「ほっ」と。キャンペーン

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これはなかなかのおもしろみのなさ。
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十月末はハロウィンの季節に当たるわけですが、ぼくはこれまでの生涯でハロウィンにまつわるイベントを完璧にスルーして生きてきたのであり、何の思い出も思い入れもありません。おそらく世間の企業の多くが、クリスマス、バレンタイン的なものにしようと画策しているのでしょうが、今ひとつ何をやればいいのか見いだせずにいるのでしょう。クリスマスといえばプレゼント、バレンタインと言えばチョコとラブチュッチュで行けますが、ハロウィンはその辺の統一が取れずにいるようです。クリスマスにおけるサンタのように中核マスコットを置くとしたらあのカボチャおばけでしょうが、日本ではあのオレンジのかぼちゃはちいともメジャーではなく、その辺も難しいところです。ただ、ここで一発当てると結構な金脈が出るかも知れませんから、イベンターとかそういう人はせいぜい頑張ればいいと思います。

さて、映画『ハロウィンⅡ』。ロブ・ゾンビ版です。考えてみるにこの『ハロウィン』という映画も、もともとは別にハロウィンと関係ないというか、必然が何もないんですね。あのブギーマンとハロウィンも別に密接な繋がりがあるわけでもないですし、カーペンター監督、タイトルは『ブギーマン』でよかったんじゃないでしょうか。

 カーペンター版の2を観ていないのですが、このゾンビ版に関して言うと、2はぜんぜん面白くありませんでした。この手の殺人鬼系、スプラッター系は好きなジャンルですけれど、ゾンビ監督がなぜわざわざリメイクものの2までやろうとしたのか、一体この映画で何を見せたかったのかがさっぱりわからないんです(第一の動機はお金じゃないかと穿ちます)。正直、どのシーンをとっても、何か他の映画で観たような場面ばかりなんです。新鮮な驚きがもたらされる場面が何もないんです。体感時間がえらく長くて、途中でやめようかと思ったくらいです。

 ゾンビ監督は『悪魔のいけにえ』を下敷きに、『マーダーライドショー』の1、2でばちっと決めてきたんです。でも、ハロウィンの場合は2でずっこけた感じがします。『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパー監督は、1から2に行くとき、もうめちゃくちゃにしたんです。1は地味だけど不気味さとテキサス風味漲るおいしさで、2はまさかまさかのアホ方面でぶっちぎった。ゾンビ監督だって『マーダー~』の2では飛ばしていたんです。でも、今回の『ハロウィン』2作目についていえば、ぜんぜん攻めている感じがしないんです。『テキチェン』は良くも悪くも、もっと攻めていたよ!

そもそも、の話になるんですけど、ぼくはブギーマンにそれほど魅力を感じなくて、なぜなら彼はうろうろしているだけだからなのです。本当に、こんなにうろうろする殺人鬼はなかなかいないんじゃないでしょうか。ジェイソンにしろフレディにしろレザーフェイスにしろ、あいつらにはそれなりに縄張りがあったんです。だから「場」にこもる力があるわけです。それともうひとつ、「一人一人殺されていく」というのが盛り上げ要素になるわけじゃないですか。ゾンビものにしてもクリーチャーものにしても、ある程度仲間たちがいて、そいつらが一人一人殺されて、という状況が切迫感を生むわけです。ブギーマンはあっちこっちに行って出る人出る人殺して回るだけなんです。「完全なる殺され要員」が多すぎる。いや、それはでも、この映画に限ったことではないですよ、『ターミネーター』とかにしたって、「殺され要員」はたくさん出てくる。でも、魅力的なキャラクターはその都度その都度違った側面を見せるんですよ。『エイリアンVSプレデター』はそれだけのことでなんとか頑張っていた映画ですよ。いろんなやられ方、やり方で驚かせようって、それなりに驚きを持続していたんです。

 じゃあ本作のブギーマンはどうかというと、もう手のつけられない乱暴者みたいな、それだけなんです。レザーフェイスやジェイソンのようなチェーンソーを持つでもなし。特徴は「怪力」という、なんとも素朴な、昔のお相撲さんのような凄みだけで、味わいがないんです。もっと言えば、なんであんな華奢な少年があんな大男になるのかもよくわからん。

 もうひとつ、この2の退屈は、変な幻想風味を入れちゃったことです。ブギーマン、それから妹の前に、なぜか「子供の頃のブギーマン」と「母親」が出てくる。あの幻想風味はこの猟奇娯楽作と食い合わせが悪いんじゃないでしょうかねえ。というかね、ブギーマンがしっかりしていれば、あんなの入れる必要ないんです、絶対。たぶん監督もわかっているんですよ、「ブギーマン一人のごり押しはそろそろきつい」って。だから、まさしく子供の危機に現れる母親そのものが、出てくる羽目になるんです。しかもものすんごい中途半端な出方です。ブギーマンの人間的な部分とか、母親との云々とかを描きたいっていうのはわかるんです。なぜならブギーマンはあまりにもバックグラウンドが薄いキャラクターだから。でもこの映画で、「いやあ、あの子供と母親はよかったね」と思う人がいるでしょうか。いたら教えてください。

 うん、本当に既視感の強い映画です。序盤、病院内で追われるくだりも、そのオチの付け方も、どれもこれも全部過去にやられているし、ちょっと褒めポイントが見つかりにくいです。来るぞ来るぞと思っていたら百パーセント来るし、だから抑揚がないし。ゾンビ監督はすごく攻めている人だと思っていたんですが、今回は守りすぎて得点がありません。
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『ロッキー』と併せて観たい作品。
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原題『The Bad News Bears』 
 喫煙者を引退しジョガーとしてデビューし、一応十日ほど経過しました。今のところは平気の平左で、そりゃ吸いたいか吸いたくないかでいえば吸いたいけれども、そんなのは煙草に限らず女性の乳首とて同じことであり、吸いたいけれども吸わずに生きていくことはできるのだから、吸わずに過ごすとりあえずの日々。走るのはこれ楽しく、なんていうかあれだね、ロッキーのテーマとか聴きながら走ると、丑三つ時にヒロイズムが去来すんね。ほいで楽しくなってるるるる。
 
