えば80年代は『E.T』『インディ・ジョーンズ』を作り出している。他にも作品はありますが、この二作はたとえ映画好きじゃなくても知っているポップアイコンです。スピルバーグの盟友ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズも二作目、三作目が80年代につくられており、SFものは大ヒットを連続しました。1982年の『ブレードランナー』はいまやSFカルト映画の金字塔になっていますし、かたや一般向けの大ヒット作なら1985年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を忘れてはいけません。あ、ジョン・カーペンター監督が最も勢いづいていたのもこの時代です。
 ポップアイコンが生まれたのはSFやファンタジーに限りません。ホラー映画もそうです。ゾンビ映画の製作数は80年代が最も多く、『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』がつくられたのもこの時代です。『チャイルドプレイ』のチャッキーや『グレムリン』、『ザ・フライ』も80年代生まれです。
 他にもたとえばあのティム・バートンの『バットマン』がつくられたのもこの時代ですし、『プレデター』が生まれたのもこの頃。とにかくポップアイコンの充実度で言えば80年代を置いて他にないと言ってよいでしょう。『ダイ・ハード』の公開が1988年。現代のいわゆる「ハリウッド映画」のイメージは、80年代製の映画で造形されているのです。

『ロボコップ』もまたその一翼を担います。どんなアホでもわかる単純明快な主人公、ロボコップはその単純さゆえに、人気を集めたわけです。ですが、はっきり言ってロボコップ自体は何も新しくないんです。日本でも『宇宙刑事ギャバン』から続く一連のシリーズがあったし、造形は何一つ目新しくない。サイボーグという設定だって『仮面ライダー』でとうに観ているし、同系統のアンドロイドものだって昔からある。ロボコップのロボット的設定はアシモフの三原則を引き継いでいるだけだし、そういう部分での斬新さは何もないのです。

 ではなぜこの映画がヒットしたのか、ひとつの傑作として認知されているのかと言えば、そこがやはり監督の手腕というもので、ポール・ヴァーホーヴェンの悪趣味さが、単なる子供向けのアイディアに堕さなかったからでしょう。一見馬鹿馬鹿しい発想でもしっかりつくればきっちりした一本の作品となる、その好例です。

 CG技術なんかでいえば、そりゃぎくしゃくもしているし、最近のような本物っぽさはないですよ。でも、あの二足歩行マシーンが社員を銃殺するシーンは、大笑いしてしまいました。ぼかあね、こう見えても一応倫理は持っていて、人死にの場面で大笑いするなんてことはあまりないんです。でも、そのシーンのベタベタ展開がとてもよく収まっていて、とても面白かったんです。こういうところでその監督が信頼できるとわかります。信頼できない監督あるいは脚本の場合、あそこで社員を殺さないんです。別に殺さなくてもいいし、なんやかんやの配慮で、うまく切り抜けちゃうんです。そこを何の躊躇もない手つきで、蜂の巣にするところで、ああ、凶暴な監督だぞこれは、と思わされる。アホやな、と思える。中途半端な監督、もしくは映画制作者なら、あそこで殺さないですよ、今なら余計にそうじゃないですかね。「子供も観に来るのだし、あまり直接的な表現はいかがなものかなあ」「子供も観に来るのだし、殺人の描写はできるだけ抑えたほうがいいんじゃないかなあ」みたいに及び腰になるでしょう。そこを「うるせえ! ここで殺すから面白いんだ馬鹿野郎!」って通している感じがする。
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 ここはこの映画にとってきわめて重要な場面です。というのも、このシーン自体が企業の上層部、エグゼクティブたちの会議を描いているのであって、彼らの一人を撃ち殺すことは、ヴァーホーヴェン監督の、「あんたたちのいいなりにはならないんでそこんとこよろしく」という意思表明でもあるのです。同じような映画があったとして、あそこで殺すか殺さないかは、その監督の態度それ自体を暗示していると言っても過言ではありますまい。映画では殺人の場面が出てきますが、「誰を殺して誰を殺していないか」は非常に重要です。監督の意思や思想がそこに反映されるのです。
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 企業が生み出した新型兵器が駄目だこりゃというわけで、瀕死の警官がロボコップになります。思考や記憶を奪われ、完全な警備ロボットとしてうろつきます。オードリーの春日はそのロボコップの歩き方を参考にしたと思われます。設定の穴を言うなら、どうしてあのロボコップを単独行動させるのか、とは思います。新型機だし、一応誰かが随行するか、もしくは常々詳細な位置情報を把握できるとかしておけばいいのに、そういうのは何にもないです。でもそういうのはぜんぜん気になりません。アホさを抱えている映画というのは、この辺で強いです。まじめっぽくさも細かい設定を施しましたぜという映画だと、細かい部分が気になるんです。『サマーウォーズ』はその系統で、OZなんていう、さも今の技術より進んでいまっせ的な話にしてその空間の描写も緻密にやっているのに、人々の動きがあまりにもずさんだから腹が立ってくるんです。あのばあちゃんになんかいいことっぽいことをくだくだ言わせるから腹が立つんです。『ロボコップ』はいいことなんて一個も言いません。アホが突き進むのです。
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 やっぱり映画っていうのは、「ええこと言うたろ」「きれい事言うたろ」にすると駄目ですね。『サマーウォーズ』のばあちゃんはそこが何も面白くないんです。『オトナ帝国』は真逆で、「俺の人生はつまらなくなんかないぞ!」「お姉さんみたいな綺麗な人とお付き合いしたい! だから大人になりたい!」という格好良くもなんともないメッセージを腹の底から放つからいいんです。
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『ロボコップ』に話を戻すと、ロボコップは悪者を逮捕しますが、警察内部の権力争いみたいな話のあおりを受けてむしろ悪者にされ、今度は一転追われる身になります。それで敵とのクライマックスがあるわけですが、この種のクライマックスではカットの切り替えの速さが大事ですね。その最高峰が『ワイルドバンチ』で、ほとんど視認できないくらいの素早いカット割りによって、観客を酔わせてしまう。そこで描かれていることの規模の大きさとか金のかかり方ではなく、常に何かを動かして観客をくらくらさせること。最近の映画でそれが最もうまくいっているのが『第9地区』でしょう。

