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面白いけど、『ファーゴ』を思い出しちゃって、比べちゃって。
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 サム・ライミ作品ってほとんど観ていないです。『死霊のはらわた』もまだ1しか観ていないし、『スパイダーマン』もDVDを人にもらって3を観たくらいで、1と2はヒロインがブスなので観る気がしません。最新の『スペル』も観ていないなあ。

『シンプル・プラン』は冬のド田舎を舞台にしたサスペンスもので、なかなか楽しく味わえました。三人の男が大金を見つけ、その金の処遇をめぐっていざこざが起きる話で、地味ではありつつも刺激的な展開も用意されており、ひとつのアメリカ映画娯楽作としてしっかり成り立っています。

 この二年前、1996にコーエン兄弟の『ファーゴ』が公開されていますが、正直、あちらのほうが上です。なので、その辺で比較されると辛いものもあります。「『ファーゴ』のほうが面白かったな」という感想は当時、方々で漏れたでしょう。でも、比べる相手が強すぎるという気もします。『シンプル・プラン』だって、ちゃんとしているんです。

 ただ、それでも『ファーゴ』の美点が思い起こされてしまうのは、たとえば冬の田舎の寂寥感、荒涼感をもっと出せなかったのかな、という点です。カラスを出したりまがまがしげな演出はしようとしていますけど、これはきついで、極寒だで、というのがないんですね。『ファーゴ』なんかだと、空はすごく晴れている分、周囲の何もなさが際だって、ああ、なんかすごく寂しい場所だ、という感じが伝わってきたし、最近の映画の『フローズン・リバー』でも、うわ、これはえらい暗い、これは寒い、という風景がありました。ところがこの『シンプル・プラン』については、舞台的な趣深さがないです。登場人物の寄り画ばかりで、雪景色の寂しさがない。なんで風景の良さを出さない? 
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 その点がもったいないとは思いましたけれども、物語自体は大変スリリングでした。ビリー・ボブ・ソーントン演ずる兄、主人公の兄がいいんです。頭が悪そうなんだけど、ちょっと切れ者っぽい顔も見せたりする。でもやっぱり愚鈍さが際だってくる。この存在感、危なっかしさは映画を支えました。主人公、兄、兄の友達の三人が金を猫ばばしようとする共犯三人組なのですが、この関係がちょっとずつぼろぼろになっていく、その緩やかさが素敵です。で、映画的に思い切った流れをつくっているのもいいんですね。それまでの映画のトーンからすると、ああ、思い切ったな、という展開があります。そしてそれが結構、説得力を帯びている。つまり、これぞ物語、これぞ「展開」だなという動きがあって、映画の面白さが加速しました。
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 ただ、この映画の場合、原作小説が面白かったということなのかな、というのが大きいです。おそらくは原作の物語が面白いのであって、この映画に特有の映画的風合いはというと、あまりない。先ほど指摘したような印象的な風景とか、『ファーゴ』におけるピーター・ストーメア的怖さとか、そういうのがあまりないんです。この映画における監督の仕事は、この舞台の風合いをいかに引き出すか、なんでしょうけどね。

 脚本がよくできていて面白い。けれど、『ファーゴ』のような、脚本に留まらない面白さは、実はあまりなかったんじゃないかという気もします。コーエン兄弟版『シンプル・プラン』が観てみたいと思いますね。でも、サム・ライミ版『ファーゴ』は別に観たいと思わない。きっと演出の違い、登場人物の所作をどう映すか、どう印象づけるかの違いで、この映画におけるライミはその点について、あまり優れた仕事をしていない(なにさまっ!)。細かいところでいいんですけどね。たとえば序盤、死肉を食らっていたカラスを刺激してしまい、主人公がくちばしでつつかれて怪我を負ってしまう。この怪我も別に後で何も活かされない。いや、何も活かされなくていい。活かされなくていいけど、せっかく死肉を食ったカラスで怪我をさせたんだから、ちょっと膿んじゃって変色しているとかね。そこに触れなくてかまわないから、そういうアイディアがあれば、登場人物の実在感ももっと高まった。兄貴にしても、昔の恋の思い出なんかを語らせるんじゃなくて、今の彼の慕情をうまくどこかで表せればよかった。そのほうがきっと哀しくなった。共犯の友達にしてもそう。あいつの人間性がもうひとつわからない。結構がちゃがちゃして突っ込めば面白そうなのに、もったいない。主人公の妻、ブリジット・フォンダにしてもそう。
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 脚本自体は『ファーゴ』に匹敵するくらい面白いと思うんです。起伏に富んでいるし、結末の切なさもある。だからやっぱり、『シンプル・プラン』を面白い映画として認めるにやぶさかではない。でも、映画としての魅力、パワーを感じるかというと、そこはあまり感じない。うん、本当に、悪くないんですけどね。『ファーゴ』が強すぎました。あれを知っていると、『シンプル・プラン』を推せなくなってしまうんですね。単純に、変な個性とか要らないからわかりやすい話が観たい、というなら、『シンプル・プラン』を推せますけれどもね。

次回、ひとまず最終回。
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素敵な殺し合い。
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 3Dで公開中、というわけで観てきました新宿バルト9。3D効果に期待していたわけではなく、大きなスクリーンでもう一度観たいと思ったんです。名画座でかかることもおそらく永久にないし、この機を逃すまいというわけです。案の定、3D効果は無きに等しでございまして、「3D映画だから料金が高く設定されております」というならほとんど詐欺の域です。もっとも、3Dにかこつけて過去の名作を大スクリーンで、という動きならば、まあ続けてもらってもいいのでしょう。『悪魔のいけにえ』とかも、そのように銘打って大画面でやってもらいたいものです。料金が高いのはいただけませんが。

 既に何度も観ているのですが、やっぱり面白いですね。今回のバージョンは「特別編」というやつと同じで、もともとの公開版にはない無駄なシーンがいくつかあって、そこは残念なのですが(バスケの場面と柴咲コウの過去は絶対要らない)、いいところは当然そのままにいいのであって、20世紀邦画最後の傑作と申し上げてよろしいでしょう。

 とってもメリハリが利いているんですね。暴力的な場面とそうでない場面、緊張と緩和のリズムが手を変え品を変え繰り返されているので、飽きが来ない。序盤の教室シーン、キタノが生徒たちに説明を施すシーンは宮村優子のVTRもあって、一気に狂気が高まる。2の竹内力の説明シーンは何もかもがつくりものめいていて駄目なのですが、本作はキタノのジョーカーっぽさがたまりません。このキタノは理想的イーブルの一人です。自分の娘に嫌われていて、生徒の前田亜季に惹かれている、というこの気持ち悪さも素晴らしい。イーブルはそうでないといけません。この映画は血みどろの殺し合いがR15指定の理由になっていますけど、実はいちばんおぞましいのは、キタノの前田亜季に対する偏愛なんです。最後の絵のおぞましさがあるから、本作はただのバイオレンスに留まらないと言えるのです。

