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犬猫だけが特別視されるのはどうやねん、という視点も持っておくべきだろうとは思います。
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 タイトルの通り、犬と猫と人間とをめぐる作品で、捨てられた犬猫や野良の犬猫がどう処遇されているのかが描かれています。
 ぼくのペット歴で言うと、中高生の頃にハムスターとフェレットを飼いました。やっぱり愛情は強く感じるものでありますね。その動物が生きたこと、生きていたこと、その事実について記憶できるのは自分だけであるという閉じられた関係性。自分が育てねばこいつは生きていけぬのだ、という責任感。そんなこんなで情を抱くのでありました。

 反面、犬や猫というとこれは愛育した記憶が大変乏しいのでありまして、映画を自分事として惹きつけてみたり、記憶が揺れたりということはありませんでした。映画では犬と猫以外の動物に言及されることはありませんので、なんだかんだで犬猫は特別扱いされているな、という印象も抱くのであります。フェレットが出てきたりしたらぼくはぜんぜん違う見方をしていたでしょう。だから逆に、犬や猫を飼っていた人は強く感じ入るものがあるでしょうね。ぼくはちょっと一歩引いて観てしまいました。
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飼い主のもとから放されてしまった犬猫を、施設の人々が育てる様などが描かれるわけですが、はじめに映画について申し上げておくと、ちょっと手つきが優しすぎるというか、同じことの繰り返しになっているきらいがありました。

犬猫が見放されて、そんな彼らを見守る人間がいて、なんとかしなくちゃいけないね、ということが描かれる。でも、その繰り返しなんです。そこからあまり深まらない。可哀想だということはわかるんですけど、犬猫に愛着のない人間からすると、もっと認識を揺らしてほしいと思うんですね。あるいは、へえ、そんなことがあるのか、というものが少ない。まあ、そういうことなんだろうね、と想像がつくものがほとんどなんです。
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この映画が果たす機能としては、犬猫を無責任に捨てる人たちの抑止力となるんだろうと思うのですけれど、犬猫に関わることがない人間、あるいは犬猫を飼った以上は死ぬまで面倒を見るのが当然だと普通に思っている人間には、それほど感じ入るものがないんです。まあ、この手の映画についてあれが描かれていない、これが描かれていない、と言い立てるのはよくないんだろうし、撮られたものの中から最大限何かを読み取るのが観客の取るべき態度であろうとは思うのですが、いかんせん中盤には退屈した。白状しますが、ぼくは後半は飛ばし飛ばしで観ました。
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 そんなことを書くと、おまえは動物愛護の精神がないのかと言われそうですけれど、ほなら動物愛護ってつきつめていったらなんやねん、ということでもあってね。たとえば、勝手なわがまま全開で言いたいことを言うなら、あの施設の人々、確かに尊敬すべき仕事をしている人々ですが、じゃあ彼らは牛肉、豚肉、鶏肉、魚を一切食べないのか。そういうところには言及がないんです(飛ばし飛ばしで後半を観たので、あったぞそういうシーン、と言われたらぐうの音でも出ません。もしあるとしたら訂正します)。動物愛護ってことを言い出すとその辺ってすごく微妙な領域じゃないですか。犬猫は特別視するけど、牛が殺されるのはいいのか、豚が殺されるのはいいのか、そこには一切踏み込まれない。犬猫が可哀想ですね、っていうところに留まり続ける。確かに最後の方では動物愛護精神からベジタリアンが増えているっていう例は海外のものとして出されますけど、日本の状況ではそういう手つきはなかった。
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 だからもう、ぼくの観たいもの、考えたいことと、監督が撮ろうとしたものがまるきり違うということなんですね。監督はあのおばあさんのお願いをうけて、犬猫の状況をセンチメンタルに訴えたかったということなのでしょう。だからこれを観るべき人というのはおそらく結構限られていて、周りで犬猫を捨てようとしている人に対して観せるものなのでしょう。あるいはペットショップで犬猫を買おうとしている人たちに一緒に買わせるのがいいでしょう。この映画とDVDをつくった人々は、値段をぐっと廉価にして、全国のペットショップに卸すというのがいいと思います。基本的に手つきがものすごく優しいですから、犬猫を欲しがる人なら誰でも観ると思いますし。

 ぼく個人で興味を引かれたものでいうと、冒頭のペットの愛玩状況のほうでしたね。今はペット向けサービスが華やいでいるようで、犬猫向けの誕生会サービスなんてのがあるようです。
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 ぼくはああいうものに関するモンド映画的興味を持ったわけですが、この映画ではそういうのはぜんぜん描かれません。あれはものすごく奇妙だと思いますけどね、完全に人間の自己満足やんけ、と思ってしまいます。あの辺から、ペットビジネスのいびつさみたいなもんを引き出したら面白いのになあ、と感じてしまった。ああいう人間の自己満足的なビジネスを突くことが、この問題の解決に繋がるんじゃないのかい? とも思った。この映画の主眼はそれじゃないのはわかるんですけど。