 CGがすごい映画の多くは、どうしても見せびらかしに走るんです。ほら、観よ! このすごい映像を! こんなに巨大な、ほら、この圧巻の大迫力を観よ! って方向に、たぶん作り手の誘惑が働くんです。でも観客が本当に興奮するのはそんなものじゃない。チープでもいい。チープでも陳腐でもいいから、見せ方によって酔わせてほしいんです。映画の醍醐味について話すことがありますが、突き詰めればいかにその映画に酔えるかが大事なんです。もちろん酔いの形は様々にある。見終えてからじっくり酔い始めるものもあるし、見ている間ほろ酔いにさせてくれる映画もある。「見ている間は楽しいけれど見終えたら何も残らない」という映画の貶し方がありますが、ぼくはその種の発言が嫌いです。

 観ている間にとことん酔わせてくれるなら、それでいいんです。もちろんそれ以上のものがあるとさらにいいんでしょうけど、『ブルーノ』のとき言いましたが、面白いってことは、確かに残る。知識は忘れ、思想は廃れよう。でも「あの映画、面白かったよな」ということは、確かに残るだろう。『ロボコップ』は面白い映画です。ぼくは全面的に擁護したいと思います。
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なぜ彼らはあれほど世界の中心にいられるのでしょう?
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言わずと知れた昨今のアニメヒット作、先日もテレビ放映されていたようですね。いい評判を聞いていたので、怪しんでいました。きっと適度に何かあって、適度に何もないのだろう、と思っていたらその通り。女子供を巻き込んで大ヒット、評判の作品をつくるとなれば、この適度さが大事なんですね。今からあれこれ書きますけど、ぼくが間違っているんです。これだけヒットして評判も上々なら、それでいいんです。それが正解。難癖つけるぼくが馬鹿なんです。

 仮想空間OZというのが出てきて、そこでのアバターの戦いがクライマックス、活劇的快楽の部分を担うんですが、ここはねえ、あのー、涼宮ハルヒの「射手座の日」のほうが、よほど愉快さに充ち満ちているんです。そりゃあ製作費が違うからクオリティも違うし、三次元的表現だってこの映画のほうがよくできている。けど、絶対「射手座の日」を推します。あれはすごく楽しい回ですよ。
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 アバター空間がね、ポップな雰囲気に充ち満ちすぎ。いや、でも、女子供にはこれでいいんです、きっと。変にダークな雰囲気を入れる必要はなく、ご家族で安心して楽しめるし、誰も彼もかわいー! ってなもんでしょう。でもね、どの目線で見たらええねんってことにすごく戸惑うんです。なんやえらい大ごとになっていると。実社会にも影響を及ぼしていると。そのくせなんかぺらぺらのキャラクターがぺらぺらの空間で飛び回っているのを見せられても戸惑うばかりなんです。キーボードを叩いて蹴りを入れたり飛び跳ねたりっていうのもよくわからん。すごい速度で叩いて登場人物の巧さを表現しているんでしょうけど、ここが「射手座の日」を推すところなんです。
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「射手座の日」では長門有希がキーボードを高速打鍵しますけど、あれはプログラミングを書き換えているんです。だから「おお、こいつぁすげえぜ」ってのが、素人目にもわかるんです。ただ今回の場合は、どういう仕組みで何がどう動くのかさっぱりわからない。「射手座の日」はね、言ってみればファミコン的なパソコンゲームを、ハルヒやみくるたちが戦艦に乗っている形でなぞらえていたからいいんです。この映画はまんまディスプレイの中で行われているということでしょ。なんじゃそら。どの目線で見ていいのかわからん。仮想的な現実として見ればいいのか、ディスプレイの中の画面として見ていいのか。その境界を曖昧にしているのかもしれないけど、これはぼくにはとても入りにくかった。
それと、空間の守り神って、何?
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 先にこのOZ空間の話をしてしまいます、つまりはクライマックスの話までしてしまいますが、花札で戦うくだりもよくわからん。ものすんごい強い敵がいて、それと花札で勝負するっていうんです。でね、花札で戦っていたら世界中が応援し始めて、いざ決戦みたいな話なんです。なんで世界中の人間が応援しだしたのかさっぱりわからん。しかも花札って。ぼく、花札のルールを知らないんですけど、世界中の人々がこぞって応援し出すくらい、花札って世界的にメジャーなものなんですか? ぜんぜん知らないゲームでぜんぜん知らない国の人が戦っていて、それで世界中が応援し始める? ぼくにはこの主人公たちの「世界の中心」ぶりがまったくわからない。世界中にめちゃめちゃ普及しまくっているコンピュータの戦いでいちばん強いのがようわからん中学生で、花札をし始めたらみんな応援しまくって、最後の最後も暗号解読か何かを一介の高校生が成し遂げて。なんで外の世界がここまで無能なのか。花札勝負するまでだって、こいつらは飯を囲むかなんかで悠長にやっていたんです。その間に世界中からアクセスがあるでしょうよ、もっと専門的な技術者も動くでしょうよ。外の世界が何もないんです。エヴァの比ではありません。

