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『レオン』が好きです。ナタリーちゃんが好きです。
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 リュック・ベッソンの『レオン』って、映画好きの中でも評価の分かれる作品のようですね。一般的に言ってベッソン作品ではいちばん人気があるようですが、宇多丸さんは嫌いみたいだし、行きつけのバーのマスターも嫌いみたいだし(過去に何度かここで書いている「バー」というのは、新宿ゴールデン街にある『地獄のデスマッチ』という店です。映画とプロレスの店でしたが、今年から映画バー一本でやっていくことにしたそうです)、確かキネ旬でもその年のベスト10に入っていなかったと記憶しています。

 さてぼくはというと、『レオン』大好きっこであります。おっさんと少女の組み合わせが個人的に高ポイントであり(こう書くと変な誤解を生みそう、と思うのは意識過剰なのだろうな)、当時のナタリー・ポートマンは『タクシードライバー』におけるジョディ以上の色香を放っており、ジャン・レノのキュートさも言わずもがなである一方、敵役のゲイリー・オールドマンのジョーカーさは史上に残ると言えましょう。

 この『グロリア』のDVDパッケージには「『レオン』の原点だ」みたいな触れ込みが書いてあって、原点などと言い出せばきっと別のものが何かあるのでしょうけれど、まあともかくなるほど設定自体は似ています。本作が『レオン』の元ネタであることは主人公の名前がタイトルになっていることからも明らかでしょう。
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大きく違うのは、『グロリア』はおばはんと少年の組み合わせなのであって、ちょうど『レオン』と対称的になっていることです。また、『レオン』が家族を殺されたポートマンの復讐劇となっているのに対し、『グロリア』は逃走劇がメインであるのも相違点です。その点で言うと、敵キャラの面白みはありません。あいつが追ってくるのか、怖いぞーというのが乏しいです。『レオン』のオールドマンはそれはそれは怖く、だからこそ魅力的だったんですが、本作はなんかおっさんとかじいさんみたいなのがわらわらいるだけですので、映画全体を支えるのは完全に主人公のジーナ・ローランズ(監督の妻でもある)と、子役のジョン・アダムスの二人です。 
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 個人的にはこのジョン・アダムスくんがちいとも可愛くなかったため、好意が抱けませんでした。なんというか、少年というよりも小男みたいな感じです。顔のつくりがはっきりしすぎていて、とてもちびっこい二十代男性みたいでした。なおかつ表情にあまり幅がなく、台詞のトーンにも抑揚がなく、はてさて本作を褒める人は果たしてこの小男ボーイを愛せたのだろうかと疑問にすら感じます。

 いやもちろん、大人に媚びるような子役がいいわけではありません。自分の可愛さを本能的に感じ取り、大人の懐にひょいと飛び込めるような清史郎くん的な子供には反吐が出ます。でも、子供ならではの可愛さというのは本人の意図せざるところでひょこっと顔を出すものであって、なのにもかかわらずこのジョン・アダムスくんはちいとも可愛くなかったのです。『レオン』とで比べるなら、完全に、もうこれは完全に100対0でナタリーちゃんの勝ちなのです。ちなみにあのときのナタリーちゃんはローティーンにもかかわらず煙草をふかしていたのであって、それもまた高得点です。クロエ・モレッツとも違うのです。 

ジーナ・ローランズは結構おばはん丸出しな感じで、これはこれで格好よかったです。お姉さん風味を出すことなく、おばはんとして筋が通っているなという正々堂々とした佇まいです。彼女はよかったのですが、物語としてはちょいとだらだらしています。もたもたしています。

 途中、彼女が少年と別れる場面があるんです。もうどこでも行っちゃいなさい、みたいな感じでね。もうね、あのくだりはね、先が読めすぎているから面倒くさいんです。どう考えても連れ戻すのが確定的なんだから、あんな風に別れるのはなんというか、カップルのつまらない喧嘩を観ているようなうっとうしさがありました。あれね、別れるか別れないかのときになんか事件が発生して、意図せずして別離が訪れるように仕向ければまだはらはらにもなるんですけど、そうじゃないですから。少年はその後、なんかよくわからない子供のたまりでだらだらしていますから。
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 展開としても、結局なんやってん、というところがあります。『レオン』の場合で言うと、家族を殺されたポートマンと出会ったことで、レオンは人と触れあう悦びを知り、それでありながら結果彼女の復讐のために、彼女の平穏な未来のために敵もろとも死んでいくのであって、くーっ、熱いぜレオン、熱いぜレノ! となるんですけど、『グロリア』は散々追い回された後、そして途中で敵の一味をばんばん殺しまくったりもした後、敵のアジトに乗り込み、「この手帳がほしかったんでしょ。くれてやるからもう追わないでね」みたいにして出てきて、ハッピーエンドです。なんざそら。じゃあ最初から渡せばいいのに。
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 あれ? ちょっと不安になってきました。そんなに単純な話だっけ。もっとなんか、渡せない事情とかあるんだっけ。子供を守るのだみたいなのがあったりするけど、正直あの組織だって別に、あんな子供の一人や二人くらい生かしておいても大したことないはずでしょう。だったらひとまず子供をどっかに逃がして、さっさと手帳渡しちゃえばよかったような、あれ、でもそうだとするとこの話は本当に馬鹿らしくなるし、あれ、ぼくの記憶違いなのかな。っていうか、あそこでグロリアが発砲してぶち殺しちゃったのが軽率、迂闊な気がするんだ。あれがポイントオブノーリターンだから。

 クライマックスももたもたもたもたもたしているんです。ワインがほしいの、のくだりのもたもた感はえらいもんです。何の意味もない。エレベータに乗って追われるくだりの、敵の手際の悪さ。ひどく馬鹿な組織です。殺すならさっさと殺せばいいのに、なんですかあの裸の男たちは。

 街の風景の映し方、切り取り方はすごくよかったなあと思うんです。当時のニューヨークの、何とも言えない不穏さが伝わってくる映し方で、ああ、こらよさそうな映画らぞ、と思っていたのに、子供は可愛くないし、敵は馬鹿ばっかりだし。

いろいろ書きましたが、いちばん大きかったのは子供の可愛くなさ、演技の下手さです。あれでもう観る気が半分くらい失われます。思えば『レオン』だって、ナタリーちゃんポイントが相当高いんです。ぼくは「ナタリーちゃんのコスプレショーを賛美する」派です(ふん、なんとでも言いやがれよ)。だから、映画の出来うんぬんというより、ぼくと映画との相性の問題をひときわに感じるのでした。
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外連味に乏しく、展開ももうひとつと思いました。
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ツタヤで、「100人の映画通が選ぶ発掘良品」なるキャンペーンがあり、近所のツタヤではその1位になっていた本作です。刑事ものです。当時のアカデミー賞最有力だったそうですが、大方の部門を『タイタニック』にかっさらわれたらしいです。

 話はと言うと、ちょいとごちゃごちゃしています。最終的には刑事のバディ・ムービーに落ち着いていきますが、その途中がなんだかめんどくさいです。ここはいつものごとく、順を追うんだか追わないんだかわからない適当な語りで感想を述べていきましょう。