 この映画が退屈だなあと思った理由は、出てくる人がみんないい人だからなんです。みんな犬猫が好きで、とても大事にしている。でも、その人たちに寄り添うだけで二時間見せられてもなあ、というのが正直な感想です。

 そうは言いつつ、動物ものというのは、実はかなりナイーブなテーマなんですよね。今回の作品で言えば、ペットビジネスに立ち入ればまた別の見方も提示できただろうけど、実際それは難しいし、たとえば食肉業界と家畜の問題についても、深く切り込むのは困難を伴うだろうし、製薬会社と動物実験の問題なんかも難しいだろうし。その点で行くと数年前に『ザ・コーブ』というのがありましたが、あれなどは食文化の問題と生命の問題が実社会を巻き込んでの摩擦となった。動物って結構世間がセンシティブに動くものだから、それを取り巻く企業や団体の調整がものすごく大変なのでしょう。そういう意味では、優しい手つきで控えめに犬猫問題を取り上げる、という方法は、いちばん安全かつわかりやすいものなのかもしれません。
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ペットの話、動物の話はいろいろな切り口がありますけれど、「ペットは家族の一員だ」という街の人の声で、ぼくは少子化問題を連想しました。わかりやすいことに、ペットの数は1960年代から順調に増加していて、いまやペットとしての犬猫の数は人間の子供よりも多いそうです。これは実に興味深い変化であります。完全に相関関係にあるのではないでしょうか。子供を作らない世帯が増え、犬猫が子供の代替機能を果たす。だとするなら、ペットビジネスの拡大は、犬猫殺処分問題と少子化問題の両方に絡んでいるのではないでしょうか。この辺を掘り下げるとなんだか面白そうだなあとも思うわけですが、それは同時になかなかの難題でもありますゆえ、今日のところはこれまでであります。
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これもひとつの世界の戯画。
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テレビや雑誌なんかのアンケートで、面白い芸人とか好きな芸人とかを募ったら、まあ大体明石家さんまであるとか、ビートたけしであるとか、ダウンタウンであるとか、そのほかいろんな芸人の名前が挙がってくるわけですが、トップテンに伊集院光が入っているのを見たことがないですね。若い世代、深夜ラジオに親しみのある世代でアンケートを採ったら間違いなく票を集めるはずなのですが、まあテレビというのはラジオに比べて、やっぱりずっとマスであるのだなあと思います。
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 伊集院は「テレビで面白いことをやる」というスタンスを取ろうとせず、本人もそこは自認しているようで、テレビの視聴者には「汗っかきで朗らかなデブキャラ」として見られているのだろうと何度も語っています。ゼロ年代に入ってからの松本人志がそうであるように、テレビで面白いことをやろうとする難しさに直面していて、主戦場のラジオを突き詰め、かたやこのような形で、バラエティのDVDをリリースされております。
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 お薦めのDVDとしては、ちょうど一年前くらいに取り上げたのですが、芸人草野球の巻きがとてもすばらしいです。あそこには作り手が制御し得ない面白さがありました。石橋貴明がバナナマンのラジオに出演した際、バラエティ一般について「枠の中に収まっちゃうとつまらない。そこからはみ出るものがあるから面白いのだ」というようなことを言っていたのですが、あの草野球の回では、枠の中で起こりうる、しかし作り手が支配しきれない展開が巻き起こる。世間的に、もっと褒め称えられていいと思いますね。
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 さて、そんな伊集院が六ヶ月連続でリリースするというバラエティDVD。これは楽しみがひとつ増えたというものですが、その第一弾として出たのが本作です。
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ゲーム形式のバラエティなのですが、ルールは簡単。
 出演する若手芸人やアイドルたち九名に、だるまを五つずつ渡します。
このだるまはそれぞれのメンバーが八回ずつ、誰かに渡すことが可能です。一個も渡さなくても構いません。
 誰かに渡すことができるのは一回につき最大三個。ただし、特定の一人に向かって複数渡すことはできず、三個手放そうと思ったら三人に一個ずつ渡すことになります。
 自分のもとに送られてくるだるまが、誰から送られたものなのかはわからない仕組みです。
 誰が自分に送ったのかわからない状況でだるまの渡し合い、押し付け合いを繰り返していると、当然人によって、持ち数が変わってきます。多く持ってしまう人もいるだろうし、すごく少ない数だけ持っている人も出てきます。
 その持ち数が最終的に多かった人は、次回の収録に呼んでもらえないことになります。
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伊集院ははじめに、「全員が同じ数であれば全員生き残りだ」と言明します。
 囚人のジレンマよろしく、このゲームで負けない最善の方法は、お互いがお互いを信じ合い、誰にも渡さないことです。一切だるまの流通が起こらなければ、初期値の五個で全員が動かず、全員が平和に生き残ります。

 ただ、それじゃあ面白くないよね、ということで、伊集院があれこれと仕掛けていくわけです。
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 草野球の回もそうですが、伊集院はこういう、互いが疑心暗鬼に陥る系のゲームが大好きです。『真剣じゃんけん』という回があるのですが、今回と同じような心理戦ゲームです。

