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テーマとガキ度の食い合わせに疑問。
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 久々にシュワルツェネッガーの映画を観ました。というか、思い返すにぼくは彼の作品って、『ターミネーター』シリーズと『プレデター』しか観ていないです。映画は人より観ているけれど、彼に対しては人並み程度の興味しかないのですね。スタローンとともに80~90年代のハリウッドスターアイコンとなりましたが、断然スタローンのほうが格好いいし。シュワルツェネッガーがポップになった背景にはやっぱり、彼のあの外見が「強いアメリカ」の象徴になり得たからでしょう。名前もすごく強そうですもんね。どんなやつかまったく知らなくても、「シュワルツェネッガーに言いつけてやる」「シュワルツェネッガーさんなめとったらあかんど」と言われたらびびりますもんね。「シュワちゃん」という呼称は個人的には嫌いですので、しつこくシュワルツェネッガーと呼びます。いや、それだと長いので、英語圏の愛称だという「シュワルツィ」を用いましょう。

 さて、『トータル・リコール』ですが、ガキ度満点の映画でした。どんがらがっしゃんな映画でした。

 お好みの記憶を売りますよ、実際に旅行に行ったりしなくても行ったような気分を味わえますよ、というか、「実際に旅行に行った」という記憶そのものをお売りするのですから実際に行ったも同然なのです、これはなんと画期的でしょうか、みたいな企業があって、シュワルツィがそのサービスを体験しに行きます。
「いろいろなコースを選べますよ」
「ふむ、このスパイコースってのは何だね」
 とシュワルツィは興味を示し、その記憶を植え付けてもらうことになります。そこから大波乱の物語が幕を開けるのです。
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 ガキ度満点でとにかく映画的な面白みをふんだんに詰め込み、どんぱちもおぱーいも織り交ぜての大活劇、これは楽しめるはずなのですが、意外と乗れませんでした。なぜなのかと考えてみると、わりと理由ははっきりしています。

 やっぱり、観ている間こちらは、「この冒険活劇も結局は嘘の記憶じゃないかしらん」と思い続けてしまうのです。映画内において現実と見えているものも、実はすべて嘘っぱちでした、みたいになってしまうのじゃないかしらんと気にかかり、いくらシュワルツィに危険が迫ろうと、気分的にどうも白熱しなかったのです。『追憶売ります』が原作だということくらいしか予備知識はなかったのですが、「これ、夢オチだよ」もしくは「これも夢かもしれないね、るらら」という立場で観てしまうため、なんか楽しめない。

 いや、というかですね、あのですね、撮り方からしてちょっと気になったんです。これはあくまでもシュワルツィのいる世界であって、観客は彼とともに旅をするわけです。にもかかわらずですね、結構彼のいない場面もたくさんあるわけです。悪者が密談している場面とか。そうなると、おや、「これは彼の認識世界なのか何なのか」と見方がよくわからなくなるのです。ううむ、うまい言い方ができない。

「この世界は結局、シュワルツィの夢かもしれないよ」というのは、ひいては観客自身にも向けられる問いなのですけれども、だとすると観客はシュワルツィに気持ちを入れて、彼と同じ目線で映画世界を旅するわけです。簡単に言えば、「今ぼくたちのいるこの世界は実在しておらず、結局は主観的な認識があってのみ成立しているんじゃないか」という、「人間原理」ならぬ「個人原理」的な・・・。あ、めんどくさい。

 要するにですね、何が言いたいかというとですね、この物語は絶対に、片時たりともシュワルツィを離れてはいけない、ということなんです。たとえばぼくは今、自分の目に見える範囲でしか世界を捉えられません。当たり前です。それが個人の目線であり、主観であり、認識の限度です。ところが映画というものはおしなべて、複数の場所の複数の人間の動きを捉えるものです。これはぼくたちの世界の見方とまるで異なるわけです。映画とはそのような形式を持って、映画内の世界をつくっていく。映画内に別個の現実を打ち立てるものと言えます。この映画的作法は、「ぼくたちの認識するこの世界は実は嘘ではないか」という捉え方と相容れません。

 あ、わかったぞ。うまい言い方ができるぞ。
 つまりですね、「この世界は夢なのでは・・」という感覚がなぜ生じるかと言えば、そもそもぼくたちが自分という個体を通じてしか世界を捉えられないからです。どう言いつのったところでどのみち主観でしか捉え得ないからなのです。人は主観しか持たない、どこまで突き詰めようとこの主観から逃れることはできない、だからこそ、「この世界は夢だ」という発想を持つのです。対して、複数の人間の生き様を追えばそれはいわば神の視点であり、客観的にこの世界が存在する、ということになります。一般に映画で用いられる複数視点というのは、ぼくたちの認識方法と真逆なのです。その手法では、「この世界は夢」と言えなくなるのです。

 この映画はぼくたちの認識と真逆の、映画的に普通の複数視点を採用してしまっています。シュワルツィが機械に身をゆだねてもがき、違う現実を生き始める序盤のシーン。これをあろうことか他人の視点から描いてしまっている。これは「この世界の夢っぽさ」を描くうえで、絶対やってはならないことだと思うんです。あくまでもシュワルツィの目覚めの目線からやらないといけないはずです。

 と、長くなりましたが以上のような理由で、あまり乗れなかったのだと思います。余計なことをせずに言わずに、「火星の人々を救う話」にしてくれればさぞ楽しめたと思います。この映画は損をしている気がします。中身はカーペンターの『エスケープ』二作のようなガキ度なんですよ。そこで面白ければそれでいいんです。長々述べたような小面倒くさい話とは食い合わせが悪いんですよ。
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 いちいち褒める必要もないくらいに、どこもかしこも観客を楽しませようというサービス精神に充ち満ちています。だからアクション映画としては大変に素晴らしい。舞台が火星っていうのがまず楽しい。火星の魅力って、やっぱりあの赤い風景なんですね。あの絶望的なまでの赤さの中でいろいろやってくれれば、そりゃ楽しいです。SF小説で火星を舞台にしたものは多いけど、やっぱり映画でひとつの風景として示されると、その壮大さにはうきうきするわけです。
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 奇形の人々が出てきますが、そこにはリアルっぽさがあるんです。いわゆる宇宙人的なものなんか要らなくて、奇形の人々が何の違和感もなくそこにいる風景が、火星という場所の近さ、遠さをうまく表しています。その描写もいいんです。さすがヴァーホーヴェン先生です。
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 ですが、シュワルツィはやっぱりどうしてもターミネーターのイメージがあるので、明らかに強そうで、彼に太刀打ちできるのはT-1000かプレデターしかいないような気がして、スリルはありませんでした。人間どもがシュワルツィに勝てる気がしないのです。なんだかんだでシュワルツィは勝つな、とどうしても思ってしまい、ここの点はウィリスやスタローン、カート・ラッセルあるいはジャッキー・チェンのほうに魅力があるわけです。要は、シュワルツィは頼もしすぎるのです。何しろあのT-1000やプレデターを打ち負かしたわけですから。
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 ヴァーホーヴェン演出のフルスロットルというところでは完璧。しかし他の要素の部分でどうにも乗れなかった。そういう映画でした。『ターミネーター』『ブレードランナー』『ロボコップ』といったカルト作品と並ばないのは、やはり余計な要素のせいなのではないでしょうか。あ、シャロン様はやっぱ綺麗っす。
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子供の頃の思い出映画。
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小学校の頃、徒歩数分の近所に映画館がありました。ボーリング場やカラオケの入った娯楽ビルの中にあって、ドラえもんの映画やゴジラシリーズ、東映スーパーヒーローフェアの映画を観たものでした。今思えば設備は安いものでしたし、座席数もきっとすごく少なかったし、ばねの飛び出ている椅子なんかもあったけれども、子供の頃の原風景としてのそういう場所は、ずっと忘れないものであります。その一帯にはそこしか映画館がなかったものだから、春休みにやるドラえもんの映画なんかは大盛況で、立ち見でも入れぬくらいでした。妹と連れだって出かけたら混雑ぶりがひどくて観られませんでした。係員の人に「お金を払ってしまったのですが別の日に出直すことはできませんか」とお願いしたら、応じてくれて、無事に別の日に鑑賞できたのでした。ドラえもんの何の映画だったか忘れたけれど、そういうことは忘れないものなのです。中学校くらいの時には潰れてしまいました。それ以後、映画というものが少し遠くなってしまったのでした。