 主人公となるのはガイ・ピアースで、出世を狙うまじめっこちゃん刑事です。狡猾です。同僚にはラッセル・クロウやケビン・スペイシーがいて、彼らは乱暴だったり気が抜けていたりします。あるとき、レストランで殺人事件が起こります。初めは単純な強盗殺人かと思われていたのですが、そこには同僚の刑事の死体もあって…みたいな話です。
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 話の大きな動き出しはこの殺人事件なのですが、どうも観客の興味の方向付けとしては弱い気がします。というのも、殺されてしまった刑事というのは、それまでの登場シーンで、さほど気持ちのよい人間としては出てきておらず、主人公ガイ・ピアーズを嫌っていた男なのです。素行もあまりよろしくない風に描かれており、彼が死んだことにあまりショックを受けられないつくりなのです。これが仮に、殺された刑事がガイ・ピアーズを引っ張ってくれるよき上司、よき先輩みたいな相手だったら、もっと親身になれるというか、「よし、捜査を見守るぞ」という気持ちになれるんですけど、一体どうしてこういう設定にしたのでしょう。そのほうが、後の展開を考えてみても、「えっ、あの彼がまさか!」という驚きを作り得たろうし。

 サスペンスってね、どうしても捜査の過程が中だるみしやすいんです。だからこそ初めに、こちらの腹が保つようなインパクトと興味がほしいんです。確かにあの惨殺現場はインパクトになるけど、それだけじゃなくて、興味が大切です。そういう意味で言えば、ガイ・ピアーズに敵対的だった人物が死んでも面白くないんです。「さあ、犯人は誰なのだ」とならない。

 規模としては大した話じゃないのです。なのに2時間15分以上ある。水増し感が結構あったというか、どうにもぴんと来ないものが多かったです。個人的には、ラッセル・クロウとケビン・スペイシーがごっちゃになりそうでした。どっちもちょっと垂れ目っぽいし、線は細いけど怖そうだし、出てくるたびに毎度毎度、一瞬だけ迷いました。画的な面白さには乏しかったと思います。お、こいつが出てくると映画が引き締まるな、というのがないんです。
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 キム・ベイシンガーという人はよく知らずに来たのですが、なんだかカプコンのゲームに出てきそうな人です。プレイステーションをフルスペック用いてつくったポリゴンキャラみたいな美人です。この人とラッセル・クロウが睦まじくなったり何なりあるのですが、そのくだりも別に面白くないです。長尺の映画には刺激が必要なのです。この映画で言うと、途中、黒人たちのいるアパートに踏み込みところは刺激になるわけで、ああいうのは絶対に必要なわけです。その意味で言えば、ベイシンガーはもっとパイオツを出すなどしなくてはなりません。彼女の役柄は娼婦です。娼婦だってんなら娼婦らしく、きちんとパイオツを活用しろってんだ! 生ぬるいハグとキスを繰り返すばかりで、パンツの一つも見せやしねえ!『氷の微笑』のシャロン様を見習え! それひとつあるだけで、中だるみは防げるんです。とても大事なのです。名女優に似ているという設定なのですが、その分、娼婦としての役柄を活かせ馬鹿野郎。

 観てみようという人の驚きを減じぬべく、肝心な展開はぼかして進みますが、まあ最終的にはラッセル・クロウとガイ・ピアーズがバディになります。でも、そこに至るまでの部分がなんかすっげー変です。
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 ラッセル・クロウはキム・ベイシンガーと恋仲なのですが、ガイ・ピアーズが一度だけ寝取ってしまうんです。ですが、これは実は悪者に仕組まれていたのであって、ガイは弱みを握られたような格好になります。で、悪者はラッセルにその証拠写真を見せて彼を怒らせ、「これでラッセルがガイ・ピアーズを殺してくれるぞ、しめしめ」みたいになるんですけど、あの、あの、大の大人が、刑事が、恋人を一度寝取られたからって、殺しますか? いや、殺してしまう人も世の中にはいるでしょうけど、悪者が「うまく行ったぜ」的になるのはあまりにもおかしいです。なんかゆるゆるなんです、そういうところが。

 先日、デビット・フィンチャーの『セブン』を久々に観たのですが、あの映画はやっぱり面白いです。というのも、サスペンスに必要な外連味に充ち満ちているからです。無駄なこともしていないです。あるいは不正を暴こうとする映画なら『セルピコ』があるわけで、あの映画の緊張感のほうがずっと良質です。

 もっと短くできたと思うんです。キム・ベイシンガーとのむにゃむにゃも切り詰められるし、有名スターに似せた娼婦のどうのこうのも別になくても成立するんだし、ケビン・スペイシーがテレビドラマの監修をしているとかいうのもどうでもいいし。第一、中心となる話に外連味がなさ過ぎるんです。ひとつの硬派な映画としてはいいのかもわからないけれど、ドキドキしたり先が気になったりってことが、ない映画でした。
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キー・ホイ・クァンはどう思っていたんでしょうか。
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 人それぞれに幼児体験、原風景、懐かしいイメージというものはあるものですが、この映画は一定数の人々にとって、思い出深い作品なのでしょう。明確なるジュブナイルムービーでした。思い入れのない大人としては、ちょっときつかったです。

前年公開の『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』に出てきた東洋人の子役、キー・ホイ・クァンが登場するのですが、あの映画と引き比べたとき、どうやってもわくわくしようがないのです。向こうはスピルバーグ監督、『グーニーズ』はスピルバーグ総指揮なのですが、ぜんぜん違います。『魔宮の伝説』大好きのぼくなので余計に思うのかもしれませんが、やっぱりね、クオリティが段違いなんです。というか、『魔宮の伝説』を観た子供は、『グーニーズ』では満足できないでしょう。なんというか、すっごく地味なんです。観ながら哀しくなるくらいに地味で、外連味に欠けます。
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 話はと言うと、要するに少年チームの冒険譚です。家の屋根裏で宝の地図を見つけ、その場所に向かうと地下洞窟を発見。しかし偶然居合わせていた強盗たちもそれを嗅ぎつけ、はてさてこれは大変なことに! というのがまあ大筋なのですが、この地下洞窟がものすごく狭いのです。ぜんぜん楽しくないのです。こんなもんね、広かったらとりあえずテンション上がるんです。でもめっちゃ狭いんです。廊下を延々と移動、みたいな感じ。
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 はっきり言ってね、リアリティなんてどうだっていいんです。外連味がすべてと言ってもいいんです。『魔宮の伝説』はそこが素晴らしいんです。奇しくもあれもまた地下洞窟、地下の怪しげな組織の話ですが、とにかく外連味に溢れていたわけです。飛行機を乗り回したり、象に乗ったり、心臓を抜き取る術師に捕まったり、トロッコで逃げ回ったり、連れの女がぎゃあぎゃあ騒いだり。アトラクションとして極上なんです。
 一方、この『グーニーズ』は何しろ金がないらしく、すべてがしょぼいのです。落ちてくる巨岩も、地面から伸びる鋭い棘も、東洋人少年の発明品も、もう何もかもがしょぼくて、辛いのです。リアリティがある、というのは褒め言葉ですが、本作では違う意味でリアリティがあるんですよ。「実際に地下洞窟なんてものがあったらこれくらいの広さであろう」というね。そのくせ、中途半端なギミックを用意したりして、ちょっと辛いです。これが50年代、60年代のものだったら、その古ぼけた感じも味わい、と片付けられるのですが、いかんせん85年ですからね。