 そういえば昨年は震災の影響から、「絆」という言葉がもてはやされましたが、表面的な絆が壊れたら、人はいとも簡単にばらばらになるんだよね、というこちらの真理は、人間の世界の一面を確かに捉えているなあと思います。絆、人のつながりというとすばらしく前向きで、そうやってみんながみんなを思いやれば素敵な世の中になるよね、という理想論も結構ではありますが、自分の身を守らねばならない状況下では、そんなことは言っていられなくなるのであります。

 話はそれるようですが、ぼくは絆だの人とのつながりだの仲間だのを称揚する言説が嫌いです。それは最終的に、絆のパワーゲームにしかならないと思うからです。絆って素敵だよね、人とのつながりっていいよね。ああそうかい。だったら、東電と政府の絆も素敵だね。宗教団体と政党の絆も素敵だね。特定人種の中で閉じるのも、絆として素敵だね。

 閉じられた絆を超える手段として、伝統的に採用されてきた方法がありますね。それが宗教です。バックグラウンドの異なる個々人や共同体が互いを警戒し合う行為を、人類は宗教という形で超克しようとしました。すなわち、「最終的に」同じ神を信じている、「最終的に」同じ世界観を共有しているという意識を、互いの内面に植え付ける方法です。最終的に同じ考えを持っている自分たちは、互いの差異にも寛容になれるよね、という思想。宗教的共同体は世界観の共有、信仰の同一をもって、絆なるものを超えようという営みだったわけで、これを国家レベルのわかりやすいものにすると、「アメリカ合衆国の理念」のような形になるわけです。
 ただ、これは一方で、「絆の超克」から「絆」への退行をも同時に内包しているわけで……やめましょう。なんでバラエティの話なのにそんな難しい方にいこうとするんだ。そんなに頭がよく思われたいのか、けっ、なんだいなんだい、インテリぶっちゃってさ。

 情緒も話の方角もめちゃくちゃですが、要するに、人と人とのつながりってのは何だろうねおい、というのを考えさせますね、ええ。これと数年前に発売された『真剣じゃんけん』の連続視聴をお薦めします。で、斜に構えた見方をすると、「彼らは芸人だからあえて面白さを求めて動いているんじゃないか」とも言えるわけですが、現実の世界ってのは、芸人以上に過激にアクティブに動いているものです。今回も「伊集院の火種」があるまでは動きがほとんどないんですが、実世界はえてして、予想もつかない火種が投げ込まれるものでありまして、その意味で本作は人間世界の戯画であると言えるようにも思います。
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 観終えてみると、いろんな選択と、いろんな結果があります。そういう選択をした者が、そういう末路を迎えるということもあるよね……でも、人ってのはさ……社会って、うーん、なんだろうね、と思います。個人的には、田代32という芸人の選択が、なんか、考えさせるもんがあります。ネタバレになるし、あまり言いたくないですけど。
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伊集院によると、テレビでこういうのをやると、反発を食らう時代だそうです。『逃走中』で、他のプレイヤーを裏切るような行動を取ると、ネット上でそのタレントがバッシングされたりするようです。くわ、何なのでしょう、日本が有する病理みたいなもんを感じます。そんなやつらが絆を称揚しつつ実生活では自分に有利に動こうとするのでしょう、嗤うよ。ってなもんです。

 何にせよ、一見の価値あるバラエティです。前半は動きがないので、もっと! もっと!という食いたりなさも多少はありますが、普段人を信じている人ほど、観終えた後で何かを感じるのではないでしょうかね。逆に、人は人を裏切って当たり前だと思っている人はつまらないかもしれないですねえ。自分の人間観を確かめる意味でも、観てみるとよいでしょう。
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この映画を観て考えたこと。
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 数年前にやっていた「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」は毎週チェックしていた、というわけでもなくわりと見逃しているため、あらためて興味深いものを観てみようと思いまして、久々にドキュメンタリーを取り上げます。

 そういえばぼくはコンビニ等で水を買う、ということを日本国内に限って言えばおそらく一度もしたことがないですね。昔インドに行ったときにはさすがに水道水で暮らす勇気はなかったので売店で買っていましたが、日本での生活では水道水で満たされまくっている人間なのです。水を買う、という生活行動がぼくの中に一切組み込まれていないです。

 東京の水はまずい、みたいなことをよく言うと思うんですけど、ぼくは別に気にしないです。放射性物質の問題となるとまた別ですけれど、それでも水を買う気にはならなかったです。っていうかね、震災後の放射性物質がどうしても気になる、という場合は別にいいんですけど、そうじゃない理由で今、冷蔵庫で水を冷やしている人はいったい何なのだと思うんです。水がうまいだのまずいだの言っている人たちにはかなり距離感を覚えます。どうせボルビックだろうがエビアンだろうが六甲のおいしい水だろうが味の違いなんてわからねえくせに、なんでわざわざフランスの水を取り寄せて飲んでいるのかが意味不明です。洗練された人々の中にはお料理をつくる際も水道水ではなく、ミネラルウォーターを用いる方がいらっしゃるそうですが、かあ、ぜってーわかんねえだろと思うのです。水道水でつくったスープとミネラルウォーターでつくったスープの味が違うの?
 
