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そろそろと年の瀬でございます。
 年の瀬に映画ブログがやることっつうのはだいたい相場が決まっておりまして、まあその一年に観た映画でよかったものを総括するってことでございます。
 ぼくもご多分に漏れず、やってみようと思います。
 このブログも数年ほどのささやかな歴史がありますが、振り返ってみるに、年末にその年を振り返るということは一度もしていないのでありました。
その理由のひとつにはまず、ぼくが新作をぜんぜん観ない人間であるというのがあって、これよりお示しするものもまた、旧作ばかりなのでございます。
 先にばらすならば、今年公開の作品というのはひとつも入っていないのであります。
なんたら映画ブログでありましょう。
 でもまあ、そういうのは他の皆様にお譲りするのでございます。
 ぼくは皆様の評価を参考として、半年後とかにDVDを選ぶことにするのでございます。

 新作の話題についていけぬというのは、エイガミにとってはもの寂しい面もあるのですが、ぼくは他のエイガミの方々ほど古い映画を観ていないのであります。優先順位としてそちらが断然先なのであります。
 というより、正直な話、話題の新作がどうのこうのという話題それ自体、ぼくにとってはそのほとんどがどうでもいい。ぼくが求めるものは「その映画から何を見いだせるか」に尽きると言ってもいい。ぼくの興味は近頃とみに、映画がどうであるかそのものよりも、映画から何を読み取るかへと傾いています。

 この辺の話は無駄に長くなるのでやめておきましょう。

さて、これまた今までやったことのないことですが、ベストテン形式を採用してみます。
 ただ並べるよりも、多少のイベント性というか企画性というかなんかそんなのを持たせた方が読み応えもあろうという愚考であります。しかし、本来であれば、個人でベストテンをつける行為は好ましいものではありません。
 ベストテン形式にしていますが、こんな順位などあってなきがごとしであります。そもそも年代自体がばらばらであるし、描かれようとしていることもばらばらですから、順位をつけようがないのです。じゃあ順位付けするなということであって、まことにその通りでございますが、とかく人の世は順位なるものに拘泥するのが習いで、代理店に愛された48人の順位をめぐって、誰も彼も浮かれ騒いだのも今年のことでございます。ぼくとしてはアイドルなどは順位など気にせずに楽しめばよいと思うのであって、ここでも順位は気にせずに読んでほしいのであります。

 そろそろいい感じでじれったくなった頃合いでございましょう。
 このベストテンは今年、当ブログで取り上げた映画から選んだものです。
すべて旧作です。新作のランキングを観たい人はよそにいってください。
 それでは行ってみよう!


10位! 『トーク・レディオ』 オリヴァー・ストーン 1988
何かを伝える覚悟がおまえにあるのかよ? と殴りつけてくる。
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9位! 『ヤング・ゼネレーション』  ピーター・イェーツ 1979
必死になった一瞬は一生を支えてくれる、と思わせる。
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8位! 『何がジェーンに起ったか』 ロバート・アルドリッチ 1962
 一つの舞台と二人の女優がいれば傑作は生まれる。
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7位! 『ヘルボーイ ゴールデンアーミー』 ギレルモ・デル・トロ 2008
娯楽作品として言うことなし。
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6位! 『サイドウェイ』 アレクサンダー・ペイン 2004
この映画に惹かれる人と、ぼかあ酒が飲みたい。
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5位! 『パッチ・アダムス』 トム・シャドヤック 1998 
笑いは人を救う。そのことを心底信じている人は、完璧に格好いい。
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4位! 『ミツバチのささやき』 ビクトル・エリセ 1973
 ぼくたちがいるのは、たかだか社会というものの内側に過ぎないのではないか?
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3位! 『ジョニーは戦場へ行った』 ドルトン・トランボ 1971
 徹底して嫌な映画。だからこそ戦争映画として最も価値がある。
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2位! 『テルマ&ルイーズ』 リドリー・スコット 1991
90年代に現れたANCは解放感に充ち満ちた女性の二人旅、そして圧巻のラスト。
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1位! 『哀しみのベラドンナ』 山本暎一 1973
 夏にお薦めいただいた作品で、レンタル困難ゆえに思い切って買ったら大当たり。度肝を抜いてぶるぶると震えさせるド傑作。アニメーションとは何か、映画とはいかなるものかまでをも考えさえてくれる一作。
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いざ並べてみると、いやあ面白みのないというか、まあ世間で既に賞賛されてきたような作品が多いことであります。それが傑作なのはいまさら言われなくなって知ってるよ、というものばかりでありましょう。新作を追いかける趣味のある方などは、この辺のものは至極当然に観てきたものでありましょうが、ぼくはまだまだ古い名作に出会い足りずにいまして、それはそれで幸福なことであるなあと思っています。「なにさま映画評」の二つ名は「いまさら映画評」でもあるのです。いまさら観てみるのも、いいものなのです。 レンタルビデオ・ファンタジーなのでございます。

ベストテンには入れませんでしたが、未見の場合はぜひに観てほしいものを以下に列挙しておきます。

『3時10分、決断のとき』 ジェームズ・マンゴールド 2007
『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』 山中貞雄 1935
『イリュージョニスト』 シルヴァン・ショメ 2010
『ロンゲスト・ヤード』 ロバート・アルドリッチ 1974
『鬼畜』 野村芳太郎 1978
『パプリカ』 今敏 2006
『渚のシンドバッド』 橋口亮輔 1995
『フィクサー』 トニー・ギルロイ 2007
『必死剣 鳥刺し』 平山秀幸 2010
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』 押井守 1984
『リトル・ミス・サンシャイン』 ジョナサン・デイトン/ヴァレリー・ヴァリス 2006

年末はそれなりに忙しく、記事をアップできてもひとつかふたつになりそうで、だったらまあ決まりのよい記事で終わってもよかろうということで、今年の更新は今回をもって終了とします。今決めたのであります。
 
 今年はどうもありがとうございました。多くのレスポンスを賜ることができ、語るうえでの大きな励みになったのでありました。リクエストしていただいた方、ありがとうございました。教えてもらった映画でも数多くのいい作品に出会うことができました。また一方、お薦めいただいたのに酷評をぶつけてしまうこともありました。不快な気持ちにさせてしまったことがありましたら、あらためてお詫び申し上げます。
 ご愛顧いただいている方、コメントはしないけれども読んでいるぞという方、ならびにアンチ様を含めまして、読者の方々に深くお礼申し上げます。
それでは、また来年お会いいたしましょう。See you next year.
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善悪の地盤が端から壊れている、絆と生き方をめぐる人生譚。
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 間を開けつつ各作を観ておりまして、近頃に『完結篇』を観ました。まあ映画ブログたるもの名作はひとつでも多く取り上げておいたほうがよかろうっつうことで、『仁義なき戦い』。

