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 虚実揺るがすSFアニメの傑作。
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何年も前に観たのですけれど、そのときはなんだかよくわからん、とぜんぜんぴんと来なかったのですが、やっぱりこれはある程度のSFに対する構えと、お話についていくぞ!という能動的な態度が必要な作品でありました。これは子供はわからないでしょう。もう女子供をガン無視している感じです。そのぶん、SF好きのハートはわしづかみの一品と言えましょう。

これが公開されたのが1995年の11月で、『エヴァ』のテレビ放映開始が一月前の10月。これらをリアルタイムで受け止めた人たちは、アニメが実写を遙かに凌駕していると強く感じたのではないでしょうか。『エヴァ』とか『攻殻機動隊』を観た者はもはや、「アニメ=オタク向けのあれ」という図式を融解させねばならないし、ましてや「アニメ=オタク=気持ち悪い」などという図式をいまだに保持している人々は、もう言っちゃ悪いけどくるくるぱーです。

「僕にとって、『虚構』は『現実』に比べて、なんら価値の劣るものではない」
 これは『スカイ・クロラ』HPに「押井守語録」として掲載されているものですが、実に興味深く、また本作の表現形式それ自体への言及たり得ていると思います。そしてこの発言は、「虚構と現実」を「アニメと実写」にパラフレーズすることでも意味を持ちます。

 堅い話になりそうな予感。
 まずは『攻殻機動隊』を知らない人に紹介すると、これは士郎正宗による漫画原作がもとで、2029年を舞台としたSFです。極秘裏な任務を遂行する警察組織「公安9課」の活躍が描かれます。舞台の大きな特徴は「電脳化」「義体化」が著しく進んでいる世界であるという点で、サイボーグ、ステルス迷彩、他人の脳へのハッキング等々が多様な見せ方で描かれております。『マトリックス』の元ネタとして有名です。
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 何も知らない子供が、「なんかSFのアニメだっていうぞ、おもしろそう」と言って観に行ったら、「わけがわからない!」と泣いてしまいそうなお話です。何しろ国家間の外交がどうのとか、やれ亡命だ取引だという話が約80分の中にわんさか出てくることにくわえ、「私が私であるとはどういうことか」という哲学的な議題を、電脳化という技術と織り交ぜて語るものですから、こりゃあ大変です。『エヴァ』はその点、大衆を引きつけるものがあったんですね。難しいことはわからないけれど、使徒っていう怪獣みたいなのが襲ってくるぞとか、綾波やアスカが可愛いぞとか、そういう単純な快楽を用意していた。その辺の親切さはこっちにはないですからね、まあ「知る人ぞ知る」になってしまうでしょう。
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 軽い話をしておくと、ぼかあこの草薙素子というキャラクターが好きですねえ。最近テレビ版の『STAND ALONE COMPLEX』を観て、そちらのイメージが強いのですが、ぼかあこの手のシビアで強い女性キャラに惚れ惚れします。その点、ジェームズ・キャメロンにシンパシーを感じます(何を言うとんねん)。彼女はぼくの好きな女性キャラベスト3ランキングに食い込み、不動の1位ハマーン・カーンに次ぐ2位に躍り出ました。ちなみに3位は六本木朱美です。男らしい女、が好きなのですね。萌え系には食指が動かないのであります。
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 本作は公安9課が絡んだ国家機密級の事件を描いたものですが、一方でこの草薙素子の、「私が私であるとは」という懐疑も軸となっています。草薙素子は言ってみれば全身サイボーグで、自分のオリジナルな肉体を持たない。そして電脳化が進んだ社会にあって、自分が自分であること、いわばアイデンティティについても考えを巡らせます。
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うーん、今さっきまで、アイデンティティに関する文章を長々書いていたんですけれど、ちょっと話がそれすぎたので削除。ここではひとつ、押井守作品にとって重要であろう発想、「虚構は現実を上回る」という件について絞ってみます。

あらためて考えてみれば、ぼくたちの生活における「虚構率」というのは、相当なものがあると言えましょう。映画、漫画、小説、ゲーム、テレビ、演劇、スポーツ、どれもこれも虚構です。スポーツは虚構じゃない、と言われるなら、「映画と同じ」と申し上げましょう。ある規定されたルールに則り、自分の現実と何の関係もない人々が動き回っているだけです。それは確かに現実に行われていることですが、政治経済のニュースとは異なり、実生活への影響は皆無。だから映画やテレビドラマと同じ位置に置くことができます。
また、ぼくたちは多かれ少なかれ、自分を偽りながら暮らしているものです。仕事先で見せる自分は、その役割をまっとうすべく作り上げた人格。化粧キメキメで暮らす女性なら、それは本当の顔とは異なる飾られた表情。
 ぼくたちの生活の「虚構率」は、数値化は難しいですが、下手をすると「現実率」を超えるのではないでしょうか。
 それに、虚構が人の人生を左右することだっていくらでもあるでしょう。
 ある漫画を読んで自分も漫画家になろうと決めた、なんて人は、虚構が現実の生を決定づけたわけです。
 また、現実に身近にいる女性よりも、テレビの向こうのアイドルに惹かれる、あるいはアニメの中のキャラに惹かれる、という人はいくらでもいるわけです。
 
 虚構と現実の天秤については、いろいろなことが語れます。
 アニメと実写についても言えることで、実写映画の登場人物は、アニメのキャラクターよりも存在としての純粋性が薄い、ということもできます。
 実写に出てくる人物は、たとえば写真だけ切り出したとき、それを演じる役者と区別がつきません。アニメのキャラは永遠にそのキャラクターであり続ける。また、実写の映画の人物は「しょせん」役者と不可分な関係であり、どうしても現実に引っ張られますが、アニメのキャラは声優が変わってもそのキャラで居続けられる。こうなると、現実を映した実写映画より、誰かが書き込んだ虚構に過ぎないアニメのほうが、よほど個別的な存在として成立しているとも言えるのです。だからアニメキャラクターである草薙素子が自分について悩むというのは、実写の人物が「俺はいったい誰なんだ」などと悩むよりも、よほど説得力があるわけです。草薙素子は、それを描く人間によっていくらでも顔を変えられてしまうわけで、これは実に面白いメタ構造をもった苦悩なのです。

話が結局どの方向に転がっていくかわからない、まとまりなき文章が今回も炸裂しているわけですが、要するに言いたいことは、ぼくたちにとって現実とか虚構とかって問題は、実にゆるゆるな境界線しか持っていないよねということです。このゆるゆるな境界線に考えを巡らせることで、ぼくたちの「現実」はやっと輪郭を保てるのだろうね、ということです。
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 ちなみにこの草薙素子は、『S.A.C』の中で、現実の自己同一性を保つためのアイテムとして、腕時計を所持しています。肉体は変わる。自分も変わっていく。だからこそ、物理的に変わらないアイテムを傍に置く。その道具を時計にしているのがこれまた巧い。

やはり人にとって、自己同一性を担保するものは、記憶しかないのでしょう。そしてその記憶の象徴としてのモノが必要なのです。記憶だけでは、変容してしまう。人の記憶などいくらでも変容する。だから、変わらないモノだけが自己同一性を担保し続ける。柱に刻んだ背丈のしるしが、自分の成長を伝えるように。モノがヒトを担保するこの構図は、『インセプション』において、回り続ける独楽が現実と夢を区別するという設定とも通じているように思います。
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現実と虚構、実写とアニメ、ヒトとモノ、この三つは、ゆるやかに連関している。
 この辺のことをもっと掘り下げていくと、いろんな話が展開していくわけですが、はあ、ちょっと疲れましたわね。別の映画を観て、また別の切り口から掘り下げてみるのがいいかもしれません。
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 うーん、考えたいことがあっちこっちに行くので、やっぱりまとまらなかったなあ。もうちょっと文章をまとめることに意識を持っていかないと駄目だなあ。読み返してみたら、なんだか何を言いたいかわからなくなっているもんなあ。そんな課題を痛感しつつ、今日はここまで。
 次回は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を取り上げます。
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 ここ一週間くらいは映画を観ていません。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』にはまっているのです。いやあなかなかに面白いですね。外連味はないんですが、渋さがいいです。SF的想像力をかき立ててくれます。「機械たちの時間」の回がいちばん好きです。

そんなわけで今日も映画レビウはしないのですが、まあ映画ブログであるし、映画の未来について考えてみるのも一興なのではないかねと思い、「なにさま的・映画の未来予測」としゃれこみましょう。

ところで、ぼくの物欲を激しくかき立てるものが昨年発売されました。ソニーから出たヘッドマウントディスプレイです。今でも品薄で手に入れられておらず、ネット上のレビウが羨ましく、いっそのことニューモデルみたいなのが出るまでは「待ち」なんじゃないか、などとも考えているのですが、これは映画館の未来を大きく左右する代物であろうと思います。
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 このヘッドマウントディスプレイ(以下、HMD)は視界をすべて覆ってしまうわけですが、これはもう映画館と同じ仕組みではありませんか。しかも当然のように3D仕様ですし、その機能のオンオフ切り替えもできるというじゃああーりませんか。
 さて、なにしろ実物を入手していないので実感をもって語れぬのがあれなのですけれども、この技術がさらに進んでいくと、映画館並の、いやいや、映画館をも遙かに凌駕する大きさのスクリーン環境を、あのディスプレイの中で実現できるかもしれません。今あるシネコン等々のスクリーンがいかに大きかろうと、「しょせん」物理空間で規定された大きさに過ぎない。しかし、HMDが発展すれば、視覚に対して、とてつもなく大きなスクリーンであるように認識させることもできるのではないか、と思うわけです。