 なんていけ好かないんだ! そのくせ化学調味料とかには無頓着だったりする人もいるのでしょう。水道水には消毒薬がとか塩素がうんちゃらとかごちょごちょ言うくせにファミレスで飯を食ったり冷凍食品を買ったりしているというのはもはやぜんぜんわけがわかりません。正体不明の化学調味料がいっぱい入っているよ! いったい何なんだと言いたくなります。もう自分は完全に舌の肥えたグルメであるってんなら別だけど、そうでもねえのに水を買っているやつがわからない。せめて国内産の水を買うならまだしも、海外の水の売り上げに貢献し続けるのもわからない。

ふう、水を買っている人を敵に回し続けるのもどうかと思うのですが、まあこれはこれでドキュメンタリーの内容にもリンクする話ですからよいのです。
 少し落ち着いて話しますると、「水を買う」という行為には、「手軽に得られる贅沢感」があるのではないか、というのがぼくの分析です。水は買わなくてもいいものじゃないですか、言ってしまえば。でも、そんな水を買うことによって、必ずしも必要ではないものをあえて買うことによって、贅沢な感じが得られるわけです。贅沢というのはいわば、「生活必需ではないものを購入すること」ですが、裏を返せば、贅沢な気分を得るには必需でないものを購入する必要があるのです。そうなったときに、必需性が低ければ低いほど、贅沢さの値が相対的に上昇するのです。しかし、じゃあ無意味なものを買えばよいのか、たとえば怪しげな露天商が売っているゴミみたいな勾玉などを買えばよいのかといえばそれは違っていて、なぜなら勾玉では「さすがに無意味すぎる」とさすがに気づくからです。

ここがお茶やコーヒーでないのもポイントで、お茶やコーヒーだと味があるので、「いい具合に、無味」ではないのです。お茶やコーヒーの「味」を求めると、味の分だけ付加価値が生まれてしまうのであり、付加価値を生み出せば必需性が高まるので、贅沢さが得られないのです。いや、もっというなら、たとえば缶コーヒーなどは華麗なるアーバンライフイメージにとってむしろマイナスで、コーヒーはドトールとかエクセルなんとかで飲むのがスタイリッシュなのです。だからぼかあ思うのですけれど、「水を買う人」と「缶コーヒーを買う人」はたぶん親和性が高くないと思います。カフェに行く人は水を買う人と親和性が高いでしょう。

 何の根拠もないことをいつになくだらだら書いているのですが、やっとこさ映画の話です。本作は大企業がアフリカやインドなどに乗り出し、水道局の民営化を果たして牛耳ってしまったり、自然の川の流れを勝手に変えて水を独占しようとしたりという状況を告発するドキュメンタリーです。

 いろいろと内容を書き連ねることもできますが、それは実際に観て確かめてもらうことにして、最も簡単な感想を要約すれば「ひどい話だ」になります。これまで意識しなかったあれやこれやがわんさか出てくるし、ひどい話だと誰もが思うでしょう。

 ただ、この手の映画で、大企業を批判して事足れりとするのはあまりいい受け止め方ではないように思います。大企業があんなことやこんなことをしている、よくない! というのは実に簡単な話です。でも、それはつまり、大企業だけに責任を押しつける行為なのですね。残念ながら、そしてある意味で幸いなことに、社会はそう単純ではないわけです。

 この企業がこんなひどいことをしているよ! と言っていろいろと話題が出てきますが、ぼくたちはその恩恵に間違いなく浴しているし、関係しています。その企業の規模が大きいということは、その企業と取引している会社も数多くあるわけで、その会社に勤めている人々は取引によって得られる利益に助けられている。そしてその家族は社員の給料によって養われているし、経済はその家族が消費活動を行うことで回っている。

 たとえばこの映画を観て、「なるほど、この企業はこんなひどいことをしているのか、この企業の商品を買うのはやめよう」と思っても、それでお話は終わりません。その企業のおかげで飯が食えている人はいっぱいいる。どこでどうつながっているのかすべてを見通すことなどできはしないから、ぼくたちはその企業を叩ける立場にないかもしれない。その企業が行っている善行だってあるかもしれないし、ぼくたち自身がそれに助けられているかもしれない。これはこのタイプの映画を観る上で大事な考えだと思います。

 もっと端的に言えば、途上国にとってみれば先進国など既得権益の固まりでしょう。格差社会といったところで、スナックや飲み物片手にネットをのぞけるぼくたちは格差世界のずいぶんと上の方にいるわけです。途上国の飢えた人々の姿を見ると心が痛む。これはおおかたの場合、欺瞞です。24時間テレビなどを観て、欺瞞だなんだというけれど、土台ぼくたちの生活はものみな欺瞞です。この映画は大企業を告発する映画であると同時に、ぼくたち自身をも抉ってくるのです。

結局ぼくは何が言いたいんだ? ということを探しているんですが、なかなか見つかりませんね。かろうじて言えることは、他者の欺瞞を他者のものとして観ることと、自分もまたその欺瞞システムの一部だと受け止めることは違う、ということ。それがこの映画を通して考えたことであります。
 
