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埋もれたる名作です。 
 さて、今日は映画ではなく、隠れた名作テレビドラマについてご紹介。ぼくは2004年放送の大河ドラマ『新選組!』以降、新しいテレビドラマというものをほとんど観ていないのですが、かつては故・田中好子さんが母親役を務めた『家なき子』に目頭を熱くし、三谷幸喜に惚れ、『踊る大捜査線』に胸躍り、その他数々のテレビドラマを観て育ったテレビっ子ちゃんだったのです。

そんなぼくが、世間ではとうに忘却されたドラマを二本、ご紹介しましょう。
『今夜、宇宙の片隅で』
脚本:三谷幸喜 演出:河野圭太、佐藤祐市  フジテレビ 
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 98年の夏に全12話で放送されました。
 あらすじを話すと長いのですが、舞台はニューヨークで、西村雅彦、飯島直子、石橋貴明がメインキャストです。毎回出てくるレギュラーは彼らに加えて梅野康靖、たった四人だけ。あとはちょっとだけ外人が出てきたりするくらいで、今思ってもなんともこじんまりしたドラマでした。舞台設定もこじんまりとしていて、ニューヨークのロケ場面もそれなりに出てはきますが基本的にはアパートの中。メインの三人がひとつ屋根の下で暮らす恋愛劇です。西村が飯島に恋をするのですが、そこに石橋が絡んできて悶着。奥手で不器用な西村と、女の扱いがうまい石橋。飯島直子をめぐって恋の火花が散るわけです。
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 DVD化されておらず、ネットでVHSを購入しましたが、やっぱりいいのです。これがDVD化されずに糞どうでもいいドラマがばかばかリリースされているのは哀しい限りです。これは海外に輸出しても十分受け入れられる出来なのに。何がいいって全部いいわけですが、西村雅彦の名優ぶりが最もいかんなく発揮されているドラマであろうことは疑いようありません。彼の愚かさ、不器用さ、情けなさ、実直さに胸打たれること請け合いで、ぼくのような人間は特に思い入れるのです。いろいろと映画、ドラマ、本などに触れて思うのですけれども、つくづくぼくは駄目な男、愚かな男、その無様さに惹かれるのです。そしてその無様な人間が、なんとかして自分を実現しようとする様に、撃ち抜かれるのです。だから逆に何もかもうまく行っている人には観ないでもらいたい。
 飯島直子の最近の活動はまったく知らないので今どんな感じかわかりませんが、日テレで深夜にやっていた『DAISUKI!』も好んで観ていたぼくとしては、好ましいキャスティングでした。このドラマに見合ったいい具合の安さがあったんです。絶世の美女、いかにもヒロインという類の清楚系、そういうスター性とはまったく違う等身大な魅力で、コメディエンヌとしての飯島直子を観るにはこれより他にないと言っていいでしょう。少女らしさを帯びながら大人の女性の部分も見せる。このキャラクター造形は三谷幸喜の描いた女性像の中でも最高です。ああ、なるほど女性とはこのようなものであるなあ、と思わされます。石橋貴明の存在感も最高です。イケメンというのとは違うんですね。これでイケメンが出てきちゃ駄目なんです。悪さと強さとひょうきんさを兼ね備えた大人の男、しかし大人になりきれぬ部分も抱えている。
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 男二人と女一人という構図は昔からたくさんたくさんつくられていますが、観てきた中でこれがいちばん。VHSが物流の表舞台から消えて久しく、観るのは困難となっていますが、どこかで見かけることがあったら必ずチェックしてほしい作品です。