でも、わかりますね。前田亜季は非常に丁度いいです。「一緒に無理心中するなら、おまえだよな」とキタノが言うだけのことはあるのです。『リンダリンダリンダ』でもそうでしたが、凡庸の魅力があります。彼女を中心において、柴咲コウや栗山千明といった個性派の女子が大暴れするから楽しくてなりません。栗山千明が言い寄ってくる男子を殺すくだり、柴咲コウが納屋みたいなところで永田杏奈を殺すくだり、にやにやが止まりませんでした。やっぱりあれですな、「女子の啖呵」というのは、ばっちり決まったとき、男のそれを越えますな。太刀打ちできるのはおっさんくらいで、十代の女子と十代の男子、啖呵を切って格好いいのは、どうしたって女子のほうです。

 そして、この映画、映画のつくりとして非常に綺麗、というか、見せ方がうまいわけです。原作の設定勝ちというのもあるんですけど、中心に主人公を置きつつ、方々で殺し合いの爆弾を破裂させていくわけで、複数の小クライマックスを作れます。中でもぼくは灯台のくだりが大好きであります。これまた女子劇ですね。仲のいい女子のグループが互いを疑う羽目になって結局全員死んでしまう、というあのくだりの、女子が銃をもってわめく様は、とても可愛らしいのであります。

 全編を通して、死に方がおかしかったりはするんです。「人はそんな風に死なない」というツッコミをたくさん入れることができます。死に様の多くは、「致命的な怪我を負う」→「そこそこ長い台詞を言う」→「首がかっくり」であって、死ぬ直前の意識朦朧状態でえらく台詞をしっかり喋るもんだな、というおかしみはあるのですけれども、いいのです、そんなのはいいのです、安藤政信が拡声器を持った女子を殺すとき、苦痛にあえぐその声を拡声器で拾って広げるあのサディズムが観られたから、難点も愛嬌なのです。

 なんだかんだ言っても、殺し合いをする映画はとても面白いのであります。仲間だの絆だのをうるさくまくしたてるような映画よりもはるかに楽しいのであります。どうしてこの映画が海外リメイクされないのかとても疑問です。『告白』はハリウッドにモテモテらしいじゃないですか。あんなのよりずっと楽しいはずです。『バトルロワイアル』を韓国がリメイクしてくれたらすんごく観たいです。さらにえげつないことをしそうです。アメリカはアメリカで大味な国ですし、チェーンソーとかを振り回したりしそうだからこれまた面白そうです。

 いろいろ国会を巻き込んでの規制騒動とかあったんですね、この映画の公開当時。それでなんか、正当な評価がされていないんじゃないかと嫌なんです。深作欣二の骨身が入った長編ラストワークです。ぜひともこの機会に、劇場にてご覧になって頂きたい。と思ったらなかなかどうして公開館が少ない!
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おっさんが頑張る映画ってのはいいですな。
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 大学生の頃などは政治の議論が好きな友人とともに、やれ右翼がどうだの左翼がどうだのと話をしたこともありますが、考えるにぼくの世代にとってはそれらのものが何の意味合いも持っていないのです。あるいは地域によっては、特定の政治団体なり何なりが権勢を振るい、それを肌身に感じて育った人もいるのでしょうが、ぼくはまことにもって牧歌的な、何の政治的においもない田舎町で育ったので、政治的な云々と縁遠い生き方をしてきたなあと思います。

 連合赤軍とかって存在も昔のものとしてしか受け止められないし、まつわる知識もごくごく表面的なレベルしか持っていません。本作を観ると勉強になるかな、と思いきや、この映画は連合赤軍の背景とかについてはまったく踏み込んでいません。だからあさま山荘事件がどんな事件なのか知らない人がこの映画を観ると、単に悪いやつが人質を取って立てこもり、それと戦う警察の話だと思ってしまうでしょう。

 その点でこの映画を批判することはとてもたやすいです。映画を通して、赤軍側の人間性はほんのひとかけらさえ描かれないし、それどころか顔もまともに映らないくらいで、台詞もありませんから。政治的な考えを持った犯罪者、として描かれる場面は皆無で、本当にただの立てこもり犯になっています。でも、ここまで犯人側を描かないとなれば、それはそれで一貫していると思うんです。むしろ、中途半端に犯人側の主張なんかを語らせたらそれこそ最悪ですよ。以前、『皇帝のいない八月』を評したとき、「犯人側には一理あればいい。犯人の言うことにも一理ある、と思わせるだけで深みが出る」というようなことを書きましたが、本作に関しては犯人側がそもそもまったく描かれないので、赤軍の思想だの背景だのを慮ろうとして観ても仕方ない。これは現場にいた人々の動きを追うことに特化したドラマなんです。

 その方法は間違っていないと思います。中途半端な思想語りをされたら映画のテンポが死ぬだけです。現場にいた何百人の人が命をかけていたわけで、その中で思想の議論だの主張だのを語っていたり、赤軍の背景について云々していたら映画として駄目。これはこれでいいんですよ。もしも赤軍の思想とかを語る映画を撮るのなら、この出来事の前日譚、後日譚としてやるべきでしょう(若松孝二が2008年に撮っているのですね)。

 その辺の、「余計なもの」を排除し、あくまで現場の緊張をずっと描き続けているわけで、そこはとても面白く観たのですが、違う余計なものを入れたりもしていますね。いちばん余計だなと思ったのは、登場人物です。特に遊人という人が演じた若手巡査みたいなのが要らない。上司の役所広司に憧れて現場までやってくるんですが、どうにも、なんというか、ホモっぽいです。役所に掘ってほしいと思っているように見えて仕方ない、ネコっぽい人です。この若手巡査のぐずぐずのくだりはこの映画において一切の物語的意味を持っていないのです。こんな無駄な役をどうして、と思ったら、監督の息子さんのようです。なるほど、なるほど、へえ、そんな感じなんだ。

 カメオ出演の有名俳優がたくさんいますね。製作費も上がったことでしょうから、別に悪く言う気もありません。たとえば役所広司の妻である天海有希ですが、あの役は彼女ではないほうがいいと思うんです。もっと地味でいいんです。でも、天海有希をキャスティングすることによって、東映がお金をくれるんです。有名人をキャストに入れると製作費が上がる、というのが邦画界の現在らしいので、そこら辺で金をうまく得たな、という気がします。個人的には、天海有希は安い感じがします。というより、民放のドラマで主演を張ってポスターになっていたり、あるいは商品の広告に出たりすると、どんどん安く見えてきます。世間的には逆だと思うんです。CMに引っ張りだこ、と言われるタレントはギャラが高くなるはずです。でも、それがいざ映画に出てくると急に安く見える。この辺の分析をすると面白そうなんですが、やめときます。おそらく、ベッキー主演の映画があっても、誰も観たくないはずです。