 低予算なら低予算なりの面白さもあるわけです。で、今調べてみたのですが、ウィキによりますと、『グーニーズ』の製作費は1985年当時で1900万ドル。ちなみに、インディ・ジョーンズの第1作『レイダース/失われた聖櫃』は1981年で1800万ドル。なんと、『レイダース』より上なのです。うっそー。低予算じゃないのかっ。じゃあもう駄目です。1900万ドル掛けて貧乏たらしいものをつくってはいけません。

 時間的にも2時間弱あるんですが、長いです。サイズとして小さな話なのだから、100分は切った方がいいでしょう。どうでもいい小ネタをたくさん挟んできて、無駄に長引いているんです。早く地下洞窟に入れ、という話なんです。それをなんや家の中でもたもたしているから鬱陶しくなる。大人ぶっている少年みたいなのも別に活きてこないし、年上の女の子みたいなのも要らない。これならあのデブ少年は別班で置いておくとして、メインの冒険チームは男子2人、女子1人みたいなシンプルな構成で行ったほうがいい。キスのくだりとかはもう本当に要らない。何も活きてこないから。

 出てくる要素として特異なものがあるとすれば、あの奇形の男です。あれはどういうつもりで入れたんでしょうか。エレファントマンオマージュなのでしょうか。物語的役割としては、ピンチの子供たちを救う、という機能を請け負ってはいるのですが、いかんせんあいつがあの場所で監禁されていた理由もよくわからず、もっと、もっとなんか子供が喜びそうなもん、なんか無いんか! と思います。あそこで奇形の男を登場させるのがぜんぜんわからないんです。この辺の言い方はちょっとデリケートな部分に障りそうなんですけど、あの奇形の男は、やっぱりちょっと、うわ、と思ってしまうんです。かわいげがないんです。この手の映画だったら、もっと愛しやすい造形にしたらええのに、と思うんです。そのくせ、スーパーマンの衣装を着せたりして、何がしたいねん。
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 90分くらいで、ローバジェット丸出しでつくられていたら、それはそれでよかったはずなんです。金はねえ、金はねえが、心意気はあるんだ! という映画だったら、ぼくは誰がなんと言おうと肯定します。ですが、『レイダース』級に金を使っているんですよ。同年公開の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も1900万ドル。ちなみに80年代の名作で言えば、『E.T』は1050万ドル、『ロボコップ』は1300万ドル、『ターミネーター』は640万ドル。本当なのかなあ、本当に『グーニーズ』は、ウィキの言うとおり、1900万ドルも掛けたのかなあ。これ、0が1つ少ないなら納得だし、2つ少なければ本当によくやったと思えるんですけど、花盛りの80年代中期にあって、これは駄目でしょう。

 作り手の感覚が古いってのもあるかもしれません。あるいは作り手たちが、自分たちが若かりし頃、子供だった頃の冒険ものに思いを馳せて製作したのかも知れない。でも、それをやるには、80年代はあまりにも他が豪華すぎた。もしも人に薦めるときは、「60年代初期のものらしいよ」と騙しておく必要がありましょう。
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アニメってものを真摯に考えているアニメだと思います。
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昨年の夏に亡くなった今敏監督作品。ぼくがこれまでに観たのは『パーフェクト・ブルー』『東京ゴッドファーザーズ』で、これが三つ目です。オリジナル長編アニメとしてはやっぱり宮崎駿、ジブリがダントツの知名度ですが、今監督のつくったビジョンというのはもっと大人好みなんですね。子供が観てわくわくするというタイプではぜんぜんないし、細田守監督の『サマーウォーズ』みたいに子供、若者に擦り寄ってもいない。でもそれはすごく大事なことであって、子供には敷居の高いアニメってものをもっと観たいです。萌え要素だの何だのというキャッチーでグッズ会議の盛るようなアニメじゃなくて、ああ、真っ向からアニメをつくろうとしているなと、感動させるもの。『パプリカ』はその感動があって、ここ最近で観たアニメ映画の中でいちばんびびびと来ました。

 筒井康隆原作らしいのですが、小説版は読んでいません。言い回しなんかはもろに筒井節全開のところも多いですね。筒井康隆の小説って、なんか「もうええねん、狂ったんねん、今回はめちゃめちゃでええねん、うも」と開き直っているものも多くて、その側面が随所でうまく活かされていたと思います。

『インセプション』に影響を与えたとも言われており(ノーランは否定しているそうですが)、そう思って観ればなるほど確かに同じようなガジェット。同じような夢の話。同じようなカット。人の夢に入る、人と夢を共有するうんぬんという設定で、夢の荒唐無稽ぶりが遺憾なく描写されております。
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 正直なところ、描き出されたビジョンでもう十分です。ええ、そのビジョンで酔わせてくれたのでオーケー。なんやようわからんところも多いんです。黒幕みたいなやつもなんか結局はしょうもないし、なんでそんなことになるねん、それができるんやったらもう何でもありやないけ、というのもあるんですけど、描かれていることがことごとく面白いのでオーケーでした。漫才でもコントでも、面白ければ脈絡も何もかもがどうでもいい。面白い、愉快痛快であることがすべてに優先する。この映画も同じようなもので、ビジョンの愉しさゆえにどんな荒唐無稽さも許容できる。ぼくの場合は、そうでした。
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話だけに特化して観ていくと、そこまでいいとも思わないんです。あるいはぼくが読み取れていないことも多くあるのだろうし。でもまあ、夢を持ちだした時点でね、大事なのは整合性だの論理性だのじゃなくて、ビジョンなんですよ。これはタイムマシンものにも言えて、別の時空に旅立つうんぬんを言い出した時点で、ある程度の嘘や破綻は許容して観る必要があるし、大事なのはそれに拘泥することじゃなくて、どんなビジョンが展開していくかに見とれること。関係ないような話ですが、最近のぼくは「理屈馬鹿」というものについて考えていて、「理屈馬鹿」ってのは要するに理屈に固執して融通が利かなくなっているやつのことで、映画でも理屈馬鹿の見方は駄目なんです。「もうええねん、おもろかったらええのやねん、うるさいうるさい、好きにやらせろ」と暴走しているほうが、観ているほうを楽しませてくれるのです。うにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃといろんなものがでろでろ出てくるあのビジョンはいいですねえ。あれがなぜかものすごく気持ちいいのです。
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 声優も林原めぐみ、大塚明夫主演という大変素晴らしい2トップで、心地いいです。もう最近ではそれだけでも貴重です。まともなアニメにまともな声優が使われている、ということ自体が稀少ってのは、異常だろうと思うんですけどね。ちなみに『東京ゴッドファーザーズ』では岡本綾の声がノイズでしたので、集中がたびたび阻害されました。声優という職業はもっと独自のもんとして置いておいてほしいですね。タレントやモデルなんかとの垣根がゆるゆるすぎますから。声優からアイドルに、みたいなのもわからん。そういう人たち、そういうのを愛でる人たちって、本当にアニメが好きなんですかね?