 注:今回の記事はいつも通り、いつも以上に話がだらだらくねくねしています。ご注意ください。

しかしまあ二年以内に五作を続けて公開っていう勢いは、今の日本映画界では考えられぬハイスピードであります。1960年代から70年代にかけての日本映画は年に二作、三作を公開するシリーズものがばんばんつくられていたのですね。東宝で言えば怪獣もののほか『若大将』『クレージーキャッツ』、大映で言えば『座頭市』『兵隊やくざ』、松竹なら『男はつらいよ』。東映はシリーズもの華やかなりし時代を迎えており、『仁義なき戦い』のほか、高倉健主演の『日本侠客伝』『網走番外地』を筆頭に任侠ものが大量につくられ、菅原文太の『トラック野郎』もありつつ、ぼくの大好きな『女囚さそり』も公開。枚挙に暇ないとはまさにこのこととも言うべきシリーズ文化で、これでもごく一部に過ぎないのですから、いやあこの頃に映画を観まくった人というのは、もう本当に観まくったんだろうなあと思いますね。もちろん洋画もあるわけで、プログラムピクチャーの時代でもあって、二本立て三本立てが当たり前と来て、今よりも人と映画の距離が近かったのかなあと思います。DVD世代のぼくとしては、圧倒されるばかりの時代であります。
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『仁義なき戦い』がそれまでのヤクザ映画と違うのは、それまでのヤクザ映画が任侠(= 弱きを助け強気を挫く)的側面を有していたのに対して、暴力団組織同士の抗争を全面に描いたことであると言われます。本シリーズは「ヤクザ映画」というよりもむしろ、「政治映画」のニュアンスが非常に強いというか、いや、「政局映画」という言い方が伝わりよいのかもしれません。何々組の誰々を味方につければ何々組を圧倒できるぞ、いやしかしそうなると何々組の誰々が力を持って分が悪い、ここはひとつ別の何々組と示し合わせて、いやいやそうなるとこちらとしてはメンツが立たない、ここはやっぱり・・・・・・というきわめて政治的な出来事が繰り返されていくのであります。そこへ来てヤクザの世界とあって、血気盛んな若い衆が勝手に行動してお偉方の思惑がおかしくなったりしてぐちゃぐちゃになったりして、向こうにこっちの誰それを殺されたので大人しくしてはおれぬから復讐をするべきだと思うんだよね、というか復讐をしなかった場合向こうはこちらをなめてくるわけでそれは輪をかけてむかつくよねとても、殺しに行くよねこの流れだったら、的なことで血で血を洗う。ゼイウォッシュブラッド・ウィズブラッド。ゼアウィルビーブラッド。
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ちょいとぼおっとしていたりすると、あれ、これは誰と誰がどういう関係なのだっけ、というのがわからなくなったりするので、1回ちゃんと把握した上で2周目に入るとより面白く感じるかもしれません。ただ、名作と言われる本作でありますが、この映画が大好きである、この映画を悪く言うなんて信じられない、という人はたとえば、同じ役者が役を変えて別の作品で出てくる、ということについてはどう考えているのかは気になるところです。松方弘樹は1,4,5作目で出てきますが、毎回違う人物になってしまいます。北大路欣也は2作目の主役級の人物として登場し、壮絶な死を遂げるのですが、5作目ではぜんぜん別の組の幹部として出てきます。他にも、あれ、この役は前は違う役者だったぞ、というのもあって、その辺がもうひとつ大河性をなくしている感はあるように思うのですが、どうなのでしょう。公開当時の観客の人々は気にならなかったのでしょうか。「俺は2作目が大好きなんだよ、あの北大路欣也の役がねえ」と思っていたら5作目でぜんぜん違う人になっているのはいいのでしょうか。北大路欣也は北大路欣也で、「いやあ、ぼかあ2作目で死んだので」と断ったりはしなかったのでしょうか、その辺はいろいろと気になります。
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 そんな中にあって光るのは主役の菅原文太はもちろんのこと、山守という実に老獪な親分を演ずる金子信雄です。この人は5作すべてに出ていて、一貫して山守なので安心です。広能はもともと復員兵なのですが、山守組員に代わって殺人を行い、刑務所で出会った梅宮辰夫演ずる若杉と出会い、その後山守と盃を交わして極道の世界に入るのです。その後山守のために働いたり裏切られたりというドラマが広がっていくわけです。
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 五部作を見終えて思うこととしては、役者の変転、再登板なども鑑みるに、ひとつの貫徹した大河ドラマとしてはそれほど収まりがよくない、というのはあります。『完結篇』というからにはやっぱり、広能と山守の因縁に何か蹴りがついたりするとぴしっと締まったようにも思うのですが、そういうことではないようです。『完結篇』といっても、その後の『新・仁義なき戦い』もありますし、終わりは終わりで、「戦いは終わらないのであった」的なことになるし、この辺は実在の人物の手記から始まった実録ものの話でもあるから、映画的、物語的な完結性は持たぬのでしょう。
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 ヤクザものといえばこの前年、1972年にはあの『ゴッドファーザー』がありますね。あの3部作はもう、マイケル・コルレオーネの話じゃないですか。もともと堅気だったマイケルが跡目を継いで、そこからどう生きていくかっていう大河ドラマなのですが、『仁義なき戦い』は広能の話としての収まりはあれほどにはよくない一方、広がりも見いだしにくいところがあります。彼はあくまで一勢力で、それ以上の上位意志が方々で働いている、という構図があるため、混沌としています。『完結篇』ではもうほとんど刑務所にいて、出てきてからも何もしていないですね。

 ただ、物語的な収まりや起承転結のようなものが明確でないことが、映画的によろしくない、ということではぜんぜんありません。それであればこれほどまでに語り継がれ、愛される映画シリーズになるわけはないのです。
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『仁義なき戦い』が面白いのはひとつに、この映画においては、「善なるものは端からない」ということです。まさしく「仁義なき戦い」なのです。なにしろ題材はヤクザ同士のシマ争い、メンツ争い、シノギの削り合い、だまし合いばかし合いそして殺し合い。そこには初っぱなから最後まで、勧善懲悪は皆無です。これは実際の戦争に通ずる、きわめてメタフォリカルな構図です。

 話はそれますが、東映は1971年にあの『仮面ライダー』を放映開始しています。仮面ライダーとは何か。平成版はおくとして、こと昭和版のライダーシリーズというのは、善と悪というきわめてわかりやすい図式を用いたヒーローものなのです。
 ウルトラマンシリーズ、あるいはゴジラシリーズとは大きく異なります。ヒーローものを一緒くたで考えていると気づきにくいかもしれませんが、ウルトラシリーズは善と悪の話ではない。むろん、「地球を侵略する悪い宇宙人をウルトラマンがやっつける」的構図はいくつも見られはするものの、多くの話において、果たして人間は善か? 宇宙人や怪獣は悪と言えるのか? と問いかけるものがあります。

 『機動戦士ガンダム』はこのような「非・善悪図式」を採用しています。ジオン公国は地球に対して戦争を起こしますが、その大義は、「地球連邦からの完全な独立」。はっきりとした戦争行為で、どちらが悪と一概に言い切れるものではない。作中では残虐な殺人行為や過激な壊滅計画を行うなどして悪辣な印象をもって描かれますが、そこにあるのは「悪」ではない。戦争による作戦行為です。
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 物語において、善と悪の図式が採用されることがままありますが、そもそも我々の社会において、悪とは何か? 「倒されるべきわかりやすい悪」などというものがあるのなら、既に淘汰されていてしかるべきなのではないか? 我々は何かを「悪」と規定することで、自分たちの足場を保持、あるいは構築したいだけなのではないか?

 既得権益は悪だ、私利私欲をむさぼる政治家は悪だ。
 なるほど、ならば速やかに排除すればいい、しかしできない。
 なぜか? 
 彼らが権力を持っているからか? 
 しかし政治家とてただ一人の人間に過ぎず、彼が独り荒野で権力を叫んでも意味はない。 彼の持つ権力を支える人間や、そのシステムの存在があるんじゃないか。
 そうしたことを突き詰めたときに見えてくるのはつまり、「我々は何に支えられているのか」ということです。

 まだまだ話はそれますが、今年を表す漢字として、「絆」が選ばれました。絆、なるほど、それはいい言葉に思えます。とりわけ被災した地域の人々にとって、絆というのはとても尊いものに思えたことでしょう。絆は「善きもの」であると言えましょう。しかし、既得権益やら私利私欲の政治家やらの持つものもまた「絆」と言えるのです。何々さんには世話になったから手厚くしてやれ、選挙の際は是非に応援してやれ、というのも絆。記者クラブ同士仲良くやろうぜ、というのもまた絆。絆を尊ぶ人間が、他者の絆を糾弾するのはおかしな話と言えます。絆というと聖なるつながりに見えますが、何事も聖性だけに目を向けようとは虫がいい。その絆から離れたものにとって見れば、打ち砕くべきものに見えてくる。そしてぼくたち自身だって、絆にただ乗りすることで現在の生活を保てている。税金で私腹を肥やすな、税金の無駄遣いをして増税とはなんたることだと怒りながら、日本がアフリカの諸国よりもずっと贅沢な生活環境を維持できているというこの国民的既得権益には何も言わない。ぼくたちだって既にうまい汁を十分に吸っている。
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『仁義なき戦い』は暴力団の話ですが、暴力団はいわば「絆」の最たるものでもありましょう。疑似家族的な共同体を形成し、規律と連帯のもとに寄り集まっているのです。先の話で言えば、暴力団は「悪」と一般的には言えるのでしょうが、はて果たして簡単にそう言い切れるのか? 
 とりわけ戦後の混乱期において、共同体がぐちゃぐちゃで、法的信頼もずたずたの最中で、暴力団に入ることで救われる人間というのが確かにいたわけです。あるいはその暴力団の存在ゆえに救われた人々もまたいたのでしょうし、今だっていくらでもいるのでしょう。そうでなければこんなにも長い歴史を持つわけがない。今年にはあの大物芸人が、「暴力団とのつながりは駄目だ!」と言って引退して、だけれどその後もいろいろ報道が出たりして、ぼくたちはそれを笑って眺めたりしているけれど、あの後、何か変わったのか?
 彼はいわば捨て身で「暴力団とのつながりはアウトなんだ!」というメッセージを発したけれど、誰かそれをきちんと受け取ったのか? 芸能界の図式は変わったのか? あの後たとえ一件でも、暴力団とのつながりが明るみに出た芸能事務所や芸能人があるか? 結局は彼を揶揄して終了? 彼だけが特殊なケースで芸能感は真っ白? マジで信じられる? それじゃああまりにも実りがないと思うけれど、やっぱり暴力団に支えられている人はいっぱいいるなあと思えるわけです。