『愛なんていらねえよ、夏』 
脚本:龍井由佳里 演出:堤幸彦、今井夏木、松原浩 TBS 
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 02年夏に放送されました。金曜夜10時枠と言えばTBSの花形で『金曜日の妻たちへ』『ふぞろいの林檎たち』『ずっとあなたが好きだった』『高校教師』『人間・失格』『聖者の行進』『ケイゾク』『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』など新旧に渡り名作、話題作を生み出していますが、本作は視聴率的には芳しくなく、平均が7.8%、最低時には4.2%を記録するなど数字に恵まれないドラマでした。
 演出はと言うと、『恋空』を監督した今井夏木、そして映画好きの中で悪名高い堤幸彦がメインです。こうなるとあまりよさげに思えないかも知れませんが、ぼくはこのドラマ、(そして『池袋ウエストゲートパーク』など)があればこそ、堤幸彦を心底では嫌いになれないのです。彼はドラマ監督としては間違いなく一流と言っていいのです。もしも周りで宇多丸さんや町山さんなどの評価に乗じ、「堤幸彦は駄目だよねえ」という会話になったら、「いや! ドラマはすごいんだよ!」と擁護してほしいと思います。
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 さて、内容ですが、渡部篤郎と広末涼子が主演です。連ドラにはあまり出ない藤原竜也も出ています(彼の出る作品はあとは映画『バトルロワイアル』、と大河の『新選組!』が大好きです。結構いい作品に出ていますね)。渡部は歌舞伎町ナンバーワンホストなのですが、ふとしたことから逮捕され、刑務所に入れられます。出てきたときには既に新しい勢力に街を奪われ、あげくにそれまでの悪行から恨みを買い、他人の借金を十億ほど背負わされます。それを返さないと森本レオとゴルゴ松本に殺されることになっているのです。さてどうしたものか、彼を慕うホストの藤原竜也にも助けを借り、一計を講じます。広末涼子扮する良家の娘がいるのですが、彼女の生き別れの兄と偽ってその家に潜り込み、財産を総取りしてやろうと目論んだのです。幼い頃に生き別れたため、周囲の人間も嘘だとは気づくまい。好都合なことに本当の兄は死んでいる。ふふふ、歌舞伎町で鳴らした俺だ、世間知らずのお嬢様なんていちころさ。そう思って乗り込んだのは大きな屋敷、そして広末涼子。しかし、想定外の事実が彼の前に立ちはだかります。「感動の再会」を演ずるつもりでしたが、広末は盲目で、まったく他人に心を開こうとしない人間なのでした。
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 これはDVD化もされていますし、『今夜~』よりは入手しやすいでしょう。
 大変にダイナミックな作品です。設定自体が古典的というか、むしろ古い時代のほうが成立しやすいような話ですね。ちなみに韓国では映画化されているようですし(観る気にはなりませんが)、物語としての起伏に富んでいます。というか、細かいところはさておくとしても、連続テレビドラマという形で、これほどに鮮やかな「反転」を行っている例を他に知りません。なんでこのドラマがぜんぜん評価されなかったのだ、されないのだと腹立たしいくらいです。渡部の喋り方は真似したくなります。森本レオのイーブルとしての立ち位置も格好いいです。脇を固める俳優陣は坂口良子、半海一晃、不二子(当時芸名:松尾玲央)、西山繭子、石田えりなどですが、誰一人欠けることなく全員いいです。
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 撮り方にしても、フジテレビ的トレンディさ、NHK的端正さ、テレビ朝日的古くささ、日テレ的子供っぽさと違って、TBS金曜十時枠の放つ湿っぽさがあります。夏のロケシーンが多く、ああ、まさに夏の作品であるなあ、と趣深い場面もたくさんあります。広末が「お兄ちゃん」を連呼するので、そういう呼びかけが好きな人にもお勧めです。

 ゴールデンウィークにどこも出かける予定がない、という人は、せっかくですから連続ドラマをまとめて観てみるのもいいでしょう。上記二作品はその中で断然のお薦め。昔は面白いドラマがたくさんあったことよなあ。
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映画の話もせずに、別に詳しくもないのに、スポーツの話。
 たとえば特に野球なんかで誤審が起きると、決まって「ビデオを導入しよう」という声が上がる。なるほど確かにビデオを用いれば、万人に疑うところのない結果が映し出されるし、万人が納得する判断が可能だし、それゆえにスポーツの公正さはより向上される。
 
 さて、それならばビデオを導入すべきなのだろうか?

