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増村保造の最後の映画ですが、増村保造的な映画ではないと思いました。
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松竹のかつての作品が新たにDVD化されていて、そのひとつとして推されていたのが本作です。ツタヤで発見するまで増村保造の映画だとは認識しておらず、およよこれはと思い借りてきました。本作は角川映画で、増村が監督を務めた最後の映画です。

 既に亡くなった日本の監督で、誰が一番好きかといわれればまずぼくはこの人の名前を挙げます。『巨人と玩具』に撃たれ、『盲獣』に撃ち抜かれたものです。時間は90分程度の短いものが多いのですが、その中にぎゅぎゅぎゅっと詰め込んで勢いで持って行く力や、イタリアのネオ・リアリスモの監督たちに学んだ独特の画づくりが、他の邦画とは異質な「増村映画」というジャンルを作り出しているようにも思います。などといいつつ、まだぼくは半分も観ていないのですが。

増村保造の演出というのは、現代までのテレビドラマにも大きな影響を与えたのではないでしょうか。大映の監督だった彼は70年代にはドラマの演出も数多く務めていますし、映画の台詞のやりとりなども映画的な間よりもテレビドラマ的なテンポを重視しているように思えるのです。『清作の妻』を観たときにそれを強く感じ、『卍』や『兵隊やくざ』などを観ていてもやはり「間よりもテンポ」という姿勢が強くあるように思いました。その最たる例が1959年の『巨人と玩具』、あれはとてつもなく「早い話」でした。観たことがない人は是非観てみましょう。「うむ、早い」と思うでしょう。作家の阿部和重は『巨人と玩具』をして「史上最速の映画」と言っています。あそこまで早いともうドラマ的やりとりをも超越しているわけですが、監督自身はこの映画の批評が芳しくなかった当時に、「俺は十年早すぎた」と言ったそうです。十年どころではなかったのかもしれません。
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 テレビドラマ的、と書きましたが、物語進行テンポややりとりについては、あるいはハリウッドの昔のスクリューボールコメディに近しいのかもしれません。現代の市民生活を描いたコメディ『最高殊勲夫人』などは、「1958年の日本映画」としてはかなり異質なのではないかと思いますが、いかがでしょう。むしろ洋画的風合いさえ香ってきます。
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 洋画的風合い、ということで言うなら、彼以上にいわゆる「モダン」な雰囲気をもたらす邦画監督をぼくは知りません。いびつな空間を描き出した『盲獣』の場面設計にせよ、『でんきくらげ』『しびれくらげ』における渥美マリの振る舞いにせよ、ああ、モダンであるなあ、と感じ入ります。
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 彼が描き出したものは、日本映画やテレビドラマを前進させたのではないかと思うのです。50年代から既にいくつもの映画を監督していた彼が70年代のテレビドラマで演出を務めたというのも、映画産業が斜陽化し、テレビドラマが人々を魅了するようになったことと関係があるように思うのです。モダンな雰囲気を持ち、他の監督にはないテンポで話を進められる増村はドラマというメディアと非常に相性がよかったわけで、やはり彼はどんどん先へ先へ行こうとしていたのでしょう。東宝のような大作映画や東映のようなシリーズ映画とはまったく別の路線で、彼は日本の映画、ドラマを引っ張り続けていたのではないでしょうか。
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さて、前置きが長くなりましたが『この子の七つのお祝いに』。
 タイトルからは内容が読めず、パッケージからするとホラーテイストかと思いきや、むしろまじめなサスペンス路線でした。殺人事件が起こり、新聞記者がその犯人、真相を突き止めようと走り回るお話です。

 長々と増村保造の話を述べましたが、1970年代までの増村映画のような魅力があるかと言われれば、その点は減じておりました。60年代までのパワフルさは映画にはなかったし、「時代が増村に追いついてしまった」感というのはあったように思います。当時には既に同じ角川映画で、カットスピードが早く外連味のある市川崑の金田一シリーズがあったし、一方では大林宣彦のような「変な映画」を撮る人も出てきていた。ATGでも長谷川和彦の『青春の殺人者』みたいな破壊力のあるものがどんと出てきた。増村はそこにきて、むしろまじめで見やすいサスペンス映画を撮っていたのでした。これを増村保造の映画だと知らなければ、おそらくまったく気づかずにいたでしょう。

さて、ここからはわりと内容に踏みいりますゆえ、そのおつもりで。
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 冒頭は岸田今日子と娘の貧しい生活に幕を開けます。岸田は別れた夫に捨てられた恨みから、娘に「大きくなったら父親に復讐せよ」と言い聞かせます。

 そして、まあ舞台は変わり、殺人事件だのなんだのがいろいろと起こりまして、調査だ調査だとなるのですが、このあたりの展開がねえ、ぼくは個人的には面白みを覚えないところではありました。
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 というか、ぼくは基本的に、ひとつの事件の真相を追いかけるタイプの話が退屈になってしまうのです。小説などでも、事件が起きて捜査をして、でもそれがなかなか進まないとか、そういうのが出てくると投げ出したくなるのです。本作は最初の方にかましもあるんですけど、そこからがわりと普通のドラマみたいで、白熱するテンポもない。
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 岩下志麻が出てくるんですけど、彼女がキーパーソンなのはそのネームバリューからも丸わかりで話がじれったい。もう岩下志麻が絶対怪しいってわかっちゃうわけです。でも、話はなかなかそこにたどりつかず、後々になってから、「えっ、あの人が!」的になってしまうので、うわあこれは観ている方は追い越しちゃうよ、と思うのです。この映画は増村映画としては長尺で1時間50分以上あるのですが、うむ、長かった。
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 じゃあその背景がたとえば『砂の器』みたいな風に広がるのかというとそこまででもなく、「岸田今日子力」と「岩下志麻力」でなんとかしているきらいが強い。中盤で杉浦直樹が殺されてしまうのですが、こっちはこっちで「杉浦直樹」力がそんなに強くないという。子役はかわいらしいですが、演技自体は「お母さん」を連呼するだけで工夫がない。増村保造はこのテンポで人物の背景や立体像を描いてきた人じゃないんです、おそらく。この映画はそれこそ『砂の器』の野村芳太郎監督とかの系列だと思うんです。

お話の真相自体はというと、ふむ、まあ、岩下志麻は可哀想ではあるけれども、というかですねえ。おかしな母親に刷り込みをうけると実に辛い生き方を強いられるなあと思いますが、そこにもうちょっと力点を置いてもいいんじゃないかなあこの話。占い師のどうたらとかはどうでもいいっちゃどうでもいい。
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 岩下志麻のあの役の過去というのは、確かに辛いものがあるんです。自分の母親に刷り込まれたことを実行した=自分の人生を犠牲にしてでも業を背負った、にもかかわらず、岸田今日子は自分の実の母親ではなく、むしろ自分の人生をその最初で狂わせてしまった人間だった。話としては、未見で未読で恐縮ですが、最近の『八日目の蝉』などよりも遙かに辛い、自分が信じてきたものが完全に粉々になってしまうという恐ろしい話なんです。
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 ただ、それを「実はそういう真相だったのだ!」で推そうとするくらいだったら、端からそれなりに提示しておいたほうがよかったんじゃないですかね。もしくはもっともっとそこに熱量を込めなくちゃいけなかった。調査したりなんなりってことに時間を割くよりも、『砂の器』的な過去の悲劇にもっと力点を置くほうが絶対に映画のパワーとしては強くなったと思うんです。そのほうが岩下志麻の怪演により悲劇性がこもったと思うんです。途中まで、単に彼女は刷り込みの業にとりつかれていただけに見えますからね。そこについては、観客の知識が登場人物の認識を追い越してもいいと思うんです。

 で、これはあくまで物語的効果の話ですが、岩下志麻にあの父親を殺させたほうがいいんじゃないか。そのうえで真相がわかれば、これはもっとえげつなく悲劇性のある話になった。業に翻弄される人間としての像がよりくっきりとした。

 そういった点で、増村映画の弱点が浮き出る映画でもありました。勢いがないときの彼の作品は、物語的な強度それ自体が弱々しくなってしまうことがあります。『痴人の愛』『卍』あたりでその辺が色濃く出ていた。彼の大きな業績を抜きにしてこの映画単体に感じたのは以上のようなことであります。
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真面目さが心地よい。高みを狙うジョディがレクターにぶつかって生まれる快感。
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もちのんさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。
 
 原題『The Silence of the Lambs』
映画をよく観るようになる前、今からかなり前に観たので、忘れていることばかりでしたね。いまさらぼくが褒める必要もないとも思いますが、実に程よく楽しめる作品です。

 ハンニバル・レクターのモデルとなったのは大量殺人鬼のヘンリー・リー・ルーカスとかアルバート・フィッシュとかと言われていますね。平山夢明の『異常快楽殺人』という本を結構前に読みましたけれども、えげつなさがフィクションを遥かに超えていますね。『悪魔のいけにえ』のモデルであるエド・ゲインとか、もう「人を殺すことが何でもない人たち」ってのがいて、いや何でもないならまだしもですが、それが快楽と結びついてくるってのは、笑えなすぎて笑えてくるくらいにどうしようもない。