 さて、その映画館で観た思い出の映画、『学校の怪談』です。夏休みに観て、見終えた後とても興奮していたのを覚えています。怪談というのは子供の心を引きつけてやまないもので、「思いっきりテレビ」の「あなたの知らない世界」にも釘付けでした。

 今となれば幽霊とかなんとかいうものには大して恐怖を感じない、というか、その存在を信じる気持ちすらとうに薄れております。科学やら脳機能やらを聞きかじっていくにつれ、宗教のメカニズムを見いだすにつれ、あるいは世間のスピリチュアルなんちゃらにあほらしさを見つけるにつれ、そういう類のものには真実味を感じなくなりました。しかし子供の頃は無邪気に信じておったのです。やはりなんというか、学校における怪談とはひとつに、宮台真司いうところの「社会」と「世界」的なあれなのでしょう。学校という徹底して「社会」である場所、「社会」の一部としての振る舞いを強要される場所において、「世界」を見いださんとする欲求の表れなのでしょう。

 と、この話は長くなる。映画の話をするんだ。
 かつての記憶をめぐらしながら鑑賞しました。学校が本館と旧館に分かれていて、閉ざされた旧館に入り込んでしまった子供たちが怪異に出会うお話です。本館と旧館という設定がうまいところです。木造建築の旧館は舞台設定として正しいし、綺麗な本館を配置したことで現代の子供たちに身近さを感じさせるわけです。木造校舎だけだと、自分たちの学校と違うと言って子供たちが入り込めないわけです。それにしても、やっぱり木造校舎ってのは素敵です。
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 序盤はそれなりにだるいです。不気味な雰囲気もそんなにないし、ホラー映画的ではありません。というか、実際子供向けの映画ですから、そういうことをぶうすか言うのが間違いなのです。小学生のぼくが興奮して楽しんでいたのだから、細かいことはいいのです。ホラー映画的ではない、と書きましたが、手順はちゃんと踏んでいます。まがまがしげなアイテムをいくつも見せて、この後何かが起こるぞ、というのを真っ当に示しています。 
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 旧館に入って出られなくなった子供たちがやがて夜を迎えます。夜が来たのを高みから映して示し、「よっ、待ってました」という気分にさせます。とても真面目な演出で、好ましい限りです。こうなるとなんでもござれの本番であります。何の脈絡もなく次から次へと学校の怪談的モンスターズが登場し、愉快痛快なのです。子供向けだと高をくくっていたら、意外とグロテスク演出がしっかりしていたりします。ここは再発見でした。やはり子供心に、あの人体模型の内臓の気持ち悪さなんかは感知していたのです。この映画が偉いのは、子供の妄想をちゃんとビジュアル化しているところです。「人体模型が襲ってくる」みたいな怪談を具体化して見せてくれており、なおかつその臓物をぐちょぐちょなものとして見せてくれる。映画などろくに知らない子供のぼくの目にはとても新鮮に映ったわけです。
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佐藤正宏演ずる用務員のおじさんがいちばんの思い出です。この人がモンスター化して襲いかかってくるのです(そういえば一時期、「用務員」が差別的呼称だとして「校務員」と呼ぼうみたいな話題がありました。今もあるのでしょうか。まったくお話にならない。シニフィエとシニフィアンに関する考えが何一つない)。この描写も結構力が入っていました。子供向けの映画にしてはクリーチャー表現がそれなりにきちんとしているのです。ハリウッドからちゃんと学んで頑張ろうとしている感じで好ましかった。ただ、あらためて観るとこれはホラーでは全くなく、モンスター映画だったのだなあとわかりました。
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 おそらく幽霊なのだから自由自在に跳梁跋扈すればよいものを、この映画ではあくまでモンスターとしてあの敵を扱います。エイリアンとかそういうのと一緒です。このおじさん(「くまひげさん」と呼ばれる)が完全にモンスターになって襲いかかってくるのですが、子供たちは消火器を浴びせてみたり金網でバリケードをつくったり、かなり物理的な手段によって逃げ回ります。だから最終的にはあまり怪談っぽくはなくて、おどろおどろしい物静かなホラーを期待した人は「なんじゃこら」と思うことでしょう。

 でも、ぼくは子供の頃の思い出とともに擁護します。最終的には怪談ではなくてハリウッド調モンスターパニックになった本作ですが、そういうことを頑張る日本映画というのは実はあまり多くないはずです。日本では元来モンスターに対してゴジラなりウルトラマンなりライダーなりが戦ってきた歴史があるのですが、普通の人々がただ逃げ回る、ゾンビ映画的なものというのはあまりないのです。いや、あるのかもしれませんが、ぼくはよく知らないのです。あったとしてもどうしてもホラー寄りになってしまうのではないでしょうか。本作はホラーと見せかけてモンスター祭りであって、ハリウッド的ハラハラ感を得ようと工夫を重ねているのです。

 最終的にはなんと、一人の少年が何かの本で読んだ魔方陣をヤンキーたちの助けを借りてグラウンドに描き、そこで不思議な力が発生、別世界に取り込まれた子供たちを救い出してしまいます。ここはファンタジックな大爆発。怪談を期待していた人はいよいよ「もうやっとれんわ」となりましょうが、いいのです、考えるに無力な子供が超絶的な力と戦うには、最終的に訳のわからない何物かに寄りすがるほか手はありません。あの本は何なのだとか、回収されていないエピソードとかそんなのはいいのです。大人はあっちに行っててください。この映画にはひとつ教訓があります。
「子供が大勢の大人を動員しようと思ったら、暇なヤンキーがいちばんである。」
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 子供たちの演技もかなりナチュラルでした。子役の演技が鼻につくことの多い日本映画ですが、本作についてはまったく気になりませんでした。実際、公平に見てもかなり上手だと思います。オーディオコメンタリーで、主演の野村弘伸が語っていましたが、「子供たちはすぐに調子に乗って騒いだりするので、??ったこともあった」とのことでした。

 それでよいのです。あれだけCMに出ていたあの「子供店長」などは、きっとお行儀のいい子供なのでしょう。だから重用されるのです。だから鼻につくんです。きっと一丁前に楽屋の挨拶なんかもこなし、なんら失礼のない文言で教わったことを言うのでしょう。だから嫌なんです。

 贔屓目なのはわかっていますが、この映画に出てきた子供たちにはそういう印象をついぞ受けなかった。お上手な演技は何一つしなかった。やはり昭和生まれは骨身が違います(なんだその結論)。いや、でも、本当に子供の演技はいいですよ。それは言い切っていいと思います。

 楽しい映画でした。2や3も観てみようかと思います。ひひひひひひひひひひひ。
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形式の豊かさ。儀式の意味。
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 世の中映画は数あれど、アンチデートムービーの極北みたいな題材、そしてタイトル。 伊丹十三監督のデビュー作です。

人の死を扱う映画で言うと、最近では『おくりびと』がありましたが、あれよりよほど面白かったし、迫るものがありましたね。そういえば山崎努は『お葬式』にも『おくりびと』にも出演していますが、『お葬式』における彼のほうがよほど魅力的だし、やっぱりぼくにはなぜ『おくりびと』があんなに評価されたのかわかりません。

お葬式というのは一般的に、死者を追悼する儀式ですが、『お葬式』ははっきりと生者の物語でした。奥村公延演ずるおじいさんが死んで、その葬式を出す三日間の話なのですが、彼の生前のうんたらかんたらでなく、準備に関わる人々のやりとりが全面に出ており、中盤に至ってはおじいさんが死んだ事実すらこちらは忘れそうになる。でも、それがこの映画ならではのうまみに繋がっていました。