 この問題を突っ込んで考えると、その人の社会観まで見えてくる。人生観とまで言えば、やや大げさかも知れないけれどね。

 ビデオを導入すべきだと考える人の論拠は、大方が上に述べたとおりだろう。むしろなぜしないのか、不思議なくらいだとまで思うだろう。不利益を被る人がいるとすれば審判くらいで、もちろん審判の人たちの仕事も大事かも知れないけど、でも誤審が起こるくらいならビデオを導入したほうがいいじゃないか、とこういう話になる。

 そうした主張を行う人の考えは、「誤審は絶対にあってはならない」という意見がその根本にある。すべからく審判は正しく行われるべきであり、誤審はゼロであるべきだというわけだ。

 確かにその通りだ。誤審はないほうがいい。でも、ところで、「誤審」とは何なのだろうか。誤審が起こるのは、そもそもなぜ行けないのだろうか?

 いろいろと例を挙げたり寄り道をするのも面倒くさい。結論から言おう。なぜ誤審が起こってはいけないのか? それは要するに、「誤審は不条理」だからである。明らかにセーフなのにアウトと言われるのは不条理、ストライクなのにボールというのは不条理。ルール=条理が機能していない不条理。選手の精一杯の努力が裏切られる不条理。正しい判断を下すプロのはずの審判が間違うことの不条理。

 ビデオを導入することによって、この不条理は一掃される。
 では、その一掃は果たされるべきなのだろうか?

 こと日常社会においてもまた、不条理は好ましくない。できることなら不条理なことはあってほしくないとぼくも思う。不条理なニュースを観るとやるかたない思いになるし、身の回りで起こる不条理にも幾度も肩を落としてきた。

 ただ、ひとつだけわかる。今後の人生から不条理を一掃させることはできない、ということだ。人間の思考自体が実に曖昧模糊としたものである以上、すべてが条理によって正しく行われるなど信じられない。そしてもうひとつ思うのは、すべてが条理に充ち満ちて不条理の入る隙間が一分もないのだとしたら、それはさぞ窮屈な社会だろうということ。

犯罪のない社会がいいに決まっている。叶うなら犯罪などなくなればいい。でも、現実的に考えてそれは不可能だ。仮に、たとえ誰しもが善人で、罪を働こうとする人間がいない世界ができたとしても、人は間違いを犯してしまう。誰かの傘を間違えて持って帰ってしまったとする。これは故意でない以上「間違い」に過ぎないかもしれない。でも故意かどうかなんて本当のところは他人にはわからないから、結局は「窃盗」という罪と同じだ。罪のない社会では、間違いさえも許容されないのだ。そんな社会は、窮屈に決まっている。

話を誤審に戻そう。
 審判の判断を絶対とせず、ビデオを導入すべきだという主張はつまり、最終的には人間の判断など信用せずに無謬な機械に頼るべきだ、という意味で、グラウンド内のもめ事も結局はグラウンド外の判断に委ねろ、ということだ。条理は何よりも優先されるべきという思想だ。

 ぼくはというと、その思想が嫌いだ。
 審判は間違える。人間だからそういうことだってある。審判だって間違いたくて間違えたわけじゃない。誤審でいちばん心痛めるのは選手でもファンでもない。その審判本人だ。だから審判だって頑張って神経を集中させている。ほとんどのジャッジは適確だ。それでも彼らは褒められることがない。「審判よく見てましたねえ」と軽くさらりと褒められることはあっても、歴史に残る名ジャッジなんて聞いたことがないし、いつだって主役は選手たちで、ひとつでも間違えれば大いに叩かれる。ビデオにやらせろと言われる。