 その生まれ育ちがそもそもぐちゃぐちゃだったりしますからね、よく「狂ってる」とか言うけれど、狂う狂わない以前に、倫理や道徳が端からインストールされていないんです。貧困やら虐待やら度重なる不運やらでぐちゃぐちゃのまま大人になって、その状態で野放しにされたら、そりゃあどうしようもない存在になってしまうかもしれません。
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レクター博士はそれをあくまで背景にしつつ、さながらホームズ的な知性をもって迫ってくるため、見ている人間は否応なく身構えてしまうわけですね。登場シーンでジョディ・フォスターに対面し、高い洞察力を示す。ホームズ登場のパターンと同じです。服装やら喋り方やらでその人の背景を見抜くというのは、現実的な「かまし」としてこの上ない手法と言えるでしょう。そういえば『踊る大捜査線』の映画版第一作でもぱくっていましたね。まあなんとも綺麗なぱくりです。あの頃のぼくは『羊たちの沈黙』を知らず、ふわあきょんきょんは怖いなあすごいなあと思っていましたけれど、このレクターを知ってからはもうださいんですね。
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こいつは何かしでかすぞ、さて何をしでかすんだ、と思わせた時点でこの映画はもうほとんど勝ちじゃないでしょうか。観客は可憐なるジョディ・フォスターに感情移入して、怯えながらも手がかりを求め、彼の傍に行きたくなる。この頃のジョディは素敵ですね。『コンタクト』のときにはもう自信がみなぎりすぎて手がつけられない感じになっていたし、『パニック・ルーム』のあたりではもう頼れるママモードでガン押ししたい感じが酷いことになっていた感があるのですが、この頃はまだまだ高み狙うのよあたしはという野心がありそれがレクター博士とぶつかりあって、あの対面シーンの良さが生まれたのでしょう。
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今観ると、結構「レクター接待モード」がどうやねん、というのもあるんですけれどね、たとえば外に出される途中でペンを盗んだとわかるところも「あんながちがちにされていてどうやったのだ」という話ですし、檻に入れられている場面も警官のぼんくらさがまずいから、さあレクターさん脱走してくださいみたいな展開にも映るし、皮を剥いでまんまと抜け出すシーンも、あれは警官たちのぼんくらさに助けられているから綺麗に映るけれども、あればれてたらもうそれで終わりやんけかなりすれすれやなというのもあるし。まあその辺は映画的ご愛敬なのですね。
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クライマックスにはぜんぜん絡まないレクター、というのは、久々に観て新鮮に映ったところでした。あれ、これどうやってレクター絡むんだっけと思ったら絡まなかった。ジョディの映画になりました。あの犯人は敵役としてはレクターよりもずっと格が劣るわけですから、映画のつくりとしては結構危険な一手だと思いますね。途中でレクターが見事に脱走して、さあどうなるねん、ジョディにどう接近していくのかな、それとも何か別のあれがあるのかな、と思いきや、それはないですから。ストーリー的には最初から目的とされていたことを成し遂げたわけで、なんら突っ込みたいこともないのですが、勇気あるなあとも思ってしまいます。あれ、なんとかレクターを絡めたいと誘惑されると思いますもん。せっかくあんないい感じで中盤まで引っ張ったダークヒーローを出さないわけにはいくまいと思いたくなりますもん。そこを、「いやいや、当初の任務遂行が先です。レクターはそれからの話です」という真面目さはいいなあと思います。それでいて最後に、さらっとにおわせるところで観客を惚れ惚れさせてしまうってのは、これはかなりの高等技術ですぞ。

グロ描写も短い時間ですが随所に挟み込んでいくし、幼虫とかを出して観客に生理的嫌悪感を抱かせる。しかしそれもやり過ぎていることはなく、とても真面目なつくりですね。ジョディが井戸の中の女性と話したいのに、犬がワンワン吠えていてうるさいという部分も、えらい状況だぞというのを示すのに地味に効いているし。願わくばあの犯人役にもう一押しのインパクトを、というのはありました。『悪魔のいけにえ』で女性がレザーフェイスの家に踏み入ったときの「しゃれにならない場所」感はすごかったじゃないですか。羽根やら骨やらが散乱していて、狭い場所だけどしゃれにならない場所だって感じがあった。あそこまでのえぐみはなくて、井戸っていうガジェットに頼った感がなきにしもあらずですが、まあ好みの問題でしょう。
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 レクター博士のようないわば「サイレント・サイコ」な人物でいうと、ぼくは『SAW』シリーズのジグソウ、トビン・ベルが好きですが、ああいう存在がどっしりしていると映画自体の重しになりますね。「映画の中の存在としては」今後もまだまだ出てくることを期待したいのであります。そういえば続編で『ハンニバル』『レッド・ドラゴン』『ハンニバル・ライジング』がありますが、『ハンニバル』はテレビで観た覚えがあります。変になったオールドマンの「コーデル!」の声が妙にこびりついています。『レッド・ドラゴン』はなんかタイトルがださいのと評判がよくないのとで観ておらず、『ハンニバル・ライジング』にいたってはその存在をすっかり忘れていたのでありました。「そういうのを観たい」ときに観ることにしたいと思います。
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当時の空気感、みなぎるみなぎる。青春とはこれみないちご白書なり。
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原題『The Strawberry Statement』
 10代のときに「『いちご白書』をもう一度」という歌を知って、はてそれはどんな映画なのだろうとずうっと思い続けていて、映画に興味を持ってアメリカンニューシネマ(本ブログにてはANCと呼称)などを知って、このたびついにリバイバル上映されると知るにいたっては駆けつけねばならず、新宿武蔵野館。DVD化されていないんですね、VHSならあるのですけれど。

 本作はノンフィクションを原作としており、学生運動の風景を描いた劇映画です。ばりばりのANC風味が心地よいです。タイトルが秀逸ですねえ。『いちご白書』はかなりキャッチーじゃないですか?「学生たちの主張など、いちご好きな学生が多数派かどうかと同じくらいに意味がないものだ」というような大学学長の言葉が由来だそうです。

 学生運動、という出来事については多少興味がありますねえ。今の時代に学生が団結して大学を封鎖したりなんてことは、もう日本では考えられないじゃないですか。仮に局所的に起こす輩がいたとしても、それが一大ムーブメントになることは現実的に想像できない。当時のぼくはまだ生まれてもおらず、父親と母親が出会ってすらいないであろう頃のことですが、時代特有のうねりとか熱気みたいなもんを象徴する出来事として、ちょっと惹かれるものがあるんです。

 映画はと言うと、大学のボート部に所属する青年が、学生運動をしている女子に出会い、その中に入っていく話です。と言っても、たとえば大島渚の『日本の夜と霧』みたいな、ばりばり議論をぶつからせ合うものでもないし、タッチとしては全体的に、淡い青春的な感じが色濃かったですね。その中で随所随所、学生運動の風景が描かれていて、熱気よりもけだるさがありました。みんなで集まって雑魚寝したりしてね。

 本作の抗議運動のとっかかりとしては、予備役将校の学校(RTOC)を大学に設置するかどうかで揉めたのが契機となっているらしく、この辺はぼくにはぴんと来なかったところです。ベトナム戦争に対する反戦運動との絡みで盛り上がったようです。ただ、それはあくまでもひとつの契機なんですね。それ以外にも、いろいろと若者の怒りたいことが出てきたりして、一挙に学生運動として盛り上がったわけです

 そういうのって、あるよね、と思います。今夏に起こったフジテレビに対するデモも似たところがあるように思います。あれは偏向報道だとか何だとかって言っていたけど、いちばんの焦点はたぶん違うと思うんですよ。あのデモはね、要は「韓国がきらいー!」って大声で言いたかったのが根本にあったんですね。でもさすがに「韓国きらいー!」だけでは人は聞いてくれない。そういうときに、あれが丁度いい出来事だったわけです。「韓国きらいー!」って大声で言うための「丁度いい理屈」だったんでしょう。
「いやいや、韓国だからどうのこうのではないんです。公共の電波を通して偏重しているのが」うんぬん、というのは理屈をつけたいだけだったはずです。公共の電波うんぬんで怒るなら、そんなところに突っ込むより先に原発報道に注力するべきなのに、たかだか一テレビ局の番組編成に怒っているのは道理として妙でしょう。やっぱり「韓国きらいー!」が最初にあるんです。ネットの罵言の数々はそのことを日々示してくれます。

『いちご白書』においても、あるいは学生運動に参加した多くの人にとってもそういう節はあったんじゃないかなあと思うのですが、いかがでしょうね。日米安保がどうの、ベトナム戦争がどうの、それを本当に本当に真剣に考えていた人たちもいたでしょうけれど、「なんか、ノリで」とか「まあ確かに今の世の中にはなんとなく不満もあるし」とか「なんか大人たちの言うことは信用できないし、てか単純にむかつかね? 警察とかちょーえらそうじゃん」とかそういう人たちもいっぱいいたのでしょう。現に本作の主人公も、別に大学に対して憤っている感じではないんです。ああ、みんなこんな感じなのかあというノリに巻かれているんですね。彼女が運動しているからってのもあるし。

 恋人が運動家だから、みたいなのもおそらく当時は多かったのでしょう。自分としては興味はないけど、恋人が熱心で、興味ない風に振る舞って別れることになるのもあれだから一緒にやる、みたいな人もいたはずです。

 そういう意味で言うと、『いちご白書』というタイトルは実に綺麗です。あっぱれな表現であるなあと思います。ウィキによると、当時の学長の発言の意図はこのようなものです。「彼」というのは学長のことです。
「学内ラジオ放送局 WKCR-FMによる1988年のインタビューによれば、彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明抜きでのものなら、彼にとっては苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない、というのが彼の主張である。」

 これはねえ、教育過程を卒業してある程度経つと、「わかるなあ」なんですね。「大人は汚い!」みたいなことを10代の頃とか学生の頃って考えがちだと思いますけど、世の中のこととかなーんにも知らずに理想論をぶっていても、そりゃあ「いちごが好きかどうか」の話と一緒だよね、ってことです。「苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない」の言わんとするところは要するに、「聞く価値がないんだよ」ってことですからね。「甘いよ」ってことでもありますね。

学生側にしても、大人になって振り返ったら甘酸っぱい思い出になったりするわけで、その意味でもこれはまさしく「いちご白書」です。

 考えてみるに、10代や学生の世代って、一言で言うに「理想論の世代」だと思うんです。世間知らずだけれどいろんな成功物語なんかにはそれなりに触れてきて、一方で世の中のおかしな部分なんかも指摘できるくらいには目も肥えてきて、「世の中はこれじゃあ駄目だ! こうあるべきなんだ!」っていう理想論が生まれる。でも大人からすると、そんな理想はみーんな抱いてきたんだよと。それが理想だとわからない、世の中の複雑さがわからないうちは、悪いけど聞く価値がないんだよ、っていう。この辺のわかりあえなさ。

 ただ、そうやっていなそうとする大人の側にも後ろめたさはある。どこかの地点で理想を捨てた自分を自覚するし、あるいはその理想を叶えられずにきた自分を弁護したい気持ちもある。大人になるってことは、言い訳がうまくなることでもあるんですね。

 なんか映画とずいぶん離れた内容を続けていて恐縮ですが、本作は全体を通してはむにゃむにゃしている部分も多いです。このままむにゃむにゃ終わられたらきついな、という心配もありました。でも、随所随所で挟まる音楽がビウティフル。ワンダフル。空気感がみなぎるみなぎる。


ラストもよかったですねえ。この映画のラストはいいです。

 講堂みたいなところに学生たちが集まって輪を囲み、一斉に歌を歌うんですが、そこに警官隊が乗り込み、催涙ガスみたいなのを撒布しながら検挙するんです。このクライマックスのえらいこっちゃ感は素敵でした。学生たちの営みが一種の宗教的儀式にも見え、それが粉々になっていくシーンには鳥肌が立ちました。ANCの醍醐味がありました。

