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再見しても、やっぱりぼくにはわからなかった。
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2年以上前に一度取り上げたのですが、そのときとは違うバージョンで再見。ダリオ・アルジェント監修版のDVDが安値で売られていたので買いました。米国劇場公開版とか日本公開版とかディレクターズカットとかいろんなバージョンがあるようで、マニアックの人たちは細かな違いを確認しているようですね。『映画秘宝』でもオールタイムベストワンだし、これを愛でる人々はエイガミ界に多数いらっしゃるわけです。

映画を観た数は2年前より単純に増えているのですが、今回もやはりそれほど愛でられませんでした。ぼくはこの方面についても鈍いようです。エイガミ界では半ば「愛でて当たり前」くらいのトーンで崇められているようにも思うのですが、遅れてきた世代のぼくとしては、その信仰に浸かれないのであります。

 ただ観ながらに思ったこととしては、幼少期に観ていたらずいぶんと違ったかもなあということですね。それこそ公開当時小中学生くらいで、ゾンビなんてものもあまり知らずに劇場で観ていたりしたら、見方がぜんぜん違っているでしょう。映画の出来うんぬん以前の、原体験的な愛着を持てるのでしょう。この映画を愛でる人々の中にもそういう人は相当に多かろうという気がします。旧来の秘宝読者層、並びに編集者の方々は1960~70年代生まれでしょうし、そうなるとこの映画の時期ともマッチングするし、何よりその世代はゾンビエイガミ世代と言えるわけです。

ぼくは先に別のゾンビものを知っていたので、あくまでもゾンビクラシックの代表的古典、のような感じで見受けています。他のゾンビものも観るならとりあえず一度は観ておかなきゃね、という接触の仕方なのです。

 この映画については、ある意味日活ロマンポルノに対するときのような距離感を抱きます。「粋」の領域と言いますか、これがわかるなんて粋だねえ、わからねえなんざ野暮だねえという線引きがなされそうであります。ぼくは残念なことに、あまり粋を解せぬのであります。だから基本的には、若輩の野暮天がまたごちょごちょ言っているよ、青二才の洟垂れめ、と思って読み流していただければよいのであります。

 世界中がゾンビになっちゃうよ、大変だよ、と言ってデパートに逃げ込み、そこで撃退を繰り返す映画でありますが、前にも書いたところで、このロメロゾンビをあまり愛せない、というのがどうしてもあるのです。もうこの時点でロメロの教えを受けてきた人にはそっぽを向かれてしまいますね。

 青く顔を塗ってとろとろ歩くロメロゾンビですが、どうにもこれが駄目なんです、ぼくは。ゾンビってやっぱり「人にして人ならざるもの」だと思い、異形の風合いを求めてしまうんです。ロメロゾンビは他の映画にしてもそうなんですけど、どうしても「ゾンビ役の人」に見えてしまう。ああ、確かにこれはゾンビであるぞ、と思えないのです。ロメロゾンビ好きの人がどう思っているのか知りたくもあります。公平に見て、このゾンビは出来がいいと果たして言えるのでしょうか。ぼくにはどうしてもそうは思えないのです。
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 ゾンビ、広義のクリーチャーのひとつと言ってよかろうとも思うのですが、あるいは幽霊との類似についてもそうなのですが、やっぱり、「どうしたってわかりあえやしない」感があってほしいんです。何か特定の対象に恐怖するってのは、「どうしたってわかりあえやしない」という感覚があるからだと思うんです。キチガイの人とかはそうだし、ゴキブリが怖いのもまた「ああ、わかりあえやしないや」というのがあるからなんです。
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 じゃあおまえはゾンビとわかりあえるのかおまえ、と言われたらむろんできないのでしょうけれど、ではどうしてこんな話をするかと言えばひとえに、あのゾンビたちにはそれなりに人間的な表情があるからなのです。「ゾンビ役の人」に見えてしまうんです。ここには表情という大事なファクターがあるのです。
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 顔があるとないとじゃあ、わかりあえる感がまったく違いますね。ほ乳類はわかりあえる気がする、蛇もまだ顔があるからわかりあえるんじゃないかと思える、でも虫はそうじゃないからどうしても怖い。意思疎通可能性の有無をはかるとき、顔は最も大事なファクターの一つです。仮面ライダーの戦闘員はその点わかったもんで、顔をマスクで隠していましたね。あれで意思疎通ができない感じがしたわけです。

 ロメロゾンビはね、彼らには表情が間違いなくあるんです。無表情でゾンビらしい表情、という表情がある。観ながら思ったのは、もしも仮に彼らが全員仮面か何かを被っていたら違っただろうな、ということです。人称性の徹底的排除によって、意思疎通の可能性がゼロになったと思いますね。もちろんそんなのはゾンビじゃないってわけで、議論の俎上に載せるのは違うのでしょうけれど、要は言いたいことは、そんなに怖くない、ということなんです。顔の演出は、青く塗るだけでいいのでしょうか、ということなんです。それじゃあ、意思疎通できる顔なんです。

 怖くないったって、怖いだけじゃ魅力が出てこないんだよ、実際に観てごらんよ、エスカレータに乗ったりデパートの物品をいじくったりなどしてキュートさがあるからゾンビはいいのだよ、ということかもしれないんですが、それもやっぱ、「めっちゃ怖いゾンビ」だからこそ生まれる振れ幅なんじゃないかと思うわけで、あのゾンビはぼくには魅力的に映らないんです。
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 映画界のゾンビ像を決定づけたロメロ大先生、ですけれども、これまたわからないのはゾンビの設定です。あんな曖昧なもので決定づけられると惑います。何が曖昧かって、どうしてゾンビが火を怖がるのかわからないのです。火を使って群がるゾンビを撃退するくだりがあるんですけど、銃で撃たれても怯まず向かってくるゾンビが、火を持ち出されるとちょっと逃げるんです。なんざそら。火がなんで怖いかって言ったら熱いからです。火傷するからです。でも、ゾンビはそんな感覚はないはずでしょう? その辺の線引きが気になってしまうんです。ゾンビとはかくなるもの、としてロメロ先生を愛でる方々に、どうか教えを請いたいです。どうしてゾンビが火を前にして怯むのか。
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 もちろんね、厳密にすべてしっかりすればそれでいいわけじゃないし、逆に「んなアホな」と言って楽しめる映画もそりゃいっぱいあります。それともこの映画はそういう、「んなアホな」を愛でるべきなのでしょうか。「んなアホな」のゾンビ設定が映画のゾンビ像の中心として愛されるのでしょうか。
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 どうして人肉を喰うんだとかどうして世界中に広まったんだとかそんなことはどうでもいい。そういうもの、として受け入れられます。ただ、このゾンビはどういうゾンビなの、というのがわからないと、登場人物と一緒にはらはらできないんです。頭を撃たない限り、銃を撃っても効かないと。ふむ、しかし火には怯むと。どないやねん。その辺は笑って観ればいいんですかね。でもね、だとするとね、あの女性のおなかに赤ん坊がいるだのっていう深刻な設定はどう考えても邪魔だし、彼らが必死な表情で生き残る生き残らないっていう話を延々やられてもなんら白熱は生まれないんですけど、その辺もロメロ様の御心として受け入れるべきなのですかね。

 ものすんごい勢いで設定上のもろもろを強引に持っていく映画ってのはあって、『第9地区』はその種の映画の新しい金字塔だとも思うんですけど、『ゾンビ』にはそれほど勢いがあるわけでもないでしょう? ぼくは前々より述べている通りに、「ダッシュゾンビ」が好きなんです。走って追いかけてくるやつで、これはアンチロメロゾンビです。ダッシュゾンビが好きなのは、「なんか細かいことはよくわかんないけどとにかく逃げなきゃ殺されるじゃん!」という勢いが漲るからです。勢いがあればいいんです、細かいことはいいんです。でも、勢いがないとあれこれ気になり始めてしまいます。
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 ダッシュゾンビは「ゾンビ保守派」の人たちからすると「正統にあらず」となるかもしれません。何よりロメロ先生がお嫌いになっている。なるほど、死者が素早く走るなんて考えてみればおかしい。死者は筋肉も硬直しているはずだし、ブードゥーの呪いかなんかで、地獄から溢れてきた連中でうんぬんというのなら、なるほどとろとろ歩いているほうがよさそうです。でもね、それにしちゃああのゾンビたち、2000年代の彼の作品のゾンビにしてもそうですけど、表情がありすぎやしませんかね。もっと骨が剥き出していたり皮膚がばさばさになっていたりしていいんじゃないですかね。『ランド~』では口がただれている女ゾンビがいたけれど、あれがせいぜいなんです。で、この『ゾンビ』についちゃあみんな判を押したように真っ青の顔。そのくせ表情はある。「死者が素早く走るのはおかしい」とかそういうリアリティの議論に行くなら、むしろ言いたいことがたくさん出てきちゃうんだって。勢いで押してくれたら何も言わないのに。真っ青な顔でとろとろ歩けばそれでいいのかと思ってしまいます。そんなものが、いつまでも愛すべきゾンビ像なのでしょうかね。ゾンビというものを造形した功績はあると思いますが、だったら『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を推すべきなのではないでしょうかね。

 うわあ、あまりにもいろいろ言い過ぎた。またも理屈バカの野暮天だ。
 
 でも、あるブログで、「この映画のゾンビはガジェットに過ぎず、実は終末を生きる人々を描いたものだ」って書かれていて、うむ、そっちならまあまだわかる、とも思いました。あのゾンビはデパートに群がる当時の人々の隠喩だともいうし、ゾンビをぶち殺す荒くれたちとのドンパチには面白みもあった。でも、その点をもってこの映画がベストワンになるとはどうしても思えない。やはりあのゾンビたちが映画の最大の醍醐味ではあるのでしょうし、だとするとゾンビについてあれこれ突っ込みたくなる。

 この映画は出来うんぬんではなく、エイガミたちがゾンビなる存在に巡り会った原体験的興奮に支えられているのでありましょう、というのが今のぼくの考えですが、いかがなのでしょう。キネ旬系が『第三の男』や『市民ケーン』をベストに挙げるような、どうしようもない世代的ギャップを感じたりもするのでした。御意見を賜れれば幸いと存じます。
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笑いと荒唐無稽さを組み合わせ、「何やねん」を好意的に突っ込ませる。
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←リンクして頂いているナイトウミノワさんがベストワンとしている作品です。かなり有名な作品のようですね。SF小説に疎いのでよく知りませんでした。映画好きからはどういう評価を受けているのか、どうも量りにくいですね。秘宝ウケするタイプだろうと思いきや2005年のベストテンには入っていないし。『ギャラクシー・クエスト』をべた褒めした秘宝系であれば十分気にいると思うのですが、どうしたことなのでしょう。