 さて、映画の話。
弱小少年野球チームが頑張るお話です。弱いチームが頑張って強くなっていく、というのはスポーツもののド定番で、その中でも代表的クラシックと言えましょう。と言っても、スポ根ど真ん中で汗と涙をまき散らす種類のものではまったくなく、ほえーっとしながら観ていられます。クラシックの傑作、というより、ほんわか定番作品でしょう。下手に闘争的な演出をかますこともなく、それこそ近所の子供の草野球を観る感覚で楽しめる一品です。
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 1976年公開の本作ですが、1976年と言えば『ロッキー』が思い出されます。アカデミー賞を取った有名作品の一方で、実はこの『がんばれ! ベアーズ』も似たような話です。ウォルター・マッソー演ずる監督は過去にマイナーリーグの選手をしていて、今は清掃員のバイトをして暮らしています。境遇としてはロッキー・バルボアと似ているわけです。で、マッソーはロッキーとは違う生き方を選び、少年野球の監督という、とても小さな次の一歩を踏み出していきます。
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 チームはぼろぼろで、英語の通じないメキシコ人少年二人も混じり、フライもゴロもまともに捕れない連中ばかり。定番として、最初はどん底状態です。ここを救うのが『ペーパー・ムーン』で一躍有名になったテイタム・オニール。彼女はかつての天才ピッチャーとして登場します。テイタムはとっても可愛いです。なおかつ風格があって、周囲のじゃりガキとはやっぱり違う。で、これが映画としてうまいところで、このエースピッチャーに女子を入れてきたのがいいんです。この映画の魅力は女子エースという設定、そしてテイタムによってかなりバージョンアップしています。正直、マッソーのおっさんとじゃりガキだけでは、すごく地味な話になったはずなんです。綺麗な女の人も出てこないし、マッソーはちっともモテる気配がありません。そんな中でこのテイタムは、「映画の中の華」を一身に担っている。このテイタムを観るだけでもこの映画は楽しめます。
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 映画のサイズとして、仰々しくないのがとても好感が持てます。これはあくまでもアメリカの一地方の小さな少年野球でしかない、という視座をずっと持ち続けている。だから別に、野球の試合の場面とかも、それほどのハラハラドキドキはないんです。スポーツ観戦的な快楽はあまりない。でも、野球少年たちが、ぐずはぐずなりに、下手は下手なりに、よちよちと頑張って走っている様はすごく心地よいのです。ああ、確かにこのような瞬間は人生にある、と思える。ぼくは野球経験がなく、サッカー少年でしたけども、まあサッカー少年と言っても本当に平凡なる放課後の部活程度の話。なんだかこの映画は、自分の過去ともちょっと重なって見えてくる。すごい大会で優勝とか、全国大会でうんぬんと言われたらもうわからない。でも、この規模のこのレベルのものなら、自分の過去を参照して記憶と重なってくる。そう思う人は多いんじゃないでしょうか。それがこの映画の愛される大きな理由だと思うんです。

『ロッキー』はチャンプに立ち向かう大きな出来事として描かれたけど、このベアーズたちはせいぜい地元の強豪チームに立ち向かうだけ。『ロッキー』はアメリカ人の大きな夢の象徴になっていくわけですけど、このベアーズは小さくて非力な連中があくまで小さな戦いを続けるだけ。ただ、ぼくたちの人生はおそらく『ロッキー』にあらず、むしろこの『ベアーズ』的な一歩一歩でやってきたわけです。そう言う人が多いはずです。なので、どちらも前向きな作品ではあるけれど、『ロッキー』と『ベアーズ』は相互補完的な関係にあるようにも思います。
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 演出もエモくないのが1970年代のアメリカっぽくていい具合です。粋です(こういうのを観ると、やっぱ最近のTBSは下品だなと思います)。最後の試合なんかもねえ、丁度いい突き放し方をしますね。マッソー監督がぜんぜん熱血じゃないのも面白いんです。勝つぞ、という気持ちはあるんだけど、「おまえは引っ込んどけ、あいつが上手いからあいつに任せろ」というような、この手の話の主人公にはあるまじき指示を出すから面白い。くたびれ感がぼくは好きですね。で、最後も最後で、日常な感じ。終始一貫して、少年野球の駄目チームという身の程をわきまえているから正しい。これが盛り上げるために全国大会だのなんだの言い出すとおかしくなるんです。華やかさはテイタムちゃんが持っているので、後の要素は地味でよし。
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 で、これまた『ロッキー』と似ているんですけど、勝ち負けなんてどうでもいいんです。スポーツは勝った負けたが当然大事になるけど、映画として、中盤までの出来を観て、既に映画としては勝っているから、勝ち負けはどちらでもいい。この辺のニュアンスをもう少し細かく伝えたいけど、疲れた。ともかく観ておくべき作品ではありましょう。
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この世界は醜い。だが、美しくしうる。
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「立て直しもの」というジャンルで言えば、ぼくにとって『王様のレストラン』が殿堂入りの第一位です。1995年の三谷幸喜脚本の連続ドラマで、潰れかけのフレンチレストランを立て直していく話ですが、これぞまさに、「今観てもまったく色あせぬ」傑作の典型なのです。レストランのセット空間の中に限定して話を進めるから、時代風景にまったく左右されず、むしろおとぎ話のような超時代的風合いさえ帯びている。これは誰がどういおうと傑作ドラマです。

 さて、『スーパーの女』ですが、その名の通り、駄目スーパーを立て直していく話です。 この種の話の勘どころをぴしっと押さえた美しいコメディでした。いい感じでださいです。この話には美男も美女も要らないし、スタイリッシュさも必要ない。いい感じでださくて豊かで、90年代っぽくていいです。

 時はもはや2010年代に入っているわけですが、この現代のぼくから見ると、90年代ってちょっとださいんですね。70、80年代はもう大昔化しつつあるけれど、90年代はまだそこまで熟成されていなくて、中途半端に古くてださい。スーパーファミコンな感じ。でも、だからこその良さもあって、この映画にはぼくが90年代に求めるものがありました。

 宮本信子が主人公で、津川雅彦の潰れかけスーパーを改革していくんですが、二人の出会いの場面が既にかなりフィクショナルというか、いかにも古いコメディっぽいんです。
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 これが許されたのが90年代までの良さだなと思います。今これをやるのは相当勇気が要りますよ。というか、今の時代、コメディをつくるとなっても、この感じではできないでしょう。このトーンが気持ちよかったぼくは、すんなり物語に入り込めました。そして、なかなかに感動的なお話でもあるのでした。

『王様のレストラン』にも通ずることですが、おとぎ話っぽくはあるんです。実際の現場はこんなもんじゃない、と言われることでしょう。でも、たとえばスーパーのドキュメンタリーとか、生き残り競争の現場を追ったうんぬんみたいな番組ではきっと得られないほんわかさがあって、それがなんだかとても気持ちよかったのです。