 学生運動とANCというのは、この上なく相性のいいテーマでありますね。とにかく反抗する、でも、反抗する先の像は結べない若さ。『いちご白書』も、何か訳のわからないままの波に翻弄されている感が面白い。

 当時の空気も十分な知識も持っていないので、いろんなことを見落としているのだろうなあという自覚もあり、その点は恥じ入るところです。もっといろいろと触れねばなりません。その後で観るとまた違うように思う。そういう風に積極的に思わせてくれる映画でございました。順次全国公開ということですから、よければこの機会にぜひ、というところです。
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ラムちゃん最強説、1と2の持つ独立した魅力、『涼宮ハルヒの消失』と『オトナ帝国』
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『らんま』が実写化されるとかでちょいとした話題ですが、ぼくがこれまでに観たことのある高橋留美子作品って『めぞん一刻』くらいです。漫画は読んだことがありません。『めぞん一刻』は数年前にニコ動にたくさん上げられていて、50話くらいまではマイブーム的に観ていました。でも、『うる星やつら』はほとんど観た覚えがなくて、まともに観るのはこれが初めてです。「ラムちゃんが出てくるコメディ」的な捉え方しかしていなかったぼくですが、いろいろな発見があって楽しかったですね。今日も今日とてだらだらとアニメ周辺からそうでない部分まで書きたいと思います。長くなるかもしれないです。

 いきなり2を観るのは気が引ける、というわけで劇場版第1作『うる星やつら オンリーユー』を先に観ました。3、4は観ていません。そのうち観るでしょう。
『オンリーユー』も大変面白かった。2が名高いですが、なんならぼくはこの1のほうが好きかもしれません。1には2にはない、オールスター感がありますからね。ウィキによりますと、1と2において、原作者高橋留美子と監督押井守の評価は真逆であるようです。1を好きなのは高橋で、押井は「失敗作だ」と言明しているらしく、一方2はというと押井のやりたいことが炸裂し、かたや高橋は「いちばん嫌い」だそうです。なんとも好対照ですね。でも、それもわかる気がします。それを知って、わかるわあと思わず呟きました。
 
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 いろいろふらふらしながら話を進めていくいつもの書き方ですが、考えてみるにラムちゃんというのはものすごいアイコンだと思います。これは何か元ネタがあるのでしょうかね。これ以前に、こんなにもアイドル性漲る女性キャラクターというのはいたでしょうか。『魔法使いサリー』とかはもっと子供向けじゃないですか。ビキニ姿でグラビアアイドル張りのセクシーさをも備えたメインキャラクターって、何かいました? うーん、うーん、うーん、ちょっと思い出せないです。峰不二子とかそういうのはいますけど、方向性違うし、メインでもないでしょう? 
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 で、ラムちゃんの造形と主人公あたるとの関係というのもね、今のライトノベル界隈の原型じゃないですかね。今のライトノベルの多くって、これと似たような感じです。「押しかけヒロイン型」で、一方的に主人公を愛する、守る、あるいは振り回す。『ハルヒ』もこの形ですね。なおかつ異能の力なり何なりを帯びていることが多いわけです。極論すれば、多くのライトノベルはこの『うる星やつら』の亜流でしかないのではないかとも思ったりします。ハーレム的にたくさんの美少女が出てきたりしますしね。いや、『うる星やつら』も何かの亜流かもしれないですけど、その辺に詳しい人にはぜひ教えを請いたいです。しかし高橋留美子という人はすごいですね。これを大学在学中に造形したというのですから。
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「だっちゃ」という語尾も大発明じゃないですかね。もちろんそれより前から「ござる」とかそういうのはあったでしょうけど、アイドル的キャラクターと組み合わせた例って何があります? で、この後もありますかね? 探せばサブキャラクターでどこかにはいるでしょうけど、メインキャラとしてですよ。「だっちゃ」はもうラムちゃんのものだし、語尾だけでああ、あのキャラのものね、と伝わるほどメジャーなものってあります? で、それが可愛さとうまく結びついているわけです。ビキニ姿といういわば扇情的なスタイルですが、それが「ダーリン、愛してるっちゃ」という言葉で中和されるじゃないですか。それでまたここに「ダーリン」入れるって、いや、これはすごいでっせ。今回、初めてまともに『うる星やつら』を観まして、にわかに「ラムちゃん最強説」が浮上しています。
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 1がいいのはね、原作やそれまでのアニメ版に登場していたキャラクターをふんだんに登場させて、お祭り感が素晴らしいところです。ああ、こんなキャラがいるのか、テレビ版や原作にも触れてみようかな、と思わせます。ぼくはあの弁天というのが好きですね。弁天の声優は三田ゆう子という人ですが、この人は『めぞん一刻』の六本木朱美です。ぼくはどうもああいう女性が好きなのですね。『めぞん』でも音無響子さんよりもぼくは朱美のほうに惚れました。弁天も男勝りな感じなんです。三田ゆう子の声つきと非常によくマッチしています。思えばぼくは朱美見たさに『めぞん』を視聴していたのです。
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 あのだらしない感じ、部屋が汚い感じ、よよよとしなだれかかるのではなく、誰もいない部屋の片隅でだけ涙を流していそうな感じ、すけすけのネグリジェで頭を掻きながら寝起き姿を見せてくる感じ、男気のありそうな感じ、ちょいと投げやりな風情の口調、それでいてセクシー。
 ああいうの、ぼかあ好きだなあ。

 誰も興味のない女性のタイプの話は置いておくとして、ことほどさように大変いろんなキャラを織り込んでいる。しのぶもいいですねえ。ラムちゃんと対比されるしのぶの持ち味ってのは、これはこれであっぱれなんです。他にも興味を引かれるキャラクター数多でありましたし、1においてはなんといってもあのハマーン・カーンの声をしたメインゲストがいたりして、いやあ愉快愉快でありました。ちなみにぼくの好きな女性キャラクターベスト3はというと、ラムちゃん最強説を唱えつつも、1位、ハマーン・カーン、2位、レズン・シュナイダー(『逆襲のシャア』の敵パイロット。ちょっとしか出ないけど格好いい)、3位、六本木朱美というところです(平成生まれ置いてけぼり)。

 さて、ながーい前置きの後でやっとこさ『ビューティフル・ドリーマー』です。

 この映画を先に観なくてよかった、というのは、原作の高橋が嫌っていることからもわかるように、もとの『うる星やつら』とはずいぶんと雰囲気が違っていそうだからです。押井守作品ってほとんど観たことがないからそっちのお話はできないんですけど、ああ、これはもう本当に、高橋留美子的なものではぜんぜんないんだろうなあという気がします。

 世界激変ものと言いますか、高橋留美子的な街場コメディから離れると言いますか、アンバランスゾーンに持って行ってしまいますね。娯楽的ではなく、芸術的、作家的な方面に比重。そういう意味で言うと、この1、2はセットで楽しむといいと思います。ぼくが映画一般に求めるものが1、2の両方に別々に入っている。

 学園祭前日の盛り上がっている日常描写から始まるのですが、そのうちどうも、「時間がいつまでも前に進んでいないのはないか」という疑念が提示されるという、『涼宮ハルヒ』でいうところの「エンドレス・エイト」的な色合いが出てきます。で、いざ調査に乗り出してみると周囲の世界が登場人物たちを残して大きく変わっており、街には誰もおらず、それどころか街自体がこれまでの世界と隔絶されているのがわかります。はてさてこれは何なのだ、という謎解きが進行していくわけです。
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 観終えてみると、つくづく『ハルヒ』との類似点が見えてきますね。これは劇場版『涼宮ハルヒの消失』と合わせて観てもなおいっそうの意義があると言えましょう。  

話の要点をばらしてしまいますのでご注意ですが、この作品は物語で度々用いられるところの「胡蝶の夢」の話に触れていきます。世界が異変を起こした、これは何なのだ、この世界をつくったものがいるのではないか、そもそも自分たちが認識する世界とは、とそういうところがクライマックスを担います。
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「胡蝶の夢」的な捉え方、つまりは「この世界は実は夢なのではないか」といういわば哲学的な問題については、実のところさして興味はないんです。その発想自体は面白いと思うし、物語的な装置としても使えるけれど、なんというか、格好つけた言い方をするなら、そこまで実存的な危機を感じたり自己像に揺らぎが生じるような問題ではない。

 ただ、その辺の議論から考え出せること自体は面白い。
 クライマックスにおいて、世界の異変は、ラムちゃんと夢邪鬼という黒幕によって引き起こされたものだとわかる。ラムちゃんはあたると一緒の世界、邪魔者の存在無しにいつまでもあたるとの「終わらない日常」を過ごせる世界を願った。それを夢邪鬼が叶えて、彼らとその周囲しかいない世界が残ってしまったわけです。
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 あたるはそこからの脱却を試みようとする。他方、藤岡琢也の実に流麗な関西弁で、夢邪鬼は問いかける。「望ましい夢の世界にいればええやないけ」と。ここら辺にぼくは興味を引かれます。そして、『ハルヒの消失』との類似を見ます。
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『消失』ではハルヒのいない世界が原作、テレビアニメ同様のキョンの目線から描かれる。そこは実に平穏な世界です。ハルヒのむちゃくちゃに振り回されることのない世界です。しかしキョンは戸惑います。その戸惑いはわかりやすく序盤で言明されます。
「突如ユートピアに連れて行かれたとしたら、人は喜べるのか?」

もちろん、世界には明日を生きるのも覚束ない境遇の人は数多くいるし、そうした人々ならばイエスと応えるかもしれません。しかし、ぼくを含めた大半の現代の日本人ならばどうか。楽しいことばかりで嫌なことのひとつもないユートピアがあるからおいでよ、その代わり今の世界にはさよならだよ。さて、向こうの世界に旅立てるのか?