 感じとしては『ギャラクシー・クエスト』にかなり似ていたように思います。宇宙に連れ出されていろんな惑星や空間を引っ張り回されて、なおかつギャグもふんだんに取り入れてテンポも小気味よい。観ながらいちばん感じたのはカート・ヴォネガットJrとの類似です。詳しい人からすればぜんぜん違うと思われるかもわかりませんが、ぼくは観ながら「あるいはヴォネガット原作では?」と思ってしまったくらいでした。荒唐無稽な設定をさらっとばしっと提示してくる感じ、「人間はイルカより知性が低いのだよ」とか「地球はバイパス工事でぶっ壊されるのだよ」とか。あとは「究極の問いに対する究極の答え」とかの大げささもヴォネガットっぽいと思ったんですがどうなのでしょう。などと言いつつ長編を何冊か読んだくらいなので、深く突っ込まないでくださいすいません。

 この監督にヴォネガットを映画化してほしいと思いました。ジョージ・ロイ・ヒルみたいなシュールっぽさで推すんじゃなくて、アホ方面、コメディ方面でがんがん攻めてほしいですね。ギャグ演出がとても面白かったし、ビジョンも豊かだった。監督は他の長編としては『リトル・ランボーズ』を撮っているくらいのようなんですが、もっともっとオファーが来てもいいのじゃないでしょうか、どうなっているのでしょうか。

 アメリカ・イギリスの合作映画のようなんですけど、両方のいいところがしっかり組み合わさっているなと思いました。アメリカの良さで言えばやっぱりハリウッド的な、わかりやすい娯楽映画としての面白さ。イギリスの良さで言えばアメリカに比しての芸の細かさ、こぢんまり感です。アメリカはさすがに広い国ですから、金を掛けるとなるとどうしても大きさ、規模のでかさに走るのであって、それがハリウッド的な面白みでもあるのですけれども、この映画はその一方で、地味さも活かしている。設定説明もアニメでコミカルに処理したりして、テンポにも十分な配慮がある。登場人物が人形になっちゃう場面とかも挟み込み、とても愉快でした。
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 全編にわたってキュートなんですけども、わかりやすいキュートキャラクターとしてはあのマーヴィンというロボットですね。頭がでかくてマスコット的だし、あの置き方は面白いです。基本的に何にもしないんです。他の登場人物たちがあれこれ喋っているときも蚊帳の外で、ぼーっと突っ立っていたり部屋の中をうろうろしていたりする。あの辺のさじ加減は大事です。この映画のよさを一個示しているなとも思うんです。あのマーヴィンをどう描くかって、かなり監督によって変わってくると思いますよ。場合によってはもっと無機質な機械キャラにして存在感を消すことも、あるいは際だたせることもできるんですけど、丁度いい。何しろ「うろうろしている」。無目的にうろうろしているロボットって何やねん。ここに無類の面白さ、キュートさがありました。

 バカSFなんて呼び方もあるようなんですけど、やっぱりね、笑いでいうところの「なんでやねん」「どないやねん」「何やねん」を好意的に呟かせたら映画は勝ちですね。そうじゃない映画っていうのは、その呟きが好意的になれないんです。この映画はいい感じでこっちに突っ込ませるんです。結構芸が細かい。
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 細かいところで好きなのはあのカニのくだりです。ギャグ演出をばらすのも無粋ですから言いませんけど、主人公一味が降り立つときのカニが面白い。あれって別になくてもいいんですよ。あのカニは単にその存在を示すだけでも事足りる。でも、あえてああやって見せることで、尺にも影響しないギャグが一個できる。ああいう細かさがあると愛しじろがいっぱい生まれます。
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 どんな話なのだ、というのをすっかりすっ飛ばして話していることにいまさら気づくのがぼくなのですが、要するに地球がぶっ壊れて主人公が宇宙に飛ばされてあちらこちらに連れ回される話です。SFというくくりですけど、むしろファンタジーっぽいなとも思いました。そもそもジャンルってもの自体が何なのかということですけど、宇宙船とか異星人っていう設定こそSFなれど、異世界冒険譚の風合いとしてはファンタジーに近いんじゃないでしょうか。SFという呼び方よりも、ぼくとしては宇宙を舞台にしたファンタジーっていうほうがしっくり来ますね。SFファンタジーというのは用語としてどうなるのかわかりませんが、そういう呼び方がいちばんしっくり来ます。まあ、その辺の議論を詳しくふっかけられるとぐうの音も出ないんですけれど。
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 役者で言うとこのブログでは『(500)日のサマー』で出てきたズーイー・デシャネルがいちばん印象的でした。『ギャラクシークエスト』のシガニー・ウィーバーもそうですけど、女性キャラとしてはザ・美人を置くよりも、ちょっと個性的かつ平凡さも備えている人のほうがうまくはまったりしますね。描かれる世界が大きいので、そこに振り回されてしまう存在感の弱さが必要で、ズーイー・デシャネルはその点でグンバツの良さがありました。なおかつ、ちょいとそそるという。
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 原作とかテレビ版は知らないけど、こと映画に関して言うなら、話の構成としてはね、まず最初に地球がぶっ壊れてしまうんですよ。ここで一度、大きく切れますよね。地球がぶっ壊れるらしいぞ、なんとかしないと、じゃなくて、最初に地球は壊れてしまう。こうなると話の推進力は弱くなるんです。実際、主人公は自分の意思と無関係にあちらこちらに振り回されることになるし、小説ならばまだしも、映画という語り方ではここは結構リスキーです。乗れなかった人がいるとしたら、そこもあると思いますね。ぼくが乗れたのはやっぱりテンポとギャグが大きかった。ほとんど暴力的に連れて行かれた、という意味で、主人公と同期できました。最後はこれまた暴力的な落とし前がつくんですけど、この映画は宇宙で大冒険をさせて、こっちの許容度をぐっと広げているので、まあよいかな、と思うことができます。画づくりの面白さもあります。終盤で主人公が家に帰ったときの食事シーン。あの空間のブリンブリン具合。なおかつマーヴィンの活躍。見せるところをばっちり見せているため、細かいことは言いっこなし、と言える。
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 笑いってのはこっちの許容度を上げますね。マーヴィンの最後のくだりも、物語的に言えば「んなアホな」です。でも、繰り返しになるけれど、その「んなアホな」を好意的に呟かせることで、不条理はギャグとして昇華される。勢いの勝利という意味では『第9地区』にも通じます。細かい小ネタを知るともっと高密度に楽しめるのでしょうね。荒唐無稽さ、宇宙のビジョンを笑いと巧みに組み合わせた一級の作品として、お薦めしたいと思います。
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松本人志が初めて見せたもの
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ぼくは映画好きを自称しながらも大変な出不精であり、最新映画を追いかける趣味もほとんどありません。というよりも、最新の映画を観る前に古い映画で観ておくべきものがわんさかあるぞ、という状態なのですね。だからDVD派になるんです。もちろん、最新のものをしっかり追いかけていくことはその作品の同時代性を感じるうえでは大事なのでしょうけれども、なにしろ出不精がひどいもんで。むつまじくきゃぴつくカップルは目の毒になるし。

 というわけで、新宿ピカデリーという場所には初めて行ったのです。池袋界隈に暮らし続けて数年になるのにピカデリー初体験というので、いかにぼくがそういうあれかというのがわかりましょう。ゴールデン街に行くときに通るんですけどね、ピカデリーは。でも、観たい映画がピカデリーでやっているときは大体別のところでもやっていたりして、ずっと通わずに来たんです。

 ピカデリーってのはあれですな。なんかわちゃわちゃしていますな。ラウンジみたいな場所で、大学生とかなんかそんな感じのやつらがわらわらしていました。どうも好もしい場所ではないというのが第一印象でしたな。ライバルであろうバルト9はもっと落ち着いた感じなんですけどね。しかも劇場への出入り口はただひとつで、エスカレータで6階とか7階とかまで行列組んで行かなくちゃいけない。ああいうのは嫌ですねえ。なんていうかさ、都会に閉じ込められている感が強くなるんですねえ。文芸座とか早稲田松竹みたいにさ、入ったらすぐ劇場ですってんじゃないんだもんね。いろんなストレス要素がありましたね。

新文芸座はなんかこう、まあ名画座は大体そうでしょうけど、「ぼくは俺は私は、映画を観に来たのだ」という確固たる意思を共有できている感じがするんです、みんなで。作品によるでしょうけど、きゃぴきゃぴカップルもほとんどいないし、いても品のよい老夫婦だったりするしね。そもそも若い女が少なくて一人で来ているおっさんがほとんどですから、非常に落ち着いていてよろしい。そんな中で一人座る若い女はこれまたいい具合に映るからそれもまたよろしい。かたやシネコン、特に今回行ったピカデリーっつうのはあのラウンジ的ざわざわが目の毒耳の毒。ほいでなんかプラスチックのお盆的な変な容器にポップコーンとかコーヒーとか入れてエスカレータ上がるあの感じね。けっ、おしゃれっぽくしちゃってさ! ぼくは新文芸座で一本目と二本目のつなぎのときにチップスターを喰ってやるんだ畜生。で、六列目くらいで「近いなー」とか言ってんの。けっ、ぜんぜん近くねえや馬鹿野郎。後ろにたまっていやがれってんだ!

 いろいろとカウンセリングが必要になってきた己を自覚しつつ、そろそろ映画のことを話さないとね、はいそうですね。『さや侍』です。

前回の『しんぼる』ではことによるとオールタイムワーストなんじゃないかと思わされたのですが、今回の『さや侍』。はい、ぼくは嫌いじゃないです。いろいろと語る中で、説明したいと思います。

 概要はと言えば、侍が殿の息子である若君を笑わせようと苦闘する話です。侍は無断で脱藩した罪で捕縛されるのですが、彼には「三十日の業」という処分が下されます。三十日のうちに、母の死で笑うことのなくなった若君を笑わせよ。成功すれば無罪放免、失敗すれば切腹。と、大枠はこんなところです。予告編を観てもらうのが早いってことに気づきました。

 
 主演は『働くおっさん』シリーズの野見さんです。リアル「変なおじさん」です。映画的な収まりが思いのほか悪くありません。宇多丸さんもマスターもその点に苦言を呈していました。彼はもっと異物として際だってもいいんじゃないかってことですね。ぼくはそこは反対意見です。と言いますのも、この映画は一応時代劇という体裁を取ってはいるものの、実際はまったく時代劇としてはゆるゆるです。時代劇の皮を被っているだけで、そこで織りなされる出来事や人々の会話どれを取っても、まるで時代劇っぽくないのです。

 最初のりょう、それからローリー、腹筋善之介のくだりはその表明ですね。あの二つのシーンで、現実的な時代劇路線はまったくやる気がないよ、というのが宣言されます。だからね、このうえさらに野見さんがぶっ飛ぶと、もう映画のトーンが引き裂かれちゃうんですよ。土台リアリティがないところでさらに野見さんが変になったら、このお話は粉々なんです。彼は引いていて構いません。この理由は後の文章と関連します。