 前にも書いたことですけど、アニメは現実の世界と断ち切れたビジョンをつくれるし、ひとつの完成した世界をつくれるわけです。実写映画ではたとえば意図せぬものが写り込んだりするけど、アニメではすべて作り手の意図のもとに描かれるわけだし(意図を越えてうんぬんという話はまた別だよ)、人物も街も自然も何もかもが思いのままなわけです。現実とは別の体験をさせるものが映画だとするならば、アニメは実写以上にそれが可能なんです。『パプリカ』はまさしく、アニメと夢という、「現実とは別のもの」を炸裂させうる作品であって、事実、この映画には酔わせてもらいました。アニメで何ができるねん、アニメって何やねん、ってことをすっごく真面目に考えている作品だと思います。
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笑い、その生の圧倒的肯定。
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nekoさんに薦めてもらい、観ました。ありがとうございました。
 
君のその小さな手には 持ちきれないほどの哀しみを
  せめて笑顔が救うのなら ぼくはピエロになれるよ

と唄ったのはさだまさしですが、本作はまさしくその実践を描いております。これは実在の医師であり、「ホスピタルクラウン」であるハンター・キャンベル・アダムス、通称パッチ・アダムスという人の伝記映画であります。現在は65歳で、今もなお世界中を回って活動し続けているそうです。
「ホスピタルクラウン」なる存在をどれくらいの人が知っているのでしょうか。ぼくもこの映画を観るまで知りませんでした。「病院で活動する道化師」のことであり、患者たちに笑いをふりまき、心身に渡るケアを行っているのだそうです。

いやはやなんとも重要な作品、重要な存在を見逃し続けていたものだなあと思います。笑いの聖性、尊きものとしての笑い。ぼくは笑いについて考えてきた人間ですが、これを見落としていたのは不明を恥じるばかりであります。

 ロビン・ウィリアムス扮するアダムスは冒頭、精神病院に入院します。そこでの出来事をきっかけに医療に目覚め、医学の道を志すようになるのですが、彼は他の医学生たち、あるいは医師たちと異なり、病院の入院患者たちに「笑い」をふりまこうとし始めます。周りの人々はその振る舞いを「ふざけている」と見なし、反発したり否定したりするのですが、彼の活動は次第に多くの人々の支持を得るようになっていきます。
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ひとつの映画、物語として考えたときに、このようなスタイルは日本のドラマでも幾度となく用いられています。もっぱら学園もので多いですね。型破りな教師がやってきて彼独自の方法で困難を乗り越え、生徒たちとの絆が生まれてうんぬん、というやつ。あのようなドラマにはやはり絵空事感、あるいは宗教にも似た狂信性がつきまとうわけですが、本作はそうしたタイプとは一線を画し、あくまでも「笑いで人を救う」ことについて一貫しており、その姿はだからこそとても胸打つものなのでした。

 笑いは人を救えるか。などと書くといかにもおおげさでありますが、劇中語られる言葉はまさしくぼくの信ずるところと合致していました。いわく、「笑いはたとえ一瞬かも知れないけれど、人を輝かせる」
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この笑いの一瞬性。まるで花火のごとき刹那のきらめき。でも、その残像が目に焼き付いたなら、人は生を肯定しうる。絶望的な状況に置かれた人間を、結局その人を、救えないかも知れない。その人をずっと支え続けるなんて、土台無理な話かも知れない。でも、ほんの一瞬ならば、救える。笑いは、一瞬だけすべてを越える。その一瞬に魅せられる。

 劇中、アダムスは多くの人々の前で道化を演じ、笑顔をもたらします。そのひとつひとつはとても感動的です。「馬鹿げている」。映画内で対立的存在として登場する医学部長はそう言ってアダムスを目の敵にしますが、彼はめげずに笑いをもたらし続けます。その姿は、どうしたって素晴らしいのです。これね、学園ものドラマとかだとね、「友情の大切さ」とか「絆」とか「ひとつの目標に向かって団結する素敵さ」とかに行きがちじゃないですか。それとはぜんぜん違うわけです。いや、それはそれでいいのかもしれないけれど、「笑い」に魅せられる人間からすると、このアダムスのほうがずっと格好いいです。

 映画の中で特に好きなのは、末期の患者や老人を笑わせようとするところです。子供を笑わせる場面が出てきますが、おっさんやおばはんが相手のほうがぼくはぐっと来ます。日本でも「日本ホスピタルクラウン協会」というのがあるらしいのですが、どうやら「長期入院の子供たち」を主眼にしているようですね。もちろん、子供たちを笑わせるのも尊いのですが、ぼくは心を頑なに閉ざしてしまっている大人のほうにほろりと来るんですね。
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 特にこのご時世、子供は大事にされますよ。子供は可愛がるべきもの、大切に育てるべきものの象徴みたいなもんです。反面、世をすねたようなおっさんとか、正直もう何の希望もないようなおばはんとかは、放っておかれるんですよ。でも、そういうやつだからこそ、笑顔が見られたらぐっと来ます。ちょっとずれますが、『オトナ帝国』でチャコがヒロシにパンツを見られたとき、恥ずかしがって、ヒロシを睨みます。そこでヒロシは言うわけです。
「やっと人間らしい顔になったなあ! いいじゃん!」

 この、「おまえ、生きてるじゃねえか!」という悦びがあるわけです。これまたちょいとずれますが、イーストウッドの『グラン・トリノ』でいちばん好きな場面は、彼が隣人の女の子に誘われて隣家に飯をお呼ばれに行く際、「まあ、今日は誕生日だからいいか」とつぶやくように言う場面です。愛妻に先立たれ心を閉ざしていた老人が、ふと氷を溶かすあの一瞬。ああいうのに、ぼくはぐっと来てしまうのです。

 話がまだまだずれこみそうなので引き戻しますが、この映画、あるいはアダムスの活動がすごいのはひとえに、医療と笑いという、「生の肯定」を結びつけたところなんです。やっていることは違うし、できることもまるで違うけれど、向いている方向はつまり、生を圧倒的に肯定すること。絶対的に肯定すること。
「病気で苦しんでいる人がいるのに、不謹慎だ」とか「おどけて笑いをふりまくなんて医師のすることじゃない」とかいう言葉よりもずっと響くのは、そういうことなんです。
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 で、これまた「破天荒・型破りもの」で珍しいのは、アダムスがとても優秀な成績を収めていることですね。よくあるのは、「勉強なんかできなくたって」みたいな感じで、とにかく勢いでまいちゃうパターンです。あの松本人志によるドラマ『伝説の教師』でも、結局彼の役どころは、「免許もないし勉強もろくに教えないけど、いい先生」的なものでした。ところがこのアダムスは、誰よりも勉強ができるのです。これも好きな部分ですね。めちゃくちゃなことを言うてるけど、やるべきことはやっている、というのがいちばん格好いいわけですから。

 格好良すぎるくらい格好いいんです。偉業を成し遂げたとか、大変な苦難に打ち勝った人の話というのも素晴らしいですけど、この人の生き方には、ひときわ胸を打たれるのでありました。