 だったらいっそのこと、エラーをした選手も追放すればいい。誤審が許せなくてビデオにしろというなら、プロともあろうのに簡単なエラーをする選手も許されるべきではない。そしてどうせだから、ストライクゾーンも機械ではかればいい。野球に関して常々思っていたことだけれど、ストライクゾーンはきわめて曖昧な代物だ。ホームベースの中心にセンサーをつけて、その真上に円の中心を設定し、半径何センチをストライクにするとかすればいい。それにすべてのアウトセーフに関して、毎回ビデオ判定をしよう。一秒前の出来事を完璧に覚えているのはビデオしかいないのだから、毎度毎度お伺いを立てよう。ぼくたちはぼくたち自身の判断をすら信用しないことにしよう。誤審を一切許さないってことは、そこまで厳密にやるってことだ。

 もちろん、書くまでもないけれど、ぼくは不条理を積極的に受け入れたいわけじゃない。司法の場ではいつだって、条理に満ちた適切な判断を期待しているし、ぼくが仮に冤罪に巻き込まれて、誤審でもいいじゃんとは行かない。でも、それはあくまで現実の社会での話。現実にはなるべくの条理を期待するけれど、その発想をスポーツの場に持ち込むのは気が引ける。スポーツの不条理くらいは、許容していたいと思う。
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細かいところも気が利いている、アメリカ映画変容期の傑作。
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ある意味でとてもタイムリーな映画を取り上げます。火星が出てくる映画だなと思っていたのですが、ところがどっこい、火星は一切出てこないのです。なんでだ! カプリコン1は宇宙へと飛び立ったはずなのに! と言いますのも、実は計画の失敗が打ち上げ前に発覚していたからです。でもいざやると言った手前それも公表できず、ならば火星に行ったように見せかけてやれ! というお話です。アポロ11号の月面着陸捏造論がもととなっているのでしょう。
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 アポロ11号はさておくとしても、ネットがなかった頃はこういうことが大なり小なり多かったのでしょう。世の中の情報をすべてマスコミが握っている時代であれば、マスコミが報道したことが「事実」として歴史に刻まれる。今でこそ「情報は吟味すべきもの」という時代ですが、そういう認識が緩かった時代が長く続いてきたわけで、一度広く流れてしまえばそれは拭いがたい「事実」となる。「闇に葬られる」とはよく言ったもので、生き方をまかり間違えば、まさしく探し出しようのない闇の最中へ、ぽいと捨てられてしまう。

 東電と記者クラブの話につなげようと思ったけど無駄に長くなるのでやめる。

 さて、『カプリコン・1』です。火星のセットを組み、火星に降り立ったように見せかけに成功、しかし、その宇宙船が帰還時に爆発(言葉で書くとややこしいのですが、一応打ち上げは実際にしているのです。でも乗るはずだった宇宙飛行士三人を離陸前に下ろしているわけで、無人機を飛ばしていたわけです。世間には有人探査機の火星着陸として発表しているので、嘘をついている形になります)。こうなってしまうと、ひとつ困ることが生じます。三人の乗組員が今も生きている、このことが明るみに出れば、すべて茶番だったことがばれてしまうのです。彼ら三人には、「科学の進歩の途上における、尊い犠牲」を演じてもらわねばならない。平たく言えば、「闇へと葬られる」必要があったのです。もっと直接的に言えば、「死んでもらわねばならない」のです。仮にそうでなかったとしても、二度と家族に会うことは許されない。社会的に、その存在を完全に抹消されるわけです。
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 なんてことだ! そんなわけに行くかい! というわけで乗組員は軟禁場所を抜け出して小型飛行機を強奪。荒野へと逃げ出します。さあ、彼らの運命やいかに。