 彼は劇中ほとんど喋らないのですが、代わりに娘のたえ(熊田聖亜)が饒舌です。このこの演技をどう観るかってことですね。これね、ライトノベルを読むような見方が必要なんですよ。ラノベってその多くが、駄目主人公のもとに元気な女の子がやってきて振り回す、みたいな形式を取っているんですけど、そこにはリアルさよりも傍若無人な活発さが要るんです。で、この映画のトーン全体を通したときには、彼女はああいう風に振る舞うべきだった。変なリアリティは度外視で、とにかく駄目主人公野見さんを強引に引っ張っていく暴力性が必要だった。最初ね、予告編の台詞でもあるんですけど、彼女の台詞は明らかに浮いている。でも、ぼくはかなり早い段階でコードを調節しました。ああ、このトーンで行くのね、ラノベっぽく観りゃいいのねって。「この男、天高く飛んでみせまする!」という口上に対しては、「おっ、元気いっぱいだ。いいぞぉ」と思って観ればいいのです。

 お気づきの通りかもしれませんが、今回は相当甘く捉えているんです。『ブラック・スワン』評で見せたしつこさに比べるとはっきりしているでしょう。ぼくは今回、結構褒めの調子でいきますよ。

『ブラック・スワン』をけなして『さや侍』を褒めるなんて、なんだこいつ、エイガミとしてどうなんだ、読むのはやめだ、うんこしてくる、となられるのは結構ですけど、違うんですよ。『ブラック・スワン』はあの『レスラー』を撮ったアロノフスキーですよ。『レスラー』に萌え、燃えたぼくとしては辛口になる。アロノフスキーって人はすげえなって思うから。でも、どうでしょう、あの『しんぼる』を撮った松本人志ですよ。『しんぼる』に比べればよくやったという話です。宇多丸さんもマスターも、松本人志にはぜひ才気走った奇才ぶりを発揮してほしいとお考えのようですが、あの『しんぼる』方面に走られるのに比べればぜんぜんいい。松本人志が自分なりに普通の映画を覚えようとしている感じがする。『大日本人』や『しんぼる』のときのような、「俺の才能を観よ!」というにおいが本作からはしない。そういう攻撃性がない。攻撃性がないから駄目だっていう人は、『しんぼる』を肯定するんですかね。攻撃性はあるけどあんなに防御力のない映画を撮られるのはごめんです。ぼくの中で、『しんぼる』でハードルがぐーっと下がったんです。あれを観たとき、「次の作品も似たような感じだったらもう松本人志はあれなのかな」と感じていた。でも、今回はなんとか形にしようとした。それでいいんです。

 松本人志は好きだけど今回のは……という人も結構いるみたいですけどね、同じ松本好きから言わせてもらえば、今回こそ彼を擁護すべきときだって気がするんです。「映画ってものを壊してやろうかな」などと言っていた『大日本人』の頃とは違う。今回は、彼なりに映画を、物語をつくるぞ、どうすれば楽しんでもらえるんだろうって観客のほうを観ようとしている感じがするんです。それは悪いことではないでしょう? ティーチ・インを行ったりもしているし、物語自体がそういう話です。どうすれば若君=観客を笑わせられるのかなって悩んだんです。彼の変容を見守ろうではないですか。「天才・松本人志の苦悩」なんてもんじゃぜんぜんないんですって。松本は周りのスタッフに甘やかされて…というのはよく言われるところで、ぼくも『しんぼる』で本当にそれを感じた。でもそれで言うなら、今回は「甘やかしていい」(なにさまっ!)。賞賛しているんじゃないんです。今回に関しては甘やかしていいのです(褒めてんだか何なんだか)。

 白状しますけど、ぼくはあの風車のシーンでうるりと来たのです。笑わせようとして馬鹿馬鹿しいことに懸命になるっていうのは、どうあれ胸を打つのです。ここでも『大日本人』からの成長を見ます。あの映画では「自分はめっちゃ頑張ってんのに誰も評価してくれへんねんで。悩んでるで俺」って感じだったけど、今回は「笑わせたいねん。へたくそで無様かもしれんけど、なんとか笑わせたいねん」ってところまで来たんです。

 宇多丸さんは「笑わせてるんじゃなくて、ほだされてるだけじゃないの?」と疑義を呈していましたが、「笑わせる」ってのはね、おかしなことや、それこそレベルの高いなんちゃらをやることだけじゃないんです。ほだしていくことも大事です。なんでこいつはこんなにも馬鹿らしいのだろう。なんだかおかしなやつだな。でも、本人は懸命に頑張っているんだろうな。馬鹿なやつだなあ、本当に、と相手の気持ちを徐々に溶かしていくことだって大切だと思うんです。本作は前二作と違い、「これおもろいやろ。えっ、このおもろさわからへんの?」的な部分がなかった。野見さんを通して、「不細工ではあるけれどもなんとか楽しませたい。楽しめるようなものにしたい」っていうのを感じた。

 だからね、そろそろ終えますけど、ちょっと『シベ超』に近い印象を受けるんです。あれもフェアに見たらダメダメな映画です。でも、水野晴郎は水野晴郎なりに映画愛をこめていて、だからこそ一部で強く愛されているわけです。『さや侍』は松本が「俺様の笑いの才能」っていう刀で人を斬るのをやめた、初めての作品のように思える。それまで刀の道で生きてきた侍が、「これで駄目だったら見限られる」との覚悟でもって、今までとは違う領域に足を踏み入れようとしているんです。映画的にどうだっていうことを言えと言われればいくらでも言える。それこそ『シベ超』をけなせと言われればいくらでもできる。でも、そこは今のぼくには、とりあえずどうでもいいや。

 この作品は、そういう目で観るべきなのです。松本人志が見せる謙虚さ。彼は「今まで見たことのないものを見せる」ことにこだわりますが、それはつまり、彼が初めて見せた謙虚さです。この変容を見守ってこそ、松本好きじゃないですかね。だから逆に言うなら、彼に何の思い入れもないよ、という人があしざまに言うのにも反論はしません。思い入れがなければつまらなく感じる人も多かろうと思いますし、ぜんぜん知らない監督のものならぼくもあしざまに言うでしょう。でも、今回はそのトーンは封印。松本人志にとっての大きな一歩として、寛容に受け止めたいと思います。
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ちゃんと読解できていないってことなんだろうなあ。・・・・・・偏狭的理屈バカ、大暴走の巻き。
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 この前の『ブラック・スワン』もそうなのですけれど、世間や通人の皆様が絶賛されているものをあれこれ突っ込むときっていうのは、絶えず絶えず不安なのですね。ぼくだけがわかっていないんじゃないか? って心配になってしまう。伊集院光が話していたことですが、彼は自分の尊敬する人が強く薦めている映画、あるいは小説などに触れるのが怖いそうなんです。理由は「その魅力がわからなかったらどうしよう」と思うからだそうです。最近はその感じがちょっとわかるようになってきたんです。

『スキャナー・ダークリー』、うん、ぼくにはよくわからなかった。山形浩生訳の原作『暗闇のスキャナー』も読んだのですが、やっぱり謎が解けなかった。きっと、まだまだなのでしょう。つくづくぼくは理屈馬鹿であるなあと思います。透徹して論理的な理屈フェチならまだしも、中途半端な論理屋だから、理屈馬鹿なんです。

 この映画の特質としてはなんといってもそのビジュアルイメージで、実写をベースにしつつも、実写の情報量をぐっと減らしてアニメ化しているんです。アニメっていうのは現実に比べて視覚情報が少ないんです。似顔絵を描くのは簡単でも実際の写真に酷似させるのが難しい、というのはそういうわけで、本作は実写をアニメみたいに変えている。ロトスコープという技法だそうです。

 本作を語るうえでそこをあれこれ言うのがまずは筋でしょうが、そんなのはどこの映画サイトでも言っていることですし、ひとまずパスです。内容的にわからないところがたくさんあるので、教えを請いたいとも思います。こんなにもわからないってことは、決定的に読解を誤っているのかもしれません。観た人、読んだ人向けの記事です。

 どういう話なのだというとこれは覆面麻薬捜査官の話です。麻薬ルートを摘発すべく、キアヌ・リーブス演ずるフレッド(またの名をロバート・アークター)がジャンキーたちの生活に潜入するのです。

 この映画を褒める際に言われるのが「スクランブル・スーツ」という代物です。これは身分を徹底して隠すためにつくられた特殊なスーツで、外見はいろいろな顔かたちに入れ替わり、もやもやしているのです。これをよくぞ映像にしたぞ、と言われるようです。
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 なるほど確かに面白いガジェットではあるんですけど、これがどう役に立つのか、もうひとつよくわからないんです。これがなぜ必要なのかを語る場面が原作にもありまして、その理由はと言うと、「こうした警察の捜査官はおそるべき危険にさらされているからでして、ご承知のように、麻薬勢力は驚くほどの狡猾さをもって国じゅうの法執行機関に侵入している、あるいは侵入しかねない、というのがその方面に詳しい専門家の考えなのです。したがいまして、こうした仕事に従事される方々の保護のため、このスクランブル・スーツは不可欠なのであります。」
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 普段の潜入捜査では着ていないんです。なんか上司と喋ったり監視任務についたりするときだけなんです。このスーツの存在意義がもうひとつよくわからない。観ている間中、画としてずっと気になるし。ぼくは麻薬捜査官という仕事がどんなものかよくわからないんですが、このようなスーツがあるとどういう役に立つのでしょう。現実の捜査官たちはこういうスーツがあるといいなあと思っているんでしょうか。であれば、現実の捜査官たちはここまでの技術を持たずとも、内勤の際は覆面をして勤務しているんでしょうか。むしろ悪いことが起きるような気がするんですけど、そこはどうなんでしょう。それこそ正体がばれないってことを悪用されて、ジャンキーたちに内部に潜り込まれる危険性だってあるわけでしょう。上司と部下で互いの顔も素性もわからないって設定ですけど、その信頼関係はこういう仕事の場合、あまり重要ではないのでしょうか。映画でも原作でもその辺はぜんぜんすっきりしないんです。ああ、なるほど、このスーツがあるとないとじゃぜんぜん仕事の能率が違うな、という場面がないんです。それをわからせてくれないんです。それとも、皆さんは当たり前のように受け入れられるのでしょうか。ほら、どんどん不安になってくるんだこうやって。
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 で、麻薬捜査に乗り込んでいる生活が描かれるんですけど、なんと捜査官フレッドは、自分自身を監視するように申しつけられるのです。何なんでしょうか。普通の捜査ならばあり得ないわけですね。ここは確かに、スクランブル・スーツならではの出来事って感じはする。でもさ、本末転倒じゃないの? 捜査官の正体がわからない状態だから、捜査官自身の監視を命じられることになるって。普通なら、「いやいや、それ俺ですから!」ってなるところが、正体を明かせないからそれも言えない。組織として機能しているんでしょうか。ものすんごい効率悪く思えてしまうんですけど、どうなのでしょうか。スクランブル・スーツがあるからこんな利点がある、あんな利点がある、でもその副作用として…というのならまだわかる。でも、あのスーツの利点がぜんぜん伝わってこないから、何してるの? って思わされる。ああ、不安だ。ものすごく不安だ。ぼくは馬鹿なことを言っているのかもしれない。
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 で、実際のジャンキーたちとの生活ですけど、まあごたいそうなスーツを編み出した捜査当局ですが、なんともこのジャンキーたちが腑抜けているというか、ものすんごい小さいんです、行動範囲が。麻薬捜査官の仕事を何一つしていないように思える。麻薬捜査官の話だって言われたら、ジャンキーに潜り込んで、そこからいろいろたどっていって、真相とか大きな組織とかそんな話にちょっとでもなるかなと思ったら、そこに行く気配すらないんです。いや、わかりますよ。そういういわゆるスパイアクション的な話じゃないってくらいはわかっている。でも、なんかバリスは嫌なやつだな、とかそんなのばっかりです。おお、フレッドは仕事してるなーと思えるくだりがなさすぎやしませんか? 捜査を続ける過程で自分も薬にはまっていく、とそういう筋立てでしょうけど、いやいや、こいつが何の捜査をしているんでしょうか。密輸ルートを見つけようと奔走して、危うく正体がばれるみたいな展開もないし、たとえ的外れでもいいから何かルートめいたものを発見してみるでもいい。そうです。的外れなルートをたどりつつ、その中でジャンキー化していくみたいな感じのほうが、捜査官の悲哀が出てくると思うんです。ところがこのフレッドはぐだぐだとジャンキーたちとの与太話を繰り返すだけです。バリスのルートも追えていない。で、やっていることは「自分の監視」。ずーっと自分の監視。そもそも仕事になっていないんです。