スーパーコンピュータを持ち出したりなんだりで、「俺たちがやるんだ!」ってはりきるんですけど、観ている側としては、「こいつらに世界を託すしかない!」と思えなければ白熱しないでしょうよ。こいつらみたいなやつは他にもおるで、いやもっとすごい力で動けるやつはぎょうさんいてるやろ。褒めている人たちは、そういう風には思わないんですかね?

 要はこの話は家族のつながりが世界を救う的な方向性なんでしょうけど、彼らのあまりの世界の中心ぶりが、病的な家族愛主義をも思わせる。その点ハリウッドを遙かに超えている。家族に入れなかったやつをわるもんみたいにするんです。家族にうまくなじめなかったやつにだってそれなりに事情があるだろうって。つながりが大事だみたいな感じでも、「おめえのそのノリがこっちはうっとうしいんだよ」という場合だってあるだろうって。少なくともぼくはこの大家族を見て、ああ、家族のつながりっていいものやな、大事やなとはまったく思えませんでした。「人がいっぱいいると、何かと助かる」というのはわかった。でも、「家族のつながり」「絆」みたいなもんは、何にも伝わってこない。いや、別にそれを伝えたいわけじゃない、というかもしれんけど、それにしちゃあ家族をたくさん出し過ぎて、そこに時間を掛けすぎていますわな。主人公にも言わせるんです。みんなでご飯を食べておいしかったみたいなことをね。だったらそれを食事風景の中で描いてくれよと思います。別に君はそんな楽しそうに飯食うてなかったやん。
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 なんかね、世界救済という成功譚と、家族が大切というノリが、ごっちゃで称揚されている感じがして嫌なんです。実際パソコンで戦っていただけで、家族は何もしていませんからね。家族の誰かのなんでもない知恵が活かされたとか、そういうのがあるわけでもなし。誤解の無いように言いますけど、ぼく自身は別に家庭事情に問題を抱えているわけではないですよ。温かい家庭像に恨みや羨望が募っているわけでもないんです。でも、なんかノリでええもんみたいに描かれているのが嫌なんです。
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 キャラ設定もなあ、ひとつ大きく気になったのは、あのカズマという少年です。
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 声は明らかに女ですよね、髪も長いし。だったら女子でええやん。あれを女子にしていたら結構な人気キャラ一人できたと思うんですよ。あれを男子にしてしまうと、これまた見方がわからん。声質が完全に女子。事務所的なにおいがしますね。あとはこれだけたくさん出した割に、こいつ面白いなっていうキャラクターが少なすぎませんか? かなり記号的、役割的なんです。こいつくだらないこと言うなあ、こいつは笑わせてくれるなあというのが少ない。どんなやつなのかわからないキャラがいっぱいいる。生活感が皆無。全員を描き出せなんて言わない。ただ数人でいいから、立っている家族が必要です。

 アニメの質は申し分ないと思いますし、現実の家族の部分と仮想空間の二本柱っていうアイディアもいいと思うんです。でもその描き方はすっごく薄いと思うんです。だから最初に言った話で、適度に何かあって、適度に何もない。ぼろくそに書いておいてなんですが、バランスを見事に取り、商業的にも世評的にも成功を収めているんだから、これ以上何か言うのも野暮のきわみでしょう。まだまだ書き足りていませんが、ひとまずここまで。
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サスペンスとしてはあまりにも脇が甘い。
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TSUTAYAの「100人の映画通が選んだ本当に面白い映画」というキャンペーンで、一押し作になっていたので、借りてみたというわけで。

 『ジャガーノート』の「ノート」は"naut"=「航行する人」という意味で、豪華客船が舞台のパニック映画です。豪華客船に爆弾が仕掛けられ、その解除に乗り出した爆発物処理班の活躍、特に主演のリチャード・ハリスの活躍が描かれます。

 この1974年にはあの『タワーリング・インフェルノ』が公開されています。どちらも緊迫した状況下の人々の動きを描いていますが、この種の話はやはりハリウッドが強い。『ジャガーノート』の製作国はイギリスですが、イギリス的なお上品さと地味さゆえに、『タワーリング~』あるいは『ポセイドン・アドベンチャー』級の傑作を期待すると、ちょっと物足りないです。