本物のパッチ・アダムス
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見応え十分。これぞ映像作家の映画作品。
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去年、アメリカで大ヒットを記録した本作ですが、いやあ、これが大ヒットする映画受容の土壌があるって、すごく恵まれていると思いますね。これは相当に骨身の入った話で、頭からっぽドンパチ劇でもなく、子供は訳がわからないでしょう。監督の前作『ダークナイト』も大ヒットだったのですが、あれはまだわかりやすいですよ。子供が観ても、「バットマンとジョーカーの対決なのだな」とわかるし、それさえわかればなんとかなるし。一方この映画はというと、ぼーっと観ていたら途中でなんだかわからなくなる危険がありますからね。かなりすごいバランスでつくられているなあと感銘を受けました。なんというか、「あ、これぞ映像作家の仕事だ」と思います。我々が曖昧なイメージで捉えているものを明確なビジョンで示す。物語的快楽と映像的快楽を両立させる。『ダークナイト』よりもはっきりと上を行っています。

 タイトルの『インセプション』というのは、「植え付ける」というような意味で用いられているらしいです。
 では何を植え付けるのかというと、他人の頭に、あるアイディアを植え付けるのです。
 ではどうやってアイディアを植え付けるのかというと、潜在意識に働きかけるわけです。 
 ではどうやって潜在意識に働きかけるのかというと、なんと相手の夢の中に潜り込み、相手に接触し、その相手をうまく誘導してアイディアを植え付けるのです。
 これに成功すると、相手がはっと目覚めたとき、潜在意識に変化が起こっているため、現実をも操作できるのだ! というわけです。

 要するにあれです。夢の中に出てきた異性、タレントを好きになったりするあれです。いつのことかは忘れましたが、昔、ナース姿の坂下千里子に膝枕をしてもらう夢を見て、その後しばらく好きになりました。今でもそのことを覚えているわけですから、夢の中のそういうのは結構鮮烈だったりするわけで、なるほど人の夢を操作できれば現実の相手をも操れるかもしれません。意中の相手を振り向かせたい場合は、相手の夢に忍び込み、その夢の中で大活躍すればいいというわけです。

 この映画では、相手の企業をぶっ潰してくれという依頼を受け、レオナルド・ディカプリオが動き出します。依頼主は渡辺謙です。渡辺謙は『ラストサムライ』以降、すっかりハリウッド俳優となりまして、もはや驚きもなく、ばっちりとアメリカ映画に馴染んでいるのですね。今後もどんどん出て行くのでしょうし、日本の役者史上、アメリカ映画に最も寵愛を受けている俳優、と言えるのでしょう。
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 動き出すディカプリオは仲間集めに奔走し、『(500)日のサマー』や『ローラーガールズダイアリー』の主人公たちに力を借りることになります。仲間は「設計士」「偽装師」「調合師」といった特性を持っており、この辺はゲームっぽくて楽しいです。
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 いざ夢の中へ、というわけなのですが、夢の荒唐無稽さをうまく中和しながら、面白いビジョンを作り出しています。この映画について言えることとして、「こちらから汲み取っていけば相当面白い」というのがあります。はっきり言って、突っ込みどころはあるんです、たくさん。重箱の隅をつついていけば、おかしなところはいっぱいあります。でも、こちらから好意的に解釈し、「そういうのはええやん」となれれば、なるほどなかなかよくできた映画と言えるのです。
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 設定としてうまくすり抜けているのは、「夢の中で死んだ場合」ですね。普通は目覚めるはずなのですが、本作では違っていて、夢の中で死ぬと意識の深い深い場所まで落ちてしまい、目覚められなくなる、ということにしているのです。これをすると、「所詮は夢やんけ」という冷めた視点を封じられるので、観客は出来事の連続を真剣に観られます。さらっとした説明だったりするんですけど、ぼくの鑑賞テンポと合いました。いろいろ疑問が出てくるんですが、登場人物がわりと説明してくれます。かゆいところに手が届いているのです。
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 この映画の特徴としてはもうひとつ、夢の中の夢、という階層構造を準備したこと。現実と夢、という表裏ではなく、どこまでも深く続く夢の階層という設定を提示した。これで話が相当膨らんでいます。複雑化したとも言えるので、そういうのが苦手な人は大変かも知れません。いくつもの層に分けたので、その分広がりあるビジョンを提示できるのです。雪山のシーンなんてその典型で、普通この話で雪山なんて出てこないんです。でも、そこは夢の特性である「なんでもあり」を利用しているのであって、アクション映画の快楽をも与えてくれるのです。

 夢の中で夢を見る、というのは、「この現実も夢である」という認識を持てば、十分にイメージできる話ですね。で、ここがまたすごいことに、互いが互いに作用を与えているんです。現実に近い層で事故が起きると、深い夢の層でも衝撃を受けるのです。そうした空間的影響もさりながら、時間的差異も面白い。この映画では階層ごとに時間の流れが違う、ということになっていて、現実の数分が夢の中の何時間、その夢の中での何時間がさらに深い層では何日、みたいになっているのです。それによる映像的快楽も、ふんだんに用意されています。

 もちろんね、先述の通りね、「なんか都合のええ設定やな」とかね、あるかもしれません。でも、そこは別にどうでもいい。終わり方の切れ味なんかも含めて、非常によくできている。そもそも、人の夢に入ってうんぬんという設定が荒唐無稽なのだから、細かいことはいいんですよ。『ミクロの決死圏』みたいなもんとも言えましょう。第一、これは映画なのです。映画ってのは現実に起こらない荒唐無稽の連続なのです。そして、映画を観ている間、ぼくたちはいわば現実に何もしていないのであって、その意味では現実を預けているとも言えるのであって、つまりはぼくたちもこの映画の夢の中にいるようなものでもあり、ラスト近く、飛行機内における連中のぼんやりと目覚めた様子は、映画を見終えた我々そのものでもあるのです。なんてことをほら、いろいろ言えるわけじゃん。それって、いい映画の証拠なのさ!

