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学者じいさんたちがヴェリーキュート。ホークス×ワイルダーのほんわかするコメディ。
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原題『Ball of Fire』
 1960年以前の映画では、最近あまり面白いと思えるものに出会えずいたのですが、これは素直に笑って楽しめるよいコメディでした。1941年の映画、実に70年も前ですね。こういうのを見せられると、そりゃ日本は戦争に負けるわ、と思ってしまいます。当時にこんなにお気楽なコメディがつくれるんだから、余裕が違うなと思わされますね。

 ハワード・ホークス監督作はわりと観ています。『暗黒街の顔役』(1932)、『赤ちゃん教育』(1938)、『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)、『三つ数えろ』(1946)、『モンキー・ビジネス』(1952)、『紳士は金髪がお好き』(1953)、『ハタリ!』(1962)といったところです。ぼくが「ホークス」という言葉で最初に思い浮かべるのは福岡の野球チームではなく、この監督の方なのです。

 昔の映画監督でこの人と同じくらいに観ているのは、チャップリンはさておくとして、誰よりビリー・ワイルダーです。この『教授と美女』はホークス監督、ワイルダー脚本という、「夢のコラボ」なのです(しかしまあ、「夢のコラボ」という当世の流行り文句には安っぽさを感じます)。ホークスとワイルダーが組んだ映画というのは他にもあるのでしょうか、ざっとフィルモグラフィを観る限り見つからなかったのですが、あったら教えてほしいものです。
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 初期設定がまず面白いなと思いました。八人の学者たちが百科事典をつくるために共同生活を送っているのです。この辺の牧歌的な感じ、パソコンのパの字もない時代の知識人の集まり。本に囲まれた生活をしているじいさんたちの具合がなんともほんわかしています。その中で一人だけきりっとしたおじさんがいて、ゲイリー・クーパーです。ゲイリー・クーパーが「自分たちはたくさんの知識を持っているが、現代の俗語というものをまるで知らない。生きた言葉を知らねばならない」と言い出して一人、街に調査に出て行きます。
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 その先でヒロインのバーバラ・スタインウィックと出会い、彼女はとある事情を抱えたまま彼らの家にやってくるのですが、この辺の「白雪姫」感、学者のじいさんたちの「七人の小びと」感が素晴らしくキュートです。バーバラ・スタインウィックはギャングと繋がりのある踊り子で、じいさんたちを「Hey,kids!」なんて言ったりするんですが、じいさんはじいさんたちで、研究ばかりして若い女性に免疫がないものだから、固まってもよもよしているのです。「可愛い娘が来たもんだなあ」とほえほえしているのです。それまで真面目に百科事典をつくっていたであろう彼らが、彼女のダンスを真似て踊る練習をしていたりするのです。このじいさんたちによる「七人の小びと」感がいい。このメンツの続編がないのが残念なくらいです。
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 話自体はというと、既に大量に作られてきたような「惚れた女はヤクザの女」というもので、別段の新鮮みがあるわけではありませんが、この映画の物語サイズに適う簡潔な内容です。ゲイリー・クーパーが彼女に惚れるのですが、じいさんたちが応援団としての立ち位置をわきまえ、一緒になって助けているのがこれまた観ていて愉快。クーパー以外のおじいさん学者七人は研究ばかりして生きてきたわけで、女性との関係を結んだような過去も持たない人がほとんどなのですが、その中で一人だけ、「わしは昔結婚していたのじゃ。妻は24年前に死んでしまったのだが…」と言ってクーパーにアドバイスをしたりするのです。コメディとしてのほんわかぶりが愉快愉快。
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 クーパーはクーパーで真面目なんですね、そこがいいわけです。彼が遊び人だったら何も面白くないんですが、彼は彼で無骨な性格だから、バーバラの明るさと対比されるし、変にロマンティックすぎることもない。返された指輪のくだりもよかったなあ。
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 学者の集団というものについて、一切の権威性を持たせておらず、むしろコメディ的になる要素を抽出しているから楽しいわけです。研究ばかりしているから自分の分野には詳しい。けれど他のことは何も知らないし、女性との関係も知らぬままじいさんになっちゃったあの感じ。それでいて、互い互いに自分の専門分野に引きつけて話をしようとするんですね。「相対性理論では…」とか「高等数学で説明するなら…」とか、そういうのをコメディに溶かし込んで見せて、ほとんどひとかたまりでいる彼らの中にちょいちょい個性を出させる。これは七人の小びとの描き方として実に正しいと思います。
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 で、終盤だと、ちょっとした知識を活かした小さなKUFUが炸裂する場面があります。ああいうのも、知識があって知恵の効く集団なのだというのを活かしているじゃないですか。力はないじいさんたちだけれど、知識と知恵で切り抜けてやるぞというのがあってこれまた正しい。学者のじいさんが銃をぶっ放してあたふたしているのも面白い。
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 この映画の主役はクーパーとスタインウィックで、このスタインウィックのキャラクターの絶妙さというのも大きく、コメディエンヌとしてきわめて真っ当であったなあと思います。彼女と学者集団の化学反応はとても心地よい。

 70年の時を耐久しているコメディ映画だと思います。ちゃらい若者が恋愛できらきらしているような作品よりも、はるかに楽しい気持ちになれます。学者のじいさんたちのキュートさを観るだけでも価値のある作品として、お薦めするものでございます。
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アニメがいくら発展しても追いつけないマジック。撃ち抜かれるド傑作。
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 cinema_syndromeさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 ぼくは映画館で映画を観るということにこだわりを持たず、むしろ時間も手間も費やさずに観られるDVDを愛するような人間で、ある種の「映画好き」の人からすれば邪道であると見なされそうですが、今回ばかりはスクリーンで観なかったことを後悔したというか、これは大画面の前列で観たならばくらくらほえほえになったのではないかと思われるような、大変に素晴らしい一本でありました。

 手塚治虫の虫プロダクション制作による「アニメラマ」シリーズ第三弾、ということなのですが、手塚治虫は関わっていないそうですね。だとしても、これだけのものをつくられると、アニメってのはどうすりゃいいんだと思わされた作り手もそれなりに生まれたことでしょう。

あのー、キューブリックの『2001年宇宙の旅』が1968年にあって、あそこで映画はひとつの到達を見たというか、もうあの路線でやっても勝てないということがわかってしまったようにも思うんです。だから以来十年、アメリカ映画はまったく違う路線で映画を作ってきたし、『スターウォーズ』は活劇的魅力によってその後のエンターテインメント路線をつくりだした。『2001年』みたいなことをやっても、あの映画には勝てない。21世紀になってCG、VFXがこれだけ進化しても、『2001年』のようなマジックは生み出せない。

 それに近いものを感じます。アニメで言えばそれこそ宮崎駿の描き出した稠密な表現があり、『エヴァ』のような特殊にして広い支持を得る作品が生まれ、『破』では歴史上のアニメでも最高クラスのクオリティの活劇アニメ表現がなされた。

 であっても、それらは『哀しみのベラドンナ』のようなものを生み出せていないのだと思います。この路線で行くのは困難を極めると誰もが思い、回避するほかなかったのかもしれません。
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 観始めてすぐに度肝を抜かれたのはあのタッチです。水彩画を基調としており、なおかつまるで紙芝居のような仕立て。だから、いわゆる「アニメ」を予想していると大きく裏切られることになります。登場人物が喋るときも止め画で、最初のうちは「紙芝居なのか?」と思って観ていました。なんか奇襲戦法っぽいなあとも思ったんですね。挿絵のあるラジオドラマというか、これで本当に90分いけるんだろうか、と不安に感じたりもしました。ところがねえ、この方式によって、ぼくはマジックにかけられましたね。観ていくと、どんどんと引き込まれていきました。キラーショットの連続連続連続。
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 いろいろと書きたいことがありますけれども、まず、なぜ子供が実写の映画やドラマよりもアニメに惹かれるのか。これはアニメというものの特性である「画面情報量の少なさ」が要因だと思っています。アニメは現実よりも視覚的な情報量が少ない。顔の表情や舞台背景も単純化して描かれている。だから、子供の許容量にそぐうわけです。アニメに限らず絵本でもそうですね。子供が認識できるものは少ないので、幼い子供には簡単な絵柄の絵本から見せていくわけです。
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この技法を逆手に取ると、鮮烈に映ってくる。大人が絵本を見ても面白くはないけれど、それは端から子供向けに描かれた絵本を子供向けと割り切って見ているから。そうでない場合、普段数多くの情報を処理することに慣れていると、むしろ絵本的な世界に自分の想像を埋め込んでしまうわけです。これを指し示す便利な日本語がありますね。そう、「抽象」です。アニメを突き詰めていくと、抽象に行き着くのです(そうなのか? 書いてから不安になったけれど、先に進みます)。この映画が放つ抽象性には、具体的な描き込みを進化させ続けているアニメーションでは太刀打ちできない。それが「宮崎駿もエヴァも『哀しみのベラドンナ』には永久に勝てない」ということの意味です(蛇足ですが、もちろんこれは一面を切り取った言い方に過ぎません。ある面では勝てない、ということです)。
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 止め画を連続したあとで映る動き回る画は、普通のアニメよりもずっと鮮烈。細かくキャラクターや背景を動かし、カットを割っている苦労が馬鹿らしくなるくらいに、この技法が効いている。アニメなんだからキャラクターが動いて当たり前、という風に思わなくなるんです、マジックが効いているから。すごく大仰な言い方をしますが、劇中で動く主人公ジャンヌが、生命を持って動き回ろうとしているように思えてくる。決して細密ではないタッチのジャンヌの、ただうなだれるような動きが、妙な生々しさを帯びる。
 