 では、どう違うのか?
 それは一概には言えません。
結局行動を変えないなら同じだろ。
 その通りかもしれない。
 ただ、その知的態度の違いは、たとえば無意味な攻撃を食い止めることはできるかもしれない。あいつが悪いんだ、あいつをやっつければうまくいくんだと言って、全体像も見えないのに何かに制裁を加えて取り返しのつかない事態を招くことは、避けられるかもしれない。であるならば、ぼくたちはぼくたち自身の有責性について自覚的であるべきだろうし、それはひいては無責任な政治的決定を避ける政治的振る舞いにつながるんじゃないだろうかとも思うのです。

 そう考えると、水を買う人々に対して感じるある種の欺瞞性についてもぼくは、今一歩踏みとどまり、別の考えを巡らせるべきなのかもしれません。水を買うのもありなのかもしれませんし、水を買う人々によってぼくの生活は何かしらの形で支えられているのかもしれません。書きながら考えが変わってくるくる。これぞ語りの醍醐味なり。
 
なんだかぜんぜん映画について語りませんでした。たまにあるそういう回です。ただ、ドキュメンタリーというのは、描かれたものを遠くのものとして観るのではなく、そこに自分はどのように関わっているのだろうかと意識して観るべきものなのだろうなとは思うのであり、自分の考えるあれこれが取り出されてくるものなのであります。
前半と後半でぜんぜんトーンが違う記事なのでした。
 おしまい。
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この監督は変態じゃないですね。 
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 原題『The Human Centipede (First Sequence)』
 インパクトの強さから昨年の公開時に各所でざわざわしていた本作でありますが、なんかぼくはぜんぜん興味が引かれなくて、白石晃士が評価していなかったこともあり、バーのマスターもお気に召さなかったようで、「ははーん」と思っていたのですが、まあそうですね、なんでこれで皆さん、騒いでいたんですか?

 どうして騒いでいたかというとやっぱり見た目のインパクト、発想の珍奇さなんでしょうけれど、それに惹かれて観に行ったら、「あれー?」と思わなかったのでしょうかね。観る前に騒ぐのはいいけど、観た後は騒ぎたくなるかなあこれ。いや、でも、それは公開からしばらく経っているから思うことであって、自分はめざとくもかくなる珍妙映画を見つけたり! と思ったら人に言いたくなるのでしょう、たぶん。
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そんなことを言いつつも、序盤はわりと面白く観たというか、さてこの後何が起こるのだ、という期待感は持ちました。お化け屋敷でも怪談でもそうですけど、くるぞー、くるぞーと思っている間が実は一番楽しい、ということがあって、その種の楽しさはありました。おっさんが変だし、おどろおどろしさみたいなもんは香っていたのです。あまり期待していなかった分、およ、これはことによるとええ感じになるのでは、と思わせるものはあったのです。
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 ただねえ、実際にムカデ人間化してから、つまりはこの映画の肝の部分ですね、そこがどうにも、うーん、予告で観たものを超えていかないんです。予告から期待するものを超えないんです。これは大きいです。

 ムカデ人間の造型自体もね、そんなには面白くないというか、2ではもっと人数を増やすみたいなことらしいんですけれど、なんか、そういう問題なのでしょうかねえ。
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 日本にはほら、あの『家畜人ヤプー』っていう小説があるじゃないですか。あの強烈さ、もう変態の極みみたいなもんを既に頭で描いたことがあると、この造型は別になあという感じなんです。『ヤプー』では、白人女性の排泄物がヤプーの栄養になる、みたいな設定があるんですけど、そういう段階まではぜんぜん行かないんです。なんだろ、アイディアはぶっ飛んでいるくせに、ディテールはぜんぜん飛ぼうとしていない。リアリティなんて端から度外視なんだから、その辺ももっといじくっていいのに。
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 この映画は工夫がないんです。ムカデ人間のインパクトを脇が支えていない。後ろの女性もずっと泣き叫んでいるだけ。あれだってね、いろいろやりようあると思うんですよ。たとえば後ろの連中には覚醒剤を打って、えげつない状況なのにアハアハになっているとかすれば、あの状況がよりやばく見えるじゃないですか。そんな風に狂わせるそぶりもない。前の男はいいとして、後ろ二人の役割が一緒です。なんでそこに役割を持たせないのか。接合部の包帯は百歩譲るとして、いちばん後ろの女はなぜ下着を着けているのか。あと、たとえばいちばん後ろの女なら、「おまえには目は要らない」みたいに抉るような場面があってもいいんです。そこを振り切ってくれない。やるならそこまでやれよってことです。

なんていうか、すっごく中途半端な女装っていうか、女性用の服を着ているのにメイクも手入れをぜんぜんしていない感じです。スカートの下にすね毛が生えまくっている感じなのです。どうせやるならできる限りぴしっと決めてほしいわけです。
「女装をするなとは言わない。ただ、ひげくらいは剃っていったらどうなんだ?」という。それでいうと、きっと監督は変態じゃないですね。変態じゃない人が変態の映画を撮っているように思えます。そう考えると、封切り当時結構客が入ったというのも頷けますね。マイルドですから。
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 物語運びにしてもなあ、細かいことを言い出すといろいろありますけど、ひとつには「きちんととどめは刺せよ」ってことです。なぜメスで狂ったようにざくざくやらない? 絶対やられるやん、追いつかれるやん。