 実際観てみないことにはイメージを掴みにくい映画かもしれません。実際、鑑賞中もぼくはいろいろ整理しながら観ていました。そうでもないと置いて行かれそうでした。見終えて疲れる、ということもあるかもしれませんが、楽しめた場合には格別の興奮状態を得られるとも言えましょう。考えながら観ますからね。頭からっぽで楽しみたいときは、やめておいたほうがいいでしょう。歯ごたえのある映画を観たいときは、ぜひお薦めと言えましょう。ラストの切れ味も、いいですね。
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おもしろさは知名度や製作費で決まらない。バラエティにおけるその好例。
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 今回はちと趣向を変えましてお笑いのDVDです。
 伊集院光という人は、こと地上波テレビのお笑いにおいては目立たない存在です。あまたのお笑い芸人が割拠する中で、彼は爪を隠しています。これはもう明確に、爪を隠しているのです。ではどこでその鋭さを発揮するかと言えば深夜ラジオ、そして、こうした自己プロデュースの番組においてなのです。このDVDはBS11で放送されていた『伊集院光のしんばんぐみ』の一企画をソフト化したもので、他にも数枚がリリースされています。その中でも特に面白い企画がこれ。お薦めです。
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 出てくるのはほとんどテレビに出ることのない若手芸人です。現在も放送中のMXテレビ『IJP イジュウインパーク』、あるいはかつての『月刊イジューイン』、もしくは『深夜の馬鹿力』の2006年のポッドキャストを聴いていれば知っている芸人もおりましょうが、普段テレビのお笑いしか観ない、いやテレビのお笑いすら観ない人には、まったくなじみのない芸人が主役です。面白いのに、『アメトーーク』とかには呼ばれない芸人たちが主役です。
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 さて、企画内容ですが、タイトルにもあるとおりの野球ものです。ノッカーがボールを打ち、内野守備陣がダブルプレーを成功させればそれでオーケー、というシンプルな話です。チャンスは10球、芸人たちは普段から草野球に勤しんでおり、決して難しいプレーではありません。野球の企画としての明快さは、試合をしてうんぬんという類のものよりもはるかに上です(野球を知らない人に対しても、そこは丁寧な伊集院、ちゃんとルールの解説が入っています)。
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 しかし当然、条件的な縛りがあります。ゲームに参加する若手芸人の中にはスパイが二人紛れ込んでいて、彼らはダブルプレーを成功させないように仕掛けてきます。ダブルプレーを成功させれば守備チームの勝ち、うまくそれを阻めばスパイチームの勝ち、というわけです。スパイが誰なのかは当然、当人たち以外にはわかりません。プレイヤーたちは皆、互いがスパイではないかと疑いながらプレーを続けます。単にミスを犯しただけなのに、おまえは成功を阻むスパイではないかと、疑ったり疑われたり。疑心暗鬼が繰り返されてぎすぎすしていく、というわけです。
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 今、バラエティと言えば複数のコーナーに仕切られていたり、あるいは大きな企画ものでも「○○に何ヶ月密着!」とかやってみたり、どっきりを仕掛けてみたりなんてのが多いですが、この企画は違います。いたってシンプル。金もかかっていない。そこにいるのは踊らされる若手芸人たちと、言葉巧みに彼らを操る伊集院光だけです。伊集院という人は、実は若手をもてあそぶのが大変上手なのです(IJPを観ましょう)。
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 バラエティはごちゃごちゃしていて観る気がしない、うるさすぎる、という人も敬遠無用です。むしろこれは、ひとつのドキュメントあるいは物語としても、楽しめるのです。というか、「あたしお笑い好きだけど知っている芸人がぜんぜんいないじゃん! 面白くない!」なんてやつは観るな! 『アメトーーク』とか『リンカーン』とかを観て洟を垂らしていろ!

 勝つのは守備チームか、スパイチームか、もちろんここではばらしませんが、ひとつ言うとしたら、「あざやか」です。これはあざやかです。あのバラエティはすごかったよね、と言えるDVDであることを、保証しましょう。あるいはこの言い方だといろいろ連想させそうで嫌なのですが、「振り返ってみればすべてがうまく運んでいたね」ということも言えましょう。伊集院が仕掛けたゲームですが、当然グラウンド上で起こる偶然の連続までは彼も制御できません。若手たちの話す言葉までは押さえられません。そして最終的に、そのすべては、とてもうまく運んでいる。同じことをもう一度やれと言われてもできない、というくらいに。

 あまりハードルを挙げるのも禁物です。バラエティは気軽に気楽に観てなんぼですから、ぜひとも肩の力を抜いて観てほしいですが、お笑いのDVDを薦めるとしたら、ぼくはこれを挙げます。
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言うてもこれは伝説の共演なり。
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勝新太郎×三船敏郎という、俳優界の王・長嶋みたいな企画です。考えるにこの時代というのは生ける伝説のオンパレードですわね。王、長嶋も現役だし、猪木・馬場もいるし、他にも挙げていけばいろんなジャンルですごい人が群雄割拠なのでしょう。あと手塚治虫も現役ばりばりですしね。大阪万博があったのもこの年ですし、なんか、すげえなあ、と思います。もちろん当時と比べものにならぬほど技術は進んでいるのだから、当時の人々から観れば現代のネットとかはとんでもないものなんでしょうけどね。技術は進んだけど、アイコンは小さくなっている時代です。カリスマなんちゃらというワードが氾濫していますけども、昔本当にカリスマ的な人物が溢れていた頃を思うと、ちゃんちゃらおかしいのですわね。

 さて、勝新と三船の共演、それも大人気シリーズ『座頭市』に黒澤印の用心棒がやってきたわけですから、話題を呼ばないわけがありません。大ヒットだったようです。やっぱりどちらにしても、出てくるだけでこちらをときめかせます。勝新がそこにいるだけで画がずっと保つわけです。それにしても勝新にせよ三船にせよ、やっぱり怖いです。こんなに怖い役者というのはもはやほとんどいないです。共演した俳優は大変だったでしょうね。監督は岡本喜八と来てこれまた超一流ですから、もう絶対NGを出せなかったでしょう。老練な俳優ならまだしものこと、若手でやっと台詞をもらったような役者であれば、がくがく震えたに違いありません。
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 格好いいとか華があるとか以上に、こちらを畏怖させる俳優というのはすんごい境地でしょう。今も存命、現役の映画人で言えば、たとえば高倉健なり、海外ならイーストウッドなりがいますけども、どこかこう、ジェントルというか、実直で真面目で、ちょっとしたユーモア心もあって、みたいなイメージがあります。しかし勝新、三船はなんか、そんな感じがしないです。あくまでも根拠に乏しいイメージ語りですけど、この二人は怒号だけでひとつの街を制圧できそうな、圧倒的な存在感があるのです。怖いのです。

 で、これは座頭市シリーズの大きな演出的利点だと思うんですけど、市がめくらであるという設定が、緊張感を持続させるのですね。勝新が歩くだけで緊張させるんですよ。目が見えない男が歩いている、それを見るだけでも危うさに緊張するし、そのうえ彼はいつ襲われるかもわからない。そうやって観客をずっとどきどきさせ続けるわけです。

 そういうところに三船が絡み、そして若尾文子まで出てくるから、おなかいっぱいになります。この三人がいるシーンでNGなんか出そうものならもう土下座土下座でしょう。
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 で、映画の内容ですけども、まあ要するに座頭市が黒澤明の『用心棒』の中に入り込んでいるようなもんです。宿場で対立する二大勢力があって、うまく焚きつけて消耗させ漁夫の利を得ようって話になっていき、主人公たちは街の争いとはまた違う場所で、火花を散らすというわけで。かなりがっつりと勝新、三船の共謀、対立を描いていますね。本当にこの二人ありきの企画です。

 でも、だからこそ、ストーリー的にはそこまで面白くなかったです。誰と誰の対立がどうの、という部分がなんだかぼやぼやしているというか、鮮やかじゃなかった。斬ったはったの場面ももうひとつ盛り上がりに欠けたなあという印象です。岸田森の立ち位置もなんだか活かされきっていないというか、盛り込みすぎなのです。だから、映画全体を通して言うと、「勝新と三船の共演! 岡本喜八が監督! 若尾文子もいるよっ!」という豪華さがいちばんなんですね。それ以上のものが映画の中にはないのです。料理で言うと、名産の旬の食材が揃っているんですけど、それぞれが食材のうまさを出しているんですけど、いざ料理としてどうやねんというたときに、別のこの食材はこの調理法じゃなくてもいい、と思えてしまう。このソースでも確かに美味しいのだけど、違うソースでも行けそう、というか別のソースのほうがいいかも、みたいな。