 この映画はきわめてドライな姿勢を保ち、形式としての儀式を映し出します。他の映画に出てくる葬式の場面はどうしても、悲しみの象徴、喪失の象徴としての機能を担うものですが、本作はその種の感覚を抱かせない。「死んだからちゃんと葬式を出さなきゃ」という義務感のほうが先にあります。これは別に悪いことではないと思います。儀式は儀式として重要だからです。

 人はなぜ葬式を開くのか。死者を追悼するため、とまずは言える。しかし、追悼するというのは精神的な行為であり、式を催すという社会的行為に直列するものではありません。これは結婚式における「祝い」にも同じことが言えます。厳密に言えば、冠婚葬祭において、追悼や祝いは第一義的な目的ではあり得ません。それらはあくまでも名目に過ぎず、最も重要なのは、そこに集う人々が追悼や祝いを確認し合うことなのです。

 追悼も祝いも、土台個々人の内面的なものでしかあり得ない。教会における「祈り」とてまた同じです。そうなれば当然、個々人には温度差が生まれる。人が死んだとき、その死を痛烈に悼む者もいれば、内心でほくそ笑む者もいる。死を実感できない人だっている。他者の死の受け止め方は、言わずもがな千差万別です。ただ、だからと言って千差万別ばらばらでは社会がうまく回らなくなる。社会では一定度、他者の内面を想像しないと成立し得ないからです。だからたとえ形式に過ぎぬとしても、一度儀式という形で確認し合おう、というのが葬儀の意義です。それを否定する振る舞いは、人間関係、人間社会の現在の有り様を否定する行為でもあります。だからこそ、形式そのものが重要になるわけです。

 考えてみれば学校というのはそういう場所でした。朝早く起きて学校に行き、体育館に並んで校長先生のどうでもいい話を聞く。この一連の行動に何の内容的意味があるのかといえば、ないのです。校長先生の朝の挨拶の中身なんて、何一つ覚えていません。でも、体育館に集まる、隊列を組む、校長の話を聞くというこの行為の連なりには、形式としての意味があるのです。秩序から逸脱する生徒、すなわち社会からこぼれ出る生徒がいないかどうかを確認しているのです。

 形式そのものへの言及。この映画にはそれが貫かれていました。坊さんを呼ぶときの作法や金銭的相場を尋ねるくだり、大滝秀治が葬儀に口を出すこだわりのすべて、挨拶マナーのビデオを見て研究するくだり。形式にこだわる滑稽さの反面で、そこには社会の秩序をなんとか維持しよう、社会の常識から外れた振る舞いはすまい、という、登場人物たちの切実な背景が見て取れます。そしてそのすべては実は、死者への追悼として機能しているのです。形式を必死で守ろうとするその様は滑稽ですが、その姿勢はすなわち、「あんな弔いをされるなんて死んだ人も浮かばれまい」という死者への間接的な恥辱を防いでいるのです。「きちんと送る」、ただそれだけのことが最も重要なのです。
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この映画の優秀は、それらをギャグとしても成り立たせている点です。彼らは切実であり、間抜けである。間抜けであり、切実である。このバランスを描き出すことはとっても難しい。『おくりびと』にはそれが感じられなかった。あの映画にもギャグ演出はありましたが、本作ほど間抜けと切実の密着した線を衝けていない。「ここはギャグで、ここはシリアスに」みたいな切り分け感がありました。いや、でも、本当にこれは難しいんです。

『お葬式』でいちばん笑ったのは「早く帰ってほしいんだけど」という長回しのくだりです。あれは「早く帰れ」というタイトルのコントとしてくりぬきでいけます。ああいうところには、「微妙な遠近感のある人々が集った場面」の面白さが凝縮されていますね。『サマーウォーズ』にはついぞ観られなかった名シーンです。補聴器をつけたおじいさんのシーンもいいです。ああ、おるおる、うん、ああいうおじいさんはものすごい数、この国にいる。
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 あと、通夜の準備をモノクロで語る場面も面白かった。あれはこの地味な映画において中盤を支えるひとつのアクセントになります。ああいう風に放り込むといいのか、と学ばされた思いです。あそこで、なんか一度映画がしゃきっとするんです(なんと漠然とした物言い)。
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 難癖をつけるとすれば、あのエロシーンはよくわかりませんでした。きったないエロシーンが一個あるんです。あれはサービスなのでしょうか。あれはしゃきっとはしませんでした。あれね、あの女と山崎努の関係とか、あの女の来し方行く末が見えてこないんです。それが見えるとあの場面はすごく効果が上がったんですよ。山崎努の立体感がもっと生まれたはずですし、そうなれば夫婦の関係ももっと生々しく見えた。あのエロシーンの前後における基盤作りが甘い気がしました。あのシーンを活かすうえで、あの女の役割が足りない。
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 ラストはいいですね。なんだかんだと形式にこだわってきた葬儀が、形式に留まらない場所で終わる。菅井きんの名演。冒頭の場面と呼応し、ああいうのを観ると、うむ、葬式というのはなるほど確かに、確かに意味のあるものなのだ、と思わされる。尾藤イサオの立ち位置もいいです。形式的なものの中で、本当に死者を悼む気持ちが浮かび上がる。その追悼の意が痛烈に迫って、この映画はとても強くなっている。
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 これは面白い映画です。映画的興奮とか物語的快楽とかそういうのじゃないけれど、この映画だけが放つものを確実に持っております。
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まあ、適度に残虐な映画ってことで。
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『グロテスク』に震えた者としては、もう今後、残虐系の映画に恐怖を感じることはないのではないかと思います。あの映画はとても真面目に正当に、残虐描写が効果的に映るような演出、筋立てを行っています。その辺の妙味を感知できないやつが四の五のディスをかましているのは腹立たしい限りです。

 『ホステル』を観たのは三年前くらいでしょうか。それほどいい印象はなかったので2を観るまで時間がかかってしまいました(『グロテスク』を観て『ホステル』のぱくりだとか言っているやつがいましたが、ぜんぜん違うよ馬鹿。なんて表層的な見方なんだ)。 
 『ホステル2』も一作目と同様、旅行に来た若者が拉致されて殺されてしまう話です。ただ殺されるだけではなくて、逃げなくちゃ駄目だうんだかんだという物語的な要素も多分に入っております。

 冒頭でかましを入れた後は、しばらく女子大生三人組の旅が続きます。別に何の変哲もない、しかし危険な香りがぷんぷんと漂う外国への旅で、この後何かが起こるぞ、という気配を全面に押し出しています。残虐描写がこの映画における売りだとするなら、ここはそのフリとして大事です。ここでフリをしっかりしておくことで、残虐表現の効果は変わってくるのです。雰囲気を醸成する、という意味では十二分だったと思います。冒頭のかまし含め、続編であること含め、この後に何が起こるかをどんな馬鹿でもわかるように仕向けている。
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 雰囲気はオーケー。しかしこの映画が弱いのは、肉体そのものへの言及度合いです。ここはいかにもアメリカ人のセンスだという気がします。残虐表現は肉体感が重要です。一人の人間の肉体が確かに壊されている、という感覚がその表現の成否を分ける。『テキサス・チェーンソー』に比べて『テキサス・チェーンソー・ビギニング』が上回っているのはそこで、あの映画ではレザーフェイスにひたすら肉を切らせていた。閉鎖決定の工場で、レザーフェイスは黙々と包丁で肉を切り分けている。あの肉の感じが、肉体的、生理的な嫌悪感を醸成したからこそ、いいものになったのです。

『ホステル2』は肉体を重んじていない。たとえば絵画を描くシーンでも、肉体感を出さない。電車の中のビュッフェや祭りのシーンがあるのに、食べ物はろくに映さない。食べ物っていう要素は活かせるんですよ、映画的に。食べ物をしっかり映すと、実在感が宿るんです。スプラッターに限らず、どんな種類の映画にもそれは通じる。誰かが何かを食べている(あるいはつくっている)、その咀嚼音なり身の所作なりを丁寧に映すと、そこに人間が生きているという感じが間違いなく強まる。これね、飲み物だとぜんぜん駄目なんです。飲み物では効果が上がらない。肉体への言及として、重要な要素を見過ごし続けているんです。パゾリーニの『ソドムの市』はそこが偉いんですよ。あれは排泄や食事をしっかり映す。肉体の無様さを映す。だから嫌なものが余計嫌なものとして見えてくる。