 それで、最後にあの男があんな風になってもなあというね。要は、「人殺しをするくらいならば」みたいなことなのかもしれないですけど、あの状況でやらないと、後ろの二人は確実にやばいですからね。それはおかしいだろってことです。もう監督はどんだけ真面目っこちゃんなのだと言いたくなります。あの最後の口上もねえ、『グロテスク』の長澤つぐみを知ってしまっているものでねえ。目の前で恋人が腸をぶちまけて死に、拘束されて斧をつきつけられている状況で、挑戦的に笑う彼女を観ているのでねえ。この監督はぜひ『グロテスク』を観るべきでした。
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インパクトでは相当上位に来る映画ですよ、それはそう思います。だから人目は引くし、騒がれるのもわかる。でも、それではテレビ局のお手盛りでつくられているアレな映画と、そんなに変わらないんじゃないですかね? こんなおいしそうなアイディアなのに、なぜこんな風に? と思うところ随所です。

 久々の辛口評でございました。
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孤島というメタファ。傍観者に与えられる痛み。
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世田谷の男さんよりリクエストいただきました。どうもありがとうございました。
 
 韓国語の原題を直訳すると『キム・ボンナム殺人事件の顛末』という意味になるそうですが、なかなかに強烈な映画でございました。久々に韓国映画を観ましたが、やっぱりかの国の映画は、日本映画になくなったもんを持っているなあと思いました。

 数えるほどの島民しかいない孤島が舞台なのですが、こういう韓国映画っておそらくぼくは観たことがないです。ド田舎が出てくるような映画はありますけど、孤島は覚えがない。風景は古い日本映画を観ているような感じもしましたね、『神々の深き欲望』みたいな南方っぽい舞台です。
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 主人公は二人の女性で、一人はソウルで働くヘウォン(チ・ソンウォン)、もう一人は生まれてこの方島暮らしのボンナム(ソ・ヨンヒ)。都会暮らしの中で疲弊したヘウォンが、子供の頃に暮らした島でボンナムとの再会を果たします。最初はヘウォンの都会生活が描かれますが、途中から彼女は脇役っぽくなって、ボンナムがメインになるので、うむ?これはどういう展開になるのだ? とぐらぐらした感じを与えます。この辺のバランスは面白かったです。
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ボンナムを演じたソ・ヨンヒは昔の倍賞美津子みたいな雰囲気がありますね。監督は『楢山節考』が好きだというし、倍賞美津子からインスパイアされたはずです。このボンナムの置かれている環境というのが最悪で、なにしろ夫は暴力的だし、子供が傍にいるのに平気で家に売春婦を呼ぶし、義理の弟が犯しに来るし、ともに仕事をするばばあたちは「夫に従え」という考えを押しつけてくるし、ぜんぜん愉しくない生活なのです。
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 韓国にはこんな古い因習に縛られ、誰も助けてくれない、閉鎖的な島があるのかな、と思いきや、監督によるとこれは創作の舞台だそうで、実際にはないそうです。まあ考えてみればぼけたじいさんとばばあ数人と、一家族だけで成立するような社会が現存するとも考えにくいわけですが、これは言ってみればメタフォリカルにデフォルメした舞台立てなのでしょう。
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 都会に暮らしていると、社会の掟であるとか因習であるとか、そういうものに縁遠さを感じるのは事実だし、特に現代は古い常識をいくらでもぶち破れる時代です、とまずは言えます。では、この映画に描かれているのは実際にはあり得もしない出来事なのか、自分とは関わりのない悲劇なのか。
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 監督は韓国国内で起きた複数の事件をもとに映画を造型したそうです。いずれも性的暴行にまつわる事件ですが、本作を観るうえできわめて重要な要素だと思われますし、孤島が舞台のこの映画を現代に通じさせるものだとも言えましょう。
 と、言いますのも、性的暴行はこの現代においても、「閉じられた犯罪」であり続けるからです。この映画では近親相姦がにおわされるわけですが、それは被害者が外に訴え出にくいことの代表であると言えましょう。いくら開かれた社会、流動性の高い社会であると言ったところで、家族という共同体は機能し、今でも閉じられた関係です。なおかつ被害者は経済的、社会的に考えても加害者に依存するほかない状況がある。くわえて、仮に助けを求める気持ちがあったとしても、それを明るみに出すには精神的な障壁がある。
 そう、「助けてくれる他者がいない孤島」というのは、現代にも存在するわけです。
 題材の一つである「密陽女子中学生集団性暴行事件」という2004年の出来事がありますが、これなどは実際のレイプのみならず、セカンドレイプの問題が深刻化した事例です。警察も望ましい対応をしてくれないとあれば、社会自体が地獄。ネットで世界に開かれている、なんて言ってみても、現実に生きる場所が地獄なら、そんなものはひとときの逃げ場所でしかあり得ない。

