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おおっ、と思わされるところに乏しかったのです。
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ジェームズ・ワンの作品は『デッド・サイレンス』が未見ですけれども、『SAW』も『狼の死刑宣告』も好きですので、どんなもんじゃいと思って、『インシディアス』。

ネットで見る限り結構評判が高いというか、褒めている人が多いように見受けますね。 ……うーん。そうなのか。
 ぼくは正直、あんまり面白さがわからなかったですね。少なくとも『SAW』と『狼の死刑宣告』に比べると、ぜんぜん印象に残らないです。

 低予算の家中ホラーで、中盤くらいまではかなり王道を進みますね。『エクソシスト』よろしく、夫婦の子供が異常事態に陥って、悪魔的なものの影がちらついてということになります。夫婦には三人子供がいるんですが、下の二人は結局のところぜんぜん話に関係ないですね。いちばん下の赤ん坊は泣き声要員になるんですけど、後半以降は一切出てこなくなってしまいます。なんなら子供は一人でもよかったんちゃうんか、そのほうがもっとフォーカスできたんちゃうんか、という気もします。
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うーん、脚本の流れ的にはわかりやすいんですけれども、子供への愛着がわかないんですね、このつくりだと。やっぱりお話として、あの長男坊を救いだそうっていうのが主軸になるわけで、だとするとあの長男坊の存在感が必要になるわけです。ところがほとんど何もしないうちにあの子は昏睡状態に落ちちゃうし、一方で弟たちに危険が波及するのかと思いきやぜんぜん出てこなくなるしで、そうなると観ている側としては結構どうでもいい感じになってしまいます。弟たちに割く時間があったら、もっとあの子の日常なり性格なりを描いておいたほうがよかったように思うのです。少なくとも次男坊はぜんぜん要らない。
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 中盤まで、家中ホラー映画の常道として、家の中に何か奇異な存在がいるぞという部分で見せていくのですが、目新しさがないというか、「ここを見よ!」というのがないように思うのですね。褒めトーンのレビウで、「オーソドックスで真っ当なホラーづくりだ」みたいなのがあったのですが、いまさらなあ、というのが率直なところです。ジェームズ・ワンはデビュー作の低予算映画『SAW』で、インパクトのある画づくりをぱしっと決めてきたし、『狼の死刑宣告』でも駐車場の長回しは絶品だったんですが、今回は目を見張る部分が少なかったんです。
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 と言いつつ、後半はホラー映画としては異質な方向に行きますね。霊媒師がやってきて、あららこれはもしや悪霊退散活動を行っていくのかな、だとしたら最悪だなと思っていたらそこはすいっとかわし、クライマックスではなんと父親が幽体離脱をするのです。幽体離脱をしてなんかよくわからないけれども悪魔の世界的なところに突入するのです。映画として非常に攻めている部分ですね。
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ただ、うーん、この構図もねえ、『マトリックス』とか『インセプション』とか、あっちの方向で既に花開いているってのもあるのでねえ。あれらの映画の世界の広がりを観ていると、本作はなんか唐突に放り込んできたなあと思うのです。だからあの異世界もあまり面白くなかったですね。ファンタジー系だとギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』なんかも異世界にふっと足を踏み入れて、現実とのギャップがあってというのが面白かったけど、こっちはそこまでぱしっとつくられた世界でもなかったですし。
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 うん、クライマックスの異世界描写になんか、あんまりこだわりがない感じがしたんですね。奇異なもん、珍奇でおどろおどろしいもんはいろいろ出してきたけど、なんか薄っぺらいんです。たとえばあの銃を持った女とか、ソファに腰掛けて動かないやつらとか、そりゃあまあそういうのを出せば異世界っぽく映りはするけれども、映画全体を通してみると効果的には思えないんです。
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 そう、結局あの子供にまつわる蓄積がないんです。だから最大公約数的な悪魔世界になるんです。異世界をさまよったり動き回ったりの快楽だけ切り取るなら、『エンジェルウォーズ』などのほうがよほどいいです。少なくともあの映画は監督のフェティッシュなこだわりがあるじゃないですか、ガキっぽいところも含めてね。一方、どうもこの映画の異世界には監督のフェティシズムを感じないのです。
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なんならもっと深みを持たせられたと思うんですけどね。あの悪魔世界にしても、子供と交信している風の設定があるのだから、あの子供の見ている悪夢みたいにしたりとか、もしくはあの子供の世界を悪魔が歪めているなんてのもできたと思うんです。たとえば登場人物の誰からしき人物が出てきて、でもそれが醜怪な姿に変貌してしまうとかね、あとはせっかく弟たちを出したのだから、悪魔のつくりだした弟たちの幻があるとかね、いろいろと前半までにできることがあったし、それを活かす世界づくりもあったはずなのに、中途半端なゴシック風味。
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コメディタッチの部分なんかもあるんですけどね、それはどう機能するんだろうってのも疑問でした。あの二人組の技師の振る舞いがおかしかったりするんですけど、ちょっとコントタッチにされてもなあ。あのガスマスクとかね。中途半端に笑いを取りに来ている感じがぼくは困惑させられるんです。
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 ガスマスクはガスマスクでいいんです。ただ、「ここはもう絶対ガスマスクが必要なんだ!」という確固たる考えで被せていないと思うんです。「なんか、ガスマスクとか被せたら面白くね(笑」「霊媒師のおばあさんにガスマスクとか(爆」みたいな、中途半端なおふざけ感、半笑い感を覚えるのです。うーん、でも、どうなんだろう、本当にガチンコでガスマスクを被せたのかなあ。ジェームズ・ワンはそんな人じゃないと思うのだけれどなあ。