 本作は基本的におっさんばかり出てくるので、個人的には高ポイントです。なんというか、『冷たい熱帯魚』の予告などを観て思うのですけども、ぼくが好きな映画というのはつまるところ、おっさんが頑張る映画だったり、おっさんくさい映画だったりするんです。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』しかり『レスラー』しかり『息もできない』しかり。これはぼくの個人的感覚に留まらないと思うんです。歴史上の名優にせよ、誰もが知っているハリウッドスターにせよ、彼らはイケメン的格好良さ、ではなく、おっさん的魅力を持った人々でしょう。本作は本当におっさん天国の映画です。女子供は完全に蚊帳の外で、その辺の汗臭さは素敵でした。

 全体を通して、ルメットの『狼たちの午後』がいちばん近い感じです、ぼくの知る限り。あれも立てこもりものですが、なんというか、あまり動きのない、正当な立てこもりものであり、なおかつその緊張と退屈がうまく揺らぎ合っている点で、あの映画に似ているな、と思いました。しかし、1972年という時代の風合いはもう少しあってもよかった。あまり古くないんです。ああ、70年代やあ、というのがない。人の面とか、もっと汚かったですよあの頃って。変に垢抜けている感じが全体を通してあったんです。そこだけは残念でした。

『狼たちの午後』と二本立てで観ると面白いでしょう。向こうは暑い夏の日で、こちらは冬の山奥。犯人側と警察側で視点も逆だし、両方に共通するのは、観た後、ああ、長かった、と感じる点です。そしてその「長かった」が、決して不快ではない、ということなのです。
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ぼくの好きなゾンビ。リメイクでありながら、アンチ・ロメロゾンビ。
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花沢健吾の漫画『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を最近読んで胸を熱くし、続けて『アイ・アム・ア・ヒーロー』を読んだらそれが素晴らしいゾンビもので、ああ、ゾンビものってのはやっぱり面白いなあ、と思って、『ドーン・オブ・ザ・デッド』。

 1978年にあのロメロ先生が撮った『ゾンビ』の原題が『ドーン・オブ・ザ・デッド』で、タイトルそのままのリメイク作です。これはこれは大変な快作を見落としておりました。ゾンビものの中でもかなり白眉の逸品ではないでしょうか。

 ゾンビと言えばロメロ、みたいに言われるんですけど、ぼくはずっとそれが疑問で、彼の作品に登場するゾンビ、そして撮り方とも、どうにも面白くないのです。そういうぼくからすると、このリメイク版はオリジナル版よりもずっと面白かった。なんというか、きちんとアップデートされているゾンビもの、という感じがします。古典的ゾンビ像として、「のろのろ歩く」というのがありますが、ぼくは実はその考え方が嫌い。ゾンビが走ってなぜ悪い! ぼくは走るゾンビのほうが好きなのです。このリメイク版ではオリジナルと異なり、ゾンビをとにかく走らせます。そのほうがやっぱり、映画として緊張感が生まれるんですよ。

 ロメロ先生がおつくりになったのろのろゾンビは、『ショーン・オブ・ザ・デッド』でパロディ化された時点で、もう過去の遺物だと思うんです。それとは違う、凶暴なゾンビのほうが、やっぱり盛り上がります。『ドーン・オブ・ザ・デッド』を観ながらぼくは何度もわーわー声を上げ、安堵の笑いを繰り返しました。走るゾンビはね、瞬発力があるから、不意打ち演出がすごくよくはまるんです。のろのろゾンビの恐怖ってのは結局、数なんですよ。あいつらは大量にいて初めて怖いんです。のろのろゾンビ一匹だけなら、ぜんぜん怖くありません。「廊下にのろのろゾンビがいるから気をつけろ」と言われて廊下に出されても、まあなんとかなりそうだぞ、と思えます。深夜コンビニに行こうと夜道を歩いているとき、向こうからのろのろゾンビが来たとしても、ぼくは早足で横を駆け抜けて難を逃れる自信があります。

 しかし、この映画の「ダッシュゾンビ」は違います。一人いたらその時点で怖いわけです。これが大群になるから、さらにどえらいことになるわけです。だから怖いと思えるんです。ぼくはのろのろゾンビがぜんぜん怖くありません。ダッシュゾンビのほうが断然怖いです。

 で、見せ方がこれまたうまいです。ロメロ先生よりもずっとうまいです。ロメロ先生は本当に旧態依然としておられるため、懐古派はそれを愛でるのでしょうけれども、リメイク版はこれまたゾンビの造形がアップデートされ、実はそれほどじっくり映していないんです。じっくり映すと、「人が演じている感」がどうしても出るんです。ある程度勢いで乗り切ったほうが、たぶんゾンビものの場合、いいんです。ぼくからするとロメロ先生のものって、「人がメイクしているの丸出し」なんです(それを愛でるのですね、わかります)。本作はその人間っぽさを排すべく、一人一人のゾンビの顔はあまり映さないんです。映したとしても、それはあくまでずっと人間だった登場人物に絞っていて、その場合は人が演じている感があってもよし。

 やっぱりね、のろのろゾンビって、活劇においては決して優れた存在じゃないと思うんです。偉いことになった、追い込まれた、やばい! 助かるのか、ぐわ! もう駄目だ!という一瞬一瞬の命の明滅を描くには、獣のごときダッシュゾンビのほうがはるかに娯楽映画的だとぼくは思う。
 本作はリメイクという形で、本歌はロメロの代表作です。これはとても意義深い。リメイクというのはほとんど宿命的に、現代へのアップデートスタイルを強いられるわけですが、だとすると監督はロメロゾンビに対して、「もうその時代は終わりだよ」と告げているんじゃないかとそんな風に思うわけです。
 
「未来のゾンビを考える」というシンポジウムがあったらぜひ参加したいと思う者です。
もはやロメロゾンビの時代は終わりです。『ダイアリー』や『サバイバル』で彼自身がそう教えてくれています。これからは走るゾンビや、クリーチャー型との融合、あるいはテレビゲーム『サイレン』で観られたような、「過去の記憶を引きずって暮らすゾンビ」「喋るゾンビ」などに開かれていくべきです。というか、こんなことはいちいち書くまでもなくそうなるだろうと思っているのですが、いやいやあの面白くも何ともないロメロゾンビがいちばんだと思う人もたくさんいるらしく、ここには世代的断絶というものがあるのでしょう。