 基本パターンとしては、「駄目な現場」→「宮本信子の活躍」→「みんなに喜ばれる」の順序で、それがスーパー内のいろんな部門で繰り返されるんですが、これがひとつひとつ、小さな感動を生むんです。音楽の使い方はベタベタでエモいんですが、そのベタベタのエモさが王道を走っていて、変な小細工はなくて、大変好感が持てます。なんというか、「小さくとも確かな悦び」を得たとき、得るのを見たとき、ぼくはほんわかとしてしまいます。
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 ドラミちゃんの『山賊団』でも、スネ丸が野菜を育てて感動する場面はとってもほんわかとします。今回の映画でも、三宅裕司が取り仕切る野菜コーナーに客が入るようになって、それを喜ぶ彼や宮本信子の顔が、すごくほんわかとさせます。岡本信人演ずる工場長が、自分の卸したたらこを客に味わってもらう場面で、彼は感動のあまり泣き出します。 彼は初めてお客さんから「美味しい」という言葉を聞けて、嬉しくなったのです。
ベタベタですけど、空気感の醸成がばっちりですから、これがすごくいいのです。
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 宮本信子の演技が素晴らしいのは言うまでもないこととして、彼女のキャラクター設定がこれまた温かいんです。駄目な部門を改革しようとするとき、その部門責任者は頑固者だったり意固地になったりして、なかなか受け入れてくれない。そんなとき宮本信子は、時に厳しく、時に相手の心情を十分に慮りつつ、説得を試みます。言うべきことをとてもはっきりと言うのです。この映画はこと実生活においても、学ぶべきものがたくさんあるなあと思います。
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この映画の何にこんなに魅せられたのか、と考えると、やっぱり、ある種の無様さだったりするんです。無様さ、というと悪く聞こえますが、ひたむきさ、ということです。

 正直、こういう言い方はあれですけども、スーパーのレジ打ちとか、肉や魚をパックに包む仕事とかって、華やかではないし、世間的にもそれほど評価される仕事ではないと思うんです。実際、給与だってそれほど高くなければ、やりがいを感じるような仕事だと胸を張る人も、少ないような気がするんです。

 でも、宮本信子の出現によって、このスーパーの人々は、皆活き活きとし始めます。ひたむきに取り組み、皆に喜んでもらえるってことを、確かに感じ始めるのであり、その姿がとても感動的に映るのです。これぞまさに立て直しものの最高の醍醐味です。
この世界は醜い。だが、美しくしうる。
 それを感じさせてくれるのは、コメディとして大変に立派。模範。
もちろん、現実はそう甘くないんですよ。知っていますよ。たとえばこの映画を観て感動して、「よし、自分もスーパーで働くぞ!」と思った人はきっと、その後現実にうちひしがれたと思うんです。宮本信子はいないし。でも、たとえ一時でも、たとえ幻でも、「この世界は醜いが、美しくしうるんだ」と思えたなら、それだけで映画は役割を果たしている。
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スーパーという設定を細部まで生かし切って物語を進めているところも素晴らしいです。汎用的な精神論や人情話ではなくて、スーパーならではの素材によってお話をつくっている。成功への過程で、宇多丸さんいうところの「K・U・F・U」、工夫が積み重ねられていて、説得力があります。宮本信子の語る細かな主婦的知恵もスーパーという現場に活かされていて、専門的な知識うんぬんよりよほど気持ちいいです。その一方で、ゼロ年代半ばに世間を騒がせた食品偽装問題を、十年も前の時点で明るみに出しています。この切り込み方は伊丹監督のすごいところのひとつでしょう。
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 というか、逆にマスコミはこの十年間、何をしていたのでしょう。映画の中で、「産地をごまかして売るのは商人の知恵だ」とか「加工日の表示ってのはパックした日を書けばいいんだから、何度でもリパックしてよいのだ」とかいう悪知恵野郎たちが出てくるんですが、そのことをマスコミは十年後にやっと騒ぎ出しているのです。この映画が公開された時点で、もっとムーブメントになってもよさそうなものなのに(一部ではなっていたようです)。

 いい映画です。クライマックスでアホみたいな展開になりますが、まああれはあれで映画的サービスになっていますのでよいのです。「お客様のご満足が第一」というのが宮本信子の一貫した主張であり、協賛企業も二つ返事でスポンサリングしてくれたことでしょう。
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ただ、映画とはまったく関係ない余談ですが、「お客様お客様」的な世の中になるとしたら、それには反対です。内田樹が指摘していたのですが、病院において「患者さん」を「患者様」と言い改めたところ、患者の態度が断然横柄になったとのことです。様付けが個々人の無意識を刺激して、態度を変えさせていくんですな。その意味で「お子様」なる言葉は大嫌いです。おそらく少子化の原因の一端には、「お子様」という呼称の膾炙があることでしょう。「お子様」のように偉い感じにすると、「その『お子様』を管理下に置いている自分はもっと偉い」というアホな親が増えそうです。お客様重視だとサービスがよくなるってのもあると思いますが、たとえばテレビなんかの場合、あまりに視聴者様のご機嫌をうかがうあまり、クレームにびくついて面白くなくなっているわけです。というか、逆に、「お客様」なる語が敬称の意味を失って形骸化した場合、「サービスは悪いのに呼称だけは丁寧」「呼称の丁寧さによってサービスの悪さを隠している」「様付けのおかげで距離感が遠くなり、その分真摯さに欠ける」という現象もあり得ます。売り手と買い手の関係に最も適切な呼称は「お客さん」でしょう。これに勝る日本語はおそらくありません。
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君の中のルシファー
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 一般的に言って、なんらかの物語をつくろうとするとき、特異な設定をすることでその物語独自のアイディアを次々と積み重ねることができます。そこからオリジナリティを生み出そうと幾多の作品はつくられてきたのであって、この設定の妙味ひとつで面白さが変わってくるわけです。ただ、特異な設定をする以上は、それによって引き起こされる物語とは無関係な要素も、請け負わねばなりません。簡単な話、「世界のすべての人が超能力を持っていたら・・・」という設定をつくったら、その世界の法制や常識など、細かい部分も帳尻を合わさねばなりません。超能力を使ってどんぱち、だけでは済まないわけです。そうしないと、大変幼稚な話になってしまうわけです。

 アニメなどは大体、その辺は無視してつくられます。子供向けならそれでいいのです。実際にドラえもんがいたら世界は大騒ぎになるに違いありませんが、その様を描くと話が収拾できなくなるため、牧歌的な世界として、ドラえもんは一般市民同様の生活を送ることになります。

 だから今回取り上げる『トゥルーマン・ショー』を楽しむには、リアリティのレベルをぐっと下げ、ドラえもんを観るような目線で向き合う必要がありましょう。いろいろなことはひとまずええじゃないか、と放っておかないと楽しめない映画ではあります。

