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 ヤーニンは素敵! 泥酔拳は愉快! だからこの映画はもったいない!
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 英題『Raging Phoenix』
『チョコレート・ファイター』を観て以来、二年近く公開を待ち続けた本作。しかしなんと日本ではDVDスルー。しかもDVDは発売よりも先行でレンタルが開始され、DVDを買ったお得感も乏しいのですが、そこは我らが”ジージャー”ヤーニン・ウィサミタナンの二作目とあって、買わずにはおられません。ジージャーというのは「タイ語ではなくタガログ語で、ヴァイオリンのこと。母親の友人のフィリピン人が名づけたらしい」です。

 主演第一作である『チョコレート・ファイター』はゼロ年代マイベストテンのひとつですが、別に「ゼロ年代」でなくてもベストテン入りさせるくらいに感じ入った作品です。あらためて振り返るに、ヤーニンはその小さな肉体をもってここ数十年の格闘アクションを総括していたとも言えるのです。
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アジア格闘アクションの大家と言えば70年代初頭に人々を熱狂させたブルース・リーがいて、その後にジャッキー・チェンが一世を風靡し、彼は実に数十年にわたってのこのジャンルを盛り上げてきました。『チョコレート・ファイター』はそんな彼らのアクションへのオマージュに溢れていたのです。

 そして目を見張るのは、映画に留まらない格闘ものへの言及でした。ブルース・リーとジャッキー・チェンが世を席巻したその後、彼らに比肩するような、日本や世界の誰もが知るようなアジアン格闘スターは生まれてきませんでした。
 しかしその一方で、人々はまったく別のジャンルで、格闘ものへの愛着を表明するようになりました。それはずばり「格闘ゲーム」「アクションゲーム」です。ファミコンから連なるゲームこそが、ぼくを含めた90年代の子供たちを熱くさせたのです。『チョコレート・ファイター』のクライマックスはファミコン的横スクロールアクションを見事に実写化したものでありました。

そして特筆すべきは、それが筋骨隆々の男性俳優によるものではなく、若い女優によって果たされたということです。このアイドルを愛でずして誰を愛でましょう。ヤーニンは格闘×少女という、もっぱら二次元でのみ成功を収めてきた偉業を成し遂げたのです。

 少女ってわりに『チョコレート・ファイター』公開時は既に24歳じゃないか、と無粋なことを言ってはいけません。映画を観たでしょう。あんなにもあどけなく、なんとクライマックスの戦闘さえも部屋着同然の格好でやってのけるというあのスタイルに萌え踊ることなくして、あるいは燃え上がることなくして、何が映画的感動でありましょう。俺たちの時代にはブルース・リーがいた、俺たちの時代はジャッキー・チェンだ、なるほどそれは大いに羨ましい、しかし、ぼくは言いたい!
「俺たちの時代には、ヤーニンがいるのだ!」

 前置きが長くなりましたがそんな彼女の二作目、『チョコレート・ソルジャー』です。タイトルだけ見れば続編のようですが、これは日本の売り手が勝手につけたものですので、まったくもって関係ありません。

 前作では知的障害を持つ少女を演じたヤーニンで、台詞も多くはありませんでしたが、本作ではメイクを一新、スタイリッシュな若者と化しています。前作とぜんぜん違う顔のヤーニンを観られたのは嬉しい限りであります。
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DVDパッケージにもあるのですが、本作では「泥酔拳」なる拳法が発揮されます。これは「HIPHOPダンス×酔拳」といういかにも外連味溢れる楽しいもので、前半のダンス的な格闘はアゲアゲの極みでした。
 時代劇の殺陣もそうですけれど、映画の中での格闘というのは、一種舞踊を見るような高揚感をもたらします。リアルかどうかは二の次であり、役者たちの身動き、そのアンサンブルが踊りやショーのような見事さを湛えるとき、観る者はアゲアゲになるのです。
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 いつ消されるかわかりませんが、ワンシーンを張っておきましょう。最初、ヤーニンの台詞に変なおっさんの声が被りますが、この動画を上げたのはぼくではないので、よくわかりません。



いかがでしょう。戦いの中に悦びを見いだすという、MGS3の「ザ・ジョイ」をも凌駕するきらめきに満ちています。ヤーニンのキュートなステップにめろめろです。ヤーニンの発する「ウイッ、ウイッ」という声を聴くたび、まるで大自然を我がものとして暴れ回る野生児のような躍動を感じるではないですか。願わくばどうかぽこちんを蹴ってもらいたい(へんたい)。あるいは頭突きをしてもらいその際に飛ぶ汗を浴びたい、唾も厭わない(根深いへんたい)。

 ヤーニンに胸躍る本作であり、それで満足と言えばもう満足なのですが、ふむ、そろそろテンションを落ち着けて内容について語りましょうか。

 ヤーニンは男に振られてやけ酒を喰らい街路を彷徨するのですが、その最中に謎の集団に誘拐されそうになります。それを男に助けられ、彼から女性を誘拐する悪の組織について聞かされます。男は自分の妻を誘拐され、彼女を救うべく組織のアジトを突き止めようとしていたのでした。ヤーニンは彼の仲間である二人の男にも出会い、彼らと行動をともにするようになります。

 言いたい文句を一言で言うと、「この脚本、この物語じゃ泥酔拳を活かせない!」ということです。

 話の目的としては、「男の妻を救い出す」「悪の組織を撲滅できればなおよし」ということなのですが、どうも変にシリアスな方向に行ってしまうんです。これがいけません。

「HIPHOPダンス×酔拳=泥酔拳」の輝きはね、その戦いに悦びがあることが肝要だと思うんです。その悦びがヤーニンの至高の笑顔をもたらしたのです。ところが、話としては、「勇み足はやめるのだ。調子に乗るな。敵は手強いのだ。深刻な事情があるのだ」という方向に持って行かれるため、HIPHOPサウンドと調和したあの舞踊が拝めなくなる。

 なんでそんなことに。案の定、クライマックスではもう泥酔拳が関係なくなるのです。ぜんぜん泥酔していないのです。いいじゃん、面白いじゃん、べろべろになりながら戦うっておもろいわけじゃん、なんでそれを捨てちゃうんだ、とがっかりなのです。

 もちろんヤーニンは跳躍の連続、蝶のように舞っては蜂のように刺してくれます。しかし、いかんせんこの見せ方が前半に及ばない。『チョコレート・ファイター』のような斬新な見せ方もない。吊り橋アクションは確かに面白かったけれど、おい、泥酔拳はどこにいったんだ。ヤーニンならではだなあという感動がないぞ。萌えに乏しすぎるぞ。
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 悪の組織は街外れの廃屋みたいなところの地下にあるのですが、いざ潜ると「どんな場所やねん」なんです。本当にショッカーのアジトみたいな、現実感ゼロの空間があるんです。それはいいんです。それは別にいいの。むしろそんな風に外連味を出していってほしいの。でもね、せっかく非現実空間を演出したのに、その方向性が面白くないんだ。「嫁さんはどこにいるんだ! 嫁さんを救い出せ!」ってノリに行っちゃうもんで、HIPHOP感ゼロになるんだ。
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泥酔拳は前半だけでした。なんでそんなことに。もっとね、普通の時でも強いけど、酒を飲んだらもっと強いっていうニュアンスがほしいわけです。「ヤーニン! 酒だ!」というノリでぽいっと酒瓶を渡し、それをぐいっとラッパ飲みで、ふうと息を吐いたときの眼力でぶち抜いてほしいのです。そういうのは肝心の終盤でまったくの皆無。普通に強い人が普通に頑張っていたのです。いや、普通じゃないよ、あの戦い方それ自体は面白いよ。でもさあ、違うじゃんかあ。
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 本作では泥酔拳うんぬんより、「二人協力プレイ」がありました。そこを観れば言い方は変わります。なるほど、ゲーム的な快楽で言えば、「二人協力プレイ」はありですからね。タッグ攻撃というのは面白かった。だったら、それで押せばよかったのに。二人で放つ技とかをもっとフィーチャーすればいいのに。この映画はそっちを結構押しているんですよ。だったらそれをこそ泥酔拳と組み合わせてくれ、そうすればもう何の文句もないのですよ。それならいっそのことHIPHOPは捨ててもいい。社交ダンスでも何でもいいから見せ方はもっとあったはずだ! と、言いたくなるのです。すっごくいい素材を使っているのに、調理法がまずい。なぜこれを煮るの? 焼けばいいのに、といったところ。
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シリアス方向を入れ込んでしまったがために、泥酔拳との食い合わせが大いに悪くなり、アゲアゲな前半からしょぼしょぼんになってしまった。『チョコレート・ファイター』もそれなりにシリアスではあったけれど、多くの見せ方を駆使して面白かった。本作のクライマックスはタイマン勝負になってくるので、殺陣の快楽も乏しくなった。タイマン勝負はリーが存分に見せてくれたのですよ。ああ、ヤーニンが酔いながら雑魚軍団をやっつける場面がもっともっと観たかったなあ、ということです。
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 前半と後半でトーンが真逆な記事になりました。しかし、ヤーニンが輝く瞬間は確かにあるのであり、今後の彼女を日本で拝むためにも、観てほしいとは思います。
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シリーズ通して、楽しませようという心意気に溢れていますね。
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9月に観た平成版1作目が凄く良かったので2の『レギオン襲来』も観て、この3まで観てみました。2を観たときはぼくの鑑賞コンディションが悪かったせいもあり、あまり感じ入ることができなかったですね。永島敏行の暑苦しい感じも好みではなかったのですね。では、3はどうなのでしょう。