 いかにもアメリカ人のセンスだ、と書いたのはそこです。そういう配慮を抜きにして視覚的インフレに走る。女子大生の一人が逆さづりにされてえげつない殺され方をするんですが、変に綺麗に、画になるような撮り方をするんです。見た目で押そうとするから、痛みがない。他の残虐シーンにしても同じです。そりゃ見た目のインパクトは否定しません。よくできています。でも、本当に大事なのはそこじゃないんです。見た目のインパクトで充分な時代はたぶんもう終わっている。
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 それと残虐系に重要な要素は、狂気です。ああ、こいつは狂っている、という狂人の描き方が肉体への言及と同じくらい大事です。残虐系映画の場合、肉体への言及と狂気、そのどちらかがきちんと描かれていればおそらく大丈夫なのです。では、『ホステル2』における狂気はどうかというと、これもなあ。

 設定自体はいいんですよ。ハイソな、もしくは普通の生活を送っている社会的にはまともな人間が、殺人に走る。狂気の振れ幅自体は用意している。でも、不気味な雰囲気を醸成するために悪いやつはただの悪いやつになっているし、あの二人組の男にしても、狂いが見えない。あのー、痛めつけられている相手を前にけらけら笑っていれば狂っているように見えるかっていうと、違うんですね。それは狂いとしてすごく浅いですよ。『グロテスク』のあの男を思い出すとわかるけど、狂っているやつって、基本的に真面目なんです。真面目だから狂うのであって、手がつけられない感じがする。

 麻薬とかでいえば、それを吸ってけらけら笑っているやつはマシなんです。もう表情が無くなるくらいに浸かっているやつがやばいんです。狂気にはそういう性質があるのであって、画的に綺麗にしてみたり怖がるやつを前に笑ってみたりしても、大した狂気にはならないんです。

 結構悪く言っているように見えましょうが、いや、別に悪い映画だとは思いません。サービス精神はあるし、映画的なカタルシスも用意しているし、チェイス要素も含んでいるし、ひとつの物語としてはぜんぜん悪くないと思います。個人的には退屈を感じることもなく楽しめました。『テキチェン』を観た後と同じ感じです。確かに面白かった、と言える。だから別に悪くない。こういう映画の流れはこの先も絶対に必要なものだと思います。「適度に残虐」なものは存在する意味がある。ただ、もっとこうだったら、ここはこうすれば、というのがたくさん浮かんできて、それを書いたというわけです。あとは『グロテスク』が不当に低い評価を受けている気がして悔しくて、そっちとの比較が前景化してしまった、ということなのです。今日はこの辺で。
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アホらしもない。
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いろいろと書きたいことをめぐらせていたらもう何を書いていいのかわからなくなりました。なので、今回は、今までに例のないことですが、「まったく心に思ってもいないことを書きまくって褒める」という実験をしたいと思います。本音の結論から言うと、まるで駄目な映画でした。でも、もういいじゃないか。そういうのはみんな書いてくれるさ。だからもう今日は完全に人格を変えて、嘘をいっぱい書きたいと思います。くれぐれも絶賛しているとは思わないでください。もう一度書きますが、本音はすべて逆ですから。

『アマルフィ』を観ました!!
 この作品は「フジテレビ開局50周年作品」だそうで、とにかくキャストが豪華!
大好きな『踊る大捜査線』の織田裕二が主演となればそれだけでテンション上がりまくり、上がりマクリスティですよ!!(←古い? 汗。。。)

 全編オールイタリアロケなので風景がすっごく綺麗ですっ! ああっ、行ってみたい!こんなカフェでランチしてみたい! って思わせる場面がいっぱいあって、もうそれだけでも大満足! タイトルの『アマルフィ』っていうのはイタリアに実在する街の名前なんだそうですが、狭い裏路地みたいなところも風情があって、観ている間ずっと観光気分が味わえます! 
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「『アマルフィ』ってタイトルなのにそこではぜんぜん何も起こらないじゃん。っていうか話がめちゃくちゃだし・・・」って言っている人がいたけど、あたしは織田裕二さんが演じた黒田が格好良かったらぜんぜん気になりませんでした。今度連ドラになるらしいから超楽しみ! 見る! 絶対録画する! 録画しまくる!
 
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天海有希さんの演ずるお母さんの娘がさらわれて、そこから話が始まるんだけど、この展開もハラハラドキドキ。外国で自分の子供がさらわれちゃったらって考えると、とてもあんな風に走り回ったりできないかも・・・。なんか全部警察とかに頼っちゃいそうだし・・・。なのに天海有希さんってば強い! ベランダで煙草を吸うシーンもセクシーだし、この役はものすごくはまり役でした。

 あとはなんと、大河ドラマで大活躍中の福山雅治さんが出てきます!(ちょこっとだけだけど)。ああいうサービスってファンには嬉しいですよね! 物語にはそれほど関係しないんだけど、大事な情報とかくれる、実は大事な役どころだし、織田裕二さんと福山さんの共演っていうのも超貴重じゃないですか!
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 他にもサラ・ブライトマンのコンサートシーンがあるんだけど、歌、超上手い! あたしはサラ・ブライトマンってよく知らなかったけど、イタリアの風景とすっごくマッチしてて、暗いサスペンスだけになっていないってのがいいですよねー。話にはぜんぜん関わっていないんだけど、豪華だしおしゃれだし、超歌上手いからオッケーでしょ?
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 それで、ネタバレになっちゃうけど、まさかあの人が・・・っていう驚きの展開が用意されていて、まんまと騙されました、ハイ。そりゃ○○を○○した原因をつくった相手なら、復讐したくなるよねー。細かい部分はね、だけどよく覚えていないんです・・・。細かい話の流れとかよくわかんなくなっちゃうんです。でもあの人が悪いやつだったなんて、っていう驚きのほうが大きくて、圧倒されちゃいました。難しいことはよくわかんないけど、やっぱり戦争はよくない! 戦争に手を貸すなんて絶対やっちゃ駄目だよ!
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 クライマックスは黒田が大奮闘! 決めてくれるぜ! やっぱりヒーローは最後をちゃんと持っていくもんなんだよねー。願わくばあそこで福山さんも出てきてくれたらとか思っちゃったけど、それはさすがに欲張りすぎか・・・(笑)。

 これは絶対見てほしい映画です! 見ても絶対損はないはず! イタリア好きの人、サスペンス好きの人には特にお勧めです! あっ、あと戸田恵梨香ちゃんも超かわいいです! 恵里香ちゃんファンの人は絶対チェックしてください!

 うーん。
 うーん。
 うーん。
 いくらなんでも馬鹿すぎる。いや、褒めている人の気分がよくわからないから下手な褒め方しかできない。でもなんかきっとこういう感じで褒めているのだろう。ポイントは福山雅治のカメオ出演やサラ・ブライトマンの歌を褒めている当たりですね。本音を言えばぜんぜん要らないんですけど、まあ褒めている人がいるのだからそっとしておきましょう。
あとは「オールイタリアロケ」のくだりか・・・。はあ。あのー、『世界遺産』とか『世界の車窓から』とか、あとはゴールデンの番組とか、いろいろイタリアの風景を撮った番組とかありますので、そちらをご覧になっていただくほうがきっと。あと、知らないかもしれないですけど、この世界には「イタリア映画」というのがあるので、それをご覧になっていただくのも一興かと。

 うーん。うーん。うーん。実験は失敗! 他人の気持ち、目線になって考えてみる、というのは大事なことでしょうし、続けていけばもっとうまくできるんでしょうけどね。でもしばらくはやりたくないです。二度とやらないと思います。
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無様。
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白石晃士の『グロテスク』が廃盤みたいになっているので、これはサルベージしなくてはと中国から取り寄せました。530円で売っていました。配送料のほうが高いのでした。 『グロテスク』はやっぱり疲れます。観ている間ずっと緊張しているのです。ただなぜか知らないけどこの映画はあまり評価が高くないように見受けます。この手の映画だとよく、「何を伝えたいのかわからない」とか言い出す輩がいるんですけど、なんでこの手の映画を観て、「何かを伝えようとしている」と思うのか。それがまず疑問。いや、もちろん「何かを伝えようとしている」映画ってあるんですよ。それに失敗している映画もたくさんありますよ。でもね、すべての映画が「何かを伝えようとしている」わけねえじゃん!ことあるごとに言いますけど、ぼくは「面白いけど、見終えた後には何も残らない」的言説が大嫌いです。「何か」を「伝える」だの「残る」だの、「考えさせられる」だのをことさらに言うやつらって、結局何も考えてないの。
 そんな態度で「映画が好き」だと?