『仁義なき戦い』とはこれすなわち、善と悪の崩壊した状況の中での、絆をめぐる話とも言えるのです。そして一見、物語的な簡潔さを帯びないつくりであるこの作品は、そうであるからこそ、ぼくたちの社会の写し絵たり得る。終わりの見えないこの話、綺麗な勧善懲悪も起承転結もないこの話は、ぼくたちの人生の進行とも同じです。『仁義なき戦い』には人生がある、というのはあまりにもおおげさですが、人々が熱狂するのはひとえに、そうした延々の流転があるからだと思うのです。

 思いつきで書いているのでいつも通りいつも以上にだらだらしました。個人的にいちばん好きなのは4作目の『頂上作戦』。3作目で絡まりきった混沌がついに爆発したような4作目の熱量に惹かれました。初見の際には、ある程度構図を頭に入れたうえで観るのがお薦めと言えます。
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寡黙さを埋めるだけのエロスは感じられませんでした。
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なめこさんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。

 台湾映画というのはぜんぜん観ていない分野です。ここで取り上げたのも『モンガに散る』くらいですね。アジアで言うと香港映画がアクションの分野で人気で、タイ映画もそれを追随している。一方、ゼロ年代には韓国映画が大きく花開き、とりわけノワール系での強いインパクトをもたらした。台湾映画には何があるのか、ぼくにはよくわからなくて、なかなか観ずにいるのが現状です。

さて、『西瓜』です。タイトルからは何もわからず、予備知識ゼロで観ました。西瓜といえば夏の風物詩みたいに言われますが、ぼくはというと西瓜が好きではありません。子供の頃には家で食べたりしましたが、何がうまいのかさっぱりわからなかったんですね。西瓜の甘みというのがてんで感知できぬというか、「西瓜は甘くておいしい」みたいなことを言われても、何のことだかと思っていた。むしろ、「此は今あまり食はずに置きて、虫籠の中の甲虫にやらう。かの虫の方が悦びをもつて汁を吸ふらむ」と思っていたので、カブトムシに捧げたりしていたほどでした。「塩をかけて食うとうまい」と聞いたので、そうやって食べてみると、ふむ、塩味がするのでうまい。しかしその場合、ぼくは塩をうまいと思っているのであって、西瓜である必要性がなく、なんなら西瓜は要らないから塩だけ舐めていたいとさえ思ったほどに、西瓜の魅力がわからなかったのです。
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 映画もまた、実際の西瓜同様に、ぼくにはよくわからぬものでありました。
 演出としては90年代の北野武や、あるいはキム・ギドクのように寡黙な作品で、その風合い自体は嫌いではないのですが、いかんせん何をどうしたいのかよくわからないところが多かったのです。

 台湾では当年の興収一位を記録したという本作はしかし、日本ではR-18であり、性描写がたくさん出てきます。寡黙な本筋の一方で、この性描写が映画の「おかず」として機能してはいるのですが、ふむ、まあ、ふむ。
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 台湾の性産業事情というのがどのようなものなのか、ぼくはよく知りません。中国よりはオープンなのかなあとも思うけれど、日本よりも進んでいるようにも見えません。日本の映像における性表現といえば当然往年の日活ロマンポルノやピンク映画があり、その後アダルトビデオ市場の隆盛が今日まで続いているわけですが、台湾にはそのような歴史があるのでしょうか。いや、別に歴史のあるなしなどどうでもいいのですけれど、こと本作において言うなら、ううむ、なんか、古くさいなあ、というのがまずありました。
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 話は変わるようですけれど、現在のAVにおいても人気があり、ゼロ年代AV界で市場を広げた「S1ナンバーワンスタイル」というメーカーがあります。AVを観る諸兄において、S1の名を知らぬ者はおりますまい。このメーカーの特徴は単体系美少女、美女の女優名を前面に出して作品をリリースするところで、ぼくの大好きな恵比寿マスカッツの女優の多くも、このメーカーから作品を出しています。
 では、S1はなぜ売れるのか。
 美人女優を使っていることもさりながら、大きな特徴として、あのメーカーのAVはだいたい「緩い」んです。いや、緩いと言っても、むろんがっつりとした絡みを映しているのですが、映像から醸されるエロさが足りない。だからこそ、狭くてコアな客層には見向きもされない一方で、AVを見始めたりするような高校生、大学生などにはウケがいい。適度にエロい。

 ただ、それがゆえに、素朴さが無い。過剰さが足りない。肉体に言及していない。S1の監督が撮る作品には、職人的手つきは見えても、フェティッシュな変態性が一切見えない。
 
 この映画にもそれに似たものを感じました。S1のAVのような綺麗さは皆無ですし、むしろそれとは逆で汚いのですが、いかんせん過剰さと肉体への言及性が足りぬように思いました。生真面目で芸術的な映画が好きな人たちには、刺激的なエロと見えるかもしれない。しかし、ぼくのような品性下劣な人間からすると、何一つエロくないし、たとえば浴室で撮っているAVにしても、無様さが足りない。精液のインパクトに頼っている。
 足に煙草を挟んでむにゃむにゃやっているシーンでも、なんか、古くさいんだよなあと思いました。何のメタファなのか読み取れなかった。メタファとかじゃないよ、芸術的な構図だようんぬんと言われても、はあ、そうですか、としかぼくには言えぬのです。

 これは何なのかなあ、と考えてみるに、ひとつには「体温が感じられない」というのがあるように思いました。登場人物たちに体温がないんです。ではなぜ体温がないと感じたのかと言えば、身もふたもないのですが、彼らが何をどうしたいのかよくわからなかった。
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 この映画は寡黙です。寡黙な映画は数多くあります。そういう映画はやはり、静かな中でも個々人の性格とか背景とか葛藤とか目的とかがあるものです。この映画の登場人物についていえば、ぼくはしばらくしたら全員忘れてしまうと思います。彼らがどういう人間なのか、まるきりわからないのです。出てくるAV女優が終盤昏睡していますが、どうして昏睡しているのかわからない。彼女はなぜ昏睡しなくてはならなかったのでしょうか。昏睡した状態でAVを撮るのもわからない。昏睡ものはありますし、それ特有の魅力はありますけれど、あの局面で撮らなきゃいけない理由は何もない。