 3では2で出てこなかった中山忍が復帰し、「シノブリン再来」は嬉しかったです。2の水野美紀とは違う、シノブリンの「部下のOLっぽい感じ」、ぼかあ、好きだなあ。
 のっけからあほ丸出しですけれども、本作のメインとなるのは前田亜季のお姉さん、前田愛です。前回の記事で、ぼくたちはもっと前田亜季を愛でていくべきだという突然の主張を展開したぼくですが、ではお姉さんの前田愛はどうなのかというと、ふむ、個人的には少年っぽさが強くて妹ほど萌えられぬのですね。少女成分があと数パーセント濃くなっていればなあと思ってしまいますね。ふむ。
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 それにしても前々回に池上季実子を「季実子様」と呼び出し、大場久美子を愛で、その次の記事で前田亜季を絶賛し、そうかと思えば前田愛をよしとせずにシノブリンのOLらしさが好きだなどとまたも言い出すという、もはやどうしようもない人みたいな調子が続いていますが、愛想を尽かすなら尽かせってんだ馬鹿野郎。いいのっ、このブログはそういうブログなのっ!

 ああ嘘です。ちょいと情緒不安定が炸裂しただけです。読んでくれている方には感謝しているのです。感謝しているからお金をください。

 はい、本当にいい加減にします。
 さて、『ガメラ3』ですが、前田愛がガメラの敵となるイリスの封印を解きはなってしまい、とんでもないことになってしまいます。物語に厚みを持たせた点としては、彼女がガメラによって家族を殺された記憶を持っている、というところです。考えてみるに、これは特大ヒーローものが隠し続けてきた点ですね。ウルトラマンに踏みつぶされた人だっているに違いない、というものの見方は大変興味深いです。『エヴァ』の庵野秀明がメイキングビデオを担当しており、関わっているようなのですが、エヴァでもありましたね。トウジがシンジを恨みに思う、という展開。こういうのは、ヒーローの非ヒーロー面を照射する視点として面白い。そこを中軸に据えた、という設定には妙を感じます。
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 改めて思うこととしては、いかにも「フィルムらしい」90年代の画はいいなあ、というのがありますね。最近の映画、特に邦画について思うのですが、デジタルビデオカメラで撮りすぎているせいで、闇を使えなくなっているように感じます。カメラ技術には何の知識もないので深い話はちいともできませんけれども、昔の映画のよさはひとつに、闇や陰、影を十分に活かしているところがありますね。最近の邦画の多くに対して積極的に観ていく気にあまりなれない、という要因のひとつは、画が明るすぎて薄っぺらくなり、闇や陰が活かせていないのが予告編の段階でわかるからです。夜9時台のテレビドラマじゃないんだから、と言いたくなるものもたくさんありますね。VHSならではのよさってあるじゃないですか、フィルムならではのよさってのは当然にあるわけです。『ガメラ』平成版一作目はそれがフルに活かされていました。夕暮れを活かし、陰影を際だたせていた。それが画の全体にほの暗さをいつでも醸していた。

 本作もその味わいは活かされているのですけれども、1のようなキラーショットが減じていたのはいささか残念でもありました。イリスに体液を吸われ尽くして一瞬でミイラになる仲間由紀恵などが出てくるのですが、これも1で数多く観られたキラーショットに比べれば弱い。1よりもお金が出た分、特撮のレベルも上がり、ガジェットも多用できるようになったのでしょうが、1の頃のようなやったるで精神は少し弱まっていたんじゃないかと思ってしまいました。
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 それでも、ギャオスの渋谷襲撃シーンは圧巻でありました。平成シリーズを通して特技監督を務めている樋口真嗣の本領が否応なく発揮されているのであり、渋谷がどえらいことになっているのがビューティフルでした。これね、街が破壊されるのを褒めるなんて、おまえは311をもう忘れたのかと言われるかもしれないけど、そういうことじゃないんだよ。映画の凄いシーンってのは、凄いもんは凄いんだから、仕方ないんだ。現実と切り離そうぜ。現実と映画を混同するのはよそうぜ。
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 シリーズを通して、街が破壊される場面を街の目線でしっかり撮っているのが頼もしく、今回の渋谷破壊シーンでは容赦がない。ガメラの恐怖もばっちりです。願わくばもっと容赦なくしてもよかったとも思うけれど、そうすると規制が入るから仕方ないところなのでしょう。
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 気になった点としては、山崎千里がどうも安い、ということです。危険な香りのする謎の女みたいな立ち位置ですが、どうも安い。バーゲンのにおいがする。それと手塚とおるが無駄に気色が悪い。あのキャラを置いた理由がよくわからないところです。手塚とおるの気色悪さはテレビドラマの『ケイゾク』が印象深いのですが、本作ではなんか、思わせぶりなだけで結局はいてもいなくてもそんなに関係ないんじゃないかみたいなキャラクターで、ちょっと意図がわかりかねました。
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 あとは、これはもう、世代的な問題なのですかねえ。
 イリスの造形がね、ちょっと狙いすぎというか、格好つけすぎている感がしてしまったんです。ぼくね、ウルトラマンにせよ仮面ライダーにせよ、平成版みたいなのは駄目なんです。かっこよろしなー、と思ってしまう。本作のイリスは平成版ヒーローものに出てくるような造形なんです。ギャオスはそうじゃなかったし、レギオンもそうじゃなかった。昭和の職人がつくってるでー感があった。でも、1999ですからね、1999の小学生をターゲットに考えるなら、あの造形は受け入れるほかないのでしょう。ギャオスみたいな、古き良き怪獣像はそこにはありませんでした。うん、でもこれはきっと、世代的問題。
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 世代的問題ってことでいうと、小山優という人が演じた少年です。前田愛を守る男子の位置なのですが、少年誌っぽいというか、これまた変にヒーローっぽい。前田愛との恋ともつかぬ恋みたいなのを放り込まれたので、ガメラを観たいぼくとしては、いささかどうでもよかったりする。個人的な考えでは、せっかくガメラを憎む少女として前田愛を出したのだから、そっち方面でもっと膨らませてもよかったんじゃないかとも思う。イリスを育てるくだりみたいなのをもっと哀しくまがまがしく描いたほうが熱くなったんじゃないでしょうか。しかし映画ではわりと早い段階でイリスと前田愛が離ればなれになるため、両者の繋がりが少し弱い。邪悪なものに恋してしまった前田愛、でいいのに。そうすれば彼女の葛藤がもっと強くできたのに、その振れ幅がない。それで山崎千里の謎の行動なんかを見せられても。
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 ラストはよかった。あのラストはいい。格好いい。いいのだけど、その直前、ガメラと通じ合うみたいな瞬間は要らない、とぼくは思った。2でね、「ガメラは地球の守り神だ。だから場合によっては、人間の敵になるかもしれないぞ」みたいなことを言っているのだから、なまじ人間ごときと通じ合う必要はないのです。人間を守る、みたいなのは要らないニュアンスだと思ったのです。通じ合ったとしても、1の藤谷文子みたいに、あくまで控えめにしていればいいのです。孤独な英雄ガメラ、だから格好いいってぼくは思っているのです。だからこそ2で、「ガメラを援護しろ」という展開になったとき、おおおおおおおおおお、と感動を覚えたのです。そして、今回も。そんなぼくからすると、硬派なつくりの平成版ガメラにしては、ちょっと安心させるほうに寄っちゃったんじゃないかと思いました。うん、前田愛にまつわる振れ幅がどうもなあ、というのがあります。
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 平成版ガメラって、結構どれが好きか分かれるみたいですね。それはつまり、どれも高い水準をキープした良いシリーズだということです。ぼくは1が好きですね。2も3も十分に見応えがある。今後、こんな風な怪獣映画は日本で生まれるでしょうか。うーむ、うーむ、うーむ。311があったし、できたとしてもずっとずっと先のことになってしまうでしょう。うーむ。
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1ほどのラッシュはなく、残念。前田亜季のかわいさがいちばんの収穫。
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『HOUSE』を観たらふと『学校の怪談』を観たくなり、1は既に観ているので2。
観ながら思い出しましたが、2も映画館で観た記憶があります。ああ、なんかこのシーン覚えているな、と脳裡をくすぐられる感覚がありました。

 ただ、強く焼き付いていたのは断然1のほうだったのですね。2は序盤のほう、もののけが出てこない段階のシーンのほうを覚えていた。つまり、2には1ほどのキラーショットを感知しなかったのが当時のぼくで、なるほど今観てみてもこれは1に比べるとちょいと劣るかなという印象です。