 性的暴行はある意味で極端な事例で、男性であればほぼ無縁の出来事として眺められるかもしれないけれど、じゃあ掟や因習と無縁でいられるか。無縁だ、と言い切れるなら幸福ですが、そのとき監督はあなたに鎌の切っ先を突きつけます。監督は「傍観」への批判的まなざしをこの映画で絶やさないからです。監督の師であるキム・ギドクが言うところの「芸術や詩情など贅沢品だ」という態度に通ずるものを感じます。

 ねたばれがんがん。未見ちういほう。




 ボンナムは夫とのもみ合いの中で、最愛の娘ヨニを失います。
 その突発性もこの映画の衝撃度を高めるわけですが、その後に周りのばばあたちや男たちが取る態度は、まさしく傍観者そのものであり、いやそれどころか、傍観者の残酷さをさらに鮮烈に映し出します。ばばあたちは調査に来た刑事たちに、口をそろえて言うわけですね。「事故で死んだ」と。傍観者の怖さが二重で描かれる。すなわち、見て見ぬふりの怖さと、事なかれ主義の怖さ。自分は関係ないという態度と、面倒が起こるくらいなら隠してしまえという隠蔽の暴力。
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 とりわけばばあたちにとってはあの島こそが社会。だからこそ、その平穏が破れるのは何よりも怖い。だから成員に何が起ころうと社会を守ることが大事だし、そのためには権力者である男を守る。これは孤島に閉じた構造ではあり得ない。そのまま社会に通じている。だから監督は序盤をヘウォンの都会描写から始めるんですね。そこで描かれるのは社会の傍観者。生活の平穏が破れるのは怖いから、弱者を見捨てる。それを意識させたうえで孤島を描くわけです。
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 映画の演出面で言うと、太陽に撃たれてから殺戮に走るあのシークエンスはとても見応えがありました。こう言ってはなんですが、「太陽を見ていたら、どうするべきかわかった」というのは、『異邦人』よろしく抜群に格好いいんです。で、なんか、わかるというのもあれですけど、すっと入ってくるもんがあるんですね。娘を理不尽に失い、その哀しみから逃れるように一心不乱にじゃがいもを掘ってはかき集めかき集め、ふっと虚脱したときに眩しい日差しを感じ、心の焦点がちりちりと焼けて、ついに発火する。ああ、もう、なんでもいいわって気分になって、殺す。殺すの。最初の鎌の一振り。
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ここからは韓国バイオレンス大爆発ですね。ボンナムが夫をぶち殺すシーンなどはもう、日本は言わずもがなアメリカ映画の追随さえも許さないです。殺人鬼になりすぎて、男の首を木の枝に引っかけてあるところはちょっとアメリカ映画に寄っちゃってんなーとも思うのですが、あんな状況で包丁を舐めたり、口で包丁をくわえて刺すなんて、韓国映画しかやらないでしょう。あれで終わるかと思いきや、ヘウォンのところまで突っ込んでいったのもすごいですね。あれは警察でどうしてああいう状況になったのだとは疑問なのですが、ヘウォンに怒りをぶつけないとボンナムの物語が終わらないのもわかりますしねえ。ヘウォンはぼくたち自身=傍観者でもあるわけですから。
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傍観者に痛みを与える映画というと、記憶に残っているのは『明日、君がいない』がありますね。傍観者であってはならないのだ、などと言うのではなく、どうせ傍観者であり続けるぼくたちに痛みを与える。ぼくたちの日常の認識をぐらつかせる。
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『ビー・デビル』。ぼくはいい映画であると思いました。世田谷の男さんはお気に召さなかったようで、同調できず申し訳ありませんが、どの辺が駄目なのかというのも知りたいところであります。とりあえずは、ここまでということで。
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セカイ系的なものと完全に距離を置いた、ソリッドな良いSF
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 テレビ版26話分を観ました。本シリーズには押井守は絡んでおらず、『GHOST IN THE SHELL』(以下、『GITS』)のソリッドな雰囲気ともまた違う、いい味わいがありましたね。めちゃめちゃ面白くて引きずり込まれる、というのとも違っていて、渋さがよい。ただこれは女子供にはあまりウケないです。『エヴァ』にせよ『ハルヒ』にせよ『まどか』にせよ、やっぱり中高生にわかりやすいフックをいろいろ仕込むじゃないですか。そういうのがあまりないですからね。むしろ現実問題としての臓器移植だったり、人工知能だったり、薬害だったりというのを見据えているので、もうちょい大人向け。こんなことを言うとあれですけど、『攻殻』が好きだという人はわりと偏差値高いんじゃないですかね。
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 参加しているスタッフが『GITS』からがらっと変わっていて、画の感じも舞台背景もまるで違います。あの映画は『ブレードランナー』的なサイバーパンクだったけれど、こちらでは風景の見た目が現実と似通っている。2030年を舞台としている本作では、現実と地続きの未来を描いている。ここは好きな部分ですね。20世紀に描かれた21世紀って、結構尖っていたり、ものすごく発展して車が空を飛んだりってのがありましたけど、そんな未来は相当先だろ、というのが今ではもうわかっている。だから現代とさして変わらない風景のほうが、現代のぼくには自然に見えてきます。