 前半は豪華さでわくわくして、中盤はちょっとたるいです。あちらこちらに種がまかれるんですけど、動いてはいるんですけど、見せ場に乏しいんです。三船が火事を起こそうと殴り込む場面なんかも、もっとなんかないんかい、盛り上がるようなことは、と思ってしまう。ただ、クライマックスはちょっと面白い。いろいろごちゃごちゃになっていくんですが、そのときのBGMで、お経みたいなのが流れます。あの揺らぎの怖さはありますね。あのBGMは効果を上げました。それまでのくだりが実際それほどに感興をもたらすものではない、どうでもええやんけな部分もあったんですが(細川俊之と滝沢修に岸田森が絡んでいくあたりとか)、あの読経でぐっと、「人の業」みたいなものを色濃く魅せました。あの演出はいいですね。ホラー映画とかでも取り入れればいいと思います。これをぱくる分にはかまわないと思います。

 最後に三船と勝新が決闘じゃい! みたいになるんですけどね、そこは無理矢理感がありました。観ながら、「なるほど二人は宿命の戦いを果たすのだな」とは見えなかった。若尾文子の使い方ももうひとつでした。

 とはいえ、伝説的名優の共演ですから、観る価値は大ありです。ジャニタレや女優気取りのモデルがへらへらきゃぴつくドラマには、到底真似ができないものです。
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クールな恋愛と甘い失恋。これくらいがちょうどいいのであろう。
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 原題は『(500)days of Summer』で、「サマーの500日」ですが、邦題はなぜひっくり返したのでしょうか。何か意味をこめたのでしょうかね。サマーというのは登場人物の女性の名前です。サマーという女性に惚れた男が主人公のラブストーリーです。

 ラブストーリーです、と書きましたが、脚本家は冒頭で、「ラブストーリーじゃない」と言明します。なんでも実体験のふられ話をもとに創作したらしく、かなり思い入れがあるのでしょう。「ラブストーリーなんて、そんな甘いもんじゃねえんだ、俺にとっては」みたいなことなのでしょうか。

 そうは言いつつやっぱり客観的に分類すれば恋物語です。でも、これをデートムービー的に観るとあまり楽しくないでしょうね。少なくとも大学生カップル風情、特に男のほうが映画通気取って二人仲良く観たりしたら、鑑賞後なんとも言えぬ気分になったりして、ろくろく感想もまとめられず、「洋服がかわいい」とかそんなことなんかを語るほか無いでしょう、アホみたいな顔で。
  
技法としての面白さは大きく、それで飽くことなく観られたという感じです。主人公トムがサマーを見つめて過ごす500日間なのですが、時間が前後に行ったり来たりします。めまぐるしく過去と未来に移り変わっていき、観る側に小さな刺激を与え続けるのです。たとえばこれが時間経過通りに進んでいたら、ぼくは途中で観るのをやめていたかもしれません。別にそんなに変わったことも起こらないカップル話ですから。でも、ワンシーンに拘泥せずにちゃっちゃちゃっちゃと思い出を駆け巡っていくので、なかなか楽しい感覚を得られます。
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 時間軸ばらしもの(たとえば『現金に体を張れ』とかタランティーノ初期作とか、日本映画だと内田けんじとか)の面白さとも違います。あれは複数の人物がばらばらに動いて、ああ、ここがこう繋がるのか、という話ですが、そういうものでもないですからね。人が己の過去に思い巡らすとき、それは決して時系列順ではない、というのを本作はうまく表現しています。いくつもの出来事の連想が絡まり合って、ぐちゃぐちゃになりながら頭の中をぐるぐるぐるぐる、というのが記憶であって、その記憶の形状をうまく落とし込んでいるからこそ、このように楽しい映画になったのでしょう。短い期間でありながら、山あり谷ありの長い人生と見えてくる。二時間という尺に見合っている。
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 技法的な快楽で言うと、あのスプリットスクリーンですね。現実と妄想を二画面で同時進行させるのですが、微妙な違いが面白い。その中でも、入り口でのやりとりがいちばん見物でした。パーティにやってきたトムをサマーが玄関で出迎えるのですが、妄想の世界では入り口で長々とむつまじく立ち話をするんです。でも、現実ではさらっと中に案内される。そのとき、現実と妄想の進行が合致するんです。ううむ、言葉で説明するとちょっと長くなりそうです。まあ、観てみるといいでしょう。スプリットスクリーン自体は好きな技法ですが、今まで観た中でもいちばんくらいにうまく活用している気がしました。二つの出来事を同時進行的に描くのがスプリットですが、それを現実と妄想で描いたのは、コロンブスの卵です(何か前例があるのかもしれません。教えてください)。

 さて、中身についてですが、これは男女で分かれるのでしょうねえ、見方が。ただ、この映画はあくまでもトムに寄り添い、ずっとトム目線なのであって、サマーの気持ちがぜんぜんわからないようにできています。男のぼくからするとそうなのです。だから自然とトムに感情移入できるのであって、その辺のつくりもうまいです。で、トムの設定もいいですね。グリーティングカードの会社でコピーを考える仕事で、仕事もちゃんとやっている。普通に、うまく生きているぼんくら。これはこれで汎用性の高い設定です。トラヴィスやロッキー、パプキンやサンフンに魅せられてきたぼくからすると距離があるんですが、こういうトムみたいなやつもいっぱいいるでしょうからね。だから実は大学生の頃に観るといいかもしれません。なんとなく、世界も世界観もほわほわしている頃に観ると、何か感じ入るものがあるかも知れません。

 うん、基本的には結構距離を置いて見続けました。というのも、サマー役を演じたズーイー・デシャネルがぼくの好みではぜんぜんなかったからであって、その点はトムに移入できなかった部分です。これが好きな女優だったりしたらもっと気持ちが入って観られたんでしょうけどね。トムの傍に寄り添うけど決してトム自身ではない鑑賞者、ぼくとしては、「なんであんな女にそこまで入れ込むのだ?」とも思うし。でもまあこれはこれでリアルですからいいです。うん、美人度がリアルなレベルです。

 で、これがまた汎用性の高い部分だと思うんですけど、そんなに入れ込んではいないんです、実は。やっぱり愛は狂ってなんぼだ! 狂い、溺れ、壊れ、その窒息感こそが醍醐味なのだ! という極端な恋愛観を持つぼくとしては、この映画を観ると、ああ、うん、その程度なんだろうね、その程度で幸せと不幸をかみしめて生きていくのだろうねとも思ってしまい、「微温やのう」と呆れる部分もあります。でも、なるほど世間で言う恋愛とはおそらくこれほどのものだろうな、と勉強になります。狂ってはいけないのです。仕事に恋に、きちんとやらねばならないらしいのです。