1も2もそうなのですが、これはホラー映画ではありません。ジャンルわけするならば、モンスターパニック映画と呼ぶほうが適切でしょう。子供が怪異に巻き込まれても、殺されたりすることはないし、過激な表現もありません。お化け屋敷を楽しむ感覚で観るべき映画と言えます。

 前作の舞台は街の中の学校。新校舎に対比される木造の旧校舎が舞台でしたが、本作では田舎が舞台。東京から塾の合宿でやってきた子供たちと、地元の子供が、肝試しの最中に学校に迷い込んでしまい、きゃあきゃあ、という筋立てです。
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前作のお化け屋敷に比べるとパワーダウンしている感が否めません。そう考えるとやっぱり1はなかなか詰め込みがしっかりしていたなあと思います。学校の怪談に出てくるようなモンスターを連射して、くまひげさんをボスの位置に据えて、中盤からは怪異のラッシュがありました。2はややその辺が間延びしている印象がありましたね。いちばんわかりやすいのが西田尚美と米倉斉加年のシーンで、彼らは結局学校に入りもせず、別段物語に絡んでいない。一応保護者的に出てきただけで、あれを省いてもうちょっと密度を高めることが可能だったように思えてしまいます。
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 結構ギャグ路線が強いんですね。それはそれで楽しいんだけれど、1のようなキラーショットや、子供たちがパニックに巻き込まれる快楽は乏しい。もっといろいろネタがありそうなんですけどね、1で結構おいしいのを使っちゃったのかなあと残念でした。岸田今日子の使い方にしても、しょぼしょぼーんでしたね。1のくまひげさんみたいなスターにならなかった。
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 本作のスターということで言うなら、これは前田亜季です。前田亜季がとても可愛いです。迷い込んだ普通の女の子として出てくるのですが、どうせなら彼女の登場シーンをもっと増やしてほしかったですね。彼女を中心に据えてくれれば、ああ、どうなっちゃうんだろう、はらはら、というのがもっと高まったはずなのですが、わりと脇役です。登場シーンが多いのは竹中夏海という人ですが、この子は川平慈英に似ています。川平慈英に似ている少女が走り回ってもそんなに楽しくないのです。中盤は前田亜季不足に悩まされながら観ることになりました(あほ)。
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 しかし考えてみるに、前田亜季という人はそんなにフィーチャーされないですね。子役時代は『天才てれびくん』に出たり『さんま大先生』に出たりしていたようですが、大人になってからはバラエティに出ることはほぼ無くなっています。それは女優として大変真っ当であるなあと思うわけですが、じゃあ女優としてたとえば蒼井優や宮崎あおいのようにもてはやされるかというとそうでもなく、なんというか、もうちょい皆さん、彼女を愛でようではありませんか。そういえばCMのイメージもないですね。ウィキでチェキしてみると、どうやら90年代にはたくさん出ていたようですが、ここ10年ほどは数えるほどしか出ていないようです。ふうむ、本人の意向もあるのかもしれません。単純なオファーの問題でしょうか。その辺は知りませんけれども、ほいほいとCMに出て行く「女優」とはやはり違うのであります。バラエティにもCMにも出ない女優を大事にしなくてはなりません。それでこそ女優なのであります。にわかになぜだか前田亜季熱が高まりつつあるので、そのうち『最終兵器彼女』でも観てこましたろかい、という気分です。
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 映画に戻ります。
 本作に足りないものは、ラッシュです。次から次へと迫り来るもののけラッシュがないんです。一個ネタを出したらしばらく休み、その後また出して休み、という感じになってしまい、勢いがつかないのです。いいネタは1で結構使ったきらいもあるから仕方ないのですが、人面犬の置き位置ももったいない。あれはずっと校舎内に置いて、マスコット的に使えばよかったのに。それと、いちばん大きなもののけが、これまたくまひげさんに比べたら弱いんですねえ。何であの変な人形にしたのか、あれには何の伏線もなかったから、観ていても思い入れられない。最後はそれなりにどどんがどんとなっていくんですけれど、中盤でのおばけに満腹感がないため、え、もうクライマックスなのかい、今回のコースはメイン料理が弱いなあと思ってしまいます。
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 字面で観ると酷評しているように読めますね。実のところ、そこまで厳しく言う気はないのです。要するにぼくとしてはもうちょっと前田亜季を出してほしかっただけと言えばそうなのですけれども、いざ書き出すとこういう調子の捉え方になります。なまじ1に惚れているだけにね。土台子供向けのお化け屋敷映画ですから、本当はそこまでうるさく言う必要はなくて、それなりに笑って楽しめばいいんです。だから別にこれはこれでよいのです。ただ、1には及ばないというのは確かです。

 3はおそらく観たことがないのですが、『ガメラ』の金子修介監督で、前田亜季も出るようですね。だったらチェックしなくてはなりません。今日はこれまでです。
 ひひひひひ。
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神々しいまでの季実子様。飛んでるアイドル映画として絶品なり。
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大林宣彦、商業映画デビュー作です。先月に観た『さびしんぼう』がよかったので観てみましたら、これまた面白い作品でありました。なおかつ、アイドル映画としても大変に素晴らしいものであるのでした。

『さびしんぼう』では富田靖子が輝いていたわけですが、『HOUSE』における池上季実子はそのさらに上を行くというか、もう本当に観ているだけでめろめろです。めろめろ。
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 彼女を含めて七人の女子が出てくる映画で、ウィキによると「ハウスガールズ」なる宣伝ユニットを組み、「かなり人気が出た」そうです。でもまあ正直、池上季実子がずば抜けているというか、映画を観ていてももう周りと違うんです。一人だけ位が違う。公開当時の彼女は18歳ですが、こんなのが学校にいたら、同じクラスにいたら、もう、逆に学校に行けません。あまりにも眩しすぎて目をやられる恐れがあるし、なまじ多感な時期の妄念に駆られなどしたら授業中に発情、お縄頂戴になること請け合いであります。ラストにね、ストーリー展開とは不調和な、アイドルのイメージビデオのシーンみたいなのがちょっと流れるんですけれど、あんなものを見せられたらこちとらはめろめろになるしかないじゃないか! 
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 大林監督のアイドル映画手腕というのはデビュー作でもはや最高潮の域に達していたと言えましょう。最近の映画監督はあまりアイドル映画で評価を受ける人がいないようですね。アイドル映画たり得るような作品はおそらくいっぱいあるだろうし、被写体も溢れんばかりにいるはずなのに、どうしたことでしょう。今、アイドル映画を撮れるとなったらその監督は引く手あまたに違いないのですが。

 映画はと言うと、CF出身の監督らしい、試みに満ちた一本でありました。80年代ならばまだしも、これを70年代にやっているのはすごいですね。蛮勇の連続です。映像効果が積み重ねられており、地味な日本映画の中にあって傑出した作品とも言えましょう。今でこそね、それこそ同じCF出身の中島哲也監督みたいな映画を撮る人はいますけれど、当時にこういうことをやるっていうのは勇気があるなあと思います。それが馬鹿馬鹿しさに振れている点もいいし、細かい部分にも気が利いています。冷蔵庫を開けると「イヤン」という声がするとかね。お笑い風味もしっかり効いている。
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 季実子様演ずる「オシャレ」(この映画では『太陽にほえろ!』よろしく、登場人物にあだ名がついています)のおばちゃまのお屋敷に行くことになるのですが、そこで待ち受けていたのは南田洋子扮する不思議なおばちゃまと、おぞましい怪異の数々なのでした。
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 怖い映画といえば怖い映画なんですよ、何しろ少女たちが次々に失踪し、惨殺されるわけですからね。でも、ホラーに寄りすぎて表現の幅を狭めることなく、もっと訳のわからないものにしてやろうという野蛮さに満ちている。変な映画、として成立している。
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 これを少女限定の物語にしたのは実にいいですね。ここに男が入っては駄目だろうなと思います。少女たちが振り回されている様は大変に愉快なのであります。季実子様が図抜けているのですが、大場久美子の適度な可愛さがこれまたよいです。普通の子なんです、言っちゃえば。でも、普通の子の可愛さが季実子様と対比されていて、彼女が同じクラスにいたら普通に嬉しいです。スタイルの感じも現在に通じるんじゃないですかね。うん、適度に可愛いです。「ファンタ」というニックネームの等身大っぽさが、前田亜季っぽくていいです(何を言うとんねん)。いや、でも、これは『バトルロワイアル』における前田亜季の、適度な可愛さに通じるものがありました。今思うにあの映画でも栗山千明や柴咲コウなどのとんがり美女が活躍していましたが、その一方で「守られるべきヒロイン」として前田亜季を置いたのは、きわめて素晴らしいキャスティングバランスだったのです。
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 他の五人について言うと、「クンフー」の位置にはもうちょいきれいめの子がいるとさらによかったと思います。あのキャラはたとえば『ハルヒ』における鶴屋さん的な、あるいは『セーラームーン』におけるジュピター的な置き位置なので、ここにさらなる美女キャラがいたらアイドル映画としてもう一段レベルアップでした。「スウィート」はよかったです。当時であの風合いを出しているのは慧眼です。結構キャラわけがはっきりしていてわかりやすいです。