 笑わせる。

 さて、なにさまらしい毒舌は忘れて、『ばかのハコ船』。後に『リンダリンダリンダ』『天然コケッコー』『松ヶ根乱射事件』などを撮る山下監督の初期作です。

 山下監督は好んで「ド田舎」を撮る監督です。本作は彼の作品の中でも、ド田舎のド田舎ぶりが炸裂している映画です。田舎の寂しさ、何もなさを撮る映画だと、最近のヒット作では『サイタマノラッパー』二作がありますが、あれも田舎的な痛々しさを押した作品でしたが、その点で言うと断然こっちのほうがきついです。クライマックスの辛さで言うと、『サイタマノラッパー』よりはるかに上だなと思います。

 主人公は画に描いたような駄目男と、彼を支える女性です。なんとも見栄えのしない二人です。女性がこれまた可愛くないので、田舎に調和した風合いが宿っています。感じとしては『ぼくは天使ぢゃないよ』におけるあがた森魚と斉藤沙稚子っぽいなあと思いました。これね、あくまで男目線ですけど、恋人の女性を演じた小寺智子が可愛かったら、こんな風な映画にはなっていないと思うんです。可愛ければ「なんだかんだで別にええやん」な感じになったと思う。でも、あいにく、そして適切なことに、彼女が美人ではない。だからこそ余計に健気さが宿ってくるんです。
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 山本浩司演ずる主人公は今までに観た駄目男の中でも、ダントツクラスにいちばんです。こいつは本当にしょうもないです。女性から観ればなおのこと腹立たしいだろうし、小寺智子が可哀想でならなかったことでしょう。もう最悪というか、要するにものすんごく幼稚で馬鹿なんです。いや、それこそ本当に突き抜けるレベルの馬鹿ならいいんですよ。でも、そこまではいかない、煮ても焼いても食えない程度の馬鹿なので、これはねえ、とても痛々しいんです。最も簡明に言えば、要するにガキなんです。中学生なんです。

 中学生のまま大人になっちゃったようなやつで、個人的には身につまされるものがあります。主人公と恋人は「あかじる」なる健康食品で一発当てようとしたのですがうまく行かず、田舎に戻ってきます。話はそこから始まります。
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 田舎で地道にやっていけばなんとかなる、と思って「あかじる」を売ろうとするのですが、これがもうぜんぜん話にならないんです。そのくせね、言葉は覚えているんですよ。「俺たちの今までの方法論は・・・」とか「パイプをつくっていかないと・・・」とか、この辺の言葉選びのガキっぽさが抜群に痛々しい。顔立ちもガキっぽいんですね。だからこそ余計に馬鹿さが全面に出てくる。

登場人物の実在感はやはりさすがの手腕です。一言で言うと、無様なんです。ああ、人が生きているってことは、無様だなあと思わせる。この無様さはなかなか出てこないです。人物の実在感で言うと、この前取り上げた『ハッシュ』とか、『歩いても歩いても』とかにも通じるんですが、あれよりはるかに無様。あれらの作品はまだ、満たされているんです。たとえ満たされていなくても、バランスが取れている感じがする。でもこの映画に出てくるやつらは、ド田舎の寂寥感もあいまって、満たされていない感がばりばりなんです。本当に、なんでこんなにこいつらは寂しいねん、と思わされる。山下監督はデビュー当時「日本のカウリスマキ」と言われていたそうですが、なるほどわかります。これはものすんごく寂しいです。

 細江祐子という人の演じた風俗嬢と、田中暁子という人が演じたその妹。この姉妹の実在感はすごいです。ああ、おるおる。絶対この日本のどこかにこいつらはいる。主人公と風俗嬢の店でのシーンは痛いですよ。もともと付き合っていた(のか?)という関係なんですが、ぎくしゃく感がえげつない。うわ、こんな風俗ぜんっぜんおもろないわ、と笑ってしまう。そうなんです。こいつらの生活って、寂しいっていう言い方をしたけど、ぜんっぜん面白くないんです。でもこの「ぜんっぜん面白くない日常」が、実在感を高めているんです。
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 それでいうと主人公と風俗嬢の過去がいいですねえ。学生時代の恋愛未満みたいな部分。『天然コケッコー』では健康的に描かれていたやりとりが、言ってみれば多分に映画的美化を経た帰り道が、この映画では不細工さむきだしで描かれている。『リンダリンダリンダ』のような溌剌さはないし、『松ヶ根』よりも鋭い。すっごく地味なのに、「うわー、観てられねえ」とこちらが恥ずかしくなる。
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 いいところを挙げ出せばきりがないです。こと人物の実在感ってところでいうと、今までに観た映画の中でもベスト3に入ります。そしてそこまで描いてくれていれば、もうたいがいのことはオッケー。『リンダリンダリンダ』も「田舎の女子高生あるある」を積み重ねていたんですけど、あれはまだ無様さが薄いんですよ。まだ虚構感がある。何より、彼女たちにはいくらでも夢と希望と未来がある。

 この映画に出てくるやつらの人生って、もう、そんなに大きなことはないんやろな、と思わされる。主人公カップルなんかはもう、どうしていくねん、みたいな哀しさが漲っている。『サイタマノラッパー』に通ずるけど、でも哀しさでいえばこちらのほうが上です。理由を話しましょう。

『サイタマノラッパー』はね、確かに田舎でラップをやってうまく行かないやつらの話ってことで、哀しさはあるんですよ。でもね、言ってしまえば、「彼らにはラップがある」だけマシなんです。呪われている限りはまだ幸せなんです。何にもない俺たち、私たちだけど、ラップがあるじゃない、ってことでまだ救われる。でも、この主人公カップルには何もないんです。呪われることすらできないで生きている。

 だからこそ「あかじる」を売る無様さが比類ない。主人公は健康食品「あかじる」を売るけど、実際はそれほど健康食品なんてものに興味もなければ、売ろうとも思っていないんですよ。でも、なんとか自分の人生に活路を見いだそうとして、やっと見つけたアイディアで、その一方その分野に情熱が持てているわけでもない。わかりますかね、この辺の感じ。

 もっと平たく言うと、「サイタマノラッパー」たちにはやりたいことがある。ラップに呪われ、そして守られている。でもこいつらにはやりたいことが何もないんです。その中で「あかじる」を見つけてしまったから、仕方ない、それにしがみつくしかない。でもしがみつくほどには好きでもない。もうね、どうしようもなさがえげつない。

終盤、「あかじる」を売る場面の痛々しさ、主人公の無様さはひどいです。ぜんぜん売る気がなくて、すねちゃってるんです。この期に及んですねている、しかもすねるだけの理由が別にない。本当に救いようが無くて、恋人の小寺智子もついに泣いてしまうんです。
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 小寺智子の心の折れる瞬間はすごいですねえ。ものすんごく唐突に心が折れて、でも、わかるわかる。というかよく今まで折れなかったよおまえの心は。主人公の男はそれに及んでさえ何もできない。これは観ている人ほぼ全員、むかついてならないでしょうね。本当に、ここまで駄目なやつはいない。駄目にもほどがある。