 思えばぼくたちはアニメのキャラクターが動くことに慣れすぎている。アニメなんだからキャラが動いて当たり前と思っている。でも、そうじゃない。水彩画に過ぎなかったジャンヌが動き出したとき、ああ、彼女は生きているのだ、と確かに思う。これはねえ、アニメのキャラを動かすってことがどういうことなのか、ものすごく大胆でラディカルな形式で教えている気がしますね。
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 ちょっと軽い方面から話しましょうか。タイトルの「ベラドンナ」というのはイタリア語で「美しい女性」というような意味だそうですが、主人公のジャンヌが本当に美しい。これもね、普通のアニメでは出せない美しさですね。ジャンヌの美に撃ち抜かれた諸兄も数多いのではないでしょうか。当時、現実の世界のモダーンな美女と言えばたとえば渥美マリ、たとえば緑魔子、たとえば梶芽衣子などが思い浮かびますが、アニメ世界ではダントツにこのジャンヌじゃないかと思える。基本的に全編色調が暗いのですが、このジャンヌはその中で特段の輝きを帯びている。うん、モデルは誰かいるんですかね。ぼくは別に二次元萌え人間ではないですけれど、このジャンヌが現実には存在しないということが、なんだかとても残念に思えます。ほら、これはもうマジックですよ。ジャンヌがあの映画の中だけの登場人物だって? そんな馬鹿な! と思ってしまうのですよ。
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 音楽の使い方もいいし、シーンとの調和も絶品でした。ぼくが思わず「これは素晴らしい」と呟いてしまったのはあの「背徳と姦淫のドライブ」とでも呼ぶべき場面です。あれを実写でやっていたら、あるいは描き込みの細かいアニメーションでやっていたら、あそこまでの感動はない。所詮つくりごと、と思えてくる。でも、意図的に情報量を抜いている分、つい情報に頼ってしまうこちらの現実認識を超えてくる。酒に酔った状態で大スクリーンで観ていたなら、ぼくはくらくらしてへろへろしてふらふらのほえほえになってしまったかもしれません。
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話自体もいいんです。ぼくの好きな悪魔の話です。ベラドンナは悪魔に取り憑かれたような状態になるのですが、その展開がいい。あまりばらしたくないですね。言うなればこれは「ジャンヌ」という名前でありながら、ジャンヌ・ダルクの裏返しでもあろうかと思います。ジャンヌ・ダルクは神の宣託を聞いたと言って戦争に従事し、フランスの英雄になったわけですが、ベラドンナは悪魔ですからね。でも、この映画は素晴らしいことに、悪魔を悪として描いてはいない。神の名を持ちだして特権的に振る舞うのではなく、むしろ権力に対して徹底的に反抗し、そのうえで救いをもたらす。劇中、こんなやりとりがあります。
領主「おまえに100エーカーの土地を授けよう。不足か? それならば貴族の列にくわえよう。貴族のうちでもいちばんの、わしの次の位を与えよう」
ジャンヌ「いいえ、そんなものは要りません」
領主「ならばおまえは何が欲しいのだ?」

 さて、ジャンヌはなんと答えたか。実際に観てもらうのがいいでしょう。
 ここに悪魔性がありますね。うん、ルシファーならばそう答えるだろうね、というものです。神が、あるいは神を信ずる者が支配していた彼らの世界で、ルシファーのいちばんの模範解答はそれだね、というものです。このシーンのジャンヌがまたセクシーです。
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技法的な側面からも、また物語的な面からも、ぼくにはずびびびびびっと来る作品でありました。興行的には失敗したそうですが、わかります。これは成功しないです。でも、人によっては撃ち抜かれること請け合いです。これはすごいものを薦めてもらいました。不要にハードルを上げすぎてしまったのですが、多くの人に観てもらうには多少のハードル上げも厭いません。

 傑作。お薦めします。
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原発というメタファ。原発事故の教訓。
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 原発事故のあと、あらためて名前が出されるようになった本作。タイトルの意味を『知恵蔵2011』から教えてもらうと、
「原子炉核燃料のメルトダウンによって、核燃料が溶け落ち、その高熱により鋼鉄製の圧力容器や格納容器の壁が溶けて貫通し、放射性物質が外に溢れ出すこと。溶融貫通またはメルトスルーとも呼ばれる。米国の原子炉がメルトスルーを起こしたら、高温の核燃料が溶けて地中にのめりこみ、地球の裏側にある中国にまで突き抜けて達する事態になるのではないかということから、チャイナシンドロームという。もちろん、地理上は米国の裏側は中国ではないし、地球を貫くようなことは現実には起こらず、ジョークの一種である」

 まあ正直な話、実際に原発事故が起こったあとですから、映画で何が描かれようとも、どう描かれようとも、現実の出来事以上の何かがあるとも期待していなかったわけですが、一応有名な映画は押さえておこうじゃないの、というのがぼくの鑑賞方針でもあるので、観てみました。

原発事故の様子が描かれた映画ではなかったのですね。いや、厳密には事故なのだろうけれども、すぐさま収まったことになっているし、現実のように放射能が拡散してしまう話ではありません。内容的には、「このままだと原発事故が起きるぞ」という文字通りの警鐘映画です。この警鐘が鳴らされてから2週間も経たないうちにスリーマイルの事故が起きたらしく、すごいタイミングですね。で、そこから32年後が今年です。もはや警鐘の響きは遠く消えてしまったのでしょうか。
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 ニュースキャスターのジェーン・フォンダとカメラマンのマイケル・ダグラスが原発の取材に行くと地震が起きてトラブルが発生し、これはなんかまずい施設なんじゃないかということになり、制御室長のジャック・レモンもそれを感じていろいろと調べだし、するとやっぱりまずいことがあったぞ、という筋立てです。
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 先にも書いたように、現実の原発事故がこれだけ大きなものになった今、警鐘をいくら見つめても仕方がないです。現実の事故を見つめる方が大事です。ではこの映画はもはや意味を持たないのか、というと、それは見方としてはもったいないです。この映画を今観るならば、「原発」をひとつのメタファとして捉えてみるのがよいでしょう。実際この映画では放射能の恐怖だったり、この事故が起きるとどういう事態が引き起こされるかとかはそんなにちゃんと教えてくれないのです。だから、原発映画を観るならばもっと別のものを観るべきなのでしょう。ドキュメンタリーとかね。
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「原発」あるいは「原発事故」をメタファとして観て、現実の自分に置き直して、何かを見いだすというのがこの映画への意味ある接し方でしょう。これはこの映画に限りませんね。映画を通して何かを見いだす、これが「映画批評」の第一歩です。

 うわ、えらそうなことを言った。そんな教養もないくせに。何が「映画批評の第一歩です」だ。おととい来やがれ、そして昨日帰れ。いやいや、でも、言っていることはきっとそんなに的外れではないのです。だからぼくは今後も映画の感想と批評の間をゆらゆらしていきたいと思います。