もしもそうなったとき、映画館はその空間的優位性を決定的に失います。
暗闇の中で、家にはない大きなスクリーンで映画を観るという、その特権性が食い破られる。
「わざわざ映画館なんていかないよ、だってHMDで観るほうがずっと迫力があるもの」
 そんな言葉が、将来そこかしこで交わされるのではないでしょうか。

仮に、HMDが映画館のスクリーンの迫力を凌駕するときが来たとして、いったいどんな優位性を、映画館は提示できるのか。ぼくには甚だしく疑問です。

 音響が優れている、というかもしれない。でも、それは現時点でも劇場によってまちまちでしょう。家での鑑賞よりもはるかに臨場感の高いサウンドを提供できる劇場など、どれほどあるのでしょう。それに、視覚的に負ける日が来たとして、そのとき音響で人が呼べるのか、難しいと言わざるを得ません。

 映画館でデートをするとか、友達同士で映画を観るとか、そういう文化自体は残るかもしれません。ただ、それも後退戦に過ぎないでしょう。文化は残るかもしれませんが、優位性を示すことはできない。それに、たとえばこういうことが起こったら、その文化自体も危うくなります。

 こういう未来です。
 たとえば、今ある配信限定の音楽のような形で、配信限定(あるいは劇場公開に先駆けて配信を行うなど)の映画が出たときです。プレミアム会員用のニコ生や有料のテレビ番組がイメージとしては近いでしょう。そういうものが出てきたとき、皆がHMDをつけて、ある時刻にみんなで映画を観る。それこそ日本中の人が、同時に新作映画を観る、という状況です。さて、そうなると、ネット上で映画の感想をすぐさまみんなで語れるようになる。今、○○の映画を観た人集まれ! みたいな状況がSNSで生まれたりする。こうなると、今まではあり得なかった「遠方の人と同時に新作を観る」ことが可能になる。昨年末、あの「バルス!」がありましたが、新作映画にもあれに近しい盛り上がりが期待できるかもしれない。

「新作映画を劇場で公開して収益を得る」というのが、戦前から続いてきた、映画館と映画の基本的な収益モデルです。ただ、このモデルはとても限定的です。なぜなら、映画館がないような地方の人々を観客として取り込めない。事実、ぼくの地元には映画館がないし、観に行こうと思ったら車や電車で一時間以上かかったりする。映画館には行きたいけど遠いんだよな、そんなつぶやきは日本中、世界中にいくらでもあるでしょう。現在の形式を守り続ける限り、地方の人々が映画を観るには有料テレビか、DVDにならざるを得ない。新作映画の配信がなされれば、映画制作者たちはより多くの人々にそれを見せることができるのです。

HMDが発展すると、そういう未来がやってくるように思います。都会も田舎も区別無く、日本中の人が、同時に、映画館よりも大きく感じる画面で、新作の映画を観る。映画館の特権性は崩壊し、映画がテレビと同じように家で享受される。映画館という物理的な施設の維持費もいりませんから、新作映画は今よりも安くなるでしょう。

それに、もっと夢物語を語るなら、こういうこともあり得ます。
 今の映像メディアというのは、すべてあの長方形ディスプレイ、スクリーンの中に収まっています。これが360度ビューになることもあり得るでしょう。
 360度ビューの映画、というのがどういうものか、ぼくにはあまりイメージできませんが、別のものならイメージできる。それは、「映画館の風景をビューとして描く」ということ。こうなると、もう映画館は本当に意味を失う。

「映画館の風景をビューとして描く」とはどういうことか。
 映画は映画のままです。現実的に、現在までの映画を360度ビューで観ることはできませんので、現在までの映画は長方形の中に収まるしかありません。しかし、HMDをつけたままで、ふと周りを見る。すると、まるでそこに映画館の劇場があるような空間的広がりがある、とこういうわけです。映画館の風景を、HMD内で見せてしまうわけです。スクリーンを観るだけではなく、満員の映画館の中で観たい、と思うのなら、そのような風景を仕込む。AKBのメンバーに囲まれながら映画を観たい、と思うのなら、自分の周りにいるかのような風景を仕込む。いや、それだけじゃない。たとえばホラーをより臨場感をもって楽しみたいなら、周りを夜の廃館のような風景にする。想像がいくらでも膨らんできます。
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 最近知ったのですが、新しいタイプのカメラで、tamaggoというのが登場するようです。これなどはまさに360度ビューの実現。今までもグーグルストリートビューというのがありましたが、あれを自分の好きな風景、好きな瞬間で切り取れる。カメラの未来は既に実現しつつあるわけで、これを映像にすることも、もう夢物語ではありますまい。

 さて、SF的想像によって、映画の未来、もっぱら映画館の未来に関する、暗い予測をしてしまいました。しかしこれは裏を返せば、映画館という場所の特権性を奪う行為であり、それは映画館のある地域のみの人々が有してきた快楽を、映画館の無いような地方の人々にまで拡大するという明るい未来でもあるのです。ぼくはそんな未来を実現できるような技術もないし、そういう現場に明るいわけでもないし、映画産業がどういう仕組みでどのように動いているかの細かい部分もわかりません。ですので、あくまでも夢想です。でも、どうでしょう。こんな未来が実現してもおかしくないんじゃないの? というテクノロジーは、方々で芽吹いています。

 ぼくの予想は、「映画館が凌駕される未来について」ですので、いやいや、映画館は映画館で発展しているんだぞ、映画館の未来は明るいぞ、という人がいらっしゃいましたら、ぜひぜひ教えてほしいです。今回は映画館が好きな人にとっては、あまり愉しい話ではなかったでしょうしね。あと、すべてはあくまでもHMDの発展次第ですから、技術的限界が来てしまえば、おじゃんの話ですれど。じゃあ、そんなところで。
 おしまい。 
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ツイッターに投稿しようと思ったのですが、あまりに長くなったのでこちらに。
 今回は、昨年もたまーにやっていた、映画とはぜんぜん関係ないお話です。なんだ、映画評じゃないのか、じゃあ読まない。というのも結構です。テレビやテレビCMに興味のある人にはご意見を頂戴したいです。

  テレビCMの未来について考えてみたいと思います。
 テレビ衰退論が叫ばれて久しいですが、その主因は「ネットの躍進によって、テレビが広告媒体としての優位性を失いつつあること」でありましょう。
 では広告におけるネットの強みとは何なのでしょうか。
 それはつまるところ、費用対効果でありましょう。安い宣伝費、制作費の一方で、どんなユーザーがどういう広告に反応しているかがわかる。
 この点を克服できない限り、スポンサーがテレビという媒体を選ぶ理由がいっそう希薄化していくに違いありません。テレビが持つ現在の優位性は唯一、マスであることだけ。視聴率至上主義などと揶揄されますがこれは無理からぬことで、DVD売り上げやオンデマンド配信でマーケットを開拓するといっても、スポンサー企業に寄与できなければ十分な制作費を確保できません。
 マスな広告媒体としての優位性にも、レコーダーの発達による録画機能の充実で大きな穴が開いています。「録画で観る人々が増えたので、視聴率が下がっている」という言い方は「CMを飛ばす人が増えている」と同義なのです。
 かような状況によってテレビはネットの追い上げを食らいます。そしてテレビは衰退する。とこういう話になるのです。処方箋はあるのでしょうか。まったくの門外漢ながら、考えてみたいと思います。
 