生まれる前から大人になるまで、24時間の生活をずっとテレビで撮られてきた男が主人公で、ジム・キャリーが好演しています。本人は自分の生活が撮られていることを知らずに生きており、彼を追うテレビ番組は全世界に発信されている、という設定です。ツッコミどころは大量ですが、それを指摘しているとこの話は楽しめません。その辺をぐいと飲み込めば、なかなか楽しく観られる映画でございました。
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 これは多分に、ルシファーマインドの息づいた映画なのです。『失楽園』が元ネタ、ということはないでしょうが、要はこれはルシファーのお話です。

 主人公の暮らす街や世界は、実は大きなドームの中にあるのでした。彼が街を出ようとするのを他の人々が全力で食い止め、なんとかしてもとの平凡な生活に戻そうと奮闘します。彼は平凡な生活を送る限りにおいて、危険な目に遭うことはあり得ず、順調な暮らしを続けることができます。彼にとってのあの世界はいわば天上の楽園であって、クリストフ(主人公の番組をつくる最高責任者)という秩序者のもとにいれば、いつまでも平和なのです。

 ところが彼は、それを拒みます。なんとかして外に出ようとします。それはつまり、ドームの中の庇護をかなぐり捨てること。たとえ何の保障もなくても、自分の意思で生きていくことを求める態度なのです。
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 秩序者のいる世界、つまり絶対的な主のもとにおいて、意思はありません。事実、他の街の人々は皆、クリストフの意思を受け、主人公の人生のエキストラとして存在しています。人々はクリストフという神にあくまでも従順で、主人公に真実を教えようとした女性は放逐されました。平和なる世界、そこは意思なき世界。主人公は、そんなものは嫌だと逃げ出していくわけです。
 
観る前には、「監視されていることへの嫌悪」が描かれているのかな、と思っていたんですが、違いました。この映画は「管理されることへの嫌悪」なんですね。もちろん、テレビをめぐる描写で「監視嫌悪」は引き立っているのですが、一方で「管理嫌悪」が主人公の気持ちを貫いています。
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 脚本は良くできていて、メッセージもはっきりとしている、しっかりした映画ですね。難点と見えるのは、あの新しい恋人候補が出てきてそれが何も活かされないこと。ただ、この映画の作りならばそれは別にオッケー、というか、それこそがこの映画のメッセージそのものとも言える。だから難点ではない。この映画は、とても物語的につくられながら、一方で物語そのものを拒絶、否定するという離れ業を行っています。物語とはこれひとつの大きな秩序、だったら、その手順をすべて真っ当に踏むのはむしろ主人公と相反する動きであって、だからこそ一見不備とも見える脚本の流れが美点に変わる。これはなかなかに鮮やかな離れ業なのです。

 ラストのワンカットも皮肉が利いていますね。彼の物語をテレビで観ていた視聴者が、「何か面白い番組はないのか?」とすぐにチャンネルを切り替えようとするところで、話は終わります。このシーンだけでいろいろと考えることができますね(これとまったく同じ終わり方の映画が何かあったと思うんですが忘れました。だれかおせーてくらさい)。

 結構語り甲斐のある映画で、まだまだ書いていないことも多いんですが、ひとまずこの辺にします。全面的に賞賛することはできません。やっぱり主人公以外の世界の設定を置いて行き過ぎですから。こんなつくりかたでいいのなら、ドラえもん的な実写映画がたくさんできてしまいますから。ただ、ルシファー魂のある映画として、ぼくは好きです。
 
 さあ、他のサイトを観ましょうか。
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疑似ドキュメンタリー? 疑似ドラマ? どっちでもいいけど、とにかく青臭さがないんだ。
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 「アメリカ学園もの」はここではほとんど取り上げておらず、高校を描いた作品なら『明日、君がいない』くらいのもので、実際それほど数は観ておりません。最近、『バス男』なる冒涜的邦題をつけられた映画『ナポレオン・ダイナマイト』を観ましたが、それほど面白く思えなかった(かなり褒められている作品のようですが)。今回取り上げる『アメリカン・ティーン』はアメリカの高校生を描いた映画で、宇多丸さんは大絶賛だったのですが、どこがそんなにいいのか、正直ぼくにはよくわからなかった。この方面の感度は鈍いほうだと思います。これと比すれば、『明日、君がいない』のほうがよほど感じ入ったんですけどね。あの映画は高校生をモチーフにしながら、どんな世代にも通じる本当に普遍的な問題を描いている傑作ですから。

 さて、『アメリカン・ティーン』です。これは実際の高校生たちの生活を追ったドキュメンタリーで、アメリカの片田舎に住む五人の男女が主軸となります。ドキュメンタリー、と言っても、ぼくは事前にそう知っていたからそう観たのであって、何も知らずに観るとドキュメンタリーだとは気づかない人も多いでしょう。ドキュメンタリーと劇映画を対置させて捉えるなら、この映画の語りは明らかに劇映画的です。劇映画的ドキュメンタリー、という呼び方がわかりやすいでしょう。

 で、ぼくがいまひとつ入り込めなかったのはまさにそこが大きいんです。ぼくはエイガミとして、頭が固いのかもしれません。宇多丸さんのラジオを先に聴いていたので、「ほうほう、実際の高校生の生活を追っているのか。どんなにか生々しく、無様であろう」と期待したんです。でも、どうも、なんていうか、生々しくなくて、それはやっぱり、この映画に独特な手法のせいなのですね。

 ドキュメンタリー、つまりは実在の人物の実際の生を撮影し切り取ったもの。劇映画とは違う生々しさや実在感があるものだと思うんです。いい意味でざらざらとした手触りの、ごつごつとして整っていない良さがあると思うんです。そこに着目したのが疑似ドキュメンタリーという手法ですよね。架空の出来事に生々しさを与える表現として活用されます。

 この映画はいわば疑似ドキュメンタリーの逆で、疑似ドラマっぽいんですね。そうするとね、どうしても整ってしまうんです。見せ方がうまいし、編集でうまく見せ場をつないでいる。でもその分、そいつがそこに実際にいる、という生々しさが減じる。

 違う言い方をすると、登場人物に実在感のある映画ってのは、どこかドキュメンタリーっぽいんですよ。それが最も模範的な意味でのリアルさなんです。この映画は実在の人物を追っているのに、なんだかドラマの登場人物に見えてくるんです。

 なぜなのかなあと考えるに、たとえば会話のテンポがやたら良すぎる。この映画は引きの画をあまり用いません。二人の人物が会話をしているとき、こまめに切り返しを行い、話者のほうを映すようにしています。ぼくが観てきた、思ってきたドキュメンタリーでは、まずこのような切り返しは行われません。いや、むろん、既存のドキュメンタリー像が絶対ではない。自分が思い込んでいるドキュメンタリー像とは違うものもあり得る。でも、会話のテンポが悪いことって、実は実在感を描くうえですっごく大事だと思うんです。