 でも、他の三人はちょっとです。70年代当時としては知らないけれど、今観るに明確なおぶすさんもこれいるわけです。これが全員美女だったらぼくは何も言わなかったでしょうに、むむ。しかし、これまあどこまでを制御していたのかわからないけれど、おぶすさんはおぶすさんなりのインパクトを持ってやられていきますからね。ああ、これはおぶすさんでこそおかしけれ、と思う場面もあったりして、作り手のすごさをその辺にも感じる。

ホラー演出として、今観てもいいなと思えるものも多かったですね。これだけいろいろやっているからこそ勢いがつくというのもあって、クライマックスの赤い水の洪水は迫力がありました。あの中を翻弄されていく大場久美子=ファンタには季実子様とは違う萌えが確かに宿っているのでありました。
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 この映画について瑕疵を問う気にはあまりならないです。むしろ攻めているところを賞賛したくなります。だって、そりゃ褒めますよ、だって、だって、なんたって、季実子様のパイオツが拝めるのですから!(もうちょい上品な言い方せえ)

 ええい、好感度が下がろうが何だろうが本音で書いてやるんだ。もともと好感度なんてないんだからいいんだ。この映画の季実子様はね、公開当時18歳ですけれども、たとえ短いカットとはいえ、ぼくらの味方であるあのおぱーいを露わにしているのです。それだけでももうこの映画はいいのです。さすが季実子様です。別に出さなくてもいいシーンなのに、おぱーいを見せてくれているのです。大林監督のスケベ精神を賞賛してやみません。
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 アイドルを綺麗に映して、そのうえおぱーいまで映したとなれば、もうそれでいいじゃないですか。何を文句を垂れることがありましょう。最近の女優もアイドルもアイドル映画制作者もぜひ見習っていただきたい。特に必然性もなくおぱーいを出していただきたい(何を言うとんねん2)。

 これまでの記事の中でも最も品のない、気色の悪い部類の文章になりまして、ただでさえゼロであるところの女性読者支持層をあらためて失うに至り、その点に幾分の反省はあるのですけれども、「飛んでるアイドル映画」の傑作を薦めるに当たっては、品格などは忘れてやるのであります。観てみるとよいでしょう。
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アメリカ映画には出せない味
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振り返るにロシア、ソ連の映画というのはほとんど観たことがありません。タルコフスキーも観たことないし、観たのはここで取り上げた『コーカサスの虜』くらいかもしれません。

 本作は旧ソ連で大ヒットしたらしいのですが、アメリカ映画を見慣れているぼくからすると、特に1986年という時代と照らし合わせながら観ると、うわあ、ソ連って、という気持ちになりますね。ライバルたるアメリカが80年代に華やかな作品を連発連発していたのに対して、え、これが大ヒットするのか、ソ連って、と思います。なんか怖いですね。
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 主人公の男二人が街角から瞬間移動して、砂漠の広がる異星へと旅立ってしまい、そこでのあれやこれやが描かれるわけですが、先に言っておくこととして、SF的な華々しさはゼロです。80年代のSF映画、アメリカ作品においては華やかさに充ち満ちているわけですが、こちらはもう、なんか、荒涼として錆びきっていて、「ああ、社会主義国末期のえらいところ出てるわー」と感じます。でも、アメリカでこの世界観、映画の風合いは出せないでしょうからね。ソ連ならでは、なのではないでしょうか。地上に文明の姿が見られないディストピア的風景でいえばオーストラリアの『マッドマックス2』がありますが、あれは華やぎに満ちていたじゃないですか、美女キャラもいたし、敵もキメキメだし。
 
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 『キン・ザ・ザ』に出てくるのは汚いおっさんばかりです。女性も出てくるけれど、主人公と絡む相手のほとんどは汚いおっさんです。それで大ヒットするというのも凄いですけどね。セックスもバイオレンスも、目を見張るような特撮やSFXもほとんどなしで、汚いおっさんが砂漠でごちょごちょやっている映画がヒットするって、どんな文化的背景やねん、社会主義国怖い、ってなもんです。
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 それが余計に「異星感」を醸してくれるんですね。ロシア語自体が耳慣れないのに、輪をかけて異星の言語が発される。何を考えているのかよくわからないわけです、ぼくには。アメリカ映画だったらね、わりと予期できるわけですよ、その後の展開を。たとえ事前情報を持たずに観る映画であっても、どんな風になっていくかなんとなくわかる。でも、ソ連製のこれはぜんぜんわからないですからね。どうなっていくのかよくわからない。作り手が何をしたいのかがなかなか読めない。だから、異星を旅する不安感をより共有できるわけです。
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その分、体感時間は長くて、観終えたあともちょいと疲労感。観ながらの安心感があまりないですからね。繰り返しになるけれど、なんかソ連の怖さがあるんです。1985年公開の『マッドマックス サンダードーム』でも、地下世界みたいなのが出てきますけど、あれはメル・ギブソンっていうヒーローもいたし、映画自体が結構イケイケなわけです。でも、こっちの地下世界はなんかね、ガチ感があるというと変ですけれど、地下のトンネルひとつとっても生々しさがあるんです。あの錆びた金属の不気味さは、西側の英語圏には到底出せぬものよなあと思いました。
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 うん、「暗さ」ってことにかけては、アメリカ映画の比ではないんですね。ぼくのイメージだと、アメリカの大地には太陽がよく似合うんです。その大地を活かした名作が山のようにつくられてきた。一方、ソ連の大地が見せる曇り空や闇の風景は、おぞましさを感じさせるのです。陽気に振る舞ったりおちゃらけていたりするんだけれど、どうも明るくない。寒々しさというのはかくなるものか、と思う場面がいっぱいあって、ディストピア風景としては素晴らしいものがある。
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 ぼくのイメージする「ソ連風味たっぷり」の映画でした。アメリカ映画には出せないいろんな味が含まれているという点で、観てみるのも一興かもしれません。
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利口になるのはたやすいがそれじゃあ大事なものを失ってしまうんだ、という話にぼくは弱い。
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 原題『The Verdict』
今年の4月に亡くなったシドニー・ルメット監督。彼の作品は『12人の怒れる男』『セルピコ』『狼たちの午後』『その土曜日、7時58分』しか観ていないのですが、独特の重みがありますね。ふわっと観ることを許さないという感じがして、こちらもある程度コンディションを整えて集中度のあるときでないと、十全に鑑賞できないという印象があるのです。別に難解な作品とかいうのではぜんぜんないですから、あくまでもざっくりした印象の話ですけれど。

 さて、『評決』です。
 主演はポール・ニューマンで、彼は弁護士を演じています。いわば落ちぶれた弁護士として登場するのですが、今までぼくが観てきたニューマンの印象とはずいぶん違う役どころでした。『暴力脱獄』『タワーリング・インフェルノ』『ハスラー』などで見られた力強さとか、『明日に向って撃て!』『ハスラー2』『スティング』などで見られた頼れる兄貴感、師匠感はそこになく、冒頭のやさぐれ感が新鮮でした。ウィキによると、「『自分の長いキャリアの中で初めてポール・ニューマン以外の人物を演じた』ものだと述べた」そうで、ピンボールをする最初の横顔ショットはイーストウッドっぽくもありました。序盤のニューマンにイーストウッドのイメージを重ねたのはぼくだけではないでしょう。
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 落ちぶれ弁護士のニューマンは病院の訴訟事案を依頼されます。示談にもっていけばそれなりにお金がもらえるという仕事で、その方向ですいすい話が進みます。ところがどうもこれは示談で解決するのはよくないのじゃないか、という考えが持ち上がり、展開は一転。示談なんかやめじゃい、裁判するのじゃい、相手は大病院だろうが知ったこっちゃあるかい、ということになっていきます。
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 わりと最近に取り上げた『フィクサー』はこれと似たような展開ですね。与えられた仕事を言われたとおりこなせば自分にも利益がある。だけどその簡単な解決策を捨ててでも、たとえ危険な道であってもやらなくちゃいけないと感じて、立ち上がるというお話。

この手の話にぼくは弱いです。
 楽に賢く立ち回ろうと思えばできるけれど、それじゃあ男が立たねえよ、という話。
 世渡りのうまいオトナになることはできるけれど、それじゃあ俺自身が納得いかねえんだよ、という話。こういうのは、ベタな言い方ですが、「勇気を与えるお話」です。

 『ロンゲスト・ヤード』もそうでした。ここで言いなりになったほうが絶対賢いのはわかっている。でも、ここで賢くなって、本当にそれでいいのか? という問いかけがありました。記事でも書きましたが、刑務所に30年服役しているじいさんの台詞がいい。

 やっぱりね、「納得いかないことには納得いかない!」っていう姿は、どうにも思い入れてしまうんですね。そういえば久しくそうした自分を見失っているな、と思います。高校生の頃は思春期的苛立ちもあってそういう噛みつきもしたものでしたが、久しく忘れている。