 旅立てない? 
 なぜなのか。今の世界は完璧で、自分の生も満たされていると言えるのか。
 言えない? 
 じゃあなぜ今の世界を捨てない? 向こうの世界は楽園なのに。

この問いへの答えを用意するのが『消失』であり、『ビューティフル・ドリーマー』であり、そしてもうひとつ、『オトナ帝国』です。

「前者二つ」は「不完全な日常の肯定」と「ノイズの尊さの受容」を、「後者二つ」は「世界制御の不快」と「未来への希望」を描きだしています。比重はそれぞれに異なるので、言葉でいちいち説明する気にはなれません。そして三者ともが「生の尊厳」を称揚するものと言えます。『ビューティフル・ドリーマー』にはいろいろと入っているんですねえ。

 今述べた五つのことについて詳述していると書くほうも読むほうも面倒くさいのでやめておきます(気分が乗ったらまた別の機会にということで)。そうしたことを併せ考えるに、ラムちゃん最強説はさらに補強されるのであります。あの状況で繰り出される「責任取ってね」は痺れますねえ。
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 ことほどさように、『ビューティフル・ドリーマー』について語れとなると、とても大変そうです。まだ話したいことの要点について詳しく述べていないわけですから、本当にやり出すのは実に骨が折れます。しかし、ぼくは『うる星やつら』をこの映画版2作でしか知らず3以降は知らず、またアニメについても大した知識は持ち合わせていないのであって、詳しい人が語ったらきっとそれはもうとんでもなく長いことになってしまうのでしょう。誰かやってください。

まとめておきますと、『ビューティフル・ドリーマー』は『消失』『オトナ帝国』と合わせて観るとより深い部分まで見えてくるということであり、そういうのは面倒くさい、単純に面白いのが好きだという人には『オンリーユー』をお薦めする、ということであります。今日もだらだらとまとまりを欠いた文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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古さに抵抗を感じる必要のない、今観ても十分に楽しめる時代劇コメディです。
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井上Luwakさんにお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

 1950年以前の映画というのは何を観ればよいのやら、というのがわからずにわりと遠ざかっているため、山中貞雄という監督についても知りませんでした。その生涯を見るにまさしく「夭折した天才」であるようですね。初監督は22歳、監督として活動したのは5年間で作品数は26作。日中戦争に徴兵され、出征した先の中国で亡くなったときは28歳。当時は今よりもずっと制作ペースが速かったらしく、20代のうちから年間に4作も5作も撮る監督は他にも多かったようですが、それにしても20代で作品をがんがん撮って、それで戦争に徴兵されて死んでいったというのは、なんというか、なんというか、なんというか。

 で、現存する作品は本作とあと2つ、計3作品しかないそうです。あとのものもぜひ観てみたいと思います。非常に楽しめる作品でありました。

 時代劇の人物にてんで疎いぼくは、丹下左膳についてもよく知りませず、歌舞伎とかそういうもっと古い時代からの存在なのかなと思いこんでいたのですが、1927年に林不忘という作家が書いた新聞連載小説が初出らしく、しかも当初は主人公でもなかったそうです。片腕で隻眼、しかし刀の腕はめっぽう強いというキャラクターが受け、映画化したいという要望が殺到、人気シリーズになったということです。今で言うと、スピンオフ企画が大ヒット、みたいなことなのでしょう。

 ただ、この映画自体は、原作者サイドから抗議を受けたそうです。もともとのキャラクターや話と違う、ということのようです。その辺についてぼくには何もわからないのですが、この映画だけを切り取れば、非常に愉快なコメディであったと思います。

 コメディとしてとてもよくできているなあと思いました。
 70年以上前の作品とありながら、脚本的な面白さもテンポも十分に耐久しています。 現代の下手なコメディを観るくらいであればずっとこちらのほうが面白いです。掛け合いのよさとかギャグの構成とか、今観てもちゃんと面白い。これはすごいことだと思います。

 見た目はただの安い壺にしか見えない、本当は百万両の価値がある壺。これをつなぎとして主に三者の動きが織りなされます。複線構造を取っていて飽きさせないつくりです。
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「安い壺だと思って渡しちゃったらなんと大変な価値があったのだ!」 
 というわけでそれを取り戻そうとする藩主。

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「こんな汚い壺をもらったってしょうがないじゃないか、売っちゃえ売っちゃえ。
 え、何?すごい価値のある壺なの? 駄目だ、やっぱり売っちゃ駄目! え、もう売っちゃったの? ちょっと、早く探さないと!」 
 というわけでそれを捜しに行くのは婿養子になって別の家に住んでいた次男坊。

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 丹下左膳はその話にはしばらく絡みません。彼は射的屋の居候なのですが、店に来た悪たれとのいざこざで一人の男が殺されてしまいます。その男には息子がおり、みなしごになったその子供の面倒を見ることになります。その息子が抱えていたのがなんと百万両の壺。しかし当の息子も丹下左膳もそんなことは知るよしもなく、はてさて話はどうなっていくのやら、とこういうわけです。物騒なことも起こりますが、むしろコメディ部分が色濃くて、落語みたいな面白さもありますね。落語好きな人も楽しめると思います。
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 小さなお話で、だらだらする場面は一切無くて、「古い映画だから」と抵抗感を抱く必要はないと言えます。丹下左膳を演じる大河内傳次郎もコミカルで、喜代三という人の演じた女将の感じもこれまた観ていて非常にいい。ちょいとほろりとしました。女将は丹下左膳の連れてきたみなしごの男の子に対して、きつく当たるんです。でも、その直後で実はとても可愛がっているのがわかる。このあたりの緩急の付け方は、粋だなあと思いました。男の子がやってきたときに、「あたしは子供が大嫌いなんだよ」「どうするんだい、一日だって泊めておくわけにはいかないよ」みたいに言うんです。でも、次のシーンで、「あの子が来てからもう一ヶ月経つね」となって、無事に住まわせてもらえているのがわかる。また別の場面、男の子が「竹馬がほしい」と言うと、「怪我したらいけない。買ってやらないよ」と言うんですけど、すぐ直後の場面では一緒に竹馬で遊んでいたりするんです。表面では厳しいことばかり言っているんですけどね、ちゃんと寺子屋に通わせてやろうとしていたり、いなくなったら慌てて捜しに出ようとしたり、ああ、ちゃんと大事にしてやろうとしているんだなあとわかる。なんか、とてもほろりと来ました。ツンデレなるものよりも、ずっと小粋であるなあと思いました。
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丹下左膳のキャラクターが、思っていたものと違って面白く感じました。下町のおっさん風味が強くて、喜劇にそぐうものでした。夜道で敵を倒す場面も粋です。大河内傳次郎は何を言っているのかよくわからないところもあるんですけど、逆にそれが「おっさんが喋っている感」を強めていて愉快。
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 子役の使い方もあっさりしていていいですねえ。これね、今にも通じ得る作品だから、リメイクしても形になると思うんですよ。してご覧なさいな。子役の健気さみたいなもんを出しますぜどうせ。それで舞台挨拶とかして現場の雰囲気とかをママとマネージャーが教えた通りに話させるんだぜどうせ。それで映宣で19時台の番組に出て料理とか食うんだぜどうせ。そんなきらいはつゆほどもないという、当時の「あくまで大人が主役だ。子供は脇役なのだ」感がいいですね。
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 壺捜しに出る藩主の次男坊のコメディアンぶりもいいんです。70年以上前のものですからね、笑いの形としては今となれば「ベタ」なんでしょうけれど、その「ベタ」なるものが「ベタ」になる以前のものであって、ああ、こういう笑いがあってこそ現代の笑いができあがってきたのだなあと感服し、とても素直に楽しめました。いつもは後ろに控えている奥さんに頭が上がらないとかね、道場の門下生の手前、自分の弱さがばれないように慌てたりとかね、コメディの要素の定番ですけど、それをくどさゼロで簡潔にぴしっとやっているのは、これはもう昔の映画の醍醐味です。

 こういう潔いコメディっていうのは、日本映画ではもうあまり観られなくなってしまったように思いますが、どうなのでしょう。単にぼくが観ていないだけで、いっぱいあるのかもしれませんね。印象として、一人の監督が年に何本も撮っているような昔の状況のほうが、変にこねくり回したりするよりもあっけらかんとしたコメディが撮れるのかもしれません。あるいは今は喜劇の伝統って、もはや舞台のほうにのみ受け継がれているのでしょうかね。昔のコメディ映画精神を今も通じさせているのは、映画ではなくて舞台なのかもしれないなあと思います。やりとりやテンポのみの素朴な面白さという点では、映像技巧に寄らない舞台のほうが、確かに受け継ぎやすいのでしょう。

 音楽の使い方も独特で、ああ、いいものであるなあと惚れ惚れしながら観ていました。この作品について今、文句をつけたりなんだりってことはなーんにもないと思いますね。70年以上の時を耐久して今観ても面白いと思わせるなんて、すごいことです。これが面白くないと言う人には「お若いのう」と申し上げましょう。
 素直に楽しめる逸品でございました。
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 「反戦」って何だろうってことを考えさせますね。
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原題『Le Roi de Cœur』
「長らく観たいと思っていた」シリーズ。アマゾンで三枚三千円キャンペーンのひとつになっていたので買いました。『映画秘宝』で評価が高く、町山さんのオールタイムベストテンのひとつにもなっている作品です。