 ぼくたちの生活、日常って、そんなにテンポ良く会話が進まないと思うんです。深刻な問題ならば特にそうで、何かを言いかけたのに突然じっくりと考え込んでしまったりとか、言いたいことがうまく言えなくておろおろしたりとか、自分語りがいびつさを帯びたりとか、もっともっと、無様なものだと思う、特に高校生なんて存在は。そして、そここそが実在の人物を映す醍醐味だと思うんです。そういうのがぜんぜんないんです。

 それで言うと、アニメーション部分なんかは、邪魔だなと思った。いや、最初のうちは、いいなと思ったんです。なかなか攻めているな、内面語りをアニメーションで見せて、単調さ、平板さを回避することもできるしな、と好感を持った。ただ、全体を見通してみると、どうなのやという気がしてくる。単調でもいい、平板でもいい、無様でもいいし何を言っているのかわからなくてもいい。そういうものこそ生々しい。あのアニメーションって、無臭化してしまうんです。リアルな気持ちを語っているはずなのに、無臭なんです。青臭さをデオドラントしているように思えたんです。青臭さを消しちゃ駄目です。高校生の最大の魅力のひとつは、やっぱり青臭さなんですから。

 うん。整いすぎているってのはどうしても気になってしまいますね。というかね、一応これはドキュメンタリーなんですよね。ドキュメンタリーってのは、まあ一応のルールとして、やらせはしないもんだと思うんです。被写体に何かが起こる、そこに取材班が居合わせる、そうやって撮られていくものだと思う。いや、でもそれはあくまで『選挙』『精神』の想田監督的アプローチであって、広く言えば筋書きはある。ある部分、ある部分を切り取って当初立てた筋書通りに見せてしまうのが最も一般的なドキュメンタリーだし、アメリカはそういうのが主流になっているようにも思う。でもね、この映画ね、やらせとまでは行かなくても、めっちゃ段取りを踏んでいる感じがするんです。

 顕著なのは一人の少女の裸がメールで送られまくるくだりです。それを受け取った人間の様子や、それを観た人々の反応を映したりしているんです。リアルな風景ではぜんぜんないじゃないですか。本当に現実を映しているものなら、あのメールを受け取った場面とか、みんなが観て驚く場面なんて、撮れませんって。夜中のうちに広まっちゃってたりするって。いや、仮にそうじゃなくても、絶対撮影のために一旦人々の動き止めていますよ。「こういう画が撮りたいのでちょっと待ってて、カメラオッケー? 大丈夫? 大丈夫?はい、じゃ、驚いて!」みたいになっていなきゃあの撮り方は不可能でしょう。もしくは一回やらせてますよ、「ちょっとここで驚いて」的に。やらせですよ。
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「いや、出演者に張り付いていたらたまたま連絡が来て、たまたま撮れたんだ」という言い訳は聞かないですよ、あの撮り方では。ドラマっぽくするために、絶対スタンバイさせています。もし本当にリアルにそうなっていたとしたらむしろ不運ですわな、ぜんぜんリアルな振る舞いには見えないもの。で、一人の少女が傷ついていますわな。

 だからね、これね、ドキュメンタリーって言われ方がされますけど、サンダンスでドキュメンタリー部門受賞していますけど、いいんですか、本当に。いやそりゃ、起こった出来事のすべては作為なしの、日常の中のものかも知れない。でも、出来事を受けての人々の動きには、作為が紛れていますよ。「え、そんな面白いことが起こったの? じゃあちょっと待ってて。撮りに行くから。はいオッケー、じゃあここでもう一回驚いてみて。初めて目にした感じでやってみて」みたいな。それはやっぱり、やらせじゃないですかね。やらせがいけないとは言いませんけど、やらせがあるならそれはドキュメンタリーではなく、疑似ドキュメンタリーですわな。

うん、ぼくはそういう風に思ったんです。頭が固いんですかねえ。こういうのもありやな、とは思えなかったんですよ。他に類のないようなもんにはなっていると思いますよ。ただね、えらく綺麗にしたもんやなあ、えらくにおいを消したなあと思って、それが残念なんです。

 でね、思春期の少年の気持ちわかってねえな、と思うのがあってね。ニキビ面の少年が出てくるんですけど、彼が「ゼルダの伝説」のゲームが好きなんです。で、ゼルダに模したアニメーションで、彼の妄想を描くんですよ。自分もゼルダみたいに活躍してヒーローになりたいっていう夢想を、アニメで描くわけです。そのときにね、アニメの中でも、彼の顔にはニキビがあるんですよ。それはねえ、間違っています。彼の頭の中を描く、彼のいわば理想的シチュエーションを描くアニメなんです。その中の彼は、自分をニキビ面として描いたりはしないですよ。理想の自分なのだから、綺麗にしたがるんですよ。それは、身をもってぼくは言える。
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それをああいう風に描くのは、やっちゃ駄目です。撮影クルーはずっと彼と一緒にいたかもしれないけど、わかっていないですね。本人がそうしてくれって言ったんですかね。うん、あの、そこは仮にそうだったとしても、嘘ついてくれ。アニメっていう虚構を技法として用いたんだから、本人がどう言ったかに関わらず、そこは観ているものに伝わるリアルっぽさに徹してくれ。あとあとどうなったか知らないけど、あの時点で彼は、絶対自分のこと肯定できていないから。

とまあこんなところです。
 結構辛口になりました。皆さんの御意見をお待ちしております。
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これぞ世界に誇れる日本映画。
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 久々の新作レビウ。久々のHUMAXシネマズ。
三池作品はあまり惹かれないで来たのですが、宇多丸さんが大絶賛していたので行ってみました。さて、シネコンに行くたびぼくは嫌な思いをするんですけど、今回も馬鹿がいました。ぼくの後ろにいたのが初老の夫婦なんですけど、ばばあのほうがいちいち声を出すんです。喋りやがるんです。「うわ、何これ、気持ち悪い」とか「あら、やられちゃった」とか「もしかして、もしかして、まさか、うふふ」とか観るものに反応して喋るんです。そういうやつに限って上映前のマナーメッセージのとき、「お喋りは迷惑ですよ」のくだりを観ていないんですね。そのときも喋っているから。本当に困ります。途中むかついて振り向いてそいつをガン見してやったんですけど、ぜんぜん気づきもしないんです、座席に高低差があってぼくのガン見に気づかない。もうむかついた、上映が終わったら一言言ってやる、と思ったらもうそこにはいない。エンドロールで余韻を楽しむ、という行為をしない。一体何なのでしょう。なんで自分の発する迷惑に気づけないのでしょう。しかも横に夫がいるんだからそいつもそいつで注意せえ。もう二人揃ってアホです。ぼくは哀しいです。四十年、五十年生きてきて、映画を観るときのわきまえすらわからない。そんなやつらが選挙権を持っていて、ぼくの一票と同じ価値を持っている。あいつらが年を取ったときにもらう年金にぼくの支払う年金が使われる。ぼくの道徳観からすると、ああいうのは殺してもいいんです。いや、殺すべきなのです。稲垣吾郎の放った矢は、あいつに飛んでいけばいいのです。