 あまり内容のレビウになっていないのですが、ぼくが推奨するゾンビ映画は、こういう類のものです。深夜にビデオでも借りようか、となって観る分には、大変お勧めできる一本でございます。
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ぜんっぜんわからない! これって甘やかし癒し系電波ムービーじゃないんですか?
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野球が出てくる話、それなりに人気の話、という予備知識だけを持って鑑賞。主人公が夢の舞台に飛び出ていくような話かな、それで野球の試合をやってあれこれあるのかな、と思いきやぜんぜん違っていてびっくりしました。実際、野球は別にそれほど大事じゃないですね。野球をやっているシーンはものすごく少ないです。

 アマゾンのレビウではかなり絶賛されているようで、号泣しましたみたいな感じのもあるんですけど、ぼくにはさっぱり意味のわからない話でした。どこで泣くのでしょう。どうして泣くのでしょう。

 ケヴィン・コスナー扮する主人公が冒頭、謎の声を聴きます。それを起点に物語が動くのですが、これがさっぱりわからない。「それをつくれば、彼はやってくる」という謎の声が聞こえてきて、主人公は「よっしゃ」と言って自分の食い扶持であるはずのトウモロコシ畑を無くし、野球場に変えてしまいます。もうさっそく置いて行かれました。
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 別に、荒唐無稽で意味不明だから置いて行かれたわけではないんです。置いて行かれたのは、この映画のノリのせいです。結構テンポが遅くて奇をてらうことのない普通の映画っぽいんですけど、この主人公の意味不明な行動に、妻がすぐさま乗りかかってしまうんです。そこで置いて行かれるんです。主人公は馬鹿でいいんですよ、狂っていていいんですよ、でも、どうしてお告げを聞いたわけでもない妻がその彼を易々と受け入れるのかがわからない。彼女は一応正気というか、主人公の言い分を認めない側にいてほしいんです。
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 やっぱりね、普通に考えてね、「お告げを聞いたのだ」という理由で意味のわからないことをやられたら、うろたえるじゃないですか。そんなお告げを聞く人とこの先一緒にやっていけるかしらとものすごく不安になるはずです。でもそうはならないのがわからない。そもそも「お告げ」っていうのも、もうちょっと考えて欲しいです。怖いですよそんなの。その怖いお告げを聞いて、よっしゃ、野球場をつくろう! と思う男がいて、妻は妻で、あんたのやりたいようにしなさい、みたいに言うんだから、置いて行かれますわ。

 行く先々の行き当たりばったり感がものすんごいんです。お告げを聞いて、自分で直感的に解釈して、その通り行動したら結果オーライみたいな。どうしてそういう解釈をしたのかってことが本当にわからない。隠遁している作家を主人公は捜しに行くんですが、このくだりはもうめちゃくちゃです。というかもうね、ファンタジーを通り越して、ホラーなんです。主人公が何を考えているのか、何をしたいのかが観ている側にちっとも伝わってこなくて、泣いたとか言う人たちは、どうしてこの主人公に感情移入できるのでしょう。「『彼の苦痛を癒せ』というお告げが聞こえたぞ。彼の苦痛、彼の苦痛、彼っていうのは誰のことだろう、うーむ」となって、なんで「ああ、あの作家のことだ」となるのか。観も知らないような人間が苦痛を感じていると、なぜあんなにまっすぐ、思い込めるのか。
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 話の推進力がすっごく弱い、というか、どうしたいねん結局、というのが見えない。これでいいならいくらでもお話がつくれます。抽象的で中身のないお告げを主人公に聞かせて、それを主人公が勝手に独自に解釈して、それをなぜか妻や子供は理解してくれて、実際やってみたら話が展開する。それでいいのでしょうか。ここで妻や子供がまったく理解してくれず、彼のもとを去っていたら、ぼくはまた違う感想を抱いたと思うんです。そうなっていたら、これは呪いの話として成立します。でも、訳のわからないお告げを聞いて家族も理解して超ハッピーって、何なんでしょうかその話は。

 でね、でね、結局畑を削って仕事もしないでいるから、「土地を売らないと差し押さえになるぞ」という話になるんです。そりゃそうだ、あほらしい、こんな訳のわからない野球場は潰れろ、と思いながらこちらは観ています。するとです、どうしたことでしょう、娘が言い出すのです。「この野球場にたくさんの人がやってくるよ、彼らから見物料を取ればいいよ」みたいなことを。
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 そして、実際にたくさんの人がやってくる描写で、映画は終わります。
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 なんでたくさんの人がやってくるんだ!

 もうぼくは大嫌いです。家族どころか、この映画の世界全体で主人公を甘やかしているのです。たくさんの人がやってくる、その合理的説明がもう、一切ないんです。アマゾンのレビウで絶賛系のものを観ると、「夢は強く思い続ければ実現する」だの「希望を持つことの尊さが伝わってくる」だの書かれています。さっぱりわからない。この映画はだって、この映画はだって、電波的なお告げを聞き、他の人にはまったく理解できない行動を取り続けていたら、みんなハッピー、という恐るべき話ですよ。そういう意味で言うと、なんかね、「癒し系」っぽくて余計嫌です。君は君のままでいいよ、君の思うままに生きてご覧よ、そうすればいつか幸せになれるから、的なにおいがします。「癒し系」が好きな人はこれを褒めるんじゃないですか。「お告げ」っていうギミックも、スピリチュアルっぽいし。癒し系のスピリチュアルムービーですね。
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父親の話だって、なんか思い出話として語っているだけなんです。こういう思い出がありました、と語られるだけの親子の話で、どうして感動できるのでしょうか。最後に父親がでてきたって言われても、若いし、父親に見えないし、どの目線で観ていいのやらぜんぜんわからないし。

 いやー、こんなにも、ぜんぜんわからない映画というのも珍しいです。映画賞も取っているし、絶賛している人も多いようですから、きっとぼくが決定的に見方を誤っているのでしょう。だから教えて欲しいです。どこが泣けるのか。こんな甘やかし癒し系電波ムービーで大の男が泣くってのは、一体どういうことなのか。
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ぼくにロマンポルノの情緒は解せんなと、そのことに気づく。内容のレビウはできていないよ。
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AVについては饒舌なるぼくですけれども、それじゃあ日活ロマンポルノ、ピンク映画はどうかといえば、こちらはまったくさっぱり。映画について喋りなさい、あるいはAVについて喋りなさい、と言われれば、何時間でも一人喋りを続ける自信がありますけれども、その中間とも言えるジャンルについては、何も語れません。ほとんど初めて観たに等しいのが今回です。『天使のはらわた』というのは劇画原作のひとつのシリーズになっているらしく、4作目の『赤い淫画』と2作目の『赤い教室』を観てみました。そういえばこの頃は山口百恵のテレビドラマ『赤いシリーズ』が人気の時勢ですから、タイトルはそれにあやかろうとしていたのでしょう。