 なんというか、スクランブル・スーツの存在が話を初めから打ち砕いている気がしてなりません。自分を監視せよ、という部分の特異性を生み出すには物語上ああしたガジェットが必要なのはわかる。でも、その命令自体が単に滑稽でしょう。滑稽な命令はいいんですけど、その分の利点は絶対もっと描かれるべきだと思うんです。あのスーツがあることでこれだけ仕事がはかどるようになった、というその裏面として、「自分を監視する」滑稽さが出てこないと、そこに入り込んでしまった人間の悲哀が出てこないと思うんです。
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 でねえ、これがまた組織としてよくわからないんですけど、途中で、おまえは薬物中毒の恐れがあるから検査しろ、みたいに言われるんです。で、検査を受けるわけですけど、もうね、その恐れがある時点で即刻業務から外すべきじゃないですかね。仲間内での正体がばれることさえ極端に恐れているようなあの組織が、薬物中毒の恐れに対して寛容なんですよ。百歩譲って、あのフレッドの仕事がものすごく大事で、あのジャンキーたちを洗えばとんでもない脈が見つかりそうだって局面ならいいんですよ。健康上外すべきだが、外せないヤマだから続けさせるってんならわかる。原作でも売人を追っているとかなんとか言われている。でも、実際に描かれるのはだらけた仲間と車の話したり自分を監視したり。それで、麻薬に溺れていく捜査官の悲哀とか言われても、うーん、不安だ。今ぼくはとても不安だ。いや、でも、この点は後で語りますね。

うん、どういう組織なのかとかどういう仕事でどれくらい重要なのかが、ぜんぜん見えませんでした。そこはぼくの読解力不足なのでしょう。きっとそうなのでしょう。

 でねえ、まあ、麻薬に溺れてしまうわけですよ。自己同一性も瓦解してね。でね、ネタバレをがんがんしますからご了承くださいね、それで、療養施設に送られてしまうんです。
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 この療養施設ってのが曲者なのです。いちばんのネタバレになるかとも思うんですけど、この療養施設自体が薬物の栽培をしているってわけです。それでどんどん蔓延させているってな種明かしです。でね、でね、実はこの主人公フレッドの裏には、彼も知らないある意図があったんですよ。それはね、「あの療養施設は怪しいぞ」って睨んだ連中がいて、彼を廃人にして潜り込ませたってわけなんです(その雇い主は「政府」だそうです)。廃人にならないと入れない施設らしくて、彼にはそこで療養してもらい、復帰できたらなんとかそこでの真相を明かさせたいみたいなことが別の人物から語られるんです。フレッド自身は、そんなことまったく知らないらしいんですけど、そういう風に仕向けられていたんですね。
 
いや…えぇ? うん、なるほどそれだと、薬物中毒の恐れがある彼をあえて仕事させ続けたのもわかります。それだったら一応の納得はできる。彼のだらだらした日々も結局のところ、彼に課せられた任務だったのかもわからない。ずっと利用されていたってことです。

 ここなんですよ、ぐだぐだ長々言ってきたけれど、要はここなんです。なんで彼にそれを教えないのかってことです。廃人になることを覚悟のうえで臨んだってのなら、わかるんですよ。それだったら彼が廃人になっていく過程も凄みが出ると思うんです。ぐわあ、俺ははまっていく、でも仕事のためだ、やむを得ない、ぐああ、と崩壊していくならわかる。そうすると献身性も出てくる。
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 これね、真相を明かすドナっていう女に言わせると、「知ってたらまだいいわ。ちゃんと理解して、自発的に犠牲になったんなら」ってことらしいんですけど、つまりぼくの考えとは真逆なんですけど、自己犠牲のほうが彼の悲劇性が高まる気がするんですよ。それに、そうじゃないと計画にならないでしょう? 廃人になっちゃった、でも彼はきっと戻ってくるはずよって話に持っていかないと、彼を廃人にする計画として成り立たないじゃないですか。彼はきっと戻ってくるわ、自分からその道を選んだんだもの、きっと、きっと戻ってくるに違いないのよ、ならわかる。真剣にそう信じているわけじゃなくて、ほとんど絶望的な祈りとしてそれを願っているなら悲哀もわかる(ドナいわく「無意味よ。祈るなんて」、「お祈りもウソっぱち」だそうです)。でも、彼は何も知らされずに廃人になったんですよね? だったら、もう政府なんか信用しないでしょう。麻薬当局の最後の場面でも、「自分からそうなったんだから知らねえよ。他の麻薬捜査官はジャンキーにならないように気をつけるんだよ普通」みたいに言われたら、最大の裏切りを受けたようなもんですから、たとえ復帰しても協力しないんじゃないですか? そもそも帰ってくるかもわからない。捜査官は一人確実に失う代わりに、帰ってくるかどうかもものすごく怪しい場所に送り込んでしまう。百歩譲って、彼がこの小説の中で、使命感に燃えてばりばりやっている捜査官だっていうならいいです。それだったらいいです。使命感に燃えて仕事をしながらも思わぬ深みにはまったあいつ、でもあいつならまた戻ってくる! っていうならまだわかる。でも、そうじゃなかったもん、フレッドは。大半の場面でだらだらしていたもん。なんかくだらない喋りを延々と続けていたもん。真面目なやつとは到底呼びがたかったもん。冒頭の演説場面でも、大人たちに対して「なんだよこいつら」みたいな感じだったもん。

 根本的なことになりますけど、療養施設が怪しいって政府がマークしているなら、なんで政府は介入しないんですかね? 療養施設でしょ? 介入できない理由がわからないですよ。すみません、どこかで説明があったでしょうか、読み飛ばしたでしょうか(不安だ、ものすごく不安だ)。政府もグルだっていうならまだわかる(それだと、国民を薬づけにしようとする政府なんてあるかってことですけど)。ドナたちはレジスタンス的な位置から摘発を目論んでいるならわかる。でも、彼らの属する政府は一応撲滅の立場を取っているんでしょう? その意思に従っているんでしょう? だったら、介入すればいいじゃないですか。大きく社会問題化している件の療養施設が、厚労省の調査を拒める理由がありますかね? 認可はどうなっているんでしょうかね。彼を廃人にうんぬんの前に、そこをちゃんとやらなきゃ駄目じゃないですかね。

 疑問点がたくさん噴出してしまうんです。システムに翻弄された個人の悲劇っていうのは、そのシステムががっちりできあがっているからこそ生み出されると思うんです。現実でもそうでしょう。いろんなシステムや利害の絡み合いの結果、一個人の悲劇が生まれるわけでしょう。それなのに、システムがゆるゆるだと哀しくなれないでしょう。このシステムはきわめて完全に機能している、という建前があって、でも実はそうじゃないっていうことじゃないと、話の前提がぐらぐらですよ。そのくせ何を劇中、どうでもいいことをだらだら喋っているんでしょうか。いやいやいや、きっと、皆さんは前提条件、設定その他をすべて飲み込んでいるから、だらだら喋りも余裕なんでしょう。皮肉じゃなくて、そこが本当に羨ましい。

 壊れていく自分がどうしようもないって話なら、ぼくの中では『アルジャーノンに花束を』が不動の一位で、あれと対比できるってことからも辛めになりました。
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 でも、依然として不安です。褒めている人はばっちり褒めているわけだから、ぼくが感じた疑問点をすべて理解できているのでしょうし、ぼくの感じた自己犠牲のくだりにも、さらに深い考察があるはずなんです。組織の有り様についての理解もぼくとはぜんぜん違っているはずで、麻薬捜査官についても詳しいはずです。ずいぶんと取り残されている自分が哀しくなります。皮肉ではないのです、本当に。ぼくはどうしてこんなに馬鹿なのかと思わされるのです。きっと大事なことを読み落としたりしているのです。どうぞ、ご指導賜りたく存じまする。
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「世界」を見通すことで、観る者自身の幼さを知らせる。
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久々にVHSで映画を観ました。何年ぶりのことでしょう。DVDはamazonでも出品者による高値しかなく、ツタヤでVHSを借りました。ゆえに今日はキャプチャ画像がほとんどない旨、ご理解くらはい。地デジ未対応のぼくの部屋にはいまだに上京当時から使い続けている14型テレビデオがありまして、今後も稼働してもらう予定でありますが、映画を観る際はパソコンモニターを用いているので、テレビで映画を観るのも久々。そして、『ミツバチのささやき』。

映画通人の間では言わずと知れた名作、という位置づけではないでしょうか。名前だけはよく目にして長らく観てみたいと思っていたらツタヤで発見。レンタルビデオ・ハッピネス。これはなかなか、うむ、これはなかなかですねえ。

 まあ、この映画はさんざっぱら語り尽くされているでしょうから、いまさら気の利いたことはあまり言えぬので、あまり期待しないでください。もっと読むべきサイトはたくさんあるので、そっちを観てもらうほうが有用であると先にお断りしましょう。

 この映画に関しては一生のうちにあと数度は観ることでしょう。もっと観るかも知れません。年を重ねれば見方が変わるような気もします。これはなかなかのもんでした。
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 主演のアナ・トレントは当時六歳ということですが、これがスーパーウルトラ級の可愛らしさです。萌えキャラ風情が百万人束になろうと適わないくらいです。「神の瞳を持つ少女」などと言われたらしいですが、うむ、なるほど、これならば何も申しますまい。世間ではやたらと神、神と連呼して、処女面こいてるアイドルグループを愛でる者もいますが、あんなのがいくら集まったところでこのアナ・トレント一人には勝てますまい、というくらいの魅力があります。ぼくが見たことのある子役、いや子供すべてと言ってもいいかもしれませんが、これほどに可愛らしい子は知りません。この先、天才子役うんぬんと言ってたくさんの子供が映画なり何なりに出てくるでしょうが、果たしてこのときのアナ・トレントを超えられる人間がいるのでしょうか! テイタム・オニール、ダコタ・ファニング、クロエ・モレッツ、あるいはナタリー・ポートマンなど、世間の賛美を浴びた少女子役は数多かれど、このアナ・トレントの輝きを超えた者がいるのでありましょうか! ぼくはいつまでこの調子で書き続けるつもりなのでしょうか!