 と、このように怒るのはひとえに、この『十三人の刺客』が大変な傑作であったからです。この傑作の鑑賞を妨げる者に対しては、寛容にはなれません。

 『十三人の刺客』は1963年、工藤栄一監督が撮った作品で、今回はそのリメイクだそうです(不勉強にしてまだもとの作品は観ておりませぬ)。タイトル通り、十三人の侍、浪人たちが悪逆なお偉いさんを殺しに行く話です。時代劇には疎いほうなので、迂闊な言い方かもしれませんが、本作はおそらく、1985年の黒澤明監督作『乱』以来の、大変な時代活劇だと言えましょう。2000年代に入っても時代劇で佳い作品はありますが、予算的制約などの事情から、どうしてもこぢんまりとした話が多かったり、人情話で盛り上げようとしたりが多かった。しかしこの作品はまさしく黒澤明黄金期、金字塔であるあの『七人の侍』を彷彿とさせる壮絶な合戦の様子を描いており、まあ今年の日本アカデミー賞はこれで決まりでしょう。これにやらなきゃしょうがないでしょう。あ、キムタクのあれがあるのか、あらあら。

 悪の親玉は稲垣吾郎が演じたのですが、いやはやこれはおそらく彼にとっての最高の役になったのではないでしょうか。箱入り息子過ぎて幼児的全能感にまみれ、無邪気な邪悪さを放ちまくっており、FF6のラスボス、ケフカを連想します。あのイーブルはいいなあ、ぼくも役者になったりしたら、ああいうイーブルを演じてみたいものです。簡単に言うと、「ぼくちゃんは偉い」→「だから、人の命を粗末にしてもよい」と思っているようなやつで、とにかく救いようがありません。そのどこまでも最悪なやつだからこそ、この映画における最高の敵として立ちはだかれるのです。宇多丸さんが形容したように、この稲垣吾郎という人は、「天然お殿様」みたいな雰囲気があるんです。邪悪な天然お殿様として、なるほどこのキャスティングは最高。スマップ五人の中では地味な彼ですが、この活躍でものすごく株が上がりました。お見逸れしました。

刺客たちは役所広司が中心となり、松方弘樹、伊原剛志、高岡蒼甫、山田孝之、古田新太、波岡一喜、沢村一樹らが脇を固めます。役所、松方、古田のようなおっさん勢が奮闘し、他の若手陣が派手に動き回り、伊原や沢村のような中堅が魅せる。中でも『七人の侍』における三船敏郎のような役を担った、伊勢谷友介が光りました。モデル出身のイケメンめ、けっ、となりそうなところですが、この映画における存在感、キレの良さは素晴らしい。窪塚洋介級です。つまりは最高である、ということです。刺客たち一人一人がきちんと描けていない、と評する向きもあるようですが、ぜんぜんかまいません。この活劇のスピードを保つ上で、存在感をきちんと漲らせている。変なエピソードとかを長々描いてテンポを殺すくらいなら、全員が一丸となってぶつかったあの熱量のほうがはるかに尊い。この話には細かい背景とか要らないです。

 演出として唸らされるのは、照明の妙です。夜の場面が多い映画なのですが、暗いシーンの暗さをきちんと活かしている。電気のない空間の暗さが保てているので、時代劇の風合いがとてもよく出ていました。照明がうまく行くだけで、映画の良さはぐんと上がるんです。映画やドラマでは、役者の顔を映すことに気が行って無闇に鮮明さを出し、明るくしすぎるものもありますが、この映画は暗い場所をちゃんと暗くしている。それはすごく正しいことです。山田孝之の恋人として吹石一恵がちょい役で出てくるんですが、その家の中のシーンの暗さはすごくいい。暗いから白く塗った肌が不気味に映る。でもそれでいい。綺麗に映す必要なんかないんです(ぼくの後ろに座った馬鹿ばばあは暗がりの吹石一恵を観て、「気持ち悪い」などと言っていました。吾郎ちゃん、やっぱりあいつを殺してくれ)。

2時間20分あるわりと長尺の映画ですが、体感時間は短かった。この映画が最高に偉いのは、クライマックスの戦いをおなかいっぱい味わわせてくれることです。中盤もだらだらすることはありませんで、テンポ良く進みます。クライマックスの素晴らしさは本当に黒澤明級と言っていいでしょう。ずっと微妙な尿意に苛まれていたんですが、漲る熱さで膀胱の感覚も麻痺。超弩級映画『愛のむきだし』でもこれほどの迫力ある場面はなかった。活劇として最高です。「世界に誇れる」うんちゃらという言葉がありますが、世界はこのような日本映画を長らく待ち望んでいたのではないでしょうか。きっと海外の批評紙にも「like Akira Kurosawa」の文字が躍ることでしょう。いろいろな邦画が大人気になっているようですが、この映画はもっともっと話題になっていいはずです。っていうか、これは褒めろよなさすがに。いいよ、『愛のむきだし』をスルーしちゃったマスメディアはいいよ、許すよ。公開館も少なかったしさ。今年みんな『告白』を話題にしていただろ?これは『告白』どころじゃないよ。今年だと『告白』が大人気でしたみたいな感じだけど、ぜんっぜん桁が違う! 映像技巧とスタイリッシュな編集だの何だのでうまくやっちったあんなのとは違う! これはいいです。「これぞ映画」です。