 前回も書きましたが、アメリカの広大なる国土は「映画という作物が育つ最高の土壌」であります。観る前はSFを期待していたのですが、果ての見えないあの荒野を徒歩で挑めば宇宙に匹敵。生きるためにはスネークイーター!
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 主軸となるのは逃げ出した三人と、捏造に感づいた記者です。この記者は一人で真実を求めゆくのですが、彼にも闇の手が伸びます。車に細工をされ、ブレーキが利かない。このくだりは白熱します。この映画のいいところは、おかずとしてのアクションをしっかりと入れているところです。やっぱりなんだかんだ言っても、おかずのアクションは大事です。アクションというのはそれだけで人を引きつけるのです。思えば子供の頃、自分はウルトラマンになるに違いないと信じていた頃、カセットテープでテーマ曲をかけ、全身で躍動していたものです。仮面ライダーのエンディングでも、「見終わったから遊びにいこうよ」と友達に言われても、「いや、自分は将来仮面ライダーになるので、日課たるキック、パンチの練習を欠くことこれならない」として、エンディング曲をバックに飛び跳ねていました。

 アクションシーン、特に絶体絶命のシーンなどは、それだけで登場人物に感情移入させる効果があるのですね。その人物が確かにそこにいる、という感じがして、いつしか彼や彼女に入り込んで物語を進んでいくわけです。本作は随所にそれがあって大変満足しました。テンポもいいです。

 なおかついいのは、あの記者が捏造逮捕されるところです。FBIがやってきて、彼の家の小瓶に彼の目の前で麻薬を混入。そして「麻薬所持で逮捕する」とこういうわけです。これは最悪です。というか、こういう手を取られたら一切やりようがありません。単純な話、権力のある人間が敵をつぶそうとすれば、ただこれだけの手管でやれちゃうのです。検察のサイテーさが方々で言われますが、これはなんというか、もう絶対にやっちゃ駄目なことです。将棋を二手連続で差すようなものです(そんなレベルじゃない)。罪を犯す犯罪者は悪いですけど、もっと悪いのは正義面した人間が自分を正義にしようと無理強いすることです。そうすると正義がぐっちゃぐちゃになりますからね。
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 誰でも言えるようなことを言って先に進みます。
 
クライマックスはこれまたアクション漲る、手に汗握る名シーンです。政府や社会への反抗が70年代中盤までのアメリカ映画の鍵ですが、この映画はそれとアクションの快楽をつないでいてサイコーです。このあたりからアメリカ映画はSF、アクション全開方面の80年代へと連なっていくわけですが、その意味においていえばこの『カプリコン・1』は、アメリカ映画の変容期を表すような作品と言えなくもありません。大人の嘘、SF的未来の嘘を暴きながら、一方ではアクションも取り入れている。アポロ計画捏造論を地でいき、ベトナム戦争後の「アメリカの強さの失墜」(クライマックスではまさに「失墜」)を思わせながら、後々の「それでもやっぱりアメリカは強いのだ」的映画のごとく、空中をぶんぶん飛び回る。SF的未来を否定しながらも、やっぱりSFは面白い! という後々の作品が生まれていく。この時期のアメリカ映画は過渡期です。アメリカン・ニューシネマ、スピルバーグの台頭、『ロッキー』のアカデミー賞受賞、SFアクションの開花、充実の70年代を彩る名作として、お薦めするものであります。
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アメリカ×家族×ロードムービーの傑作
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 ドンパチ劇やらSFやらばかりを愛でがちになるぼくですが、意外とこういう映画のほうが楽しめたりもするのですね。それほど期待していなかったというのもあるのでしょうが、なかなかに考え抜かれた傑作でありました。タイトルからの先入観で、なんかあれでしょ、いろんなもめ事を子供が出てきて解決しちゃってみんなハッピー的なノリでしょ?と思っていたらそれを裏切られ、よかったこいつはよかった。