 人生ってのは、ある意味で原発と同じです。そのこころは、「ミスや間違いを見てみぬふりをするとえらいことになるぞ」ということです。あるいは身体にしてもそうですね。体の不調や痛みが大病の警告かもしれないのに、検査を疎かにすると取り返しがつかなくなったりするわけです。だから思うに、あの事故のあとで日本中で、「事故の教訓を活かせ」なんてことが言われるようになって、原発反対とかそういうのが盛り上がるようになりましたけれども、ぼくを含めた大半の人間は、もっと個人レベルで教訓を活かすべきなのでしょう。たとえば今回の原発事故に強い憤りを感じて、「なんでそんな設計をしたんだ」「なんで検査をもっと厳密にやらなかったんだ」と怒る人がいるわけですが、じゃあその人は自分の体の検査をしっかりやっているのでしょうか。自分の生活を顧みているのでしょうか。ここなんですね。ぼく自身を含め、原発の教訓というのはそういうレベルで捉えた方がいいのでしょう。これが「原発はメタファである」ということの意味です。
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 制御室長のジャック・レモンは検査の不備を見いだし、すぐに稼働を停止するように働きかけるのですが、この動きを体制側が食い止めようとしてきます。告発的な動きに対しては暴力による阻止も厭わない。これも現実に起きていることですね。政府にせよ東電にせよマスコミにせよ、やばいことがわかっていないわけがない。それでも事実をおおっぴらにしようとはしないし、原発を減らしていくことへの舵取りもしない。なぜなのか。いちばん単純な理解としては、原発利権がどうたらとか、マスコミは御上のいいなりでうんたらとか、そういうことです。そして、それは間違っていないのでしょう。要はお金の問題だ、と一言で言い切ってもいいのかもしれない。でも、じゃあそのお金とは何か。ここをつっこんで考えてみるべきでしょう。

「お金」というものの価値を考えたとき、ひとつには「豊かな生活を送るために必要なもの」と言えます。お金があれば生活に必要なものは揃えられるし、ぜいたくもできる。だから人はお金を欲しがります。でも、お金はそれだけのものではない。お金には象徴的な意味が付与される。すなわち、自分は確かに労働してきたのだ、という証しの役割です。合法的な行為によってお金を儲けてきた場合、人は自らのその行為を肯定します。程度の差こそあれ、多少の肯定感を得られないと、やっていられなくなります。だから人は自分の過去の行為、自分が荷担した社会的営為を肯定することになるし、お金はその象徴としての機能を担うわけです。だから、もしも原発推進をやめてお金を儲けられなくなる場合、人は二つの価値を同時に失うことになります。即物的価値と象徴的価値。ものとこころ、有形のものと無形のもの。これを失ってまで別の路線に転換することは、過去を持たない子供ならばいざ知らず、年を重ね経歴も重ねた大人となると、難しいことなのです。その意味で、個人の内面的レベルにおいてもまたお金は大事なものであり、たとえ暴力を行使してでも反逆者を押さえつけたくなるのです。そしてこれもまたやはり、他人事ではないのです。原発というメタファを拡大して考えてみました。

 無教養なくせに映画からそれたことをいろいろと書いてしまいましたが、映画を通して何かを考えるのはこのブログを書くひとつの意味でもあるのでした。
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 映画のラストはいい切り方をしましたね。観客を安心させず、ぽんと投げ出してしまう。この映画の内容を考えれば、収まりの良い着地点は絶対に要らない。監督はきちんとわきまえていたわけです。原発の映画として観れば弱いですが、原発やその事故を通して何かを考えるための2時間としては、有意味な作品と言えるのではないでしょうか。今日は結構真面目な感じでしたね。ここまでです。
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母と子の話の、ある面での真実なのでしょう。
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久々に観る大林宣彦。これまでに観たのが『時をかける少女』『天国にいちばん近い島』『理由』だけなのですが、それらを観るにあまり好きな監督ではないなあと思って遠ざけていました。世に名高いカルト映画『時をかける少女』がねえ、ぼくには良さがわからんのですわ。細田守のアニメ版はねえ、内容どうこう以前に、あのオリジナルでいうところの深町にあたる少年、あの声、喋り方がどうにも。あれが耳障りで受け付けず、クライマックスをほとんど覚えていないくらいです。最近のリメイク版はだからぜんぜんノーチェックなのです。

 そんなわけで遠ざかっていたのですが、尾道三部作最終作『さびしんぼう』。一作目の『転校生』がツタヤには置いていなくていまだ未見なり。

 前半部は尾美としのりと友人二名の高校生の日常がメインです。尾美としのりという人は、ぼくがイメージする80年代男子の中心にいるような顔つきです。ザ・80年代男子という感じがするんです。あの髪型とか、むっくりした輪郭とかね。ちょっと「腹立つ古くささ」もあって、友人たちの演技もなんだか金八先生みたいだったんです。映画というよりドラマみたいな、うん、本当に当時の金八みたいなノリ。これはきついなーと思いながら観ていました。
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 学園コメディみたいなノリで進んで、ギャグも正直もう、時代的にきつい。うわぜんぜん面白くないわ、このシーンのこのくだり絶対要らんわと思うのがいくつもあって、途中で観るのをやめようかと思ったくらいでした。やっぱり大林宣彦は合わないなあと。
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 が、しかし、これがね、後半は巻き返してきますね。これは巻き返されました。変なギャグも封印して、演技の風合いも良くなった。これは難しいところですね、前半あれだけやったからよく見えたのかとも思うし、序盤から後半の感じで行って短くまとめたらよかったんちゃうんかとも思うし。だからあれです、1986年放送の『ZZガンダム』と似ています。『Z』の重みを消すためというのがあったみたいだけど、あれも序盤クールはギャグばっかりで半ばどうでもいい。でも、後半はシリーズ屈指の熱さを見せる。あれが二時間の中で行われた感じです(わかる人は少なかろう)。

 じゃあどうして後半そんなに巻き返せたのか、というに、これはもう富田靖子のとびきりの可愛らしさあってのことです。富田靖子がねえ、もうむっちゃ可愛いですね。富田靖子のアイドル映画として観るなら、後半は完璧に近いのではないでしょうか。アイドル映画というのは思うに、被写体となるアイドルが可愛く映されていさえすれば60点くらいは確保できるのです。演出も前半とはがらりと変わって、しっとりした感じになったりして、前半は腹立たしかった尾美としのりにも乗っていけたのです。
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 富田靖子礼賛を続けるならば、この映画では二種類の彼女が拝めます。「うわっ、ふたつ入ってるやんけっ」です。この二つともがまた美味しいのです。黒ごまと梅の二種類です(別に何でもいいけど)。これがまた嫌みのない、ぶりぶり感のない控えめ演技でよろしい。それでいて「~だよっ」という語尾の用い方が絶品であり(可愛い語尾感というのは女子が持つ武器です。女子の皆さん、覚えておきましょう)、笑みのふにゃっと感が柔らかくてキュートであり、『時かけ』の原田知世よりもぼくは断然こちらを推すのであります。
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 富田靖子の自転車が壊れてしまい、それを見つけた尾美としのりが手伝って帰るのですが、もうあんなのはもう、あんなのはもう、です(何なのだ)。高校生の頃なんてね、そんなもんね、そんなのなかったよぼかあ。ぼかあ雨の日も風の日も、一人できこきこ自転車をこいで行き帰りしてね、時折二人乗りしている同年代とすれ違ったりしたなら、けっ、畜生、羨ましくなんかないぞ、羨ましくなんかあるもんか、羨ましいと思ったら負けだ、ん、何だおまえら、羨ましがってると思ってんのか、ああ羨ましいさ! 羨ましいね馬鹿野郎、羨ましくないと思ったら大間違いだぞ! 覚えてやがれ! だったんですけれども(可哀相な子だったんだね)、そんなのじゃないんだね。きっと、ぼくはきっと、相手の壊れた自転車を引っ張って、一緒に歩きたかったんだね。なんていうか、ああ、いいなあと素朴に思えましたね。富田靖子の壊れた自転車を引っ張って帰り道に付き合えるなら、ぼくはいくらでも時をかけたいね。かけぬけすぎて戦乱の世に突っ込むのも厭わないね。
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映画のレビウとはとても言えない妄言が一段落したところで、再び話を戻しますが、富田靖子の清純パターンと、コメディエンヌパターンが出てきて、これがいい対比になっていました。やっぱり最初からがんがん彼女を出してもよかった気もするのですが、ではどうして二人出てくるんだと言うに、これがなかなか厄介で、なぜならコメディエンヌパターンのほうは、なんと尾美としのりの母親を演ずる藤田弓子の、若かりし頃であるという設定だからです。