 この映画はいわゆる「赤か、青か」型の爆弾解除サスペンスの嚆矢と言われているようです。ありますよね、爆弾の解除作業で、最後の最後にどちらか一本のコードを切るっていう。『古畑任三郎』のキムタクの回は、この映画のラストを丸パクリ、もう完全にパクっています。爆弾解除サスペンスのハラハラはしかし、どうしても弱点があって、それは「主人公は少なくともラストまでは死なない」ということです。主人公が死ぬと話が終わるので、結果はわかっているわけです。
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 もちろん、どんな種類のサスペンスであっても、この形式に縛られるものです。中盤で主人公が窮地に陥っても、どのみち助かるだろうってことは、観客は予想しているし、作り手もそこを裏切るわけにはいかない。その部分で驚きをつくるのは至難です。だからこそ、作劇は結果をどうするかではなく、過程をどう描くかによって差異、個性が生まれるのであり、ではこの『ジャガーノート』の場合はどうかといえば、やっぱりちょっと地味すぎる。

リチャード・ハリス演じる主人公ファロンはね、どうしたってそんな派手な動きはできないんですよ、だって黙々と爆弾を解除するしかないですから。そこは仕方ない。だったらどこで映画を盛り上げるかと考えたときに、乗客の動きが大事になるわけです。というか、豪華客船で1200人の乗客が乗っているとなれば、彼らを有効に使わない手はない。ところがこの映画はその乗客の動きにまるで意識を払っていないんです。

 顕著なのはあのガキです。一人のガキが船内をうろうろし始めて、乗客が入ってはいけないところに入って、そのせいでアル・パチーノみたいな髪型の一生懸命な船員が一人死ぬんです。しかもそいつの死が以後一切悼まれることがないばかりか、このガキは仮装パーティで楽しげにわいわいやっているのです。
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 あのー、ごく当たり前のことですけど、こういう映画ってのは、登場人物に助かってほしいと思えなければ、観ていて何のハラハラもないんですよ。乗客の命はどうなるんだ、ああ、また爆発だ、ハラハラとなって、映画を楽しむわけです。ところがこんな風に無反省なガキにわいわいやられたら、ちっとも助かってほしいと思えない。むしろどうぞ死んでくれとさえ思う羽目になります。仮装パーティが船内で開かれるシーンがあるんですが、一応乗客の憂い顔は映すんですよ。楽しげな格好をしていてもふと映る表情は心配そうな面持ちだったりするんです。でも、あくまでそれだけ。心配そうな顔をするだけ。どうなっているんだ、大丈夫なのかよ! と激高する乗客も出てこないし、『ポセイドン・アドベンチャー』におけるアーネスト・ボーグナインみたいないい感じの邪魔キャラも出てこない。途中、三回くらい爆発が起こるんです。そこを活かせばいいのに。一回目の爆発がそこそこの規模なんだからそこで不穏な噂が広まって、後の爆発で船体を大きく揺らして乗客の不安をさらに高めてってやればいいのに。ぜんぜん乗客の不安さが伝わってこないんです。処理班が船に乗り込むくだりを乗客は見ているはずなのに、それも何も活かされない。クライマックス感も高まらないわけです。
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 犯人が自らを「ジャガーノート」と名乗って接触してくるんです。このファースト・コンタクトは結構いいんです。不気味な存在というのが出ていて。でもねえ、犯人像も別に何も面白くないし。ものすごい拍子抜けです。別にいいんです。どうやってあんなに大量の爆弾を仕掛けたんだとか、あんなドラム缶に入れた爆弾を客船にどうやって運び込んだんだとか、そういうのはどうでもいい。そこは笑ってスルーできる。でもねえ、犯人がぜんぜん面白くないんです。誰やねんみたいなじじいだし。犯行の動機もよく思い出せないっす。爆発まであと数分しかないぞ! というタイムリミット感も、はっきり言いますが、ゼロです。早くしないと時間がない! は映画的に絶対使えるのに。というかもう、そこに頼るべきでしょう、この映画の作りなら。

 船外の政府関係者、軍関係者みたいなのも、なんか無気力。船長も無気力。ただ一人、爆弾解除のリチャード・ハリスだけが頑張っていたような映画です。『タワーリング~』や『ポセイドン~』のような興奮を期待したのですが、大きく外れました。TSUTAYAは面白くなければ返金! というのですが、ディスカスの場合は適用外でしょう。無念。
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「女性監督作を観るとき用」の目線が必要なのかも、と思い始める。
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 新文芸坐で『ハート・ロッカー』と二本立てでした。二作とも女性監督作で、二作とも当年の受賞レースを総なめにした作品です。『ハート・ロッカー』が灼熱のイラクを舞台にしているのに対し、『フローズン・リバー』は冬のニューヨーク北部。やっぱり新文芸坐はなかなか粋なことをしよるなあと思います。

 さて、『フローズン・リバー』ですが、ほぼまったく予備知識のない状態で観まして、観る前は同じような「寒い場所としてのアメリカ」映画の傑作、『ファーゴ』のようなものを予想、あるいは期待していましたが、ずいぶんと違いました。

 貧困層の家族、母親が主人公で、彼女があるときモヒーク族という先住民の女性に出会います。その女性は密入国の手伝いをしていて、主人公は犯罪だと知りつつも、逼迫した経済状態を回避すべくその手助けをし始めます。