 技術的な解決が必要でしょう。次の二点が可能となれば、人々に効果的にCMを見せることができます。
 一点は「個々の視聴者に応じたCMの放送」です。現在のテレビCMは、番組ごとの違いはあるにせよ、結局は画一的なCMしか流せません。個々人が情報を選べる時代にあって、それらは多くの場合、ノイズでしかないのです。多くの若者にとって生命保険のCMはただのノイズ。男性にとって生理用品のCMはただのノイズ。多くの主婦にとってテレビゲームのCMはただのノイズ。ノイズの多い媒体など、観たくない。
 だからこそ視聴者に応じたCMが有効かつ必要になります。視聴者がCMを選ぶ、という方法です。たとえば選択画面で、不要な種類のCMにチェックを入れることができるようになれば、もしくは必要なものだけにチェックを入れられれば、限定された分野だけのCMを観ることができます。分野は多岐に渡るわけですが、たとえば「映画」「自動車」「IT機器」「食品」「医薬品」などなどをチェック項目とし、能動的な選択を可能とするわけです。最低一つのチェックを残すように設計できれば、何も映さないという選択肢を除外できます。訴求性は間違いなく向上し、効率は飛躍的に上がるでしょう。同じ種類のCMに飽きてきたら、「同じ種類のCMばかりってのもあれだな」と思い、能動的にジャンルを増やすこともあるかもしれません。
 その場合、広告制作についても多様性が要求されます。二点目です。
 現在は微妙にパターンの違いがありこそすれ、同じ企業の同じCMを見せられることが常です。だからこそ、「このCMはもう観た」というザッピングを促進するのです。であるならば、微妙にスタイルを変えて放送するべきでしょう。たとえば車のCMならば、商品の車にいろいろなところを走らせる。たとえば医薬品のCMならば、いろいろなシチュエーションを撮る。たとえばゲームのCMならばいろいろなプレイ画面を見せる。たとえばタレントがダンスを踊るようなCMならば、いろいろな曲調や振り付けを用意する。同じものを見せられるイライラからは開放され、商品の見せ方を多面的にできる。作り手の勝手なこだわりで同じ場面に数十、数百回の撮影を重ねる余裕があるのなら、もっと効率的な方法があるはずです。面白いパターンをつくれれば、「他にはどんなパターンのCMがあるのかな」と注目させることもできます。今であればそれこそ、AKBの各メンバーごとのパターンでCMをつくるなんてことをすれば、多数のファンが食いつくに違いないわけです。 録画機能を「CMが飛ばされるもの」として敵視するのではなく、むしろ活用する。オンデマンドでCMを見ることは、現在のレコーダー機能の発展範囲で、十分に可能です。

 さて、長々述べましたが、ぼくはこの分野についてはまったくの門外漢。ゆえに、それがどれくらい難しいことなのかもわかりませんし、広告に携わる人々からすればとっくに考え尽くされたことなのかもしれません。しかし、テレビの広告媒体としての衰退を食い止める方法があるとするなら、上記のような方法が有効だと考えたわけです。技術的に無理だね、と言われるかもしれませんが、レコーダーにしても、昔は一ヶ月単位で全番組を録画できる時代が来るなんて夢のような話だったわけです。家電メーカーの研究室の大型コンピュータでも一週間分がせいぜい、なんて時代が十年前。それが今じゃあ家庭用レコーダーでずっと大きなことができるようになった。ケータイの発展は言わずもがな。であるならば、放送にもそういうことが可能なのではないか、せっかくデジタル化したわけだし、なんてことを考えたわけです。

 うーん、どうなんでしょう。仮に可能だとしても、コストパフォーマンス的に成り立たないでしょうかねえ。「自社のCMを見ない層」は確かに拡大するだろうけれど、かといって見てもらってもしょうがない人に見せても意味がないでしょう。ぼくにおむつのCM見せたって意味ないっす。ぼくに化粧品や生理用品のCM見せたって意味ないっす。そんなぼくにまで莫大な費用を投じてCMを見せるのは、純粋な企業的損失でしょう。だったら、見せるべき相手に届けるシステムの構築が必要なんじゃないかなあ。それに同意する企業からお金を募れば、システムは構築できるんじゃないかなあ。夢想なのかなあ。デジタルに万能性を期待しすぎなのかなあ。うーん。でも、これ以上の方法って、今のぼくには思いつかないなあ。今の枠組みの中で考えたらテレビは衰退するだけでしょうしねえ。

 最近はいろんなものの未来について考えているので、そのひとつとして書いてみたのでした。ご意見いただければ幸いです。おしまい。
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虚構の術師ティム・バートンが語る、現実と虚構。
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 ティム・バートン監督作で言うと、『アリス』『プラネット・オブ・ジ・エイプス』『スウィーニートッド』は観ていなくて、他の長編は『ビートルジュース』以降なら一応全部観ているのですが、いちばん好きなのはベタベタですけど『シザーハンズ』です。『マーズアタック!』みたいなわちゃわちゃしたのも好きなのですけれど、監督が虚構と現実の間でふわふわ遊んでいる感じが好きなのですね。『チャーリー』はもう、虚構のほうに没入してしまっている感じであまり好きになれず、むしろ虚構と現実が混じり合っているほうが、その混融具合が観ていて心地いいのです。

 その意味で言うと、なるほど本作『ビッグ・フィッシュ』はまさしく、ティム・バートン監督そのものといったような映画でありました。監督のやりたいことが、映画自体によって語られていたように思うし、これほどまでに自己の表現に言及する作品も珍しい、と思ったのでした。

 死期の近い父親と、その息子をめぐるお話です。父親は自分の過去を語るときに、まったく法螺話としか思えぬようなことばかりを喋り、一方の息子はといえば父に対し、本当の過去を語っておくれよとせがむのです。映画の大部分は父親の語る昔の出来事、それも本当かどうかもかなり疑わしい出来事で、半ばファンタジックな様相さえも呈します。フィクショナルな世界観で語り続けてきたティム・バートンが今回は「おっさんの昔話」に目をつけたわけですが、なるほど彼はこの題材に最も適した監督であるなあと思いますね。
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「本当の過去を語ってほしい。本当の父さんが知りたいんだ」
 アルバート・フィニー演ずる父に、ビリー・クラダップ演ずる息子は訴えます。そのたびに父親ははぐらかすのですが、このやりとりが繰り返される中で、ぼくは思いました。
「そもそも、『本当のこと』というのは、いったい何なのだろう?」
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ぼくたちは常々、「本当のこと」を求める。インターネット上にあふれかえる有象無象を目にして、何が嘘で何が本当であるか、誰がぼくたちを騙していて誰がぼくたちに事実を伝えるのか、精査しようとしている。真偽を見極めようという態度を、いつだって無意識に取っている。
 それ自体は悪いことではないし、むしろそうでなくてはならない。嘘に踊らされるのはごめんだ。
 だけれど、「本当のこと」というのは、果たしてどれほどに本当だと言えるのか。それを考え出すと、本当と虚構の境目は溶け始める。ぼくたちが本当だと信じていることのうち、いったいどれくらいが本当に本当なのか? 
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息子は父親の本当のことを知りたいと言う。でも、土台、本当のことなんて語り得ないし、知り得ない。このことはすごく重要です。たとえばぼくが父親に、昔の話を聞いたとする。でも、それが本当かどうかなんてわからないし、本人にだってわからないはずです。人は自らの過去を十分には語り得ないのです。己が思う自己像と、他人から見た自分の像が食い違うなんてのはいくらでもある話だし、人は往々にして記憶を変えてしまうものなのだから、本当に本当の過去なんてものは、語れないんです。
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 映画を観終えて、またひとつ認識の基盤を揺るがされる思いがしたのでした。やっぱりぼくはそういう映画が好きなんですね。極論すると、映画を観ている間、面白かろうが面白くなかろうがどうでもいい。映画を観終えた後で、思考の刺激になるようなものが好きなのです。
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ぜんぜん『ビッグ・フィッシュ』の話をしないじゃないか、検索でヒットしたから来たのに、とお思いの方がいたら申し訳ないんですが、いいのっ、ここはそういうブログなのっ! ってことで話をすると、映画は二時間なら二時間だけ面白ければそれでいいじゃないか、的な考えって、今のぼくは距離を置いてしまう。二時間、面白いことにふけるとしたら、ぼくはテレビゲームをしていたほうがよほど愉しい。映画よりもずっと没頭できる。ではなぜ映画を観るかと言えば、そこから何か学び取りたいのですね。だから面白くなくたっていい。白状しますが、『ビッグ・フィッシュ』はそんなに面白くなかった。でも、そんなことは問題じゃない。そこに思考の種があったかどうか、そのほうがぼくには大切なのです。
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先ほどの話に引き戻します。「本当のことが知りたい」と父親に迫る息子。でも、ぼくは思ったんです。彼は、「本当らしい話」を聴きたいだけなんじゃないかって。父親が語ることは作り事めいている、嘘に違いない、そう思った息子ですが、彼が求めていたのは結局のところ、「本当らしい話」でしかない。そうでしかあり得ないと思った。
 仮に父親から「本当らしい話」を聴き出したところで、そうやって満足を得たところで、何の意味があるのか? それは結局のところ、自分がつくりだしたに過ぎない「リアリティ」なるものに、当てはめようとしているだけなのではないか? 