 この映画がよくわからないのはここです。若い頃の母親が息子の前に現れるんです。なんで出てきたんだ、というのも少々ねじれています。母親は高校生の頃にいわば「思い出の恋」をしたらしくて、息子の尾美としのりにもその相手の名前をつけています。で、息子の前に、まるで彼に恋をしているかのような愛らしさを持って登場してくるわけです。
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 さあ、ぼくにはよくわからないのです。この構造の意味が。
「男の子はいくつになっても母親に恋をしているものだ」というのが出てくるんですね。「父と子の話」の一方に立つ物語造形、「母と子の話」。母と子の幼児的一体性を阻むものとしての父がいて、子は母との一体性を失い、また抑圧的な父との関係を個として見いだすことで大人になっていく。っていうような、エディプス・コンプレックス。この話では父は弱くしか機能しません。母が前面に来る。他人との恋を通じて母への恋を失っていくのかと思いきや、母への恋も保たれる。母の若い分身が消えた後で、ラスト、「もう彼女に会いたいとは思わない。そうじゃないと大人になれない」と言います。でも、確実に彼の中には、母への恋が保たれている(普通の高校生が「若い頃のおかあさんも美人だね」なんて言わない。言ったらそれはマザコンでしょう。映画ではそうは描かれませんが)。
 
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 だから、この映画では、母を捨てたり忘れたりするのではなく、母への恋を鮮烈な記憶として宿した上で、それでも他人に恋をして大人になっていくのだという形式を採用していて、その意味では世のお母様がご覧になっても誠に安心な映画と言えます。母と子が切り離される、一体化願望とは完全に決別する、そんなことはねえだろ、というわけです。母が子供に思い出の相手の名をつけるのもそのひとつで、悪く取ればマザコン的、息子溺愛的映画とも言えるのですが、「男はみんなマザコンだ」的な考え方もあるのであって、頑固にマザコン否定をする映画とは別の側面を、確かに切り取っているのではないかなとも思います。

母親ということでいえば、ぼくの母親は劇中に出てくる藤田弓子と樹木希林を足して二で割ったような顔をしているので、この二人が共演したときはなんだか妙な気分になりました。そんなぼくからすると樹木希林の跡を継ぐのは藤田弓子じゃないかと前々から思っていたのであって、この二人が同じ画面にいたのは面白く、話が話だけに少しくらくらしたのでした。これまでに観た大林作品の中ではいちばんはまりました。個人的には、お薦めですね。
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スターの顔を活かした作品。活劇的快楽とともに、味わったことのない鑑賞後感。
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ジョン・トラボルタ、ニコラス・ケイジの二大共演ということ以外、予備知識無しで観ました。どちらのスターも、彼が出ているなら観てみようとはならないのですね、ぼくの場合。ジョン・トラボルタは『サタデーナイトフィーバー』が印象深いけれど、そこまで惚れ惚れとして観ることはないし、ニコラス・ケイジは正直なところ、あまり好きではなかったんです。というか、彼がなぜ超一流人気俳優みたいになるのか、あまりよくわからない。三番手、四番手あたりでいい働きをするというか、日本で言うなら光石研のような、バラエティで言えば東野幸治的な人、というイメージだったんです。ところが今回は非常にその良さがわかったというか、映画の中で文句なしの存在感でありました。二大スターの共演作ということでいえば、彼らよりひとつ、ふたつ上の世代であるアル・パチーノとデニーロの『ヒート』がこの二年前に公開されていますが、いやあ、断然こちらです。アクションにおいてもその物語的深みにおいても。
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『フェイス/オフ』はそのタイトル通り、「顔を外す」わけですが、一言で言うなら、顔を交換してしまう話です。刑事のトラボルタ演ずるはアーチャー、悪もんのケイジ演ずるはトロイという人物ですが、事件の捜査を進めるうえでの必要から、特殊な手術で顔を入れ替えてしまうのです。この辺の説明はちょっと面倒くさいのですが、観れば誰でもどういうことかわかるので、省きます。
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 最初はトラボルタが正義側で、ケイジが悪なのですが、これが収まり悪いなーと思って観ていました。ケイジは悪者としてはどうも貫禄がない。トラボルタに勝てそうにない、と思っていたわけですが、これが反転したら見事に収まりました。役が入れ替わり、ケイジが苦難を乗り越えて戦う正義側になったら、そのやや頼りない感じがすっと収まった。トラボルタはジョーカー的な貫禄で華々しく躍動していた。ここまですっと反転して収まると、なんだかものすごく気持ちがいいです。作り手も、「やたっ。思った通りだっ」と思ったことでしょう。

 最初のほうはね、正直ちょっとずさんというか、あんな高度な手術をできる警察なのに、あほなことするなーと思って観ていたんです。穴が多いなー、『スキャナー・ダークリー』を思い出すなー、と思っていたんです。面白くなりそうなのにもったいない、駄目かもしれない、とちょっと期待値が下がりました。あんな風にして捜査官を送り込むのはいかがなものか、もっといいやり方があるんじゃないのか。
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 ところが、引き込まれました。途中でね、「悪の顔」=ケイジになったアーチャー刑事がどんづまりの状況を迎えるんです。「善の顔」=トラボルタになった悪者トロイにうまいことやられて、どんづまりになる。このトロイがうまいことやって復活するくだりも、設定的には穴があるんですよ。なんであんな風にやられてしまうねん、もうちょいちゃんと警備しておけ、という話なんです。でもね、どんづまりをちゃんと描いているから、観ながら「さて、アーチャーはどうやって逆転していくんだろう」とわくわくどきどきはらはらできる。これはとても大事ですね。これだけどんづまっていれば、もう駄目なんじゃないかと思うんです。でも、そこを知恵とアクションで切り抜けていく。いや、このくだりもね、うまいこと行き過ぎといえばそうなんですよ。特に最初のほう。でも、ぐんと収まりのよくなったケイジとアクション演出で、オッケーになる。さあ、この後どうするんだ、というのも継続する。この映画自体がまさに、「逆転」を果たしているわけです。
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『ヒート』はまるで必要のない家族描写を入れていたし、前の記事でもファミリー向けにファミリー描写を加える必要はない。と書いたんですけれど、本作では家族が有効に機能していましたね。物語的に、家族は必要だった。これはむしろ家族を描かないと旨味がぐんと半減するつくり。脚本上の必然から、因縁の対決に家族を織り込んでいる。収まるところにきちんと収まっていて、前半の設定的穴さえなんとかすればほとんど言うことのない映画でした。
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 2時間20分は決して短くはないけれど、この映画にとってこの長さは意味をなしている。長さ自体が意味をなす映画というのは、あまりないと思いますね。でも、この映画は2時間を切ったらここまでよくはならなかった。何なら設定的穴のカバーをすべく、もうちょっと伸ばしてもいいくらいだった。

 なぜ長さが意味を持つのか。
 この映画の最重要ファクター、「顔」です。トラボルタとケイジという、どちらも十分に顔の知れた映画俳優であることも意味をなしている。この映画はなかなかのもんです。
 
 観ている側はね、正直、ケイジに肩入れするわけですよ。苦難を乗り越えて戦い続けるケイジのほうにね。トラボルタがうまく行きだすと、ちゃんとむかつくわけです。ケイジが好きになるんです。でもね、もともとの設定で言えば、ケイジの方が悪者だったわけですよ。これが面白いところです。もうこれ以上は深刻なネタバレになります。ネタバレとか基本的にどうでもいい主義、の人間が書いていますからね。
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 観客はラスト寸前まで、ケイジにハッピーエンドを迎えて欲しいと思っている。でも、最後に笑って家族と抱き合うのは、トラボルタなんです。これは最初の設定から行けば、当然の帰結というか、普通のハッピーエンドです。彼の家族も、よかったわね、もとに戻ってすべて丸く収まって、とこうなる。でも、観客は不思議な気持ちにさせられる。トラボルタが憎かったはずなのに。ケイジを応援していたはずなのに。
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 そう、このようなマジックはある程度の長さを必要としますね。短い映画だと、トラボルタが善だったことをそれほど忘れていないし、ケイジに思い入れる時間が短くなる。それじゃあこの映画はこうはならない。この映画を思い返したとき、ケイジを応援していたのを思い出す。でも、本当はトラボルタを応援していたはず。あれ、どうやって記憶すればいいんだ? そんな風に惑うことがこの映画を見終えた後の醍醐味です。これと『スキャナー・ダークリー』は実は兄弟のような、あるいは親戚のような関係にあると思うんですけど、なんかその辺のことを考えるにはもうひとつくらい補助線が必要にも思えるなあ。また今後の議題とさせてもらいましょう。