アメリカ映画の西部劇に対置される、日本映画の時代劇。その新しい傑作がついに生まれたという感じです。別に奇をてらったことは何もしていません。グロテスクな描写もありますが、要らぬ小細工はほとんどありません。大変真っ当な映画です。日本映画のお家芸が、華々しく実っています。
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他の監督の傑作と比較すると、実在感の薄さが際だってならない。
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黒沢清という監督は個人的に苦手です。理由についてはいろいろな言い方ができそうですが、一言で言うと「アホさ」がないからです。この人アホやなーと思わせてくれないのです。結構極端な表現はあるんですよ、演出にしてもガジェットにしても、アホ要素のあるものは仕込んでいます。『カリスマ』の木だったり、『回路』の黒いよくわかんないやつだったり、あるいは『アカルイミライ』のクラゲとか『叫』の葉月里緒奈の急接近だったり。アホみたいなものはそれなりに出てくるんだけど、どうもアホじゃないんです。この表現には深い意味があるのでっせー的なにおいがするのです。井口昇にせよ園子温にせよ白石晃士にせよあるいはジョン・カーペンターにせよ、彼らはおもろいことに全精力をぶつけている感じがするんですけど、黒沢清監督は表現とか芸術とか、そっち系のにおいがどうしても強くて、苦手なのです。

 さて、『トウキョウソナタ』ですが、ぼくの観てきた彼の作品とは違い、ホラー色がゼロです。ホラーではない黒沢清、を観たことがなかったので、今回はどうなのか、と期待して見始めました。

 これ以上なくざっくり言うと、日常系の話です。ここで紹介した監督で言うと橋口良亮監督の『ハッシュ!』『ぐるりのこと』、是枝和宏監督の『歩いても歩いても』などのように、あるいは山下敦弘監督の作品のように、どでかいこと無しで進む日常、のお話です。さあ、これを黒沢清監督がどう魅せていくのか。
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 主軸となるのは香川照之、小泉今日子夫妻とその子供二人です。香川照之はリストラされてしまい、そこから物語が始まります。役者陣の話で言うと、香川照之よりも西村雅彦のほうが似合っていそうだな、と個人的には思いました。香川照之はどうもコミカルさに欠けるんです。この映画にはもっとコミカルさがなくちゃいけないんじゃないかと思いましたが、その一端は香川照之で、彼がどうも面白味に欠けました。すごくいい俳優だと思いますし、今日本を代表する役者といえば彼ですが、どうにも間抜けさが足りないのです。いやいや何を言う、この香川照之がいいのではないか、とおっしゃる方もおりましょうからあくまで個人的感覚ですけども、これ西村雅彦で観てみたかったなあと思ったんです。
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 津田寛治扮する友人が、同じく会社をリストラされた男として出てきます。彼も香川も、家族にそれがばれないように怯えて暮らしています。あるとき津田の家に香川が招待され、家族と夕食を囲むんですが、この辺もね、単純に暗いんです。なんか、単に暗くて、面白くないんです。もちろんそれはとてもリアルだと思いますよ。あの場面をコメディタッチで描けば嘘になるのかもしれない。でも、じゃあこの作品が個々の登場人物のリアルさをここで紹介した数々の傑作と同じに描けているかと言えば、そこはさっぱりなんですよ。象徴的なのは、食卓シーンが多いわりに食事をちゃんと描いていないこと。なんで食事を描かない! ものを喰う様って、すっごく活かせるのに!

 これは黒沢清監督の作品を観て毎回思うところなんですけど、テンポがゆっくりなわりに、個々の人物がちっとも印象に残らないんです。こういうやつはいるよな、確かにこういう場面ではこういう風になるよな人って。そういうのがない。リストラされてしまって浮浪者と一緒に公園にいる場面でも、まったく生々しくない。ああ、これはきついなとならない。フィクショナルな出来事があまり起こらないこの手の話では、やっぱり個々の登場人物の実在感が必要でしょう。そういうのをものすごくうまく撮る他の監督と比較すると、うーむ、どうも物足りないんです。
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 しかし、小泉今日子はすごくよいと思いました。大学生の息子がいるにしては若々しい感じでしたけど、小六の息子を持つ母親としての実在感はすごくありました。もっぱら家の中の場面が彼女の出番なんですけど、小六の子供との接し方はうまいです。小泉今日子がこの映画を支えていたなあと思います。
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 あとは役所広司です。この二人の出てくるくだりがいちばん印象深くて、でもそれはやっぱりコミカルな場面です。全体の基調とは違う場面、車の中の場面がよかった分、他の暗い日常が楽しくない。しかもあの二人も最終的には桟橋に立ってみたりして、結局は黒沢清的ナイーブさに陥ってしまっていて、残念に思いました。
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 暗いトーン、というので気になったのは、津田寛治の死です。途中、香川が彼の家に行くと、津田夫妻が心中したとわかります。ここでねえ、その津田夫妻の子供、みなしごになった子供と香川がすれ違うんです。何なのでしょうか。黒沢清監督は『アカルイミライ』でも浅野忠信に殺人を犯させて、子供をみなしごにしていました。で、結局その子供のことはまったく顧みようとしないんです。あの映画を観ながらぼくは、浅野とオダギリのどうでもええような話より、まったく登場しない残された子供のことばかりが気になりました。今回も似たような感じで、どうして黒沢監督はみなしごをつくろうとするのか! 死んだことにしなくたって、どこかに消えちゃったよ、夜逃げしちゃったよみたいなことでもいいのに。なーんか嫌なんです。結局その人物のむにゃむにゃだけが追えればいいのやな、と思わされるんです。
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 うん、コミカルさがもっとあれば、というのがいちばん大きいです。香川が清掃会社のバイトになって、でんでん扮する先輩と一緒に歩く場面がありますが、あそこのやりとりは笑った。ああいうのをもっと入れてくれればいいのに。一方で、まるでテレビ局的駄目映画みたいなシーンもありますね。就職先の面接に行ったら、若い社員に屈辱を受けるくだり。あれはどうなんでしょう。すっごく記号的な感じがしました。黒沢清監督はやっぱり、個人の日常を丁寧に描く、という手腕はそれほどない人だと思います。生活感、実在感、そういうものについては大した観察眼がない(なにさまっ!)。他の傑作邦画に観られるような、「ああ、いるいる」というのが小泉今日子以外、ひとつもなかった。

 物語の落としどころもなあ、あれでいいんですかねえ。
 音楽の教育を受けていない小六の息子がピアノを始めて、そしたら天才的な腕前を発揮して、数ヶ月後には音楽大学付属の学校ですごく流麗な演奏をする。何、それ? もうすんごくうまくて、それまでまばらだった人々がみんな聴き入っている画みたいな。何、それ? ぼくね、あれは、上手くなくていいと思う、というか上手くないほうがいいと思ったんです。上手くないけど、決して褒められた腕ではないけれど、でも健気に頑張っているほうが、この話に見合うと思ったんです。そうすれば、リストラされたけどなんとかやっていく父親香川や、ふとしたことで遠くに行きたくなってしまったような小泉今日子の生が、肯定されたと思うんです。最後の最後で変に持ち上げる必要がどこにあったのでしょう。天才的な腕前を発揮してアカルイミライに行くんですかね。だとすれば、あの暗い日常は何のために描かれていたんですか?
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 それで言うと、小六の息子と友達のくだりがさっぱり活きていない。あのくだりは何がしたいのか? ああいうのもね、実在感があればいいんですよ。その日常を日常としてこちらは受け止められますよ。でも実在感がない。何か意味があるんでしょうきっと。でもそれを解釈したいとも思えない。