DVDパッケージよりあらすじを拝借。
 第一次戦争末期、フランスの小さな村を追われたドイツ軍は、進撃してくるイギリス軍への置き土産に、強力な時限爆弾を仕掛ける。その事実を知ったイギリス軍は、爆発を未然に防ぐため一人の兵士を村に送り込むが、村人たちはすでに全員避難しており、誰もいなくなった村は精神病院から抜け出した患者たちの楽園と化す……。
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「市街戦」とあって冒頭から軍隊が出てくるので、戦争映画かと思いきや、そこからは大きくかわしてくる作品です。ドンパチはあくまで背景になっていて、メインは精神病院の患者たちとアラン・ベイツ演ずる主人公の話でした。精神病院の患者がたくさん出てくる話だと、『カッコーの巣の上で』がぼくは好きですが、あのような抑圧感は皆無で、患者たちが好き放題やっている映画ですね。弾け方は『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』も連想しました。おかしな大人たち、コメディアン仕立ての登場人物をたくさん出したいときには、精神病院の患者という設定にするとやりやすいというのはあるのでしょうね。その辺をまじめに考えたらナイーブな領域にいくだろうけれど、コメディアン的な突飛なキャラにしたいならば、格好の対象と言えるのかもしれません。『パコと魔法の絵本』もおそらくそういうことなのでしょう。現代日本のポリティカリーコレクトとしては「精神病院」ではまずいので、「変わり者が集まる病院」みたいになっていたようですが、限定された空間でコメディを形作るときには、確かに有用な設定です。個々のくせもつくりやすくなるし。
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 銃を持った兵士や装甲車も出てきますが、患者たちが街に繰り出してからはものものしさはありません。ドイツ兵たちまで巻き込んでコメディ要員にしてしまい、むしろ患者たちの織りなす虚構世界の進行が真ん中にある。戦争の深刻さから離れたわいわい感という点では『M★A★S★H』にも通じています。どちらの映画もベトナム戦争の最中に公開ということで、それをリアルタイムで感じつつ観る気分と、現代に観る気分では見方が違うのでしょうね。戦争による緊張感みたいなもんはこの映画の中だけで言えばそんなにないので、今観るとコメディ部分にも緊張感が乏しいなと感じたのですが、当時としてはこれくらい弾けておいて丁度良かったのかもしれません。何かにつけて、わっしょいわっしょいみたいな雰囲気になります。思い思いの扮装をして、わっしょいわっしょいです。
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作品テーマとして「反戦」っていうのが広く受け止められているようですね。DVDパッケージにも「平和の狂気か、戦争の正気か?」なんて一文があります。ここからは終盤の展開にも言及していきましょう。
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 作品の終盤で、村でイギリス軍とドイツ軍がはち合わせするんですが、そのときにほとんど機械的なテンポで両軍が全滅してしまうんです。その場に居合わせた精神病院の患者たちに「冗談が過ぎるなあ」みたいに言わせているところからも、「戦争のほうがあの患者たちよりよほど狂っているんじゃないのか?」というニュアンスが読み取れるわけです。
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爆弾の恐怖から開放された村には人々が戻り、この世の春を謳歌していた患者たちはまた病院の中に戻ります。任務を達成し生き残った主人公は街から軍隊の拠点に戻り、勲章を与えられて次の戦地に赴けと命令されます。しかし彼はその途中、兵士を乗せた車から降りてしまいます。彼が向かった先はかの精神病院。そこで患者たちとともに暮らしていくことを決めるのでした。
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 この辺の意味合いが、ベトナム戦争只中の公開当時、あるいはこの舞台となった第一次世界大戦の時代においてどう活きてくるのかというのは、幸いにして平時を生きるぼくとしてはわかりかねるところです。ヒッピー・ムーブメントが盛った時代においては、戦時下における患者たちの奔放な狂態が、反戦的態度として輝いたのかもしれません。ただ、何か引っかかるなあ、というのがあって、それがなんだかよくわからなくて、先ほどから文章が進まずにいます。

 うーん、観ながら「あれ?」と思った場面があって、それは主人公が村の外に出て行く場面なんです。主人公は患者たちに王様として扱われ、わっしょいわっしょいになっているんですが、ひとたび彼が外に出て行くと、それまでのハイテンションは急転して、誰もついていこうとしない。戻ってこいよー、外の世界は危ないよー、みたいになる。で、戻っていくと、またわっしょいわっしょいになるんですけど、その中でふと冷静に、患者の一人が、「あなたが王様じゃないってことはわかっているんだ」みたいにぽろっと言うんですね。この映画がちょっと惑わせるのはひとつにそこで、「あれ? この患者たちはどこまでマジやねん?」と思った箇所でした。この患者たちは現実とどう向き合っているのだ? そして、ラストの主人公はどうなのだ? というね。

 主人公は最後、戦地に行くのをやめて精神病院で過ごすことを決めます。彼はどうも精神病を偽装していたように思えるわけです。現実から、彼は逃げたのでしょうか?

 そうなると、反戦って何やねん、とも思えてくるんですね。戦争の世の中は嫌だと言って引きこもることは、反戦とは違うだろうと思ったわけです。だってそれは無関心と同義ですからね。お国のためだ家族を守るためだと言い聞かされ、たとえ不条理だとわかりながらも戦っていた人もいるでしょうし、あるいは、絶対に戦争は駄目なんだと主張して殺された人もいるでしょう。それに対して、この映画の結末は、「引きこもっちゃえ!」ですからね。「現実から逃避しちゃえ! ここなら徴兵を受けることもないし安全だ!」ですからね。戦争から逃げることと戦争に反対することは違うだろうと思ったんです。

 個人が逃げても戦争は続きますからねえ。いや、ぼくもね、偉そうなことを言いながらね、あの状況で次の戦地に行けと言われたら、あの方法ありやな、と思ってしまうと思うんですよ。ただ、その態度それ自体は決して人に吹聴できるものでもないとは思いますね。何のリスクも背負わずに、逃げているだけですから。

 ああ、だからだんだんはっきり見えてきたんですけれども、「戦争という行為は精神病よりもずっと深刻に狂っている」みたいなのが嫌いなんですね。そういう風な見せ方が嫌いというか。ほな何かいと、戦争を起こさないためにはみんなこの患者たちみたいに夢見心地でおったらええんかいと。人のブログから無断で転用して恐縮ですけれども、
「偏見のない観客であれば気が付くだろう――彼らが正気に見えるのは、戦争という現実から隔離されているからだ――ということを。」
 と言っている人がいて、なるほどと思ったんです。「戦争なんて、まったくおかしいよね」という態度を社会の外側から言われてもなあ、という気がして仕方なかったんですね。 
 うーん、うーん、はっきり見えてきたと書いておきつつやっぱり見えていないことに気づいたんですけれども、結局ぼくは、「反戦って何やねん」ということについて、まだまだよくわかっていないのですね。戦争反対って言うのは簡単だし、誰にでも言えるけれども、戦争っていう物騒な行為だけを見つめて反対を唱えるだけで何が解決するねんってことでもあるし、そこに至るまでのいろんなことがあってまずそこをもっと早めに問わないと駄目なんじゃないかとかも考えるし、ぜんぜんまとまっていないのでした。

 ただ、映画自体はそういったことをごちょごちょと考えさせるいい映画だったなあとは思います。あの結末、どう思う? ということだけでも人といろいろ話せることがあるだろうし。映画の中だけではなく、映画の外まで考えをめぐらさせるという点で、お薦めできる一品であります。
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 ブログ開設よりこれまでにたくさんの方々からコメントをいただいてきました。その中には実に知性に溢れ、ぼくのような人間には到底昇り得ぬ高みからこちらを見下ろし、そして颯爽と去って二度と戻っては来ないという美学をお持ちの方々もいらっしゃいました。きっと読者の皆様にとってもためになる発言が数多く含まれていると思いますので、そうした貴重なコメントの数々を集めてみました。返答がないのはぼくの受け答えが稚拙すぎるからでしょうが、一応ぼくの応答も併録しています。

Commented by 通りすがり at 2010-05-25 04:47 x 『楢山節考』
「子供に見せられない」というどこかの評価に対してよっぽど気に入らなかったんだね。
この映画は単に今村得意のドギツイエログロ見世物なだけ。
子供が見たっていいでしょうよ。でも何の得がある?倍賞美津子とババアのオマンコ?村人の生き埋め?婆さんを崖から蹴落とす息子?
それを見て年寄りを大事にしようね。それとも年寄りは山に捨てちまえかな?w
昔の部落民はこんなことをしてたんだ!けしからん!か?

不快感しかねえよ。こんな映画wwwwww

外国で賞もらったから崇めてるだけって事に気付け。

Commented by karasmoker at 2010-05-25 23:57 x
コメントありがとうございますwww。
>子供が見たっていいでしょうよ。でも何の得がある?
映画を損得で観たことがないのでよくわかりませんがwwwwwwwwwwwww学べるもの、得られるものを「得」という言葉であえて呼ぶならば、綺麗ではあり得ないこの世のひとつの側面をきちんと見せている点で、「得」があるのではないでしょうかwwwwwwwwwww。
>不快感しかねえよ。
はい、貴方の感覚を頼みもしないのにわざわざ教えてくれてありがとうございますwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww。wを使うという品のなさまで露呈していただき、ありがとうございます。
>外国で賞もらったから崇めてるだけって事に気付け。
 受賞作でも崇められぬ作品は多く、このブログでもいくつも感想を述べております。どういった点がこの映画の駄目なところか、おそらくはとても映画にお詳しい方とお見受けいたしますので、大変恐縮ではございますが、どうかぼくめにご教授願いたく存じます。


Commented by w at 2010-10-21 16:03 x 『アカルイミライ』
いや、笑いは狙ってないやろうww
当方5人コレ見て全員 批判っすwww
評論やめたほうがいいんじゃねw

Commented by karasmoker at 2010-10-21 22:19 x
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww。

Commented by さ at 2011-01-24 17:54 x 『Helpless』
そうです。あんたの読解力が低いだけです(笑

Commented by karasmoker at 2011-01-25 03:40 x
えへへへへ。


Commented by 映画を愛する者 at 2011-04-14 03:38 x 『バトルロワイアル3D』
これを面白いと感じるなら、もう映画評論はやめた方が良い。
いくつか評論をみたが、どれも表面しか見ておらず、誰でも気付くような映画の核心に気付けていない。
映画の核心に気付けるか否かは人の先天的な感覚によって決まるが、あなたはそれを備えていないようだ。
もう映画を見るのはやめた方が良い。仮に見るのであれば、自分は表面しか見れていないのだと自覚して、評論は控えるべきだ。

ちなみに私はバトルロワイヤルのいわゆるアンチではない。以上はあなたの評論のいくつかから得た感想である。

Commented by karasmoker at 2011-04-14 05:54 x
はいはい。


Commented by ぽぽぽぽーん at 2011-05-04 02:11 x 『ロミオ+ジュリエット』
あたまかわいしょうしね

Commented by karasmoker at 2011-05-04 02:53 x
がんばってください


Commented by BAKADARO,OMAE at 2011-08-14 08:38 x 『バロン』
下手な文章だね。ほんとになにさま!?

Commented by karasmoker at 2011-08-14 14:26 x
コメントありがとうございます。文章についてはまだまだ精進せねばならぬとつくづく感じ入る次第でございます。つきましてはどうか後学のために貴方様のお書きになった文章を拝読させていただきたいのですが、どこかで読めるものなのでありましょうか。お教え願いたいと存じます。また、二年以上前の記事に頼みもしないのにわざわざコメントしてきて、人のことを一言で馬鹿呼ばわりできる貴方様こそ「なにさま」なのかと、未熟なぼくはつい愚考してしまうのですが、貴方様は何様であられるのでしょうか?