 映画全般、もしくは何かを楽しむこと全般についてそうだと思うんですけど、「粋」ってのがあると思うんです。「これがわかるなんて旦那、粋だねえ」という「粋」。この粋を解す解さぬというのが大事なんですね。言ってしまえばたとえばぼくが『東京残酷警察』とかそういう映画、アホ要素の多分にあるスプラッターなどを褒めるとき、「こいつぁ粋な表現だな」と感じているわけで、そういう映画を見下したり馬鹿扱いしたりするやつに対しては「けっ、無粋な連中だぜ。おとといきやがれ」と思うわけです。その作品、対象が持っている「粋なところ」に対して、正しく構えられるかどうか。それが観る側の乗れる/乗れないを決めるのでしょう。歌舞伎とか能とか、要するになんかそういうのもそういうことなんです(なんてざっくり)。

 日活ロマンポルノがとても好きだっていう人は、AVなんか観ると、無粋だと思うんじゃないでしょうかね。
「AVなんて観てらんねえぜ。なんつうの、あれには恥じらいっつうのかな。奥ゆかしさっつうのかな。そういうのがないんだよね。そりゃセックスの場面を映したらこっちはどきっとするよ。そりゃ女優の裸を観てえとは思うよ。だけどよ、なんつうの、ただセックスの場面映したって面白くもなんともねえんだよ。やっぱりよ、なんつうの、ドラマっつうの、そこでの男と女のやりとりとかよ、女の背負ってる業とかよ、男のしみったれた欲望とかよ、そういうのがあってこその濡れ場なんだよな。それをAVみてえに適当にドラマ部分つくって、結局要は濡れ場だけが大事なんてのは、俺は嫌いだね、うん」
 的な。ロマンポルノに魅せられた人々が、今もピンク映画を支えているのでしょう。

 ぼく自身はロマンポルノ的な「粋」がまだよくわからないですね。どう楽しんでいいのかもうひとつわからない、というのはありました。いや、というよりも、日活ロマンポルノはどうも、言い訳くさいにおいがします。AVは堂々とAVですけれども、ロマンポルノはなんか、「映画」という権威に守られている感が否めません。
「またいやらしい映画を見に行くのね、この変態ッ。色魔の助平」
「きみきみ、人聞きが悪いよ。ぼくはね、スクリーンに映る肉体を通して、男女の関係における心の機微、精神の有り様、つまりは人間存在つてものをだね、あの暗闇の中でじつと考え込んでいるのだよ。であるからしてだね、その、きみの思うようなだね、卑猥で品性下劣な目線でだね、スクリーンを見つめたことは、一度だつてないのだよ」
 的な。エロ以外のドラマ部分をがっつり入れておくことで、「自分はエロを観ているのではない。あくまでも人間ドラマを観ているのだ」と野郎どもが自己弁護できたのでしょう。ただ、でも、その「ドラマ部分」は言うまでもなく、他のジャンルの映画で散々につくられ続けているわけで、そっちのほうが時間もバジェットもかけてじっくりつくりうるわけで、そうなると何をどう楽しんでいいのかなロマンポルノって、とぼくはよくわからなくなってしまいます。 

めちゃめちゃ期待してはいるんです。現代のピンク映画については。なぜならあの辺で傑作が生まれることが、AV女優が、とりわけ恵比寿マスカッツの彼女たちが、世間的に認められていくことにもなりますから。エロの絡みって、言ってみりゃカンフーアクションや時代劇における殺陣と同じなんです。物語を進める機能よりも、見せ場としての役割を担っている。だから物語の要所で使えば、クライマックスになる表現なんです。ところがどうも、この『天使のはらわた 赤い教室』のエロシーンは、「なんでそこに入れるの? そこは物語の要点ではないよ」という部分で結構がっつりエロかったりする。逆に、もっとそこはエロくていいのにな、意外とエロくないな、と拍子抜けするところもあって。

 うーん、こちとらは完璧なAV世代ですから、どうもあれですね。これを解せない、己の情緒のなさってものが、なんだか哀しくもありますね。ほら、物心ついたときからケータイがあった世代って、たぶんなかった時代のことを「不便」としか思えないと思うんです。ケータイがないがゆえのすれ違いってものを、リアルなものとして受け止められないと思うんです。好きな子の家に電話したら、家の人が出てきて気まずい、的なエピソードはこの先、ほぼゼロでしょう。そういう話をしたところできっと、「へえ、昔は何かと不便だったんだね」みたいに片付けられてしまうでしょう。でも、違うじゃん。その気まずさの中でしか味わえないドキドキってあったじゃん。ちゃんと取り次いでもらえるかどうかの不安とか、そもそも彼女が在宅なのか否かの不安とか、うまく話せるかどうかとか、そういう成分がちょっとずつ入ってできるドキドキってのがあるわけじゃん。で、このドキドキは、平成生まれにはわからないでしょう。それと同じで、AV世代のぼくには、このロマンポルノがわからないんです。

 DVDで観ている時点で違う、と言われそうです。そうなんですねえ。これはきっと、それこそエロに免疫のない中高生かそれくらいの頃に年をごまかして映画館に潜入し、「ばれたらつまみだされるんじゃないか」と心臓をばくばく言わせながら観たりしてこその面白さがあるんでしょう。そういう体験のパッケージはすっごく羨ましくもある。そういう意味では、映画館っていう場所はやっぱり大事です。なんでもDVDで済ませるのも考え物なのですね。

 話がふらふらして内容に入れませんでしたが、要は、ぼくにゃあロマンポルノをしっかり楽しむための、記憶や教養や視点が欠如しているな、と強く感じましたの巻き、なんです。かつての映画少年が、映画館でロマンポルノを観たときの感動。それを代替するようなものは、今後何か仮想できるのでしょうかね。できるとしたら、ぼくは全面的に、応援したいんですけどね。
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評言に意味はない。そういう表現。
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『片腕マシンガール』に続く、「TOKYO SHOCK」シリーズ第2弾、というもので、そのシリーズは何なのじゃい、といえば、これは要するに「アメリカ製日本映画」のレーベルみたいなもんらしいです。アメリカ資本によってつくられ、向こうの市場向けにつくられているわけですな。これは結構皮肉な事態とも言えます。アメリカ人に「俺たちは面白い日本映画が観たいのに、おめえらはぜんぜんつくってくれねえじゃねえか。それなら俺たちの思う『面白い日本映画』を俺たちでつくってやる」と言われているわけですから。