 ネタバレーゾーン。

 かたや父親。法螺話ばかり吹いていた父親。彼が死を迎え、葬式に人々が寄り集います。その中に出てくる面々は、いずれも劇中、彼の話に登場したような人々がキャスティングされています。そこで観ている側ははっとする。
 あの虚構の中に、現実はあったのではないかと。
 父親が語った話はおおかたが嘘かもしれないけれど、その中には本当のことも紛れていたんじゃないかと。そもそも、現実と完全に分離した虚構など、あり得はしないのではないかと。

 ぜんぜん映画の話をしないじゃないか。と言われそうですが、今回はもうそういう回として割り切ってほしいです。
 まとめに入りたいのですけれども、本作で語られていることは、映画を観るうえでとても大事なことだと思います。ティム・バートンがどのような考えで虚構=映画を作り出そうとしているのか、感じ入るものがあります。
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 現実は現実としていくらでも現実にあふれているし、ぼくたちはその現実を当たり前のものとして受け流してしまったり、当然そこにあるものとして考えがちであるけれど、ぼくたちにとっての現実とはそんなに単純なものなのか。虚構は虚構に過ぎないとわりきれる虚構もあるけれど、虚構は現実を元につくられるものであって、だとするなら虚構の中には、虚構として封じ込めきれない現実が埋め込まれているのであり、そこに本当の現実は見いだせるのではないか。

 わー、わー、わー、難しい話になってきたよー、くちゃくちゃするよー。

でも、ぼかあ思うのですけれども、この息子にとっても誰にとっても、現実というのはおそらく、蓄積した時間の中にしかないのだろうと思うんです。父親が昔立派な人物だったかそうでなかったか、そんなことは本質的にはどうでもいいというか、どうしようもないことであって、確かなのは、ともにした時間の中にある共有した記憶しかないのではないかって、そんなことも考えます。
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 この現実と虚構の問題というのは、いつまでも終わり無く語れそうなトピックであり、ゆえにしてまだ簡潔に物語ることはぼくにはできぬのですけれども、ぼくたちにとって現実とは何か、そして虚構(=映画)とはいかなるものなのかを、じいっと考えさせます。思った通り、ちょっとまとめきれるもんではなかったですね。現実と虚構にまつわる認識を揺るがしてくれる、いい映画だと思います。おしまい。
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SF的想像力に訴えかける作品。
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近頃はいろんな方面の「未来」についてあれこれと考えていて、SF映画をあらためて興味深く観ている次第です。何かお薦めのSFがあったら教えてもらいたいです。本作は『ターミネーター3』の監督による、アメコミ原作のSFで、タイトルである"surrogate"
とは「代理人、代行者」という意味です。劇中で動き回る登場人物はいわばロボットで、じゃあ人間は何をしているのかというとベッドに寝そべり、マシンによって脳波を伝達し、そのロボットを動かしているのです。人間の存在は意志として機能している一方で、実際の物理的世界ではロボットたちが活動している、という世の中なのです。

ロボット、と書きましたが、この種の試作品のようなものは既に完成していて、知能ロボット工学者、石黒浩教授のグループがこの方面の研究を日夜進めているようです。「ジェミノイド」と名付けられています。この動画は『サロゲート』の原初を実現していると言えましょう。




物語構成よりも、この世界設定自体から考えを膨らませたくなります。SF的想像、というやつです。たとえば映画では、街を歩く人々は全員がサロゲートなのです。そしてそのサロゲートは、実際の人間よりも多分に美化されていたりする。いやそれどころか、年齢も性別も、自分の理想的なスタイルにして動かすことができるのです(映画で鍵を握るのは『Virtual Self Industries』)。面白いなと思ったのはこのくだり。序盤で男女二名のサロゲートが破壊され、その操作主も同時に殺されるという事件が起こるのですが、なんと若い女性のサロゲートを操っていたのはひげ面の太ったおっさん。つまり、サロゲート同士のやりとりでは、実際の相手の姿など、まったくもってわからなくなっているわけです。
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これは既にネット上で実現していることですね。日本では大コケしたセカンドライフですが、あれなどは自分のアバターを手軽に設定できるわけです。パソコン通信の草創期からネカマと呼ばれる人々はいただろうし、今もツイッター上で、自分の身分を偽ってやりとりしている人がそれなりにいるのでしょう。
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 このサロゲートのような再現度のジェミノイドが誕生するのははるか先のことでしょうけれど、実際の近未来像として予測できるのはたとえば、アバターコミュニケーションの発展です。ぼくはこれは結構濃い線だと思います。

 PSvitaでも『みんなといっしょ』というゲームが発売されていますね。キャラクターのアバターを通じて、コミュニケーションをしていくというもの。オンラインゲームの発展は既に言わずもがなだし、どれくらい先かわかりませんがあのドラクエの次回作でも、オンラインコミュニケーションが取り入れられる。このようにゲームという領域でアバターコミュニケーションは発展を見ていますが、いずれこれはゲームをしない人たちにも訴求していくと思います。何年先になるかわかりませんが、ツイッター、セカンドライフ、オンラインゲームのようなものが組み合わさった大きなメタバースができるんじゃないかと期待しています。3D技術も発展しているし、かつて夢見た未来の象徴みたいな、あのヘッドマウントディスプレイも登場した。現実がジェミノイドに覆われる日の前段階として、アバターコミュニケーションが広まっていくだろうと予想しています。

 そうなったとき、コミュニケーションの質はさらに変容する。これはとても面白いことであるなあと思います。映画に話を戻しますが、肝心なこととして、この作品ではあくまでも人間の意志によってすべてが動いている、ということです。たとえば『ターミネーター』、たとえば『マトリックス』、たとえば『トランスフォーマー』、どれにせよ出てくるのは、人間ならざるものの意志です。機械が人間を支配するとか、機械が人間以上の知能で攻めてくるとかそういう世界観。でも、『サロゲート』は違う。あくまでもサロゲートは器に過ぎず、それを人間がどのように使うかという世界になっている。その点においてのリアリティがあったのがよかった。
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 映画全体を通して観ると、設定的にどうやねんみたいなのはいっぱいあるんです。だから今回は映画そのものではなくて、映画に描かれている技術や思想について考えてみたい。ブルース・ウィリスの髪の毛がふさふさ、とかそういうのできゃっきゃするのは他の人に任せておきます。
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 90分程度にいろいろ詰め込んでいるのですが、考えの種をたくさん撒いてくれています。そこからSF的想像をしてみたいのですが、たとえば面白いのは、皆が皆、理想的なサロゲートにしているせいで、美男美女ばかりが出てくるというところです。サロゲートに反対する人間の集落が出てくるのですが、その人たちは太っていたり不細工だったりする反面、サロゲートは皆若くてきらきらしている。さて、そういう世界が実現したとき、果たして顔や美というものはどんな意味を持つのか。性というのは意味をなすのか(そういえばこの世界では生殖活動はどうなっているのでしょう。その辺が甘い映画ではあります)。そもそも、現実の世界を動かすことに意味があると信じられるのか。
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 物語的なネタをばらしますので、そのつもりで(このような注意書きは無駄だなあと思っています。何か簡素な記号で済ませたいところです。考えておきます)。

サロゲートが動き回る現実に対して反旗を翻す人が出てきます。その張本人はなんと、そのシステムの第一人者である博士なのでした。自分でつくっておきながら、こんな世の中は間違っているのじゃい、人間らしくあらねばならんのじゃい、と言って壊そうとします。暴走しきってしまい、人間まるごと殺してしまえ、という発想に行ってしまいます。

 一方のブルース・ウィリス。そうはさせるかといって人々の命を救うのですが、ふと立ち止まります。彼にはサロゲートを通じてしか自分と話そうとしない妻がいて、彼女をなんとかしたいと常々考えていたのです。だから迷い、迷い、迷った末に、すべてのサロゲートをシャットダウンすることにしてしまうのです。

ぼくは『エスケープ・フロム・L.A』を連想しました。あの映画でも、主人公のカート・ラッセルは、管理社会をぶちこわしてすべてを近代以前のように戻してしまえ、という最終決断をするのです。『サロゲート』と共通する、劇中の社会システムの否定です。
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勝手な話っちゃ勝手な話です。このブルース・ウィリスは、家族がインターネットに没頭して困る、だからインターネットシステム自体を壊してしまえ、みたいなことをやっているわけですから。甚だしい極論というか、幼稚な考え方なんです。このような技術が実現した世界では、あんな思想自体が間違いでしょう。ですからね、SF映画としてはちょっと褒めにくいところもあって、なぜなら技術が高度に進んだ時代を描きつつ、今の価値観を当てはめているからです。あのブルース・ウィリスにしたって、妻がちゃんと向き合えなくなったのは、現実のコミュニケーションの問題だろうと思いますね。それを、技術やシステムを壊したら我々の健全なる人間性は回復するのだ、みたいにするのはどうやねん、なんです。それはおかしな話ですから。

 まあ、サロゲート社会を賛美するような終わり方というのは難しいのでしょうし、観客のウケを考えれば現実肯定に行くのもわかりますけれど、もったいなさを感じます。そこにもったいなさを感じさせることもわかったうえで、作り手はたぶんやっているんでしょう。なのでつまるところ、これはこれで別によいのです(どないやねん)。
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ストーリー展開やらなんやらよりも、こういう社会だったらどうなるだろうね物事は、という想像を膨らませるという点で、よい映画だと思います。おわり。
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原作からの大胆な改変は吉と出ていると思います。
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久々に新作を取り上げる本ブログ。ねたばれがんがん。
 前作の『恋の罪』をうかつにもスルーしてしまったのでその辺の話はできぬのですけれども、『ヒミズ』については原作漫画にも唸らされるものがあり、これは早めに駆けつけておきたいよね、というわけで池袋HUMAXシネマズ。