 結論からいうと、ぼくはうまく感応できなかった。すごくたくさんの賞を取ったりノミネートされたりしているわけですから、きっとぼくが感じた以上にすごい作品なのでしょうけれど、ぼくは退屈に感じました。このタイプの作品は、もっと知識なり問題意識なりを持っていないと十全に楽しめないように思うのです。

 たとえば『グラン・トリノ』でも、モン族やアメリカ社会の実情みたいなもんを知っていないと、どうしても入っていけないところが大きいんです。今回の場合でいうと、モヒーク族というのをまずぼくはよく知らない。アメリカ先住民やな、いわゆるネイティブアメリカンなのやな、というのはわかったんですが、モヒーク族について詳しいことを何も知らなかった。映画内ではその辺の説明はほとんど行われないし、あの密入国がどれほどにリスキーなことなのかももうひとつよくわからない。警察がどれくらい取り締まりに力を入れているのかいないのか、ぼくにはよくわからない。密入国者のバックボーンもよくわからない。逆に聞きたいです。この映画をよかったと言っている日本人は、その辺の事情をどれくらい知識として持っているのか。

 いやもちろん、映画の楽しみは必ずしも知識の有無によって決まるものではありません。そんなことを知らなくても、あの主人公レイを演じたメリッサ・レオと、完璧なおすぎヘアーのあの女性との心の交流うんぬんに感動することはできましょう。でもその場合は、状況的などうしようもなさとか、くぐり抜けた修羅場の苛烈さとか、そういうものがもっと描かれないといけないと思うんです。

 主人公は二人の子持ちですが夫が蒸発してしまい、トレーラーハウス生活で食費にも困る始末。年上の子供は貧困ゆえに犯罪にまで手を出そうとする状況。主人公は貧乏である、生活に逼迫している、ということは一応、くどいほどに描かれるんです。でも、ここは本作に限らずアメリカ映画が全般的に苦手な部分だと思うんですけど、貧困の描写がどうも生々しくないんです。ニューヨーク北部の極寒の地方なんですから、その寒々しさはもっと生活感に反映できたんじゃないですかね。それこそ、「ああ、寒いなあ、寒くて寒くて仕方がないよ」という描写を活かせる舞台だったんです。全編通してね、「ああ、これは寒いわ、これはきついわ」というのがないんですよ。むしろ印象深いのは凍河の風景の美しさとかそっちのほうで、「こいつら無様だなあ、きついなあ」というのが非常に乏しい。
 
 アキ・カウリスマキはそこが異常なくらい上手いんです。フィンランドを舞台にした日本映画『かもめ食堂』を観れば一目瞭然ですが、同じ国を描いてもこんなに違うかというくらいに寒々しい。その寒さがあるから、人々の交流だの家族の豊かさだの絆だのが生きてくるんじゃねえの? この地味な話で活かせる強みは、そこなんじゃねえの?

 話運びについても、重要な部分でちょっと首をかしげるところがあります。主人公があるパキスタン人の密入国者を車のトランクに隠し、斡旋業者のもとに運んでいくのですが、その途中でその密入国者の荷物を捨ててしまうんです、極寒の凍河に。相手がアラブ系だから「テロリストかもしれないわ、爆弾かも」みたいな偏見を持って捨ててしまうのであり、あとあとそれがとんでもない事態を招いたとわかるんですが、このくだりが大いに引っかかる。密入国者の荷物を勝手に捨てるという行為がよくわからない。後で絶対もめるやん。「あの荷物どうしたの?」ってなるやん。しかも相手がテロリストだと想定してそんなことをしたのなら、後々捨てたことが大問題になっておまえが殺されるかもしれないわけやん。ほいでこの行動がかなり唐突な感じなんです。それまでそんな早とちりをするキャラクターとして主人公は描かれていないんです。ネタをばらすと、その荷物の中身は密入国者の赤ん坊だったんです。これでさあ大変、となるんですけど、密入国者が赤ん坊を荷物に入れておくのもよくわからん。大事な赤ん坊なんだから抱いておけよということじゃないですか。万一の事態で離ればなれになったら大変だし、実際そうなってるし。あの状況で赤ん坊をあの荷物に入れておかなきゃならない必然性がぜんぜん見えない。ばれないようにしていると言っても泣き出せば一発でばれるし、泣き声でばれるのは怖いはずだからそれならなおのこと抱いておけるようにせえよ。結構大事なシーンなんですよ。それでたぶん、このシーンで描きたいこともたくさんあるんでしょう。でも、そういう現実的な土台の部分がゆるゆるなんですよ、だから母性がどうの人を思う心がどうの言われても、ぴんと来るわけがないんです。