『片腕マシンガール』にせよ『東京残酷警察』にせよ、あるいは『グロテスク』を入れてもいいですけど、こういうもののよさがわからないやつが映画の感想なんか語るな馬鹿と思います。グロテスクで残酷だから褒めているわけじゃないんです。この作り手たちは、アホなものを全力でつくっていて、そこが偉いんです。「こんな表現したらアホかと思われるんじゃないか」「こんな表現はアウトじゃないか」という自主規制を、可能な限り外している。そこが偉いのであって、そういうものを許容できないやつは馬鹿です。洟を垂らしながらジャニタレのテレビドラマを見ていればいいのです。

 この映画を撮った西村監督が率いる「西村映造」は井口昇、園子温映画を陰で支えており、今後の日本映画界を引っ張るに違いないレーベル「THE SUSHI TYPHOON」にも参加しています。このレーベルに白石晃士監督が関わったらもはや無敵の集団です(松本人志にはぜひ、この人たちと関わっていってほしいんですけどね。彼の取り巻きたちが甘やかしてばかりいるために、もはや彼は作り手として半ばスポイルされています)。

 言葉でこの魅力を語っても仕方ない、という気もします。あまり語りようがない。結構圧倒的ですから、評言が吹き飛びます。今日は画像の羅列に尽きようと思います。
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美女たちの輝きがすばらしいです。主演のしいなえいひは言わずもがな、ちょっとしかでてきませんが長澤つぐみ、町田マリーが出てくるたび、映画はいっそうの輝きを帯びていたのでした。
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どっかで観たやつてんこ盛り。
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原題『Live Free or Die Hard』
itunesが映画配信サービスを開始、ということで、観てみました。日に日にソフト数が増えているようです。これまでも映画配信サイトというのはあったわけですが、旧作でも五百円くらいしたりと割高感がありました。でもitunesは旧作なら300円。ツタヤが360円とかしますから、これはいよいよ、ツタヤはなんで動画配信をやめちゃったんだろう、という話になりますね。電子書籍とかもそうですけど、ソフト的な充実度を求めていけば、店舗経営はネット販売に勝てないです。結局、映画にせよ本にせよ、バイト数で重さを量れる、データという代物になってしまえば、ネット上ですべてやりとりできる。「貸し出し中になっていて借りられない」ということもなくなり、売り切れ、品切れという概念がいつか消え去る。
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 特に映像の場合はネットに押されやすいでしょう。電子書籍と本、という対立構図で言うなら、両者には別々の特性があるため、本が完全に喰われる、ということは考えにくく、おそらくぼくが死ぬまでの間、紙の消滅はないでしょう。でも、レンタルビデオ店はものすごく減っていくはずです。ビデオ一般は消えずとも、レンタルビデオの店舗はこの先、減少の一途をたどるでしょう。それは動画配信サービスの拡充と完全な相関関係にあり、真逆方向の緩やかな曲線を描くはずです。
「電子書籍なんて嫌いだね。あんな板みたいなもので本が読めるかよ。一ページ一ページを指でめくって、じっくり読み進めるのが読書の楽しみなんだ」
という人はいても、
「ネット動画配信なんて嫌いだね。俺はあのDVDのディスクを一枚一枚、デッキにセットするのが快感なんだ」
という人は少ないでしょう。

 と、まあいろいろ考え出すと未来予測が楽しいわけですが、ところでitunesはエロを配信するのでしょうか。しばらくはしない気もします。こうなるといよいよ、dmmがツタヤを喰っていくんじゃねえかと楽しくなります。電子書籍の揺籃が騒がしい昨今、今以上にネットの動画配信が浸透した暁には、このままで行くならアップルがさらに隆盛、ツタヤはそっち方面に力を入れない限り没落、そうなるとエロはdmmの独占状態と相成る運びでございます。こう考えると、店舗経営に一切興味を示さなかったdmmの慧眼というのも、なかなかであるなあと思います。エロの作り手を舐めちゃいけないのでございます。

 そろそろ映画の話ですが、itunesで観たのはいいのですが、どうやら吹き替え版をレンタルしてしまったらしく(レンタル、という言葉ももはや意味をなさなくなりますね)、この点はまだかのアップルも課題を抱えています。吹き替えと字幕が別個配信らしく、切り替えができないのです。吹き替えで映画を観る習慣がなく、実写映画の吹き替え版なんてそれこそ何年ぶり、下手をすると上京以来一度も観ていないんじゃないかという気がするくらいに久しく、違和感があってなりませんでした。

 先日亡くなった野沢那智という人がブルース・ウィリスの声で、この人はどうやら大変に愛聴されていたらしいのですが、ぼくは寡聞にして知らずにおり、むしろウィリスの声にしては変だぞとしか思えず、残念でした。ぼくにとってのウィリスの声は、むろんウィリスそのままの声であって、野沢さんの声ではないんです。吹き替え版を楽しむ習慣がないので、仕方ありません。

 やっと映画の話ですが、まあベタなハリウッドアクションを観たいのであればこれでよいのでしょう。びっくりするようなことは特にありません。シリーズものの弱みで、奇襲戦法を打ちにくいんですね。今まで通り、ウィリスが頑張って、悪と戦って、勝つ、という話ですから、ある程度紋切り型の美学が肝要、というか、妙な監督の個性なぞは端から必要とされていない。『トゥモロー・ワールド』みたいに張り詰めた長回しも必要ではないし、『アポカリプト』のごときスピード感も残酷さも要らないし、『第9地区』みたいな突飛な設定にするともう別の映画になってしまうし。じゃあ『ランボー』みたいに2や3と違うことができるかといえば、『ダイ・ハード』と『ランボー』の違いはまさにそこで、マクレーンにはランボーのようなバックボーンはない。1というスタート地点があまりにも違い過ぎる。だから、いいんです。きちっとこれまでのファンの要求に応えればいいわけで、変なことはしちゃ駄目なんです。その意味では、真っ当な作品だと思います。ツッコミどころはたくさんあっても、そこをご愛敬として愛でる。それがハリウッドアクションに対する礼儀でもあるわけで、その辺のツッコミ要素をふんだんに置いておいてくれるのもいいです。

 とりあえず、「ネットを乗っ取ったからなんでもやりたい放題だ」という非常にわかりやすい設定がいいわけです。この先、悪の組織として出てくる連中はおそらく、いつでも「ネットを乗っ取る」ことになるでしょう。それがどういうことなのか、細かくイメージすることはできませんけれども、「ネットを乗っ取られたら怖い」というのはなんかそんな気がするのであり、敵としてはこれでよいのです。ただ、そこまで行くならカーペンター監督のようなガキ度も持ってほしいところではあります。『エスケープ・フロム・LA』のすごさは、ガキ度大炸裂のところにあるわけで、そこまでは行かないのが残念であり、同時にそれが現代における、「ハリウッド的お行儀の良さ」でもあるのだなあと思います。何しろ煙草が出てこない。「悪役が煙草を吸う」ことすらしなくなり、もはやこの世に煙草なるものはないのだ、というくらいのハリウッド的お行儀。