 どうやって記憶すればいいんだ? というこの戸惑いはつまり、ぼくたちの対面記憶が顔に依存していることの何よりの証左ですね。うん、この、「顔」というファクターは、ちょっとやそっとじゃ語れないでしょう? ぼくたちは一生の間、幸いにして目が見えている限りにおいて(あなたがこれを読んでいるのも目が見えているからですが)、顔に縛られ続ける。この先、ネットコミュニケーションが進化すれば昔よりも顔への比重は弱まるかも知れないけれど、「リアルな人間関係」を結ぶときには、やはり顔からは逃れようがない。顔がいい女とはやりたい、そうでないなら願い下げ。これって何なんですかね。

 ぼくは昔よりも「美容整形」というものに対して、自分がずっと寛容になっているのを感じます。整形なんてしやがって、と言って某国を叩いたりタレントを叩いたりする人がいるけれど、顔が生まれつきの資本であり、その結果差別も生まれてしまうのなら、より良い選択を果たそうとするのにも十分に理がある。整形に反対する人間は、顔の美醜で人を判断しないと本気で言い切れるんですかね? 絶対思ってるじゃん、ブスより美人がいいってさ。それでいてブスが美人になるなと他人に言える権利を、なぜあなたは持っているのでしょうということです。

 話がそれますけれども、このような鑑賞後感を与える映画はこれまで観た記憶がありませんで、その一点だけでもこの映画は推せる。もちろん途中の活劇も見応えがあったし、一本の映画として十分に面白かった。あ、胸の傷の活かし方も、伏線として予想の一枚上でした。あの活かし方は、ちょっと格好いいですね。これぞまさに、スターの顔を活かした一品と言えるでしょう。
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何が正しいのかなんて、いつだってわからないから。
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長らくブログをやっていていろいろと気づくのですけれど、ぼくはデンゼル・ワシントンの出てくるような映画を、これまであまり観ていなかったのですね。硬派な刑事アクション、軍隊ものみたいなのをあまりおらず、彼の出演作もほとんど観ていない。特に近頃は静かで「ヒューマン」な作品を愛でる傾向が顕著になっているため、この辺で振れ幅を持たせねばならぬ、というわけで、『クリムゾン・タイド』です。これはなかなかの掘り出し物でした。

 冷戦終結後にロシアで反乱が起きて、またもや世界情勢が不穏なことになってしまった、核戦争寸前だ、みたいな世界設定です。こうなったら先制攻撃も辞さんのじゃい、というわけで、ジーン・ハックマン艦長とデンゼル・ワシントン副長の乗る海軍の原子力潜水艦がロシア近海まで潜行。核ミサイルのひとつやふたつ、いつでも撃ったるけえの、という流れになっていきます。
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 冒頭とラストを除くほぼ全編が潜水艦内で進行し、女子供はほとんど出てきません。この辺の硬派感というのは大変に好感が持てるところですね。乗組員のアメリカでの生活、家族がいてうんぬんという、よくあるような「ファミリー描写」は冒頭以外入れておらず、潜水艦の中で起こる出来事がすべてです。前にも書きましたけれど、この手の映画で「ファミリー描写」はやっぱり要らないですね。これがその成功例でしょう。女子供に観てもらうには登場人物に女子供を入れるほうがよい、と判断する映画制作者は多いようで、何かにつけて「ファミリー描写」を、あるいは「恋愛エピ」を放り込むくせがアメリカ映画にはありますが、そういうのは要らない。最初こそ出てくるけれど、後はまったく出てきませんからね。それで長くなってしまうなら、すっとメインの舞台に入って描くべきことをきちんと描いた本作のようなもののほうが、ちゃんといい出来に仕上がるわけです。

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 潜水艦内だけで話が進むわけですが、艦長と副長の間にある対立が生じます。
 ミサイル発射命令が出ていたのですが、途中で敵からの攻撃に遭い、外部からの受信機能がぶっ壊れてしまいます。実はその寸前、司令部から命令が届いていて、これが問題を生んでしまうのです。
 といいますのも、連絡装置が壊れたせいで、命令がものすんごい中途半端な形で受信されてしまうのです。述語のない命令文が届いたような状態になってしまい、この解釈を巡ってハックマンとワシントンがぶつかり、これが物語を駆動させます。
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 ハックマン艦長は「その電文は命令になっていないので、取り合う必要はない。かねての予定通り、ミサイルを発射するのだ」と主張し、ワシントン副長は「いいえ、中止命令かもしれません。ここは受信機能が回復するまで発射を見送るべきです」と反対します。こうしている間にもロシア側がミサイルを発射するかもしれない。時は一刻を争う。両者の間で派閥が生じたりして、緊迫の密室劇が繰り広げられるわけです。
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この映画の美点として、「どちらが正しいのかわからない」というのが大きいですね。 どちらが正しかったかは、その後の結果でしか判断できない。右に行くべきか左なのか、それは答えが出た後でないとわからない。どちらの言っていることにも理がある。この対立はそのまま戦争そのものをも示しているわけで、狭い空間の出来事がそれを内包する全体をも照らす、という優れた構造を有しているわけです。
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 映画ってのはやっぱり、人生ってもんと重なって見えてくると、より入り込めるものです。たとえば原発事故があって、西方に疎開した人たちがいる。かたやぼくを含め、それまでの生活を優先して関東に残っている人が大半を占めている。どちらが正しいのか、どういう選択をすべきなのか、すべきだったのか、今はまだわからない。ただ、自分たちが当然だと思っている日常も、ひとつの重大な選択の結果なのだということだけが、うっすらとわかっている。正解がわからない問いを前にしているのはぼくたちも同じことで、そういう問いに直面した人間の話というのは、それだけでも自分に引きつけて観てしまいます。
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 戦争を含めたあらゆる出来事がそうであるように、そのときにしかわからないこと、当事者にしかわからないことってのがあるわけですね。あの戦争は間違っていたとか、あのときはああするべきだったとか、そんなのはいくらでも言えるけれど、そのときその状況でベストだと思ったことを、やっていくしかない。これからだってそうなわけで、いつだってそうなわけです。この映画の旨味はそこにあるなあと思います。潜水艦内の対立のはらはら感を味わうだけでは、ちょっともったいないというものです。
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 もっと若いうちに観ていたら、きっとワシントン側にもっと肩入れして観ていたでしょうね。ハックマンがむかついて仕方ないかもしれない。でも、ハックマンだって、自分なりにベストだと思う回答を見つけようとしていたわけです。どうしていいかわからない状態で、下士官たちも自分で考えて動き出す。その一方で、全員を救おうと自分の仕事に従事した人間が、命を落としたりする。各々が各々の立場で、あの狭い潜水艦内で動き回る姿は熱かった。ハックマンが部下に銃を突きつけたのだって、彼らが憎かったからじゃない。彼は彼で、自分がなすべきことを貫徹しようと必死だったのです。
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 うん、この映画はアメリカサイドの話だけれど、そうでありながら戦争を起こす両者の立場を寓意的にわきまえている点で、なおかつそもそも戦争を起こすことそれ自体への言及にもなっている点で、とてもいいなと思いましたね。ぼくはこういう描き方が好きなんですね。映画というのは往々にして、対立があったらどちらか一方を輝かせるんです。勧善懲悪はその最たるものです。そのほうが理解しやすいし、受け入れられやすい。だけれど、わかりやすい悪なんて実はほとんどない。テロリストにはテロリストの理だってある。それはぼくたちの生活やその中で育んだものの考え方では理解に苦しむかもしれないけれど、彼らには彼らで、それをしようという道理がある。造反有理というやつです。それを批難することはたやすいけれど、『鬼畜』でも述べたように、人は文脈次第でいかような思想も持ち得、どのような選択もし得る。
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 そういうものの見方を教えてくれる映画を、ぼくは今後も愛でていくことであろうと思いますね。見てくれの派手さはないけれど、「正しい戦争映画」のひとつとして、お薦めしたいと思います。
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いろいろとえげつなくて、怖くなる映画です。
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久しくアニメを取り上げていなかったのですが、古いアニメはどんなもんじゃい、というわけで観てみました。これはなかなかいろいろな意味でえげつない映画でしたね。