 いや、でも、そんなに上から断罪できるほどおまえは立派か? と自問が跳ね返る。そう、この主人公の駄目さは、おそらく観ている人ほぼ全員にも通じる。人生のどこかで、あるいは今でも、自分の行いを客観的に振り返れば、どうしてあのときあんな風に振る舞ってしまったのだ? と悔やむことがある。映画ってのは、人の人生を映すものだから、観客は好き勝手に「馬鹿なやつだ」「駄目なやつだ」と言えるけど、自分だって似たようなことをした覚えはある。この映画が持つ実在感は、こちらの記憶やあり方を抉ってくる。

 監督は救いをもたらしませんでした。象徴はあのマンホールです。上を見上げながら歩いていたら、足下のマンホールに墜ちる。救い出そうとするけど、自分も墜ちてしまう。ここはとても象徴的な場面で、ぼくはあそこで切っていいとも思う。最後、あそこまで露骨に落としてしまうと、うげげ、と思わされる。うげげ、と思わせるのが狙いなら、「こんなやつにならないようにみんな頑張って生きよう」というのが狙いなら、それでもいいですけど。まあ、この映画のトーンから行くと、ごまかさずに終わるほうがいいのでしょう。
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 今までに観た山下監督の映画で言うとダントツに好きです。こんなきつさを味わわせる映画は、そうそうあるものではありません。
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野卑で無様で汚くて、とびきりコミカルでキュート。
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これまた有名すぎて逆に観ていなかったシリーズ。観ても観てもまだまだたくさんある、映画の海、至福の水浴。

 菅原文太主演のコメディですが、昔の(今となれば老練の)日本の俳優というのは、どうしてこうも格好よく、また迫力があるのでしょう。今活躍している役者にも上手な人、魅力的な人はたくさんいるけれど、迫力と格好良さを兼ね備えている人って本当に少ない。思うに、おそらく松田優作がその種における最後のアイコンでしょう。それ以降はジャニタレがわいのわいのと湧いてきてしまったんですね。

 ぼくはゲイではありませんが、「男の迫力」ってのは感じるし、「男が惚れる男」ってのはいるんです。何が決め手かはそれぞれの感じようだと思うんですけど、ぼく個人はね、「清潔感のないやつ」のほうが格好良く思えるんです。やっぱり画面から発される汗のにおいって大事なんです。こいつ汗くさそうやなーと思うと、格好いい度数は断然上がります。最近でいえば『レスラー』のミッキー・ロークも『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエル・デイ=ルイスもくさそうですもん。あとは『ダークナイト』のジョーカー、ヒース・レジャーもそうですね、ひどいにおいがしそうです。自ら語弊と誤解をまき散らしますが、この三人なら掘られてもいいです。掘られてもそれは仕方ないです(何が「仕方ない」のか)。

 その点、今の日本の「イケメン」はまるで駄目なんです、男からするとちっとも惚れようがない。あーあー、よろしおまんなあ、せいぜいモテはるんでっしゃろなあと卑屈な思いを強めるばかりなのです。っていうか、「イケメン」って言葉自体が、「男の格好良さ」を駄目にしてしまった感じがする。「男前」っていういい言葉があるのに、ほとんど死語です。
  
 こういう感覚って、古いんですかね。

 じゃあ、古くていいです。

 さて、本作は菅原の兄貴を愛でる、崇拝するに格好の映画でした。『仁義なき戦い』の彼にはないとびきりのキュートさが漲っていて、助演の愛川欽也も名演であり、これは大変な快作を見逃しておったと不明を恥じるばかりです。文太の兄貴は女好きで乱暴なトラック野郎なのですが、中島ゆたか演ずるヒロインに一目惚れします。このときのコメディアンぶりが素晴らしいのです。
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 今にすればベタベタですよ。女好きでさんざんご陽気に振る舞っているくせに、好きな女性となると緊張してしまうなんて設定は。でも、そういうところがキュートなのよね(何目線なのか)。ベタベタで漫画的な台詞回しになるし、キンキンに突っ込まれるのも何もかもベタです。でも、だからこそ正統なるコメディ的掛け合いを見た思いがします。うん、ベタというよりも、正統。
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 キンキンの家は大家族なんですが、この辺の雑さも素敵です。子供の名前もろくに覚えておらず、うわー、えらい雑に育てられとるな、と笑わされますが、これなども今の日本映画がやらないことです。映画の設計思想そのものがもう違っている。「家族」っていうのを映画に出すときって、どうしても今の映画だと、「描くもの」になっているように思うんです。典型的な家族を描こうが欠損したそれを描こうが、どうしても意図的に描こうとする。この映画は違う。ごく自然に、雑に、家族がそこに描かれている。この辺の言い方はうまく言い表せないのですが、今の邦画と明らかに違うものをここに観ます。
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 いいシーンがいっぱいあってとても書ききれそうにないのですが、湯原昌幸の告白シーンはほろりと来ました。女のトラック乗りに恋をした男で、文太の兄貴の男前さに比べればぜんぜん情けない野郎として描かれるんですが、彼が告白するシーンはとてもいい。
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 トラックの中で告白の練習をしていたらうっかりマイクがオンになっていて、たまり場の飲み屋にいたトラック野郎たちにさんざん冷やかされるんです。意中の相手夏純子にもその練習の言葉を聞かれてしまい、告白の形としてはなんとも決まり悪い。そのうえ周りからは「おまえなんかがよぅ」と馬鹿にされます。でも、そこにキンキンが飛び込んでいって、冷やかしの野次馬を一喝するんです。
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「黙れ! おまえら何がおかしいんだ! 女に惚れて、女房になってくれていうのが、何がおかしいんだ!」
「本気になって惚れて、それを誰に聞かれたって、ちっとも恥ずかしいことなんかねえじゃねえか」

ここは泣けます。この映画がとても偉いのは、文太以外の見せ場をきっちりしっかりつくっているところなんです。いい具合にこの辺のくだりでは文太の兄貴の存在感を殺しているんです。キンキンがこんなにいい役者だったとは、いやあお見逸れしました。

 どう考えても情けない野郎の、ひどく情けない、それでも一途な純情の結実。サブキャラクターがすごく活き活きとしています。あとは『独立愚連隊』の佐藤允が格好いいですねえ。「あっ! 愚連隊の兄貴と文太の兄貴の一騎打ち!」と興奮させるのであり、さすが文太の兄貴と対等に渡り合う強さ、男前さがありました。
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 ただ、ストーリーを通じていうと、ねぶたの子供のくだりはよくわからないです。あれは必要だったのでしょうか。幼児だから仕方ないにしても、可愛くないし演技も下手です。台詞を言った後はもう腑抜けみたいな顔をしていました。あの子を介して兄貴はヒロインといちゃつくのですが、その後、ヒロインの恋人が出てくるのもものすごく唐突な感じです。ヒロインに陰がある、というのは前半からほのめかされているんですが、あの恋人の登場はもう少し早くてもいいと思う。話上、というか、兄貴の恋を突き崩すものすごく重要な役回りなのだから、中盤までのどこかであの男の顔を押しておく必要があったとは思います。

 ストーリーに言いたいのはそれくらい。そんなことより映画全体の風合いが抜群にいいので、話の部分は多少荒くてもぜんぜん問題ないです。この頃の東映はいいです。仮面ライダーをつくっているだけあって、どつきあいも泥くさい。『女囚さそり』もこのくらいの時代ですから、初期仮面ライダーがいかに充実した状況下でつくられていたかがわかります。金銭的充実というより、映画時代的充実です。

 とてもいい映画でした。汚くて、野卑で、無様で、でもとびきりにコミカルな作品で、続編を観るのが楽しみなばかりです。
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書いているうちに印象が変わった。ものを書く醍醐味。
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有名すぎて逆に観ていなかったシリーズ。ジェームズ・ボンドを観たのはこれが初めてです。毎回偉そうに映画について語っておきながらこういうのを観ていないなんて逆にお茶目、ともっぱら評判です(お茶目でも評判でもない)。

 評判、で思い出しましたが、なぜか昨日はtwitter.comとmixiからのお客さんがたくさんおりました。でもtwitterのどこからなのかあまりよくわからないし、mixiにいたってはそもそも入会していないから突き止めようもないし、どういうわけでいらっしゃったのか気になるところです。どうせ悪口を言われているんだ、きっとそうだ。