あとは適当に親子愛を放り込んでくるあたりのお決まり感。こういうのも必要なのです。映画のつくりとしては、正直あの娘は物語にぜんぜん絡んではいなかったんだから、別にクライマックスで重用する必要はなく、むしろあのハッカーボーイを中核に据えてウィリスとのバディ・ムービー感を前面に押し出せば、今後も『ダイハード』シリーズはあのスネークとオタコンのような形で新局面を迎えられるんじゃないかとも思いつつ、いいんです、親子愛は出す必要があるんです、ザ・ハリウッドとしては。

 観る側の目が肥えた、というのはあります。クライマックスの戦闘機にしたって、何にも驚かないですから。ああ、そういうパターンね、みたいな感じに思ってしまいますもんね。テレビゲームでも、ああいう風な展開はよくあるわけです。作り手が、こういう風にしたら盛り上がるぞー、と一生懸命つくったのでしょうが、結局は紋切り型、どこかで観たやつ。うん、もう、本当に、「どっかで観たやつ」がいっぱい詰まった映画ですね。それが『ダイハード4.0』です。
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ラブコメの模範
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原題『There's Something About Mary』
恋愛コメディ、ラブコメ、というジャンルで、いちばん好きな作品は何ですかと訊かれれば、三谷幸喜のテレビドラマ『今夜、宇宙の片隅で』と答えます。DVDになっておらず、昨年VHSを中古買いし、観てみたらやっぱりつくづくいいのです。しっかりきっかりつくられているコメディというのは、観ていて気持ちのいいものです。『メリーに首ったけ』もまた、ぼくの「絶品ラブコメリスト」に加えるべき作品となりました。

『メリーに首ったけ』はこの前取り上げた『奇人たちの晩餐会』と同年公開ですが、あれよりもずっとコメディとしてのクオリティが高いです。映画通ぶりたいなら『奇人たち』を推せばいい。ぼくは笑いが好きだから『メリーに首ったけ』を推します。

 キャメロン・ディアス扮するメリーがヒロインですが、まあなんともお綺麗です(ところで、キャメロン・ディアスとジェームズ・キャメロンが結婚したら、彼女はキャメロン・キャメロンになるのでしょうか)。ハリウッド女優という記号は好きではないのですが、本作の彼女は好きです。昔好きだったナオミちゃんに似ています。ナオミちゃんは相馬と付き合ったためにそれまでの純朴少女から小汚いギャル風情になりました。今思えば世紀末の彼女は、キャメロン・ディアスに少し似ていた田舎の糞ビッチだったのです。
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 一体ぼくは何の話をしているのでしょう。

彼女を取り巻く男連中がコミカルに立ち回るわけですが、そのひとつひとつがコメディのシーンとしてとても端正に仕上がっています。誰が観ても滑稽で、誰が観ても馬鹿らしい。そういうものをつくるのは、実はいちばん難しい。なおかつこの映画が大変上手なのは、会話のテンポです。びっくりさせるようなことを言って、「冗談だよ」とかわす。そんな実にありふれたやりとりを、こんなにも美しく決めるのは立派。字幕もうまいです。

 ラブコメの面白さはおそらく大きく言って二つあって、ひとつは「互いの意思の相違を楽しむ」というもの。たとえば、男は浮かれているけど女はつまらなそうにしている、でも男はそれに気づかず浮かれている、その滑稽な様。もうひとつは、こちらがぼくは特に好きですが、「男が格好つけようとして失敗するおかしさ」。

 格好をつけようとする男ってのは、どうしてあんなにも面白いのかと思いますね。
 やっぱり、身の丈に合わない行動それ自体が滑稽だし、その目的が「モテたい」「相手に格好良く思われたい」というきわめて単純でよくわかるものだから、もうおかしくてならないんですね。『今夜、宇宙の片隅で』はそれに溢れているんです。町田康の『告白』でも、村の若い女連中に声をかけてもらいたくてうろうろするくだりがあって絶品。

 
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この映画にも、その要素は充ち満ちていて、精液のくだりはすばらしいものがあります。その前振りとして、「精液がどこに飛んだかわからない」という状況に陥るんですが、それを含めてよくできている。日常的な部分と、「ありえないけどありえるかも」のぎりっぎりのラインを突いていくのが上手い。
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 恋敵が二人、三人出てきますが、みんなアホだからいいですね。結局、女を取り合う男ってのは、どこまでもアホなのだという目線を保っているので、安心して観られます。話のツイストも訊いているし、日焼けしたばばあも面白いし、非の打ち所は見あたりません。既に大ヒットしているからいまさらですけど、今観ても十分面白いです。短めに切り上げていいでしょう。お勧めでございます。
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いろいろ言ったけど、さようならジグソウ! ありがとうソウシリーズ!
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 邦題は『ソウ ザ・ファイナル3D』となっていますが、原題にはファイナルという単語はありません。なぜだか日本の宣伝部の人々は、「ファイナル」をつけたがりますね。『ランボー 最後の戦場』『ロッキー ザ・ファイナル』も、原題は単に『Rambo』『Rocky Balboa』なんです。「ファイナルとつければ客が増えるだろう」と考えているあたりがアホらしく、またそれで実際に「ファイナルだから観に行こう」と思うやつがいるならそいつはそいつでアホです。アホばかりです。

 一応ソウシリーズもこの7作目をもって完結、という運びになったらしいです。それでよいと思います。6作目がどうしようもなくて、監督も引き続き6作目のケヴィン・グルタートだということで、何の期待も抱かずに観に行きましたシネマサンシャイン。

シリーズ初の3Dということでしたが、3D効果はほぼ皆無と申し上げましょう。これなら普通の映像で見せてくれよと思います。立体効果うんぬんなど語るべくもなく、ただ単に暗くて見づらいという、本末転倒の極みみたいな状態で、いちばん立体効果があったのは何よりも字幕の文字でした。3Dは眼鏡が邪魔だし暗くなってしまうんだから、その分の立体効果が得られなきゃいけないはずなんです。金だって余計に取っているわけだから。なのにこれでは何の意味もないです。単に映画館が400円余計に儲けただけです。逆に言うと、映画館が儲けを出したければとりあえず全部「3D」と銘打てばいいことになります。「これくらい飛び出していないと3D映画とは認められない」という基準はないわけで、なんでもかんでも3D映画だと言ってよいことになります。でも、これってたぶんこの映画に限らないし、ぼくの行った映画館に限らないと思うんです。だから中には「3Dなのにちっとも飛び出さないぞ、あれでプラス料金を取るなんておかしいぞ!」というクレームをつける人も結構な数、いると思います。その辺はどう処理しているんでしょうね。