さて、ふうむ、長くなるか短くなるかもわからずどのあたりから話し始めればいいのか迷っているのですけれども、設定をざっくりいうと、「いわゆる普通の」生活を営めずにいる十五歳の少年を主人公とした、彼の生き方を巡るお話、とまずは言えましょう。ボート屋を家業としている彼の家は両親がまともな教育を与えることをほとんど放棄しており、彼自身もまた学校に普通に通うような暮らしに順応できずにいます。 主人公の住田少年を演ずるのは染谷将太、彼に惹かれる少女茶沢を演ずるのは二階堂ふみです。二階堂ふみは沖縄出身で、「南の島の宮崎あおい」みたいな人ですね。

 原作は四巻あるのですが、その中身を二時間強で描ききるのは難しい、というわけで、この住田と茶沢の話に絞って綴られていくことになります。原作と大きく異なる点がいくつも散見されるわけですが、それらはおおよそ有効に改変されていたとぼくは思いました。土台、あの漫画のトーンで映画をつくるのは難しい。はっきり言って暗いお話なのです。だからそのままやれば下手なナイーブさに走りかねないし、荒涼感やら内面的うんぬんに絡め取られる。そこを思い切り舵を切り、面白い映画になっていました。

 演出としてわかりやすく引っかかってくるのは二階堂ふみのパワフルさです。原作ではもっと物静かな、シニカルな風情の少女なのですが、映画ではライトノベルよろしく、染谷将太に猛烈アタックを掛けます。うん、ラノベっぽいなあという感じを最初受けました。ラノベの一般的手法として、「静かに暮らしたいんだよ俺は」的な少年のもとにパワフルな少女が押しかけてきて引っかき回すというのがあるのですが、それに近しいものを最初感じた。『シガテラ』にせよ『わにとかげぎす』にせよ、古屋実の作品では女性側からアタックを掛けてくるのですが、本作はそこでまずどーんと押してきます。おいおい大丈夫か、と思って見始めたのですけれども、途中からそのテンションがこの映画の熱量を確かに高めていると気づく。原作にはないやりとりも加味されていて、ああ、これは原作に見られるような冷静なコミュニケーションからは大きく飛ぶのだね、とわかって、わくわくしました。

 二階堂ふみの演技はとにかくパワフルパワフル。なおかつ主役二名の間で交わされるやりとりには、幾度も暴力が挿入される。そこで本作が、ラノベ的な甘え合いとはまったくもって異質なものであると気づかされる。二人は語りを通し、暴力を通してぶつかりあい、わかりあう。これは第二の、『愛のむきだし』なのでした。

 パンフレットで佐藤忠男氏が書いていることで、はあなるほどその通りと膝を打ったのは次の箇所。
「日本人には周囲を気にして言うべきことも言わないで暗示ですますという傾向が強い。この映画の会話は、だからこそ逆に、普通なら言わずにすますことを声を大にして言う」 この点は原作から大いに改変されているところでした。主人公二人以外でも、そうした演出がかなり前面に押し出されています。

 たとえば光石研演ずる父親がそうで、彼は原作に輪を掛けて最悪の男です。あれ、こんなにひどい父親だっけ、と記憶を探ってしまうくらいに光石研が最悪。なにしろ息子に向かって、「早く死んでくれよ」「おまえなんか本当に要らねえんだ」としつこくしつこく言うのです。原作では数ページしか出てこず、ろくに会話もしない父親の像がかように増幅されている。他方、これまた原作にはなかった茶沢の家族も場面も挿入される。黒沢あすか演ずる茶沢の母親は、なんと娘の死を渇望して首つり台をつくるという有様です。園子温は『奇妙なサーカス』『紀子の食卓』で壊れた家族を描いていますが、そのような最悪の背景を持ち出すことで、主役二名の造形をより立体的にして見せているのです。

演技テンションが高い本作においてバイプレイヤーとして光るのは、まあ誰もいいのですけれども、やっぱり窪塚洋介を語らずにはおれません。窪塚洋介には本当にわくわくさせられるというか、この人の放つ躍動感とか攻撃力というか、他の役者とは明らかに異質なものを感じます。渡辺哲を引き連れて泥棒に入るシーンがあるんですが、ここはすごくぞくぞくしました。「脱! 原! 発!」などと叫んであんな跳び蹴りをかませる役者は、日本には他にいないのではないでしょうか。『凶気の桜』とかにしてもそうですけど、ああ、この人はちょっとおかしいところあるんかなあ、と思わせるくらいの役者は観ていて気持ちがよい。今後も是非園子温作品に出ていってほしいです。

 本作は暴力表現において、過去の園作品の中でも最も充実していたのではないでしょうか。映倫区分はPG-12なんですけれども、乗ってる韓国映画みたいな泥臭さや乱暴さがありました。その点ははっきりと原作超えしていると言っていいのではないでしょうか。なおかつ、その話で言うと、この映画ではまあ、キチガイな人たちというのも出てくるんですね。キチガイといえば白石晃士ですが、彼にも匹敵するようなぞくぞくするキチガイが出てきました。彼らの場合、人物背景がまるで読めないんです。ただ、彼らのような存在は確かにこの国にいっぱいおろう、という実在感があり、迫力で言うと『冷たい熱帯魚』のでんでんより怖い。で、染谷将太がそれこそ『気狂いピエロ』のジャン=ポール・ベルモントみたく顔にペンキを塗りたくり、包丁を紙袋に入れて街を彷徨する。原作だとわりとこまめに住田少年の内面が語られるんですが、語らないところは語らずにおくこの映画では、彼が何をしでかすのかわからないという緊張感が高められます。

 他にもいいところはいっぱいありましたので全部語るわけにもいかないのですが(たとえば謎の魔物が出てこないことなどについては他の人にお任せします)、一方ちょっとどうなのや、というのが終盤でした。わりと平和に着地するというか、しっとりしてしまう節があります。主人公二人が寝そべりながら未来を語るなどしていく場面は原作にもあるのですが、場面場面で狂い咲き、時として愛をぶちまけていた二人が語るには、いささか退屈なやりとりだったように見受けました。原作とは違うトーンで攻めまくっていた本作が、終盤の肝心な場面で原作通りに静かに語り合うというのはなんだか、戸惑いを感じた。これね、でね、終わり方が原作と真逆なんです。それはそれは真逆。だったらもういっそのこと、あれだって絶叫しながらやってよかったんじゃないかなあと感じるのです。熱量を持続させながらやってきた本作の最後の語りがあれだと、ちょっとしょぼんとしちゃうんじゃないかしら、というのが個人的な感じ方です。

 本作は3・11を受けて大幅に内容が変わったようなのですが、あの終わり方はそれ以前から設計されていたんでしょうかね。ラストのラストで、「がんばれ!」を連呼しながら走るんですけど、そこの前で一回しんみりしているのでねえ。「がんばれ!」で終わる、うん、うーん。うん、いや、でも、ここはちょっと判断保留というか、もう少し時間をおいて考えておきたいところです。それと、どうなんだろうと思うのは、あの肯定的な終わり方をするならば、せめて茶沢さんにもう少し優しくしたってもええんちゃうんけ、というのもあるんです。茶沢さんに支えられっぱなしなんです。最後も「住田がんばれ!」と一方的でしょう? もうくさくなってもかまわないから、「茶沢がんばれ!」があってもええんちゃうかなあと、ふと思いました。住田は自首するかもしれないとして、茶沢は茶沢であのあとどうしていくねん、ということですから。

いやあまだまだ語りきれぬこと多しですが、いろいろ詰め込んであるし、人の語りも読みたくなるし、ちょっと整理しきれていないというのも含め、存分な熱量を感じる作品でありました。お薦めであります。

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コーエン兄弟の映画はなんだか語りにくいのです。
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原題『Raising Arizona』
 コーエン兄弟の映画は『ノーカントリー』を最後に、以降の新作を観ていないといううつけ者のぼくですが、これまで観たので言うと『ブラッドシンプル』『ミラーズ・クロッシング』『ファーゴ』『ビッグ・リボウスキ』『オーブラザー!』『ノーカントリー』といったようなところで、『ファーゴ』がいちばん好きです。

 個人的には、どうもコーエン兄弟の映画というのは、読みにくいところがあるというか、DVDや新作を観てもなぜだかどうも食指が動かない。これは何なのだろう、というと、ひとつにはぼくの無知なところが大きいようにも思いますね。

「絵画は見るものではなく、読むものである」という言説がありますが、それを初めて聴いたときにふうむ、なるほどと感じ入った記憶があります。つまり、絵画を見て、表面的な色遣いがどうの、筆遣いがどうのということを見るだけでは不十分であるということで、その画が描かれた時代の背景や筆者がそれを書いた動機などを含みこんで鑑賞するものなのだ、という態度です。

 考えてみるに、それこそが大人の鑑賞者が取るべき態度であろう、と思うのですね。映画についてもそうで、やれあれが面白い、これが格好いいというだけでは、子供となんら変わらない。むしろ子供のほうが難癖をつけず、つまらなければ放り出して終いにする分たちがよい。やっぱり映画にせよ何にせよ、それを観て何かを考えたり、映画の奥にあるものを見いだしたりしなければ、たくさん観る意味がないわけです。この辺のことを最近強く感じています。