 アメリカ人一家の物語で、彼らのロードムービーがメインになっていますが、こういうのを観るとつくづくアメリカってのは陽気さを持っている国だなと思います。家族構成はというと、子供向けのミスコンに出ようと粋がる娘、「人生は勝つことが大事」と言い切る父ちゃん、歯に衣着せないおじいちゃん、一言も喋ろうとしない息子、自殺未遂をして精神を病んでいたおじさん、そして彼らをとりまとめる母ちゃんの六人です。六人中二人は間違いなく陰気なやつらなんですけど、おじいちゃんと孫娘が明るくて、個々の温度がうまく入り交じり、すごく心地いい雰囲気がバスの中にありました。
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 日本で同じことをやってもここまでからっとした空気ができないだろうな、と思うのは、ひとつにやっぱりロケーションです。西部劇がアクション映画というジャンルを、ひいては映画そのものを大きく育て上げてきたわけですが、その西部劇の土壌となったのはこの開けきった国土なんですね。前にも書きましたが、アメリカは日本にはない資源を持っているわけです。それはエネルギー資源とか何だとかも当然として、このだだっ広いロケーションそのもので、これは日本やヨーロッパが持っていないものです。抜けるような青空、という言葉がありますが、それを受け止める大地、があると、まさしく「サンシャイン」が一層の効果を発揮するわけでありまして、ここが日本映画に出せないところです。
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 この映画の美点は数多いのですが、平和すぎる旅路にならぬよう、無言の息子と自殺未遂の叔父を入れてきたのが大きいです。あれで小さな緊張感がずっと持続されるんです。何か問題が起きるんじゃないか? と観客は心のどこかで思い続ける。そして彼らに気を取られていると、意外と彼らは大した問題を起こさず、むしろグレッグ・キニア父ちゃんのほうが面倒くさかったりする。アラン・アーキンじいちゃんの磊落な性格もいいですね。彼が陰気な二人を笑い飛ばす力を持っている。
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 この家族の描きわけはとても勉強になるというか、見事だと思いました。序盤の食事のシーンの何とも言えない空気、その会話の中で、大体見えてくるんですね。互いの力関係だったり距離感だったり。なおかつね、母ちゃん、トニ・コレットに特異な設定を施さなかったのもええなあと思います。みんなひとくせあるんですよ、でもこの母ちゃんは違っていて、それらをとりまとめるきわめてニュートラルな存在にしてあるから、家族としてまとまっている。これね、母ちゃんもなんか偏った考えとか癖とか性格を持っていたらなんか、家族というよりも個性派集団みたいになると思うんです。でもそうじゃない。ああ、ちゃんとしている母親だな、と安心して観られる。すごく巧みなバランス設定です。
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 ワゴンを押す、というのもいいです。途中エンジントラブルみたいなことで車の発進がうまくいかなくなります。手で押して、ある程度加速させてからでないと動かないという設定を入れているんですが、こういうのをさらっと入れてくるあたりがいいですね。あれをやると、「みんなで進んでいる感」がわかりやすく出てくるわけです。映画にも動きが生まれるし、それを一度だけでなく随所できちんと描くのもいい。あとはあのクラクションのくだりが面白い。クラクションがアホみたいに鳴り続けているのはぼくの大好物です。あれは笑った。
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 ばらさないほうがいいこともあるからあえて言及しない部分もあるんですけど、「ああいうの」もね、なんていうか、なんていうの、ほら、ロードムービーってさ、言ってみりゃ人生の戯画的な側面があるわけですよ。行く先々でいろんな出来事にぶつかってそれでも前に進むっていうね、その中で「ああいうの」を入れてくるってのもね、ああ、人生のメタファやなあと思いますね。うん、まあ、何もかもうまく行くわけじゃないね、そしてもう戻れやしないよねっていう。観ていないとなんのこっちゃですけどね、「あ、この人をこうするかあ」というのがあって、ここも観客を一度しゃきっとさせる効果があります。
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 で、クライマックスは娘、アビゲイル・ブレスリンのミスコンですけど、ここの描き方もいい。序盤はこの娘が鬱陶しくて、あとあとこの子が盛大なミスコンできゃあきゃあみたいになったら最悪だな、と思っていたんですが、あのミスコンはしょぼさ加減が大変適度です。結構しょぼいんですよ。でもね、そのしょぼさがこの映画の魅力を際だたせていますわね。しょぼいからいいんです。そしてあのブレスリンの「腹出てるやん」な体型。そしてそしてあの落とし前の付け方、あれはサイコーです。黒沢清の『トウキョウソナタ』もいろいろうまく行っていない家族の話ですけど、あの映画の終わらせ方とはぜんぜん違います。あの映画はなんか知らないけど息子がピアノめっちゃうまくて大絶賛、でしょ。この映画は、まあ、あまりばらさない感じで書きますけど、『トウキョウソナタ』が生み出す興ざめな感じとは真逆です。ああ、ええなあって素直に思えます。変な格好つけで陰気くさく終わるんじゃなくて、この娘を輝かせるぞ俺たちは! 俺たちはおまえの味方だぞ! とはっきり思えました。最初はブレスリンが嫌いでした。変にはしゃいで鬱陶しく感じ、息子のポール・ダノと一緒の気持ちでいたのです。でも、最後にはみんな大好きになりました。終わり方も変なぐだぐたは一切なく、ぱしっと終わって文句なし。