 ふう。

 ええと、なんだっけ。そうだ、映画自体はというと、たっぷりと間を置いた大変に静やかな作品でありまして、その構図の一つ一つが大変に美しいのであります。間を置くときはこうあれかし、と思わされます。何にも考えていないような構図で、とりあえず間を持たせれば映画的だろうとでも思っているかのような映画も数ある中において、あるいは一つ一つの光景をないがしろにちゃっちゃかちゃっちゃかカメラを切り替えるような映画も多い中において、少女×スペイン・カステーリャの荒野を存分に見せつけた本作は、特段の輝きを帯びているのであります。アナ・トレントが荒野にたたずむその姿を映した時点でこの映画は勝ちです。ものすんごいベタな言い方をしますが、ワンカットワンカットが芸術的、なのです。

 そのワンカットが写真や絵画のごとき美しさを持って迫る、というのも映画の醍醐味であります。もちろん写真には写真の、絵画には絵画の魅力があるわけですが、その魅力が映像の中で発揮されたときに、映画の豊かさはまた一段と深まるように思います。そうした映画はスタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』が最強であろうと思っていたのですが、うむむ、匹敵。というか、金のかかり方もろもろから行けば、こっちのほうがすごいかもしれません。いや、すごいとかいうとあれだな、すごいとかいうのとも違うんだけれども、粋だねえって感じですね。 

 ストーリーが面白い映画というのがありますが、それは脚本の力が大きいわけです。本作はストーリー自体の面白みは別段ありませんが、アナの美しさと構図の美しさが融合して生み出される魅力で、ぐぐぐいっと高みに登っているのです。

 テーマについていまさらぼくが語る要はございませんが、宮台流に言うところの「社会」と「世界」ってのがひとつあるのでしょう。「社会」はコミュニケーション可能なものの総体で、「世界」はありとあらゆるものの総体であるっていう対比概念です。ぼくが思うにコミュニケーション可能というのは理解可能ということでもあって、「この世の中というのは、まあこんなもんである」という処理の仕方は「社会」を生きる術です。これを身につけているのがアナの姉のイザベルで、彼女は「世界」に対峙するアナとの対比的存在なのです。フランケンシュタインを語るベッドのくだり、毒キノコのくだり、火を飛ぶくだりもろもろで明らかなように、イザベルは「世の中ってのはこんなもの」という認識を既に持っている、かのように見える。ところがアナはそれを持たない。

これを幼さと片付けるのはたやすいのですが、それこそまさに「社会」の内辺に留まろうとする捉え方です。換言するならば、何かを見て「幼い」と感じるということは、「自分は幼くない」と感じていることの証左でもあります。しかし、当然ながら人間はごくごく小さな存在であって、この「世界」と対峙するには誰も皆あまりにも幼い。大人になっていろいろとわかった気になっているけれど、それはわかった気になってわからないものに蓋をする癖を覚えただけに過ぎず、本当はいろいろなことなんて実はわかっていないじゃないのか? 

 と、アナの目を通して、教えられます。この映画は自らの中にある「幼さ」を知らせてくれます。

 あれこれ書きましたが土台文章では伝わらないのであり、観てもらうべきなのです。もし可能ならば、アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』も続けて観るとよいでしょう(と思ったらなんとamazonの中古で45000円! キアロスタミのDVD復刻を強く願います)。
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あと、相米慎二監督の『お引っ越し』もいいでしょう(これまたDVDが品切れ!)。
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なぜかこの種の名作はDVD流通の中で忘れ去られてしまっているようですが、子供の目を通して世界に対峙していく作品として佳いものばかりです。レンタル屋のVHSに目を光らせてみるとよいでしょう。
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あの一瞬があれば、彼らは大丈夫じゃないかな。
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原題『Breaking Away』
 前回前々回とわりと重めだったので今回は軽めに、の予定。
宇多丸さんがオールタイムベスト10のひとつに挙げている作品です。
 アメリカはインディアナ州の田舎に暮らす少年たちのお話です。主人公のデイブ(デニス・クリストファー)は自転車レースに夢中で、イタリアかぶれしております。宇多丸さんはラッパーですが、ラップはアメリカ生まれの代物であり、遠く日本でそれにかぶれた自分自身をこの映画で投影したらしいです。
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 何かにかぶれる、ということはいわば青春期の旨味であります。たとえばぼくは「関西かぶれ」をした人間です。関西に行ったことなんて高校の修学旅行くらいなのに、普段から関西弁を用いること多々でありました。テレビっ子であったぼくはダウンタウンを始め、明石家さんま、島田紳助、笑福亭鶴瓶、その他幾多の漫才師、彼らの笑いを日常的に観続け、あるいはラジオを聴いたりして、似非関西弁を多用したのが十代から二十代前半というところだったのです。ちなみに、芸人の世界では九十年代以降、「ダウンタウンかぶれ」した芸人が数多くいると言います。彼らの提示したお笑いはそれだけの影響力を持ったわけです。

 何かにかぶれる、ということは痛々しいことでもあります。考えてみれば関西圏出身でもないのに関西弁を喋るなんて、大変奇異な言動なのであります。奇異と言えばぼくは大学三年のとき、見るもあっぱれなモヒカンをしていたのであります。インディアン居留地を迂闊に歩いたりしたら、「おまえはなかなか見事なとさかだモヒ」と言われてスカウトされ、彼らと一生をともにしたかもしれません。しかし別にモヒカン族になろうとしたわけでもなく、パンクロッカーに憧れていたわけでもなく、黒シャツに黒スーツを着用しておりました。当時のぼくはなぜだかそれを異常に格好良いと思っていたのでした。しかしそのくせ大学帰りにさもしくも100円ローソンで野菜コロッケとか白身魚フライとかを買っているという、よくわからないやつでした。よくわからないものにかぶれていたのです。
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そんなぼくですから『ヤング・ゼネレーション』の主人公が放つ痛々しさもにやにやしながら観られたのであります。主人公デイブはイタリア人かぶれの言動を父に咎められますが、ぼくなども「関西弁を使うな」と父に注意された記憶があり、親近感がありました。しかし思うに、痛々しさというのは青春時代にとって大事であるなあと感じるのです。何かに打ち込んだり夢中になったりってことは、多少なりとも痛々しいんですよ。そして若いってことはつまり、その痛々しさに自分で気づかないことでもある。でも、すかして何にもかぶれることなく、常に中立的で冷静でいるなんて風になるくらいならば、痛々しいほうがいいです。過去に自分語りを炸裂させていたブログなんて、そりゃあ今読めば痛々しいし、というか痛々しすぎて読む勇気がないんですが、後悔はないですね。そのときはそのときで、自分なりに本気で考えていたのだから。

 すみません、映画の話に入れずに。
 痛々しさを強調しているように読めますが、実際はそこまで色濃く描かれているわけでもありません。むしろ自転車レースに勤しむ姿は素直に格好良くもあって、ああ、こいつは本当に自転車が好きなんだなあ、というのがちゃんと描かれています。こういうのは大事です。やっぱりね、「ああ、本当に好きなのね」と思えると、別に自分が興味のない分野であっても、しっかり観られるんですよ(『ブラック・スワン』はそこが希薄だったと思うんですね)。で、この自転車ってのがメタフォリカルですよね。自転車って、止まれば倒れるんです。だから、自分は止まれないんだっていう思いがそこにある。自分を支えてくれるのはこの自転車なんだってのが伝わる。これが貫かれているから、クライマックスは大変熱のこもったものになりました。
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そんな彼が、憧れのイタリア人たちとレースに出るシーンがあります。ここはちょっと、ばらしたくないところですね。観ながら「あっ」と声に出してしまいました。そういうこともあるよね、ってのが、わかりますねえ。大好きだった女の子が不良的な同級生と付き合って幻滅した覚えがありますが、あんな風に幻想が突き崩される一瞬は、痛いですねえ。
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 で、ところで、彼はひとりぼっちなわけではぜんぜんありません。三人の友人たちと一緒に遊んでいます。敵役として登場するのは大学生たち。主人公デイブの一味は大学に行けず、大学生たちを羨望の目で見ていますが、その羨望を認めると自分たちがみじめになる気がして、つっぱったりしています。夜中に寮の前で歌う場面はなんだか切ないです。でもその切なさは、青春の甘酸っぱさとして◎。
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 大学生なんて糞食らえだ畜生、というわけで、主人公たち四人は地元のトラックレースに出場します。このクライマックスは燃えます。デイブはイタリア人有名チームと互角に張り合えるくらいの実力者ですが、途中で転倒してしまいます。この辺が特によかったですねえ。基本的に他の三人は「デイブに任せておけばいいや」みたいなぼんくらなんですが、彼が怪我をするとあたふたしながらも繋いでいくんです。その必死さ、痛々しさは素晴らしい。はっきり言ってあの三人は駄目なやつらなんですよ。言っちゃえばニートみたいなもんだし、いざ仕事を始めると思ったら遅刻を咎められてすぐに投げ出すし。冷静に観れば、真面目に勉強して大学に通っているやつのほうがずっとずっと偉いんです。でも、あの三人はあの瞬間、すっごく頑張ったんです。何にもできないような俺たちだけれど、何にも打ち込めない俺たちだけど、ここで頑張らなくていつ頑張るんだ! っていうのが伝わってくる。主人公デイブのみならず、あいつらにもきちんと肩入れさせるこの映画は大変いい。
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大げさなことが起こるわけでもないし、言ってみりゃ小さい話ですよ。田舎町の、本当に小さな話です。あの後であいつらが立派な社会人になるかどうかもぜんぜんわからない。でも、あの一瞬があれば大丈夫じゃないかな、と思える。思わせる。
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 なるほど、とてもよかったです。ぼくがブログを書き続ける個人的醍醐味なんですけど、書いているうちに良さがどんどんわかってくるんですね。輝かしき70年代末期に生まれた、小さくて大きな作品だと思います。
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めぐっているのは、ぼく一人みたいだ。ぼく一人が馬鹿ってことでいいさ。 
 絶賛の声に包まれている『ブラック・スワン』にぴんと来ず、先日『スキャナー・ダークリー』を観てあらためて感じたことがあるため、今回は至極真面目に一種の「映画表現」なるものについて考えてみたいと思います。お堅い内容になりそうなので、いつものような腑抜けた調子とは違いますゆえ、そういう方面の期待には答えられません。陰毛を束ねて見知らぬ人の墓に供え、和尚にどつかれ糞を漏らしているようないつものぼくとは違うのです(どんなやつだ)。