 そういったところを踏まえたときに、どうも今までのぼくは、コーエン兄弟の映画から何を見いだせばよいのか、わからずに来たところがあります。『赤ちゃん泥棒』もそのひとつで、何を読み取ったらいいものやらと立ち止まってしまう。これはぼくの無知、無教養の表明であります。
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 さて、やっとこさ映画の話に入るのですが、『赤ちゃん泥棒』はニコラス・ケイジとホリー・ハンター夫妻が乳児をさらってきてしまい、どたばたが繰り広げられるというお話です。
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ところで、人はなぜ子供を産むのでしょう。ということを考えたときに、ひとつには、人が未来を望むものだから、というのがあるのでしょう。大人になって、自分自身の人生を考え、安定した生活はあるにせよこの先めざましい成長はない、という風に思ったとき、人は子をなし、その成長を支える側に回ることで、未来への希望をつなぎたいと願うんじゃないっすかね、わかんないっすけど(急に投げやり)。発展途上国のほうが人口が増えていて、先進国のほうが少子化している、というのは何でなんだろうと考えるに、そりゃあ労働力確保の問題とかもあるんでしょうけど、発展途上国のほうが娯楽も少ないし、環境や境遇上この先の自分の人生が大きく変わるという可能性を信じにくいところもあって、子供の成長を自分の人生の楽しみに置き換えるっていうのが強いんじゃないかなあ。先進国は娯楽要素も多いし、自分の可処分時間を自分の人生の充実に使いたい、そしてまた使えてしまうっていう要因があるんじゃないでしょうか。
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 この映画の夫妻はアリゾナの荒野の中のトレーラーハウスに暮らしているんですね。で、ニコラス・ケイジは何度も刑務所に服役していた過去のある男なんです。そうなると、現実の世界で出世したりなんなりで、自分の人生を今後輝かせるのが難しいってのがある。そうなったとき、妻が切実に子供をほしがるのも頷けます。子供がほしいと強く願うことは、「自分の人生はこれくらいのものであろう」という諦念と繋がっているんじゃないでしょうか。だってあのトレーラーハウスでただ年を取っていったって、何もないと思いますもの。
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 それでその後、服役中の知り合いが尋ねてきて引っかき回すなどして、映画は進んでいきます。ドタバタコメディ的に、どんがらがっしゃんなシーンも用意されています。ここを楽しむのがこの映画のよい見方でしょうが、ぼくはちょっともたつきを覚えました。もうそれはわかっているよ、というのを押してくるところがありました。

 たとえばケイジの知り合いの二人組が、彼の家からベイビーをさらってしまう。で、強盗などをして逃げていくんですが、その途中でベイビーを置き去りにしてしまうんです。で、「しまった! えらいことだ! わーわー」になるシーンがあるんですけど、ここなんかもね、もうわかってしまうんです、途中で。それなのにその後、ちょっとばたばたしたりする。彼らが銀行強盗をする場面なんかでも、掛け合いが面白かったりするんです。でも、どかんと来ないというか、何でしょう、M-1で審査員の平均点が80点くらいの漫才を観ている感じというか、ちょいちょいええボケあるのになあ、もうちょっとそこでたたみかけるもんがほしいわあ、テンポ上げたらええのになあ、というのがありました。まあ、これはコメディに対する感じた方が人それぞれあるのかもしれないですけど。
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 25年前のものだから無理もない、とも思うんですが、中にはそれこそ50年以上前のコメディでも十分笑えるものもありますもんで、じゃあその差は何かというとこれはテンポとの相性だろうと思います。50年以上前のスクリューボールコメディって、ぼくには心地いいテンポだったりする。この辺はまだまだ語れる言葉が多くないので、これ以上の話はやめておきますけれど。

 コメディで行くのか何なのかもうひとつ読みにくい部分があったのですね。『マッドマックス』みたいな人が出てくるんですけど、この人がどういうことなのか、よくわからない。何かの寓意なのでしょうか。映画全体を通して、赤ちゃんをめっちゃ愛してるわあ、赤ちゃんがめっちゃ可愛いわあ、というのが乏しいのです。いや、可愛すぎて仕方ないわ!みたいな場面はあるにはあるけれど、その後は特に前面には出されない。そのこと自体は悪くないというか、むしろぼくには心地よくて、赤ちゃんをあくまでも愛玩の記号にして、それに振り回される大人たちのコメディというのでいいと思った。
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 なのに、あのマッドマックスおじさんが子供をさらおうとするのに対して、変にマジになってぶつかったりするんです。あのおじさんにマジでぶつかるのなら、対話がほしいなと思ったんです。「子供をもとの親のところに連れて行くんだ! それはさらった子供だぞ!」と言われてひるむとかすれば(別の人物とのそういうやりとりはあったけれど何も発展しません)、あの夫妻の哀しい像がもう一層明確にできたんじゃないかと思うんです。せっかくのマッドマックスおじさんは、ただのモンスターになっちゃった。
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 エンディングもよくわからなかった。変にしっとりさせていました。子供の誘拐という、ともすればナイーブな話なので、「コメディ一辺倒で行くのはどうかね」というのがあったのでしょうか。あのエンディングはコーエン兄弟が「これで行くぞ!」と本気で思ったものなのでしょうかね。映画制作者よりも健全で真面目な上位意志が映画に働いたような感じがしたのです。妙に感傷的というか、コメディタッチ、マッドマックスおじさんタッチとは合わないように思った。
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全体を眺めたときに、はて、これはどうしたいのだろう、これはどういうテンポで行きたいのだろう、というのが読みにくい映画でありました。何を書きたいのか定まらないまま書き続けてしまいました。コーエン兄弟はなかなかぼくには難しい、というのが今回の感想です。
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次の時代を予期させる傑作。
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 ドリームワークスとピクサーというのはもうほとんど手がつけられない領域に入っているというか、「どうせ、面白いんでしょ?」というレベルに来ていますね。もう観る前から面白いのはわかっているんです。もちろんあれこれほじくっていけば何なりと言い出せることはあるんでしょうけれど、そういうのはもういいよってくらいちゃんと面白いんです。この二強がつくりだすCGアニメーション映画の安定感というのは、実写のアクション映画とかの比ではないんじゃないですかね。なんかもう、達成してるやんっていう。

 3D公開の本作をぼくは2DのDVDで観たわけですが、こういうのをしっかりつくる人たちはもう好きにしてくれという感じです。3D映画についても、新規なものへの抵抗感から、否定的とは言わぬまでも結局のところどうなん? みたいな懐疑的な立場だったんですが、どんどんやってくれればと思います。発展しようと苦闘する人たちを応援せずして、何が映画好きであるかというのが今の考えです。ピクサーにせよドリームワークスにせよ、「やつらに2Dは狭すぎる!」の段階まで来ているのでしょう。
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『モンスターVSエイリアン』は大変な快作でありました。
巨大化したヒロインがモンスターとして捕獲され、他のモンスターたちと一緒にエイリアン退治に駆り出されるのですが、細部の芸も細かく、ギャグも豊かでした。過去の作品から引っ張ってきているネタなども面白いところですね。
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 パクリとオマージュの違いのひとつは、それを隠すそぶりがあるか無いか、ですね。隠すとださいじゃないですか。むしろ、面白いと思ったんで使わせてもらいました、という風に堂々と出されると愉快に感じるわけです。開き直ってがんがん使っていくと、それを見つける楽しみも増える。パロディ的な面白さとも融合しますしね。90年代それをもっとも顕著に示したのが言わずもがなのタランティーノ、そして日本で言えば『エヴァンゲリオン』だった。パクリと言われるのを恐れて過去のおいしい具材を使わないなんてもったいない、でもこっそり使うってのも過去の作り手たちに申し訳が立たない。だったらいっそのこと、誰にでもわかるように開き直っていっちゃえ! という態度が新たな面白さを開拓したわけです。
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モンスターものと言えばピクサーの『モンスターズ・インク』ですが、当然作り手が第一に意識した作品のひとつでありましょう。あれとは別種の面白さを生み出そうとしているのが頼もしいの一言でした。ボブというキャラクターは作り手もお気に入りのようですが、なるほど確かに面白い。これは『マックイーンの絶対の危機』という映画からの引用のようです。他にも、『ハエ男の恐怖』『大アマゾンの半魚人』から持ってきたキャラクターがメインを担います。50年代SFから引っ張ってくるっていうのも、味な真似であります。『モスラ』は見た目をデフォルメしていますが、もうそのまんまですね。
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 ヒロインもいい。コメディ風味たっぷりのこの映画において、「きゃあきゃあ言う女」は楽しい楽しい。うん、特に洋画の場合って、ぼくは「きゃあきゃあ言う女」がいるとテンションが上がりますね。『テルマ&ルイーズ』が好きなのはそれも大きいのです。で、彼女の行く末もこの映画では見所で、旧来のハリウッドスタイルからまことに時代は変わりつつあるのであるなあと思います。
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 ネタをがんがんばらすのが旧作メインブログなのでそのつもりで。