映画として整っているところはきっちり整っているし、一方で見せ物的な部分も配合しているのは確かなのですけれど、どういう映画にしたいねん、というのがちょっとわからなかったんです。怖かった、ということはぜんぜんないです。まあぼくの感じる怖いものというのは世間の人々と大いにずれているのでありましょうが、しかしこれで怖い映画だって言えるならなんて幸せなのでしょうとは思います。辛口になりました、ここまでです。
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ラジオにおける伊集院のほうが、酔っぱらい的な面白さを放っています。
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 伊集院光、DVD六ヶ月連続リリースの第二弾です。
 過去にDVD化されている企画で、「酩酊ドミノ」というのがありまして、その第二弾でもあるのですね。若手芸人たちに酒を飲ませ、みんなが酔っぱらった状態でドミノを完成させようというシンプルな内容です。

個人的には、ぐでんぐでんに酔う、というのをもう大学の頃からさっぱりと体験していないですね。許容量を超えて飲むと最終的にはひどい吐き気と虚無感に悩まされるだけ、というのがあるので、それほど酔うのも好きではないし。大学一年の頃に下北沢の居酒屋でウイスキーのロックを煽り、女子トイレを占拠して嘔吐し続け、その後に行ったカラオケ屋でもひたすら便器に顔を突っ込んでいたというのがどうにも苦々しい記憶でありまして、以来酒の失敗的なものはせぬようになりました。 
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さて、DVDの中身はというと、伊集院と芸人たちが酒を飲んで酔っぱらう場面がほとんどです。普段は大人しいという若手が先輩に暴挙を働いたり、せっかく並べたドミノを蹴っ飛ばしてぶっ壊したりなどという、めちゃくちゃな行動が笑いを誘うのです。
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 以前行われた回のDVDもぼくは見ていて、ラジオで伊集院が「今回はさらにすごいぞ!」と煽っていたので期待していたのですが、まあ面白くはあるにせよ、これは前回よりもすごいな、面白いな、となるかといえばそのあたりは微妙でありました。企画自体はまるきり一緒ですので、もう一ひねり欲しくもありました。
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 そもそもドミノにこだわる理由が特にないですからね。酔っぱらう様を面白く見せるにはまだ何かあったのではないか、という気がしてしまうんです。