 さて、誹謗中傷には目もくれず今日も書くのです(別に何も言われていない)。
 映画を観て『MGS』を思い出しました。メタルギアソリッドは最愛のゲームのひとつですが、やはりあのゲームの元ネタにジェームズ・ボンドはあるようです。メタルギアシリーズの最高傑作は最新作の4でなく3だろうと思っているのですが、随所随所であのゲームを彷彿とさせますね。沼地を渡るシーンとか最後の研究所への侵入とか、排気口を通るシーンとか敵の銃のタイプを見抜いてほくそ笑む場面とか。シリーズをもっと観ていけばまだまだありそうです。
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 映画自体は50年も前の作品ですから、その後陸続と洗練を続けた他作品と比べれば、どうしても面白みが足りなく感じられてしまいます。こればかりはしようがないのです。当時の感性をぼくが持っているはずもないし、時代的風合いを感じるほどイギリス映画を観ているわけでもないし。音声解説コメンタリーを聴きながら観るって手もあるんですけど、そこまで付き合おうとも思わないし(ここがぼくのエイガミレベルの低いところなんだろうなあと思いつつ)。

 と言いつつも何かしら書くとするなら、前半はショーン・コネリーasジェームズ・ボンドがうろうろ歩き回ります。どこに行ったらいいのやら、情報捜しだみたいな感じでうろうろします。思うに、サスペンスや謎解きものの類って、本当にこの「うろうろ」が勝負なんですね。そりゃ白熱するクライマックスや驚きの真相ってのが肝にもなるけど、いかに「うろうろ」を「うろうろ」に見せないかが大事になるのでしょう。作劇としていちばん理想的なのは、そのうろうろがすべてクライマックス感を生み、なおかつ後半の伏線になっている状態なのですが、本作はそういうものでもなかったです。いや、それなりにあれこれやってくれるので、サービス精神はあります。それは嬉しいのですが。
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 これは今の時代に生けるぼくの感性、考え方なんですけど、肝心な「ドクターノオ」(原題も『Dr.No』です)の登場が遅すぎる。誰やねん、みたいなおっさんです。この点、同じ「孤島冒険もの」であるピクサーの『Mr.インクレディブル』は洗練されていて、宿敵が冒頭で一度、印象深く登場するんです(しかもそれがちゃんと「まさかの展開」になっている)。ドクターノオはタイトルにも起用されている割に、別にそんなに怖くもないんです。悪の組織の象徴的な代表、というより、なんだか雇われ親分というか、社長というより店長くらいの存在感なんです。まあ一作目だしジェームズ・ボンドをたっぷり描こうということだったのでしょうけど、そのためかクライマックスが楽しくなかったですね。
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 でも、この前、同じイギリス映画の『ジャガーノート』について、新宿のバーのマスターに「面白くなかったですよ、あれはああでこうで・・・」と話したら、「違うね。そんなのはどうでもいいのだよ。あれはリチャード・ハリスのアイドル映画なのだよ。ハリスを愛でればいいのだよ」と返されました(彼の店にはあのタランティーノが来たこともあり、ぼくにとっての映画賢者の一人なのです)。

 そう考えるなら、本作もまたショーン・コネリーのアイドル映画として愛でればいいのかとも思います。そういえば薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』における三國連太郎だってよくわからないおっさんだったわけです。コネリーの右往左往ぶりを愛でるのが、今この映画を観るときの正しい態度なのでしょう。

 わかりやすいツッコミどころは笑ってしまえばいいのです。目を血走らせて真剣に突っつくのは馬鹿のやることです。それまで一生懸命頑張ってくれていた黒人男性が無残な死を遂げるのですが、死んだその瞬間から後、一切まったく顧みられないのも阿呆ポイントが高くてよいのです。ボンドたちの飲み物に睡眠薬が盛られるのですが、それまで警戒心の強かった彼がなぜか簡単に引っかかるのも面白いです(中盤、家の中でウォッカを開けるときは警戒しているのに。美女を前にしてちょっとイキって失敗した感じがキュートです)。その睡眠薬が物語的に何の意味もないのもいいです。
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 クライマックスの司令室みたいなシーンも笑います。潜入したはいいけど何をすればやりようがなくて、ボンドがドクターノオの後ろでぼんやり突っ立っているのが面白いです。しかもドクターノオはそれに騙されるし。牢獄から出るときもなぜか水が流れてくるんですが、その水がどこに流れたのかよくわからない。あとはウルスラ・アンドレスの拘束状態がものすごく投げやりなのも面白い。
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 きわめつけはラストです。なんだかんだで任務達成じゃい! と島から逃げ出すのですが、島にいた他の人々もえらいこっちゃと逃げ出します。悪の仕事に荷担していたとはいえ別に悪人とは限らないのだから一緒に逃げさせてあげてもいいのに、当たり前のように蹴飛ばしてボートから引きずり下ろします。あの辺の乱暴さは面白いです。

 貶しているのではまったくありません。映画は往々にして、時代を経れば違う面白みが宿るものなんです。映画の変なところを馬鹿にするのでなく、あるいは真面目くさって擁護するのではなく、変なところを変なものとして面白がるというのは大事なのです。90年代のトレンディドラマなんかでも、今ならば「ありえねー」と笑えてしまうものは多いわけで、それは過去の自分の生き様が笑えてくるのと同じことなのです。肯定しつつ、笑っているのです。笑いつつ、肯定しているのです。もちろん、適当につくって失笑を買う最近のテレビ局ものに対する笑いとは、まったく異なるものです。

 なんだかんだ言いながらも書いているうちによかったんじゃないかと思い直しました。今後も折に触れ、こうしたクラシックスを愛でていこうと思いました。おわり。
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無様さが足りない。女性嫌悪的だけどきっと女性向けの映画。
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原題『Basic Instinct』
 映画自体は100年以上の歴史を持ちますが、ぼくが観るのはもっぱら1950年代以降で、その中でも60~80年代が多いのですね。90年代の映画、特に日本映画とアメリカ映画については90年代がいちばん少ないかもしれないです。

 それほど数を観ていないせいもあってか、90年代のアメリカ映画にはそれほど惹かれないんです。重要な作品は多いけれど、年代的風合いは80年代以前のものに及ばないし、CG技術を用いた映画にしても2000年代のものに負ける一方、80年代的野蛮さも薄れている。そういう印象が大きいのです。とはいえ、まだまだ観ていないものが多いわけで、後にはまったく別のことを言い出すかも知れませんが。いや、言い出すのでしょうが。

 さて、言わずと知れた有名作品『氷の微笑』。
 シャロン・ストーンの名が一躍日本で広まったのもこの作品からのようです。
 確かに当時のシャロン様はとてもお美しいのでございます。シャロン様を愛でるうえで格好の映画と言えましょう。まだまだハリウッドが喫煙にうるさくない時勢だったのもあって、ものういスペシャルビューティぶりがいかんなく発揮されております。
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しかしこの人はどうやらこれ以降のフィルモグラフィを観るに、あまり活躍していない感じがします。ぼくが無知なだけかも知れないけれど、おお、これぞ! というのがない。ただ、この映画を持たせたのは間違いなく彼女の氷の微笑のおかげであります。今のエリカ様はちょっとこのシャロン様を目指している感じがしないでもないです。妖艶なる絶世の美女を目指してけつかる感があります。ただ、結構がっつりとした濡れ場があって、シャロン様は頑張ってくれているのですが、おっぱいはややがっかりおっぱいです。大きくない乳房が離れているため、ホルモンを中途半端に盛ったニューハーフのようなおっぱいです。
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相手役というか主人公はマイケル・ダグラスです。ぼくは男性俳優を嫌いになることがあまりないのですが、マイケル・ダグラスは好きではありません。以前、松本人志のラジオ『放送室』で、彼と放送作家の高須が、「マイケル・ダグラスは面白くない」「すかすか、実がない感じ」と評していて、ぼくもそれに同意見なのです。主演を張るにはどうにも面白みがない。こういうのを目にすると、ああ、やっぱりイーストウッドですごいんだな、と思う。年齢的には10歳以上違うけど、もしこの役をイーストウッドがやっていたらもっと楽しくなったことでしょう。その場合は別に濡れ場だって必要なかった。あの辺のインパクトでごり押ししようとしているのは、実はこの映画の弱みでもある。