 巨大化して強くなった彼女自身と対比させるかのように、結婚相手の男はまるでだらしないのです。ここまであからさまなのか、と思うほどに、「ぼくは力になれない」と明言して震えているんですね。これは思い切った脚本を用意したものです。
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「いわゆるハリウッド映画」へのイメージですと、やっぱり主人公は艱難辛苦乗り越えて、愛すべき相手と結ばれてハッピー、というのを持っていたんですけれども、そこには明確に背を向けている。安心させるハッピーエンドをつくろうと思えば、男は男で何かしら力を貸して、それでヒロインが勝利して、モンスターとも仲良く暮らすみたいなのもできるじゃないですか。そのほうが無難なのは間違いないです。でも、「もうそういうおためごかしは終わりにしよう」というのをはっきり打ち出している。「もう映画として達成してるやん」と前述したわけですが、物語面においても次のステージに行っている。
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 この映画は着地しないんです。ヒロインがなんだかんだで最終的に落ち着いたりしない。巨大化してモンスターたちとともに生きていく道を選ぶ。この結末はすばらしい。アマゾンで低評価をしている人がいて、「ストーリーが読める」とか言っているのがあるんですけど、本当かよ、っていうか、この話は「先が読めない」っていう終わり方なんだぜ?
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 この辺はとても大事で、なぜならこの映画ではヒロインがおきまりの幸福に収まっていくことを否定しているんです。彼女はモンスターたちと一緒に次のモンスター退治へと向かっていくんですが、はっきり言ってそれが幸せな道かどうか、わからないでしょう?
少なくとも、「その後もヒロインは幸せに暮らしました。めでたしめでたし」ではない。
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 どうなるかわからない。だとしても、今までの世界に安住することはもうできそうにない。だったら、行くところまで行ってやれ、自分ができることをしてやれ、という終わり方なんです。一方、アホ全開の大統領が、アホ全開の核のボタンを押してしまうというブラックなエンディングも用意されていて、これもアンチハッピーエンドなんです。世界はどうなるかわからねえぞ、という厳しい未来をギャグの中に忍ばせているんです。

 うーん、何なのでしょうね。お気づきの方もおられましょうが、去年のベスト1、2が、女性の話なんです。女性が規制の権威に立てついていく話なんです。なぜだかぼかあそういう映画に惹かれるようになってきたんですね、これは何なのでしょう。

 本作の場合画期的だなと思うのは、これが子供、ファミリーを大きな観客層にしているはずのコメディアニメでなされていることです。ご家族でご覧になるとお父様はさぞ肩身が狭くなることでありましょう。ファミリーの団結って素敵、というのを、既存の知り合いや閉じた共同体の中ではなく、むしろモンスターという訳のわからないもののほうに軸を置いて表現している。ここを語り出そうと思えば、なんかいろいろ語れそうです。
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 映画に詳しくなくとも面白いし、多少詳しいと元ネタを探ったりして面白いし、そのうえ物語構造的な面でも興味深い。もう降参です。いや、負けないぞ(何なのだ)。
 とにもかくにもぜひご覧になっていただきたく思います。
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使役されるゾンビを通して、過去と未来を描く離れ業。
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ponさんよりお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

原題『FIDO』
 映画という表現技法が発明した、開拓した面白みというのは数多くありますが、その中の代表格のひとつが、ゾンビという存在でしょう。世間一般には「永遠のキワモノ扱い」だと思うのですが、それもまた称号であって、死者という存在でありつつも幽霊のようなおどろおどろしさもなく、ファニーさがある。ゾンビ映画が大好きだ、という人は世の中に多いですが、それもうなずけるところです。
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 ぼくは個人的にゼロ年代を「ポスト・ロメロの時代」と位置づけているのですが、なるほど本作もまたその例証となるような映画でありました。パッケージの様子からするにどうもあほくさい感じがあるかもしれませんが、その内容は結構深いというか、いろいろな寓意の見て取れる映画なのでした。コメディとしても愉快な一方、ゾンビという存在を通して社会の有り様を描く。ゾンビを通じた社会風刺はロメロが意識的に行っていたことですが、より鋭いものがあるな、と感じたのでした。

 本作では、人間を襲う敵対物としてのゾンビ像から跳躍して、ゾンビを使役する社会、召使いみたいにする社会が描かれています。ゾンビを制御する道具が発明され、ゾムコンという会社が「あなたの家にもゾンビを置きませんか?」と宣伝するような社会なのです。
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 それでいて面白いのは、舞台となる街の風景はあからさまに50年代のアメリカであるということです。挿入される歌曲も、演出も、画の感じも、すべてが古き良きアメリカみたいになっている。そこにゾンビがいて、奴隷的な存在として登場するわけです。
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ネット上の論評をいくつか見るに、公民権運動時代のアメリカを模しているというのが目につきました。つまりはゾンビ=「奴隷としての黒人」というわけです。なるほどその寓意もあるのですが、ぼくはむしろ違う方向の想像を膨らませていました。
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 と言いますのも、近頃ぼくは未来のロボット技術に興味を惹かれていて、この映画におけるゾンビはロボットのようであるな、と感じていたのです。この映画が面白いのは、ゾンビという存在を描くことで、現実の過去の出来事としての黒人奴隷、あるいは現在まで続く人種差別、そして未来に起こりうるであろうロボットの登場までをも感じさせるところなのです。ロボットを通して差別社会を描くというのは、既にあの『鉄腕アトム』でなされているのですが、ゾンビという要素がこれまた別の色合いを与えてくれるのです。
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 ところで、原題の『FIDO』はファイドと読み、これは主人公の少年の家で使役されているゾンビの名前です(主人公の父親は「ゾンビに名前なんてつけるな」というのですが、この辺の細かい部分にも作り手のリアリティへの配慮が行き届いています)。ぼくがロボット映画として本作を観ていたのは、このファイドがフランケンシュタインの怪物に見えたからです。
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 フランケンシュタインの怪物というのは、一般的に人造人間、アンドロイドということになるのでしょうが、果たしてそれは正確な捉え方なのでしょうか。といいますのも、フランケンシュタインの怪物というのは人間の死体からつくられているのです。脳も死体のものなのです。だからあれはロボットとはまったく違っていて、むしろゾンビに近いのです。ですが、一般的には「人造人間」ということになっているようです。はて、いろいろ考えて頭がくちゃくちゃしてきました。ゾンビ、人造人間、ロボット、そしてそれに向き合う人間。それぞれにどういう境界が設定可能なのか。『ゾンビーノ』はそんなことまで考えさせます。
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 ゾンビにせよロボットにせよ、そこに人格はありません。この部分は、公民権運動時代のアメリカと本作がつくられた現代を大きく分かつところです。「黒人は奴隷なのだから人格や権利など考えてやる必要はない」というのはもう昔のことになりましたし、たとえ国々、地域での差別はあるにせよ、「人間性を認められていない人間」は、歴史を通してだんだんと少なくなりつつあるはずです(うむ、この辺の言い方はちょっと複雑ではあるのですが)。

だからぼくが面白いと思ったのはそこではなくて、人間性がないものに対して人間性を感じる人々の振るまいについてでした。主人公の少年も、母親も、ファイドを大事にします。ゾンビだから人間性はないはずなのに、人間のように見えてくる。これはロボットの問題に近しいのです。たとえばこんなテクノロジー。

人間ならざるものに人間性を見いだす、というのは、昔から人間がやってきたことで、宗教とはそういうものです。迷信の類にしてもそうですし、類例を示すまでもないことです。現代では宗教よりもアニメのキャラクターなどでそれが見られるようになってきたように思います。これもまた枚挙に暇がありません。ネットにしたってそう。これは人間性の有無の問題とはずれますが、現実の人間関係よりもネット上のコミュニケーションが大きい、という時代に生きているわけです。社会評論ぶって恐縮ですが、リアリティの質が変容してきているのですね。

 ぼくたちにとって他者とは何か。ゾンビという存在を用いて、そうしたことを考えさせる。また同時に、ネットに見られるように、公民権運動とつなげて人種差別の議論もできるのかもしれない。パッケージの印象から、また映画の感じからして、チープで退屈なゾンビコメディと思われるかもしれませんが、いやいや、これはなかなかいろいろ語らせる映画でした。50年代を模した風景でのゾンビ映画であると同時に、ロボットSF的な意味合いを持つ作品としてもお薦めできるという、離れ業をやってのけています。まだまだ語ろうと思えばいくらでもできそうですが、疲れましたので、ここまでにします。
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白石晃士流ジョーカー、炸裂。
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 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 どうも年末年始は映画を観る気持ちが弱まっております。なんだかなぜだか映画を観る気にならないのであります。そんなわけで更新頻度が高まるまでは今しばらくお待ちいただければと思うのですけれども、まあこんなブログでありましても更新を待ってくれる方がいるのであろう、来たときに「更新されてないや」と思われるのは少し哀しい、というわけで、去年に書いておいた記事をひとつ上げておきます。年明け一発目を飾るには少し、というかかなり問題があるんじゃないかね、もっとみんながハッピーな気持ちになれるファミリー向けな作品などでご機嫌を伺ったらどうかね、というためらいもあるのですが、年明け一発目に白石晃士のエネルギッシュな怪作を取り上げるのも悪くは無かろうというわけで、『超・悪人』です。先に申し上げておきますが、まだ正月気分で惚けていたい場合は、そんな気分が抜けてからお読みいただければと思います。