 映画という手法一般について喋り出すともう嫌になるほど長くなるため、こと映画の幻覚表現について論考したいと思います。論考だって、けっ、格好つけやがってさ(誰が突っ込んでいるのだろう)。

 あらためて一から書くのはしんどいため、つい先ほどにツイッターで一人呟いた内容を再録したいと思います。

 『ブラックスワン』を観て、最近『スキャナー・ダークリー』を観て思ったのは、「幻覚を見ている」という表現は、徹底して一人称的であるべきだろう、ということだ。だが、『ブラック・スワン』の好評ぶりを見聞きするにつけ、このようなぼくの捉え方は一般的ではないらしいと、あらためて思い知る。

誤解する向きもあるが、一人称と三人称一元視点はまったく異なるものだ。一人称の語り手はあくまでも登場人物。三人称一元視点はその登場人物の内面に同期しつつも、俯瞰を保つ。映画はその99%が三人称一元、もしくは三人称多元でつくられている。

 三人称視点のキーワードは「俯瞰」。ゆえに本来、幻覚表現とは折り合いが悪い。当人が見ている幻覚を当人を俯瞰して表現することは、矛盾している。幻覚を見るということは、俯瞰とは真逆の、異常なまでの主観性にまみれたものだからだ。なぜか先の映画の作り手はこの点をあまり意識しないようだ。

幻覚表現を用いて狂気を表そうとするなら、幻覚はあくまでも徹底して一人称視点のみに特化し、俯瞰の視点からは完璧に排除するべきだ。そうすることで、当の人物が幻覚を見ているということがより浮き彫りにされるはずであり、正気である我々との差異が明確に表現される。

そして、その表現を用いるべき理由はもうひとつある。そのほうが、我々自身もまた幻覚を見ているのではないか、という不安を惹起しうるからだ。我々は誰一人として死を逃れ得ないのと同様に、主観を逃れることもできない。だからこそ、登場人物を徹底して一人称の幻覚に追い込むことは、我々の認識それ自体を揺らすうえで、大いなる意味がある。

 と、ここまでがツイッターに書いたことです。なにしろフォロワーが少ないので、誰も何も言うてくれないのであります。さて、ここまでの記述で、ぼくが一人うんうん唸っている問題の要点は語られております。

 確かに、俯瞰で描くほうがより多様な表現を生み出すことが可能であり、ヴィジュアル効果を求める観客の需要も高かろうと思います。でも、それでは狂気が十分ではない。むしろ狂気を薄めてしまいさえするのではないか、というのが、今回ぼくが提起する問題なのであります。

下の画像をご覧頂きましょう。

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 これはフィリップ・K・ディック原作、リチャード・リンクレイター監督の『スキャナー・ダークリー』冒頭のシーンです。この大きさだとちょっとわかりにくいかもしれませんが、薬物摂取で虫が湧く幻覚にまみれた男の様子を映しているわけです。

 小さな虫が大量に見えるなどというのは、薬物による幻覚体験として、よく見聞きするところであります。観客に対しても生理的な不快感を与える、わかりやすいビジョンであるとまずは言えます。

 しかし、このように描いてしまうと、この虫が彼の見ている幻覚なのかどうか、明瞭ではありません。いやむしろ、実際に虫がたくさんいるようにさえ思えてしまうことでしょう。こうなりますと、「彼が幻覚を見ている」という事実性は、薄められてしまうことになります。ビジョンとしては面白い。でも狂気が高まらない、というのはこういうことです。これをしてしまうと、観客と、幻覚を見ている彼の見ているものが、同じということになってしまう。狂気の中で一人身もだえる彼の恐怖、が演出されません。

 この場合はどうするべきか、ぼくが考えまするに、「部屋はあくまでも普通で虫など一匹もいない」という俯瞰ショットを撮り、「虫だらけの周囲、自分の体」というのを主観カットで撮るべきだと思うのです。こうすると、彼が孤独に抱える狂気が、鮮明なものになります。ああ、ぼくたちには普通に見えているこの部屋が、彼にはこう映ってしまっているんだ、とわかるわけです。『スキャナー・ダークリー』はぼくの思うような方法を採っている場面もありますが、これを冒頭に持ってきたところに、ぼくの認識との差異を感じたわけです。

『ブラック・スワン』においても同様の傾向が見て取れます。確かにあの映画でも、俯瞰と主観の切り分け、は行われています。たとえばある場面で、ポートマン目線で見ると指から生々しく出血している。でも次のショットでは彼女を引いた画で撮り、それが幻覚であると観客にもわからせる。主観にこだわって狂気を描く、という場面は随所にありました。ただ、それ以上に、「俯瞰からの主観的狂気」という語義矛盾とも言うべき表現が多用されます。手元にDVDがないので実際の場面をあまり紹介できませんが、youtubeのトレーラーからキャプチャーしたワンカット。
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 これは主人公ニナ(ポートマン)が自分と同じ顔の女性に遭遇する場面です。今日ぼくが提示した問題をなんとも象徴的に表しているカットです。

 これでは、この女性がまるで実在するかのように見えてしまうのです。「ニナが見た、実在するかどうかわからないもの」にならないのです。彼女の後ろ姿から捉えているのがその証拠です。実在するかどうかの不分明さを描くならば、徹底して彼女の主観から撮るべきだったと思うのです。それとも、この黒い女性は幽霊か何かのような、超自然的存在なのでしょうか。それならそれでいいですけど、だとすると、余計にニナの抱える狂気は薄れてしまいますね。狂気は彼女一人に押し込められたほうが、濃度を高めるはずなのに。

 主観の狂気と俯瞰の正気を徹底して切り分けろ、と提唱する理由はここまででひとつです。まとめると、「狂気、幻覚は登場人物の目線のみに収めたほうが彼の孤独さ、異常さがはっきりとする。一人称で押し通すことが難しい映画においては、よりその点を徹底すべきだ。そうしないと狂気が内なるものとしてこもらず、濃度が高まらないからだ」ということです。

 さて、ここまでが一点。ぼくが長々と主張しているわけは、もうひとつあります。

 ツイッターで書きかけたところですが、ぼくたち自身の主観問題、認識の問題です。

 わかりきっていることですが、ぼくたちは一生、主観を逃れられません。ぼくたちはぼくたちの目を通すこと無しに、何かを見ることはできないのです。ぼくたちは死ぬまで、自分の視神経に忠誠を誓い、その信号を絶対的なものとして受け入れざるを得ないのです。
この世界は夢なのではないか、とは陳腐な問いですが、誰もこれに明確な答えを与えることはできません。誰もが主観世界にしか生きられないからです。同じ言い方が幻覚についても言えます。この世界は、ぼくたちが見ている幻覚なのではないか。この問いもまた、答えようがありません。

 さて、ここに主観と俯瞰の問題が絡みます。
 幻覚の症状を呈した人間は、その幻覚を実在だと思い込む。周りがいくら存在しないと言っても、当人にははっきりと見えている、ように思える。これを「幻覚」と片付けるのもまた危うい。たとえば今、あなたの前にあるパソコンやキーボードが、本当にそこにあると言えるのでしょうか。別の誰かに尋ねてもいいけれど、その人の発言が幻聴ではない証拠は、どこにあるのでしょうか。主観から逃れられない以上、この問いには答えが出せません。
 
 しかし、映画は登場人物を俯瞰します。その人物を外側から映す。主観と俯瞰のふたつをうまく使い分けるのが映画です。でも、だからこそうまく使い分けるべきでしょう。主観では狂気、俯瞰では正気。ビジョンを明確に分けることで、登場人物に感情移入している観客であればあるほど、「自分の見ている世界も主観的な幻覚にまみれているのではないか」と不安に落とし込むことができるのです。つまり、観客自身が信仰している主観に対して、切り込みを入れることができる。観客を狂気に連れて行くには、そのほうがいいように思うのです。
 
 主観と俯瞰が同期してしまえば、観客の認識は一切揺れません。映画を見終えて劇場を出た後も、周囲の物事を安心して捉えられる。自分の見ているものと、周りの見ているものは同じであると、素直に信仰し続けられる。これでは、せっかく狂気を描いた甲斐が、半分くらい無くなってしまうと思うのです。主観の狂気と俯瞰の正気を徹底して切り分けることで、観客は自分の目線、認識の足場が揺るがされる。それでこそ狂気を描いた映画の醍醐味ってもんじゃないでしょうか。ポートマン同様に自分も狂う、ことが、できないのです。

 さて、一応はここまでです。そろそろ疲れました。

 狂気を描き出せている、あるいは観客の認識を揺らしてくれる映画をいくつか紹介してみましょう。日本映画ばかりですが。

『オカルト』 白石晃士 2008
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 数日前『グロテスク』でやたら訪問者が増えたのですが、その前作に当たるのがこれ。登場人物に移入して観るタイプではありませんが、ぼくたちの他人に対する認識、世界に対する認識を確かに揺るがします。自分の捉える世界を、他人が同様に捉えてくれているとは限らない。UFOを見たことがあるなんて人は、ここに出てくる彼の世界に、首を少し突っ込んでいるのかもしれない。ほぼ全編がハンディカムで撮影され、主観的な演出も確かです。できれば、深い内容を極力知らぬうちにDVDを観てほしいものです。店舗には置いているかわかりませんが、ディスカスでは☆マークですから簡単に借りられるでしょう。

『紀子の食卓』 園子温 2005
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 三人称のビジョンで正しく狂気は描きうる、と確かにわからせてくれる作品です。多元視点で描きつつも、人称問題に抵触せずに狂気を映像化しています。わかりやすいのは、家族が幸福な食卓を囲む場面。ぼくたちの主観的認識を越えて、俯瞰的なビジョンでその状況の狂気を描き出す。幻覚などという他人事的狂気でなく、ぼくたちの生活それ自体に潜みうる狂気をしっかりと映像にしています。