Commented by k at 2011-10-15 03:25 x 『天国にいちばん近い島』
感受性が低い。

Commented by karasmoker at 2011-10-15 06:04 x
と、だけ書いて去る人の感受性やいかに。


Commented by アホか at 2011-11-07 18:21 x 『ロミオ+ジュリエット』
手紙でも不在通知あるし。
書き留めってしってる?
小学校じゃ習わないかもね。
かきとめってよみます。
だいじなてがみをおくるときにつかいます。
るすのときは不在票がはいってます。

あと、予算がなかったって、このえいがのよさんしらないんですか?ものすごい予算ですよ。

勝手に馬鹿なのあしょうがないけど、馬鹿な自分の脳内をさらして、ネットを汚すのは勘弁してくれ。
一生一人で馬鹿やってろ。
脳みそ取り出して綺麗に洗ってでなおしてこい。ばかやろう。

Commented by karasmoker at 2011-11-07 20:56 x
 コメントありがとうございます。
 ぼくのような無知蒙昧な輩に懇切丁寧なご指導をいただき、大変に恐縮している次第でございます。書留の存在については思い至りませんでした。なにしろこの映画においてあの手紙は火急の用件を記したものと見え、本人不在の場合は不在票を入れるという、書留という悠長な方法をとるのはおかしいと思ったのです。ですのでここは「その状況で書留かよ! ポストに入っていたらすぐ内容がわかるようにしておけよ! 意外とのんびりしてるなおい!
物語の緊迫感がそがれているよ!」とつっこむべきだったのですね。反省しております。
Commented by karasmoker at 2011-11-07 21:07 x
 続きです。予算についてですが、「ものすごい予算」とおっしゃられていますが、IMDBによりますと制作費は1996年当時で1450万ドルとあります。庶民にとっては大変な高額ですが、当時のアメリカ映画としてみれば「ものすごい予算」と呼ぶにはいささか不適当かと存じます。14世紀のヴェローナを形作るには十分な予算が足りなかったのではないか、という意味合いで述べたのですが、あいにく無知なぼくにはアメリカ映画の制作費にまつわる知識がそれほどないのです。大変にご聡明な方とお見受けしますので、ご教授願えれば幸いに存じます。
Commented by karasmoker at 2011-11-07 21:15 x
 続きです。長くなって本当に申し訳ありません。予算のくだりでぼくは「現代劇なのに、殺人犯を街から追放して終了」というのはおかしいのではないか、と述べました。郵便書留という細部の社会設計が行われているのに、殺人犯の処遇に関しては一見非合理的な法的処罰がなされているというこの点についても、ぼくにはよくわからなかったのです。重ね重ね恐縮ですが、貴方のような見識ある方にコメントいただけてとてもありがたいので、この機会にご高説を賜りたく思います。


Commented by ぽ at 2011-11-14 01:52 x 『パルプフィクション』
おまえには人並み程度の感受性すらない。
映画の批評に向いてないぞ。

Commented by karasmoker at 2011-11-14 02:20 x
見知らぬ人に対してタメ口で「おまえ」呼ばわりできる人が人並み程度かそれ以上の感受性をお持ちだとするならば、そういう言葉遣いが人を不快にさせるとわからない人に高い感受性があるのなら、なるほどぼくにはそんなものはありません。



 いやあ、実に心に染みいるご指摘とご指導の数々でございます。
 今後も喧嘩を売っていただくのは結構でございますが、こちらもそれなりに買うつもりはありますので、「売るよ」「はい、買いますよ」と言った後で、忽然といなくなるという謎の行商はやめてくださいね。
 
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 細部のよさは十二分。人によっていろいろな感じ方をするだろうな、と積極的に思える映画です。 
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OSTさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 以前取り上げた『さんかく』と同じ監督の作品です。フィルモグラフィを観ると『なま夏』という作品がデビウらしいのですが、そこで我らが蒼井そらを主役に置いているのが活かしていますね。『なま夏』もチェックしておこうと思います。

『机のなかみ』というタイトルですが、これはどういうことなのかぼくにはよくわからないです。監督インタビューなどを探せばどこかに答えはありそうだし、あるいは何か別の作品のパロディっぽい題名なのでしょうかね。わかんないっす。
 映画はと言うと、あべこうじ演ずる家庭教師と鈴木美生演ずる女子高生が主人公で、あべがやってきてから大学受験の日を迎えるまでの様子が中心となって描かれます。
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まず前半で映画の視点を担うのはあべこうじです。コントではなく一人喋りでR-1を制した彼ですが、なぜかあまり人気バラエティには出ていない印象です。どうして今のテレビで人気が出ないのか、とかを考え出すと長くなるのでやめておきますが、本作でもバラエティのような軽いノリの男として登場します。家庭教師なのですが、鈴木美生の可愛さにほえほえになり、勉強よりも仲良くなることにばかり気がいくようなやつなのです。
彼には同棲中の彼女がいるのですが、鈴木美生に気持ちが持って行かれるんですね。この辺は『さんかく』と同じです。
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 宇多丸さん風にいうと「主人公を好きになれない問題」が出てきました。
 あべこうじ自身の演技にはなんらの違和感もなくよかったのですが、いかんせんキャラクターとしてぼくはこの主人公の男が嫌いです。家庭教師が生徒の女子高生を好きになる、性的対象として見てしまう、というのは別にいいんですよ。というより、それはまあわかりますわ。「女子高生なんてガキじゃねえか」と思うくらいにはオトナになったし、街できゃぴきゃぴしていたりしたら「ふん、ガキめらめ」とは思います。しかしですよ、精神的、知能的にはガキであったとしても、肉体的にはねえ、そりゃねえ、そりゃまあ、その。

 今日も今日とて好感度の低下を感じつつ進みますが、だからあべこうじのいやらしい目線とかはいいんですよ別に。でもね、この主人公は職務をちゃんとやるぞという姿勢に問題がありすぎる。そこが嫌なんです。端からもう、女として見ていますからね。もちろん時間的な面もあるし、肝心の部分を前に出して描きたいのはわかるんですけど、一応さ、観ている側としてはさ、こいつの葛藤とかを共有したいわけですよ。生徒なのにそんな対象として見てしまうことへの内的葛藤みたいなもんを感じられなくて、鈴木美生が可哀相に思えましたよ。ぼくだったらもっとちゃんと教えてやるのに!
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 この男はリスペクトがないんです。彼女のお父さんは娘思いのオヤジなのです。で、夕食をともにするシーンがあるんですけど、あろうことかこのあべこうじはお父さんを無視して彼女とわいわい喋ることばかりに気がいっている。誰からお金をもらっているのかね、誰が雇い主なのだね、ということがわからない社会人には何の用事もないです。

 もちろん性格描写の上で必要なのはわかるけれど、そこはもうちょい、気のもつれというか、ためらいみたいなもんがないと、ちょっと感情を入れ込めないです。『さんかく』では「なんか、ちょっと、惹かれちゃうんだよなあ」というためらいがあって、そこからのほえほえだったからいいんです。それがないんです。

 ここからは展開を結構ばらしますので、そのつもりで。

 で、大学受験に鈴木美生は落ちてしまうんですね。このくだりのあべこうじは最悪の男です。落ちて放心状態の教え子をもう完全に性的対象として扱うんです。いや、うん、いや、そこはね、うん、わからんではないというと語弊があるんですけど、そういう「人間的な過ち」そのものを悪くは言いませんというか、ちょっと難しいんですけど、そういう風になってしまうあいつの気持ちもね、汲み取れないことはないです。100パーセント否定して、「あり得ない!」と叫ぶほどの短絡性は持ちません。文脈次第によってはあり得る振る舞い、と言えます。ただ、その文脈としては弱いんです。ここも内的葛藤が問題になるんですね。あべこうじが真面目な家庭教師で、でも気持ちがぐらついちゃって最終的にああしてしまう、だったら、ぼくは真逆の印象を持つでしょう。男の愚かさを感じてやまないでしょう。でも、このあべこうじには葛藤がなさ過ぎる。倫理が足りていない。最初はぜんぜんそんな気はなかったのに……という落差がないわけですから、これは観ていてもはらはらが生まれません。
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 まあ、あの彼女に魅力を感じないのはわかりますけれどね、もうそこはそういう風に仕向けられていますし。あの彼女、踊子ありという人は面白いですねえ。あの人が喋るたびにぼくは笑いました。バナナマン日村みたいな髪型で、なんでそんな喋り方なのだというがさつな感じなんです。あれは面白い。でね、関係性としても対比的で、喫茶店のシーン。あべこうじが鈴木美生を喫茶店に連れて行ったときは、奥の席に座らせているようなんです。でも、踊子ありと行くときは彼女を手前の席に座らせている。ここでもなんか、彼女はえらいぞんざいに扱われているな、でもそういう扱いに抵抗がないようだな、と思えて、なんかキャラクターが見えてくるというか、面白いんです。あれが年取ったら最悪のばばあになるでしょうねえ。軽犯罪は平気で犯しそうです。
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 先に役者の話を終えてしまうと、鈴木美生も面白いというか、角度によってずいぶんと可愛さがまちまちな感じの人ですね。映画公開時は二十歳を超えていたようですが、驚きました。十分に女子高生で、中学生と言われても違和感がないかも知れません。見え方によっては我らが恵比寿マスカッツの希志あいの様に似ていて可愛らしいのですが、正面から見ると意外にラルクのハイドみたいな顔をしていてあれ? だったり。斜めの角度が映える「角度美人」でした。キャラクター自体はもう、宮崎駿アニメの主人公みたいで、『耳をすませば』の実写化なんかをしたら合いそうだなとも思え、あるいは人との接し方なんかは『まどかマギカ』のまどか的でもありました。うん、まどかっぽいキャラだったと思いますね。友だちとのトークの感じが、まどかとさやかっぽかったです。
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 映画の後半はこの鈴木美生の話になります。映画の急な反転にはびっくりしましたね。

 前半では一切の背景を欠いていた彼女ですが、その分の種明かしみたいなもんが後半でいろいろ出てきて、つくりとしては面白かったです。「彼女がいる人を好きになる」の台詞の意味とかね。複数の人間は互いに互いの背景を有している、という当たり前の事実が映画で語られると、信頼が置けます。一方向だけで捉えないやり方がぼくは好きなので。

 机の上のあのペンの使い方もね、面白かった。あれはサービスショットにもなるし、登場人物の人には見せない陰の部分が活かされていていい。ああいうのを放り込まれると、ぼくたちの日常的なものの見え方にも揺らぎが生じるじゃないですか。自分にとってはこれはただのペンであると、This is a penだと。でも、そうじゃない可能性も見えてくる。これは『さんかく』にも見られた、「我々は互いのことをわかり得ない」というテーマの凝縮体とも言えます。