『グロテスク』についてはここで何度も名前を挙げていますが、あの映画が本当に危険なのは見た目の残虐さではないんじゃないか、と最近考えました。『グロテスク』は変態男に付き合いたてのカップルが拉致され、拷問される映画で、その過激なゴア描写にどうしても意識が集中してしまうのですが、その単純な映画構造の裏面に、ぼくたちの認識を揺るがすような仕掛けが施されているのです。

 結論を先に言うならば、「あの変態男こそが観客自身である」ということです。実にアクロバティックかつ、挑発的かつ、危険に満ちた設定なのです。説明します。
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 大迫茂生演ずる変態男は川連廣明と長澤つぐみのカップルを路上で襲撃し、密室で磔にします。なぜそんなことを、という問いに対して、彼は言う。「感動させてほしい」と。生の感動、愛の感動を見せてほしい。二人のうちにそれを見いだすことができたなら、生きて帰すと約束する。彼はそう宣言して、数々の残虐な行為を開始します。

 このとき、観客にとって変態男は「他者」です。日常的感覚、社会的道徳の範囲で言えば、彼に感情移入できるわけがないし、拉致拷問して「感動」などと嘯くのは頭がおかしい。
 ただ、その一方で、観客は映画の進展に期待を抱いてしまう。そして、映画でひどい目に遭うのを観て、「感動」を得ようとしている自分たちに気づくことになる。
 そんなことはないって? ゼロ年代半ばに思いを馳せましょう。
 『グロテスク』はゼロ年代の日本映画の一面を、実に過激に、まっすぐに切り取っています。
  『世界の中心で愛を叫ぶ』を筆頭にして難病、死にオチの純愛映画が流行し、『恋空』を代表とするケータイ小説的な悲劇のジェットコースターが流行った。感動感動という言葉が嫌というほどメディアを駆け巡った。あれらに涙した観客がいるとするなら、その人々は『グロテスク』の変態男と同じことを求めていると言ってもいい。換言すれば、あの変態男は、死に至る受難の最中に「感動」があると信じ込む観客自身だとも言えます。
 
 なんとアクロバティックなことでしょう。観客が本当の意味で感情移入しているのは、あのカップルのどちらでもあり得ない。あの変態男でしかない。映画に「純愛」だの「感動」だのを求めている人間は、変態男と知らずのうちに同期するのです。90年代にはハネケの『ファニー・ゲーム』がありましたが、あれよりも遙かに鮮烈な皮肉です。

『グロテスク』に惹かれながら、この構造に気づかずにいた自分の不明を強く恥じ入るところです。読者の方から記事にコメントをいただいて気づくことができました。大変感謝しております。この映画はゼロ年代の純愛と感動を巻き込んでぶち殺す、最凶の恋愛映画ということができます。「泣ける純愛映画みたいなのを観たいんだよねー」という方に、ぜひお薦めしましょう。そして、もしも観た後で文句を言われたら、「何を言っているの? あなたの観たいものが、克明に描かれていたじゃない」と言ってあげればいいのです(ただしその場合、二度と映画の話をしてもらえなくなりますが)。

前置きが長くなりました。今回は『グロテスク』の監督が撮った『超・悪人』を取り上げます。そして、本作もまた、『グロテスク』同様に、認識を揺らしてくる映画でした。
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『超・悪人』の主人公は連続強姦殺人男です。『オカルト』でも狂人を演じた宇野祥平が演じていますが、あのときとはまったく異なる演技で、サングラスをしているのもあって途中まで気づきませんでした。

 映画は全編がハンディカム撮影で、白石晃士が得意とするモキュメンタリースタイルです。冒頭は十分以上に及ぶワンカットの長回し。描かれるのは、男が女性の部屋で住人の女性をレイプ殺人する様子です。
 去年、『レイク・マンゴー』を評したとき、「現代はネットの普及によって、以前よりもモキュメンタリーが困難な時代を迎えているのではないか」と書きましたが、白石晃士の作品はぼくの認識の甘さを教えてくれます。本作はニコ生的な、素人の生々しい自分語りをなぞっているのです。今後のモキュメンタリーの路線はこのような方面で花開くのではないかと思います。
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『グロテスク』はまだあの非日常的空間と劇映画的演出で毒素が中和されていた感がありますが、本作はそういうものがありません。あるのは日常的風景だけです。だからこそ、冒頭のレイプ場面は生々しくて、これは女性が観たら強い強い強い嫌悪を覚えることでしょう。本作を女性が観たらどう感じるのかは、とても知りたいところです。

前半でぼくは持って行かれたんですけれど、白石がうまいのは、このレイプの場面を長回しで撮ってショックを与えて引き込んだ後で、ふっと現実の、日常の場面に落とすところです。それもまあ言ってみれば気持ちのよくはない、けれど十分に今もこの街中で起こっているであろうコミュニケーション風景を切り取ること。レイプシーンの次の場面で描かれるのは、メイド喫茶を盗撮しているところです。ここの描き方はすばらしいというか、うん、面白い。ここには、フェイクだとは思えない現実味があります。
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 撮り方自体は視野の狭い、ハンディカムの定点撮影なんですが、ウエイトレスと男とのやりとりはものすごく面白い。ああ、こういうことはある、間違いなく日常で起こっている、と思わせる。ぼくは実はこのメイド喫茶のシーンがいちばん好きかもしれません。
 そしてこのシーンでは、男の「ジョーカー性」があらわになります。「ジョーカー性」とはつまり、「常識的で道徳的で正しいと信じる我々の自己像を、悪人が正直に照射してぶちこわす性質」のことですが、あるきわめて身体的な指摘が、彼をただの殺人レイプ魔として突き放すことを許さなくなります。それは別に、「彼が正しい」という種類のものではない。ただ、「我々が正しい」という基盤が狂わされる、ということです。あんなにも日常にありふれているであろうと思える場面で、そこを描き出すというのは、すごいの一言です。白石晃士って、正当に評価されていないと思います。
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『オカルト』『ノロイ』『バチアタリ・暴力人間』などがそうであったように、本作でも監督の白石晃士自身が登場人物として出てきます。清瀬やえこという人と一緒になって、この男を取材しに行きます。このくだりの長回しも没入を促すうえで大いに作用しています。監督と清瀬という二人の人物がレイプ魔に接触することで、物語は駆動します。
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 白石監督の面白さを一言で言うなら、「狂人」の描き方です。監督はその辺の取材やなんかをたぶんすごく行っていると思います。彼の描き出す狂人は、他の監督の手つきよりもはるかにリアルというか、ああ、狂人ってこういうものだな、と思わされる。
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 今回の男で言うと、怒りの沸点がものすんごく低いというか、瞬間的に怒り出すんです。 それまでにこやかだったのに、ちょっと言葉を間違えただけで一秒後にぶん殴ってくる。 これはねえ、怖いですよ。本当に地雷原を歩いているようなものですから。

 やっぱりね、狂っている人ってのは、調節弁が働かない人なんでしょうね。ためらいがないというか、こうだろうと思ったらもう、途中の細かいこととかは何も見えなくなる。こんなことしたら相手はこう思うだろうから、とかそういうのがないんです。でも、だからこそ、狂人というのはこちらの認識を揺らしてくるんです。近代という「狂気の歴史」の中で、常識から逸脱するものを檻に閉じ込め、それを狂気と呼ぶようになった。しかし、常識などというものはたかだか「社会的な、なんとなくの合意」に過ぎない。ジョーカー的な狂人はそういうものを信じない。ゆえにときとしてこちらの欺瞞を有り体もなく告発する。
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この映画の殺人レイプ魔が、ただの暴力的で破壊的な人間だったら、単に突き放して観られると思うんです。『バチアタリ・暴力人間』の二人組にはその色合いが強すぎたようにも思うし、AVのレイプものを観てもただ不快でしかないのは、ただ単純に嫌なものでしかないからです。でも、『超・悪人』は異なる。狂っているとか、壊れているとかいうのがどういうことなのか、今一度考えるように仕向けてくる。
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 本作でも終盤、実にアクロバティックな展開が起きる。男を徹頭徹尾嫌悪して観ていると、あの終盤はレイプ魔肯定的ファンタジーという不快なものにしか見えないかもしれない。というか、「普通に観れば」そういうものに見える。

 ただ、ぼくにはそうは思えなかった。これが映画の怖いところです。
『時計仕掛けのオレンジ』だって、最悪なレイプ魔アレックスが人間性を喪失したとき、どうしようもない気持ちになったりしたでしょう。悪人が処罰されてハッピー、ではなかったはずです。この映画はそれを裏返している。悪人が愛を成就して不快、だけでは収まらない。これは何なのだろう、ということを考えているのですが、はあ、そろそろ疲れました。続きはまたの機会にしようと思います。女性がどう観るのか、が気になるところではありますね。
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