 すごく地味で、小さな話なんですよ。そういう話って、人物の実在感とか生活の生々しさとか細部の描き込みとかそういうのが勝負なんです、絶対。細かい部分への意識はかなり希薄だという印象を受けました。でも、最近思うのですけど、ぼくがこれまで女性監督の作品でいいと思ったものって、ほとんどないんです。だけど世間的にも高評価だったりするわけで、そうなるとぼくのほうに問題があるのではないかとも思うんです。少年漫画と少女漫画の描写がまるで異なるように、女性監督の場合はかなり目線を変えて観る必要があるのかもしれません。ぼろくそに書きましたが、もっと積極的な学びの視座を得る必要はあるんです、ぼくの側にね。なんて、いたずらな前向きさを漂わせて、今日はこれまで。
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もっとよくなった、という点がいろいろ。
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バルト9で6月からやっていたのですが、深夜0時40分からの上映というなんともどうしようもない時間で、やっと池袋に来てシネマロサ。シネマロサは『第9地区』もやっていたし『グラントリノ』もやっていたし『ハートロッカー』もやっていたし、わりと足を運んでいる場所です。東口のシネコンより映画好きに訴えるセレクションです。

 しかしどうも上映環境がよくないのか、聞き取れない会話なんかも結構ありました。何より画がちょっと滲んでいた。あれはカメラのせいじゃないと思うんです。1を新文芸坐で観たのですが、1に比べて画質が荒くなっていて、それはシネマロササイドの問題だと思うんです。ネットのプロモーション映像のほうが鮮明なくらいですから。一体どうしたことでしょう。

さて、内容のレビウに移りますが、これは自主製作映画『サイタマノラッパー』の続編で、一作目が埼玉を舞台にしていたのに対して群馬が舞台。タイトルにあるとおり、ラッパー志望の女性が主人公です。年齢的には20代後半なので、女子というより女性です。ところで、ここ数年、大人の女性を「女子」と呼ぶ風潮があるようですが、この呼称はどの程度にギャグなのかわかりません。ぼくが知るところだと以前、眞鍋かをりが「女子」という言葉をよく使っていました。他のタレントは「女の子は~」などと言っているのに対し、眞鍋は「女子は~」と言っていて、それがちょっとギャグっぽいニュアンスを帯びていたものでした。まあ、「女ラッパー」というのだとちょっととがりすぎているし、「女性ラッパー」だとしっかりしすぎだから、「女子ラッパー」に落ち着いたのでしょう。

 序盤はとても好感が持てました。ああ、この映画は一作目以上に好きになれそうだぞ、とうきうきしながら観始めました。主人公のアユムを演ずる山田真歩の存在感やだささもいいし、グループのキャラクターも立っていた。かつて高校時代に組んでいたグループを再結成しよう、という話になるのですが、そのために集まる倉庫のシーンは絶品だった。長回しが非常に多用されている、いや長回しが基調となっている本作は橋口良亮的リアリティとは反対で、演劇感が強いです。倉庫のシーンは演劇的。でもその分、個々の登場人物が前に出る芝居をするため、キャラクターの描きわけが早々となされます。

B-hackという主人公のグループは五人組ですが、それぞれがいいんです。ああ、こいつらの話は観てみたいわあと思わせる、魅力的な五人組だった。なんていうか、いい感じで被っていて、いい感じで被っていない。ああ、こいつらが仲良くなっていった過去がなんかわかるよ、という素敵な五人で、初めて観るはずなのに、なぜかグループが再結成した感動みたいなのが伝わってくる。1作目でも倉庫シーンがありましたが、あれよりも好感が持てた。だからねえ、だからちょっと、残念なんです。

 基本線は1と一緒です。ライブをしたい、でもうまく行かない、グループはばらばら、そしてクライマックスの感じも似たような感じ。ラップをやらされる状況を痛々しく描くのも同じ。すっごく似ています。だからちょっと、拍子抜けしました。違う形が見いだされるのかと思いきや、ほとんど同じなんで。

 プールでライブをやらされるシーンがあって、これは1の会議室に相当します。話運びも同じなんですよ。ライブの依頼があったと言って喜んで行ってみると、想像と全然違ってすごく情けない状況に置かれるというね。はりきっておめかしして出かけたのに、水着を着せられて見せ物みたいにされて、誰もまともに観ていない、あるいは冷やかされている、みたいな状況です。ここがひとつの分岐点になって、もう嫌だみたいな感じになって二人が脱退してしまいます。

 実はぼくも過去に舞台に上がり、痛い目に遭ったことがあります。大学一年、入学二ヶ月くらいのときに大学生のイベントで漫才をやり、調子乗りの若者に冷やかされながら漫才をするという経験をしたんです。うわあ、辛いなあというのは味わったことがあります。だから思うのかもしれませんが、どうもあの場面は、そこまで痛々しくないんです。うわあ、こいつらは今、痛い目に遭っているなあというのが出てこない。あれはね、ぼくが思うには、後ろから撮るべきなんです。正面から彼女たちの歌い踊る様を見せるんですが、そうじゃなくて背後から撮ったほうが絶対哀しくなる。そのほうが観客は彼女たちの目線を共感できると思うんですよ。無関心なプールの客の様子とか、彼女たちが見てしまっている寒々しい風景が見えたと思う。1では会議室ライブの後、補足があったんです。真面目な大人との質疑応答みたいなやりとりが哀しさを増したんです。そういうのがないのであのシーンの痛々しさが強くならない。笑いの場合はね、もっときついんですよ。受けなかったということが完璧にわかるから。あの場面は正面から主題歌を聴ける初めての場面でしょ。観客としてはそこに「待ってました!」を感じるので、痛々しさのほうに意識が行ききらないんです。あのシーンは絶対もっとよくなったんです。