 映画の細かい部分で言うと、シーンの入り方が面白いのもありました。友だちとの屋上シーン、バスのシーン。あの友だち、清浦夏実の台詞で、「創作ダンス考えてないんだー」とか「左胸のほうがでかいんだよねー」とか言うのがあって、あれはねえ、多くの映画では切るんですよ。別の入り方をするんです。意味のある台詞からはじめがちです。でも、この映画ではそうじゃなくて、日常の一こまを切り取った風によく見せている。だからもっと長回しを多用してもいいのに、とも思いました。カラオケのビールのくだりの長回しはせっかくいいのに、わりとカットを切りがちだから長回しが全体を通してはそんなに活きない。
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 ひとつわからないのは、この話はケータイがぜんぜん出てこないですね。2006年段階では高校生はケータイを使いまくっていたでしょうし、教室の風景として置いておいてもよかったのになあとは思います。それこそあの好きな同級生の男子にも持たせておいていいし、ちょっとしたカットでいじらせてみたりしたら、鈴木美生との距離感にももうちょい深みが出たのではないかとも思います。デートの時も、ちょっとケータイをいじらせてみて、あれ、これはなんか、どうなん? あの友だちとの関係って、どうなってんの? みたいなじらしが入るともう一個深くなった。一瞬でいいのでね。それをしないので、中盤はわりとベタなデートになったなあとも思うんです。

 結構長くなりましたね。
 そろそろ終盤の話まで行きましょう。どう着地させるんだと思って観ていましたが、登場人物二人、あるいは三人による大号泣がクライマックス。五分くらい、びゃあびゃあ泣いていました。これは……ちょっと。ちょっとぼくは興が冷めたというか、そんなに泣きを押さんでもええのに、とは感じました。あそこまでやられると、ずっと入り込んでいた人間でないと引いてしまうんじゃないですかね。
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 個人的な「泣き」への感じ方ですけど、ぼくね、「アピール泣き」のにおいがすると引いてしまうんです。冷めてしまうというか。泣きたくない、泣きたくないけど泣かずにはいられない、というのならいいんですけど、なんか、ちょっと「甘え」入ってない? と思うと、急に気持ちが凍る。たとえばこの映画で、あの人物二人が陰でこっそりと大号泣していたりしたらまた別なんですよ。人には涙を見せないぞ、でも泣いてしまうんだ、というのがあると、その涙は本物だなあと思えるんです。でも、ちょっとさあ、涙に武器としてのニュアンスあるやん、そこがゼロではないやん。アピールメインではないとは思うよ、でも、正直に言いなよ、ちょっとアピールも入ってるよね、と思ってしまう。
 ここは大いにぼくの人間性の問題と言えそうです。ぼくは「男の涙」には弱いんですけれど、「女の涙」は、それがちょっと武器たりえてるやん、と思ってしまうのです。
 なおかつ、あべこうじにいくら泣かれてもそこはもうどうしようもないです。

 まだまだ語り足りないことがあります。オヤジと風呂に入っているくだりなんかも掘り下げたらいろいろ言えそうです。いろいろ語らせたくなる映画ですね。惜しむらくはあの大号泣ですが、じゃあどうすれば正解だったかというと、まだまだこれも考えてみたい。

 映画としての強さでいうと、個人としては橋口亮輔作品のようなものが期待できつつもそこにあるものがない、とも思えた。何をどう感じていいのかわからない映画とも言えました。細部の妙技は『さんかく』同様に効いていますが、個人的に合うところも合わないところも両方入った映画でした。
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 「しょせんフェイク」が「しょせん現実」を超えるには。
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オーストラリア製の擬似ドキュメンタリー作品です。日本ではDVDスルーだったんですかね、副題は完全に日本の売り手がつけたものでしょう。リンチの『ツイン・ピークス』劇場版『ローラー・パーマー最期の7日間』にあやかろうとしたんでしょうけれど、え、いまさらそれにあやかるの? 『ツイン・ピークス』観ていないけれどおそらくまったく内容的類似性はないんだろうし、登場人物の名前に「パーマー」が入っているだけでそんな副題つけちゃうの? という部分について売り手の説明を求めたいところです。

 内容としては、アリスという少女が水死体で見つかり、彼女の死因や周辺に関して家族のインタビューを中心に解き明かしていく、というような筋立てです。フェイクならではと言えるのは彼女の幽霊と思しき影が随所に現れてくるところで、これが作品全体のアクセントになっているわけです。
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 しかしまあこと擬似ドキュメンタリーという手法において、現代は昔と比べて難しい時代になったのではないかなあと思います。ここで言う「昔」の意味は「ネットが今ほど普及していなかった時代」ということですが、その頃であればもっと簡単に真実みを与えられたと思うんですね。創作に限らず実際の出来事についても同様ですけれど、一般の人間が今ほど情報を吟味できない時代だったわけで、「これはもしかしたら本当に起こったことかも知れないぞ」という風に観ている側を騙しやすかった。

『ブレアウィッチ・プロジェクト』なんかはその意味ではいいタイミング、ある意味で絶妙なタイミングだったとも思うんです。あれは1999年ですけど、今ほどにネットは広まっていないし、その反面、ネットを介して情報をそれらしく伝えることができた。マスメディアとは違う情報媒体としてのネット、それに今ほどの免疫が備わっていなかったから、「いや、もしかしたら本当にあったことなのでは。今まで報道されてこなかったタブーの類なのでは」という雰囲気を生み出せたわけです。2ちゃんねるの「鮫島事件」とかもそうした一例と言えましょう。でも、この10年でそれはもう無理になりました。ネットでちょっと検索すれば、それが本当かどうかだいたいわかってしまう。だからこそ擬似ドキュメンタリーはもはや、「これはドキュメンタリーの体裁を取った創作です」という態度から逃れることはできなくなってしまった。

 また同時に、ネットの普及、ビデオカメラの普及などによって、小さな組織レベル、個人レベルでドキュメンタリーがたくさん撮られるようになった。個人配信のニコ生、Ustreamなんかもそのひとつで、実際のドキュメンタリーで驚かされるようなものが歴史上かつてないほどに数多く観られるようになった。リアルタイムで放送事故的なものに遭遇する機会も多くなり、生々しいものに触れることが容易になった。

 さて、そうした背景の中で擬似ドキュメンタリーは今まで以上に、それが擬似であるというところからのスタートを余儀なくされます。現実味を帯びさせようとしながら、「しょせんフェイク」だとみんなにばれている。その中でできることは、「しょせんフェイク」と知れながらも、「あるいはここで描かれることは現実にあるのかもしれない」と思わせること。劇映画とは違う手触りで、「端からフェイクと知れたフェイク」に、「しょせんフェイクだ」と感じさせずに、真実みを帯びさせること。これはすごくハードルが高いなあと、観ながらずっと考えていました。
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 観る前の情報で擬似だとわかっていたぼくは、「しょせんフェイク」ということから逃れられず、また撮り方それ自体も、「しょせんフェイク」でありながら真実みを帯びさせる努力がもうひとつ足りなかったのではないか、と感じました。
 簡単な話。アリスの死が序盤で明かされる。すると映画は家族のインタビューに移り、その内容は「死んだのを今でも受け入れられない」とか「どうして死んだの」的な話が中心になる。それも定点撮影の普通の証言形式です。それをいくらやられたところで、「だって本当は死んでないだろ」と思ってしまう。ぼくは人並みにドキュメンタリーは見ているし、ニュース映像もあるし、その中で実際に近しい人を失った人々の顔を目にしている。それに比べれば、さっぱり意味のないものにしか見えてこない。
 
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 これが劇映画なら違います。劇映画はひとつの、現実とは離れた虚構の時空を打ち立てようとしています。優れた劇映画はその表現の意匠によって、「しょせんつくりごと」とは感じさせない。その中に実際に生きている人間として立ち上がらせるし、こちらはこちらで、物語を見る際のモードで受け入れることができる。でも、擬似ドキュメンタリーはそうじゃない。なまじ現実と連なっているからこそ、劇映画以上の配慮が必要になる。この映画には、その配慮が欠けていると思えてなりませんでした。擬似ドキュメンタリーに対して言ってはならないことかもしれませんが、「現実ごっこ」に見えてならなかった。
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 擬似ドキュメンタリーが「現実ごっこ」とは一線を画す最適な方法の一つは、現実にはあり得ない(と思われる)ものを映し出すことです。擬似ドキュメンタリーが「しょせんフェイク」である一方、実際のドキュメンタリーは「しょせん現実」。しょせん現実、というのは変な言い方に思えるかも知れませんが、ドキュメンタリーが原理的に逃れられないくびきは、対象が現実であることそれ自体なのです。

 わかりにくいですね。ぼくがもっとも優れた擬似ドキュメンタリー映画のひとつだと思っている白石晃士『オカルト』(2009)を例にあげましょう。

 あの映画では「啓示を受けたと思いこんで殺戮に踏み切る男」の様子が描かれます。そして映画の中ではオカルトめいたものがいくつも出てきて、合成ですがカメラにもそれらしきものが映し出される。これは「しょせんフェイク」です。しかし、「しょせん現実」しか映せないドキュメンタリーとはまったく違う、「もしかしたらありうるかもしれない現実像」を描き出しています。ドキュメンタリーでは、ぼくたちはある限定された現実をしか観ることができない。現実は確かにこうである、という域に留められる。しかし、『オカルト』では、まさにそのオカルトというモチーフにより、「本当に『しょせんフェイク』と片付けられるのか」「現実にはこの男のような人間がいるのではないか、いやいたとしてもぜんぜんおかしくない」「現実には人知を超えた何事かがありうるかもしれない」「仮にないとしても、それをあると思う人間が確かにいる」と感じさせる。現実はこのようなものだ、という捉え方を、フェイクによって壊してくる。ぼくたちの見ている現実が、フェイクではない確証があるのか?