 高校の頃にね、四月から五月にかけての放課後、一二年を対象に、「応援練習」なる謎の時間があったんです。応援部のいかつい二三年生が仕切るもので、グラウンドか体育館に一斉に集められ、そこで「応援歌」とか「凱歌」とかそんなのを歌わされるんです。これね、「応援練習」なのに「本番」がないんですよ。何しろ運動部が弱いし、学校を上げて試合を応援に行くとかいうこともない。さっぱり目的がわからない。
 だけど、いかつい二三年生が取り仕切っているものだから、周りの生徒はその直前、生徒手帳片手に一生懸命歌詞を覚えているんですよ。で、合唱するんですけど、歌わないとみんなの前に立たされるんです。
 バカじゃねえかとぼくは思った。何のためなのかさっぱりわからず、教師に聞いても「学校の伝統だ」としか言わない。だから歌わなかったので、みんなの前に立たされました。 でね、ぼくの他にもそういう生徒が数人いたんですけど、そうすると応援部の連中がぼくたちを取り囲んでガンを飛ばしてくるわけです。なんだてめえ、みたいな。
 でも、ぼくは歌わなかった。そのあと何か面倒なことにたとえなったとしても、別にいいと思った。いや、むしろ面倒になってほしいとすら思った。そうすればこの意味不明な「伝統」を問いただせると思ったから。
 結果、別にその後応援部に目をつけられることもなかったので、後日談は特にないのですが、ある意味で貴重な体験でした。おかげで高校時代は変な人扱いをずっとされていたのですが、そういう心性はぼくの根本にあるのですね。同時に、普段いきがっている同級生たちが余計バカに思えた。なんだおまえら、いつもは不良っぽくやっているくせに、こういうときは従順なのな!って。賢くやっているおまえらが、俺は本当に嫌いだよって。
 この手の小事件は「駐輪場事件」「予備校のために早退事件」などもあるのですが、別の機会に譲りましょう。
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余談が長くなりました。映画について語りましょう。
 クライマックスは法廷劇なのですが、法廷劇というのは「最も動きがなく、最も緊張感のある場面」のひとつと言えるのではないでしょうか。言葉のやりとりだけで、その後の人生が左右されるわけです。だから裏を返せば映画特有の快楽があるとは言えない。舞台や小説のほうが引き込まれるかもしれない。でも、物語的快楽が炸裂する装置であるのは確かです。
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 敵となる病院弁護の弁護団がまた腹の立つ感じでいいですね。ニューマンの味方はジャック・ウォーデンの先輩弁護士くらいしかいないのですが、向こうは大きな会議室でエリート然とした連中が作戦会議をしているんです。いけ好かない感じがたまりません。
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 シャーロット・ランプリングという人は目に特徴がありますねえ。似顔絵を描くときは円の下半分、半円の形のおめめになります。一重っぽい目ですね。そのときの顔はあまり素敵に思えないのですが、寝室のシーンでは違う目つきに見えて美人度が上がり、不思議です。我ながらなんて底の浅いことを書いているのでしょう。
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 うん、いや、映画自体はね、堅実なルメット節という感じで、このシーンを見よ! このシーンは焼き付くぜ! というのはあまりないかなというところなんです。スリリングさがわかりやすくあるものではなくて、「骨太なドラマ」という印象なのですね。でも、そこにこそ味があるのじゃあないかね、と言われれば、うむ、その通りであるなあと思います。
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 ただ、話のオチの付け方というか、解決の仕方はなんとかならんかったんかい、というのはあります。簡単に言うと、人情話っぽいんです。不利に転がってるぞ、どうするねん、どうなるねん、と思っていたら、正義がどうのということをニューマンが演説して、ひっくり返しちゃうんです。そりゃ映画を観ている側は確かにニューマンの裏の活躍を知っているし、彼に思い入れて観ているわけですが、陪審員はそうじゃないですからねえ。あれでいいってのは、なんだかなあ、です。そこはやっぱり、ニューマンの正義が別の誰かの、それこそあのランプリングの正義を突き動かして、彼女が出てきて、証拠とともに気持ちよく勝利すればよかった。正義がどうのという演説をしてそれでいいのかな、と思うんです。それを言わずしていかに描くか、みたいな部分が醍醐味じゃないのかなと。あれで勝てるってのはどうにももやもやします。あの証人の女性のインパクトとニューマンの演説だけやないけ、という気がして仕方ない。法廷劇としてのつくりは、うーん、です。

 でも、そう考えるとラストのラストもわかるんですけどね。あの電話を取らずにおいたのは筋が通っている。ランプリングは結局、ニューマンと対比される弱さの象徴でもあったのかなあと思います。なるほど、それを考えると、ランプリングの活躍に話を持っていかなかったのもわかるか。でもなあ、そこはリアルではあるけれど、でもなあ。

 いくぶんの迷いを持たせる結末です。あの終わり方をどう捉えるか、というのを語らせる映画であることは確かでしょう。今日も今日とてふらふらした話を続けてしまいました。ここまでです。
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ゾンビ映画はまだまだ「遊びしろ」がありますね。
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 アメリカ国内でのゾンビ映画興収一位を塗り替えたという本作。タイトルはアホみたいにわかりやすいですから、キャッチーでもあるのでしょう。ゾンビ映画を観たのは久々ですが、やっぱりゾンビ映画というのはわかりやすくていいですね。

 モンスターもの、クリーチャーもの、幽霊ものなどありますけれど、ゾンビって説明が要らないんです。他の類はその映画その映画で説明が必要じゃないですか。どうしてそういう存在が生まれたかっていうね。ゾンビはそこは無視できますからね。アメリカ中がゾンビだらけになった、という時点から始めていいので、スタートダッシュがかませます。
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ぼくがゾンビ映画を観る際のポイントの一つは、「ダッシュゾンビ」か「のろのろゾンビ」かということです。「のろのろ」はロメロ印が押されているわけですが、ぼくには合わなくて、がうあーっと襲いかかってくる「ダッシュ」のほうが好きです。本作はその点が好印象でした。人間を見ると猛ダッシュしてくる。これがいい間合いを生みます。

 本作の特徴としては、これはエドガー・ライトっぽいところで、いろいろとパロディとかオタクネタみたいなのを入れてきたりしますね。『ショーン・オブ・ザ・デッド』で既になされていたように、ゾンビを既知の存在として捉え、過去のゾンビ映画の突っ込みどころをいろいろとばらしていく。『ゾンビランド』以前のゾンビ映画興収一位が『ドーン・オブ・ザ・デッド』だったことを鑑みても、時代は完全にポスト・ロメロになっています。かつて描かれていたゾンビ、既に飽和状態にあるゾンビ映画でどう新しい見せ方、切り口をするか。本作もその試みに満ちた作品だったと思います。
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 でも、裏を返せば、ロメロを筆頭とする過去のゾンビ映画を観ていないと、パロディを楽しめないのじゃないかとも思う。その意味でも、過去作を観ていくのはやはり大事なのです。『ゾンビ』を観ないで『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『ショーン・オブ・ザ・デッド』を観るのは、なんだかもったいない気がします。
 
 さて、『ゾンビランド』ですが、お話にツイストがあって愉快でした。主人公は『ソーシャル・ネットワーク』のジェシー・アイゼンバーグ。伴走者は『ナチュラル・ボーン・キラーズ』などのウディ・ハレルソン、それと姉妹としてエマ・ストーンという人と『リトル・ミス・サンシャイン』のアビゲイル・ブレスリンが出てきます。ブレスリンはいい感じでむかつくガキを演じていましたね。あれははまり役だったと思います。こまっしゃくれた感じ、ちょっと腹立つクソガキ中学生っぽさがよく出ていました。
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 この四人がアメリカ中を走り回るのですが、パッケージの感じからもわかるように、あまりホラーテイストは強くないです。その意味でも、この映画に怖さを求めたりハラハラ感を求めたりすると裏切られる。銃をぶっ放しまくるしゾンビをぶち殺しまくるけれど、ゾンビは「殺され要員」なんですね。ゾンビ映画は少なからずそういうものだけれど、本作は特にそういう感じがしました。というか、ある人物に関するある出来事が、この映画のポイント・オブ・ノーリターンでした。あえてばらさずに置きますが、あの人物をあのように扱うってことは、もう殺し殺されの緊迫感勝負はしないよ、という表明でもあったわけです。それにしてもあれはびっくりしましたね。まあ、アイゼンバーグの動きとしてはそこだけはリアルなんですけど。
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 また一方で、ゾンビに殺される人も殺される人で、殺され要員感がものすごく強いというか、殺され要員ですらなくなっていますね。たとえば「生き残るためのルール」みたいなのを言うんですけど、そのときに「トイレにご用心」というのが出てきます。このときも、トイレで殺される人が出てきて、そのときのノリとしては「ね? 気をつけなくちゃダメなんだよ、あはは」な感じですから、人扱いすらされていないところがあります。土台真剣なドキドキ感はないわけです。