 アメリカ家族のお話でこんなに楽しく観られた映画は久々でした。お薦めします。
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もやもやもやもや。
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宇多丸さんが『映画秘宝』で2009年ベストワンに挙げていた作品で、日本公開が長らく待たれていた本作は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、『ドッグヴィル』などを手がけたラース・フォン・トリアー監督作。アット新宿武蔵野館。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が好きだ、という人は結構多い気がします。特に女性の支持率が高いのではないでしょうか。そんなせいもあってか結構カップルの客が多くいましたね。『アンチ・クライスト』は内容的にはまったくのアンチ・デートムービーだったと見受けるのですが、アンチ・デートムービーこそマイムービー。どう受け止めていいやらもやもやの溜まる映画でございました。

 ここにも幾度か書いておりますが、ぼくはキリストよりも悪魔に惹かれる人間です。考えるに悪魔の本質は「悪」でも「魔」でもありません。そうしたイメージはもっぱらキリスト教徒によって喧伝されてきたわけで、言ってしまえばキリスト教を善とするために設定されたに過ぎない。あくまで一方的な印象付けです。
 では悪魔の本質は何かと言えばこれひとえに、「反抗」なのです。信仰に従わないもの。意思を持って抗うもの。自分の頭で、考えようとするもの。それが悪魔なのです。その意味においてぼくもまたアンチ・クライストな野郎であって、このタイトルを目にしただけで観に行きたくなったのでした。

 さて、いざ観てみると、思っていたのとずいぶん違いました。キリストとか悪魔とかっていうのはそれほど前面に出てきていません。でもこれは非キリスト教圏で生きてきたぼくだから思うのかも知れず、信仰する人たちにしてみれば十二分にアンチ・クライストな内容なのかも知れません。

 内容はと言えば、ウィレム・デフォーとシャルロット・ゲーブルの夫婦が、森に出かけておかしくなっていく話です。不注意のためにわが子を亡くし、深い失意の底に落ちた妻を救おうと、森へ行ったらさあ大変、という話です。冒頭の赤ちゃんを除けばこの二人しか出てきません。途中からずっと森の中です。

 監督が「自身が鬱病から立ち直るためのリハビリ」として台本を仕上げたらしく、『ドッグヴィル』『マンダレイ』的なテンポのよさとは対極にあり、だるいといえばだるいです。妻の想像を描いた森の中のシーンみたいなのがあって、「これはなんか意味があるんだろうしあとあとのフリとして効いてくるのかもしれないけど今この瞬間としては結構しんどい」というのがそこそこあります。ぼくの苦手なデヴィット・リンチっぽさも随所にありました。生き物のグロテスクさの切り取り方とか動物のシュールな配置とかはリンチ的だと思います。それがこっちになんか言ってくるのとか、それをじっと見つめるデフォーの表情とか。