 公安9課の活動を描く本作では草薙素子隊長を中心に、課員メンバーの活躍が描かれているわけですが、デザインが95年のときとは大きく違い、だいぶ柔らかくなっています。本シリーズの草薙素子のほうが好きですわね。ゼロ年代的に中和されている一方で、あまりに華のない課員の中にあって、とびきりにセクシー。なにしろ大事な会議の席なのに、ハイレグ水着みたいな格好だったりします。これは視聴者サービスの面が多分にあるのでしょう。ちなみに彼女は全身が義体化されているサイボーグです。
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 で、この草薙素子がこれまた格好いいですね。男気があるというか、女らしさがない部分に惹かれます。『エヴァ』の司令塔と言えば葛城ミサトがいまして、彼女は彼女で豊かな人物像なのですが、ちょっとOL風味が強いです。まあ『エヴァ』はそういう人間的な部分もきっちり造形した面白さがあるわけですが、『攻殻』ではストイックにそぎ落とされていますね。内面問題なんて横に置こうぜ、というのが貫かれている。まあこりゃあ中高生にウケないというか、端から狙っていないでしょう。中高生には思春期的な内面問題がフックとして必要ですが、作り手はそこを切っている。そして本作はそれでいいんです。
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 あまりに可愛げがないのもどうかな、ということで、タチコマというキャラがいます。多足歩行戦車なのですが、人工知能を持っていて、これがキュートです。非人間型ロボットの名キャラクターというと、たとえば『銀河ヒッチハイクガイド』のマーヴィンとか、『WALL・E』とか、あとはそうですね、ああ、『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』のバギーちゃんとかがいるんですけれど、そういう系統の可愛さがすばらしい。タチコマは面白いです。そして、それがゆえに切ない回とかもあるんですね。「ロボットが人間並みの知能を持つべきなのかどうか」「持ったとき人間はどう振る舞うのか」という倫理的な問いに触れています。
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 基本的に一話完結型ですけれど、わかりやすいクライマックスがあってドンパチ、というのがお定まりでは決してないんですね。公安組織としての諜報活動とかに重きが置かれる回などもあり、多様性に富んでいます。脚本の良さとして、毎回テーマが、もしくはテクノロジーの延長にあるSF的モチーフがきっちりあるんですね。そこから何かを語りたくなるような広がりを持たせている。ここがぼくのような理屈野郎を惹きつけるところです。ゼロ年代SFにあって、「セカイ系」には一切近づかないという潔さ。
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 セカイ系っていうのは、どうしても内向するわけです。内向しているくせに、社会システムを一切踏まえないままに世界の解決と直結してしまうような単純さがある。『攻殻』はそこを徹底して排除する。こういうシステムの中で、人はどう振る舞うだろう。こういう存在が出てきたら、社会はどう反応するだろう。こういうものがあったら、あなたはどう捉える? 現実をまなざしながら語り続けるという、「よいSF」だと思います。
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連続ドラマの特質を活かして、最終的には大きな事件を数話に分けて描きます。「笑い男事件」というのが、『S.A.C』の中心的事件となっています。電脳化が進んだ社会において、人々の意識を乗っ取ってテロを行う、いや、人々の意識は乗っ取られるまでもなくいつの間にか並列化され、ランダムに動き出してしまう。『STAND ALONE COMPLEX』という表題は人々の意識の有り様を巡る事象のことをさしていますが、これは電脳化などしなくてもありうる、いや現に存在する、「メディアと個人」の関係の戯画でもあるのです。

スタンドアローンコンプレックスってなあに? どうしてそれはじっさいのぼくたちのもんだいなの? というのは、はあ、説明が面倒くせえやあ。既にしてくれているサイトやブログがいっぱいあるようなので、他にゆずるゆずる。

クライマックスに当たる終盤の盛り上がりはすばらしいですねえ。あいつが出てきて、あんな風に活躍されたらそりゃ泣きます。ちょっとね、新撰組のにおいがするんですね。もしも興味を持ってくれた人がいて、その人の楽しみをそいだらあれなんで具体的な言及は避けますが、新撰組っぽいんです。出てくるあいつは大河ドラマ『新選組!』で中村獅童が演じた、あの捨助のような熱さを持っています。

 非常に面白いシリーズだし、余計な色気を入れていない。ウケを狙おうと思えばいくらでも狙えるんですよ。でも、原作の通りなのでしょう、登場人物をおっさんで固めている。これはとても偉いです。ゼロ年代にこれと同じものつくろうと思ったら、絶対おっさんばっかりじゃなくなります。天才少女キャラみたいなもんを放り込んでくるはずで、そこでちょいとした萌えを狙ったりするに違いない。でも、そんな日和はするものかよ、というわけで、きちんとハードボイルド。

観るべきアニメ作品にまたひとつ出会えたのは幸福なことでありました。まだ『イノセンス』も『2nd GIG』も『Solid State Society』も観ていないので、まだまだあるやんけ!と楽しみが募ってこれまたよいです。お薦めであります。
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