 たとえば過去、あの「ガキの使い」において、「へべれけ寸劇桃太郎」というのがありました。これはガキのメンバーがもう本当に前後不覚になるくらいに泥酔してから桃太郎の劇を演ずるというもので、とても面白かったんです。松本が川で洗濯をするおばあさんを演じているのに、酔って寝ちゃっていつまでも劇が始まらないとか、桃太郎の中の簡単な台詞がめちゃくちゃな内容になっているとか、いろいろな笑いがありました。

 今回のDVDでいうと、前と違う見せ方がされている箇所がほとんどないんですね。要は「酔っぱらった若手の暴挙」があるばかりですから。それこそ劇などをしてみると面白いわけですが、まあそうなるとガキと被るってのもありますし、別の企画を今すぐ思いつくかというと難しいのですが、うーん、ドミノ、うーん。二回やらんでも、とは思いました、観終えたらね。エスカレートして面白くするってんなら、それこそドミノのスペースに嘔吐しちゃうくらいでもいいのに、そこまでの危険度は皆無ですし。
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 面白いのは面白いんですよ。飽かずに観られはする。ただ、酔ってめちゃくちゃになる快感はさほどにない。
 
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 考えてみるに、伊集院のラジオ自体が酔っぱらいの妄言みたいなところがあるわけです。そのほうがよほど面白い。あるいは多くのバラエティにおける芸人のハイテンションで珍奇な振る舞いは、既にしらふではない人間のものにも似ているわけで、あのくらいの酔い方ではどうにもこうにも、と思ってしまう。酔った勢いで芸人がぶっちゃけてしまう、みたいなくだりもあるんですけど、あの、「ぶっちゃけトーク」なんて、どこでもやっていることですし、それこそ伊集院がラジオでいくらでもやっている。
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ああ、だからひとつわかったんですけど、「崩壊と混沌の快楽」が乏しいんです。わかった、そういうことです。
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 あのー、「これをきっちりやりますよ、しっかりこれをみんなでやるのです、これを絶対にみんなで成し遂げるのです」という確たる約束を築いた後で、いかにそれが壊れていくか、というのが酩酊の快楽なのであって、最初からもう酔ってめちゃくちゃになりますよ、というのがわかっていると、あまり面白くないのですね。前回は最初だからよかったけど、二回目の今回は既に観ている側にも構えができているし。

 だから企画としてやるのなら、ドミノではない、まったく別の何かをきっちりやろう、という方向にまず持って行って、でもそれをいざやろうとする寸前のところで、「景気づけに酒でも飲もうか」みたいにして、で、当初の計画がぐだぐだになっていくようにすれば、これはもう崩壊と混沌の快楽です。ああ、こんなはずじゃなかったのに、ぐっちゃぐちゃじゃないか、というのがあったはずなのです。
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 あと、これは大事なところなんですけれど、酔って暴れる面白さって、やっぱり、「やっちゃいけない」感があったほうが面白いはずなんです。普通にしていなくちゃいけないのにやらかしちゃうのが醍醐味のひとつなんです。それを、「さあ、酔っぱらってください」って方向に持って行くと、芸人は芸人で酔わなきゃっていう変なプレッシャーに行ってしまうところがあるし、それは本来の酔っぱらいの面白さとも違うんです。前回はその辺が手探りだったけれど、それがよかったってのもあるし、今回はエスカレートの名の下に、酔っぱらいの大事な面白さが壊されてしまった部分があると思う。もったいなさを感じます。

 うん、伊集院光がつくるものならではの面白みという点では、過去に出てきたDVDのほうがよほどこもっている、という風に感じます。酔っぱらいの暴挙の面白さ、ということでいうなら、深夜のラジオのほうが活きています。ゴールデンのバラエティでにこにこしている穏和でユーモラスな伊集院さんが、深夜となるとあんな風に豹変するのか! という面白さが、既にこのDVDを上回っているんですね。うん、観てみようと思っている人には、まずは過去のものをお先に、と言っておきましょう。 
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不可知だが左右しうる未来を見据えて。
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ponさんよりお薦めいただきました。どうもありがとうございました。