 原作は平井和正と石ノ森章太郎による漫画らしいのですが、ぼくは特に昭和の漫画って、ぜんぜん知らないのです。もちろんテレビアニメになったようなものくらいは人並みに知ってはいるけれど、ちょっと深くなるだけでぜんぜん知らない。石ノ森章太郞にしても仮面ライダーのイメージばかりです。石ノ森原作をアニメで観たのは『空飛ぶゆうれい船』くらいですね。ゴックリゴックリコント、ボーアジュース。平井和正という人のことは何も知らないです。この辺で濃い話をいくらされたところで口ぽかんです。

 さて、『幻魔大戦』ですが、もうのっけからアングラめいているというか飛んでいるというか、どえらい作品になりそうだなと思わされます。不気味なばばあが夜の街を飛び回っていたり、精神世界みたいな異空間で登場人物と美輪明宏とがお喋りをして何事かをわかりあったりしています。始めに提示されることとして、何かとてつもなく破壊的なやつがいると。それで地球を滅ぼそうとしていると。それをなんとかせねばならんだぞよ、ぞよぞよ、という話です。これはなかなかきついことになるぞ、と思いながら観進めていきました。
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観ながらずっと感じていたのは、この映画はリズムがぐっちゃぐちゃだなということでした。映画が一つの音楽であるとするなら、たいていの映画はそれぞれのリズムを持って進行していくわけですが、この映画はその辺がものすごく不安定に思えた。落ち着いて観られないんですね。何をしてくるかわからない怖さがありました。ちょっとだけ、チャージマン研みたいな怖さもありました。ノリがぐっちゃぐちゃなところがね。エンディング曲かと思わせるような、すべてが解決したねみたいな曲が途中で流れたりするし。実際に観てもらえば、ああこれのことだなとわかるでしょう。
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 主人公となるのはアムロの声をした高校生、東丈、アズマジョウです。彼がなぜかよくわかりませんが超能力に目覚めていきます。このくだりは結構面白く観ました。あの異空間表現は見応えがあったし、日常と異常が入り交じっていく部分は愉快です。でも、一度ぶっ飛ぶとこの映画は相当ぶっ飛んでいくんです。これね、始まりとしては日常があるわけですよ、東丈のね。でも、途中からそれがもう何もなくなりますね。決定的だなと思ったのは、彼と姉の関係です。これはえげつない映画だ、とはっきり思う場面です。
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 普通の映画、とあえて言わせてもらうけれど、普通の映画なら、高校生の弟が突然超能力に目覚めちゃったとなったら、姉はその反対側、いわば日常側の重しとして機能するものです。で、実際普通の映画みたいに、姉のリアクションは「弟に何が起こっているのかしら」となるんです。でもね、ある場面でね、もう姉貴まであっち側の人になるんです。いやむしろ、この東丈くんよりもはるかにあっち系の人になるんです。「私たちは前世からどうのこうの、もよもよ」と言い出してしまい、そしてまた何事かをわかりあうんです。

 で、いつの間にか世界が滅びます。
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 結構中盤で既に世界が駄目になってしまいます。終末世界まるだしになります。これはもう、説得力だの物語の進行だのテンポだの途中経過だのはほとんど放り出されているのであり、「もういいのっ! 世界は滅ぶのっ!」というノリです。そこから黒人少年が出てきたりして、主人公の東丈は東京からニューヨークに飛んできて、どでかい火の玉と対決します。インドのおじいさんと合流して、窮地を逃れます。もう書きながらアホみたいな気分になってきますが、実際に観てもらうと納得いただけるのではないでしょうか。
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 この映画、マジか、と思う場面がいっぱいありますね。世界各地から超能力者が呼び寄せられるんですが、それももう、何の背景もないやつらがわさわさ出てくるんです。誰やねんの連続。しかも、俺がここにいるのは別におかしくないよな、みたいなノリで本当に中途半端に物語に入ってくる。そしてクライマックスまでおともする。ちょっと笑いますね。「何食わぬ顔で物語に横入りしてくるキャラ」って、そんなの観たことねえよ。たとえるなら、草野球やろうって言って、でも三人くらいしかいなくて、いつの間にか試合前日になっちゃって、頭数揃えるためにそんなに親しくもない人を慌てて呼び集めて、で、試合が始まっちゃったけど素性がわからないやつも仲間になっているしもうなんかどう楽しんでいいかわからない、というような感じです。

 ただね、そういうね、もう、作り手が何を考えているかわからないからね、怖いんですよこの映画は。子供が観たら泣くと思いますよ、リズムもぐちゃぐちゃだし。恐怖表現が二割増し、三割増しで怖くなる。何をしてくるかわからないんです。いわゆるホラー映画ってね、それでも一応ちゃんとシナリオがあるし、ここで観客を驚かせるぞ、そのためにここで盛り立てるぞみたいな流れがあるわけです。そう、流れがあるから観客側にも覚悟ができる。この映画の流れは本当に読めない。棒きれをめちゃくちゃに振り回してくるような怖さがあります。だから、怖い映画として観ればよくできているとも思いますよ。その辺のホラーなんかよりもはるかに怖いです。動物を引き連れながら、主人公がなぜだか愛に気づくところとか、ものすごく怖いです。
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 そもそも、主役級のロボットが、この造形です。こんなもん絶対人気出ないでしょう。その辺りからして作り手の発想が読めないから、怖い。で、馬鹿な映画だったら馬鹿だなあと笑えるんですけど、愛がどうたら世界がどうたらと言い出して、急に世界が壊れるので、もう何、怖い怖い怖い、となってきます。ウィキによると、嘘か真か、オウム真理教にも影響を与えたとか書いてあって、ああちょっとわかるなあとも思います。この変なノリはそうそう観られるものじゃないですよ。クオリティも当時のものとしては高いところは高いから余計に怖い。
原田知世を角川事務所が押したであろうせいで、必要のない台詞が随所に入っているのも怖い。
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 で、きわめつけはラストです。ラストに至るまでの部分、クライマックスはね、まあそれほど出来がいいとも思えないですが、それなりに活劇をやっているんです。いわゆる普通の映画的活劇というか、それなりのSFっぽいノリで敵をやっつけるぞ、となる。でもねえ、ラストがねえ、やっぱりえげつない。なんやそのノリ、なんです。うん、やっぱりちょっと宗教風味があるんですね。この宗教風味がラストで締めの役割を担うから、うーわー、という印象がより強くなる。これ、でも、当年のアニメ映画としては興収一位だったんですねえ。うん、活劇的な盛り立ても十分あるので、そこが話題を呼んだというのはまあわからなくはない。でも、これ以後のいろいろなアニメを観た今からすると、そんなところよりも、ノリのえげつなさが際だってきます。観てみると面白いとは思いますよ、だからお薦めです。でも、お薦めと言っても、「これ、なんかすっごい変なにおいするよ、嗅いでみ」という感じの薦め方ですから、そのつもりでご覧あそばせ、というところです。
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 ちょっとレビウしにくい映画でした。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 いまさらぼくがお薦めするまでもない名作シリーズ、というところなのでしょうか、これを悪く言うレビウは観ないし、あってもつまらない片言程度です。ぼくとしてはそこまで惚れ惚れすることはなかったのですが、白状すると、ちょっと集中力が欠けていたというのもあるのでね。後で人のレビウを読んで、ああ、そういうことなのかと思う部分もありました。かなり密度の高い映画というか、ちょっとぼーっとしていると、あれ、これはどういうことなのだっけ、と思うこともあると思います。ぼくはわりとそういうことがあるのです。映画は人よりも観ているくせに、こと外国人については、あれ、このおっさんは誰だっけと思うことも結構あるのです。

 ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード主演で、1969年の『明日に向って撃て!』と同じコンビです。話の筋立てとしては、レッドフォード演ずる若い詐欺師がギャングに恩師を殺され、畜生復讐したいんだと言ってベテラン詐欺師のニューマンに助けを求め、ギャングを追い詰めていくというような内容です。
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 うーん、ひとつあるのはね、ぼくはまじめっこちゃんになるときが多分にあるんですけど、最初に手を出したのはどっちやねん、というのもあるんですけどね。復讐譚は好きなんですけど、そのきっかけをつくったのはいわばレッドフォード側でもあるじゃないですか。真面目に働いていたのに殺された、とかじゃなくて、金を盗んだのがそもそもの発端で、その相手がギャングだったってのは迂闊ですわねえ。で、こいつらはおそらく今後も詐欺師としてやっていくんじゃないかと思うと、そこまで深く思い入れることもできないのですねえ。まあ、敵もいかさま師のギャングだから、そこをいろいろ言っても仕方ないのでしょうけれど、70年代アメリカ映画が持つ「熱さ」を考えると、少し割り引いてしまうところもあります。
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 敵のギャングのボスを殺すのではなく、いわば破産させるのが目的です。この辺の紳士感、品のよさというのはぼくがあまり観てこなかった部分です。殺すと泥沼になっていくし、それなら金を巻き上げたほうが賢いじゃないか、という方向性ですね。だからぼくの場合、映画の見方にいくぶんかの調整が必要なんです。師匠が殺された、くそ! ぶち殺してやる! という熱さをこの映画に求めても仕方なくて、ニューマンの導きによるスマートな復讐劇を楽しもうという体勢が必要です。そこをしくじるとぼくのように、あら、なんか解決しちゃってハッピー。これでいいのかな、と思うことにもなります。
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 でもまあ、誰一人傷つけずにすべてを解決して、自分たちにも利益があるというのは、考えてみるに理想的な方法ですね。相手が騙されたことに気づかないで騙しきれば、それはそれでいいというわけです。ある意味では詐欺師の最大のお手本、詐欺師とはかくあるべしというような映画でもあります。何しろ刑事まで騙しきるわけですからね。こういう解決をさせる映画ってのは、他にもあるんでしょうか。ぼくがこの映画に名前をつけるとしたら、「うまくやってやった映画」です。でも、何だろうこの、詐欺を肯定している感じ。いや、映画の舞台は1936年だし、映画は1973年だし、体制への反抗ってのはあってもいいわけですが、それにしても全部が全部うまく運んじゃったもんだね、何かを失ってもいないしね、というのがあってね。
 
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 観客に対しても騙しがありますよね。ギャングや刑事だけでなく、観客も「うわあ、騙された!」というのが大きな醍醐味のひとつです。この映画を絶賛する人の多くが、あのラストでくぅぅとなったのでしょうが、ぼくはあまりすかっとした感じもなかった。よくできているのに、なぜなのかなあと今考えているんですけれど、うーん…、「この場はうまく収まったけど感」かなあ。ここにあるのかもしれません。あのギャングもあの大金をあのままにして置くのか、あのままずらかるにしても果たしてうまくいくのか。なんか、すべて丸く収まった感があるんですね、映画の中だと。あれで高飛びをするようなラストカットがあるとこっちもすっと収められるんだけれど、あれで閉じちゃっていいのかなあというのがどうしても残る。

 ぼくには語るのが難しい映画でした。というより、旨味をうまく感知できなかった部分もありますね。ポーカーのシーンなんかはいいなあと思うし、あのニューマンの店でうまく敵をはめていくくだりも面白くは観たのですが、没入して観ることができなかったために、「ニューマンさんもレッドフォードさんも、大変うまくやったのですね」と引いて眺めてしまいました。騙すこと(=スティング)がこの映画の旨味とすると、だ、騙されたぁ! というのはぼく個人はなかった。ワイルダーの『情婦』のような痛快感はね。でも、よくできていると思うし、そうでないところをつつくのは無粋なのだろうし、楽しめる人には存分に楽しめることでありましょう。章立てきっちりでこれまたオシャレなつくり。ところで、あの音楽はこの映画のものなのですね。誰しも一度は聴いたことのあるこの曲です。 
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「陽」のポップアイコン。それでいてほろりと泣かせる。
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「有名すぎて逆に観ていなかった」シリーズ。ちゃんと観るのは初めて、というわけで、一作目を観てみました。

 東京の東側、いわゆる下町とされる地区というのは、考えてみるに東京を代表するスターを生み出してきた場所です。映画で言えば寅さん、漫画で言えば両さん、芸人で言えばビートたけし。地域密着型から全国へ上り詰めた東京の代表格、それはこの三人を置いて他になく、彼らがすべて下町から出てきたというのは面白い話です。若い世代に対して「東京の街と言えば?」と尋ねりゃ渋谷だ新宿だと名前が挙がるでしょうし、もっと上の世代になれば銀座や赤坂六本木という「ワングレード上の都会」を言うかも知れませんが、そういう場所とはまったく別の文化を育ててきた下町には、やはり独特の、味わい深い風合いが宿っているのでしょう。
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 寅さんがどういう人物造形なのか、これまではぼんやりしたイメージしかなかったんですけど、なるほどこれはなかなかに強烈なキャラクターですね。大笑いして観ました。そして、ああこれは確かに、ポップアイコンになるだけのエネルギーがあるなあと感じ入った次第です。
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 シリーズを全部観ている人からすると違うと言われそうですが、寅さんは徹底した「陽」なんですね。人の懐にどんどん入り込んでいくし、いつでも冗談を忘れない。裏を返すと、人の内面に土足で上がり込むし、空気が読めない。これねえ、人にそれなりに気を遣いながら生きている普通の人間からすると、すかっとするんですね。これが寅さんの愛された大きな理由なのだと思います。どんなときもぜーんぜん悪気というものがなくて、子供みたいな人です。これは確かに人気になりますね。倍賞智恵子扮するさくらがこれまた性格のいい妹で、おそらく公開当時劇場に駆けつけた貴兄は、時代に大きく先駆けた「妹萌え」を感知したのでありましょう。
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 彼が実際にいたらそれなりに困りますよ。社会常識に欠ける部分が大いにあるし。妹さくらがお見合いに行くのですが、そのときはもう最悪なんです。最悪すぎて笑うんですけど、一方でさくらが可哀想にすらなってくる。これはえらい男がやってきたもんだ、と思うのが普通ですわね。「絶対あかんやんこいつ」と思われても仕方ないです。
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 でもね、でも、観ていて思うのは、この寅さんは絶対に義理を守ってくれる人だろうな、と思えるんですね。金を貸してくれというかもしれないけど、死んでも返すぞと言ってくれそうだし、実際に死んでも返してくれそうなんです。ここです。ここがひとつの大きな分かれ目ですね。いや、そもそも金を貸してくれなんて寅さんは言わないぞ、というファンの方もおられるでしょうが、ぼくの見方としては、「金は借りたがるけれど絶対に返す人」なんです。これね、こいつは返してくれないかもなと思わせるキャラクターだったら最悪ですよ。空気は読めないしがさつだし下品だし。でも、最後の最後でこの人は絶対に人を裏切らないんじゃないかと思える。だから好きになれるんです。『兵隊やくざ』の勝新太郎にもちょっと近い気がしました。
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役者同士の絡みで面白いのは、前田吟です。前田吟は真面目を画に描いたような工場の工員なんですが、彼と寅さんが船の中でぶつかるシーンは絶品です。前田吟は倍賞智恵子に惚れているんですが、寅さんは「大学も出ていないやつに妹はやれるか」と怒ります。このくだりが面白い。前田吟はこんな風なことを言って反論します。
「お兄さん、ぼくは大学を出ていないが、あなたもそうですよね。じゃあもしもあなたが誰かに惚れたとして、その相手にお兄さんがいて、『大学も出ていないやつに妹はやれない』と、こうあなたに言ったとしたら、あなたは諦めるんですか」
 こう問うたときの寅さんの返しが面白い。「うわ、ぜんぜん会話できない!」と前田吟は思ったことでしょう。
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 前田吟演ずる博がいいですねえ。ほろりとさせます。寅さんがさくらについていい加減なことを言って、博は勇み足を踏んでしまうんですが、このときの、なんていうかな、純朴な青年が本気で打ち明けることっていうのが、泣かせるんです。これは『トラック野郎 御意見無用』において、湯原昌幸が夏純子に思いを打ち明ける場面同様に、目頭を熱くさせるんです。大の男が恥じらいながら、でもその恥じらいを必死でかみ殺して、言わなきゃならないことを、言わずにはおられないことを絞り出すように言うときのあの熱さ。 こういうのは日本映画で、もうほとんど死滅しているんじゃないですかね、どうなんでしょうね。たとえそうでもナイーブさを前に出してしまうことでしょうね。あるいは変にイケメンできらきらしていたりするんでしょうね。若さと爽やかさが弾けて、ぴかぴかしているんでしょうね。けっ、馬鹿野郎。おまえらにあの熱さがわかってたまるかってんだ。おまえらはJポップを聴きながら渋谷や下北をうろうろしていればいいんだ! 原宿辺りでクレープの角に頭をぶつけて死にやがれ!