 それでいうと、これは『レスラー』方式になるけれど、タイトルを出すときに過去の栄光をがっつり流したほうがよかったんじゃないですかね、せっかくそのシーンを撮ったんだし。高校時代の美しい思い出が数カット入るんですが、あの形で主題歌を聴かせてから本編の話をスタートさせたほうが、思い出と現実の落差が強まったし、五人の来し方もさらに色濃く見えたはずです。過去と今の対比、はもっと使えた。1のIKKUたちはそれを持っていない、いわば『キングオブコメディ』のパプキンだけれど、今回の彼女たちにはほんの一瞬でも『レスラー』のランディのごとくに輝ける時代があった。そこはもっともっと使えたと思うんです。

プールシーン以後、話は沈む方向に行きます。仲間もさらなる不遇に見舞われ、ラップどころではなくなり、主人公アユムもつまらない日常に逆戻りとなります。ここがちょっと単調でした。いや、単調なら単調でかまわない。つまらない日常なりうまくいかない煩悶なりをテンポ良く描く必要はないし、等身大の生活の退屈さを描くには単調でもいい。でも、それならたとえば実家のこんにゃく屋はもっと生々しくないと。ラッパーに憧れながら実家のこんにゃく屋を手伝っている独身女性の悲哀、をもっと出さないと。その方法としては、こんにゃく精製の描写をもっと丁寧にやるべきです。たとえばアユムのこんにゃくをつくる手つきがやたらとよかったり、こんにゃくの出来具合を気にしていたりすれば、「ああ、望んでやっていることでなくても、いつの間にかうまくなっているのだな」となって、彼女の来し方もより生々しく見えてくる。今回のこんにゃく屋という設定はかなり記号的でした。いや、わかるんです。こんにゃく屋という設定にしたことで、あのソープランドに持って行くくだりがあったわけだし、それでこそ「あたし、何してるんだろう」が強くはなった。でも、もっと強くできた。

 先ほどから「もっと」を多用していますが、見終えると改善できる点がいろいろ浮かぶのです。クライマックスにしても、IKKUたちが出しゃばるのが唐突です。彼らはそこまで物語を担っていなかった。なのにクライマックスで出てきても、そんなに感動はないです。前にも書きましたが、この手の話はどれくらいそのモチーフに呪われているか、がとても大事なんです。夢を持ったり何かに没頭したりすることは、呪われることです。呪われる、というのは、縛られる、とはちょっと違う。縛られるというのは思考や行動を抑制されるという意味ですが、呪われるというのは、ある思考や行動に快楽を見いだし、さまようことです。その意味で夢も愛も希望も呪いです。このアユムには呪いがないんです。ラップならラップで、ラップに呪われているなあ、とどうしても思えない。劇中、ライブをしたい、でも金がない、というくだりがあります。アユムたちはある思い出の場所でライブをしようとしていたのですが、そのステージの設営費が調達できず、どうしようかと途方に暮れます。この時点で呪われていないんですよ、縛られているんですよ。本当にライブがしたい、今後も活動していきたいと思うなら、助言通りにライブハウスでやればいいんです。でもそういうことをせず、まるで自分たちの思い出を再現しようとしているだけに思える。ははーん、さては本当にラップがしたいわけじゃねえな、と思わされる。

 サイタマノラッパーには期待するものがあるんです。だから次作もきっと観ます。でもどうも前作同様、いや前作に比べても、呪い濃度が薄まっている気がします。登場人物も魅力的だったのに、もったいなく感じることが多々ありました。次は栃木に行くらしいですが、次も同じ調子というわけにも行かぬでしょう。どう出てくるのか、楽しみであります。
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復讐者の哀しい熱さ。
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原題『Death Sentence』
チャールズ・ブロンソン主演、マイケル・ウィナー監督の『狼よさらば』(原題『Death Wish』 1974)のリメイクと聞いていたのですが、内容はまるで違いました。原作小説を同じくしていても、まったく違うテイストの映画でありました。
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 ケヴィン・ベーコンが息子を殺され、復讐に乗り出す話です。復讐を果たすと相手のギャングに恨まれ、それからさらなる大騒動に発展していくことになります。きわめてまっとうな「復讐もの」です。『狼よさらば』は「妻を殺された」→「犯人はごろつきらしい」→「とりあえず街のごろつきを殺しまくってやる」という実に凶暴な映画ですが、『狼の死刑宣告』はあくまでも特定の相手に的を絞る一途な復讐劇です。

「復讐もの」はここでもいくつも取り上げていますし、物語のとっかかりとして用いやすい題材です。「復讐もの」の分析をしたいところですが、長くなりそうなのでひとまず回避。『狼の死刑宣告』は前回取り上げたカーペンターの傑作に続き、非常によくできた作品でした。これはとてもよかった。

 やっぱりね、復讐ってのは、燃えるんです。昔、『金田一少年の事件簿』『名探偵コナン』が好きで読んでいたのですが、事件が解決して犯人が動機を語ると、金田一少年やコナンは往々にして「復讐はよくない」みたいなことで説教するんです。「復讐したって殺された家族は喜ばない」だの何だの言うんです。小中学生の頃のぼくは「そうかな?」と思っていて、今でも「そうかな?」と思い続けています。