 正直なことを言いますが、お話がよくわからなかったんです。たとえば主要人物の男がいて、彼はAV男優をしているのですが、ネット上にある解説文などを読むに、主人公の女に対して、彼は自分がAV男優であることを隠そうとしていたようなのです。なるほどそうなれば、終盤のクライマックスでそれが効いてくることもまあ解せます。
 しかし、わからない。なにしろ台詞が少なくて、彼らの考えていることがわからない。 というか、自分がAV男優であることを男が隠そうとする理由もわからない。
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 ここにはなんというか、作り手の保守性というか、傲慢さを感じてしまうんです。AV男優なんて職業は隠して当たり前、知り合いのちょいと恋仲っぽい女性に対しては特に隠さずにはいられない。ということなのでしょうか。
 そういう社会通念があること自体はまだわかります。でも、そこを何の説明もなくさらっとやっているわけです。AV男優なんて正体はばらしたくないものだよね、それは言うまでもなく当たり前のことでしょう? っていうのを感じるんです。「彼氏がAV男優だったら嫌でしょ、そんなの説明要らないじゃない。言うまでもないじゃない。だから隠そうとする男の行動もわかるよね」っていうんですかね。いやいや、この映画のつくりならせめて女のほうから、「AV男優なんて嫌だわ」という一言は要るって。
 台湾社会では自明の通念なのでしょうか。たとえそうであるにしても、この映画は通常の社会の写し絵とも見えないし、ビルの屋上の貯水タンクで水浴するなんて無茶なことも行われているし、この映画で一般通念を説明なく押し通そうとするのは、ちょっと無理がありませんか? 水道の機能しない非日常、家族を持たない女、およそ一般的な状況から離れた基盤を用意し、ミュージカルに非現実性を持たせながら、自明の通念を利用する? ぼくにはわからない。
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ミュージカルシーンにしても、結局飛び切れていないというか、現実と遮断し切れていない安っぽさがあります。あれはもう、現実と断ち切れている場面じゃないですか。ところがねえ、安いんです、なんか。ぼくは既にゴテゴテでデコデコな画づくりのものを観てしまっているし、かちっとした洋画のミュージカル映画も観ているし、そうなったとき、あのミュージカル場面ではもう、うわあ、なんか、想像の世界まで安いのかよ、というのがあったんです。低予算娯楽映画なら目線を下げて笑って観るけれど、この映画はそうじゃないはずで、だとしたらあの中途半端な盛り上がりのミュージカルは、あのレベルなら入れないほうがいいんじゃないかとさえ思いました。
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ラストのフェラチオもなあ。
 登場人物の内面がうっすいので、ただのトリッキープレイにしか見えてこないんです。 いや、何か意味はあるんでしょう。横にチャイナエアラインのスチュワーデスの看板を置いて何事かを対比させたりしているんでしょう。過激さを狙ったのもあるんでしょう。 男根を咥えながら涙するところに、愛のなんちゃらを読み取らせたいんでしょう。
 でも、根本部分の、彼らの内面が、なさすぎやしませんか?
男が女に対して愛情をぶつけたかった? 別にあの状況じゃなくてもいいでしょう。
 職務を全うできていない駄目AV男優です。
 精液を口内に発射することが愛情の暴発? それならそれでいいけど、それに値する内面も物語もない。
 それならいっそのこと、内面をかなぐり捨ててファックを見せてくれる本物のAVのほうが、よほど感動的なんです。
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ぼくはよくここで書くのですが、登場人物が筋書きの上を歩くような映画は基本的に好きじゃないんです。そりゃあこの局面ではこういう行動取るよな、というのがわからないと、ぼくは入り込んで観られないんです。

 本物の西瓜の魅力もわかりませんでしたが、本作『西瓜』もまたわからなかった。旨味を足してくれる塩はあったにせよ、「潮」を味わうならばもっと別の食材がありますから、ぼくはそっちが好きです。
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語ってわかる良さがある。

 本ブログの記事も通算400を迎えました。読者の方々には大変感謝しております。とりわけレスポンスをくれる方の存在はとても励みになります。

 今年はなんといっても震災があり、原発事故がありの年で、原発については「過去」ならず「今」であるよりもむしろ「未来」をも侵食しかねぬ出来事でありますし、またそのためにぼくたちの多くはひとつの重大な「選択」を迫られることになりました。
 原発から漏れ出した大量の放射能は日本を、とりわけ福島を中心とする東日本を汚染し、その被害を避けるために西方へと「疎開」する人々も数多く出たようです。他方、ぼくを含めて多くの人間は、疎開することなく東日本にとどまり続けている。これは明確な「選択」の結果です。子供をお持ちの方であれば、その選択を子供に強いたわけです。子供の給食に何が出ているのか、放射性物質はどうなっているのか、それを確かめずに日々を過ごすことも声を上げるのも、大人の選択です。政府や東電を批判することとは別に、自分がどんな選択をしたのかを考えなくてはいけない。あとあと健康に被害が出たとしても、それは自分の選択の結果です。政府や東電の責任が大きいのは言うまでもないし、批判の声を絶やすべきではないでしょうが、その一方で、もしも被害が出たときには、自分が選んだ道の結果として受け止めることからも、逃げてはいけないというわけです。もしもいつか自分に放射能の影響が出ることがあったとして、ぼくはまず自分の選択を顧みることだろうと思います。逃げようと思えば逃げられたのに逃げなかった、ことについて、思いを巡らせることになるのだろうと思います。

 原発の影響は健康面のみならず、ぼくたちの社会認識を大きく揺るがすことになりました。何よりも、政府や既存マスメディアの言うことはまるで信用できないのではないか、と強く感じられたことです。今までだって信用していなかったことは数あれど、今年ほど露骨に、長期にわたって、信じられないと思わされた年はありません。長い目で見たときに、新聞やテレビなどのマスメディアがさらに凋落を見せたときに、今年はその大きな象徴の年になるのでしょう。それもまた、新聞社やテレビ局の選択の結果です。

そんな中で、よりいっそう「考える」ことが大切になりました。本ブログの性質上、これ以上社会についてあれこれとのたまうのは避けます。前置きが長くなりました。今日はブログ記事400ということで、「『映画を語る』のすすめ」と銘打ってお話ししたいと思います。ぼくが皆さんにお話しできることなど多くはありませんが、まあ一応その辺の人よりは「映画について語る」ことについては日常的にやっているわけで、その辺の人よりもお話しできることがあろうと思います。鼻くそをほじくり、屁をこき、じゃれつく猫に足のにおいをかがせながら読んでもらえば幸いです(それが幸いなのか)。

 映画を観るのが趣味である人は多かろうと思いますし、映画が好きでもないのにこのブログを読んでいる人というのはちょっと想像しかねるわけで、まあ皆さんぼくと同じように、ぼく以上に映画が好きで、ぼく以上に詳しい人もいらっしゃるであろうと思います。

 ぼくが今日述べたいのは、こんな映画が面白いよ、あんな映画がいいよということではなく、映画を観て、語ることは面白いよ、ということであります。

世の中には映画を毎日毎日観る人もいるのでしょうが、観てそれっきりにするのはずいぶんともったいない話だなあと思うわけです。話題の映画を見に行ったと言って、まあそれをツイッターでつぶやいている人もいっぱいいますが、ツイッターくらいではあまりにももったいないなあと思います。あるいは映画を観て、その後「余韻に浸る」などして、また別のものに目移りするというのは、これまたもったいないなあと思うわけです。

 映画を観たら、その内容についてぜひ語ってみてほしいのです。
 語ることによって出てくる味わい、というのが、映画にはあるのです。
 語る前までは気づかずにいたことに、気づくことがあります。
「ああ、自分はこんなことを考えていたのか」とわかることがあります。
 まさしく、映画について、自分で考えてみることになるのです。

ぼくがブログを書くときは、構成についてとかそんなのはぜんぜん考えていません。ゆえに大変だらだらした文章になるわけですが、その結果最初には思いもしていなかったことが出てきたりするのです。

 この場合、映画に詳しい詳しくないは何にも関係ありません。そんなことを言い出したら、ぼくは映画についてぜんぜん詳しくありません。大事なのは、映画を観て感じたことを少し掘り下げてみることなのです。たとえばある映画を観て、面白くないと感じた。じゃあなぜ面白くないと思ったんだろう、と考えてみるわけです。
 そうするとたとえば、「なんか主人公に感情移入できなかったんだよなあ」という回答が頭に浮かんでくる。そこでもうひとつ突っ込む。なんで感情移入できなかったのか。そこから脚本的な問題が見えてきたり、人物造形の問題が見えてきたりします。場合によっては、書いているうちに印象が反転する、という実に愉快な体験をすることもあります。その奥には、映画とは離れた、自分のものの考え方が見えてくるのです。

 ここで大事なのは、「それが中立的だったり客観的だったり的確だったりする必要はまったくない」ということです。そういうものが必要になるのは「批評」の世界のことでしょう。

 勘違いする人がいるようですが、このブログは「映画批評」をしているつもりも「映画評論」をしているつもりもありません。あくまで「映画評」です。

 何が違うんだこのやろう。

それはね、「評」の一語にとどめているのはね、「批評」とか「評論」には及びませんぜ、という表明なんですね。好評とか悪評とか評判という言葉における「評」と同じレベルなのですね。どちらかというと感想にも近い、いや感想そのものに思われるかもしれない、でも、評する部分もあるにはあるよ、というね。