 さて、本編の話ですが、まったく期待していなかったので、くさすつもりはありません。むしろ、まったく期待していなかった身としては楽しめました。まったくお勧めはしませんが。

 考えてみるに、ソウシリーズがスプラッター的インフレをするのは、興行上ある程度やむを得ないんですね。やっぱりいちげんさんもある程度楽しめるものにするためには、シリーズ通しての設定的な面白さよりも、ビジュアル的な刺激に依っていくしかないんです。5だけ観た人、6だけ観た人は、1や2のことを知らない。そういう人のことも考えて映画を作るとなれば、一応味の濃いおかずを出して、ご機嫌を伺うことになるんだと思います。今回の7(と呼びましょう)を観ながら考えたのはそういうことです。はっきりと、もうメインの話とは一切関係のない殺人シーンが出てくるんです。公衆の面前で殺人が起こる、という場面で、今までのソウにはなかったものです。驚くことにこれが何の物語的意味も持っておらず、これにまつわる警察の捜査シーンすら出てこないんです。

 その殺人場面は物語的意味を一切持っていないんです。が、そのシーンを序盤にぶちこんだ映画的意味ならば、ないとは言えません。というのも、あのシーン自体が、作り手の気持ちを象徴しているんじゃないか? と思えたからです。

 あの「ウィンドウ・マーダーショー」とも呼ぶべき場面では、野次馬たちがわらわらと集い、写メールを撮ったりしています。あれはつまり、「殺人ショーを喜ぶ観客」の戯画なのです。あのショー自体がいわばこのソウという映画であって、そこに居合わせた人々は観客なのです。

 しかし、あの場面は物語的に何一つ活かされません。物語に活かされないということ、それが何を意味するのかといえばひとえに、「ソウの魅力は本来、スプラッターじゃないんだよ」ということです。物語的に活かされないあの場面がなぜ序盤で示されたかと言えば、いちげんさんへの視覚的おかずであり、同時に、ソウにスプラッター要素を求めるような、ぼくからすれば野暮天としか思えぬ連中への餌なのです。あの場面をもって、シリーズに造詣の深くない人々をあやしておくわけです。

 あの場面を観てぼくは、作り手たちの、「馬鹿馬鹿しいと知りつつも観客の目線を慮り、スプラッター的インフレに走るしかなかった哀しみ」を感知したのです。それくらいに馬鹿馬鹿しい場面なのです。

 スプラッター的なものは本作でも山ほど出てきます。回を追うごとに馬鹿馬鹿しさを増しているわけですが、本作はそれでもなんとか、有終の美を飾ろうと頑張っていたと思います。少なくとも4、5、6よりは頑張っていました。というのも、直感的な痛みを演出しようと、目、口、歯などの部分を虐めまくっていたからです。肉体がばらばらになる、みたいなアホ用のスプラッターもありましたが、直感的に伝わってくる局所的攻撃を積極的に行った点、ぼくは作り手の良心を感じました。まとめるとこういうことです。
 本作の痛み表現は、血しぶき飛び散りどんな馬鹿にもわかる、アトラクション的なものの一方で、『魚と寝る女』『アウトレイジ』などに観られたような「地味だけどすごく痛そう」なものにも踏み入ろうとしていたのです。ぼくは観ながら、「よしよし、これならばよかろう、よしよし」と幾度か頷いておりました(なにさまっ)。

 筋立てとしては、3、4、6に近いです。一人の男が拘束状態にある人々に次々出会い、その人々を救う救わないで云々するという形式です。これはわかりやすくつくりやすく、もはや過去に散々やっているので安易であり、その説得力、切迫感もちっともなくなっていますが、はっきり言って、もうこれより他にやりようがないんでしょう。でも、なんなら4からの悪役であるホフマン刑事をあの位置に持ってきてもよかったんじゃないか、という気がしないでもありません。結局今回の主人公ゲーマーは、過去のシリーズと一切関係のない人ですからね。主人公ゲーマーに、過去の人物を起用しておけばよかったんじゃないかと思います。ジグソウの妻でもいいし。あれはちょっと安易、というか、端的に言えば、「完結作ならでは」にまったくなっていないのです。残念。

 ホフマンの使い方がだから残念なんです。一応4からのいちばんの功労者ではあるんです。だけど彼は、自分で手を下しちゃう。これはジグソウ精神にもとるんです。ジグソウ、トビン・ベルがなぜ魅力的かと言えば、「自分の手を汚さない殺人者」だからなんです。レクター博士の怖さとも違う、とてもクールな狂人なんです。ホフマンは今回も暴れちゃって、こうなるとその辺の映画と何も変わらない。トビン・ベルの格好良さがない。

 で、トビン・ベルですが、今回はもうワンシーンしか出てきません。回想でも出てこないに等しいです。彼が出てくると「待ってました!」的にうきうきしましたが、何もなかった。やっぱりぼくはソウを観るとき、彼を待っているのです。彼あってのソウシリーズなのです。ぼくが1よりも2を推すのは彼の魅力が大きい。2で彼が、刑事のエリックに淡々と語る場面。あるいは3で、わめくアマンダを諭す場面。ああいうのがあってのソウなのです。今回は、本当にワンシーンしか出てこない。是非彼には、別の映画に出てほしいですね。ゾンビ監督が『ハロウィン3』を取ったら、是非ブギーマンの師匠か何かで出て欲しいですね。何かとコラボしてほしいところです。『レクターVSジグソウ』みたいなのも観たいです。

 アホな妄言はさておきますが、まあ、ラストのオチはわかっていたようなもんです。冒頭と中盤で出てきますから、ああ、はいはい、この人がこうなのね、というのはもうわかりきっていたようなもんです。そこには何の説得力もないのですが、もういいです。一応締めくくったということで、もういいです。ジグソウの妻がすごく雑な扱いになっていたのは残念ですが。

 なんだかんだでソウシリーズもこれで終わり。あまあまの目線で観ました。エンドクレジットを見つめながら、「いろいろ文句も垂れたけど、今までありがとう。いろいろ言ったけど、ぼくは君が好きだったんだ」という優しい気持ちになって、劇場を後にしました。この映画を観て優しい気持ちってのも変ですが、いいんです。まったくお勧めしませんが、ぼくはこの映画が好きです。ありがとう、そしてさようなら、ソウシリーズ。
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