 それでも『ショーン・オブ・ザ・デッド』にはあったんですけどね、あれもゾンビ映画をパロディ的にして笑いを取るところがあったけど、その分の落とし前というか、実際ゾンビに登場人物が無残に殺されてえらいこっちゃになる場面はあった。白熱はあった。『ゾンビランド』にはその辺の旨味は乏しいです。
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 変な話ですが、ゾンビに花を持たせる局面があまりないのです。一カ所凄くいいところがあるんですけれどね、前半の、主人公の家の中の場面。あの間合いはとてもよかった。あれですとゾンビサイドとしても納得でしょう。「ゾンビ芸能事務所」があったとしたら、そこの社長は「うむ、うちのタレントに見せ場をつくってくれておる」と好評を与えるでしょう。でも、それ以外はね、あの姉妹が結構振り回すものだからそっちに持って行かれちゃった感がありますね。集団でぐわーっと襲いかかるエキストラ諸君になっているか、もしくはあの屈強なハレルソンの遊び道具化している節がある。ゾンビに対して一丸となって、というのは弱いと言えば弱い。でも、いろいろな試みはゾンビ映画にとって有益ですから、そこはいいのでしょう。
 
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だからいっそのこと、コメディとしてわりきったほうがいいわけですね。そうやって観る映画です。でも、それならそれで、たとえば『ショーン・オブ・ザ・デッド』のラストで、ニック・フロストがああなっちゃってそれでも笑えたみたいに、ゾンビがあんな風な結末をもって社会に迎えられていたみたいに、もうちょい面白みがあってもよかった。そうするとゾンビ芸能事務所の社長ももっと気分がよかったでしょう(だから誰やねんそれ)。いろいろやりようはあると思うんですけどね、遊園地とかスーパーとか出したんだから、そこであほみたいなことをやっていても面白いでしょう。メリーゴーランドに回されているゾンビとか、スーパーで買い物ごっこをしているゾンビとか、「遊びしろ」はありそうなんです。ハレルソンの好物のお菓子をもさもさ食っていて彼にどつかれてもいいでしょう。コメディにするならそこまでやってもよさそうですけれどね。2をつくるときはぼくを会議に入れてほしいものですね。誰かエージェントになってください。英語が喋れないので通訳も必要ですからお願いします(あほか)。

 あとはまあ、うん、あの姉妹について言えば、窮地に陥りますけど、「二度も勝手に車に乗っていったので殺されても別にそんなにショックはない」というのがあるので、あの遊園地のクライマックスがそこまで燃え上がらなかったですね。この映画の弱さとしては、あの姉妹が男二人を一切助けない、というのがあるんです。ああ、あいつらがいてくれてよかった、あの姉妹がいなければ死んでいたよ、という場面がないため、バディ感が強まらないというのはあります。

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 いろいろと自分なりに思う「改善の余地」が浮かんでしまう部分もあるのですが、試みもある楽しいコメディではありました。お薦め具合としては、レンタルビデオを借りに行ったときの数本の中には入れておくとよいよ、というところですね。
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君が大人になるそのときまでは。
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sikaさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。 
 
 イギリス・フランスのアニメ映画です。オリジナル脚本はジャック・タチという監督。
 映画通人の間では名匠と言われている監督らしいのですが、ぼくはぜんぜん知りませんでした。このブログのラインナップを観れば明らかなように、フランス映画については多くを語れません。アメリカ映画について語れと言われればその辺の人よりは多少なりとも詳しいのですけれど、フランス映画はその辺の人と同じくらいしか知らないのですね。だから今回も深い話はぜんぜんできません。アシカラーズ。

 さて、映画についてですが、この作品のアニメーション表現についてはまず語らねばならないところでしょう。この前、『哀しみのベラドンナ』に圧倒されたという話をしましたが、今回は圧倒とまでは言わぬまでも、ああ、アニメというのはつくづく面白い表現方法であるなあと感じ入った次第です。
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 本作は実に寡黙な作品でした。台詞の数も合計で数十程度ではないでしょうか。老いた奇術師と少女の話なのですが、彼らがまともに会話しているシーンさえない。ほんの一言、二言のやりとりが時たまあるだけなのです。しかし、だからこそ彼らの動きに見入ってしまう。「絵が動いて、キャラクターに実在感が宿る」というアニメの最も根本的な感動を覚えるわけです。寡黙な映画なんてのは実写の世界でいくらでもあるけれど、アニメでそれをやられると実に新鮮に感じますね。裏を返せば、今のアニメがいかに喋りすぎているか、ということもであるのでしょうが。
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 画の動かし方がこれまたうまいんですね。この映画はね、それこそ昔の映画みたいに定点カメラ的なシーンが多くて、台詞を喋るキャラクターの顔のカットとかほぼ皆無なんです。だからこそ、カメラが動かない分だけ、キャラクターが動いているのが際だつ。そしてそのちょっとした所作にまで配慮が行き届いているんです。少女が髪をふとかき上げる動きとかね。細かい描きこみや光の加減、ウサギの使い方など、ディテールで実在感を醸すという意味では、教科書になる作品だと思います。ここで紹介した『哀しみのベラドンナ』や『パプリカ』などと同様、アニメを観ることの快楽を味わわせてくれます。目を見張るようなアニメ的奇術が仕掛けられているわけではないですが、ひとつのアニメ世界をしっかりと造形している点で、素晴らしいのです。

 ストーリー自体の快楽はさほどにありません。ストーリーを観る映画ではないので、アニメと聞いて子供でもわかるようなエンターテインメントだろうと思った人は、その見方を大きく改める必要がありましょう。老いた奇術師は各地を巡ってマジックをやり、放浪生活を続けているのですが、ある少女がそのマジックに魅せられ、ついてくるようになります。そうして共同生活を始めるようになる、というのがあらすじです。
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老奇術師タチシェフは少女アリスにいろいろお願いをされるんですね。アリスは田舎の島の酒場で仕事をして暮らしていたような少女で、都会に来た嬉しさもあって、街のウィンドウにある綺麗な服を着てみたいと願う。タチシェフはぜんぜんお金がないのですが、彼女のおねだりに応えてそれらを与えてやります。

 シネマハスラーを聴いていたら、このアリスの奔放さに怒っている人も多いとのことでしたね。うーん、ぼくの解釈は違うんですね。というのもね、このアリスはタチシェフの奇術を魔法と信じているようでもあって、彼の苦労とかは知らないようだし、タチシェフもその苦労を見せようとはしないんですよ。なぜかっていえば、ここはぼくの解釈ですけれど、タチシェフには嬉しかったんです。彼女が自分のマジックを信じてくれる人間だから。
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 劇中、彼のマジックがぜんぜん不人気なものであることが幾度も描写されます。人気バンドの場面は哀しすぎて笑います。しかも残った客の少女も、マジックのタネを指摘してくるし。彼のマジックはぜんぜんウケていないんです。そんな中で、無邪気に彼のマジックに感動してくれるような相手がいたら、そりゃ可愛くなりますって。そして同時に、怖くもあるんですよね。もしも彼女の期待に応えられなければ彼女を残念がらせてしまうかもしれないし、自分も見限られてしまうかもしれない。だとしたら、彼女を喜ばせ続けてやりたいとも思いますよ、孤独な老人ならなおさらです。
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 これね、アリスがその辺を全部わかってやっていたらもう最悪も最悪で死ねばいいと言いたくなりますが、そうじゃないでしょう。それは穿ちすぎでしょう。彼女は優しい子で、ホテルに滞在している人たちにスープを持っていってあげたりするんです。それで少なくとも一人の命を救っていますしね。それに、こう言ってはなんですけれど、頭が弱いんです。世間のことは何も知らないんです。そうじゃなければ、コイン一枚でネックレスを買おうとなんてしないですよ。彼女は純粋だし、だからこそタチシェフとしては、なんとか彼女を喜ばせてやりたいわけです。

しかし、彼女もやがて大人になっていく。それがあの恋です。あれを知った瞬間に、タチシェフは、自分の役目の終わりを悟るわけです。そして彼が消える別れの言葉として、あのメッセージを残す。あのメッセージはつまり、「君は大人になっていく。私はいるべきではない」ということです。あるいは、「君にはもう魔法は要らない」ということでもある。
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 結構哀しい終わり方でもあるんですね。ラストの電車の場面が象徴的です。赤鉛筆のくだりです。以前のタチシェフならば長い方を差し出したはずですから。ウサギを逃がしたことといい、彼はもう奇術をやめにしてしまうかもしれない。不人気で先も見えない彼はもう、彼女に見せ続けてきた「マジック」をもって、終わりにするのかもしれない。どうなるのかわからなくて、ただ哀しい。
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 この映画にはその種の哀しみがいくつかありますね。自殺しようとするピエロとか、人形を売るしかなくなった腹話術師とか。華やかなバンドや踊り子たちの裏で、時代の流れの中で、自分の居場所を失っていく人々の哀しみみたいなもんが描かれている。ここにいたずらな希望を持たせても仕方ないんですね。だって、実際にそういうことはあっただろうから。過ぎ去った日のことを思いながら、ただこちらとしては哀しい気持ちになるしかない。時代が過ぎていくってのはそういうことです。とどめることはできない。彼女がやがて、大人になっていくように。
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 ちょいとセンチな方面に話が向きました。これが実写だったら退屈を覚えたかもしれないですけれど、アニメ特有の面白さが随所に見られて、よかった。これはよかった。sikaさんは「知人と意見がぱっくり割れて」しまったとのことですが、こんなところでいかがでしょうか。個人的にはお薦めです。
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この映画のつくりにおいて、システムへの言及がないのは不可解。
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ponさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。 
 