 かなり評判のいい映画だったようですから、いろいろ教えて欲しいですね。ぼくは黒沢清監督作への感度がかなり鈍い人間ですから。この映画の何がいいのか、残念ですが、ぼくにはよくわかりませんでした。
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格好つけている。嫌い。
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「ドラッグ・ムービー」という言葉があります。この語の正しい定義がよくわからないのですが、たとえば麻薬、覚醒剤を扱っている映画が「ドラッグ・ムービー」なのかといえば、それは単にモチーフの問題に過ぎず、本当の意味ではないと思われます。この語が示すのはぼくが思うに、「酩酊状態で観ると楽しかろう映画」あるいは「観客を酩酊状態に連れて行く映画」なのですね。当ブログでは今後、合法的かつ意味の明確な語として、「ドラッグ・ムービー」の代わりに、「アルコール・ムービー」という言葉を用いたいと思います。意味は上述の通りです。「アルコール・ムービー」は造語ですが、こういう造語をつくっていくことは評言において大事なのです。「切り株映画」みたいなもんです。

 わかりやすい例だと、石井聰互の『爆裂都市』があります。塚本晋也の『鉄男』もそうですね。デヴィット・リンチの『インランド・エンパイア』もそうでしょう。ぼくは悪酔いしました。ダーレン・アロノフスキーの『レクイエム・フォー・ドリーム』はドラッグ・ムービーではあるけれど、ぼくの定義する「アルコール・ムービー」ではありません。観客は地に足をつけたまま鑑賞することができますから。

『ナチュラル・ボーン・キラーズ』はアルコール・ムービーでした。酩酊させるというより、酩酊状態で観ると楽しそうなのです。フィルムは編集によって細かく細かく刻まれており、アニメや映像効果もふんだんで、酔っぱらいながら映像に酔えたなら乗れたことでしょう。しかし残念なことに、しらふで観るとそうでもないのでした。 

 お話はアメリカ映画の得意ジャンル、逃避行カップルの話です。殺人を繰り返しながら逃げ回るカップル、ウディ・ハレルソンとジュリエット・ルイスの様子が、これでもかというほどのカット割りと映像効果を駆使して描かれます。
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 感じとして近いのは『デビルズ・リジェクト』です。あの最悪家族と似ていて、とにかく理由もなく人を殺して回るのです。基本的にぼくはこの手の主人公カップルが嫌いです。ぼくは倫理的な人間であるので、無辜の人々を何の躊躇もなく殺すようなやつに感情移入することができぬのです。こいつらは本当に最悪です。

『俺たちに明日はない』『カージャック!』『ダーティメリー・クレイジーラリー』などは、最悪なやつらなりにまだかわいげがあるんです。『カージャック!』のゴールディちゃんなんて、飛び交う弾を避けながらポイントシールの束を持ってうろうろしていたりするし、『ダーティメリー』も三人の掛け合いがキュートだったりしたんです。でもこの作品の場合、映像技巧を駆使しまくってくれているから、この主人公二人に対しても、「格好つけとるな」というのが否めないんです。

 スタイリッシュな感じがものすごく嫌いです。こいつらの哀しさがちっとも見えてこない。やっぱりね、哀しいからこそ熱いんです。どうしようもないやつらが、どうしようもなく間違った生き方にそれでも必死こいている、その様が熱いんです。ゴールディちゃんはものすんごいアホですよ。でもそのアホがアホなりに見いだした答えを必死で追い求めるからこそ、無様で格好悪くて、いいんです。この『ナチュラル・ボーン・キラーズ』はなんか、モテようとしています。モテようとしつつ、真面目に生きている人の命を軽んじる。それじゃあ、応援できないです。

決定的なのはあのドラッグストアの場面です。女が毒蛇にかまれ、男が血清を求めて店員につっかかるんですけど、この場面で「俺はこの女を助けたいんだ!」という必死さがちっとも伝わってこないんです。「けけけ、警察を呼ぶなんていい度胸してやがるな」みたいにして店員をびびらせる。そうじゃないじゃん。そこだけは、恋人の命を救うことに対して無様な一途さを見せろって。そうすれば、この男の哀しさが出てくるやん。生きていくよすがとして女を大事にしてるんやなと伝わるやん。それすらもないんです。
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 で、無事逮捕されて刑務所に収監されるんですけど、ここも嫌いです。男がテレビのインタビュアに、ごちょごちょ哲学めいたことを語りやがるんです。人を殺したことを正当化するようなことを言うんです。そこでもまだ格好つけとんのか、という話ですよ。格好つけてるやつの話をずーっと見せられて不快で、途中でやめようかと思いました。その後クライマックスを迎えるんですが、そこまでの展開が強引というか、もう周りのやつらがアホばっかりです。アホと格好つけのスタイリッシュな映画を見せられても何も感じられません。『ばかのハコ船』という映画は、主人公が格好つけつつも、もうどうしようもなく格好悪いから、その無様さが痛烈なんです。一方こちらはなんだかんだで切り抜けて、最終的に格好つけて終わりです。なんでそんなに格好つけたいのでしょうか。
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 結局ね、簡単な話、この主人公カップルを好きになれる要素が、ひとつもないんです。『デビルズ・リジェクト』のやつらも嫌いですけど、あれはラストがものすごくいいんですよ。あれは一級のカタルシスをもたらすんです。あれこそが映画的な落とし前なんです。『ナチュラル~』はそれすらもない。
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 これを格好いいと感じるとしたら、それはものすんごく表層的な格好良さですよ。映画の中で、ボニーアンドクライドの真似なのか何なのか人気が出て、「あたしを殺して」とか看板持った応援団みたいなのが出てくるんですけど、この映画を褒めるのって、あのプラカードを持った馬鹿女と一緒だってことです。ボニーアンドクライドとも時代が違うでしょうし、ぜんぜん擁護できないです。ぼくもね、それなりに映画は観ていますから、「暴力描写が不快だ」とかそんな浅いことを言っているわけじゃないですよ。何が不快なのかって言えば、これが格好つけの暴力描写だからです。スタイリッシュな映像技巧で内面を欠いた連中が格好つけて人を殺しているから、それが嫌なんです。描くならちゃんと描いてくれよ、と思います。
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