 なんか中途半端だなこのやろう。

 まあまあ聴きなさい。ぼくの力点はね、人を説得するとか、的確な論評を加えるとかそんなことにあるんじゃないんです。あくまで、それを観て何を考えるかってことにあるんです。人それぞれが考えることなんだから、そりゃあ感想に近しいものにもなるし、自分の受け止め方の表明なんだから客観的なものじゃああり得ない。でも、それでいいと思うんです。土台、映画の見方なんて、人それぞれと言うしかないです。むしろ、誰かの批評や評論を読んで、そうなのか、ふむふむと単純に納得するだけになるなら、自分で考えなくなってしまいます。参考にすることは大事ですが、それぞれが生きてきた文脈があるわけですから、受け止め方は十人十色で構わない。自分で考えないやつのほうが、誰かの「批評」とか「評論」とかってものにしがみつきたがるんです。

 テンポが悪いって百万人が言ったって、自分にとって心地よいテンポならそれでいい。
 脚本が最悪だって百万人が言ったって、自分にとっていい物語ならそれでいい。
 誰もがみんな傑作だと言ったって、自分が駄作だと思うなら、それでいい。
  誰もがみんな駄作だと言ったって、自分が傑作だと思うなら、それでいい。
 
 ただ、そのときはぜひとも、その理由を考えてみてほしいわけです。語ってほしいわけです。言葉にして初めて気づくことがあるのです。

映画について「語り合う」ことはどうなのか、というと、これはこれで面白いと思います。ぼくは残念ながら現在、語り合えるという人が身近にほとんどいないので、ダイアローグの旨味については深くを語り得ません。でも、思うに、まずはモノローグで考えた方がいいんじゃないかという気もしています。喋っていて気づかされる視点、というのはとても貴重なものですが、自分でじっくりと、沈黙して考えてみて初めて出てくる自分なりのものというのがあるでしょうし、ダイアローグだとそこを深めることができないようにも思うのです。議論は大事ですし、大歓迎ですけれども、最終的にはわかり合えないとも思っています。

 もちろん、知識も重要だと思います。ただ、知識集めに偏重するオタク的な見方やトリビアルでマイナーな映画ネタで喜ぶというのは、あまりぼくの趣味ではありません。映画を観て、映画ネタのアーカイブを充実させるだけではつまらないです。映画をネタとして消費するのは、ぼくがもっとも忌み嫌う態度のひとつでもあります。

 映画を観るのはいいけど、語ってる暇なんてないよ、という人もいらっしゃいましょうが、映画を観る時間はあるわけですから、三本観るところを二本にして、余った一本分の時間を語ることに当てたっていいわけです。そこで映画を「観る」だけでは満たされない面白さというのが見いだせるのです。

映画は一般に「娯楽」のひとつに数えられるものだと捉えていますが、単に娯楽として享受するのはもったいないというものでしょう。娯楽は娯楽として楽しむのはいいとして、その一方で映画に何を見いだすのか、そこに醍醐味があるというものでしょう。

今回は「語る」ことについて書いてみました。「映画を」に続く熟語は多岐にわたりまして、「観る」「語る」「考える」のみならず、「語り合う」「知る」「紹介する」などもあるのでしょうが、ぼくにはまだまだ語り得ないことも多いのです。熟語を持てば持つほどに、「楽しむ」の文字が大きくなることだろうと思います。
 ぜひ、自分の言葉で語ってみてください。ぼくとしては「語るのを読む」のも、面白いですからね。

 いろいろ偉そうなことを書いたような気もしますが、まだまだ浅い部分でしか語れていないとも十分に自覚しております。知識も教養も経験も不十分ですので、ご指導ご鞭撻のほどを今後ともよろしくお願いいたします。
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西部劇の武器を存分に活かした傑作だと思います。
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原題『3:10 to Yuma』
 そういえばこのブログではぜんぜん西部劇を取り上げていないのですけれども、おそらくぼくは西部劇感度が高くないのですね。傑作と言われる昔の西部劇とかを観てもいまひとつ乗れないこと多々でありまして、どうも楽しみ方がよくわからん、というのもあったりするのです。『ワイルドバンチ』はわかるけれども、『リオ・ブラボー』がわからない、という人間なのです。

そんなぼくですが、本作は大変に面白かったです。西部劇の面白さというか、西部劇というものにぼくが潜在的に求めていたものが、ばっちり入っていたのです。
 本作は1957年の『決断の3時10分』のリメイクでありまして、そちらは観ていないので深い話はぜんぜんできそうにないのですけれども、なんというか西部劇ってつまりこういうことなんじゃないか、というのがひとつわかった気がするのです。おいおい話していきましょう。
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 主人公のクリスチャン・ベールは南北戦争の退役軍人で、家族とともに貧乏な牧場暮らしをしています。戦争で片足を失い、借金にも追われてさんざんな目にあっています。
 そんな彼と息子たちは借金の交渉のためにと街へ行く道すがら、ラッセル・クロウを首領とする強盗団たちに遭遇します。命を狙われそうになりつつなんとか生き延びるのですが、向かった先の街でなんともう一度ラッセル・クロウに出会ってしまいます。
 しかしこのとき既にクロウは保安官たちに囲まれていて、お縄につくことになります。 彼はユマという場所にある刑務所に連行されることになります。 
 なんだ、ほっと一安心、と、そうは行きません。
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 クロウの配下の連中が彼を取り戻そうと狙ってくるに違いないのです。ユマ行きの汽車があるコンテンションという町まで、彼を護送せねばなりません。大変に危険な旅になるだろうから無事連れて行けば大金をもらえる、というわけで、クリスチャン・ベールは同行を願い出るのでした。

「護送もの」というジャンルで言うと、ぼくが好きなのはイーストウッドの『ガントレット』や、マーティン・ブレスト監督、ロバート・デ・ニーロ主演の『ミッドナイト・ラン』が好きです。どちらも現代劇ですけれど、善玉と悪玉が呉越同舟でともに旅をしていくというのは緊張感の構造としてよくできています。両者の間でも、いつ逃げるんじゃないかという緊張感が生まれるし、彼らをまるごと狙ってくる相手に対しても緊張感が生まれるし、二重の構造があるのですね。
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 本作はその辺を実に巧みに織り込んでいます。とてもよくできていると思うのですが、何か賞は受賞していないのでしょうかね。同年のアカデミー賞はと調べて観ると作品賞ノミネートもなく、他には『ノーカントリー』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。くわ、これは強敵です。『フィクサー』とか『レミーのおいしいレストラン』とかもあります。これはなかなかの粒ぞろいであります。アカデミー賞は映画会社の中で何を押すかとかそういうのも大いに関連しているとも聞きますが、ゴールデングローブ賞にもぜんぜんノミネートされていません。リメイクだからというのもあるのかもしれませんが、これはもっとちゃんと評価されてほしいと思います。IMDBを観るとノミネートこそあれ、作品として賞を取ったのは「ウエスタンヘリテイジ賞」しかないようです。
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 本作は「旅団の中での緊張」「旅団の外からの緊張」「奪還をもくろむ敵との緊張」が綺麗に織り込まれ、その折りごとに異なる見方を提示してくれます。そしてここにおいて、西部劇というものの特質が存分に生かされていると思いました。

 日本の時代劇の場合、「秩序の不条理」が武器です。『忠臣蔵』がわかりやすいですけれども、「お上が決めたことだからどんなに不条理に思えても従え」というのがあって、その中でどう抗うのかというのが物語を厚くしているのですね。今年観た中でいうと『必死剣 鳥刺し』がその良さを活かしていますし、『13人の刺客』もまた秩序の不条理に挑戦していく話です。

 では西部劇はどうかというと、こちらは反対に秩序がありません。南北戦争で国内が分かれ、移民と先住民の対立があり、保安官はいるにせよその広大な国土ゆえに悪党はやりたい放題、キリスト教に頼るわけにもいかない。