 『レイク・マンゴー』ではそのようなモチーフとして「アリスの幽霊」が登場します。
 このモチーフがねえ、うーん、どうやねん、と。
 音楽の感じなんかもね、アリスの幽霊が怖いものみたいに演出されているんです。でも、この家族にとって見れば愛する娘でしょうし、もっと好意的であってもいいと思うんです。これが誰かわからない幽霊につきまとわれているとかなら別ですけど、正体割れてますからねえ。幽霊っていうのはいわば人知を超えた存在だし、フェイクドキュメンタリーの要素としてはありだと思うんですけど、身元確かな幽霊だったら別にいいんじゃないですかねえ。なぜかあれが不気味な色合いをもって描かれるんですけど、今思い返してみるに、家族含めアリスを取り巻く周囲の人々が、彼女を本当に愛していたのやな、という風に見えてこない。そうなると「しょせんフェイク」であるところの彼女の実像自体がもはやつくりもの以外の何者でもなく思え、家族が最終的に何をどうしたいのかもわからない。
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 もっと言うと、これは映画とずれますけど、ぼくね、幽霊って何をしたいのかもうひとつよくわからないんです。このアリスの幽霊もね、写真やビデオで遠巻きに映ってカメラのほうを向いているんですよ。で、何やねんと。おまえは何をしたくてそこにいるねんと。これは幽霊一般に言えます。たとえば心霊写真で顔だけ映る幽霊がいる。でも、おまえはなんで写真に写りたいのや、と思いませんか? 集合写真でみんなピースをしている中で、あれ? 手が一本多い! きゃあああ! 
 何やねん。なんで集合写真で手だけ出そうと思ったんやその幽霊は。
あるいはあれですかね、怖がらせてやる、と思っているんですかね。何なんですかその幼稚な目的は。それとも何かを伝えたいのですかね。なんで写真やビデオに映るんですかね。気づいてもらえないかもしれないのに。直接現れたほうが早いのに。幽霊は写真やビデオにしか映っちゃいけない決まりなのでしょうか。もういろいろとよくわからない。
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 だから『レイク・マンゴー』のアリスにはぜんぜんぴんと来ない。
ラストもね、アリスの母親がカウンセリングを受けるんですけど、家の中を想像しながら「アリスの姿はないわ」みたいな落ち着け方をするんです。なんですか。しょせんはおまえの内面問題だったんかい、と思います。いろんな手がかりを見つけたり彼女の秘密を暴いたり何なりして、お母さんがすっとしたねみたいな話ですよ。アリスの正体を暴いて、そうしたらもう満足なんですかね。もう幽霊化した娘なんて怖くて嫌だなってノリですかね。もうアリスが可哀相すぎるよ! 結局ラストも家に置いて行かれちゃったじゃん!
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 と、いろいろ言いたくなる作品でありました。ぜんぜんこちらの現実認識を揺るがせてくれない、登場人物の内面もすかすかな「しょせんフェイク」だという風に思ったわけですが、さていかがなものでありましょう。
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 岸谷五朗が格好いい。でも、よくわからないところも多かったです。
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DDさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。 

 崔洋一監督は『クイール』という盲導犬ものを撮っているので、『犬、走る』というタイトルを知ったときには犬のお話かと思いましたが、違いました。崔監督の作品は『月はどっちに出ている』と『血と骨』しか観ていないのですが、どちらも在日の外国人の生き様を中核に据えた作品でしたね。本作もまた、在日の中国人、韓国人が入り乱れる映画でした。

 韓国うんぬん、中国うんぬん、在日うんぬん、という話にはいろいろ思うところもあるのですが、最近はどうも、韓国嫌い、中国嫌い、という言説をネットで見るのに少し辟易しています。いや、言説ならばいいのですが、ただの罵言に過ぎないものがそこかしこで湧いていますからね。うん、その辺については、書きたいこともあるんですけどね。
 まあ、そんな話は置いておきますか。。
 さて、『犬、走る』です。

 岸谷五朗、大杉漣が主演で、岸谷は刑事、大杉はどうもよくわからない立ち位置ですが、情報屋みたいなもんらしいです。二人を軸に、歌舞伎町の裏稼業の様子などがいろいろと描かれていきます。
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 結論から言うと、どうもぼくにはよくわからないところが多かったのですね。もう少し説明してほしいなと思うところも正直ありました。いわゆる裏の世界みたいなもんに詳しい人にはぴんとくるようなのも多かったのでしょうけれど、ぼくには何のことやら、どうしてそうなるのやら、というのもあって、入り込むのに難儀した部分も多いです。
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よかったところで言うと、岸谷五朗ははまり役だったように思います。「不良の刑事」というのがいちばん似合う俳優の一人ではないでしょうか。やさぐれた雰囲気で、違法な行為もなんでもやったるでな感じがあり、韓国映画なんかに出てみても結構はまるんじゃないですかね。『夜明けの街で』っていう映画が公開中らしいのですが、予告編やポスターの感じからして、使い方が違うように見受けます。この人はこの『犬、走る』みたいな、ノワール系が最も似合うはずなのです。崔監督は韓国映画も撮っているらしいですし、ぜひ起用してほしいと思いますね。

 岸谷五朗が出てくると映画の温度が上がります。焼き付くのはなんといっても、「シャブを売る外国人を摘発」からの~「押収したシャブを部下の香川照之と打つ」→「ハイになりながら歌舞伎町の路上で若者をぼこぼこ」→「あげくにぼったくりバーでレイプして店内を破壊」。このくだりは絶品でした。もうむちゃくちゃですからね。このノリは最近の日本映画では観ることができません。なにしろ主人公の刑事がシャブを打ってレイプするわけですから、こんなのを公開したら真面目な人たちに怒られてしまいます。
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 でも、だからこそ岸谷五朗が輝いているのです。90年代の薄暗い画面と非常によくマッチしていました。HIPHOPを随所でかますのも90年代的な古くささとしていいですね。こと日本映画において、HIPHOPは90年代的映像ととても相性がいい。宇多丸さんは「日本語ラップやヒップホップを格好いいものとして描く日本映画」について難を示していましたが、それが古さと結びついたら「だささ」として昇華する。男の髪型にしても、センター分けでその分けた前髪がもっさりしているというあのだささ。ああ、90年代だなあというのに満ちていました。おわかりかと思いますが、ここでいう「だささ」は肯定語です。
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 一方、大杉漣はというと、うーむ、この大杉漣がいいという声もネットであるんですけど、ぼくには大杉漣じゃないよなあという気がして仕方ありませんでした。大杉は岸谷に頭が上がらないような、弱気なキャラクターとして出てくるんですけど、存在感がありすぎるんです、個人的な感じ方ですけどね。もっと弱っちそうな人のほうがいいと思えてならず、観ながらどうもノイズになりました。だって大杉漣は岸谷五朗よりも十歳以上も上ですし、背だって高いし、それなのにあんな浪人生みたいな格好をしているのがどうも合わない。それとあの変なSMのシーンもよくわからない。岸谷のシャブ打ちバー破壊はキャラに合っているなあと思って楽しかったけれど、大杉のSMシーンは何なのでしょう。あれを入れた意図がぼくにはわからないんです。この映画において、彼の性格を描写する場面たり得ているかというと、ぼくにはどうもそうは思えないというか、うん、よくわからないんです。教えてほしい側の人間です。
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 冨樫真演ずる中国人娼婦の死で物語が大きく動くんですけど、ここもぼくにはよくわからなかった。すっごい唐突に死ぬ、というか死んでいるんです、あの人が。あれね、冨樫真がどんなことをやっていたのかもうひとつよくわからないんですよ。一応台詞で説明されますよ、ヤクザに目をつけられるようなことをやったってのも言われているし。でも、そーんなに存在感がないというか、ああ、この人が殺されちゃった、えらいこっちゃ感が実に乏しい。簡単に言うと、死体としてのほうが活躍してしまっている。死体をあちこち引きずり回すことになるんですけど、そっちのほうが出番としてはむしろ長いっていうね。それだとどうも、もっと序盤で、大きな役割を担ってもらわなくちゃいけないと思ったんです。岸谷五朗にしても大杉漣にしても、冨樫真を弔う精神がなさ過ぎる。ただの邪魔な死体扱いですからね。それでいいのかよ、と思わされる。いや、それならそれでいいけどさ、でも、死者をそういう風に扱って、最後にあの展開来られても、ぐっとは来ないよと思うんです。
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 それと、これまたよくわからなかったのは、最後の「防弾チョッキ、着てないのか」ですよ。え、なんで大杉が防弾チョッキを着ていると思ったんですか? ネット上の解説で、岸谷と大杉がヤクザ摘発のために一芝居打ったのだ、みたいに書かれていたんですけど、え、どこでわかるのそれ? ぼくが聞き逃したんですかね? だってその直前のシーンで、大杉はヤクザに脅されていたんですよ散々。そこから説明無しであの新宿東口大疾走に行くんですよ。どうして岸谷は大杉が防弾チョッキを装備していると思ったんでしょうか。
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 それに、だったら、その伏線をどこかに入れておくべきでしょう。いざってときは防弾チョッキが役に立つぞ、みたいなことをどこかで大杉に吹き込むなどして置くべきでしょう。そう、それがないんですって。クライマックスまでのどこかでね、大杉漣が、「防弾チョッキを着ておくと安心だ」と思えるシーンが必要なんです。そうしないと観客を導けないですよ。それがあって初めて、「おい、おまえ着てないのかよ」になるんですよ。いっくらでもあったはずですよ。岸谷と二人でヤクザの事務所に乗り込むくだりが前の段階であるんだし、そのあたりで岸谷に確認させたっていい。着てるな、よし、みたいなやりとりがひとつでもあればぜんぜん違っていた。それがないのに、あれで何か驚きを演出みたいな風に持って行かれたって、それは無い話ですよ。「だってあれ、蒸れるし……」って、着たことないじゃん大杉漣!
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 と、延々書きながら少しだけ不安です。「あったじゃん、そういうシーン」と言われたら終わりです。あの空き地で岸谷が着ているのがわかるのは違いますよ。あれを持ち出さないでくださいよ。あの展開より前で、という話です。いや、あの風俗の短いシーンで、もしかしたら岸谷に大杉から電話がかかっていたのかも、あの電話はそういうことだったのかも。もしもそうだとするなら、そこは絶対カットしちゃ駄目だって。あれが最後のチャンスだったのに、伏線を張るためのさ。

 韓国、中国の人々の生き様みたいなもんももうひとつよくわからなかったです。冒頭にあの部屋で拉致されていた人たちの話も、わかる人には何のことかわかるんでしょうけれど、もう少しでいいから説明してくれないかなあと思いました。それはおまえの知識不足だって言われるかも知れないけど、ああいうことにまつわる知識は、まっとうに生きていくうえでは入ってこないものなんですよ、そこで知識不足を責められても困りますよ。韓国、中国の人の生き様ってことでいうと、ジャッキー・チェンの『新宿インシデント』がすごくよくて、あの映画だとあの人たちの目線もわかった。でも、この映画ではわかりませんからねえ。自国から出稼ぎに来た人々の人生っていうのが、この映画では何もわからない。モチーフとして利用されているだけに思えた。

 岸谷五朗を軸とした映画の風合い自体はいい。そこはとてもよかったと思います。ただ、細かい部分でよくわからないところがあって、あるいはぼくにはこの映画を正当に評ずることができないのかもしれません。だからむしろ、教えてほしいことが多いですね。自分にはこの映画の良さが大いにわかったぞ、という人、大募集です。
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