 基本的に映画におけるエロ描写、濡れ場描写は肯定するというか、待っている派の人間です。映画の醍醐味は数ありますが、エロ要素はきわめて重要です。土台映画とは見せ物ですから、観客が観たいものを見せてくれるのは偉いのです。ただねえ、エロくはないんですねえ。セックスシーンを撮ればエロだ、というのは非常に低劣かつ蒙昧な考えであって、エロの本質はきっとそういうものじゃないんです。よく思うことで、エロいってことの本質には、「無様さ」があるんです。人間の営みとしてひどく無様であること。これはエロにとって重要です。韓国のキム・ギドクはその辺が異常に上手い。ほんのちょっとしたカットであっても、セックスをしっかり無様なものとして決めてくる。男性と女性が下半身の衣服を脱いで覆い被さって往復運動をしている、その姿勢は限りなく無様ですよ。AVでも、無様なもののほうが絶対的にエロい。ヴァーホーヴェンは画家のヒエロニムス・ボスが好きだと言うし、その辺がわかる人だと思うのですが。

 たくさん出したわりにエロが弱いし、ストーリーの部分もいささか退屈です。でも、退屈を感じたのはぼくとの相性が大きいとも思います。映画としての毛色が似ているサスペンスだと、有名どころではブライアン・デ・パルマの70、80年代作品、『ミッドナイト・クロス』とか『悪魔のシスター』とか、あるいは『フューリー』『殺しのドレス』を連想しました。もしくは『サスペリア2』とかイーストウッドの『タイトロープ』とか。実はぼくはその辺の作品の雰囲気というか、物語運びが苦手なんです。どうも退屈だったんです。だから逆に、今あげたような作品が好きだ、という人にはいいかもしれません。

 サスペンスって、小説でもそうですけどわりと中だるみするんですね。最初の状況設定とクライマックスの盛り上がりがあっても、中だるみが挟まると熱量は大きく減じてしまうという性質を持っている。ここは作劇を研究する上で大事なところなんですが、それをするほど今は頭を回転させる気力がないのでまた今度。

 ラストはまあ、まあいいんじゃないでしょうか、女性嫌悪的で。「なんだかんだ言うても信用でけへんで」というあのラストはちょっと人生論的なものをすら感じます。あれをハッピーエンドにしていたら最悪だし、かといってダグラスを殺すのも安易。あのもやもやした着地は着地としては正解だと思います。今日はこの辺で。
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いくらでもすすめるさ。
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DVD発売記念イベントに応募したら当選。整理番号も早くて前から二列目中央で参加。何百人も収容のホールで前から二列目とはかなりの幸運でございました。たくさんの人が来ておりました。ほとんどはぼくも含め野郎まるだしの面々でしたが、三パーセントくらいは女性もおりました。ぼくの二つ隣には赤ん坊を抱いた女性がおりました。とても楽しい時間でございました。

 約半数のメンバーですが、対面することが叶いました。蒼井そら姐さん、麻美ゆまさん、Rioさんというエースクラスが登場し会場は喝采。他には西野翔さん、小川あさ美さん、希崎ジェシカさん、佐山愛さん、美咲みゆさん、恵けいさん、安藤あいかさん、川村えなさん、小倉遥さん、桜ここみさんが登場しました。無料のDVDイベントですし、フルメンバーとは行きませんでした。吉沢明歩様に謁見できなかったのは残念でございました。初音みのりさんやかすみりささん、かすみ果穂さん、藤浦めぐさん、桜木凛さん、そしてみひろさんなどは登場しませんでした。しかし、蒼井姐さんやゆま様に謁見できたことは昨今の生活におけるグンバツの吉事であり、やはり恵比寿マスカッツというユニットは素晴らしきものであるとあらためて感じ入った次第なのでした。

 内容はというと、まあ別に歌や踊りがあるでもなし、トークが中心なのであって、万が一彼女たちを知らずにやってきた場合、何が面白いのかと思われたのでしょうが、今回はDVDを買った人間だけを対象にしたイベントであり、ファンが一体となって場をもり立てたのでございまして、ぼかあ嬉しいやね、恵比寿マスカッツを応援している人々は皆心の同士であり、その中でへらへらしていたのが愉悦だったわね。わずか数メートル先の壇上で「かわいい甲子園」を模したパフォーマンスが行われ、ゆまちんやジェシーが頑張っているのを見たならば、おいおい、にやにやが止まらねえよ!

 ってこんな風に書くと場合によってはキモオタなんて呼ばれるのかもな。
FUCK OFF!!
ろくに知りもせずにつっけんどんなレッテルで遠ざけるなら、てめえは最果てに消えな。
 
 と、余計な痛罵は抜きにして、そういうわけで今回もDVDを推します。
 いいから買いなさい。これを買うと百万円もらえるから買いなさい。誰からもらえるかはまったく知らないので、その件について掘り下げるのはやめなさい。

 例によって内容を逐一紹介するのは省略しますが、メンバーを紹介してその魅力をお伝えします。

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 西野翔さんは今日のイベントにおかれましても最も活躍していたうちの一人でございます。この方はバラエティの呼吸をかなり飲み込んでいる。今日のイベントではっきりとそう感じたのでした。今日のイベントを盛り上げたのは間違いなく彼女です。彼女は陰のMVPなのです。世間の例に漏れず茶髪が多いマスカッツの中で記憶の限りずっと黒髪で通しているのも高ポイントであります。Rioやゆまちんのようにクリーンナップを飾るタイプではないですが、確実に七番バッターの仕事をする。クリーンナップや六番が残したランナーを一掃できる。大変に希有な人材とお見受けいたします。
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かすみ果穂さんです。『おねだり』時代、後期参入でありながら初回でかっさらっていた強力な助っ人。SOD時代にもバラエティに出ており、達者な存在です。美形揃いのマスカッツにおいては色物の位置取りですが、色物こそが世界を彩る。この人の登場によって『おねだり』は変わりました。バラエティ戦力値がかなり上がりました。四股の芸当は、芸人でも無理。
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かすみりささんです。『おねがい』スタート当時、この方と小川あさ美さんだけ他のキャストと違う色の衣装を着ており、「恵比寿ガールズタワー」の一人で、なんとも行けている人でした。『おねだり』時代にキャラ付けが加速しまして、今となっては堂に入った不良キャラです。かすみ果穂さんもそうですが、「下郎の魂」を感じます。可愛く振る舞うことについては不向きですが、攻撃力はメンバー随一です。クリーンナップやスタメンというより、代打の神様的な感じがあります。さっきから野球に例えていますが、どれくらい伝わっているのかに関しては一切自信がございません。
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初音みのりさんです。この人ほど『おねだり』時代に開花したメンバーはおりません。『おねがい』時代は正直、目立たない存在だったし、それほど可愛いとも思われなかった。ひな壇はいつも二列目でした。でも『おねだり』時代に見違えた。一気にトップクラスに躍り出た。こういう躍進はスポーツチーム的な魅力を感じさせます。これほどに魅力レベルが増大した例を、ぼくは他に知らない。
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Rioさんです。メンバー内においても尊敬を集め、間違いなくスタメンクリーンナップの一人、いや、エースと言うべきかも知れません。サッカーで言えば吉沢との2トップ。今よりも『おねがい』スタート時のようなスタイルが個人的には好みですが、番組における活躍の仕方として、まったく非の打ち所がない。

 本当に世間は馬鹿です。なんとか48なんかと比べものにならないということがわかっていないやつが多すぎです。それに引き替え、今日のイベントに参加した人々の慧眼は素晴らしいものがあるのです。当然、今後も引き続き、応援していくのでございます。
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