 リクエストをいただくと書く励みになるものです。いつでも誰でも受け付けております。あ、そうそう、以前にいちばんにコメントをいただいたsikaさん、『イリュージョニスト』のレビウが遅れていて申し訳ありません。ディスカスで予約していますし忘れていませんので、ご安心ください。
 
 原題『Never Let Me Go』
映画ってね、大きく分けると2通りの享受方法があると思うんです。
 ひとつには「映画を映画として」受け取る方法。
 もっとも簡単な言い方をすれば、「映画は面白ければそれでよいのだ」という受け取り方ですね。面白いの意味は多義的ですが、要するに2時間なら2時間の間、楽しませてくれれば十分であるということ。綺麗なヒロインが出てきて惚れ惚れしちゃうなとか、すごいアクションシーンで胸が高鳴るなとか、サスペンスフルではらはらどきどきするなとか、いわば純粋な娯楽メディアとしての接し方です。いちばん素直な見方と言えます。
 映画好きをこじらせると、ここに批評性を足したがります。この撮り方はどうのこうの、ここは何々というテクニックなどというものです。でも、これも「映画を映画として受け取る」という点で言えば、面白い/つまらないと同じ範疇にあると言えます。
 もうひとつには「映画を現実の別の何事かと結びつけて」受け取る方法です。
もっとも簡単な言い方をすれば、「映画を通して何かを学ぶ/知る/感じる/考える」ということです。「映画を通して」というところがミソです。まったく映画とは関係のない話をしているときに、「何々という映画がある。あの映画では…」と語られる場合、その人は「映画を通して」何かを考えたわけです。

その話で行くと、ぼくにとってこの映画は明らかに後者でした。映画を通して何を考えればよいのか、と考えるわけですね。で、で、で、困っているのですね。前置きが長かったのはそのせいでもあるのですね。

 リクエストいただきましたponさんのコメントでは、「設定がありえないのですよ、人の命を扱う映画なのでとても許せません。」とのことでした。ここについて語る前に、設定について説明しなくちゃいけないわけですね。
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 お話はと言うと、冒頭の字幕で、「重大な疾患に対するある治療法が見つかったために、人類の平均寿命は100歳を超えた」ということから始まります。予備知識ゼロで観たので、ほう、SFなのかしら、とまず思いました。時代設定としては1900年代後半ですから、パラレルワールドです。ところがSFらしさはゼロで、一見普通の学校にいる普通の子供たちの様子から幕を開けます。
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彼らはどうやら学校の外に出てはいけないらしい、学校が孤児院のような施設として機能しているらしい、ということがだんだんわかってきて、物語の特徴となるひとつのネタが明かされます。
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 冒頭のヒントもあったので、結構早めの段階でどういうことかわかりました。彼らはいわばクローンであって、彼らの臓器を提供することで重大な疾患対策が行われている世界なのです。つまり、彼らは臓器提供のための存在として養育されていた、というわけです。
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 この辺の設定について突っ込むことは可能ですが、それはぼくは別にいいです。なので申し訳ないのですがponさんと一緒になって怒ることができそうにないのです。と言いますのも、こうしたある種突飛な設定の場合、その設定の中で何が描かれているか、に見方をシフトする必要があるのです。『トゥルーマンショー』などはその好例ですね。あの映画で「あんなことがありえるもんか」と怒っても仕方ないのです(と言いつつ、ご安心(?)。そこについては受け入れたぼくも、受け入れられない部分がありますから)。

 それでも受け入れられない場合も個人的にはあって、『スキャナー・ダークリー』はそういうものでした。「麻薬捜査」とか「療養施設での麻薬密造」とか大人なことを言っているぶん、じゃあこっちも大人になって観るからね、と思うと、いろいろ突っ込みたくなるわけです。

 この映画ではその辺は一切度外視。あくまでもその社会システム内部に置かれてシステム外部を見通し得ない存在たちとして描かれていました。主人公の子供時代が描かれていたのはその点で説得的です。「システム外部を見通せない」ということをもうちょっと描いてもいいんじゃないかとは思いました。たとえばテレビを観ていても、システムに批判的な議題の出そうなニュースチャンネルなどは一切観られないようになっている、とかね。そのことを彼らが普通に受け入れている、とかね。社会システム内部/外部の折り目が弱いとは思いました。そうすればもう一層厚くなったのにとも思うけれど、まあ当然ぼくなどより作品について遥かに深く考えている作り手がいるわけですから、あまり深くは申しますまい。

ただ、ぼくもponさん同様に、「ちょっと待ってよ。命を扱う映画でそれはいいわけ?」と思う設定があります。突飛な設定はわかった。受け入れよう。でもね、その設定が持つ意味を、もうちょっと考えてみたいと思うんだ。いや、設定というより、物語運び、結論的なことですかね。
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 映画の進行自体は、主人公たちが「育つ=死期が迫っていく」というわけで、彼らは自分たちがシステムに殺されることをどう受け止めるのか、抗うのか、ということを主軸に進んでいきます。その中でどう生きるか、みたいなこともね。
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 これ、観ながら思いましたけれども、『ブレードランナー』ですね。あの映画のレプリカントも「作られた存在」で、死期が人為的に決められている。それに抗おうとするレプリカントの話でしたから、特段目新しい素材とは思いませんでした。

 これは町山さんの本や発言に教わったところで、「我々も神様のレプリカント」。ぼくたちだって誰に頼みもしないのに生み出されて、いわば勝手に死を背負わされるレプリカントなのです。だから『わたしを離さないで』の主人公たちもぼくたちも同じと言えば同じ。ラストでその意味のモノローグが語られます。「普通に生きている人も私たちも同じなのだ」みたいなね。ぼくとしては「あそこで切られても」とは思いました。「うん、その話は『ブレードランナー』で知ってるよ」です。

 観終えると、この話がやや不健康だな、と思う部分も見えてきます。
『ブレードランナー』のレプリカントは、システムに対して反逆します。「命を延ばせ」と憤る。でも、『わたしを離さないで』の彼らは、システムに反逆しようとはしない。これをして「日本人にも通ずる諦観だ」と言って褒める向きもあるようですが、そうかな? それでいいのかな?
 ぼくたちの生の仕組みは、「個人」←「システム」←「システムでも抗いようのないもの」と考えられると思います。「個人」は日々の生き方を決定しうる。「システム」はその生き方の幅を設定する。「システムでも抗いようのないもの」はいわば「重力」や「時間」や、そのほか生そのものを規定するもの。「死」はこの三つ目にある。
 この映画は「システム」が三番目と同じ場所に置かれている。
 それでいいのかな?
 
 話を平たくするために、たとえば差別の問題を考えてみます。人種差別、民族差別、何でも構いませんが、たとえば黒人差別です。 
 黒人が差別されて、それを受け入れるしかない時代があった。彼らは現代の視点で言えば「システムに抑圧された人々」です。彼らに対して「その生き方を受け入れよ」なんて映画があったら、KKKでもない限りとてもじゃないけれど褒められない。「白人は黒人差別の社会の恩恵を受けて生きている。その枠組みを受け入れた上で、どう生きるかを考えよ」なんてとても言えないし、自分の立場に置き換えて思うこともできないでしょう。
 でも、この映画の主人公たちはそういう立場です。
「レピシエントはドナーの恩恵を受けて生きている。だからドナーはそれを受け入れる。受け入れた上でどう生きるかを考える」
 えええええ。
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「日本人にも通ずる諦観」。なるほど、納得がいきます。日本人も、原作者や映画制作者のイギリス人も、民族的、人種的被差別を強く受けた社会的記憶がない。アメリカに負けたり黄色人種として差別されたりすることはあっても、日本国内でそのような事態が蔓延したことはない。なおかつ、イギリスはそれ自体が階級社会というシステムの上に成り立っている。それで社会が回っている。ついに回り切らなくなったのか、暴動が発生したのは記憶に新しいけれど、作り手は暴動を起こした側なのかな? きっとそうじゃないだろう。この映画を作った人々は、システムをどう捉えているのか。そこが見えない。

 だからちょっと危険な映画って感じはする。たとえばどうかな? この映画の登場人物はみんな白人だけれど、主人公たちが黒人だったら、同じように受け止められるのかな?もしもそうじゃないとしたならなんで? うん、この問いはちょっと考えてみると面白いと思いますね。