ふう。
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 にわかに興奮しすぎたので引き戻すと、これはトラック野郎の菅原文太と同じところで、誰に対してもご陽気でがさつな寅さんが、惚れた女の前ではかしこまってしまうというあれですね。で、これがまた哀しいところで、惚れた女である光本幸子のところに勇んで行ったときの、あの無様さ。釣りに行こうと言って出かけたときの、あの格好悪さ。うん、あれもね、痛いおっさんですよ正直。ええ年こいてなんちゅう格好しとんねん、というのがあのくだりでびきんと来る。でもね、どうですか、ぼくたちはきっとどこかで、ああいう寅さんみたいな、痛いおっさんを愛しているんじゃないのかね。君、そこんところどうなのかね。ぼかあ好きだね。立派で常識もわきまえて仕事もしっかりやって将来のこともきちんと設計する大人がそりゃ、そりゃあいいだろうさ。でもさ、心のどこかで、ああいう痛いおっさんでありたいという思いも、あるんじゃないのかね。ええ? どうなんだねそこのところ。自分はそんな風にはまったく思わないって? けっ、なんだいなんだい。そんなやつに寅さんの良さがわかってたまるかってんだ畜生。ドトールでエスプレッソなんとかでも飲んで経済誌読んでろ馬鹿野郎。
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 なんとも変なレビウになりましたが、まあそういうね、そういう映画ですよ(どういう映画だ)。なるほどこれは折に触れ、観進めていきたい作品です。いまさらぼくが薦める必要などなさそうな名作なわけですが、観ていない人は是非、というところです。
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見せたいものがはっきりしている、キラーショットもふんだんな快作。
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 前回取り上げた『ゴジラvsビオランテ』が平成版ゴジラの一作目でしたので、平成版ガメラの一作目もついでに観てみようと思いました。ガメラの映画はこれまで観たことがなかったので、いろいろと驚かされること多く、始めに言っておくならば、ぼくは断然『ガメラ』押しです。昭和シリーズ含め、他のを観たらまた別かもしれないですけれど。

 この映画が偉いのは、ガメラ、そしてその敵となるギャオスが出てくるまでの予兆を、非常にうまく描いているところです。これは幽霊映画とも通じますね。予兆、登場、アタック。この三段階を踏まえるとき、まずは予兆が大事になる。ここをどうするか。特撮技術や戦闘シーンとはまったく違う演出が要求されるわけですが、この映画で優れているのはひとえに、「キラーショット」をうまく取り入れているところです。

「キラーショット」というのは、ぼくが今思いつきでつくった造語です。キラーコンテンツ、キラーチューンという言葉がありますが、この映画には観客の脳裏に残像を焼き付けるような、優れたキラーショットが数多くありました。これは「ガメラまだ出てこないのー?」という子供のだだこねを抑制する効果があります。なぜなら、キラーショットには観客をびびらせる力があり、子供の口をあんぐりさせてしまう力があるからです。

どういうショットなのかは映画の筋を追いつつ話していきましょう。メインの視点人物となるのは、海上保安庁の伊原剛志と鳥類学者の中山忍です。中山忍は今であれば「美人過ぎる鳥類学者」としてもてはやされることでしょう。「クリアクリーン」のCMの人というイメージしかなかったのですが、この人のアイドルっぽい溌剌とした振る舞い、松たか子っぽいしゃきしゃきした演技が映画と非常によくマッチしていました。中山美穂の妹なのですね。中山美穂ほどの人気はなかったようですが、ぼくは中山忍押しです。これからどこかで「あの頃のミポリンは~」などという会話に花が咲いたら、「妹のほうが可愛かったぞ! シノブリンのほうが素敵だぞ!」と言いましょう(シノブリンなんて呼ばれていないきっと)。
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 で、このシノブリンが怪獣に襲われた島に調査に行くのですが、そこで怪獣のものと思しきペレット(未消化物の塊)を見つけます。そこにキラーショットがありました。自分の尊敬する先生が無残な死を遂げたのだとわかるショット。ホラー演出がわりとあります。
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 怪獣映画でありながらホラー演出が結構効いていますね。夕焼けのシーンを多用して、画面全体の色調を暗く抑え、鮮やかな画に見せながら、怪獣の急襲を描く。ぼくが感動したもうひとつのキラーショットは犬のくだりです。犬がギャオスにさらわれるとき、犬の鎖がぐーっ、ぱちん、と弾ける。これでさらわれたことをわからせる。子供の頃に観ていたら鮮烈に焼き付いたのではないかと思わせるショットです。今述べた両者に通ずることとして、観客の想像力に訴えかけるという美点があります。特撮ものならそれこそいくらでもビジュアル的に描けるんじゃないかとも思う一方で、子供向けなのでそこまで過激な描写も御法度。ゆえに、想像力に訴えかけることで、その残酷さを映し出す。これはたとえば殺人鬼がやってきて、凶器を振り下ろすのを見せるのとは違う。どう違うのかは面倒くさいから省略。
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 怪獣の造形自体はね、正直、着ぐるみ感が強いですよ。前回のゴジラは90年のものですが、あれよりも着ぐるみ感が強くて、むしろ昭和期ばりばりのウルトラシリーズかとも思うくらい。ウルトラシリーズのデラックス版くらいの感じで、リアルかと言われればぜんぜんです。でも、そんなことはどうでもいいと思えるくらいに見せ方がうまいし、キラーショットもきちんと仕込んでいる。エヴァの庵野秀明監督は後にこのシリーズに携わるようですが、エヴァと似ているのもいくつかありますね。関係ないかもしれないけど、女子高生の制服の造形は、色さえ違えばもうエヴァの学校の制服ですし。キラーショットで言えば、ギャオスが崩壊した東京タワーの上で休む場面。あの辺って、なんとなく初号機がバルディエルを倒した後の静けさに似ていませんか? ここでも夕焼けが綺麗に活きていますねえ。
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 やっぱりね、子供を飽きさせない工夫というか、子供をいかにハラハラドキドキさせるかってことに主眼を置いてほしいと思うんです、怪獣映画の場合。そのことをきちんとわきまえた上で、大人が観てもすごいな、となったら理想的だと思うんです。その勝負にしっかり勝利している。実際に子供が襲われるシーンがあったりとか、街中で人々が逃げ惑うシーンもちゃんと組み入れている。前回取り上げた『ゴジラvsビオランテ』はそこがアホみたいにないがしろでした。そこがあってこその怪獣の脅威なんじゃねえの? ということです。

『ゴジラvsビオランテ』が比較しやすいのでさせてもらうと、あれと同じく、超能力的な役割としての少女が出てきますね。あの映画ではそれもないがしろ。ゴジラと共鳴して倒れるって、かあ、なんざそら。『ガメラ』でも似たようなくだりがありますが、そこにもちゃんとキラーショットを仕込むんです。ほんの一瞬だけれど、ちゃんと焼き付くように仕向ける。それがあるとないでは大違い。ちなみに、ガメラと通じ合うこの少女は藤谷文子。知っている人は知っているんでしょうけれど、なんと彼女はあの人の娘なのです。知らなかったのでびっくりしました。え、誰の娘なの? という人は自分で調べてみましょう。
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 平成版ガメラは出来がよい、というのはなんとなく目に耳にしていたところです。なるほど、よくわかりました。怪獣映画の勘どころを抑えた快作です。ガメラって大映製作なんですね。怪獣と言えばゴジラ、映画会社と言えば東宝というのに対抗し、6億円くらいで「なにくそ!」と思いながらつくられたであろうこの作品にはやはり、それなりのものがはっきりとこもっています。
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 あ、しかし、一点ほどもの申さねばならないところもあります。というのも、この映画にぜんぜん限らないんですけれど、テレビのニュースを映すときに、実際のアナウンサーを使うんです(これは本作にも携わった日テレがすっごくよくやる手です)。これをするのはお手軽なんですよ。アナウンサー役の俳優に練習させる必要もないし、リアルなものに映るし。でもね、それをされると、ぼくは冷めてしまいます。だって、現実じゃないんですから。それに、実際の出来事を明確に伝えてなんぼのアナウンサー、報道に携わる人間が、ありもしない虚構の出来事について伝えるのって、ありなんですかね? ぼくはそこらへんで、妙に真面目になってしまう。この映画にぜんぜん限らないけれど、出てくるたびに「現実ぶってんじゃねえよ」と思うんです。今まで全部自分たちでその虚構世界を構築してきたのに、そこだけ現実を利用させてもらうみたいなのって、嫌いなんです。まあ、子供向けってことでこの映画はばっちりできているから、この映画に関してはこれ以上あれこれ言いませんけれども。
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 総じて、面白い映画だと思いました。お薦めです。
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