 その背景を有したうえで、クリスチャン・ベールとラッセル・クロウの旅路はより意義深いものになります。ラッセル・クロウは人殺しの強盗ですが、この映画ではジョーカー的な役割を果たしています。道中、いわば善玉サイドであるはずの同行者を殺すのですが、そもそも彼が善なるものと呼べるのかが疑わしい。途中で過去の恨みからラッセル・クロウを殺そうとする相手が出てくるのですが、その場合も私刑はよくないと言ってクリスチャン・ベールがその相手に立ち向かう(2000年代のクリスチャン・ベールはまさしくバットマン的な存在として活躍していたのですね)。アパッチの襲撃をクロウの力によって助けられる。観ている側は悪人クロウを単なる悪として見なすことは許されなくなる。ぼくたちにとって、悪とは何か、秩序とは何かを突きつけてくる。彼が聖書の言葉を口にしつつも、終盤、聖書をまるで信用していないように描かれるのは実に説得的です。
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きわめつけは終盤でしょう。この展開には驚きました。こういうことが起きる西部劇って他に何かありましたでしょうか。ばらします。

 二人がしばし留まることになったコンテンションの町のホテルをかぎつけ、クロウ奪還を狙う強盗団が駆けつけてきます。ここまではまあ予想できるところ。しかし、ここで強盗団のナンバー2、ベン・フォスターが町の人々に向かって叫びます。
「護衛の保安官たちを殺したら金をやるぞ!」
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これによって町にいた何の関係もなかったはずの人々が一斉に敵になってしまうのです。 保安官はこりゃ駄目だと言って逃げ出し降参しますが、あえなく殺されます。
 秩序が完全に崩壊するのです。

 ここでバットマン的な存在、クリスチャン・ベールは「決断のとき」を迎えるんですね。 ラッセル・クロウからも、「逃がしてくれれば金をやるぞ。いいじゃないかそれで」と言われます。しかし、ベールは決断するんですね。
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 ここではひとつ、過去に死んでいった仲間たちの存在が思い出されてぐっと来ます。
 今ここで折れたら、あいつらに申し訳が立たないじゃないかって。何のために死んだんだって。確かにここで折れれば賢いかもしれない。この状況を合理的に安全に回避するには賢明な方法に違いない。でも、それをするわけにはいかないんだ。彼が足を失ったときのエピソードもそれを助ける。もしもここで逃げたら、自分は一生誇りを持てずに生きていくことになるぞ。ベールは決死行に踏み切ります。

 クロウはクロウでこれまた格好いい。クロウの存在は実にこちらを不思議な気持ちにさせます。「俺は根っからの悪人だ」とうそぶくクロウを、ついに最後の最後に、ベールが動かしているんですね。ベールはついに勝利したんです。
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アマゾンのレビウを観ると、星一つをつけているやつらがいて、「善人なのか悪人なのかはっきりしろよ」とか「ラッセル・クロウは単に頭のおかしいやつ」とか「要らないものが多すぎる」「見分けがつかなくなる」だそうで、お一人などは高校の行事で観ることになって、ほぼ全員の感想が「ひどい!」だったとか。ひどいのはてめえらの幼さだよと言いたくなるのですが、まあ学校では秩序を学べばよいので仕方ありません。
 
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 上記の通り、何が善で何が悪なのか、秩序がぶち壊れている中で人はどのように揺り動くのかを追っているのです。何が善で悪かはっきりしないと観られないなら、昔の仮面ライダーを延々と観ていればいいのです。実写映画版『怪物くん』とかを観て洟を垂らしていればいいのです。

 最後に、原題にもなっていますが、アメリカにはユマという町があるのですね。ユマといえばぼくにとってはユマ・サーマンでも中村由真でもありはせず、もちろん恵比寿マスカッツの現リーダー、麻美ゆま様であります。ゆま様をユマに連れ立ち、「ここは君の町さ!」と言いたいものであります。阿呆のきわまることを言って、今日はここまで。
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ほえーっとしてしまいます。地上波テレビでやっても好評を博すはずです。
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 暗い映画が続いたので、ここら辺でまったく雰囲気の違う映画をと思い、評価が高くてちょいと気になっていたアニメを。

 作家の高樹のぶ子の自伝的小説をアニメ化したものです。監督の片淵須直という人の作品は観たことがないのですが、この作品を観ると他のものも気になってきます。
 制作はアニメ会社として名高いマッドハウスで、同じ年には『サマーウォーズ』をヒットさせていますが、個人的にはこの『マイマイ新子』がもっとヒットしてもよかったと観てみて思いました。『サマーウォーズ』は相当持ち上げられたように思うのですけど、なぜだかどうして『マイマイ新子』のほうは一部で話題になったくらいのようです。これは地上波のテレビで放送しても結構好評を博すと思いますよ。知名度がないから最初はあまり視聴率を取らないでしょうけれど、二度三度とやっていけばジブリ作品みたいにウケるはずです。家族そろって観られるし、テレビでぜひやるべきでしょう。
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 舞台は昭和三十年の山口県周防市で、田園が広がる田舎です。感じとしては『となりのトトロ』にも似ていますね。キャラクターの画は昔の世界名作劇場っぽくて、おじいさんは『ハイジ』のおんじにも似ているし、主人公の少女たち二人も『ハイジ』に出てきそうな感じです。そういう意味でも、テレビ放映には向いているはずです。
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 主人公の新子は小学校三年生ですが、ちょっと声優の声が大人っぽいというか、女子高生っぽいのは気になりました。最初のモノローグで、ああ、これは声優じゃないな、と思ったらその通りで、どうもメインキャラクターには声優があまり使われていないんですね。
 
 世の中にはアニメ好きが多くて、その中でも声優好きという人はかなりいるように思うのですが、そういう人たちはアニメの一線に声優が起用されないことについてはあまり何も思わないのですかね。萌えアニメの声優に萌えて満足、歌手デビウして紅白に出たりすれば満足、という人たちなのでしょうか。本当にアニメが好きなのでしょうか。どうもぼくとは認識の仕方が違うのであるなあと思います。

まあいいや。
 そこがちょっとノイズになったりしたのですが、つとめて気にせぬようにして観ていくと、映画それ自体はとてもとても良質なものでありました。終盤ではほろりと来たのでした。
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 まずこの映画のもたらす田舎描写、自然の中の子供たち描写というのは、実に秀逸でありました。すっごいベタなことを言いますけど、「田舎はいいなあ」と素直に思いました。ぼくも育ちが田舎ですから、いろいろとくすぐられるんですね。もうベタなことしか言えなくて恐縮ですが、ああやって自然に囲まれて過ごす子供時代はなんて尊いのだろうと感じたのです。反面、これまたベタですが、現代の東京をはじめとする都会で子供を育てるってのは、うーん、なかなかちょっとどうしたものなのだろうな、というのも感じたりはしました。
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 もちろん現代の都会の中だからこそ涵養できるものってのもあるはずですが、そういうものに強い疑いを差し挟んでしまうくらいに、この映画に出てくる環境のみずみずしさにやられたのでした。大きな出来事は後半になるまでは出てこないのですが、時間の流れ方も心地よかった。ああ、こういうのは、大事であるなあ、とつくづく。
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 新子が暮らす田舎に、都会から貴伊子がやってきて、仲良くなるんですけど、こういういわばベタな友情の芽生えを映画で観たのも久々な気がして、暗い映画を最近は観ていた分余計に来るものがあったのかもしれません。二人の対比もいいし、余計なことを何もしていないし、一方小さなエピソードの数々は大変にほほえましい。色鉛筆のくだりとか、チョコレートのくだりとかね。
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 うん、さっきからいろいろ言葉を探しているのですが、あまり見つからないんです。ただ、「いいものを観たなあ」とほえほえした気分なんです。ほえーっとさせてくれる映画って近頃なかなか観ずにいたので、ほえーっとしたい人にはお勧めです。