『羅生門』 黒澤明 1950
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 言わずと知れた名作ですが、今日のテーマに深く関わっています。今日繰り返し使ったワード「俯瞰」、それ自体をも突き崩す構成となっているため、認識とは別の「記憶」まで踏み入ります。そして他人の話を無邪気に信じるということすら、許さなくなってしまいます。

長くなりました。ま、みんながいいって言っているんだから、ぼくの抱える問題意識なんて独りよがりなもんです。あなたがいい映画だって思ったんだから、それでいいんです。『ブラック・スワン』を観て、「狂気が凄い」だの「幻覚の描きようが凄い」だの言っている人たちは、当然この辺のぼくの問題なんて、簡単に解決しているのでしょう。とても頭がいい人たちばかりで、羨ましい限りです(断じて皮肉ではありませんよ)。
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ぼくにはわからなかった。どうしても『レスラー』と比べてしまった。
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 旧作ばかりと油断しているとたまーに最新映画を取り上げるのが当ブログ。
マスター曰く「女が間違って観に行って大ヒットしている」らしく、評判もすこぶる上々のようです。こんなにも悪い評判を聞かない作品って、ここ数年だと『グラントリノ』くらいじゃないでしょうか。キネ旬筋からも秘宝筋からも絶賛のご様子です。

 でも、だからこそ観るのがちょっとあれでね。観る前の嗅覚ってもんがあって、しばらく行く気がしなかったのよ。でね、いざ行ったらね、うーん、うーん。別に期待値をぐんと上げていたわけでもなんでも、ないんですけどねえ。

 ぼくはちょいちょい、世間の大絶賛反応と逆のことを感じてしまうときがありますね、こと映画に関して。『キックアス』にしても、絶賛している人たちと一緒に乗れなかった。
『サマーウォーズ』も乗れなかった。自分の中では確固たる理由があるんですけど、それはここでも書いている通りなんですけど、絶賛派の人たちはそこにはまったく触れない様子だから、見方がぜんぜん違っちゃっているわけでしょう。

 ま、そんなやつの言うことですから、話半分に読んでくださいな。たぶんぼくが間違っているんです。世間の皆さんのような目利きにはぼくはまだまだなれないのです。

 さて、いつになくひやひやしながら語り始める『ブラック・スワン』。監督はダーレン・アロノフスキーですが、彼の前作『レスラー』はぼくのゼロ年代ベスト10のひとつです。DVDも買ったし、劇場出不精のぼくとありながら二回観に行きました。その分の怖さ、というのもあったんですね。『レスラー』よりも感じ入ることはないだろうなと思って、それがなかなか腰の上がらぬ理由でもありました。期待値を上げずにいたと上述しましたが、やっぱり『レスラー』は前作としてどうしてもひとつの基準になってしまった。

 宇多丸さんが『ブラック・スワン』を評したとき、「『レスラー』の語り口で、それ以前の作品のテーマを語りなおした」という言い方をしていて、なるほどまさにその通りと膝を打ちました。狂っていくような話だけれど、抑制して描くべきところはしっかりと抑えられており、テンポも心地よかったのです。ナタリー・ポートマンの名演、ということについても、なんら異論はございません。

 ただ、ですね。ここはネットその他をちらりと観る限りだあれも突っ込んでいないんですけど、劇映画って、基本的には三人称なんですよね。本作もそうです。この手の話を三人称表現として描かれたとき、ぼくはどうしても戸惑いを感じてしまうんです。

 一人称、三人称というのはもっぱら小説で話題にされる視点形式です。
「私は自分とそっくりな女性を見た」というのは一人称。
「ニナ(主人公)は自分とそっくりな女性を見た」というのが三人称。
ほとんどの映画は三人称です。というよりも、たとえば『ブレアウィッチ・プロジェクト』のようなスタイルを採らない限りは、三人称にならざるを得ません。主人公が視点を担えど、あくまでもカメラは彼や彼女を客観的に写すことになる。一人称の場合は語り手と読者(鑑賞者)が限りなく近くその視点を共有することができますが、三人称ではどうしても、読者(鑑賞者)―語り手―主人公(視点人物)という構造を余儀なくされます。

 そうするとどうなるか。
 こと「幻覚」なる設定を施した場合に、観ている側は主人公とともに恐れることができないんです。主人公は幻覚を見ている、ということを、観ている我々は知っている、という差異がここに生じてしまうのです。裏を返せば、我々にも見えているものは、彼女の幻覚と呼ぶには決して適切ではなかろうとも言えるわけです。
 本作中で最もわかりやすいのは、リリーという女性と夜な夜な遊びに繰り出すくだりです。ナタリー・ポートマン扮する主人公ニナは、一緒にダンスを踊ったりタクシーの中で笑ったりあげくにはラブチュッチュにいたってしまうのですが、このことを翌朝に問いただすと、リリーはまるで知らないと言いだし、あれれ、あれは幻覚だったの、夢なの、何なのよ、ということになるわけです。
 これね、ニナとリリーが実際一緒にいるのを、観客は観ているんですよ。これでは「ニナの幻覚」とは呼びがたいんですよ、リリーが幽霊なら別ですけどね。

『ファイトクラブ』では、主人公エドワード・ノートンの「もうひとつの人格」としてブラッド・ピットが出てくるけれど、あれはもう別人格の具現したものとして開き直っていましたよね。黒沢清の『ドッペルゲンガー』でもそうでした。本作にもニナのドッペルゲンガーみたいなのが出てくるけど、あれは何なの? ニナの幻覚なの? でもニナが目にした幻覚だとすると、ぼくたち観客が観られるのはおかしくない? ニナの視神経を、こちらは共有できていないからさ。

さて、それが一点。
 と、もうひとつは、いわゆるひとつの「狂気」ってやつです。
 ニナはだんだんに狂っていくわけですけど、ぼくね、彼女にね、どうしても入り込めなかったんです。うん、これが大きいんですね。上述の人称問題と相まっての部分なんですけれど。

 ニナはどうして追い詰められているかと言えば要するに、次の大きな舞台の主役に抜擢されて、プレッシャーを感じて、周囲の嫌がらせだのセクハラ的な何だの母親との関係だのいろいろあって、うわああああ、ということなんでしょうけれど、あのー、なんというか、「ああ、おまえはそりゃ狂っちゃうよね」という風に感じられなかったんです。

 狂うってやっぱり、極限的な状況にあればこそだろうと思っていて、『八甲田山』における山岳部隊の彼がそりゃふんどし一丁で暴れ出すのもわかるし、『SAW』のゴードン医師が己の足首を糸鋸で切っちゃうのもわかる。もちろんそうじゃない狂気、ゆっくりと狂っていくっていうのも人間の姿で、街中で大声挙げてわめいているおっさんなんかを観ると、ああ、長い歳月のうちにゆっくりと狂ってああなっていったんだろうなあ、と思う。
 
 でも、この話はそんなに長い期間の話じゃないだろうし、狂うほどの極限とも思えない。だって彼女は別にそんなに追い詰められる必要はないじゃないですか。そりゃあ大きな舞台の主役だし、ぼくなんか味わったことのないようなプレッシャーなんだろうけど、あれに失敗したからって彼女の人生が終わるわけでもないんですよ。序盤で一度、主役が別の人に決まっただろうなって思い、「おめでとう」って言って立ち去ろうとする場面でも、強がる余裕が見て取れるじゃないですか。この舞台が駄目だったらもうおまえ退団しろとかそういうことでもないじゃないですか。それにね、幼い頃から頑張ってもバレリーナになれなかったやつだってきっといるわけでしょう。彼女はメインを張れずに来たと言っても、一応その立派な劇団にきちんと在籍できているわけでしょう。これね、ここがね、『レスラー』と大きく違うところ、だからこそ入り込めないところなんですよ。

『レスラー』のランディは、もうどん詰まりなんです。プロレスをやめたら、年老いた彼にはもうなーんにもないんですよ。長年のステロイド使用の副作用で心臓もいかれているし、家族ともうまくいかないし、もう本当に、ただ老いるだけ。過去の栄光を心の支えにするだけ。だからこそ、ものすんごく熱かったんです。

 ニナはそうじゃないですもん。この舞台で失敗したら終わりってわけじゃないでしょう。いや、バレエの世界はおまえが思っている以上に厳しいのだ、一度のチャンスを逃せば終わりなのだというかもしれないけど、彼女は「白鳥なら君を選ぶよ」と言われているくらい実力者なのだし、座長に見込まれているのだし、「これでしくじったら終わり」感がぜんぜんないんです。「おまえは処女だな、エロくないぞ」と言われたとしても、この先女を磨いてから「前とは違うんですよ、あたし」と言ってもう一段上がることもできるでしょう。ウィノナおばさんとは違うでしょう。だから、狂気に至るまでの苗床が、しっかりしていない感じを受けてしまうんです。おまえは狂っちゃうよね、狂わないとやってらんないよね、と思えない。むしろ、狂いたいのはウィノナおばさんのほうじゃないですか。彼女のほうがよほど悲惨でしょう。主人公を追い込んでおきながら、彼女よりも悲惨な目に遭っている人間を出すのは、どうなんでしょうね。『レスラー』に出てきたおじいさんとランディの関係ともまた違うし。

 監督も実はそこはちょっとわかっているんじゃないですかね。そうじゃなければ、ドラッグではちゃめちゃになるという、それこそ物語的にも即効作用のある薬なんて、使わなかったんじゃないですかね。あれをやると確かに狂いを演出できる。幻覚を見せるには、それがいちばん早いですからね。でも、それに頼るってことは、監督自身が「手っ取り早い手段」を使わざるを得なかったってことじゃないですかね。

『レスラー』を観る前、ぼくはプロレスにまったく何の感興も得られなかったんですが、あれを観てからプロレスラーの見方がちょっと、いやずいぶん変わったんですよ。それほどの熱さのある作品でした。『ブラック・スワン』を観ても、おおう、バレエのあの優雅な舞台の裏側ではこんなことがあるのか、というのは感じられなかったです。勝手に狂ったナタリーさん、という感じが強いです。

 うん、書いているといろいろと出てきてしまいますね。ニナがどうも、ああ、こいつは本当に心底バレエが好きなんだなあ、というのもなかったんです。バレエ自体に呪われているなあ、と思えなかったんです。バレエの喜びをもっと描くと、その喜びの分だけバレエ自体から呪われている彼女というのが出てきて、狂気の芯も強くなったと思うんですが、どうなのでしょうかねえ。 

 いやあ、いろいろと言ってしまった。どうしよう。みんなが褒めているからきっとみんなが正しいんですね。ぼくがぜんぜんわかっていないんですね。わからせてくれる方がいたら、ありがたいですね。