別の面から捉えてね、この映画を、「システムすら意識できないほどにシステム下で抑圧された人々」の話とも考えられるかもしれません。臓器提供はあくまでメタファで、貧困な国の有形無形の尊い犠牲の上にぼくたちの生は成立しているという読み取りもできる。そうするとぼくたちに痛みを与える話になる。
 でもやっぱり、そういう意図でつくられた話にも見えない。もしもそういう意図なら、生の意味を考えるだの「私たちが救った人々も私たちと同じ」なんてことを言わせるのは、欺瞞でしかない。生の意味? 食うに困るほど抑圧されているであろう人たちが吐く台詞じゃない。だからその読解はできない。

 話を変えますが(あいやー、長くなっちまう)、この映画は一種の「余命もの」ですよね。制限された生をどう生きるか、難病ものと同じでもある(難病ものは「システムの外」を相手にしているからまだたちがいいけど)。余命もの、難病ものがウケがいいのは、限りある生の中での生き様が感動的、その中でどう生きるかが感動的、凝縮された生がそこにあるから、ってなことでしょうけれど、そこにはやっぱり、「俺は生きたいんだよ!」っていう咆哮があるからですね。生きることへの絶対的執着があるから。この映画にはそれがないんですね。ラスト近くで登場人物が哀しみのあまり絶叫するし、そこで抑えていたものが爆発したってな運びでしょうけれど、いかんせん生への悦びが希薄な気がしました。生への悦びを描いてなんぼでしょう。生きているとこんなに楽しいこともある、こんなに嬉しいこともある、でも、これをすべて失わなくてはならないなんて、という落差、その悲哀が余命ものの醍醐味でしょう。この映画、それがないと思ったんです。
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 丁寧です。とても丁寧。悪く言えば、西川美和的な「攻めのなさ」。でも、丁寧と言えばすごく丁寧。でも、ぼくには焼き付かなかったんです。登場人物たちの生が。ぼくたちの生なるものはシステムと不可分。でもそのシステムは不在。なおかつ生への悦びは希薄。それで、何を感じればいいのか? 『ブレードランナー』のほうが娯楽性も備えているし、そっちを観たほうが、よほど。
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 そろそろまとめましょう。
 この映画を薦めるとしたら、社会システムに対する疑念はなく日々への不全感もなく、とりあえず毎日の生活が楽しくて生きていることそれ自体が素晴らしいけどちょっとセンチにもなりたいよね、な人に向けることにしましょう。結構褒めている人が多いようなんですけれどね、そういう人はあまりシステムの話をしないですね。この映画に関しては、そこは現実と切り離してSFと割り切ってはいけない部分だと思うのですけれどね。いかがでしょうか。
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殺される覚悟で伝えるということ
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我らがキング・オブ・レディオといえば、伊集院光。彼自身が物語るように、テレビでの彼は穏やかなキャラクターを演じては「ご陽気なデブキャラ」の位置に納まっているわけですが、こと深夜ラジオとなればその拘束具を外し、フルスロットルで毎週攻めまくっています。他にもお笑い芸人やタレントの番組は数多くありますが、ラジオを自らの主戦場としている人は数少ないのであって、いつか「ラジオ芸能史」が編纂されるとしたならいちばんにページを割かれるべきお人であります。そんな彼が認めるラジオもの映画、ということで観てみました。
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 ラジオとテレビの比較論などをいまさらやっても長くなるだけですが、ひとつ言えることは、「同じテレビ番組を観ている人」よりも「同じラジオ番組を聴いている人」のほうが、感性のシンクロ率はおそらくずっと高いだろうなということです。これについて掘り下げると長くなりますが、なんかそんな気がします。以前、松本人志が「放送室」をやっていた頃のこと、松本が好きだという女子がいたから、ぼくとしちゃあこれは感性が合うんじゃないかと期待して「じゃあ、あのラジオ聴いてる?」と尋ねたら、当たり前のように「ラジオとかは聴かない」。はああああ、と落胆した覚えがあります。おまえの好きと俺の好きはぜんぜん違うんだろうなきっと、と思った覚えがある。これ、逆だったら違うんですね。テレビは観ないけどラジオは聴いている、だったら、お、なんやこいつ、おもろいやつかも、と思ったのでしょう。ラジオのほうが、人と人を繋ぐのかもしれません(なんだそのまとめ)。

 さて、『トーク・レディオ』です。
 本作の脚本も務めたエリック・ボゴジアンという人が主演で、彼はラジオのDJ役です。彼の番組はとにかく過激で、政治、人種、性愛、宗教、ドラッグ、なんでもござれの内容なのです。リスナーと電話で話す番組なのですが、このやりとりも互いを罵倒し合ったり差別し合ったりするようなとんでもない会話で、現代日本では完璧に不可能な放送なのです。
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 番組中の彼の表情や動きが実に白熱しています。突然に飛び込んでくる顔の見えない相手に真っ向から戦いを挑む様子が格好いいのです。当然、中には彼に批判的なリスナーも出てくるわけで、脅迫状もばんばん送られてくる始末ですが、うるせえ馬鹿野郎とばかりに鋭い舌鋒、言葉の連射。これは英語が満足にわからないのを悔やむ映画ですね。
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 最初の三十分ほどがラジオのスタジオ内で進むんです。だから大きな動きはぜんぜんないんですけど、それでも緊張感が十分に持続するんですね。過激なやりとりで何が起こるかわからず、観ている側ははらはらする。この三十分をつくったというだけでもこの映画は特筆されるべきものと言えます。

 映画は1988年で、ネットのない時代ですが、ネットがなかったがゆえの自由さがある時代、というのを感じるところでもあります。日本でも今より過激なテレビやラジオがいっぱいあったわけですが、これはネットがなかったからできた部分も大きいのでしょう。ネットが生まれたからこそ告発される暗部も多く、ネットの意義は大きいのですが、逆に人々の声が氾濫した分だけ、テレビやラジオが自由にやりづらくなってしまった。情報の拡大範囲、影響力が読めなくなった分だけ、テレビもラジオもリスクを負いやすくなり、規制を強化せざるを得なくなったわけです。

 と、中途半端なメディア論は置いておいて映画の話。
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 中盤は元妻との過去などが語られるくだりがわりと長く、そこで何を描きたいのかはあまり読み取れなかったのですが、バスケの場面は面白かったですね。彼の番組は罵倒の連続ですがそれでも人気で、全米ネット昇格が検討されるくらいなのですが、バスケの試合にゲストとして出かけたら、思い切りブーイングを浴びるのです。人様のブログでこのシーンについて触れられていて、なるほどと思いました。このシーンに出てくる観客たちというのは、スポーツ観戦に来るような「健康的な」アメリカ人というわけで、彼のような過激な毒舌家は嫌われてしまっているわけです。映画では『イージーライダー』の名前も出てきますが、あの映画でもあったように、アメリカ人は自由を重んじるが、本当に自由な人間を見ると腹が立つということです。言論の自由は重んじても、本当にその自由を活かす人間には寛容になれない。彼が人気パーソナリティだと思ったら実は違っていた、というのを示す興味深い場面でした。
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 書きながら、この映画はちょっとやそっとじゃ語れないな、ということに気づきだしたのですが、ネット社会の今にも十分に通底しているというか、むしろ誰しもが発信できる今のほうが意義深いんじゃないかとさえ思います。
 
この映画におけるリスナーの電話は、今で言えばネット上の言葉ですね。それも罵倒や侮辱、呪詛や懊悩の数々。劇中の彼はそれを次から次に受け止めてはいなしていきます。一身に業を浴びるような活動の末に、彼は思いの丈をぶちまけるわけですが、このメッセージは今日にも十分通じているものと言えましょう。
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 このメッセージは実際に映画を観て聴いてほしいところですね。ある種の自戒も込めて、本当に何なんだよ、と言いたくなる。今年には大震災があって、そのときは誰しもがそれなりにセンチメンタルになったり「人と人との繋がり」だの「絆」だのと言ってみたりしたものだけれど、数ヶ月もすればネットにはまた罵言が溢れるようになったし、義援金をもらったことも忘れたか隣国への罵倒に明け暮れては、芸能人のゴシップを追いかける。匿名の言の葉を散らし続ける。何なんだよ、と言いたくなる。
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うーん、うーん、うーん。いろいろと続きを考えてみるのだけれど、どれもしっくりと来ないですね。「人に何かを伝える」っていうことが、すごく難しく思えてならなくなる。たとえばここで文章を書いたら、ぼくは自分の思っていることを吐き出せるし、誰かに伝わる可能性もあるならば多少の満足も得られる。世間の言論人なり何なりは、意見文だの評論文だの分析だのをしてみたりしてお金を得られる。でも、そんなことでいいのかよ、と鼻柱を殴られた気になる。安全な環境に安住して打鍵するだけでは、合法的で健康的な表現だけでは伝わらないんだよ、ということをぶつけられた思いがする。ぼくを含め、ネットで何かを書いたりする人は程度の差こそあれ誰かに何かを伝えたいと思っているのでしょうけれど、伝えるってことはそうそう生やさしいものじゃないぞと思わされる。

これはなんだか、きつくなる映画です。伝える、伝わる、伝わらないってことは万人に共通の問題でしょうから、誰にとっても無関係ではないし、ネット時代ならなおのことだと思います。これはちょっとね、うん、観終えたあとに、だんだんと重くなってきますね。
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