 自然いっぱいの田舎の一方で、街場も出てくるんですけど、この街場は街場でいい味を出しています。ノスタルジーものっていえば、『オトナ帝国』にせよ『ALWAYS』にせよ、結構「押し」の懐かしさなんです。懐かしの記号を出してくるじゃないですか。この映画はそういう記号をほとんど出さないんです。ああ、ひとつにはそれがあるのかもしれません。記号に頼らず、小さな出来事の蓄積によって見せていく。
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 たとえば映画館に忍び込むシーンでも、そこで上映されている映画が何かってことは本作ではどうでもいいんです。やろうと思えばここで有名映画名をどんと出して、懐かしの記号を入れられるけど、そんなのはどうでもいい。大事なのは、そこで忍び込んでみんなで映画を観た、というその行為の記憶です。だから映画では架空の映画名になっているわけで、下手に現実に頼ろうとしていない。金魚の埋葬にしても、そこでみんなそろって埋葬をしたという行為が重要なんです。そうした行為の丁寧な積み重ねが、映画を支えている。子供の頃は小さな出来事が大事だった、というのがすばらしくよく描かれている。
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 ある出来事が起こるんですけど、そのあとで新子と上級生のたつよし少年が夜の盛り場に出て行きます。ここは目頭が熱くなってしまいました。新子の声が強すぎる、というのはあるんですけれど、否応なく必死に大人と対峙している様には、そりゃあ打たれますって。 
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この映画はもう少し時間をおくと、もっとじーんわり来るかもしれないです。ジブリでいうと、『おもひでぽろぽろ』とか『海がきこえる』とかが好きな人にはてっぱんでお勧めしてよいと思いますね。で、他の人にもぜひ観てほしい、と思いますね。まだまだ語れていないことは多いのですが、自分の中で発酵させたら折に触れて語ることもあるでしょう。日本テレビも繰り返し同じジブリ作品を流すくらいなら、一度くらいこれを流してみたっていいはずです。十分に匹敵、あるいは凌駕する出来だと思います。
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反戦映画の極北
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 原題『Johnny Got his Gun』
「ずっと観たいと思っていた」シリーズ。
前回の『震える舌』に続き、これまたうんざりさせられる映画でありました。
 監督のドルトン・トランボは原作者でもあり、監督した作品はこれ一作のみ。赤狩りに抗いながら脚本家として活動し、偽名で『ローマの休日』の脚本を書いたのもこの人であります。
 タイトルの『Johnny Got His Gun』は第一次世界大戦時の志願兵募集を呼びかける文句『Johnny Get Your Gun』から来ているそうです。「ジョニー、銃を取れ」と言われて戦場へ行った結果、とんでもないことになってしまった男の話です。
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戦地で負傷したジョニーは四肢を失った上に顔を丸ごと吹き飛ばされ、一切の意思疎通手段を無くしてしまいます。首を動かしたり胴体をゆすったりすることはかろうじてできるし、皮膚感覚もあるし、周囲の振動を感知することで人の動きなども少しだけならわかるのですが、可能なのはそれだけ。しかし反面、皮肉にも意識だけは鮮明にあるという、きわめて絶望的状態なのです。
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 近年で言うと、若松孝二監督の『キャタピラー』が似たような状況になった負傷兵を描いていました。あの映画では四肢と言葉を失った男が出てきました。目や耳は機能しているぶん、このジョニーに比べれば被害は小さい。あくまで、ジョニーに比べれば、ですけれど。ちなみにあの映画に関するぼくの感想ですが、映画のモチーフそれ自体には考えたいことも多いと思った反面、寺島しのぶがうるさすぎました。演出的にも好きじゃなかったところが多いのですが、寺島しのぶの「熱演しています」感がうっとうしい。ぼくは寺島しのぶが好きじゃないかもしれないです(判断保留)。

 戻ります。
 現代で言えば、乙武さんのように先天的な障害を抱えた人がメディアに登場し、彼が「不便ではあるが不幸ではない」という肯定的な生き方を提示したことで、おそらくはぼくを含めた多くの人々がいろいろなことを感じたのでしょうけれど(この辺は言い方がちょっと難しいです)、今まで当たり前にあった体の機能を失う、ということについては、やはり恐怖をぬぐい得ないわけです。

 特にこの映画のジョニーの場合は、本当に何もできないですからね。機能する五感と言えば触覚、それも微々たるものと、痛みに過ぎない。ただ、意識だけがある状態。月並みですが、これ以上の絶望感があるだろうか、ということです。
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 劇中では過去の出来事や夢見も描かれます。この映画の構成は、ジョニーと観客をシンクロさせます。というのも、ジョニーが置かれた現実の状況はもうただ辛さばかりがそこにあり、言いたいことはあるのに一切伝えられないもどかしさが募ってただ苦しい。観ているほうもまた、実にうんざりとする。だからこそ過去の記憶や夢見が活きてくる。ジョニーにとってそうであるように、観客にとってもその場面が救いになる。今となっては顔もわからないジョニーに対して、観客は知らずのうちに感情移入します。現実と非現実の対比、それがこの状況をよりくっきりとさせ、気分を落ち込ませます。
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 ウィキによりますれば、原作は1939年に出版されてから、戦争のたびに復刊と発禁を繰り返されたそうです。近年はもうそういうことはないのでしょうけれど、そりゃあこの内容だと戦争を起こそうという気分は消沈するしかないです。反戦映画というのは数あれど、なるほどその衝撃力はトップクラスといえるかもしれません。
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 前にも書きましたけれど、松本人志が『シネマ坊主』で戦争映画について語ったときに、「戦争映画は面白いと思わせては駄目なのだ」というようなことを言っていました。戦場の迫力だの何だので、気分を高揚させるようなものじゃあ駄目なのだ、ということです。
「戦争映画はつまらなくていいし、戦争は最悪やなと思わせるような映画こそがあるべきものなんじゃないか」と言うのです。

 この辺について考えてみると興味深いというか、一人で脳内議論が生まれそうです。たとえば「残虐表現と教育」について言うなら、「残虐表現に触れたからと言って残虐な人格になることはない」という科学的データがあるようですし、一応社会的には、殺人ものや暴力もの、残虐ものの映画などは受け入れられている。『悪魔のいけにえ』を観ようが『十三日の金曜日』を観ようが『ホステル』を観ようが、別段反社会的人格を生むことはない、とされているわけです。

 ただ、それはあくまで個人レベルの話です。戦争は社会レベルのことになりますから、「戦争映画と社会」「戦争ゲームと社会」については同じような論理を採用できないのではないかとも考えたりします。殺人とか暴力とかっていうのは自分の身近なものとして想像できるし、等身大の感覚でわかるし、こういう言い方はあれですけど、「日常」と表裏一体のものとしてあるわけです。明日、道で巻き込まれないとも限らないから、警戒心だって持つ。殺人の報道などを見て、日頃から多少なりとも何か考える。
 他方、戦争について思い巡らせることは、幸いにして日常の中では起こらない。少なくとも、日本や欧米の生活圏では起こらない。自衛隊や軍隊を別にして、一般の生活をしている限りは、(現代の大半の世代は)被害を受けた記憶もないし、受けるという風にも思わないでいられる。
そのとき、戦争ものの表現が社会にとってどう働くかについては、十分な研究の蓄積が得られていないと思うんです。少なくとも犯罪もの、暴力ものよりはね。だからねえ、戦争映画については、残虐表現ものとは別の部分で、ちょっと戸惑うときもあるんです。

 話がそれましたが、そういう意味で言うと、『ジョニーは戦場へ行った』は反戦映画として実に強度なメッセージを放ってくれます。アメリカがまた戦争を起こしそうになったら、反戦運動の人たちはこれをがんがん流すべきなのではないでしょうか。イラク戦争の時はどうだったのでしょうね。最近取り上げた反戦映画的なものでいうと、『まぼろしの市街戦』がありますけど、あれって、「戦時下がゆえに花開いたパラダイス」を描いた側面がちょっとあるじゃないですか。あの精神病院の患者たちのお祭りは、戦争があったから実現している。してしまっている。そんなものは、『ジョニー』にはひとっかけらもないですからね。これはどんな風に見たって、もう戦争が嫌にしかならないですから。
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 そんなジョニーが、自分の意志をなんとか伝えるシーンがあって、これもまた辛いです。周囲の人々が彼と意思疎通できることを知り、「何か望むことはないか」と彼に尋ねるんですが、このときの返答がね、うん、ひとつには「殺してくれ」なんですよ、最終的なメッセージはね。それは観ていても、そう言うだろうなと予想できるし、自分が仮に彼の境遇に陥ったらそう言うんじゃないかと思いますよね。

 ただもうひとつのほうがねえ、うん、くるんですね。あるお願いをするんですけど、「それこそが自分にできる、唯一のことなんだ」っていうのがこもっていてねえ、うん、いや、これは実際に観て確認してください。そこには、絶望を突き抜けた希望があります。万感の絶望に落ちた人間だけが放ちうる言葉なのでしょう(という言い方が軽すぎるのは知っている)。

とても嫌な映画です。戦争というと大きな出来事だから、つい目線を社会のレベルに引き上げたり、政治のレベルに引き上げて論じてみようとしたりしがちだけれど、本作はそこからぐうっと一気に、「自分の身体」というものまで小さくして語っていて、だからこそ生身に応える。骨身から戦争が嫌になる。

「反戦映画」の金字塔として名高い本作ですが、なるほど今までに観た中でもいちばんかもしれません。本当なら映画の作り手は、折に触れてこうした映画をつくるべきなのかもしれません。個人的にはセルゲイ・ボドロフの『コーカサスの虜』と本作を続けて観ることをお薦めします。戦争が本当に本当に嫌になります。

小説もよろしく!