 もちろん、復讐、仇討ちを禁ずる近代的な考え方には合理性があります。国家が代行しているからこそ、ぼくたちの社会が今の形で守られているわけです。でもそれは、国家による代行が充分になされていることが前提であって、充分でないと思われるなら、復讐したくもなるでしょうよ。『忠臣蔵』が長年にわたって人気なのは、「浪士たちの忠心」によるのではなく、「美談としての復讐」ゆえではないでしょうか。近代国家が押さえ込んできた生身の感情を赤穂浪士たちに見るから、人気なんだと思うんです。

 さて、映画の話をしましょう。ケヴィン・ベーコン演ずる主人公は仕事もきっちりこなすマイホームパパですが、まったく同情の余地のないような形で息子を殺されます。法廷の裁きは充分なものにならないと見込んだベーコンはあえて犯人を訴えず、自らの手で復讐を遂げます。しかし殺した相手はギャングのボスの弟。ボスは怒り出し、ベーコンは次の悲劇に巻き込まれていくのです。
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 こういうギャングみたいなやつらが世間をおかしくするのです。というとすんごくまじめっこちゃんな文になりますが、ぼくが特に嫌なのは、このギャングどもが明らかに逆恨みをしているからなんです。ベーコンはハムラビ法典的に「目には目を」の原則を守った、いわば「正しい復讐」なのであって、そこで腹を立ててくるギャングが理不尽なのです。私的復讐が駄目だということになったのは、この「逆恨み」という考えのせいなんです、たぶん。ぼくの考える、「この世界を駄目にしているもの」トップ1は「逆恨み」です。「うるさい若者を注意したら殺された」というような事件があったじゃないですか。そういうのはめちゃめちゃ腹立たしいのです。逆恨みですもん。ぼくは終始、このベーコンに頑張ってもらいたいと思いながら映画を観続けていました。「群れてちょけて迷惑をかけているやつらは基本的に殺してよい」と思っている狼マインドのぼくにはびびびと来ました。ちょけているやつらに立ち向かうただ一人の普通の人間、というのは格好いい。そして、この映画はきちんとその後、ただ格好いいだけで終わらせないところもまたいいのです。

 監督は『SAW』シリーズの生みの親、ジェームズ・ワンで、使われる音楽も『SAW』に酷似していたりします。『SAW』大好きのぼくですから、肌に合います。圧巻なのはギャングから逃げ回る立体駐車場とそこまでの追走劇。『トゥモロー・ワールド』を彷彿とさせる長回しの美しさ。規模としては決して大きくないのに、いや数あるアクション映画の中で言えばかなり小さなサイズの出来事なのに、あのシーンは見せる。ガンアクションでもカンフーアクションでもない地味なものだけれど、場面としてとても強い。
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 ケヴィン・ベーコンがこれまたいいんです。『狼よさらば』のチャールズ・ブロンソンもいいんですが、彼よりも弱さが引き立っていて、それでいていざ暴れたら強そうな感じもある。変わりゆく表情の豊かさ。
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『新宿インシデント』におけるジャッキー、そして『わらの犬』のダスティン・ホフマンを思い出しましたし、あの変貌は『タクシー・ドライバー』のロバート・デ・ニーロ、つまりは我らがトラヴィス・ビックル。ジェームズ・ワン、ケヴィン・ベーコンの新しい代表作として異論はないでしょう。監督はこれを20代で撮っているのです。恐いです。

本作が映画として強いのは、単なる格好いい、気持ちいい復讐劇じゃないところです。悪者を倒して万事解決、じゃないんです。復讐を果たして満足、じゃないんです。「復讐を試みなければ失わなかったもの」を失っている哀しさが、全面に出ているんです。それはつまり、「復讐心という呪いに縛られた者」の哀しさでもある。冷静に考えればベーコンは、復讐しないほうがよかったわけです、絶対。だから冷静に考えれば復讐は割に合わない行為なんです。わかっている。それはわかっている。でも、それでも行かなきゃならねえ、ぶち殺さずにゃいられねえんだよ! というこの哀しさ。怒りと悲しみってのは表裏一体で、ある不幸な状況を受け入れることが「悲しみ」で、その不幸を受け入れられずにいるのが「怒り」だと思う。愛する者を殺された場合の復讐って、どのみち「悲しみ」にしか至らないんです。いや、余計に深い悲しみを呼び込むかもしれない。だから復讐はやめろ、というのは簡単ですが、人によっては、その「怒り」が自分を支える最後の希望だったりするんです。怒らないと、砕けそうだ。その生き様が、哀しいのです。映画の最後、敵のボスが「おまえも俺たちと同じだ」と呟く。不倶戴天の仇と同じ存在に堕する生き方、それを選ばざるをえなかった主人公、哀しさ全開です。
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 いい映画です。『狼よさらば』は復讐の哀しさがなかったんです。ラストでチャールズ・ブロンソンはにかっと笑っていたし、悪魔化して終わっただけに思えた。そういった部分でもぼくは、『狼の死刑宣告』のほうがずっと好きなのです。こちらをお勧めします。
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