 基本的な筋立てとしては、妻の精神を快方に向かわせようとしたのにそれが裏目に出てひどくなって、みたいな方向なんですけど、なんで妻が森を苦手だと言ったのかがまずよくわからないです。で、夫が「苦手だったらむしろ乗り越えよう」的なノリであれこれやらせようとするのもよくわからないです。正直に白状しますが、よくわからないところが相当にあるのです。「だから何なのや」というのもあります。

 ぼくは基本的に、構図があってその上を登場人物が動く、みたいな形が嫌いなんですね。やっぱりそいつらの人間的な部分とか、人情があってから行動してもらわないと気持ち的についていけなくなるんです。これは何々の象徴とか、何々の意味であるとかっていうのを聴けば、ふうむ、そうなのか、いやはや不勉強だったことであるなあ、とは思いますけれども、一方で、人間は象徴や意味を表すための駒なのかい? とも思うのです。

 人間くささ、みたいなもんをぼくはどうしても求めてしまうんです。この映画にそれを求めても仕方ないのかもしれないけれど、でも、それこそ宗教的なものってのは、ある意味でいちばん人間くさいものでもあるんです。何かにすがったり、それに振り回されたり縛られたり突き落とされたり。確かにこの映画は抱きしめあい憎しみあい傷つけ合っているんですけど、どうやってもむきだしになっていない気がしてならないんです。ああ、もうこいつらはこうなるしかねえなあという哀しさがないというか、ううむ、どうもしっくり来る言い方ができないんですけども。

 本作でよく言われるショックシーンがあって、その代表が女性器を切る場面です。モザイクがかけられて残念、とかいうけどそれはぼくはひとまずどうでもいい。ああいうのもね、ああ、こいつはそりゃ女性器を切るにいたっちゃうよ、と思えないと、ショックにならないんです。なるほど、映画を何十分と観てきたけど、おまえはそりゃその状況で女性器切っちゃうよね、ああ、でもそれは嫌だな、観たくないな、と思えなかったんです。エデンだのアダムだのイヴだの魔女狩りだの女性性嫌悪だの何だのと言葉を尽くせばいくらでも説明できるでしょうけれど、この映画を観て、「なるほどあんな状況なら女性器切っちゃうよ」と素直に率直に思える女性が、果たしているのでしょうか? 狂っていればオールオーケーなのか? 何かを象徴しているからいいのか?

 ……………いや、いろいろ書いたんですけどね、しばらく文章の続きを考えていたんですけど、いろいろ書いたくせに、そのうちもう一回観たくなるんじゃないかなって気はしているんです。なんというか、ちゃんとわかったうえで面白くないっていう感覚ではぜんぜんないんです。ちゃんとわかっていないな、という自覚があるんです。だからもっとエイガミレベルが上がってから観てみれば、おそらくもっと違う感想が出てくるような気がするんです。わからんけどおもろい、わからんけどがつんとくる、という映画もあるんです。そういう映画はすぐにもう一度観たくなるわけで、『息もできない』がそうでした。『アンチ・クライスト』はすぐにもっかい観たいわけではぜんぜんないけれども、そのうちまた観て、このもやもやを晴らしたいとは思うんです。こういう感触を与える映画はそうそうないです。事前知識なしで観たので、いろいろ考えをめぐらすのにやっとだったという感も否めず、受け止め切れていないということだけはっきりとわかるのです。

 自分にはこの映画がよくわかったぞ! という人にはぜひ教えを請いたいものです。教えてくれた人には些少ですが「100ナニサマ」ほど差し上げます。なお、100ナニサマは持っていても使い道はまったくないので、その点はご了承ください。
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