愛国計画

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観ていてうんざりするのが正しい見方。
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松竹のDVD発売で、トラウマ映画の名作としてイチ押しとなっている作品です。宇多丸さんが「怖くていまだに観られない」とまで言っていて、ネットでも怖いど怖いどと名高くて、どんなもんじゃーいと思って、『震える舌』。

渡瀬恒彦、十朱幸代が主演で、お話はというと彼ら夫婦の娘が破傷風にかかってしまう様子を描いたものです。原作は作家の三木卓という人が書いていて、彼の実体験がベースになっているそうです。
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 序盤を除きほぼ全編が病院の中で進行し、なおかつ娘への光刺激を防ぐためにと真っ暗な病室の中がメインの場所になるので、とてもとても狭苦しく、閉塞した感じがずうっと漂っています。意識をなくした娘の病状の悪化、治療、回復が断続的に繰り返され、夫婦が看病疲れしていく様が描かれるばかりの映画です。
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 怖いど怖いどというのを聞いていたので、心構えができており、そこまで震えるようなことはなかったのですが、確かにこれを子供の頃に覚悟もなく観たなら、ああ、トラウマになるのかもしれぬなあというインパクトは随所にありました。

 トラウマ映画、という概念が町山さんの本で広まって、いろんな人が自分の観た作品を語ったりしているようですが、ぼくはというと実はあまりそういうのがないんです。唯一あるのがすんごいぼんやりした記憶で、もしかしたら前回取り上げた『この子の七つのお祝いに』のものだったかもしれませんが、どうも違うような気もするのであり、いまだに確証がありません。トラウマというほどでもないし。

 トラウマ映画があるのは羨ましいなと思います。子供の頃に、映画というメディアに対する畏怖の念みたいなもんをインストールされるわけですから、そういうのがある人はいいなあと感じます。映画じゃないのならあるんですけどね、今ふと思い出したのがテレビアニメ『21エモン』の「ゼロ次元の恐怖」という回です。お年寄りが「社会における役立たず」として処理され、何もない空間に吸い込まれていくシーンがトラウマです。あと、本なのですが、講談社KK文庫の『学校の怪談』が怖くて読めなかった。話うんぬんよりも、挿絵がものすごく不気味だったんです。漫画とかでも思い出していけばありますね。『コミックボンボン』が好きだったのですが、あれのデラックス号に掲載されていた怪談漫画とかが怖かった。ふむ、ふむ、でも、映画は思い出せないなあ。悔しいなあ。
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 戻ります。
 この映画の怖さのひとつは、娘の描き方とあの子役の雰囲気でもあるのですね。
 若命真裕子という子役なのですが、この子が可愛くない。いわゆるひとつの「可愛い小さな女の子」というのではないんです。存在として大変に弱々しい。この映画の脚本が面白いのは(原作は知りません)、序盤からすぐにこの子を病気にかからせてしまうところですね。健康体だった少女が罹患する、というのではなく、もう最初の段階からおかしくなっている。だから観ている側には、この子を愛する時間を与えられないんです。この子の幸福な瞬間を見ていないし、笑顔を観ていない。ああ、可愛い子供であるなあという風に思えない。だから、難病の話なのに、哀れさとか幼気さとか切なさとかは前に出てこなくて、「恐怖」が植え付けられるのです。ゼロ年代には難病ものや余命ものが日本映画で流行したりしましたが、あれは元気だった彼や彼女が病気に陥って、哀れや哀れ、ああ生きることの感動ぞ、というつくりですが、これはそうじゃない。生きていることの感動とかそんなのはない。ただ、うわあ、えらいことになった、怖いなあと観客は傍観し続けるしかないのです。
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 そう、この映画にはいわば、「傍観させられることの恐怖」があるのです。
 映画においては多くの場合、主人公をはじめとした登場人物に感情移入をして観ていく構成が取られます。ベッドでのたうつ少女を救う話、というのならいわずもがな、あの『エクソシスト』がありますが、あれだって悪魔払いを頑張るカラス神父に移入できる。

 この映画はどうか。
 確かに夫婦に移入することはできる。でも、彼らはカラス神父と違って、何もできない。ただ発作が起こらぬようにと見守ることしかできない。なおかつ、この映画の場合はこの娘を可愛く思えるような構成は取られておらず、ゆえに夫婦と一緒になって娘を心配する気持ちになりづらい。いや、実際に子供を持つ親の立場になれば別なのかもしれませんが、少なくともぼくには、なんとか助かってくれ、元気になってくれと励ます気持ちでこの映画を観ることができなかった。ただ、傍観させられ続けた。
 
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 悪いニュアンスで言っていると思うならそれは誤解です。むしろ、この映画は、所詮傍観者に過ぎない観客に対して、積極的に傍観的立場を強いるつくりを取っている。ゆえに、観客にはひときわの無力感がもたらされ、あの狭く暗い病室の雰囲気と相まって、疲弊感を与えるのです。そしてその疲弊感によって観客は夫婦の疲弊感とシンクロし、いつの間にか映画の中に取り込まれてしまうのです。ぼくたちは傍観するしかない。そのことを二重でたたき込まれ、恐怖する。この映画の享受の仕方は、他の映画ではあまりできないことです。 
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劇中ほとんど寝たきりの娘ですが、ちょっとした刺激で発作を起こしてしまいます。そのとき舌を噛んで口が血まみれになる。こういうシーンも身体への言及として演出効果をもたらしています。それでいて、彼女とは一切意思の疎通が図れない。観客は彼女を愛せない。可哀想と思えない。ただ、怖く映ってくる。『エクソシスト』はまだいい。あの映画はオカルト的な部分が非現実性を与えてくれるから、まだ映画的な出来事として処理できる。でも、この映画にはそれすらない。

役者でいうと、主演の二人はもちろん、中野良子という女優の小児科医がいいですね。 めちゃくちゃお上品なのです。差し障りがありそうな言い方ですが、「皇族じゃないか」と思うくらいにお上品です。現代においてはほとんどリアリティを持たないくらいのお上品さですから、そこも必見であります。疲弊していく夫婦の姿と対比される冷静さによって、より夫婦の困憊ぶりが引き立つわけです。

 結末について述べますぞ。知りたくない人はそろそろ去ってくれろ。
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 最後はまあね、ちゃんと回復しなきゃまあ救いがなさすぎますものね。これでもし死んで終わっていたらもう、トラウマ映画過ぎて復刻されないかもしれませんものね。落ち着くべきところに落ち着いてよかったなあ、です。回復したときにも、ぼくは「ああ、よくぞ回復した、よかったよかった」というより、「やっとこれで終わってくれるのだなあ」という安堵のほうが強かったですね。あの疲労感はもういやだよ、と思わせるだけの中盤があります。ただ、渡瀬恒彦がジュースを買って突っ走るシーンはほろっときました。転んで缶ジュースが転げてしまうのを必死で拾うシーンなんかは、なんというかね、これは子供を持つお父さんならば泣いてしまうのではないですかね。

 中盤はもう繰り返し繰り返しですからね。そのたびに悪くなるし。だから物語としての抑揚はないんです。音楽で言うと、いやなリズムが繰り返されて、ショック音が時々鳴ってびびらされるから、おいおい、もうなんとかしてくれよ、というばかりの気持ちになるのです。だからこの映画の成り立たせ方というのは、かなり特殊だと思います。人によっては、もしかしたら、「ずうっと病院の中で闘病と看病の様子が描かれるだけで退屈だ」と思うかもしれない。でも、それがこの映画なのです。うんざりしてなんぼ、なのです。これをエンターテインメント的に仕立てると、この味は出ない。観て、途中でうんざりすることこそ、この映画の正しい見方といえるのではないでしょうか。

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