原題『Into Eternity』
 フィンランドにある放射性廃棄物処理施設とその関連人物に取材したドキュメンタリーです。今の世代が遠い未来にまで残すことになる放射性廃棄物、その安全をどのように「永続」させていけるのかを問うています。
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 この映画について語るとき、当然原発のことについて言及しなくてはいけなくなるのでしょうけれども、今ぼくが「原発について思うところを述べなさい」と言われたとしても、結局何も言えないですね、十分に知識もないですし。「原発」という単語ひとつ取っても、そこに付随する問題は政治的、経済的、社会的、エネルギー資源的その他多岐に渡りますし、危惧される福島原発からの放射能の影響についても現在、専門家の間でさえ統一的な見解を出せていない。ぼくに何かが語れようもないのですね。

 原発は是か非か、推進か脱原発かというのが世間で問われることですけれど、これについてもぼくは曖昧な態度を保持するしかないのです。もちろん、その危険性を考慮するならば原発はないほうがいいでしょう。そして長期的に考えれば、再生可能エネルギーを進めていくべきであろうとも思います。ただ、このような難しい問題について考えるとき、いつでもぼくは「人間万事、塞翁が馬」という言葉を浮かべてしまうのです。何が良きことで、何が悪しきことなのかはわからない。良かれと思ってなしたことが悪しき結果を招くかも知れないし、そのときは愚かしいと思われた判断が次の希望を生み出すのかも知れない。これはもう、本当にわからない。

 むろん、ぼくのようにわからぬわからぬと言っているだけでは何事も進みませんし、実際に活動を行っている人々はすごいなあと思います。ただ、今のぼくにはとてもじゃないけれど全体が見渡せない。どのスイッチを押したらどの部分が動くのか、社会のありようが複雑すぎて見えない。情報には敏感であろうとは思うけれど、すべての情報を集約してそこから総合的な論理を組み立てることはまったくできない。そうなると、言えることはとてもとても限られてくるのです。

 さて、前置きが長くなりましたが、本作もまた「不可知」であることを考えていくような映画であります。なにしろ本作には邦題にもあります通り、「100000年後」のことまでをも考えている人々が出てくるのです。
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 フィンランドにある、放射性廃棄物処理の地下施設「オンカロ」。ここは2100年の完成を目指して地下500メートルまでの建造が予定されており、その中に膨大な量の廃棄物を埋めていくことになっています。
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 完成の暁にはどうなるのか。最終的にその場所は完全に封印され、以後一切、人が立ち入れなくなるらしいのです。いわば禁じられた土地のごとくに、廃棄物を永久に地の底に眠らせるということなのです。
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 ただ、関係者の人たちはその先をも危惧します。100年、200年の単位ならばそれでいいとしても、たとえば10000年後にその場所を封印し続けていられるのかどうか。遥か遠い未来の「人類」、それこそ100000年後の「人類」にまで、その地下に禁忌の物質が埋められていると伝えられるのかどうか。そのことが映画では問われ続けます。
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 想像を絶するとはこのことであります。なにしろぼくたちは数年後の自分さえも想像できません。放射性物質がばらまかれた日本で、数年後どのような事態が巻き起こるのか、誰も断言できずにいるのです。未来に対して不可知であるぼくたちが100000年後のことを考えるなど、まったく不可能に近いのであります。
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 もちろんね、無責任に突き放すことはいちばんたやすいんです。そんな未来のことなんて知らない、と言い切ることは幼児にだってできる。人間という種が存在しているとは思えない、なんてことも言える。あるいは、そんな未来だったら、今の技術を克服して放射性廃棄物を無害化することができているかもしれない、300年後くらいにはできるかもしれないよ、なんてこれまた楽観論を言い放つこともできましょう。その頃にはまず間違いなく今いる誰もが死んでいるのですし、言いたい放題です。