 ちょっと村上春樹っぽい感じもするんですよね。うん、村上春樹との親和性は高いかもしれないです。トムはこの後の人生でも、勝手に酔いますから。サンドウィッチとかをつくるでしょうから。
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 冒頭、脚本家が実際の元恋人にぶつけるような言葉として、「Bitch!」と出てきます。つまりこの映画におけるサマーは、ビッチな存在として描かれているのでしょう。でも、ぼくにはビッチというのがよくわからないです。小悪魔、悪魔的な部分があるのでしょうか。だとするとそれは薄い気がします。ああいうもんやろ、とも思うし。でも、ひとつがっかりしたのは、ラスト近くのサマーの台詞です。サマーは結局トムを振るのですが、そのすぐ後で別の男と結婚するんです。そのきっかけをトムに問われると、サマーはまったく馬鹿みたいなことを言うんです。
 要は出会ったきっかけはナンパなんですけど、それを「運命だ」みたいに言い出すのです。ちょっとでも遅れたり、別のカフェに行っていたりしたら出会わなかったかも知れないのに出会ったの、会うべくして出会ったのよみたいなことを言うんです。ビッチとかじゃなくて、ぼくはこのサマーのあっさい運命観に心底がっかりしました。ああ、こんなに馬鹿なことをいうやつだったのか、という徒労感がきついです。でも逆に、ああ、こんなに馬鹿なことをいうやつだったのか、くだらん、ふっきれるわ、とも思いますから、癒し効果もあります。
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 これはいろいろ語りがいがある映画です。まあ、基本的にぼくにはどうでもいいですけど。中途半端なようですが、まあ、こんなところで。
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後悔しない生き方のために。
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 バート・レイノルズ扮する主人公は元アメフト選手。車を強奪したかどで、刑務所に服役することになります。収監された先の刑務所所長は大のアメフト好きで、部下である看守たちにチームを組ませるほど。所長に注目された主人公は、囚人たちでチームを作るよう命じられます。看守対囚人でアメフトの試合をさせようというわけです。
 主人公は腕っ節の強い囚人たちを口説いて回り、本番に向けた練習を開始します。アメフトに打ち込む主人公の顔は晴れやかで、集まった仲間たちも日頃の憂さ晴らしを求めて練習に励みます。看守をぶちのめせるまたとない機会に、囚人仲間は躍起です。
ところが、来るべき試合にはある大きな特徴がありました。
 所長は主人公に、囚人でチームを構成せよと命令しました。同時に、刑務所としての威厳を保つべく、こうも命じていたのです。
「八百長で負けろ」
「もし負けなければ、いくらでも刑期を延ばしてやるからな……」 

 高圧的な看守たちと、憤懣を溜める囚人たちの戦い。体制への反抗がわかりやすく描かれたアメリカン・ニューシネマです。閉鎖空間での戦いという点では『カッコーの巣の上で』『暴力脱獄』とも通じていて、主人公の訪れが周囲に賑わいを与えていくのも似ています。バート・レイノルズがまた男前なのです。「古い洋画の男前」は映画を観るときの重要な醍醐味のひとつです。

 映画の醍醐味、ということでいうと、宇多丸さんいうところの「ホモ・ソーシャル感」。出てくる女性は一人だけで、あとは全員男という状況。これはこれで映画的に盛り上がります。もちろん、女性が出てきて楽しいな、というのもありますけれども、男だけの物語というのもいいものなのです。これがイケメンだのホストもどきだのばかりだったら最低ですけども、出てくるのはいかにも囚人風情の小汚い連中、乱暴そうな連中ばかりと来て、とても楽しく観られます。囚人が囚人然としていると、看守との間に緊迫感が生まれて大変によろしいですね。看守と囚人が織りなす物語の強みはそこで、学校における教師と生徒の間には生まれ得ない緊張した雰囲気が出てきます。それがこの映画の気持ちよさの大きな要因でしょう。

 一人一人強者をスカウトしていく、というのも楽しい。やっぱりね、『七人の侍』でもそうですけど、強者たちがどんどんと集まっていく、最終的に大きな力になる、という構造は観ていて気持ちがいいんですね。RPGでもそうですけど、仲間が続々と増えていく、というのは観ていて単純にわくわくします。また、これは物語における「爆弾」の仕込みポイントでもあるんですね。仲間を増やしていくと、その分リスクも高まってくる。リスクの入れしろが多くなって、これまた緊張感に繋がります。

 後半、かなり長い尺をとってのアメフトの試合なんですが、これについてはルールがわからないとさっぱりついていけません。どうなると得点がどのように入るかわからなくて、ここは完全にアメリカ人向けです。しかもどのショットもほとんど引きの画、スポーツニュースで観るような画なので、映画ならではと言えるようなカットは少ないです。精々が選手の表情や円陣の繰り返しです。アメフトのことが何もわからないぼくには、正直ぴんと来ませんでした。サッカーだったら一発レッドになりそうな反則なのにぜんぜんそうなっていなかったりするので、何なのやという気分になります。相手の股間にわざとボールをぶつけたり、殴り倒したりしてもぜんぜんおとがめ無しなのです。仕掛けた側は「痛めつけてやったぜ」としたり顔なのです。こうなるとさらに見方がわからない。しかも、これはどうも、スポーツマンシップ的にどうなのや、というのもあります。そんなんじゃなくて、純粋に勝つことが大事なんじゃないのか、と言いたくもなります。だからね、これはね、もしリメイクされることがあれば(既にされているようです。未見です。)、囚人にはファイルを一切犯させないクリーンなプレイをさせるべきでしょう。無論、あらくれの囚人がおいそれと承伏するわけがないんですが、そこを説き伏せるわけです。
「下手に乱暴をすれば後で報復を受けるぞ。ここはフェアプレーで勝つのがいちばんの報復なのだ」
みたいなことを主人公に言わせてね。そうすれば主人公の葛藤がより色濃くなるでしょう。

 総じて言うと、2時間、ほぼ飽くことなく観られるし、アメリカン・ニューシネマ的な切なさもあって大変よい。あの後、選手たちや主人公がどのような末路をたどるのかを想像すると切ないし、所長に反抗した懲罰として、30年間刑務所にいるというじいさんの言葉も素敵なんです。
"That time you hit Hazen in the mouth, was it worth it? Was it worth 30 years?"
「所長を殴るだけのことはあったか? 30年でも」
"Yeah. For me it was."
「後悔はしてないよ」

和訳がこれまたいい感じです。

 ただ、囚人ものについては、どうしても一歩引いてしまうところもありますね。やっぱり囚人は悪者は悪者ですから。それこそ人殺しだの何だのをした連中なのであって、彼らに無邪気に感情移入して、看守を敵みたいに観てしまうのは危険なんです。映画では彼らの過去は描かれないし、主人公の罪も緩いものになっているけど、あの仲間たちはそれなりにひどいことをしているはずなんです。だからこの映画を好きになって、この映画の登場人物についてとかいろいろ考え出すと、本当はそれほど共感できないんじゃないでしょうかね。感動的な場面に出てくる囚人が、実は強姦魔、放火魔、殺人鬼だったなんてことになったら、それはもう今までほど応援できなくなるでしょう。

 とは言いつつ、主人公の決断はやっぱり男前で、自分ができるかと言われればできないだろうなと思いますね。うん、絶対できないです。あの決断をどう見るかだけでも、語りがいのあるテーマです。ひとつの映画としても、アメリカン・ニューシネマを眺める上でも、観ておくべき一本でありましょう。
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