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「社会の不条理」という時代劇の十八番。これは日本映画の大切な伝統ですね。
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昨年公開の映画ですが、タイトルはなんか、大喜利の答えみたいですね。田舎の子供によるチャンバラごっこの技の名前みたいです。藤沢周平原作の映画は他に『たそがれ清兵衛』『武士の一分』しか観ておらず、彼の小説もひとつ、ふたつくらいしか読んでいないので、原作はどうのこうのだという話もできぬぼくなので、まあいつものごとく力の抜けた文章をたらたら。

 豊川悦司演ずる主人公が冒頭、お殿様や他の家臣のたくさんいる前で、一人の側室を殺してしまいます。これが映画の掴みになっていて、はてさて彼はなんでそんなことをしたのだ、というのが次第に語られていく構成です。
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 なんでそんなことをしたのよトヨエツ、というと、この側室はお殿様のお気に入りで、こいつのわがまま放題のせいで皆が大変に迷惑を被っていたからです。お殿様はほいほいと言うことを聞いてしまい、そのせいで家臣は切腹になるわ、農民は一揆寸前まで追い込まれるわ、あげくに殺されてしまうわと、まったくひどい状態になっていたのです。
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 身をもって憂き目を見たことはありませんが、世の中には「偉い人の彼女だからアタシも偉い」的な女性というのがいるらしくて、伊集院光はエッセイでこれを「女の数階級特進」と語っています。このような思考回路を持つ女性は要するに「クソ女」だとまずは言えますが、翻って考えるに、女性が権力志向を持った場合、このような方法によってのみ可能な場合というのが、おそらくあるのでしょう。女狐の奸計うんぬん、という言い方がされたりもしますが、それは男社会を生き抜くための女性の知恵でもあるわけで、一概に断罪することはできないのかもしれません(などと言えるくらいにはぼくもオトナになりました)。男ばかりが出世して女はなかなか上に上がれないのよ、数階級特進したって別に不公平ではないでしょ! ということを面と向かってがつんと言われたら、「ぐむむ」と口を噤んでしまうかもしれません。
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関めぐみという人がこの側室役なのですが、いかにもモデル顔だなと思ったらやっぱりそうで、どうも時代劇とは不調和な顔です。でもまあ、この目立つ役どころとしてはあんな風な人がいいのかもしれません。ただ芝居としては弱いですね。台本が見えました。ああいうところでは貫禄のある女優さんを使ってほしいものだ、とも思いました。

 映画に戻ります。あいつはさすがに調子乗り過ぎだよ、というわけで彼女をぶっ殺したトヨエツは、斬首になるかと思いきや、降格、減俸、それと「一年間土蔵の中で暮らすへし」という処分に留められ、生かされることになります。
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 池脇千鶴が亡き妻の姪として登場し、彼の身の回りの世話をするのですが、千鶴ちゃんはよいです。ただ、ちょっと可愛すぎるきらいもあります。いい感じでおっさんの萌え心をくすぐります。彼女を初めて観たのはフジテレビの月9『リップスティック』で、あの頃の彼女がいちばん好きだったりするわけですが、あのドラマから10年以上経つというのに、いまだに若々しい可愛さが際だっているというのは、なかなかのもんです。永作博美の跡を継ぐのは、彼女でしょう。
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いろいろふらふらしながら話を進めますが、トヨエツの物語は劇中しばらく、騒がしいことが起こりません。すっごく端正に描きよるなあと思わされますね。これはかなりのおっさん好み映画かもしれない、と思いながら観ていました。じいさんばあさんが観るにはいいテンポだと思います。ちゃかちゃかするようなことは起こらないし、かなりお年寄りにとって心地よい速さでしょう。ただ、ぼくはまだまだお年寄りではないので、そろそろいろいろあってもええで、とも感じました。

 ですが、ここが映画の奥深いところです。
 ああやってずうっと抑制してきた分、クライマックスではちゃんと熱が発散されます。今まで静かなトーンで進んできたからこそ、決して規模の大きくないあの立ち回りが、迫力をもって弾けるのです。Aメロ、Bメロがながーい曲で聴き手がちょっと長さを感じた頃に、どかんと来る。このクライマックスはとても素敵です。原作とどれほどの相違があるのか知りませんが、脚本的にもすごくよくできている。一カ所だけ、どうも意見の分かれがちな部分があるようなんですが、あれはね、どうすればよかったかというと、トヨエツに憧れている若造みたいなのをあそこまでのどこかで描いておけばよかったんです。そうすると、ああ、なるほどね、ここでこの若造が活きるのねっていうのができたはずです(観ていない人にはなんのこっちゃですね、でもそれでいいのですよ)。
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 いや、最近の映画で観た「クライマックス」の中では、相当いいです。驚きも用意していますから、「あっ」となること請け合いでしょう。
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 この映画の良さは、まあこれは時代劇に広く通ずるところですけど、社会の不条理ってもんを、しっかり描いているところです。このトヨエツ侍にしてもそうなんです。そもそも彼がやった側室殺しはみんなにとっていいことだったはずなのに、誰も味方をしてくれない。あのお殿様は腰抜けの骨抜きのパープーだぞ、とみんな知っているのに、御上だからという理由だけで何よりも優先せねばならない。側室のクソ女の気まぐれで死ななくてはならない。そしてそのために、実に不条理な戦いを強いられねばならない、そしてそのあげくに…。

 これは原作そのままなのでしょうかね。だとすると原作がすごいんですね。この物語は地味で小さく見えるけれど、その実かなりダイナミックです。ただ、小説ではどうしてもあの殺陣のすごさは描けないわけで、小説と映画が幸福に結びついている好例です。

映画が中盤で一度切れるんですよ、物語的に。トヨエツが解放されたら、一度そこで話が振り出しになる。さあ、どう展開させるんだろうと思ったときに、ああ、そうか、そこに持っていくかあと驚かされました。なるほどあれだと、実は切れていないですもんね。そして、不条理がより強い形で彼に降りかかっていく。この構造は素晴らしい。

 去年の時代劇と言えば『十三人の刺客』が大傑作でしたが、いやあ別の種類の傑作を見過ごしていましたね。あれも馬鹿殿様に引き起こされた不条理劇でしたが、あれとはぜんぜんベクトルの異なる逸品です。ビデオ屋で借りてあれと併せて観ると、ああ、日本映画は駄目だなんて言えないなあと、素直に思えるのではないでしょうか。
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眠れなくなって問わず語り。何年かの間、映画を観てその感想を書くことを習慣にしている。それを続けて思うことは、ぼくはいわゆる『秘宝』的な映画好きではない、ということだ。町山さん的アプローチで映画に詳しくなることに、あまり興味がない。

町山さん的アプローチとはつまり、その映画に関わる情報を蒐集するタイプの迫り方だ。監督の意図であるとか、音楽の使われ方とか、撮影の裏話とか、そういうものを熱心に調べて情報を知る、というもの。これはその映画を研究する最も真っ当な方法である、とは思う。

宇多丸さんがラジオで話していたとおり、『秘宝』は中学生的趣味の雑誌と見えながら、その実いちばん真面目に映画を取材している雑誌であると思う。オタクと言われる人種は実際、特定分野情報へのこだわりという点では、学者的ですらあるのだ。

今でも、オタクと学者の明確な区別がぼくにはできない。対象とする分野が学問として認められているかどうかに過ぎない、と思う。では何を持って学問と認めるのか、ということについては、おそらく学術的合意は得られていない。どの学者も、自分の学問以外については、深くは語り得ないからだ。

そんな話はさておいて映画の話。自分のブログで書き続けて思うこと。ぼくにとっての映画への興味は、その映画内で何事がいかに描かれているか、に尽きる。これは表層批評とも違う。そんなに立派なものではないし、ぶっちゃければただの感想に過ぎないのだ。

もっとスリム化して興味の在処を述べるなら、要は「どうしてこの映画は面白いのか」、あるいは「どうしてこの映画をつまらなく感じたのか」を、多少なりとも評論的に分析するということだ(ぼくは一応意識して「評論」という言葉を使わないようにしている。「評論的」がぎりぎりだ。評論なんていうほど立派なもんじゃぜんぜんないからだ。だから「なにさま映画評論」ではなく、「映画評」なのだ)。

 このあり方は、プロの批評とか映画ライターの記事としては使い物になるまい。でも、ぼくはプロの批評家でも映画ライターでもないので、淡々と感想を述べる。そしてこのあり方は、「個人ブログ」としてはそれなりに真っ当なものであるとも思う。

 読むと映画の周辺情報に詳しくなれるブログはたくさんあるけれど(そしてそういうブログの書き手は概して『秘宝』が好みだ)、「どうしてこの映画は面白いのか、つまらないのか」を映画の内容だけで語るものは、あまりないように見受ける。どうしてこの演出が効果的なのか、どうしてこの脚本の流れでは駄目なのか、そういうことを(しかもある程度のまとまった文字量で)語ろうとするブログは、ぼくが寡聞なだけといえばそうだけど、あまり知らない。

 でも、「エイガミの視点」って、つまりそういうことが大事なんじゃないかな? 情報は誰にとっても同じ意味で伝わる情報だけれど、それぞれに映画の受け止め方は違うわけで、じゃあおまえはどういう風に受け止めたの? っていうのは、実はぼくがいちばん詳しく知りたいことでもある。面白い、つまらない、うん、それはわかった。じゃあ、それはなんで? ってこと。そこが読みたいんだね、ぼくは。だから、自分自身に問いかけて吐き出す意味で、こうして書いているわけです。

 いつしか明け方の問わず語り。
 ぼくのいつもの映画評の文体は、実はもともとは人からの借り物だ。どうしても影響を受けてしまう人物のもの。何を隠そう、人生で最も影響を受けた人物の一人、松本人志である。彼の『シネマ坊主』がなかったらこのブログもなかったと言っていい。彼の映画評はたぶん、いやきっと、映画好きには評判が良くない。秘宝筋からすれば読む価値のないものと言えるかも知れない。何しろ、乏しい映画知識の中でいろいろ言っているから(「なにさま」な評言は彼譲りみたいなものなのだ)。でも、彼がどう受け止めたかってこととか、視点とかが面白いから、ぼくは好きだった。自分勝手でもいいから、自分なりの視点を持って映画を観ている人間の感想が、ぼくは読みたいんだと思う。

 さらに続く問わず語り。
 このブログはぼくの気ままなので、最新映画を追いかけてたくさん紹介しているブログと比べると、天と地の支持者数である(なにしろ交流できているブログは他にひとつっきゃないのだ)。でも、まあ、最新ものはお任せしましょう。ぼくは映画マニアでもないので、映画マニアの人たちがとっくに観ている映画を今さら観て、これから映画をいっぱい観たいなって人に、過去にはどんな映画があるのだっけ、へえ、そんな面白い映画があるのかって思ってもらうために、今後も気ままに書いていくことにしましょう。

 なんか、そんな感じのことをふと書きたくなったのでした。おしまい。
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