 言いたい放題ということで言うのなら、この問題は「放射性廃棄物の無害化」あるいは、「医学の超飛躍的発展」がなされれば「一応の」解決を見ます。前者よりは後者のほうがまだ現実性があると言えるのでしょうか。たとえば、これはもうほとんど馬鹿みたいに単純な例ですけれども、癌が錠剤一つで解決できるような未来が来れば、ぼくたちの怯えは大きく緩和されます。癌のみならず、放射性物質の蓄積から引き起こされる身体的障害を完全に克服できるというのなら、廃棄物は少なくとも今ほど驚異的存在ではないわけです。

 何を馬鹿みたいな夢想を書いているのだ。恥ずかしくないのか。馬鹿だ馬鹿だとは聞いていたけれど、そんなことを書き連ねるほど馬鹿だとは思わなかった、豆腐の角に頭をぶつけて湯豆腐をつくれ、その湯豆腐を食い「これは酢豆腐」などと言って笑われろ、と思われるかも知れませんが(後半は思われない)、たとえばどうでしょう、癌の克服は難しいとしても、人工身体、それこそ攻殻機動隊の草薙素子のような「全身義体」なんてことがもしもありうるのなら、人間は病気を克服する必要さえもなくなります。義体技術の研究、人工臓器の研究などの発展如何によっては、放射能の恐怖から解き放たれる日が来るのかも知れない。21世紀は無理でも、22世紀には可能かも知れない。SF的な話ではありますが、これが今のぼくに想像できる、「一応の」解決がある世界です。もちろん、現実味があるなどとは思いませんが。

ただ、この映画では100000年後ですからね、もうそうなると想像はつきません。
 想像もできないのでどうしようもないじゃないか、ということになるのですが、それでは実りがないです。この映画から見つけられるのは、「不可知なものへの態度」の重要性です。
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 ぼくたちには未来を見通すことができません。予測はできたとしても、確定はできない。 さて、ところで、なぜぼくたちは未来を確定させることができないのでしょうか。
ふたつのことが言えます。
 ひとつには、ぼくたちは未来を経験したことがないからです。
 ふたつには、ぼくたちの社会は複雑すぎるからです。
 未来にまつわる予測が立つのは、ぼくたちが人の経験を聞いたり、歴史を学んだりしたことがあるからです。これまでの経験からこの先はこうなるだろうとか、こういう歴史があるからこのままではこういう風になるだろう、と一応の予測が立ちます。あるいは理論による予測もできるわけです。
 でも、確定はできません。
 社会は複雑なので、今までと同じように考えることはできないのです。今までならうまく行っていたことであっても、様々な要因が絡み合って変わりゆくために、いつまでも同じというわけにはいかないのです。

 100000年後の安全について考えるのは、実に途方もないことです。考えても仕方がない、と思えるくらいに想像を絶することです。でも、じゃあ、10年後のことは簡単に考えられるかというと、そうはいきません。社会は大変複雑なので、10年後に何がどうなっているかもわからないのです。極論に思えるかも知れませんが、あえて言うなら、100000年後だろうが、10年後だろうが、不可知であるという点でまったく同じなのです。
 もちろん、大きな違いは、10年後の未来は大体予測できるし、今の人間によって左右しうるということ。
一文にまとめるなら、「ぼくたちは10年後について不可知であるが、予測を立てて左右しうる」ということ。
不可知なのに左右しうるというのは大変なことです。であるならば、その不可知の度合いを軽減する必要があり、原発一つ取っても、いろんな側面から考えなくちゃいけないということです。
 原発推進にせよ脱原発にせよ、その論拠を示すときには、政治面から、経済面から、社会面から、安全面から、持続可能性の観点から、入り組んだ物事を解きほぐしていかねばならぬわけです。どれかひとつを切り取ってしまうのは、それこそとても危険です。
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 ぼくはこの映画を観て、未来は不可知であるけれども、だからこそ謙虚になって、左右しうる未来についてはできるだけいろいろな観点から考える必要があるんだ、ということを思ったのでした。なんだかそう書くと、通り一遍の言い方になってしまいますけれどね。
 まあ、ご覧になって観てくださいませ。
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